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私は普段はドラマは見ないのだけれど、『VIVANT』は1話1億円の予算をかけた割につまらないと話題だったので、TVerの見逃し配信で見てみたらやはりつまらなかった。普段ドラマを見ない私があれこれ言うのはおこがましいとは自覚しているものの、私のようなドラマを見ない人が興味を持たないようでは視聴率は上がらないと思うので、なぜつまらないのか考えることにした。●『VIVANT』のあらすじVIVANTとは一体…?敵か味方か、味方か敵か――遂に、冒険が始まるあらすじを調べようと思って公式ページを見ても1話目のあらすじがこれしか載ってなくて制作側に視聴者の興味を引く気がまったくなくて、こりゃだめだと思った。宣伝しないで話題作りする作戦だったらしいけれど、もう放送したんだからあらすじくらい載せればいいのに。1話目のあらすじは丸菱商事で1億ドル(TVerのあらすじには130億円と書いてあるけれどドラマ内だと140億円と言っている)が中央アジアの国に不正送金されたので堺雅人が金を取り返すために調査に行って砂漠を散歩して送金相手のおっさんにVIVANTがどうのこうのと言われて現地の警察に追われて阿部寛に助けてもらって大使館に逃げる話で、それから日本に戻って不正送金した社員を探す展開になる。●つまらなかったポイント・主人公っぽさがないそもそも会社が130億円を回収したいなら横領した疑いがある主人公に金を回収させようとしないで優秀な人を集めて調査チームを作るなりすればいいのにぱっとしない主人公が一人でうろうろ行動していてやる気が見えないし、主人公に有能さが感じられなくて視聴者を引き付ける魅力がないし、自発的に行動する主人公の物語を描いているというよりも事件に巻き込まれた脇役が驚いて右往左往している様子を延々と見せられているようで、主人公が物語をけん引する原動力になっていない。阿部寛が行動を仕切っていて、堺雅人は主人公なのに阿部寛に従うだけになっている。4話の終盤からようやく堺雅人がオラオラ系になって独自に動き始めるけれど、展開が遅い。・登場人物同士の化学反応が起きないドラマだと登場人物同士が反発したり協力したりする掛け合いが面白い部分で、『今日から俺は!!』とかが典型的で、性格が違う三橋と伊藤が意見の不一致で喧嘩しても最終的には協力して友情を深めるという展開でそれなりに面白いエピソードになる。しかし『VIVANT』では堺雅人は堺雅人のままで、阿部寛とドラムはお助けキャラのままで、敵の警察官は敵のままで、登場人物同士の距離感があまり変わらないので掛け合いの面白さがない。5話になって敵の警察官が阿部寛と組んだけれど、変化が起きるのが遅い。・演出が古臭い警察に追われて逃げる時に車がぶつかるシーンを別のアングルからリプレイするのは昭和の感性で、金をかけたんだよと主張しているようでダサい。ベストショットを1回映せば十分である。そこは物語では重要な部分でないので強調する意味がないし、アクションを映したいなら物でなく人を映さないと面白くないので、ドラマとしての勘所を外している。ハリウッド映画でもっと派手にカーチェイスして車が崖から飛んだり衝突して何回転もしてひっくり返ったりするシーンを見慣れているし、『西部警察』でもっと派手な見せ場があるし、車が何台かゴチゴチぶつかった程度では面白いとは思わない。何の工夫もなしにただ無人の車を壊しただけでは既視感がある劣化版にしかなっていないので中途半端にお金をかけても無駄で、やるなら何か新しいことをやらないと見せ場にならない。テレビマンの感覚が世間の感覚からずれている部分は誰かがダメだししないと直らないと思う。冒頭の砂漠を歩くシーンから時間をさかのぼってもう1回同じシーンを繰り返すのも冗長で、普通に時系列順に話を展開するほうがわかりやすい。・鬼ごっこが長い1話目の後半はずっと警察から逃げているばかりで飽きる。無実の人が警察官から逃げる展開はハリソン・フォード主演の『逃亡者』とかで既にやっているのでなんとなく既視感があるし、鬼ごっこを見たいわけではないのでさっさと話を進めてほしい。・字幕を見るのがしんどい『VIVANT』は外国でのロケが見どころのようで砂漠がきれいで動物がたくさん出てくるのは良いけれど、その一方で登場人物が外国人だらけでセリフも外国語なのは物語の展開がわかりにくくなる。それに字幕を読んでいると画面の下の方に目線が行くので映像が印象に残らなくなる。大きなテレビで見るならまだしも、小さい画面で字幕を読むのは疲れる。・VIVANTが何なのかわからないVIVANTが何を意味するのかを探るだけで最初の2話を使ったけれど、VIVANTが別班を意味するらしいとわかったところで、別班って何なのさと別の疑問がでてきてしまって視聴者の疑問を解消していない。そもそも私はVIVANTが何だろうが130億円がどうなろうが別班が何をしようが所詮は他人事なのでどうでもいいし、その他人事に興味を持たせるような工夫がない。それに別班だのなんだのと話を大げさにしたせいでかえって登場人物の感情の掘り下げが雑になって登場人物たちに共感できなくなってしまった。1話ごとにエピソードが完結するドラマに比べたらやたらと長い前置きを見せられたような感じでカタルシスがなくて、派手な展開な割には続きを見たいと思うようなヒキがない。・のびしろがなさそうたいていのドラマは視聴者を掴むために1話目に気合を入れて個性豊かな仲間たちを登場させたり主人公の邪魔をする障害を用意したりして盛り上げようとする。黒人が裏切ったと思ったら裏切ってなかったり、警察に追われたけれど逃げ切ったりして、一通り盛り上がる展開をやったのに微妙だったら続きを見てもこれ以上面白くならなそうな予感がしてしまう。130億円を取り戻したところでマイナスがゼロになるだけでプラスになる部分がないのでどうでもいいし、2時間の映画ならまだ見れるけれどドラマで何時間もこの展開の続きを見たいという気が起きない。2話目の子供を助ける展開が不正送金とあまり関係なくて脱線気味で地味で冗長で、私はそこで飽きていったん脱落してしまった。もっとサクサク展開していたら視聴率が上がったかもしれない。●面白かったところもあるよ1話でヤギの大群をズンドコ追い立てて警察をブロックしたり、3話で軍隊が出てきてズンドコ大砲を撃ったりするあたりは日本のドラマや映画であまり見たことがないズンドコぶりでよかった。しかし日本に戻ったら一転して地味になって普通の刑事ドラマっぽくなってしまって「冒険」風味が薄れて、テイストにむらがあって魅せ方を詰め切れていない感じでもったいない。ハッカーがテロ組織の陰謀を捜査する話は『BLOODY MONDAY』で既にやっているし、そっちに寄ったら外国を舞台にする必然性が乏しくなる。●1話1億円使えるならどんなドラマを作れるのか映画の『CUBE』が1億円以下の予算で作れたのだから1億円の予算があったらやりたいことはたいていできそうだけれど、どんなドラマが作れるのか頭の体操として考えてみることにする。『美蛮島』別班の陰謀で130億円が不正送金されて犯人グループがいる東南アジアの島に調査に行ったら全裸の殺人鬼が跋扈する危ない島だったので全裸で丸太を振り回して戦うのだった。お金をかけて俳優を脱がせて毎回俳優のヌードシーンがあるのが見どころ。『ビバ番頭』江戸時代の商家の丁稚から出世して番頭になってようやく金を自由に使えるようになったので遊び惚けてしまって別藩の陰謀に巻き込まれるのだった。お金をかけて江戸時代の豪奢な遊びを再現するのが見どころ。『BIGBANG逃亡』別班の陰謀でBIGBANGが130億円を不正送金した容疑で指名手配されたので、ファンたちが協力して逃亡を手助けするのだった。お金をかけて韓流アイドルを起用するところが見どころ。『パパン』離婚した男が130億円を横領して子供との面会日に大金を使って有名人を呼んでサプライズして子供の気を引こうとしたら別嬪の陰謀に巻き込まれるのだった。お金をかけて毎回豪華なゲスト(大谷翔平や小室圭やイーロン・マスクとかのドラマに出なさそうな人)を呼んで恥ずかしいセリフを言わせたり無茶ぶりでアドリブをさせたりするのが見どころ。『ブブン』暴走族たちが全国制覇するために全日本コール選手権で優勝することを目指すのだった。お金をかけて様々な単車を何十台も揃えて毎回違うコールが聴けるのが見どころ。『アカン』ネタ切れしたディレクターがディズニー映画のパロディーをしたら膨大な著作権使用料を請求されてしまうのだった。お金をかけてディズニーに喧嘩を売るのが見どころ。私がドラマを作った方が『VIVANT』よりも面白くなる可能性がなくもないので、誰か私にうっかり130億円を送金するとよいよ。
2023.08.13
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DQN(ドキュン)というのは非常識な言動をする人を指すスラングだけれど、バーベキューをするDQNはBBQN(バーベキュン)あるいはBQN(バキュン)と呼ばれる。バーベーキューというのは火+肉+酒+音楽というディオニュソス的な集団的狂乱を引き起こす行事である。ディオニュソスの祭りでは悲劇の競作が行われたそうだけれど、バーベキューでも酒を飲んで川で泳いだ人が溺死したり、酒を飲んで喧嘩して傷害致死したりする事件が毎年の恒例行事になっている。そもそもなぜ焼肉屋でなくわざわざ河原まで出かけて行ってバーベキューで肉を焼きたがるのか、監視員がいて安全なプールや海水浴場でなく危険な川で泳ぎたがるのか考えることにした。●なぜDQNはバーベキューが好きなのか・仲間を確認したい人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限であるダンバー数は100-250人と言われているけれど、バーべーキューも数十人の小集団で行われている。バーベーキューは結婚式の披露宴みたいなもので、仲間が一堂に会する場所や機会が日常生活にはあまりないし、焼き肉屋を貸し切りにしたりすると金がかかるので、仲間を確認する儀式として場所代がかからない河川敷でバーベキューを行って、誰がどのグループに属していて誰とつながりがあるのかという人間関係を確認して仲間の絆を深めるわけである。恋人ができた人はバーベキューに連れて行って仲間に紹介して、恋人と別れた人はバーベキュー参加者の中から恋人を見つけようとして、仲間内での人間関係を強固にしていく。どんちゃん騒ぎをするにしても、自治体主体で不特定多数が集まる祭りと、親しい仲間だけが集まるバーベキューでは目的が違うわけで、バーベキューの場合は仲間に重点が置かれている。そもそも動物は食べ物を分けてお互いを飢えさせないことで相手を仲間として認識するので、犬や猫やカラスのような社会性がある動物は餌をあげると人に懐く。バーベキューはレストランみたいに一人分ずつ食事を作るのでなくて、大きなコンロで大量の食材を焼いて皆で少しづつ分けるという食べ方なので、仲間を作るのに適した原始的な食事の仕方である。そして普段行かない場所に行って誰かと何かを食べた体験はエピソード記憶として長期記憶に残りやすい。バーベキューは非日常的な河原に出かけてものを食べて仲間を記憶するのにちょうどいい条件がそろっている。・仲間外れになりたくないので誘いを断れないソロキャンプをするには一人で機材を全部用意しないといけないので金がかかる。しかし貧乏でも、車を出す人、テントを持ってくる人、コンロを持ってくる人、肉を買う人、酒を買う人、設営や片付けをする人に役割を分担すれば、一人ではできないこともみんなでできるようになる。このようにDQNは貧しさをカバーし合っているので、一人で行動せずに仲間という集団で行動する。バーベキュー主催者が仕事を回してくれる土建屋の親方とか人間関係に影響力があるマイルドヤンキーのリーダーとかだと、誘いを断って機嫌を損ねるとそのグループ全体から仲間外れにされて人間関係や仕事をなくして孤独な貧乏人になってしまうので誘いを断れないのである。・影響力を確認したいイベント系サークルが頻繁にパーティーをするように、イベントの主催者は自分が一声かけたら大勢の人が集まったという影響力を確認して満足したいので、定期的にイベントを開催したがる。泊りがけのキャンプの誘いとかなら準備が面倒だったり他に用事があったりして誘いを断る人も出てくるけれど、半日バーベキューをする程度なら相手に断られにくいし、友達も気軽に連れて来やすくて仲間が増えて主催者の影響力が大きくなるので、バーベキューは人を集めるのにちょうどよい。・治外法権の場所でヒャッハーしたい都会というのとは常に他人の目があって、何をするにも息苦しい。自宅の前の道路でバーベキューをすると隣の家のババアが文句をいうので、他人の目を気にせずに思う存分楽しみたいという欲求を満たすために管理者が常駐していない川まで出かけて行ってバーベキューを行うわけである。DQNの川流れとして知られる玄倉川水難事故で中洲でキャンプしていた人たちが再三の避難勧告に従わずに危険な中州に残ったのは、テントの設営をして自分たちのテリトリーを持ったことで自分がその土地の領主として主導権を持った気分になって他人からの命令を受け付けなくなったのだろう。社会心理学では集団になると極端な言動をするようになることをリスキーシフトというけれど、大雨で増水した川の中州でキャンプするのは危険だから避難したほうがよというのは個人なら誰でも理解できるだろうけれど、集団になると「早く失せろ、殴るぞ」という聞く耳を持たないDQNリーダーに同調するようになって無自覚にリスキーな行動をしてしまう。キャンプをして仲間の絆を深めたことでかえって集団としての判断を誤らせることになった。DQNは河原に領土を獲得してキャンプを設営すると、もはやいち市民ではなく一国の武将になる。そこで酒が入ると武将モードが発動して、身分が下の者の態度が気に入らないと難癖をつけて刃傷沙汰になる。・原始に帰って野性が目覚めるどの文明も川のそばの平野で生まれたのは、川が氾濫することで土地が肥沃になるし、川が敵の侵略を防いだり交易の拠点になったりするからである。文明の利器に囲まれて育った現代人がわざわざ不便な川のそばに集まるのは、川の側が生存に有利だという本能によるものである。登山の素人は山で遭難すると山頂の登山道を目指さずに危険な川沿いを下って沢で身動きが取れなくなって死んでしまうように、川は人を引き寄せる性質がある。酒を飲んだDQNが川で泳ぐのも本能によるもので、日よけがなくて暑い川辺でアルコールを飲んで水分不足になると、冷たくて気持ちいい川に引き寄せられるのである。そして火を使って食べ物を調理するのは人間だけができる贅沢である。バーベキューの味付けなんてシンプルなもので、料理としてたいしてうまいわけでもない。しかし火を使って調理して皆で食料を分け合うことにバーベキューの意義があるので、ピクニックみたいに電子レンジとかの文明の利器を使ったおいしい弁当を持ち込んで上品に食べてはいけないのである。こうして川の側で火を扱って肉にかぶりついて野性が目覚めることで、DQNは自分が強くなった気分になるからバーベキューが好きなのである。ちなみに焚き木や炭で調理するときは「熾火(おきび)」という炭が赤くなった状態にすると火力が安定するのだけれど、DQNは火をガンガン燃え上がらせるのが好きなのでやたらと燃料を投下して焼きむらができたり焦げたりする。河川敷で調理するにしても芋煮会でDQNが暴れて死者が出ることはほとんどないので、DQNはバーベキューならではの肉と火が好きなのだといえる。・刺青を見せびらかしたい刺青を入れたのに見せる場所がないのではつまらないので、DQNはやたらと刺青を見せびらかしたがる。プールや海水浴場では刺青を隠すように監視員に注意されてうざいけれど、河川敷だと服装規定がないので、野外で上半身裸になって刺青を見せびらかして周囲の注目を集めることができてDQNの自己顕示欲を満たせる。DQNの集合写真はたいてい刺青を見せて格好つけている。ちなみに刺青については刺青・タトゥーについて考えるという記事で私の考えを書いています。●DQNがバーベキューで死ぬ原因普通の人はバーベキューで死ぬことはほとんどないけれど、DQNはなぜかバーベキューをすると死んでしまう。ということは死ぬ原因はバーベキューではなくて、DQNの行動に原因があるということになる。バーベキューをやるときに近くに川があること、火を扱うこと、酒を飲むことが死ぬきっかけになっているようである。・溺死そもそもDQNは仲間になめられたくなくて無駄に危険なことをやりたがるもので、川があると泳ぎたがる。グループの中のまともな人が危ないからやめとけと注意しても、DQNは臆病だと思われたくないがゆえに「大丈夫だって」「何ビビってんの」とかえってむきになって、自分に注目が集まることを喜んでしまう。そのうえ酒を飲むと理性がなくなって他人の注意を聞かなくなる。周りの人が抑え込んで無理やり止めようとすると喧嘩になってバーベキューの雰囲気が悪くなるので、それほど仲の良くないグループならDQNが泳ぐのを止めようとせず、そのままDQNが川に放流されることになる。自然には安全な場所というのはないもので、流れが穏やかな川でも溺死する危険がある。突然冷水と接することが原因で副交感神経が刺激されて心停止を起こすことを液浸症候群というけれど、川は底のほうが冷たくなっていることがあるので足がつく程度の深さだとしても水温が冷たいと心停止で溺れる可能性がある。あるいは川に入った最初のうちは元気でも水が冷たくて筋肉が冷えて泳ぎにくくなって低体温症になって溺れるパターンや、酒を飲んだうえに着衣で川に飛び込んで思うように泳げずに溺れるパターンや、橋とかの高い所から川に飛び込んで川底の石で頭を打ったり頸椎を損傷したり足を捻挫したりして溺れるパターンや、立とうとしても苔や泥で足が滑ってパニックになって溺れるパターンもある。さらには仲間のDQNも酔っていたり肉を焼くのに集中したり会話がはずんだりして周りに対して気を使っていなかったりするので、溺れた人がいてもすぐに気づかなくて救助が遅れる。海水浴場だとライフセーバーがいたり周りが泳ぐ準備ができていたりボートや浮き輪とかの救助に役立つ道具が近くにあるけれど、泳ぐための場所でない河川敷でその場のノリで川で泳ぐと周りも救助のための手段がないし、レスキュー隊を呼んでも現場に到着するまで時間がかかるし溺れている人の捜索や救助は大変なので、救助が遅れて心肺蘇生をしても手遅れで死亡率が高くなる。風物死と呼ばれるくらいバーベキューでの溺死が多いけれど、DQNに学習能力がないからこそ毎年死者がでる。・焼死液体着火剤は火をつける前の炭に塗って使うけれど、DQNは説明書を読まないので火をつけた後の炭に直接液体着火剤を投入して着火剤が飛び散って周囲の人が着火剤まみれになって炎上してしまう。ふざけて花火を相手に向けて化学繊維の服が燃え上がるパターンや、カセットボンベが爆発するパターンもある。・喧嘩で倒れて頭を打って死亡DQNはしばしばバーベキューで酔っぱらって他のグループに因縁をつけたり、女性をナンパしようとしてトラブルになったりして喧嘩をするけれど、バーベキューをやるような河原はたいてい大きめの石がごろごろ転がっているので、喧嘩で倒れた時に大きな石に頭を打ってしまうと打ちどころが悪ければ死亡する。酔っていると足元がふらつくうえに受け身も取らないので死亡率があがる。夏休みに死にたくない人は、夏休みに死なない方法の記事を読むとよいですよ。●DQNにバーベキューをやめさせる方法はあるのかコロナの蔓延防止のために政府が不要不急の外出自粛を要請したり地方自治体が河川敷を通行禁止にしたりしても、DQNは真面目に他人の言いなりになるのが格好悪いと思っているので効果がない。ではどうすればDQNに不要不急のバーベキューをやめさせることができるのか考えてみる。・罰金をとる違法駐車や飲酒運転や歩きたばこのような好ましくない行動をやめさせたいなら罰金を取るのが効果的で、最初は反発があっても社会的な慣習になれば従うようになる。バーベキュー禁止地域への不法侵入やゴミの不法投棄に対して罰金をとって、罰金を払うよりも有料バーベキュー場や焼き肉屋を予約するほうが安いのならDQNはそっちを使うかもしれない。・保険で不利になる告知をする川で泳いで死ぬにしても、生命保険に入っている場合に立ち入り禁止の場所や遊泳禁止の場所で泳いだりして死亡した時には普通死亡保険金は払われるものの災害保険金の分が払われなくなるので、受取人は損をする。