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最近はスーパー戦隊シリーズがグッズの販売不振とかが理由で終了するようなので、徒然なるままにスーパー戦隊ついて考えることにした。●スーパー戦隊とは何ジャースーパー戦隊は東映が制作してテレビ朝日系列で放送された特撮テレビドラマで、カラフルなヒーローが自由や平和を守るために活躍するシリーズで、たいてい5人組で、レッドやブルーやグリーンやブラックは男性で、ピンクやイエローは女性で、作品の連続性はなくて作品ごとに違う世界設定になっている。1975年の「秘密戦隊ゴレンジャー」から始まって50年続いた人気シリーズとなっていて、1980-90年代は〇〇マン、2000年代以降は〇〇ジャーのタイトルになっていることが多い。●スーパー戦隊のメリットジャー・勧善懲悪ジャー普通に重火器で武装した特殊部隊が戦って敵のテロリストを銃殺するとリアリティがありすぎて子供のトラウマになったりして教育上よろしくないので、変身したり巨大ロボットに乗ったりしてあえてリアリティをなくす方向に特徴づけて勧善懲悪の情操教育をしているといえる。リアリティがない勧善懲悪がテーマだとシナリオ考案のための取材コストとかがかからなくなってストーリーが作りやすくなる。・変身ジャー子供向けのテレビ番組はたいていおもちゃを売るために作られているので、武器やベルトとかの小道具が多いほど良い。ヒーローに変身したら強くなるという設定にすることで、子供が変身グッズを買ってヒーローになりきることができるし、スーパー戦隊は顔が覆われているのも子供がヒーローになりきるのにちょうどよい。変身すると中の人をスーツアクターに交代できるのも機能的で、アクションができなけど顔がいい若手俳優を起用できる。変身後も全身タイツで顔の黒い部分は透過しているので動きやすいだろう。物語の展開上でも変化をつけることができて、ずっとコスチュームを着ているわけではなくてまずは俳優が話を進めて、怪人が出てきて変身して戦いのフェーズに入るという展開なので、話の展開がわかりやすくなる。・色分けジャー子供はカラフルなわかりやすい色を好むし、色分けされていることでキャラの外見がわかりやすくなって幼児でも大勢のキャラの見分けがつくし、戦闘シーンとかで敵のモブに囲まれたりしても目立って見栄えがよくなる。マーベル系の単独ヒーローが多いアメリカでもパワーレンジャーが人気なので、国や人種に関わらずカラフルに色分けされた戦隊は幼児にウケる要素と言えるだろう。主人公グループを色分けするやり方はスーパー戦隊が元祖かどうかは知らないけれど、セーラームーンやアイドルグループのメンバーカラーとかにも受け継がれて広く使われている。・興行ジャーデパートで客寄せにやっているヒーローショーとかは仮面で顔を隠せるのがメリットになって、スーツアクターの中の人が誰であれ子供を騙して盛り上げることができる。決めポーズもあるので、子供と一緒に写真を撮るのにも向いている。着ぐるみでの興行だと空気がこもって中の人に熱中症のリスクがあるけれど、スーパー戦隊の全身タイツなら野外ステージの興行でも熱中症のリスクは低いだろう。・地域おこしジャーテレビ番組のスーパー戦隊以外にもスーパー戦隊風のローカルヒーローがいて、地域ごとの特色をつけてイベントに動員して話題作りをしている。●スーパー戦隊のデメリットジャー・はまる期間が短いんジャースーパー戦隊は幼児から小学校低学年の男児向けの内容で、思春期になると自己同一性が形成されてヒーローになりきるごっこ遊びをやらなくなって、青少年向けのコンテンツに移行したり、部活をやるようになってちょっと年上のメンターに憧れたりして、幼稚な子供向けのコンテンツが恥ずかしくなって離れていく。私は幼児の頃に何かのスーパー戦隊を見たはずだけれど、ほとんど記憶に残っていない。私が6歳の時に祖父が入院したので見舞いに行ったら何か買ってくれるというけれど、病院の売店で欲しいものが特になくて幼児向けの雑誌を買ってもらって、その表紙に赤いなんちゃらマンかなんちゃらジャーが大きく載っていたのだけれど、私はこういう子供っぽい雑誌は別に欲しくないやと幼児ながらに思っていたのは覚えている。・シリーズに連続性がないんジャーガンダムとかはナンチャラ戦争から〇年後の世界みたいに物語に連続性があって、いったんはまった人は同じシリーズを長年追うようになる。その一方でスーパー戦隊は毎年違うテーマの戦隊が出てきて連続性がないし、列車だの恐竜だののギミックは違っても正義のヒーローが悪を倒すようなありきたりな内容でシナリオに深みがないので、いったん飽きたらそれ以上シリーズを追わなくなる。シリーズに連続性がないのは新しいギミックを試しやすいので、すぐに飽きて目移りする幼児を楽しませるには十分だけれど、そのぶんコンテンツの寿命が短くなる。・主人公の魅力が乏しいんジャースーパーせんたいフレンズのせんたいヒストリーのページにスーパー戦隊の一覧があるけれど、主役はたいていレッドで、たいてい目のところが黒くなっていて、デザインに個性があまりない。作品ごとにガジェットで差別化しているものの、主人公自体に突出した外見や内面の魅力があるわけではない。・製作費がかかるんジャー戦闘シーンはたいてい野外ロケで、山まで移動して爆発物を仕込まないとといけないし、天気が悪いと撮影できないし、悪役の特殊メイクや小道具とかにも費用がかかる。50年前はアニメがまだ未発展なので特撮に金をかけて爆発とかの派手な演出をする価値があったけれど、現代ならアニメのほうが費用をかけずに派手な演出ができるようになって、特撮は製作費がかかる割に演出が見劣りしている。