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今日は、近所の友人からお夕食のお誘いがあった。鉄板焼きをやるからおいで、と言う。二つ返事でお邪魔した。鉄板焼きなんて何年ぶりだろう。子供と3人で暮らすようになってから、グリルや鍋の類いは出した事がない。楽しいものではあるが、たいした量を食べない子供たちのためにそれだけ用意をするのは大変だ。簡単なようでいて、面倒でもある。昔はよく人を呼んだものだった。焼き肉やしゃぶしゃぶ、鍋物などを囲んで人と話すのが好きだった。いつの頃からか、うちのダイニングは静かになった。今夜お邪魔した家は、6人家族+犬だ。太陽のように明るい友人を中心にご主人と4人の子供たちと犬が回っている。彼女はいつも笑っている。おしゃべりで、世話好きで、底抜けに明るい。彼女の用意してくれたご飯には、とっても愛情がこもっていた。焼き肉なんかあまり食べないと思っていた長男、すごい勢いで焼けた肉を食べている。「肉、ください。」「ごはんもたべなさい」「肉、もっとください」「野菜も食べなさいよ」「肉、もっとください。」肉を懇願する声が永遠に続く。まるで食べさせていないみたいじゃないか。恥ずかしいな。母、赤面。隣にはその家の犬が、やはり肉の匂いを嗅ぎ付けて長男と一緒に焼けるのをを待っている。が、残念ながら、彼女の口に入る事はないのであった。食事そのものもさることながら、皆でつついて食べる、ということが楽しいのか、今夜の子供たちの食欲の旺盛ぶりったらなかった。こんな事なら、しまい込んであるグリルを出すかな。たまにこのグリルでパンケーキ・ブレックファーストをしたりもしたのだ。目の前にグリルをおいて、めいめいが好きな大きさに焼き、バター、シロップ、ジャムやクリーム。好きなものを好きなだけかけての、パンケーキ・パーティ。こんなことをしなくなって久しい。面倒なのか、時間や心に余裕がなくなってしまっただけなのか。今は暑いけど、そのうち小さなお鍋でも買ってきて子供と鍋物をするのもいいかもね。毎日、とりあえず食べさせることばかり考えていて、ちょっとした演出をする余裕がなくなってしまった事は確かだ。小さい単位の家族だろうと、食べる量が少なかろうと、要は気持の問題だ。今夜のごはんはしみじみ楽しかった。友人の、14歳になる娘が、「あーおいしかった。食べ過ぎた。Mom, It was too good! You are a bad Mommy.」と笑って席を立った。こんなご飯を、この食卓で毎日食べている子供たち。本当に幸せだな。うちもこんな幸福な食卓をめざして、毎日楽しく暮らしたいな。
2004.06.30
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私の好きな本のひとつに、フォレスト・カーターの「リトル・トリー」というのがある。両親を亡くした男の子が、チェロキーインディアンの祖父母に引き取られ、山の中で生活する日々の事を綴った自伝的な小説だ。その中の祖父母のやり取りがとても素敵なのだ。はじめてその本を読んだのは結婚する前だった。いわゆる、ウエディングドレスやダイヤモンドの結婚指輪、南の島の新婚旅行、白い食器に象徴される、甘い新婚生活。どれにもまったく興味はなく、実際、そのどれにも縁はなかったのだが、この祖父母のような結婚生活が送りたかった。結婚する前の、小さな願いの一つだった。小説の中で、おじいさんとおばあさんは「I kin ya」と言うチェロキーの言葉をよく口にする。「愛しているよ」という意味でもあり、「理解しているよ」という意味でもある。この二つは同義語なのだ。人を愛するにはその相手を理解しなければならない。口に出すと簡単な事だが、私にはとても難しい事のように感じられる。私たち夫婦はお互いを理解していなかったのだ。離婚劇に始まって、長い長い話し合いの末、一度は、いや、二度ほどもう少し頑張ってみようという提案が向こうからされたにもかかわらず、すでに離れていた気持はもう元には戻らなかった。ろくに喧嘩をする事もなかった私たちは、お互いを理解する努力も怠っていたに違いない。ケンカをする事がいつも良い事とは限らないけど、果てしなくつづく堂々巡りの話し合いの中で、ああ、私たちは本当にお互いを理解していなかったのだなあ、と悟ったのである。離婚のきっかけは、元夫の恋だったけれど、いつかはなるべくして起った結果だったのかもしれない。ある方のホームページで「魂のかたわれ」という言葉を目にした。彼女も片割れを探しているのだ。その言葉を目にした時、元夫は私の片割れではなかったなと理解できた。私の片割れはどこかにいるのだろうか。今生では会えないかもしれないけど、来世では会えるのかもしれない。いつかその人に出会った瞬間にはっきりとそれがわかるのかな。相手を理解できるように。自分を愛するのと同じく相手を慈しむ事ができるように。「リトル・トリー」のおじいさんは息を引き取る間際に、おばあさんに向かって、「今生も悪くはなかったよ。また会おうな」とつぶやいて逝くのである。いつもその下りを読むと、どんな恋愛小説よりも私の胸を打つのだ。今、私はひとりだけれど、そういう人が今どこかで自分を探している。そう思うと孤独感は薄らぐ気がする。ところで、愛というのは何も恋人や夫婦間の事だけではない。最近、息子がやや反抗的である。自我が芽生えて、自分という輪郭がだんだんはっきりしてくる年齢でもある。忘れてはいけないのは、彼らは私ではないという事。母親は比較的子供にのめりこむ傾向があると思う。自分のお腹からでてきたのだから、自分の一部のように感じるのだ。でも育てていてはっきりわかるのはまるで別人だということ。大きくなるにつれて理解のできない考え方や行動をとる事も多くなる。つい忘れてしまいがちになるのは、彼らに対してリスペクトを怠らないという事。そして相手の話をよく聞き、理解に努める事。愛と理解。愛とリスペクト。どれも未熟者の私には、一生かけて学ばなければいけない課題である。本日の献立:T・J'Sのピザドウを使った自家製ピザ。(このピザドウはほんとに安くておいしい、たったの99セント)サラダ、いちご
2004.06.29
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取りあえず、引っ越しが終わった。何はともあれ、運んだのだ。金曜の夜までは、とにかくひたすら荷造り。最初はきちんと整理しながらやってたんだけど、もう最後の方になったら、何でもいいから詰めてしまえ、とばかりに、ぐちゃぐちゃに突っ込んではテープで止めた。箱をどんどん積み上げていくうちに、快感にも近いものが生まれてきた。ああ、私は今、生きているんだわって実感。疲れてたんですね、きっと。荷造りに躍動感を感じるなんて。で、金曜夜にトラックを借りてきてもらって、土曜日は朝の8時半から、はじめた。かねてから、教会の人が手伝いにきてくれる事になっていたが、実際、どのくらい人が集まるものなのか。などと思いつつ、荷物をトラックに運んでいるうちに、10人以上の人が集まってきてくれた事に気がついた。アリのように目まぐるしく働いてくださる彼らに感謝しつつ、私は現場監督としてエラそうに指示しなければならなかった。何しろ私の引っ越しなのだ。どこに何を運ぶかは私が采配しなければならないのだ。一気にやってしまったかいあって、2度にわたるトリップがすべて終了したのは午後1時だった。はやーい。ぐたぐたに疲れたカラダにむち打って、取りあえず「衣・食・睡眠」さえどうにかなれば、あとはどうにかなる、ということで狂ったようにダンボール箱をこじ開けた。とりあえず、完了。これから、仕事のものとか、子供のおもちゃとか、雑貨類とか、毎日少しずつ出せばいい。明日は向こうの家の大掃除。しかし、引っ越しは疲れるなあ。さて、新居である。ここに来て、恐ろしい事に気がついてしまった。なんと、ディッシュ・ウオッシャーがない。がーん。あんなものはあるのが当たり前と思っていたのでチェックもしなかった。これから毎日、皿洗い人生である。でもまあ、気を取り直してよく考えれば、いつも汚れた皿をきれいに洗い流して食洗器にいれていたわけだし、二度手間ではあったわけだ。それに私の数ある夢の中に、息子を立派な主夫に育てるというのがある。良い機会ではないか。今までは流しにもっていき、時には水で流させていた食器を洗剤で洗わせるだけの話だ。たいしたことではない。わっはっは。単に食器を洗う手が、器械から息子らに変わるだけの話である。お母様は今まで通り、ラクをすればよいのだ。と、何かを察した長男。「ママ、ここディッシュ・ウオッシャーないね」と不安げにつぶやく。以心伝心とはまったくこの事だ。息子よ、世界一の皿洗いをめざしなさい。夕飯・差し入れのパスタと鶏の唐揚げ
2004.06.28
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6月25日は、父の命日だった。私の父は30年も前に他界している。お酒が好きで、子供が好きで、曲がった事の嫌いな人だった。私は父が大好きで、そして少し嫌いだった。父はお酒を切らす事ができなかったし、お酒が切れると私を酒屋まで買いにやらせた。私が今、お酒を飲まないのも、そしてお酒を飲まない人を元伴侶に選んだのも、少なからず影響があるような気がする。父はよくふんどしをしめていた。ふんどし、である。私の年代の父親でそんなものをつけている人はいなかった。家でこっそりつけてくれている分にはかまわないが、公営のプールにまでそれで現れたのだ。子供の私は、恥ずかしくて死にたくなった。プールの係員に注意されて、「ふんどしのどこが悪い」と怒鳴った父だった。おまけにどこぞのご婦人が「そうよそうよ、ふんどしは日本男児の象徴よ」などと言ったもんだから、ますますいい気になって、プールサイドでふんぞり返った。娘にここまで赤っ恥をかかせる父親も珍しい。小さなグラビア印刷工場をやっていたので、いつも手が真っ黒だった。洋服もインクのシミで汚れていた。ある母の日、父は仕事帰りに私たちをトラックにのせて母へのプレゼントを買いにいった。薄汚れた父を見て、店員は怪訝な顔をしていたが、私たちを見るとニコっとして、母のエプロンを包んでくれた。その帰りに、父はパフェをごちそうしてくれた。薄汚れたシャツを着て、長靴を履いた父をその小さな喫茶店の店主は粗末に扱った。「仕事の帰りなんだ。そんなに実際汚れている訳じゃない。ちゃんと客らしく扱え。」と怒った。パフェは豪華でおいしかったが、何だか胸がつかえて悲しかった。それでも父が大好きだった。近所の子供たちを集めてトラックの荷台に詰め込み、皆をメダカ取りに連れて行ってくれた。父の葬式で、「オレはおじさんに自転車に乗るのを教えてもらったんだ」という子も何人かいた。団地の祭りの神輿の時は、いつも先頭切ってかついでいた。そんな父をかっこいいと思った。父が亡くなったのは、病室の窓が夕焼けで真っ赤に染まる時間だった。肝臓をやられて入院していたにもかかわらず、こっそり抜け出して酒を飲みにいくような人だった。今思えば、父にはとても弱いところがあったのだと思う。父の死に顔はおだやかで、本当に眠っているようだった。今、夕暮れ時は私の一番嫌いな時間であり、一番美しいと思う時間でもある。幸せな時には心から楽しめる夕暮れ時が、孤独な時には何よりも辛い時間となるのである。父は紫陽花が大好きだった。団地の庭の、各家庭に与えられたわずかなスペースに、青い、大きな花を咲かせる紫陽花を植えていた。「紫陽花はな、雨に打たれると、ますます色が冴えるんだぞ。強くてきれいな花なんだ。」私も青い紫陽花が大好きになった。父の葬式はどしゃぶりの雨の中だった。私は納棺の前に、こっそり抜け出して、雨の中、傘をさし、紫陽花を3本摘んだ。父の棺に入れたかったのだ。父の写真を見ると、涙が出そうになったが、私は泣かなかった。父が亡くなってだいぶたち、団地の廊下を人の歩く音がした。「あ、お父さんだ。」その足音は、家の前では止まらず、3軒先の家の前でドアを開ける音がした。はじめて、父がもう戻らない事を実感した。はじめて、家族から隠れて、泣いた日だった。今でも父の笑顔は鮮明に思い浮かぶ。腕枕をしてくれて、耳元で話しかける父の声はとても心地よく耳に響いた。私がどこにいてもきっと必ず見守っていてくれる。大切な人というのは、いつまでもいつまでも、心の中で生きているのだ。
2004.06.25
