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2,「鎌倉から江戸初期まで」鎌倉時代、源頼朝による奥州合戦に従軍し、石那坂の戦いで戦功を挙げた常陸入道念西が、頼朝より伊達郡の地を与えられ、伊達朝宗(ともむね)を名乗ったのが伊達氏の始まりとされている。*石那坂の戦い(いしなざかのたたかい)は、奥州合戦の際に行われた合戦の一つ。文治5年(1189年)7月、鎌倉の源頼朝は、謀反人源義経をかくまったとの理由で藤原泰衡を討つため、奥州平泉に向けて出陣した。頼朝軍は3手にわかれ、千葉常胤らが常陸国から浜街道(福島県浜通り)沿いを、比企能員らが越後国から出羽国の日本海沿いを、そして頼朝本隊は宇都宮から白河関をとおる奥州街道を進撃する。『吾妻鏡』によれば7月29日に頼朝本隊は白河関を越え、8月7日に国見宿(福島県国見町)に布陣し、阿津賀志山に陣取る藤原国衡と対した。その前後に(『吾妻鏡』では8月8日条)、泰衡の郎従・信夫佐藤庄司(佐藤基治)が石那坂の上に陣を構えており、伊達郡沢原から侵攻した鎌倉方の常陸入道念西(伊達朝宗に比定されている)の子息4人(為宗・為重・資綱・為家)によって討ち取られ、首を阿津賀志山経岡に晒されたという(後に許されて所領へ戻ったという記述もある。)。この佐藤庄司と常陸入道念西らの戦いを石那坂の戦いと称する。吾妻鏡による記述、文治五年(11899年)八月大八日条には、阿津賀志山の戦い、石那坂の戦いが記述されている。また、鎌倉の様子が記述されている。「戦いの状況」石那坂の守将は、信夫庄司佐藤基治で、継信・忠信等の父である。佐藤庄司は叔父に当たる河辺太郎高経・伊賀良目七郎高重らと信夫の兵をもって石那坂の山上に陣を構えていた。逢隈河に流れ込む河川を天然の堀として砦を構え、石弓を張って討手を待っていた。頼朝方は、後に伊達氏の始祖となった常陸入道念西で、子の常陸冠者為宗・二郎為重・三郎資綱・四郎為家の父子が甲冑に身を固めて秋風茂る草原の中を潜行して伊達郡沢原に進出した。先ず登り、佐藤庄司らに矢石を浴せ、死闘がくり返された。佐藤庄司らは死を争いながら激しく戦いを挑む。為重・資綱・為家らは傷を負ったが、長男為宗は殊に命を忘れて抜群の功を立て信夫の兵を倒し、為宗兄弟らは、庄司以下宗者18人の首をとった。そして、阿津賀志山の山頂経岡に晒した。福島市平石の東北本線上り線の石名坂トンネル付近に石那坂古戦場碑が建てられているが、これは、明治時代にこの辺りから刀剣や甲などが出土したため、この辺りを石那坂古戦場と勘違いした土地の有力者が建設したのである。出土した刀剣や甲は古墳時代のものとわかり、また碑のあるあたりも古墳であることが後年判明した。したがって、古戦場跡が碑のある辺りだとは断定できない。ただ、前述したトンネルの名前からもわかるように石名坂という地名や頼朝軍が通ったであろう奥州街道(奥大道)の位置関係から見て、福島市南部にあったと思われている。平石説、かつて、石名坂村があった。明治18年(1886年)3月信夫郡長柴山景綱が戦死した将兵を弔って「石那坂古戦将士之碑」を福島市平石に建てている。また、顕彰するための石碑やライオンズクラブの現地案内板がある。『信達一統志』など通説では、佐藤基治は大鳥城から出陣し、平石にて砦を構え、8月6日頃、源頼朝軍を迎え撃ったとされている。伊達郡沢原については信夫郡佐原を比定する説が多い。飯坂説、佐藤基治の本拠地である。飯坂町の地名由来は1300年頃[2]であり、石那坂の戦い(1189年)の時点で、飯坂の古名は不明である。佐藤庄司は阿武隈川の支流である小川・赤川・摺上川を堀に見立て、大鳥城に陣を構えていたとする説である[3]。吾妻鏡では、源頼朝軍は7月29日白河関を越えて、8月7日に国見駅に到着した。8月8日阿津賀志山の戦いが行われているが、同日に石那坂の戦いが行われている。大鳥城はかつて、伊達郡に隣接していた。戦後、合戦に功のあった常陸入道念西は伊達郡を与えられ、子孫は伊達氏を称するようになる。一方、敗れた佐藤氏であるが、『吾妻鏡』10月2日条で囚人佐藤庄司が許されて所領へ戻ったという記述がある。前述のように佐藤庄司は戦いで討ち取られて阿津賀志山(厚樫山)経岡に晒されたともあり、どちらが正しいのか、あるいはこれらの佐藤庄司が同一人物でないのかなどを含めてよくわからない。ただ、佐藤氏はその後も信夫郡北部を領有しており、完全に滅亡したわけではないことは確実である。なお、佐藤氏は室町時代初頭に将軍足利尊氏より伊勢国一志郡を与えられてそこに本拠を移した。* 鎌倉時代においては陸奥・下野・常陸の他にも出雲・但馬・伊勢・駿河・備中・上野・出羽・越後などでも地頭職を得ており、これにともない各地に庶流家が生まれた。建治元年(1275)『造六条八幡新宮用途支配事』によれば伊達入道跡は鎌倉に起居していたことがわかる。南北朝時代の伊達行朝の代には、義良親王を奉じて奥州鎮定のために下向した北畠顕家に属し、行朝は結城宗広らとともに式評定衆となった。北条氏残党の中先代の乱では、連動して蜂起した北条方の与党を討った。建武2年(1336)に顕家が足利尊氏討伐のために上京すると行宗も従い、足利方と戦う。興国年間には南朝方(後醍醐天皇方)として同族の伊佐氏や中村経長[5]らとともに常陸国伊佐郡の伊佐城により、北朝方(足利方)の高師冬らと戦う。南朝方は破れて伊佐城は落城、行朝と経長は城から脱出した。
2024年04月04日
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『伊達一族の群像』1、 「伊達氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「鎌倉から江戸初期まで」・・・・・・・・・・・・・43、 「戦国時代から幕末」・・・・・・・・・・・・・・214、 「伊達初代から三代まで」・・・・・・・・・・・・255、 「伊達晴宗から輝宗」・・・・・・・・・・・・・・366、 「伊達政宗葛藤編」・・・・・・・・・・・・・・・487、 「伊達政宗領土拡大遍」・・・・・・・・・・・・・788、 「小田原合戦から慶長出羽合戦」・・・・・・・・・899、 「伊達政宗成熟遍」・・・・・・・・・・・・・・10510、「伊達政宗の晩年」・・・・・・・・・・・・・・11611、「伊達成実」・・・・・・・・・・・・・・・・・12812、「伊達綱宗」・・・・・・・・・・・・・・・・・13313、「伊達宗勝・宗紀・宗城・慶宗」・・・・・・・・14214、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・143 1,「伊達氏の出自」(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、藤原北家山蔭流と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し、藤原家が統治していた常陸国伊佐郡や下野国中村荘において伊佐や中村と名乗り、鎌倉時代に源頼朝より伊達郡の地を与えられ伊達を名乗ったとされている。ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。また「桓武平氏常陸大掾平維幹(平繁盛の子)の子為賢の末」説を挙げている。さらに下毛野氏とする説も提唱されている。また、常陸入道念西と伊達朝宗は別人であるという説もあり、新井白石は元禄15年(1702)成立の『藩翰譜』で『伊達正統世次考』の示す系図を疑っており、常陸入道念西は朝宗の子・宗村であるとしている。初代・朝宗以降、ほとんどの歴代当主が「宗」(むね)の通字を使用する。ただし、江戸時代に伊達綱村(仙台藩第4代藩主)が父・綱宗と同名になるのを避け、第2代・宗村に由来する「村」(むら)の字を使用してから、第8代藩主斉村までの間、「村」が通字となった。伊達朝宗~伊達政宗(9代)~伊達稙宗~伊達晴宗~伊達輝宗~伊達政宗(17代)~伊達成実~伊達綱宗~伊達宗勝~伊達吉村~伊達宗紀~伊達宗城~伊達慶邦~伊達邦直~伊達邦成~伊達順之助。戦国大名伊達稙宗から有力大名らと婚姻を結び、陸奥国守護となり、晴宗は奥州探題となり領土拡大していったが、嫡子晴宗と対立し、七年間にわたる「伊達氏天文の乱」を起こし一時衰退したが、輝宗が徐々に再興していった。何より伊達氏を居並ぶ大名の中で吐出して勢力拡大に寄与したのは、政宗の安土桃山時代である。天正12年(1584)に当主になった17代・伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進めて、会津の蘆名氏や奥州探題・大崎氏と戦い、天正17年(1589)には蘆名氏を摺上原の戦いで破り、これを滅ぼして伊達氏の領土は最大(114万石)となった。しかしこれは関白・豊臣秀吉が発した惣無事令に背くものであったため、天正18年(1590)に政宗が秀吉が服属した後の奥州仕置では会津・河沼・耶麻・岩瀬・安積などを没収され、伊達氏旧領(置賜・伊達・信夫など)および田村郡72万石のみを安堵され、米沢城に戻る。さらに、同年に起きた葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見したため、翌天正19年(1591)の一揆鎮圧後に国替を命じられ、旧葛西・大崎領13郡を与えるかわりに置賜や伊達郡など旧領6郡を没収されて、米沢72万石から岩手沢58万石に減封された。政宗は岩手沢城の縄張りや改修修築を行ない、岩出山城(現:宮城県大崎市岩出山)と改名し居城とした。それでも石高で豊臣一門(猶子)の宇喜多と小早川をしのぎ、徳川(255万石)・上杉(120万石)・毛利(112万石)・前田(80万石余)・島津(61万石)に次ぐ大大名になった。。
2024年04月04日
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12、「駿河諏訪氏」駿河守護の今川氏に仕えた諏訪長宗の次男・長満を祖とする支族[63]。有員から頼満(安芸守)まで(神氏系図)『神氏系図(前田家本)』とこれとほぼ似ている『神家系図(千野家本)』(『諏訪史料叢書 巻28』に収録)では神氏の始祖が有員とされている。夫れ諏方大明神の垂迹の事、異説之れ在り。或いは他国応生の霊、或いは吾朝根本の神、旧記の異端、凡慮測り難し。爰に『旧事本紀』説きて曰はく、素盞烏尊の御孫・大己神(原文ママ)の第二御子、建御名方神是れなり。神代の義は幽邈にして之れを記し難し。(中略)別紙在り、信州諏方郡に神幸するは、人皇卅二代・用明天皇の御宇なり。時に八歳の童子有り、〔後に有員と字す〕明神に随遂せしむ。守屋大神と諍ひ奉りて、守屋山に至りて御合戦有り。童子神兵を率ゐて守屋を追落す。則ち彼の山麓に社壇を構へて、吾神御衣を童子に脱ぎ着せ、「吾に躰無し、祝を以て躰と為す」と神勅有りて、御身を隠し給ふ。即ち彼の童子を神躰と為して御衣木祝と名づく。神氏の始祖なり。明神は普賢、童子は文殊なり。(『神氏系図』序文、原漢文)失われた14代『神氏系図(前田家本)』と『神家系図(千野家本)』によると、神太為仲(諏訪為仲)は後三年の役に参戦する際、神氏に伝わる系図を妻の父の源為公に預けたが、これを紛失したことにより有員と頼信(為仲の祖父)の間の14代が不明となった。なお『神氏系図(大祝家本)』には前田本系図に欠けている14代を守矢家の文書によって5世7代として補っている。建御名方神から有員まで『神氏系図(大祝家本)』(『神氏系図 称一族系図』名義で『諏訪史料叢書 巻28』に収録[75])の後書部分によると、科野国造・健甕富命が死んだ後に、茨木国造・許々意命は新たに科野国造を拝命したが、非道な人間であったため、建御名方神の子・伊豆早雄命の後裔の健隈照命が彼を放逐して、自ら科野国造に就任し、健甕富命の娘を娶った。神氏の始祖は有員ではなく健隈照命の後裔の五百足の子・神子(熊子)であり、有員はその子孫にあたる。寺田・鷲尾(2010年)はこの記述を怪しいと見て、「異本阿蘇氏系図に関連する金刺氏系図から、神氏の側が捏造した可能性もある」と評価している。(ただし、金刺氏系図が『神氏系図』の内容を剽窃した可能性もなくはないと指摘している。)神代の事は幽邈にして記し難し。伝へて曰く、諏訪大明神は、天照大神の御弟・健早須佐之男命の六世孫・大名持命の第二子、御名方富命神是れなり。尊神、父大神の大造の功を輔け、国土を経営す。終に天祖の命を奉り、之れを皇孫の命に譲り、永く此の国に鎮座す。子・伊豆早雄命の十八世の孫、健国津見命の子・健隈照命、科野国造・健甕富の女を妻る。健甕富命の子・諸日別命、幼くして父を亡くす。是れに於て茨木国造・許々意命、磯城島宮天皇の御宇、科野国造を拝す。許々意命、綏撫の道を失ひ、健隈照命、之れを逐ひ、竟に襲ふ。国造九世の孫・五百足、常時に尊神を敬事す。一日、夢に神告有り、「汝の妻・兄弟部、既に姙れり、身分娩せば必ず男子を挙ぐ。成長し吾将に之れに憑み有らんと欲せば、汝宜しく鍾愛すべし。」 夢覚めて後、之れを妻・兄弟部に語る。兄弟部亦夢を同じくし、怪しみ、且つ慎み、後に果して男子を産す。因りて神子()(くまこ)と名づく。亦熊子と云ふ。神子八歳の時、尊神化現し、御衣を神子に脱ぎ着せ、「吾に体無し、汝を以て体と為す」と神勅有りて、御身を隠す。是れ則ち御衣着祝・神氏有員の始祖なり。用明天皇御宇二年、神子社壇を湖南山麓に構ふ。(以下略、原漢文)田中卓が1956年(昭和31年)に九州で発見した数点の阿蘇家の系図(『異本阿蘇氏系図』として1960年に公表)の中には科野国造の氏族であった金刺氏(後の下社大祝家)を記したものがある。この系図には『神氏系図(大祝家本)』にも見られる名前があることから、金井典美らは「金刺氏が諏訪社の創立者で、神氏(諏訪氏)は金刺氏の分家」とする見方を提出した。こうした説は一時的に主流説と言えるほどになったが、1990年代以降はこれに反対する意見が次々と出た。この系図においては、阿蘇神社の祭神・武五百建命の子孫の金弓君(金刺舎人の始祖)の子・麻背君が科野国造に復帰、さらにその子の倉足は科野評督となる。倉足の弟・乙頴は「諏訪大神大祝」で、『大祝家神氏系図』に見られる「神子(熊子)」と比定されている。乙頴、一名は神子、又は熊子と云ふ。生まれて八歳にして、御名方富命大神化現し、御衣を神子に脱ぎ着せ、勅して曰く、「吾に体無し、汝を以て体と為す」と。磐余池辺大宮朝二年丁未三月に社壇を湖南山麓に構ひ、諏訪大神及び百八十神を祭りて、千代田の忌串を刺し之れを斎き奉る。(原漢文)了
2024年04月02日
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10、「京都諏訪氏」室町時代には庶流・小坂家出身の諏訪円忠(小坂円忠、諏訪敦忠の曾孫とされる)が建武政権で雑訴決断所の成員を務め、後醍醐から離反した尊氏に従い室町幕府の評定衆や引付衆、天龍寺造営奉行などを務め、在京して将軍直属の奉公衆としても活躍し、幕府滅亡までその職を世襲した。円忠の嘆願が受け入れられ、信濃の諏訪氏は幕府より存続を許された。また『諏方大明神画詞』は円忠による著作物である。諏訪流鷹術はこの家に伝えられた。文正元年(1466年)諏訪貞郷は幕府の祐筆を辞して信濃使節となり、京と信濃を往復している。「諏訪貞通」は幕府奉行人を務め、文明8年(1476年)諏訪大社の大般若経転読法会の再興に関する後土御門天皇の綸旨を得て、長享元年(1487年)将軍足利義政や日野富子ら幕府要人から諏訪法楽和歌の短冊を集め、京都の諏訪神社に奉納した。また京都諏訪氏は足利義昭の帰京や将軍擁立にも奔走している。幕府滅亡後、諏訪盛直は明智光秀に仕えたが、天正10年(1582年)の山崎の戦いで敗北した。 「諏訪 円忠」(すわ えんちゅう、永仁3年(1295) ~- 貞治3年(1364年))は鎌倉幕府と室町幕府の奉行人。京都諏訪氏の祖。信濃国諏訪郡生まれ。諏訪盛忠の子。諏訪神党の『神氏系図』によれば諏訪大社上社の支族で、埴科郡船山郷の地頭小坂氏を継いだので小坂円忠とも称する。諏訪氏は北条氏の得宗被官で、叔父の諏訪時光も鎌倉幕府の奉行人であった関係から、その養子となり鎌倉で元服した。北条氏が滅亡すると上洛し、夢窓疎石の仲介により足利尊氏に仕官し、室町幕府の評定衆から守護奉行を経て、天竜寺の造営奉行を務めた。さらに禅律方奉行人となり主に禅宗寺院関連の案件を担当した。中先代の乱以後に衰亡した諏訪宗家の再興にも助力し、諏訪上社の花会が信濃一円の武士の御頭奉仕で行われるようになった。延文元年(1356年)、尊氏の奥書を持つ『諏方大明神画詞』を完成させ、当時の公家社会をはじめとする各方面に諏訪信仰を普及させたほか、尊氏が発願した一国一寺の安国寺利生塔創建にあたり、信濃安国寺を諏訪上社の近くに建て、夢窓疎石を開山者とした。また円忠は諏訪神党祢津氏が相伝した鷹匠の秘術の故実を受け継ぎ(『神氏系図』)、子孫の京都諏訪氏の惣領に代々伝授され、文明5年(1473年)には飛鳥井氏と諏訪忠郷が鷹に関する和歌に註釈をつけて将軍足利義政の上覧に応えている(『鷹百首註』)。忠郷の子諏訪貞道も『鷹聞書少々』という鷹狩の故実書を編纂している。 11、「伊勢諏訪氏」伊勢諏訪氏は、南北朝時代、伊勢国司北畠氏の被官だった諏訪貞信(俗称「楠(くす)十郎」)を祖とする支族。伊勢北部(現在の三重県)の土豪、北勢四十八家の一つ。正平24年(1369年)から応永19年(1412年)まで、約50年間3代続いた。第二代からは中島氏を名乗った。 楠(くす、現在の三重県四日市市楠町)の地の城主だったため、俗に楠氏(読みは「くす」氏)とも呼ばれるが、これは俗称であって当主たちが自ら楠氏を名乗った事実はない。 初代の貞信に楠木正成の落とし子伝説があること、伊勢諏訪氏滅亡後の楠城主の後任として本物の楠(くすのき)氏である伊勢楠木氏が来ること、伊勢楠木氏の楠木正威が第3代当主貞則の養嗣だったこと、等々があって非常に紛らわしいが、クス氏とクスノキ氏は全く別の氏族である。初代当主は諏訪貞信、通称を十郎。俗に楠十郎ともいう。延元2年(1337年)1月25日生。 当時、南朝方の宗良親王が信濃国大河原(現在の長野県大鹿村)を拠点としており、大河原を交通の要衝として伊勢と諏訪の南朝勢力は結びつきが強く、貞信もまた南朝の志士として活動を行っていた。 正平24年(1369年)9月、北朝の武将土岐頼康が伊勢に侵攻したため、国司北畠顕能は、次男の顕泰率いる5000騎で迎撃しこれを退け、逆に北朝方の手にあった北勢の諸城を攻略した。 同年10月、顕能は防備を固めるために攻略したばかりの諸城を再編成し、その一つ楠山城(くすやまじょう)あるいは楠城(くすじょう)を、手勢300と共に諏訪貞信に与えて、北朝勢力に対する守りとした。 応永3年(1396年)2月24日没、菩提寺は現在の四日市市楠町本郷の正覚寺。正室は伊勢矢田氏当主で山田城の城主だった矢田蔵人入道の娘で、応永10年(1410年)10月没。 なお、楠町に住む貞信子孫と称する家系の言い伝えでは、楠木正成が延元元年(1336年)5月25日湊川の戦いで討死した後、妾の政野が名草道斎という医師の助けで諏訪に落ち延びて同年10月15日に生んだ子とされるが、同時代に伊勢諏訪氏が楠氏を称したことはなく、後世の創作である。第二代は諏訪貞益(後に中島貞益)、通称を七郎左衛門。貞信の子。北畠顕泰から中島四郷(現在の三重県四日市市楠町本郷)を賜り、中島を本貫として諏訪氏から中島氏に改名した。応永6年(1399年)の応永の乱に参戦後、北畠の命令に背いて伊勢に戻らず京都に駐留し続けて、北朝に直接仕えた。激怒した北畠氏に城主を解任され、弟の貞則に家督は移った。貞則の自死後、応永23年(1416年)5月17日に没。
2024年04月02日
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10、「京都諏訪氏」室町時代には庶流・小坂家出身の諏訪円忠(小坂円忠、諏訪敦忠の曾孫とされる)が建武政権で雑訴決断所の成員を務め、後醍醐から離反した尊氏に従い室町幕府の評定衆や引付衆、天龍寺造営奉行などを務め、在京して将軍直属の奉公衆としても活躍し、幕府滅亡までその職を世襲した。円忠の嘆願が受け入れられ、信濃の諏訪氏は幕府より存続を許された。また『諏方大明神画詞』は円忠による著作物である。諏訪流鷹術はこの家に伝えられた。文正元年(1466年)諏訪貞郷は幕府の祐筆を辞して信濃使節となり、京と信濃を往復している。「諏訪貞通」は幕府奉行人を務め、文明8年(1476年)諏訪大社の大般若経転読法会の再興に関する後土御門天皇の綸旨を得て、長享元年(1487年)将軍足利義政や日野富子ら幕府要人から諏訪法楽和歌の短冊を集め、京都の諏訪神社に奉納した。また京都諏訪氏は足利義昭の帰京や将軍擁立にも奔走している。幕府滅亡後、諏訪盛直は明智光秀に仕えたが、天正10年(1582年)の山崎の戦いで敗北した。 「諏訪 円忠」(すわ えんちゅう、永仁3年(1295) ~- 貞治3年(1364年))は鎌倉幕府と室町幕府の奉行人。京都諏訪氏の祖。信濃国諏訪郡生まれ。諏訪盛忠の子。諏訪神党の『神氏系図』によれば諏訪大社上社の支族で、埴科郡船山郷の地頭小坂氏を継いだので小坂円忠とも称する。諏訪氏は北条氏の得宗被官で、叔父の諏訪時光も鎌倉幕府の奉行人であった関係から、その養子となり鎌倉で元服した。北条氏が滅亡すると上洛し、夢窓疎石の仲介により足利尊氏に仕官し、室町幕府の評定衆から守護奉行を経て、天竜寺の造営奉行を務めた。さらに禅律方奉行人となり主に禅宗寺院関連の案件を担当した。中先代の乱以後に衰亡した諏訪宗家の再興にも助力し、諏訪上社の花会が信濃一円の武士の御頭奉仕で行われるようになった。延文元年(1356年)、尊氏の奥書を持つ『諏方大明神画詞』を完成させ、当時の公家社会をはじめとする各方面に諏訪信仰を普及させたほか、尊氏が発願した一国一寺の安国寺利生塔創建にあたり、信濃安国寺を諏訪上社の近くに建て、夢窓疎石を開山者とした。また円忠は諏訪神党祢津氏が相伝した鷹匠の秘術の故実を受け継ぎ(『神氏系図』)、子孫の京都諏訪氏の惣領に代々伝授され、文明5年(1473年)には飛鳥井氏と諏訪忠郷が鷹に関する和歌に註釈をつけて将軍足利義政の上覧に応えている(『鷹百首註』)。忠郷の子諏訪貞道も『鷹聞書少々』という鷹狩の故実書を編纂している。 11、「伊勢諏訪氏」伊勢諏訪氏は、南北朝時代、伊勢国司北畠氏の被官だった諏訪貞信(俗称「楠(くす)十郎」)を祖とする支族。伊勢北部(現在の三重県)の土豪、北勢四十八家の一つ。正平24年(1369年)から応永19年(1412年)まで、約50年間3代続いた。第二代からは中島氏を名乗った。 楠(くす、現在の三重県四日市市楠町)の地の城主だったため、俗に楠氏(読みは「くす」氏)とも呼ばれるが、これは俗称であって当主たちが自ら楠氏を名乗った事実はない。 初代の貞信に楠木正成の落とし子伝説があること、伊勢諏訪氏滅亡後の楠城主の後任として本物の楠(くすのき)氏である伊勢楠木氏が来ること、伊勢楠木氏の楠木正威が第3代当主貞則の養嗣だったこと、等々があって非常に紛らわしいが、クス氏とクスノキ氏は全く別の氏族である。初代当主は諏訪貞信、通称を十郎。俗に楠十郎ともいう。延元2年(1337年)1月25日生。 当時、南朝方の宗良親王が信濃国大河原(現在の長野県大鹿村)を拠点としており、大河原を交通の要衝として伊勢と諏訪の南朝勢力は結びつきが強く、貞信もまた南朝の志士として活動を行っていた。 正平24年(1369年)9月、北朝の武将土岐頼康が伊勢に侵攻したため、国司北畠顕能は、次男の顕泰率いる5000騎で迎撃しこれを退け、逆に北朝方の手にあった北勢の諸城を攻略した。 同年10月、顕能は防備を固めるために攻略したばかりの諸城を再編成し、その一つ楠山城(くすやまじょう)あるいは楠城(くすじょう)を、手勢300と共に諏訪貞信に与えて、北朝勢力に対する守りとした。 応永3年(1396年)2月24日没、菩提寺は現在の四日市市楠町本郷の正覚寺。正室は伊勢矢田氏当主で山田城の城主だった矢田蔵人入道の娘で、応永10年(1410年)10月没。 なお、楠町に住む貞信子孫と称する家系の言い伝えでは、楠木正成が延元元年(1336年)5月25日湊川の戦いで討死した後、妾の政野が名草道斎という医師の助けで諏訪に落ち延びて同年10月15日に生んだ子とされるが、同時代に伊勢諏訪氏が楠氏を称したことはなく、後世の創作である。第二代は諏訪貞益(後に中島貞益)、通称を七郎左衛門。貞信の子。北畠顕泰から中島四郷(現在の三重県四日市市楠町本郷)を賜り、中島を本貫として諏訪氏から中島氏に改名した。応永6年(1399年)の応永の乱に参戦後、北畠の命令に背いて伊勢に戻らず京都に駐留し続けて、北朝に直接仕えた。激怒した北畠氏に城主を解任され、弟の貞則に家督は移った。貞則の自死後、応永23年(1416年)5月17日に没。
2024年04月02日
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「諏訪 忠粛」(すわ ただかた)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。信濃国高島藩7代藩主。官位は従五位下・伊勢守、因幡守。明和5年(1768)4月4日、6代藩主・諏訪忠厚の長男として誕生。父が暗愚だったために起こった家督騒動である二の丸騒動では、反忠粛の家臣らによって暗殺されかけたこともある。しかしこの騒動で父が幕府より強制隠居を命じられたため、天明元年(1781)12月11日に跡を継ぐこととなった。天明5年(1785)からは坂本養川を登用して、検地や新田開発、税制改革、鋸製造業の奨励などを中心とした藩政改革を行い、ある程度の成果を収めた。享和3年(1803)には藩校・長善館を創設して、藩士子弟の養育や藩医を長崎に留学させて蘭学を学ばせるなど、学問も積極的に奨励した。文化13年(1816)11月21日、長男の忠恕に家督を譲って隠居し、文政5年(1822年)6月28日に死去した。享年55歳。 「諏訪 忠恕」(すわ ただみち)は、信濃高島藩の第8代藩主。第7代藩主・諏訪忠粛の長男。文化13年(1816)11月21日、父の隠居により跡を継ぐ。文化14年(1817)12月16日に叙任する。藩政においては藩財政再建を目指して検地や諏訪湖の治水工事、養蚕業の奨励における産業発展などを行なっていずれも成功したのだが、治世中における連年の凶作や江戸藩邸の焼失により藩財政は悪化した。しかもこのような不幸が重なったため、文政7年(1824)には高島藩で唯一といえる百姓一揆を引き起こしたという不名誉な藩主となった。このような失意の中で、天保11年(1840)5月4日に長男の忠誠に家督を譲って隠居し、嘉永4年(1851年)5月1日に死去した。享年52歳。 「諏訪 忠誠」(すわ ただまさ)は、江戸時代末期の譜代大名、老中。信濃諏訪藩第9代藩主。文政4年(1821年)、諏訪忠恕の長男に生まれる。天保11年(1840)、父の隠居に伴い家督を相続した。外祖父の松平定信は忠誠の人となりを見て、将来有望であると太鼓判を押した。その予想通り万延元年(1860)若年寄、文久2年(1862)寺社奉行、元治元年(1864)には老中に就任する。同年、武田耕雲斎率いる水戸天狗党(総勢1000人の浪士)は京を目指し、10月20日には諏訪藩領内の和田峠を越えようとさしかかった。幕府は高島藩と隣の松本藩に出兵を命じ、諏訪・松本両藩2000人は和田峠で迎撃をしたが、藩兵は6名の犠牲者を出し、突破されている。一方、幕府では若年寄、寺社奉行、老中と昇格したが、老中在任中の慶応元年(1865)、将軍・徳川家茂が長州征討のため出陣するのに強く反対し、同じ立場だった長岡藩主の牧野忠恭とともに老中職を罷免された。慶応4年(1868)5月24日に隠居し、養嗣子とした甥の忠礼に家督を譲った。明治4年(1871年)4月、東京に移住した。明治11年(1878)10月、忠礼の死去により家督を再び相続した。明治17年(1884)7月、子爵を授かる。明治31年(1898年)に死去した。家督は娘婿の忠元(溝口直溥の十四男)が継いだ。 「諏訪 忠礼」(すわ ただあや)は、信濃諏訪藩の第10代(最後)の藩主。嘉永6年(1853年)正月13日に諏訪頼威(第8代藩主諏訪忠恕の三男)の次男に生まれる。慶応4年(1868)2月8日、先代藩主で伯父に当たる忠誠の養嗣子となる。同年5月15日の養父の隠居により家督を継いだ。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871)の廃藩置県で高島県知事となる。同年11月20日、高島県廃止と共に免官され、東京へ移った。明治11年(1878年)10月10日に死去した。享年26歳。家督は養父の忠誠が再び相続した。 「諏訪 頼篤」(すわ よりあつ、寛文元年6月26日(1661) - 宝暦3年(1753)は、江戸時代の旗本。高島藩初代藩主・諏訪頼水の次男・諏訪頼郷による分家。諏訪頼常(頼郷の子)の長男。通称は午之助、七左衛門。官位は従五位下・肥後守、後に美濃守。室は正木時清(内藤能登守家臣)の娘。子に頼均(婿養子、内藤信有3男)、頼均室、忠林、盛恭(諏訪盛就養子)、頼弼、江原寅親室。寛文6年(1666)7月11日、父の没後に跡を継ぎ、寄合に列する。元禄11年(1698)1月11日、小姓組頭となり、領地武蔵国本庄領、上野国藤岡領計500石を武蔵国賀美郡、児玉郡、上野国新田郡に移される。12月25日、布衣を着ることを許される。正徳4年(1714)8月15日、京都町奉行となり丹波国氷上郡内500石を加増された。享保8年(1723)7月24日に江戸北町奉行となり、享保16年(1731)9月15日、田安館に仕え、上野国新田郡、山田郡内500石を加増され都合1500石となる。元文3年(1738)12月8日に職を辞し、寛保2年(1742)4月4日に致仕し、養子の頼均が継いだ。養老料300俵を賜る。宝暦3年(1753年)に93歳で没した。次男(長男は養子頼均)で実子の忠林は、諏訪忠虎の養嗣子となり高島藩主となる。
