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今年は5月にさっちゃんが突然帰らぬ人になってしまい、私にとっては悲しく寂しい一年になりましたが、彼女のブログや作品を読み返しながら、懐かしむ一年になりました。少しの間と思いながら彼女のブログを続けて来ました。ご愛読していただいた多くの方々に感謝しています。くしくも来年はさっちゃんの干支だった酉年です。皆さんもよいお年をお迎え下さい。ありがとうございました。 syun今日はさっちゃんが残した大晦日のブログ記事を思い出しながら紹介します。(2007大晦日)今年も無事にお正月を迎えることが出来ました今朝は寝坊をしないで8時に起きました雪が降ってきたけれど洗濯をして、キッチンの片付けをしてお掃除をし、表を掃いて、おしめをかけたら、紅白が始まってしまいました残念ながらお絵描きする暇がなくなりました今年最後の日にお休みするのもいやなので年賀状をのせます毎日ご訪問くださってありがとうございました新しい年もよろしくお願いいたします(2011大晦日)To Chase Dream.年末の大晦日の言葉というより元日の言葉の方がふさわしいわたしは 今年一年夢を追いかけていたのだろうかそして 夢の方が笑顔でおとづれてきてくれた感じですこれに味をしめて来年も夢をおいかけましょうかすこしサイズを大きめにしてだめだめ 欲張ってはだめですよまたささやかな楽しい夢をおっかけましょう以上 大晦日の一言です(2012大晦日)ほんとうに「あっ!」というまにすぎた一年でした。阿波踊りの渦のなかで皆様に囲まれて夢中になって踊っている感じでした。改めて一駒一駒思い出してみましょうか。 ○ 1月7日名古屋xxxテレビの収録 ○ 1 月27日NHK東京の全国放送と徳島NHK ○ 四国放送のゴジカル ○ MBSのはなまる ○ 関西TV ○ 11月ナニコレ珍百景 ○ 地元のケーブルTV ○ 共同通信 徳島新聞 タウン誌 女性自身 女性セブン など私としては初めての体験でうろうろしていましたが興味深々楽しい毎日でした。報道関係のみなさま大変お世話になりました。お心遣い感謝いたしております。ありがとうございました。(2013大晦日)今年も365日無事におわります。皆様方のご厚意に支えられて自由に勝手気ままな作品を発表できたことを心から感謝していますとくに熱心に毎日コメントをくださって私も多くのことを教えて戴きお互いに心の交流を深め気持ちの良いムードが形成されてきていることを一番嬉しく思っています。(2014大晦日)大晦日です。あと5時間すれば2015年です。2014年も無事に終わろうとしています。世の中良いこともあれば悪いこともあるでしょういやなことは忘れて新しい年を迎えられることに感謝しましょう。この大きい蜜柑はさきほどここのコートダジュールの施設長さんがさっちゃんがお絵描きするのでわざわざもってきてくださいました。このみかんのようにみずみずしく新鮮な気持ちで、今一番やりたいことをまた、やらねばならないことにがんばりましょう。ブログのおかげでブロ友さんサチ友さんたちに励まされご協力いただき楽しく続けることができたこと感謝いたします。新しい2015年もみんなが楽しくなるようなブログにしていきたいと思っています。みなさんよろしくご協力をお願いいたします。(2015大晦日)今年最後の太陽が雲の高い所で燃えている。後2時間で西の山に沈むかおをあげてみるたびに 輝きを増している。「今年の夕陽をよく見てね」といっているようにさざ波のような雲を分けて大海原を進んでゆく気分でなんだか昇っているように見える。キラキラ輝いていたのが次第に紅を帯びてきた。輝きが収まって太陽の輪郭がくっきりと紅くなった。間もなく山の端に掛かってきた。 「平成27年の最後の太陽さん さようならー」1年間ありがとうの感謝をこめて元気でね来年も平和で明るい世界を頼みます。
2016年12月31日
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~「藍の風」 エッセイより~「圧力釜の思い出」 戦後間もなくの頃だった。戦災に遭って、四人家族に小さいアルミの鍋一個コンロ一個のくらしは不自由で、特に配給の丸麦を煮るのに困って、父が大阪の伯父に頼むと、圧力釜なら買えるといって、ちょうど大阪から徳島に帰る人があり、頼んで運んでもらうからと連絡があった。私は喜んでそれを受け取りに当時の汽車で二時間位もかかって蔵本駅で下りた。庄町のそのお宅を探しあてて、お礼の言葉もそこそこに頂いて帰った。重いものとは予想していたが、駅までの道は、5~6メートル歩いては下に置いて腕を休ませながら運んだ。ところが満員の列車に蔵本駅から乗るのは大変で、ようやくのことでデッキに足がかかったが、片手で風呂敷に包んだ釜をぶら下げての二駅三駅の長かったこと。大げさなようだが、全く必死の思いで耐えたのだった。今思えば、ずいぶん親切な方もあったもので、遠方はるばる、あの重い釜を運んで下さった方のお名前を忘れてしまってお礼のしようもないが、思い出す度に感謝している。釜は三升位炊けそうな大型で分厚くて、四方に鬼の角のように頑丈な止め金がくっついていて、それに蓋を締めつける蝶形のねじがついて、見るからにいかついものだった。だから戦時中の食糧難の時代に、きっと売れ残っていたのだろう。とても焼け跡から拾い集めたくず鉄などで作れるものではない。家に帰ると、斧の刃のように突き出た釜の縁で傷めたのか両方のふとももには青あざが一面に浮かんでいた。使ってみて驚いた。じゃが芋が貴重品だったその頃の空き腹ではとても持ちあげられない重さだった。重量あげの選手のように、お腹をバンドで締めて「エイッ」と掛け声をかけて持ちあげればあげられるだろうか。高温の蒸気がいつ噴き出すか分からない危険もあった。はじめのうちは使い方に慣れず火力の調節や噴出口の操作が難しくて火傷をしたり、もう煮えたか見ようとして一カ所のねじを、ちょっとゆるめたとたんに、ものすごい音を立てて、貴重な干し大根が大方ふき出して、辺りにとび散ってしまった。そんな時の悔しくなさけない思いは、今では想像もできない哀しいことだった。そして朝鮮戦争の頃だろうか、金へん景気の頃、苦労を共にした圧力釜の愛着もうすれて、くず買いに売ってしまった。そのあとは、直ぐに兵器に化けたり砲弾になって砕け散ったかもしれない。運が悪ければ、どこかの国の兵士を傷付けたかもわからない。また運がよくて、小さな鍋につくりかえられていれば、十個も二十個ものピカピカの鍋になって店頭に飾られているかもしれない。私にとって圧力釜といえば、汗と涙の哀しい思い出の詰った巨大なカブトガニのようである。 昭和五十六年八月
2016年12月24日
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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~月日の経つのは早いもので、今年も残り半月程になってしまいました。来年は酉年です、さっちゃんが元気なら8回目の年女でした。今日から郵便局で年賀状の受付が始りました。2014年12月22日のブログ記事より「師走の風をすってきたよ」朝寝坊したので知らなかったが今朝は近くの眉山も、屋根にも雪がうっすらと積もっていたらしい。午後、郵便局などに用事があってくるまでつれていってもらった。駅前の郵便局では次々お客が入ってきて出てゆく。みんなそれぞれに仕事を抱えてやってくる。そして、すたすたとでてゆく。師走だ。幼い女の子の紅い靴下ママは黒い靴下の長い脚師走の風景のなかのワンポイントだれも一言も話さない、真剣な顔つき老若男女おばあさんも3,4人腰の曲がったおばあさんが冷たい風の中自転車で乗り込んで来ていた。いすにかがまって囲い込むようにして通帳を調べている様子のこれもおばあさん。郵便局は庶民のための重要な機関だ。風は冷たいけれど老人ホームと違って外の空気は生命力を感じる。師走の風と言えばつめたいのはあたりまえだ。それが自力の生活を離れた身分にとっては別の世界だと感じる。
2016年12月15日
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「油売りのおじさん」 昭和一桁、私が小学生だった頃、朝からお得意回りをすませた行商のおじさんとおばさんが、毎日お昼時になると、帰り道、私の家に、立ち寄って一休みして帰って行った。宇野さんというおじさんは小さい車に油じみた木箱を積んでいた。何の油を売っていたのか、私の家では買ったことがないので分からないが、多分食用油と思うが、どんなお得意さんが買っていたのか分からない。その頃父は、店のカウンターの奥を仕事場にして、紳士服の仕立てをしていたので、仕事の手を休めずに、宇野さんたちの話し相手をしていた.時の話題が一通り終わると、彼のおきまりの「金満家」鴻池の話が出る。「大阪の鴻池では一日何億、ごうせいだねえ、大将」というぐあいである。子供の私には何の話か分からないが、一流の財閥の一日の取引する金額が庶民の暮らしとけた外れだと言いたいようだった。彼は話の合間に煙草をキセルに詰めて、おいしそうに味わっている。彼にとって一仕事済ませての一服は至福の時なのだろう。カウンターの上にお客用の煙草盆を置いてある。小さい四角の木箱の中に陶器の小さい火鉢と竹筒が入っている。彼は一服吸うとキセルに詰めた煙草のかすをとるため、火鉢に叩きつける。竹筒も叩く。キセルの金具のところがカチンカチンとあたる。私は火鉢や竹筒が壊れるのではないかと、はらはらする。私は、かなり高齢らしい彼が嫌いではないが、この煙草を吸うときは憎らしく思っていた。もう一つ困ることは、丁度昼食の時間にたちよって、話が盛り上がったりして、父が食事に立ち上がれなくなる。温かい昼食を用意して待っている母はいらいらしている。そんな時私は教えられたおまじないをすることになる。箒を逆さにして、手拭いで頬かむりさせて踊らせた後、立てかけておく。このおまじないが効果があったかどうか記憶にないが、ときどき面白がって試していた。このおまじないは母も祖母から教えて貰ったのだろう。昔の人たちは普段気持ちにゆとりがあったのか、貧しいながらも、工夫を凝らして、日常の生活を楽しんでいたようだ。人々は日常の暮らしをより豊かにより便利に暮らし良く、あらゆる英知を駆使して進歩させてきたと自負しているけれど、素朴な昔の貧しくとも、自然の恵みを受けた幸せな暮らしも、羨ましいと思うこのごろである。
2016年12月07日
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「藍の風」 ミニエッセイより「古いセーター」テレビできれいなベストの編み方を教えてくれる。私は古いれんが色のセーターを押入れの奥から探し出して、ほどくことにした。糸をほどくと毛ぼこりがこたつの卓の上に散った。二十歳代の私の思い出もほぐれてくる。残念ながら恋人は登場しない。戦後、疎開した山間の街で教職にありつき、下駄ばきで通勤した山路は、雨が降ると、スフや人絹の鼻緒は濡れると切れやすく、いつも布ぎれをポケットに入れていた。教科書は薄っぺらで、ま新しい自由と民主主義のおかげで、今では考えられない「ゆとり」があった。三時になると校庭に出て遊び、四季折々の渓の風景を眺め、お喋りを楽しみながら、四粁の山路をテクテク帰った。その頃まだ新しい自転車は買えなかった。町で育って山の学校はすべてが新しい体験であり、好奇心いっぱいで、貧しいながらも楽しく希望があった。此頃、教育にゆとりを言われ、土日を休んで一週五日制になった。学校も古いセーターのように縮んでしまったのだろう。 (昭和五十七年二月「俳句とエッセイ」七月号に掲載)
2016年11月29日
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「藍の風」ミニエッセイより 「お寺の鐘」数年前この家に引っ越してきた年の大晦日に突然耳元で除夜の鐘が鳴り出して驚いた。なるほど、お寺の門前に住んでいるのだなあと改めてその実感に浸ったのだった。赤ん坊が泣き出だすとか、騒音公害だといわれて、観光地でない限り鐘が鳴らなくなった。 柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺 子規この句の味わいも、やがて理解されなくなるだろう。そして 砧(きぬた)打て我に聞かせよや坊が妻 芭蕉 (宿坊の妻よ、秋の夜のしじまに、哀愁を帯びた、 かの碪(きぬた。砧)を打つ音を響かせてはくれまいか)の砧同様鳴らぬ鐘はやがて姿を消してしまうかもしれない。それとも金色に塗られて、寺院のアクセサリーとして生き伸びるかも。でも、それは歌を忘れたカナリヤを思わせ、図体が大きいだけに尚更、憐れである。 昭和五十五年十月 「俳句とエッセイ」 十二月号に掲載
2016年11月22日
