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御殿場線を旅してきました「旅」などは無縁な当方ですが、5月12日に旧東海道線・御殿場戦の旅をしてきました。すでに、4月25日付のブログで、下見したことで、その輪郭は紹介しました。御殿場線で、国府津から沼津を旅してきました | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)今回は、本番の旅案内だったんですが。新たに感じたことのいくつかを紹介します。一、富士山の雄大な景色です下見した時は、小雨模様の天気で、富士山は雲の中で、まったく見えなかったんですが。足柄峠を越えて御殿場あたりから、富士山が車窓いっぱいにひろがりました。これまでも、八王子・多摩、平塚・小田原と、富士山を遠くからは見てきたんですが、まじかに迫る富士山、裾野が広がる富士山をみることは、めったになかったんですが、この御殿場線の旅は、これまでで一番の、芸術的な大自然・富士山の迫力でした。残念ながらというか、あえて写真は撮ることは、しなかったんですが。二、旧東海道線の最大の難所山北から御殿場まで区間は、昔であれば足柄峠越えの難所だったことが実感できました。東京と京都・大坂を結ぶ東海道本線にとって、中央線の碓氷峠じゃないけれど、最大の難所です、特急列車も、その前後を蒸気機関車がサンドイッチして、峠越えをしたんですね。あえて伊豆の山をくりぬく丹那トンネルの大工事が、どうして必要だったのか。わかるような感じがしてきました。車窓から見ていたら、山北駅にもありましたが、何か所かに、活躍した蒸気機関車が保存されてました。三、『更級日記』にもそうした掲載がありましたこの足柄峠越えの難所ぶりを伝えてくれている日本文学の古典があります。『更級日記』です。この作品は、1020年、菅原孝標の娘により、その13歳の頃にかんする日記部分ですが。9月3日に勤め先の千葉(下総国)を門出して、12月2日に京都の家に帰るまでの、東海道の旅の途中の様子が紹介されてます。天候が悪ければ、うっそうとした足柄峠の山道をこえるのに4日も5日もかかった。「山のなかのおそろしげなる事いわむ方なし・・・」足柄峠をこえたら富士の山が、せまってきた。「その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山の姿の、紺青をぬりたるようなるに、雪の消ゆる世もなくつもりたれば、色濃き衣に、白きあこめ着たらむように見えて、山のいただきのすこしたいらぎたるより、けぶりは立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つもみゆ。」(旺文社 池田利夫訳注)平安時代の古典の文章というのは、現代の私などには、読むのも理解するのも難しいのですが。今回の御殿場線の旅をしたことで、1000年の時をこえてですよ。この古文書に、書いた人の心ですが、その感動ですが、少しですが私などにも現実感をもって伝わってくるようになりました。そうなると、不思議です。この1000年をこえた文章ですが、難しく感じていたものが、同じ感動を表現したものですから、心で読めるんですね。そして逆に、難解に見えた文章がその言葉遣いまでもが、リフレーンしたくなるような的確なものであることがわかってきて、愛着すらを感じるようなものになってくるわけです。じつに不思議な感じです。ということで、私などにとっても、今回の御殿場線の旅は、有意義な時となりました。
2024年05月13日
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三島大社と楽寿園みかん畑を私が手入れを出来るのは、遠距離農夫の私などには、週に一度の水曜日なんですが、ところが今年は3月から毎週ですが、雨がかかわっています。今回の5月1日(水)もまた、午前9時から雨が降り出しました。今は茶摘みの時期でして、なんとか雨の降りだす前に、午前8時から真鶴で1キロ茶摘みしたんですが、予報よりも早く雨が降り出したんで、茶摘みはストップし、午前9時5分に小田原のJAの製茶工場に製茶を委託しました。聞くところ、今年のJA久野の製茶工場は、5月1日から10日が受付とのこと。当方が持ち込んだたった1キロの茶葉でしたが、これ今季が第一番の受付の茶葉でした。わずかであっても、もったいないですから、ヤレヤレでした。この日は午前10時には雨が本降りとなりました。雨が降っては農家は、当然ですが、表での農作業は出来ません。そこで、急きょ頭を切り替えて、静岡県三島の三島大社に行くことにしました。これが三島大社の正門です。なぜ三島大社にでかけるかといえば、当方は、これから御殿場線の旅を計画しているんです。その旅の締めくくりが、この三島大社を予定していて、今回はその下調べだったんです。5月1日(水)の、午前11時半に早川を出て、午後3時半にもどってきましたから、4時間の行程でした。JR三島駅で、伊豆長岡鉄道に電車を乗り換えました。三島田町駅が、三島大社に一番近いというので。おどろきの三島散歩ところが初めてのようなこの旅でしたが、遠い昔の記憶ですが、それをフラッシュバックさせてくれました。これは、三島大社の本殿の、すぐ左にある鹿園です。これが、私などの記憶をフラッシュバックさせてくれました。ここは、初めてじゃなかったんです。「鹿せんべい」と、「メリーコーランド」それは私の60年以上も前のことですが、おそらく、それは七五三の時じゃなかったでしょうか。確かにそれらをみた記憶があるんです。鹿せんべい、メリーゴーランド、街中の川の流れ、ワサビ漬け、・・・。三島は、わたしの父の故郷なんです三島は、2000年に亡くなった父の故郷だったんです。思い当たります。60年以上前の小学校に上がる前後でしたが、私はここに来ていたんです。小生意気なガキは、それから今日まで、まったく記憶してなかったんですが。ここに来たことがある、だれに連れられてきたのか、だれが案内していたのか。それから今日まで、いっさい、すべて、そんなことは気にしなかったんですが。この「鹿せんべい」と「鹿」については、しっかりと覚えていたんです。これって、残酷なことじゃないかと、あらためて感じさせられました。三島大社の本殿ですここも、遠い昔ですが、たしかに来たような記憶が、うすら記憶が出てきたんです。私は、神奈川県の真鶴町岩の生まれですが、そこは、いわば、東京の西のはずれ、箱根山の裾野なんです。私などが、もの心ついた時から、すべてはみな認識は東の東京の方を向いていました。背中の西の方は、伊豆の丹那トンネルから西側の世界というのは、修学旅行で京都・奈良に行ったこと以外は、いっさい関心なしで視野になかったんです。同窓会で伊豆を案内するところが何年か前ですが、東京の学生時代のむかしの同窓生との関係で、伊豆の旅を案内することになったんです。その時に、あらためて、みずからの背なか方をしらべて、そこを案内することになったんです。そうしたところ、その時に、これまで見えてなかった世界が見えてきました。その時の旅は、伊豆山権現—熱海の温泉―丹那トンネル—中伊豆地震-蛭が小島(ここで「鶴瓶の家族で乾杯」収録との出会う)—伊豆の学識代官宅・反射炉-西伊豆の戸田・プチャーチンとの日ロ修好条約とタカアシガニの歓待と、目からうろこでの新たな発見があり、豊かな旅となりました。その旅の下見をした時でしたが、私のおぱあちゃんの出身は函南の舟山なんです。小さいころいったんですが、フナのいる池のあるうちでした。その家を確認したんです。さらに、父は原木新田の生まれでして、あらためてその家も、外から柿の木のある家を確認したんです。しかし、そんなことは、わたしだけの思い出であって、その時は、ただそれだけのことくらいの認識でしかなかったんです。関係する人たちはことごとく、あの世に行っちゃっていて、わたしの記憶だけの懐かしの世界でしかなかったんです。ただしかし、その下見した時に、すくなくとも、箱根山の裏側には、これまでの世界とは違った、ひろがね世界が、裏の背中の方の世界が、そこには富士山のすそ野の広ががり、豊かな文化も歴史もあって、箱根山の雲助とはちがう世界があることを感じたんです。もちろん、ほんの少しの感じでしたが、しかし確かにその素晴らしさを認識したんです。ちょうど、その時、NHKで『鎌倉殿』のドラマが放映されてました。伊豆の北条時政が舞台であり、願成就院も訪ねたんです。また、私の郷里の真鶴・岩村ですが、石橋山でやぶれた頼朝はそこから舟で千葉に逃げたんです。その下見と歴史ドラマが重なったんですね。その下見で、初めて「蛭が小島」の地を見たんですが、イメージの様子と違ったんです。島流しされたへき地と実際とは、まったく違っていたんです。富士山を望むひろい景色、豊かに広がる狩野川の平野のコメどころで、箱根の裾の雲助とはちがってました。しかも、なんとそこは、父の郷里の原木新田とは目と鼻の先、まったく直ぐ近くじゃないですか。父は、まったくそのこと語らなかった。だけど、そこに生まれて、自分の子どもにそこに引き合わそうとしていたんです。今思えば、ということですが。今回、あらためて感じましたそこは、私などの世界、箱根山のすその界隈の、いわば山の世界とは違って、じつにひらけた土地柄。家康だけでなく、多くの文人たちも住みたくなるような、雄大な富士山が広がり、豊かなコメどころの、自然豊かな土地柄じゃないですか。しかし、それでも、そのときは、「伊豆の旅、東も西も・・・」、ディスカバ-ジャパン、私などはその程度の認識だったんです。今回は、強力な三島でしたしかし今回は、もっと強力でした。一種のフラッシュバックのような体験でした。なんたって、「鹿せんべい」、「メリーコーランド」です。今回は雨に濡れて人影は少なかったんですが、しかし今現在、確かに存在していたんです。「夢幻の世界」という言葉がありますが、これは私にとって、はじめての世界ではなかったんです。三島大社の参道だって、その太鼓橋と巨木だって、初めて見るものではなかった。遠い記憶の世界ですが、それらは、たしかにどこかで見たような景色だったんですね。「おいおい、これはなんなんだ」今回、たまたま雨が降り、御殿場線の下見をしておこうということで出かけてくるまでは、まったく忘れていてところの世界でした。かつて小生意気なガキは、手を引かれてきて、これらに一度は感動したんですよ。だから記憶に残ってるんですが。しかし、それから次々に関心とする対象が、次から次へと他のことに移って行ったということでしょう。まったく、その当地に関する意識は、馬耳東風であり、猫に小判だったわけです。しかし今回みたら、どこかななつかしいものがわいてきて。昨日も今も、そこにはそんな世界が現実にのこっていること、たしかにかつて、わたしなどにそこを案内しようとしていた人たちがいたこと。そして、ほとんど風潮する人はまわりにはいないけれど、たしかにそれだけの宝がそこにはあること。当時は、ちっともその思いや、客観性は知らなかったんですが。いまにしてみると、その思いがとその宝が、多少ですが分かりますね。このギャップはじつに残酷なことですが。しかし、それはまた致し方ないことと、今にして思うしかありませんね。さらに、記憶のなせる業でしたが、歩いているうちに、駅前にかつてわさび漬けを大きなたるで、量り売りをしていたお店があった記憶がわいてきた。今回、そのあたりを、あえて確かめてみると、たしかにそのお店があったんです-カメ屋さん。「へーっ」と、おもわずそこで地酒「はなの舞」カップをかくほしした。帰りの車中、函南から丹那トンネルをくぐる5分間の車中で、記憶では、かつては12分くらいかかったと思うんですが、蒸気機関車の煙がはいらないように、窓を閉めろとして。しかし、今回は旅の終わりの5分でしたが、それスマホを相手にしている若者を前にして、かばんには懐かしの「わさび漬け」と「金山寺漬」も買いこんで、車中で、ひとり酒を楽しんだ次第です。すべてが、幻の世界ではない残念ながら、もはや、それらの事柄を語り合える人はいない。みな、あの世の人となってます。それを語り合えるのは、もはやごくごく限られた人でしかないわけですが。しかし、それでもいる。その希少価値をもつ人は1人2人は健在です。それを語り合おうとすると、言葉にならなくなるんですが、しかし、それは個人の生きてきた証でもありまして、じつにありがたいことです。今回の旅で、あらためて再認識しましたが、三島・静岡は、素晴らしいところです。そのことは、注意して見れば、昔も今も変わらないんですね。今回、たまたま三島駅で運賃を清算するために並んだんですが、その時に、前に外国人の夫婦がいました。なれない言葉で、「フェア、カントリー?」と聞いたところ、オーストラリアからきた、と夫婦のにこやかな返事がかえってきて、旦那のひげ(金髪のマルクスのようなひげだったんですが)は、すばらしいというと、にこやかになぜて笑ってました。よい旅となることを願った次第ですが、三島も今や、国際的になっているんですよ。問題は悪ガキですしかし、問題は、かつての、今の悪ガキの問題です。かつてわたしなどには、この三島の世界は、まったくの猫に小判だったんです。今にして思えば、かつて関係者は、いろいろな思いを発信していたんです。しかし、私などは、そのことごとくをそでにして、自分一人で、ここまで生きて来たと思ってたんですね。馬耳東風ということでした。今や、攻守そのところを、逆の立場となりました。いったい、この認識のギャップということを、いったいどうしたものか。日本の宝が、憲法にしても農業にしても、森羅万象いろいろなことが、粗末にされていっている。ここのところが問題です。私などは自分に対する慰めなんですが、思うんです。人として宝を分かちあえるということは、大切だし、ありがたいことです。亡くなってしまってからでは遅すぎる。今を生きている人たち同士が、その価値を分かち合えるというのは、それができるのは、なんとも幸いなことじゃないでしょうか。そうした人ができる関係というのは、しあわせということじゃないでしょうか。すでに語り合うべきおおく人たちは、あの世にいっちゃってます。のこされた俗世間は、道理のなかなか通らにい世の中となっています。すべては「パンタ・レイ」、帰らざる川です。そうであればこそ、今を生きている人の交歓が大切だ、とつくづくおもうようになりました。隣は何をする人ぞ、都会人は孤独だし、豊かな宝のみかん山を、放任化を余儀なくされるような事態を、よく目にします。しかし、先人の努力がつくってきた成果を、今を生きるものが捨てるのはもったいないじゃないですか。そこにつくりだしてきたすばらしい宝物を、かけがえのない幸せとして、確認したいですね。それをゴチャゴチャにしてすてている連中とは戦わざるを得ませんね。じつにもったいないことですから。弁証法とはこれです私は思うんですが、これって、ヘーゲルとマルクスの明らかにしている「弁証法」というやつですね。私などは、これらの点をもっと明らかにしなければ、もったいないとおもいます。人として、あんたは、なんのために生きてきたのか、これまで何を努力してきたのか。それらのことが、それぞれにとって、いま問われているということですね。その意味で、今回の雨は、それにより三島の旅を提供してくれましたが、このことは、わたしにとってたいへん貴重なプレゼントとなりました。
2024年05月02日
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御殿場線の旅東海道本線は、丹那トンネルが出来るまでは、御殿場線を通る道が本線だったことは知っていたんですが。その新東海道線が当たり前になっていて、御殿場線は知識の上だけでしか、知りませんでした。知人が山北に住んでいたので、わたしも50年前に国府津から山北までは行ったことがあるはずなんですが。遠い、昔の一度だけだったんで、まったく記憶がなかったんです。今回、「御殿場線を旅してみたい」とのリクエストがあって、小田原方面の関係者としては、案内するには下見しておく必要があったんです。今回、4月24日でしたが、天気予報どうり、朝から雨だったんで。畑仕事は出来きなかったんで、この機会に御殿場線を旅してみることにしました。午前9時10分国府津発の10時41分沼津着の1時間半の旅でしたが。これは沼津の駅前に、鉄道の歴史の記録として置かれていたものです。丹那トンネルが出来るまでは、丹沢から箱根・伊豆の山道をう回する線路だったんですね。国府津駅で客車の前後を蒸気機関車がはさむようにして、山道をこえていたんだそうです。この蒸気機関車が、引いたり、おしたりと活躍していたんだそうです。そういえば、昔は丹那トンネルの長いトンネルを通るときに、蒸気機関車のけむりがはいるから、窓を閉めるようにと、注意されたのを思い出しました。今は、旧東海道本線の御殿場線も単線となってます。1時間に1本くらいしかダイヤはありません、車両も2両とか3両なんですが、しかし立派に、いまでも活躍しています。インターネットの「御殿場線」をみたんですが、これが参考になりました。その昔の幹線のあとが、今にどう残っているのか、教えてもらったんですが。御殿場線は、特急列車もはしる東海道本線の大動脈だったんです。峠道を前後の蒸気機関車を助っ人にして、「なんだ坂、こんな坂」と、ぐんぐん押し上げていたんです。それにより西と東の日本を一つにつないでいたんです。赤字だ黒字だなんていう、損得の問題じゃなかったんです。その苦労した面影が、ポリシーが、御殿場線には、今にかんぜんな形で残っているんですね。ものみな、もうからないものは切りすてて、廃線にしちゃえ、といった今の風潮の中で、どっこい、旧東海道本線・御殿場線は、規模は縮小されたとしても、しっかりと残されているんです。これって、貴重な日本の近代史の歴史遺産だと思います。電車が、単線の勾配のある山道を登っていくなかで、そう感じました。御殿場からは世界が変りますそれと、もう一つ感じたことがあるんですが。御殿場を過ぎると世界が開ける。そして、沼津という街を再認識しました。同時に静岡県の全体が、歴史的な、人情的にもそういう存在なんでしょうが。第一印象はとっつきにくいけど、あたたかいおもてなしの心があるんです。確かかどうかは、まだ材料に乏しいんですが、間違いないと思います。それは私などの、遠い昔の記憶でもあるんですが。しかしいまの交通は、JR東日本と東海です。15両連結の電車が、三両連結の電車になっちゃうんですが、ひとつづきではなく、乗り換え時間待ちも必要で、しかも1時間に1本とか2本になっちゃうんですが。しかし、それはうつせみの世界です。そんなことで、人は変わりません。おそらく、それは徳川時代からつちかわれている文化といったもがあるとおもいます。街並みも、自然も、素晴らしい、一つの空間ですね。私などは、真鶴生まれなんですが。これまでは、自然と世界は東京に、東の方に向いてたんです。背中の側にあった伊豆とか、静岡の方面は、ほとんどまったく知らなかったんです。箱根を境にして東西の世界が違う、漱石の『坊ちゃん』でしたか、そんな話がありましたが。私なども、知らず知らずに、実際にそうなっていたんです。しかし、今回の御殿場線の旅で、関東の端に生まれた私でしたが、すぐ隣の世界をもっと知らなければ、井の中の蛙だったと、感じさせられました。いろいろな記憶がよみがえってくるんです。箱根山の向こう側には、素晴らしい世界が広がっていたんです。しかし、そこからの情報はなかなか伝わってこなかったもので。日本中が東京の方を向いていたような風潮にもあったんで。確かに意識してみれば、そことの交流は昔からあったんですが。しかし私などの意識はそれに疎かったんです。時流に流されたとの感じもするんですが。しかし、とにかく今回の沼津港での海鮮丼は、最高でした。以前に西伊豆の戸田でも感じたんですが、人に対するおもてなしですね。せこい観光ずれした一弦商売とは違うんです。これが暖かさの底流ですね。それと、この日は天気が雨だったんで、富士山の姿はまったく見えなかったんですが、御殿場線の「富士岡」「裾野」などの駅の名からして、おそらく、ほんらいなら富士山の絶景も見えるところじゃないかと、雲を見ながら、雲の彼方の富士山を想像しました。きっと富士山が見えたら、最高ですよ。今回のこの御殿場線の旅でしたが。私などは、すぐ隣に生まれ育ってきたのに、ちっとも意識しなかったけど、そんな世界が、すぐとなりにあったんですね。知らないというのは、まったくもったいないことでしたが、しかしまだ遅くはない。この土地柄と風土は、そんな大切なものがあると感じました。これまで、小田原のみかん園を紹介してきたんですが、機会をつくって、それと同じように、この方面の魅力も紹介すべきだ、と感じて。また一つ、新たな世界が、山の向こうにある魅力を開いてみせてくれました。