2024年04月02日
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宝暦13年(1763)、父の隠居を受けて家督を継ぐ。この頃、諏訪藩では財政悪化から藩政改革を迫られていた。先代の忠林の代にも改革は行なわれたが、反対派の動きなどもあって失敗している。このような中で跡を継いだ忠厚は、政務に関心を示さない暗愚無能の人物であった。このため、筆頭家老の千野貞亮が実権を掌握する。千野は藩財政再建のため、明和元年(1764)に新役所を設置し、翌年には領民に対して重税を強いるなどの方針で領民を大いに苦しめたが、藩財政はいくらか再建された。千野は忠厚から賞賛されることとなったが、このことが騒動の火種となった。二の丸騒動事件は、千野が藩財政をいくらか再建することで始まった。諏訪氏には当時、家臣に二つの派閥があった。ひとつは鎌倉時代から諏訪氏に仕えてきた累代の重臣・千野氏で、高島城三の丸に屋敷を構えていた。これに対抗するように初代藩主頼水の弟・頼雄を祖とする高遠藩の家老一族がいたが、これは二の丸に屋敷を構えていた。これらは知行は共に1200石で、交代で歴代の家老を輩出してきた家柄である。ところが千野が改革で功績を挙げたことで、もう一人の家老である諏訪頼保は、千野に藩の実権を完全に掌握されるのではないかと恐れおののいた。そこで頼保は、千野の追い落としを計画する。忠厚には渡辺助左衛門という寵愛している江戸詰の側用人がいたが、頼保はこれに近づいて、共に千野の追い落としを図った。頼保は忠厚に対して「千野の改革は領民から税をむしり取るだけのものであり、領民は一揆を起こしかねないほど千野を恨んでいる」と讒言した。確かに千野の改革は税を搾取するのが主であったため、領民が苦しんでいたのは確かであったが、忠厚はこれに対して大した調べもせずに千野を家老から解任して知行を召し上げ、閉門処分にした。こうして頼保は首席家老となり、150石の恩賞までいただくという栄誉を受けた。しかし、このような頼保に清廉なところも、政治手腕もなかった。頼保はいわゆる「時代劇の悪代官」であり、賄賂を払う者を多く取り立て、女や酒を周りに集めては遊興や淫らな行為に走るなど、千野以上の悪政を行なったのである。しかし千野はこのまま黙っていなかった。安永8年(1779)3月、勢いを盛り返して江戸にいる忠厚のもとに乗り込み、頼保の淫らな行状を訴えた。これを知った忠厚は激怒し、頼保を家老から罷免し、知行を召し上げて閉門に処した。だが、頼保はすぐに巻き返しに出た。忠厚には正室との間に男児がおらず、側室との間に2人の息子がいた。ひとりはおとめ(木村氏)が産んだ軍次郎(後の忠粛)、もうひとりはおきそ(北川氏)が産んだ鶴蔵(後の頼庸)である。ところが忠厚はおきそを溺愛したため、家督を鶴蔵に譲ろうと考えていた。そこで頼保は忠厚の寵臣である渡辺と手を結んで、軍次郎を廃嫡して鶴蔵を跡継ぎとしようと画策した。こうすれば、鶴蔵が藩主になったとき、頼保は藩主擁立の功績の第一人者となれるからである。これを知った千野は、いくら何でも主家の家督にまで手を出すのには反対で、家督は長男が継ぐべきと考えていた。そこで二の丸派の動きを阻止しようとしたが、渡辺が忠厚に対してまたも讒言したため、千野は忠厚の命で家老罷免の上、押込めとなった。こうなると頼保は勢いづき、軍次郎を調伏し、さらに忠厚の正室が軍次郎を支持しているのを苦々しく思って、忠厚に対して正室との離別を提言した。忠厚もいつまでたっても子を産まない正室に苛立っていたため、正室は強制的に離別させられた。一方、押し込めとなっていた千野は、松本藩主松平光和の命により差し向けられた忍者芥川義矩によって救出された(秘薬を使って透明に成り、警戒厳重なる牢屋に忍び込み、千野にも其の秘薬を与え、共に透明人間と成り、誰にも気付かれずに脱出したとの伝説有り。)。このような家督騒動の事態になったことを憂慮し、自分の死を覚悟して、江戸の松平乗寛のもとへこの事態を訴え、助けを求めた。乗寛は忠厚の妹婿で、幕府の奏者番を務めていた。事態を知った乗寛は幕府がこれを知れば改易になりかねないことを憂慮して天明元年(1781)10月、忠厚を説得して家督を長男の忠粛に譲らせることを実現した。さらにこの功績で、千野は再び家老に復帰した。そして頼粛を調伏して藩政を牛耳ろうと企んでいた二の丸派は天明3年(1783)7月、頼保が切腹、渡辺ら4名は斬首という処分が下され、ようやく二の丸騒動は終焉した[。全ては単純暗愚の藩主・忠厚から始まったと言っても過言ではない騒動であった。文化9年(1812年)、67歳で死去した。
2024年04月02日
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それを受け、延宝6年、藩は「先の確定は田地堺を定めたもので、山境にあらず」とし、金沢山全部を含め、両村入会地との裁許状を下した。先の確定が蹂躙されたことを憤慨し、一村の荒廃に関わる一大事に、裁許状をくつがえそうと、三郎左衛門は金沢村の代表として紛争の解決に当たった。延宝6年(1678年)10月25日、三郎左衛門は宮川沿い矢ノ口河原であったところで磔にされ、村民が見守る中で命を絶たれた。享年34歳の若さだった。その罪状は、山論に没頭するあまり、本来の問屋業務を疎かにしたというものであった。しかし、実態は三郎左衛門が、山論の正当な解決を直訴しようとしたことへの処罰、江戸に出向いて直訴する行為が近隣の村々に悪影響を及ぼすことを恐れた藩主による見せしめであった。執行されたこの処罰は、諏訪地方における唯一の磔刑であったという。妻子は追放、闕所(財産没収)となる。結局、金沢山の土地も千野村の所有になることは無く、後に藩に収公された。 その後、諏訪藩は、藩内の二十ヶ村に入会権を与え、二百年に亘る定着した財源になったという。三郎左衛門死後それから100年後の寛延2年(1749)三郎左衛門の磔にされた桟敷場に子孫によって供養の地蔵尊が建てられたが、いつの頃か度重なる水害にあい流失したものと思われる。寛政12年(1800)別の場所に地元の人々に祀られた如意輪観音を地蔵の見替わりに、毎年命日に供養が行われ今日に至る。人々には「みょうり様」と呼ばれ親しまれている[6]。さらに、三郎左衛門の死後200年の明治13年(1880)金沢村の村民達が宮城上等裁判所に提訴した。村民の誠意と真実に心を動かされた裁判所によって、金沢村の土地であるという勝訴判決が出された。昭和25年(1950)青柳神社境内に頌徳碑、三郎左衛門の墓のある泉長寺裏の墓地に供養塔を、金沢村の人々によって奉納される[8]。地蔵尊再建]明治31年(1898年)の水害の復旧工事の時、台石だけが付近の河原より見つかり、台石を失った青面金剛像がその台石上に祀られた。金沢村史編纂会は昭和62年(1987年)山論に関係のあった高道調査の帰り、宮川の川底より行方不明となっていた三郎左衛門を祀る首を失った地蔵尊を発見した。地蔵尊の首を復元し、下町にある青面金剛像の載る台石に刻まれている施主氏名を復刻し再建した。平成3年(1991年)3月20日茅野市金沢区健之す。】 天和元年(1682)には高田城在番と高田領内の検地を務めた功績[4]により、天和3年(1683)7月28日に幕府より恩賞を授かっている。その後も大坂城山里御門番、江戸火消役などを務めた。元禄8年(1695年)3月2日に57」歳で死去し、跡を三男の忠虎が継いだ。「諏訪 忠虎」(すわ ただとら)は、信濃高島藩の第4代藩主。第3代藩主諏訪忠晴の三男。延宝6年(1678)12月28日に叙任する。学問に優れていた経緯から、学問好きであった将軍・徳川綱吉の師事を受けた。元禄8年(1665)、父の死去により跡を継ぐ。江戸火消役や山里丸門番のほか、流罪となった吉良義周の身柄預かりなどを務めた。しかし、藩政においては江戸藩邸の焼失や元禄大地震における災害などにより、藩財政の窮乏化が始まった。また、三男の忠尋が早世したため、享保16年(1731年)7月2日に69歳で死去した後は、養嗣子の忠林が跡を継いだ。 「諏訪 忠虎」(すわ ただとら)は、信濃高島藩の第4代藩主。第3代藩主諏訪忠晴の三男。延宝6年(1678)12月28日に叙任する。学問に優れていた経緯から、学問好きであった将軍・徳川綱吉の師事を受けた。元禄8年(1695)、父の死去により跡を継ぐ。江戸火消役や山里丸門番のほか、流罪となった吉良義周の身柄預かりなどを務めた。しかし、藩政においては江戸藩邸の焼失や元禄大地震における災害などにより、藩財政の窮乏化が始まった。また、三男の忠尋が早世したため、享保16年(1731年)7月2日に69歳で死去した後は、養嗣子の忠林が跡を継いだ。「諏訪 忠林」(すわ ただとき)は、江戸時代中期の大名。信濃国高島藩5代藩主。官位は従五位下・伊勢守、因幡守。高島藩分家の旗本・諏訪頼篤の次男。先代藩主・諏訪忠虎の実子である忠尋が早世したため、享保6年(1721)4月11日に忠虎の養嗣子となる。同年12月18日に叙任する。享保16年(1731)、忠虎の死去により跡を継ぐが、生来から病弱だったため藩政から逃避して学問の世界にのめり込んだ。しかし学者、特に詩人としては一級者であり、太宰春台や釈万庵らもその才能を認めたという。宝暦13年(1763)8月23日、四男の忠厚に家督を譲って隠居し、明和7年(1770)5月27日に68歳で死去した。 「諏訪 忠厚」(すわ ただあつ)は、信濃諏訪藩の第6代藩主。第5代藩主・諏訪忠林の四男。暗君の登場
2024年04月02日
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性格は、頼水の剛毅(意志が強固で気力があり、何事にも屈しないこと)さを示す逸話として、永明寺事件がある。頼水の末娘亀姫が頼水にあてた書状(嫁ぎ先で起きたトラブルを告げ口)を、使いの下男が途中でとなりの下男と喧嘩し、衣之渡川へ捨てられてしまった。となりの下男は後難をおそれて 、諏訪氏の菩提寺である永明寺に逃げ込んだ。頼水は罪人を引き渡すように命じたが、僧侶は治外法権の特権を楯にして引き渡さなかった。そこで業を煮やした頼水は、寺を焼いて罪人を捕まえ首を刎ねた。この時に匿った僧侶も有無を言わせずに処刑したと言われている。織田信長の比叡山焼き討ち (1571年)を思わす苛酷な事件であった。この時代、僧侶には権威があり、又、菩提寺を焼くというのは恐れ多いことであるが、何者にも屈しない頼水の性格を表している。(永明寺は、上原城のそばにあった寺で、当時鎌倉五山にならって上原五山と呼ばれた五ヶ寺の一つ。永明寺の他、極楽寺〈唯一現在も存在している〉・金剛寺〈廃寺〉・法明寺・光明寺〈この二ヶ寺はのちに合併して放光寺となり上諏訪に移る〉があった。現在永明寺跡地には碑が建設されている。)その後、頼水は新たな菩提寺として寛永8年(1631)に頼岳寺を創建している。 9、「江戸時代の諏訪氏」江戸時代には大名家と大祝家とに分かれ隆盛し、大名家は明治維新後、子爵となり華族に叙された。「諏訪 忠恒」(すわ ただつね)は、江戸時代前期の大名。信濃国諏訪藩の第2代藩主で、初代藩主諏訪頼水の長男。慶長12年(1607)、第2代将軍・徳川秀忠に謁見して刀などを賜り、元服して忠頼(ただより、初名)と名乗った(「忠」の字は秀忠の偏諱と思われる)。慶長19年(1614)、大坂冬の陣では信濃国高島城を守備し、翌年の大坂夏の陣では、甲府城守備を任じられた父に代わって大坂へ出陣し、榊原康勝軍に属して、若江の戦いや天王寺の戦いで奮戦し、戦後、筑摩郡に5000石を加増されている。寛永17年(1640)、父から家督を譲られた。そして藩政に力を注ぎ、新田開発に努めた。 明暦2年(1658年)に信濃国金沢村(現在の茅野市金沢区)と隣の千野村との間に山論が起きた。その時、忠恒の裁定により、高道下境塚[を起点とし、松倉峠(金沢峠)に至る一線を画し、境界が確定たことにより、争いは解決したかに見えたが息子忠晴の代になってから再び争いが再炎することとなる 。 明暦3年(1657年)9月28日に63歳で死去。家督は長男の忠晴が継いだ。「諏訪 忠晴」(すわ ただはる)は、信濃高島藩の第3代藩主。第2代藩主・諏訪忠恒の長男。明暦3年(1657)、父の死去により跡を継ぐ。このとき、筑摩郡5000石のうち、弟の頼蔭(埴原知行所)と頼久(百瀬知行所)にそれぞれ1000石ずつ分知し旗本に列させたため、高島藩は3万2000石から3万石となった。百瀬知行所には陣屋を置いた。同年12月27日に叙任する。延宝4年(1676)武家伝記である『本朝武林小伝』7巻とその続編である35巻を編纂する。また、狩野派の絵もよく描いていたなど、文化人としても優れていたことが伝えられている。 藩政としては、宗門改めや検地など、知行制度の整備など藩の支配機構を整え、藩体制の確立に努めた。その頃の藩主としての厳しい一面を伝える逸話がある。父忠恒の時代に解決したかに見えた金沢山の入会権をめぐる金沢村 (長野県)と隣の千野村との争いの再炎で、延宝6年(1678)代表として紛争の解決にあたった金沢宿(現茅野市金沢)の問屋小松三郎左衛門が村のため裁許状をくつがえそうと、江戸へ直訴しようとし、忠晴の怒りにふれ処刑された。その後、財産没取、妻子は追放された。 小松三郎左衛門磔殺事件といわれる苛酷な出来事である。 「小松 三郎左衛門」(こまつ さぶろうざえもん、正保2年(1645年) - 延宝6年10月25日(1678)は、江戸時代の義民。金沢山の入会権をめぐる争いで、金沢村 (長野県)の代表として紛争の解決に当たり、村のため裁許状をくつがえそうと、江戸へ直訴しようとして藩主の怒りにふれ、処刑された。信濃国金沢宿の問屋。甲州街道四十四次の四十三番目の宿場、信濃国金沢宿(現在の長野県茅野市金沢区)に生まれる。本陣問屋場の主は代々世襲制で、諏訪高島藩金沢宿、本陣問屋、四代目小松三郎左衛門を襲名する。この宿場は街道の分岐点にあり、高遠や飯田に通じるので伝馬地かつ人馬継立を問屋として責務を負っていた。一方金沢村の村民達は農耕に従事し、薪炭肥料の資を鳴沢山[と金沢山から得て暮らしを立てていた。明暦2年(1656)に金沢村と隣の千野村]との間に山論(金沢山の山林の所有権を巡る争い)が起きた。その時、二代藩主諏訪忠恒の裁定により、高道下境塚を起点とし、松倉峠(金沢峠)に至る一線を画し、境界が確定していた。しかし、忠恒没後、三代藩主諏訪忠晴の時代になった当時、大水害、飢饉が続き、藩内では死者が1200人も出るなど諏訪藩の財政難で藩は財源確保を模索していた。 延宝5年(1677)千野村は、鳴沢山はもちろん金沢山をも入会地と称し訴訟した。
2024年04月02日
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天正10年(1582年)3月、織田信長が武田領に攻め込む(甲州征伐)と、諏訪氏家臣団は頼豊に対して武田氏を離反して諏訪氏再興を図るべきと進言するが、それを拒んで出陣する。鳥居峠の戦いで敗れた後、織田軍に捕らえられて処刑されたという。これにより、家臣達は弟の頼忠を擁して諏訪氏再興を図る。 「諏訪 頼忠」(すわ よりただ)は戦国時代から江戸時代初期の武将。信濃諏訪藩の基礎を築いた。武田家、家臣時代信濃国諏訪氏の一族。天文11年(1542)6月、諏訪氏の当主で、頼忠の従兄にあたる頼重は、甲斐国の武田信玄の諏訪侵攻で自害する。父・満隣は、高遠頼継・矢島満清らが諏訪大社上社の諏訪大社大祝(おおほうり)の簒奪を画策すると、これに対して頼重の遺児・千代宮丸(虎王丸、又は長岌)を擁立した。その後、満隣の動向は不明[5]。満隣の子では頼忠のほか頼豊・頼辰もそれぞれ武田家に仕えている。諏訪大社の大祝は頼重の弟・頼高が務めるが頼高は天文11年(1542)に殺害され、『当社神幸記』によれば、同年12月以前には頼忠が諏訪大社上社の大祝となり、12月7日には諏訪明神御渡の注進を行っている。『当社神幸記』によれば、天文16年(1547)1月11日時点で「頼忠」を名乗っている。永禄7年(1564)7月19日には武田氏の飛騨侵攻に際して信玄から祈祷を依頼されている。永禄8年(1565)12月・永禄9年(1566)には諏訪大社上社や末社の祭礼再興に尽力している。天正6年(1578)・天正7年(1579)には武田勝頼により諏訪大社の造営が実施され、頼忠もこれに携わっている。天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡した際に兄が戦死し、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、諏訪家旧臣千野氏らに擁立されて河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を駆逐し、信濃高島城(旧城)に入って諏訪氏の家督を継ぎ本領を回復した。北条家、家臣時代信濃の混乱(天正壬午の乱)に乗じて侵攻した徳川家康に対抗して[2]北条氏政に接近し、再起を図ろうとした。しかし同年12月、酒井忠次、小笠原信嶺ら家康の信濃平定軍に敗れて和睦[2]の形で臣従する事となる。翌天正11年(1583)3月に諏訪郡を所領として安堵されることとなった。 天正18年(1590)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い、武蔵国比企郡奈良梨、児玉郡蛭川、埼玉郡羽生に計1万2000石の所領を与えられた。文禄元年(1592)には上野国総社に所領を移される。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役を務めた。 「諏訪 頼水」(すわ よりみず)は、安土桃山時代、江戸時代前期の大名。信濃諏訪藩の初代藩主。諏訪頼忠の長男。天正5年(1577)、6歳で父頼忠から諏訪大社大祝(おおほうり)職を譲られる。天正18年(1590)、父と共に小田原征伐に従軍する。その後、主家の徳川氏が関東に移封となったため、頼忠父子はこれに従って諏訪を離れて関東に移り、武蔵国奈良梨に所領を与えられた。その翌々年、上野国総社へ移封され、同年に父から家督を譲られている。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従い、信濃国や上野国の守備を命じられた。その功績により、戦後の慶長6年(1601)10月、信濃国高島2万7000石へ復帰を許された。第二次上田合戦後には上田城の受取役を果たしている。慶長19年(1614)からの大坂の陣では甲府城の守備を命じられ、長男の忠頼が諏訪軍を率いて出兵した。頼水は冬の陣の際に自身が城の留守居などのような閑職に留められていることに奮起し、夏の陣では大坂へ従軍させてもらうように願ったが、かなえられず夏の陣でも甲府城の守備を命じられた。元和2年(1616)、改易となった松平忠輝の身柄を預かり、その後、諏訪氏は忠輝の面倒を生涯見ている。寛永11年(1634)、第3代将軍・徳川家光から杯と饗応を受けるという厚遇を受けるほどの信任を受けた。寛永17年(1640)、忠頼(忠恒)に家督を譲って隠居し、翌年の寛永18年1月14日(1641)に72歳で死去した。人柄頼水は政治手腕に優れ、前領主の七公三民(江戸時代の年貢率の一つ。その年の収穫高の7割を年貢として領主に納め、3割を農民の所得とするもの)のせいで荒れ果てていた農地から逃散していた百姓を呼び戻して新田開発を奨励するなど、藩政の安定に尽力し、家臣や領民に人気があった。
2024年04月02日
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勝頼は城代・秋山虎繁(信友)に代わり信濃高遠城主となり、勝頼の高遠城入城に際しては馬場信房が城の改修を行う。 勝頼期の高遠領支配は3点の文書が残されているのみで具体的実情は不明であるものの、独自支配権を持つ支城領として機能していたと考えられている。ほか、事跡として高遠建福寺で行われた諏訪御料人の十七回忌や、永禄7年(1564)に諏訪二宮小野神社に梵鐘を奉納したことなどが見られる。初陣は、永禄6年(1563)の上野箕輪城攻め(武蔵松山城攻めとも)。長野氏の家臣・藤井豊後が、物見から帰るところを追撃し、城外椿山にて組み打ちを行い討ち取った。その後の箕輪城、倉賀野城攻め等でも功を挙げた。その後、信玄晩年期の戦のほとんどに従軍し、武蔵滝山城攻めでは北条氏照の家老・諸岡山城守と三度槍を合わせたとされ、小田原城攻めからの撤退戦では殿を務め、松田憲秀の家老・酒井十左衛門尉と馬上で一騎討ちを行ったとされる。永禄8年(1565)、異母兄で武田家後継者であった義信の家臣らが信玄暗殺の密謀のため処刑され、義信自身も幽閉されている。同年11月には勝頼と尾張の織田信長養女(龍勝院)との婚礼が進められており、この頃の信玄は従来の北進戦略を変更し、織田家と同盟して信濃侵攻や東海方面への侵攻を具体化しており、家臣団の中にも今川義元の娘を室とする義信派との対立があったという]。次兄の竜宝は生まれつきの盲目のために出家し、三兄の信之は夭逝していることから、勝頼が信玄の指名で後継者と定められた。永禄10年(1567)、高遠城で正室の竜勝院殿との間に嫡男・武王丸(信勝)が誕生する。元亀2年(1571)2月には甲府へ召還され、叔父の武田信廉が高遠城主となっている。同年9月16日、正室・竜勝院殿が死去している。 勝頼は稲村清右衛門尉・富沢平三の両名を高野山成慶院へ派遣し、竜勝院殿の供養を行っている。家督相続武田氏は相模後北条氏と甲相同盟を結び、諸勢力とともに将軍・足利義昭の信長包囲網に参加し、元亀3年(1572)には西上作戦を開始するが、勝頼は武田信豊・穴山信君とともに大将を努め、同年11月に徳川方の遠江二俣城を攻落し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦う。元亀4年(1573)4月13日、信玄が西上作戦の途中で病死したため、武田姓に復し家督を相続し、武田氏第20代当主となる。しかし表向きは信玄が隠居し、勝頼が家督を相続したと発表されていた。 8、「安土桃山時代の諏訪氏」勝頼期に諏訪郡・高嶋城主は今福昌和であったが、天正10年(1582)3年、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡する(武田氏滅亡)。武田氏の滅亡における諏訪氏の動向は不明であるが、諏訪上社が放火され、諏訪頼豊(越中守)父子が処刑されている。諏訪衆の千野昌房(兵衛尉)は上野へ亡命し、同年6月に相模国の北条氏直に保護されている[60]。一方、大祝であった頼忠や神長官・守矢信真は諏訪から脱出した記録が見られないため、諏訪郡に逼塞していたと考えられている。織田氏の甲斐仕置において甲斐は織田家臣の河尻秀隆が領し、高嶋城には河尻家臣の弓削重蔵が配置される。同年6月に本能寺の変で織田信長が討たれると武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。後代の軍記物、編纂物によれば千野昌房が後北条氏の後援を経て諏訪へ帰還し、諏訪衆を糾合して高嶋城を奪還する[61]。頼忠もこの時に蜂起し、旧領を回復したという。一方、文書によれば諏訪州は武田旧臣である木曽郡の木曾義昌の支援を得て高嶋城を奪還していた可能性が指摘されている。さらに頼忠は越後上杉氏の侵攻により木曾氏の勢力が弱まると自立する。徳川家康と相模後北条氏との争いでは、はじめ徳川方、のち後北条方に転じた。頼忠は諏訪氏を再興し、頼忠の息子・頼水が慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでの功によって高島藩に封じられた。 「諏訪 頼豊」(すわ よりとよ、)(? - 天正10年3月(1582))は戦国時代の武将。諏訪満隣の嫡男で、諏訪頼忠の兄。信濃の諏訪氏当主。武田信玄・勝頼に仕える。官途名は越中守[1]。通称は新六郎。天文11年(1542)、従兄弟の諏訪頼重が武田信玄に敗れて、甲府で自害する。頼豊の父である満隣は頼重を助けるが、頼重没後に高遠頼継・矢島満清が諏訪郡と諏訪大社上社の大祝を求めて武田氏に対して反乱を起こすと、満隣は頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を擁立して対抗し、9月には武田氏の助力を得てこれを撃破した。同年には上伊那郡福与城主・藤沢頼親攻めの案内役を務めている。満隣のこれ以降の動向は不明。諏訪衆の筆頭に名を連ね、使番十二衆[として活躍し、今川氏侵攻戦でも戦功を挙げた。また、天正6年(1578)の諏訪大社の再建には弟の大祝・頼忠とともに中心に立って再建事業にあたった。頼豊はじめ多くの諏訪一族は勝頼から優遇されることはなかった。
2024年04月02日
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天文11年(1542)7月2日に甲斐国の武田晴信(信玄)が高遠頼継・禰宜太夫(ねぎだゆう)の矢島満清とともに諏訪氏当主・諏訪頼重の本拠である上原城(長野県茅野市上原)攻めると、満隣は頼重を助ける。頼重は桑原城(諏訪市四賀桑原)へ敗走するが、7月4日に武田方へ降伏する。『高白斎記』『守矢頼真書留』によれば、頼重は武田氏の本拠である甲府へ護送されると、7月21日に東光寺(山梨県甲府市東光 寺)で自害した。頼重の没後、高遠頼継と矢島満清は諏訪郡と諏訪大社上社(諏訪市中洲)大祝の地位を望み、武田氏に対して反乱を起こした。満隣は頼重の遺児である千代宮丸(寅王丸)を擁立して対抗した。『高白斎記』『守矢頼真書留』によれば、9月25日に満隣は武田勢とともに宮川橋の戦いにおいて高遠頼継を撃破する[2]。この頃、満隣は出家する。『高白斎記』によれば、9月26日に満隣は神長官の守矢頼真や弟の諏訪満隆とともに武田氏の案内役を務め、伊那郡福与城(上伊那郡箕輪町)主の藤沢頼親を攻め、これを降伏させた。これ以降の動向は不明[2]だが、諏訪氏の系譜に従うと武田家滅亡後の天正10年(1582)10月に卒。満隣子息のうち、諏訪頼豊は有力社家衆として諏訪衆を統括し、諏訪頼辰も武田家に仕えている。頼豊・頼辰・頼清は天正10年3月の武田氏滅亡に際して戦死し、天正壬午の乱において諏訪頼忠が諏訪氏を再興し、近世には諏訪高島藩主となる。 「武田 勝頼」(たけだ かつより) / 諏訪 勝頼(すわ かつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。信濃への領国拡大を行った武田信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573)には信玄の死により家督を相続する。強硬策を以て領国拡大方針を継承するが、天正3年(1575)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退したことを契機に領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図り、織田氏との甲江和与も模索し、甲斐本国では新府城への府中移転により領国維持を図るが、織田信長、徳川家康らの反攻(甲州征伐)を受け、天正10年(1582年)3月11日、嫡男・信勝とともに天目山で自害した。これにより平安時代から続く甲斐武田氏は(戦国大名家としては)滅亡した。近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で、武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や、悲劇の当主とする肯定的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱われることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。出生から武田家世子へ天文15年(1546)、武田晴信(信玄)の四男として生まれる。生誕地や生月日、幼名は不明。母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人(実名不詳、乾福院殿)。武田氏は勝頼の祖父にあたる信虎期に諏訪氏と同盟関係にあったが、父の晴信は天文10年(1541年)6月に信虎を追放する形で家督を相続すると諏訪氏とは手切となり、天文11年(1542年)6月には諏訪侵攻を行い諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡する。晴信は諏訪残党の高遠頼継らの反乱に対し、頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を奉じて諏訪遺臣を糾合し、頼継を制圧する。晴信は、側室として諏訪御料人を武田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎え、天文15年(1546年)に勝頼が誕生する。頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡されており、同年8月28日には千代宮丸を擁立していた諏訪満隆が切腹を命じられており、反乱を企てていたと考えられている。躑躅ヶ崎館で母とともに育ったと考えられているが、武田家嫡男の義信や次男・信親(竜宝)に関する記事の多い『高白斎記』においても勝頼や諏訪御料人に関する記事は見られず、乳母や傅役など幼年期の事情は不明である。なお、『甲陽軍鑑』では勝頼出生に至る経緯が詳細に記されているが、内容は疑問視されている。信玄が諏訪御料人を側室に迎えることには、武田家中でも根強い反対があったとも考えられている。信玄は信濃侵攻を本格化して越後国の上杉氏と対決し、永禄5年(1562)には川中島の戦いにおいて信濃平定が一段落している。信玄は信濃支配において、旧族に子女を入嗣させて懐柔する政策を取っており、勝頼の異母弟である盛信は信濃仁科氏を継承して親族衆となっているが、勝頼も同年6月に諏訪家の名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である「頼」を名乗り諏訪四郎勝頼となる(武田氏の通字である「信」を継承していない点が注目される)。勝頼は跡部右衛門尉ら8名の家臣団を付けられ、武田信豊らと共に親族衆に列せられている。