・敵が大変ジャー戦隊側はアクションシーンの動きやすさを重視しているのか基本的に全身タイツとヘルメットであまり変わらないのに対して、敵は宇宙から来たとかの設定でイカみたいな触手を生やしたり顔が異形だったりいかつい鎧を着たりして個性的で、幼児にもわかりやすいように外見で悪さを表現していて敵の造詣のほうが凝っている。敵側のおもちゃは人気がなくて売れないだろうに、敵に凝らないと差別化できないのは大変である。・ビジネスモデルの変化に対応できないんジャー20世紀は大量生産大量消費のモノの時代だったので子供がプラモデルとかのおもちゃの実物を欲しがったけれど、21世紀はデジタルコンテンツの時代になって、デジタルネイティブ世代の子供はスマホや携帯ゲーム機で遊んでアバターやガチャとかのデジタルコンテンツにお金を使うようになって、昔ほどおもちゃを買わなくなった。そのうえ少子化で子供の数が少なくなっておもちゃの販売数が減るし、年が近い兄弟がいたらスーパー戦隊ごっこができるだろうけれど一人っ子だとスーパー戦隊ごっこ遊びはやりにくいし、テレビがない家庭も増えている。バンダイナムコホールディングスによると仮面ライダーの関連商品の売上が307億円、プリキュアが79億円、スーパー戦隊が64億円で、正義のヒーローが悪を倒すという似たようなストーリーでもグッズの売り上げに大幅な違いがある。たぶん大きいお友達がグッズを買うかどうかでも売り上げが変わって、大人はフィギュアとかのコレクション用のグッズに大金をかけるけれど、幼児用のおもちゃはたいていぶん投げたりして壊れたりするのであまり高いものは買わない。バンダイが東映にいくらキャラクター使用料を払っているのか知らないけれど、仮に売り上げの5%として、3.2億円以内で番組を制作しないとおもちゃから利益が出ない。スーパー戦隊は1シーズンで48-50話あるので、ざっくり計算して1話あたり6000万円以内で制作する必要がある。地上波の1時間のドラマの制作費は1話当たり3000万円くらいだそうだけれど、スーパー戦隊は30分番組とはいえ特撮に費用がかかると思われるので、あまり利益が出なさそうである。コンテンツだけを見たら子供にとってはまだ魅力的でも、ビジネスとして見たらおもちゃがあまり売れなくておもちゃの販売を見込んでコンテンツ作りするやり方ができなくなった。たぶんアニメやスマホゲームとかの低コストのコンテンツを展開したら多少は利益が出せると思うけれど、ストーリーが浅くて爆発的なヒットは期待できなくて伸びしろがない。●スーパー戦隊の可能性ジャースーパー戦隊はいろいろな可能性を秘めたコンテンツだと思うので、頭の体操としてスーパー戦隊のアイデアを考えてみる。・根菜戦隊ホウサクジャー農家たちが変身して人参ミサイルやかぼちゃ爆弾やだいこんソードを駆使して畑を荒らすイノシシ怪人と戦う。子供に食育ができて、家庭菜園キットを売って農業に興味を持つ子供を増やすことができる。・ふんどし戦隊オマツリジャー日本の文化を学びに来た留学生の宇宙人たちがカラフルなふんどしと法被を着たヒーローに変身して太鼓のばちで邪神と戦って、巨大神輿ロボを担いで敵に突撃して粉砕する。子供に祭りの文化を教えることができる。・プロレス戦隊トウコンジャー正統派レスラーがスーパー覆面レスラーに変身して、大気圏からのムーンサルトプレスで邪道レスラーを退治する。子供に闘魂を教えることができる。・ポリコレ戦隊ジンケンジャーホワイトレンジャー、ブラックレンジャー、イエローレンジャー、レインボーレンジャーがポリコレ棒を装備して悪の独裁者を倒して人権侵害を解消していく。子供に人権を教えることができる。・借金戦隊ハサンジャー正義の銀行員が変身してクレジットカードで高い武器を買って、悪の高利貸し星人と戦って破産しそうな人を助けていく。子供に金融教育ができる。・謝罪戦隊ゼンカモンジャー前科がある俳優たちが償いのために正義のヒーローに変身して街に出没する変質者をこらしめて反省させる。子供に謝って済んだら警察はいらないことを教えることができる。・清潔戦隊オオソウジャー清潔好きのヒーローたちがかっこいいハイパー掃除機やハイパーモップを使って地球をゴミだらけにしようとする敵を退治する。掃除ができるおもちゃを売って子供に掃除を手伝わせることができる。・伝統戦隊ノウメンジャー伝統芸能の演者たちが能面をかぶって変身して、合体して巨大獅子舞になって悪のヒップホッパーを倒す。子供に伝統芸能を教えることができる。・論破戦隊ゲンロンジャー言論人たちが変身して地球制服をたくらむ敵と対話して論破したり殴ったりして改心させる。子供にディベートを教えることができる。・恋愛戦隊セイシュンジャー男女の混成グループがどろどろの恋愛をして、生理で機嫌が悪くて合体技に失敗して喧嘩したり他の相手とくっついたりしながら人の恋路を邪魔する悪のナンパ星人を退治する。ませた子供に大人の世界を教えることができる。・共産戦隊カクメイジャー共産主義者たちが全員レッドに変身してかっこいい鎌と槌を使って悪の資本主義者たちを粛清していく。子供を革命戦士にすることができる。・匿名戦隊ダレジャー身バレしたくない人たちが変装してプライバシーを暴こうとする悪のパパラッチを退治して正体をごまかす。子供にプライバシー保護を教えることができる。・推理戦隊ハンニンハオマエジャー天才高校生探偵たちがヒーローに変身して推理グッズを駆使して難事件を解決していく。子供に論理的思考を教えることができる。・爆煙戦隊ガンジャーレゲエ歌手がグリーン多めの戦隊に変身して、何かの草をいぶした煙を浴びせて敵をぽやーんとさせて退治する。子供にピースでポジティブな愛のバイブスを教えることができる。
2025.11.24