2024年04月25日
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信州・安曇野の旅50年余前の旧友たちと、9月26-28日信州・安曇野を旅してきました。もちろん、アルプスの絶景や温泉、美味しい食べ物を楽しみました。この旅の中で、私など注目した二つを紹介します。一つは、安曇野市天蚕センターです私なども、これまでに富岡の製糸工場、八王子の絹の道資料館、横浜の絹博物館と、日本の製糸業の断片、断片は、これまでに見たことがあったんです。だけど、私などにとっては、蚕を育てて、その繭から生糸をとる工程というのは、一つの映像のシーンでしかなかったんです。この安曇野天蚕センターですが、日本に古くから自然に生息してる野生の蚕、すなわち天蚕を育てることが、この安曇野の地域では、天明年間(1781-1788)のころからされていて、嘉永年間(1848-53)にはそれから繰り糸により生糸をとることが、明治の初め頃(1868)には踏み取り機による繰糸がおこなわれるなっていたというんですね。それを目の前で、具体的に繭から糸をとる手作業を見せてくれたんです。繭から糸を手繰って、7本をより合わせる。さらにその何本かをより合わせて生糸になる、ついているのりのような物質を取り除いて、それが織物の材料としての生糸になる・・・・と。「明治時代は、日本の近代化の資金をつくるため、一番の輸出品として生糸があった」-養蚕は、日本の全国で行われるようになった。それはこれまで教科書にもあり、わかったような気になっていたんです。ところが、今回、参加した学校教師のOBですが、この糸繰りの実際の作業と説明をきいて、感想をしきりと語っていました。「『生糸』ということが初めて分かった。7本くらいの繭からの細い糸を集めて、より合わせる。さらにそれから生糸をつくり、『生糸』というのは、そうした作業からできたものなんだなんて。それが輸出品になったり、材料として布に織られたり、衣服になっていく。それがアメリカにも輸出された。一般的には分かっているつもりだったけど、ここでその様子をはじめて知った。自分は教師として、具体的な作業の流れをちっとも知らないで、それで生徒たちに教えていたんだということが分かった」と。まあ、この教員OBの人の感想というのは、参加したみんなの感想でもあったんです。それを感想として、口にしてくれたということなんですが。それにしても、日本の全国各地で養蚕が行われていたこと。日本国全体の近代化をささえる土台となっていた産業ですが、「この安曇野の山地までもが、遠く離れたこの地までもが、養蚕にとりくんでいたというのは驚きだ」と、私などは当初感じたんですが。まったく違ってました。ここから製糸というものが始まってたんです。日本には、明治になって国が注目して国策として製糸工場がつくられる。しかしその以前から、日本の自然に生息していた蚕がいたわけで、この安曇野の地では江戸時代から養蚕・製糸・機織りが、発見・発明・開発されていたんですね。日本には養蚕の独自の歴史があった。それが、この地にあったということです。国策として注目される以前から、すでに、自然の蚕から糸をとり、より合わせて生糸をつくり、高級な織物をつくっていた。そうした技術が、すでにこの地で行われていたんですね。だから、日本の養蚕の発祥ということは、この地から広がったわけです。そうした技術があったからこそ、明治になって、機械を駆使しての産業が起こせたし、それが全国各地に広げれたんですね。いわばここは、機械化され注目される以前に、日本自身での養蚕・織物の技術を開発していた。それをしめすのがこの地だったし、その歴史を残そうとする天蚕センターだったんですね。写真にもある通り、天然の繭からは、グリーンに光るとてもきれいな生糸がつくられるんです。染め直しても、この光沢は輝いてるんだそうです。西陣織などの高級絹織物にも、輝いて浮き上がる模様に、この生糸が使われているんだそうです。説明をお聞きして、私などはそんなことはちっとも知らなったものですから、一つ一つを耳新しく認識をあらたにした次第でした。しかし、一般にも、そうしたことは知られていないと思うんですよ。「安曇野天蚕センター」館長さんが、丁寧に案内してくれて、説明してくれました。これは、よく知った人にして出来ることで、はじめて知る私たちに対しても、わかりやすく説明してくれて、質問にも懇切に教えてくれたんです。これは、日本にとって貴重な歴史遺産ですね。「天蚕センター」が、そうした技術と歴史を、今に生きた形で残そうとしている。そうした熱意が、その説明から伝わってきました。 「安曇野市天蚕センター」は、長野県安曇野市穂高有明3618-24 電話0263-83-3835 です。www.azumino-tensan.jp です。もう一つは、「貞享(じょうきょう)義民記念館」を訪ねました実際にこの地で、江戸時代の1686年にあった過酷化する徴税に対する農民の抵抗の記録です。名主の多田加助が、農民たちの要求を藩主にだして、磔(はりつけ)にされた。そけが、農民たちによって伝えられ生きた、その具体的な記録の記念館です。江戸時代の過酷な税のとりたてに対する一揆というのは、各地にあるわけですが。私なども、これまで知っただけでも、千葉の佐倉惣五郎、群馬の杉木茂ザ衛門、郡上一揆など、類似した問題というは、全国各地に同じような事例があったと思うんです。それらと、この多田加助の「貞享騒動」との違いですが、その具体的な一揆をとりまく問題の事実関係が、生の資料として残っていることですね。その当時は凶作だった。これまでの五公五民の税でも、その周辺の地域に比べて高かったのが、凶作のなかで7公3民に引きあげるとの藩の厳命が出された。当時、村の名主だった多田加助は、磔(はりつけ)にされるのを覚悟の上で、10月14日に藩(奉行所)に農民たちの要求を訴状にして訴えたというんですね。いったんは、事態を沈静化すめため、その要求は認められたものの、11月22日には、磔(はりつけ)8人、打ち首の獄門20名との、11名は家族までもの極刑になった。この騒動の事情が、具体的な資料として、残されているんですね。「貞享(じょうきょう)義民記念館」ですが。長野県安曇野市三郷有盛3209 電話0263-77-7550 です。私なども、はじめて知った「貞享騒動」でしたが、江戸時代の藩(武士)と農民との経済関係について、これから資料をめくるわけですが、記念館の資料を見させてもらって、具体的にそれを知ることが出来そうな感じがしています。見学を終えてから、こんな会話がありました。「学生時代に、こうした事実を具体的に知っていたら、当時の50年前の学習がもっともっと勉学が生きたものになったんじゃないか」と。「いやいや、今だからこそ案内者の説明にたいして、生き生きと関心をもって聞けるんであって、50年前の当時の若造はなまいきで、こうした説明も立て板に水で、今ほどには響かなかったんじゃないか」と。両方の感想ともに、もっともだと感じました。ということで、今回の信州・安曇野の旅もまた、有意義なものとなりました。
2023年09月28日
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棚田は、今お米の収穫時学生時代の同窓会で、9月27日から29日に信州を旅してきました。私などは、「旅」などという習慣はありませんから、これが年に一度なんですが、普段の生活をはなれて、それとは別の他の世界と人を知る機会なんですね。私などは、すべては初めて見聞する土地柄ですが、前回は「無言館」を紹介しました。今回は、戸倉上山田温泉を宿とした、信州のこの地周辺の自然と歴史です。はじめは、「姨捨(おばすて)の棚田」です。「日本の棚田百選」にも選ばれている景色だそうです。ちょうど今、稲刈りがすすめられていました。こうした棚田には大きな機械は入れませんから、小型の稲刈り機です。棚田は、昔からお米を大事にしてきた人たちの苦労の結果です。これだけの棚田をつくるというのは、先人たちは大変な苦労をしたということです。思うに、今も収穫前にはあぜ道や周辺の草刈りを繰り返してきた、その結果としての景色です。信州から参加した人が、「高地は、寒暖の差が大きくなって、その分お米の甘さや美味しさが増す」と、さすが生活者です、「きっと美味しいお米だろうな」と紹介してくれました。さて、下の方を見ると、中央を千曲川が流れています。その正面の平らなところは善光寺平だそうです。そのあたりの手前のところだそうです。左側に上杉謙信が、右側に武田信玄が陣を構えての「川中島の戦い」があったところです。「べんせい粛々として、夜川を渡る」 (「べんせい」というのはムチの音、馬を進めること、とのことです)ここがその戦場だったとのことです。だいたい領地争いというのは、どれだけ多くのお米を確保するかをめぐってのこと、その大小で抱えれる兵力の大きさを左右したんでしょうね。戦い方の問題もありますが。裁判所などもなかった時代です。法の公正さもなく、ゆきつくところは現場の力関係が左右していたんでしょうね。鎌倉時代の「関東御成敗式目」あたりが、氏族間での法の始まりでしょうか。この時代は、力がすべてです。棚田には案内板が出ていました。お月さんが、この棚田の山に美しいんだそうです。松尾芭蕉の「さらしな紀行」というのは、私は確かめれてませんが、もちろん徒歩で、名古屋方面からこの地まで旅して来て、山に映える月を俳句にしたんだそうです。もちろん、良い温泉あり、美味しいお酒あり、それと案内と迎えてくれる人があったからこそ、遠路はるばる出かけて来れたわけですが。それにしても、電車も車もない、歩いてくるしか他に手段のなかった時代に、大変なことです。凄いものですね、目的と執念が無ければできません。たいへんな困難を越えてまでも、それをこえて引き付けるだけの動機があったということです。追加 『芭蕉紀行文集』(岩波文庫)に 「更科紀行」が掲載されてました。読んだ句も含めて全体で5ページと、いたって短いんですが、味のあるものです。「さらしなの里(上山田町あたり)、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風の(身にしみ)心に吹きさわぎて、ともに風雲の情をくるわすもの又ひとり、越人(芭蕉十哲の一人)という。木曽路は山深く道さがしく、旅寝の事も心もとなしと、荷ケイ氏(名古屋の門人)が奴僕をしておくらす。・・・夜は草の枕を求めて、昼のうちに思いもうけたるけしき、むすび捨てたる発句など、矢立取出でて、灯の下にめをとぢ、頭たたきてうめき伏せば、かの道心の坊、旅懐の心うくて物おもいするにやと推量し、我をなぐさめんとす。・・・とてもまぎれたる月影の、かべの破れより木の間がくれにさし入りて、引板の音、しかおう声、ところどころにきこえける。まことにかなしき秋の心、ここにつくせり。「いでや月のあるじに酒ふるまん」といえば、さかづき持ち出でたり。・・・ 姨捨山(おばすてやま) 俤(おもかげ)や姨ひとりなく月の友 」それがもととなって、あちこちにそれこそ沢山の句碑がたてられていました。残念ながら、みみずがのたくったような字で、わたしなどには解読ができなかったんですが。多くの人たちの聖地となったということは、みてとれました。さて、信州上田といえば真田一族です。上田市の山の上にある「真田歴史資料館」も見てきました。館内の解説を見ていたら、もともと真田氏は武田信玄の家臣だったようです。武田軍が長篠で信長にさんざんに打ち負かされた時に、犠牲も出したし、それを機会に、上田の地を中心に独自な領地づくりを広げたようです。上州(群馬)の「名ぐるみ城」をめぐって、小田原の北条氏攻めのきっかけとされたたたかい、関ヶ原の戦いには東西の両軍につながりをつくって、さらには大阪城をめぐるたたかいの様子も大屏風で紹介されていました。ようするに、みかん園のある小田原にも、上さんの故郷の群馬県の月夜野にも、縁があるということです。ここは、そうした歴史にかかわる舞台だったということです。さて、信州と言えばリンゴです。そのリンゴを試食させていただいたんですが、さすがでした。しかし、あと1₋2週間待てば、もっと美味しくなるとのこと。そのかわり、今はブドウが美味しいとのことで。ブドウ畑の中を農家の方に案内していただきました。私は悪いことをしちゃったんです。味見だけして、帰ってきちゃったんです。一人じゃ、リンゴもブドウも、とても箱までは食べきれないと思ったからですが。今思えば、いくらでも、まわりに味わったことがない人がいるわけですから、ましてや、せっかく農家の苦労している労働には、少しでも報いるべきだったと、思い返しているんですが、後の祭りです。だいち日本酒だけは、意地汚くも、しっかりと買ってきたというわけですから、リンゴとブドウでの栽培の苦労に対して、まったく失礼なことをしてしまったと、いまさらながら反省している次第です。追伸 旅の案内に連絡先があったんで、先ほど注文出来ました。「飛田武 りんご園」 026-275-2597、 FAX 026-275-4723 です。農家としてのポリシーを守って、ご家族で頑張っておられました。「今年は気候の関係で、ブドウの収穫量が少ない」、また「ハクビシンやシカ、二本足による鳥獣被害にも心配している」とのことでした。一年間、草刈りなどさまざまに、丹精込めて育ててきたリンゴやブドウです。その労働に見合った収入をえれるのは、それは社会の自然の理なんですが。さて、今回、宿となった戸倉上山田温泉「荻原館」ですが。明治36年創業の、120年の歴史を持つ旅館でした。温泉は硫黄の香りがする、かけ流しの温泉らしい温泉で、それが素晴らしいんです。なによりも、おかみさんが生きいきとしたサービス心で、温かいんですね。農家の方も同窓生とのことで、確かな信頼と協力が伝わってきました。この旅の幹事が、この宿を推薦したのは、マスクの下のおかみさんの笑顔とのことですが、それは『なるほど』と、参加者の皆そうだと思いますが、当方としては納得でした。これは、若いころの同窓生の旅ですが、いつしか70歳を超えた敬老会の旅になってるんですね。気持ちと外観の姿とでは、ギャップがあるようで、みなさん以前に比べ酒量も少なくなりました。午後10時くらいの夜おそくまで、今回も交流がありました。50年の時を経て、初めての学生当時のエピソードも出てきました。それぞれが、最近努力していることの紹介も、夜遅くまで交歓されました。私などの印象としては、その主題が、「自分自身も老人となったことで、身の回りの人の介護や健康問題」の話題が、自然と話の中心になってきていたことが、印象的でした。とにかく、一行は、無事に信州の旅をおえて、それぞれ、自分たちの日常の暮らしの場に帰っていきました。
2022年09月30日
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『無言館』にて遺作をみる9月28日に、学生時代の同窓生の一行は、『無言館』を見てきました。『無言館』をご存じでしょうか。私などは、つい最近に知ったんですが。先の日中・大東亜戦争で亡くなった若い画家たちの遺作をあつめた美術館です。案内チラシには、次のようにありました。『「無言館」は太平洋戦争などで志半ばで戦死した画学生の遺作、遺品を展示する美術館です』〒386-1213 長野県上田市古安曽字山王山3462 電話 0268-37-1650 です。『無言館』は、最近、紹介したことがあるんですが。「無言館」、絵心のない私などにも何かの縁を感じさせてくれいます | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)実際の作品をみるのと、その紹介を見聞きするのとでは、やはり大違いですね。私などは絵心などはまったく無いんですが、それでも、遺作となった絵を前にすると、その一つ一つから何かが伝わってくるんですね。戦争の傷痕というのは、若い絵を描きたかった人たちにも、その命にのしかかったんですね。埋もれて、朽ちて消えていこうとしていた絵ですが、そこからは、名もなき画を描きたかった若者たちの思いが、それを、誰が、何故、どのように、奪い去ったのか。それは、いったいどういうことなのか。私たちは、そうした日本の80年くらい前の歴史事実に、どの様に向かい合うべきか。重たい、問題を突き付けられた、今回の同窓会の旅でした。同時に、美術館のところの周辺には、日本の原風景が広がっていました。その景色は、コメ作りの大変さとともに、勤勉な農家の努力がしめされていました。いま、水田は、お米の稲刈りの真っ最中でした。これはこれで、また別に紹介させていただきます。