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「桃の木」「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴るお手手つないでみなかえろカラスもいっしょにかえりましょう」近くの公園にある城山には、カラスのほか五位鷺がたくさん住んでいます。夕方になると、鳴きながら、ねぐらへ帰っていきます。さっちゃんはお父さんと散歩に行って、公園を出ると埋立地を通り抜けておうちへ帰ります。その道でつまづいてふと見ると、足元に十センチぐらいの小さい緑の木がはえているのに気がつきました。お父さんも立ち止まって 「これは桃の木みたいだな」といいます。「桃がなるのならお家へ持ってかえって、お庭へ植えてみよう」とさっちゃんがいいますと、お父さんもそう思って、根をいためないようにやさしく掘って持って帰りました。「桃栗三年柿八年、梅はすいくて十三年」と、昔からいわれているよと、おばあさんに教えてもらいました。お父さんも「三年したら桃がなるかもしれんよ」といったので、さっちゃんは毎日お水をやったり、アブラムシが葉っぱにつくと、薬をかけてやりました。三年目には一メートル位に丈が伸びて緑の葉も大きくなりました。そして、四年目には待ちかねたピンクの花が四つ咲きました。青い実が膨らんできました。おいしい桃になると思って楽しみにしていたのに、大きくならないでみんな落ちてしまいました。さっちゃんはがっかりしました。 桃の木はどんどん大きくなって、屋根より高く、枝を広げて、夏には涼しい蔭を作りました。桃の実も小さいけれど枝ごとにたくさんなりました。いとこの勇君がくると、「さっちゃん、桃が熟れてきたから採ってあげよう」と、ざるを持って屋根の上へあがって、少し赤くなりかけたのをえらんで採ってくれました。早速、小刀で皮をむくと虫の糞がびっしりつまって白い虫の幼虫がピコピコと、とびだしてきました。「わー、気味悪い」さっちゃんはびっくりして、あわてて捨てました。でも、赤く色づいたものはみんな虫が出てきました。虫を怖がっていては食べられません。でも、毎日見ていると、気味悪かった虫にも慣れて来ました。そのうちにさっちゃんは三年生になりました。その頃から満州事変が始まりました。続いて昭和十二年には日支事変が起きて、近所の八百屋のおじさんたちが戦地へ出発するのを駅まで見送りにいきました。その後も何度か戦地へ向かう兵隊さんを見送りに行きました。時には真夜中に重装備の一隊が隊を組んで重々しく出発していきました。 そうしているうちに、今度は駅へお迎えに行くことが多くなりました。戦死された兵隊さんの英霊が白木の箱に入って、仲間の兵隊さんが白布で胸に抱いて帰ってこられました。昭和十六年十二月八日にハワイの真珠湾攻撃に始まる日本とアメリカの戦争が起きてしまいました。アメリカの軍事力に対して日本はなすすべもなく降伏しました。東京、大阪と次々アメリカの空軍の爆撃を受け、焼け野原になったあと、さっちゃんの住んでいた町も100機の爆撃機が落とす爆弾や焼夷弾に焼かれました。人々は逃げ場を失って川と山へ逃げました。米軍は大量の焼夷弾を照明弾の真昼の明るさのなか的確に落して行きました。 さっちゃんは、目の前に縁側から飛び込んできた銀色の筒に驚いて飛び出しました。お母さんは弟を負ぶって先に公園へ避難しました。お父さんはバケツを持って火を消しに飛び出していきました。一晩中爆撃機の轟音と爆弾や焼夷弾の落下する音、建物の焼ける音、夜中に始まった空襲は明け方に終わると辺りがシーンと静かになりました。翌日、さっちゃんは家の焼け跡に行きました。まだぽこぽこと熱気が漂っていました。白い灰が積み重なっていて、ガラス器などが変な形になって埋まっていました。残っていたのは塩の壺だけでした。裏庭のほうに回ると、何かタドンのような真っ黒いものが辺り一面にころがっています。桃の実だったのです。かわいそうに桃の木は逃げられなくて焼かれてしまいました。さっちゃんはたくさんの桃の実を見ていて、涙がでてきました。 住む家が焼けてしまったさっちゃん一家四人は山間の小さな町のおじさんを頼って行きました。小さい町の厳しい暮らしが始まりました。よく遊んでくれた、やさしかったいとこの勇君は太平洋の南の島で戦死しました。戦争がなかったら勇君もやさしい先生になっていたことでしょう。
2016年11月16日
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「鏡台」洋服商の父がいつも仕事をしている窓辺に来て沢野のおばあさんのおしゃべりが今日も始まりました。父も仕事をしながら話し相手になって結構楽しそうでした。彼女は若い時紡績工場で働いていたそうで、なかなかの話し上手で明るく楽しい話題を思い付くまま、二人して時事放談とでもいうような雰囲気になります。ちょうどそのころ、ラジオドラマの「愛染かつら」の全盛時で放送時間には風呂屋が空になると噂されていました。二人とも政治の話題も好きでしたが、ドラマはおばあさんが前の日に放送されたドラマの解説入りのストーリーでその熱弁に引き込まれるありさまでした。数年前までは機織り機械を玄関の土間に据えて、時々コットンコットンと音を響かせて、布切れを引き裂いて長くつないで、普段着の帯を、彩りも美しく織り上げていました。そして、いつの間にか織機も片づけて時間をもてあましていたのでしょう。毎日ほぼ時間を決めて窓辺に立ち寄って、仕事中の父とひとしきりおしゃべりを楽しんで帰るのでした。沢野のおばあさんには鏡台作りの職人の息子さんがいて、一緒に住んでいました。職人さんらしく口数の少ない静かな感じの方でした。昭和十三年に満州事変が、そして十七年に上海事変起きて近所の八百屋のご主人が幼子を置いて出征、徳島駅までお見送りしました。その後、戦場が拡大するにつれ、度々出征兵士を見送りに行きました。すべての生産は軍事用に集中して、しだいに食糧や日用品は不自由になってきました。そんなすべて手に入りにくいなか、両親はタンスやお客用の座布団を新調し、畳表まで買い揃えていました。当然鏡台の材料もてにはいりにくくなっていたのに沢野さんに頼んで特別に作っていただきました。沢野さんは良い材料を手に入れるのに苦労をしたこと、自信を持って作ったことなどお話をお聞きしました。二階の自分の部屋に届いてからは、毎日時間があれば鏡に映してみたり、木の香りがする引き出しを開けたり閉めたり、何も入れるものがないけれど、なんだか誇らしい気分で楽しんでいました。といっても三月から女子挺身隊にかりだされて沖の洲の造船所へ勤めていましたから、毎朝七時ごろ中洲から出るポンポン船で出勤していました。仕事は造船の主任さんのもとで、船体の仕様書の印刷などでした。ようやく仕事に慣れて面白くなっていた頃、気がつけば、米軍の爆撃機の轟音が身近に迫ってきていました。秋田町に爆弾が落ちてクラスメイトのMさんが亡くなりました。艦載機が自由に飛来して銃撃されるようになりました。静かな朝の空からかすかながら腹に響く爆撃機の不気味な音がつたわってきます。防空壕の中で息をつめて緊張しています。板壁の隙間からさらさらとかすかな音を立てて砂がこぼれおちます。機械室一棟が被弾したようで全員で水のリレーが始まりました。後で知ったことですが、女子工員が一人なくなりました。造船工場は心臓部を破壊されて、操業できなくなりました。昭和二十年七月四日未明に始まったB29の空襲によって徳島市は殆ど灰燼となりました。爆撃の轟音が収まって、お互いの無事を確認出来た後、何を見、何を思い何をしたかほとんど記憶にないありさまでした。その日一日焼け後の熱気と煙で夜があけずに夜になりました。その夜は刑務所官舎の一室で休み夜が明けました。多分そのあとうろうろしているとき、ぱったり沢野さんに出会ったのでした。お互いの無事を喜んだあと、一番に「鏡台は無事でしょうか?」と尋ねられた時私たちは返事に詰まったのでした。焼け残ったのは配給のジャガイモが米櫃の缶の中で 半焼けになって残っただけでした。「ああ、鏡台は田舎の親戚に預けていて無事でしたよ」と口まで出かかったけれど、沢野さんの人柄を思うと、とても嘘は言えませんでした。でも、彼の悲しそうな表情に胸を打たれる思いでした。やはりいわない方が良かったのか。嘘でも無事だと言ってあげた方が良かったかもしれない。彼が精魂込めて作った作品をいつまでも残してほしかったに違いない。
2016年11月09日
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「藍の風」ミニエッセイより 「頬白のうた」(島木赤彦)昭和の初めに生まれ育った者たちにとって十代の少年少女のやわらかい感性に浸み込み、胸をキュンとさせた代表的な歌人といえば啄木からはじまって牧水や白秋であった。 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる 啄木 白鳥は哀しからずや空の青梅のあをにも染まずただよふ 牧水 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ 白秋などは誰もが愛誦したものだ。その頃は島木赤彦の歌は啄木たちのように胸をくすぐる甘さ、センチメンタルなものがなく、渋い自然詠だとして、あおの不快味わいに魅力を感じなかった。赤彦の歌に親しく出合ったのは、六十年余り昔、女学校卒業の時、先生方や友達にお別れの記念に書いて頂いたノートにあった一首である。 高槻の梢にありて頰白のさえずる春となりにけるかも書いて下さったのは体育の若い女先生であったが、残念ながら卒業アルバムもそのノートも空襲で焼失してしまった。今となっては先生のお名前もお顔も思い出す述もないが、きれいな歌だと印象に残っていて、後日、島木赤彦の歌だと知った。 たまたま目の前にあった朝日新聞の一面に大岡信の「折々のうた」の欄にこの歌が載っているのが目に入った。 あらためて読んでみて、やはり「高槻」が分からない。折々のうたの解説には「高い槻の木の梢で・・・」とあるから木の名前らしいが聴きなれない名前だ。辞書を引くと「ケヤキ」の古名、「ケヤキの一変種」ツキケヤキとある。大岡氏の解説文を写そう。 『大虚集』(大正十三)所収。赤彦は信州の諏訪に生まれた。諏訪地方は信州でも寒さがとりわけきびしいあたりで、諏訪湖は冬期厚い氷に覆われる。その結氷は有名である。当然赤彦の歌には故郷の湖畔の冬のきびしい寒さを詠んだものも多い。それだけに冬が去って春を迎えた時の喜びは、赤彦にとっては他人事ではないものがあった。高い槻の梢でさえずる頬白は、正に春の到来を喜びをこめて唄う使者だった。 赤彦の言葉によれば作歌は「鍛錬道」であり、短歌の究極は「寂瘳所に澄み入る」ところにあるといったと。(上田三四二記)彼の歌は分かり易い言葉づかいで、谷間の湧水のように清澄な風情と細やかな観察の目と、深い詩情で満たされている。 信濃路はいつ春にならむ夕づく日入りつしまらく黄なる空のいろ 赤彦赤彦は大正十五年三月五十一歳で亡くなったが、大正時代を通じてアララギの中心人物として指導的地位にあり、写生の現実主義を貫いた。 「徳島短歌」に掲載
2016年11月04日
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2011年10月24日 ブログ記事より「十月の空気」ようやく気温が定まりました九月は暑かったり急に寒くなってあわてて毛糸のセーターを探したり一日のうち何度も着替えしましたいまは気温もだいたい安定してきてしのぎよくなりました祖谷のかずら橋や紅葉まつりを見に毎年いきましたいつもお世話してくださった友達は早く亡くなりましたもう行く機会がありません長生きすると気が付いたら周りにいた人たちがつぎつぎにどこかへいってしまいましたでも寂しさに落ち込んでいてはいけません新しい気持ちを求めて変身しましょう 「かがしの金ちゃん」コスモスの花が色とりどりに風に揺れています。千代ばあちゃんはお隣の百合子ばあちゃんと一緒に、昨日からかがしを作る材料を集めて、いっしょうけんめい作っていました。おひる御飯をすませて、家の近くのあぜ道に立てに行きました。千代ばあさんが作ったのは男の子で金太くんで、百合子ばあちゃんが作ったのは女の子で美代ちゃんです。金太君は今年の春東京へ行ったお兄ちゃんのブルーのシャツを着て、美代ちゃんはお姉さんのピンクのブラウスを着せてもらって、嬉しくてルンルン気分です。畑へ行き帰りする人たちが「かわいいね」と言ってくれるので得意になっています。そのうちに3時、4時と過ぎてお日さまは山の陰に入り、あたりはだんだん暗くなってきました。子供たちも遊ぶのをやめて、畑で仕事をしていた大人たちも一人二人とお家へ帰って行きました。雀もカラスたちも啼きながら、ねぐらへ帰っていきました。急に藪かげが濃くなって気味悪くなりました。足元が冷たくなってきました。金太君は美代ちゃんのことが気になりました。「おーい、美代ちゃんよ―げんきかい」お隣の畑の畔に立っている美代ちゃんに声をかけました。
2016年10月29日