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引っ越しというのは実に大変である。金もかかるし体力も消耗する。イライラもするし、食事もいい加減になる。「とにかく引っ越しが終わるまでは」が合言葉になるのだ。でも悪い事ばかりでもない。まず家がかたづく。つかの間だが、整理整頓もされる。(引っ越した当初はこれをキープしようという誓いをいつも立てるが、1週間すると、すでに乱雑)躊躇なくものも捨てられるし、そして何より、「あ、あった!」という発見がたくさんあるのである。うちは物がなくなりやすい。いつも子供のせいにしているが、本当は独身時代からのキャリアである。何故か私のものは死角に入り込む、と決まっているのだ。だから大掃除や引っ越しのときは、いろんなお宝がでてくるので、ワクワクだ。今回でてきたもので、驚いたのは、はさみ8本、ペン23本、使いかけノート5冊、未現像フィルム4本、髪の毛の輪ゴム11個、片方だけの靴下7足分。たった1年で、これだけのものが、何処かへ消えていたのだ。不思議なものである。ところで、出てきて一番嫌なものは、レゴのピースである。私としてはこの家からレゴというレゴを追放したい。(もちろんバイオニクル等も含まれる)小さいし、あちこちに入り込むし、拾っても拾ってもでてくるし、何しろうっかり踏んだ日には、「くわあーッツ、痛いじゃないよッ。ちゃんとかたづけなさいッ」などとつい声を張り上げてしまうのである。いちいち癪にさわるおもちゃであるが、レゴ命の息子たちからこれを奪うと、暴動が起きる可能性もあるので、早く卒業してくれる事を願うばかりだ。ところで、本日の発見お宝のベスト3を発表したいと思う。3位。Aくん(仮名・5歳)所有の日本製パワーレンジャー2体「日本のフリーマーケットで、変な業者にボラれた中古パワーレンジャー。でてきたところをこっそりゴミ袋にいれたところを、Aに発見されてしまった、実にいまいましい代物です。」とはAくんの母、Kさん談。2位冷蔵庫の奥から発見された、博多みやげの明太子「あとでこっそり楽しもうと思いつつ、いつの間にか奥へ奥へと追いやられ、うっかり忘れてしまいました。あやうく賞味期限も切れるところだったんですよ。嬉しいわ。」と、笑顔も晴れやかに語ってくれたのは、S市在住のKさん(仮名・年齢不詳)。よかったですね、Kさん。そして、緊張の第1位は・・・長男Mくん(仮名・8歳)が発見の、しわくちゃに折り畳まれて、ほこりをかぶった20ドル札「ぼくが部屋で探し物をしていたら、ママが掃き出したベッドの下のほこりの中に、これが埋もれていたのを発見したんです。本当はねこババしようかとも思いましたが、バレるとあとが恐いので、きちんと申請しました。おかげで、狂喜乱舞のママのおごりで、お昼はマクドナルドにありつけました。」Mくん、堂々の1位、おめでとう。ってここまで書いて。なんだか空しい。お宝といってもうちじゃ、所詮こんなもんなんですよねー。(涙)アンティークかしら、それとも・・なんて期待された方、へへ、ごめんなさい。誰も期待なんかしてないか。(笑)さて、荷造りもだいぶすすんだ。あとは、恐怖のキッチンを残すのみ。本日の献立・・白いご飯と辛し明太子(母のメインディッシュ)トンカツ、たまご入りみそ汁、ブロッコリー
2004.06.24
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今、明け方の4時である。何故、こんな時間にこんな事をしているかと言うと、きのうはあまりにもバタバタしていて、9時過ぎに子供たちと寝てしまい、今起きて、これから引っ越し作業というわけである。ならば日記なんか書いていないでさっさと始めればいいのに。何故こんな明け方に日記を書いているのか。楽天で日記を始めてそろそろ2ヶ月が経とうとしている。自分のためにつけ始めたこの日記、有り難い事に最近では読んでくださる人も増え、PCに向かうのが楽しみになってきた。私は何か書く事がとっても好きだ。全然苦痛ではない。それでもこの作業に毎日かなりの時間は取られている。そして毎日更新をしているので、SAKUZOさんてヒマね。と思う人も多いだろう。そう、まあ、けっこうヒマなんです。でも、今はちょっと忙しい。引っ越しを控えているから。1日の24時間という与えられた時間こそ、すべての人間にとって、唯一公平なものである。これをどう使うかは各自の判断に任されている。子供にご飯もあげないで、日記を更新している。仕事の締め切りが大きく遅れているのに、日記を更新している。大勢の人に手伝わせてラクをしつつ、日記を更新している。これらのことを、人は愚行と呼ぶ。幸い、まだここには至っていない。というか、この先至るつもりもない。でもふと思ったのだ。何がここまで私をこの日記に向かわせるのだろうか。離婚して、家の中は私と二人の小さい人になった。私には友人はそれなりにいるが、夜、電話で話したりするのは、ごくごく一部の親しい友人だけである。ふと気づくと一日中、大人とまともな会話をしていないことがある。仕事は自宅でしているので、ちょっとした打ち合わせ以外は、人と話す事もそれほどないし、学校の送り迎えだって、車で落っことして、拾うだけなので人とは挨拶程度である。今日あった出来事などを家に帰って話す相手はいないのだ。(子供との会話は別の次元のものである)離婚して、心も落ち着き、ふとこんな事を思った。ああ、私にはその日の嬉しい事をや悲しい事を日常レベルで分かち合う相手がいないんだな、と。楽天で日記をはじめてその日あったこと、思い出したこと、考えたことなどを綴る。それを読んでくださる方がいて、コメントをくれたり、時には情報をくれたりする。ネット上でのおつきあいだが、こんなことにどれほどなぐさめられたことか。基本的には子供が寝る夜8時以降が私の楽天タイムである。私はテレビもみないし、夜話す相手もいないので、時間はまあまあある。夜は仕事する事も多いが、PCにむかっているので、合間にちょこちょこのぞいたりもする。こういうわけで、毎日日記を更新している。誰のためでもない。人気サイトになりたいわけでもない。読んでいただくのはすごく嬉しいけど、すべて自分だけのためなのだ。と言い訳をしつつ、今日も更新してみました。さ、ダンボールとの戦いの時間だ。今夜の夕食:パ◯ダエキスプレスで中華のおもちかえり。
2004.06.22
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私の父は、私が11歳の時に病気で他界した。何年も入退院を繰り返したため、私の中にはどこかで覚悟のようなものができていたに違いない。ある日学校に叔父が来て、私と妹を連れ帰り、「お父さんの病院へ行くよ」と言った時も、「ああ、お父さんは死ぬんだな。」と感じたものだ。叔父は私と妹を最初に病院の売店に連れて行き、アイスクリームを買ってくれた。それからエレベーターで屋上にのぼった。そして父が亡くなる事、これから母と妹・弟の4人で生きていく事。助け合わなければいけないこと、叔父・叔母たちもいつもそばについていてくれるということ、などをポツリポツリと静かに話してくれた。夕焼け空が真っ赤だった。不思議とそんなに悲しくはなかった。その時は涙も出なかった。でもアイスクリームがおいしいと感じられない初めての日だった。父の命日は今週の金曜日だ。いつも父の日のすぐ後に来る。12の歳から、私にとって、父の日というのは味気ないものだった。学校で描かされる絵は決まって「お父さん、ありがとう」といったテーマのもの。いじけたりはしなかったが、私の中の父親像は、父が逝った歳で止まっているのだ。父のいない父の日は、私に父がいないという事を改めて確認させられる日だった。今日は父の日だ。子供たちは、父親にあげるビーズのアクセサリー(何考えているんだか、うちの息子)をきのうから一生懸命こしらえていた。クレヨンで絵もかき、カードを作り、父親の好きなクッキーを箱に詰めて、準備を整えた。今夜はディナーに招待していた。私は食事だけ用意して、その場の雰囲気次第で出かけるつもりだったし、それは彼も承知していた。でも今朝になって「急な仕事が入っていけない」と言い出した。ディナーなんてたかが1時間だ。しかも今日は日曜日。彼の仕事がどうなっているのかは知らないが、こういう風に、子供の期待を裏切るような事がこいつにはあるのだ。夕方、早めの食事をとっていると、元夫からの電話。「今日は本当に、本当にごめん。」「子供たちと話せるかな。」子供たちは、何ごとともなかったようにはしゃいで話している。彼らの父は生きている。すぐそばにも住んでいるし、いつも「子供たちが何より大事だ」とのたまう。でも私の子供たちは、昔の私と同じように、父のいない父の日を過ごす事があるのだ。(これで、新妻が来たら、どうなっちゃうのかなー)電話口で、兄弟揃って「HAPPY FATHER'S DAY!!」と叫ぶ子供たちを見て、胸がかすかにちくんと疼いた。世界中のお父さん、父の日おめでとう。本日の献立:ステーキ、ベイクドポテト、たらこスパゲティ、野菜サラダ、チェリーパイ奮発したステーキ肉を、3人で思い切り食ってやりました。げふっ。
2004.06.21
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来週の引っ越しに備えて、家の中のいらない家具を処分するために、今日も懲りずにガレージセールをやった。すっかり病みつきになっている。今日の目玉は、ソファ(大・小)とコーヒーテーブルの3点セット。今、お申し込みいただくと、もれなく黄ばんだランプがついてきます。というわけで、大物である。その他、サイドテーブル、本棚、手動芝刈り機、バーベキューグリル(炭火用)、ベビーベッド、パティオテーブル&チェア(パラソル付き)そして前回の売れ残りの雑貨類である。これらがなくなったらどれだけスッキリするだろう。とほくそ笑みながら、人の手助けも受けて、ドライブウェイに並べた。はっきりいって、オンボロ家具ばかりである。あげたところで惜しくも何ともないようなものばかり。それでなにがしかのお金がいただけ、視界から消えてくれるのだから、ガレージセールさまさま、である。一番乗りの客が来た。みんな、細かいものばかり見ていく。そんなちっちゃいものは、どーでもいいから、この辺の家具を見てよ。ねえ、お願い皆さん。ところが、そこに並べられているソファを「屋外応接室」と勘違いしたのか、本がたくさん入っている箱を、テーブルの上にならべ、ソファにふんぞり返って読みながら物色している奴もいる。頼むからそこでくつろぐなよ。開店して1時間半、誰も家具には興味をしめさない。そこへ大きなお腹の妊婦さんが、足取りもよちよちとやってきた。いきなりソファの上に、はねるように座っている。何度か座り心地を確かめるかのように、尻ではねている。「いくら?」「3点セットで100ドル。」決して高くはない筈だ。別に驚きもしない様子で、今度は小さい方のソファに腰掛ける。「これいいね。」そうでしょう、そうでしょう。買うと言って。「50ドル。」うーん、そうきたか。いくら何でも、と言いかけて、<でもこれがもし売れ残ったら>という不安が頭によぎった私はうっかり二つ返事で「オーケー」と言ってしまった。すっごく嬉しそうな顔をして、私に10ドルの手付けを渡し、後でとりに来るから残りはそのとき払う、と言い残して帰って行った。不思議なもので、彼女が買う事に決まった途端、次から次へと「このソファはいくらだ」とか「えっ、もう決まっちゃったの。これ欲しかったなあ」などと悔しげに帰る人が後を絶たなかった。ちっ、こんなことなら、いきなり半額なんかに下げるんじゃなかったよ。あー失敗した。その後、他の家具類もあらかた片付いた頃、車が止まって、またよちよちと彼女が現れた。「これ、残りの40ドル。トラックで来るのは夕方になる。お金ないから、他のものはいらない。」といいながら、いくらか残ってた、赤ちゃんの服を見ていた。他のお客さんの相手をしながら、ふと気づくと、コーヒーテーブルをずるずる引きずる音がする。ちょっと、何やってんのよ!相手は妊婦である。英語のあまり得意ではない彼女は「いや、これだけ車に入りそうだから、入れようかなと思って。」というようなことを笑って言った。結局、私と一緒にセールをやった友人とで、この怪傑妊婦の車に入れた。「で、いつ産まれるの?」と聞いた私に「んー、今日かな。明日かもしんない。」何だって?予定日にのこのこガレージセールに来るやつがあるか。しかも、自分でコーヒーテーブルなんか運ぼうとして。「はじめての赤ちゃんだから、ダンナは楽しみね。でもお金がない。リビングもからっぽ。赤ちゃんくるから、家らしくしたかった。今日は何か買えるといいなと思った。このソファ、買えて本当にハッピーよ。」とブロークンな英語でいいながら、またうれしそうに尻ではねていた。うん、50ドルでもいいや。夕方、目尻に笑い皺を刻ませた、日焼けしたダンナさんと一緒に大きいトラックに乗ってやってきた。彼とその友人がソファを運び入れている間、売れ残りで申し訳ないが、赤ちゃんの服とベビー用品のお古を全部あげた。ニコニコしながら、「サンキュー、アミーゴ。」と言って、大きなお腹を押し付けながら、私にハグをした。そんなに押したら、赤ちゃんでちゃうよ。手を振って帰る彼らを見ながら、ソファに座って赤ちゃんを抱いている彼女を想像したらなんだかとってもうれしくなった。本日の夕食:売上金を握りしめ、サラダ系食べ放題レストランで、大盤振る舞い。