2022年09月29日
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綿貫観音山古墳を見てきました私などは、古墳というのは、関西と九州にあるくらいの認識だったんですが、関東にも前方後円墳があちこちにあるんですね。3月28日に、群馬県高崎市にある前方後円墳、「綿貫観音山古墳」を見る機会がありました。用事で群馬に行ったんですが、そのついでに、歴女の案内で、その古墳を見てきました。長さは100メートル近くあるんですよ。また、高崎市の地図を見たら、古墳はここだけじゃないんです。それこそあちこちに、いくつも古墳があることを知りました。私などにとっては、これまで「古墳は関西や九州の西の方にある」との認識だったんですが、「関東平野に大きな古墳がある」なんてことは、まったく知らなかったんですね。この認識は、改めなけれはならないことが分かりました。「綿貫観音山古墳」は、1973年に登録されたとのことで、横穴式の古墳だそうです。私などの学生時代に、発見と調査が行われていたということです。知りませんでしたが。だけど、それ以上のことはわからないんです。関東平野は広いですから、水田が広く作られていたでしょう。おそらく、富や力というのは、どれだけのお米を取れるか、どれだけの水田をもっているかで、集落の規模や、集団の力が決まってきていたんでしょう。長い時代の中では、その広い水田をめぐって、さまざまな争いもあったでしょう。「兵どもの夢の跡」です。しかし、この大きな前方後円墳が、今に残っているということは、奇跡的じゃないでしょうか。日本の政治というのは、政治屋的な、学術などは蹴飛ばして、目先の利益ばかり追いかけていますから、儲からないものは大切にしないし、すぐに遺跡などは壊しちゃって、宅地などに開発しちゃうじゃないですか。科学者会議の6名の排除ですが、こうした誤った決定を、今もって直そうとしないじゃないですか。そうした中で、これだけ大きな古墳が残されたこと。いわれもよくわからない中で、こうして今日まで史跡として保全され、残されてきたというのは、一つの良識ですね。これは日本の歴史にとって、一つの宝ですね。もっと詳しくこの古墳について、知りたくなったんですが。残念ながら月曜日は歴史博物館は休館日だそうで、見ることが出来なかったんです。発掘された埋蔵品や歴史資料などが展示されていると思うんですが、それを見ることが出来なかったんです。群馬の空っ風、寒風がふきつけている古墳そのものしか、今回は見ることは出来なかったんです。それでも、私などにはこれまでまったくの空白だった関東の古墳時代の歴史でしたから、そこには、まだよくはわからないけど、大きな歴史が隠れていそうだ、ということです。今でこそ、東海道の海沿いの道が、交通や鉄道のメインルートになっていますが、どうやら、その昔は本州の中央部分を通るみち、中山道の方がメインルートだったようです。古墳のある位置をみていると、そんな感じがしてきました。失礼しました。記憶から消えていたんですが、高崎の八幡山古墳に、以前に言ってました。へぇ~、関東にも前方後円墳があるんだ | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
2022年04月01日
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川越を20333歩で散策地名としてしか知らなかった川越ですが、今日は、知人に案内してもらってしっかり散策してきました。帰ったら、20333歩も歩いていました。何故、川越かというと、歴史ある街-川越に、私はまだ一度も行ったことがなかったんです。その隣の駅には、神さんと娘が住んでいるんですが、しかし行ったことがなかった。学生時代からの知人が、川越市に住んでおられたので、案内してもらったんですね。平日の火曜日で、時々小雨がパラつく天気でしたが、町を散策する学生のグループですが、どこでも大勢行き交いました。川越城の本丸を見て、春日局と三代家光の部屋がある喜多院をみたんですが、もともと太田道灌たちが築城したんだそうで、1537年には小田原の北条氏がその城を攻めて、支配するようになったとのこと。秀吉の小田原攻めまでは、沼田城をはじめ、当地も北条氏の拠点だったんですね。さらに街中を、シンボルの時の鐘を見たり、商工会議所や銀行、蔵造りの歴史ある建物などなど、川越の歴史をあちこちを、20000歩も散策してきました。個人でぶらりと行った場合には、これほどの歴史の街を知ることは出来なかったでしょうが、長く地元に暮らしてきた人に案内してもらいましたから、歴史あり、暮らしありで、非常に有意義な散策でした。最後はお酒です。元「鏡山」の酒造工場の跡なんだそうですが、埼玉の地酒とお菓子が、ずらりと並んだお土産物屋さんになっていて、そこに寄りました。30種類以上の地酒がずらりと並んでいました。古い歴史のある街には、お酒がつきものなんですね。「鏡山」がもっとも有名なようですが、知人が「お土産に」と、それをプレゼントしてくれました。これから楽しむところです。
2022年03月08日
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伊豆山神社を紹介しますNHKの『鎌倉殿の13人』をみていたら、2月6日に熱海の伊豆山神社が紹介されました。以前に学生時代の同窓会で、この伊豆山神社を案内したことがあります。早いもので、それから10年が過ぎたんですが、その準備で下見した時に、2012年9月22日ですが、ブログで紹介していました。今回は、あらためてですが、参考になることもあるかと思い、紹介させていただきます。「伊豆の旅」の準備2、熱海の伊豆山神社 | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)ついでに、海岸にある「走り湯」についても紹介させていただきます。源頼朝も入った、伊豆山権現の走り湯 | みかんの木を育てる-四季の変化 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)「入った」というのは、源頼朝は、伊豆山神社に詣でる時に、この湯で身を清めてから、石段を登って行ったというんです。これは10年前のことですが。最近では、伊豆山の地は、業者が不法投棄した土砂のために、大規模な土石流が発生して、人命や家屋がながされるという大災害が発生した地でもあるんですが。
2022年02月07日
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群馬県・月夜野を往復してきました11月8-9日、紅葉の群馬県・月夜野を往復してきました。上さんのお母さんの介護のための相談でしたが。とまった先の庭も紅葉が綺麗だったので、宿舎の人にシャッターを押してもらいました。猿ヶ京あたりは、山々の紅葉が鮮やかでした。この往復では、この半年間の観光客の少なかったのと比べて、今回は、家族による行楽が復活しだしているように見えました。
2020年11月09日
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源頼朝が旗揚げした石橋古戦場小田原のみかん狩りに来ると、定番の歴史解説ですが、豊臣秀吉の小田原北条氏攻めの一夜城、その史跡散策があります。もう一つは、源頼朝が旗揚げして敗れた石橋山の古戦場があります。この二つを、東京から来たみかん狩りの人たちに、毎度講釈しています。片や秀吉・家康による日本全国を統一するための最後の戦いですし、片や鎌倉幕府がつくられるドラマチックな展開です。東京から伊豆方面に行く時、交通渋滞して悩まされるのが石橋インター付近です。国道1号線、小田原厚木道路、西湘バイパスの3道路が合流して、1車線の通行となるからです。いつも行楽へ行き来する人たちが苦労させられている所です。そこが石橋山の古戦場なんですね。昔も今も、交通の要衝になっていて、源頼朝はここで押し寄せる平家方の大軍を足止めしようとしたんですね。関東の各地から支援の軍勢が集まるのを待とうとしたんです。『平家物語』の巻五「早馬」にそのことが出てきます。平家方の豪族・大庭景親が1180年9月2日に早馬を都・福原に送って、頼朝が蜂起したこと、石橋山に立てこもったけどさんざんに打ち破った、と知らせました。頼朝は8月17日に伊豆の代官所を襲って、石橋山に立てこもった。頼朝方300騎と平家方大場氏など1000騎が狭い谷(今、鈴廣のお店があるところ)をはさんで激突した。8月23日午前8時ころから合戦が始まったとのこと。(『源平盛衰記』によると)多勢に無勢ですから、頼朝は「大わらわ」の戦いをしたけど、散散の負け戦となった。ここまでが、9月2日の早馬の急使がつたえた中身です。頼朝は7,8騎となりますが、箱根山の山沿をかきわけて湯河原方面に逃げたんだそうです。かなりの落ち武者狩り、追討が行われたようですが。結局、頼朝は、私たちが相模湾の地魚を賞味した真鶴町ですが、そこの岩海岸から、漁師の小舟で房総半島の千葉に逃れたんだそうです。追討をかわして、九死に一生を得たんですね。一方、平家は9月18日に3万の頼朝討伐軍を、関東平定のために出発させます。やはり『平家物語』巻五に「富士川」があります。東の源氏と西の平氏が、静岡の富士川で10月23日対峙したそうです。有名な水鳥の羽ばたきの音で、平家の軍勢は逃げ出しちゃったんですね。私などが注目するのは、一、8月23日の負け戦から10月23日の富士川までにたった2カ月ですよ。大わらわで負けた頼朝が、どうして短期間に数十万の総大将となった現れたのか。可能性が、どうして現実になって現れえたのか。この急速な変化の点ですね。二、もう一つは、富士川で対峙した時の両軍の士気の違いですね。平家方の8万騎ですが戦々恐々としていたこと、内心ではおびえていた。『平家物語』には、戦場に女性も連れて来ていたというんです。それを蹴倒して我先に逃げ出したというんです。そうした混乱ぶりが描かれています。まぁ、こうしたことを紹介しようとしたんですが。バスのガイドさんとは大違いで、うまくは伝えられなかったんですが。日本史の中にも、時代が変化するときに、生きたドラマがあったことは確かなんです。それは、荒廃した社会を変えようとする人たちにとって、たいへん刺激にも、参考にもなる話だと思っています。
2019年11月23日
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東京からのみかん狩りツァー今日は雨が降ってますが、昨日・11月21日は快晴でした。その快晴の日に、東京から一行・21人が、小田原へみかん狩りにやってきました。多摩ニュータウンの団地に住んでいる人たちですが、日ごろのあれこれの苦労を、この旅でリフレッシュしてもらうことが眼目なんですが。今回の企画の中身は、1.みかん狩りとその自然満喫、2.相模湾の地魚と景観を楽しみ、3.箱根湯本の温泉で疲れを流すみかん園は、今、みかんの成熟が始まりだしており、一年の中で、最もはなやかで、活気のある時期に入りつつあります。ツァーの一行が、みかん狩りをしている時の様子です。本来なら背伸びしなくても採れる位置に、みかんが沢山なっているはずなんですが、その部分のみかんは、イノシシがほぼ完全に平らげちゃっているんですね。猪が背伸びしても届かない位置にあるみかんを、人間が収穫している次第です。今、みかん農家が置かれている状態を少しでも知っていただき、都会の人たちに、少しでも収穫作業を体感していただこうというのが、受け入れをしているみかん農家の方のおもいなんですね。せっかく70キロの旅をして、小田原まで出かけて来てくれたわけですから、遠路ここまで来て、相模湾の地魚を賞味しない手はありません。真鶴の食事処「まるなか」、ここまで、ちょっと足を延ばしました。用意していてくれたこの日の地魚ですが、1.コダイ、2.ヤガラ、3.カンパチ、4.カサゴ、5.ムツ、6.イナダ、7.メアジ、でした。これらが船盛にされて出てくると、ながめるだけでも楽しませてくれて、すごいんですが、その味が、なんたってさばきたてですから、鮮度が抜群で、美味しいんですね。この美味しさは、流通がさかんの大都市・東京でもかなわない味です。なんたって、お店の人の心意気がちがいます、東京からのお客さんを、もてなそうとしてくれている気持ちが伝わってくるんですね。一行は、このあと、箱根湯本の温泉に向かいました。ここまできて、箱根の温泉を楽しまない手はありません。幹事さんが、事前にきて、下見してくれてるんですよ。当方はというと、ここで別れて、みかん園にもどり、みかんの収穫にあたりました。なんたって、翌日が雨模様とのことでしたから、この日しか収穫は出来ません。みかんの成熟にあわせるには、収穫のテンポアップが求められだしているんですね。午後3時から4時20分まででしたが、陽が傾くまでの1時間20分間でしたが、2.3コンテナの収穫が出来ました。午後4時になると、みかん園にはチャイムの音が鳴り響きました。これは「そろそろ作業を終えて、片付けるべき時だよ」との合図です。今回の、みかん狩りツァーの受け入れと、自分自身の収穫作業は終わりました。これから、いよいよ、猫の手も借りたくなるような収穫の時に入っていきます。
2019年11月22日
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義母が群馬県・中山を散歩してきました10月7日は義母(91歳)の介護で、群馬の中山盆地を散策してきました。そこは、沼田や後閑の利根川沿いの地から、北方にひと山上ったところにあります。よく手入れされた水田が広がっていました。今は稲刈りをした後でした。そこには、道の駅がありました。この中山盆地は、私などは初めて行ったところでしたが。義母にとっては、その昔、親類に当たる人が住んでいたところなんだそうです。利根川からひと山超えた奥には、整備された水田が、日本の原風景がひろがっていました。その盆地の中ほどには「道の駅」があって、人々の暮らしをうかがわせる作物が並んでいました。その中から、私などはトマトとキュウリ、ネギや小松菜、リンゴ、そして地酒を押さえました。中山から山道を南に下ると沼田にでます。この地域では、なんと言っても沼田が中心です。その沼田城の跡を見学してきました。「ほら、あの方角が、あのあたりが月夜野だよ」地元の生活者ともなると、郷土の歴史を散歩するようなことは、なかなかないようです。『ここはどこだい』『なんだ沼田か』、『綺麗でよい景色だね』『日本というのは広い国だね』、義母は、日ごろとは生活範囲が少しだけ違うだけなんですが、まるで初めて見た景色であるかのように、何事にもしきりに感動していました。『いいところだね』『こんなところ、初めてきたよ』と。当方にとっても、この散策をともにすることは貴重なもでした。だいたい、みかん園のある小田原とこの沼田は縁があるんですよ。秀吉が全国統一の総仕上げ、小田原城の北条氏を攻める口実となったのが、この沼田の地ですから。北条氏の沼田城とって、平地をはさんだ真田氏の名胡桃城は、目と鼻の先です。もちろん肉眼でもみえる、すぐ近くの位置にあります。沼田城からして、向かい側の山にある真田氏の名胡桃城は、目の上のたんこぶだったんでしょうね。そのちっちゃな土塁の城を、沼田城の北条氏側は攻めちゃった。そのことが、大問題とされたわけです。みかん園のある小田原・石垣山に豊臣秀吉が、全国から大軍を終結させた。そして、石垣山に一夜城をつくって、眼下に見下ろす小田原城を、この関八州の中心(首都)の北条氏の小田原城を攻める、天下統一の戦の口実となったわけですから。そのきっかけとなったのが、小田原からはるかに離れた群馬の沼田の地での小さなトラブルだったわけです。それをさらに遠くの京都・大阪からみていた秀吉が、全国総動員して小田原城の北条氏をめる口実にしたわけですから。歴史というのは、ささやかな偶然をとらえた必然的な力であり、不思議なものですね。ということで、今回も、日ごろのみかん農夫の仕事からしたら、得がたい貴重な旅となりました。
2019年10月08日
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新潟県南魚沼の雲洞庵法政の同窓生一行14名は、8月2日から4日に新潟県を旅してきました。長岡の花火大会に合わせたものでしたが、それは写真には撮れませんでした。そのかわり、静かな雲洞庵を紹介します。その参道です。簡単には紹介できないんですが、正門です。この寺は、戦国時代に長尾景勝と兼続が修行したところ。その解説文です。いろいろ学ぶところありましたが、これから出かけますので、その一端の写真紹介です。
2019年08月04日
