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2024年03月25日
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マルクスの「ヘーゲル弁証法批判」その10 
  課題の基本はどこにあるか

はじめに、前回と重なりますが、

一、マルクスがフォイエルバッハのヘーゲル哲学批判の業績と評価した三点ですが、1、哲学も宗教も、人間の本質の疎外。2、唯物論を基礎においたがその根本には社会関係がある。3、絶対的なものとしてでなく自分自身の肯定するものをとらえる。

これは、いずれもそれぞれ唯物論の側面について評価したものですね。フォイエルバッハが初めて唯物論の見地からヘーゲル哲学を批判したわけですが。それはマルクスが「真実の発見をした唯一の人であり、真の克服者である」と評価したもので、それはドイツの観念論哲学の圧倒的な流れの中では画期的な一歩でした。

二、しかし、このフォイエルバッハの批判だけでヘーゲル批判のすべてが片付くわけではない、ここでマルクスが問おうとしているのはその点です。ヘーゲル弁証法にたいする批判的検討の必要と、それはどのようにすすめられるべきか、この問題ですね。




では、フォイエルバッハはヘーゲル弁証法をどの様に批判しているか。

「ヘーゲル弁証法の秘密は、結局、ただ神学を哲学によって否定し、それから再び哲学を神学によって否定することにある。・・・否定の否定は神学である」(『将来の哲学の根本命題』(第21節 P45  1843年)

これがフォイエルバッハのヘーゲル弁証法にたいする認識です。この「否定の否定」のとらえ方に、彼のヘーゲル弁証法の理解がしめされています。

それは、哲学の考え方の矛盾としてのみとらえている。つまりいったん否定したあとで、さらにそれを肯定するところの哲学としてのみとらえていた。ようするに、フォイエルバッハは、ヘーゲル弁証法については本格的にとらえることができていなかったということです。

弁証法に対する意識の欠如というのは、フォイエルバッハだけじゃなくて、ヘーゲル学派の全体がそうなんですね。ヘーゲル弁証法にたいして、それを言葉では語ってはいても、その内容についての明確な認識がなかったわけです。口パクでさもわかったような恰好をとっている人って、いまでもさまざまにいるでしょう。

(これにたいしマルクスですが、『ライン新聞』を退社した後に、ヘーゲル『法哲学』批判の集中作業を行いました。それは全集の第一巻に『ヘーゲル法哲学批判』として、当時は刊行されなかったんですが、私たちは今は草稿をよむことができます)

三、さて、マルクスはここで、みずからのヘーゲル弁証法にたいする基本認識(着眼点)を提起します。
(さらに、そのあとで、このヘーゲル弁証法について、詳しく検討をすすめてゆきますが)


そのマルクスの基本認識と課題ですが、前回紹介しましたが、再度紹介します。

「1、ヘーゲルは、否定の否定を—そのなかにある肯定的な関係からいって、真実かつ唯一の肯定的なものとして—そのなかにある否定的な関係からいって、いっさいの存在の唯一の真なる行為かつ自己実証行為として—解したことによって、彼は歴史の運動にたいして抽象的、論理学的、思弁的な表現を見いだしたに過ぎない。(それは真実の自己実証行為であり、歴史の運動の抽象的、論理的な表現だ)


2、そして、その歴史はまだ、一つの前提された主体としての人間の現実的な歴史ではなく、やっと人間の産出行為、発生史にしかすぎない。われわれは、この抽象的形式を明らかにするとともに、
(ヘーゲルにあっては、ある前提のもとでの歴史ではなく、発生の抽象的形式をしめすものにすぎないし、この抽象的形式〔弁証法〕をあきらかにする)


3、またヘーゲルにおけるこの運動が現代的批判にたいして、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』における同じ過程にたいして対照的にもっている区別をも、あるいはむしろ、ヘーゲルにあってはまだ批判的でないこの運動の批判的なすがたをも、明らかにするであろう。
(神学を人間化するフォイエルバッハとは対照的なことと、ヘーゲルの運動の 批判的でないところを 明らかにする)」 (第9文節 P210-211)


四、ここでマルクスは、ヘーゲル哲学の体系を確認します。
『精神現象学』と『エンチクロペディー』です。
ヘーゲル哲学を批判するためには、弁証法を批判するためには、この全体を視野にした認識が求められている。あれこれの部分にたいする批判であってはならない、体系の全体にたいしての検討が求められているということです。
そうすることで、マルクスは、この『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」の基本課題を、あらためて明らかにしているわけです。

ということで、ヘーゲル哲学についての認識です。

第一に、ヘーゲル哲学の体系は論理学から始まって、絶対知、すなわち超人間的な抽象的な精神ででおわるから、哲学的精神が張り広げられた、精神の自己対象化だと。その自己を疎外する中で思考し、自己を把握する世界の精神だ。

第二に、論理学は、人間と自然の一般的な本質であり、貨幣のように一般的に通用する抽象的な思考だと。

第三に、くり広げられた精神の外部性は、あるがままの自然だと。それは思考に外的であり、この思考の自己喪失だ。思考は自然を外的に抽象思考としてとらえる。

第四に、精神はおのれ自身にかえってくる思考だ。それは人間学的、現象学的、諸々の精神としてまだおのれ自身と見なされず、最後に抽象的精神のうちに絶対知として眼前に見いだし関係して、その意識的な自己にふさわしいあり方を得るにいたって、おのれ自身と見なされる。その現実的在り方は、抽象だと。

以上が、わかったような分からない、たしかにヘーゲルが自身で説いている彼の哲学の内容です。

五、ここを読んだだけでは、いったい何を言っているのか、いいたいのか、私などにはわかりません。
多くの人が投げ出してしまうのも、勝手な自分の解釈を並べる人が出てくるのもわかります。
だけど、だけど確かに重要な思想が含まれているといわれています。

本当にこの中に、まっとうな、注目される、万人にひらかれたすばらしい思想があるというんです。
いったいどうやってそれを解きほごすのか。
それを解きほごしたのがマルクスの探究だそうで、
それをこれから、この草稿に挑戦し、探っていきます。

今回は、ここまでです。
次回は、「ヘーゲルにおける二重の誤り」(第12文節 国民文庫 P213)からです。






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Last updated  2024年03月25日 10時45分08秒
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