DQNは立ち入り禁止の河川敷を人がいなくて好き勝手できる場所と認識しているけれど、事故が起きたら自己責任で大損する場所なのだと認識を改めれば危険なところには近づかなくなるかもしれない。・ライブ中継する川にはあちこちに水位を確認するための監視カメラがあるけれど、これを違法バーベキュースポットにも設置して24時間ライブ配信すれば、いくら恥知らずのDQNでもネットで全国に恥をさらすのは嫌がって避けるかもしれない。・DQNのテンションを下げる環境に無害なくさい臭いを付けた水を開発して河川敷に散布したり、水死者の供養塔を建ててお経を流したり、霊障があって運気が下がるパワーダウンスポットだと宣伝したりすれば、DQNのテンションが下がってバーベキューや水遊びをする気分でなくなって帰るかもしれない。●なぜDQNでない人はバーベキューが嫌いなのかマツコ・デラックスがバーベキューを批判したのが話題になったけれど、バーベキューが嫌いな人も少なくない。・仲間より自分が大事最近はソロキャンプが人気になっているけれど、自然が好きな人はまず個人として自然と向き合いたがる。他人の目を気にして他人と価値観を共有しなくても、自分が楽しければそれでいいのである。マイルドヤンキーは友達ネットワークから排除されると貧困になるから友達を重視するということが橘玲の『幸福の「資本」論』に書いてあるけれど、マイルドヤンキーでない人はわざわざバカとつるむくらいなら一人のほうがましだと考える。・野性より理性が大事理性がある人は自然とお友達になって自然を従えることはできないと知っているので、野性の呼び声を無視して理性で物事を判断する。家族連れなら危険な川でバーベキューをするくらいなら金を払って安全で衛生的なキャンプ場を使うし、もし川辺でバーベキューをするにしても天候に注意して、川の上流で雨が降ったら自分がいる場所で雨が降ってなくても鉄砲水を警戒して川から離れて、わざわざ危険な場所で酔って判断力をなくして無防備になるようなことはしない。・自宅が一番快適なので外出したくないわざわざ不便な場所に出かけて行って、偉い肉奉行のご機嫌取りをして、食中毒の危険がある肉を食べて、人間関係のいざこざに巻き込まれるなんて罰ゲームである。若者が職場のバーベキューに参加したがらないのは、一番下の立場で準備と後片付けでこき使われて、酒が入った上司や先輩にいびられるとわかっていて、休日をつぶしてまで参加するメリットがなんもないので、家にいてエアコンがきいた部屋でごろごろしてゲームするほうがましなのである。●DQNはバーベキューのようなフィクションが好き・仲間系フィクションはDQNだらけバトル漫画はたいてい主人公の仲間グループと敵グループの二項対立で、いい奴は仲間、悪い奴は敵、悪い奴はぶっとばして一件落着である。政治的駆け引きや話し合いの余地がなく、どんな理念を持っていようが強いほうが勝ちという野蛮なやり方である。主人公が自分たちに正義があると思っているという点でアウトロー漫画とは違うけれど、考え方や行動はDQNで、ボス戦で仲間が大集合して協力して敵を屠るバーベーキュー的展開になる。中でも典型的なのがやたらと仲間を強調する『ONE PIECE』である。表裏のないバカな船長が仲間と外出して権力や支配に反逆して大暴れしてセクシー美女と飯を食ってどんちゃん騒ぎをして仲間意識を深めるという展開で、これはいうなればバーベキュー漫画で、バーベキュー好きなマイルドヤンキーにうけた。・文学はバーベーキューの対極のぼっち系文学は一人の主人公の思想や行動に焦点を当てる。価値観が同じ仲間がわらわら出てきてみんなで騒ぐというバーベーキュー的展開は文学作品ではほとんどない。むしろ主人公が社会的に疎外されることで主人公の価値観が浮き彫りになる。しかしぼっち読者相手に本を売っても口コミが広がらないので、マーケティング的には旨味がない。出版業界が若者の読書離れをくいとめたいなら、DQNをターゲットにして仲間を大事にして俺らツエーウェーイするバーベキュー文学を売ればよいと思う。本なんか焚火にしてしまえ、ヒャッハー!的なバーベキュー文学があれば、たぶんマイルドヤンキーにうけてビートジェネレーション的な流行になって、バーベキューで本が燃やされるたびに増刷されて出版社は儲かるんじゃないかと思う。幸福の「資本」論あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」【電子書籍】[ 橘玲 ]
2018.09.12
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戦中、戦後を描いた短編集。活弁士がしゃべっているような、句点と体言止めが多い文体。一人称と三人称の両方で自分の文体を使いこなしていて、文体とカットバックの技法との相性もよい。戦争での家族の死や少年院の少年の心情を真摯に書いているのもよい。自分の体験を小説としてうまく昇華している。★★★★☆
2010.04.29
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最近は福岡県うきは市の梨農家が二年連続で窃盗被害にあってもう梨をやめると言って話題になった。山形では6月に5人の外国人女性が夜中にサクランボ農園に侵入して窃盗する様子をSNSに投稿したことで身バレして雇用会社が契約解除して強制送還された。近年は果物の窃盗が相次いでいるので、これについて考えることにした。●果物の窃盗の実態2018年の農林水産省の「農作物の盗難の実態と対応策」によると、被害額は50万円以下が多くて、圃場からの窃盗が多いようである。2025年の日本都市計画学会の「全国のJAを対象とする果物盗被害に関するアンケート調査報告」によると、ぶどう、みかん、なしの被害が多くて、果物の収穫時期と重なる7-9月に被害が多い。犯人は単独犯が約26%、複数犯が約19%、不明が約63%で、過半数の事件が未解決で犯人の人数さえわかっていないようである。●誰が果物を窃盗するのか田舎にはDQN老人とかの手癖の悪い人がいて、果樹園のそばを通りがかって出来心で自分が食べる分を何個か窃盗する場合もある。監視カメラだらけのコンビニやドラッグストアでさえ窃盗をする人がいるのだから、監視の目が行き届かない広い果樹園で窃盗する人も当然いる。果物を大量に売りさばくルートがある窃盗団が熟れ頃の目星をつけて収穫期に夜中にトラックで乗り付けて計画的に窃盗する場合もある。大量窃盗の場合だと日本人の農家が成功した近所の農家を妬んで果物を盗んで自分の商品にみせかけて売っている可能性もある。2023年8月には佐賀県伊万里市収穫直前のシャインマスカット約300房が盗まれて、被害者の高田農園の高田氏は「プロですよね、プロ。同業者か、本当に精通した人。狙って大きいのを取っている」と言っていて、高級な果物が収穫直前に窃盗された場合は収穫のやり方や食べ頃を知っている同業者による窃盗の可能性が高い。不法滞在の外国人がシノギとして大量に窃盗をして仲間に販売して現金化する場合もある。猿や猪や熊やハクビシンとかの動物が果物を食べる場合もあるけれど、その場合は食べかけの果物に歯形がついていたり足跡があったりして動物に荒らされた跡が残るので、人間による窃盗とは区別がつく。●農家が取りうる対策上記の「全国のJAを対象とする果物盗被害に関するアンケート調査報告」だと、パトロール、防犯カメラの設置、センサーアラーム・ライトの設置、のぼり旗の設置、警戒ステッカーの配布、防災無線による注意喚起とかの対策が取られている。しかし被害の大半が50万円以下で、100万円以上の窃盗件数は少ないのに対策に何十万円もかけても割に合わないので対策が不十分で、窃盗を防ぎきれなくて犯人の逮捕もできていない。というわけで他に安価に対策できないか素人なりに考えてみる。・番犬を飼う犬は狼が祖先なので元々は夜行性のようで、夜の番犬に向いている。首輪に暗視カメラをくくりつけて夜に果樹園を巡回するように訓練すれば不審者の出入りに気付きやすくなるかもしれないし、泥棒だけでなく害獣も追い払ってくれるかもしれない。・偽のポスターを張る「〇月〇日に不法侵入してりんごを盗んだ犯人が捕まりました。当方は窃盗には厳格に対処します」みたいなモザイクをかけた架空の人物を監視カメラで撮影したようなAI画像を作ってポスターを張っておけば、近所のDQN老人とかの単独犯の泥棒は警戒して手出ししないかもしれない。・果物にGPSを埋め込む果実が大きめの場合は果物が盗まれやすい道路際とかの果実にGPSとかのトラッカーを埋め込んでおけば、犯人が盗んだ果物をすぐに食べないで持ち帰ったり売ったりすると場所を追跡できる。同じ場所で連続して窃盗が起きる場合には犯人の特定に効果があるかもしれない。・果物の皮にQRコードを印刷する果物の種類によってはハンディインクジェットプリンターやハンディ式レーザーマーカーとかで皮にQRコードを印刷したり、シールを貼ったりできるかもしれない。そんでそのQRコードには「この果物は本来は市場に出ないものです。市場に出た場合は〇〇農園から盗まれたので、買った人は警察に通報してください」とかのテキストメッセージを入れておく。大量に窃盗する犯人はまともに検品もしないだろうし、犯人が外国人なら文章を理解できないだろうし、犯人がQRコードに気づかずにフリマで売ったら買った人がなんじゃこれと気づいて盗品だと証明しやすくなる。・トラップを仕掛ける敷地への出入口が限定される場合はスティンガースパイクシステムやPROSpikeみたいなトゲ付きの車両停止スパイクシステムを敷地内に設置しておくと、敷地にトラックで侵入して果物を盗もうとする人のタイヤをパンクさせて組織的な大規模の窃盗を防げるかもしれない。立ち入り禁止の看板をつけたうえでその先に釘を打ち付けた木材を転がしておいたりしてDIYで安価にトラップを作れそうである。・機械を使って巡回する機械を自動操縦して農地を巡回して監視できたらセンサーや暗視カメラを木に固定するよりも広範囲を監視できる。しかしドローンの無人地帯での目視外飛行は技術水準が高いし駆動時間が短いので常時監視するのには向いていないし、AI搭載ロボット犬はデータセンターの警備に使われているけれどコストが高すぎて農地の警備には向いていない(ボストン・ダイナミクスのロボット犬「Spot」は1台2800万円する)。他に農地用に低コストで自動巡回するやり方もあるかもしれない。例えばロープカムやケーブルカムと呼ばれるロープ上を電動モーターで移動して撮影するイベント撮影用のカメラがあるけれど、これを農地用の防水仕様にして暗視カメラをつけて自動でロープ上を往復するようにしたら、夜間に広範囲を警戒して不審者を発見しやすくなるだろう。モーターにギアをくっつけてカメラがぶれない速度で移動するように調節して正転逆転切り替えスイッチと太陽光パネルとバッテリーと市販の暗視カメラをくっつけて数百メートルのロープに取り付ける程度ならDIYで安価に作れそうな感じがする。・泥棒を怖がらせるホラー映画にはジャンプスケアと呼ばれる観客をびっくりさせて怖がらせる仕組みがあるけれど、これを泥棒除けにも使えるかもしれない。夜中にスピーカーから熊の鳴き声を鳴らしたり、蛇のおもちゃを果樹にぶら下げたり、スズメバチの死骸を収穫時期の果実にくっつけておいて果物をもごうとすると振動でボトボト落ちてくるようにしたりすれば、初見の泥棒は怖がって立ち去るかもしれない。●農家以外が取りうる対策・税務署の取り締まり給与所得者でも農業収入や一時所得が20万円以上ある場合は確定申告が必要だけれど、窃盗犯は盗品の売り上げを確定申告しないか、確定申告するにしても経費がでたらめになる。そこで税務署がフリマで果物を大量に売っている人がちゃんと確定申告をしているか調査すれば脱税と窃盗を暴けるだろう。外国人経営の食材店や飲食店とかも税務調査して、仕入れ価格が極端に安かったり仕入れ先の情報がなかったりする場合は直接盗んでいるか盗品を買い取っていると判断できるだろう。・SNSの監視2024年8月には茨城県笠間市で不法滞在のベトナム人のグェン・スアン・トゥー(31)が収穫間際の梨3200個を窃盗して逮捕されて、「SNSのベトナム人コミュニティーで募って売った」と容疑を認めている。ベトナム人がFacebookで堂々と盗品を売りさばいているけれど、たいていの日本人はベトナム語がわからないので野放しになっていて、フリマと違ってSNSでやりとりされたのではSNSのアカウントと口座が紐づいていないので口座への入金記録を追えない。警察も被害届が出されたら捜査をするけれど、被害届が出ていなかったら犯罪かどうか不明な外国語のやり取りをいちいち監視するほどの人員がいない。不法滞在者の通報で報奨金が出るように盗品売買の通報でも報奨金が出るようにしたら、AIの自動翻訳を駆使して盗品の売買をしてそうな人を通報して稼ぐ民間人が出てくると思う。・フリマやSNSでの生鮮食品の販売規制果物をネットで売るにしても、個人で大量に買ったけど食べきれないからフリマで売るとか家庭菜園で豊作だったからフリマで売るような事例はめったにないし、基本的に農家や小売業者とかの事業者からの出品になる。個人間の売買と違って事業者は住所がばれてまずいわけでもないし匿名で取引しなければならない理由がないのだから、食品トレーサビリティ制度を拡大して販売者の事業者名や果物の産地の農園名の表示を義務付ければよい。メルカリやFacebookとかが盗品売買を放置して助長する仕組みはなくすべきである。・厳罰化犯罪の刑が軽くて割に合うようでは犯罪をするインセンティブになってしまうので、割にあわないようにすれば犯罪を減らせる。果物泥棒は窃盗罪として「1か月以上10年以下の懲役または1万円以上50万円以下の罰金」になるけれど、外国人の窃盗の場合は盗品を同郷者に売りさばいて母国に帰れば逃げきれるのでやり得になってしまう。上記のSNSで盗品を売りさばいたベトナム人のように盗品を買った外国人も盗品等関与罪で一緒に検挙しないと盗品を売りさばく市場がなくならないので、買い手側への厳罰化も必要だろう。近年は外国人の農地取得規制が強化されて、2025年4月からは短期在留資格を持つ外国人が農地を取得することは原則禁止になった。外国人農家がいないわけではないけれど外国人が個人で果樹園を持つことは難しいし、仕入れた果物を売るには野菜果物販売業の届け出が必要だし、農家や八百屋でない外国人がSNSで同郷者にだけ大量に日本産の果物を直売するのは盗品の疑いが濃厚なので、盗品だと知らなかったという言い訳を認めずに盗品を大量購入している外国人経営の食材店や飲食店とかも検挙するべきである。・怪しい人から果物を買わない農家がJAと契約している場合は規格内の作物はJAが全部買い取るし、農家がJAを使わない場合でも道の駅の直売や提携している飲食店への出荷や自社サイトでの通販や観光客向けの果物狩りやジュースやジャムへの加工とかの販路が既にあるし、メロンや桃とかの道の駅や通販で人気があって高く売れるものをわざわざ交通費をかけて土地勘がない都会に行って安く叩き売る理由がないので、規格品の食べ頃のちゃんとした日本産の果物が都会の駅前で軽トラックの荷台で叩き売りされることはない。まともな商品はまともな販売者によってまともな販路で売られているし、逆に言えば変な販路で売られている場合は商品か販売者のどちらかまたは両方がまともでない。軽トラの路上販売や訪問販売やフリマとかで格安で売られている果物が盗品でないとしてもJAが買い取らない規格外品で糖度を測っていなくておいしくなかったり、痛んだり熟れすぎたりして市場で売れ残った果物を安く大量に買い取ったものだったり、産地が偽装されたり、「メロン2個500円」で集客しても実際はトラックの見えないところに積んでいる拳大のアンデスメロンの値段でトラックの見えるところに積んでいる大きいマスクメロンはぼったくり価格の詐欺だったりして、買った人が損をする可能性が高い。消費者が怪しい人から果物を買わなくなれば泥棒が稼ぎにくくなる。
2026.07.25
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ベトナム戦争を取材する記者の話。作者=主人公の視点による一人称の文体。戦争が主題というよりもむしろ私小説的で、記者仲間の妹とセックスをしてぐうたら過ごす姿が描かれる。しかし私小説的にするならばなぜわざわざ外国の戦争が舞台で無ければならなかったのかが書かれて無いと小説としては不完全で、傍観者がむやみに他国の戦争に首を突っ込んでいるように見える。ところどころ面白い比喩表現があるのはよいものの、全体の統一感を欠き、作者の情事も戦場の描写も政治的考察も中途半端のまま終わっている。★★★☆☆
2009.04.28
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2003-4年に書かれた短編・掌編集。「白昼」は白昼堂々自分を垂れ流している男を追いかけていたら追いかけられていたという話。○○している人が実は自分が○○されていた、というのは掌編小説に良くあるパターンで、プロットとしては特に面白くもない。こういうパターンで成功したのはコルタサルの「続いている公園」で、こっちはオチに切れがあるうえに、現実と虚構の世界がつながるというオシャレな仕上がり。平野みたいにぐだぐだやると素人がこね回した寿司みたいになってネタが痛む。「初七日」は心筋梗塞で児島康作が死んでから家族が葬式をしたり火葬をしたり康作の従軍について考えたりしていると猫が家に入ってきたので追い出した話であった。三人称であった。なんといまどき「であった」調の文体であった。現代人が普段の作文で「であった」調を自分の言葉として使う機会はまずないので、意図的に古い小説の文体をまねて言文不一致にしたのであろう。作者は言語的擬態の器用さをみせびらかしたかったか、あるいは自分の表現方針を持っていないのではあるまいか。従軍についての思考を康作の長男の還暦越えの康蔵にさせるのは時代遅れで、なぜいまさら若い作家が戦後作家の真似をする必要があったのか。作者と同年代の登場人物が戦争について考えるというやり方もあったはずで、それが若い作家が書くべき本筋の物語展開であるが、そうしなかったのは、知識と想像だけで他人を理解できると高をくくり、なおかつ自分をさらけ出さないようにするという平野のような高学歴な人によくある自己欺瞞であろう。誰かの真似をして小説らしい小説を書いたがゆえに、作者自身が投影されておらず小説の表現としては価値がないのである。戦後世代の真似をして作者が体験してもない戦争を回想したところで、作者個人の左翼的懐古趣味を満たすだけで、過去の出来事を新しい視点でとらえるわけでもなく、読者にとってはなんら得るものがないのであった。葬式の話などは本来は私小説作家が自分の体験として語るがゆえに、作者の心情の吐露として表現が価値を持つのである。作者が育った福岡の方言を使っているあたりは唯一リアリティのかけらが残っていたが、欺瞞に満ちた文体で台無しにしたのであった。66ページもあって割りと長めなうえにつまらないので、ひーこらひーこらばひんばひんであった。「珍事」はホテルのサラリーマンが向かいのビルの窓から見られていて、そいつに手を振られたという話。三人称。珍事を期待している相手の人生を見下しているつもりの男がつまらない人生を送っていたという、○○している人が実は自分が○○だったというパターンの一種。掌編なので特に見所がない。「閉じ込められた少年」はいじめられていた僕が、あいつをナイフで刺した話。一人称。ABCDEDCBAというような回文的構図だけれど、改行箇所は変わっている。一人称で変なことをやったせいでナラトロジーとしての語りのリアリティはなくなり、そのうえ物語としても面白いわけでもなく、とりあえず回文的なことをやってみたという以外に見所がない。「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」はひとつのタイトルだけれどまったく関係のない二つの短編。「瀕死の午後」はひったくり常習犯の男が闇金から金を借りた女からひったくろうとして事故に会う話。三人称で、短編なのに男と女の視点を変えるあたりは物語の焦点がぶれてしまう悪手で、どちらか片方に視点を固定したほうがよい。