2024年04月02日
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「長岌」(ちょうきゅう、天文11年(1542) - ?)は、戦国時代の人物。諏訪氏当主の諏訪頼重と武田信玄の妹・禰々の嫡子。幼名・寅王丸、後に千代宮丸と改名。戦国期に甲斐国守護の武田氏と信濃国諏訪郡領主諏訪氏は抗争を繰り広げていたが天文4年(1532年)に和睦し、天文9年(1540年)11月29日には同盟関係の証として武田信虎の三女禰々が諏訪頼重に嫁ぐ(『神使御頭之日記』)。その後、武田氏と諏訪氏は同盟し小県郡侵攻などを行っているが、天文10年(1541年)に7月に頼重は上野国の関東管領上杉憲政の信濃佐久郡侵攻に際して武田方に独断で憲政と和睦し、所領の分割を行う(『神使御頭之日記』)。武田氏では同年6月に晴信が当主となっているが、晴信はこの盟約違反を理由に諏訪氏との同盟を破棄したと考えられており、天文11年(1542)7月には諏訪侵攻を開始する。寅王はこの最中の同年4月に誕生しており、寅年生まれのために寅王丸と命名された(『守矢頼真書留』)。頼重は同年7月に甲府へ護送されて自害し、幼い寅王丸と生母の禰々は甲斐国へ帰国し、この際に名を千代宮丸と改名したという。同年9月、諏訪郡においては諏訪庶流で諏訪侵攻において共同し諏訪領を分割した高遠頼継が武田領に侵攻するが、晴信は幼い寅王を推戴して諏訪一族を統合し、9月に25日の諏訪宮川橋の戦いにおいて頼継勢を撃退する(『高白斎記』)。その後は僧籍に入った。「宮川の戦い」(みやがわのたたかい)は、天文11年9月25日(1542)に信濃宮川で行なわれた甲斐の武田晴信軍と信濃の高遠頼継軍の合戦である。この戦いで武田家は諏訪郡の覇権を掌握した。天文11年(1542年)7月、諏訪惣領家の諏訪頼重は武田晴信と諏訪庶家の高遠頼継の連合軍に攻められて降参した(桑原城の戦い)。頼重とその弟の頼高は7月21日に甲斐で切腹となり、この際、諏訪領は宮川以西を高遠領、以東を武田領賭することで合意した。しかし諏訪惣領の地位を目指す高遠頼継は宮川より西の諏訪郡しか手に入れられなかった事に不満を抱き、9月10日、武田領に侵攻して上原城を攻め落とし、さらに諏訪上社の矢島満清、有賀遠江守、伊那郡箕輪の福与城主・藤沢頼親や土豪の春近衆を味方につけた。これに対して9月11日、下諏訪衆、諏訪満隆、安国寺竺渓ら武田方の武将を後詰するため、晴信は板垣信方に軍を預けて向かわせた。9月19日、晴信は頼重の遺児である寅王を擁して若神子まで出陣し、自己の正当性を主張しながら板垣隊と合流する。9月25日、武田軍は宮川まで進軍し、未刻(午後1時から3時)頃に宮川橋付近で高遠軍と衝突した。この合戦は酉刻(午後5時から7時)まで続き、高遠軍は頼継の実弟である高遠頼宗(蓮峯軒)ら700~800余人の死者を出して敗走した。武田軍は守矢頼真と諏訪兄弟を案内者として、駒井高白斎らの軍勢を箕輪に進ませ福与城に迫った。このため頼親は9月28日に降伏した。また9月29日に板垣が上伊奈に侵入し、春近衆を圧迫し、伊奈衆や高遠方は壊滅的な打撃を蒙り、10月7日に諏訪西方が降伏し、駒井高白斎が奉行となり諏訪大社の宝鈴を鳴らし、西方衆に武田への帰属を誓約させた[9]。天文12年(1543)5月、晴信は上原城を修築し、板垣信方を諏訪郡代として在城させた。天文13年(1544)10月に高遠頼継、藤沢頼親、小笠原長時らが武田に反旗を翻すが、天文14年(1545)4月の高遠合戦により武田軍に敗北し、武田家に従属する事となる。】 武田氏は信濃支配において征服した信濃諸族に一族の子弟を養子として懐柔する方策を取っているが、諏訪氏においても天文15年(1546)には寅王の姉にあたる諏訪御料人と晴信との間に生まれた四郎(諏訪勝頼、武田勝頼)が諏訪家を継承する。近世の諏訪系図においては、大叔父の諏訪満隆が反乱を起こし、それに前後して長岌も今川義元を頼って亡命しようと試みたが、露見したために捕えられて殺されたとする説を伝えている。あるいは、天文22年(1553)に越後へ出奔し、上杉謙信に、その美貌と胆力とを愛され、春日山城内に住むことを許されて優遇されたと伝えられる。一説に、東北に逃れたとの話もある。玉の湯温泉(福島県大熊町大字野上字湯の神)に伝わる伝承 諏訪頼重と武田信玄の妹・禰々の子 諏訪頼貞(玉林坊)は、戦いの果て流浪し野上の里に辿り着き、氏神諏訪大明神を祭り土着。慶長元年(1596)、豊臣秀吉の命により金山を探しに来た山伏金場源五郎が玉林坊の草庵を訪れ、二人は野上川上流に温泉を発見する。 「諏訪 頼高」」(すわ よりたか)は戦国時代の武将、諏訪大社大祝。天文7年(1538)兄・頼重の命により、叔父の諏訪頼寛から諏訪大社大祝を継承する。天文11年(1542)甲斐の武田晴信(信玄)の信濃に侵攻に抗戦するが敗れて降伏した。その後も諏訪に残るが、禰宜太夫の矢島満清の讒言にあい、甲斐に送られて自害させられた。 「諏訪 満隣」(すわ みつちか)は、戦国時代の武将。信濃国諏訪氏の一族。『諏訪系譜』によれば、通称は新太郎・官途名は伊豆守・号は竺渓斎。
2024年04月02日
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「高遠 頼継」(たかとお よりつぐ、生年未詳 - 天文21年8月16日(1552)は、戦国時代の武将。信濃国の国衆で、伊那郡高遠城(長野県伊那市高遠町)城主。甲斐武田氏の家臣で信濃先方衆。諏訪郡の領主諏訪氏庶流の高遠氏の当主で、諏訪姓も称している。受領名は信濃守、紀伊守。父は満継(信濃守)で嫡男。正室は諏訪頼満の娘。諏訪氏の文明の内訌の際に惣領家と対立した高遠継宗の子とも孫(父は高遠満継)ともいわれる。諏訪頼満が諏訪氏を統一すると抵抗するもその傘下となった。のちに頼満の娘を妻に迎えている。戦 国期に甲斐国守護武田氏と信濃諏訪郡の諏訪氏は同盟関係を結んでいたが、天文10年(1542年)6月に武田氏では武田晴信(信玄)が当主になると、晴信は信濃侵攻を本格化させ、諏訪氏との同盟を破棄して諏訪郡へ侵攻する。翌天文11年7月2日、頼継は武田氏の諏訪侵攻に与し、諏訪頼重の本拠上原城(長野県諏訪市)へ侵攻する。頼重は武田方に降伏すると同年7月に甲府へ護送され自刃する(『高白斎記』『守矢頼真書留』)。諏訪領は宮川を境に武田氏と分割され頼継は西半分を支配していたが、諏訪氏惣領を志向する頼継は伊那郡福与城の藤沢頼親らと武田領へ侵攻する。しかし同年9月25日には宮川の戦いにおいて武田方に敗退し、諏訪から退去した(『高白斎記』)。武田方はさらに伊那の藤沢頼親や小県郡長窪城の大井貞隆らを攻め、天文14年(1545)4月17日には高遠城も落城し(高遠合戦)、頼継も武田方に降伏し、甲府へ出仕する(『高白斎記』)「高遠合戦」(たかとおかっせん)は、天文13年(1544)から天文14年(1545)に信濃高遠で行なわれた甲斐の武田晴信軍と信濃の高遠頼継軍の合戦である。天文13年(1544)10月、宮川の戦いで武田軍に敗れて高遠に追い込まれていた高遠頼継は、福与城主の藤沢頼親、そして信濃守護で頼親の義兄にあたる小笠原長時の支援を得て再度反攻した。武田晴信は10月16日、諏訪の上原城に入城して諏訪衆や板垣信方と合流し、10月28日に福与城に進軍する。頼親は小笠原軍の将・草間肥前と伊那衆を荒神山砦に入れて守備を固めた。翌日、武田晴信の同母弟の武田信繁軍が荒神山砦に取り付き、11月1日から攻撃を開始した。小笠原勢は砦を捨てて後退し、福与城の後詰と松嶋原で合流し、武田軍の進軍を食い止めた。11月6日、高遠頼継は武田軍主力が福与城を攻めあぐねているのを見て諏訪への進軍を開始。武田晴信は11月8日まで諏訪に滞在して高遠・藤沢らを牽制しようとしたが、2手から迫る敵勢と戦うのは不利と見て、ひとまず諏訪から撤収して甲斐へ帰国した。晴信の帰国を見て、頼継は上諏訪の武田方の屋敷などを焼き払った。天文14年(1545年)4月、武田晴信は主力を高遠攻略に向けた。福与城は小笠原長時の本拠の筑摩郡に近く支援を得やすいが、高遠単独なら問題にならず小笠原の支援も得にくい。4月11日、武田一門の穴山信友ら河内衆や小山田信有の郡内衆らを主力にした晴信は雨中を出陣し、4月14日に上原城に入った。この出陣は終始雨の中だったとされ、4月15日に武田軍は杖突峠を越えて高遠城を奇襲した。悪天候が続いていたため油断していた高遠軍はまさに不意を突かれ、4月17日に頼継は高遠城を放棄して逃走した。後に頼継は武田家に臣従する事になる。高遠陥落に勢いを得た晴信は、4月18日に高遠城に入る。そして4月20日午刻(午前11時から午後1時)に福与城を包囲して攻撃するが、小笠原軍が後詰して4月29日には鎌田長門守が戦死するなど苦戦した。また5月21日からは竜ヶ崎砦を小山田ら郡内衆に攻めさせたが、こちらも苦戦した。だが5月22日には同盟国の今川義元の援軍も到着し、6月になって板垣信方の攻撃により竜ヶ崎砦は陥落した。砦の陥落で福与城で武田軍の攻撃を持ちこたえていた藤沢頼親は気弱になり、穴山信友や小山田信有を通じて晴信との和睦工作を開始した。6月10日には頼親の実弟が人質として穴山信友に引き渡され、福与城は焼却された。これにより諏訪南部の敵勢力は排除された。】 高遠城はその後武田氏により改修され、信濃支配における拠点となる。天文17年(1548年)2月14日、武田方は小県郡の村上義清との上田原の戦いにおいて敗退すると同7月に諏訪西方衆が謀反を起こすなど武田の支配領域では動揺が起こるが(『高白斎記』『勝山記』)、頼継は同年4月3日に甲府から高遠城へ帰城している(『高白斎記』)。その後、再び武田氏に出仕しているが、天文21年(1552年)の下伊那攻めの際に自害させられた。法名は大用普徹大禅定院。それに代わって高遠氏重臣の保科正俊が武田氏に重用されるようになった。高遠氏は従来、頼継の死去をもって滅亡したと考えられていたが、近年は高野山成慶院に伝来する『甲斐国過去帳』の記載から、永禄5年(1562)に諏訪惣領家を継いだと見られていた信玄四男の勝頼が高遠諏訪家を継いでいたことが指摘されている。
2024年04月02日
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信虎は八ヶ岳南麓の山梨県北杜市小淵沢町に笹尾砦を築くなど本国の防備を整えるが、享禄4年(1531)正月12日(もしくは22日)には飯富虎昌(兵部少輔)や栗原兵庫、今井信元ら甲斐の有力国人が信虎から離反し、甲府北方の御岳(甲府市御岳町)において信虎に抵抗した。飯富・栗原らは頼満に援軍を要請し、頼満は甲斐へ兵を進め、笹尾砦を落とした。甲斐ではさらに甲府盆地西部の国人である大井信業も信虎に反旗し、同年2月2日に反信虎の国人衆は信虎勢と衝突して、信虎は国人衆を撃破している。なお、この戦いでは諏訪氏は参加していない。同年4月に頼満は国人衆と合流し、河原部(山梨県韮崎市)において信虎と戦う(河原部合戦)。この戦いにおいて国人衆は大敗し、信虎に服従する。天文4年(1535)9月17日には、佐久郡侵攻を行う武田氏と和睦し、天文9年(1540)11月29日には信虎三女・禰々が諏訪頼重に嫁して同盟関係が強化される。同年12月17日には信虎が頼重を訪問している。天文10年(1541年)5月には信虎や村上義清と小県郡へ出兵し、5月23日の海野平の戦いにおいて滋野一族を撃破する。滋野一族は上野国の関東管領・上杉憲政を頼って亡命する。6月14日、甲斐国で信虎が嫡男・晴信(信玄)より駿河へ追放されるクーデターが発生する。7月4日には上杉憲政が佐久郡へ出兵すると、頼重は武田・村上方に独断で憲政と和睦すると所領を分割する。これにより武田・諏訪間の同盟は破綻する。天文11年(1542)4月4日には頼重と禰々の間に嫡男・寅王丸(長岌)が誕生するが、7月2日には晴信が高遠城主の高遠頼継と結んで、頼重の本拠である上原城を攻める。頼重は桑原城へ敗走するが7月4日に降伏し、甲府へ護送される。頼重は7月21日に甲府の東光寺で自害する。頼重には遺児の寅王がいるが消息が不明で、戦国大名家としての諏訪氏は滅亡している。諏訪地方は武田氏の信濃侵攻において直轄領化され、頼重の弟頼高、満隣の子頼忠が諏訪大祝となっている。武田氏は諏訪氏の他にも征服した信濃名族の名跡を一族に継承させる方策を行っているが、諏訪氏においても頼重の娘・諏訪御料人は信玄の側室となり、天文15年(1546)に四男四郎(武田勝頼)が生まれた。勝頼は諏訪氏の通字である「頼」字を冠し、永禄5年(1562)に諏訪氏を継ぎ伊那高遠城に配置されている。なお、勝頼が継承したのは従来諏訪惣領家であったと考えられていたが、近年は高野山成慶院に伝来する『甲斐国過去帳』が勝頼を高遠頼継の高遠諏訪氏の後継として記していることから、勝頼が継承したのは高遠諏訪氏であったことが指摘される]。「諏訪 頼隆」(すわ よりたか、明応8年(1499)? - 享禄3年4月18日(1530)は、戦国時代の人物・諏訪氏当主・諏訪大社大祝。父は諏訪頼満。弟に諏訪満隣、諏訪満隆など、子に諏訪頼俊、諏訪頼重、諏訪頼高がいる。刑部大輔。父に譲られて諏訪大社大祝(おおほうり)となったが、嫡男の頼重が誕生すると、永正17年(1520)に大祝を頼重に譲っている。享禄元年(1528年)には諏訪郡と接する甲斐国守護の武田信虎が諏訪へ侵攻し、神戸・堺川合戦(長野県諏訪郡富士見町)においてこれを撃退する。享禄3年(1530)に死去した。諏訪大社の神事をめぐる神官同士の対立を仲裁した際に先例を曲げたため神罰が下ったといわれているが定かではない。 「諏訪 頼重」(すわ よりしげ)は、戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。諏訪頼隆の子。宮増丸。刑部大輔。上原城城主。諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。信濃四大将のひとり。永正13年(1516年)、諏訪頼隆の嫡男として生まれる。幼少時には大祝を務めた。のちに大祝職は弟の諏訪頼高に譲っている。父の頼隆は天文8年(1539)12月9日に死去し、頼重は祖父の頼満から後継に指名され、諏訪家の家督を継ぐ。諏訪氏は頼満・頼隆の頃に甲斐の武田氏と抗争し、反武田氏の国人衆と結び甲斐国内へ侵攻していたが、天文4年(1535年)に信虎と頼満は和睦し、天文9年(1540)11月、武田信虎の三女・禰々を娶り、武田家と婚姻関係を結んでいた。天文11年(1542)には嫡男寅王が生まれている。天文10年(1541)5月13日には信虎・村上義清らと連携して小県郡に侵攻し海野氏一族と戦い、5月23日には海野平の戦いで海野棟綱を破り上野国へ追放している。同年6月に甲斐では武田信虎が駿河へ追放され嫡男武田晴信(信玄)が国主となり、晴信は信濃侵攻を本格化させ諏訪郡への侵攻を開始する。晴信は6月、諏訪惣領を志向する伊那郡の高遠頼継ら反諏訪勢と手を結び諏訪郡への侵攻を行い、上原城を攻められた頼重は7月に桑原城で降伏した後、弟の頼高と共に武田氏の本拠である甲府に連行され、東光寺に幽閉された後に自刃する。頼高も自刃し、諏訪惣領家は滅亡した。武田氏は信濃支配において一族に信濃諸族の名跡を継承させ懐柔を行う方策を取っており、諏訪氏においても信玄の四男で諏訪御料人との間に生まれた勝頼が諏訪姓を名乗り名跡を継いでいるが、これは名目的なものであると考えられており、系図類では歴代に数えられていない。大祝職は叔父諏訪満隣の家系が継承し、満隣の子孫は近世に中興され大名となっている。
2024年04月02日
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同年12月に塩尻郷の金屋(現:塩尻市金井)で再び北朝軍に敗れると、ついには宗良親王から離れ、正平11年/延文元年(1356)には、既に足利氏(足利尊氏)に降り室町幕府の奉公衆となっていた一族の諏訪円忠から勧告を受けていたこともあり、尊氏死後の正平13年/延文3年(1358)になってようやく、高梨氏らと共に第2代将軍となった足利義詮に降った。その後以後は義詮に臣従したとされ、早速正平14年/延文4年(1359)12月の義詮による南朝への大攻勢には直頼自身も兵を率いて出陣したと伝わる。但し、その後も小笠原長基と戦うなど、信濃周辺では近隣勢力との抗争が続いた。没年は不明であるが、諏訪氏の大祝職と惣領は諏訪信有の系統に継承され、戦国時代の頼満、頼重に至る。その後、文明16年(1484)には諏訪政満の次男・宮法師丸(伊予守頼満とは別人の諏訪頼満。出家号は「碧雲斎」)が惣領家を継承し、さらに宮法師丸は大祝職に就任することで、惣領家と大祝家の分離も解消された。 「諏訪 頼満」(すわ よりみつ)は、戦国時代の武将。信濃の戦国大名諏訪氏の当主。諏訪政満の子で、諏訪頼重の祖父。]諏訪政満の次男。文明15年(1483)1月8日、一族の諏訪継満(諏訪大社大祝家)・金刺興春(諏訪下社金刺氏)・高遠継宗(高遠氏)の反乱(文明の内訌)によって父の政満と兄の宮若丸を殺されたため、10歳で家督を相続した[1]。成長して永正15年(1518)に金刺興春の子・昌春を萩倉要害に攻めて甲斐に追放し、高遠継宗の子・頼継を降伏させて諏訪地方一帯を統一し、さらに昌春を助ける甲斐の武田信虎とも戦う。享禄元年(1528年)には国境の神戸境川(長野県諏訪郡富士見町)において信虎勢を撃破し、積極的に領国を拡大していった。このように諏訪氏の最盛期を築き上げた頼満は、「諏訪氏中興の祖」と言われた。享禄3年(1530)4月18日、嫡男の頼隆が頼満に先立って31歳で急死し、天文3年には嫡孫の頼重に家督を譲って出家して碧雲斎と名乗る。享禄4年(1531年)には甲斐の国人領主らを後援した河原辺合戦(山梨県韮崎市)で敗退しており、天文4年(1555年)には信虎と和睦する。信虎の娘を頼重に娶わせ、ともに小笠原長棟を攻めた。天文8年(1539)11月、背中に生じた腫瘍の悪化によって67歳で病死した。 7、「戦国時代の諏訪氏」戦国時代には諏訪郡と接する隣国の甲斐国守護・武田氏と争いが活発化する。甲斐守護・武田信昌は諏訪上社の檀那でもあり、寛正5年(1464)4月に信昌は守護代・跡部氏に対抗するため諏訪信満に援軍派遣を要請して。この時は信満とその子・小太郎(政満)、諏訪満有の三男・光有(越前守)らが諏訪一族や佐久郡大井氏らと甲斐へ出兵している。なお、一行は4月5日に諏訪を発しているが、この年の4月13日には御柱祭が予定されていたため、いったん引き返して御柱祭を終え、6月に再び出陣する。一行は6月8日に武田信昌と合流し、7月2日に山梨郡夕狩沢(山梨市上岩下)で跡部景家(上野介)と激突し、跡部氏を本拠の小野田城(山梨市牧丘町)へ追い、滅亡させた。諏訪衆は7月9日に帰国する[44]。寛正6年(1465)12月、武田信昌は跡部氏の残党討伐のため再び諏訪氏に援軍を要請し、信満は12月26日に諏訪衆を甲斐へ派遣する。その後、武田家では信昌の子である信縄と油川信恵との間で内紛が発生し、信昌は信恵方に加担した。信昌はさらに堀越公方の足利茶々丸と結んだため、反茶々丸の駿河国の今川氏、相模国の伊勢氏(後の後北条氏)と敵対した。こうした体外情勢の変化により武田氏と諏訪氏との関係も険悪化したと考えられており、文亀元年(1501)閏6月2日には伊勢宗瑞(北条早雲)が諏訪家臣・千野氏に対して頼満(碧雲斎)に武田氏を挟撃する申し出を行っている。こうして伊勢宗瑞は諏訪氏と結びつつ甲斐東部の都留郡への侵攻を行っているが、一方の諏訪氏側では、『一蓮寺過去帳』によれば延徳4年(1492)9月3日に発生した信昌・信恵と信縄の間で発生した合戦において矢ヶ崎氏が戦死しており、信昌・信恵方に援軍を派遣していたと考えられている。その後、甲斐国では信縄の子・信虎(初名は信直)により甲斐国は統一され、武田氏は戦国大名化する。武田氏は駿河の今川氏と和睦し、大永7年(1527)には信濃佐久郡への出兵を開始する。諏訪氏では永正15年(1518)12月18日に諏訪頼満が下社の金刺昌春の本拠である萩倉要害(下諏訪町)を攻め、昌春を放逐する。 昌春は甲斐へ逃れて武田信虎に庇護され、享禄元年(1528)8月には昌春を擁した信虎は諏訪への出兵を行う。武田勢が8月22日に甲信国境に迫ると、8月晦日に頼満・頼隆父子は甲信国境の神戸境川(長野県諏訪郡富士見町)において、いったんは敗退した。同日夜に諏訪勢は境川に兵を進めると今度は武田勢を駆逐し、勢力を甲斐北西部にまで及ぼした。
2024年04月02日
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この間,直義は南朝と和睦したが,まもなく決裂し,7月末,危機を悟った直義が京都を出奔して,第2次分裂となった。尊氏は南朝と和議を結び,直義追討の綸旨を得て,東国へ逃れた直義を追った。直義は上杉憲顕らに迎えられ鎌倉で政務をとったが,翌年2月死んだ。尊氏と直義の対立は,直義の死によって終ったが,直義の養子直冬 (→足利直冬 ) を中心とした直義党が残っており,南朝の動きとあわせて内乱は持続】 正平6年/観応2年(1351年)1月、関東管領・高師冬が直義と対立して関東を追われ甲斐・須沢城(現・山梨県南アルプス市大嵐)に逃ると、これを包囲して自害に追い込んだ。この様子は、市河氏の惣領・市河頼房の代理として直頼軍に加わった市河泰房(頼房の甥)が、師冬を攻め落とした軍功により直頼の証判を得たことを示す「市河頼房代泰房軍忠状」や、同じく市河氏一門の市河経助が証判を得たとする「市河経助軍忠状」(ともに同年3月)で確認することができる。また、同年には直頼に属した同じく市河氏一門の市河親宗(かつて高師泰に属していた)らと共に、守護・小笠原政長を攻め舟山郷(現在の長野県千曲市小船山あたり)にあった守護館を放火し、さらに守護代小笠原兼経らの守る筑摩郡放光寺を攻めたとの史実も伝わっている。この時、政長は尊氏の命で上洛しており、留守であった。その後まもなく、師冬の養父の高師直など、直義派の政敵であった高氏一族がほぼ殺害されたことで尊氏・直義両派に平穏が戻ったかのようにみえたが、同年6月には直頼の代官であった祢津宗貞(禰津宗貞/根津氏)が、北朝方(尊氏派)についていた高梨経頼(高梨氏)・小笠原為経・小笠原光宗(ともに小笠原氏一門)と野辺原(現長野県須坂市野辺)や善光寺横山城(現長野市城山)にて一戦を交えるなど、信濃国内では南北朝の対立が続いた。直義が守護の任免権も掌握すると、直頼が信濃守護に補任され、直義が北陸に逃亡するまでその地位にあった。守護代として宗貞が幕府から水内郡太田荘における信濃島津氏・高梨氏の地頭職権の濫用を停止させるよう命じられている。一方京都では、尊氏・義詮父子が南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令が出され、尊氏・直義両派は再び分裂、義詮の補佐として一旦政務に復帰していた直義は京都を脱出する。最終的には北陸を経由して鎌倉へ向かうことになるが、同年7月晦日の直義の北国落ちに際しては「諏訪信濃守」が付き従っており、『太平記』でも途中「無二の味方」として諏訪氏を頼り、信濃に立ち寄ったとしている。直義死後から室町幕府に恭順するまで正平7年/文和元年2月26日(1352)に直義は鎌倉にて急死するが、その後も旧直義派および南朝方の姿勢を変えず、信濃に拠っていた後醍醐天皇の皇子、信濃宮宗良親王に従って、笛吹峠・小手指原などで尊氏軍と戦う(武蔵野合戦)がいずれの合戦でも敗北。更にその後の正平10年/文和4年(1355)8月の桔梗ヶ原の戦い(於:桔梗ヶ原)でも北朝・尊氏方の武田信春、小笠原政長・長基父子らに敗れ、信濃国内における南朝勢の衰退は決定的となっていた。 「武蔵野合戦」(むさしのかっせん)は、南北朝時代の観応の擾乱直後に発生した合戦。正平7年/文和元年(1352)閏2月から3月にかけて、武蔵国・相模国(現、東京都・埼玉県・神奈川県)の各地において、足利尊氏ら北朝方の軍勢と、新田義興・新田義宗ら南朝方の軍勢との間で行われた一連の合戦である。正平6年/観応2年(1351)、観応の擾乱により北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂し、激しい戦いを繰り返した。尊氏は南朝と和睦し、鎌倉の足利直義を攻撃する。年末に駿河で行われた両軍による薩埵峠の戦いに勝利した尊氏は翌1352年直義を降伏させ、鎌倉に入った。直義は2月に急死したが、『太平記』では、この急死に関して「毒物を口にして亡くなったという変死(もしくは毒殺)のうわさ話」があった、と記している。正平7年/文和元年(1352)、南朝方の北畠親房は、北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる。閏2月15日、新田義貞の遺児新田義興・義宗は、鎌倉奪還を目指し、従兄弟の脇屋義治や南朝に降伏していた北条時行らとともに、上野国で挙兵した。また同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵した。新田義興ら南朝勢は、鎌倉街道を南下した。南朝勢には、尊氏に反発する直義派の武将も多く参加したと言われる。尊氏は鎌倉を出て武蔵国狩野川に布陣し、南朝勢を迎え撃つ構えを見せた。南朝勢は閏2月18日に鎌倉を占領したが、閏2月20日金井原(東京都小金井市)および人見原(東京都府中市)にて足利勢と合戦(人見ヶ原の合戦)を行った。双方とも相当の損害を出したと言われる。尊氏は、武蔵国石浜(東京都台東区。場所には諸説あり)に撤退し、勢力の回復を図る。新田義宗は笛吹峠(埼玉県鳩山町嵐山町境)に陣を敷き、宗良親王ら信濃勢や直義派であった上杉憲顕と合流した。閏2月28日、足利勢と新田勢は、高麗原(埼玉県日高市)・入間河原(埼玉県狭山市)・小手指原(埼玉県所沢市)で合戦となったが、足利勢が勝利した。敗れた義宗は越後方面、宗良親王は信濃方面に落ち延びた。一方、新田義興・脇屋義治・北条時行は三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉を占領したが、義宗勢の敗北を知り持ちこたえられないと判断したため、3月2日鎌倉を脱出し、相模国河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もった。3月12日、尊氏は鎌倉を奪還した。敗れた義興と義治は越後に逃亡するが、北条時行は鎌倉付近で足利基氏の手の者に捕らえられ、翌1353年に龍ノ口にて処刑された。】
2024年04月02日