2004.06.20
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のっけから何だが、イラストを描かせていただいた「絵本」が出版された。3ヶ月前の事である。あまり詳しく「自慢および宣伝」すると、氏素性がばれる恐れがあるのでやめておく。とかいって、けっこう近所の人が見ればバレバレの事、既にいっぱい書いてますけどね。まあ知名度もないので、バレたところで痛くも痒くもないのだが。今日の私の日記テーマは、自慢ではないのだ。もっと崇高な「夢および目標」である。このテーマで日記を書く時は、青少年の正しいお手本となるべく、背すじをきちんと伸ばさなくてはならない。イテテ・・。小さい頃から童話が好きだった。本がすり切れるまで特に繰り返し読んだのは、「星の王子様」「メアリー・ポピンズ」「アルプスの少女ハイジ」「いやいやえん」などである。テレビも好きだったが、大人になって、本の内容の方が鮮明に思い出せるのは、どの本も繰り返し読んだからだろう。そしておとなになっても、ずっと童話が好きだった。その中でも絵の美しいものはとりわけ素敵だ。(世界アニメ絵本、とかはけっこう苦手です。)私は職業歴のほとんどをグラフィック・デザイナーとして過ごした。デザイナーは絵を描く人、と思っている方もいるかもしれないが、基本的に仕事上で絵は描かない。絵心のある人が多い事は事実ではあるけれど。今は生活するため、他の仕事もやっているし、それはそれでとても楽しいけれど、私としてはできたらデザイナーとして1本でやっていきたい。そしてもう一つの目標が絵本作家だ。「世界のこどもたちのために」とかいって、瞳をキラキラさせる芸当はできないので正直に言うが、「自分の名前が印刷された本が、書店に並んでいる」世の中にこんな気持のいい事が他にあるだろうか。(いっぱいあるだろうけどさ)そういう意味ではもうすでに志半ばにして、「夢は達成された」といってもいい。全米の書店のうち、なんと、10軒もの店が取り扱ってくれているのだ。誰? 今そこでクスって笑ったの。・・・まあ、いい。本当に小規模なんだから。売れなくてもいいの。一番嬉しかったのは、子供たちを連れて、そのうちの一つの書店に行ったとき。その書店に初めて入った子供たちは、棚にあった本をめざとく見つけて「あ~~~~~!!!、ママの本がある。ママの本があるっ!!」と大はしゃぎだった。通路で小躍りしていた子供たちは、近くにいた女性に「It's my Mom's book.」などと言い始めたので、早々に退散した。子供があんなに喜んでくれるのなら、(例えたいしてお金にならなかったとしても)本当にやってよかったな、と思った。母を、たとえ一瞬でも誇らしく思ってくれてとてもうれしかった。今回の仕事は、イラストを描いただけである。内容は既存の古くからある物語だ。それに水彩や色鉛筆で色をつけたかった私は、コンピューターですべてやってくれと言われて、少しがっかりした。またその仕事が来るかもしれないので、その時はもちろん喜んで引き受けるが、やはり最終的な目標は、自分で物語も絵もかく、絵本作家になる事だ。道のりはまだまだ遠い。でも夢というのは強く願ってすすんでいれば、かなうかもしれないし。かなわなかったとしても、夢を見る事ができただけでいいよね。本日の献立:友達のおみやげ、博多ラーメン+残りものさあ、いつまでも楽天で遊んでいないで、荷造りするぞ。引っ越しまであと1週間ー
2004.06.19
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過去、私にはかなり無節操にいろいろな趣味があった。中学生の頃は、洋楽ロックにはまり、深夜ラジオで夜更かし。高校生になって、バンドに参加し、ちょびっとハメもはずした。暇さえあればトイレの中でもどこでも本を読んでいた。絵を描くのも好きだったし。一人旅にもよく行った。最初の海外一人旅であるアイルランドには、とりわけハマりまくった。社会人になって、カヤックもやるようになった。どういうわけか、ちょっとだけトライアスロンなんかも首を突っ込んだ。(今は鍛えた面影もないカラダですけどね)そして結婚と同時にアメリカに渡り、今度の趣味は「茶道」である。じゃんじゃん。遥か昔に千利休がはじめた、茶の湯の道。当時は位の高い、しかも男性によっておこなわれる風流ごとだった。時は流れ、今では結婚前のお嬢様、優雅な奥様方におけるお習い事の代表として認識されている。私の過去の代々の趣味と、奥様のお習い事にはまるで接点がない。私のキャラクターは茶道だの華道だのに無縁で来た。ではなぜ自分にとって異質な世界とも思えるお習い事に手を染めてしまったのだろうか。今を去る事9年前、アメリカに来て間もない私は、どういうわけか、語学学校でビジネスマンに日本語を教えていた。そのビジネスマンのひとりがある質問をよこした。「どうしてお茶って、茶碗をくるくる回しながら飲むんですか」曲芸じゃあるまいし、くるくる回しながら飲んでいるわけじゃない。そんな事したら危ないじゃないか。いくら私に茶道の心得がなくてもそのくらいは知っていた。2回まわして飲むんだよ。あれ、まてよ、1回だっけ?まあ、とにかく。どうしてかは知らない。そこで知り合いのつてを頼って、うちの近所に住むお茶の先生を紹介してもらった。といっても私にとっては、「何でまわすのか」ってことさえわかればいいのであって、お茶の先生に会うほどの事じゃないんだけどなあ。閑静な住宅地の中に、その家はあった。外見は普通のアメリカの家。でも中にはきれいに手入れされた日本庭園があり、本物の茶室があった。先生が茶室の中を案内してくださり、お茶をたててくれた。「お菓子をどうぞ。」あー、和菓子だ。すっごくきれい。わ、おいしいな。うれしいな。そしてお茶が目の前に出される。えっと。どうやって飲むの?右に回すのか。それとも左なのか。「時計回りに2度まわして、正面を避けて飲むんですよ。」先生の声が優しく響いた。客は謙虚な心で正面を避ける。それが正解でした。ひとくち飲んだお茶は、熱く、ほろ苦く、のどの奥がスっとした。床の間に飾られた野の花が、奥ゆかしく佇んでいる。秋の早い夕闇が茶室の窓に陰をさした。何かが私の心の琴線にふれた。けっこうシブイじゃないよ、これ。その日から、私は先生の弟子となり、9年近くが経過している。お嬢様のお習い事だと思っていたこの茶道、とてもスピリチュアルで、日本の文化のエッセンスがすべて濃縮されている。お茶のみならず、茶碗、茶杓、茶筅などの数々の茶道具。日本各地の釜元を知るいい機会でもある。漆や竹細工、などの日本各地の工芸品。お茶、菓子、お香、茶花。知識は広がるが膨大なので忘れていく一方だ。短歌・和歌なども勉強する機会にも恵まれるし、歴史の本をひもとくこともある。何より、立ち居振る舞いが優雅になる(ことにはなっているが、これにはやはり個人差が。ヘヘ)。時々、アメリカをはじめ諸外国の人に、お茶というものを紹介する機会がある。そういう時は何だかとても誇らしい気持になる。茶道を習い始めたおかげで、着物の着付けもずいぶん楽にできるようになった。いいことヅクメである。今日は本当に久しぶりにお稽古に行ってきた。忙しさにかまけて少し足が遠のいたが、茶室に入ると心が落ち着く。もうお茶名も届いているそうで、来年茶名披露をする予定である。茶名?この私が?笑っちゃうな。あーお金ためなきゃ。(蒼白)趣味のお習い事を持つみなさまも、どうぞご精進なさってね。本日の献立:虹ますのカリカリベーコン焼き、ごはん、豆腐のみそ汁中華風野菜炒め、コーンとレタスのサラダ
2004.06.18
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今思えば、あれは一体何だったのだろうか。長男は今でこそ、まったく普通の子だが、小さい頃はいろいろなエピソードがあった。まず「おともだち」がたくさんいたのである。最初のうちは、「はは、かわいいねえ。空想のお友達がたくさんいるんだね。」なんて周りの人も笑っていたが、そのうちあまり笑ってもいられなくなってきた。よくうちに遊びにきていたのが、リックとマーブルという男の子である。長男曰く、「時々上から降りて来る」そうだ。もちろん私には見えなかった。お友達のピーター(仮名・本物)と公園に行った時の事。二人でふざけっこして芝生の上を駆け回っていた。ピーターが少し離れたところに走って行くと、息子はその背中に向かって「Peter, Cathy, Where are you going?!」と叫んだのである。思わずピーターのお母さんと顔を見合わせてしまった。「キャシーって誰なのよ!!!」これらの名前にまったく心当たりはないが、でもまあこれだけならいい。怖かったのは。電話が鳴ると、「あっ、XXちゃんだ」「あっはっは、わかるわけないでしょ。」受話器をとるとその子のお母さんである。相手はいろいろだったが、そんな事は1度や2度ではなかった。ピンポン、とドアベルがなる。部屋の中にいた息子は、「あっ◯◯ちゃんだ。」「まさかー、約束してないよ。」ドアをあけると◯◯のお母さんだけが、お裾分けを持って立っていた。「ごめんねー、電話もしないで。◯◯今日いないし、これだけ持ってきた」こういう事も何回かあった。「ママー、誰か来たよ。」と呼びにきた息子。「誰かノックしたの? ピンポンて鳴らなかったよ。」とドアに向かう私。「ううん、そこに優しい男の人がいるよ。ほら。」もちろん。そこには誰もいないんである。思わず足がすくんでしまった。横になって寝かしつけていた時の事。「ママ、誰かいる。」目がパッチリ開いて、私の肩越しに「何か」を見ている。「えッッッ? だ、誰?(泣き声)」「しっ。ママ。いいよ、僕が話すから。」やめてよう、こんな暗がりで。(怖)思えば2才くらいの頃から、こんなことはよくあった。夕飯のテーブルで、ハイチェアに座らせて食べていると、よく目が宙を追っていた。ダイニングルームの入り口から、目で何かを追い、「あー、いたー。(ニッコリ)」そして、また入り口の方に視線が戻る。「あー、いっちゃったねー。」行っちゃったのは、一体なに?住んでいた家に何か憑いているのか、とも思ったが、日本の実家や妹の家でも変わらなかった。妹の家では、皆が夕飯を食べているテーブルから、一人ぬけだし、誰もいないリビングをのぞきこんで、「あ、誰かいるよ」とひとこと。同居のお舅さんを始め、皆を恐怖のどん底におとしいれた。妹は霊感Mと名付け、なんとかその力にあやかろうとしていた。日本に連れ帰った時は、宝くじの数字も決めさせた。あたらなかった。奴の霊感なんて所詮はそんなもんである。これは2歳くらいから始まり、5歳になる頃まで続いたが、その後ピタリとそういうことは言わなくなった。子供というのは、きっと皆そういうものなんだろう、とも思ったが、人の話を聞く限りはそうでもないようである。確かに次男に関してはそんな気配はみじんもない。 不思議な事である。でももしかしたら、不思議でもなんでもないのかもしれない。もう何も見ていないらしい長男を見て、ほっとするような、つまらないような。惜しいよな、夏の人気者になれたのに。本日の献立:ミニハンバーグの酢豚風あんかけ、ごはん、ポテトサラダ、ブロッコリー、いちご
2004.06.17