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2011年10月23日のブログ記事ですjX童話賞の結果のお知らせがきました投稿したことをすっかりわすれていましたはっきりとは思い出せませんが「松ぼっくり」という狸の老夫婦のおはなしだったのでしょう自分では面白いと思っていますがなにぶん7000を超す応募があったそうで入賞できる見込みはありませんでしたが誰かに読んでもらいたい思いもありました。 「まつぼっくり」 町はずれの桃の木山のふもとに、タヌキのおじいさんとおばあさんが住んでいました。近くの丘に新しくテニスコートができました。テニスコートができたおかげで、二人は昼間はのんびりそとへでることができなくなりました。ブ―ブ―若い人たちが車でテニスをしにきます。テニスコートのまわりには金網でかこってあるけれど、いつジュースの空き缶がとんでくるかわかりません。空き缶ばかりでなく、ボールがとんできます。日曜日はとくにひどくて、二人は家の中でちぢこまっているありさまです。でもとびこんできたボールは拾っておいて管理係のおじさんに持っていってあげると一個十円で買ってくれます。 その日は日曜日だったので二時ごろから、近くの高校生たちが来てテニスを始めました。男女六人でワイワイと大声でわめきちらして良い空気を胸いっぱい吸い込んで、思い切りとんだり跳ねたりしていました。あまりにぎやかなので、おじいさんが外に出ていきました。あわてて、おばあさんも追いかけていきます。「おじいさん、あぶないですよ。きょうのテニスは若い子たちだから、ボールが当たったらこぶができていたいですよ」「外へ行くなら、さあこのお鍋をかぶっていくといいですよ」と、おばあさんは自分の頭にも鍋の柄を片手にもってかぶっていきました。「があーん」すぐにボールがとんできました。おばあさんはクラクラとめまいがして、鍋を持ったまま地面にひっくりかえりました。おじいさんはあわてて駆けてきて、おばあさんを起こしてあげました。「お鍋をかぶっていてよかったですわ」とおばあさんは地面にペタリすわっていいました。「やっぱり、危ないから家の中へはいりましょうよ」「そうだなあ、今日は見るのをやめよう。若い子はらんぼうだから」「毎日、勉強、勉強でむしゃくしゃしているもんだから、ここへ来て、思い切りボールを打って気晴らししているんでしょう。」おじいさんとおばあさんが家のほうに帰りかけると「ガシャ、カランカランカラン」と足元に空き缶がころがってきました。見上げると空き缶がぶつかったのか、家の軒にのせていた松の枝が落ちていました。「ああ、これじゃあ家がつぶされてしまう」おじいさんは、やっぱり引っ越しを考えなければならないと、ゆううつになりました。それから数日たってお月さまがだいぶんまーるくなってきました。おじいさんはスポーツ服に着かえていいました。「おばあさん、今夜はお月さまが明るいから、久しぶりにテニスをやろうか」そういえば、昼過ぎからおじいさんは、木の枝で作ったラケットの破れたところをつくろっていました。「さあ出来たぞ。おばあさんや、外へ行ってまつぼっくりをひろってきなさい」おじいさんはラケットを試し振りしながら言いました。おばあさんは近くの松の木の下に行って松ぼっくりをざるに拾ってきましたおじいさんは、その中から丸いのをえらんで小さいのや長いのはすてました。そして、フウーと息をふきかけると、ふしぎなことにまつぼっくりはみんな白いテニスボールになりました。「さあ、これで準備オ―ケイ、出発」おじいさんは号令をかけて出てゆきます。おばあさんは、あわてて番茶の入った水藤をかかえて、あとからかけていきました。「ポーンポーン、ポーンポーン」 おじいさんも、おばあさんも、なかなかの腕前です。それもそのはず二人は若い時、タヌキの地区対抗のテニスの試合にでた選手でした。そして、天皇陛下と美智子皇后さまと同じように、テニスでむすばれたなかでした。だから、一年前に、近くの丘に新しくテニスコートが出来たとき、一番に喜んだのはタヌキのおじいさんとおばあさんでした。それからは、お月さまが明るい夜は仲良くボールの打ちあいっこをしていました。二人がテニスをした翌日は、ボールの箱にまつぼっくりが五つか六つボールに交じっているのでした。管理人のおじさんは「誰だろう、いたずらっ子が松ぼっくりをこんなところに入れて」と言いながら、そちらのほうにタヌキのおうちがあるとも知らず、金網ごしにまつぼっくりをなげていたのでした。
2016年10月23日
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さっちゃんは焼け跡に残った庭の桃の木のことがよほど印象に残っていたのでしょう。こんな作品を残しています。そしてブログでも同じ桃の木のことを記事を残しています。2014年7月16日 ブログ記事より 「桃の季節です」おいしそうな水蜜桃が出始めました。桃の季節がくると、庭の桃の木が真っ黒になって焼けた桃の実をびっしりつけたまま焼け跡に残っていた姿を思い出します。もちろん家財や大切なものもすべて灰になっていましたが生きたまま黒こげになった桃の木と実があわれでした。焼跡へ始めて行った時の様子でした。そのあと知人のあのひとこのひとの消息がわかってきました。ほんとうに生きていてよかったと感謝です。そのとき父はバケツひとつさげて消火にひとりがんばっていたのですがおとなりさんたちは田舎の実家や親せきに疎開していて隣組はからっぽだったそうです。2015年7月14日 ブログ記事より 「さっちゃんの桃の木の話」小学生の時助任川に浚渫船が来て毎日大きい音を立てていました。そのうちに川幅の半分ぐらいの埋め立て地ができました。なにもない草地になって子供たちの遊び場になっていました。ある日父と散歩に行って桃の種を拾いました。狭い庭の隅に埋めておきました。いつの間にか芽が出ておおきくなり数年経つと桃がなりました。小さいけれど水蜜桃でおいしかったので虫をのけて食べていました。そうして10年ほどの間は平和でした。昭和20年7月4日アメリカ空軍のB29の空襲にスダチほどになっていた桃はかわいそうに真っ黒焦げになってみんな落ちてしまっていました。種から育てたのでかわいそうでした。
2016年10月18日
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いつも「さっちゃんのお気軽ブログ」に多くの方々がご訪問いただきありがとうございます。ブログ閉鎖に関してご心配いただいていますが、今も、ご愛読いただいている方が思った以上に多くまた、このブログが交流や情報交換の場にご利用していただいている方もおられますので、当分、閉鎖せず続けておくようにしたいと思っています。更新は不定期になりますが、まだ紹介したいさっちゃんの作品もありますので、折に触れ紹介出来ればと思っています。気温も下がって寒さを感じるようになってきましたのでくれぐれもお身体に気をつけてお過ごし下さい。 syun
2016年10月13日
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さっちゃんはこんな作品も書いていました。さっちゃんのブログに掲載された絵は私(syun)の撮ってきた写真をモデルにして描かれたものも沢山ありました。
2016年10月08日
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またまた大型台風18号がやってきています。大きな被害が出ないことを祈っています。「藍の風」より 「煙も見えず、雲もなく」 ~原稿のまま掲載します~
2016年10月03日
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「カセットテープで天国へ」この作品は36年前に書かれた作品でNHKへ投稿されたものです。「藍の風」の一番最初に掲載されたエッセイです。原稿のままをYouTubeにアップしました。50秒くらいでページが送られますが、原稿のため読みづらい場合は、ページごとにストップしてお読み下さい。ここで使われたカセットテープは退職してから買ったものですが、実はよく似た動機でさっちゃんは60年ほど前にオープンリールのテープレコーダーを買っていました。ある日、私が学校から帰ると大きな箱のようなものが届いていました。ソニーが1951年に開発した普及型のテープレコーダーH型で、学校などの放送室では見かけたことがありましたが、まさか我が家に・・・流石、新しい物好きのさっちゃんでした。 syun~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2016年09月27日
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2012年9月23日 ブログ記事より 「彼岸花の想い出」1945年7月 戦災に遭って、見知らぬ町に住みつきました。まもなく終戦となり、山や川は平和に秋を迎えました。山の部落へ行く潜水橋のたもとに一群れの彼岸花が紅く咲きました。川の流れで洗濯する気持ちよさを知りました。お釜を持ってきてお米を研ぐ人、対岸では牛を洗っている人、本当に平和でのどかな自然が戻ってきました。なにもないくらし、縫うものもない、書くもの、鉛筆も紙もない、毎日何にもすることがない、行くところもない、自然の目の前にある山や川を見て一日一日がすぎていきました。秋の雑木林の色のあのすばらしい美しさを初めて知りました。不自由な暮らしの中で自然の移り変わりに心を癒され、心の糧になっていたことに今になって気がつきました。
2016年09月22日
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「藍の風」ミニエッセイより 「トマト」トマトの原産地は南米アンデス高地で、日本では明治初期から栽培されるようになったという。今から半世紀前、徳島にも出廻ってきて、大きくピンク色であった。大方の人は臭いが強くて、すぐには好きにはなれなかったが、父は大そう気に入って、子供の頭ほどのものを選んで、両手から果汁を滴らせながら、おいしそうにかぶりついて、ペロリと食べた。私は鼻をつまんでも一口で吐気がした。近所の人たちは、父の食べっぷりを動物園の猿でも見るように、口をあけて眺めるのだった。退職してトマト作りも十年になる。狭い庭で連作の害にもめげず、毎日とりたての新鮮なトマトを仏壇に供えて、父のあの顔を思い浮かべて私は満足している。 昭和六十年四月
2016年09月16日
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「藍の風」ミニエッセイより「秋の蝶」顔をあげると眼の前に網戸の中ほどに黒揚羽が止まっている。見事なプロポーションうしろ羽の紅の斑紋が粋である。 山国の蝶を荒しとと思わずや 虚子の句が浮かぶ。いつか虫眼鏡で覗いて、意外に残忍そうな横顔に驚いたことがある。蝶に魅入られてはいけない。が、こんな句もある。 蝶来るや、何のしようもない庵へ 一茶蝶は羽を拡げてポーズをとり、羽をたたんで、色紙の切り抜きのように風に吹かれたり、たっぷり一時間、部屋の中のしようもない住人の眼を楽しませてくれた。だがテレビを見る時間がきたので、スイッチを入れると、都はるみの顔がアップになって現れた。蝶は、あわてて後もみずに飛び去った。 昭和五十七年九月
2016年09月11日
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「台風12号が今夜来るそうです」 週末にかけてやってくる台風さん。イベントを作る人、参加する人。 個人的にも予定している人。そのほか多くの人が困ります。といって 普段の日だって・・・・・考えれば台風の来てもよい日なんてありません。暴れたい時は人のいない海の真ん中でどんちゃか暴れてね。稲刈りがまだすんでいないところもありそうです。お手柔らかにとお願いいたします。あめがおおいと山間部で土砂災害が起こります。風が強いと秋の収穫を前に果物などの被害が大きくなります。いずれにしてもいまどきありがたくないお客です。早く海へ出て行って下さい。 ~2011年9月2~3日 ブログ記事より~
2016年09月03日
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「藍の風」ミニエッセイより「万葉人に招かれて」「百伝う磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲陰りなむ」ラジオから流れてくる大津皇子の辞世の歌、犬養孝先生の名調子の万葉歌の朗詠が今も耳に蘇ってくるほどに分かり易い先生の講話に導かれて、難しいものと敬遠していた万葉集に近づくことができ、万葉人の赤裸々な叫びに心を打たれ、親しみさえ湧いてきました。 そういえば母校の女学校の庭にも、ささやかな万葉植物園があり、犬養先生に劣らぬ情熱をこめて万葉集歌を教えて下さったN先生のことも思いだされます。 そして昭和十年代は催眠術をかけられた如く、全国民が歌わされた歌は大伴家持の「海ゆかば水漬く屍、山行かば草むす屍、 大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ」の大合唱の波涛の前に砕けてしまいました。今晩学ながら万葉人に招かれて、万葉集の魅力にとりつかれています。 昭和五十六年一月
2016年08月29日