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前に熊について考えるという記事で熊の危険性について考えたけれど、最近は熊の頭数が増えているようで目撃情報も増えて、秋田県や岩手県とかで熊による死者も出ているし、外国人旅行者に注意喚起もされている。しかし熊以外にも危険なものはあるので、いろなものの危険について考えることにした。●危険とは何か生物にとって危険なものや状況は生死に直結するので偏桃体で本能的に危険を判断していて、たいていの動物は蛇をみたらその種に毒があろうがなかろうが警戒して瞬時に攻撃するか逃げるかの判断をするし、本能的に餌として食べるものを分別して飢えているときに派手な色の蛙や食べたことがない木の実とかを見かけても毒を警戒して食べようとしない。不安について考えるという記事でも考えたけれど、不安は恐怖と心配に区別されて、恐怖は具体的な刺激で、心配は具体的でないものである。これは安全と安心が違うと言われているのとも似たようなもので、恐怖が取り除かれれば安全だといえるし、心配が取り除かれれば安心だと言える。●様々な危険・無知による危険動物は本能で危険に対処するけれど、人間は知識によって危険に対処する。例えば植物図鑑を見れば毒があって食べられない野草や木の実やキノコがわかるし、家電の取扱説明書には正しい使い方をしないと感電や発火の危険があると書いてあるので危険を回避できる。逆に言えば、危険について学ぼうとしないこと自体が危険な状態である。例えばフィッシング詐欺や振り込み詐欺とかは巧妙な手口で行われて初見だと詐欺だと見抜きにくいので、自分には関係ないと思わずにまず手口を知ることが詐欺防止になる。・無防備による危険夏になるとライフジャケットや浮き輪とかを使わずに川で泳いで溺れて死ぬ人がしばしばいるけれど、数千円の装備があれば死なない確率が高くなるのだからちゃんと準備をするべきである。DQNはしばしばヘルメットをかぶらずにバイクでスピードを出したりウイリー走行したりして運転ミスで事故を起こして死んだりするけれど、危険なことをするのが格好いいと思っている人は早死にする。・散漫による危険新しい文明の利器が発明されると、それに伴って新しい危険も生まれる。スマホが発売されてから「ながら運転」の事故が起きて自動車や自転車の運転中のスマホの操作は規制されて罰金を取られるようになったけれど、歩きスマホはまだ規制されていなくて、イヤホンをつけてスマホを見ながら歩いて事故に遭う人が少なからずいる。揚げ物とかの料理を作っている最中に他の用事を済まそうとして台所を離れて火事を起こす人もいる。こういう事故は一つ一つの動作にちゃんと注意を払っていれば防げたはずで、機械を操作したり火や薬品を使ったりするときは他の事に注意をそらすべきではない。・バイアスによる危険人間は認知にバイアスがかかることで、進んで危険な状況に突っ込んでしまうことがある。例えば電車に白人男性が座っていて隣の席が空いているけれど、入れ墨だらけで目が薬中みたいにうつろでぶつぶつ独り言を言っている場合、普通に危機管理する人ならこいつヤベーやんけと思って隣に座るのを避ける。しかし一部の人は自分は外国人を差別しないんだと態度で示そうとして、他に空いている席があってもあえて危険な席に座ろうとする。国籍や人種に関わらず危険な人は危険だろうに、バイアスがかかることで正常な判断ができずにかえって自ら危険な選択をするようになってしまうわけである。スウェーデンで難民を支援していたElin Krantzという女性が2010年にエチオピア人に殺害されたように、かわいそうな人を助けて善行をしているというバイアスがかかったせいでわざわざ危険な悪人を国に招き入れて自業自得な死に方をしていて、その後もスウェーデンは難民や移民を入れ続けてヨーロッパ随一の犯罪多発国になっていて、愚者は経験に学ぶというビスマルクの格言を体現するような間抜けなことをしている。・目に見えない危険ウイルスや細菌や薬品の細胞への作用とかは肉眼で直接見る事ができなくて、研究者が電子顕微鏡とかで調べないと危険性がわからないし、一般人にはなおさら危険性がわかりにくいので対処が難しい。2022年と2023年には約13万人の超過死亡者が出て2021年の約2万人に比べて10万人以上急増したけれど、Wellness Daily Newsの「厚労相、超過死亡と原因不明死を説明 死亡増加の要因分析は「専門家と検討」」という記事によると「コロナワクチンが死亡に与えた影響に関する分析は行われていない」そうで、未だに超過死亡や原因不明死の原因がよくわかっていなくてこれから検討するようである。よくわからない理由で予測よりも10万人以上多く死んでいるのは熊とか原因がわかっているものよりも恐ろしい。ステイホームで運動不足になって健康状態が悪化して死者が増えたとかの何かしらの理由があるなら納得できるけれど、ワクチンの様々な副反応が原因で死者が急増したなら薬害として補償が必要になる問題なので、ちゃんと調査してほしいものである。・時間がかかる危険ビーバーがダムを作って川の水をせき止めて、ダムが決壊したら下流の生物は多大な被害を受けるけれど、下流の生物はダムが決壊するまではそれを危険とは感じない。動物は五感で感じる危険には反応するけれど、未来の危険を考えるほど頭が良くない。人間は動物と違って時間の概念があるので因果関係から未来に起こりうる危険を推測できるけれど、前提が間違っていると推測も間違うので、危険を予知するのは難しい。それに現在を生きるのが大変だと未来のことまで考える余裕がなくなる。それゆえに危険が顕在化するまで時間がかかる場合はその危険が見逃されてしまう恐れがある。例えばがんは早期発見できれば治療できるけれど、放置してがんが大きくなると転移したりして治療が難しくなって生存率も下がる。移民もがんに似ていて、価値観が異なる少人数が短期間滞在するだけならたいして問題は起きないけれど、大人数が長期間滞在すると外国語しか通じないコミュニティができて警察の捜査が不十分になってギャングが勢力を拡大して、問題が顕在化してから対処しようとしても手遅れで政治家が賄賂で抱き込まれて便宜を図ったりして解決が難しくなる。