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山の暮らしと信仰-小菅山 飯山の旅4(最終回)当方は9月4日から6日に、法政の同窓会で長野県飯山に行ってきました。その飯山の旅を、1.収穫目前の稲田、2.説教と銀杏、3.野沢菜と源泉・麻釜と見てきましたが、今回は最終回です。最終日の6日(木)には、霊場・小菅山を訪ねました。(この日の早朝、5時ころに、北海道で大きな地震が発生したことを知ったのですが)この旅は、学生時代の同期生が、持ち回りで、その土地と歴史を紹介してくれてきました。すでに多くは職場を退職していますから、そして案内は一まわりはしているんですが。今回は、飯山の富倉に住む人の案内で、長野県飯山でのディスカバー・ジャパンをしてきました。最終日は、小菅山です。ここは7世紀の前半に、役小角(えんのおづぬ 役行者)によって開かれたと山岳信仰の霊場で、戸隠、飯綱とならんで北信濃の三大修験道の霊場とされているそうです。他方、中世には小菅山元隆寺として37の僧坊や10の末院などが立ち並んでいたそうです。(散策ガイドパンフレットより)日本の歴史は、明治の廃仏毀釈(きしゃく)までは、ず~っと神仏混淆(こんこう)だったんですね。これは、小菅神社の里宮本殿を参拝している時のものです。(今回は、一日の写真枚数の制限で、2枚しか紹介できないのですが)里宮から続く参道ですが、次の三の鳥居から1時間ほど歩いてのぼると、小菅神社の奥社本殿があるんだそうです。地元の方が紹介してくれました。「あのこんもりした頂の中ほどにある」と。「落ちている小枝を杖がわりにしたらいい」ともアドバイスしてくれたんですが、私たちには、その体力も時間もなかったので、参道の脇にあったお茶屋さんで休憩してきました。縦の写真が横になっていて、チョット見にくいんですが、このうっそうとした木々の間を登っていくんですね。山岳信仰、霊山に登って心身を清めたくなる気持ちが、少しですが分かるような気がしてきました。このすぐ脇にあったお茶屋さんですが、その娘さんがアドバイスしてくれました。『オオスズメバチが出るのでこの先は危険ですよ。さっき刺されて、救急車で運ばれていった人もいますから』と。「まぁ、私たちは、これ以上は登れませんから、大丈夫です」と休憩です。途中では、藁ぶき屋根をふき替えている人もいました。「私は屋根ふきは素人なんだけれど」と、長い脚立を立てて登っていきました。また、腰の曲がったおばあさんでしたが、大きなトタン板を丸めて運んでいました。「昨日の風でとばされてきたもんで、もとのところへ戻そうと思ってね」と。地元の小学校六年生の3人と先生の二組が、屋外授業でやってきました。いろいろ話をする中で、小学校の校歌の1番を歌ってくれました。ここの小学校の六年生は、全員で8人だそうです。ここで、その内の6人と会っちゃったんですね。「小菅の里散策ガイド」というチラシをもらったんですが、その中の「生活と生業」のところですが、『オテンマ』という言葉が出てきます。「集落内の石垣や水路、里山の管理や伝統的な祭りは、住民の自治組織やオテンマによって維持されています。オテンマは住民同士を結び付け、小菅の景観の維持や祭りなど伝統行事の継承の原動力になっています」と。私などは、神奈川県西部の真鶴町岩の生まれですが、この『オテンマ』という言葉は、遠い昔に聞きおぼえがあります。その地を出てから忘れていた言葉だし、その意味も定かではないんですが、聞き覚えがあるんですね。300キロ以上も離れたこの飯山の小菅の里で、懐かしの言葉を見聞きするなんて、不思議ですね。今度、真鶴に行く機会があったら、『オテンマ』という言葉が今でも使われているか、どんな内容なのか、確かめてみたいと思っています。さて、今回の長野県飯山の旅、その報告でしたが、昨日から北海道は大変な事態です。二日目の暗闇になっています。しかし、これはこれで紹介する必要があると思ってたんですね。おかげで、写真の一日枠の限界までしかって、5回のレポートに集中しました。これで、今回の旅ですが、一段落とします。
2018年09月07日
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野沢菜と野沢温泉の源泉(飯山の旅3)同窓会の長野県飯山への旅ですが、棚田、飯山城についで3回目です。9月5日(水)は、野沢温泉の源泉の一つ、麻釜(おがま)を見てきました。野沢温泉は、飯山駅から車で15分か20分くらいで、すぐ近くなんです。温泉の源泉がわき出しているのを見れる、というので楽しみにしていたんですが。そこでは、信州の各地で親しまれている漬物の野沢菜ですが、今回、その発祥が、この野沢温泉にあることを知りました。これがその野沢温泉・麻釜の全景です。これが幾つかある源泉の一つなんだそうです。そこにあった案内板をみて知ったんですが、この源泉・麻釜は、5つの源泉(1.大釜、2.ゆで釜、3.丸釜、4.竹のし釜、5.下釜)があること。弱アルカリ性の硫黄温泉で、温度は90度から72度、毎分500リットルの温泉がわき出しているとのことです。それぞれの5つの釜の源泉温度が違っていて、それぞれの釜の温度によって、それに適した用途をもっているんだそうです。「野沢温泉村の人たちの台所」でもあるそうです。これは大釜です。しばらくすると、鎖のはられた立ち入り禁止区域の中で、婦人がなにやら仕事をはじめだしました。「何を茹でているんですか?」聞いてみたんですが。『野沢菜を茹でてます』との返事がありました。なるほど、この大釜は85度で、「野沢菜や山菜を茹でる」とかかれていました。観光用の見世物、アトラクションなどではなくて、住民は日常生活で釜を使っているんですね。野沢菜というのは、この信州ではどこでも出されます。昨夜の宿の夕食にも、お茶うけの漬物として、美味しい野沢菜が出されていました。その野沢菜ですが、初めて知ったんですが、この野沢温泉が発祥の地だそうです。この野沢菜ですが、その袋の裏側に解説が書いてありました。当地・麻釜のすぐ近くに健命寺があるそうですが、「その八代住職が宝暦6年(1756年)に京都に修業に行ったそうです。その時に天王寺カブ(小カブ)の種を持ち帰って、この地でもつくろうとしたんだそうです。ところが、実の方はちっとも出来ずに、茎と葉ばかりが育ってしまった。やむなくそれを工夫してみたところ、野沢菜が出来たということなんです」。小カブづくりには失敗したけれど、野沢菜という新たな食材が誕生したというわけです。災いを転じて福となしたわけですが、失敗作を捨てずに活用方法を考えたというのがすごいじゃないですか。野沢菜発祥の健命寺ですが、この麻釜のすぐ近くにあるそうです。予定では、ここへ来る途中に、そこ寄るはずだったんですが、その前の住職代理の説教が長びいてしまたんで、まぁこれはこれで貴重なことだったんですが、予定していた時間が無くなってしまい、今回はカットして、源泉見学のみとなりました。さて、それと野沢温泉では、もう一つ貴重な体験がありました。ここには「おぼろ月夜の館」記念館があって、それを見学しました。知りませんでしたが、唱歌の「うさぎ追いしかの山・・・」の『ふるさと』や『おぼろ月夜』ですが、これを作詞したのは高野辰之という人だそうです。その人の記念館が野沢温泉の中央にありました。それを見学を終えて、記念館を出て、後から来る人たちを待っていた時でしたが。外の方が、サイレンなども鳴って、何やら騒がしかったんです。『騒がしくて済みません』と、記念館の方が、そのわけを説明してくれました。ある家の車庫にしまってあった除雪機から出火し、火災となり、自主消防団にも緊急招集が出された。すぐ向かい側がその集合場所になっているから、まもなくにぎやかになりますよ、と。しかし、幸いなことに直ぐに消し止めたとの防災無線の放送がありました。「車庫の除雪機から出火したけれど、機械は燃えたけれど火は消し止められました」と。ほどなく、自主消防団員が、それぞれの仕事場からかけつけてきたり、火事の現場から帰ってきた人たちも合流して、状況を交歓していました。これは現場から帰ってきた人たちで、「ヤレヤレ」といったところです。次は、使った用具のあと片付けをしているところです。これが、火災などの事故から街を守ろうとする野沢温泉村の自主防災組織なんですね。ここは、村の中央あたりに位置していますから、いざという時の集合場所にもなるんですね。今回は防災訓練などではなくて、実際に本物の火災出動をしてきた事件なんです。大事なくてさいわいと、それぞれ各自の元の仕事に帰っていきました。なにしろ今年の暑さは異常ですから、今回のように、車庫にしまってあった除雪機ですが、どうしたわけか、それから出火するなんてことも、実際におきているんですね。野沢温泉の源泉を使っての野沢菜づくり、いざという時の自主防災組織の活動、偶然でしたが、野沢温泉村の、今の暮らしの一端を見させてもらいました。
2018年09月07日
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庵での説教とぎん杏(飯山の旅2)長野県飯山の旅、その2回目です。9月5日(水)には正受庵や飯山城址を訪ねました。いわば飯山の歴史編です。私などは知らなかったんですが、飯山は城下町であったんですね。地名しか知らなかったんですが、飯山は地域の中心地だったんです。今回の旅を案内してくれたKさんですが、阪神大震災で兵庫の住まいが倒壊してしまい、すべてを失いました。その時に、まったく知り合いもいなかった飯山の山里に単身で移住した人なんです。それから25年、さまざまな苦労があったでしょうが、今回、飯山・富倉の人として、この第二の故郷を一行の13名に案内してくれたわけです。この日の案内の一つは、正受庵という小さな庵でした。私などは仏教は疎いし、「なに? この庵は」といったことでしたが。ここには臨済宗(鎌倉時代からの禅宗)の中興の上人・正受老人という方がいたんだそうです。その人は松代藩主真田信之の子ども(庶子のため仏門に)だそうで、今から330年前のことです。ここに正受庵に禅室をつくって修行していたのだそうです。ここの庵が本堂だそうです。その正受老人(恵端禅師)の歌です 指し当たる事のみばかり思えただ かえらぬ昔 知らぬ行く末 真田家の大名の子どもでもあり、周りには寺の建立と寺領の寄進をもう出でた人があったそうですが、「出家というものは三衣一鉢さえあれば良い。それ以上のものを求め、民の富を奪って何の利益がある」と言ってことわったそうです。そのかわりに、水石と栂(つが 松の木の一種)の木を受け取ったというんです。これがこの寺の本堂でもある正受庵です。いたって質素なんですね。そうしたことは、すべてこのチラシに書いてあったことでして、私などはすべて初耳だったんすが。この上人も修行し出た若いころはたいへん生意気だったたようで、その時の住職に鼻をつままれて、「出直して来い」と、この坂道を下の方に蹴飛ばされたんだそうです。そんなエピソードを、一行の一人が、説明してくれていたんです。その時、道を掃除している人がいました。昨夜の台風の風で、あちこちに小枝が散乱していたんですね。後から知ったんですが、それは住職の代わりに寺を守っている人だったんですが。そのひとが、小言もふくめて、いろいろ説教やエピソードを紹介してくれました。「この石段は、近くの古民家が壊された時に寄せられたもので、それを階段にしたもの。この石段の前は、地元の小学生たちが川から玉石を運んで階段のように敷いてあった。蹴飛ばされたころは、おそらく土の坂道だったろう、そうでないとケガしちゃう」と。「臨済宗は禅宗で、禅問答が大事な一部になっている」と、その蹴飛ばされた時の問答や様子、そのことの意味を紹介してくれました。「団体客は、とかくマナーが悪い。本堂は拝まないし、敷石を歩かずにその外を歩く」と、マナーの問題を含めて、この宗派の大事にしている点をコンコンと説教してくれました。その説教を聞いている時の様子です。得難い貴重な話を聞かせてもらったんですが。次は、正受庵の庭です。その説教によると、臨済宗では「座禅と、サム(お勤め)と、お経(学習)、この三つを大事にしている」そうです。庭をきれいに維持するのもサムの一つだそうです。本堂の庵も、その庭も、いたって質素なんですね。日本庭園らして、自然を生かした独特の文化の趣がありました。そうしたことで、ガツンと、しかもコンコンと説教を聞くはめになった正受庵でした。ついで、午後からは飯山城址を散策しました。それは飯山城は飯山の中心にありました。もともと飯山は城下町だったんですね。市街地の中心にあるわけですが、よく城跡が保全されていました。次の写真は、飯山城の二の丸から本丸へ上がる道です。天気も良くて、見晴らしも最高だったんですが、坂道を上るため、年寄りたちには少々きついんですね。本丸までのぼると、その正面には神社がたてられていました。この広場が本丸跡です。正面の葵の家紋ですが、ここでは木の入った葵なんですね。飯山藩は、幕末の戊申戦争では、政府軍の側についたんだそうです。それぞれの藩で、様々な対応がありますから、きっとその時代にどう対応したらよいか、大きな議論が交わされていたんですね。私などは知らないので、想像でしか分かりませんが。本丸よりさらに一段高いところは、天守閣があった所でしょうか。何しろ、台風21号が駆け抜けた後で、台風一過の強い日差しです。日陰を好む一行と、正確な解説をしようとする幹事とでは、動き方が違います。幹事は案内プレートを読み込んで、解説してくれました。足元を見てやってください。台風が吹き荒れた後でしたから、それこそ沢山の銀杏です。銀杏があたり一面に散らばっていいて、踏みしめて歩かざるを得なかったんですね。まだ落ちたばかりでしたから、別に支障はないんですが。この飯山城ですが、お城の内堀は埋められいて、今は駐車場や広い通り道になっていました。そこを近くの高校生たちが、学年行事でしょうか、男女の大ぜいが次々に駆けてきました。この暑さの中を、一方は駆け足するの若者たち、他方は日陰を探そうとする年寄たちだったんですが。年寄り組の中には、かつての教師時代の血がさわぎだす人もいたりして、すれ違う生徒に、「ファイト! 一、二、一、二」と大きな声をかけ、気合をおくったりして。確かに、それにより、生徒の足がピシっとなり、にこやかに力強くなっていくんです。何人もの生徒が、これに対して、挨拶とエールをかえしながら走っていきました。へぇ~と、金八先生を連想させられるような一コマでした。この「説教と銀杏」は、今回の飯山の旅で印象深いものがありました。すこしたてば、細かいことは、自然にほとんどは忘れてしまうでしょうが、だけど、前回の稲穂の黄色く垂れさがった棚田とともに、この二つについては、きっといつまでも頭皮に刻みこまれることでしょうね。次回は、野沢菜の野沢温泉を紹介します。
2018年09月07日
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棚田はまもなく稲刈りです(その1)9月4日-6日、長野県の飯山を、学生時代の旧友たちと旅してきました。その地に住む旧友が、その土地柄をいろいろ案内してくれたんですね。私などは、「旅」などと言うことは、めったになく、ほとんどこの時だけなんですが。その地元の人が案内してくれたおかげで、じつに楽しくも有意義な旅となりました。最初に案内してくれたところは、棚田でした。熊も出るそうです、柵には注意書がはられていました。台風21号が接近していて、空模様が怪しくなってきていましたが、稲穂は黄色く色づき、首を垂れだしてきていました。稲刈りの時は、もうすぐです。次の写真は、台風が去った翌朝です。朝は霧が立ち込めていましたが、時間とともに遠方の景色が見えてきました。飯山というのは城下町なんですね。その中央には千曲川が流れていて、水田と棚田が広がっていたんです。「これこそ日本の原風景だ」と、それがあんないポイントの第一番目でした。とまった宿は、北竜湖の隣の建物でした。もちろん、温泉でした。朝立ち込めていた霧が、少しずつ引いていくと湖が見えてきました。その水面には、周りの木々が映し出されていました。昨夜の交流会では、知人がこの度にと提供してくれたお酒でしたが、みんなで、それらを飲みかわして、それぞれの近況となり、夜遅くまで交歓しました。しかし、それぞれよる年並みです、疲れてもいて自然には勝てません。明日の予定もあり、ほどほどのところでバタンキューだったんですが。北竜湖の景色ですが、その翌朝の、台風21号が去った後の、宿舎の建物のすぐ前ですが、早朝の景色でした。
2018年09月06日
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長野県の飯山に行ってきます年に一度だけですが、八王子-真鶴・早川間の日常の生活を離れ旅してきます。学生時代の仲間が、それぞれの人が主宰してくれて、その土地柄を散歩してきます。今回は、長野県の飯山です〔9月4日(火)-6日(木)〕。台風21号の通過と重なる問題がありますが、年配者は、だいたい無理はしないことになっています。それと、私などが、みかん仕事の日常性を離れるのは、この時くらいなんですね。去年は福島県の会津若松、一昨年は山形県鶴岡でした。時にこうした旅が出来るというのは幸いなんです。おかげで藤沢周平だとか、その機会に私などの知らなかった世界が開けますから。さて、今回は、どの様な収穫があるでしょうか。〔次のブログは、2013年9月にあった伊豆の旅です。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201309090000/当方が案内者となった時のものですが、もし伊豆方面に関心のある方は、開いてやってみてください。〕
2018年09月04日
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「伊豆の旅」の下見のまとめです5年前になりますが、「伊豆の旅」を学生時代の仲間と遊んだんですが、前年に、その下見をして、まとめていました。この方面の見どころとして、参考になればと紹介させていただきます。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201210260000/これは、熱海市内にある芸妓会館でしたが、芸者さんの踊りを見せていただいた時のもの。本番では、時間がとれず寄れなかったので、下見の役得でした。伊豆は火山帯でもあり、大きな地震が記録されているんですが、これは1930(昭和5)年11月26日の北伊豆地震の跡です。この北伊豆地震はマグネチュード7.3で、「伊豆大震災」とも呼ばれたそうです。これは込み捨て場だったそうですが、石で円形のふちどりだったそうですが、断層が横に2.7メートル動いたため、円形が半月のずれた姿にかわったものです。その痕が現地に保存されているんですね。地震学にとって、この中伊豆地震はしっかり調査も行われ、研究のエポックになったそうです。当時は、東海道本線の丹那トンネル工事と重なったそうで、その様子は、吉村昭著『闇を裂く道』(文春文庫)でも紹介されています。さらに、山を越えて中伊豆にでて、ここでは、源頼朝の流刑の地、蛭が小島にもよりました。「蛭が小島」は、ドラマに出てくるうっそうとした山奥とはだいぶ違っていて、富士山が綺麗に見える場所で、水田のひろがる湿原だったようです。そこに着いたとき、機材をもった人たちがいて、なにやら撮影が行われていました。笑福亭鶴瓶の「家族に乾杯」でした。NHKの大河ドラマの北条政子役のアンさんととも、収録していたんですね。スタッフから、「写真は遠慮してほしい」との注意がありましたが。もうすでに撮っちゃっていた後でしたから、しかたありません。それに、それからもうだいぶ年月が経ちましたから、時効のはずです。ブログでは、その下見の様子を、あちこちの様々な見どころを訪ねました。それぞれのポイントを、ホットなうちに紹介をしておきましたから、それぞれは、一覧からその日のブログをひらけば見ることができます。私にとっては、この年の下見散策は、ほとんど知らなかった伊豆方面でしたが、あらためて、その歴史と名所を知ることができた貴重な機会となりました。
2017年10月26日