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「幸せの塔」けい子ちゃんは小さい頃からお花を植えて毎日お水をあげたり、草を取ったりお世話をするのが好きでした。お母さんに教えて貰って、やさしく面倒を見ていると、いつの間にか蕾が出来てやがて美しいお花が咲きます。それが楽しくてこまめにお世話していました。そんなある日、サボテンの植木鉢の隅っこに緑の小さい芽が出ているのを見つけました。どこか草と違う感じがしたので抜かないでおきました。其のうちに緑の芽はどんどん大きく育ってきました。「あら、あんたナスタチュームさんだね」大きく育ったナスタちゃんはたくさん蕾を付けて、やがて紅い花や黄色い花を次々咲かせました。まんまるいサボテン君もナスタちゃんと仲良しになって毎日楽しそうに遊んでいました。「あんた、どこからきたの?」サボテン君が話しかけます。「どこからきたのか、あたちしらないのよ。きっと風に乗ってきたのよ」それから何か月か経ちました。けい子ちゃんの新しいお家ができました。けい子ちゃん一家は新しいお家にひっこしました。新しいお家のべランダから見ていると、すこし右寄りの方に細高い塔が一番に目にはいりました。曇り日が続いていたので、塔の色は鈍い灰色にみえましたてっぺんは六角錐の形のようです。何のために作られたものか正体が分かりませんが、煙を吐くこともなく、音が出る様子もなく、それだけに不思議な塔だなと思っていました。そして、お天道さんは気が変わったのか、秋らしく爽やかな青空になりました。けい子ちゃんが久しぶりにべランダに出てみると、あの鈍い色の塔が朝日を受けてキラキラ輝いています。明るい色のドレスをまとっているようにみえました。「ああ、幸せの塔だわ」けい子ちゃんの口から思わず出てきた言葉ですそれからは秋晴れ続きで、毎日塔はキラキラ輝いていました。けい子ちゃんも日増しに新しいお家に慣れて来ました。そんな秋晴れの朝べランダに出てみると、朝陽をうけてあの背高のっぽのしあわせの塔の六角屋根の下に音もなく扉が開いて小鳥が一羽出て来ました。すると、また隣の扉が開いてまた一羽小鳥が飛び出して来ました。けい子ちゃんがなおも見ていると、小鳥たちが次々現れて、みんなで8羽が空高く入り乱れて飛び交いながら、どこかへ飛んで行ってしまいました。けい子ちゃんは驚いて、ただ黙ってながめているだけでした。「アーア、あの小鳥さん達どこへいったのかしら」けい子ちゃんはただ小鳥さんが飛んで行った空を見続けていました。塔を飛び出した小鳥さん達は何処へ行ったのでしょう。ここは公園のお花畑です。美しく咲き揃っている花々、ひなげしやアイリスやペチュニアなどの間を小鳥たちが楽しそうに、チッチ、チッチと飛び交っています。小鳥さん達はお花の蜜を吸ったりかくれんぼしたり、お花の上を飛んでいて、種が実っているのを見つけると、くちばしいっぱい啄んでどこかへ飛んで行ってしまいました。小鳥さん達は、やがて、あちらこちらのお花畑に飛んで行って、お花の種を振りまいてきました。そうして何度か行ったり来たりして小鳥さん達は季節ごとのお花の種を蒔いて、一年中地上にお花が絶えないよう働いているのです。今日も夕焼けの美しい色に染まった中をしあわせの塔の小鳥たちは帰ってきました。六角塔の小窓の扉が開いて8羽の小鳥さんたちはお家へはいりました。そうして、毎日しあわせの塔の小鳥さんたちはお花畑から、お花の種をもらってきて、あちらこちらの公園やお庭に蒔いていました。あれから一年ほど経ちました。あちらの公園の花壇やこちらの花畑やお庭にいろいろの春の花が美しく咲き始めました。
2016年08月23日
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田舎とはいえ団地の建てこんだところでわずかの庭木にきて毎朝毎朝せっせ、せっせと油蝉たちが声の限りに競って鳴いていました気がついたら、あのやかましいセミたちはどこへいってしまったのでしょう土の中から生まれてきた蝉たちはその短い一生を声をからして終えてしまって楽しかった思い出をいだいてもとの土に帰ってしまいましたカエル君も土に帰って安らかに眠っているでしょうわれわれ人間も人によって人生の長い短いのちがいはあってもいつかは土にかえるのだと思っていいでしょう (2013年8月22日 ブログ記事から)
2016年08月18日
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「蝉の一声」朝出勤してきた女性が二、三日前、蝉の声が聞こえるよという。今朝カーテンを開けて、耳を澄ますとかすかに蝉の声が聞こえてきた。ああ、夏が来た。温度計はずっと夏の温度だが、蝉の声をきくと本格的に夏が来たんだと思う。ここ四階のベランダの下には家々の植え木が茂っている。道路を通る白い車の頭が一か所だけチラチラ見えるだけで大きい樹木の茂みが埋めている。今年の夏は蝉の声がやかましいだろうと思っているが、まだ生まれてこないのだろうか、一声では寂しい。このお盆はさっちゃんの初盆で、あわせて百か日法要も行います。
2016年08月13日
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「白いドレスの記念写真」いとこの節ちゃん一家がブラジルへ行くという話を聞かされました。そんなある日、一枚の写真が送られてきました。 盛装した一家四人の記念写真でした。おばさんが一番に目に付きました。まっ白いドレスに白い鳥の羽根がついたモダンなお帽子。節ちゃんも白いレースの飾りのついたかわいいお洋服を着ていて、とってもきれいだなあとみとれていました。、「いいなあ、こんなドレスきてみたいなあ、お姫様みたいだなあ」と思いました。来月になると、ブラジル行きのお船に乗ってゆくという。うらやましいお話でした。幾日か経って節ちゃん一家が私の家へお別れに来ました。その時、節ちやんは私にフリルのいっぱい付いたドレスを着た西洋人形をくださいました。節ちゃんが大切にしていたお人形だということでした。うれしかったなあ。私は節ちゃんたちがなぜブラジルへゆくのかわかりませんでした。その日は夜遅くまでお父さんとお母さんとおじさんとおばさんの四人で話し合っていました。お父さんとお母さんはいしょうけんめいに、おじさんたちのブラジル行きを思いとどまるよう言いました。でも、おじさんもおばさんも、もうお店を閉じて、家の道具など処分してしまったからと、気持ちは変わらないようでした。そうしていく日かたって、神戸の港からブラジル行きのお船が出る日になりました。準備はもうすっかりできていました。その朝のことです。突然節ちゃんがめまいを起こして倒れました。あわててお医者さんに診てもらいました。お医者さんは、とてもブラジルまで行ける体でないから止めなさいといわれました。仕方ありません。病気の子供を連れては行けません。ブラジル行きは止めなければなりませんでした。そうして、またおじさんたちは洋服商の仕事を続けることになりました。一度処分した仕事の道具などを買い戻したり、もとのようにお店の出来るようお父さんは徳島から何度も大阪へ行き来して、おじさんのお店の立て直しに力を貸してあげていました。あの時のお別れの記念写真を時々取り出してみるたびに、ブラジル行きの時の話をしてあの時のことを思い出していました。本当にブラジルへ行かなくて良かった。節ちゃんの気持ちが自然に運命を変えたのだと思います。その思い出の写真も、多くのほかの大切な品々とともに米軍の空襲の夜、炎に包まれて焼けてしまいました。でも今でもあの写真の節ちゃんの白いお洋服姿がまぶたに浮かんで来ます。 2013年5月30日
2016年08月08日
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平成24年に発行された「徳島ペンクラブ選集」PART30 に掲載されたさっちゃんの作品です。 冷蔵庫の番人 堀 江 幸 子ひとり暮しは寂しいだろうと、ブログの友人、今治のマッチャンが、個展のお祝いにと持ってきてくださった「冷蔵庫の番人のペンギン」とすっかり仲良しになっている。折から原発事故の後節電を強制されて、どうなるのかと不安な毎日だった。冷蔵庫を開けるとペンギンのぺンちゃんが ペ「おかえり」と元気な声 さ「お帰りはおかしいよ、今起きたばかりやで」ぺんぎんのぺんちゃんは京都弁で話す。だからこちらも京都弁らしくしゃべりたい。 ぺ「今日もお天気やったらいいのにね」 さ「そうだねえ」最近は対話のリズムがうまく合ってきたと思ったら突然 ぺ「野菜も食べなあかへんよ」と叱られる。 さ「はいはい、ちゃんと食べてますよ」 ぺ「節約、節約」まるで母親みたいだ。その次の日の夕方、冷蔵庫を開けると ぺ「なにつくりはるの?」 さ「そうねえ、なににしようかなあ」ペンギンに相談しても、おかずのことなど考えてくれるとは思えない。あれこれ迷っていると ぺ「あついわあ」 さ「そんなにあついはずないやろ。さっちゃんはこんなセーター着てても寒いんやで」と、言いかけたとたんに ぺ「あけっぱなしはあかへんよ」 と、きつい声でまた叱られた。 さ「はいはい すぐ閉めますよ」 人間の言葉で話しかけてくれる生き物がいると、確かに生活感が深くなるような感じになる。といっても一方通行だから何の役にもたたない。ペンギンはセットされた言葉しかしゃべれない。言いたいことがあっても自由に話すことはない。思えば可哀そうだ。冷蔵庫の番人は四種類ある。沖縄弁を話すおじさんセイウチ、鹿児島弁を話す九州男児の白クマ君、東北弁を話す岩手県のちびっこアザラシちゃんと私の家へお嫁に来た京都弁の女の子ペンギンちゃんです。 このごろ急に寒くなって、冷蔵庫を開ける回数が少なくなった。用事もないのにペンギンのペンちゃんの声が聞きたくて、開けて待っていることもない。ペンちゃんもさぞ退屈しているだろうなあ、たいくつならいいが、それよりじっとしていて凍り付いているかもしれない。たまに開けてもすぐにはしゃべらない。仕事を忘れて眠っているかもしれない。ところが数日前に冷蔵庫を新しく買い替えた。まだ使えるが、年が寄ると、どんどん背が低くなって、一番上の冷凍庫に手が届かななくなった。奥が見えない。取り出せないので新しい型を買った。ペンちゃんも新しい住家に引っ越して気持ち良くなったのだろう、途切れなく、しゃべり続けるようになった。食品の置き場所を決めたり、並べ方をあれこれと考えていると 「あつくてかなわんわあ」 「節約 せつやく」 「あけっぱなしはあかへんよ」と、たてつづけにしゃべりつづける。「ごめん ごめん」と謝りながら急いでしめる。どこへ何を入れたのか忘れて探すのに時間がかかるようになった。並べ変えようとすると「おいでやーす」と機嫌が良い。夕食の準備しようと開けると「何作りはるの?」外出から帰ると、タイミングよく「おかえり」「どうやった?」「がんばりすぎはよくないよ」といたわってくれる。 猫や犬を飼って、家族の一員として、可愛がっている人は多いが、年をとると生き物の世話はできなくなる。物言わぬワンちゃんのぬいぐるみを抱いて、話しかけていても癒されるようだ。この方言のキャラクターたちは人間らしい声が出るから親しく感じられる。機械的でなくて、感情を込めて話しかけてくる。誰がこんな楽しいアイデアを考え付いたのだろう。こんな面白いものを次々作って、世の中が明るくなるといいと思います。
2016年07月31日
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吉野川市文化協会発行の「ぶんげい麻植」12号 (2017年3月 発行)で、堀江幸子 追悼特集を組んでいただけるようです。まだ、大分先になりますが、楽しみにしています。http://park15.wakwak.com/~yoshi-bunka/kaiho.html
2016年07月26日
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2016年07月20日
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2016年07月14日
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清里・まきば公園からの八ヶ岳(平成25年5月3日)
2016年07月08日
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2016年07月02日
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十年の長きに渡って「さっちゃんのお気楽ブログ」を愛読していただき、ありがとうございました。今日、無事に四十九日法要を終えることが出来ました。さっちゃんの存命の時は勿論のこと、その後も、懐かしく思っていただける方々のご期待もあって、少しでもさっちゃんのことを知っていただければとブログを引き継ぎ更新してまいりました。お陰様で毎日三千人もの方々にご訪問いただき、又、温かい感想や励ましのコメントにも大いに元気付けられました。ブログを続けて良かったと感謝しています。今日を機にブログの更新は終えますが、当分の間、ブログはそのままにしておきたいと思っています。これからも、時々さっちゃんのことを思いだしてこのブログに遊びに来ていただければ幸いです。尚、絵画教室や原画展やブログ等を通じて、さっちゃんとお知り合いになって頂き、度々ご訪問いただいたり、何かと気にかけ、支えていただいた方々にも心から感謝申し上げます。最後に、皆様が元気にすごされることを、心から願っております。長い間、本当にありがとうございました。
2016年06月25日