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「中先代の乱」(なかせんだいのらん)1335年(建武2)、北条高時(たかとき)の遺児時行(ときゆき)が鎌倉幕府再興を企図し、建武(けんむ)政府に対して起こした乱。鎌倉時代の北条氏を「先代(せんだい)」、室町幕府の足利氏を「当代(とうだい)」とよぶのに対し、時行を「中先代」ということから、このように称される。鎌倉幕府滅亡の直後から北条氏与党の反乱が各地で頻発した。そのようななかで33年(元弘3・正慶2)6月、後醍醐(ごだいご)天皇を暗殺しようとする北条高時の弟泰家(やすいえ)(時興(ときおき)と改名)、西園寺公宗(さいおんじきんむね)の陰謀が発覚した。この計画に呼応するはずであった時行は、翌月諏訪頼重(すわよりしげ)らとともに信濃(しなの)で挙兵。守護小笠原貞宗(おがさわらさだむね)の軍を破り、女影原(おなかげはら)(埼玉県日高市)、小手指ヶ原(こてさしがはら)(埼玉県所沢市)、府中(ふちゅう)(東京都府中市)において足利軍と戦い、井出沢(いでのさわ)(東京都町田市)においては、直義(ただよし)軍を撃破した。25日、故地鎌倉を奪還、公文所(くもんじょ)を設置した。しかし直義軍の援助のため京都から下ってきた尊氏(たかうじ)に、橋本(静岡県浜名郡)、箱根、相模(さがみ)川などの戦いに敗れ、8月19日、わずか20日ばかりで鎌倉を奪われた。このことから、「二十日先代の乱」ともよぶ。諏訪頼重は自刃。時行は逃れた。これにより鎌倉入りした尊氏は、たび重なる後醍醐天皇の上洛(じょうらく)命令に従わず、征夷(せいい)大将軍を自称し、建武政権に謀反、足利政権樹立の第一歩を踏み出した。】 その後の諏訪氏諏訪氏は存続を許されたものの(同族で室町幕府に降っていた諏訪円忠(『諏方大明神画詞』の著者)の嘆願があったと考えられている)、大祝職を継承した子の頼継は南北朝の争乱が勃発すると足利氏への対抗上、南朝に与するが敗れ没落し、諏訪氏の大祝職と惣領は頼継の弟の信継の系統が引き継いだ。信継の子である直頼も南朝方および観応の擾乱時に南朝に降った足利直義派の武将として尊氏派と抗争したが、やがて信濃国内における南朝勢力の衰退を悟り、同じく諏訪円忠の勧告もあって北朝・室町幕府方へ降った。直頼の嫡子・信有の家系は、戦国時代の頼満、頼重に至る。また、時継の子の継宗(異説では頼継)は、諏訪氏の有力支族である高遠氏の祖とされる。「諏訪 直頼」(すわ ただより、生没年不詳)は、南北朝時代の武将、諏訪氏当主、諏訪大社の諏訪大社大祝(神官)、信濃守。信濃国守護。諏訪信濃守についてこの頃の諏訪氏は、頼重・時継父子が建武2年(1335年)7月の中先代の乱で北条時行を擁して敗死し没落しており、大祝職と惣領は時継の遺児・頼継(よりつぐ)が継いだとされる。この頼継は、翌建武3年(1336)の段階で8歳であったと伝わり、これを信ずるならば一般的な元服の年齢である10代前半当時は正平5年/貞和6年(1350)頃であったということになる。その頃、正平6年/観応元年(1351)12月15日には諏訪社神長官守矢氏への祈願を依頼する「信濃守頼嗣」が、翌正平7年/文和元年(1352)1月の小笠原政長の書状の文中に「信濃守直頼」が、それぞれ史料(古文書)上で確認できる。これらが「信濃権守」を称したとされる頼継と同じ「信濃守」の官途を持っていることから、頼継・頼嗣・直頼はいずれも同一人物ではないかとする見解がある。諏訪系図の一部でも「信濃権守頼継」の項に「改頼嗣又頼寛又直頼」とあり、観応元年12月まで「頼嗣」を名乗っていた人物は、翌年1月までの僅かな期間内に「直頼」と改名した可能性がある。その活動や改名時期からして「直」の字は足利直義の偏諱を受けたものと考えられている[5]。直義党として正平4年/貞和5年(1349)から翌正平5年/貞和6年(1350年)にかけて善知鳥峠にて信濃守護の小笠原政長と戦った。同じ頃、足利一族の内部で尊氏派と直義派が分裂・対立して観応の擾乱が起こり、やがて足利直義が南朝に降ると、南朝方であった頼嗣(直頼)もこれに味方し、前述の通り「直」の偏諱を賜って改名した。その後も信濃国における直義党の武将として、北朝方(尊氏派)であった近隣の小笠原氏(政長)と戦い続けた。「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)南北朝時代,将軍足利尊氏と弟直義 (→足利直義 ) の間に起った争い。観応期 (1350~1352) を中心に,室町幕府の権臣高師直 (こうのもろなお) と足利直義の対立が原因。これは南朝との関係もからんで全国的規模の争いに発展した。幕初においては尊氏は武家の棟梁として主従制的支配権を握り,直義は政務の総括者として統治権を握っていた。しかし,この二頭政治が,兄弟2人の性格の相違から微妙に対立しはじめた頃,きわめて個性の強い高師直が尊氏の執事として幕政に重きをなすようになり,直義との対立を深めていった。正平3=貞和4 (1348) 年正月,河内の四條畷の戦いを契機に直義と師直の対立は急速に激化し,やがて直義と尊氏の抗争に進展し,幕府は両党分裂に陥った。翌年,直義は尊氏に迫り,先を制して師直の執事職を罷免させた。これに続いて師直はクーデターを起し,直義の地位は義詮に譲られ,師直は執事に返り咲いた。正平5=観応1 (1350) 年 10月,直義党の挙兵によって第1次分裂が起った。戦いは直義に有利に展開し,翌2年2月,師直らの出家を条件に和議が成立したが,師直は上杉能憲に殺された。
2024年04月02日
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『太平記』には、自害した人々は83人の北条一族と家臣、後に続いた兵を合わせて総数870人余人とあるが、文学的誇張もあると推察される。高時らの自害を知った安東聖秀らもまた、降伏勧告を拒絶して市中で自害した。東勝寺合戦をめぐる伝承現在の東勝寺の旧跡の北方には「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらが存在している。東勝寺旧跡での発掘調査では三つ鱗の入った瓦などが見つかるものの遺骨の発見はなく、新田勢や時宗の僧らによって遺体が処理されたと考えられている。腹切りやぐらは、その名称から東勝寺での戦死者と何らかの関係があるとされていて、今でも供養会では卒塔婆が立てられる。ただ高時の首塚を伝えるやぐらは、各所に存在する。鎌倉でのこの戦闘の後、この地で死んだ北条一族を弔うため、足利尊氏によって宝戒寺が建てられた。宝戒寺の地は、もとの北条得宗家邸の地である。鎌倉市浄明寺の釈迦堂谷奥山頂部には、「宝戒寺二世普川国師入定窟」と伝える巨大なやぐらを中心に釈迦堂奥やぐら群と称する多数のやぐら群が存在した。やぐら群には多量の生焼けの人骨があった。昔から東勝寺での戦死者の遺体をこのやぐら群に葬ったとの伝承があった。昭和40年代の宅地開発の際にやぐらが破壊され、「元弘三年五月廿八日」の銘のある五輪塔の一部が発見された。まさに東勝寺合戦の初七日の供養をしめすものであり、伝承が事実であったことがわかった。やぐら群は昭和40年頃に宅地造成によって主要部が破壊されたが、一部は現存しているという。】 系譜について諏訪直性の系図上での位置、すなわち直性の実名(諱)については、細川重男による考証がある。細川の見解としては、『系図纂要』等の「諏訪系図」には、盛経の子として諏訪宗経ほか数名が掲載されているが、宗経に関しては比較的信憑性が高いとされる『尊卑分脉』にも記されているので実在した人物と判断し、その名乗りが幕府執権・得宗家当主の北条時宗と父・盛経よりそれぞれ一字を受けているものとみられることから、宗経が盛経の嫡子、すなわち後継者としての地位を認められた存在であったとされ、従って同じく盛経の後継者であったとされる直性と同一人物とみなしている。加えて、妻が北条貞時娘の乳母を勤めている[7]ことから、宗経は貞時のほぼ同世代人であり、更に『太平記』の記事中で摂津親鑑を「若者」、直性自身を「年老」と称している場面が見られるため、直性を宗経の子とする[9]よりは、宗経と同世代人、或いは同一人物とみなす方が妥当との見解も示している。直性は左衛門、左衛門入道と、『系図纂要』によれば宗経は三郎、信乃守(信濃守)を称したとされている。ちなみに、細川はその後の研究で直性の実名を諏訪宗秀(むねひで)と訂正しているが、『武家年代記裏書』や『尊卑分脉』・『系図纂要』・『寛政重修諸家譜』等の「諏訪系図」と、前述の「宗経」の名が複数箇所に見られるのは無視できないであろうから、特に誤りでなければ宗経と直性の間に名乗っていた諱とみるべきである。尚、宗経(直性)の息子については、『系図纂要』では頼重(初め盛隆)・弘重・盛時・盛世が掲載されているのに対し、細川が示した見解によれば、新左衛門尉某と盛高(通称:三郎)が挙げられている。主な活動時宗とは烏帽子親子関係を結び、また貞時の娘の乳母夫でもあったという縁故から鎌倉幕府内における影響力も高かった。正安元年(1299)に侍所の職員、翌2年(1300)には越訴奉行に任じられるほか、公文所奉行人、鶴岡八幡宮別当も歴任し幕府の枢機に参画する。徳治2年5月4日(1307)、円覚寺での北条時宗忌日斎会では八番衆筆頭を務める。元亨3年10月26日(132)、9代執権北条貞時の十三回忌法要の折には、銭百貫と徳行品を調進している。正慶2年/元弘3年(1333)、他の北条一門や被官と共に幕府の滅亡に殉じた。 「諏訪 頼重」(すわ よりしげ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。諏訪大社の諏訪大社大祝とされるが不詳。諏訪盛重または諏訪宗経(直性入道)の子。鎌倉時代において、諏訪氏は代々信濃守護の北条氏の御内人であった。東勝寺においては諏訪一門の諏訪時光(円光入道)が自刃している。鎌倉幕府滅亡後、建武政権によって新たに信濃守護に任じられた小笠原貞宗と諏訪氏とは対立関係になり、小笠原氏の支配に対する不満もあって、やがて頼重・時継父子は得宗北条高時の遺児時行を奉じ、中先代の乱を起こした。頼重は三浦氏などの援助により、渋川義季、岩松経家、今川範満、小山秀朝などを敗死させ、ついには足利直義を逃走させ、鎌倉を一時占領するが、京より派遣された木曾(沼田)家村率いる追討軍に大敗し、頼重は子・時継ら43人と勝長寿院で自刃した。諏訪家の家督(大祝職)は、孫の頼継(時継の子)が継承した。 「諏訪 時継」(すわ ときつぐ、生年不詳 - 建武2年8月19日(1335)は鎌倉時代から南北朝時代の武将。諏訪頼重の子。諏訪頼継(よりつぐ、諏訪大社大祝)、諏訪継宗(高遠氏祖)、諏訪信継(のぶつぐ)の父。安芸守。諏訪大社の大祝であったが、父の頼重が北条時行を擁し中先代の乱を起こした際に、子の頼継に大祝職を譲っている。足利尊氏の追討軍に敗れ、父とともに勝長寿院で自刃した。
2024年04月02日
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激闘のすえ、泰村は頼朝(よりとも)の墓所法華(ほっけ)堂に退き、永福(ようふく)寺で防戦していた光村もこれに合流し、一族276人、郎従家子(ろうじゅういえのこ)220人が同時に腹を切って自害した。首は翌日由比(ゆい)ヶ浜にかけられ、姻戚関係のある千葉氏もまた没落した。こうして時頼の独裁体制が確立した】 建長3年(1251)、幕府への謀叛を画策した了行法師、長久連、矢作左衛門尉らの尋問を担当し、文応2年/弘長元年(1261)には宝治合戦で滅んだ三浦氏の残党である三浦義村の子良賢(僧籍)を捕縛した。宝治2年(1248)、北条時輔が誕生すると、その乳母夫となったが、6月10日に指名されたあとも辞退を続け、7月9日に至り初めてその役割を務めている。庶子である時輔を後見しても、恩恵に浴すどころかむしろ自分の立場が危うくなるという認識が幕臣達の間に通底していたことを示唆していると網野善彦は指摘している。ただし、この時点で嫡子北条時宗はまだ誕生していないので、それほどの恐怖感が盛重にあったかどうかは疑わしい。上記以外の事績としては、建長3年(1251年)に風伯祭の奉行を勤めたこと、同5年(1253)に泰時追福を祈願して山内に堂を建立したことなどが『吾妻鏡』に記載されている。「諏訪 直性」(すわ じきしょう)は、鎌倉時代末期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。同一人物とされる諏訪宗経(すわ むねつね)についても本項にて取り上げる。政治的地位について「諏訪直性」なる人物は『太平記』に正慶2年/元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)時の自害者の一人として掲載されているほか、『公衡公記』(西園寺公衡の日記)にも正和4年(1315)3月8日の鎌倉大火で被害に遭った政権の要人の一人として確認することができる。得宗宛披露状の宛名人となっていることや、得宗家公文所奉書で同じく得宗被官の長崎氏に次いで奉者第二位を務めていること、また法名に「性」の字を持つことが諏訪盛経(法名は真性)と共通しており、直性は盛経の直系卑属、或いはこれに準じた後継者と考えられている[4]。「東勝寺合戦」(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いで、鎌倉幕府は滅亡した。東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。1331年(元弘元年、元徳3年)8月、後醍醐天皇が笠置山で挙兵、これに応じて楠木正成も河内で挙兵して、元弘の乱が始まる。幕府は鎮圧の兵を上らせ、上野国の御家人新田義貞も加わった。9月には笠置山が陥落し、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐へ配流とされた。1333年(元弘3年、正慶2年)、楠木勢は千早城で再挙し、幕府の大軍を相手に奮戦する。これに触発されて播磨では赤松則村(円心)が蜂起し、伊予でも反乱が起こる。幕府はさらに北条一族名越高家と下野国の有力御家人、足利高氏に大軍を率いさせて西国に派遣する。閏2月には後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山に拠り、4月には高氏が篠村八幡において幕府に反旗。足利勢らは京都の六波羅探題を滅ぼし、都を制圧する。5月、上野へ帰った義貞は生品明神において挙兵し、東山道を西進して鎌倉進撃を開始した。新田軍は一族や周辺豪族を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて武蔵へ進む。鎌倉を脱出した高氏の嫡子である千寿王と合流、鎌倉街道を進む。幕府側では北条泰家らを迎撃のために向かわせるが、入間川と久米川(現東京都東村山市)での合戦で敗退し、分倍河原の戦い(現東京都府中市)でも敗れた。新田軍は鎌倉へと迫った。各地で敗走した鎌倉勢は、鎌倉の七切通しを封鎖。新田勢は関口を本拠に、小袋坂、化粧坂、極楽寺坂の三方から攻撃することとし、義貞はそれぞれの指揮を執る将を新田一族で固めた。小袋坂は山側で鎌倉勢の執権・赤橋守時が守るのに対し新田勢は堀口貞満らが攻めた。中央の化粧坂には金沢貞将に対し新田義貞、脇屋義助が率いる主力が攻める。七里ヶ浜に面する海側の極楽寺坂は大仏貞直が守り、大舘宗氏らが攻めた。戦いは膠着し、小袋坂では当時の執権赤橋守時(北条守時)を自害させたが、極楽寺坂では指揮を執る大舘宗氏が戦死するほど苦戦する(。義貞は切通しの突破を諦めて、干潮を利用しての稲村ヶ崎から海岸線ルートでの鎌倉侵攻を試みる(室町時代に成立した軍記物語『太平記』によれば、義貞が海神に祈願すると潮が引き、新田勢は由比ヶ浜へ進入、鎌倉へ進攻できたとされる)。背後を突かれた形となった幕府軍は鎌倉市街や切通しなどで大仏貞直、大仏宣政、金沢貞将、本間山城左衛門、そして他に第13代執権の普恩寺基時(北条基時)などが戦死した。北条高時らは東勝寺に追い詰められ自害した。『太平記』によれば寺に篭った北条一族と家臣は、長崎高重、摂津道準、諏訪直性ら北条被官から順にそれぞれ切腹、最後に高時、舅の安達時顕と自害したという(内管領の長崎高資、その父長崎円喜、第15代執権の金沢貞顕(北条貞顕)など)。
2024年04月02日
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6、「室町時代の諏訪氏」室町時代には応永4年(1397)10月に諏訪有継が大祝となるが、4年後に下位すると、文明16年(1484)12月には頼満(碧雲斎)が大祝職となるまで惣領家が大祝職に就くことが途絶える。さらに文安6年(1449)には諏訪氏と下社金刺氏との抗争も発生し、これは信濃守護・小笠原政康(府中小笠原氏)が介入する事態となった。政康は金刺氏を後援したため、諏訪惣領家は政康と小笠原家惣領職を争う松尾小笠原氏と結んで勢力を拡大し、これにより諏訪大祝家との内訌も激化する。康正2年(1456)には諏訪惣領家の信満と諏訪大祝家の頼満(伊予守、前述の碧雲斎とは別人)兄弟が衝突する「芸州・予州大乱」が発生する。この乱はまもなく沈静化するが、信満は居館を上原に移転している。大祝家で頼満(伊予守)の子・継満が大祝職に就き、義兄にあたる高遠継宗や松尾小笠原氏と結び台頭した。継満は、文明11年(1479)に府中小笠原氏が松尾小笠原氏を攻めると、一時的に大祝職を辞して松尾小笠原氏後援のために出陣し、帰還後に再び大祝となっている。これに対し、諏訪惣領家では信満の子・政満が府中小笠原氏と和睦してこれに対抗した[40]。文明15年(1483)正月8日には継満が政満とその子・若宮丸、政満弟の原田小太郎らを神殿に招いて酒宴を催し、その場で暗殺するクーデターが発生する。この事件により諏訪一族は反抗に出て、継満を干沢城(茅野市宮川)へ追い込み、さらに高遠へ追放する[。また、継満父の頼満(伊予守)もこの時に討ち取られており、下社金刺氏も駆逐された。継満のクーデターから生き残った政満の次男・宮法師丸(頼満(碧雲斎))は文明16年(1484)12月に諏訪惣領家を継承し、さらに大祝職についた。碧雲斎の時代に諏訪郡を統一し、大祝家を滅ぼし惣領家が大祝をも務め祭政一致の下、武力と権威を強めていった。 「諏訪 盛重」(すわ もりしげ)は、鎌倉時代中期の武士、諏訪社諏訪大社大祝職・北条氏得宗被官である御内人。嘉禎2年(1236)以降に出家して蓮仏入道と号し、『吾妻鏡』においてはこちらの名前で登場することが多い。承久3年(1221)に勃発した承久の乱の際、大祝として北条義時の戦勝を祈願すると共に、長男の諏訪信重を上洛させており、戦後間もなくして被官として北条泰時に出仕した。泰時の側近として活躍し、『吾妻鏡』にも頻繁にその名が見られる。嘉禎2年(1236)に泰時の邸宅が新造されると、盛重は尾藤景綱と共に御内人としてその敷地内に屋敷を構えており、泰時の信頼の篤さを伺わせる。得宗被官のまとめ役としての立場にあったらしく、北条時頼の使者として朝廷との折衝にあたることも多く、宝治元年(1247)、宝治合 戦直前には、すわ合戦かと全国より輻輳する武士達を時頼の代理人として鎮定し退散させている。北条一門や安達氏といった外戚など、得宗に親しい一部の首脳陣(のちの寄合衆)のみの協議である「深秘の御沙汰」にもしばしば参加した。盛重の幕府に対する貢献は高かった。寛喜2年(1290)、鎌倉中で騒動が起こった際には尾藤景綱と共にこれを鎮定し、同年の和賀江島が完成した際にも景綱と共に巡検を担当。文暦2年/嘉禎元年(1235)、源頼朝の霊廟がある法華堂近くの湯屋からの火災の際には、湯屋と法華堂の間にある家屋を迅速に取り壊して消火活動を行い、法華堂への類焼を食い止めた。寛元4年(1246)閏4月の宮騒動では北条光時らの謀議を事前に阻止したことにも寄与し、宝治合戦でも得宗被官の統率役として抜群の勲功を挙げ、時頼から「無双の勲功」と称えられたという。「宝治合戦」(ほうじかっせん)1247年(宝治1)6月、鎌倉で起きた北条氏と三浦氏との戦い。三浦氏の乱ともいう。三浦氏は1213年(建保1)の和田合戦の際にも、同族の和田氏を見捨てて北条氏に荷担するなど、北条氏と密接に提携してきており、三浦泰村(やすむら)の代には姻戚(いんせき)関係も結んでいた。ところが1248年(寛元4)北条時頼(ときより)が執権に就任すると、北条氏の支流名越光時(なごしみつとき)は、前将軍九条頼経(くじょうよりつね)を擁して、時頼から執権の地位を奪おうとした(宮騒動)。これに泰村の弟光村(みつむら)もかかわっていたため、両者の間に疎隔が生じ始め、また三浦氏を挑発するような讒訴(ざんそ)もたび重なっていた。このような状況を打開するため、時頼は5月7日、泰村の次男駒石丸(こまいしまる)を養子とする約束を結び、ついで6月5日には万年馬入道(まんねんうまにゅうどう)・盛阿(せいあ)(平盛綱(もりつな))に誓紙を持たせて和談を成立させた。一方、北条氏の外戚で三浦氏と勢力を競っていた安達景盛(あだちかげもり)(覚智(かくち))は、事態の推移が安達氏に不利とみて、同日、子の義景(よしかげ)と孫の泰盛(やすもり)に命じて300余騎で不意に三浦邸を襲わせた。泰村がこれを時頼の襲来と判断して応戦したため、ついに戦端が開かれることとなった。これを聞いた時頼も、やむなく北条実時(さねとき)に幕府を守らせ、北条時定(ときさだ)を大手の大将軍として500騎をもって三浦邸を襲い、火をかけた。
2024年04月02日
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文和4年/正平10年(1355)8月には桔梗ヶ原(塩尻市)において信濃守護・小笠原長基や下社金刺氏、仁科氏らと衝突し、北朝方に敗れ、信濃における南朝は衰微した(桔梗ヶ原の戦い)。上社諏訪氏が南朝方に帰属し続けたのに対し、下社金刺氏は北朝方に属して上社と下社が分裂し、この争いは戦国時代まで続く。正平24年(1369年)10月には、諏訪貞信(俗に楠十郎)が、南朝の有力武将で伊勢国司の北畠顕能の被官として楠(現在の三重県四日市市楠町)の楠山城と配下300騎を賜って伊勢諏訪氏となり、俗にいう北勢四十八家の一つ楠家を構成した(#伊勢諏訪氏)。応安5年(1372年)には諏訪頼貞が北朝の将軍・足利義満に服属し[34]、大祝職は頼継の弟である信嗣が継承し、頼継の子・信員の一族は伊那郡高遠へ移り、高遠諏訪氏となった。 「諏訪 盛重」(すわ もりしげ)は、鎌倉時代中期の武士、諏訪社諏訪大社大祝職・北条氏得宗被官である御内人。嘉禎2年(1236)以降に出家して蓮仏入道と号し、『吾妻鏡』においてはこちらの名前で登場することが多い。承久3年(1221)に勃発した承久の乱の際、大祝として北条義時の戦勝を祈願すると共に、長男の諏訪信重を上洛させており、戦後間もなくして被官として北条泰時に出仕した。泰時の側近として活躍し、『吾妻鏡』にも頻繁にその名が見られる。嘉禎2年(1236)に泰時の邸宅が新造されると、盛重は尾藤景綱と共に御内人としてその敷地内に屋敷を構えており、泰時の信頼の篤さを伺わせる。得宗被官のまとめ役としての立場にあったらしく、北条時頼の使者として朝廷との折衝にあたることも多く、宝治元年(1247)、宝治合戦直前には、すわ合戦かと全国より輻輳する武士達を時頼の代理人として鎮定し退散させている。北条一門や安達氏といった外戚など、得宗に親しい一部の首脳陣(のちの寄合衆)のみの協議である「深秘の御沙汰」にもしばしば参加した。盛重の幕府に対する貢献は高かった。寛喜2年(1230)、鎌倉中で騒動が起こった際には尾藤景綱と共にこれを鎮定し、同年の和賀江島が完成した際にも景綱と共に巡検を担当。文暦2年/嘉禎元年(1235)、源頼朝の霊廟がある法華堂近くの湯屋からの火災の際には、湯屋と法華堂の間にある家屋を迅速に取り壊して消火活動を行い、法華堂への類焼を食い止めた。寛元4年(1246)閏4月の宮騒動では北条光時らの謀議を事前に阻止したことにも寄与し、宝治合戦でも得宗被官の統率役として抜群の勲功を挙げ、時頼から「無双の勲功」と称えられたという。「宝治合戦」(ほうじかっせん)宝治1(1247) 年執権北条時頼が三浦氏一族を滅ぼした合戦。寛元4 (1246) 年鎌倉幕府執権となった時頼は,前将軍九条頼経を立てて幕府の実権を奪おうとした名越光時らの陰謀を打ち破り,光時を出家させ伊豆に流し,頼経を帰京させた。さらに翌宝治1年時頼は,評定衆三浦泰村がこの陰謀に加盟していたとして,幕府内では北条氏と並んで勢力のあった三浦氏を挑発,謀略を用いて戦闘に持込み,ついに泰村以下一族近親五百余人を鎌倉法華堂に自殺させた。この戦いの結果,幕府内の北条氏の独占的地位が確立した。】 建長3年(1251)、幕府への謀叛を画策した了行法師、長久連、矢作左衛門尉らの尋問を担当し、文応2年/弘長元年(1261)には宝治合戦で滅んだ三浦氏の残党である三浦義村の子良賢(僧籍)を捕縛した。宝治2年(1248)、北条時輔が誕生すると、その乳母夫となったが、6月10日に指名されたあとも辞退を続け、7月9日に至り初めてその役割を務めている。庶子である時輔を後見しても、恩恵に浴すどころかむしろ自分の立場が危うくなるという認識が幕臣達の間に通底していたことを示唆していると網野善彦は指摘している。ただし、この時点で嫡子北条時宗はまだ誕生していないので、それほどの恐怖感が盛重にあったかどうかは疑わしい。上記以外の事績としては、建長3年(1251年)に風伯祭の奉行を勤めたこと、同5年(1253)に泰時追福を祈願して山内に堂を建立したことなどが『吾妻鏡』に記載されている。 「諏訪 頼重」(すわ よりしげ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。諏訪大社の諏訪大社大祝とされるが不詳。諏訪盛重または諏訪宗経(直性入道)の子。鎌倉時代において、諏訪氏は代々信濃守護の北条氏の御内人であった。東勝寺においては諏訪一門の諏訪時光(円光入道)が自刃している。鎌倉幕府滅亡後、建武政権によって新たに信濃守護に任じられた小笠原貞宗と諏訪氏とは対立関係になり、小笠原氏の支配に対する不満もあって、やがて頼重・時継父子は得宗北条高時の遺児時行を奉じ、中先代の乱を起こした。頼重は三浦氏などの援助により、渋川義季、岩松経家、今川範満、小山秀朝などを敗死させ、ついには足利直義を逃走させ、鎌倉を一時占領するが、京より派遣された木曾(沼田)家村率いる追討軍に大敗し、頼重は子・時継ら43人と勝長寿院で自刃した。諏訪家の家督(大祝職)は、孫の頼継(時継の子)が継承した。
2024年04月02日
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5、「鎌倉・南北朝時代の諏訪氏」鎌倉時代の当初は幕府の御家人だった諏訪氏も、幕府の実権を握った北条得宗家の被官(御内人)となり、北条氏の庇護を受けた諏訪大社も、頼朝の崇敬を受けていたこともあって東国の武神としての評判が高まり、全国から勧請されるようになった。承久の乱では諏訪盛重の子で大祝の信重が初めて諏訪郡外に出兵し、東山道を進軍する幕府軍の検見役を務めた。また盛重は寛元4年(1246)の宮騒動や宝治元年(1247)の宝治合戦で活躍し、北条時頼から「無双の勲功」を称えられ、諏訪盛経は内管領を務めた。「宮騒動」(みやそうどう)は、鎌倉時代の寛元4年(1246)閏4月に起きた、北条(名越)光時の反乱未遂および前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放された事件。年号を取って寛元の乱、寛元の政変ともいう。北条氏内部の主導権争いと北条氏に反感を抱き将軍権力の浮揚を図る御家人たちの不満が背景にあり、この事件により第5代執権・北条時頼の権力が確立され、得宗(北条家嫡流)の専制権力への道を開いた。宮騒動と称される理由は『鎌倉年代記裏書』で「宮騒動」と号すとあるためだが、「宮」を用いる由来は不明。事件の背後にいた九条頼経は九条家の一族で「宮」と称されることはあり得ず、結果的にこれより6年後に摂家将軍の追放と親王将軍の誕生へとつながったためではないかとされる。仁治3年(1242)、第3代執権・北条泰時が死去する。嫡子時氏、次子時実はすでに死去していたため、時氏の子・経時が執権職を嗣ぐこととなったが、すでにこの頃、北条家は庶流が多く分立しており、経時の継承に対して不満を持つ者も少なくなかった。特に庶長子であった泰時に対し正室腹の次弟・北条朝時を祖とする名越家は北条氏嫡流(のち得宗と呼ばれる)への対抗心が強く、名越光時らは不満を募らせていた。一方、幼少時に鎌倉へ下向し、執権北条家の傀儡となっていた4代将軍・藤原頼経も成年に達し、自ら政権を握る意志を持ち、反執権勢力の糾合を図っていた。これに危険を感じた経時は、寛元2年(1244)に頼経を将軍の座から降ろし、子の頼嗣を擁立した。しかし、頼経はその後も鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けた。経時はその後、重病となり寛元4年(1246年)3月、弟・時頼に執権職を譲った直後、閏4月に23歳の若さで死去する。事件の経緯経時の死を好機と見た名越光時は、頼経や頼経側近の評定衆の後藤基綱・千葉秀胤・三善康持ら反執権派御家人と連携し、時頼打倒を画策するが、時頼方が機先を制した。閏4月18日深夜より3夜連続して、鎌倉市中に甲冑をつけた武士が群集し、流言が乱れ飛ぶ事件が起きる。これが頼経・光時側を混乱に陥れた。5月24日深夜に起きた地震の翌朝25日、時頼は鎌倉と外部の連絡を遮断した。これらの動きにより光時らは陰謀の発覚を悟り、弟時幸とともに出家し、降伏した。翌日、時頼の私邸に北条政村・北条実時・安達義景が集まり、頼経派御家人たちへの対応を協議したが、去就を曖昧にしていた大豪族三浦泰村の動きがまだ不明であったため、速やかな処断を行うことはできなかった。6月1日、名越時幸は自害し、6日泰村の弟・家村が時頼私邸を訪れ、恭順の意志を示したため、時頼方の勝利が確定した。頼経側近の後藤基綱・千葉秀胤・三善康持らは罷免、また光時も所領を没収され伊豆国へ配流となった。7月には頼経も鎌倉を追放され、京都へ戻り、鎌倉幕府内における時頼の権力が確立された。翌年の宝治合戦で三浦氏を滅ぼし、時頼の専制体制は完成する。ただし、名越氏は光時の弟時章を中心に依然として北条氏内部における反得宗勢力として残り、時頼の死後の二月騒動で再び敵対することとなる。 元弘3年(1333)の東勝寺合戦による鎌倉幕府の滅亡では、御内人として諏訪直性をはじめ多くの一族がともに滅亡したが、諏訪盛高が北条高時の遺児・北条時行(『太平記』では亀寿丸、『梅松論』では勝寿丸)を匿い諏訪に逃亡させている。幕府滅亡後に京都で後醍醐天皇が樹立した建武の新政に対し、建武2年(1335)には北条氏の残党が時行を奉じて挙兵し、鎌倉を占拠する(中先代の乱)。これに対し、足利尊氏は倒幕に従い武功を挙げた小笠原貞宗を信濃守護に補任し諏訪氏に対抗させ、以来室町・戦国期に至るまで小笠原氏と諏訪氏は抗争を繰り広げる。乱の平定により諏訪氏は再び敗北し、鎌倉では諏訪頼重・諏訪時継父子が足利勢に敗れて自害する。これにより大祝職は庶流の藤沢政頼が継承する。南北朝時代には時継の子・頼継が大祝職となり、北条時行を迎えて南朝方に属して、北朝方の小笠原氏と対抗したが、敗れて没落。その後は頼継の弟・信継が継ぎ、信継の子の直頼も同じく南朝に属した。まもなく足利将軍家が兄の尊氏派と弟の直義派に分裂して観応の擾乱が起こり直義が南朝に降ると、直頼もこれを支援し、信濃国内における直義党の主将として善光寺付近で北朝の尊氏派・小笠原氏と争い、甲斐国須沢城(山梨県南アルプス市)に篭城した高師冬を自害に追い込むなどの功を上げた。観応3年/正平7年(1352)に直義が死去すると、伊那谷に潜伏した宗良親王を奉じて戦う。