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今日はちょっと自慢話です。鼻高々で、けっこういい気になっています。今夜のメシはうまかった。先日の日記『冷蔵庫整理月間」にも書いたが、今、私は食材を費やす事に執念を燃やしている。食材が残り少なくなって、限定されるとものすごく創作意欲をかき立てられるのだ。今夜のごはんは何にしようかな、と冷蔵庫を開け、食品棚をのぞき、何も考えずに日本そばを取り出した。今夜は暑いので麺類に限る。ふと目についたのが、いつぞや買った芝麻醤。あっ、これを使ってみようかな、ごまダレもいいな。と、そばと芝麻醤を抱えてキッチンにはいる。インドネシア風。ふと浮かんだその言葉に、追い立てられるようにピーナツバターを探した。インドネシアにそばがあるのかどうかは知らないが、ピーナツパターは使うだろう。ピーナツバターと芝麻醤を練り合わせる。さっぱりさせたいので、ゆずポンをいれる。南国風味も出したいのでフィッシュソースもいれる。ごま油もちょちょっとたらして。うまいじゃねーか。これで茹だったそばを和えてみる。あたしって天才かも。いい気になりながら、今度はおかずの準備。冷蔵庫にあった豆腐が目につく。そしてきのう、近所の人にもらったズッキーニ。私の好きな、万能野菜である。まずは、深めのフライパンにごま油をたらたら入れて、賽の目に切った木綿豆腐を炒める。表面がカリっとしてきた。おいしそうだ。ズッキーニも角切りにして、フライパンにいれる。なんか、物足りないなあ。食品棚を急いでのぞくと、牛肉の水煮缶があった。もらったけど、なんとなく放置しておいたやつだ。缶を開け、水気を切って、フライパンにいれる。さっと炒めれば、もうじゅうぶん火は通っている。しょうゆをまわし入れてみた。何かひと味足りないので冷蔵庫をのぞくと、ケイパーが目についた。これだよ、これ。できあがりをつまんでみると。うまいのなんのって。ますます一人でいい気に盛り上がっていた。でも息子に自慢しても仕方ない。そうよ、私には楽天があるじゃないの。人には、他人に認めてもらいたいという欲求がある。日頃あまりその欲求が満たされていない人間にとって、楽天という場は「自慢の垂れ流し」をするにはもってこいの場だ。運悪く読んでしまった人には、大変申し訳ないが、一応最初に「自慢話が嫌いな人はよまないでね」って書いたし。えっ!? 書いてなかった?おかしいなあ。でもこんな事くらいしか自慢する事がないんです、許してね(涙)。本日の献立:そばのごまピー和え、肉野菜豆腐炒め、ゆでとうもろこしくどいようですが、わりとおいしかったので、レシピをアップします。自分が忘れたくないからなんだけど、興味のある方は試してみてください。PS/アトキンスはどうなった、と思われた方へ。取りあえず、続行してはいますが、引っ越し前でドタバタしているため、厳密な奴は中断しています。すべてが片付いたら、また頑張ります。ホントかよ。
2004.06.16
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少し前に、離婚が決まってはじめて自助グループといわれる会の夕食会に出た時の事だ。そこには私を含めて6人の離婚経験者、もしくは手続き中の女性がいて、そのうち4人は子供を持つシングルマザーだった。パロアルトという町の、ダウンタウンのレストランに繰り出した私たちは、夜も更けるまでおしゃべりを続けた。話が盛り上がったのは、ネット恋愛についてである。一人の母親(とてもきれいな人だが体重は推定250ポンド)が、「私は出会い系サイトにはまっているのよねえ」と切り出したのがきっかけである。毎晩いくつかのサイトに出没してはチャットルームでおしゃべりしたり、自分のプロフィールを送ったりしているそうだ。過去にもうそれで何人もの男性とデートを繰り返しているらしい。正直、びっくりした。すると、もう一人の母親(子供が5人いる)が、「私もよー。もう毎晩楽しくって楽しくって、PCの前から動けないわ。だから毎日寝不足よ。」と言っていた。二度びっくりだ。二人で盛り上がっていたのが、どういうプロフィールを作るかということ。まずは、自分でもたまげるほどきれいに写った写真を見つけて載せる事。長所だと思える事はみんな書く。趣味だって一度でもやった事があれば、躊躇なく書き込む。読んでいて「ああ、いい女だなあ」と思わせるように仕向けることが大切だと言う。それって、誇大広告じゃないですか、ねえ。現れたオトコはまさか相手が6フィート250ポンドとは知らずにくるのである。5人の子持ちとは夢にも思わずに。まさかそれは詐欺でしょうともいえないので、「会った時のお互いの反応は?」と聞くと、「そりゃ、向こうもちょっとはガッカリしているでしょうよ。でも、その辺はね、会話の面白さでカバーするのよ。」感動した。すごい自信である。さすがはアメリカ人だ。この揺るぎない自信こそが、私に欠けているものの一つなのだ。私のささやかな自信なんて、離婚でこなごなになったんだぞ。「だいたいね、相手だって、プロフィールほどはたいした事ないんだから、お互いさまよ。本当にひどいのもいるのよ」それもそうだな。納得。気が合ったら何度もデートをしたりはするが、今のところ、これといった人には出会えていないそうだ。では、ここで問題です。たった1回のチャットで、運命のソウルメイトに出会ってしまった、うちの元夫って一体何もの?私は別にもう、元夫も相手も憎んではいないし、彼らの不幸を願う気もない。というより、関心を持ちたくはないのである。でも私たちの間には子供がいるので、好むと好まざるにかかわらず、関わっていかなければいけないのだ。なるべくネガティブなエネルギーを持ちたくはないのである。だからといって、彼らの幸せを心から願うほど、私はお人好しでもないのだ。ここではなはだ疑問なのが、いくらメールで2年もおつき合いしているからって、デートもそんなにしていない相手、顔もロクにあわせていない相手と、結婚などをする気になれるのか、ということだ。まあ、それに関しては、もう結婚しちゃったんだから、これは愚問ですわね。ただね、電話もネットも自分の精神状態があやしい時はつながなければいいだけの話。でも一緒に暮らすというのは、すごくすごく日常的な事なのだ。そして、クリックしないで見過ごせばいい、という訳にもいかない。相手のおならがくさい、とか。テレビをみながら鼻をほじっては無意識にカウチの裏になすりつけてる、とか。くちゃくちゃ音をさせて食べる、とか。お料理上手と言っておきながら、毎日お惣菜を買ってくるとか。お腹がすくと攻撃的な性格になる、とか。結婚して暴力が始まるような人間も少なくないのである。きのうの王子様が今日の畜生に成り下がるようなもんである。サイバースペースで盛り上がった恋愛は、匂いも感情も触感も音もあふれている日常に、飲み込まれてしまったりはしないのだろうか。もちろん、どんな過程を経て結婚したって、うまくいく時はいくし、ダメなものはダメなのである。現実に私たちは3年つき合って結婚したが、結末はこうである。私の知り合いは、仕事先で出合った人と1週間で結婚を決め、10年経った今でも幸せに暮らしているのだから。でもネットの場合はちと事情が違うような気がしてならない。今は遠く離れた新妻にぞっこんの元夫、彼らの盛り上がりが「ネット>不倫>遠距離」のなれの果てに盛り上がっているだけなのか。それとも本当に運命のソウルメイトを、見つけてしまっただけなのか。ちょっと成り行きを見守ってみたい気もする。ちょっと意地悪ですね、私も。フフフ本日の献立:焼きそば、ブロッコリーと牛肉の炒め物、冷やしトマト、スイカ
2004.06.15
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大の大人が、子供に向かって「お野菜マフィンちゃんができましたよー」と言ったら皆さんはどう思われるだろうか。私だったら恥ずかしくていたたまれない。と言いながら、我が家ではこういう会話が時々行われていたのである。家族の恥部を人様に披露するのは気が引けるが、今日はネタもないので、書く事にする。どういうわけか、長男は小さい頃に、名詞に「くん」「さん」「ちゃん」などをつけて話す事が多かった。すべてではないが、つける事によって話しやすい言葉もあったのだろう。英語の発達とともにだんだんその「名詞呼称付け」は消えていったが、いくつかその時代の名残が、未だに使われている。「マフィンちゃん」はその一つだ。他には「パンツくん」「うんちくん」「ピーチくん」「あんよさん」「パジャマさん」「おしっこさん」「スイカさん」「シャワシャワちゃん」「ダイパーちゃん(もう卒業)」など。穴があったら入りたい気持である。私はいつもいつもやさしーく子供に話しかけるタイプではない。シュタイナー方式に歌うように話しかける、なんていうのは、最も苦手とするところである。時には少しイライラ気味に「ほれほれ、早くシャワシャワちゃんにはいんなさい」「さっさと、ピーチくん食べちゃいなよ」と声をかけたあと、はっとそのバランスの悪さに気がつくのである。子供には正しい日本語を教えなければいけない。いつまでもこんなバカな言葉を使わせていてはいけないのだ。それには私自身が気をつけなければならないのである。昔、当時15歳だった、知り合いの高校生の女の子に、日本語を教えていた事があった。お父さんがアメリカ人、そしてお母さんが日本人であるその子は、いくらか日本語が頭のすみに残っていた。おかっぱ頭でスラリと背が高く、ロックバンドに興味のあったその子は、いつも黒い唇、黒いマニキュア、髪の一部を緑に染めて現れたものである。私も高校生のとき、バンドを組んでいたので、その子はよくそういう話を聞きたがった。親子ほども年は違うのに、よくふたりでバカ笑いをして止まらなくなった事もあった。彼女の日本語が、時々びっくりするほど幼児語だったのである。「アタシのお耳がね」とか、「今日はあんよが痛いのね」など。彼女の風貌からその言葉が出てくるとは思わず、笑いをこらえて直してあげたものである。親とはもう英語しか話さなかったから、そんな幼児語が彼女の中に残っているなんて、彼女の親は思いもよらなかったに違いない。去年日本に帰って、生の日本語の洗礼を受けた息子たち(特に長男)は、「ぼく」から「オレ」に変わり、一時は「~だぜ」という言葉も使いたがった。でも所詮日本語の基礎が身に付いていないので「オレのめめさん(目)がいたいんだぜ」「オレのパンに、ジャムつけてくれてくれ」なんて言っては従兄弟に爆笑されていたものである。言葉というのは一朝一夕では、身に付かないという事が、よくわかったようだ。特にスラングは無理に使おうとすると痛い目にあう。従兄弟に感化され、「やべえよ」「やってらんねえよ」「っせえな」などの乱暴な言葉も、息子の目にも男らしく輝かしく映ったようである。従兄弟に笑われるといけないので、私相手にこっそりと練習していた。「ママー、やべえよ、のどかわいちゃったのー」「っせえな。あの音はなんでしょう」と基礎もなっていないのに無理に多用していた。耳障りなので、ある日一喝したらやめてました。しかしこのままいくと、幼児語が残ってしまい、後の世で人に笑われたりするのは必須である。私の責任が大きく問われるので、ある日を境に、幼児語撲滅運動を始める事にした。まず名詞呼称をやめ、あんよ、お耳、おめめなどを一掃する。今後は敬語なども徹底させる。美しい日本語を目指してGO、だ。それなのに、今日おやつの時間になって、うっかりと「お野菜マフィンちゃんができたから、早く食べなさい」などと言ってしまったのだ。恥ずかしくて頭に血が上った。息子たちも「わあい、マフィンちゃんだ」などと言っている。せっかくの苦労も水の泡。ま、また頑張りますよ。*この野菜マフィンはけっこうおいしいです。野菜嫌いの息子らの大好物です。コンテンツにレシピをアップします。本日の献立:ミートローフの残り・目玉焼きのせ、ハムとブロッコリーのクリームパスタ、にんじんのグラッセ、野菜サラダ
2004.06.14