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「いやな感じ」冠婚葬祭互助会とか称して入会を勧めに来た。昨日も今日もと煩わしいので、「もう居りません」とすぐに断った。娘も子もなく、両親も既に送ってしまって独りなので、用事はないと思っているのに、自分の葬式代の積み立てをせよという。けしからん。まだ二十年生きる予定で生活設計をたてているのに。「私、まだ死ぬ気はないんです」腹が立って一寸強く言ったけれど、何のききめもなく、喋りつづける。お昼の銀河ドラマが終わってしまうと尻をうかしているのに、パンフレットを広げて見てくれという。有名人であるまいし、死後のことまで誰が心配するもんか。最近はお墓もない方が迷惑かけなくてよいと思うようになっている。この文章は昭和五十七年十月、六十歳の時に書いたものです。さっちゃんのいうように、この後三十四年近く元気に活動を続けました。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~大好きなくりこちゃんと一緒に旅立ったさっちゃんは明日で満中陰を迎えます。これまでの間は新しい生へと生まれ変わる準備をしているとされていますが、明日は閻魔大王の裁定を経て無事に極楽浄土に行ってくれると信じています。代々のお墓に祖父母、両親、二人の兄妹と一緒に納骨されることになります。今も尚、さっちゃんから電話がかかってくるような気がして、ふと携帯電話に目をやることがありますが、私もそろそろ寂しさや悲しい気持ちを切り替える時期になったと思っています。 syun
2016年06月24日
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「30年前の作品です」 2013年6月11日の記事です1981年の頃の水彩の作品が数枚出てきました一生懸命に描いたようです描きたくて自分流の未熟な作品ですがなつかしくあのころを思い出しています今はチョチョイいのチョイと筆先でかいていますがあのころは真剣に うまく描こうと力が入りすぎています夢がいっぱいでした もちろん今も夢がいっぱいです~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「藍の没落」の中に書かれているようなことについて、子供の頃、断片的に聞かされていた記憶はあります。さっちゃんの残した資料を整理していると、父親が何代も前からの家系を整理し残したものを、引き継いでまとめていました。日頃からこうした資料や記録を大切にしているからこんな作品が書けるのだなあと改めて思いました。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「藍の没落」(3)<つづき>S家といえば、母の家に冠婚葬祭があれば本家のS氏の代理として奥様が出席される。まるで華族さまの令夫人のように、一同が並んで平伏する中を、背筋をピンと張って、音もなく白足袋が一同の目の前をツーツーと通り抜けて、一番奥の上座に、何のためらいも見せず着座される。私は母の横にかしこまって、子供心に、大した御方だと目をみはって眺めたのを思いだす。封建思想のまだ残っていた昭和初年に、女も身分が高ければ、あれだけの威厳ある態度が見に備わるものかと、並みいる叔父たちが小さく見えたことだった。そのS家も戦後は農地改革で、祖先が開拓した○○新田など広大な土地を失い、市井に埋もれてしまった。今は吉野川も氾濫することは無くなった。祖父の墓参りにいくと、辺りは銀色のハウスの波が打つ。役場の帳簿には祖父の名が残っているのは、この方五尺の墓地だけである。幼い頃両親と訪れた時は一面の桑畑であった。水車がコトコト廻って眠気を誘い、小川には目高が群れていた。戦前、何かの折に京阪神から帰ってきて、わいわい騒ぎ、懐かしがったり、会えば必ず口喧嘩する兄妹もいて、賑やかだった叔父叔母たちは、もう一人もいない。いとこ達との付き合いも次第に薄れてきた。自然も変わる、社会の流れも変わる。人の心も当然変わるものなのだ。(おしまい)
2016年06月23日
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私が家から車で30分程の大和郡山にも箱本館・紺屋という藍に関する施設があります。豊臣秀吉の弟「秀長」が大和統治時代の頃に箱本13町と云われる城下町の自治組織が作られました。紺屋町はその一つで、江戸時代より藍染め等の商いを行っていた町屋が立ち並んでいた地域で、箱本館・紺屋は藍染めを生業としてきた町屋を改修し公開しています。建物の前には往時の名残で、染料を洗い流すために作られた用水路が残されています。 館内には藍染に関する器具や染料等の資料や作品が展示され、藍染の色合いや良さを知ることが出来ます。 syun ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「藍の没落」(2)<つづき>祖父より十年長生きした祖母の姿は、両親から時折聞かされて、少しは想像できる。何故、それだけが私の家にあったのか分からないが、昔、押し入れにあっおばあちゃんのと分かる和歌らしい美しい仮名の連綿に見とれて「誰が書いたの」と母に聞くと、「おばあちゃんの手習いだろう」といった。他に一族に手習いなどする心の余裕のある人物に思い当たらないから確かなことと思う。祖母のエピソードとして、座敷を箒で掃くのに、一カ所を七、八回ずつ繰り返し掃くという話。戸や障子を開け閉てするときはひとが触れていない上の方を持つという話。徳島市の内町あたりの裏通りに隠れ住んでいたが、貸し本を毎日読んで過ごしていたという話。二十歳を頭に七人の姉弟のうち、幼児三人をつれていた筈だが、どのようにて暮らしを立てていたのか、四十三歳で亡くなったから、女盛りの三十代を、炬燵に入って手習いしたり、貸し本に読みふけっていたとは、不思議なひとであると思う。さて、数年前に出版されたK町教育委員会編集の「K町の歴史と文化財」という本の藍作の項に「阿波藍商繁昌見立鏡」として、明治十九年の分と二十九年の番付表が載っていた。戦前の県下のの有名な富豪たちが名を連ねていて、母方の本家S氏の名が中くらいの大きさの文字で記されているのを見つけた。母の話では油問屋と聞いていたが、昔は藍商として名を馳せていたということだ。そうすると、私の家は父方と祖父が藍師で、母方の祖母の実家も藍商だったという、藍にかかわる家系だということが分かった。といっても、吉野川沿岸の平地では藍作にかかわった人は多かったにちがいない。(つづく)
2016年06月22日
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何年か前に徳島の藍住町にある「藍の館」に行ったことがあります。旧奥村家屋敷の建物が昭和62年に11代当主奥村武夫氏から寄附され、併せて13万点におよぶ奥村家文書も町所有となったのを機に、旧屋敷内に展示館を新設し平成元年に開館したものだそうです。藍の専門博物館として阿波藍の知識を普及するとともに、藍の生活文化の創造と藍の情報センターとしての役割を担っているようです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「藍の没落」(1)私の祖父の代までは藍師といわれる藍作業農家兼藍玉製造販売を営んでいたようだ。父の幼い頃の思い出話によると、庭に大きな寝床があり、三十人ほどの男女の使用人がいて、藍作りをしていたという。阿波の藍作りの歴史は古く、村上天皇の御時(九百四十六年~九百六十七年)に阿波の藍が最も優れているという記録が残っているらしい。その後、天正十三年(千五百八十五年)蜂須賀家政が入国し、吉野川沿線の洪水による肥沃な土地に藍作りを奨励して、大いに藩の財政が潤ったという。しかし幕末の頃になると、インド藍が輸入されはじめ、更に明治に入ると、ドイツの化学染料が広まってきて、複雑な製造工程や染めに熟練の技術を要する阿波藍は次第に没落していく。それでも、明治三十年代には最盛期を迎え、県内耕地面積の四十五%に藍を作っていたという藍王国出会った。そして明治三十六年、或いは三十八年頃をピークに急速に衰える。父は明治二十三年に生まれた。同三十四年十一歳の早春、父親が四十四歳で病死すると一夜にして家屋敷田畑を奪われて、在所を追われることになる。十六歳の長兄は大阪に出て医者の書生として住み込み、三男の父は河内の商店へ丁稚奉公に出され辛酸をなめることになる。祖母は「ごりょんさん」と呼ばれて、家の財政のこと一さいかかわりを持たず、水仕事もしたことが亡かった。だから、何故倒産したのか知らず、全く晴天のへきれきの出来事であった。原因といえば、祖父の遊里に時を過ごして家業をおこたり、総てををまかせて信頼をよせていた番頭の裏切りにあったということらしい。(つづく)
2016年06月21日
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さっちゃんは、それまで書き溜めていたエッセイの中から選んだ作品を「藍の風」として平成23年11月に自費出版しました。下記の文章は、その際に書かれたさっちゃんの「あとがき」です。発行部数も少なかったので、ご希望の方にも読んでいただくことが出来ませんでしたので、さっちゃんのことを知っていただける作品を何編かこのブログを通じて紹介させていただきました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・昭和五十年三月、二十八年間の教師勤務から解放されて、一日二十四時間、自由な時間を持つことのできる喜び、これから何をするべきかと考える楽しさに心躍るおもいでした。勿論、新制中学校が新設されて英語教師として教壇に立つことができ、職場の皆さまから頂いたご親切やご助言のおかげで無事勤めることができましたことを心から感謝致しております。さて、一番に考えたことは、二十余年住み慣れて、心ならずも、米軍機に追われる様に離れた故郷徳島市へ帰ることでした。そして戦後二十年お世話になった貞光町をでて鴨島町に引っ越してきました。鴨島町には知人もなく、ただ祖先の墓があるだけですが、何故かご先祖様に近づいた感じがします。昭和五十年四月、新居が出来たのに病気入院中の母が亡くなり、一人になってしまいました。それまで「ひまわり俳句」で高井北杜先生に俳句を三十年近く教えて頂いていましたが、平成十年、洋画を教えて頂いていた眞野孝彦のお勧めとご指導で「徳島短歌」に入会して今年で十三年目になります。十年目には徳島短歌賞を頂きました。短歌は奥が深いようで、どの道を行くべきか恥ずかしいことながら、いまだに入り口辺りでふらふら迷っている感じです。昭和五十年から六十年代にかけて、昔の思い出やその日その時に思いついたことなどを書きためていた短い文章を、この時代に生きて来て、時の流れに呑み込まれてながらも、自分の眼で見てきた時代を描き残すことが出来たらという願いから拙い一文を残すことにしました。題名の「藍の風」は祖父の代まで藍作りを営んでいた有様を幼時に見てきた父から時折聞かされていた思い出話から思いつきました。このたび出版するにあたり、藤原茂喜様に何かとお世話していただき、お力添えのお蔭と心から感謝いたします。また多田印刷株式会社の皆さまには大変お世話になりました。深くお礼申し上げます。 平成二十三年九月二十日 堀江 幸子
2016年06月21日
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「徳島大空襲の日」 2013年7月5日のブログ記事です7月4日は徳島大空襲の日でした多くの人の、そして 私の人生を狂わせた重大な出来事でしたそれを忘れるということは 今が平和で ブログのおかげで楽しい日々に恵まれている証ですだからといって決して戦争の悲惨さを忘れてはいけません幼い時から遊びなれた、お猿さんや小鳥たちのいる檻の並ぶ公園で焼夷弾の降り注ぐ中を逃げ惑った、あの夜の出来事近くの病院に10トンばくだんがおとされ、小さい池で幼友達が赤ちゃんをおぶったまま焼夷弾に打たれて亡くなりました頭からかぶったふとんからしょういだんが火を噴いているおとこのひとが絶叫しながら走って行きました 誰もなにもできません警防団のひとたちは山裾で並んでいて動けなかったのでしょう今の政治家の方はほとんど戦争を知らない人たちです「徳島大空襲の日に想う」 2014年7月4日のブログ記事です1945年7月4日深夜縁側から飛び込んできた焼夷弾におどろく。アメリカ空軍爆撃機のB29 が149機来襲2時間。照明弾に真昼の明るさ 天地も裂ける轟音と火焔束がはじけてザアーと,火焔を噴出しながら降り注ぐ焼夷弾地上に転がり、地面に突き刺さる人々は我家を捨てて公園に集まり身を隠すものを探して右往左往する背中に火を吹く弾をうけて狂ったようにはしる男 池の中で赤ん坊を背中に負ったまま弾をうけた幼友達防空壕の中で両親を亡くした同級生夜があけると見つけたものは城山のふもとに並んだ白い柩の数数その日は一日どんより日暮れ色だった。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~もうすぐ徳島大空襲があった日(7月4日)になります。さっちゃんのブログの中にも、しばしばでてくる言葉です。何度か記事としても書かれています。私も小さな頃より、空襲を受けた日のことは聞かされていました。家の近くにあった城山の防空壕に逃げ込む時に小さかったのでタンスの引き出しに入れていたと。本当かどうか定かではありませんが・・・こんな日が二度と来ないことを願うばかりです。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「七月五日のかぼちゃ畑」七月四日は徳島大空襲の日です。真夜中、爆撃の轟音と渦巻く火焔の中、命からがら生き延びて、立ちこめる煙に太陽も顔を出さず、その夜は近くの焼け残った刑務所官舎のがらんどうの部屋で眠った。翌日、汽車が動くということを知って、親子四人で佐古駅へ向かった。道路の両側はまだ余燼が燻ぶっていて、熱かった。チラチラ赤い焔が瓦礫の間から見えた。佐古駅前には大勢集まってきていて、列車が出た後も積み残された人たちの長い行列が駅前広場に蛇行していた。突如爆音が聞こえてきた。米軍機が焼跡を偵察に来たのか、あるいは逃げまどう人びとを機銃掃射するためか分からないが、長い行列は一瞬のまにちりじりになった。どこか安全な場所はと見渡したが焼け跡には何もなかった。列に並んでいた人たちは何処へ消えたのか、私たちはどうしようもなくて近くのかぼちゃ畑へ飛び込んだ。遮蔽物にはならないが、かぼちゃの葉っぱに「隠しておくれよ」と、必死に祈り続けた。世の中がどんなに変わっても、戦争をさせない心と力を持ちたいと思っている。