内容はなんのひねりもなく、小説として金払って読む価値なし。「波打つ磯の幼い兄弟」は幼い兄弟が波打ち際に行って、弟が潮を警戒して兄を呼ぶものの、兄が意地になってカニをとろうとするうちに帰れなくなる話。長編の中のいちエピソードとしてその後生き残った兄弟のどちらかが云々という展開になるならこれでいいけれど、短編でこの場面だけ展開されてもどうしようもない。昭和初期ならこういうリアリズムお涙頂戴系短編で十分及第点なのだろうけれど、わかりやすい悲劇をそのまま提示するのは現代の純文学作家としては芸がない。こういう素直な小説はデビュー前後の習作として書いたりするものだけれど、平野は変なデビューの仕方をしたのでデビューしてから数年たってからこういうのを書きたくなったんだろうか。「les petites Passions」は少年が主人公の「彼方」「数」「性」「記憶」「自己」の掌編小説。「彼方」は中二病の少年が空で処刑される妄想をする話。「数」は少年が街中でいきなり消えたという話。「性」は少年の恋がクラスに知られたので全身が切断される話。「記憶」は少年が死の空を眺めて泣く話。「自己」は孤独な少年が自分が放った刺客に滅多刺しにされる話。マジック中二病イズムでもやろうとしたんだろうか。なんでタイトルフランス語なのか意味不明。そこは中二病的に難解な漢字に無理やり読み方を割り振るべきだろう。「くしゃみ」はひ弱な男がくしゃみをしてばらばらに壊れるという掌編小説。でっていう。くしゃみで壊れるくらいひ弱ならとっくに壊れてるだろうに。「最後の変身」は会社をぶっちして部屋に引きこもっているネット中毒の書評家きどりの男がカフカの『変身』について考えたり虫に変身したつもりになる話。俺の一人称の横書きの手記形式。男はバブル崩壊時に小学生なので、団塊ジュニア世代なのだろう。パソコンで遺書を書いてネットでばらまくという動機で男が自分語りをしていて、一応ナラトロジーとしての整合性はあるものの、テレヴィ、コンヴィニと書くあたりは平野臭さがプンプンするので一般人の言葉としてのリアリティはない。この小説も、星野智幸の『ロンリー・ハーツ・キラー』も2003-4年頃の同時期に書かれた小説だけれど、ネットにアップするために手記を書くということで一人称の語りの動機の整合性をつけようとするあたりは現代的ともいえるけれどもそのぶん安直な手法。紙の本で出版しないで電子書籍限定にするくらいに凝らないと芸にならない。さらには話の大部分をカフカの『変身』に頼っていて独創性がない。この小説では語り手の男の意見を垂れ流しにするだけで、それに対する外部からの批判が何一つないため、話にしまりがなくてやたら冗長。語り手の男は遺書として書いたから自分の意見が拡散されるはずと思っているけれど、命がけで書いたゴミは結局ゴミでしかない。そのゴミを文学的な遊びに昇華させるような仕掛けもなく、純文学としての構成が練られていない。ナウシカの蟲みたいに仲間を呼ぶとか、体液がでちゃうとか、触手を伸ばすとか、ピギャーと叫ぶとか、何かしら虫っぽい面白さがほしいもんである。こんなつまらない小説もどきの読書感想文を読むくらいならゴキブリの観察でもしてたほうがましやんけ。ちなみにAnimal Planet Liveではゴキブリをライブカメラで放送しているので、自分でゴキブリを生け捕りにするのがめんどくさいという人はこっちで観察するとよい。「『バベルのコンピューター』」は文芸作品が映像化されたというイーゴル・オリッチの『バベルのコンピューター』という架空の作品についての批評。内容に興味がないので流し読みしていたら、ページがペイジと書かれてある時点でジミー・ペイジが気になってしまい、これを読むのをやめてネットサーフィンすることにした。平野はせっせと脚注まで作りこんでいるものの、読者が脚注まで読んでくれると思ったら甘いのである。ジミー・ペイジの観察でもしてたほうがましやんけ。●感想私は平野啓一郎は嫌いなものの、実験小説は嫌いでないのでこの本のamazonの評価が悪いのを承知でわざわざブックオフで108円もの大金を払ってこの本を読むことにしたのであった。しかし実験というほど実験になっていないので期待はずれであった。せめて筒井康隆のようにギャグでもあれば実験小説でも楽しく読めるものの、平野には筒井のようなユーモアやカルヴィーノのようなおしゃれさがないのであった。オビには「衝撃のデビューから五年、平野啓一郎が、いま、新たな頂点をきわめる!」というおおげさな宣伝文句が書いてあるけれど、これ以上成長しないよという宣言なんだろうか。言葉のうわべにだけ凝って中身が欠落した小説ばかり書いてきた平野にふさわしいオビであった。こんな内容じゃ売れないだろうなと奥付を見てみたら、やはり初版であった。本棚に置くにも邪魔なので捨てることにしたのであった。ブックオフにキャッチアンドリリースするのさえめんどくさいのであった。★★☆☆☆であった。滴り落ちる時計たちの波紋 [ 平野啓一郎 ]価格:648円(税込、送料込)
2016.02.04
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コンビニで生まれたコンビニ人間が他の人を真似て人間に擬態する話。第155回芥川賞受賞作。●あらすじ子供のころから突飛な行動をしてきた古倉恵子は大学1年生のときにスマイルマートというコンビニでアルバイトを始めて規則に従うことで居場所を見つけてコンビニ人間として誕生して、19年経って36歳になっても同じコンビニで働いていて、24歳の菅原さんの服装を真似たり愚痴に同調したりして人間のふりをして安堵する。地元の友達のミホたちと話していたら恋人がいないと素直に答えてしまい、病弱だと嘘をついてごまかす。35歳の痩せた男の白羽はバイトをさぼりがちで客の女性にストーカーして異物としてコンビニから排除されて、恵子はミホの旦那と会ったときにアラフォーなのに結婚を焦っていないことをヤバイと言われて自分も異物として排除されると危機感を持って、白羽に結婚を持ちかけて家に連れ込んで餌を与えて風呂場で飼うことにする。店長にうっかり同居していることを言ってしまったら同僚たちがゴシップに夢中になって仕事をさぼるようになる。妹が家に来て白羽を叱り、白羽の兄嫁が家に来て白羽を叱ったので、白羽は恵子にコンビニを辞めさせて就職させることにするものの、恵子は面接に行く途中に立ち寄ったコンビニでコンビニ人間であることを自覚して勝手に商品を整理しだして白羽と喧嘩して面接をキャンセルする。●感想恵子の一人称。ナラトロジーを理解していなくて、いつの時点でいつの出来事を誰に対してなぜ語るのかという設定ができていなくて、現在形と過去形が混在している下手な一人称になっている。私小説作家でない人は一人称で私生活を語る理由がないし、コンビニの規則に忠実なはずの恵子が働いている最中に守秘義務に違反して同僚の年齢とかのプライバシーまで公開して語るのは設定が矛盾しているので、そのぶんリアリティがなくなる。恵子がコンビニの規則に忠実だという部分はこの小説の根幹部分なので矛盾してはいけない。55ページで赤ん坊を静かにさせる手段としてナイフを見る場面は三人称ならホラー的な演出になるけれど、一人称で書くと恵子は子供をナイフで刺して黙らせてはいけないと自覚したうえであえてナイフに言及している計算高い人物だという構図になってしまって、常識がわからないという恵子の人物像が壊れてしまう。登場人物については読書に慣れている人なら恵子と対極の存在の白羽が出てきた時点でこれとくっつくだろうなと予想がついてしまうし、白羽はいかにもプロットのために用意した人物という感じでセリフや思考が芝居がかっていて不自然だし、予定調和的に同居するので、白羽の存在がご都合主義的でかえってつまらなくなってしまった。変人でないと恵子の相手役が務まらないにしても、変人が二人いると主人公の恵子が目立たなくなってしまうし、恵子はコンビニ人間に戻るというオチがついても白羽はどう生きるべきかというオチがついていない。妹が恵子を治そうとするのも変で、病気でもないのに何をどう治そうとしているのかよくわからない。恵子が目的のために手段を選ばないで変な行動をするのも子供の頃だけで、大人になってからは変人ぶりがこぢんまりしている。コンビニを辞めた後に手段を選ばずに老人が一人で経営している駄菓子屋を乗っ取ってコンビニに改装してコンビニオーナーとして働くくらいやるのかと思ったら、普通に就活しているところはけっこう常識的で期待外れである。哲学的な構図としては、コンビニ人間として生きようとする恵子のテーゼに対して、結婚せずにアルバイトのままなのはやばいというミホの夫や白羽とかがアンチテーゼとして出てくるけれど、そこでジンテーゼに至らなくてまたコンビニ人間になろうというところに戻ってしまう。結局恵子の考え方や生き方が変わるわけではないので、白羽との同居云々が蛇足のような話になっている。白羽が納得するようなコンビニ人間像が描けていればジンテーゼになったのだろうけれど、白羽は最後まで恵子の生き方が理解できないままで、恵子や白羽の人生観に進展がない。良い点としては、冒頭で音を中心に状況を描写してものの捉え方を異化しているのはよい。白羽の飼い方にもユーモアもあって、かわいそうな人を書いて同情を誘うような安直な話にはなっていない。この小説ではコメディとして戯化されているとはいえ恵子のような人は実際にいて、その点では人間の実存を描いているといえる。「普通」がわからない女性でもパートタイムの仕事は見つけやすいけれど、男性は生活のために手段を選ばずに犯罪をする「刑務所人間」になりがちで、例えば小島一朗は自分で考えて生きるのが面倒になって無期懲役になることを狙って新幹線で殺人をしたし、境界知能で就職できなくて何度も犯罪をする人は刑務所のほうが規則があってやることが決まっていて楽だからという理由で出所してもすぐに無銭飲食や窃盗とかをして刑務所に戻ろうとする。「刑務所人間」だと被害者がいるのでコメディとして笑えないけれど、「コンビニ人間」は社会の役に立って居場所があるだけまだ救いがある話になっている。結局は恵子は妹が求める「普通」になることはできなくて子孫も残さないだろうけれど、他人が何を言おうが自分が生きたいように生きるのが本人にとっては幸せなのだという希望があるのはよい。良い点があるだけに、ナラトロジーを理解していない下手な一人称なのはもったいない。一人称で書く必然性がない内容なので、三人称で書いたほうが技術的な完成度は高くなっただろうと思う。★★★☆☆コンビニ人間 (文春文庫) [ 村田 沙耶香 ]価格:693円(税込、送料無料) (2025/2/23時点)楽天で購入
2025.02.23
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最近は小泉今日子の武道館のライブで開演30分前にDJの高木完が俳優の佐藤慶が憲法9条を朗読した音源のミックスを流したり、会場で放出された銀テープに「戦争反対!!平和な世界希望!!」と書かれていたことで賛否があって、もう小泉今日子のライブに行かないとXに投稿した人もいたようである。サカナクションのボーカルの山口一郎がYouTubeでミュージシャンの政治的発言について「みんなの気持ちを代弁することがミュージシャンの仕事。今、この現状でたとえば自分が思ってることを言うよ。俺は戦争なんてなくなったらいいなと思うわけよ。でも、どうやったらなくなるかなんてわからない。だって知識もないしさ。自分が持ってる浅い知識で、“こう思うんだよね”みたいに言うのもさ、そんな責任感ないことできないじゃない。危ういじゃん。知識ないからさ。感情論で話せないよ」と見解を述べたら賛否あったようである。というわけでこれについて徒然なるままに考えにけり。●クリエイターが思想を持つことの是非私は政治的思想であれ宗教的思想であれ芸術表現と作者の思想は不可分だと思うし、宮崎駿や大江健三郎とかも創作の根底に思想があったからこそ良い作品ができたと思う。フォーク歌手が反戦ソングを歌うのもいいし、ヘヴィーメタルバンドが死ね死ねと歌うのもいいし、レゲエ歌手がマリファナを礼賛する歌を歌うのもいいし、キリスト教徒がキリストやマリアを称える宗教歌を歌うのもいい。基本的人権に思想の自由、表現の自由、信教の自由が保障されてるのだから、法律の範囲内で何でも自由に主張すればよい。サカナクションの山口一郎のように知識がなくて責任を持てないことは主張しないと言う慎重な態度を取るのも自由だし、グラミー賞の授賞式で政治的な事を言いたがる歌手みたいに浅い知識で無責任に感情的な主張をするのも自由だし、誰かの主張を批判するのも自由である。信仰の告白を強制すると信教の自由に違反するように、ミュージシャンなら反戦ソングを歌えと迫るのはよくない。何を言うか言わないかは個々人が決めればいいし、他人が態度の表明を強制するものではない。そもそもクリエイターに政治の専門家としての意見を求めているわけではないし、専門外のことについて何か変な意見を言ったところでそれで既存の作品の質が変わるものでもない。アイドルも自由に主張すればよい。アイドルは思想を表に出すなという人がいるのはアイドル差別で、アイドルの恋愛に反発する人がいるのと同じでアイドルを人格を持った人間として認めていなくて理想を演じる偶像でいてほしいということなのだろう。小泉今日子は60歳のようで若いアイドルみたいにぶりっ子して恋愛ソングばかり歌うような年でもないし、人生経験を経て社会について何かしらの意見はあるだろうし、既に知名度が高くて社会的に成功していて事務所から独立したのでこれから大衆に媚びて愛想を振りまいてファンを増やすよりはファンを減らしてでも自分のやりたいことをやる段階に入っているのだろう。ミュージシャンの政治思想に対して批判が多いのは鑑賞する側が過剰に反応しすぎだと思う。政治観や宗教観や芸術観や経済観や恋愛観や人生観とかのあらゆる点で自分と全く同じ意見の人はいないだろうし、多面的な人物像を見ずにどこか一点で意見が違うからといって認知的不協和を起こして作品の鑑賞をしないのはもったいない。自分と意見が違う人の作品を鑑賞したからといって自分の思想が汚染されて変わるわけではないのだから、キリスト教徒でない人もゴスペルやレクイエムを聴いてみるといいし、イスラム教徒でない人もスーフィズムの音楽を聴いてみるといいし、ロシアのウクライナ侵攻に反対する人もロシア民謡を聴いてみるといいし、イスラエルのガザでの虐殺を批判する人もクレズマーとかのユダヤ人の音楽を聴いてみるといいし、イラン政府によるデモ隊虐殺や女性の弾圧を批判する人もイランの伝統音楽を聴いてみるといい。自分と違うものほど新しい刺激や発見があるものである。フィクションや芸術作品は現実世界を抽象化して相対化する役割があって、世界中の自分と異なる人たちの作品を観察すると美しい部分も愚かな部分も見えてくるだろうし、その観察がより良い人間になるにはどうすればよいか、より良い社会を作るにはどうすればよいかという実社会への還元につながっていく。●表現手法の是非クリエイターが思想を持つこと自体は問題ではなくて、どう作品に思想を織り込むかという点が問題である。例えば宮崎駿は国際政治の専門家ではないし、イスラエルと周辺のイスラム教の国との戦争をどう止めるのかについて聞いても答えられないだろうけれど、フィクションの中では反戦思想を展開できる。『風の谷のナウシカ』ではナウシカは城がトルメキアに襲われて父親が殺されたときはユパ様に止められるまでトルメキア兵をみんなぶっ殺すくらいの好戦性を見せた一方で、トルメキアの脆い飛行船がペジテのアスベルのガンシップに襲われたときに「やめて、もう殺さないで」と言って銃口に生身を晒して攻撃を躊躇させている。ナウシカ自身も殺人をしているし、妹を殺されたアスベルの復讐も受け入れているし、作品全体としては殺人を批判するというよりもトルメキアの他国への侵略や巨神兵という巨大な軍事力の利用方法を批判している。この辺が宮崎駿らしい展開で、武器を持つことや戦うこと自体は否定していないのでエンタメ作品として見せ場ができる。『紅の豚』では豚は殺しをやらないけれど、かといって殺しをやる他の空賊たちや戦争で死んだ仲間を批判的に描くわけでもないし、豚の戦闘機にも一応機銃はついていて戦闘機という兵器も否定しているわけではないのでエンタメ作品として見せ場ができる。宮崎駿が左翼的な思想を持っているにしても作品の面白さを損なわないから高評価されるし、もし映画のテーマソングに憲法の朗読を混ぜたり、登場人物に「戦争反対!!平和な世界希望!!」という安直なセリフを言わせたりしたら作品が台無しになって批判されただろう。フェミニストが「男が産めるのうんこだけ」と歌う自由もあるし、オウム真理教の信者が「ショーコーショーコーショコショコショーコー」と歌う自由もあるし、幸福の科学が布教用のアニメを作る自由もあるけれど、作品として完成度が低いものは相応に批判される。何かを表現するための作品でなく、思想のプロパガンダのために作った作品は表現が目的でなくて手段になってしまっているのでたいてい完成度が低くなる。小泉今日子のコンサートでDJが憲法9条の朗読の音源をただ流したり銀テープに「戦争反対!!平和な世界希望!!」と書いたりするのでは安直で表現として面白くないし、音楽的パフォーマンスというよりは思想を押し付ける政治的パフォーマンスとして受け取られたので批判が多くなったのだろう。歌手が反戦を主張するなら自分で反戦ソングを作詞作曲するのが筋だし、せめて反戦ソングのカバーを歌うくらいすればいいし、やり方が中途半端である。戦争に対して現実的な対応を求められる政治家や軍事評論家と違ってクリエイターは好き勝手に理想を言えるのが強みなのだから、中途半端なのはよくない。やるなら反戦ライブと銘打ってペンライトの代わりにゲバ棒を振り回してアジ演説をして徹底的にやればよい。あるいはプロとしてファンを喜ばせることに徹するなら政治や宗教とかの価値観が別れやすいものは表に出さないでアイドルとしての小泉今日子像を保っておくべきで、興行として見れば中途半端なやり方でファンを幻滅させたり反感を招いたりするくらいならやらないほうがよい。ピクサーのチーフ・クリエイティブ・オフィサーのピート・ドクターが「親子で話し合う準備ができていないテーマについて、無理に扱いたくないのです。私たちは映画を作っているのであり、何億ドルもかけてセラピーを行っているわけではありません」と言って今後はLGBTQのテーマを取り扱わない方針にしたように、思想が強い作品は客はわざわざ金を払ってまで見ようとしない。興味がない人を振り向かせることができるくらいすばらしい作品を作れるなら思想を前面に出すのはよいけれど、うわべだけの浅い主張しかできないなら何も言わないほうがましである。
2026.05.11
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第二次世界大戦の兵士の死の瞬間や、戦後の町の人たちを書いた短編集。一人称や三人称による簡潔な文体。「ローエングリーンの死」のような死をパセティックに書いた戦争をテーマにした短編が面白いぶん、「笑い屋」のようなユーモア重視の小説は月並みでつまらなく感じる。ドイツの時代背景がわからないと皮肉やユーモアが理解しきれない部分もあり、描写がくどい割りにいまいち面白さがわからない。★★★★☆
2010.01.13