2024年04月02日
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また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。和魂はさらに「幸魂」(さきたま、さきみたま、さちみたま)と「奇魂」(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きであり、知識才略、学問、技術を表す。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる。幕末に、平田篤胤の弟子の本田親徳によって成立した本田霊学の特殊な霊魂観として、人の魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという一霊四魂説が唱えられるようになるが、明治以前の文献には一切登場せず、日本古来の霊魂観ではない。 4、「平安時代の諏訪氏」」神官であると同時に武士としても活躍し、神職に就いていない庶子や親類を派兵するようになった。源義家(八幡太郎義家)が出羽の清原氏討伐のため後三年の役に介入すると、大祝為信の子である神太為仲(諏訪為仲)が源氏軍に加わったという。【後三年の役】(ごさんねんのえき)平安後期、永保三年(一〇八三)から寛治元年(一〇八七)にかけて奥羽地方で行なわれた戦役。前九年の役で奥羽地方を制覇した清原武則の子武貞の没後、真衡と家衡・清衡(ともに武貞の実子および養子)の間で紛争があり、真衡の死後には家衡と清衡が争った。この頃、陸奥守として源義家が入国して両者の調停をはかったが失敗し、清衡の請に応じてこれをたすけ、叔父武衡と組んだ家衡と対抗した。戦役は、寛治元年に武衡らのこもる金沢柵を攻落して清衡方の勝利に終わり、清衡は奥羽両国の押領使と鎮守府将軍を兼ねて、以後の平泉を中心とする藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)の栄華の基を開いた。他方、義家に対して、朝廷は私闘とみて行賞しなかったが、義家もこの戦役を通じて東国武士団を組織動員し、源氏の東国における勢力基盤を築いた。】 治承・寿永の乱(源平合戦)の折に、大祝がどちらに味方するか考えていたところ、祭神が夢に現れて手に持っていた梶の葉の軍配を白旗のある方向へと振り下ろしたことから、諏訪氏は源頼朝に味方する。以来、諏訪氏および諏訪大社を尊崇する氏子は梶の葉を家紋にしたという逸話がある。金刺盛澄(諏訪大夫)は源義仲討伐後に頼朝に捕らえられ、囚人として梶原景時に預けられたが、鶴岡八幡宮で披露した流鏑馬の妙技によって助命された。 「金刺 盛澄」(かなさし の もりずみ、生没年未詳)は、平安時代後期の諏訪大社下宮の神官・武士。「諏訪盛澄」とも呼ばれる。弟に手塚光盛がいる。当初は治承・寿永の乱での源義仲の挙兵に従ったが、御射山神事のため弟の光盛を留め置いて帰国した。平家の家人でもあったことから、義仲の討伐後、源頼朝によって捕縛され、梶原景時に預けられた。頼朝は盛澄を処刑しようとしていたが、盛澄が藤原秀郷流弓術を継承する名手であったことから、景時は盛澄の命を奪うのを惜しみ、頼朝に説得を重ねた末、せめて盛澄の弓の技量を見てから死罪にして欲しい、と請願する。盛澄は頼朝の基に参上し、鶴岡八幡宮放生会で流鏑馬を披露した。この時頼朝は盛澄が騎乗する馬としてわざと暴れ馬を与えた上、盛澄が指定された八つの的を射抜くと、射抜いた的の破片、さらに的を立てかけた串を射抜くよう難題を押し付けてきたが、盛澄は見事に全て射抜いたため、赦免された。この時、景時が同じく捕縛された義仲の郎党達にも寛恕を施して欲しい、と頼朝に願い出て、その郎党達もまた助命されたという(「吾妻鏡」文治3年8月15日条)。これらの顛末は『諏訪大明神絵詞』でも描写されている。その後は御家人となり、流鏑馬や的始の儀式で活躍した。史料では建仁3年(1203)までの活動が見られる。下諏訪町には盛澄が恩人の景時を偲び建立した梶原塚がある。
2024年04月02日
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6世紀後半に諏訪地方に出現して在地型の周溝墓(いわゆるフネ古墳型古墳)に取って代わる古墳からも馬具の出土が多いため、伊那谷から諏訪への馬飼集団の移動があったと推測される。この移動した部族を金刺氏とする説はあるが、伊那谷の古墳は一つの様式で占められず、いろんな種類があることから、そこには一つの氏族ではなく、むしろ文化の異なるいくつかの集団(畿内の豪族とそれに結び付いた在地勢力)がいたと考えられる。この中には神氏がいたのかもしれないのである。また金刺氏の祖である科野国造は千曲川流域に構えていたとするのが一般である。一説では、伊那谷から進出した神氏は『和名抄』では「美和郷」と言われていた上伊那地域を一旦本拠とし、そこから天竜川を遡って現在の岡谷市から諏訪盆地に入った。一方で天竜川側から進入したとする主張は同意見でありながらも、神氏の諏訪入りは神武東征によって大神氏系の伊豆速男命が大和から敗走した弥生時代の頃とする説もある。『日本書紀』から持統朝(7世紀後半)には既に諏訪の神が朝廷から篤い崇敬を受けていたことがうかがえるのに対して、多くの記録が神氏の始祖の有員が9世紀の人物としているという問題がある。大祝職が実は用明朝に始まったとする『前田氏本神氏系図』『大祝家本神氏系図』と『異本阿蘇氏系図』の記述を受け入れる説のほか、上社の大祝となる童男は元々特定の一族ではなくダライ・ラマのように上社周辺の氏族から選ばれていたが、平城朝に上社が下社の金刺氏に倣って世襲制に替わったという大和岩雄(1990年)の説がある。諏訪地方では、建御名方神が土着の洩矢神を打ち負かして、洩矢神が勝利者に統治権を譲ったという伝承があるが、これは在地豪族の守矢氏が外来の神氏に降伏して祭政権の交代が行われた出来事に基づいていると推定される。その際に守矢氏の拠点地だった上社前宮の周辺が大祝に譲られたという可能性も考えられる。居住地大祝はかつて上社前宮の境内にある神殿)と呼ばれる館に住んでいた。その居館の周辺は神原と尊称され、代々の大祝職位式のほか多くの祭事が行われた。大祝は祭政両権を有したことから、当地は諏訪地方の政治の中心地でもあった。室町時代に諏訪氏が惣領家と大祝家とに分かれた時、政治の中心地は惣領家の居城である上原城に移った。大祝の屋敷も後に上社本宮の近くにある宮田渡(みやたど、現・諏訪市中洲神宮寺)に移転したが、祭事は引き続き前宮に行われていた。江戸時代に入ると藩主家の居所の高島城が諏訪藩(高島藩)の政庁となった。「神職」前述の通り、大祝は諏訪明神の神託により身体に神が宿る現人神とされ、代々正一位の神階を継承し、信仰の対象であった。初代大祝の伝承で見られるように、大祝は童男をあてる例が多かった。大祝は即位後穢れに触れてはならないため、厳しい禁忌に服し心身を清浄に保った。また、在位している限りは諏訪郡外に出てはならないとされた。建御名方神が武甕槌神に諏訪から出ないと誓ったという『古事記』に見られる説話はこの掟と関係しているという考え方もある。上社前宮の境内社・内御玉殿には諏訪明神が携えたと言われる神宝(真澄の鏡・八栄の鈴・鞍・轡)が収められていた。大祝は毎年2回(3月巳の日と9月下旬の寅または申の日)鏡に向かって鈴を鳴らしながら天下泰平の祈願をした。内御玉殿(=御霊殿)には大祝の祖霊(諏訪明神の幸魂と奇魂)が宿ると言われており、新任の大祝が自分が神の「御正体」となったと申し立てる場所でもある。大祝がもし在職中に死ぬとその遺体はまず内御玉殿の前に置かれるが、これは大祝の霊を後継者の即位式までここに保持する意味とみられる。亡くなった大祝は古くは髪と髭は剃らずに諏訪明神の姿と伝える装束(烏帽子・狩衣・沓・行縢)で土葬されていたが、江戸時代には大祝家が仏式葬儀を採用した。「荒魂」(あらたま、あらみたま)・「和魂」(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである。「荒魂」は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。勇猛果断、義侠強忍等に関する妙用とされる一方、崇神天皇の御代には大物主神の荒魂が災いを引き起こし、疫病によって多数の死者を出している。これに対し、和魂は神の優しく平和的な側面であり、仁愛、謙遜等の妙用とされている。荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮、豊受大神宮の多賀宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は荒魂と和魂を支えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の二面性が、神道の信仰の源となっている。
2024年04月02日
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2、「諏訪氏の出自」「諏訪氏」(すわし/すわうじ)は、日本の氏族の一つ。諏訪大社上社の大祝(おおほうり)、または信濃国諏訪郡の領主を司った家柄である。神氏(みわし/じんし)とも。中世以降の通字は「頼」(より)。ただし、江戸時代以降の諏訪藩主家は「忠」(ただ)を通字としている。神氏(諏訪氏、神人部氏)は代々、諏訪大社上社の大祝を務めてきた一族である。出自については諸説あり、大神氏または金刺氏の支流と考えられている(詳細は後述)。一説では洲羽国造を務めていた氏族ともされている。家伝では諏訪大社の祭神・建御名方神(諏訪明神)あるいはその神に選定された童男に始まるという。後世には桓武天皇を祖とするとも清和源氏の源満快を祖とするとも称したが、皇胤や摂関家をはじめとする公卿の末裔を称する武家が多い中で祭神の血筋を称しながら極めて尊貴な血筋としてとらえられた特異な家系といえる。諏訪氏は武士と神官双方の性格を合わせ持ち、武士としては源氏、執権北条氏の御内人、南朝方の武将、足利将軍家の奉公衆を務めるなど、ごく一般的国人領主である。しかし、大祝としては信濃国および諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。信濃国一宮として朝廷からも重んじられたこともあるが、諏訪明神が軍神であることから、古くから武人の尊崇を受けていたことも大きく影響している。故に諏訪大社の祭神の系譜を称し、上社最高の神職である大祝を継承し、大祝をして自身の肉体を祭神に供する体裁をとることで、諏訪氏は絶対的な神秘性を備えるようになったといえる。代々の諏訪氏当主は安芸守などの受領名を称したが、大祝の身体をもって諏訪明神の神体とされることで正一位の神階を有し、高い権威を誇示した。 3、「神職と武士」宗旨は曹洞宗。菩提寺は温泉寺 (長野県諏訪市)、宗湖寺(茅野市)、頼岳寺(茅野市)、吉祥寺(東京都文京区)など。上社大祝を務めた諏訪氏(神氏)の由来については、欽明朝や推古朝の頃から平安時代初期に信濃国地方政治で活動して後に下社大祝家となった金刺氏の分家とする説、または金刺氏とは異なる家系(大神氏)とする説がある。中世の伝承によると、諏訪明神(建御名方神)が8歳の童男に御衣を着せて自分の「御正体」(いわば身代わり・依り代)として神格化させた[1]。『諏方大明神画詞』(1356年)と『神氏系図(前田氏本)』(室町時代初期)によると、この男児は有員(ありかず)という名の人物である。祝(はふり)は神明の垂跡の初め、御衣を八歳の童男に脱ぎ着せ給ひて、大祝と称し、「我に於いて体なし、祝を以て体とす」と神勅ありけり。 これ則ち御衣祝有員、神氏の始祖なり。家督相次ぎて今にその職を忝くす。有員は桓武・平城朝(9世紀初頭)に生きたと言われていることから、桓武天皇の皇子とする伝承もあるが、史実性は疑わしい。一方、歴史学者の田中卓が1956年に発見した『阿蘇氏略系図(異本阿蘇氏系図)』と1884年に見つかった『神氏系図(大祝家本)』には、科野国造家出身の神子、または乙頴という人が用明天皇2年(587年)に諏訪湖の南に社壇を設けて初代大祝となったとあり、有員がその子孫とされている。『阿蘇氏略系図』と『大祝家本神氏系図』をもとに金井典美ら[6]は神氏を金刺氏の分家とする説を唱え、これが一時期主流説となった。しかし、1990年代後半に入るとこれに対する反論が出て、そのうえ両系図を偽書とする見方(と、偽作説に対する反駁)まで出たのである。国造という政治的支配者の金刺氏が「下社」という一見従属的な位置にあると思われる社壇の大祝となっていること上社には「神氏と守矢氏の二重体制」という複雑な仕組みがあること本家であるはずの金刺氏が務めている下社が神階昇進においてしばしば上社の後を追っていること上社と下社の信仰内容が異なること(上社はミシャグジ信仰と狩猟を中心とし、下社は水霊信仰と稲作を中心とする。を指摘して、「こうした要素を無視して、一つの「系図」によって「金刺氏創祀」説を唱えることは、非常に疑問を覚えざるを得ない」という批判の声を上げている。科野国造と洲羽国造は多くの混淆・通婚・養猶子があって、女系まで含めると、これら氏族は古代からほとんど同族化していたこと洲羽国造後裔の倉見君は用明朝に敵人に殺害されて洲羽嫡流の男系が絶えたため、その娘が科野国造麻背君に嫁して生んだ外孫の乙穎(神子、熊子)が幼少にして洲羽氏嫡宗を継いだと考えられることを指摘して、金刺氏の分家ではなく混淆した家系からの養孫とする説を唱えた。他にも肯定論と否定論が出ており、系図の真偽について未だ学界での定説を見ていない。金刺氏のほか、大神氏出自とする説もある。塩尻市柴宮で大神氏に関係する部族がいたと思われる三河・遠江国に見られる三遠式銅鐸の出土があり、天竜川経由での人(大神氏の同族集団か)の移動があったことを示唆する。「祝(ほうり)」という神官の呼称、「ミワ」という氏族名、または共に「神人部」姓を輩出したことや本殿を持たない神社、蛇信仰の存在等といった大神氏や三輪山(大物主神)信仰との共通点も指摘されている実際には元治2年(1865)の『諏訪神社祈祷所再建趣意書』には当時の大祝の諏訪頼武が「諏方大祝大三輪阿曽美頼武」と名乗っていた。時期については諸説あるものの、いずれにせよ神氏となる氏族は下伊那地方から諏訪に進入してきたと考えられている。古墳時代後期(6世紀)に入ると下伊那には多くの前方後円墳が建てられ、これらには馬関連の副葬品が多い。
2024年04月02日
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「諏訪氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・22、 「諏訪氏の出自」・・・・・・・・・・・・・33、 「神職と武士」・・・・・・・・・・・・・・44、 「平安時代と諏訪氏」・・・・・・・・・・125、 「鎌倉・南北朝時代と諏訪氏」・・・・・・156、 「室町時代と諏訪氏」・・・・・・・・・・247、 「戦国時代と諏訪氏」・・・・・・・・・・498、 「安土桃山時代と諏訪氏」・・・・・・・・719、 「江戸時代と諏訪氏」・・・・・・・・・・7910、「京都と諏訪氏」・・・・・・・・・・・10211、「伊勢諏訪氏」・・・・・・・・・・・・10512、「駿河諏訪氏」・・・・・・・・・・・・10913、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・113 1、「はじめに」信濃国諏訪郡の豪族、神職と武士と言った二面性を諏訪地方の豪族。諏訪大社大祝家。神氏を名乗る信濃武士団の中核でもあった。諏訪盛重は源頼朝に従って鎌倉幕府の御家人となったり、承久の乱後は北条氏の得宗被官(御内人)の筆頭として権力を握った。南北朝期に南朝方として行動。一族の諏訪円忠(1295~1364)は室町幕府の奉行人として活躍した。室町期以降は惣領家と大祝家に分かれて内紛が続いたが、永正年間(1504~1521)に惣領家に勢力が統一され、諏訪地方を中心に勢力を伸ばす。その後、武田氏によって惣領家の諏訪頼重が滅ぼされたが、頼重の従兄弟頼忠が旧領を回復し、徳川家康に従った。一時移封となったが、頼水の時諏訪に戻り高島城に入城諏訪藩主として幕末に至る。
2024年04月02日
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11、「白河結城氏」(しらかわゆうきし)は、日本の氏族。下総結城氏庶流で宗家と区別するため白河氏、陸奥結城氏とも呼ばれる。戦国時代には陸奥国南部の白河地方を支配する戦国大名となった。搦目城(白川城)を居城としたが、白河結城氏の衰退と共に同城は廃城になり、小峰城が白河結城氏の本拠地となった。鎌倉時代に結城氏の祖・小山朝光が得た白河庄に、朝光の孫・結城祐広が移り住んだのが白河結城氏の始まりとされる。後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵すると、結城宗広が新田義貞の鎌倉攻めに参加し、後に後醍醐天皇より宗家に代わって結城氏の惣領と認められた。建武の新政においては宗広の子・親光が三木一草と称される有力武士の一人となり、親光の兄・親朝は奥州府の式評定衆として陸奥守である北畠親房・顕家父子を補佐した。やがて、足利尊氏が建武政権から離反して南北朝時代に突入すると、宗広親子は南朝方に属した。親光は尊氏が九州から入京を果たした際に尊氏暗殺を試みるが失敗して殺され、宗広は北畠父子に従い、親朝は白河に戻って勢力を拡大して伊達氏をも凌ぐ奥州随一の勢力にまで成長させ、常陸国に渡り関東地方における南朝勢力を確保しようとした北畠親房の救援要請(『神皇正統記』は親朝に宛てて執筆されたという説がある)に応じた。しかし、北朝方についた周辺諸氏の侵攻や親房との意見対立などによって興国3年/康永2年(1343)に足利方に転じた。宗広・親朝の没後、親朝の長男・顕朝と次男・小峰朝常の間で所領が分割され、惣領家は顕朝が継ぎ、朝常には小峰城が与えられて小峰氏(こみねし)を称した。両氏の所領分割は互いの所領を混在させる形で行われたが両氏はおおむね協調関係にあり、白河結城氏惣領家に後継者がいない場合には小峰氏から養子を迎えている。室町時代には室町幕府と鎌倉府の対立の中を巧みに生き残り、小峰氏から入った結城直朝と子・政朝の時代に全盛期を迎える。しかし、戦国時代に入ると、惣領家と小峰氏の対立など内紛が絶えず発生(永正の乱・天正の乱)し、さらに佐竹氏や那須氏の侵攻を受けたため、衰退の一途をたどった。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため奥州仕置により改易となった。「古河公方家の内紛」古河公方足利政氏と嫡男の高氏(後の高基)が古河公方の地位を争う。永正6年の対立では顕定の調停で和解したが、永正7年の顕定敗死後の山内上杉家の後継ぎを巡り、再び対立。政氏に岩城常隆・由隆父子・佐竹義舜・小山成長が、高基に宇都宮成綱・忠綱父子・結城政朝が加わり、関東各地で戦闘が続発した。さらに政氏の次男・義明が下総で小弓公方として独立してしまう。この内紛は下野宇都宮氏の内紛(永正の内訌 (下野宇都宮氏))とも密接に絡んでおり、高基の舅にあたる宇都宮成綱による古河公方擁立の思惑もあった。結果、高基は成綱に擁立される形で第3代古河公方へ就任した。また、高基派の勢力は結城氏、上那須氏、小田氏と宇都宮成綱との間で婚姻同盟を結んでいる勢力が目立つ。高基自身も成綱の娘瑞雲院が正室である。永正15年、高基が政氏を出家させ、政氏が武蔵国久喜の館に隠居することで収束したが、これをきっかけに古河公方家の没落が始まり、後北条氏が関東に着々と進出してくるのである。古河公方足利政氏と嫡男の高氏(後の高基)が古河公方の地位を争う。永正6年の対立では顕定の調停で和解したが、永正7年の顕定敗死後の山内上杉家の後継ぎを巡り、再び対立。政氏に岩城常隆・由隆父子・佐竹義舜・小山成長が、高基に宇都宮成綱・忠綱父子・結城政朝が加わり、関東各地で戦闘が続発した。さらに政氏の次男・義明が下総で小弓公方として独立してしまう。この内紛は下野宇都宮氏の内紛(永正の内訌 (下野宇都宮氏))とも密接に絡んでおり、高基の舅にあたる宇都宮成綱による古河公方擁立の思惑もあった。結果、高基は成綱に擁立される形で第3代古河公方へ就任した[1]。また、高基派の勢力は結城氏、上那須氏、小田氏と宇都宮成綱との間で婚姻同盟を結んでいる勢力が目立つ。高基自身も成綱の娘瑞雲院が正室である。永正15年、高基が政氏を出家させ、政氏が武蔵国久喜の館に隠居することで収束したが、これをきっかけに古河公方家の没落が始まり、後北条氏が関東に着々と進出してくるのである。】 子孫に秋田白川氏(嫡流)、仙台白河氏(小峰氏が復姓)、水戸結城氏(縁戚関係にある陸奥石川氏の養子となった中畠氏(中畑氏)が復姓)、甲斐結城氏などがいる。また、読売ジャイアンツの元選手である中畑清も、白河結城氏の血筋を引いている。白河結城氏歴代当主結城祐広・結城宗広・結城親朝・結城顕朝・結城満朝(小峰氏出身)・結城氏朝(那須氏出身)・結城直朝(小峰氏出身)・結城政朝(義永・結城顕頼・結城義綱(小峰氏出身とする説もある)・結城晴綱・結城義顕・結城義親(白河義親、小峰氏出身)・(白河義広)(佐竹氏出身、後蘆名氏当主)(ただし、小峰氏を興した結城親朝と惣領の地位を簒奪し後に仙台白河氏の祖となった結城義親は、白河結城氏歴代の当主には数えない場合もある)*「結城 祐広」(ゆうき すけひろ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将・御家人。白河結城氏初代当主。下総結城氏2代当主・結城朝広の子として誕生。祖父で結城氏の祖・結城朝光が得た陸奥国白河の所領を引き継ぎ、正応2年(1289)に奥州へ下向し搦目城を築城した。もっとも、祐広の時代に白河結城氏が受け継いだのは白河の所領の一部で、残りは本家の下総結城氏が代官によって支配を継続していたといわれている。
2024年04月01日
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また、福井藩松平家の家格は、いわゆる親藩大名中でも高いほうである。ほかに糸魚川藩松平家・松江藩松平家・明石藩松平家・前橋藩松平家・津山藩松平家などが存在した 政勝には子がなく、跡は高朝の子である結城晴朝が継いだが、晴朝の時代においては、古河公方の没落は顕著となり、新たに勃興した相模国北条氏康や関東管領を継承した上杉謙信の侵攻を受けて、結城氏は北条・上杉の間を転々としながら勢力を保つのみになり、晴朝の実家である小山氏との関係も険悪となった。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、近世大名として生き残ることに成功し、改易された旧小山氏の所領と旧小田氏の所領の一部(土浦城一帯)が戦功によって結城氏に与えられている。晴朝には嗣子がなく、初めは宇都宮広綱の次男で佐竹義重の甥に当たる朝勝を養子に迎えていた。だが、小田原征伐後に結城氏の所領が大大名である徳川氏の所領と隣接するようになる。このため朝勝を廃して、徳川家康の次男で秀吉の養子になっていた秀康(一時期、秀朝)を養子に迎えて家督を譲ることで豊臣・徳川両氏の信頼を得て結城氏の存続を図った。越前移封関ヶ原の戦いの後に秀康は越前国に移封されて慶長9年(1604)には名字を松平に改めることになる。結城家の家督は秀康の五男・結城直基が継ぐことになる。越前移封は当時健在であった先代晴朝にとっては先祖の地である結城の地を失うという点から不本意であり、越前移住後も結城地方の惣社とされていた高椅神社に結城帰還を祈願したり、『結城家譜』『結城家之記』といった家記を編纂()(へんさん)したりするなど、結城氏存続と結城復帰への強い執念をみせている(なお、晴朝編纂の家記には秀康の公卿補任までしか記されず、晴朝が忌んだ越前移封には触れられていない)[8]。しかし、直基も晴朝の没後に松平を名乗り(前橋松平家)、大名の家名としては下総結城家の家名は消えた。なお、家名は松平家となったが、下総結城氏の祭祀()(さいし)は代々の前橋松平家当主が継承している。 10、「結城氏の子孫(水戸藩士・秋田藩士として)」別系統に白河結城氏の子孫である結城氏のうち一部は、水戸藩士として1000石、家老の家格を有した。小山氏、宇都宮氏と並び水戸藩御三家として尊ばれ代々家老を務め叙爵(従五位下と官職を受けること)を受ける家柄であった。しかし、結城朝道(寅寿、晴明とも)の代に藩主毒殺を図ったとして、反逆の罪で絶家とされた。寅寿の子・種徳は牢死し、結城家は大森家から養子を迎え入れて存続した。なお、水戸藩の結城氏は庶流であり、白河結城氏の末裔は秋田藩士、仙台藩士として存続した。その他、常陸伊奈に名主の結城氏が存続。300石を有した。(結城三百石) *「結城 朝道」(ゆうき ともみち)は、江戸時代後期の武士。水戸藩の執政。別名「寅寿」の読み方については「とらかず」や「ともひさ」とする説もある。家系[編集]本姓は藤原氏。家系は鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする小山氏の同族・結城氏の血筋。結城氏は鎌倉・室町時代から続く関東の名門であり、同じく古くから関東に栄えた小山氏、小田氏などと共に水戸藩の御三家と並び称された家柄である。結城氏が水戸藩士として仕官した後は、歴代の重役を務める1000石の知行をもって遇され、その格式を保ってきた。家伝によれば、系譜は以下の通りである。しかし、白河結城氏の一族、中畠氏の血筋とも。略系図[編集]≪下総結城氏説≫ 結城晴朝 - 七郎晴信(嫡子。羽柴秀康、結城家を継ぐにより逼塞。徳川光圀、500石にて召し出し) - 晴映 - 晴久 - 晴広 - 晴久 - 数馬晴徳 - 寅寿晴明(後に朝道) - 七郎種徳 = 道家(大森家から養子)≪白川結城氏庶流中畠氏説≫ 結城晴綱 - 中畠晴常 - 中畠晴時 - 相良晴倶 - 定共 - 晴定 - 光定 - 晴久 - 晴広 - 晴久 - 数馬晴徳 - 寅寿晴明(後に朝道) - 七郎種徳 = 道家(大森家から養子)生涯文政元年(1818)、水戸藩士・結城晴徳の長男として誕生。文政7年(1824)に家督を継ぎ、天保4年(1833)からは水戸藩江戸藩邸にて藩主・徳川斉昭の小姓を務めた。斉昭からは若年寄、御勝手改正掛に任じられ、天保13年(1842)からは執政となる。当初は人物聡明にして主君・斉昭や天狗党からも好感を受けていた。名門中の名門に生まれた朝道は、育ちが良く決して陰湿な人物ではなかったが、名門に生まれたが故の誇りから生来保守的な性格の持ち主であった。加えて持ち前の聡明さから、上士層により形成された佐幕派の保守層の支持を受けて次第に台頭、藩内に結城派なる一派を形成するほどの勢力を築いていくことになる。そもそも、水戸藩では上士層を中心に親幕府色を打ち出す諸生党と朝廷を信奉する天狗党に分かれ、代々藩内で闘争を繰り返してきた。8代藩主・徳川斉脩の死後、諸生党では幕府との関係を親密にするため、11代将軍・徳川家斉の庶子を養子に迎えようとするが、中下士層を中心とした一派が斉脩の舎弟・斉昭を推したため、斉昭が藩主に就任したという経緯があった。故に上士層はいわば藩主の抵抗勢力となり、斉昭はその聡明さから中士や下士であっても優秀な人材を積極的に登用した。