2016年06月20日
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「かるた会の想い出(2)」 2015年3月16日の記事です「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」百人一首の中の超有名な阿倍仲麻呂さんのおうたです昨日のは「久方の光のどけき春の日にしずこころなく花ぞちるらん」お母さんのお得意の歌でした。私のお得意は蝉丸という坊さんの歌でした。子供の頃、昭和ひとけたの時代、かるた会が盛んでありました。集まった連中が紅白にわかれて札の取り合いっこをしました。元気な職場のお兄さんたちがどたんばたんと畳をたたくのでほこりもうもうのありさま夜更けまで熱戦が続きました。私も小学生の頃からいちまいのふだをとられないように守りました。そんなかるた会の想い出は今まで何度もブログでご紹介いたしました昭和一桁、あの時代がいちばんたのしかったなー大きいよく透るお父さんの声、いつも読み手を務めていました。「かるた会をしましょう」 2015年1月8日の記事です懐かしいかるた会をして見たいと思いましたが百人一首のかるた会はとてもできそうにありません。若い人は百人一首の歌を覚える機会がないようです。流行歌はおぼえても意味のわからない和歌など覚えても何の役にも立ちません。そこで「いろはかるた」をつくることにしました。 「犬も歩けば棒に当たる」でなくて昔よく歌った童謡の一節を集めて作ってみました。子供のころを思い出して歌いたくなることでしょう。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ゲーム機全盛の時代、今の子供達が「かるた会」にどれほど興味を持つことが出来るか分かりませんが、「かるた会」を家庭で楽しめるような平和な時代が続くことは総ての人達にとっての願いです。さっちゃんは繰り返し戦争の悲惨さを話してくれています。今日から改正公職選挙法が施行され選挙権年齢が18歳に引き下げられます。それぞれが真剣にこれからの平和を考えたいものです。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「水谷さんの思い出(2)」<つづき>初めの内は自分の札を持った責任みたいなものを感じて、ひとに取られないように両手で囲ってみたりして守っていた。 ある時、絵入りの読み札を見て私のお気に入りの歌が盲目の琵琶法師の蝉丸の歌と知ってがっかりした。お姫様の歌だったらよかったのにと、蝉丸が疎ましく思われた。その後若者たちを招いてのかるた会は続いていたのだろうか、全く記憶にない。水谷さんはいつも朗らかであったが、新しいもの好きであった。そのころ流行しはじめていた鉱石ラジオを聴かせてくださった。レシーバーという電話の交換手が耳にあてているような道具でその頃のラジオは聞いていたようだ。私も気味悪く思いながら耳に当ててもらって聴いた。今でいえばお笑い番組みたいで、遠くの方から聞こえてくる観客らしき笑い声がどっと沸き起こっていたが、ガ―ガ―と雑音がひどくて何をしゃべっているのかわからなかった。その次に買ったのは蓄音機で、大きな箱の上に大きいラッパがのていた。ふたを開けてレコードを載せると、きれいな音楽が出て来た。サトウハチロー作詞の「赤い翼」という歌謡曲であった。彼はこの曲が大変気に入って「この曲いいねえ」「いいでしょう」と何度も念を押すように繰り返し、うっとりとして聞き惚れていた様子が目に浮かぶ。しかし、その後何故か新しいレコードを聴かせてもらった覚えはない。その後、彼は川向こうの大きい家に引っ越していった。夫人は寂しがって遊びに来てほしいと誘われて、何度か友達とふたりで尋ねて行った。学芸会のように歌を歌ったり、お遊戯をして楽しく、喜んでいただいた。そのころから中国との争いが続いていたが、上海事変の時には近所の八百屋のご主人が召集されて妻と幼児が残された。深夜の駅まで見送りに行った。隊列を組んだ武装した一隊の物々しさに大変なことになっていると実感させられた。気がついたときは世界㋨強国を相手に戦争のまっただ中に置かれて、平和な暮らしを奪われていた。アメリカ空軍の爆撃に遭い市民は生活をも奪われた。水谷夫妻の安否はわからない。(おしまい)
2016年06月19日
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「かるた会の想い出(1)」 2015年12月9日の記事です 嵐吹く三室の山のもみじ葉は 龍田の川の錦なりけり (能因法師)百人一首の読み札にお坊さんの絵があったのを覚えています。もうひとつ ちはやふる神代も聞かず龍田川 からくれないにみずくぐるとは(在原業平)業平さんはお公家さんでしたか?男前で女性にもてたとか?お隣に国鉄にお勤めの水谷さんがお正月が来ないうちから若者を誘ってどたんばたんのかるたとり、たびたび仲間入りさせてもらいました。平和な時代の楽しい思い出です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さっちゃんのブログには「かるた会」の話がしばしば出てきます。今日の「水谷さんの思い出」も「藍の風」には掲載されていない作品です。まだ、父も母も元気だった小学生低学年の頃、正月には必ず百人一首をやっていました。勿論、読み手は父で、その名調子は大好きでした。その頃、百人一首のかなりの歌は暗記していたように思います。何故か一番先に覚えて私の得意札になったのは「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む 」でしたが、その後「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」等も大好きな歌になりました。百人一首で「ぼうずめくり」等、家族皆で賑やかに遊んだ日のことは今も記憶に残っています。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「水谷さんの思い出(1)」 下駄屋が五百円で建てたという新築だが、二階建て二軒続きの長屋で、間口の広い方が私の家で、狭い方に水谷さんご夫婦が住んでいた。私が二歳か三歳ぐらいの時、裏庭で水谷夫人に抱いてもらって、母と三人で写っている写真があった。多分ご主人が写したものだろう。 水谷さんはたしか静岡の出身で、夫人も言葉遣いから徳島の人でないと思われた。当時彼は鉄道にお勤めで、明るく朗らかな、ひと付き合いの柔らかい紳士であった。 ご夫婦とも賑やかなことが好きらしく、毎年お正月が来ると職場の若い人たちを招いて、かるた会を楽しんでおられた。それも世間では猫の手も借りたい歳末の大忙しの時、お昼からドタンパタンと賑やかなお正月気分の歓声が続くのだった。なにぶん壁一重の向こう側で数人の元気のいい若者が思いっきりドタンパタンとかるたの取り合いっこの騒ぎは安普請の土台から響いてくる。こちらは洋服商でお正月用の晴れ着の注文を何着も抱えて、年末には夜なべ仕事が続き最後は徹夜となる忙しさである。子ども心にも月給取りはのんきでいいなあと羨ましく思っていた。待ちかねた年が明けて家族三人ゆったりとお正月気分を味わっていると、お隣からかるた会のお誘いが来る。若者の手が揃わない時など誘われてメンバーに加わる。そんな時は読み役はたいてい声のよく通る父の役割である。若者たちの仲間に入れてもらって私は緊張する。色々とかるた取りのテクニックなど教えてもらって楽しい一夜を過ごす。お正月三が日が過ぎると、、静かな家族だけのかるた取りを楽しみ、百人一首のあれこれや読み方など教えてもらったりしていた。父のお気に入りの札は寂連法師の「村雨の露のまだひぬまきのはに霧立ちのぼるあきのゆうぐれ」 母のお気に入りは紀友則の 「久堅のひかりのどけき春の日にしづ心なくはなのちるらん」 水谷夫人のは紀貫之の 「人はいさこころもしらず故郷ははなぞむかしのかに匂ひける」 そして私が母から最初に与えられた札は「これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬも相坂の関」 蝉丸 「しるもしらぬも」と、この札は他の札と比べて見つけやすい気がする。
2016年06月18日
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「第二の故郷の山に向かって」 2016年3月13日の記事より朝は晴れていたのに雲が隙間なく詰まってきた。遠くの山なみはしっとりかすんできた。毎日こうしてべらんだからやまなみの姿を見る。何故か日増しに気持ちが深くなってくるようだ。情感という言葉が浮かぶがまだ使いたくない。ありきたりの感じがするから、もっと心のこもった言葉を見つけたい。日増しに深まるこの思いをあの山たちにどう伝えたらいいのだろう。とつぜん、離れてきて遠くから見て思いがけず深まる想い。戦後70年の時代の波に流されて暮らしの中でいかに深くあの山たちと付き合ってきたか思い知らされている。ああ、あの山、この山、ありがとう。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さっちゃんの亡くなる二ヶ月ほど前、京都から彼女の姪(私の娘)一家が顔を見たいと立ち寄りました。二人の又姪はもう小学5年生と中学一年生になりますが、さっちゃんのブログの絵にも何度か登場しています。さっちゃんはいつも気にかけて、童話等を送ってくれていました。三年前にはさっちゃんの住む鴨島で阿波踊りもしました。さっちゃんが大切にしていた写真の中に、私の子供達と一緒に写った写真が出てきました。もう40年以上前の写真ですが、この小さな子供の子供がさっちゃんの童話を読むようになるとは何だか感慨深いものがあります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さっちゃんは「藍の風」に掲載された作品以外にも多くのエッセイを書いています。ここに紹介する「土佐の旅」もそのひとつです。「土佐の旅」 風さわやかな五月、昭和十年、女学校の二年生になったばかりの時、高知への一泊旅行に参加しました。なにぶん七十八年も昔のことなので、ほとんど忘れていますが、今まで記憶に残っていることを思い出しながら綴ってみたいと思います。さて徳島駅から列車に乗って阿波池田で土讃線に乗り換え高知市へ向かったことと思いますが、車中のことなど全く記憶にありません。でも、まず一番に高知城へ行って、次に桂浜とか坂本竜馬の銅像は見たにちがいありませんが,そのほかどんなところへいったのでしょうか、思い出すのは宿舎についてからのことです。食事の時、みんなに遅れて一人食べたり、 何故か落ちこぼれの待遇を受けて、みんなと離れて別の大広間で寝ることになりました。落ちこぼれの相棒が二人、四月にクラス替えがあったばかりでまだお互いに馴染になっていないこととて仲良くなれるかちょっと心配でしたが、そんなこと考える必要もなくてすぐに打ち解けた話し合いに入りました。相棒の一人のSさんはバレー部員で生まれつきあまり物事にこだわらないスポーツウーマンだから、二言三言話したあとすぐ横のなると寝つきが早く、パターンキュウと寝入ってしまいました。もう一方のTさんは、小柄でおしとやかタイプ、話しているうちに気が合いそうな感じがしてきました。八十年近く昔のことだから、どんな話をして意気投合したのか思い出せないが一口でいえば「少女の友」タイプで純情ムードというかおセンチな雰囲気をまとっている人で、彼女に比べてSさんは明朗快活な「少女倶楽部」のタイプといえるでしょう。そうして夜が更けるのも気にかけず、熱に浮かされたような気分になって話し続けていました。二間ぶちぬきの五十畳ぐらいの広間のまん中に布団を敷いて、窓ガラスに透ける夜中の川べりの街灯が明るい中、時折、旧制高校の学生たちが三々五々、大声をあげて通り過ぎるグループも見かけられました。旅の一夜のロマンチックな雰囲気に浸っているうちに、いつしか疲れて眠りに落ちていました。その後も毎日教室でTさんとは親密の度をふかめて、やがてお互いに自作の詩などを交換して見せあうようになっていました。そうして幼い文学少女を続けて二年ほど経ったころ突然、Tさんは家庭の事情で大阪へ引っ越して行きました。以前、一度訪れた事のある漁師町の裏通りで病身そうな母上に会ったことがありました。そうしてその後も転校先の市岡高女での様子など綴った楽しそうな分厚い手紙が届けられていました。四年生になって彼女からの手紙がとだえました。心配しながら半年ほど経ちました。久しぶりに彼女からの手紙が届きました。喜んで封を切ると一目で彼女の書体でないことが分かりました。不安で胸をどきどきさせながら読み進むと、母上からの手紙には病気で彼女が亡くなった知らせでした。