ヨーロッパだと中東やアフリカからのイスラム教徒の移民が増えて性犯罪やテロや教会や遺跡とかの文化財の破壊が問題視されて右派政権に交代して反移民政策が取られるようになるまで10-20年かかるようである。ロンドンではパキスタン系イスラム教徒の移民2世のサディク・カーンが市長になって、スーツを着こなす英国紳士の街でなくなって黒ずくめのイスラム教徒が道路で集団で胸をペチペチして示威する街になった。ニューヨークではウガンダ出身のインド系の移民のイスラム教徒の民主社会主義者のゾーラン・マムダニが7歳の時にアメリカに移住して34歳で移民1世の市長になった。ロンドンやニューヨークのような大都市の新興移民たちは祖国のために先祖が戦争で血を流した経験がなくて先住者と同じ歴史を共有していないので、必然的に保守的な価値観が失われていってリベラル寄りになるけれど、愛国心や郷土愛がなく利己的に他の国や地域に移住する寄せ集めの移民たちが伝統的な社会よりも優れた社会を作れるとは思えない。左翼は犯罪行為をしても罪に問われないようにしようとするけれど、これも社会にとって危険である。マムダニは労働者階級が生存のために犯罪をしているのだとして軽犯罪での裁判前の拘留や保釈を廃止しようとしているけれど、犯罪に対して対処が甘くなると窃盗が増えて小売店が潰れて失業者が増えていくと思われる。日本の左翼は不法滞在は犯罪でないと言い張って偽装難民や不法就労を支援していて、外国人の窃盗や性犯罪や強盗殺人や無免許飲酒運転の事故とかが起きている。シンガポールやUAEみたいに移民の権利を制限して移民に政治的な実権を与えないようにしない限り移民による政治的混乱や文化侵略の危険は防げないだろう。移民政策は失敗したら取り返しがつかないので、一番厳しい基準から始めて問題がないかどうか様子見してから徐々に基準を緩めていくほうがよいし、既に日本で不法残留者が約7万8千人いてその対処さえできていないうちに移民受け入れを拡大するべきではない。・過剰反応による危険アメリカのブラウン大学の研究で、過激な政治討論の映像を見せたときの脳活動を調べたら、他人の視点や感情の理解司る脳の領域で極右と極左で似たような活動パターンを示したそうな(Politically Extreme Individuals Exhibit Similar NeuralProcessing Despite Ideological Differences)。私の高校の同級生が大人になったらネトウヨになってバーで酔って「朝鮮人をぶっ殺せ」とヘイトスピーチをしていて私はドン引きして今は交流がなくなったけれど、彼は高学歴で頭は悪くないけれど自己愛性人格障害をこじらせて躁うつ病になったようで、自分より劣る外国人像を作り上げて攻撃することで優越感に浸りたいのだろうと思う。自己愛性人格障害の植松聖が障碍者に生きる価値がないとみなして殺人したのと同じような思考パターンである。たぶん極右も極左も極端な人は何かしらの人格障害や精神障害で、極右は憎悪の対象が外国人で、極左は憎悪の対象が日本人で、ミソジニーは憎悪の対象が女性で、フェミニストやミサンドリーは憎悪の対象が男性で、宗教原理主義者は憎悪の対象が異教徒になる。扁桃体は不安に強く反応するので極論によって敵視したものに対する不安が増して、扁桃体が刺激されてドーパミンやノルアドレナリンが出て前頭前野の自己抑制力が停止して、敵視したものを攻撃することでストレスを発散して快感を得ることで報酬系が強化されて、脳がさらなる極論を好んでより独善的・攻撃的に偏っていくのだろう。高市早苗が総理になったばかりでまだ何の政策もやっていないにも関わらず左翼が発狂して中身は男性だの媚びを売っただの現地妻だのと喚いているのが典型的で、こうした主観的で感情的な意見にその人の本性や偏見が出る。本来は危険でないものまで過剰に敵視して対立を激化させるのは不毛だし、ましてや自作自演や偽旗作戦で存在しない危険をでっちあげてまで相手を貶めようとするのは社会にとって害悪だし、極右ファシズムにせよ極左共産主義にせよ行きつくところは暴力による言論弾圧や思想統制で、極端な政治体制は失敗すると歴史が証明しているので極端になるのはよくない。自由を擁護するべき左翼が言論弾圧して、女性を擁護すべきフェミニストが高市を女性扱いしない矛盾した状況になっていて、左翼は目の前の敵を攻撃することに夢中になって自らのイデオロギーさえ自己否定して支持を減らしている自覚がないのだろう。常人と狂人の明確な境目があるわけではないけれど、相手の話を聞いて科学的根拠に基づいて論理的な議論ができず、意見や属性が異なる人に対して嫌いになるレベルを超えて憎しみを向けて危害を加えるようになったら狂人の領域に入っていると思う。相手の意見が間違っていると思ったら間違いを指摘すればよいだけで、脅迫や暴行とかの違法行為で黙らせようとしてはいけない。政治や宗教の意見だけがその人を形作っているわけではないし、政治的意見が違っても好きな食べ物や趣味とかの何かの共通点があるかもしれないし、一部が嫌いだからといってその存在をすべて憎む必要はないはずである。それに馬鹿な人を攻撃したところでその人の頭が良くなるわけではなくて反撃しようとしてかえって攻撃性が増すので、法的な対処が必要なこと以外は放っておけばいい。基本的人権として思想の自由や言論の自由がある以上は馬鹿な人が間違った意見を言ったり荒唐無稽な陰謀論を言ったりカルト宗教に入信したりする自由もあるのだから、馬鹿な人が馬鹿な主張をして不毛な活動に生涯を費やして不幸になるのも本人の自由である。