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表題作とその他の4編の短編集。「清水」は私が記憶と存在について考える話。ヤマなしオチなしの雰囲気純文学。「高瀬川」は小説家の大野と編集者の裕美子がラブホテルに行って情事して、パンツをペットボトルに詰める話。小説家と編集者の情事というネタに困った作家がやるような手垢のついた話で、さらにはコルトレーンが云々という使い古されたジャズネタのダメ押し。三人称で神の視点と大野の視点が混ざっていて、短編なのに視点が統一されていないのはよくない。「追憶」はひとつの詩を断片的にして何パターンも別々の意味を持たせた詩。詩というよりは言語学的な文法構造をいじった遊びで、ノーム・チョムスキーの句構造規則を知っている人にとっては文章の構成を組み替えて別の文章を作るやり方は目新しくもなく、今更やっても面白いわけでもない。「氷塊」は上下二段組で、上の段は母親が事故死して今の母親は継母だと知らされた美術好きな中学生の少年が父親の不倫相手が実の母親ではないかと思う話、下の段は少年の父親と不倫する美術館勤務の三十路の女の話が別々に展開する形式。ページ順に上下の話を一緒に読んでみたものの読みづらいし、ピカソ好きな中学生というのがうそ臭く、気取ったうそ臭い平野臭がむんむんする。少年が母親の死の真相を知りたいなら、父親を分厚い画集の角でぶん殴って貴様の顔をキュビズムにしてやろうかと脅して真相を聞きだせば済む話である。全体の感想としては半世紀遅れて純文学の仮装をして文士ごっこをしているような感じで、作者はまだ若いのに現代社会に向き合わず、おじいちゃんかよっていうくらいに追憶ばかりして小手先の工夫に逃げている。半世紀前にこういう形式に凝った小説を書いていたら話題になったかもしれないけれど、現代にいまさらやってもしょうがない。平野啓一郎の値踏みは終わったので彼の小説はもう読まなくてもいいやと思っていたけれど、積んでおいた未読の本の山の中にこの本が残っていたので捨てる前に一応読んでみたら、やっぱり読まなくてもいいやという感じ。ちなみに楽天koboの電子書籍版だとフォーマットが変で読めないというレビューがあって、誰が悪いのか知らないけれど半端な仕事してるなあとあきれてしまう。★★☆☆☆高瀬川 [ 平野啓一郎 ]
2017.05.07
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SEKAI NO OWARIのSaoriが本名の藤崎彩織名義で書いた小説『ふたご』が直木賞の候補になったけれど、5ちゃんねるのスレッドを見てみたらたいてい批判的な意見だった。私は作品がすべてだと思っているので、専業作家だろうが芸能人の副業だろうが面白い小説を書くならそれでいいと思うけれど、なんで芸能人が小説を書いて作家として賞レースに参加すると批判されるのか考えることにする。●文学賞の意義そもそも文学賞の意義がどこにあるのか。賞金を出して選考委員を雇って金と時間をかけて選考するからには、費用以上のメリットがあると思っているから文学賞が存在するわけである。・新人を発掘して育てる。新人とベテランが同じ土俵で勝負すると新人が不利なので、新人育成目的の文学賞は新人賞として別枠になる。新人賞受賞作はたいして話題にならずに売り上げは期待できないものの、新人発掘をやめたらそれこそ文学は先細りで終わる。・作家を競争させる。コンペティションとして他の作家と優劣を競わせることで作品の質や作家のモチベーションを高める。文学賞でも昔からある賞と新しい賞では格の違いがあるので、文学賞ならどれをとってもいいというわけではなく、文豪の名を冠した歴史ある文学賞を受賞することが作家のキャリアになる。・話題づくりする。芥川賞と直木賞は本が売れない時期に本を売るための賞なので、元々話題づくりが目的である。候補作を発表して賞レース化することで、誰がいいだの悪いだのと読者に議論させて盛り上げることができる。賞を受賞した作家の知名度が上がると新しいファンが増えるので、出版社と作家が両方得する。地方文学賞の目的は本の売り上げよりも地域の話題づくりである。マイナーな作家の名前を冠した文学賞も実質的にその作家の出身地を話題にするための地方文学賞だったりする。企業主催の文学賞は会社が文化事業を後援していることのPRである。・作家に食い扶持を与える。あまり存在感のない文学賞がけっこうあるけれど、そういうのでもつらつら受賞歴を積み上げて賞金を回収していくと売れない作家が書き続けるモチベーションになったりする。●芸能人の小説が文学賞の候補になるのが批判される理由上記の文学賞の意義のうち、話題づくりのための賞には芸能人の知名度を利用してもいいはずである。ではなぜ批判されるのか。・専業作家に比べて作品の完成度が劣る。小説は取材や執筆に時間がかかるけれど、忙しい人気芸能人は小説の創作に専念できるほど時間がない。演劇の要領でセリフだけとりつくろっても取材不足でリアリティがなかったりして、専業作家に比べて知識や技術や発想力が劣ってしまう。押切もえが山本周五郎賞の候補になったときは受賞した湊かなえがイロモノと僅差扱いされても原動力にならないと批判してひと悶着あった。文学に限らず芸能人の他業種参入は批判がある。アニメ映画は宣伝目的で芸能人が吹き替えをやるようになってベテラン声優と一緒に演じると浮いているし、実写映画やドラマは俳優じゃないアイドルや歌手が起用されて学芸会扱いされているし、二科展は芸能人御用達になって金で買える賞として批判されていて、どのジャンルでも門外漢の芸能人のせいで品質が低下したことが悪評の原因になっている。ちなみに押切もえは小説を書くだけでなく絵を描いて二科展にも入選しているようで、多方面に色目を使って何がしたいのかよくわからない。・有名人を忖度する不公平感がある。芸能人のファンはマルチな才能が評価されることを喜ぶものの、本好きな読者は各自好きな作家がいるわけで、自分が長年応援している専業作家をさしおいて作家としての実績がなくて書き続ける保証もない有名人が文学賞を横取りするのは面白くない。文学賞は賞レースだからこそ読者は話題づくりと知りつつも競争としての公平性を選考に期待するわけで、才能での勝負に才能以外のコネや知名度を持ち込むのは卑怯である。もし選考委員に作家の素性を伏せて作品だけで評価させたら同じ誉め言葉を言えたのだろうか、どこまで知名度を忖度したのだろうかと、選考委員に対する不信感にもつながる。それに出版社の新人作家に対する態度はひどくて、原稿渡したのに返事がないまま何ヶ月も放置されたとか何度書きなおしても没になったとかの恨み節はいろいろ聞こえる。その一方でピース又吉は担当編集者に丁寧に何度も添削してもらって下駄を履かせてもらった状態で賞レースに参加しているので、編集者の助言がうけられずに試行錯誤している新人作家にとってはドーピングしてセコンドをつけて選考委員の好みも把握して手土産も用意して準備万端の相手の当て馬にされるようなもので不公平である。・芸能人は作家として育ちにくい。いくら宣伝目的とはいえ、未熟な作品が賞レースに加わって悪い目立ち方をするとその分批判も多くなって、文学賞を受賞しようがしまいが批判で才能が潰されてしまう。水嶋ヒロは専業作家になると言って俳優をやめたものの、小説がもはや嘲笑の対象になって、また俳優に戻ってしまった。水嶋ヒロは他の作家が何作も書いてようやく稼ぐような印税を話題性があるだけの未熟な一作だけで稼いだけれど、この小説がいくら売れたところで文学の発展に寄与するわけでもない。もし水嶋ヒロが20年かけて作家修行していたらもっとよい作品を書けたかもしれないものの、知名度を利用して楽にデビューする道を選んで偉大な作家になる道が閉ざされて金目当ての一発屋で終わった。小説というのは時間がかかる芸術である。古典小説を読んで小説の審美眼を身につけるのに時間がかかるし、現代社会を洞察する思想を持つのに時間がかかるし、思想を作品に落とし込む技術を覚えるのにも時間がかかるし、原稿用紙数百枚分を執筆するのにも時間がかかる。谷崎潤一郎は小説家になるのにちょうどいい年齢は40歳くらいで、それより若いと未熟でだめだというようなことを言っていた。その文学修行のための時間をかける気がないと読者に見透かされてしまったら、なんの文学賞を受賞しようが結局はファンしか買わない芸能人本と同じ扱いになって本好きにはイロモノとして敬遠されて、二作目以降は売れなくなる。目先の話題づくりで金儲けして業界を荒らして撤退するような腰掛け芸能人作家ばかりになると、短期的に出版社が儲かっても作家人生の集大成というような傑作が生まれなくなって長期的にみて日本文学は衰退する。・ゴーストライターの疑念がある。芸能人はゴーストライターに代筆させたり、口述したものを他の人に書かせて本にしたり、ブログでさえ事務所のスタッフが書いていたりする。芸能界は裏にやくざがいるので金儲けのやり方が汚いし、芸能人がブログでステマしてファンを詐欺のカモにしたペニーオークション事件が起きたし、レコード大賞が裏金で買われたし、歌詞の盗作もしばしば話題になって創作に対するモラルが低いので、芸能人が金儲けや賞に絡むことをやると何か裏があるんじゃないかと勘ぐられてあまり信用されていない。普段からブログやエッセイを書いている芸能人や個性的な文章を書く芸能人ならゴーストライター疑惑は払拭できるけれど、中途半端にうまくできていると本人が書いたのか疑われる。松本伊代のように自作を読んでいないとうっかり言わない限り読者側ではゴーストライターの証明はできないので、素直に応援できない。それによく芸能人が芸名をかくして本名で出版した(だからコネでなく実力が評価された)という体裁をとるものの、結局は素性をばらしてしまうので話題づくりのためにいろいろ裏工作やってるんじゃないかという疑念が強くなる。・拝金主義への反感がある。綿矢りさと金原ひとみの芥川賞ダブル受賞も批判されたけれど、この批判の根本には出版社は金儲けのためなら何をやってもいいのかという拝金主義への嫌悪がある。最年少受賞、最年長受賞、女子高生、セクシー女優、在日外国人、殺人犯、芸能人と、作品の内容よりも作者の肩書きを喧伝する大げさな話題づくりは売り上げにつながる反面、読者が期待しているのは小説の内容であって作者の経歴ではないので、そのぶん批判が大きくなる。それに本業で食えていて豪奢な生活をしている芸能人が貧乏な専業作家の食い扶持を奪ってまで金儲けするのは浅ましい。賞金がなくても食える人や社会的地位がある人は賞レースに参加せずに普通に出版すればよいし、芸能人としての知名度があるならなおさら文学賞の知名度に乗っからずに自分の知名度で勝負すればよい。金儲けのための文学賞と新人育成のための文学賞を区別して、有名人は新人の賞レースには出さないのが出版社に求められる最低限の良識だろう。蓮實重彦が新人作家を対象にしている三島由紀夫賞を受賞して、受賞した本人が暴挙だと受賞を批判する面白い出来事が起きたけれど、出版社が新人賞の意義を無視してまで話題づくりを優先するのはあきれてしまう。出版社は営利企業だから金儲けするのは当然だ、金儲けしているから他の売れない本を出版できるんだという意見もあるけれど、金儲けをしたいだけなら出版業でなくてもいいわけだし、出版社であるからには良書を売るために努力するべきなのであって、話題優先で価値を無視して小説を売るのでは出版社自体に存在価値がなくなる。出版社自身が文学の価値を否定するようなことをやっているから作家を目指していた才能ある人が他の分野に流れて小説の質が落ちて出版不況になるわけである。●芸能人の小説をどう評価したらよいのか芸能人の小説だからって読まないで批判するな、批判するなら読めというのも出版社のマーケティングの手法で、まったく話題にならないよりは批判されたほうが本が売れる。芸能人だって小説を金儲けの道具にするつもりがなくて時間をかけて本気で小説を書いているかもしれない。しかし出版社がその作品を金儲けの道具として扱っているなら同じことである。私は小説の内容より作者の肩書きを重視する出版社のやり方が気に入らないので、『ふたご』が直木賞を受賞しようがしまいが読まないし批判もしない。評価しないというのが私の評価である。昔は作家の小説のオビに芸能人が宣伝文句を書いて「泣きながら一気に読みました」商法をしていたけれど、いまは芸能人の小説に作家がお墨付きを与える宣伝文句を書いてご機嫌取りをしているようで、芸能人がそんなにいい小説を書けてベストセラー連発するなら専業作家なんかいらないんじゃねーのと思う。作家が芸術観をぶつけ合って競うのをやめて馴れ合ってお互いを誉めて満足してしまったら、もう文学賞は作家が切磋琢磨するコンペとしては役に立たないし、そうなると文学賞で作家を育てる意義がなくなって単なる金儲けのための話題づくりだけになってしまう。出版社の金儲けに付き合あえるような暇な金持ちや、芸能人のファンが芸能人の小説を読めばいい。私は暇でもないし金もないし芸能人に興味がないので読まない。セクシー女優をオーディオビジュアルのアルファベット略のほうで書いたら「本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。」と警告が表示されたので、この場で楽天の言葉狩りに抗議しておく。オーディオビジュアル女優のどこがわいせつで公序良俗に反するのか、なぜセクシー女優はわいせつでなくて公序良俗に反しないのか、ミキタニに説明してほしいものである。
2017.12.22
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最近は「POPOPO」というアバターで通話するテレビ電話アプリが3月にサービスを開始したばかりなのに9月にサービス終了するそうで、川上量生が私財30億円を投じて8年かけて開発してひろゆきやGACKTや庵野秀明とかを取締役にして宣伝して1億円が当たるというキャンペーンまでしたのに大失敗した。サービス終了は資金面の問題ではなくて、想定したより盛り上がらなくて川上の心が折れたのでサービス終了に至ったようである。このように派手に金をかけたのに大失敗してダメージが大きいことをスラングで爆死というけれど、爆死が多いのに前例に学んでいる様子がなくて爆死が繰り返されるので、爆死について徒然なるままに考えることにした。●爆死の例・テクテクテクテク2018年にドワンゴが開発したスマホ向け位置情報ゲームで、動作がかなり重くて異常に電池を消耗して技術的問題に対する不満が多くてユーザーが増えなくて半年でサービスを終了して、開発費8億円をかけたのに総収益が900万円しかなくて爆死した。当時はIngressが流行していたので似たような位置情報ゲームで課金要素を増やして儲けようとしたのだろうけれど、技術力が追い付いていなくてユーザーが楽しむどころかストレスを感じる仕様になって失敗した。・BALMUDA Phone2021年に発売されたBALMUDA Phoneは電卓アプリにこだわってスマホ単体で5億6千万円、ソフトを含めたら8億円をかけて開発して、低スペックなのに10万4800円という強気の値段で販売したら販売台数は2-3万台に留まってたいして売れなかった。2021年度の日本のスマホメーカーはシャープのスマホが372.6万台、京セラのスマホが342.3万台、ソニーのスマホが267.2万台売れているので、それに比べたらシェアを取れるレベルに至っていない趣味スマホ止まりである。寺田社長は2022年のCNETのインタビューで多くの事を学んだからやってよかった、事業の可能性を感じていると言っていたけれど、2023年5月には新機種の開発を断念して結局携帯電話事業から撤退した。とある投資家の学習帳によると2022年12月期の純利益は300万円(前期比99.7%減)、2023年12月期は20.7億円の赤字だそうで、BALMUDA Phoneの失敗以降はブランドの価値も毀損して落ち目になったようである。・BLUE PROTOCOLBLUE PROTOCOLはバンダイナムコスタジオが2014年に開発を開始して推定100億円以上かけて開発して2023年にリリースしたMMOで、アニメ調の見た目で差別化できていたので初動はよくて累計プレイヤー数が60万人、最大同時接続者数は20万人以上いたものの、バグが多かったりUIが使いにくかったりガチャが渋かったりしてユーザーのストレスが多くてユーザー数やガチャの売上が増えなくて、わずか1年半でサービスを終了して、開発時は世界展開を視野に入れていたようだけれど欧米圏ではリリース中止になった。ブループロトコルの運営を担当しているバンダイナムコオンラインは2024年3月期の決算で最終損失82億円を計上したようで、大赤字の大爆死である。開発期間が長すぎたせいでゲームのトレンドの変化についていけなかったゲーム性の乏しさが根本的な失敗原因といえる。その後バンダイナムコオンラインは2025年に親会社のバンダイナムコエンターテインメントに吸収されて消滅した。・CONCORDCONCORDはPS5とSTEAM向けの5対5のヒーローシューターとしてFirewalk Studiosが開発してソニー・インタラクティブエンタテインメントが2024年に発売して、発売からわずか2週間でサービスの中止と全額返金を発表した。開発期間は約8年、開発費は推定2億5000万ドルから4億ドルと言われていて、開発費ぶんが丸損の大爆死である。人気が出なかった理由は明白で、ポリコレを意識した不細工なキャラクター揃いで魅力的な美男美女が一切いなくて、そのうえゲーム性にも特徴がない。『オーバーウォッチ』や『VALORANT』とかの既に人気の類似ゲームがある中でわざわざやるほどの魅力がないし、プロゲーマーやストリーマーも人気がない新規ゲームをやらないのでゲーマーのファンもついてこない。なんでプロデューサーがこの路線で開発したのか意味不明なレベルで、失敗するべくして失敗したといえる。・MetaのメタバースMeta社のメタバースはアバターがしょぼくて、VRヘッドセットのMeta Questは3D酔いを起こすし、Metaが開発したプラットフォームのHorizon Worldsのアクティブユーザー数は約20万人で目標の50万人に達していない。メタバース部門のReality Labsは2019年から2025年半ばまでに累計で推計約780億ドル(約11兆円)の巨額の営業損失を出したそうな。最近はリアル寄りのアバターになって初期のしょぼいアバターから改善されているようで、これから盛り返す可能性がないとは言えないけれど、ユーザーが多少増えたところで11兆円の開発費を回収するのは無理そうである。●なぜ爆死するのか・製作費をかけすぎる予算が少ないと金をかける価値がある部分を吟味してアイデアや機能を研ぎ澄ませて無駄を削っていくけれど、予算が豊富だとどうでもいいものでも実装できてしまって、結果的に何をやりたいのかよくわからない特徴や魅力がない漫然としたものができあがる。いわば贅肉だらけの格闘家に数十人のセコンドがついてあれこれ言うけれど指示に一貫性がなくて何をしたらいいかわからなくて手足をじたばた振り回しているようなものである。経営者が優秀ならリリース前に開発を中止する判断をするべきだけれど、金と時間をかけすぎたことでサンクコストの見極めが難しくなる。それにIT系のサービスは中途半端な仕上がりでもいったんリリースしてからアップデートしていく戦略を取ることが多いので開発途中でやめる判断をしにくくなって、とりあえずリリースしてすぐサービスを終了してブランドを毀損して、傷口を広げて塩を塗る無能ムーブになる。株主と経営者と開発責任者が分かれていたら儲からなさそうな事業には途中でブレーキがかかるけれど、大株主が経営者で開発責任者だったら誰も止められない。Metaはなまじ資金が豊富でメタバース部門が赤字でも倒産するわけではないのでザッカーバーグはメタバース部門をやめられないのだろう。POPOPOもなまじ川上量生が個人で私財30億円を投じたせいで金を出していない人が忠告しにくくなって、これじゃだめじゃんと途中で気づいてテコ入れする判断ができなかったのだろう。川上は「今の社会状況だとPOPOPOは100億じゃ足らねーなとは思っていましたが、まあ、会社の金でなくて自分の金なのでだいぶケチってしまいました。頭30億でトータルは100億から200億かなと思っていましたが、そもそも頭の30億が足らなかったという認識です。頭300億でトータル1000億ぐらい突っ込むプロジェクトする必要がありました」と金持ち自慢の負け惜しみを言っているけれど、1000億突っ込んでどうやって利益出すのか。開発費用が増えるほど黒字化が難しくなるし、もし他人が同じプロジェクトをしていたら投資するだろうかと損益や将来性を客観視して投資家や経営者の目線で合理的な判断をするべきで、それができなくなった時点で爆死の導火線に火が付いたようなものである。・製作者が金持ちクソ野郎無料でも役に立つアプリや面白いゲームが多い中で、開発費をかけすぎると利益を出すのも難しくなって、月額利用料や課金アイテムが高額すぎたりして貧乏な庶民が寄り付かなくなる。開発費が数千万円程度の基本プレイ無料のガチャゲームなら数百万円を費やして上位ランカーになりたがったりアイテムをコンプリートしたがったりする廃課金ユーザーを数人囲い込めばユーザー数が少なくても利益が出るけれど、開発費が億単位になると一般人にもウケるような内容で低額で長期間利用できるアプリやゲームでないと利益が出ない。