2016年06月17日
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「先生になれた嬉しさ」 2012年7月2日の記事です私の20歳の終わりのころのことです山道4キロの通勤の途中英語の会話のお勉強しながらT先生の自転車の後ろにのせてもらっていた覚えたてのどんな片言英語を話していたか覚えていないがトラックなどまだなかったのか荷馬車の轍に掘れた砂利道は危険がいっぱいで油断すると横滑りして峪にとびこむ川つつじのピンクが美しい季節鶯が近くまで降りてきて「ホーホケキョ」と歓迎してくれる渓谷子供の時からの憧れの先生になれた嬉しさ終戦後の民主主義の新しい時代への希望にわくわくしていた~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「回り踊りが」行われている八坂神社は「ぎおんさん」と呼ばれて、いつもは子供達の遊び場所でした。小学生の時は我が家から近かったので、狭い境内で野球や鬼ごっこ等をよくやっていた思い出があります。この頃、私も油絵を習っていて、時々、色んな場所へ出かけては絵を描いていました。「ぎおんさん」でも描いた記憶があります。油絵はさっちゃんの行っていた学校の同僚の絵の先生が、しばしば我が家に訪れて、一緒に描きに行っていたのです。今、思えば絵の先生はさっちゃんに好意を持っていたのかもしれませんが、母を支え私の成長を見守っていくために、応えることは出来なかったのかもしれません。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「八朔踊りの夜は更けて」(2)<つづき>町の通りから少し坂を上がった所の、西山の裾に広がる祇園さん(八坂神社)の猫の額ほどの境内に、ぞろぞろと集まってくる人の群れに交じっていると、そのうちに辺りが薄暗くなりはじめて、踊りははじまった。渋いというより、もっさりとしためくら縞の浴衣に黒い兵児帯を巻きつけ、頭からすっぽり手拭いでほうかむりし、その奥に眼だけギョロギョロさせた男たちが、のろのろと腕を振り始め、やがてなんとなく輪ができていった。輪の中央に一段高く台を据えて、古びて油が浸みた番傘を立て、声自慢の老人が喉の皮をせいいっぱいに引き延ばして音頭を唱えている。その節に合わせて群衆はぷらりんぷらりんと、いかにも曖昧に右腕左腕と交互に振り、足を踏み出し、前に進むかと思うと退き、ぐるりと回ってョーイヨイと間延びした調子で腕を振る。どこが始めか終わりか分からない。 単純な繰り返しなので、見ていてすぐ覚えられそうだが、それにしてもヨーイヨイとリズムにあわすのは難しそうである。初めは慣れぬせいかばらばらで揃わなかったが、そのうちに昔踊った身体が思い出したのか、手足の動きが揃ってきた。一節ごとに「ヨーイヨイ」という踊り手の大合唱が入る。ゾロッゾロッと数十人の藁草履を引きずる音がして一足ごとに土煙を巻きたてる。取り巻く見物人は鼻も口も明けてはおられない。裸電球の下で、お互いの顔もおぼろに霞み踊りの群れはシルエットとなって揺れ、聞こえるものは、一段と声を張り上げ時折悲壮にかすれ始めた音頭の声と、草履を引きずる音ばかりの中に不意に近づいた見知らぬ男の白い歯と汗まみれの日焼けした腕や脛がにょきっと現れてどきりとする。 音頭の文句は聞きなれない節回しのせいかよく分からないが、昔の悲恋の物語とか、仇討ちや親孝行者の物語などがあるらしい。男ばかりかと思っていると、時刻がうつるにつれて調子づいてきて、大きな乳房もこぼれんばかりの女たちが、汗に濡れた袖を肩にたくしあげ、枯れちじこまった老婆や、柔らかそうな十代の娘たちも輪の中に溶け込んでいた。 夜が更けるにつれて踊りの輪は大きく膨らみ、なにかに憑かれたように呆けて、ただ、黙々と手足を動かし、土煙の中に異様な熱気の渦をかき立てていた。だが、それもあまり長続きせず、いつとはなしに全体に目に見えぬゆるみがただよいはじめ、倦怠感が感じられるようになると、一人抜け二人抜け乱れが見え始めた。だがそれもしばしの間で、少し輪を小さめに整えて、交代した音頭の新手の声が響き渡ってきた。見物人もあらかた帰ってしまった境内では、薄暗い隅々で、様々な人と人の秘めやかな触れ合いのひとときに陶酔していた者もいたことであろう。「生きていてよかった」という思いをしみじみ噛み締める命拾いをして故郷に復員してきた男たちも多かったにちがいない。 その夜、床に入ってからも闇夜を響かせて音頭の声が耳につく。いつしか寝入って明け方目覚めると、声はすっかりかすれはてていたが、まだ音頭は続いていた。踊り手の囃す「ヨーイヨーイ、ヨーイヨイ」の合唱も風のぱったり途絶えた山峡の薄明かりのそらに延々とひびいていた。 (おしまい)
2016年06月16日
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「八朔回り踊り」は音頭出しを中心に、まるく輪を描いて独特の身振り手振りで踊り歩く盆踊りで、今も9月頃に八坂神社で行われていて、阿波踊りとともに夏の夜の風物詩となっているようです。子供の頃、「八朔回り踊り」に何度か行った記憶はあります。さっっちゃんに連れて行ってもらったのは私が2~3歳のことなのでしょう、全く記憶にはありません。さっちゃんがこんな行事に行ったことに、とても興味を覚えます。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「八朔踊りの夜は更けて」(1)あれは終戦の翌年ぐらいのことであったのだろうか。人々は長い戦争の間、途切れていた行事を、一つ一つ思い出しはじめていた。この小さい山峡の町でも、半月ほど前には戦後はじめての盆踊りとて、衣装のそろわぬまま、浴衣のない若者は、戦禍の届かなかった山里ゆえ着ずにしまっていた暑苦しい色模様の女の長襦袢や着物を着て、どさどさと、真黒い脛を出して、ただめちゃくちゃに手足を振るだけの野暮ったい踊りに酔い狂った。私たちは、徳島市に住んでいて、戦前の粋な色街の芸者衆の鳥追い姿や、いなせな法被姿や、涼しそうな白地の浴衣の軽やかな踊りを見て来た眼で、「あんな踊りはあわおどりではない」などと、はじめのうちは軽蔑し、あきれ顔で見物していたが、その異様な踊りが、みるみる町の人々の顔に、笑いを蘇らせてゆくのを見て、これこそ民衆の踊りの本来の姿なのだと納得した。このようにして、すべてに乏しい中にも、ささやかな盆の仏まつりを済ませて、朝夕の涼しさに、ホッとし始めた頃、八朔というから旧暦の八月一日、新暦では九月も半ばごろになっていたのだろう。私たちは戦災に遭って以来厄介になっていた叔母の勧めで、弟を連れて八朔踊りを見に出かけた。阿波おどりしか知らなかった私にとって、山里の情緒豊かな周り踊りは物珍しく、今もなお、あの夜の酔いしれた群舞の熱気のなかに立ちつくした感動を忘れることはできない。(つづく)
2016年06月15日
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「祖谷のかずら橋」 2013年02月14日の記事です祖谷のかずら橋へは2,3度俳句の友達と吟行にいきましたでこまわし(お芋の田楽)を食べるのが楽しかったようですおじいも(サトイモ)の味噌田楽を”でこまわし”といいます串に刺して炭火の周りに突き立てて焼きますでこというのは人形のことをいうのだと思います子供の頃人形を持って物語を唱えながら女性が家ごとにおとづれていましたでこ回しのこともっと調べてとけばよかったと思います油絵をはじめてからは写生に何度かつれていっていただだきました何を食べたか忘れました~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さっちゃんのブログには「祖谷のかずら橋」の絵が度々掲載されています。20年前の1996年11月にさっちゃんと「祖谷のかずら橋」へ出かけました。お墓参りに帰った時、突然、行ってみたいと・・・勝浦町の「ビッグひな祭り」、神山森林公園の「さくら祭り」等々さっちゃんと一緒に出かけた思い出は尽きません。 syun2013年12月06日の記事から祖谷の粉ひき節で有名なかずら橋のある山里平家の落人部落でもあった徳島県のつるぎ山のふもとは、今頃は干し柿のすだれで部落は朱色に染まっているだろう毎夜家族みんなで柿むきに精を出すやがてお正月が来る都会で働いているとうちゃん、ねえちゃん、にいちゃんたちがお土産をいっぱいもってかえる山里の一年で一番楽しい季節である
2016年06月14日
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「藍の風」ミニエッセイより「夢」夢は同じ場所、同じ情景をくり返し見るものらしい。職員旅行にいって疲れると、きまって空襲の夢を見てうなされ、まわりに眠る人を驚かしたようだ。もう空襲の夢は殆ど見なくなったが、こんどは貴社に乗りおくれそうになる夢はまだ続いている。汽車で通勤したのは、昭和二十五年から五年間である。いつも同じようなパターンで、ホームには貨車ばかりで、ようやく見つけた客車はオンボロの板張りの腰かけで、満員だったり、必死にホームを駆け廻るのである。川岸の町営住宅に住んでいた頃は洪水の夢をよく見た。案外気持ちよく流れに浮かんでいて何故か大きな頭だけの魚が泳いでいたりする。母が亡くなってからは、何か失敗をしては母に叱られている夢が多い。目覚めても今しがたまでそばに母が居たような実在感がのこっているのである。 昭和五十八年三月自作の「精霊舟」をつくって、我が家の前を流れる川に沿って河口まで下り石ころの続く河原を吉野川まで姉と歩いた日。もう、60年も前のことになります。この「灯篭流し」を読みながら遠い記憶に思いを馳せていました。あの日の「精霊舟」は姉の願いに応えてきっと海まで流れ着いてくれたことでしょう。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「灯篭流し」(2) <つつき>三年目の盆を迎えた。ご近所の家では、大工さんに頼んで豪華な精霊舟をつくってもらっているという。舟を作らないと灯篭が流せないと知って、舟を作るためベニヤ板やありあわせの板切れを集めて弟と二人で何とか舟らしきものを作り上げた。粗末な、形もいびつで水に浮かぶかどうか心配だったがお供え物と灯篭をのせて盆の十六日の夕方前に、三人で家を出た。家の前の貞光川に流すのはたやすいが、町はずれの鉄橋の下あたりで止まってしまう恐れがあるので、どうしても吉野川へ持って行きたかった。町の周辺や川の流れがどうなっているのか全く知らなかったので、どこに道があるのか、道のりはどのくらいあるか分からないまま出かけた。対岸が見えているのだから、いつかは川へ行きつくと単純に考えていたところが、行けども行けども石ころばかり大きなメロンぐらいの大きさのゴロゴロ石でひどく歩きにくい。ひと足ひと足足がねじれてすいすいと進めない。遠かった。河原へ一歩踏み出してから、歩いても歩いても大きな石ころばかりで、流れにたどりつけない。空から見ればわかるのだろうが、流れが大きく対岸へ湾曲しているようだ。支流の貞光川が合流するあたりに石ころを大量に堆積していったのだろう。辺りが薄暗く暮れて来たころ、ようやく流れが見えてきた。川は通称大川といわれているのに、予想外に細かったが水量豊かで、急流になっている。手作りの小舟は大きく揺られながら、踊るように波に乗っていってしまった。どこまでも無事に流れてゆくことを念じながら三人は見送った。そのあと三人はホッとして、ゴロゴロ石の上に座り込んだ。もう歩けないと思ったけれど、ゴロゴロ石は痛くて座ることもできなかった。翌日、汽車の窓から見た吉野川に、ひょっとして父の灯篭が流れ着いているかもしれないと捜したが見つからなかった。多分無事に海まで流れて行ったと思うことにして忘れることにした。(おしまい)
2016年06月13日