アレルギーは本来攻撃する必要がない物質に免疫が過剰反応して攻撃することでかえってかゆみや炎症とかの害がでるけれど、意見の対立も似たようなもので、白黒思考で善悪を極端に判断して自分と違う政治的・宗教的意見にアレルギー反応を起こしてなんでもかんでも危険視してワアワア攻撃してこてんぱんに退治しようとするのはよくなくて、なるべく穏やかな解決方法を優先するほうがよい。●危険の教育が必要かつてハンセン病が伝染力が弱い感染症であるにもかかわらず遺伝病と誤解されて去勢手術が行われたり、東日本大震災で福島から引っ越した子供が放射能がうつるといじめられたりしたように、差別は無知によって引き起こされるので、危険性を正しく判断して教育する必要がある。扁桃体で本能的に危険に反応しているときは前頭葉の知性がうまく働いていないので、デマや嘘に騙されやすくなったりパニックになったりするし、火事になってあわてて燃える油に水をかけるような科学的に誤った判断をしやすくなる。怒った時にアンガーマネジメントが必要なのと同様に、恐怖を克服するマネジメントをしてまず冷静さを取り戻すことが必要である。避難訓練で行動を予習すると災害の時にパニックにならずに済むし、車を運転する人はドライブシュミレーターやレースゲームをやると事故を起こしそうなときに瞬時に被害を少なくする最善の判断をする訓練になるだろうし、ホラーゲームはいきなり危機的な状況になっても冷静に判断する訓練になるかもしれないし、災害パニック映画はパニックになって非合理的な判断をして死んでしまう人を客観視する教材としてよい。●危険に備えるべきモーリシャス島のドードーは天敵がいなかったので、空を飛べずによたよた歩いて地上に巣を作る方向に進化したけれど、人間に島が発見されて天敵が出現したら敵から逃げることができなくて絶滅した。今が平和だからといっていつまでも平和が続くわけではないし、のんびり平和を享受せずに常に危険を想定して備えるべきである。危機管理に関してはミニマックス法で想定される最大の損害が最小になるような対策をするべきで、何の想定もしないまま被害を受けるのが一番危ない。人間にとって最大の被害は死ぬことで、次に大きい被害は障害を負うことで、仕事や財産は失っても健康であればある程度回復できるので、まずは健康を維持するのが大事である。アメリカはキリスト教の終末論の影響を受けているせいか、核戦争に備えて地下に核シェルターを作って武器や数年分の食料を備蓄しているプレッパーと呼ばれる人がいるけれど、起きる可能性が極めて低いことに対して備えたところで安心感は得られるだろうけれどあまり意味がない。1999年のノストラダムスの予言やたつき諒の夢に基づいた2025年7月5日の津波の予言のように、根拠がない予言に備えて旅行を控えたりするのも意味がない。現実的に起きうる危険に備えてこそ意味がある。ほとんどの人は事故や犯罪よりも病気のほうが危険である。日本人の死因上位を占める三大疾病のがん、心疾患、脳血管疾患は老化に伴って起きやすくなるので完全に防ぐことはできなくても、健康寿命をなるべく伸ばすように生活習慣に気を付けるに越したことはない。ストレスも睡眠の質が落ちて疲労がたまったり免疫力が落ちたり過食したり精神疾患になったりして様々な体調不良の原因になるので危険である。自殺者は年間2万人以上いるけれど、事件や事故や災害と違って自殺に至る原因は人それぞれで原因を特定しにくいので対策が不十分で、医療で対処療法をするだけでなくて哲学的な教養で生きがいを見つけて自殺を予防することも必要だろう。交通事故は毎年約30万件起きていて死者が3千人くらいいて、被害者だけでなく加害者にもなりうるし、自分に何の落ち度がなくても被害に合うこともあるので日々警戒する必要がある。地震や豪雨とかの天災は数年おきに起きて生命や財産が失われる可能性が高いし、被害が大きいときは避難所に食料や薬とかの行政の支援が行きわたるまで時間がかかって持病がある人は生命の危険があるので、個人で備蓄するなり防災グッズをそろえるなりして対策する必要がある。日本の殺人事件は年間1000件以下で顔見知りの犯行が多いので強盗殺人や通り魔とかの凶悪犯罪はあまり起きないけれど、起きた場合の被害が大きいので家の戸締りをしたり夜にスマホを見ながら歩かずに周りに注意を払ったりして防犯対策をちゃんとやる必要があるし、地元の不審者情報とかも見る方がよい。日本ではテロはあまり起きないし、地下鉄サリン事件みたいな組織的なテロを個人では防ぎようがないけれど、公共交通機関やイベントとかの人が集まる場所ではテロが起きうるのだと頭の片隅に入れておくだけでも異変に気付きやすくなって生存率が上がる。熊による負傷は年間100-200件くらい起きていて、田舎なら通り魔よりも熊のほうが怖くて人間が素手で熊を撃退するのはほぼ無理なので、熊除けスプレーをすぐ使えるようにするなりして備える必要がある。政治的な危険としては戦争があって、ウクライナ戦争でもイスラエルのパレスチナ攻撃でも戦時国際法を守らずに非戦闘員が殺されたり捕虜が拷問されたりしているし、国連にジェノサイドを止める力がないし、アメリカもトランプ政権になって世界の警察として軍事介入するのをやめようとしているし、島国の日本は海を封鎖されたら逃げ場がないので自衛できるだけの軍事力を持つ必要がある。軍隊をなくして国境をなくせばみんな仲良くできるんだという左翼のお花畑安全基準に合わせたら国が崩壊するので、日本に核兵器を向けている国にも対処できるように防備を固めるべきだろう。
2025.11.13