会社から巨額の予算を引っ張れるプロデューサーはたいてい本人が高給取りで、開発者が庶民の1万円の重みを知らないのでサービスに見合わない値段をつけるのだろう。POPOPOの太陽のアバターが3万円したりして価格に見合うアバターではない。3万円あったらゲーム機を買ったりおいしいものを食べたり旅行したりできるし、たいていの人はPOPOPOのアバターを買うよりも他の用途の方がQOLを上げるための優先度が高いだろう。変な値付けをしている時点でプロデューサーの感覚がユーザーの感覚から乖離していて自信満々に勘違いしているのが丸出しで、ユーザーが満足するサービスを提供できなさそうなうんこ臭が充満している。POPOPOはClubhouseという音声SNSが2021年ごろに一瞬流行ったから自分ならもっとうまくやれるんじゃないかということで開発したようだけれどその考え方も傲慢だし、結局はClubhouse以下のまったく流行らないサービスしか作れなくて、まだサービスの提供を続けているClubhouseのほうがましである。POPOPOが1人に1億円が当たるキャンペーンをして金でユーザーを釣ろうとするのもクソ成金ムーブで、まともな人は金に釣られたゴミどもが集まる民度が低いサービスには関わりたくないだろう。金持ちは自分が成功者だから正しいと思っている傲慢なクソ野郎が多くて、金持ちにうんこ臭いと指摘して嫌われて解雇されるのも損なので、金持ちの周りがイエスマンだらけになって忠告する人がいなくてうんこ臭い自覚がなくなるのだろう。うんこ臭い裸の王様と庶民感覚のギャップが大きいほど大爆死する。・需要を無視して皮算用している製作側は〇億円をかけた大作だから大ヒットするに違いない、有名人を起用したから大ヒットするに違いないと自信満々でリリースして莫大な広告費をかけて宣伝したりするけれど、客からしたらいくら製作費をかけたのかはどうでもよくて、自分の役に立つか否か、面白いか否かが評価基準になる。その製作側と客側のギャップが大きいと大爆死する。うんこを大々的に宣伝してもうんこ臭さが増すだけで客は増えないし、そもそもうんこを作るなっちゅう話である。BALMUDA Phoneは需要を無視して開発されていて、携帯電話はおしゃれなアクセサリーでなくて普段使うものだからこそスペックが低くて電池容量が少ないと不満が高くなるのに、社長がそれを理解していなかった。スマホの見た目をおしゃれにしたいならiPhone用のおしゃれなスマホケースを作るほうが手っ取り早いし、電卓アプリにこだわりたいなら電卓アプリを単体で売ればいいじゃんという話で、庶民は10万円の電卓なんていくら外見がおしゃれだろうがいらない。10万円をポンと出せる富裕層向けに売るならセキュリティをガチガチにして仮想通貨ウォレットの機能を持たせて送金や決済やトレードや税金の計算に特化したなら低スペックでも実用品として経営者や個人投資家が肌身離さず持ち歩く需要があったかもしれない。POPOPOはそもそも通話にアバターを使う需要がなくて、30億円の開発費を回収するには単純に考えてライトユーザー100万人が3千円払うかヘビーユーザー10万人が3万円払う必要があるけれど、他に無料の通話アプリがあるのにアバターに金をかける人は多くないだろう。ユーザー数が多ければアバターが売れなくても広告から収入を得る方法もあるけれど、需要がないサービスはユーザー数も少ないので広告収入も得られない。POPOPOのユーザー数は1万人程度のようで、もしサービスを終了しなかったとしてもユーザー数を増やして黒字化するまでだいぶ時間がかかっただろう。需要がないものにどんなに開発費をかけたところでユーザー数や売上が早々に頭打ちになるので、需要の見極めができないと爆死する。・作品に愛がないコロコロコミックで『ドラえもん』が短期間に同じエピソードを掲載されて連載終了になったのは小学館の経営陣が謝罪の場で作品をIP扱いして藤子側が怒ったのだと言われている。自分で作品を作ったことがない経営者の中には作品に愛がなくて金儲けのことしか考えていない人が少なからずいて、そういう姿勢はクリエイターや客にも伝わるもので、クリエイターや客を金蔓としか見ていない舐めた商売してるなと思われたら客はつかない。アメリカの映画やドラマはやたらとLGBTQや多様な人種が出てきてwoke思想を押し付けるようなものが多くて、オリジナル脚本でやるならまだしもリメイクで原作を台無しにするので原作のファンほど低評価するようになる。先人の作品にリスペクトがなくて金儲けのネタとしか見ていない人が製作費に大金をかけたところで良い作品は作れない。2025年のディズニーの実写版の『白雪姫』は製作費が約5565億円で約260億円の損失だそうで、主演女優のレイチェル・セグラーが原作を古臭いと批判して白雪姫が女王と対決する展開にしてグリム童話の原作を破壊したうえに損するなら作らない方がましである。どんなにおいしいカレーのレシピがあっても勝手にうんこを入れるアレンジをされたらもはやうんこである。7月17日公開のクリストファー・ノーラン監督の映画『オデュッセイア』は推定製作費2億5000万ドルをかけてギリシャ神話に出てくる絶世の美女のトロイのヘレネー役に黒人のルピタ・ニョンゴを起用して予告編の段階で低評価が60万件ついて、公開後は1997年の映画『オデュッセイア/魔の海の大航海』や2004年の映画『トロイ』やホメロスの原作と比較されて酷評されている。ギリシャ神話を再現するなら古代ギリシャ彫刻に似た人を起用するべきだし、黒人を起用したいならアフリカの神話を映画にすればいい。woke思想を広めたいなら著作権が切れた古典の改変をやらないで現代を舞台にしたオリジナル脚本の物語にすればいい。有名な原作を改変して豊富な予算を使って爆死するのはクリエイターとして一番センスがなくてダサい。・キャラクターがダサい芸術は真善美のどれかがあれば鑑賞する人を多少なりとも感動させるものだけれど、中でも外見の美しさは直感的にわかりやすい。少年は格好いい年上に憧れるし、女児はなんか小さくてかわいいものを愛でるし、年頃の若者はセクシーな美男美女に目を引かれるし、オタクは肌色の面積が多いキャラクターに興奮するし、マッチョは筋肉に惹かれるし、人生に疲れた中年は愛玩動物や子供を見てほっこりする。人によって好みは違うのだから、作品やサービスのターゲット層の絞り込みをしたうえでその人たちが好むキャラクターデザインをしないとそもそも関心を持ってもらえない。人気の作品にはたいてい象徴になるような有名キャラがいるものである。例えばゲームだと若者をターゲットにして若者が好む美女のキャラがいて、『ストリートファイターII』は春麗がいるし、『ヴァンパイアハンター』はモリガンがいるし、『餓狼伝説』には不知火舞がいるし、『サムライスピリッツ』にはナコルルがいて、万人受けする美女キャラがいるので他のネタキャラで個性を出すゆとりが生まれる。『ベヨネッタ』や『NieR:Automata』は女性の主人公がキャラ立ちしていて色気があって、キャラに魅力があるのでフィギュアも売れるしファンがコスプレもする。日本のフィクションは素直に美男美女をメインキャラにする一方で、欧米はポリコレに囚われてフィクションに美男美女を出さずにわざわざ不細工なキャラを押すようになって、ポリコレ度が高くなるほど人気もなくなっている。フィクションだからこそ現実にはない作者の理想の美や奇抜な衣装を追求できるのに、わざわざ不細工な人物にダサい衣装を着せる意味が分からない。『CONCORD』の緑の肌の宇宙人のおっさんやデブなおばさんとかのもっさりしたダサいキャラを誰が好きになってグッズを買ったりコスプレをしたりするのか、常識的に考えたらゲームの専門家でなくてもキャラクターデザインの時点でダメだとわかるだろうに、ポリコレの檻に囲われている人には外の美しい世界が見えないのだろう。『ストリートファイターII』の緑の肌のブランカは明らかに脇役のネタキャラだとわかるので笑えるけれど、『CONCORD』の緑の肌のしょぼくれた宇宙人のおっさんを主人公ポジションで出されても笑えない。ポリコレ的な不細工なキャラを出すのは自由だし、『CONCORD』のプロデューサーは緑の肌のしょぼくれた宇宙人のおっさんが活躍する姿を見たくてしょうがなかったのかもしれないけれど、ユーザーははっきりと拒否している。個人製作の芸術作品なら損しようが作者のこだわりを出して個性を強調するのは良くても、商業作品でこだわった挙句に売れないのではこだわる意味がないし、会社に巨額の損害を出すのは商業クリエイターとして無能である。・コラボに頼るコラボに頼らないと集客できないのはそもそも作品に魅力がないということだし、とってつけたようなコラボをしても原作以下にしかならないので原作ファンには刺さらないし、原作ファンでない人は見向きもしない。テクテクテクテクには小林幸子や『新世紀エヴァンゲリオン』の使徒サキエルとかが出てくるようだけれど、どういう世界設定なのか意味不明でかえって魅力を損ねている。POPOPOも『新世紀エヴァンゲリオン』とコラボしてアバターを6500円で売っていて、コラボ相手がワンパターンでエヴァ出しとけばお前ら喜ぶんでしょというマンネリ感が漂っていて、新規アプリとは思えないほど創造性が欠如している。POPOPOがエヴァとコラボするなら音声変換機能をつけてエヴァの声優に似た声でしゃべれるようになるくらいやらないと独自性がないし、そういうバ美肉機能があったら女性アバターで会話したがるおじさんや好きなアニメキャラになりきりたいアニメファンのユーザーが増えたかもしれない。POPOPOを手掛けた川上量生が宮崎駿に人工生命のデモ動画を見せて「極めてなにか生命に対する侮辱を感じます」と批判されたように、川上は作品やキャラクターを金儲けのIPとしか見ていないタイプの人なので、人間らしさとは何かとか人間が何に惹かれるかとかのクリエイターの根幹となる重要な部分を理解できないのだと思う。そんで自分で魅力あるキャラクターや作品を作れなくて安易に他の人気の作品とコラボしたりひろゆきやGACKTや庵野秀明とかの有名人を取締役にして宣伝に使ったりして人気にあやかろうとするけれど、そんな他力本願で節操なくコラボを寄せ集めたものは失敗して当然である。・ユーザーの課題を解決しない娯楽は生活必需品ではないし、好みが分かれやすいし、代替が多いし、流行の移り変わりも早いし、刺激には慣れるので長続きしにくい。生活に必要でないサービスや、客を魅了したり感動させたりする要素がない娯楽作品はいくら製作費をかけたところで大勢の人が関心を持たないので爆死する。例えば生活に必須の無料電話アプリや無料メッセージアプリがある中でどうしてもPOPOPOでないとだめだという機能がないし、着せ替えアプリがいろいろある中でPOPOPOのアバターを好きだと思わせるほどの突出した個性もないし、無料でも使う理由がないものは当然金を払ってまで使わない。POPOPOはウケ狙いの高額のネタアバターを使う娯楽アプリとして設計した時点で失敗していて、特定の人の生活に必須になるような課題解決型のアプリとして開発する方がまだ需要があったかもしれない。例えば通話の音声をアバターの手話に自動変換して耳が聞こえない・聞こえにくい人との通話を補助するアプリなら音声を文字起こしして読むよりも早いコミュニケーションが取れて需要があるかもしれないし、赤字でも障碍者支援として社会貢献になっただろう。他人を踏み台にしたりグレーゾーンで稼いだりした成金サイコパスクソ野郎は貧乏な他人のことなんかどうでもいいので、困っているユーザーの役に立つ製品やユーザーを感動させる娯楽作品を作れないのである。・ユーザーのエンゲージメントが乏しい人気のアプリやゲームはユーザー生成コンテンツが充実している場合が多い。例えばLINEはユーザーがスタンプを作って販売したり自分で使ったりできるので、ユーザーが作った変なスタンプだけでなくて企業が作った高品質な公式スタンプも充実していて、企業にコラボ料金を払わなくても企業側が自主的に公式スタンプを作って友達登録を呼びかけて宣伝したがっている。『ポケットモンスター』シリーズは捕まえたポケモンをフレンドと交換する機能があって、ポケモンを集めるために他のユーザーとの交流を促す設計になっている。『どうぶつの森』シリーズはユーザーが自分のセンスで作った島を公開して他のユーザーと交流している。『スーパーマリオメーカー』はユーザーが投稿した激ムズステージをストリーマーが攻略する動画を上げることでユーザーが勝手に宣伝して興味を持ったユーザーが増えるサイクルになっている。人気のRPGは主人公を細かくキャラメイクして好みの外見のキャラクターを作れたり、MODでNPCをカスタマイズできたりするのでゲームに愛着を持ちやすい。小説や漫画は読者がブログで感想を言って読者同士で交流したり、熱心なファンはコスプレや二次創作をして布教や利益につなげたりする。POPOPOはプリセットのアバター以外に選択肢がないので、ユーザーはアバターのデザインセンスが気に入らなければそれ以上は関心を持たない。最大30人まで同時通話ができる配信もどきの機能があるようだけれど、それでユーザーが収益化できるわけでもないし、雑談で金を稼ぎたい人は投げ銭機能が充実したライブ配信アプリを使って顔を出して表情やリアクションを直接見せる方が稼げるので、本気で配信をしたい人ほどPOPOPOを使う必然性がない。ゲーマーが知人と雑談するなら好きなゲームで好きなアバターを使いつつDiscordという既存の通話アプリで雑談すればいいだけなので、ゲーマーもわざわざPOPOPOを使う必然性がない。顔出しで活動している芸能人やインフルエンサーもPOPOPOのアバターを使う必然性がない。アーカイブ機能もないようで、有名人の雑談の面白い所をファンが切り抜いてショート動画で拡散するのも難しい。イノベーター理論だと新しいものに真っ先に飛びつくイノベータ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Linkを常時起動して無料で無制限に通話できたら事業用で使いたい人が少なからずいると思う。・佐藤二朗主演ドラマ『夫婦同姓刑事』仲良しで身体接触がありすぎる夫婦刑事のラブコメを佐藤二朗主演で撮影して、フジテレビの『夫婦別姓刑事』とどっちの視聴率が良いか対決する。そんで身体接触をめぐる楽屋のトラブルやデマを書く週刊誌への訴訟をドキュメンタリーにして二毛作する。●まとめ金持ちは社会の役に立つサービスや人を感動させる作品作りに真剣に取り組むべきで、それができない無能経営者や無能プロデューサーは退場してその金を有効活用できる他の人に託すべきである。プロジェクトで億単位の大損をしたくない人は私をダメ出し係として雇うと良いよ。あるいは私に10億円くれるといいよ。
2026.07.18
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許嫁の宮を金持ちにとられた学生の貫一がやけになって高利貸しになったら宮が悔悟する話。明治30年から35年まで読売新聞に連載された未完の長編小説。●あらすじ前編:鴫沢隆三は恩人の息子で身寄りのない間貫一を引き取ったら品行方正で頭も良かったので娘の宮と結婚させて家業を継がせようと思っていたものの、宮は音楽院のドイツ人や院長から求婚されていて美人だと自覚していたので学士風情を夫にするのは乗り気ではなく玉の輿を狙っていたところ、富山銀行創業者の富山重平の息子の富山唯継がイギリスから戻ってきて嫁選びをしようとかるた会を開催して金剛石を見せびらかす。貫一は友人に宮との結婚を祝福されて宮も貫一と夫婦になる心が決まっていると言っていたものの、宮が急にため息をついて熱海に旅行に行ってしまい、貫一は鴫沢から宮を富山に嫁がせるから洋行しろと言われたので宮に真意を聞こうと旅行先まで追いかけて行って、宮が金目当てに愛のない結婚をするつもりだと知ると罵って蹴り飛ばして行方不明になる。中編:四年後、貫一は大学を辞めて身分を偽って高利貸しの鰐淵直行の手代になって無慈悲な取り立てをしていると、赤樫の妻の満枝が資金援助するから独立しろと勧めてくるものの貫一ははぐらかす。鰐淵の妻のお峯は満枝が夫を取ろうとしているのではないかと疑って貫一に様子を探るように頼む。富山は写真会会員同士の田鶴見子爵と友人になり、宮は夫とともに田鶴見子爵に招かれて貫一を見かけて高利貸しの手代になっていると知り、宮は恋心に悶えながら無言ですれ違う。遊佐は美人の妻がいるものの鰐淵から連帯責任で借りた金の高利に悩んでいて、金利を払えず、かといって連帯保証人を立てるのも渋っていたところ、友人の蒲田と風早が代わりに談判しようと様子をみると相手が旧友の貫一だったので昔のよしみで元金にまけさせようと試みるものの、貫一は人間をやめたといって話に応じず、蒲田と風早は激高して首をしめて力づくで証書を盗んで貫一を追い払う。満枝は貫一を色気で篭絡して鰐淵に取次ぎを頼もうとするものの貫一は応じない。貫一は二人の曲者にボコボコにされる。後編:貫一は全治三か月の重傷を負い、高利貸しが襲撃されて入院した事件は新聞で報道されて、鰐淵が襲撃されたという誤報を聞いて息子の直道が駆けつけて天罰だと言って親に高利貸しを辞めるように説得するものの、鰐淵は無抵当だから高利だと皆承知して借りているので不正はないといって応じない。宮は貫一と別れてから恋を自覚して後悔して富山を夫にする決意がないまま結婚して、初子は肺炎で死んでしまって宮は再び子を産むことを決意するものの、嫁いだ理由を自覚しているがゆえに恋人を捨てたことを苦しみ、夫に寵愛されて世の娘が憧れる立場になっても毎日やることがなくて豊かなことに飽きて引きこもりがちになっていて、貫一を見てからは自分の過ちを夫の罪だと思うようになって夫を嫌う。宮は訪ねてきた母に貫一を見かけて心配して消息を知りたがるものの母親はあてにならない。満枝は人妻なのに貫一をかいがいしく看病して美人クリイムとして浮名が流れ、貫一は鰐淵に満枝との間柄を疑われて見舞いを有難迷惑だと断る。鴫沢が見舞いに来ても貫一は知らんと無視するものの、鴫沢が貫一を捨てたのではないので縁を切りたいなら貫一の言い分を聞いて誤解を解いてから縁を切るというと貫一は黙って涙を流し、満枝が間をとりなすと、鴫沢は人妻なのに貫一の看病をする満枝を疑う。鰐淵家に謎の老女が訪ねてきて、鰐淵に会うなり懲役に行った雅之の敵討ちだと言い始めて、鰐淵は連帯者をでっちあげて私文書偽造で捕まった債務者を思い出して、きちがいとしてあしらうと老女は毎日訪ねてくるようになり、強風の日に老女に放火されて老女は逮捕され、家は全焼して鰐淵夫婦の死体が見つかって金庫だけが残る。貫一は焼け跡で鰐淵夫婦の死を嘆いて、直道に真人間になってくれと言われるものの断る。続金色夜叉:宮が乗った車夫が酔っ払いに当て逃げして、相手を見ると貫一の旧友の荒尾だった。荒尾は貫一が身を誤ったのは宮のせいで、宮が悔悟したのはよいがもう遅いといい、悔悟して自ら許されたのは誰にも許されないよりは勝ると宮を媛友として慰めるものの、宮を恨んでいるので貫一への謝罪のとりなしは断り、貫一のために宮が富山を欺くことも咎めて、敵ではないけど力にはなれないという。直道は親が高利貸しで稼いだ不義の遺産を相続するのを拒否して貫一に相続させて人のために使えと頼むものの、貫一は焼け跡に家を建てて相変わらず高利貸しの暴利をむさぼっていた。荒尾は貫一を訪ねて旧友として金で慰めを得られないなら宮が悔悟したので許してやれと忠告して、貫一は自分のことより参事官だった荒尾が落ちぶれたのを気にすると、満枝は荒尾と面識があって荒尾は満枝に三千円の借金がある債権者だと貫一に教えて、貫一は自分が肩代わりしようと事情を聴くと、荒尾は恩人の大館の連帯保証人になって選挙に失敗した運動費用を払わされることになっていた。貫一は宮の悔悟の手紙を封を開けずに燃やして、千葉に行ったときに隣室にいた飽浦雅之と婚約者の鈴が話すのを聞いて、鈴が親の反対にもかかわらずに雅之と結婚したがっているのに感心する。