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「藍の風」ミニエッセイより「無言の教え」母は手先が器用で、よく手製の服や帽子を私に着せたり、ビーズで刺繍をした手提げを持たせてくれた。それは買う余裕のない家計のせいに違いないが、昭和も初期の頃のこととて珍しくて、皆にうらやましがられたり、ほめられたりして誇らしく思った。引込思案で運動神経も鈍く歌も下手な私があまり劣等感を持たずに育ってきたのは貧乏暮らしにめげぬ父母の愛情や励ましや心配りがあったからであろう。今還暦を迎え一人暮らしの私にも、何かをするとき、あれこれと乏しい知識を動員し考えをめぐらせ、自分流の方法を産み出すという楽しみがあるが、これは母の手作りの服や服飾品の無言の教えのたまものだと思っている。 昭和五十七年七月父が亡くなって新しく移った町営住宅のすぐ前は川でした。七夕が終わると、皆、願いを描いた短冊などを飾っていた笹を抱えて川に流しに来ていました。翌日、川は流したたくさんの笹があちこちに引っかかって流れをせき止めるほどでした。さっちゃんはお盆の「灯篭流し」でも同じようにならないよう、我が家からは遠い吉野川まで灯篭流しに行くことにしたのでしょう。必ず、灯篭が海まで無事流れていくようにと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「灯篭流し」(1) 盆が来ると、その年新しく亡くなった人のため、灯篭をともしてお祭し、三年目の盆の十六日に、川へ流すしきたりがあった。近年になって、河川を汚してはいけないということで、各地域で川辺に場所を決めて近在の寺から僧を招き、人を集め灯篭流しのイベントが行われるようになった。 私の住んでいた貞光町でも、お世話人が板切れに赤緑黄の三色の紙をはって作った灯篭に、蝋燭をともして、読経の流れる中川に流した。流れに沿って三色の灯篭が帯になって川を下ってゆく光景は幻想的で美しく今も目を閉じると思い出す。一九四五年の夏徳島大空襲に遭って、貞光町に住みついて十年が経っていた。予想もしなかった不自由で厳しい暮らしが続いていた。物のない時代田舎町では、父の洋服商の仕事は成り立たない。不遇のうちに体調を崩して倒れてしまった。 その頃私は新しい中学校の教師をしていたが、上級の免許の資格を取るため、徳島大学の英語の研究室で研修に励んでいた。念願の免許証が届いたとき、父の臨終が迫っていた父にとっては、病気がちの母と十歳の弟を私に託して逝くのは心残りであっただろうと思われた。その後貞光川沿いに新しくできた町営住宅に引き越すことが出来た。川辺の家は明るくて、東山の緑も清流も川風も、すべて新鮮で快かった。盆が来ると優しい彩の岐阜提灯を窓辺につるして、父が生きていればの想いに浸っていた。(つづく)
2016年06月12日
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(1953年母と姉と三人でお墓参りの帰りです)この写真の後、半年足らずで父が他界し、洋服店をやっていた町中から、川沿いにある新しい町営住宅に居を移すことになりました。母とさっちゃんと私の三人の生活は私が高校を卒業し、大阪の大学に進学するまで続きました。思い出は尽きませんが、私が大阪に出てからは、盆、暮れ・正月に帰郷くらいで長期間、顔を合わすことは少なくなってしまいました。ただ、母が他界した1975年(昭和五十年)には、何とか孫たちも出来て、顔を見せることだけは出来ました。そして、その時、さっちゃんも念願の祖先の地である吉野川市に母とともに住める新しい家を建てることが出来たのでしたが、残念ながら、そこに二人で住むことは叶いませんでした。(母とさっちゃん、母と4歳で亡くなった兄です)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「さっちゃんのお気楽ブログ」から選んだ記事で構成された作品「また、あした。」の「思い出」の章に載せられたものです。「母の笑顔」その日、家に帰ると母が嬉しそうな表情をしていた。部屋の真ん中にドデッと座っていたのは黄色の犬の親子かわいいぬいぐるみだ駅前の露天市で見つけたという遠くにいて会えない孫を思って買ったのだろう孫の赤ん坊のときの写真に並んで写っている母が亡くなって三十年埃まみれになっても元気な草色のワンちゃんを見るとあの日の母の笑顔を思いだして捨てられない
2016年06月11日
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2015年10月2日のブログ記事です「予期せぬトラブルに慌てました」世の中いつなにが起きるかわからない。夕食をはさんでいつものようにパソコンに向かったが四角い拡大鏡みたいなものが動き回って画面を駆け巡っていて消えない。今夜はもうできないかなと思ったが、幸い助っ人が現れてうまくいきそうです。一日も休まず続けてきたので今日はあわてました。時々、かんぺきにいれたとゆだんして一瞬消えてしまうこともありました。パソコン君は非情ですよ。そのくせ随分長いお付き合いの仲ですが~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さっちゃんは生来の好奇心旺盛な女性で、NHKのラジオとテレビの講座に没頭し、俳句をつくり、エッセイを綴り、児童文学では賞も受賞しました。本格的に絵を始めたのは70歳から、スケッチブックやハガキに毎日描く水彩画だけでなく時には50号のキャンバスに油絵も描きました。その腕前は県展でも何度も入選するほどでした。そして80歳の時にパソコンを購入して、84歳の時に、ついにブログに挑戦したのでした。パソコンというツールを手にしたさっちゃんは今までやってきたことの集大成としてブログを描くことによって、さっちゃんのことを広く皆さんに知っていただくことが出来ました。長い道のりだったようにも思えますが、一歩一歩、粘り強く着実に挑戦していった結果なのでしょう。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「パソコン一年生」(2)<つづき>メールにメロディをつけることを知った彼女は、「ビートルズ」を入れておいたよという。メールを開けても一向音は出てこない。ボリュームの所を探して動かしてみたが、いつまでたってもだんまりである。彼女は、パソを開けた時ババーンと鳴るというが、うちのは音も声もだしたことがない。マニュアルを引っ張り出してきて調べてみた。三本残っているコードにそれらしいものがあるので、説明図を見ながら繋いでみたら、ババーンと大きな音が出た。まるで産声みたいな感じだ。電気屋がつなぎ忘れたという。ほんとかしら。とにかく彼女が送ってきたビートルズを聞くことができて、それからしばらくは音楽を入れてみたり、CDを作るのに挑戦した。普段から困ったことがあると彼女に相談する。彼女はアイデア・ウーマンである。人が思いつかない奇抜な方法を考え出してくれる。本当に貴重な友人である。とにかくパソコンの教科書はむつかし過ぎる。読んで解れば読むのだが、用語がちんぷんかんぷんで、英語辞書を繰っても解決しない。何をどうしろというのか、全く理解できない。要するに読んでも無駄なのだ。しかし分からぬままに動かしているうち、少しずつ覚えていくもので、頭で考えるより実験が大切だと思う。おかげで今では説明書も所々、理解できるようになった。何分基本の勉強をしないでパソコンを運転しているので、出来ないことは全くできない。特に文書には悩まされる。入れた文字がとびまわって制御できない。入れたい位置に入らない。勉強不足だ。最近はデジカメを買って写真をプリントして楽しんでいる。とにかく、色々な楽しみ方があって、自分の好きなものを見つけて遊んだらよいので、気の合った友人とメールの交換するのもよいし、一人が好きな人には、黙っていて楽しく遊べる有難い道具である。(おしまい)
2016年06月10日
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2010年2月20日のブログ記事です「新しいパソコンはだめ」今日ケーブルてれびがきて地デジをひいてくれたパソコンもインターネットにつないでくれたところがブログを入れようとしたが駄目でしたプリンターがつながっていない苦労してつなげたが、絵をスキャンしたが薄い色がでないその他具合のわるいことばかり結局この古い機械でないと当分の間駄目だろう~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~さっちゃんがパソコンに挑戦したのは14年前の2002年、80歳になった時です。「藍の風」の中で「パソコン一年生」として、悪戦苦闘しながらも親切な友人の方に助けられて、少しづつマスターしていった様子が語られています。最初は日立製の大きなデスクトップでしたが、家の二階のデスクの上にデンと置かれていました。その後、しばしばトラブルがあったり、操作が分からない時に連絡がありその度に二階まで行くのも大変だし、私のものと機種が違うので、電話で説明するのも要領をえないので、私と同じ機種のノートブックを買うように薦めました。2010年になって、使い慣れた今までの機種から新しい機種に買換えることになりました。なかなか新しい機種になじめない期間がありましたが、四苦八苦しながらも、徐々に新しいWindows7にも慣れて行きました。今ではさっちゃんと同じパソコンの画面を開いて携帯であれやこれやと長話していたのを懐かしく思いだします。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「パソコン一年生」(1)今年の春セレブでパソコン講座が始った時、Tさんがいっしょに受講しようと誘って下さったが、私は「あんたが習ってきて、私に教えてくれたらいいやん」と、虫のいい提案をして、彼女の好意に甘えることにした。Tさんはとびぬけ優しい人で、毎週習ってきたことを親切に教えて下さった。はじめはペイントで絵を描いていたが、いろいろなお絵描きのソフトを入れて、書き方を工夫し、しばらく熱中して、きれいな花や少女の絵をメールにつけて送って下さった。そのうちに彼女の好奇心がどんどんふくらんできた。「おもしろいもん見つけたよ」いるかちゃんをつついたらアニメがでてきたとか、動画を試してみたといって、猫の顔をくしゃくしゃと伸ばしたり縮めたりさせ、写真にぬいぐるみを大きく入れたり、忙しいといいながら、結構パソコンで遊んでいるのだった。八十歳に近い私は、彼女についていくのが大変。それでも彼女のやり方に刺激されて、私も負けまいと、手当次第にパソコンをつついて発見を楽しんでいる。クリック、クリック、こうでもない、ああでも駄目、こないにしてみようか、う~ん、うままくでけへんわ、とおもうようには動いてくれないパソコンが憎らしくなる。しまいには画面をマウスでひっかきまわす。おどろいたのはパソコン君、目を廻してダウン、反応しなくなる。「今朝はパソコン君怠けて働かへんかった」とメールに入れる。時にはパソ君もいじわるをする。働かない、まちがえる。「エラーでした」とすまして、命令をきかない。ひつこく繰り返すと、仕方なしに動く。不意に「このメールは送れません」という。横文字がズラズラと並んで出てきて警告。「わけ分からへんわ。何がいいたいねん」無理やりに送信をおすと、メール友はびっくり。メッセージは?ばかりに化けていた。パソコンの向こうで誰かがメールを読んでいるのかもしれないと疑いたくなる。(つづく)
2016年06月09日
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2013年7月30日のブログ記事です「昭和の良寛さん」終戦後疎開していた田舎の町で、一年に何度か夏祭りや秋まつりなどに露店市が出ていた町の表通りにあった私の店の前にも、いろいろな露店が並んでいた子供たちがいくらかお金を払ってくじを引く何があたるのかよく知らないが、こどもの一人が当たりくじを広げて見せると「お前、そこらで拾ったんだろ」と親父にすごまれて、不満そうに立ち去る場面を何度か見た一度もあたった賞品あげるところをみたことがない父はそれを見て子供がかわいそうだと、ポケットマネーで菓子などを買いそろえて5月5日の子供の日に近くの川原で子供を集めて空くじなしのくじ引きをするようになった現場を見ていないが、楽しそうに準備をしている父を思い出す。地方の新聞にも「昭和の良寛さん」といって何度か載せて戴いた~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~父は50歳を越えて私が生まれた時には、男の子が誕生したというので、随分喜んだようです。小さな私を肩車して、友人の集まる立ち飲み屋さんに連れて行ったり、端午の節句や誕生日には、多くの子供たちを集めてくじ引き大会をしたり、私の通う学校に、顕微鏡や文具を寄贈したりもしていました。そして、何度か「昭和の良寛さん」として新聞にも紹介されました。父が亡くなったのは私が小学4年生になった時で、今は父の記憶も断片的なものになってしまいました。 syun・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「父の願い」(3)<つづき>戦災後、父は被災者のみじめな姿を自虐的にうたい、当時の世相を皮肉り、”敗戦数え唄”を自作し、仕事をしながら、持ち前の大声で歌って、自分の心をまぎらわすだけでなく、他人にも聞かせた。私は父の唄に耳をふさぎ、食べ物を得るのに、全力を傾けねばならぬ現実を見つめ、屈辱の暮らしから、一日も早く脱出したいと願いながら、「私は何をやりたいのか」と夢のような事を自問し続けていた。その頃は、私も母も、父の哀しみがどんなに深いか分かっていなかったようだ。父は戦後十年間の心労から胃がんになり、六十三歳で亡くなった。私はその数年前、校長に進められて教員になり、生意気にも、でもしか先生と自嘲しながら、漸く資格を得た。その免許状が送られてくるのを待ちかねていた父は、一目見て、僅かに安心したような眼ざしを見せた。そして、その眼尻に一すじ涙を走らせただけで何も言い残さなかった。その時私は三十歳を過ぎて独身、唯一の弟は十歳、母は病気がちでだった。時々、父も夢に出てくるが、いつも淋しそうにして、何も語らない。いつまでも独りでいる私のことを、まだ心配しているのだろうか。それよりも「これからは、自分の好きなことを見つけて、力一ぱいやりなさい」と励ましてもらいたい。(おしまい)
2016年06月08日
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