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表題作の「Yの木」が中編くらいで、他3作は短編が収録されている。「たそがれ」は中学生の静男が社会人の姉のおごりで念願のUSJに行く話。三人称。父親は事故で腕をなくして酔って暴れて、電車に乗っている他人が父親のことを知っているという田舎の息苦しい生活からの逃避先としてのUSJがあって、夢を見させてくれる姉にも事情があるという純文学的なオチになっていて、ストンとオチがつく構成がよい。すんなりとUSJにたどり着かずに老人に絡まれるくだりで遅延させてその間に家庭環境を掘り下げたりするあたりはベテラン作家らしいストーリー展開のテクニックで、現代を舞台にしたリアリズムの細かい描写とかの地味なところがうまい。「首飾り」はクラシック音楽が好きな作家と妻が大学教師のYとYの妻とローマにオペラを聞きに行って、Yに妻に内緒でネックレスを買ってほしいと頼まれる話。作家(彼)を焦点人物にした三人称。たぶん作者の実体験を基にして人物設定とかを若干変えたのだろうけれど、一人称のエッセイでなくて三人称のフィクションの体裁をとったのはどういう文学的な意図があるのかよくわからない。惚気の照れ隠しなのだろうか。「シンビン」は証券会社で働いていた女が秩父宮ラグビー場で母校の青山大学のラグビーの試合を見る話。三人称。タイトルがオチになっているオーソドックスな短編で、ラグビー用語のシンビンの意味が明かされた時点でオチも推測できてしまうのでオチの意外性はない。ラグビーのディティールの描写はよい。「Yの木」は妻を亡くして犬と暮らす作家が自殺した大瀬渉について考えたり半生を振り返ったりする話。作家(彼)を焦点人物にした三人称。「首飾り」と同様に作者自身の人物設定を若干変えたのだと思うけれど、自伝でないのにわざわざ作者に似せた登場人物にしたのは私小説というよりもたぶん作家という生き方を掘り下げようとしたのだろう。大瀬渉という実在の人物が出てくることでフィクションと現実が交錯していってリアルなフィクションになるという作者が得意とするパターンで、私はこのやり方が好きである。家の鍵をかけて父親を締め出して怒らせたエピソードは他の短編にも書いていたような気がするけれど、そのエピソードも再度フィクション化するところはユニークである。しかしカミュの『ペスト』とかの前提知識がないとカミュと大瀬渉を比較するくだりがわかりにくいだろうし、人生にはフィクションのようなはっきりした筋書きがないので完全なフィクションに比べたら見どころがわかりにくい。辻原登ファンの玄人向けの小説という感じ。全体的に辻原登のファン向けの内容で、すごい傑作というほどでもないけれどベテランらしい小説の妙味があって面白く読めた。★★★☆☆Yの木【電子書籍】[ 辻原 登 ]価格:1,120円 (2025/11/5時点)楽天で購入
2025.11.05
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頭文字G(あたまもじじい)──。それは、貧乏なおっさんが一日20分ギターを練習してじじいになって頭が禿げる前に三流天才ギタリストになることを目指す極小プロジェクトである──。というわけで、3年かけて12/8拍子のギターの曲を適当に作曲して適当に演奏したのだった。録画して聞き直してみるとだいぶ演奏が下手だけれど、ダウンストロークで弦をはじいているので右肩への負担が大きくて、正確に音を出すのがなかなか難しいのである。●不完全であることの是非この演奏の完成度は8割くらいで下手なところが目立つけれど、ギターの12/8拍子でやろうとしたことの大まかな感じは十分伝わると思ったので、とりあえずこれでいいやと思って動画にすることにした。正しい猫はいないし正しい猫の夢もないし猫はジャンプに失敗したりするのだからどう演奏しようがコードを外れようが不協和音だろうが間違いではないというコンセプトの曲なので、完璧でなくてもよいのである。ニャ長調はそんなもんである。そんで残り2割の完成度を高めるために練習するよりも次の曲の作曲をしたくなったのである。そもそも芸事の発表では完璧である必要はないと思う。音楽のコンクールとかだと技術が評価対象になるので楽譜通りの完璧な演奏を求められるしそれが演奏家のキャリアになるし技術の向上にもつながる。しかし鑑賞する側は苦行の結晶のような緊張に満ちたものを見せられてもリラックスして楽しめないだろう。世界文化賞を受賞したピアニストのアンドラーシュ・シフが「コンクールは消えてしまえばいい」と言ったように、芸術はスポーツとは違うのだから難しい曲を早く正確に弾ければよいというものでもない。明治時代のピアニストの久野久は爪が割れるまで練習して鍵盤を血まみれにして演奏したそうだけれど、そういうのは演奏する側も聞く側も音を楽しめないので「音楽」ではないし、ストイックが必ずしも良いこととは限らない。兼好法師の『徒然草』の150段には芸事がうまくなるまで人に知られないようにする人は芸を身に付けられなくて、未熟な時に上手な人に交じって嘲られても練習を続けられる人が年を取って達人になるというようなことが書いてある。これは私も同意で、未熟で下手なのは恥ずかしい事ではなくて伸びしろがあると言えるし、江口寿史みたいに基礎練習をせずに歳をとっても手がうまく書けないままで写真をトレースして実力以上のクリエイティブを偽装するほうが恥ずかしい。江口寿史は未熟さに向き合わずにトレースに頼って成長が止まったことを作風の完成と勘違いして大御所ぶって傲慢になって晩年になって名声を失っていて、若い芸術家の反面教師になるだろう。全知全能の人などいないし何かの専門家でも他の分野では無知で未熟な素人なのだから、自分の未熟さを自覚して知らないことを謙虚に学んで間違いを正す姿勢を無くしたらだめである。人間国宝級と言われるレジェンド寿司職人の森田一夫は90代になっても現役で寿司を握りつつ弟子を育てていて、「いちばん大切なことは礼を尽くすこと。人にも食材にも謙虚であり続けること」と言っているけれど、江口寿史も人に対する謙虚さがあれば後輩に嫌われるような老人にならなかったかもしれない。