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今夜はくさい飯をたべた。もちろん留置場にブチこまれたわけではない。世の中にこれはうまい、と言われるものの中には、臭いものが結構あるのだ。たとえば、チーズ。私はくさいチーズはあまり得意ではなかった。が、数年前からブルーチーズなどを少しずつ食べられるようになった。臭くてもおいしいチーズがあることにやっと気づいた今日この頃。話はそれるが、アメリカの子供がよく食べているストリングチーズ。あれはいったい何だ? プラスチックのようなチーズをさきいか状に細かくさいて食べている子供たち。あんなもん食ってたら死ぬぞ。(でもうちの息子はあれが好きです。涙)たとえば腐乳。あの独特の匂いには、どうも慣れる事ができない。チャイニーズの方々は、料理のアクセントに、塩代わりの味付けに、あれを使って食べている。食べればクセになるとも言うが。たとえば、くさや。実家にすんでいた頃、隣のばあさまが、くさや好きのじいさまのために、夕飯の一品として良く焼いていた。焼く時の匂いが強烈なので、よくばあさまは夕方になると、近所に「くさや注意報」を発令していた。新宿の南口にあったカウンターのおでんやによく行ったが、そこではくさやを注文に応じて焼く。店の中には何度かくさやの匂いが充満したものである。あれも食べればおいしいのだ。フィッシュソース。魚醤ともナムプラーともニョクマムとも言われるあれ。匂いはそれほど強烈ではないが、最初は苦手だった。今は、お助け調味料として、わが冷蔵庫に欠かせないものである。それでもごはんに振りかけて食べる気にならない限り、まだまだアジア人としての自覚が足りないと言われる。そして、我が家の常備品、納豆。ヌルヌル、ネバネバ、糸を引くあの形態といい、匂いといい、色といい、挑戦者の意欲をそそる事うけあいの一品だ。日本人の中でもはっきりと好き嫌いが分かれている。西と東、と言ってもいい。例外はあるだろうが、納豆はどうやら富士越えが困難なようだ。何故だろう。栄養だって満点なんですよ、奥様。これらに共通するのは、「くさりかけ食品」ということだ。語弊があるが、発酵させるということは、なにがしかの菌のお世話になる訳だから、ある意味腐っている、と言い切ってもかまわないだろう。実際に「腐乳」の文字を見よ。私があれに手を出せないのも、その漢字使用に原因があると言っても過言ではないのだ。そしてこれらの食品には、慣れれば病みつき、といった特性があるのだ。今夜私が食べたのは、ただのガーリックライスである。でもそんじょそこらのガーリックライスではない。にんにくを一つ丸ごと入れてみました。くさっ。今、こうしてPCに向かっている間も、わたしのカラダの内側で、ニンニクのエキスが全身をかけ巡っているのを感じる。上記のくさい食品はすでに発酵したものを食べるので、食べている間はくさいが、食後に匂ったりなぞはしない。ニンニクは食している間はもちろんだが、食後しばらくの間、人間の体内にひそみ、かけめぐり、時には大きな悲劇をもたらす。でも、もう食べちゃったもんね。明日、私に会う人、ごめんなさい。PS/夏になるとギルロイという町でガーリックフェスティバルがありますね。暑くて二度と行きたくないけど。ガーリックアイスクリームは実に奇妙な味でした。ギルロイはほんとにニンンクくさい。本日の献立:究極のガーリックライス、野菜入りミートローフ、茹で野菜、ハムサラダ
2004.06.13
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今日で長男の学校が終了、長い長い夏休みに突入した。9月のレイバーデイ明けまで3ヶ月、一体どうやって過ごしたらいいのだ。これからの長い期間、毎朝のように「今日は何するの」「今日はどこへいくの」と質問攻めにあうことはわかっている。毎年の事だが、地獄の責め苦だ。母は仕事もしなければならないんだよ、君たち。そうやって遊んでばっかりいればいいご身分とは違うのだ。まあ対応策はおいおい考えるとして。今日は学年末最後の日だったため、いろいろと催しがあった。子供たちがこの日のために劇を練習したのである。お題目は「しらゆきひめ」。3人の白雪姫(うち二人は男児)、3人の継母お妃、2人の魔法の鏡、というように、ひとつの役割に複数が参加。例外は7人の小人である。息子は鏡の一人だった。まあ、それはいいとして。面白かったのは、それぞれの役割の子たちが、同時にセリフを言って動く。一人ずつ順番ではないのだ。よくもまあ息がぴったりと合う事。そうとう練習したに違いない。先生、ご苦労様でした。何故か父兄と一緒に招待されてた7年生数人(それも男の子だけ)が、つまらなそうに眺めていたのがおかしかった。そりゃこんなガキンチョのお芝居をみたってつまらないだろう。数人、しかも男の子だけ、というあたりでピンときた。きっと何か悪さをしたのだ。これは懲罰なのだろう(知らないけど)。確かに懲罰だとしたら、こんな苦痛はないに違いない。そして彼らにとっての苦痛は、子供たちの親にとって素晴らしい催しになるのだから皮肉だ。白雪姫は、肌が雪のように白く、唇が血のように赤く、髪が黒檀のように黒い。クラスで白雪姫の劇をやる事が決まったとき、息子はクラスで誰が白雪姫に一番近いか、勝手に分析していた。「Jは髪が黒いけど肌は茶色だ、唇もピンクだよ。Aは髪の毛茶色いし。Dは肌が白くて唇も赤いけど、髪の毛は黄色(金髪の事)・・・・あっ」誰か思い当たったようである。「オレ、かな。」オレは白雪姫なのか?!それでいいのか、長男?「オレはおひめさまはイヤだな。」うん、うん。そりゃ、そうだろう。普通、男の子は王子様になりたいのだ。(微笑)「オレは女王様がいいな。」一瞬、この子の将来が不安になった。私は孫を抱く事ができるのだろうか。そしてしばらくの間、Tシャツを脱ぎながら額のあたりでとめて、ベールのように後ろにたらし、「I am Queen M !」などと言って遊んでいた。長男よ、おのれの選択に何も疑問は感じないのか。結局、彼はどういう経路か知らないが、魔法の鏡の役をやった。ちょっと安堵する母。きちんと劇をやり終えた子供たちは、父兄からの大きな拍手と、7年生男子からのやや投げやりな拍手をもらって満足そうだった。その後はプレゼントの贈呈式とポットラックパーティがおこなわれた。1年間お世話になった、担任と教科の先生方にプレゼントと感謝の言葉を、そして皆のために頑張ってくれたクラスマザーたちにも贈り物があった。ポットラックは国際色豊かで色とりどりのごちそうが並ぶ。私は指定されたので、海苔とチーズとナッツを持っていった。海苔は100枚入りの袋を四つ切りにして400枚である。あっというまに子供たちがかっさらっていって、教室の隅でバリバリ食べている。このクラスでは海苔が大流行りなのだ。その後は校庭にでて、卒業式がおこなわれた。(その模様はコンテンツの方にアップしました)教室に戻って、先生にさようならを言い、ひとりずつ帰って行く。中には夏休みの別れが寂しくて、ひいひい泣いている子も何人かいる。1学年1クラスしかなく、先生も8年生まで同じ担任なんだから、つかのまの別れなのだが、感受性の強い子には悲しい出来事なのだろう。長男は、大好きなクッキーとフルーツとベーグルをお腹いっぱい食べて、満足げである。駐車場までの道のり、顔見知りのお母さんたちと「良い夏休みを!」と言いながら、ハグしあう。うーん、本当に良い夏休みでありますように。本日の献立:ハム入り野菜サラダ、クラッカー、ダイエットコークそして今夜は楽天三昧。(子供もいないし)
2004.06.12
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いつの間にか次男が全然日本語を話さなくなっていた。もともと彼はあまり日本語が得意ではない。下の子というのはそういうパターンが多いようだ。物心ついた頃から、上にいる兄弟と英語で話しているし、基本的に日本語を話すのは母親とくらいのものだ。去年日本に里帰りしたときも、1ヶ月もの間、しっかり英語だけで通していた。日本語はわかっている。誰かが何か話しかけても、意味は通じているようだ。ただ英語しか口から出てこないのだ。長男はまったく問題なかったが、次男は公園に連れて行っても、誰彼おかまいなしに英語で話しかけ、相手を固まらせていた。小学生の女の子たちに「ハローくん」とか呼ばれてからかわれていたくらいだ。その次男も、日本から帰ってきて2日後、突然日本語を話すようになった。こいつの頭の中はどうなっているのか。日本ではひとことも日本語を発しなかったのである。こちらに帰った途端、「ママー、オレにお豆腐、もっとあげてくらしゃい」と突然のへんな日本語センテンスである。しかもオレなどとすごみつつ、最後の方がタラちゃんしゃべりになっていくのが可笑しかったが、ともかく日本語である。万歳。そして今年の春先くらいまでは日本語でずいぶん頑張った。しかしまた英語オンリーの日常に戻ってしまったのだ。長男はどういうわけか、けっこう日本語をキープしている。ときたま私が早く早く、とせかす時などに、「待って。今、まもなく行きますよ。」などと言ってみたり、「オレのブレインがヘッドエイクあげてるから、メディスンをテイクしてレイダウンしていい?」などと日本語なんだか英語なんだかわからないセンテンスもでてくるが、それでも次男よりずっとましだ。「日本語話してごらん」こう次男に言うと、「んー、んー、んー、オレ、んー、んー。What can I say?」と言って逃げるようになった。強制してはかわいそうな気もするが、日本人である私の息子が日本語を話せないなんて、というのがちょっとショックである。100%日本語で話しかけて育てているというのに。昔はバイリンガルというのは、結構簡単になるもんだと思っていた。しかし現実としてバイリンガルへの道は険しい。長男は仏教会がやっている日本語学校に、去年から毎土曜日の午前中だけ行っている。日本語を話さない子が多いので、会話の上達はあまりのぞめそうもないが、せめて読み書きくらいは、と思って通わせている。次男も5歳になったので、もう学校には入れる。本当は7歳くらいまで読み書きは教えたくなかったのだが、すごくスローペースだし、本人にもあまり負担にはならないようなので、この9月から一緒に通わせようかと思っている。小さい頃の基礎があれば、おとなになってもっと日本語を学びたいと思ったら、多少はラクなのではないかなと思う。アメリカで育っている彼らの第一言語が英語になるのはあたりまえだ。でも他の国の言葉が話せたらもっと楽しいではないか。そういう意味で私も、息子たちと一緒にスペイン語も習ってみたい。子供たちは学校で習うし、この地ではスペイン語はとても役に立つのだ。まあもっとも、英語ももっとブラッシュアップしないといけないんだけどね。まわりにいる多くの日系人が、自身は日本語が苦手でも、自分の子供には日本語を話させたい、と頑張っているのを見ると、やっぱり子供のうちに多少でも話せるように頑張らせておいた方がいいかなとも思う。外国で暮らす皆さんは子供の日本語、どうしていますか。本日の献立:ビーフストロガノフ、パスタ、野菜サラダ、ゆでとうもろこしいちごとバナナのミルクセーキ
2004.06.11
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次男のアゴの傷が抜糸された。ステッチを取るとともに、かさぶたもピンセットで少しずつはいでくれ、あとはうっすらとピンクになっているだけだ。見事なもんである。たったの1週間で、あれだけの傷もすっかりきれいになっている。今更のようだが、子供の治癒力というのはたいしたものだ。私なんか去年蚊に喰われた跡までしっかり残っているというのに。(涙)泣かなかったご褒美に、ドクターがM&Mをくれた。次男、超ごきげん、である。午後は息子たちと、友人の娘を連れてスケートに行ってきた。同じ学校の6年生の女の子である。小さい頃はよくうちにごはんを食べにきたり、預かったりもした。彼女のところも母子家庭である。ずっとアメリカで母ひとり子ひとりで頑張ってきたのだが、今回日本にとりあえず帰る事になった。小さい頃から、顔を合わすといつもニコニコして、子犬のようにまとわりつく、人なつこい子だった。今はすっかりお姉さんになってしまって、それでもまだ無邪気なところも十分残っている。ちょうど少女からティーンへと変わりつつあるところなのだろう。息子たちも彼女に対しては遠慮もなく、姉弟のように接している。うちがこの2年ほどいろいろあったので、前のように頻繁には連れ出す事もなくなっていたのだが、小さい頃に一緒に過ごす事が多かったせいだろうか。とてもこの子のことは身近に感じるのだ。本人は日本には行きたくないようだがそれも無理はない。アメリカで生まれ育っている子である。親にとっては母国でも彼女にとって日本は外国なのだ。帰るのももうすぐだね、というとちょっと悲しそうな顔をした。でも親の方にも事情がある。この子はそれを十分わかっているのだ。また1-2年したら戻ってくる事もあり得るのだが、取りあえずのお別れである。ふと、うちで預かれないのかな、なんて思ったりもしたが、これからますます息子たちも大きくなり、家ももっと狭くなるというのにそういう余裕がうちにあるかと考えると自信はない。何より親の方でも彼女を手放す気はないだろう。うちの息子たちとふざけ合いながら、楽しそうに滑っている彼女を見て、無性に寂しさがこみ上げた。別れというものはいつでも辛いものだ。まして小さい頃から知っているし、息子たちと学校も同じだったので、顔を合わせることも多かった。寂しさもひとしおだ。一度ミーティングで夕方学校に行った時、夕暮れの校舎で、母親をポツンと待つ姿を見かけた事がある。「Eちゃん」と声をかけると、子犬がしっぽを振るようにかけよってきた。もともと小柄な子だけれど、その時はほんとに小さく見えて、思わず抱き寄せた。何年か前のクリスマスの時、親戚もいない彼女のうちのツリーの下はちょっぴり寂しかったので、ふたつのプレゼントを用意した。「これ、クリスマスまでツリーの下に置いておくんだよ。」と渡したら、「どうして二つもあるの」と聞く。「いい子にしてたからだよ」と言ったら「ありがとう。でもひとつで良かったんだよ。ひとつでもすっごくすっごくうれしかったよ。でも、どうもありがとう」と大事そうに抱えて帰って行った。山のようなプレゼントが置いてある息子たちのツリーが、すこし恥ずかしくみえた。私には女の子がいないので、自分の姪や元夫の姪、そしてこの子や他の友人の子を娘のように可愛がってしまう癖がある。必要以上に女の子には感情移入してしまうのだ。自分に娘がいなくてよかった、と苦笑いしてしまうこともしばしばである。その女の子たちの一人とお別れなのだ。ニコニコと楽しそうにスケートを滑る彼女を見ながら、遠い日本での新しい暮らしが楽しいものであるように願っていた。そして、またいつかここに帰って来て会えるように、とも。本日の献立:冷やしたぬきうどん、虹ますの塩焼き、いんげんとしいたけと海老のうま煮、スイカ