2024年04月01日
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だが病を得て職務を全うできなくなったため、慶長12年3月1日に越前へ帰国し、そのまま閏4月8日に死去。享年34歳。死因は『当代記』に「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、梅毒ではなかったかとされる。また梅毒が直接の死因ではなく、梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。なお曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、「越前宰相殿、瀉利・発熱・咽渇・五令ニ加滑」とあり、他の難病にもとりつかれていたようである。始めは結城家の菩提寺である曹洞宗孝顕寺で火葬され、孝顕寺殿前三品黄門吹毛月珊大居士と追号されたが、徳川家・松平家が帰依していた浄土宗による葬儀でなかったことを家康が嘆いたため、知恩院の満誉上人を招いて新たに運正寺を作り、ここに改葬して戒名も浄光院殿前森巖道慰運正大居士と改められた。越前68万石は、嫡男・忠直が継いだ。人物・逸話武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われている。堀瀬兵衛の息子が死去した時に哀悼の意を表した情の籠もった書状を送っており、決して武勇一辺倒の人物ではなかったようである(『堀文書』)。伏見城において行われた秀忠将軍就任祝いの席で上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、秀康と景勝は同じ権中納言といえども、景勝の方がより早くその官位を受けているとして、先官の礼をもって景勝に上座を譲ろうとして譲り合いになってしまったという。結局秀忠の裁定で秀康が上座になったが、これを見た人々は秀康の礼節や謙譲の心の大きさに感心したという。鉄砲を所持したまま江戸に向かおうとして、碓氷峠の関所で止められたが、秀康は自家が徳川家中で別格扱いであるのにそれを知らずにいた不届きな関守を成敗するとした。このため関守は懼れて江戸に伺いを立てたが、江戸の秀忠は、秀康に殺されなかっただけ幸いであったと言って事態は収まったという。慶長5年(1600年)、大坂城西ノ丸で、家康が重臣たちに後継者を誰にすべきか質問したとき、本多正信は秀康を後継にすべきだと主張し、大久保忠隣は秀忠を支持したとされる(『大久保家留書』)。秀吉の人質時代、伏見の馬場で馬を駆けさせていると、秀吉の寵臣が馬術を競うために秀康に馬首を並べて馬走した。秀康は「自分の許しもなく共駆けするとは無礼千万である」として無礼討ちした。しかし秀吉は秀康のこの行為を、「自分の養子をないがしろにするのは、自分に無礼を働いたことと同じ。秀康の処置は天晴れである」と褒め称えたという。秀康が家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったと言われている。この秀康の威厳には家康も驚き、『校合雑記』には「今日の見物ある中に、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。弟の秀忠が徳川将軍家を継いだとき、秀康は伏見城代を務めていた。出雲阿国一座を伏見城に招いて、阿国の歌舞伎を絶賛した後、「天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり」と漏らしたと言う(『武家閑談』四)。黒田孝高とは大変仲が良く、伏見では三日に一日は孝高の屋敷で過ごしたという記録が残るほどである。石田三成失脚(石田三成襲撃事件)時、秀康と堀尾吉晴が石田三成を護衛して瀬田まで送った。三成はその労を感謝し、正宗の刀を秀康に贈った]。この名刀は「石田正宗」と称され、秀康の末裔にあたる津山松平家に伝世されている(名刀「石田正宗」は現在、東京国立博物館蔵)。天下三名槍の一つである駿河嶋田の鍛冶師・義助の傑作「御手杵」を所有していたことでも知られている。養父・晴朝から譲られたこの槍は、槍身だけで全長210cm、穂先が138CMもあり、常人には振り回せないほど重く大きかったと言われている。慶長8年頃から病床に沈み、11月5日付で秀忠から見舞状を受けている。慶長11年頃には相当に悪化していたようで舟橋秀賢の『慶長日件録』の5月18日の項に、秀賢が冷泉為満と秀康の伏見邸を訪問したが、腫物をして対面さえできないほどになっていたと記載されている。6月3日、薫衣禁裏より香袋を賜った時も、勅旨の接待に会うことができない状態だった。子孫結城家の社稷は秀康の遺言により、後に五男の直基(勝山藩3万石→大野藩5万石→山形藩15万石→姫路藩15万石。姫路入りの直前に死去)が継いだ。後に松平氏に改称したため、結城の名字を称する大名は無くなった(しかし直基の子孫は家紋は結城家の家紋(巴紋・桐紋)を使い続けた)。徳川将軍家一門としての、秀康流松平家の家督は嫡子である松平忠直が継承した。忠直の正室は、叔父である秀忠の三女勝姫である。忠直と勝姫との間には松平光長が生まれた。のちに忠直が蟄居処分となると、弟の忠昌が家臣団と家督を継承した。秀康の子の5人の男子は徳川将軍家の御家門(越前松平家)となっており、現在も各子孫が続いている。特に松平直良の子孫は稲葉氏や勧修寺家を経て仁孝天皇から現在の皇室へと繋がっている。また、越前松平家は御三家などの序列とは別格の制外の家とされた。この特例は、秀忠の兄として遇された秀康1代限りのものとされたが、各藩は徳川将軍家の兄の家系という意識を持っていた。
2024年04月01日
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9、「戦国時代の終了と結城秀康の入嗣」 「結城 秀康」(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。越前北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。天正2年(1574)2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英(永見氏)の娘で、家康の側室の於万の方(長勝院、通称おこちゃ、小督局)。誕生地は、今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める源範頼の系譜である領主・中村正吉の屋敷であった。現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、家康お手植えの松「秀康の胞衣塚」が残る[2]。この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。「秀康は双子で誕生した」との説があり、その相方の兄は永見貞愛とされている。その後、家康が正室・築山殿の悋気を恐れたために、秀康を妊娠した於万は重臣の本多重次のもとに預けられたという。少年期幼名を於義伊(於義丸/義伊丸/義伊松)と名づけられた秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという。冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、寛永11年(1634年)に書かれた『中村家御由緒書』には「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれており、研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している。天正7年(1579)、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・信康が切腹させられる(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる)。このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。しかし、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。母親の身分は秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと考えられる。豊臣家の養子大坂へは、傅役の小栗大六(小栗重国)と小姓の石川勝千代(石川康勝)・本多仙千代(本多成重)がつき従う。家康より「童子切」の刀と采配を餞別として授けられた。天正12年(1584年)12月12日、羽柴秀吉の養子として「羽柴三河守秀康」と名乗る。天正15年(1587)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。天正16年(1588)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590)の小田原平定、天正20年(1592)からの文禄・慶長の役にも参加した。天正17年(1589)、秀吉に実子の鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。そのため他の養子同様に、再び他家に出される。結城家の養子天正18年(1580)、実父の家康が駿遠三甲信から、関東一円(旧北条領)に国替えになり240万石を得た。秀吉は、関東平定の功労者である家康へ更なる加増として、秀康を北関東の大名結城氏の婿養子とすることを考えついた。結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名家であった。秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1000石を継いだ[注釈 4]。また改めて羽柴姓を賜り、官位から羽柴結城少将と呼ばれた。越前移封とその後秀吉死後の慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。上杉景勝に呼応する形で石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。このとき家康によって、本隊は家康自らが率いて東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道(東山道)を進軍することが決められ、秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1000石から越前北庄68万石に加増移封された。結城旧来の家臣の中には越前への移転を拒否するものが少なく、それ故この越前移封は最終的な在地離脱の強制として機能したもので、その結果秀康は自らの権力における旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。慶長9年(1604)には松平氏に復することも赦されているとする史料も存在する。慶長10年(1605)、権中納言。慶長11年(1606年)9月21日には伏見城の留守居を命じられる。慶
2024年04月01日
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小山氏の傍流で、小山政光の三男である朝光を祖とする。なお、異説として長沼氏に代えて大掾氏(桓武平氏国香流・平維幹を祖とする)を入れる説がある。これは必ずしも長沼氏が誤りとする訳ではなく、15世紀中期の享徳の乱で鎌倉公方(古河公方)と敵対した長沼氏嫡流が断絶したと推定される[4]ため、長沼氏の闕を補うために大掾氏が加えられた可能性を示すと考えられている。 「結城家法度」(ゆうきけはっと)下総(しもうさ)国結城(茨城県結城市)城主結城政勝(まさかつ)が1556年(弘治2)に制定した家法。本文中に「新法度」とみえるので結城氏新法度ともいう。結城氏の末裔(まつえい)松平基則(もとのり)所蔵の写本一巻は第二次世界大戦の戦火で焼失したが、東京大学史料編纂(へんさん)所にその影写本がある。前文、本文104条、追加3条、家臣連署請文(うけぶみ)からなり、質量ともに伊達(だて)氏の「塵芥(じんかい)集」に比肩される。戦国家法の代表である。内容は家臣、商人、下人などについての人身規定、刑事・民事の訴訟・裁判手続、領内支配など多岐にわたるが、とくに緊迫した軍事状況のなかでの家中統制に関する規定が多い。この法度は規制対象が家中に限定され、適用範囲もほぼ結城城領に限られている点に最大の特色がある。 8、「小山氏の乱」(おやましのらん)とは、室町時代前期に下野守護であった小山義政が鎌倉公方足利氏満に対して起こした反乱(小山義政の乱、天授6年/康暦2年(1380) - 弘和2年/永徳2年(1382)及び、義政の滅亡後に遺児の小山若犬丸(隆政)に引き継がれて続けられた反乱(小山若犬丸の乱、元中3年/至徳3年(1386)~- 応永4年(1397))の総称。17年にわたって繰り広げられた結果、小山氏嫡流は滅亡することとなる。前史小山氏は鎌倉時代の小山朝政以来代々下野守護を務めてきたが、国内には宇都宮氏・那須氏・長沼氏など守護に匹敵する勢力が複数存在しており、統治は不安定であった。中でも宇都宮氏は南北朝時代には小山氏以上の勢力を築き、宇都宮氏綱の代に薩埵山体制の一環で一時上野・越後の守護に補任され、その後氏綱が前上野・越後守護上杉憲顕の守護復帰に反対して鎌倉公方足利基氏の怒りを買って討伐された際、基氏は当時の下野守護所があった小山に陣を構えて氏綱を降伏させた。その後、両者の勢力争いは宇都宮氏綱の子基綱と小山氏政の子義政に引き継がれた。鎌倉公方の座は足利氏満に移っていたが、氏満が鎌倉公方に就任した正平22年/貞治6年(1367)当時はまだ9歳であり、関東管領であった上杉憲顕及び後を継いだ息子の能憲(宅間上杉家)が実権を掌握していた。憲顕父子は甥の上杉朝房(犬懸上杉家)と共に武蔵平一揆を制圧し、続いて応安の大争論と呼ばれる千葉氏家臣と香取社の争いをきっかけとした千葉氏の混乱に介入して鎌倉府ひいては関東管領の影響力を強めた。だが、氏満が成長すると、こうした現状に不満を強め、自らの影響力を行使しようとした。下野国内において、憲顕との一連の戦いによって宇都宮氏のみが弱体化したことによって小山氏の勢力が伸びることを望まず、今度は宇都宮氏を支援して小山氏を牽制する路線を取った。天授3年/永和3年(1377)11月17日、氏満が宇都宮基綱に対して円覚寺造営を理由として従来守護にしか許されていなかった領内での棟別銭を命じた。この命令には3つの点で注目すべき点があった。まず、この命令が新しい関東管領である上杉憲春の元で最初に出された重要な命令であったとみられることである。長年鎌倉府を支配してきた上杉能憲が病に倒れ、関東管領を弟の憲方に譲りたいとする希望を抱いていたものの、氏満はそれを退けて自らの側近で能憲の異母弟である憲春を後任に推挙して京都の室町幕府(3代将軍足利義満・管領細川頼之)の了承を取り付けてしまったのである。山内上杉家庶流の憲春は役職の権威と鎌倉公方氏満の信任によって辛うじて政治的地位を保っている状況であり、氏満の意向を止めることが出来なかった。次にこの命令が下野の守護である小山義政に対しても同日に同様に出されたことである。これは、常陸においても守護である佐竹氏と守護ではない大掾氏・小田氏にも命じられたものではあったが、本来棟別銭が守護請によって徴収される税であったことを考えれば、小山氏の守護としての権限に対する干渉行為と言えた。そして最後に義政・基綱に対する宛名がそれぞれ「小山下野守」「宇都宮下野守」とされていることである。その後、康暦年間に入ると基綱を下野守と称する文書はなくなるものの、義政と基綱がある同一時期に下野の国守である「下野守」に任じられていたあるいはその名乗りを鎌倉府から認められていたのは事実であり、氏満の鎌倉府は小山氏・宇都宮氏を同格扱いしていたことを示している。こうしたことは、守護でありながら、格下とみなしていた宇都宮氏と同格扱いされた小山氏側の宇都宮氏への警戒感は強める一因となった。そんな最中の康暦元年(1379)、京都では斯波義将ら有力守護大名による管領細川頼之の排斥事件(康暦の政変)が発生した。
2024年04月01日
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幕府と持氏との対立4代将軍足利義持時代の応永23年(1416)には前関東管領の上杉氏憲(禅秀)が4代鎌倉公方足利持氏に反して挙兵する上杉禅秀の乱が起きた。乱自体は幕府との協力で鎮圧されるが、乱後に持氏が残党狩りを名目として、京都扶持衆の宇都宮持綱などを粛清、さらに幕府の支援する佐竹氏を討伐するなど自立的行動が目立つようになり、幕府と鎌倉府は対立関係となる。義持の没後、弟の義教が6代将軍に就任すると、持氏はこれに反発し、1429年に元号が正長から永享に改元されても持氏は正長の元号を用い続けるなど、幕府に対する不服従の態度を示した。さらに持氏は関東管領の上杉憲実とも対立し、上杉氏庶流の上杉定頼・上杉憲直や直臣の一色直兼を重用するなど、独裁色を強めていった。持氏と憲実との対立永享7年(1435)に持氏は軍事行動をはじめ、応永26年(1419)に関東管領に就任した上杉憲実は持氏を制止するが、持氏と険悪な関係となり、永享9年(1437)に持氏が憲実を暗殺するという噂が流れると、双方の軍が鎌倉に集結して不穏な状況になった。『鎌倉持氏記』・『喜連川判鑑』には持氏から憲実討伐を命じられた上杉憲直が6月15日になって相模藤沢へ逃れたと記されるが、『永享記』には藤沢に逃れたのは上杉憲実であったとする。また、この時に憲実が兵を率いて藤沢にいた形跡があり、憲実と持氏の衝突は避けられない情勢となった。7月になって両者は持氏の妥協により和解するが、永享10年(1438)6月、持氏が嫡子の賢王丸(足利義久)の元服を幕府に無断で行うと再び対立し、憲実は同年8月に分国であった上野平井城に逃れる。持氏は憲実追討のため近臣の一色直兼に軍を与えて差し向け、自身も武蔵府中高安寺(東京都府中市)に陣を構える。憲実は幕府に救援を請う。幕府では将軍義教が持氏の叔父に当たる陸奥の篠川公方足利満直や駿河守護今川範忠・信濃守護小笠原政康に憲実の救援を命じ、禅秀の子上杉持房・上杉教朝らをも含む幕軍を派遣する。更に越前・尾張・遠江守護斯波義健の後見人斯波持種・甲斐常治と朝倉教景も関東に派遣された。この時に義教は朝廷権威を利用し、後花園天皇に対して3代将軍足利義満時代以来であった治罰綸旨と錦御旗の要請を行う。持氏の敗北9月27日、今川勢は持氏方の軍勢を撃破して足柄山を越え、上杉持房も箱根の陣を破る。ほぼ同じ頃、信濃から上野国板鼻に入っていた小笠原政康は平井城に向けて北上する持氏方の軍勢を討ち破った。10月4日、憲実も平井城を出陣して、一色軍を破った。更に、鎌倉の留守を守っていた三浦時高が守備を放棄して退き、寝返って鎌倉へ攻め込んだ。劣勢に陥り、早川尻において兵の多くが戦死、逃亡した憲直、持氏は相模海老名まで退き、鎌倉へ落ちようとした。持氏一行は途中で憲実の家宰である長尾忠政(芳傳、長尾忠綱の子)及び同じく重臣の景仲の軍と出会い、持氏は幕府への恭順を誓い、ともに鎌倉の永安寺に入った。11月4日、持氏は称名寺に入り出家する。一色直兼以下の持氏の近臣達は、称名寺で幕府軍に攻められ自害した。持氏は永安寺に移され、幕府軍により幽閉された。憲実は持氏の助命と持氏の嫡子義久の鎌倉公方就任を嘆願するが、義教は許さず更に憲実の反逆を疑って重ねて討伐を命じた。永享11年(1439)2月10日、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏と叔父の稲村公方足利満貞らは自害し、義久は鎌倉報国寺において自害した。 「関東八屋形」(かんとうはちやかた)は、室町時代、関東地方において屋形号を称する事が許された有力な大名をいう。概要宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家を指す。いずれも旧来の名族であり、応永6年(1399)、鎌倉公方足利満兼が就任するに際し、時の関東管領上杉朝宗の提案によって定められたとされる(『足利治乱記』)。これら八家は鎌倉公方を支える家々としてそれぞれの国の守護を出す家柄として定められ、守護でなくとも守護不入が認められるなど自家の領土内における強力な支配権を行使することが出来た。後には関東八屋形の支配権は鎌倉公方の介入も容易には許さないほどにもなった。戦国時代に入ると小田原の後北条氏が勢力を拡大させ、これらの諸氏による支配体制は崩壊することになった。各家の出自は以下の通り。宇都宮氏藤原北家道兼流・藤原宗円あるいはその孫藤原朝綱を祖とする。下毛野氏あるいは中原氏の流れを汲むと言われる。小田氏宇都宮氏の傍流で、八田知家を祖とする。小山氏藤原北家魚名流・藤原秀郷の後裔を称する。佐竹氏清和源氏義光流・源昌義を祖とすると言われる。千葉氏桓武平氏良文流・平常兼もしくはその子である常重が祖とされる。長沼氏小山氏の傍流で、小山政光の次男である宗政を祖とする。那須氏藤原北家長家流・藤原資家を祖とする。結城氏
2024年04月01日
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家康5男を結城家に継承。実父(小山高朝)や養子(結城朝勝)との縁を切ってまで守り抜こうとしていた鎌倉時代以来の結城の所領と家名があっさりと捨てられる事態に晴朝は衝撃を受け、徳川家康に懇願して秀康の五男・直基を養育し、結城家を継承せしめた。また、旧領結城への帰還を願いながら、一族の家系図・過去帳・家伝などを編纂して、結城にある結城氏ゆかりの寺社などに納めるようになる。慶長19年(1614)7月20日に越前北ノ庄または中久喜城にて死去。享年80歳。領地は直基が相続した。晴朝の死をもって、結城氏の血脈は断絶したが、結城氏の祭祀は直基子孫の歴代の前橋松平家が継承した。終焉の地、中久喜城跡はJR 水戸線によって真っ二つに横断されており、遠目にはそれとわからない。】 *「松平 直基」(まつだいら なおもと)は、江戸時代前期の大名。直基系越前松平家初代。慶長9年(1604)3月25日、徳川家康の次男である結城秀康の五男として誕生した。養祖父・結城晴朝に養育される。慶長12年(1607)に結城家の家督を相続した。慶長19年(1614)に晴朝が死去したため、その隠居料である5千石を相続する。寛永3年(1626)からは松平姓を称したが、家紋は結城家のもの(結城巴、太閤桐)から変えず、結城家の祭祀を継承した。実兄の越前国主・忠直より偏諱を受け直基を名乗る。寛永元年(1624)6月8日に越前勝山藩3万石、寛永12年(1635)8月1日に越前大野藩5万石に加増・移封され、正保元年(1644)には山形藩15万石と漸次加増を受け、慶安元年(1648)6月14日に姫路藩に国替えを命じられたが、そのわずか2か月後、封地に赴く途上で死去した。享年45歳。】 7、「下野守護職補任と関東八屋形」室町時代前期には、本来、結城氏の本家筋であった小山氏が小山義政の乱により衰退し、結城基光は下野守護を務め、さらに次男・泰朝が小山氏を継ぐことで、結城氏は勢力の面でも格式の面でも小山氏に肩を並べるようになるなど、関東の有力守護大名として最盛期を迎えた。さらに、結城氏は3代鎌倉公方 足利満兼により宇都宮氏や小山氏、佐竹氏、小田氏、那須氏、千葉氏、長沼氏と並んで「関東八屋形」の一つに列し、屋形号を許されるなど、鎌倉府には「結城の間」なる部屋が用意され、一族の栄誉となったという]。「結城合戦と家名再興」しかし、永享の乱により鎌倉公方が衰退すると結城氏の命運も暗転し、結城氏朝・持朝は永享の乱の後に6代将軍・足利義教に追われた4代鎌倉公方・足利持氏の遺児達を匿って幕府軍と結城合戦を行い一時滅亡する。その後、持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、結城氏も氏朝の末子・結城成朝が召し出されて再興を許されたものの、家臣筋の多賀谷氏、山川氏、水谷氏らが独立色を強めたため、衰退の一途をたどる。成朝は成氏の命を受けて関東管領・上杉憲忠を謀殺し享徳の乱が勃発のきっかけとなる。足利成氏は古河に逃れて古河公方と称したが、結城氏は古河公方を支持して山内上杉家と長期にわたって争った。 戦国時代に入っても一貫して古河公方を支援する姿勢を続けた。そのような中で名君と呼ばれた15代当主・結城政朝が登場した。彼の治世の時、結城氏は、多賀谷氏や山川氏を屈服させ、さらに周辺勢力との抗争に勝ち抜くことにより、戦国大名としての飛躍を遂げることになる。『結城系図』・『結城家之記』には政朝を「結城中興」と記している。その子・政勝の時代には小山氏に子・高朝を送り同盟関係を強化し、晩年には分国法の「結城氏新法度」を制定するなど政治的・軍事的基盤を固め、勢威を常陸や下野にまで伸ばして、再びの最盛期を築き上げた。 「永享の乱」(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。対立の図式室町幕府は南北朝時代に関東統治のため鎌倉府を設置していた。この鎌倉府は足利氏出身の鎌倉公方とこれを補佐する上杉氏出身の関東管領に指導されていたが、関東管領の補任権は幕府が握っていた(実際の補任(任命)時には鎌倉公方の意向が認められていたが、幕府は当然これをいつでも否認することが出来た)。更に上杉禅秀の乱(後述)後に、山内上杉家が関東管領を独占するようになったが、山内上杉氏は関東の他に越後に広大な所領を有しており、更に分家は越後守護となっていた(越後上杉氏)。越後の山内上杉氏領と越後上杉氏は室町幕府の管轄下にあり、幕府は越後の所領安堵権及び守護補任権・関東管領補任権を利用して関東管領=山内上杉氏を支配することが可能であったため、関東管領は室町幕府の意向に従う存在となり、鎌倉公方と関東管領はしばしば対立していた。
2024年04月01日