貫一の家に絶交したはずの荒尾が訪ねてきたというので何の用かと会ってみると、荒尾ではなく宮で、貫一は宮が話を聞いてほしいというのを無視して、満枝からも逃げて外出して家に戻るとまだ満枝が待っていて、貫一と宮を殺して死んでしまいたいというけれど貫一は満枝に殺される理由がわからず、赤樫に事情を話すというと満枝は赤樫に金で無理やり囲われただけで夫婦だと思ってなくて敵も同然だから話しても無駄だといい、自分の感情を汲んでくれと言い寄っているところに宮が乱入してくると、満枝は宮を押し伏せて刃物を取り出して、宮は貫一が殺さないなら自害すると言い出して、首を切ったうえに外に出て浅瀬に飛び込んで死んだのを見て貫一は宮を許して、宮が悔悟したなら自分も人の道に対して悔悟しないと済まないと宮の死体を背負って一緒に淵に沈もうとすると夢だった。続続金色夜叉:貫一は自殺するか過ちを償うために生きるか悩むものの、大口貸付の取り立てのために塩原の温泉宿に行くと、宿泊している狭山とお静(芸名は愛子)が訳ありで逢引していて、失恋しか経験のない貫一は二人の恋の行方が気になって二人が服毒心中しようとしているのを止めて相談に乗ると、狭山は主人の金を遊びに使って苦し紛れに相場に手を出して三千円を使い込んで、使い込みを許す代わりに主人の姪と結婚しろというのに気乗りがしなくて縁談を断ったら告訴されて、お静にも身請けの客がついてそれが富山だったので振って狭山と添い遂げるつもりだというので、貫一は純愛に感動して金を立て替えて世話してやることにする。新続金色夜叉:宮は病気で寝込んで貫一に悔悟の手紙を書き、貫一も今度は手紙を焼かずに読むものの引き裂くと、お静に顔色が悪いのを心配されて、男と女はどっちが情愛が深いかとお静に訪ねると、女の歳によって見惚、気惚、底惚があると聞いて感心する。宮はヒステリーの病気になって富山は遊び歩いていてこのまま死ねたら幸せだと手紙を書く。未完。以後の構想は宮が発狂して別家に幽閉されて富山は本家に妾を入れて宮が捨てられて、貫一が宮を引き取って高利貸しを廃業して荒尾の借金も返してやる展開になる予定だったそうな。●感想三人称の文語体の文章。文語体に慣れていないと読みにくい。当時は「彼女」という言葉がなかったのか、女性も「彼」と呼ばれているので男女両方いる場面だと誰の描写なのかわかりにくい。テクニックとしてはあちこちに趣向が凝らされていて、「葡萄酒の紅を啜り、ハヴァナの紫を吹きて」と色を対比する描写をしたり、会話文のかぎかっこの前に発言者の頭文字をつけたり、貫一が独立を唆されていることをお峯に追及されているときに栗の中から悪い虫が見つかるという暗喩を使ったりして、昔の小説の割には現代人でも読みうる技術水準になっている。高利貸し→氷菓子→アイスクリイム→バイスクリイム→美アイスクリイム→美人(びじ)クリイムという洒落が読者に通じてなくて解説しているあたりはギャグ慣れしていない昔の小説ならではのぎこちなさ。しかし文語体ならではのよいところもあって、鴫沢が貫一に宮の結婚を告げる緊迫した場面で「お前は矢張私の家督よ、なう」「何かに就けて誠に心細いわ、なう」と急にツイッター風につぶやきだして、一世紀ごしのギャグの不意打ちが面白いなう。物語の展開は序盤でいきなり貫一の激昂シーンがあって展開が早い。義理と愛情と人情のテーゼとその道理を覆す金のアンチテーゼもわかりやすく、貫一は金のせいで鴫沢に義理を裏切られ、宮に愛情を裏切られ、復讐のために旧友相手にも引かずに恨みをかってボコボコにされる姿を書くことで貫一の絶望を強調している。『闇金ウシジマくん』と違って高利貸しハザマくんはアウトローではなくて金持ちに人生設計を壊された復讐の代償行為としてやさぐれて不器用に高利貸しをしているので読者も感情移入がしやすい。単なる貫一の失恋物語にせず、鰐淵親子に高利貸しの是非を議論させて天引き3割3月縛りの高利貸しというビジネスについて掘り下げて問題提起している点はよい。弱みに付け込んで貸すのは人の道に反するという直道と、借りるやつがいるから貸すのであってそれが不正なら社会が不正なのだという直行の理屈では、私は直行のほうを支持する。金利に納得できないなら借りなければよいし、金利が高いのがだめなら法律で金利を変えればいいのに、法律を批判せずに人の道がどうのこうのと道徳を批判するのはまだ民主主義が根付いておらず商法も未熟な明治時代ならではの議論かもしれない。人物造形としては、鴫沢、貫一、宮、鰐淵、直道、荒尾のそれぞれが自分の言い分があって人間味があってよい。誰が悪いのか、どうすれば不義を許せるのかは簡単に決着がつかない問題なので小説の中で対話させて議論する価値がある。いろいろな登場人物に言い分を言わせることで貫一と宮だけの問題ではないポリフォニーになり、そこに読者が共感する余地が生まれる。しかし皆頑固で意見をまげなくて死ぬだの殺すだと絶交するだの言いだすのは極端すぎて、泥仕合になって落としどころのジンテーゼがなくなっている。本来は常識人の荒尾の意見を採用すれば決着がつくところなのに、宮の死のクライマックスで物語を終わらせ損ねてやっぱり宮は死んでなかったという夢オチに逃げて落としどころさぐり直してだらだら続けたのは構成上の失敗である。夢オチにするにしてもどこからどこまでが夢なのかが不明。蒲田と風早が証書を強盗した件にオチがなく、貫一を襲った二人組の素性も不明なままで、満枝の貫一への恋に決着がついておらず、あちこち投げっぱなしで続続編と新続編で狭山のエピソードを新しく展開しても貫一が夢の中で宮を許したことで復讐の緊張が途切れてその後は蛇足になっている。たとえば貫一がボコボコにされたあとに鰐淵が遊佐の証書がないのに気づいて、証書を持っていた蒲田と風早が襲撃犯として疑われて貫一に助けるように証言を求めてそこでまた貫一の人間性が試されるという展開にもできた。雅之と鈴の恋愛も貫一は聞き耳を立てただけで直接関わっていないけれど、鰐淵の家が放火された損害賠償を雅之に請求して貫一と雅之を絡めて貫一の倫理観を掘り下げるという展開にもできた。その辺のエピソードの拾い方が弱い。波乱万丈のロマン主義の長編小説で、文語体の読みにくさを差し引いても現代の軟弱な小説よりはよほど読みごたえがあってよい。江戸時代の価値観が残りつつも自由恋愛ができるようになって貧富の差が大きい明治時代に恋愛や高利貸しをテーマにしたのは目の付け所がよく、人気小説になったのも必然といえる。欠点があるとはいえ古い小説だからといって読まないのはもったいないくらい面白いし、尾崎紅葉が37歳で死んだのももったいなくて、長生きしていればもっとよい小説を書いたかもしれない。さてこの小説での問題提起である何のために金を稼ぐのか、金のために愛のない結婚をして女性は幸せになれるのかという点は現代でも考えるに値するテーマだと思うので考えることにする。男尊女卑の明治時代でさえ宮は姦婦として批判されたけれど、男女平等の現代でも女性は相変わらず自分より稼ぐ男性との上方婚しかしようとしない。日本人女性は学歴があるのに社会で才能を発揮するよりも専業主婦になりたがって自立していないと外国人に指摘されたりするけれど、なぜ日本人女性は男女平等の先進国で教育をうけながら男尊女卑の途上国みたいな他人頼りの玉の輿志向になるのか謎である。『花より男子』は庶民の女子がイケメンの金持ちたちにちやほやされる人気少女漫画でドラマ化もされて、男子の私でさえ知っているくらいだからたいていの女子なら知っているだろう。しかしキャリアウーマン版の島耕作やサラリーマン金太郎みたいな女性が実力で成り上がる人気の物語を私は聞いたことがない。女医のドクターXや科捜研の女が活躍するドラマとかはあるけれど、限定された職業での女性の活躍の物語なのでキャリアアップの話とはまた違うし、政財界で出世して女ボスになってブイブイ言うような物語がないのである。フィクションにおいても女性のキャリアアップよりも玉の輿のほうが需要があるようである。知能や体格や外見や健康という遺伝子に惹かれる恋を生物としての本能の生存戦略として考えれば、金銭や財産という金融資産に惚れるのも社会的な生存戦略として別に非難されるものでもないように思う。現代人が必死に金を稼ぐのは広い家とか栄養のある食べ物とかを金で調達して生存に有利な環境を確保するためで、巣作りがうまい雄が雌に選ばれて遺伝子を残しやすいからである。遺伝子は属人的であるけれど、金融資産は非属人的である。非属人的なものに惹かれるということは相手が好きなのではなくて金が好きなのだということになるわけで、じゃあ男女平等の時代なのだから女性は自分で金を稼いで、好きでもない金持ちと結婚しないで、女版富山となって金剛石をみせびらかして好きなイケメンを金でたらしこめばいいじゃんという話になる。自分で出世するキャリアウーマンや投資するミセスワタナベが金に価値を見出した女性のあるべき姿で、金に価値を見出しているのに自分の才能と努力で金儲けを追求する気がなくて自分磨きの習い事という金儲けに関係ない努力で玉の輿になろうとするのは非効率な手段で欲望を満たそうとする欺瞞である。それに男尊女卑で教育と賃金の格差があるイスラム圏ならまだしも、日本は結婚で人生が一変するほどの男女の賃金差はない。となると、日本人女性が一様に玉の輿上方婚志向になるのは何かしらの特有の原因があるにちまいない。そう考えると社会制度としての男女の不平等ではなく、日本人特有の不安遺伝子のせいで日本人女性は自分が直接金儲けするリスクや責任を避ける欺瞞的な行動をとって玉の輿になりたがる説を思いついた。日本人には俗に不安遺伝子と呼ばれる遺伝子があるので保守的になってリスクを避けがちだけれど、男性と女性とでは女性のほうが一層保守的になる。日本人女性は横並びを好んで責任を負うのを嫌がって管理職に抜擢されても断る人がいるようだけれど、リスクを回避しつつリターンを最大化する究極形が玉の輿志向なのではなかろうか。結婚したところで昭和のように跡取りの長男を産めという重圧があるわけでもなく、親戚の畑仕事を手伝えという面倒な人付き合いがあるわけでもなく、家電のおかげで家事は楽だし、親の介護も施設に丸投げできて、主婦は夫から定収入を得られて自由な時間も持てて、老後の資産も蓄えられる。女性は金持ちに好かれさえすれば労せずして生涯快適な生存環境が手に入るわけである。結婚して専業主婦になるリスクとしては夫のリストラと離婚くらいしかないけれど、高給取りの有能な夫ならリストラされにくいし、不倫とか家事放棄とかでもしなければ有責で離婚されることはないので大したリスクではない。鴫沢にしても別に家業が傾いているわけでもなく、すぐに金が必要な事情があるわけでもなく、富山とビジネスの取引があるわけでもなく、貫一に跡取りとして不満があるわけでもないのに、老後が心細くて金持ちと親戚になったほうが頼もしいからという理由で富山との結婚を決めていて、これは金銭欲というよりは老後の不安からの過剰なリスク回避である。直道が父親に高利貸しを辞めろというのも高利貸しが非道だからというよりは襲撃される危険があるという不安からの防衛反応で、リスクを自覚している鰐淵がリスクがあるからやめとけという説得を受け入れないのは商売人としては当然である。登場人物の行動原理の根底に不安があるのが日本の小説の特徴かもしれないので、不安を軸に他の小説を分析してみても面白いかもしれない。愛のない結婚で幸せになれるか否かという点は、子育ての段階で問題が顕在化するのではないかと思う。金持ちの子供がぐれているというのはよく聞く話で、夫に愛情がないのはエッチでごまかせても子供に愛情がないのはごまかせない。子供は自分がいい子でも悪い子でも親が変わらずに愛してくれるかを試すために非行をして親の愛を量るらしいけれど、金に任せておもちゃを買い与えて愛情がないのをごまかすような母親では子供をスポイルして非行を止められないので、母親の育て方が悪いのだと普段家にいない夫から批判されることになるのが典型的なパターンである。いくら金があったところで自分の利益を最優先するような女性では家庭生活がうまくいかないというのは神の見えざる手の調整とでもいうべきなのだろうか。この小説では子供のことまで書くつもりがなくて貫一と宮を元鞘に納めて終わるつもりだったようだけれど、恋愛小説は男女二人の一代限りの問題として終わらせてしまうのは物足りない。パール・バックの『大地』みたいに結婚後の家庭や子孫の恋愛まで書くような長期的な視点を持った恋愛小説が増えれば恋愛小説というジャンルはもっと面白くなるかもしれない。★★★★☆
2018.03.25
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誘拐された過去を持つ小説家がその誘拐事件を書いた「残虐記」という原稿を残して失踪する話。●あらすじ小説家の小海鳴海こと生方景子がケンジからの手紙を読み、「残虐記」の原稿を残して失踪して、夫が妻の指示通りにその小説を編集者に届ける。「残虐記」は景子が10歳のときに25歳の安倍川健治に誘拐されて、鉄工所の上にある部屋に一年間監禁されたときの回想。ケンジは昼の顔と夜の顔を使い分けて、昼は乱暴に景子を脅し、夜は小学生のふりをして景子と仲良くなろうとする。ケンジは景子をみっちゃんと呼び、なぜみっちゃんと呼ぶのかと景子が聞くと、みっちゃんは病気で死んだのだといい、部屋には「おおたみちこ」のランドセルがあった。景子は隣の部屋のヤタベさんに助けを求めようとヤタベにメモを残すものの、ヤタベは共犯で覗き穴から景子を見ていたのだった。メモは消え、ヤタベはいなくなり、景子はヤタベの部屋を掃除に来た社長の奥さんに発見されて家に戻るものの、家庭は崩壊した。景子は大人を信用しなくなり、ケンジと交換日記をしたことを検事にも話さないことにする。その後、おおたみちこという名前の行方不明の子供はおらず、発見された死体は子供ではなく、18歳のフィリピン人娼婦アナ・マリア・ロペスと判明する。みっちゃんとは誰なのか、助けを求めたメモはどこに消えたのか、ヤタベはどこに行ったのか、様々な謎が残り、景子はケンジの性的妄想を想像する性的人間になって妄想で真実を見つけようとする。ケンジが赤いランドセルを買ってみっちゃんと名乗って女子小学生ごっこをしていると、ヤタベが買った女にオカマだと馬鹿にされて殺したという妄想。景子は絵画教室で会ったタナベという耳が聞こえない用務員がヤタベだと確信して、ケンジはヤタベの息子として引き取られてホモセックスさせらていて、ケンジがヤタベを喜ばせようとしてマリアを連れてきて、ケンジは寮のミノルがケツを掘られているところを目撃したことを思い出して興奮してマリアをみっちゃんと呼んで監禁して、マリアが子供を産む際に大量出血して死亡してヤタベと一緒に埋めたというのが事件の真相だと検事に言い、ケンジに恋をしたと書いて「残虐記」は終わる。最後に夫は編集者からの電話に対する返信を書き、「残虐記」はノンフィクションではなく一部が改変されたフィクションだと言い、鉄工所の社長夫婦も共犯でケンジがメモを見て景子を助けたという説を提示して終わり。景子の夫から編集者への手紙の一人称と、作家が自身の体験をつづる体裁の一人称。文章は描写のペースが安定していて読みやすく、エンタメ小説としては文章がよく書けているものの、あちこち雑な部分がある。たとえば単行本の188ページに「ケンジは指示を仰ごうと廊下に出て、ヤタベさんの部屋の扉をノックしたが、ヤタベさんは現れなかった」という描写があるが、ケンジはヤタベは耳が聞こえないと知っているのに扉をノックする行為がおかしい。設定と矛盾する描写を校正が見落としたんだろうか。それに140ページでマリアと書いていたのが194ページ以降ではアナと書いていて表記にブレがある。景子の妄想の変化を区別するためにあえて呼び名を変えたのか、あるいは単なる呼称の統一ミスなのか判断がつかない。景子は「私が死んでもこの稿がパソコンの中に留まって誰の目にも触れないこと、それが私の唯一の救いである」と原稿に書いたのに、夫によると原稿が印刷してあって編集者に送れとポストイットに書いてあったという、動機と行動の不一致に意味があるのかないのかもよくわからない。物語の見所は真実がどこにあるかという点。最後に夫が新しい解釈として「社長夫婦とヤタベとケンジは共犯で、ケンジは末端の拉致役だったのにすべての罪をかぶせられて、ケンジが景子のメモを見て景子助け出して、景子は出所したケンジの手紙を読んでキモイ夫を捨てた説」を付け加えて、妻が妄想で導き出した解釈とは違う解釈で物語が終わる。最後に解釈をつけたす部分を物語の面白さとして作者は意図したのだろうか。語り手を疑うというのはナラトロジーにおける一つのテクニックである。しかしそれをやると、物語のリアリティの根幹まで揺るぎかねない諸刃の剣となる。物語における現実の軸をどこに置くかで物語が面白くもなるしつまらなくもなる。この小説の場合は編集者に手紙を送った景子の夫を基準にしているらしいけれども、語り手を疑うことができるということは景子だけでなく夫も疑うことができることになる。夫が事実を書いていると仮定するなら景子が書いていることはうそになるものの、景子が事実を書いていると仮定するなら夫の編集者宛の手紙は嘘になる。読者が語り手を疑うという場合では、私のようなひねくれた読者は作者が想定していない解釈をあえてやりたくなってしまう。「景子を殺したか監禁したかした自称夫と名乗る誰かがいて、景子がノンフィクションとして書いて公表するつもりもなくパソコンに残していた原稿を入手して、自発的な失踪に見せかける隠ぺい工作としてフィクションとして解釈できるように歪曲して編集者に信じ込ませようとした」という解釈もできるかもしれない。「誘拐事件のトラウマで独身をこじらせた景子が自分には夫がいると想像を膨らませて架空の夫になりきってしまい、妻の景子が失踪したと思い込んでいる」という解釈もできるかもしれない。「桐野夏生という作家がどうせ週間アスキーの連載だからミステリ好きな読者は誰も読まないだろうと手を抜いて、どうとでも解釈できてオチがないミステリ小説を適当に書いた」という解釈もできるかもしれない。語り手の言葉が疑われている状況において別の疑わしい語り手による疑わしい解釈を付け足したところで、それは私にとっては物語の面白さにつながらないし、むしろ技術的失敗にみえる。私としてはエンタメ小説は一つの筋道だった面白い物語を提示してくれればそれで十分で、解釈の多様性はいらない。ミステリにおけるどんでん返しはそれまでにもっともらしく見えていた論理を完膚なきまでに論理的に覆すからこそ面白いのだけれど、この小説のように一つの解釈に別の解釈をぶつけるだけでどっちが論理的に正しいかもわからない状態では物語にオチがつかない。ヤタベは捕まっていないし、失踪後の景子がどこでなにをしているかも不明だし、景子と夫のどっちが嘘をついているのかも不明。真相は誰も知らず、語り手も信用できず、読者が小説内の手がかりで論理的に真実を証明することができないというのがミステリで一番しらけるパターン。帯では『誘拐。監禁。謎の一年間。そして、25年後の「真実」。』『誘拐犯と被害者だけが知る「真実」とは……。』とやたらと真実を煽っているものの、結局真実ってなんだったのよさ?真実がどうこうを売りにするなら真実がわからないのは小説の構図として失敗だし、悪く言えば帯の文句は読者をだます詐欺である。そもそも証拠に基づく推理をするのでなく、真実を妄想しただけでオチがないというのはミステリとしては欠陥品で、こんなのがミステリ扱いされてしまったら警察も名探偵もいらんがな。というかそもそもこの小説はミステリではなく、作者はポルノを書きたかっただけなんじゃなかろうか。まじめに真実を考えて損した気分。★★☆☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】残虐記 [ 桐野夏生 ]価格:464円(税込、送料込)
2015.05.21