2004.06.10
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ふと気づいてカレンダーを見た。引っ越し予定日まであと2週間半しかないではないか。こんな事をしている場合じゃない。そろそろ少しずつ荷造りに取りかからなければならない。今度住む予定の家は(まだ契約してないが、デポジットはもう払った)、ここよりせまい。2/3くらいの広さである。当然、今ある家具は処分していかなければならない。したがって引っ越し1週間前に凝りもせずムービングセールを行う予定。さて、毎日の食事だが「貧乏でも豊かな食卓」を家訓としている我が家では、何はさておいても夕飯だけは、できるだけ一緒に家で食べることにしている。もちろん時には外食も楽しいが、基本は「家ごはん」である。買い物をしてなくても、時間がなくても、何かは作れるようにいつも食材は蓄えてある。冷凍庫の中も冷蔵庫の中も、キャビネットの缶詰、乾物類も何かと揃っているし、いただきものなども色々ある。これをあと2週間の間にできるだけ減らすのだ。買い物をなるべくせずに夕飯の支度をしていく。私はこういう状態に陥ると、どういうわけか俄然張り切る。使い切る、とか食べ切る、という行為に対し、取るに足らない楽しみを見いだしてしまうのだ。さっそく冷蔵庫を開けて、何が作れるか考える。頭の中にメニューができあがる。夕飯を作る。足りないものはすぐ近くのスーパーで買い足せば良いのだ。ここで大切なのは必要なものだけを買う事。間違っても「お買い得品」「見切り品」に目をくれてはいけない。スーパーの戦略にまんまとのせられ続けた結果が、今の私の冷蔵庫の状態なのだ。これからは買いだめをせずにスッキリ暮らしていこうと思う。だから「Buy one get one FREE」とか「2 for $5」などのセール札に引き寄せられないような強い心を持って生きていかなければならない。とにかく引っ越しまでにできるだけ多くの貯蔵食料を使い切るのだ。晩ご飯を食卓のテーブルにのせた途端、長男が言った。「ママ、おいしいごはんを作ってくれてありがとう」。何だ、いきなり。しかも今夜は長男の好物ではない。にこやかに「どういたしまして」といいつつも、何かウラがあるような気がしてならない。ああ、私は悪い母親だ。子供の優しい言葉を素直に受け止められないなんて。心底申し訳ないと思った瞬間、「今日はごはんのあと、アイスクリームやさんにいきたいなあ」。ほら、やっぱりね。本日の献立:春巻き、ほうれんそうの卵とじ、冷や奴、ブロッコリー、ごはん*シンプソンズその後Yちゃんの車はきれいに直ったらしい。その値段でたった一日で、とYちゃんは大喜びだ。なのにホーマーはうちには来なかった。電話をしてメッセージを入れると「ホーマーの息子」から電話があった。ペイントをやっている方の息子だ。「親父はいくらでやるって言ってた?」と聞くので75ドルだといったら、「後で電話する」と言ったきりかかってこない。やはりその金額は安すぎたのか、息子に取って。ひょっとするとこの企画、ボツかもね。
2004.06.09
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長男は8歳だ。でもいまだ1年生である。キンダーに2年行ったので1年みんなより遅れている。思えば、生まれた時から、体の大きさ以外はいつも遅れ気味だった。ハイハイも歩くのも、言葉もオムツはずしも、みーんな遅かった。なのに体だけはいつも大きかったから、奇妙な目で見られる事もあった。2歳のときデイケアの人に、「ちょっと自閉症とかの心配をした方がいいかもしれませんよ」と言われた。確かに一つ気に入った事があると異常なほど執着し、集中する。川で石を投げるのが面白いとなれば、延々1時間でも2時間でもひたすら石を投げている。1歳半の頃だ。人ともあまり関わろうとしないし、よくくるくるまわっていた(自閉症の子によく見られる運動)。でも、良く笑うし、目も合わせるので自閉症ではないだろうと思いつつも、そういったサポートグループに顔を出していた。4歳になり、同じプリスクールに通う日本人の子と仲良くなった。その子にはお兄ちゃんがいて、お兄ちゃんは軽い発達障害を持っていた。彼らの母親と仲良くなり、家に出入りするようになったが、そのお母さんがある日、こう言った。「こんな事言って悪いんだけど。私Mくんもちょっと心配なんだ。何かあるかもしれないよ。」彼女は一冊の本を貸してくれた。感覚統合障害、というものをその時初めて知った。その障害は自閉症の子などが二次障害として持っている事が多い。自閉的ではなくても、同じような行動をとったりするので、疑われる事も。その本に書かれていた内容を見て、頭から霧が晴れた思いだった。小さい頃から、芝生の上を歩けなかった。靴を履いていてもだ。砂場も苦手、ブランコは6歳までのれなかった。顔も洗わせてもらえない時期もあったし、今でも歯磨きが嫌で磨いている間、手をぐるぐる振り回している。人から触られるのが嫌いで、ハグなどされると硬直してしまう。予告なしで洗濯したり、掃除機をかけたりすると悲鳴を上げて逃げる。いつも行く道と違うルートを通ると、不安に駆られて泣きわめく。分けの分からない男だ、と苦笑しつつも、周りの子と比べてちょっと変だなと思う事も多かった。長年のもやもやがすっきり解消。この本にそっくり同じ事が書いてある。こうなったら、然るべきところに見てもらおうじゃないの。そして長男にくだされた診断は、触覚と聴覚の感覚統合障害。ゆくゆくは学習障害が出る可能性があると言う。今年の春先には耳も詳しく見てもらうように言われ、そのテストの結果、Central Auditory Processing Disorderと言われる。何だかよくわからないけど、とにかく何かのディスオーダーなわけね。しかも2時間のテストの半分が終わった段階で、ドクターから「明らかに、そうだ。」と太鼓判を押され、「一応テスト全部やってからにしてくださいよ」と思わず苦笑してしまったくらいだ。この夏は、何千ドルも払って、トリートメントを受ける予定だ。そのためのお金も貯めたのだ。ほっときゃ直る、というものでもないそうだからだ。人より学習能力が劣っていたって別にいい。問題は彼の知能にはまったく問題がないので、自分の学習がうまくいかないとわかってくるあたりで、劣等感にさいなまされたり、自己評価がものすごく低くなったりすることだ、と言われた。だからこの小さいうちにできるだけの事をしましょう、ということで、食事療法、セラピー、エクササイズ、マッサージなどを定期的にやっている。薬などは飲んでいない。まったく金のかかる小僧だよ。(笑)大人になったら請求書でも送りつけてやるかな。ま、親として子供の必要とする助けは、できる限りはしてやりたいと思っている。だいぶいろいろな面で進歩が見られるようにもなったし。しかしなあ、昔だったら、協調性がない、だの落ち着きがない、だの運動神経がにぶいだの言われてた事に、脳神経学の進歩で、やたらといろんな障害名がついちゃったって感じは否めない。感覚障害(Sensory Integration Dysfunction)、ADD/ADHD、LD、PDD。誰かを何かに当てはめようとしたら、何かに少しは当てはまってしまうんじゃないかとも思えるような気がする。私は息子の持って生まれたものを受け止めて入るけれど、それはこの子のキャラクターの一部だと思っている。人より劣っている訳でもないし、またそのことで優れている訳でもない。状態を良くするために色々してやるのは親のつとめではあるけれど、「障害(とは思ってないんですけどね、アタシ)」を免罪符にして、息子の行動を言い訳して回るのも嫌だ。ただ目が悪かったら眼鏡を与える、歯が悪かったら歯医者に連れて行くのと同じ事をしてやるだけだ。1年生ももうすぐ終わり。背の高い長男は、クラスの中でも頭ひとつでかい。でかいが「中身が幼い(他の父兄に言われてしまった。好意的にだけど)」ので、不憫である。未だにお迎えがちょっとでも遅れると、ボロボロ泣いている。家に帰ってカウチに座るとうれしそうにすり寄ってきて「抱っこ」をせがむ。(言っておくが145センチ、35キロである。そろそろ勘弁して。)健康で、人様に迷惑をかけず、たくましく生きていってくれればそれでいい、と思いつつ、それでもできるだけいい状態に持っていってやりたいと思うのは、やっぱりどの親も共通の願いなのかなあ、と思う今日この頃である。本日の献立:煮込みハンバーグ、ハムの残り、野菜スープ、にんじんスティック、ごはん
2004.06.08
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私には二人の義理姉がいる。といっても、離婚した元夫の兄の嫁さんたちだから、今でもそう呼んでいいのかはわからない。でも少なくとも友人である事は確かだ。「姉」といっても元夫がけっこう年下だったため、彼女らも私よりは年下である。もっとも英語の場合は単にシスターなので、上も下もないわけだ。ま、便宜上「姉」ということで。この二人、性格も趣味もまるで正反対である。義姉Aは、お金持ちの奥様。美人で少年のようなほっそりした体。何事にもイージーゴーイングで、感情の起伏もあまりなく、いつも淡々としている。しかし周囲の思惑を気にしないところもあるので、最初はものすごく冷たい印象を人に与える。本当は心の温かい人なのだが、まわりからはそうは思われない。頭が良くて、話もうまくて、スキがない。なかなか魅力的な人ではあるが、彼女を苦手とする人も多い。義姉Bは、背が高く、小顔でチャーミング、そして首が長く、それに続く胴体が下に行くほどどんどんしっかりしていく。明るく冗談好きで、とてもフレンドリー。ただし喜怒哀楽が激しく、怒らせたくないタイプの一人である。基本的には話しやすくておもしろいが、実はしっかりとカラに閉じこもり、本心をなかなか打ち明けない。人からは好かれるが、深くはつきあえない。少々複雑怪奇。そんなAとBがあまり仲良しとは言えないのも無理はない。そして私はどちらとも、取りあえずそこそこ仲良くしている。何故かと言えば、私はまったくこの二人の中間、もしくは線外に位置しているからだ。Aは高級指向。インテリアの趣味も良く(お金があるせいでもあるだろうが)、安っぽいものは置かない。Bはそこらへんでもらってきたカレンダーやポスター、スティッカーをペタペタ貼るタイプ。けっこういい家に住んでいるのに台無しである。Aは基本的にジャンクフードは買わない。オーガニックなどもそこそこ取り入れ、アイスクリームすらもブランド品。理由はただ単に「おいしいから」。量より質。Bはインスタント、ジャンクが好き。