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6、「戦国時代と結城氏」 *「結城 政勝」(ゆうき まさかつ)は、戦国時代の武将・戦国大名。下総結城氏16代当主。文亀3年(1503)、15代当主・結城政朝の子として誕生。通説では大永7年(1527)、父から家督を継承したとされてきたが、近年では政直という兄がおり、その死をうけて天文年間初め頃(1532前後)に結城氏を相続したとされている。家督相続後は父同様、積極的な領土拡大政策を行い、佐竹氏や小田氏、下野宇都宮氏とたびたび抗争した。北条氏康と結んで宇都宮氏の小栗城を奪い、海老島の戦いで小田氏治を破り、領土を下総国から下野国、さらには常陸国にまで拡大した。天文8年(1539)、那須政資・高資の内紛では高資を支持して佐竹・小田・宇都宮氏と戦っている。ただしこれらの事跡は隠居した政朝によるものといわれており、天文16年(1547)に父・政朝が死去すると、宇都宮尚綱の侵攻を受けているが、撃退している。政勝の最大の功績は領土拡大よりも有名な分国法である『結城氏新法度』を制定したことにあった。弘治2年(1556)に定められたこの法は、飲食や衣類にまで及ぶ具体的な規定や、喧嘩口論に関する罰則などが定められた斬新的なものであったと言われている。政勝は後継者に恵まれず、唯一できた実子・明朝は天文17年(1548)に父に先立って病死している(異説あり)。水谷正村に嫁した政勝の娘・小藤姫も、女子を出産した直後に死亡した。そのため弟・小山高朝の三男・晴朝を養子に迎えている。明朝の死後、政勝は出家したが、晩年は病気がちであり、小田氏治の反撃を受けて領土の一部を奪われている。永禄2年(1559)8月1日、死去。享年57歳。家督は養子・晴朝が継いだ(異説あり)。絵を良く描いたようで、しばしば自画像などを描き、例えば茨城県の大雲寺には天文21年(1552)の年記をもつ自画像が残る。】 *「結城 晴朝」(ゆうき はるとも)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名。下総結城氏17代当主。下総国結城城主。天文3年(1534)8月11日、小山高朝の三男として誕生。元服に際し4代古河公方・足利晴氏の偏諱を受けて晴朝と名乗る(初め小山姓)。弘治2年(1556)、小田氏との海老島合戦に参加し小田城を攻める。永禄2年(1559)8月に伯父・結城政勝が死去すると、嫡男・明朝が既に没していたために結城家の家督を継承する。この時、晴朝は養父・政勝に迫られて、実父・小山高朝との「親子之好」を切るという起請文を作成して古河公方の使者(実質は北条氏の名代)である瑞雲院周興に提出したとされている(「乗国寺文書」小山高朝書状)。永禄3年(1560)、佐竹氏や下野宇都宮氏、小田氏が協力し大軍で攻めてきたが、晴朝はこれを結城城に籠もって撃退し、和議を結んだ。同年に佐竹氏の要請で、越後国の長尾景虎(上杉謙信)が関東管領・上杉憲政を奉じて遠征するが、晴朝は伯父・政勝の路線を引き継ぎ古河公方の足利義氏(晴氏の子)及び後北条氏に加担する。景虎が関東管領に就任すると反北条に転じる。元亀元年(1570)、小田領へ攻め入り、平塚原の戦いで小田氏治と激突している。政勝の路線を継承して、結城氏の再興・拡大を意図する以上、結城氏と同様に北条氏と上杉氏との間で生き残りを模索する実家の小山氏との対立は避けることは出来ず、実父・小山高朝ともたびたび交戦した。天正元年(1573)に高朝が死去した際にも、敵である結城氏の当主として駆けつけることが出来ない事情を結城氏の菩提寺で高朝とも親交があった乗国寺の住職に伝えて代わりに焼香に行かせている。天正4年(1576)、兄・小山秀綱が北条氏照に降伏すると、翌天正4年(1577)に後北条氏に攻め込まれた。この時、嗣子の無い晴朝は同年12月に宇都宮広綱の次男・朝勝を養子として迎え、自身の妹を佐竹義重(朝勝の母の兄)の傘下である江戸重通に嫁がせる。さらには那須資胤が娘を佐竹義重の嫡男・徳寿丸(後の佐竹義宣)に嫁がせるなど、婚姻関係を通じて周辺領主と連合することで、北条氏の攻撃をしのいでいる。後には豊臣秀吉に従い、天正18年(1590)には小田原征伐に参陣して所領を安堵された。晴朝は秀吉に臣従した頃より秀吉との結びつきを求めて水谷勝俊を通じて養子縁組を願い出ており、秀吉が養子としていた徳川家康の次男・秀康に養女・鶴子を嫁がせて養嗣子として迎え、秀康(一時期晴朝から一字与えられ秀朝に改名)に家督を譲ると隠居する。ただし、市村高男の研究によれば、この時の晴朝は既に隠居して一度朝勝に家督を譲っていたと考えられ、実際に天正15年(1587)初めから天正18年(1590年)4月まで、結城氏の知行・官途・受領名に関する文書に晴朝の花押が確認できないとされている。天正18年5月に晴朝が北条方についた小山秀綱の小山城と榎本城を奪い、朝勝が実兄・宇都宮国綱と共に秀吉の下に参陣しているため、この時期には晴朝が結城氏当主に一時的に復帰して、朝勝は実家の宇都宮家に戻っている。関ヶ原の戦いの後、秀康が慶長9年(1604)に越前国へ転封となると、晴朝もこれに従う。ところが、この頃より秀康及びその周辺で徳川氏への復帰が図られるようになり、慶長12年(1607)に秀康が死去すると、跡を継いだ秀康の嫡男・忠直は松平姓を称するようになる。
2024年04月01日
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その後、下野国の宇都宮成綱の姉である玉隣慶珎大姉を妻として迎える。これによって成綱と政朝は義理の兄弟となり、同盟関係を築いた。この同盟は宇都宮成綱が没するまでの間、大いに機能し、宇都宮、結城の良好な関係はしばらく続いた。岩城氏領内支配を固めた岩城親隆・岩城常隆父子は文明17年(1485)、佐竹氏と佐竹一門の山入氏らが争っている佐竹の乱に介入。常陸国車城を攻略し、常隆は佐竹領侵略の拠点として、車城に弟の車隆景を入れ車氏を名乗らせた。延徳4年(1492)に、義藤が病死すると、岩城常隆が仲介役になり、和議が成立するが、氏義が太田城の明け渡しの条件を呑まずに再び佐竹義舜に背く。その後は佐竹氏を支援し、佐竹の乱鎮圧に貢献している。永正3年(1506)、古河公方足利政氏と息子の足利高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、足利政氏は奥州諸氏に加担を求める。岩城常隆は当初、いずれにも加担せず、両者の和解を進めたことが、後に足利政氏派となる。また、永正7年(1510)に岩城常隆 (下総守)は、佐竹義舜と江戸通雅・江戸通泰父子との新しい盟約を仲介している。同年、佐竹氏が白河結城氏に奪われた依上保の地を白河結城氏の内紛に乗じて奪回した際に常隆は佐竹義舜に支援を行っている。岩城常隆は、娘を佐竹義舜に嫁がせたため、佐竹氏とは同盟関係を築いていた。那須氏那須氏は上杉禅秀の乱以降、上那須氏と下那須氏に分裂し、争っていた。永正9年(1512)頃は上那須氏は高基派、下那須氏は政氏派で、佐竹氏と同盟関係であった。永正11年(1514)には両那須氏とも政氏派になっている。また、上那須氏は永正11年(1514)に那須資親が没すると後継者争いが勃発し、上那須氏は断絶してしまう。これを機に下那須氏の那須資房が那須氏統一を図った。古河公方足利氏永正3年(1506)、足利政氏の嫡子である足利高基は、政氏との不和が原因で、義父の宇都宮成綱を頼って下野国宇都宮に移座し、古河公方家の内紛永正の乱)が始まった。 不和の原因は、政氏が山内上杉氏との連携を重視する一方、高基は対立する後北条氏を重視したことを取り上げる見解がある。他には、高基の正室は宇都宮氏から瑞雲院(宇都宮成綱の娘)を迎えているが、このように正室を周辺の伝統的豪族に求めた例はないことから、高基と宇都宮氏との特別な関係も背景として考えられる。永正6年(1509)、上杉顕定らの調停により、高基は政氏と和解して古河に帰座したが、翌7年に顕定が越後で戦死した直後、高基は再び古河城を離れて、公方家重臣簗田高助の関宿城へ移座した。同時に山内上杉氏でも家督争いが始まると、政氏は顕実を支援し、高基は憲房を支援したため、公方家と関東管領家にまたがる内紛に拡大してしまう。また、これらの争いが永正9年(1512) に下野宇都宮氏で宇都宮錯乱を引き起こす遠因となってしまっている。永正9年(1512)、憲房が武蔵鉢形城を攻略した後、顕実は政氏を頼って古河城に逃走し、その直後に政氏も小山成長を頼って小山祇園城に移座した。代わりに高基が古河城に入り、第3代古河公方の地位を確立した結果、「公方-管領体制」は、政氏・顕定(顕実)体制から、高基・憲房体制に置き換わった。のちに憲房もまた、高基の子を養子に迎えて、関東管領の後継者(憲寛)とする。合戦までの経過前哨戦 那須口の戦い永正11年(1514) 7月頃には錯乱を鎮圧し、芳賀氏が宇都宮成綱・忠綱の支配体制に取り込まれることによって、小山祇園城の背後の守りがなくなり、足利政氏は直接宇都宮氏と隣接するようになった。危機感を覚えた政氏は、佐竹氏・岩城氏に参陣要請を出し、それに応じた佐竹義舜・岩城由隆・佐竹氏と同盟関係であった那須氏の那須資房は永正11年7月29日に出陣し、2万もの大軍を率いて下野国に侵攻した永正11年4月に足利高基は奥州伊達氏の伊達稙宗に出陣するよう要請しており、また、同年7月28日に宇都宮成綱が伊達稙宗に白河口へ出陣したか尋ねており、また、両那須氏を攻撃するように要請したが、稙宗はその要請に応えることはできなかった。佐竹氏・岩城氏の下野国侵攻に対し、宇都宮氏は宇都宮成綱の名代として宇都宮忠綱を総大将として、迎え討った。両氏はまず、下野国那須口で対峙し、一戦するが、宇都宮錯乱を鎮圧したばかりで疲弊していることや、清党が弱体化したことによって忠綱ら宇都宮勢は散々に打ち破られる。政氏方の那須領内での合戦だったなど条件が悪かったため、忠綱ら宇都宮勢は撤退している。竹林の合戦佐竹義舜・岩城由隆両軍は、撤退する宇都宮勢を追いかけ、同年8月16日に下野国宇都宮竹林で再び両軍は対峙する。この際には父・宇都宮成綱や同盟関係である結城氏の結城政朝、結城家臣の山川朝貞、水谷勝之などの援軍により、佐竹義舜・岩城由隆連合軍は撤退した。佐竹・岩城連合軍の撤退により、劣勢ながらも合戦は宇都宮・結城連合軍の勝利に終わった。合戦後の影響
2024年04月01日
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*「結城 政朝」(ゆうき まさとも)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・戦国大名。下総結城氏15代当主。文明11年(1479)、14代当主・結城氏広の子として誕生。文明13年(1481年)、政朝が二歳の時に父・氏広が没する。僅か三歳で家督を相続するが実権は重臣・多賀谷和泉守に握られ、その専横を許す事になってしまった。また、一族の山川氏の山川景貞が家督相続に干渉し、景貞の子・基景が結城氏の養子となっていたともいわれる。 「竹林の戦い」(たけばやしのたたかい)は、永正11年8月(1514)8月に下野国宇都宮竹林で行われた合戦。別名・高林の戦い、高林合戦など。また、同年に竹林の戦いの前哨戦として発生した那須口の戦い(なすぐちのたたかい)についても本項で説明する。 古河公方足利政氏の命で常陸の戦国大名である佐竹義舜、南陸奥の戦国大名岩城由隆が2万もの大連合軍を率いて下野に侵攻したことに対し、下野の戦国大名・宇都宮成綱と下総の戦国大名結城政朝らの軍勢が下野国宇都宮竹林で迎え撃ち、佐竹・岩城連合軍を撃退した戦いである。合戦以前の情勢下野宇都宮氏15世紀末、下野国では下野国守護の宇都宮成綱は室町時代に起こった小栗満重の乱、永享の乱、享徳の乱などの争いで没落した下野宇都宮氏を立て直すために積極的に周辺地域を侵攻し、勢力を拡大。また、外交も巧みに活用し、古河公方足利政氏の子高基に娘の瑞雲院を嫁がせ、姉の玉隣慶珎大姉を結城氏の結城政朝に嫁がせ、また、初代古河公方足利成氏の孫娘である上杉顕実の娘を自らの妻としたりなど、周辺勢力間で有利になろうとしていた。父・宇都宮正綱の代に自立的だった塩谷氏、笠間氏、上三川氏、壬生氏などの宇都宮一族が従属性を強め、宇都宮一族の庶流や芳賀氏、益子氏などが直臣化している。これによって宇都宮成綱の時代には宇都宮一族と多くの家臣団で構成される宇都宮家中が成立した。成立当初、宇都宮家中で最も影響力を及ぼしていたのは芳賀氏と武茂氏であり、武茂氏が芳賀氏との政争に敗北すると、芳賀氏の政治の専横が始まった。永正3年(1506)、古河公方足利政氏と息子の足利高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、成綱は勢力の拡大を図り、古河公方家の争いに介入した。この間に足利高基は宇都宮に逃れ義父である宇都宮成綱のもとに身を寄せていた。古河公方家の争いで、成綱は婿である高基を支持したが、政治を専横していた芳賀氏の芳賀高勝は、足利政氏を支持。権力者二人の意見が相違したことによって、宇都宮家中は大混乱。かつて享徳の乱などで起きてしまった家中の分裂が再び起ころうとしていた。宇都宮成綱はそれを恐れ、芳賀高勝と対立。家中の完全掌握を狙った。芳賀高勝が成綱の器量を恐れ、成綱の嫡男宇都宮忠綱を擁立し、成綱を強引に隠居に追い込もうと謀った。そこで成綱は忠綱に家督を相続させ、隠居する。また、同時期に成綱は弟の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせていた。また、同じく成綱の弟の兼綱も武茂氏の家督を継承している。隠居後も成綱が実質的な当主であり、芳賀高勝による忠綱擁立と成綱隠居の真相は、実は宇都宮成綱による家中の完全掌握を狙った謀略の1つであった。その最後の手段で、永正9年(1512) 、成綱は芳賀高勝を殺害し、宇都宮錯乱が勃発。芳賀氏与党は成綱に激しく抵抗するが、2年後の永正11年(1512)7月頃には錯乱を鎮圧し、芳賀氏は宇都宮成綱を頂点とする支配体制に取り込まれた。しかし、それと同時に芳賀氏を中心とする武士団・清党も大きく弱体化してしまった。佐竹氏常陸国の佐竹氏では佐竹氏四代にも及ぶ100年近く続いた佐竹の乱の最中で佐竹一門・山入氏の山入義藤・氏義父子が本家の佐竹義舜に背き、内紛が発生していた。延徳4年(1492)に、義藤が病死すると、義舜の正室の実家である岩城氏が仲介役となり、和議が成立するが、氏義が太田城の明け渡しの条件を呑まずに再び義舜に背き、明応9年(1500)に大山城、孫根城を攻撃し、義舜を金砂山城に追いやった。文亀2年(15021502年)には氏義が金砂山城に攻め込んできて義舜は危機に陥ったが、天候の悪化をうまく活用し、撃退に成功(金砂山城の戦い)。その後、岩城氏・小野崎氏・江戸氏らの協力によって、永正元年(1504)には常陸太田城を奪回することに成功した。永正3年(1506)頃に山入氏を滅ぼし、家中を掌握した。 その後は、独立的な動きを見せる江戸氏と同盟を結んだり、家法二十三ヶ条を制定したりと軍事力、領内支配の強化を図った。下総結城氏同時期、下総国の結城氏では、父・結城氏広が早世し、結城政朝はわずか3歳で家督を継承した。しかし、実権は重臣の多賀谷和泉守に握られており、多賀谷氏の専横がしばらく続いていた。元服後、政朝は多賀谷基泰の力を借りて多賀谷和泉守を誅殺している。
2024年04月01日
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*「結城 満広」(ゆうき みつひろ)は、室町時代中期の武士。下総結城氏10代当主。天授6年/康暦2年(1380)、9代当主・結城基光の子として誕生。父と同様に鎌倉公方に臣従した。父に倣って、2代公方・足利氏満の偏諱を受け満広と名乗り、親子ともに重用された。活動の内容としては基本的には父・基光と同様。詳しい時期は不明だが、父から家督を譲られて10代目の当主となっている。氏満亡き後も3代満兼、4代持氏に臣従したが、父に先立って応永23年(1416)、死去。家督は小山氏を継いだ弟・小山泰朝の子・氏朝を養子に迎え継承させている。満広の実子・光義は多賀谷政朝の娘を娶ってその養子となり、多賀谷氏を継承している。】 *「結城 氏朝」(ゆうき うじとも)は、室町時代前期の武将。下総結城氏11代当主。応永9年(1402)、小山泰朝の次男として誕生。伯父で10代当主・結城満広の養嗣子となって家督を継ぐ。4代鎌倉公方・足利持氏より偏諱を受けて氏朝と名乗る。永享10年(1438)からの永享の乱で、持氏が6代将軍・足利義教の幕府軍に敗れて自害した後、関東が将軍の支配下に入ることに不満を抱き、持氏の遺児である春王丸や安王丸らを結城城に迎え、幕府に対して公然と反旗を翻した。いわゆる結城合戦であるが、これに対して義教は結城城に上杉清方を総大将とした大軍を送ってこれを攻め、嘉吉元年(1441)4月に結城城は落城し、安王丸と春王丸は捕らえられて後に殺され、氏朝は嫡男で12代当主であった持朝と共に討死して果てた。享年40歳。なお結城氏は末子・重朝が生き延び、後に足利成氏によって再興が許されている。】 *「結城 持朝」(ゆうき もちとも)は、室町時代中期の武将。下総結城氏12代当主。応永27年(1420)、11代当主・結城氏朝の嫡男として誕生。「持」の字は4代鎌倉公方・足利持氏から偏諱を受けたものと思われる。永享10年(1438)からの永享の乱では鎌倉公方の足利持氏に加勢した。永享12年(1440)3月、永享の乱で自害した持氏の遺児である春王丸・安王丸を雍した持氏派残党が常陸国で挙兵すると、氏朝・持朝父子はこれらを結城城に庇護し、幕府による追討を受けた(結城合戦)。持朝は父氏朝や結城一族の諸氏と抵抗したものの敗れ、結城城は落城し、父子ともに討死または自害した。『永享記』によれば、持朝の首級を挙げたのは武田信重だという。持朝の菩提を弔うために開かれた曹洞宗乗国寺は、のちに結城氏代々の菩提寺になった。春王丸・安王丸も捕らえられ持朝らの首と共に京に護送される途中長尾実景に殺害されている。】 *「結城 成朝」(ゆうき しげとも)は、室町時代中期の武将。下総結城氏13代当主。永享11年(1439)、11代当主・結城氏朝の四男として誕生。嘉吉元年(1441)、結城合戦で父や長兄・持朝ら一族の多くが戦死した際、幼児であった成朝は乳母の手によって室町幕府の追跡から逃れて常陸国の佐竹氏の許へ落ち延びた。その後、足利成氏が5代鎌倉公方となって鎌倉府が復活すると、成氏の計らいによって結城氏の再興も許されることとなる。この際、兄・長朝も家督継承に名乗りを上げたが、重朝はこれを打ち破って家督を継ぎ、成氏より偏諱を受けて成朝と改名した。享徳3年(1454)には成氏の命を受けて関東管領・上杉憲忠殺害に加担、成朝の家臣である多賀谷氏家・高経兄弟が憲忠を討ち取った。これを契機に享徳の乱が始まり、成氏が幕府から追討を受けて鎌倉を追われた時、これを庇護している。なお、この時の戦功により高経は成朝の1字を与えられて「朝経」と改名している。寛正元年(1460)頃から次第に幕府と内通するようになると、これによって憲忠の仇討ちを願う上杉氏一族に引き渡される事を恐れた多賀谷朝経によって寛正3年(1463)に暗殺された。享年24歳。朝経は結城氏支流・山川氏から山川景貞(かげさだ)の子・基景(もとかげ)を擁立しようとしたが、基景が急死したために結城長朝の子・氏広が継いだ。】 ⋆「結城 氏広」(ゆうき うじひろ)は、室町時代後期の武将。下総結城氏14代当主。宝徳3年(1451)、11代当主・結城氏朝の子・結城長朝の子として誕生。寛正3年(1463)、13代当主・結城成朝が多賀谷氏家の弟・朝経に暗殺されると、朝経は結城基景(山川景貞の子)の擁立を図るが、基景が19歳で急死したために、かつて成朝との家督争いに敗れた成朝の兄・長朝の子である氏広が擁立された。享徳3年(1455)からの享徳の乱で古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏とが対立すると、結城氏は成氏方に味方し、当主である氏広も成氏方の将として転戦し、古河城が一時陥された際は、千葉孝胤・那須資実らと共に成氏に協力し、古河城回復を援護している。しかし、多賀谷氏や山川氏、水谷氏が独立色を強めた活動をしたため、家中の統一が図れないまま、文明13年(1481)に死去。享年31歳。家督は子・政朝が継いだ。】
2024年04月01日
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その後、持氏・憲基らは無事で、鎌倉を脱出した持氏が駿河の今川範政の元に逃れて幕府の援助を求めていることを知ると、義持は諸大名とともに会議を開き、義持の叔父である足利満詮の進言もあって、持氏救援に乗り出すことになった(『看聞日記』同年10月13・29日条)。幕府の命を受けた今川範政・上杉房方・小笠原政康・佐竹氏・宇都宮氏の兵が満隆・氏憲討伐に向かった。このため、氏憲らは駿河を攻めるが今川氏に敗れ、更に上杉氏らに押された江戸氏・豊島氏ら武蔵の武士団が呼応して武蔵から氏憲勢力を排除した。翌応永24年(1417)元日の世谷原の戦いで氏憲軍が江戸・豊島連合軍を破り、押し返すがその間隙を突いて今川軍が相模に侵攻、1月10日に氏憲や満隆、持仲らが鎌倉雪ノ下で自害した事で収束した。また、乱で敗北した事により犬懸上杉家は滅亡した(ただし、氏憲の子の何人かは出家することにより存命し、幕府の庇護を受けている)。また、武田信満は追討軍によって自領・甲斐まで追い詰められて自害、岩松満純は捕らえられて斬首された。禅秀の乱の波紋室町幕府では乱に際して4代将軍の足利義持は持氏を支援するが、一方では義持の弟の足利義嗣が出奔する事件が起こり、義嗣は捕縛されて幽閉されるが、幕府内で上杉氏憲と内通していたと疑惑を持たれる人物の名前があがるなど波紋が広がる。室町幕府応永24年、氏憲の死後に自分の身に対する危険を感じた足利義嗣は京都を脱出するが、間もなく義持側近であった富樫満成に高雄で捕らえられ、義嗣の身柄は仁和寺から相国寺へ幽閉されて10月20日に出家させられた。ところが、11月に入ると義嗣の取調べにあたった富樫満成から出された報告が問題を呼んだ。そこには義嗣とともに現管領細川満元、元管領斯波義教をはじめ、畠山満則、赤松義則、土岐康政、山名時熙、更に公家の山科教高、日野持光らが共謀して上杉氏憲に呼応して義持打倒を計画していたと言うのである。これを受けて土岐持頼(康政の嫡子)が伊勢国守護の地位を奪われた他、満元以下有力守護や公家たちが揃って謹慎・配流を命じられた。明けて応永25年(1418)に入ると、義嗣は義持の命を受けた富樫満成により殺害される。ところが、この年の11月には逆に満成が義嗣に加担し、なおかつ義持の妻妾・林歌局と密通しているとの疑いで追放されてしまったのである。これは件の告発によって義持と富樫満成ら側近集団に実権を奪われた細川以下の有力守護大名側の逆クーデターとも言われている(満成がかけられた義持妻妾との密通容疑は後に別件で失脚した同じく義持側近の赤松持貞に対しても容疑としてかけられたものであった)。なお、満成は高野山に逃亡したものの、応永26年2月4日(1419)2月28日)に畠山満家の討伐によって殺害されている。鎌倉公方室町幕府のこの反乱に対する立場は、義嗣や南朝との連携を危惧して氏憲討伐に乗り出したのであって、本心から鎌倉公方である持氏を支持していた訳ではなかった。持氏も幕府中央の混乱に乗じて関東・奥州各地に発生した武装蜂起に対して自己の政権の権限と基盤の強化に乗り出して幕府中央の権威を否定する動きを以前から見せていたからである。幕府から追討を受けている筈の氏憲の遺児が実は幕府に保護されていたという事実は、持氏が幕府に対して反抗する事態を考慮したからである。鎌倉府と敵対的でありながら室町幕府の意向を受けて禅秀討伐に加わった下野国の宇都宮持綱が乱後に上総国の守護に任じられたり、足利氏ゆかりの足利荘が鎌倉府から室町幕府の直接管理に移されたりしたのも、持氏に対する牽制であったと考えられている。禅秀の死の翌年にはその旧領であった上総において上総本一揆と呼ばれる旧臣である国人達を中心とした一揆が発生している。更に禅秀方についた大名らは持氏からの報復を危惧して鎌倉への出仕を取りやめる者が相次いだ(実際にその後山入与義や大掾満幹が鎌倉出仕中に持氏の軍勢に攻め滅ぼされている)。その後、持氏は岩松氏や佐竹氏(山入氏系)などの氏憲の残党狩りや京都扶持衆の大名など関東における反対勢力の粛清などを行うと同時に(この一件を称して「応永の乱」と呼ぶこともある)自立的行動を取りはじめる。 その一方で、奥州南部の統治のために派遣されていた叔父の篠川公方足利満直は犬懸上杉家との関係が深く、乱後の持氏との関係の悪化とともに鎌倉府からの自立を図るようになる。やがて、守護任命などを巡り幕府は鎌倉公方を警戒し、鎌倉公方と関東管領との意見対立も続き、関東地方での騒乱は永享10年(1438)の永享の乱、永享12年(1440)の結城合戦などに引き継がれた。】
2024年04月01日
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文安3年(1446)に関東諸将の要請で持氏の遺児・成氏の鎌倉帰還が実現、鎌倉府が復活したが、成氏は後に上杉氏と対立、享徳の乱を起こした。結城合戦は永享の乱の延長線上の出来事であるが、合戦の規模は永享の乱よりも大きい。結城合戦を描いた『結城合戦絵詞』も存在する。なお、読本『南総里見八犬伝』は父親と一緒に結城側で戦った里見義実が、死を決意した父親と別れて落ち延びるところから始まる。 *「結城 直光」(ゆうき なおみつ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。安房国守護。下総結城氏8代当主。元徳2年(1330)、6代当主・結城朝祐の子として誕生。兄・直朝と同様、足利直義より偏諱を受けて直光と名乗る。興国4年/康永2年(1343)、兄で7代当主・直朝が戦傷がもとで死去した後、家督を継いだ。兄同様、足利尊氏(及び直義)に臣従したが、やがて尊氏・直義兄弟が対立して観応の擾乱が起こると尊氏派に属した。正平7年/観応3年(1352)に新田義興・義宗らが上野国で挙兵したときも尊氏方に与するなど、直義派・南朝方武将との合戦で功を挙げた。正平23年/応安元年(1368)にも上杉憲顕の軍に従って、武蔵平一揆に乗じて挙兵した義宗を討伐している。これらの経緯から尊氏・義詮・足利義満の3代の将軍からの信任は厚く、直光はその信任を背景として常陸国に勢力を拡張し、安房の守護職も与えられた。官位も中務大夫に叙せられるなど、結城氏の再びの全盛期を築き上げた。応永2年(1395)、死去。子・基光が継いだ。直光は教養人としても優れており、源威集の著者と言われている。】 5、「室町時代と結城氏」*「結城 基光」(ゆうき もとみつ)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての武将。下野国守護。下総結城氏9代当主。正平4年/貞和5年(1349)、8代当主・結城直光の子として誕生。元服の際にその当時の鎌倉公方であった足利基氏から偏諱を受けて基光と名乗る。年代的に考えればそれからまもなくして基氏が亡くなり、その子である足利氏満が第2代目の鎌倉公方となる。基光も引き続き氏満に臣従した。天授6年/康暦2年(1380)からの小山義政の乱の際には、結城氏は小山氏の庶流でありながら鎌倉府に味方して小山義政の討伐に活躍したので、下野守護職を得た。なお、氏満は小山氏の名跡が絶えるのを惜しみ、基光の子である泰朝に小山氏の名跡を継承させたため、結城氏の力はさらに増大した。氏満亡き後も3代満兼、4代持氏に臣従し、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に際しても持氏に従って乱の鎮圧に尽力している。永享2年(1430)、死去。家督は子・満広が継いだ。】 「上杉禅秀の乱」(うえすぎぜんしゅうのらん)とは、室町時代の応永23年(1416)に関東地方で起こった戦乱。前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱である。禅秀とは上杉氏憲の法名。鎌倉府は南北朝時代に室町幕府が関東統治のために設置した機関で、鎌倉公方は関東管領によって補佐され、管領職は上杉氏による世襲状態であった。応永16年(1409)に3代鎌倉公方足利満兼が死去すると満兼の子の持氏が新公方となった。当初、山内上杉家の上杉憲定が関東管領の地位にあったが、応永18年(1411)に憲定が失脚すると、代わりに山内上杉家と対立関係にあった犬懸上杉家の上杉氏憲が関東管領に就任した。氏憲は持氏の叔父にあたる足利満隆、満隆の養子で持氏の弟である足利持仲らと接近して若い持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握しようとした。ところが、応永22年(1415)4月25日の評定で氏憲と持氏が対立すると、5月2日に氏憲は関東管領を更迭され、18日には後任の管領として山内上杉家の上杉憲基(憲定の子)が管領職についた、氏憲は足利満隆・持仲らと相談し、氏憲の婿にあたる岩松満純、那須資之、千葉兼胤、長尾氏春、大掾満幹、山入与義、小田持家、三浦高明、武田信満、結城満朝、蘆名盛政や地方の国人衆なども加えて翌23年(1216年)に持氏への反乱を起こした。応永23年10月2日の戌の刻頃、足利満隆が御所近くの宝寿院に入り挙兵し、氏憲と共に持氏・憲基拘束に向かうが持氏らは家臣に連れられて脱出していた(『鎌倉大草紙』)。その後、氏憲と満隆は合流した諸氏の兵と共に鎌倉を制圧下に置いた。当時、関東の有力武家は通常は鎌倉府に出仕して必要に応じて領国に戻って統治を行っていたと考えられているが、氏憲らは持氏を支持する諸将が鎌倉に不在の隙をついて挙兵をしたとみられている。駿河の今川範政から京都に一報が伝えられたのは10月13日で、当初持氏・憲基が殺害されたという誤報を含んでいたことと、将軍義持が因幡堂参詣のために不在であったために幕府内は騒然となった。幕府に詰めた諸大名は会合して情報収集に努めることにして夜に義持が帰還するのを待って対応を決めることとした。
2024年04月01日