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5年前に、伊豆の願成就院をたずねました2013年に同窓会で『伊豆の旅』を企画しました。その下準備で、願成就院を訪ねたんです。当方は、当地の歴史に疎くて、それまで願成就院などというお寺は知らなかったですが。鎌倉幕府の時代に、元寇に対処した執権・北条時宗くらいは記憶にありましたが。うちの神さんが「歴女」だったことと、小学校の恩師が伊豆に住んでおられたこと。「伊豆の旅で、はるばるやって来る人たちに対し、案内するに足るポイントは?」そんなことが、この寺を知る縁となりました。そもそもの「執権」「北条氏」の大もとが、北条時政だったんですね。源頼朝夫人の政子のお父さんですね。鎌倉幕府の執権の、代々の北条氏のもとになっている人なんですね。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201210200000/2013年にたずねたときに、住職が熱心に解説してくれたんです。たいへん熱のこもったお話しで、参加者に大きな感動を与えてくれていました。それもそのはずで、それから程なく、案内していただいた仏像が、国宝になって全国に伝播したんです。そうした認定される前のことでしたから、まったく、そんな大事も知らずに、国宝をまじかにさわるようにみて、知らぬが仏で、住職に対し勝手な質問をバンバンとぶつけていたんですね。あとから、参加者から、「あれは、すげぇーものだったんだなぁ」なんて感想がよせられましたが、案内した私としては、「知らぬが仏で、なによりの散策だった」なんてことで、おもしろかった旅を、得難い旅を、あらためて思い出している次第です。一点の火花が燎原にひろがる、ということですが、鎌倉幕府の初期の、石橋山の敗戦から、ほんのわずかで富士川の合戦となる動きをみると感じます。歴史は、意識していなかったにしても、その条件ができると動くんですね。
2017年10月20日
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旧友たちとの会津の旅(9.5-7)9月5日-7日、むかしの学友たちと福島の会津を旅してきました。帰ってきたばかりですが、その中から、いくつかの様子を紹介します。会津といえば、「会津磐梯山」ですが、猪苗代湖の北側に檜原湖がありますが、その遊覧船からみた磐梯山です。磐梯山の噴火により、いくつもの堰止湖が出来たそうですが、この檜原湖もその一つだそうです。その近くには、その他にも様々な沼があって、その中の五色沼を散策してきました。五色沼は、名前の通り、水の色の異なっているいくつもの沼が散在していました。林の間からは、磐梯山が見えました。青色の沼もありました。ついで、翌日には、鶴ヶ城を、ガイドさんに案内してもらって見学しました。これは鶴ヶ城の正門ですが、その外からの攻撃を防ぐための構造などについて説明していただいているところです。また、城内をさまざまに散策しながら、城にある工夫とともに、戊辰戦争の様子なども説明していただきました。次は、茶室を案内していただいているところです。私などは、こうした旧友の紹介といった機会でもない限り、福島県の会津を旅するなどといったことは、まずないのですが。日ごろの生活周辺からは知る由もない、貴重な体験でした。なによりも、旧友の人たちと再び交歓できる楽しいひと時でもありました。この会津盆地ですが、今は、ちょうど稲刈りを目前にした時期のようで、金色の稲穂が垂れ下がって、素晴らしい農村風景を見ることが出来ました。それと、前回は山形県の鶴岡でしたが、今回の会津藩も、同じく教育に力を入れていたんですね。「日新館」という藩校を見学してきました。この「日新館」は、会津藩が教育に大きく力を入れていたことがうかがえます。実際は、お城のすぐ隣にあったんですね。いまは、市街地をはずれた山側の方に復元されていました。私たちがいる間にも、大ぜいの小・中学生たちが、見学にやってきていました。
2017年09月07日
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司馬遼太郎「ある会津人のこと」(1974年)を読む福島県の会津若松、猪苗代湖の方面を初めて旅するものですから、せっかくのことなので、一つだけ下準備をしました。 司馬遼太郎著「ある会津人のこと」(昭和49(1974)年)です。文春文庫の『余話として』の中にあるんですが。 会津の幕末藩士・秋月悌次郎(1824-1900年 75歳没)に関するもので、19ページの短いもの。司馬遼太郎の作品は、ほとんどまったく読んでないんですが、この短い文章でも、その作品の前提ある下調べの様子がうかがえます。史実を丹念に調べているんですが、予備知識も相当なもの。現地に足も運んで、関係者からも取材しているんですね。だから、生きた文章が、読む人たちを引き付ける作品が生まれるのでしょう。この点は、松本清張の時も、ほとんど読んでませんが、やはり同じように感じました。幕末の会津藩の置かれた状況が、これで少しですがわかりました。まぁ、何も知らずに行くよりは、多少は見方がかわって来るかと思います。 なにしろ、せっかく遠くはるばる旅するわけですし、まったく知らない土地柄を、一期一会のものですから。あとのすべては、現地と参加者に頼るしかないのですが。では、出かけてきます。
2017年09月05日
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会津若松を知人たちと旅してきます明日から3日間(9月5日-7日)、福島県の会津若松に行ってきます。法政大学・経済学部の同窓の面々ですから、40年余前の友人たちとの旅です。福島県会津若松の方面は、私にとっては初めて行く土地柄なんです。幹事の方が、案内地図をおくってきてくれました。私などのふだんの生活は、八王子と小田原・真鶴とを往復しているのがせいぜいですから、ほとんどそれ以外には、出かけることはありませんから、この機会が、それ以外の唯一の「ディスカバー・ジャパン」で、貴重なんですね。前回は、山形県の鶴岡の旅で、藤沢周平と庄内の米どころの旅でしたが。それと、参加者は、同年者です。それぞれが、様々な第二の生活を探りつつあるわけで、似たり寄ったりなんです。ふだんは見せない羽延ばしです、時に羽目を外して交歓できるのも貴重なんです。すくなくとも、参加できるのは、お互いが元気であることの何よりの証ですね。近況を交歓できるのも、まぁ元気な今のうちのことですね。さて、どの様な会津の旅となりますか。それと、私は数日前に、フェイスブックの操作で一つ発見がありました。これまで、ブログを基礎に、フェイスブックに連動させるようにしているんですが。フェイスブックの方から投稿すれば、写真アルバムが出来るんですね。紹介したい写真が、単独で発信できるわけです。数日前に気がつきました。後日、この旅の様子についても紹介できると思うんですが、グダグダした発信が、自己整理でやむをえない面もあるんですが、今後は、別に写真を中心したシンプルな発信も、はさめるかとおもいます。
2017年09月04日
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小林多喜二ゆかりの七沢温泉「福本館」真鶴・早川を往復する時に、その途中、北側に大山を見ます。大山は、落語の「大山詣で」にでてくる、大山阿夫利神社のある霊山です。その山のすそ野に七沢温泉があります。数軒の宿があって、その一つに福本館があります。これは6年前のことですが、やはり、そのときも、草刈り仕事でくたびれていたんでしょう。この日は農作業はお休みにして、この福本館へ、立ち寄りの温泉をかりるべく訪ねました。これが、福本館の正面玄関です。七沢温泉は、10軒くらいの宿がある、山あいの静かな温泉なんです。この七沢温泉の「福本館」をめぐって、一つの新たな事実が明らかにされました。戦前の治安維持法による国民監視が徹底していたころのこと、作家の小林多喜二は、特高警察に追われていたそうですが、この宿にかくれて滞在し、文学作品『オルグ』を書いたんだそうです。追及されていた多喜二を泊めるわけですから、それが分かれば宿の側も処罰されます。それでも、療養しながら執筆する多喜二を守っていたんですね。ずーっと長らく、そのことは秘密にされてきたのだそうです。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201107230000/神奈川県の七沢温泉には、疲れをいやす温泉があるとともに、戦前から、民主主義的な気骨ある人たちがいたということなんですね。多喜二が、その時逗留した建屋ですが、道をはさんだ向かい側にあります。今でも当時のままに、大事に保全されていました。
2017年07月23日
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2年前に、真鶴をドライブした時の一コマです過去帳がバックされるのは学習だけではありません。義母との旅が、フラッシュバックしてきました。義母が、群馬県から一カ月弱の間でしたが、慣れない東京にやってきました。せっかくの機会でしたから、真鶴方面へもドライブしてきました。これはその時の一コマです。小田原の酒匂川を越える時には、二宮金次郎の「わらじをつくり・・」と歌が出てきました。また、熱海海岸を走った時には、「熱海の海岸散歩する、寛一お宮のふたりづれ・・」『金色夜叉』の歌です。若かりき頃の、学生時代の想い出の話も、一緒に出てくるわけですから、ドライバーとしては、耳新しいことでしたが、聞き流すしかなかったんですが。さながら、小田原方面を、つぎつぎと歌でつずる青春談義のドライブでした。真鶴では「まるなか」で昼食したんですが。お店の心意気で、いろいろな相模湾の地魚だしていただき、堪能できました。https://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201507180000/また、こうした機会が出来たら、最高ですね。健康であれば、そうしたこともいつか出来ことですから、楽しみにしています。
2017年07月20日
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最上川をくだる、鶴岡への旅 その39月5日から7日に、山形県の鶴岡へ行ってきました。庄内平野は、一面に黄金の稲穂が垂れ下がってました。鶴岡公園で、庄内藩の歴史と藤沢周平記念館を見てきました。そして鶴岡市からバスで、最上川の古口船番所へ移動しました。古口には、戸澤藩の船番所があったそうで、船下りは、そこで船に乗って最上川をくだります。船番所の入り口にあった案内板です。峡谷で陸路がなかったため、奈良時代から大正初めまでは、船が交通手段だったというんです。確かに、ふだん目にしている川とは、だいぶ違います。浅瀬や急流もあるし、深いところでは水深が9メートルもあるというんです。もちろん昔はエンジンなんて動力はありませんから。竿も底に届かなくなりますから、急流を漕いで、渡り、下ったんですね。いったい、川を船がさかのぼる時はどうしたんだろう。今は、スクリューエンジンで登ってましたが、むかしは、それはありませんから、たいへんだったでしょうね。ボルガ河なら、船ひきをしている様子の絵がありましたが。ここはどうだったのか、聞き損ねました。今は観光船の船下りで、あたりの景色や、舟歌の、船頭さんの名調子を楽しんで、時間がたつのを忘れてしまいますが。江戸時代には、松尾芭蕉もここをくだったというんです。 五月雨をあつめて早し最上川ところどころに、長い首をしたカワウをみかけました。船頭さんは、方言の豊かな名調子なんです。それで、舟歌や、まわりの景色、船運の歴史など、いろいろ解説してくれました。この日の天気は、曇りでしたが、雨はふらず。陽気としては、前日の暑さを引いていたんですが、川風がここちよく吹き付けてくれていて、自然のクーラーというか、涼しさを楽しませてくれました。途中、川の対岸には、「仙人堂」という神社がありました。芭蕉も、そこに寄ったそうです。この最上川は、川を流れくだる分にはまだしも、この川幅と、深さ、流れの速さを、船でこいで渡るというのは大変なはずなんですが。しかし、生活にねざしていたんですね。そうした川を往復する技術を持っていたんですね。また、途中には、高い滝もありました。木に滝が隠れてますが、だいぶ上から落ちてきてました。最上川は、上流の米沢の方から、河口の酒田まで、船で行き来していたそうです。内陸部にあった徳川幕府の天領のお米も、諸々の生活物資も、もちろん人も、この最上川を使って運ばれていたんですね。この日は、初秋でしたが、生活交通ですから、当然真冬であっても通っているわけで、雪が降っている中でも、その寒さの中を、船を漕いでいたんですね。もちろん川止めは、あったと思いますが。(今も観光船は、12月から3月のあいだは、「こたつ船」だそうです)。船番所というのは、関所だったんですね。以上で、今回の鶴岡への旅の紹介は終了です。私などが、一年を通して、日常の八王子-真鶴間を離れるのは、唯一この旅くらいなんですね。今回も、主宰者がよく準備してくれたおかげで、米どころの庄内平野と、鶴岡の歴史と文化について、たいへん貴重な、刺激的な旅となりました。だいたい日本海側を旅するなんてことは、日頃の生活からしたらありえないことなんですが、しかし時にこうした機会をもつことは、逆に日常の生活を知る上でも大切なことだと感じました。
2016年09月11日
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藤沢周平作品の背景を見れました その2 9月5日から7日、同窓生で山形県鶴岡市を旅してきました。 当方の目的は、米どころの庄内平野とともに、藤沢周平の記念館の見学もありました。藤沢作品には、封建時代の荘内藩が背景にあることを感じさせられました。街のあちこちに、時代の遺構が今に残されているんですね。 これがその藤沢周平(1927-1997)記念館です。鶴岡行きが決まった時、主宰者から「せっかく鶴岡に行くんだから、藤沢作品を1作でも読んでおいたほうがよいのでは」との宿題がありました。 当方は、それまで藤沢周平は、名前しか知らず、作品はまったく読んでなかったんですが。日時がせまってからの、かけこみの2,3冊でした。 それで、この旅で「どうして、藤沢周平作品を知ったのか? 魅力はなにか?」 新米の読者としては、この疑問を参加者たちにぶつけることになったんですが。 「広く話題になったのは、山田洋次監督の映画『たそがれ清兵衛』あたりからじゃないか」「下積み生活で苦労している人たちに光をあてている。その姿勢に引かれるんじゃないか」「先日、テレビドラマで藤沢周平とその家族を見た」などが返ってきました。 今回の旅で感じたんですが。『蝉しぐれ』は、藤沢周平の代表的な作品の一つかとおもいます。映像の力のもよるものでしょうか、しっかりした時代背景が作品に客観性を与えていたように思います。 この作品のテーマには、一つに三人の若者の友情がありました。彼等が、剣道で道場に通い、塾で学問を学ぶという文武両道の姿が描かれていました。今回、藩校の「致道館」を見て、それを納得しました。 9月6日には、荘内藩の藩校・「致道館」を見学しました。 到道館は、鶴岡公園の中にあるんですが、そこはお城の正門から、歩いてほんのすぐのところなんですね。これがその講堂です。 講堂ですが、小さな部屋なんですよ。参加者の顔が、お互いに良く見えたはずです。展示の中には、当時の藩校の学校制度が紹介されていました。今の小学、中学、高校、大学に対応するかのように、しっかりした制度があったということです。それぞれの段階での学習時間帯も決められていた。大学段階では自主学習なんですね。そこで学んだ中から優れた人が役人に起用されていったというんです。その勉学の内容もわかります。藩校で使われていた教本(教科書)が展示されてました。この教本の版木まで残されているとのことです。やはり孔子の『論語』に重要な位置付けがあったようです。江戸の荻生徂徠(1666-1728)塾と交流があったとのことです。ここには、質問に答えた徂徠の書簡も展示されてました。徂徠の学び方というのは、原典、もとの文章を読むことで、後世の注釈にとらわれずに、孔子本来を理解しようというのだそうです。ここには荘内藩が全体として教育を重視していたこと。それが地域社会にとって、一つの社会的な慣習になっていたんですね。 こうしてみると、封建社会の時代というのは、もちろん士農工商の身分制度の社会ですが、経済的には、米作りを土台に、年貢を得ることにより回っていく社会だったんですね。武士は藩という世界に、社会組織の中にあったこと。荘内藩でみると、当時の学問を重視していたこと。私などにはわかりませんが、そこには独特の道議(モラル)があったことがうかがえます。これはこれで一つの課題なんですが。 少なくとも、社会的に上の立場にある人だからといって、何でも勝手に自分のしたいことをするというのは、この時代にあっても、邪道なことだったんですね。人の上に学問の理をおいていたんですね。自分勝手な都合で学問を解釈しようとしたり、不都合だからといって学んでいる学問を力で蹴飛ばしていくような無理を通せる社会ではなかったということですね。今を見る一つの鑑にもなりますね。 これは案内者の説明で聞いたのですが、西郷隆盛との関係です。 幕末の戊辰戦争では、親藩の庄内藩は、会津藩同様に徳川幕府側にいたそうです。官軍が迫ってくる中、すでに会津藩も落城していて、砲火が交わされる直前に、西郷隆盛が『もうこのへんでいいだろう』と戦を抑えたというのです。口頭では、そこには70万両という賠償金を支払いもあったとのことですが。本間家などからの負担もあったそうですが。とにかく戦火により灰燼になることはなかったそうです。それが、多くの文化的な資料が今に残されている要因と思われます。 そうしたことが全体として、藤沢周平の作品の背景にあったんですね。それなりの歴史の事実の重さをもっていることを感じさせられました。次の一枚は、丙申堂(へいじんどう)の庭をみているところです。ここは、藤沢作品の撮影に使われた部屋であり、庭とのことでした。 『半生の記』にある言葉ですが、やはりここに基本があると見ます。 「胸の内にある人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持ちは、どこかに吐き出さなければならないものだった」と。 こうした姿勢も、またその時代の課題において、人びとの心を打つ要素になっているのではないかと思っています。