下らないものを色々買い込んでは、家中のストック置き場に溜め込んでいる。安いから、という理由で何でも買ってしまう。質より量。Aは子供に寛大だ。一つ間違えると放任かと思える時もあるが、押さえるところは押さえている。時には寛大すぎて、周りから眉をひそめられることもあるが、本人は人目がまったく気にならないタイプ。Bはものすごく口やかましい。しつけに厳しい、ともいえるが、かなり人目を気にするので、人前では必要以上に厳しい気がする。ミリタリーのようだ。でも他人の子の扱いは非常にうまく、子供からは慕われる。私にはA寄りの部分と、B寄りの部分とがあって、Aと話している時の自分とBと話している時の自分には、いくらかの温度差があるのだ。無理に合わせている訳でもなく、ただなんとなくそうなるのだ。AとBは別に犬猿の仲ではない。ただ「合わない」のだろう。多分お互いにオーバーラップするところがほとんどないのだ。でもふと思った。私はけっこういろんな人とオーバーラップする部分がある。こういうのは優柔不断と言うのだろうか。別にカメレオンのように、相手に色を合わせて自分を変えている訳ではないが、ただ単にそうなのである。Bは「ものあげ魔」である。あちこちで安いものを見つけては、しこたま買い込んで、お裾分けしてくれる。こちらも何となく、もらってしまう。彼女もとても喜ぶのだ。Aは絶対もらわない。いらないものはもらわないのだ。だから、Bはちょっと傷つく。私はもらうとちょっとうれしい。(どうしてもいらないもの以外は)でも、私はこういう「あげまくり気質」は持ち合わせていない。Aはマイペースである。彼女のために週2回、4-5時間ずつ仕事をしているが、お昼になったら、さっさと自分の分だけ用意して食べてしまう。私がお腹がすいていたら自分で用意すればいいだけのことだ、と思っている。私が勝手に彼女の冷蔵庫を開けて何かつまんだとしても、何とも思わないだろう。私は慎み深いので(ほんとか?)いつもお腹をすかせて帰る事になる。でもAはそんな事は気にしない。こういうドライさも私は持ち合わせていない。たぶん、AとBは一般的に照らし合わせても、「個性的」だと言えると思う。逆に私はごくごく平均的な、ごくごく普通の、特別変わったところのない人間なんだろう。だからこういう両極端なふたりのどちらともつき合えるのかもしれない。なんだか、自然に人に迎合して生きていけるなんて、なんかのウィルスみたいでやだな。でもこういう「何でもオッケー」な自分も一つの個性なのだと思えば、ま、いっか。な?本日の献立:ベイクド・ハム、マカロニサラダ、野菜サラダ、ディナーロール、スイカ
2004.06.07
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アメリカに越してくる10年ほど前までは、毎週のように東京の郊外、奥多摩の清流でカヤックを楽しんだ。春先から秋も深まるあたりまで、季節の移りゆく様を眺めながら、渓谷の美しさを味わったものである。カヤックとの初めての出会いはかれこれ20年近くも前になる。ある10月の肌寒い日曜日、埼玉・秩父の長瀞というところでおこなわれたカヌー教室に参加したのだった。はじめてのった一人乗りのカヤックはとても不安定で、おっかなびっくりパドルを動かした。静かな流れの上をぽちゃん、ぽちゃんと水音をさせて漕いで行く。なかなかまっすぐ前に進まなくて、腕が疲れたが、だんだんコントロールできるようになり、調子に乗った私はいつの間にか流れの早い瀬の近くまでいってしまい、あっというまに沈(ちん)したのである。体の芯まで貫くような秋の冷たい川の水の洗礼を受けた私は、すっかりカヤックのとりこになった。そのうち、何度かカヌー教室に参加。そしてあるカヌークラブを紹介され、自分のカヤックもオーダーし、それから何年もの間、私はカヤックに夢中になった。春先の、土手に咲く小さな花や、つくしを眺めながら、ゆったりとパドルを動かした春の川下り。背中に受けるぽかぽかした日だまりがとても気持よかった。夏の清流はすがすがしく、力強く、目に飛び込んでくる緑がとてもまぶしかった。夕暮れのひぐらしの声を聞きながら、川べりをカヤックをかついで歩いたときの心地よい疲れ。野原が金色に染まる秋。たき火の煙が立ち上る。柿がたわわに実ったさまを遠く眺めながら、すこしもの哀しい気持で河原にたたずみ、川面を眺めた日の記憶。最後の5-6年の日本での記憶は、カヤックに結びついているものが多い。私にとってカヤックは、スポーツではなく、自然とたわむれる最も身近な方法だった。アメリカに来て、ここでの暮らしを楽しんではいるけれど、時々無性に日本の四季が恋しくなる。そして目に浮かぶかなりの光景が、川面から見る眺めである事に気づく。いつかまた日本に帰り、流れの緩やかな川をゆったり漕ぎながら、自然の匂いを胸いっぱい吸い込んでみたいと思っている。
2004.06.06
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(昨日の続き)夕方5時半、シンプソンズは現れなかった。が、Yちゃんも来ない。家の前でウロついていたら、向かいの家の前にシェリフの車が止まった。どうも、向かいの家の車が、夕べBreak Inされたらしい。何か物音を聞かなかったかと尋ねられるが、私の部屋は奥にあるので気がつかなかった、と答える。慌てて自分の車も調べてみた。私の車は無事だったが、かーっ、こわいなあ。ここは高級住宅地の端っこである。(恥じっこともいえる)端とはいえ閑静な住宅地である。でも起きる時はどこでも犯罪が起きるのだ。油断は禁物。Yちゃんがやってきた。「あの人、こないよ。」と言ったら、「あ、さっき電話して遅れるから、っていったら向こうも6時に来るって。」「なーんだ。」そうこうしているうちに元夫が子供たちを迎えにきた。事情を話すと、「そいつは怪しい」と元夫は警戒し、自分も立ち会うと言う。正直言ってホっとした。よくアメリカでは、車関係の業者に女子供はなめられる、と言われる。真偽はわからないが、その可能性もある。頼むのはちょっと癪だったが、こういう場合、男がいてくれると何かと心強い。元夫もいちおう性別は男だ。Yちゃんは何故かうきうきしている。「だって、ボンネットはへこんでいるし、バンパーは曲がっているし、おまけに助手席のドアも開かないし。500ドルで直るんなら、もううれしくって。」そんなに信用していいのか。Y。のんきな奴だ。昨日と同じ緑のトラックに乗って、ボディショップはやってきた。助手席に、スイカのように大きな胸をふたつ備えた奥さんらしき人と、10歳くらいのかわいい女の子が乗っていた。元夫が、ニコヤカに、だが疑り深く質問していたが、親父は気持よく答えている。私の車の塗料は注文しなければならなかったので、月曜日になると言う。うちのドライブウェイでやってくれるそうだ。1時間かそこらで終わると言う。息子がボディショップでペイントをやっているので、彼にも手伝わさせると言った。私たちの目の前でやってくれると言うので、ちょっとホっとした。元夫の質問に答えた金額も、昨日私に言ったのと同じである。(当たり前の事のようだが、アメリカではこういう口約束の金額がしょっちゅう変わる事を、何度経験した事か。)まあボったくられたとしても75ドルだ。惜しくはない。財布の中身とは裏腹に太っ腹な私だ。Yちゃんの車に乗り込んで、彼の後について家まで行く。野次馬元夫と子供たちもわくわくしながらついてきた。遠足じゃないんだよ、あんたたち。シンプソンズの家には子供がたくさんいた。そういえば、7人の子供がいるって言ったっけ。2人は大人で、後の5人はベイビーだと言っていた。ベイビー?これが?そこにいたのは、5、6歳から、14、5歳くらいまでの5人の「赤ちゃん」だった。まあ、腕はともかくとして、この人なら、車は売り飛ばさないだろう。正直そうな人だ。Yちゃんの車も明日にはできると言うし。もし、これで彼の腕が確かだとしたら、めっけもんだ。これで、いつこすっても大丈夫。ふふっ。皆さんにも紹介してあげますね。乞うご期待。
2004.06.05
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今日の午後、うちの呼び鈴をピンポンと鳴らすものがいた。外に出ると、そこにいたのは、シンプソンズのお父さんそっくりの、ギョロ目の親父だった。「あれは、あんたの車かい?」彼が指差したのは、うちにきていたYちゃんの車である。「いや、私のじゃないんですけど。Yちゃーん!」Yちゃんがでてきた。彼女の車は去年事故ったおかげでボコボコである。ささやかな貧乏生活を送っている彼女は、車を直すお金がない。でも色々見積もってもらったようだ。最低でも1000ドルはくだらないという。シンプソンズは自宅ガレージでボディショップをやっていると言う。そして、今はお金がなくて、大家に払う家賃が足りないそうだ。だからいくらでも、今日明日中に払ってくれるなら、格安で直すと言う。何か胡散臭いぞ、と思ったが、悪い人ではなさそうな気もする。いちおう名刺も連絡先ももらった。どういうわけか、私の家の、以前の住人を知っていた。以前ここに長い間住んでいたのは医師の老夫婦で、未だに時々来る郵便とその名前も一致している(どういうわけかこの人たちちょっとした人気者みたいです、過去に何度か彼らはどこへ行ったか聞かれている)。だからといって、それがそのまま彼の信用度を高める訳でもないが。結局、交渉の結果ぜんぶひっくるめて500ドルということになった。しかし今日は、彼女も車を使うので明日の夕方また来る事になった。ついでに私の車も見てもらう。私は駐車が下手である。どうも車間の取り方が悪いせいか、過去に何度か壁や柱にこすった事がある。人と触れ合うのは楽しいが、壁と触れ合うのは最悪だ。ちょうど2年くらい前にも直してもらったばかりなのだ。2年前、最初は近所の、普通のアメリカのボディショップに行った。修理に865ドルかかるという。げ。冗談じゃないよ、こんなんで?次に見てもらったのは中国人経営のボディショップ。見積もりは一気に300ドルに下がった。よし、決めたと思ったが、この何軒か先にもう一つあったのを思い出した。一応そこにも行ってみよう。そしてその韓国人のボディショップオーナーは185ドルという数字を出した。865から185。ボディショップって一体?そして今日、シンプソンズは言った。75ドル。まったく同じところを同じようにこすった私の技は芸術の域に達している。つまり2年前と同じ状態で見積もってもらったと言ってもいい。彼の見積もりは破格的に安かった。できたら頼みたい。でも信じていいのだろうか、全然知らない人なのだ。しかも彼のうちに持っていって、直してここにまた持ってくると言う。私の愛車がメキシコに売られでもしたら(涙)。明日に続く。本日の献立:昨日のビーフシチューとスパゲティ、ほうれん草とベーコンのキッシュブロッコリー
2004.06.04