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「結城系図」を見ると、父・貞広の付記に「鎌倉執権北条貞時授一字、故名貞広」(鎌倉執権北条貞時一字を授く。故に貞広と名す)とあり、祖父・時広も貞時の父である北条時宗から「時」の字を受けていることは明らかであるため、貞広の子である朝祐もその慣例に倣って得宗家に従い、当主の高時(貞時の子)を烏帽子親としてその偏諱を受けたことに疑いの余地はない。従って当初は高時の偏諱を受けて朝高と名乗っていたが、幕府滅亡後はその「高」の字を棄てて朝祐に改名したことが分かる。前述の通り系図類で掲載されている「朝祐」の名の方が知られているが、実際には朝祐と名乗ってから数年ほどで戦死しており(後述参照)、おおよそ半生は朝高を名乗っていたことになる。前述のように、事実上得宗家に従属する形で幕府の御家人として活動し、笠置城攻めには幕府軍の大将の一人、足利高氏(のちの足利尊氏)の麾下に属して参加している。しかし、のちに高氏と同様、反幕府派に転じて鎌倉幕府の倒幕に加担した。この頃から高氏(尊氏)と主従関係を結んでいたというわけではないようだが、これをきっかけに、幕府滅亡後は終始尊氏と行動を共にすることとなる。鎌倉幕府滅亡後 結城朝祐として前述の通り、幕府滅亡後は結城朝祐と名乗った。幕府滅亡後は後醍醐天皇による建武の新政が開始されるが、天皇の信任を受けていた分家筋の白河結城氏の結城宗広が北畠顕家が陸奥国司として多賀城に着任したのに伴って奥州式評定衆、その子・親光が雑訴決断所の一員に任ぜられた一方で、結城氏の惣領であった朝祐は本領や陸奥国糠部郡七戸の地を安堵はされたものの、宗広・親光父子に比べると冷遇されていた。このため、のちに南朝方に属する白河結城氏や一族の関氏と対立して北朝方に味方し、箱根・竹ノ下の戦いでは足利尊氏に味方した(先陣を務めたとも)。そのまま尊氏に従い九州まで下向したが、建武3年(1336)の多々良浜の戦いで戦死した。】 *「結城 直朝」(ゆうき なおとも)は、南北朝時代の武将。下総結城氏7代当主。正中2年(1325)、6代当主・結城朝祐の嫡男として誕生。足利直義より偏諱を受けて直朝と名乗る。建武3年(1336)、父・朝祐が多々良浜の戦いで戦死したため、家督を継いだ。直朝は父の代に引き続き北朝勢力に与し、南朝方の白河結城氏、小田氏、関氏などと対立した。興国4年/康永2年(1343)、足利尊氏の重臣・高師冬に従って南朝勢力である北畠親房・関宗祐・関宗政が守る常陸国関城を攻撃し、奮戦して大いなる武功を挙げたが、このときの戦いで重傷を負い、まもなく死去した。享年19歳。家督は弟・直光が継いだ。】 4、「結城氏と南北朝の争乱」鎌倉時代末期、結城朝広の子の一人である祐広は白河を本拠として白河結城氏(白河氏、または白川氏)となる。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の皇子・護良親王による鎌倉幕府討伐の令旨が届けられると、祐広の子・宗広は鎌倉幕府に対して挙兵し、続いて後醍醐天皇の綸旨を受けて新田義貞の鎌倉攻めに参加し、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においては、宗広は前述のように結城氏惣領の地位と奥州各郡の検断職の地位を与えられ、宗広の子・親光が三木一草と称される1人となった。また、親光の兄・親朝は奥州府の一員となり陸奥守・北畠顕家と北畠親房父子を補佐する。足利尊氏が建武政権から離反し南北朝時代になると、下総結城氏が足利方に従ったのに対し、白河結城氏は南朝方に属した。親光は尊氏が九州から入京を果たした際に尊氏暗殺を試みて失敗して殺され、宗広は北畠親子に従い続けたが、家督問題を巡って宗広と溝があったとされる親朝は常陸国へ渡り関東地方における南朝勢力を確保しようとした親房の救援要請に対し距離をおき、興国3年/暦応5年(1342)に足利方に従う。宗広の意向に反して白河結城氏の家督を掌握した親朝は宗広が獲得した結城氏惣領の地位を否認して、自己の本領白河の確保と周辺地域への勢力拡大を目指すことになる。以降の白河結城氏については白河結城氏の項目を参照。 *「結城合戦」(ゆうきかっせん)は、永享12年(1440)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。永享7年(1435)からの鎌倉公方・足利持氏と補佐役の関東管領・上杉憲実の対立から永享10年(1438)に永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。乱後に6代将軍・足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、永享12年(1440年)3月に持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こす。幕府方は総大将・上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、永享12年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲した。嘉吉元年(1441)4月16日、結城氏朝・持朝は敗北し討死し、城は落城した。持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺され、永寿王丸(後の足利成氏)は京都に送られた。その後戦火は鎌倉公方の支配下にあった奥州にも飛び火し、持氏の叔父でありながら永享の乱で幕府側に寝返った篠川公方・足利満直が結城氏を支持する諸将に討たれ、翌年には京都において結城合戦の祝勝会の名目で招かれた将軍・義教が家臣の赤松満祐に暗殺された(嘉吉の乱)。
2024年04月01日
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没年は詳しく分かっていないが、文永11年(1274)を最後に史料から姿を消しているため、恐らくはこの年の前後に死去したものと思われる。家督は子・広綱が継いだ。また、祐広は分家して白河結城氏の祖となった。他の子としては、関朝泰(藤姓関氏)、金山時広、平山信朝等がいる。 *「結城 広綱」(ゆうき ひろつな)は、鎌倉時代中期の武士・御家人。下総結城氏3代当主。3代当主・結城朝広の子として誕生。吾妻鏡によれば建長年間の記録に名が見え、別の記録においては文永年間に斯波氏の祖・足利家氏らと共に廷尉を務めたとされるが、詳細は不明である。広綱と子・時広、孫・貞広の時代の下総結城氏の活動の記録は乏しい。墓所は父・朝広や祖父・結城朝光、子・時広と同じ称名寺(結城称名寺)である。また、新福寺の寺伝によれば、文永年間に長楽寺(新福寺の前名)の開基となり、念仏宗に帰依し、没したとされている。法名は新福寺殿教阿弥陀仏と伝わる。】 *「結城 時広」(ゆうき ときひろ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武士・御家人。下総結城氏4代当主。文永4年(1267)または文永8年(1271)、3代当主・結城広綱の子として誕生。諱の「時」の字は、北条氏得宗家当主及び鎌倉幕府8代執権・北条時宗から偏諱を受けたものである。父・広綱の活動は文永年間の末期に途絶えていることから、その前後に家督を継承したと見られる。それから弘安年間にかけて当主として活動した形跡がある。系図上は貞広の他に子がいた記録はなく、早世したと思われる。墓所は父・広綱や祖父・朝広、曽祖父・朝光と同様に称名寺(結城称名寺)である。】 *「結城 貞広」(ゆうき さだひろ)は、鎌倉時代後期の武士・御家人。下総結城氏5代当主。正応3年(1289)、4代当主・結城時広の子として誕生。諱の「貞」の字は、元服当時の鎌倉幕府9代執権・北条貞時から偏諱を受けたものである[2]。誕生の翌年に父・時広が24歳で亡くなり、犬次郎丸が下総結城氏の当主となったものの、とても政務を取り仕切る事が出来なかったため、時広未亡人である母(小山長村の娘)が事実上当主を代行していたようである。系図上、子は朝祐のみであり、父同様、早くに亡くなっている。当主が相次いで他界した下総結城氏は一時、衰退し、代わって分家筋の白河結城氏当主の結城宗広の力が増大する事になり、鎌倉時代から南北朝時代にかけて白河結城氏が隆盛する事になる。】*「結城 朝祐」(ゆうき ともすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。下総結城氏6代当主。延慶元年(1308)、5代当主・結城貞広の子として誕生。翌延慶2年(1309)、父・貞広が21歳で亡くなり、子である犬鶴丸(朝祐)が幼少にして下総結城氏の当主となった。鎌倉幕府御家人 結城朝高として『真壁長岡文書』を見ると、朝祐が当主であった間(1309~1336)に「結城七郎左衛門尉朝高」という人物の活動が見られる。この人物は結城氏の家督継承者が称する「七郎左衛門尉」を称しており、結城氏の当主であったと考えられるが、『尊卑分脈』・『系図纂要』・『続群書類従』所収「結城系図」・東京大学史料編纂所架蔵謄写本の「結城系図」[3]などの系図では貞広の子として朝祐が掲載されているのみで、結城氏当主として朝高という人物は登場せず、また朝祐が「朝高」と名乗ったとする記載すら見られない。しかし、鎌倉時代末期に作成されたとみられる『結城小峯文書』内の「結城系図」では、貞広の子が犬鶴丸、追筆で「使 左衛門尉 朝高 結城七郎」となっている[4]が、結城氏家督継承者の通称である「結城七郎」を称していること、左衛門尉及び検非違使に任官していることのいずれもが朝祐に合致しているため、この朝高(幼名は犬鶴丸)は朝祐と同一人物であり、その初名であると考えられている。『真壁長岡文書』によれば、この「結城七郎左衛門尉朝高」(結城朝高)は、元徳年間(1329~1332)に、小栗六郎次郎入道円重と共に、真壁氏の所領である常陸国真壁郡長岡郷[7]内の所領打渡しの使者として交渉にあたった。この所領打渡しを命じたのは、幕府の引付頭人または幕府から指令を受けた常陸国守護の2通りが考えられるが、文書の中の「御教書案此の如に候」という文言から「(将軍→)執権・連署(北条氏)→常陸守護→常陸守護代→朝高」と指令が伝達されたことが窺え、この頃の常陸守護は北条時綱であったことから、朝高はその代官的役割を果たしていたようである。同文書から、元徳3年(1331)の段階ではまだ「朝高」と名乗っていることが分かるので、「朝祐」と改名したのはこれ以降であり、鎌倉幕府の滅亡及びその後の足利尊氏への服属が改名の契機になったとされている。その時の改名で「高」の字がなくなっているが、これは幕府滅亡(東勝寺合戦)の際に自害した北条氏得宗家当主及び鎌倉幕府14代執権・北条高時より偏諱を受けたものと考えられる。
2024年04月01日
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元暦元年(1184)、木曾義仲を追討するため源範頼・義経軍に参加、宇治川の戦いで木曽軍を討滅した後、平氏追討軍に参加、元暦2年(1185)3月の壇ノ浦の戦いまで戦う。鎌倉に帰還後、同年5月、戦勝報告のため東下した義経を酒匂宿に訪ね、頼朝の使者として「鎌倉入り不可」の口上を伝える。文治3年(1187、伊勢国沼田御厨の代官狼藉事件で譴責された畠山重忠の処分について、頼朝に意見具申し、その危急を助ける。文治5年(1189)の奥州合戦では、阿津賀志山の戦いにおいて敵将・金剛別当秀綱を討ち取り、その功により奥州白河三郡を与えられた。翌建久元年(1190)、奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定に参加した。建久6年(1195)、頼朝が東大寺再建の供養に参列した際、衆徒の間で乱闘が起こったが、この時、朝光は見事な調停を行い、衆徒達から「容貌美好、口弁分明」と称賛された。頼朝没後間もない正治元年(1199)10月、梶原景時の讒訴により窮地に立たされた朝光は、三浦義村ら有力御家人66人を結集して連名で作成した「景時糾弾訴状」を2代将軍・源頼家に提出し、景時失脚とその討滅に大きな役割を果たした(梶原景時の変)。承久3年(1221)の承久の乱にも東山道軍の将の一人として参戦。乱後の北条泰時・時房による「複数執権制」時代にあって、寛喜元年(1229)上野介に叙任。嘉禎元年(1235)、幕府の評定衆の一員となり幕政に重きを成した。若き日から念仏に傾倒していた朝光は、法然、次いで時領常陸国下妻に滞在していた親鸞に深く帰依し、その晩年は念願の出家を果たし、結城上野入道日阿と号し、結城称名寺を建立。信仰に生きる日々を送り、北条時氏から時頼へ続く鎌倉幕府の内紛に関与する事はなかったが、宝治元年(1247)の宝治合戦で知己の仲であった三浦義村の子・泰村の一族が滅亡した際には、老齢の身を押して下総から鎌倉に上り、執権・時頼に面会して「自分がいれば泰村を誅罰の恥に会わせなかったものを」と涙し、時頼は古老の涙を愛しんだという。建長6年(1254)、穏やかなうちに生涯を終える。享年87歳。人物頼朝の側近として幕政に参与し、弓の達人で和歌にも通じた文武両道の人物として知られた朝光であったが、尊敬していた畠山重忠の死に遭遇してからはよりつましい生活態度を取るようになり、自ら率先して政治の表舞台に出る事は無かったと言われている。こうした姿勢が梶原景時の変における御家人の動向や晩年の北条氏からの厚遇につながったとされている。一方で朝光の性格は非常に誇り高く、将軍家の御門葉であり、北条氏とも縁戚である足利氏と対立したこともあるなど気骨のある武将であった。宝治2年(1248)、足利義氏より結城家に遣わされた書簡の末尾に「結城上野入道殿 足利政所」と記してあった。通常、対等の関係であるならば、「結城政所殿 足利左馬頭入道」と記すべきところではあったが、足利氏は将軍家の門葉として源姓を称することを許されており、このような書式を用いることを許されていた。しかし、朝光は自らを足利氏より格下とされたことに激怒、「結城政所 足利左馬頭入道殿」と記して返書した。これに対して、足利氏より幕府に訴えがあり、このような書式は源氏の門葉たる足利氏に許されたものであり、御家人に過ぎない結城氏は遠慮すべきである旨を主張した。これに対して朝光は、生前の頼朝より「足利氏と同等たるべし」との許しを得ていたと主張し、時の執権・北条時頼の裁定により朝光の勝訴となった。なお『吾妻鏡』文治元年(1185年)10月24日条にある源義朝の菩提寺・勝長寿院建立供養の儀式において、足利義兼は御後、朝光は随兵として参列している。10年後の建久6年(1195年)5月20日条の天王寺参詣でも同様である(義兼はこの年に出家)。また義兼が建久5年(1194)、建久6年(1195年)に元旦の歳首椀飯を務めているのに対して、朝光が歳首椀飯を務めるのは頼朝死後の正治2年(1200)でそれも8日目となっている。『吾妻鏡』を見る限り朝光は常に義兼の下位に位置しており、頼朝在世中に足利氏と結城氏が対等だったとする朝光の主張が妥当であるかは疑問である。落胤説なお、朝光には頼朝の庶子であるという説がある。『朝光公記』によれば、伊豆配流中の頼朝の世話をしていた寒河尼の娘との間に生まれ、寒河尼の実家・八田家へ預けられた後、小山政光と寒河尼の三男(四男説もある)として育てられたというのが、その伝説の筋であるが、幕府の公式記録『吾妻鏡』をはじめとする当時の一級資料には、一切、このことには触れられていないことから、信憑性はないと見られている。いずれにせよ、頼朝が乳母子の関係にある朝光を可愛がっていたことは事実である。】 *「結城 朝広」(ゆうき ともひろ)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。下総結城氏2代当主。建久元年(1190)、初代当主・結城朝光の長男として誕生。承久3年(1221)、承久の乱では幕府側に与して北陸道の大将として参戦し、越中国における朝廷軍との戦いで戦功を挙げた。その功績により、兵衛尉・左衛門尉に任じられる。その後、検非違使となって京都の警護に功を挙げ、仁治3年(1242)には正五位下、大蔵権少輔に任じられた。その後はそれまでの功績をもって幕政で重きを成し、結城氏の全盛期を創出した。
2024年04月01日
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3、「鎌倉時代の結城氏」下総結城氏の繁栄とその衰退結城朝光とその子・朝広の時代、幕府の要職を歴任し、鎌倉府の御家人の中心として繁栄期を迎えた。しかし、朝広の子・広綱以降は当主の早世と少年新当主の家督継承(直光を除き基本、数え12歳以下の幼少である)が相次ぎ、衰退することになる。元弘3年(1333)、当時の当主・結城朝祐は足利高氏(後の尊氏)の上洛軍に加わってそのまま六波羅探題攻撃に参加、建武政権より本領安堵を得た。ところが、庶流である白河結城氏の結城宗広が早くから討幕に参加していたということで、建武元年(1334)に結城宗広に対して「結城惣領」として一族を統率するようにとする後醍醐天皇の綸旨が下された。 実際に惣領に還付されるべき結城一族の跡が宗広に宛がわれ、さらに建武2年(1335)には北畠顕家によって突如、朝祐の所領であった陸奥国糠部郡七戸が没収されて南部政長に与えられている。こうした経緯から、朝祐は足利氏に接近して足利尊氏と共に建武政権に反旗を翻してその覇業を助け転戦することになる。その結果、朝祐は多々良浜の戦いで戦死し、後を継いだ直朝も関城攻防戦で戦死している。『梅松論』には建武3年(1336)正月に京都において下総結城氏及び同族の小山氏は敵の南朝方にいる白河結城氏の軍勢と区別するために右袖を割いて冑につけて戦ったという故事が記されている。また、同年12月には北畠顕家・白河結城氏の軍が結城郡に侵攻している。また、結城直朝の戦死のきっかけとなった関城を支配する関氏(藤姓関氏)も下総結城氏の庶子でありながら南朝方についた一族であり、結城一族は南北に分かれて争うことになった。こうした状況の中で下総結城氏は一貫して足利氏を支持し、結城直朝の弟・直光の代には安房国守護を務めるなど再興を果たしている。また、一時は白河結城氏に渡った惣領の地位も同氏の内紛の影響もあり、宗広没後は再び下総結城氏の下に戻った。 *「結城 宗広」(ゆうき むねひろ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。白河結城氏2代当主。当初は鎌倉幕府の忠実な家臣として陸奥国南部方面の政務を任された。鎌倉時代末期の元弘元年(1331)9月、元弘の乱に際して、北条高時の命によって畿内へ派遣された討伐軍に「結城上野入道」の名があるが[4]、諸根樟一や御橋悳言はこれを宗広に比定している。だが、元弘3年(正慶2年、1333)に後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けると後醍醐天皇側に寝返って、新田義貞と共に 鎌倉に攻め入り、幕府を滅ぼした。その功績により、後醍醐天皇から厚い信任を受けて北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された。建武3年(1336)、足利尊氏が京都に攻め入り一時支配下に置くと、顕家と共に軍を率いて足利軍を攻め、朝廷軍の京都奪還で大功を挙げた[9]。3月、後醍醐天皇に謁見し宝刀鬼丸を授けられる。九州に逃れた尊氏が再起を果たして東上して来ると、顕家と共に足利軍と懸命に戦ったが、延元3年(暦応元年、1338)に顕家が高師直と戦って敗死したために軍は壊滅し、宗広は命からがら後醍醐天皇がいる吉野へと逃れた。その後、宗広は南朝方再起のために、義良親王を奉じて伊勢より北畠親房・伊達行朝・中村経長等と共に海路から奥州へ向かおうとしたが、海上で遭難して伊勢国安濃津で立往生し、間もなく同地で発病して病死した。津市には遭難した海岸に結城神社が有り、梅祭りで有名である。『太平記』は宗広の死に関して、常に死人の首を見ないと気持ちが晴れないと言って、僧尼男女を問わず毎日2,3人の首を切ってわざわざ目の前に縣けせるほど、生来暴虐な人物で狼藉が多かったため、その報いを受けて塗炭の苦しみを味わい地獄に堕ちるという凄惨な描写をしている。宮城県多賀城市の多賀城神社に祀られている。宗広は南朝に最後まで忠実な武将であったが、その息子・親朝が北朝に通じて親房を攻めるという皮肉な事態が発生する事になった。なお、家督は当初親朝が分家していたために親朝の子・顕朝を後継者としていたが、宗広の死後に顕朝が白河結城氏の家督と所領を父に献じたために親朝が継承している。 *「結城 朝光」(ゆうき ともみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての武将・有力御家人。下総結城氏初代当主。書物によっては小山朝光(おやま ともみつ)と記されている場合もあるが、結城家の家祖であるため、後の名乗りである結城朝光の方が、世上よく知られた名前である。仁安3年(1168)、鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする下野国小山の豪族・小山政光の子として誕生。母は源頼朝の乳母である八田宗綱の娘・寒河尼。治承4年(1180)10月2日、平氏打倒に挙兵した頼朝に母・寒河尼の引き合わせで臣従し、頼朝が烏帽子親となって元服する。養和元年(1181)4月、朝光は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)。寿永2年(1183)2月23日、鎌倉への侵攻を図った志田義広と足利忠綱の連合軍を、八田知家と父・政光、兄・朝政、長沼宗政らが野木宮合戦で破った。義広との戦いに先んじて頼朝が鶴岡八幡宮で戦勝を祈願すると、御剣役を務めていた朝光は義広が敗北するという「神託」を告げ、頼朝から称賛された。なお朝光の御剣役の回数は『吾妻鏡』において10回を数え、御家人の中で最多である。論功行賞で朝光は結城郡の地頭職に任命された。
2024年04月01日
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2、「結城氏の出自」「結城氏」(ゆうきし)は、日本の氏族。平安時代末期から戦国時代にかけて、主に下総で活動した大身。通字として「朝」(とも)や「広」(ひろ)が名前に用いられている。鎮守府将軍・藤原秀郷の末孫・小山朝光(結城朝光)が平安時代後期に源頼朝の挙兵に従い、志田義広滅亡後の鎌倉時代には下総国の結城を領したことが結城氏(下総結城氏、本記事中では一部を除き単に「結城氏」と記す)の始まりであるとされている。なお、朝光の実家である小山氏の本拠である下野国の小山に隣接していることから、結城も元々小山氏の所領であったとする考えもあるが、朝光自身が自分は父の遺領を伝領せず、頼朝の配下となって初めて所領を得たと語っていること、治承合戦期まで結城郡では古くからの郡司であったと推定される簗氏・人手氏や常陸平氏系の行方氏が支配していたと推定されることから、結城郡には元々小山氏一族の影響は及んでおらず、一連の合戦を通じて没落した行方氏らに代わって朝光が頼朝から結城郡を「新恩」として与えられたと考えられている。家伝によれば、朝光には源頼朝御落胤説があり、北条氏のために親子の名乗りができず、その代わりに身分の上では小山氏の庶子に過ぎなかった朝光にあらゆる優遇を施した、と伝える。伝統的に源氏を称し、代々の当主も「頼朝」の「朝」の字を通字としている。幾つもの動乱の時代を経て、鎌倉以来の名族としてその家名を後世に伝えた。 「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180)から元暦2年(1185)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。平氏の隆盛平安時代末期、朝家・貴族内部の権力闘争が、保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった。こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、対立を深める後白河上皇と二条天皇の間をうまく渡り歩き、さらに摂政近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、政界に於ける地位を上昇させていく。清盛の地位向上に伴い、平氏一門の官位も上昇、知行国を次第に増やしていった。二条天皇が崩御すると六条天皇が即位するが、後に高倉天皇が即位する。この間、清盛は後白河上皇と政治的に接近して更に栄達を遂げ、仁安2年(1167)には太政大臣に就任。朝廷内における発言権を大いに増すこととなる。鹿ケ谷の陰謀後白河法皇と清盛の政治提携は続いていたが、この二者を橋渡ししていた建春門院(清盛の義妹)が安元2年(1176)に亡くなると、両者の間に齟齬が生じていくようになる。そして安元3年(1177)北陸の国衙と比叡山の末社の対立をきっかけに比叡山と院近臣が対立し、院近臣を守る立場にある後白河法皇は清盛に比叡山攻撃を指示したが、清盛はこれを拒否、逆に比叡山側の要求を通し院近臣の身柄を拘束するという手段に出る。これによって後白河法皇は比叡山の言い分を聞かざるを得なくなり、近臣の追放を許す結果となる(鹿ケ谷の陰謀)。一方、その頃から高倉天皇が政治的発言権を強めるようになっていく。治承2年(1178)、高倉天皇の元に入内させていた清盛の娘・徳子が皇子を出産。後継者となる皇子の誕生で、高倉天皇が退位して院政を敷く条件が生まれる。しかし治承3年(1179)、清盛の息子平重盛と娘の平盛子(近衛基実の妻)が相次いで死去。この二者の遺領や知行国を巡って当時の摂政松殿基房や後白河法皇と清盛の間に対立が起きるようになった。治承三年の政変治承3年(1179)11月、清盛のクーデターにより後白河法皇の院政は停止される。また、このクーデターによって摂政基房は解任され、代わりに清盛の娘婿の近衛基通が摂政に就任する。また、院近臣の多くが解官された。翌治承4年(1180)2月、高倉天皇は言仁親王(安徳天皇)に譲位、高倉院政が開始される。3月、高倉上皇は清盛の強い要請により厳島神社への参詣を計画するが、先例を無視するものとして畿内の寺社勢力は猛然と反発する。また、この政変で平氏の知行国は17か国から32か国に急増するが、このことは全国各地において国衙権力を巡る在地勢力の混乱を招いた。東国においてはそれまでの旧知行国主のもと国衙を掌握していた在地豪族が退けられ、新たに知行国主となった平氏と手を組んだ豪族が勢力を伸ばすなど、国衙権力を巡る在地の勢力争いは一触即発という状況となった。
2024年04月01日
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「結城氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「結城氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「鎌倉時代の結城氏」・・・・・・・・・・・・・・84、 「結城氏と南北朝」・・・・・・・・・・・・・・235、 「室町時代と結城氏」・・・・・・・・・・・・・276、 「戦国時代と結城氏」・・・・・・・・・・・・・487、 「下野守護職補任と関東八屋形」・・・・・・・・548、 「小山氏の乱」・・・・・・・・・・・・・・・・639、 「戦国時代の終了と結城秀康の入嗣」・・・・・・7910、「結城氏子孫(水戸藩士・秋田藩士)」・・・・・9011、「白河結城氏」・・・・・・・・・・・・・・・・9412、「「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・116 1、「はじめに」「中世下総国の武家。下野国の在庁官人小山政光の三男結城朝光が寿永2年(1183)源義広の乱で戦功をあげて下総国結城郡地頭職を獲得、郡北部に入部し結城氏を名乗った。結城朝広・結城広綱の代まで平方氏、寒河氏、山河氏、網戸氏、白河氏、大内氏らの各氏を分出、一族ともに発展してきた。鎌倉後期の結城時広、結城貞広、結城朝祐は御家人身分を維持したまま北条得宗家の被官となり、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に従って14世紀後半に結城直光(1329~1395)が安房守護に就任。その子結城基光(1349~1430)は40数年間下野守護として君臨、鎌倉府の一方の中心となった。永享12年(1440)結城氏朝は基光の路線を継承して持氏の遺児足利安王丸らを擁立、1年余に及ぶ籠城戦のすえ、室町幕府軍・上杉軍に敗れ戦死したが、(結城合戦)末子結城成朝(1439~1463)が持氏の遺児足利成氏の復帰と共に結城氏を再興。結城政朝(1479~1545)の時に家中統制に成功し宇都宮氏を破って勢力を伸ばし、結城政勝(1504~1559)は小田氏に勝利したほか、城下町の整備や結城家法度制定などに尽力。結城晴朝は上信氏、小田原北条氏の狭間で家名を保って豊臣秀吉から領地安堵を受けた。慶長6年」(1601)結城秀康(徳川家康の次男)は関ヶ原の戦功で越前に転封、その5男結城直基が晴朝の養子となって結城氏を継いだ。
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