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高市早苗が自分への信任を問いかけて衆議院を解散して総選挙をした結果、自民党が2/3以上の352議席を得て比例候補不足で14議席を他党に譲るくらい圧勝して、中道改革連合は大敗して167議席から49議席に減って、参政党は参院選に続いて好調で2議席から15議席に増加、共産党やれいわ新選組とかの左翼政党は議席を減らして新興勢力のチームみらいが11議席を得て目だって議席を増やしたような結果になった。自民党の衰退について考えるという記事でも考えたけれど、岸田政権と石破政権で自民党の支持率が低下して単独過半数割れした中での歴史的大逆転劇で、数十年後には高市政権で日本が良くなったとか悪くなったとかいろいろ言われるような転換点だと思うので、これについて考えることにした。●各政党への感想・自民党前回の総裁選で石破と高市の二択になったとき、自民党員は高市だと裏金問題で選挙で勝てないということで石破を支持して総裁にしたものの、保守層が離れて選挙でぼろ負けして、結局は総裁選で高市総理になったら保守層が戻って大勝した。自民党にとっては石破政権は無駄な一年間で、最初から高市を総裁にしとけばよかったのだけれど、日本保守党や参政党とかの保守の選択肢ができた点では石破政権にも存在意義があった。高市個人が人気があるというより、今までの自民党政権の緊縮財政への不満と、積極財政で現状を変えてほしいという期待が両方あったのだろう。反日左翼マスコミの偏向報道もかえって自民党の支持につながったと思う。NHKのダッチアングルで画面を傾けて不安を煽る印象操作や、時事通信の「支持率下げてやる」発言とかは、頑張って働こうとしている高市をいじめている構図になるけれど、日本人の気質として頑張っているのに不当にいじめられている人を応援したくなるものである。政権を批判するにしても堂々と政策を批判して政策論争をすればいいのに、姑息な手段で印象操作をしようとするからマスコミの信用がなくなって、若者はもはや新聞もテレビも見ないのでマスコミの印象操作は通用しないし、かえって反日左翼マスコミの逆が正しいものに映る。しかし自民党が勝って政権基盤が安定したからといって必ずしも良いとはいえなくて、私は小泉政権のときのように自民党が勝ちすぎるとろくなことにならないと思う。自民党が過半数を取れない間はちゃんと野党の政策も検討して折衝するようになったのに、2/3の議席を取って参議院で否決された法案を衆議院で再可決できるようになって、また増長して野党を無視して好き勝手に強行採決をやりかねない。高市が何をするかだけでなくて自民党総裁選が3年に1回行われていて高市総裁の任期が2027年9月までなので高市が続投するとは限らなくて高市の次の自民党総裁が2/3の議席をどう使ってくるのかも重要で、最悪のシナリオは高市が病気や暗殺とかで早期退陣して次に自民党左派が総理になって高市チルドレンの新人議員が財務省のレクチャーを受けて緊縮財政派になるパターンで、移民受け入れ拡大や増税や緊縮財政とかがゴリ押しされかねない。特に経済政策は信用できなくて、経団連や経済同友会が労働力としての移民受け入れや消費税増税や緊縮財政を要求しているのでいずれ増税すると思う。2年限定の食料品の消費税減税をやるかどうかもわからないし、やるとしても「減税をやってみたけど景気が良くならないしインフレが加速したからやっぱり増税するしかないね。貧乏人には給付付き税額控除やるからもう消費税を増税してもいいよね」と中途半端な減税がかえって増税の踏み台に使われる可能性もある。政策を理解しないで人気投票みたいな感じで自民党に投票したB層の人たちがずっと支持し続けてくれるわけでもなくて、高市政権の高圧経済は投資で需要を創出して財政支出を増やすかわりに税収も増やすやり方なのでインフレを伴うけれど、それを理解せずに生活が苦しいのに物価高をどうするんだと国債発行額が増えているのはどうするんだと一面だけ見て文句を言う人たちも出てくると思うし、時間がたつほどB層の熱が冷めていって支持率は落ちていくと思う。今回の高市政権が自民党が主要政策を通す最後のチャンスで、野党第一党だった立憲民主党が弱体化した今では総裁選で石破を支持していた自民党左派が一番邪魔な勢力になる。早速岩屋が新グループを立ち上げて高市が間違った方向にいったらブレーキをかけるつもりだという報道が出ている。政策を実現するために信任を問いかけて強引に解散して国民はその政策を支持したのだから、また石破や岩屋や村上誠一郎とかの自民党左派が高市を妨害して憲法改正やスパイ防止法とかの重要な政策が実行できないようなら期待が大きい分だけ失望も大きくなって、安倍でも高市でもだめなら誰が総理になろうが自民党である限りもう改憲は無理だと保守層が自民党を見限って日本保守党や参政党とかに分散して多党化政治に向かうだろう。・中道改革連合中道改革連合は旧公明党の議員は比例の上位で当選する一方で、旧立憲民主党の議員は大敗して小沢や安住や枝野や岡田とかのベテランも落選した。旧立憲民主党の議員たちが選挙で当選することを目的にして真逆の政策に転換して公明党の傘下に入るのはどう考えても愚策で、旧立憲民主党の支持者が離れるうえに創価学会を嫌う無党派層も離れて支持が増える理由がどこにもないのに、野田は前回の衆院選で共産党と選挙協力したことで支持者が離れたことを理解していないので同じような間違いを繰り返すのだろう。立憲民主党基本政策は2021年3月から更新されていなくて、「原子力発電所の新設・増設は行わず、すべての原子力発電所の速やかな停止と廃炉決定をめざします。」と明記してある。旧立憲民主党系の中道改革連合の議員は衆議院では原発再稼働を主張して、参議院の立憲民主党の議員は原発廃止を主張するのは筋が通らない。衆議院と参議院の両方で中道改革連合に統一するならまだしも、中途半端にしたら結局何をしたいのかわからなくなる。今回落選した旧立憲民主党の議員は支持者を裏切る不義理な政策転換をしたうえで負けたのは大きくて、もし参議院でも中道改革連合に一体化したら2028年の参院選選挙で衆議院と同様に議席を減らすだろうし、あるいは一体化せずに立憲民主党から出馬してやっぱり原発に反対すると主張を変えてもどうせ議席がほしいだけでまた主張を変えると思われて信用されないだろうし、再起が難しいだろう。選挙の戦い方もダメで、高市の存立危機事態発言で中国が怒った、高市の身勝手解散だ、高市がNHKの討論から逃げた、高市を支持すると戦争になる、と高市が主語になっていて、自分を主語にして自分が何をしたいのか、日本はどうするべきかを語っていない。政権批判をするなら評論家でも週刊誌の記者でも無職のおっさんでも誰でもできるし、衆議院議員は立法するのが仕事なのだから高市個人への批判でなく政策を焦点にしないと支持者が増えようがないので、国民感情をコントロールする法案とか足を組んでクリームパンを食べる動画の拡散を禁止する法案とかを掲げて政策で勝負するべきである。野党の他責思考が染みついている自覚がなくて、高市政権を潰すのを目的にして国民を見ていないのだから口先だけで生活者ファーストと言ったところで支持されなくて当然で、中道改革連合の旧立憲民主党系の議員は負けるべくして負けたと言える。落選した議員は無職のおっさんとして好きなだけ高市批判をすればよい。新代表の小川淳也にしても記者に政策を聞かれても何をしたいのか具体的に言えない有様で、自分たちでさえ理解していないことを有権者が支持しようがない。公明党が自民党との連立を解消したのもかえって自民党のアシストになって、創価学会を嫌う人たちが自民党に投票しやすくなった。旧公明党自体は旧立憲民主党に入るはずだった比例票をもらって議席を増やしたので損はしていないけれど、自民党は創価学会員の選挙協力がなくても自力で小選挙区で勝てることを証明してしまったのでもう公明党と自民党との連立の可能性はなくなった。斎藤代表は中道改革連合が大勝したら高市に責任を取らせて退陣させてまた自民党の左派と連立政権を組んでやってもいいよという上から目線の皮算用をしていたようだけれど、反日マスコミの中道寄りの偏向報道を見て勝てると誤解したのだろうか。私は立憲民主党も公明党も親中派なので嫌いだけれど、公明党が立憲民主党を誘い込んで潰したのはグッジョブだと思う。・日本維新の会維新は34議席から36議席に微増した。大阪の自民党が腐敗して大阪府民が自民党を支持しなくなって維新に取って代わったという地域特有の事情があるので、大阪での選挙は強い半面で、相変わらず大阪以外には勢力が拡大しない。自民党との連立で影響力が増したとはいえ、目立った変化がない結果になった。・国民民主党国民民主党は連合の組織票で安定していて27議席から28議席に微増して、旧立憲民主党の議員が惨敗している中で議席を維持できたのは健闘したし、「対決より解決」を目指して国会での政策提言をちゃんとやってきたことが評価されたと言える。しかし玉木が日本労働組合総連合御用達の町中華の店主で満足してしまって宰相の器でなくて、連合の芳野会長の言いなりになって中道改革連合寄りの姿勢を見せたのはよくない。立憲民主党を見限った人が政策が似ている国民民主党に投票せずに自民党に投票してしまって無党派層の受け皿になれていなくて、いい政策を主張しても玉木がぶれてしばしば二択を間違ってそっちじゃねーだろという方向に行ってしまうのが無党派層の支持が増えにくい原因だと思う。・参政党参政党は結党当初のメンバーが神谷と反目して離散して不安定だったものの、地方議会にも議員を送り込んで着実に支持者を増やしていていて小選挙区では候補者の知名度がなくて勝てなくても比例票で参院選と同規模の15議席を獲得していて、高市人気で保守派の票が奪われる中でも支持基盤ができて安定してきた。陰謀論だのスピリチュアルだのマルチ商法だのとさんざん批判されながらも議席を増やしてきたので、神谷が信用を失うほどの大失敗をしない限りは今後も衆議院でも参議院でも10-20議席程度は取り続けると思う。参政党に政治の素人が多いのは良し悪しがあって、既得権益とのしがらみがなくて庶民目線で問題点を指摘できるのは良いけれど、まともな政策が提案できるかは不安がある。これから議員経験者が増えて議員や秘書の質が高まれば支持者も増えて小選挙区でも勝てるようになると思うし、今はまだ党としての力をつけるための準備期間という感じ。・日本保守党保守党は岸田・石破政権中に自民党から離れた保守派の受け皿ということもあって保守派の高市が人気の間は逆風が吹いて1議席から0議席に減った。参院選は全国比例なので北村晴夫みたいな全国的に知名度が高い人が票を集めて当選しやすいけれど、衆院選の比例は11ブロックに分かれていてブロックごとの定数があるので比例で当選しにくくて苦戦している。参政党と似たような減税や反移民の政策を掲げていて党員が熱心に活動していても参政党ほど議席が取れないのは党の運営に問題があって、百田が攻撃的で敵を作りやすくて飯山あかりや河村たかしと内紛したりして政策が似ている人とも連携できないので、井川意高みたいに百田を見限って離れる支持者が多いので党が大きくなりにくい。百田のカリスマのおかげでできた党だけれど百田の私心が強すぎるせいで伸びない党でもあって、国会で意見を言えれば政策が実現できなくても満足というスタンスなら今のやり方でもいいけれど、党の運営の仕方や選挙戦略を変えないと知名度がある候補者に頼って参院選の全国比例でしか議席を取れない小政党止まりだと思う。・減税日本・ゆうこく連合立憲民主党と公明党の合体に反発した原口一博が河村たかしと合流して国政政党として選挙を戦ったけれど、減税日本は河村たかしの地元の愛知県の地域政党なので全国的な知名度はないし、愛知県の人は河村たかしの政治家としての実績を知っていても全国の政治に詳しくない人から見たら金メダルをかじって炎上した人というイメージだし、減税を政策にする党が他にもある中であまり存在感がなくて、5議席から1議席に減って河村たかしだけが当選したけれど政党要件を失った。原口は政策を曲げずに筋を通したので中道改革連合に移った他の立憲民主党の議員よりも政治姿勢としてはましだと思うけれど、原口も河村も癖が強くて好き嫌いが分かれやすいし、選挙の準備期間が短い中で小さい政党では支持者を増やすまでには至らなかった。立憲民主党の議員で原口と一緒にゆうこく連合に参加する人がもっといたらもう少し議席を取れたんじゃないかと思う。・チームみらいチームみらいは党員が2000人程度しかいなくて小選挙区の支持基盤もなくて比例が中心なのにいきなり11議席を得たのは意外な結果である。街頭演説が盛り上がるわけでもなくてSNSの動画もほとんど再生されていないので政策を理解して投票したコアな支持者による得票数とは思えないし、立憲民主党とかの左翼政党を消極的に支持していた層が愛想をつかしてチームみらいに浮動票が流れたのかもしれないし、野党が消費税減税を主張する中でチームみらいが消費税減税に反対したので緊縮財政派の受け皿になったのかもしれないし、高齢の政治家が多い中で若いチームみらいがデータとエビデンスに基づいてすごいAIを駆使してなんかやってくれそうというふわっとした期待があるのかもしれない。2025年に参議院で1議席を得たばかりで何の実績もない新興政党なのに支持者の姿が見えない形で大量に当選したので納得がいかない人が多いようで、Xだと不正選挙を疑う人や組織票を疑う人を何人か見かけた。政治家には高齢者が多いせいか慣例を重視して合理化が不十分で、国会でタブレットを使うと品位が下がるから禁止とか、情報開示請求したら全部黒塗りで何の情報も開示されていなくて意味がないうえに紙の無駄とかの不合理がいろいろあるので、若い議員が多いチームみらいには手続きの合理化や政治資金の透明化や効果が乏しい政策の予算削減とかを提言してほしいところである。しかし政党としてはできたばかりなので党の運営能力や信用度は未知数で、候補者の山本剛義が粉飾決算事件を起こしたオルツと過去に雇用契約があったことが判明して急に出馬を辞退したりして金回りがきな臭くて、AI絡みの役所への設備投資や補助金で儲けたい人が議員や後援者として入り込むと公金で儲けようとするレントシーカーになる危険性もある。安野の出身の東大の松尾研究所と中国との関連も強くて周囲に中国人や中国系の帰化人も多いだろうし、裏方のエンジニアが急に表舞台でちやほやされてハニートラップに引っかかりかねないし、スパイ対策ができているのか心配である。エプスタイン事件と関連している伊藤穰一界隈とのつながりがあるのかも注意が必要である。政策マニフェスト2026で「将来世代のために、複雑化した税・社会保障制度をシンプルでなめらかにします」と言っているけれど、それなら消費税を廃止すれば軽減税率やインボイスがなくなってシンプルな税制になるだろうに消費税廃止を主張しないで現状の複雑な消費税を肯定するのも矛盾していて、チームみらいが税制を理解しているのか疑問である。行政の手続きの合理化よりも消費税のほうが大きな問題なので、私は消費税を肯定するチームみらいを支持することはない。左右のイデオロギーから距離を置いて他党を批判しない高学歴集団のチームみらいはノンポリ層には品行方正で知的で良さげに映るかもしれないけれど、別の言い方をすると国家観がないので、エンジニアやコンサルタントの域を出なくて安全保障や外交の判断ができるとは思わないし、法務大臣として死刑執行命令を出したりするような政治家として国民の生死の判断を下す覚悟があるように見えないし、私は政治的な手続きの合理化以外ではチームみらいには期待していない。政党の選択肢が増えたことは良いけれど、この党が大きくなってもあまり意味がないし、権力の監視と批判という点では他の野党が議席を取る方がましだと思う。・共産党、れいわ新選組、社民党左翼の衰退について考えるという記事でも考えたけれど、左翼は支持者が高齢化していく中で若者の支持を増やす要素がないので、左翼政党は軒並み議席を減らしている。共産党はしばき隊の蛮行が知れ渡ったせいか8議席から4議席に減って、れいわ新選組は山本太郎が病気になって政治活動を控えたり候補が高市のリウマチを揶揄したりしたせいか8議席から1議席に減って、どっこいどっこい社民党は衆議院議員の新垣邦男が党勢を見限って離党したことで0議席になって選挙後もどっこいどっこい0議席のままだった。ヨーロッパで移民政策が大失敗して性犯罪が急増してアメリカでソマリア系移民の巨額の給付金詐欺が露見しているように、発展途上国から来たモラルがない移民が犯罪を起こしているので、まともな知能がある政治家なら欧米と同じ失敗をしないように対策するだろう。しかし日本の左翼は欧米での失敗を踏襲しようとしていて、外国人の不法滞在を擁護して、外国人犯罪者を左翼弁護団で手厚く弁護して、外国人犯罪の被害に遭った日本人を蔑ろにするのだから、外国人犯罪や不法滞在の取り締まり強化の姿勢を見せた高市が支持されて左翼政党が支持されないのは当然である。「ママ戦争止めてくるわ」とかで戦争反対を主張していた左翼支持者もいたようだけれど、抑止の手段が問題で、具体的な方法論に言及する左翼がいない。中国やロシアや北朝鮮が軍事力を増強して日本に核ミサイルを向けている中で、自衛隊が違憲なままで軍備増強せずにどうやって抑止力を持てるのか。国民民主党の玉木代表が「『防衛力の強化=戦争』という旧来の左派・リベラルの考え方は少し変えないといけないのではないか。避けなければいけないのは戦争であって、防衛力の強化ではない。戦争を避けるため防衛力を強化しないといけない」と言った通りで、リアリズムで政治をとらえると防衛力を強化する以外に現実的な手段がないのに、共産党は軍拡に反対してかえって戦争を誘発しようとしている。戦争反対をSNSやプラカードで表明すれば戦争が起きないと思っているなら物事を考えていない幼稚な馬鹿である。子供を徴兵されたくないと左翼支持を表明した女性がいたけれど、子供が徴兵されなくても敵に子供が凌辱されるのはかまわないのなら想像力がない阿呆である。対話で戦争を止められると思っているなら話が通じない相手と会ったことがない世間知らずの無知で、そんな素敵な対話能力があるなら今すぐプーチンと話してウクライナの戦争を止めてノーベル平和賞をもらえばいい。戦争しないために軍備を減らして敵国の言いなりになって権利や土地や財産を差し出せばいいというのなら売国奴である。高市に対して戦争反対と言う一方で習近平に対して台湾に侵攻するな日本の領海を侵犯するなと言えないダブルスタンダードの人は中国共産党のスパイである。共産主義革命を起こして暴力で政権転覆して中国の属国になれば戦争が起きないと思っている人はテロリストである。馬鹿と阿呆と無知と売国奴とスパイとテロリストの巣窟の左翼の支持が増える道理はない。●まとめ高市総理が国民に高市か野田かという二択を迫って衆議院を解散して、雪が降る中での投票にもかかわらず投票率が前回より上がって、自民党が大勝して、旧立憲民主党が大敗して、国民が減税や積極財政を支持してリベラルを拒否している傾向がはっきりした選挙結果になった。しかし選挙で自民党が勝って終わりでなくて、政策がちゃんと実行されて国民が豊かで幸福にならなければ意味がない。中国との緊張が増して反日マスコミの政権批判も一層増えるだろうけれど、高市政権には失われた30年をこれ以上長引かせないように頑張ってほしいものである。
2026.02.12