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今日は救急外来にかけこんでしまった。学校がおやすみになった次男、どうしても自転車を乗りにいきたいというので、長男を学校に落とした後、いつもの公園に行った。そこは駐車場の一角をつぶして、スケボー&自転車用に滑り台のようなものが設置されていて、次男はそこを自転車で駆け上ったり降りたりするのが好きなのだ。最近ではななめにおりたり、上でくくっと止まってみたり、なかなかマウンテンバイクの心得がある。本人もいい気になってだんだん高度な技に挑戦してきていた。だから、こうなる予感はあったのだ。ななめに駆け上る途中で方向転換して、脇からおりる、という技を練習していた時、ちょっと上まで行き過ぎて、高いところからジャンプしてしまい、地面に車輪と顔が突っ込んだ。あわてて駆け寄ると、血がぼたぼたたれている。ひょえー!!<血が苦手な母あわてて車に走り、救急セットをもって息子に駆け寄り、様子をよく見ると。アゴのしたがぱっくり。(母、めまいと貧血)涙と血でわんわん泣く次男をかかえて車にのせ、患部をガーゼでおさえてシートベルトにくくりつけ、倒れた自転車を持ち上げて、車に戻ろうとしたその瞬間、地面におちた血が見えた。はっ、こんなところに血痕を残していっていいものだろうか。水で流さなきゃいけないだろうか。水は、水はどこだ。これを見て誰かが警察に通報しないだろうか。これを見た人はきっと気分が悪くなるに違いない。ああ、どうしよう。この間わずか数秒だったと思うが、パニックになった頭でぐるぐるといろんな事を考えたのだ。それからはっと我に返り、「そんな事をしている場合じゃなーい!!! 病院だー!」急いで病院に向かった。だいぶ様子の落ち着いた次男に声をかけつつ、車で15分はかかる行きつけの病院まで車を走らせた。フリーウエイで運転している最中も、「ここで急ぐのはいいが、スピードを出しすぎて、捕まっては元も子もないぞ。でももしおまわりさんに止められたらどうしよう。泣いて訴えるべきか。万が一私がパニックになって、うっかりドアをあけてしまって、銃で撃たれたりしたらどうすればいいのだ。よーし、73マイルでいこう。それならば止められまい。」とパニックなんだか冷静なんだかわからない頭で、またぐるぐるといろんな事を考えつつ、ようやく到着。最近のERはすごいんですねー。なんと入り口のドアの横に「Free Valet Parking」とあって、お兄ちゃんが救急外来に来た人のために、カギを預かって車を代わりに止めてきてくれる。しかも無料だ。本当に助かるサービスだ。だってそんなところに止めておけないし、駐車場を探すのも大変なのだ。1年前にきた時はこんなサービスはなかったぞ。カギを預けて中に入る。よかった。ガラガラだ。血だらけの次男の様子を見てか、待たされずにすぐ中に入れてくれた。中では看護婦さんやドクターが入れ替わりやってきては、息子の緊張をほぐそうと冗談を言いながら息子のアゴの様子を見ている。脳しんとうはおこしていないか、首や耳に異常はないか、いろいろチェックしながら、外科医の先生を呼んでくれる。10分ほどして、おなかの突き出た外科医の先生がやってきた。「やあやあやあ、君の傷はどんな具合かな。おー、すごいなあ、泣かないのか、えらいなあ。おー、これかー、大丈夫だ。すぐ治してやるからなー」といった調子で矢継ぎ早に話をしている。すぐに縫合の準備を始めてくれた。青いぬのにつつまれた「手術セット・小」といった感じのものが運ばれた。次男は寝かされ、いきなり先生が注射器を取り出したので固まっている。麻酔をかけられ、消毒されたときが痛かったみたいだ。「あお、あお、あおう、あおう」と泣き始めたのを聞いた時、いたたまれない気持になったと同時に「この反応はガイジンだな。こいつはやっぱり日本人ではないな」などとバカなことも考えていたのは事実だ。かわいそうなので、足をさすってやっていたら、邪魔だったらしく看護士の男性に、「お母さん、外に出ててね」と笑顔で言われてしまった。カーテンの向こうでは、次男の声がしない。麻酔が効いているのだろうか。泣いていないところをみるとそうなのだろう。寝ちゃってたらどうしよう。起きるまで待ってないといけないのかな、などとまたグルグル思考回路が活発になる。待つ事10分、カーテンがあき、次男がちょっとニヤニヤして横たわっている。「痛かった?』と聞くと、「最初は痛かったけど、あとはくすぐったかった」と言う。おお、お前は大物だ。傷口は縫合されたものの、むき出し状態だ。「あとは抗生物質の処方箋を出しておくから帰っていいよ。」「え?? あの、ここんとこむき出しなんですけど」「ああ、もう今は包帯とかガーゼとかで覆わないんだよ。その方がなおりも早いし、だいいちきれいに治るからね。一日3回消毒してあげて。」うーん、むき出しかあ、ちょっとイヤかも。「よーし、もう終わりだ。帰っていいよ。さあ、お母さんがきっと君にアイスクリームを買ってくれるよ。」こ、この医者。よけいな事を。すっかりその気になった次男、もうすでにどのフレーバーがいいか、医者と話し合っている。ま、いいか。泣かずに頑張ったしね。外に出てさっきもらった半券を渡し、車を持ってきてもらう。お昼にパンを買い、アイスクリームショップによると、ちょうど時間になったので、長男を迎えにいった。アイスクリームの事は黙っていろといったのに、やっぱり話してしまった。このおしゃべりが!「IT'S NOT FAIR! ずるいなあ、Aだけアイスクリーム??オレも病院にいっていい?」何しに行くんだよ、もう。次男を気遣う心はないのか?(かわいそうだと思わないの?と聞いたら、おざなりにハグしてました)母は疲れた。勘弁してくれ。本日の献立:ビーフシチュー、ごはん、ブロッコリー、卵サンド(次男用)
2004.06.03
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今日は久しぶりに外食をした。夕方、仕事の関係で届けものがあったので、うちに帰って作っていると時間がないなと思い、出先で食べた。我が家の外食レパートリーは、サラダ系食べ放題、肉系食べ放題、吉◯家、リン◯ーハットくらいなものか。今日はそのうちの肉系食べ放題に行った。この店はアメリカ版定食屋的色合いの濃いメニューばかり。ローストビーフ、フライドチキン、フライドポテト、マカロニチーズにコーンブレッドと子供たちの好きなメニューが揃っている。ここに来ると私は胸焼けするが、子供たちは大満足だ。好きなものを好きなだけ自分でお皿にとり(悪魔の母がその皿に強引に野菜も追加する)、最後は好きなデザートで締めくくる。甘いものに目がない長男はここに来ると異常なほどデザートを食べたがる。悪魔の母はそこでも、デザートの前にフルーツをてんこもりにしてきて、これを食べなければ次に進めないと意地悪を言うので、しぶしぶ食べる。普段はフルーツが大好きな長男も、色とりどりのデザートの前にひれ伏すようだ。あれだけフルーツを食べても、まだデザートをお代わりしようとするから驚異的だ。長男と次男は仲良く腰掛け、ぺちゃくちゃおしゃべりしながら、楽しそうに食べている。スイカのスライスをスターウォーズの宇宙船にみたて、ピュンピュン言いながらかぶりついている。端から見たらお行儀が悪いが、この店ではそうした雰囲気も何となく許される。食べるときは楽しくなくちゃいけない気がする。だから、他人に大きな不快感を与えるのでもない限り、多少のリラックスが許される雰囲気の店でしか、子連れの時は食べたくない。周囲に気を使って、しーんとさせながら、叱りつつ食べてもおいしくないのだ。もちろんバタバタ走り回ったり大声で騒いだりというのは、どこでも許されることじゃないけれど。今年の私の誕生日に、友人が高級タイレストランに連れて行ってくれた。内装にもお金がかかった人気レストランだ。隣のテーブルに子連れがいた。私は子連れというだけで眉をひそめるタイプではないが、こういう店に子連れがいるのはアメリカでは比較的珍しいので、オヤと思った。私の子供たちより幾分年上のその子供たちは、お行儀よく椅子に座っている。メニューを読む仕草から、料理が運ばれるとさっとナプキンをひざに置くあたり、かなりこういう店での外食に慣れていると見た。うちの山猿どもにはとても真似できない。いわゆる良家の子女だろう。親の方も気品があり、お金持ちの匂いをまき散らしている。子供たちは食事中に少しでも話し出そうものなら、小声で諌められていた。「静かに食事をしなさい」と。大人同士はなにがしかの会話をしているのに、子供たちはしーんとして食べていたのが印象的だ。ずっと見ていた訳ではないから何とも言えないが、食事が終わり、親の後をついて出て行くときのその顔は、ふたりともややふてくされ気味に見えた。マナーはとても大事である。その反面、リラックスしておしゃべりしながら食べる食事は、楽しいのだ。子供のうちは、あまりマナーばかりにとらわれるのもどうかな、と思う。だからマナーを必須とする「布ナプキンレストラン」に子供は連れて行きたくない。今日の食事はとっても楽しかった。食べながら、これはおいしいだの、これはあまり好きじゃないだの、から始まって、長男はお得意の寒いジョークを連発(これが不思議と次男にはよくウケる)。テーブルでケラケラ笑いながら、口の周りをケチャップだらけにして食べている。いつかこんな光景も思い出のヒトコマになるんだろうな。食事が終わり、駐車場までの道を三人で手をつなぎながら歩いた。日もだいぶ傾いている。あとは帰って歯を磨いて寝るだけだ。車に乗り込んだとたん、長男が「ママ、今日はレストランに連れてきてくれて、ありがとう。」といった。最近かなり反抗気味の長男だが、今日はやけに素直である。こんな「甘やかし」も時には必要なのかもしれないな、と思った。
2004.06.02
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うちの子供たちは、ゲームを持っていない。ボードゲームなら持っているが、コンピューターゲーム、ビデオゲーム、ゲームボーイ、キューブなどの類いはない。あ、ひとつだけありました。マク◯ナルドのキッズミールでもらったやつだ。My first Game Boy、とか言っていて、いっときは家宝だった。しかしやはり本物にはかなわない。可哀想かな、と思う時もなきにしもあらずだが、でも一度決めた事なので、なし崩しにしたくない。それに長男は聴覚のプロセスに軽い障害があるので、このままほっておくと学習障害が出る可能性が高いと言われている。視覚や触覚の問題もあるので、ゲームやテレビ、ビデオなどはできるだけ見せないようにも言われている。幸い、学校がアンチメディアなので、学校の友達と遊ぶ分には問題はないが、今の世の中、完全に避ける事は難しい。友人の多くは、私の考えや息子の状態を知ってくれているので、遊びに行っても、流れがゲームなどの方向に行かないように気を使ってくれている。彼女たちにはとても感謝している。だがいつもいつもそういうわけにはいかない。私は週に2回の午前中、義姉のうちで仕事している。次男と半年違いの従兄弟がいるので、そこで一緒に遊ばせておけるし、それはそれでとても助かっている。が、この二人、いつも外を走り回って遊んでいたのだが、1ヶ月前にゲームボーイの洗礼を受けてしまったのだ。もともとはこの従兄弟(4歳)の兄たちのものだ。今まで彼はあまり興味を示さなかったのが、1ヶ月ほど前からすっかりはまってしまっている。うちの次男もすっかりとりこになってしまった。今や前にも増して、次男は週2回そのうちに行く事を心待ちにしている。ゲームボーイができるからだ。義姉はゲームはテレビよりいいと信じているようなので、雇い主でもあるわけだし、あまりいろいろ言うのもどうかと思う。まあ、なるべく時間を短くするように本人に言い聞かせて、静観している。しかし、今朝次男が明け方に起き出してきて、早く従兄弟のうちに行きたい、ゲームボーイがしたい、と言い出したときはちょっと参ったなと思った。あきらかに禁断症状のようだ。車に乗っていても何かの歌をハミングしているから、「その歌なーに?」ときくとゲームボーイのサウンドである。従兄弟に譲ってもらえなくて、あまりできなかった日などは、帰り道車の後ろでさめざめと泣いている。あんな小さな四角い箱のどこにそんな魔力がひそんでいるのだろうか。友人の子は、外遊びが好きで、いつも飽く事なく泥んこになって、公園や小川で遊んでいた。次から次へと精力的に遊びを考え出し、想像力の固まりだったそうだ。クリスマスにサンタにお願いしたので、ゲームボーイを与えてしまった。すると、もうゲームに夢中になり、どこへ連れて行っても、「早くうちに帰ってゲームがしたい。」と言っていると言う。他の子と遊ぶ約束をしていても、5分おきに「つまんない、あーつまんない」と言う。そのうち落ち着くだろうけど、でもゲームボーイなんか買うんじゃなかったわ、と嘆いていた。ゲームのすべてがそんなに悪いとは言わないが、少なくとも子供の中には、他の事が手につかないほどのめり込んでしまう子がいるのも事実である。先日うちにきた子もゲームもない、テレビもない我が家がつまらなくて、さっさと帰ってしまった。家に帰れば好きなだけゲームができるので最高なんだそうだ。この事に関してはそれぞれの家庭で決まりがあると思うので、とやかく言う事は決してしたくないと思っている。でもうちも「ゲームもないんじゃ、子供がかわいそうよ」と言われても今のところは買う気がない。買ったら最後、何も手につかなくなってしまうのは火を見るより明らかだ。まだ上すらも低学年の、子供が小さいうちは、できたらその年齢にしかできない事を、できるだけやって遊んでほしいなと思っている。ゲームはもう少し大きくなってから、バイトでもして自分で買いなさい、という事にしている。本日の献立:焼きそば、鶏の唐揚げ、厚揚げと椎茸の煮物、ほうれんそうのおひたし
2004.06.01
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