2016年09月09日
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庄内平野は、やはり日本の大米作地帯でした 鶴岡の旅 その1山形県鶴岡市を、9月5日から7日に、学生時代の仲間と旅してきました。私にとっては、日本海側を旅するのは、ほとんど初めてのことでした。米作地帯、歴史と文化など、聞くこと見ること初めてのことだらけでした。台風12号の影響が心配されましたが、さいわい天気の崩れもなく旅することが出来ました。そもそも鶴岡という街は、江戸時代の庄内藩(14万石)の城下町、地域の中心地だったんですね。いろいろ回ったんですが、鶴岡公園の中ですが、庄内藩の藩校「到道館」があったそうです。藤沢周平の小説にも出てきたと思いますが。これは、その到道館を見学する時に、説明を受けているところです。この様子が、全般を示してますが、歴史に詳しい案内者の方がついてくれて、訪ねた先々の名所で、その歴史を説明してれたんですね。当方には、知らなかったことばかりで、見たり聞いたり、ついついキョロキョロしていて、聞き逃してしまいましたが。準備した主宰者の思い入れが、いろいろつたわってくる有意義な旅になりました。私などは、庄内平野の地に入った途端から、その土地柄がしめしてくれた景色そのものが圧巻でした。遠くまで、これほど一面に水田が広がりる景色などというものを、私などは、これまで、なかなか見たことがないものですから。当方の生まれと生活圏では、神奈川県の真鶴などでは、平地そのものがほとんど無いわけですから。いかに狭いところにくらしているか、です。小田原の平野には、少しは水田がありますが、それでも、これほど広くはありまんから。東京の近郊だって昔はあったはずですが、今は田畑はすっかり宅地に変わっちゃってますから。米どころの庄内平野というものを、百聞は一見に如かずです。今回、訪ねた時期が、ちょうど収穫の直前の時期で、ずーっと一面に、稲穂が黄金色にそだって垂れさがっていました。最初の収穫作業が、ちょあど始まりだしたところでした。稲刈り機やコンバインが、稲刈り作業を始めだしたところでした。これは、移動する途中のバスからの景色です。私などのにとっては、「いまさらながら」の謎なんですが、「これだけの穀倉地帯が、いつころ(時代)に、どの様な努力でつくられたのか。このような整備された区画整理は、いつころととのえられたのか。なによりも機械もなかった頃は、これだけの水田の耕作、田植え、草取り、収穫を、農家の人たちは、どうしていたのか。農地改革で1949年頃には、小作地が自作農化したはずで、一戸が3町歩までと制限されたはず。今見ているこの広い水田と、米作りの農作業と、所有権の区割りなどはどうなっているのか。1960年代以降、トラクター、稲刈り機(コンバイン)、田植え機などの機械化がすすみましたが、高額の機械のはずです、その購入と使用は、個人なのか共同なのか、どうなっているのか。」以上は、この景色を見たことで、自ずから湧いてくる疑問ですが。こうした素朴な疑問が、研究者でもないのに、とりとめもなく湧いてきて・・・、これらは、今後の探究の課題です。これも移動の途中でしたが、水田の中に大きな施設がありました。JAの施設の様ですが。米作というものを知らない当方には、これが何のための施設かわかりません。もしかして、収穫したお米を乾燥させて貯蔵しておく倉庫でしょうか。同行の面々に後で聞いたんですが、分かりませんでした。今回の旅で、庄内平野とそのお米というものが、都市にとって大事な役割が分かりました。江戸時代から、庄内平野のお米が輸送が、運送・流通が、重要課題だったんですね。藩校・到道館のなかで展示されていた一つの資料に目が留まりました。〈年貢米は庄内藩の内の家臣への支給や諸必要をまかなって、なおそれを越えた分の約5万俵だそうですが、上方へ搬送されて、それが売却されたのだたそうです。それが、江戸や大阪の都市住民の食料に当てられていたんですね。寛文12年(1672)、幕府の天領米の制度改革があったそうで、海運も整備改革されたとのこと。天領米(15万石)は、最上川を下って酒田港にあつめられた。琵琶湖に経由で運ばれていたのが、海運の一本の航路にあらためられたとのこと。酒田港から、5月初めに3900石の御用米は、日本海を南下して、下関、瀬戸内、紀州沖、江戸へと、800里を船で輸送されて、7月初めに江戸についたとのこと。西回りの海送だったとのこと。酒田港は、江戸中期には、最上川の船も含めて、春から秋まで、2500-3000隻に達するにぎわいだった〉だいたい、こうしたことが案内解説に紹介されてました。新潟-庄内-秋田、こうした地域が、昔も今も、日本の米作地帯の中心なんですね。今回の、庄内平野の景色は、黄金の稲穂の垂れ下がる景色は、それを示してくれていました。水田面積の広さ・イコール・お米の収穫高が、経済的な社会を豊かにさせるための基礎的な力だったんですね。そこへの態度に、またそれを基礎として文化というものが育てられたんですね。もちろん時々にはいろいろな人がいたでしょうが、米作りということが、身分社会の中でも、上からも下からも大切にされていた。そして、その力を引き出し、豊かにした人が、それぞれの時代に尊敬されてきたんですね。これは今でも変わりありません。長い歴史がしめしていることですね。以上、鶴岡の旅(その1)でした。
2016年09月08日
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山形県鶴岡市へ旅してきます台風12号が日本海をすすむというので、天気が気になりますが、当方は、前々から、この9月上旬に旅を計画していました。古い友人たちとの山形県の鶴岡市への旅です。当方は、日本海側へ行くというのは、ほとんど経験がありません。もちろん山形の、鶴岡市は初めてです。イメージとしては、日本のコメどころ庄内平野と、城下町、それと藤沢周平記念館があるということ、そのくらいです。要するに、知らない土地柄です。知人が、その方面に縁があって、案内してくれるというんです。こんなきっかけでもないと、まったく腰の重いものとしては、山形県の鶴岡市へは、足を向けることはなかったと思います。とくに、最近、農業に関心を持ち出した当方としては、これは、日本のコメどころを見れるよい機会です。全く読んだことのなかった藤沢作品も、2,3作を読んでみました。そんなことで、これから行ってきます。あれこれ、いろいろ見聞してきたいとおもっています。
2016年09月04日
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秩父路のバスの旅2月26日は、職場の社員旅行で、秩父路を旅してきました。当方は、この3月31日で完全退職ですから、最後の旅行です。日ごろの生活からしたら、秩父行きなどは、ありえないことですが。天気は最高で、関越自動車道からは富士山が良く見えました。富士山が見えるということは、天気の心配はなし。いつもとは違った場所からですが、ここ関東平野からの富士山もまた素晴らしい。途中、鶴ヶ島インターでおりて、醤油工場を見学しました。鶴ヶ島に醤油工場があるなんて、知らなかったんですが。会社の周りには梅の香りが漂ってました。川越が近くにありますから、ここの醤油も古くからの歴史があるのかもしれません。ついで、秩父路です。秩父のシンボル・武甲山が、窓から鮮明にみえました。セメントを取るために、山が削られて低くなってきているとのこと。削った痕でしょうか、やまには横縞の模様がついていました。秩父は長瀞の渓谷も見どころですが、今回は、やはり川沿いにある大滝の氷柱をみてきました。今年は暖かいのか、今、氷のつららは、3割方しか残っていないとのこと。これは自然のつららだそうです。地下水が岩盤の間から流れ落ちて出来たものでしょうか。さて、最後は、秩父のお酒「秩父錦」の工場を見学してきました。もともと大宮郷にあったそうで、江戸時代中期に創業したそうです。もちろん、試飲してきました。といったことで、「秩父錦」のさまざまな銘酒を試飲してきました。新聞紙にくるまれたお酒が、今の時期限定のおすすめとのこと。普通のお酒よりアルコール度が高く、20度くらいはあるそうです。「今の時期しか」「ここでしか」「試飲して比べてみてほしい」とか、こうした殺し文句が、酒本責任者から聞かされたら、1,300円の投資でしたが、やっぱり、のどから手が出てきてしまいました。うち職場の主要部門は、病院からの検体を検査する職場です。また当方の職場は、その会社が新たに介護用具のレンタル事業を起こした会社ですから、いずれも、職場の全員が一度に休むわけにはいきません、一時の中断も出来ない職種です。従って、輪番をくんでの社員旅行です。今回の一行は、7番目の組で14名でした。いつものせかせか、緊張する業務を忘れて、のんびりとした秩父路でした。日ごろはこうした交流はなかなかできないんですが、当方は、完全退職の一カ月前ですから、「もったいないことをした」と反省です。たいへん楽しい交流だったんですが、もっとはやくにこうした交流をすれば、もっと楽しかっただろうに。まぁ、後の祭りです。日頃の行いのおそまつさを感じさせられました。
2016年02月26日
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みかん狩りのお客さんです11月19日は、東京・多摩市からお客さんです。旧知のみなさんなんですが、「みかん狩り」にやってきました。当方のみかん園は、足場が悪く危険で、大勢は入れないので、同じ町にある広い農園を利用させてもらいました。さいわい、前日の雨も上がり、風で雨滴も飛んで、足場も問題なし。今年は、みかんは表年ですし、ちょうど成熟も始まっている時でしたから、広い農園のあちこちでみかん狩りを楽しんでいただきました。人間は沢山のみかんを前にすると、それほど食べれるものではありません。ついで、真鶴半島にある中川一政美術館を鑑賞。このあと、本題です。遠路出かけていただいたのは、真鶴の地魚を賞味していただきたかったからです。遠方よりのお客さんを案内した先は「まるなか」です。いつもながら、相模湾の地魚を、ここで満喫していただいてます。相模湾は魚種が豊かで、わざわざ出かけてくるだけの意味があります。http://www.ryokan-marunaka.co.jp/これが、今回のお刺身です。1.イナダ、2.タイ、3.カサゴ、4.アジ、5.ムツ、6.イカが、並びました。それぞれ、なかなかのボリュームなんですが、見た目にも豪華ですし、さばきたてで新鮮ですから、会話も食もはずむというものです。ここで、当方は、みなさんとは別れました。みなさんは湯河原の温泉へ、当方はみかん園の草取りに。ここまで来て、温泉を楽しまない手はありませんから。きっと、みなさんは、秋の一日を楽しんでいただけたと思っています。たまには日常をはなれて、ひと走りするのもいいですね。東京から、片道80キロ、2時間ですが、この方面は、今、みかんと地魚、温泉と、楽しんでいただける季節です。たまには、ひと時を楽しむことも大事です。紹介する側も、案内のし甲斐があるというものです。
2015年11月20日
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秋の大平台の風景から10月7日に箱根・大平台の姫之湯へ行ってきたことは紹介しました。その際、大平台の集落のあちこちを散歩してみました。まず最初は、駅前にある林泉寺です。ここが散策のスタート地点です。散歩する時は、いつもここに立ち寄ってからスタートしています。お寺の裏手には、墓地があります。その一角に内山愚童のお墓と顕彰碑があります。内山愚童については、何回か紹介しています。http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201303250000/大平台温泉のガイドマップにも、その内山愚童の墓所が紹介されていました。なんで、内山愚童が処刑されなければならなかったのか。今日の公正な光でみれば、啓蒙的民主主義の、地域ボランティアの青年活動家です。宗門においては、当時の措置を謝罪して、顕彰碑に刻み追悼しています。しかし、責任ある国家と司法は、依然として有罪判決と死刑執行にたいして、その誤りを認めることも、謝罪することもしていません。知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいます。その根本が正されるまで、当方の行脚と紹介は機会あるごとにつづきます。次は、大平台温泉の中心です。林泉寺から国道1号線をはさんで、すぐ向かい側です。これが「メイン・ストリート」であり、大平台温泉場の中心です。この道を手前側に登って、左に折れると温泉場の外周道路になります。外周道路を歩きだしてすぐのところですが、「箱根工芸」という小さな箱根細工のお店・兼工房がありました。箱根細工の品々を見させてもらおうと、お店を覗いたところ、ご主人が出てきてくれて、「うちの工房でも箱根細工の小品をつくっている」と。せっかくなので、箱根細工でつくった携帯用のストラップを購入してきました。さらに少し歩いたら、小さな公園があって、その片隅に湧水が流れていました。「仙元の泉」という名所だそうです。つめたくて、美味しい水です。この湧き水は小さな池にたまるようになっているんですが。この美味しい水を求めて、小さな先客がいました。周囲に気を気張ることもなく、夢中になって飲んでいました。肉眼でみたところは足長蜂と思ったのですが、写真をアップしてみたら、背中の模様からしてキイロスズメバチでした。もっと近づいて撮ろうとしたんですが、さすがに何処かへ逃げていってしまいました。さらに歩くと、道の少し下側に「上大平台信号所」がみえました。大平台駅に続いて、ここも箱根登山電車はスイッチバックしているんですね。さらに歩くと、T字路にでます。その角になる民家の庭先ですが、そこに噴水があるのをみつけました。これは、民家の庭先でもあり、近づいて見るのを遠慮したんですが、あとからガイドマップをみたら「姫の水」という名所の一つなんだそうです。なんだ、それならもう少し近づいて、もっとよく見ておきたかったんですが。これで街の外周道路の半分を回ったことになります。これで姫之湯に戻ったのですが。大平台は小さな集落ですが、こうして散策してみると、いろいろな発見がありました。ゆっくり温泉を楽しむとともに、近くの自然を散策して楽しめます。あえて、日がなのんびりしたいときには、ここはやっぱり、うってつけの場所です。
2015年10月09日
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日光東照宮を散策(その2)9月7日から9日、学生時代の旧友たちと日光を旅してきました。やはり日光といえば、東照宮です。前回紹介しきれなかった写真を紹介します。9月8日に、東照宮を散策しました。さいわいにして、この日はまだ小雨が降るくらいでしたが。もしも翌日の9日だったら大変でした。台風18号の余波のため、風雨が強くて見学は出来なかったでしょう。堂じゃ引の方に案内してもらいましたから、歴史をふくめて、要所要所で専門的な説明をしていただきました。残念ながら、手が塞がっているために、多くの話は、メモに出来なかったんですが。もともと二荒山・輪王寺として開山されたようですが、弘法大師が、その音読みを生かして「日光」の字にかえたとか。徳川家康の墓所となる以前から、山岳信仰の地であったんですね。五重塔です。どのような人により、どのような資材を集中させて建立したか、せっかくの詳しい説明が、耳だけの話で消えてしまったのですが。この赤い制服の方が、堂じゃ引の方です。要所・要所を名調子で、楽しく、奥深い説明をしていただきました。唐門ですが、唐門から中へは、当時は○○万石の大名しか入れなかった。「今、みなさんは、○○万石の大名級のあつかいです」と。陽明門の方は、修復中でシートがかぶされて見えないんですが。こちら唐門の方は、間近に見ることが出来ました。眠れ猫です。何故、それほどこの彫刻が、有名であり、貴重なのか、いろいろと説明していただいたのですが。ほとんど忘れちゃったんですが。もちろん、当時の最高の彫刻家によるものでそうですが、猫は平和への祈願を示しているが、しかしその姿勢には気を許していない、そのことが、きざまれている、など、いろいろ解説していただきました。小学生たちの組が、見学していましたし、外国人の方たちも、多く見学されてました。今や、案内者も、外国語が出来ないと、役割が果たせないとも、言っておられました。大変に有意義な散策となりました。
2015年09月10日