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最近はヨーロッパに熱波がねぱねぱと襲来していて、フランス南部のピソスでは最高気温が44.3度になって、フランスでは6月22日から28日の死者が2千人くらいいたそうで、スペインやベルギーでも熱波が原因とみられる超過死亡が起きている。しかしエアコンに反対する人も多いようなので、これについて考えることにした。●ヨーロッパは熱に弱い・ヨーロッパの住宅事情ヨーロッパは地中海辺りは温暖だけれど、ローマは函館市と同じくらいの緯度で、フランスは北海道と同じかそれより北で、ドイツとかのヨーロッパの北側の国はたいてい涼しいので、夏の暑さよりも冬の寒さに備えて建物の窓が小さくて壁が厚くて熱を逃がしにくいデザインになっている。そのうえ建物に窓がない場合もある。イギリスやフランスでは18-19世紀に窓税があって、当時の政府は納税者の収入に応じて税金を課そうとしたけれど、所得税で所得を把握されるのはプライバシーの侵害だと国民が反対したので、代わりに家の窓の数に応じて課税して窓が多い豪邸に住む高所得者から税を取ろうとしたので、節税のために窓が煉瓦で埋められてしまった。窓が少ない古い建物は風通しが悪くて熱がこもりやすいので、熱波の影響も大きい。20世紀初頭のバウハウス以降は間取りが自由なコンクリート製で窓が大きいデザインの建物が出てきたけれど、そういう窓が大きいモダンなデザインの建物はたいてい公共施設や郊外の金持ちの家で、庶民が住んでいるアパートは昔の石やレンガ造りのままである。それに夏の間は避暑地にバカンスに行って暑さをやり過ごしてきたので、住環境の改善が遅れている。・エアコンが禁止・制限されているスペイン、イタリア、ギリシャとかの地中海付近の暖かい場所では夏にエアコンを使っていて、スペインとイタリアのエアコン普及率は50%だけれど、フランスはエアコンを制限していてエアコン普及率は25%しかない。工事費も高くて1500-2000ユーロ(30万円前後)くらいかかるしエアコン設置業者の手配にも2か月くらいかかるし、電気代も高いので、短期間の熱波のためにエアコンにお金をかけたくないようである。ヨーロッパの建物は石やレンガを積んだ古い建物が多くて、建物が老朽化していて壁に穴を開けると危険だったり、窓の外に室外機を置く場所がなかったりして技術的問題でエアコンを設置できない場合がある。じゃあ室外機がいらない窓用エアコンを使えばいいじゃんと思うけれど、ヨーロッパの古い家の窓は外開きで、イギリスやアメリカみたいに上下に窓をスライドさせるダブルハング窓や日本みたいに左右に窓をスライドさせる引き違い窓とは構造的に違うので窓用エアコンをぴっちりはめ込むことができなくて冷却効率が悪いので窓用エアコンを使わないようである。だもんでエアコンを使いたい人はMEDION P502やMidea Portasplitみたいな工事が不要で室外機だけ窓の外に出すタイプのポータブルエアコンを使っているようである。エアコンを設置できる場合でも室外機が建物の外にあると景観が悪くなったり、集合住宅で室外機の音で苦情が来たりするのもエアコン制限の理由のようである。フランス気候省やパリ副市長は「エアコンは山火事や農作物被害を防ぐことはできず、建物の壁一面がエアコン室外機で覆われるような都市は避けるべきだ」という立場をとっている。都市部の集合住宅だと洗濯物の外干しも景観を損なうという理由で制限されたりするので、歴史と伝統ある街並みがエアコン室外機だらけになるのが嫌なのだろう。景観が問題だというなら景観になじむ室外機カバーを開発するなりすればよいだろうに、そういうこともやらない。それに脱炭素を推進してきたヨーロッパ各国の左派政権はエアコンも二酸化炭素を排出するとして制限していて、フランスは学校や病院とかの公共施設にさえエアコンがなくて、右派のルペンはエアコン設置を訴えて支持につなげようとしている。不法移民のホームレスのテントだらけでポイ捨てされたゴミだらけの状況で窓の景観を気にするのはナンセンスだし、熱波に苦しんでいる人がいて解決策(エアコン設置)はわかっているのに、政治的理由で解決策を取らないで死者を出すのは人災だと思う。フランスの左派はアメリカ人がエアコンを使うせいで気候変動しているのだとなぜかアメリカを批判しているけれど、それは熱波に苦しんでいるフランス人を救わない理由にはならない。・車も熱に弱いヨーロッパは基本的に涼しいのでカーエアコンは標準装備でなくてオプション装備であまり使わないようである。しかしそのぶんたまに来る熱波に弱くて、カーエアコンが故障しやすかったり、エアコンがない車内が猛暑になったりする。エアコンがないバスの運転手がへとへとになって休憩している動画がXに流れてきたけれど、一日中車に乗っている人は大変そうである。フェラーリとかのスポーツカーは走りながらフロントグリルから空気を取り込んでラジエーター(エンジンの冷却水を冷やす装置)を冷やすので涼しいヨーロッパで走る分には問題がなくても、日本に輸入して高温多湿の環境で低速で走るとラジエーターが十分に冷えないのかしばしばエンジンルームから出火して炎上している。道路も暑さで痛んでいる。日本のアスファルトは暑さ耐性が強くて140-150℃にならないと溶けないけれど、ヨーロッパは涼しい気候を想定して古いアスファルトを使っているようで表面温度が60℃くらいで軟化してでこぼこになっている。●エアコンVS環境昔のフロンガスを使っていたエアコンや冷蔵庫はオゾン層を破壊してオゾンホールができて紫外線に弱いオーストラリアの白人の皮膚がんの原因になったので、昔のエアコンは環境に悪くて人類にも悪影響があったといえる。しかし1987年のモントリオール議定書でフロンの生産が規制されて今はオゾン層が回復しつつあるし、エアコン廃棄時にはフロンを回収しているし、アンモニア冷媒や二酸化炭素冷媒とかを使ったノンフロンエアコンも開発されている。フロンよりも二酸化炭素が地球温暖化の原因になるというのがヨーロッパのエアコン反対派の主な主張のようである。しかし地球の二酸化炭素のうち自然界の動植物が放出するのが95%前後で、人間が排出する5%程度のうち3割が中国から排出されているので、ヨーロッパで熱波が来ているときにエアコンをちょっと使ったところでたいした違いはないだろう。フランスで病院や福祉施設とかにさえエアコンを設置しないのはナンセンスである。全国地球温暖化防止活動推進センターによると日本の家庭からの二酸化炭素排出量(2024年度)は冷房からが3.7%、暖房からが15.3%で、暖房のほうが冷房の4倍くらい二酸化炭素を排出している。ヨーロッパの冷暖房の二酸化炭素排出量の違いは知らないけれど、冬の暖房は使うのに夏のエアコンを地球温暖化の原因のように扱ってエアコンだけ規制するのもナンセンスである。エネルギー保存の法則や質量保存の法則があるので人間が様々なものを作って文明が栄えるほど自然環境が破壊されて別の形になるのは当然で、人類のたいていの活動は環境破壊だと言えるけれど、逆に人間が活動を控えたら地球が涼しくなって人間にとって快適な環境になるのかというとならないだろう。1991年のピナツボ火山の噴火では噴煙が成層圏に届いて日傘効果で1992-1993年の世界の平均気温が下がったように、人間が何もしなくても火山の気分次第で気温は変動する。太陽の活動が低下した1400-1800年頃の小氷期には地球の気温が1℃下がったように、人間が何もしなくても太陽の気分次第でも気温は変動する。人間が地球の気候や環境をコントロールできると考えるのは思い上がりである。数百年単位で見たらなるべく持続可能な社会を目指して賢く資源を使うに越したことはないけれど、今の地球が暖かいのも10万年周期の間氷期にあるからで、人類がどう頑張ろうが10万年後には氷河期が来るし、50億年後には太陽が巨星期になって膨張して地球の生物も全滅するので、環境を気にしてエアコンを控えるのはあまり意味がないと思う。どんどんエアコンを使って産業を発展させて企業間の技術競争を促して今よりももっと性能が良い省エネのエアコンの開発を促進したり冷暖房の効率が良い高気密住宅に建て替えたりするやり方でも良いのじゃなかろうか。●エアコンを使わずに涼む方法・夏になる前に暑さに体を慣れさせておく夏になる前に入浴や運動で体温をあげて汗をかいて暑熱順化しておくと、発汗の気化熱や血管の拡張の熱放散で体温を調節しやすくなる。人間は使わない機能は徐々に衰えていくので汗をかいて汗腺を鍛える必要があって、暑くなってきたからといってシャワーで済まさずに風呂に入って汗をかくのに慣れておくのが大事である。汗腺がちゃんと機能しないとミネラルが多いベタベタした臭い汗が出るけれど、汗腺がちゃんと機能すると水分が多いサラサラした爽やかな汗が出るようになって汗の不快感も減る。熱中症対策にエアコンを使うにしても気まぐれで使わずに、室温〇度以上なら〇℃設定で何時間使うという基準を作っておくと節電しやすい。暑さに体を慣らしておくと、室温30℃で湿度80%、あるいは室温35℃で湿度60%くらいなら私はエアコンなしで扇風機でなんとか耐えられるので、私は7月の中旬頃までは暑くてもエアコンは使わずに過ごして暑さに体を慣らして、7月後半から8月の真夏に室温33℃以上で湿度80%以上だと熱中症の危険度が高いし暑すぎて頭がボーっとして仕事の効率も悪くなるのでエアコンを29℃設定で使うようにしている。・気化熱で温度を下げる気化熱とは液体が気体に変わるときに周囲の熱を奪う現象で、滝の近くが涼しいのも滝から細かい水しぶきが飛んで蒸発する作用によるものである。公共施設だとミストシャワーで霧を広範囲に撒いてその気化熱で涼む方法も取られている。家にいる時間が長い人は打ち水とかで家の周りの地面の温度を下げると室温も若干下がる。庭がある人は朝と夕方に植物に水やりをすると打ち水代わりになるし、植物が日陰を作って地面の温度も上がりにくくなる。私は窓の外側にすだれを吊るして、ダイソーの園芸用の加圧式霧吹き(ペットボトルを取り付けられるやつ)でこまめにすだれを湿らせている。あとベランダに霧を吹くと広範囲に水を撒けてすぐに蒸発するので、窓付近の温度が若干下がっている。・氷や保冷剤を使う氷や保冷剤をちょっと使ったところで室温は下げられないけれど、体温を下げることで暑さを我慢しやすくなる。寝るときに氷枕で首元を冷やしたり、保冷剤をタオルにくるんで首や脇とかの太い血管があるところに当てると体を冷やしやすい。冷水で濡らしたタオルで体を拭くのもさっぱりする。ただし冷凍庫の場所を取るデメリットがある。夏は食材が傷みやすくて魚やアイスとかの凍らせておきたいものが多いので、一人暮らし用の小さい冷蔵庫だと氷や保冷剤が多いと邪魔である。・乾きやすくて通気性がよい服を着るでこぼこしたシボがあるリップル生地は肌にくっつく面積が減るので通気性が良くなるし、生地の表面積が増えるぶん汗を吸いやすくて乾きやすくなる。ゆったりした甚平は夏の部屋着にちょうどよい。・家電を省エネのものに買い替える冷蔵庫やパソコンとかは熱源になって使っているうちに部屋の温度をじわじわ上げていく。古い家電は消費電力が大きくてエネルギーのロスも大きくて部屋の温度も上がってしまうので、消費電力が少なくてエネルギー効率が良い新しい家電に買い替えると部屋の温度が上がりにくくなる。・部屋に外気を入れる家の中に空気がこもると湿度も上がって汗が乾きにくくなって暑さや不快感が増す。家の中を風が通り抜けるように窓を二か所以上開けると外気が入ってきて湿度が下がるので、外が暑くて風がぬるくても多少はましになる。集合住宅だと玄関側に窓がなかったりするけれど、その場合は台所や風呂場の換気扇を回すとよい。・夏野菜を食べるトマトやキュウリやスイカとか夏野菜はカリウムと水分が多くて利尿作用があって、尿と一緒に熱も排出されるので若干体温が下がる。水分が多い食べ物を食べると脱水症状の予防にもなる。・エアコンが効いている施設に行くエアコンを使わずにいろいろ暑さ対策をするよりも、結局はエアコンを使って涼むのが一番手っ取り早い。しばしば中国人は買い物をしないのに涼しむ目的で家電量販店や家具店にたむろしているけれど、そういうのはモラルがなくて買い物客の邪魔なので、フードコートがあるような大きめのショッピングモールとかで買い物をしたうえで休憩するのがよい。図書館はエアコンが控えめだけれど、それでもエアコンがない家にいるよりは涼しいし無料で長時間滞在できるし図書館の利用率が上がると図書館が予算を確保しやすくなって図書館の存続にもつながるので、近所の図書館を存続させたい人や夏休みに暇な子供は図書館に行くのがおすすめである。
2026.07.08
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財政制度審議会の意見書では今は800を超える大学があるけれど2040年までに250-400校を減らすべきだと言っているそうな。Education Carrerによると、1950年には大学数は201校だったのが、2024年には813校に達している。2010年ごろには就職氷河期世代が婚期を逃して少子化が加速するのが確定しているのに、それでも大学数は増え続けている。大学進学率は上がっているとはいえ少子化で潜在的な学生の数は年々減っていて、日本私立学校振興・共済事業団の調査だと2024年の定員割れの私立大学は59.2%で、明らかに大学が多すぎる。私立大学は授業料で利益を出す仕組みになっているので、学生数が減ると赤字になる。東京商工リサーチによると「全国の私立大学を経営する545法人のうち、半数を超える287法人が直近の2025年3月期決算で赤字」だそうな。少子化しつつある日本で大学を作っても先細りで赤字になるとわかっているのだから大学を作らなきゃいいじゃんと思うので、これについて考えることにした。●なぜ大学が乱立しているのか・田舎の地域振興に大学を欲しがる田舎にはたいてい県庁所在地に国立大学があるけれど、他の市は優秀な若者をごっそり取られてしまって悔しい。そんでおらの村にも大学があれば若者が地元に残ってよそから来る学生向けのアパートが建ってウハウハだべやと皮算用して大学を誘致したがるのかもしれない。・馬鹿を金づるにしたい本来は大学は最高学府として頭が悪い人は入学させてはいけないし、程度の低い卒業論文で学位を与えてもいけない。しかし最近は一般入試よりも推薦入試の比率が上がっていて、部活やボランティアとかの学力以外の部分が評価対象になって、素行不良でなければFランク私立大学に入学できてしまうし、低レベルな授業で単位を取って卒業できてしまう。日本は大学中退率が低くて令和6年の大学中退率はわずか2%で、いったん入学すると1学年の学生数×100万円が4年間入金されるし、奨学金制度が整っていて学費をとりっぱぐれる心配もないし、中学や高校に比べて市外や県外から一人暮らしの学生を集めやすいし、大学の建物や土地も資産として活用できるし、馬鹿な学生が相手なら優秀な教授を高給でスカウトする必要もないので、割が良い商売である。・エスカレーター入学狙い私立の小中高校を運営する学校法人は自前の大学があれば内部推薦で同じグループの大学に行く層を確保できる。東京や大阪だと公立よりも私立のほうが人気があって中学受験が盛んで偏差値が高いし、内部進学だと素行不良の人を弾けるので、大学まで囲い込むのは経営としては合理的である。・宗教を布教したい信者が多い宗教は寄付金も多いので、無知な若者を洗脳して信者を増やすために自前の教育施設を持ちたがる。日本の私立大学だと仏教系大学とキリスト教のミッション系大学が多くて、宗派ごとに大学があるので全体としては数が多くなる。・新しい教育方法を試したい岐阜県飛騨市に2026年に開校したコー・イノベーション大学は1年間飛騨で学んだあとは全国15か所の連携地域のサテライトキャンパスで課題解決プロジェクトを実践して、3-4年次に自分の課題に取り組むというユニークな形式である。既存の大学でできないことをやるには新しい大学を作るしかないということで私立大学が新設される。●大学の削減の基準政府が大学を減らすにしてもどういう基準で減らすのかはいまのところ不明なので、基準を考えてみる。・定員割れ定員割れしている大学は社会に必要とされていないことが明白なので、削減するのは妥当だと思う。例えば2026年に設置された佐賀県の武雄アジア大学は東アジア地域共創学部という学部が一つしかない単科大学で、募集定員140人に対して入学人数は37人で、そもそもニッチすぎて需要がないのに新設されるのがおかしい。・留学生の比率定員割れした私立大学が留学生に頼って日本人がほとんどいない場合もある。そうなると大学の存在意義がないし、外国人を教育したいなら日本でなく外国に大学を作ればいいじゃんという話になるし、日本人の教育をしない大学に公金から補助金を出すのは問題である。酒田短期大学は地元の日本人学生が少なくなったら出稼ぎ目的の中国人留学生を受け入れて経営再建をしようとして定員100名のところに300人ほどの留学生を入学させて、留学生が行方不明になって東京で働いていたり5億円の使途不明金があったりして問題になって、結局2004年に廃止された。悪名を残して廃止するくらいなら定員割れした時に素直にさっさと廃止するほうがまだましだった。最近は私立の美術系の大学が出稼ぎ目的で勉強しない留学生の隠れ蓑になっているようである。・偏差値田舎は進学校自体が少ないし高卒で就職する人が多いので、国立大学以外の大学はたいてい偏差値が低い。田舎に大学が少ないと経済格差が大きくなるので国公立大学は必要だけれど、田舎のトップ層は結局は偏差値が高い関東や関西の有名な大学に行くし、偏差値が低い私立大学が田舎にあったところで県外からわざわざ進学する人は少なくて高卒で働きたくない地元民のモラトリアム期間が長引くだけで高度人材が輩出されるわけではない。私立大学は受験科目を3教科に減らしたりするけれど、その弊害で受験科目以外を勉強しない高校生が出てくる。本来は高校でろくに勉強していない人を大学に入学させるべきではないし、高校で学んでいるはずの事をおさらいするような内容で単位を与えるべきではないし、そういう授業をする私立大学はなくなってもよいだろう。芸術や音楽や体育系の大学は実技が重要なのでペーパーテストの偏差値だけで大学の存在意義が測れるわけではないけれど、資格取得系の大学は頭の良さが重要で、例えば法学部なのに馬鹿だらけで司法書士や行政書士の試験に合格する人が少なかったら大学の存在意義がないので、学部によっては偏差値が基準になるのは妥当だと思う。・教授の質日本は大学数が多いとはいえ、大卒の肩書で就職活動するための就職予備校のようになっていて、大学の研究能力が高いとはいえない。教授たちが論文を書いていなかったり論文引用数が少なかったりしてたいした研究ができていない大学は研究機関としては価値がないので、教授の質が低い大学を削減するのは妥当だと思う。・大学院の質大学院がなくて次代を担う研究者の育成ができない大学は大学院がある大学よりも存在価値は下がる。しかし大学院もあればよいというわけではなくて、大学が削減される分だけ講師や教授のポストも減るので、一騎当千の研究者を育てていかないと路頭に迷う人が続出してしまう。中途半端な大学院がたくさんあってもあまり意味がないので、質が低い大学院は廃止して、質が高い大学院に優秀な研究者が集中するほうがよい。・学部の数日本で大学というと一般的に人文・社会・自然・医の4領域すべてを持つ総合大学(university)が想像されるけれど、私立大学は単科大学(collage)が多い。単科大学だから特定の分野に特化した最先端の研究をしているかというとそうでもなくて、看護や福祉系の単科大学は研究者を育てていなくて看護や介護の資格を取得して地元の医療機関に就職する就職予備校みたいな存在になっているし、ナンチャラ国際大学のコミュニケーション学科みたいな人文系の単科大学は何の研究をしているのかよくわからなくて研究自体に需要もない。研究者を育てないなら大学である必然性も乏しいので専門学校や各種学校でいいじゃんと思う。学部が多ければよいというわけではないけれど、総合大学よりは単科大学のほうが学生数が少ない分だけ予算も少なくて図書館とかの設備が劣っていて研究の質が低かったりするので、単科大学が削減されるのは妥当だと思う。・補助金の費用対効果私立大学には研究費や経費を補助する私立大学等経常費補助金が毎年約3000億円が公金から分配されている。大学が少ない時代には私立大学の設立を奨励するために政府が補助金を出すのは意義があっただろうけれど、私立学校振興助成法ができたのは昭和45年(1970年)で、法律ができてから50年以上経って状況が変わって大学は余っているのだから、いつまでも補助し続ける必要はないと思う。現状だと充足率が低い大学は私立大学等経常費補助金が減額されるけれど、自由競争で負けた大学を延命させたところで将来性がないので減額でなくて補助打ち切りでいいと思う。学生を集められずにろくな研究成果を出せていない大学を補助するくらいならそのぶん最先端の研究をやっている大学を補助する方が公金の使い方として有用だろうし、国立大学の理系の研究室が予算かつかつでボールペンすら節約している状況は是正するべきである。・不祥事日本大学ではアメフト部の違法薬物事件とかの不祥事が何度か起きていたように、学生数が多ければよいというものではなくてガバナンスができていないと教育機関としては不適切である。●まとめ大学は数が多ければよいわけではなくて、研究の質が高くなければ存在意義が乏しい。駅の近くにある偏差値が低くて定員割れした私立大学を廃止して跡地を偏差値が高い総合大学や国際卓越研究大学に認定された大学のサテライトキャンパスとして活用するとか、ベーシックサービスとして放送大学を国有化して学費を無料や激安にして削減した田舎の私立大学の跡地を買い取ってキャンパスにして貧乏な若者や高卒の社会人の教育水準を上げたりして、良い大学の設備を拡充したり補助金を増やしたりして全体の質を上げる方向で大学の削減をしてほしいものである。
2026.07.14
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