オードリー・タンは京大AI特別講演の学生へのメッセージで「朽ちる前に公開せよ(publish before I perish)」が重要で、完璧なものを投稿したら他の人はいいねを押すだけで去っていくけれど、不完全なものを投稿したら他の人が直さなきゃと思うので友人が増えたというようなことを言ったそうな。この考え方は変化が激しい分野では重要で、ITは技術の進歩が速くてハードの規格が変わったりするので、ある程度形になったら無料ベータ版でテストユーザーを募ってテストしたり不完全なままリリースしたりして、ユーザーのフィードバックをもらいながらバグを直したり機能を付け足したりしていく開発の仕方が主流になっている。レオナルド・ダ・ヴィンチは未完成作が多くて、『モナ・リザ』は手放さずに何度も修正していたそうだけれど、どの段階で芸術作品を完成と見なすのかというと、大まかな形が出来上がって作家がそれ以上修正しなくなったときが完成と言えるだろう。クリエイターは納期までに作品を仕上げて売って収入を得ないと生活できないし、ITのサービスやオンラインゲームと違って作品を売った後で修正することができないので、修正点があるとしてもこの程度ならまあいいやと妥協して作品を売ったり公開したりしたときが一応の完成となる。作者が日々成長していたらその都度修正したいところが出てきていつまでも作品が完成しなくなるし、新しい作品に取り掛かることができなくなるし、何点か作品を展示しないと客の興味も惹けないので、コンクール用とかでないなら完璧でなくてもある程度仕上げたところで作品を発表してフィードバックをもらって、フィードバックを活かして新しい作品で別の挑戦をするほうがよいだろう。
2025.10.17
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最近はSora2でかなりリアルな動画を生成できるようになったり、江口寿史のトレパクが次々に発覚したりして、手仕事の器用さがなくてもITを使えばそれっぽい作品が手軽に作られるようになっている。というわけで徒然なるままに芸術の身体性について考えることにした。●芸術の分野によって身体への依存度が違うダンスでは表現を全部身体能力に依存していて、音楽に合わせて全身の筋肉を部位ごとに細かく正確に動かす必要があって、常人にはできないようなバレエの高いジャンプやヒップホップの力技とかが芸の見どころになる。音楽では歌なら声帯や舌の調整能力や肺活量、吹奏楽では肺活量、弦楽器は指先の器用さ、打楽器は筋力や持久力が必要になる。頭の中に理想の音楽があっても実際に演奏して具体化できなければ音が鳴らないので、複雑な曲ほど習熟が必要になって身体への依存度は高くなる。美術では絵具や木や布とかの素材の特性を理解して加工したり、加工のための道具を使いこなしたりする器用さが必要になる。現代美術だと作家自身の肉体を作品の一部として展示したりもする。コンセプトアートみたいに着想が一番重要で身体能力をあまり必要としないものもある。カメラマンは山に登ったり海に潜ったりして被写体がいるところまで出かけて行ってシャッターチャンスが来るまでじっと待つ体力が必要になる。肉眼で見えない部分をレンズやストロボの性能で補うという点ではカメラはメガネのような肉体の拡張機能ともいえるし、高性能のカメラだけあればいいわけではなくて撮る人の着眼点や構図とかのセンスも必要になる。演劇や映画だと俳優がセリフを言うだけでなくて身振りや表情などで細かい感情の機微を表現する必要があって、野外ロケの暑さや寒さに耐えながらアクションをしたり何度も撮り直したりする体力も必要になる。小説では筋力は必要なくて鉛筆やキーボードで文字を書ける人は誰でも書けるけれど、脳への負荷が高くてキャラクター設定やストーリーを全部覚えて矛盾がないように仕上げる記憶力が必要になる。音楽や絵画やダンスなら子供でも天才的な才能を発揮する人がいるけれど、小説は天性の身体能力でのゴリ押しがきかなくてコツコツ古典や文学理論の本を読んで思想や技術を理解しないと作品に反映できないし、作者の知性が登場人物の知性の上限になるので、子供の天才小説家はいない。・芸術と宗教と身体性古代ギリシアの神殿で悲劇を演じて神に捧げたり、神社で奉納舞をしたり、スーフィズムのイスラム教徒が歌やダンスの陶酔状態で神と一体化しようとするように、芸術は神事や宗教とも関連している。こないだ合理性について考えたけれど、芸術作品の創作は非合理と合理の境界を模索して具現化して、自らの身体を神が作った合理的な世界の秩序と一体化させる行為と言える。だもんで身体を伴わないやり方で、例えばAIが作曲した電子音楽に合わせて踊る3Dホログラムを投影したりしても、演奏する人や踊る人がいないのでは身体に神性(合理性)が宿らなくて神が降りてこないので、神への奉納の儀式にはならないのじゃないかと思う。●現代人には観察眼が欠けている芸術家にとっては目や耳とかの感覚器官が美をとらえるうえで重要だけれど、現代人には観察眼がなくなっているのじゃないかと思う。江口寿史のトレパクは観察眼がない典型じゃなかろうか。トレースについて考えるという記事で2022年の古塔つみのトレースについて考えたけれど、江口寿史のトレパクも同様のパターンのようで、トレースという手法の良し悪し以前に権利関係をクリアできていないのはプロの仕事としてだめだし、写真をなぞらないとうまく絵を描けないのは絵描きとしての能力が足りない。あとトレパクをして美人を描くような男性イラストレーターには創作の源泉になるようなミューズがいないのかもしれない。昔の画家は観察眼があって、竹久夢二や東郷青児は派手な女性遍歴があって女性をつぶさに観察したからこそ女性のしぐさや雰囲気やうなじの曲線とかに美を見出して独特な美人画を描けたのだろう。