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日光山輪王寺を散策してきました9月7日-9日、学生時代の仲間と日光山輪王寺を散策してきました。各地から集まって来た集合場所は、日光・鬼怒川温泉でした。当方は、鬼怒川温泉は初めてでした。鬼怒川沿いにホテル・旅館がありますが、自然につつまれ、霧雨の中でしたが、なかなか野趣ゆたかな温泉でした。9月8日は、今回の旅で最大の眼目でしたが、日光山輪王寺を、堂じゃ引き(現地の専門ガイド)の方に案内してもらいながら、幾つかの箇所を散策して回りました。自然にしっとりと包まれた景観は、独特の趣がありました。あいにく、台風18号の余波のために、小雨の降る中でしたが、この時点では、幸いにして支障はありませんでした。鳴き竜などは、逆によく響いて、反響が、鈴の音のように、よく聞き取ることが出来ました。赤い制服の方が、案内役の堂じゃ引きの方です。日光山には、東照宮をはじめ103棟の建物があるそうで、その全体で輪王寺のお寺なんだそうです。今年は、徳川家康没400年だそうで、初公開とのことですが、家康の位牌が公開されてました。残念ながら、当然かもしれませんが、それは撮影は禁止でしたが。博学の歴史家、堂じゃ引きの方の案内で、幾つかのポイントを、見て回りました。さすがです、堂じゃ引の方は、説明がしっかりしていて、味わいもあるんですね。陽明門は改修中でしたが、彫刻の下から絵が出てきたとのことで、最初は彫り物の壁ではなく、絵画だったんですね。彫刻の修理が済めば、その絵は、また彫刻の下に隠されてしまうそうです。その絵についても修復しているところを見ることが出来ました。さらに、徳川家康のお墓も見てきました。長い石段の上にあって、200余段も裳の上にあるんですが、その両側の石垣が立派でしたが、雨にぬれ汗をかきかき、その石段を登って、お墓を見てきました。たしか50年前の中学修学旅行でも、このお墓は見たはずなんですが。同じものでも、見る時や視点がかわると、変わってみえます。徳川政権の威光を示そうとしているように、がっしりしたつくりでした。これも堂じゃ引きの方の説明からですが、江戸時代の平均寿命は、38歳だったそうです。それに対して徳川家康は、1616年に75歳で亡くなった、当時としては、かなりの長寿だったんですね。何代にもわたって、全国的な力を結集させた天下普請だったんですね。とにかく、堂じゃ引の方から、万般にわたり説明していただきました。ただ説明していただいただけではありません。口うるさい参加者から、いろいろ様々な疑問・質問をぶつけられたんですが、そのすべてに、的確に、詳しく説明していただきました。さすがでした。この案内者を手配してくれたのも、この旅の幹事の方の配慮でしたが、幹事の準備のあつい思い入れが、「なるほど」と伝わってきました。これにより、たいへん大きな歴史のプレゼントとなりました。8日は、この輪王寺を見学した後、いろは坂を登って、二日目の中禅寺湖畔の宿につきました。さっそく旅の汗を流したんですが、これはそのお風呂です。あいにく、台風18号の余波で、窓の外、屋外は、強い風雨が吹き荒れていました。本来見えるはずの中禅寺湖や、周辺の景観は、立ち込めた霧か雲に隠れて、見ることが出来なかったんですが。しかし、その代り宿の温泉の方は、じっくり楽しめました。知らなかったんですが、中禅寺湖畔には、硫黄泉の濁り湯がでているんですね。これは、日ごろの疲れや、旅の疲れをいやすのに、最高の温泉でした。今回の2泊三日の旅でしたが、台風の余波があり、影響が心配されましたが、無事に日程を終えて、9月9日には、各自、それぞれの生活の場にもどっていきました。私などにとっては、かつての中学の修学旅行もよかったはずですが、今回の日光の旅は、新たな歴史と人生の旅でした。各自の歳の功でもありますが、それぞれの生きざまを交流できた、たいへん有意義で楽しい旅となりました。
2015年09月09日
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横浜・シルク博物館を見学義母の東京生活は、残するところあと一週間となりました。7月20日は、すこし遠出して、横浜のシルク博物館を見学してきました。かつては、日本中の農家が養蚕をしていたんですね。群馬県のその中心の一つで、冨岡の製糸工場があってくらいですから。義母も養蚕の経験者だったんですね。このシルク博物館では、展示されている蚕は、生きたままでした。普通の人は、驚いて身を引くのですが、義母にかかると愛されるお蚕様です。「これを春子、秋子、晩秋、晩晩と、年に4回もとったんだよ」「コメ作りがある中で、たいへんだったけど、貴重な現金収入だった」「蚕が大きくなると、人が寝るところがなくなるくらいだった」と、義母がその具体的な体験談が自然にでてきました。すると、「そうなんですか」とシルク会館の案内係りの方が感心して聞いていました。このシルク博物館には、ここ横浜港に全国から生糸が集められてきて、ここの港から海外に輸出されたこと。日本や世界で、生糸からどのような服装がつくられていたか、その衣装が、具体的に展示されていました。群馬の各地からも、冨岡の製糸工場で生糸がつくられ、各地でつくられた生糸が、八王子などをつうじて、横浜港に集められてきたこと。関東の地図で、その絹の道が示されていました。義母の養蚕体験は具体的です。農家は養蚕で繭をとりだし、出荷してました。しかし、その先がどうなるかは、必ずしも確かではなかったようです。そこでのこのシルク博物館でしたから、強力な関心が呼び起こされたようです。「ここから輸出されたの・・、するとここは海の近くなのか」「ここが横浜か」「『ブルーライト横浜』の横浜か」それで、シルク博物館を出てから、山下公園でしょうか、海岸通りを歩いてみました。背後にあるのは氷川丸です。「横浜の波止場から、船に乗って・・・♪」次々に義母は歌が出てきました。炎天下でしたが、横浜港を見てきました。この後、横浜中華街で食事して、帰ってきました。しかしこれらは、義母の記憶からは、たちまちにして消えてしまってます。しかし、記念に撮った写真が残ってますから、後でも、この横浜初体験が、少しでも記憶につながってくれるとよいのですが。あと一週間の、義母の東京生活です。
2015年07月20日
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群馬へ旅してきましたこれからしばらく、家族が一人加わります。群馬から、義母が東京・八王子にやってきました。6月28日、群馬・月夜野へ行く途中で、渋川に寄り道して、古代の発掘品を展示してある「群馬県埋蔵文化財調査センター」によりました。縄文や弥生時代の発掘品が、たくさん展示されていました。古代人はなかなかの芸術家です、ピカソか誰か、現代の芸術にもありそうな作品です。やはり目を引いたのは、平成24年11月19日に発見された人物です。鎧を着たままの姿で、榛名山の火砕流に巻き込まれ、埋もれてしまった人物です。鎧を開けたところ、人骨が完全にそのまま残されていたというもの。火山噴火の被害のすごさを、今に伝える古代の犠牲者です。その解説文です。群馬県の各地で発掘された、様々な土器や装飾品などが展示されていました。これらの品々は、古代の世界にあっても、群馬県の各地には、高度な社会生活を営なむ人たちがいたことをうかがわせてくれます。さて、群馬県といえば、榛名山、赤木山、白根山・・・など、火山が沢山あります。火山の普段の姿は、自然豊かな景観と、温泉の恵みを提供してくれています。当方の今回の宿は、湯宿温泉の金田屋さんでした。これは、若山牧水も楽しんだという、金田屋さんのお風呂です。この日は、天気はすばらしい快晴で、朝はクーラーをかけているような涼しさでした。その群馬ですが、月夜野に実家がありますが、その庭先に、大きな立派な葉の赤ジソがたくさん生えていました。やはり、群馬の気候は、梅や赤ジソの生育に適しているようです。さっそく、梅干づくりにつかうため、すこし摘みとってもらってきました。さて、今日から家族が一人加わります。上さんのお母さんです。群馬の広々とした田舎から、「隣は何をする人ぞ」の狭い都会の団地に移ってきて、新たな環境の変化に、うまく生活感覚が適応してくれればよいのですが。
2015年06月29日
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手作りの益子焼がとどきました先般、職員旅行で栃木県の益子町に行ってきたんですが。http://plaza.rakuten.co.jp/sagamimikan/diary/201502100000/その時に、陶芸教室で作った益子焼の作品が、こんかい職場の方に送られてきました。これが、その作品です。当方は、なかなかの傑作だと思っているんですが、そう思うのは、一人だけで、我が家のもう一人は「なんだ、このグロテスクなものは」と、くそみそです。職員旅行は、栃木県益子町へバスで行ったんですが、いつも感じるんですが、日本の田園風景というのは、広い水田が広がり、しっかりした農家の一戸一戸のたたずまいは、素晴らしかったですね。群馬に行っても、茨木に行っても、いつも出かけるたびに、どこに行っても、いつも、いつも、感じさせられるところなんです。日本の農家は素晴らしいと。というのは、私にはこの景色は珍しいんです。当方の田舎は神奈川県の真鶴町岩なんですが。幕末に建てられた「石工先祖碑」に、その岩村の様子がえがかれてますが、「天の物を生ずるや必ず其の人を待ちて世に顕るなり。相の巌邑(いわむら、岩村)は嶮岸東南の海に沿い峻岳西北の函関(カンカン 箱根山の関所)に連なり樹林縫うが如し。ガン石間を為し一項の田無し。しかれども百有余戸飢渇を知らず。・・・」岩村は、箱根山が相模湾にそそいだところて、碑文のとおり、平地の畑がほとんど無いんですね。「一項の田無し。しかれども百有余戸飢渇を知らず。」と。今も昔も変わらない訳ですが。一体昔の人たちは、ここでどうやって暮らしていたのか、想わざるを得ないんですね。当方のひおじいさんですが、慶応元年に山梨県境川村で生まれて、明治30年ころこの地に来て、落ち着いたらしいんです。ここでごく狭い、わずかな畑を耕すことで暮らしていたというんですね。明治30年ころから昭和17年に亡くなるまで。まぁ、岩村の百余戸の人たちの状況は、みな同じようだったとはおもいますが、それにしても、よくも生活できたものだと思います。私などは、井の中の蛙で、あちこちの地域に行くたびに、広い水田風景を見るたびに、裏腹な情景として岩村の昔を想像せざるを得ないんですね。今回も、そうだったんですが。手作りのこの陶器をみても、そこにある歴史の流れに、乾杯です。平和・民主でつくりだした成果は、当たり前ですが、すばらしい。逆に、これを逆流させようとする政治家は、断固としてNOです。きっと、これから、きっぱりとした地の声・意思が示されていくと思いますね。いっせい地方選挙も、その一歩になると思いますよ。
2015年04月26日
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益子焼をつくってきました 2月9日は、職員旅行で栃木県へ益子焼きの陶芸教室に行ってきました。当方の介護貸与事業所は10名くらいですが、病体検査の母屋は100名くらいの職員がいます。業務の性格上、仕事の中断が出来ませんので、今回は、第一陣として14名による益子行きでした。 朝、板橋区を小型バスで出発して、一路、栃木県の益子町へ。午前11時くらいには現地に到着しました。これが益子焼の街のシンボルになっている大たぬきです。 陶芸の共同センターです。どうやってこうした大きな焼き物をつくったのか、それともコンクリートで焼き物風にしたのか。この場所で、年に2回、益子焼の陶器市が開かれ、大賑わいになるそうです。 益子焼の窯元は、約260くらいあるそうで、約50店の陶器店があるそうです。 純農村地域が、陶芸の一大中心地になったんですね。一行は、共同センターの陶芸教室に参加して、器づくりに挑戦しました。 これらが、その作品です。この芸術品は、あとで色づけしてもらい、焼き入れをしていただいて、 二カ月くらい後に、職場の方へ送ってくれるのだそうです。後日、職場で、作品展を予定するとのことです。 陶芸教室のある建屋の並びにある益子焼の販売店です。 こちらは比較的に生活品の益子焼が並んでいました。 もちろん、芸術的な作品がならんでいるコーナーやお店もありました。 益子焼に続いては、その近くにある酒蔵「外池酒造」さんを見学させてもらいました。 日光から流れる水を使って、益子で古くからある酒蔵だそうです。案内していただいた方はもちろん、参加者の中にも、お酒の好きな方がいましたから、よく話が弾んで、貴重な話がやり取りされていました。お酒をつくっている工場の脇で、工具が並んでいるところで、酒談義です。なかなか貴重な話でしたが、話が消えてしまったのがもったいなかったのですが。なにしろ、次がとっておきのお酒の試飲コーナーでしたから、確かに、おすすめのお酒はおいしい、体感させていただきました。ここまで話を聞き、試飲させていただいたら、手を出さずにはいられません。ただし、値段の兼ね合いもあるので、当方は大衆酒です。しかし、なみの大衆酒ではありません、18度もあるんですよ。この職員旅行は、慰安旅行でもあったんですが、行く場所、行く場所が、日頃の世界と違っていたので、みなさん、そこここで話が弾んで、楽しんで、予定時間をオーバーしたんですが、さいわい、大きな交通渋滞も無く、18時30分にはもどってこれました。日ごろ生活圏とは別の、純農村地帯を旅させてもらい、風景を楽しませてもらい、陶芸づくりや、お酒談義にと、話も弾んで、大変楽しく、有意義な一日をすごさせてもらいました。
2015年02月10日
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小田原の石垣山・一夜城を見てきました この秋に多摩市の一行が小田原方面にやってきます。この時期は、みかんと地魚、温泉を楽しめます。 10月1日に、その下見もあって、小田原の一夜城跡をみてきました。実際に、ここまで回れるかどうかは分かりませんが。 ちょうどNHK「軍師官兵衛」では、次回は小田原攻めが主題の様です。 秀吉は天下統一の仕上げとして、1590年に北条氏の小田原城を攻めた。 その時に本陣としてつくった一夜城、その跡です。 建物は小田原攻めが終わったら、すぐに壊されたそうですが、 石垣をはじめ城の概観は今でもそのまま残っています。 一夜城全体の案内板です。 本格的な城づくりだったことがわかります。 本丸への登り道です。もちろん整備された道もありますが。 崩されたあとの状況は、おそらくこんなだったんでしょう。 大きな石がゴロゴロしてますが、登り道です。ここを登ると二の丸跡に出ました。 かなりの敷地で、大きな城だったことが想像されます。 その隣、一段上になった高台が本丸の跡でした。 草むらには「マムシに注意」と注意書きがはられていました。 本丸からは、3キロ先だそうですが、確かに小田原城が見えました。 手前の木の上ですが、分かるでしょうか。最近まで、茂った樹に隠れて見えなくなっていたそうですが、 それが肝心なので、最近整備した時に、樹木を切って見えるようにしたとのことです。 小田原城を 22万の軍勢が囲んだそうです。これには、いくら評定したとしても降伏せざるを得ませんでした。 小田原城自体は、降伏して無血開城です。その周辺では、八王子城もその一つですが、激しい合戦だったようです。そこのへんは小田原城の中が現在資料館になっていて、そこに詳しい解説がありましたが、ここにはパネルが一つあるだけでした。 夏草や兵どもの夢のあと 秀吉の天下統一には必ず登場する小田原攻めですが、 一夜城の跡は、ほとんどそのまま残されてます。 遠い歴史の現場ですが、独特の現実感を感じさせてくれます。
2014年10月03日
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京都の旅5 締めくくりは錦市場での買い物でした 「錦市場」というのも、今回初めて知ったのですが。京料理の素材、惣菜のお店がずらり並んでいて、ここへ来ればすべてそろうそうで、にぎやかな市場でした。 ここが今回の京都の旅の締めくくりでした。 一行の多くは、分かれて清水寺あたりに繰り出していきました。 まだまだ見ておきたいところがいっぱいあるというので。疲れも知らず、生き生きとして出かけていきました。 当方は、見たり聞いたりしたい気はあっも、くたびれました。 当初の計画どおりに、錦市場での買い物をして、今回の旅の終了としました。 錦市場というのは、まったく初めてで、美味しそうな惣菜がずらりならんでいました。 通りの両側に、思わず足を止めたくなります。食べたくなります。 これは、京料理の下支え、だしのお店です。 さらに、昆布のお店です。 魚を売るお店もありました。魚市場がそもそもの市場発祥のもとだったそうですが。今回の旅では、ハモとニシンが目につきました。ニシンそばが、京都に着いて最初に注文した人もいました。そのハモの惣菜を売るお店です。 当方も、ちょっとでしたが、この市場でお土産を買いこみました。1つ、2つ、京都らしい惣菜を。 翌日には休日農夫の仕事が待ってますから、これで日程は終了です。お昼ころに、新幹線で帰途につきました。 途中、静岡あたりを通った時に、富士山に注目していたのですが、 残念ながら、富士山はすそ野をみせてくれただけでしたが。 この京都の旅は、3日間とも天気に恵まれました。 ニュースを聞けば、北海道や各所で記録的な大雨が降っていたとのこと。 そうした中で、京都の旅の3日間を無事に、有意義に終了することが出来ました。 やはり幹事さんの企画と準備、案内の努力が大きかったですね。これまで知らなかった、奥深い京都の魅力というものを感じることが出来ました。これが一番の感謝ですね。 それと、3日間とも天候にめぐまれたこと、これもさいわいでした。旧友たちが、元気に顔をそろえたことも、何よりでした。
2014年09月13日
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京都の4 妙心寺に行ってきました 嵐電の嵐山から、電車で移動して妙心寺に行ってきました。 当方は「妙心寺」というお寺は、この旅で初めて知ったのですが。これも京都に詳しい人が案内してくれたからこその新体験です。臨済宗妙心寺派の大本山で、創立は花園天皇(1297-1348)で1337年。全国には臨済宗のお寺が約6000あるそうですが、その内約3500寺が妙心寺派だそうです。その本山であり、お寺といっても、その境内には46もの院があるそうで、その全体です。 これが寺の中心伽藍で、南門から本堂の方向を見たものですが、立派な伽藍です。南側の入口には勅使門もあるんですよ。 その脇に案内板がありました。 妙心寺には46院あるそうですが、その内の2院を訪ねました。 その一つは、桂春院です。 この寺は、織田信長の長男・信忠、その次男・津田秀則により1598年に建てられたものだそうです。ここは茶室です。 もう一つ、退蔵院をまわりました。 石庭といえば竜安寺が有名ですが、ここの石庭もなかなかなものです。入ったところに陰と陽の二つの枯山水の石庭がありました。 これは陰の石庭です。 さらにその奥にすすむと「余香苑」という庭がありました。 「これが禅宗の歴史的な庭園か」と思ったのですが、 後で案内チラシで知ったのですが、この庭は昭和になってつくられたそうです。 昭和の現代につくられた庭園でした。その池には、白やピンクの蓮の花が咲ていました。 当方が、京都に行けたのは、中学の修学旅行いらい数回ですが。 あらめて、私などの知らない名刹がまだたくさんあると感じました。日本の古都・京都には、さまざまな歴史文化があり、今日に続いているんですね。
2014年09月12日
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京都の旅3 天龍寺を見てきました 天龍寺は京都五山の第一で、臨済宗天龍寺派大本山とのこと。 正しくは霊亀山天龍資聖禅寺というのだそうです。野宮神社から竹林を歩いてすぐの所に天龍寺の北門がありました。 創建は足利尊氏(1305-1358、54歳)で、対立した後醍醐天皇が吉野で死去(1339年)し、それを弔うために1345年に建立した寺だそうです。 これが大方丈です。方丈というのは本堂のことだそうで、御座所がつくられていました。ここからが、広い庭(曹源池)を正面に見渡せる一番の場所でした。 修学旅行の学生や外国からの人たち、大勢が広い境内を見学していました。 この寺は8回の大火災にあったそうで、応仁の乱、蛤御門の戦でも焼けたそうです。 伽藍の多くは明治以降のものだそうで、1994年に世界文化遺産に登録されてるそうです。 やはり池を(曹源池)中心にした和風庭園が素晴らしいんですね。 臨済宗ですから禅宗で、山水画を感じさせる庭づくりです。 夢窓疎石(国師)がつくったそうです。中国・元との「天龍寺船」による交易が、その資金になったそうです。 また、広い庭は、さながら植物園です。 『源氏物語』などに出てくる植物の多くは、ここで実物を見ることが出来ます。 これは、「小紫式部」とのことですが、きれいな紫色の小さな実をつけてます。 こちらは「芙蓉」の花だそうです。芙蓉というのは、こんな花だったんですね。 その他にも、ハギ、キキョウ、菩提樹などなど、たくさんあったんですが、 その都度、「あぁ、これが○○なのか」と感心したんですが、その場限りです。 にわか学習では、写真の記録と、名前が結びつかなくなっちゃうんですね。 当方のみかん園の草取り体験からして、 これだけ広い庭園を管理・維持していくのは、じつに大変なことです。 やはり手入れをしていました。注意していると、庭のあちこちでは、庭師の方たちが、 残暑のきびしい陽ざしの下で、汗を流していました。
2014年09月10日
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『源氏物語』の野宮神社をみてきました(京都行 その2) 京都の宿に集合した時に、本番の行程レジメが配布されました。藪から棒でしたが、その中に、野宮(ののみや)神社が加えられていました。『源氏物語』を学べる、一つの場所です。当方、『源氏物語』は与謝野晶子訳と谷崎潤一郎訳で、だいぶ以前に読んだことはありましたが、ただ目を通しただけですから、個々の話は今やまったくの記憶の彼方でした。帰ってから確かめてみると、巻二の賢木(さかき)、榊には、野宮(ののみや)神社が出てきました。 二日目の9月8日は、朝一番で嵐山と渡月橋を散策して、その後、野宮神社に行ってきました。 シンボルの小柴垣と、黒木の鳥居が、歴史を越えて維持されていました。場所は都のはずれ、嵯峨野のうら寂しい、小さな禊の神社というものを見れました。 長編の『源氏物語』は、ほとんどの中味は忘れちゃってます。 この野宮神社は、確かに源氏と御息所との舞台になっていました。 9月7日に光源氏が、娘について伊勢に下る御息所(かつての愛人)を訪ねたんですね。 そのいきさつが解説されてました。詳しい心のやり取りは、原本に当たるしかありません。 すくなくとも、現地を歩いてみての印象です。「嵯峨野という場所が、京のはずれの人里離れた所だということ」、「野宮神社は、竹林の林の奥にある、小柴垣に囲まれた、いたって小さな神社であること」「派手な朱色の鳥居ではなく、質素な黒木の鳥居の神社であること」「源氏が訪ねたのは9月7日だったそうですが、我々が訪ねたのも9月8日で、ほぼ同じころでした。(新暦と、旧暦の違いがありますが)」 現地を歩いたときは、そうしたことは知る由もなく、帰ってから分かったことですが。 京都の神社仏閣は、前回の二条城が示すように大規模で、時の権勢のシンボルが観光名所です。それに対して、野宮神社は小さく質素なものでした。落差が大きかった。これがその 本殿です。 そのわきにあった説明書きです。 嵯峨野のへんぴな場所にあり、いたって質素な社だったのが印象的でした。もちろん当時は、もっと神社も立派だったとは思いますが。境内は箱庭でした。その脇には、つるつるになった石がありました。この岩をさわって祈れば、願い事がかなうとのことです。願いをもったどれだけの人がなぜたでしょうか。『源氏物語』にはこの石はありませんから、その後のアイディアでしょう。 願い事はいっぱいあるようで、石はテカテカに磨かれちゃっていました。 人里離れた嵯峨野の散策は、貴重な体験でした。あらためて『源氏物語』を、全体は無理でも、せめて巻二の「賢木」だけでも、今回の様子からして、読み返してみる必要を感じさせられました。
2014年09月10日
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同窓会で、京都を旅してきました(その1)9月7日(日)-9日(火)、法政の同窓会で、45年来の旧友が京都を旅してきました。なかなか箱根山から西を旅することはないのですが、貴重な旅でした。なにしろ地元の知人が、よくよく準備をしてくれたものですから。これは二条城です。宿となったホテルの近くに、この二条城がありました。早めに集まった人たちで、そこに繰り出したんですね。とうほうにとっては、かなりむかし修学旅行で一度来たことがありましたが、それ以来40数年ぶりの二条城でした。あらためて見てみると、それは御所のすぐ近くにあって、徳川幕府の威信を示すように、本格的なつくりのお城だったんですね。参観者には外国の観光の人たちも大勢いて、熱心に撮影していました。二条城の玄関です。ここから入って、内部を見学しました。徳川慶喜が大政奉還を議論したという広間も現存していました。(内部の撮影は禁止で、紹介できないのですが)ドラマや絵画とは違っていて、諸侯の大名が一堂に会したわけではないんですね。広間が二つ、親藩用の広間とその他の大名の広間があり、二度会議をしているようです。その庭づくりも素晴らしいものでした。しかし、やはりお城なんですね。これが内濠でしょうか。この石垣が、二条城がお城であることをしめしています。ところで、7日の夜でしたが、たいへん風流な体験をさせてもらいました。鞍馬山の貴船神社ちかくでしたが、車は川沿いの細い道をのぼっていきました。やがて、川の上に提灯がともり、座敷がつくられているのがみえてきました。はじめての体験でしたが、こりが川床(かわどこ)料理というものだそうです。これは、まったくの川の上につくられた席亭なんですよ。奥の方で川が流れ落ちているのが分かると思います。まさに天然のクーラーです、これで3-5度は気温が下がっているそうです。京都の夏はたいへん暑いんですが、こんな暮らしの知恵がなされていたんですね。もちろん雨で水かさを増せば水没して、座敷は不可能になります。この川床料理は、6月から9月までの期間限定の、夏の涼とのことです。名物は鮎(アユ)とのことですが。それだけではなく、京都の京都らしい料理が、並びました。この一事がしめしていますが、今回の同窓会の旅は、京都に暮らす人の準備と名案内によって、けっしてふつうでは体験することのできない、風流で贅沢な体験ができました。
2014年09月09日
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群馬の湯宿温泉に泊まりました 5月20日-21日に群馬に行ってきました。 宿泊は、以前にも紹介したことのある湯宿温泉の金田屋旅館でした。 この方面に来た時は、よく利用させてもらっています。 金田屋旅館のホームページです。 http://www.yujuku-kanetaya.com/ 群馬県にはたくさんの温泉がありますが、 湯宿温泉は、三国街道沿いにある湯宿を中心にした小さな宿場町です。今回は車だったので、周辺をドライブしてみました。 この街道をさらにすすむと三国峠を越えて、新潟県の越後湯沢に通じていました。群馬から新潟への県境に近いんですね。歴史ある街道です。谷間には、わずかですが残雪が残っていて、峠の道は、新緑が「萌いずる」の、はじまりだしたところでした。 湯宿温泉は、その三国街道沿いにありますが、車の幹線道路と、生活道路が別になっていますから、 車の騒音もなく、いたって静かな温泉中心の小さな集落です。 ゆっくり温泉を楽しめるし、宿の人たちのサービスも暖かですから、 のんびり、ゆったりとひと時を過ごすには、いち番なんですね。 私なども、この夜は9時間もぐっすりと寝させてもらいました。 湯宿温泉は、街全体が温泉を大事にしています。 この集落の中に、いくつも共同浴場があります。 金田屋旅館のすぐ向かいにも、共同浴場の一つがありました。 これらの共同浴場は、地域の共同管理になっているようですが、町の人たちはもちろん、 ふらっと立ち寄った人たちでも、 一声かければ鍵を借りれて、利用できるようになっています。群馬はやはり温泉が豊かだということを、この湯宿温泉も示しています。
2014年05月23日
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群馬・高崎で前方後円墳-八幡塚古墳をみてきました 5月20‐21日、上さんの郷里の群馬に行ってきました。 その途中、前橋インターをおりて、「かみつけの里博物館」(群馬県高崎市井出町1514)に寄りました。 あいにく、行った日が火曜日だったため、休館日だそうで中を見ることは出来ませんでした。 この博物館は、「保渡田(ほとだ)古墳群」のなかにあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E6%B8%A1%E7%94%B0%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4 解説してくれるはずだった博物館は見れなかったのですが、 その代り博物館のすぐ向かい側にある古墳の一つ、「八幡塚古墳」を見ることが出来ました。 この八幡塚古墳は、前方後円墳で、元の形が復元されて現地保存されていました。 古墳の長さが102メートルとのことですから、かなり大きな古墳です。 すぐ近くに「二子山古墳」「薬師塚古墳」と、3つの大きな前方後円墳があるんですね。 「前方後円墳」というと、私などの認識では、奈良や大阪の関西のことで、「あずまえびす」とされた関東では、せいぜい防人に駆り出されるくらいのへき地で、関東には前方後円墳などはないもの、とおもっていたのですが。 実際はちがうんですね。この群馬県高崎市あたりにも、前方後円墳をつくる勢力、文化があったんですね。五世紀後半から6世紀前半ころに造られたのだそうです。 それ以上のことは知ることは出来なかったのですが。 この八幡塚古墳の周りには多くの埴輪が埋められていたそうです。 特にとりまく堤の一角からは、人物や動物の埴輪が50体以上もかたまって出てきたそうです。 それが復元されて並べられていました。これがその案内プレートです。そこは、鎧をつけた人物がいたり、お相撲さんや、弓で狩りをしている人、鞍を置いた馬や、シカや水鳥、などさまざまな埴輪で、当時の生活を伝えてくれるものなんですね。 お相撲さんがいるのがわかりますか。この古墳によったのは、当方にとっては、たまたまでした。近くに群馬出身の「歴女」がいるんですが、 そのつれづれの散策によっての古代の歴史発見でした。
2014年05月21日
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前進座の五月公演『お染の七役』を見てきました もとの演題は『於染久松色読販』、「おそめひさまつうきなのよみうり」と読むそうです。 5月18日午後、前進座の五月公演、国立劇場でした。 日本共産党後援会の観劇会に参加させてもらいました。 日ごろは草取りの休日農夫としては、文化的なことは珍しいのですが。 原作は、鶴屋南北という人で、江戸時代の文化文政時代に活躍した人だそうです。 http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/2/2_08.html 江戸時代の文化、歌舞伎が今でも楽しめるというのですから、 すごいですね。 表題は「お染の七役」とありますが、 話の筋は、商家の娘・お染が、丁稚の久松に恋するというものですが、ゆすりの悪役が、失敗する場面もあります。 お染役の河原崎国太郎が、ゆったりした流れの中で、同じ役者が久松をはじめ、瞬時に七人の人物に早変わりするんですね。 何度も変身していて、全部で二十数回も早変わりしたとのことです。 この早変わりが見事で、からくり人形の変身ようでした。それでいて全体は、ゆったりと優雅な歌舞伎をたのしませてくれるんですから。「なるほど」と納得でした。 当方、歌舞伎を観賞するなどということは、めったにないのですが、 河原崎国太郎という人は、ずーっと以前に見たことがあります。それはお父さんの代の国太郎さんだったんですね。何を見たかは忘れたのですが、風貌の記憶はあります。 今は若手の河原崎国太郎に変わっていました。 ちっとも知らなかったんですが、1998年に今の六代目河原崎国太郎に引き継がれたのだそうで、その16年前の襲名披露演目が『お染の七役』だったのだそうです。 今回の観劇では、座席が花道の近くの六列目ということでしたから、 音曲部屋での演奏もすぐ近くで、歌いや三味線がベンベンとなまで響くように伝わってきました。 また花道での演技は、ほんのすぐ近くでのことですから、役者の表情の迫力も伝わってきました。 花道の側を振り向いたり、相手方の舞台正面を見たり、首をキョロキョロ180度以上を何度も回転させるところとなりました。 とくに花道の役者さんは間近かでしたから、表情や息づかいが、生ならでわの迫力で伝わってきました。 「ここちよく眠気にさそわれる」どころではなく、がっちりと向き合わされてしまい、こっちもあっちもと全体をみようとして振り回されました。 まぁ、これもなまの舞台公演ならでわの魅力であり、楽しさでした。 やはり生の演劇は、素晴らしいですね。優雅なひと時でした。
2014年05月20日
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根津神社のつつじまつり(4月5日-5月6日)このゴールデンウィークを金なし・時間ありでどうするか、職場での会話の産物です。今日は連休の入り口ですが、4月25日(金)に職場帰りにチョット寄り道をしてみました。東京・文京区は根津神社の「第45回つつじまつり」を見てきました。これが、境内にある「つつじが岡」です。根津神社は、「根津権権」と言われるように、徳川幕府の肝いりの神社です。その神社の正面です。ここには、6代将軍の徳川家宣が提供した千貫神輿があります。この神輿は、江戸三大祭の一つとしてかつがれているそうです。桜の名所をつくったり、江戸幕府は庶民の楽しみを配慮していたようです。しかし、今回の主題はつつじ祭りです。和風の庭園が残されていて、その背後には見事なつつじの屏風が咲いていました。この景観だけでは、つつじの見事さは伝わってきません。実際は、近づいてみると、そのすばらしさがわかります。つつじの植木職人の見事な成果を、はっきりと見せてくれています。このつつじは、200年前の「江戸名所図会」にも描かれているそうです。350年の歴史があるそうですが、約100種類3000株のつつじが、今が盛りに咲きほこっています。こんなつづじもありました。オレンジ色のつつじです。岡全体の景観も素晴らしいけれど、ここにみると、ユニークな色彩だし、大小の大きさのバラエティーな作品群です。職場帰りでしたから、午後5時くらいでしたが、日が伸びてくれたおかげで、園内を楽しむことができました。これを見に来る人たちは、なかなか遊び心のある余裕派ですね。ここに若者たちもまじっているのは、世の中も捨てたものではありませんね。つづじが岡は、入場200円ですが、その入り口の巫女さんによると、「早咲きのつつじは、すでに散りかけているけれど、今が、一番の見ごろです」と紹介してくれました。このゴールデンウィークをどのように楽しむか、当方のおすすめ第一弾は、東京は「根津権現のつつじまつり」でした。
2014年04月25日
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前進座公演「赤ひげ」を見てきました11月15日、国立劇場で前進座の「赤ひげ」を見てきました。舞台の様子は、カメラなどは使えませんから、紹介することは出来ませんが。先般、八王子地域の後援会で、水上旅行会がありましたが、その宴会に前進座の若手俳優の方たちが来てくれて、「赤ひげ」公演のPRを兼ねながら、実際にタテの技を見せてくれました。この方も、今回の出演者でした。当方にとっては、10年近く前に「赤ひげ」は一度見ているんですが、それは新入職員へのプレゼントで、文京シビックセンターでの公演でした。今回の「赤ひげ」は、同じ前進座でも国立劇場で見るのは初めてでした。これが会場の国立劇場・小劇場の入口です。国立劇場というのは、内堀通りの半蔵門近く、最高裁判所の隣りにあります。前の道が内堀通りで、以前にはよく通ったんですが、国立劇場に入るのは初めてです。日ごろ芸術とは縁がないもので、たまにはこうした観劇をするのもよいものです。幕間の休憩時間のロビーの様子です。このゆったりした雰囲気は、気持ちが落ち着いちゃうんですね。「赤ひげ」は山本周五郎原作で、江戸時代の小石川療養所を舞台としたもの。そこの医師「赤ひげ」と青年医師、まわりの人たちとのやりとりを描いたもの。当方は、このゆったり雰囲気の中で、前に見たはずとの気安さ感もあって、ついつい上まぶたと下まぶたがくっつきがちになり、なんとかこらえました。もちろんこの前進座公演は素晴らしいものなんですよ。ただ、観劇というのは見る側のコンディションが大切です。ゆったりすると、日ごろの疲れが出てくるようじゃぁ、ダメなんですね。それと前に見ていたはずなのに、今回ほとんど耳新しいものとして観劇しました。ということは、前回見た時も、同様に眠気と戦っていたんでしょうね。細かく紹介出来ないのも、そうした事情なんですが、「赤ひげ」公演そのものは、500回近く続くものだそうですが、歴史あり、笑いと人情あり、たいへん良かったんですよ、とうほうにとっては、至福のひと時でした。帰りは午後4時でしたから、うす暗くなってきていたんですが、バスは小石川の後楽園の脇をぬけて、安藤坂から春日通りを通ってきました。その道一つ裏側には小石川植物園があり、そこに小石川療養所があったわけです。芸術の秋ということで、職場旅行だったんですが、江戸東京博物館で歌舞伎などの資料を見て、近くの三州屋さんで「深川めし」を味わってから、国立劇場で前進座の「赤ひげ」観劇会を見るといった、日ごろにはない、なんとも優雅な、贅沢ないち日でした。
2013年11月16日
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