それに対して江口寿史のイラストは写真からトレースしているので輪郭はリアルだけれど、その作者でしか表現できないような美的感覚の表現がなくて、目や鼻だけデフォルメしたジェネリック二次元イラストという感じである。被写体にこだわりがないから誰の写真でもそのままトレースして、自分の眼で人物を観察していなくて人物の骨格や肉付きや光の反射や影の向きとかを理解していないので服装やポーズを変えてアレンジすることもできないのだろう。EDWINのコラボTシャツ用のイラストでリーバイスのジーンズを履いた女性をトレースするあたりも観察眼のなさが出ていて、履き古した色落ちなのかケミカルウォッシュなのかとかでジーンズの個性は多種多様だろうに、ジーンズの色やシルエットやリベットやステッチとかのブランドのこだわりが見えていないようである。503や505とかのモデルを特定できるくらいジーンズの特徴を描き分けできないのではコラボする意味がないのじゃなかろうか。小林秀雄が小説を見て小説を書くなということをどこかで言っていたけれど、これは慧眼で、テレビがない大正時代でも観察しないで創作することにダメ出しされていた。そのうえ戦後にテレビやカメラが普及してから観察眼の劣化に拍車がかかって記憶を写真に保存するようになって、平成にパソコンとインターネットが普及して記憶をストレージに保存するようになって、令和にはスマホが普及して自分の眼で物事を見ずに何でもスマホを向けて写真や動画を撮ってSNSで反応をもらおうとして観察眼が失われていったのだろう。赤ん坊は初めて見たものに興味を持って撫でまわしたり口に入れたりしてその存在を確かめるように、赤ん坊のほうがスマホに依存している大人よりもちゃんと世界を観察しようとしている。観察がないとその後の洞察もなくなって、洞察がないと定見が持てなくなって、絶えず変化する現実に圧倒されて翻弄されて焦点が定まらなくなって、他人の意見に流されるようになる。洞察がないまま創作した作品もうわべの体裁を整えたところで軽薄になる。江口寿史の絵は影がおかしかったりトレース元の写真から指が一本少なくなっていたりして、パッと見て人の姿はしているけれど人を描いていない軽薄な絵で、もし私が猩々だったら「人でも獣でもないもの連れてきた」と石を投げたくなるような絵である。●芸術作品へのAIの使用の是非人間が観察眼をなくしてリアリズムの作品を作れなくなって、読書量が減って読解力や長文を書く能力も落ちている一方で、AIは無数のデータから学習してリアルな映像や自然な長文を作りつつあるという逆転現象が起きつつある。じゃあAIを創作に使うほうがいいじゃんという話になる。AIが著作権の問題をクリアしたうえで、AIで直接完成作品を作るのでなくて作品に使う素材を作るのならよいと思う。村上隆は日本画をモチーフにした絵を作るときにAIで線を抽出していると言っていたけれど、そういう使い方なら問題ないと思う。私は以前blenderでYouTubeの動画用のパンダの3Dモデルを作ろうとしたけれど半日くらいいじってみて結局よくわからなくて面倒くさくなって諦めていて、Sora2とかで自作のイラストから簡単に3D化できるのならそっちのほうがよくて、微調整ができなくても簡易さのほうを優先したい。音楽はAIが作曲してAIが歌ってもあまり面白くなくて、人が歌ったり演奏したりするから面白いものである。なのでAIをメインにするのでなくてコーラスや合いの手とかの脇役に使ったり、人間だと喉を傷めるデスボイスをAIにやってもらったりすると音楽の表現の幅が広がるかもしれない。AIで俳優が要らなくなるとも言われているけれど、実在する美男美女の俳優を起用することは話題作りや集客の上で重要なので、俳優が必要なくなることはないだろう。ゾンビ映画の道端に転がっている腐乱死体役みたいなのは俳優を使ったところで演技力が鍛えられるわけでもないし俳優の実績にもならないし特殊メイクや衣装代とかの製作費もかさむので、セリフや動きがないモブ役はAIの合成でいいと思う。映画やアニメは制作期間が長くてそのぶん人件費とかの費用かかるのがネックだけれど、AIで経費を節約したぶん個人製作しやすい環境になれば短編映画や短編アニメとかで頭角を現す若手監督も出てくると思う。Sora2で量産されているショート動画みたいなAIを使って誰でも簡単に作れる程度の作品は価値がなくなって飽きられる一方で、AIを使っても作るのが難しいようなディレクションのアイデアが優れている作品は価値が残るだろう。●鑑賞する側は体があるいくらIT技術が進化してデジタルで作品が作れるようになっても、鑑賞する側は体があるので、その五感を満足させなければ作品の価値が出ないだろう。例えばVRやホログラムがいくらリアルになっても、触覚も人間の喜びになりうるので視覚だけで代替できるものではなくて、プラモデルやぬいぐるみとかの実物を触って動かしたいという需要がなくなることはない。読書は電子書籍で読むのではあまり記憶に残らないようで、本の重さや紙の質感やインクの匂いとかの本の個性を感じながら読むほうが読書を楽しめる。花火は動画で見てもあまり面白くなくて、びりびりする空気の振動や火薬の匂いや周囲の人のうきうきした雰囲気とかの五感で感じる夏の夜の稀有な体験が面白いのである。ITで何ができるかだけ追求して鑑賞する人を置いてけぼりにしてしまっては芸術作品の存在意義がなくなってしまうので、視覚や聴覚だけでなくて他の感覚に対しても人を喜ばせる作品であるほうがよいだろう。
2025.10.09
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最近は参政党の選挙の演説がしばき隊に妨害されたり、チャーリー・カークが暗殺されたりして、社会をよくするための建設的な議論が行われなくなって社会が非合理的な方向に向かいつつあるような気がするので、合理性について考えることにした。●合理性とは何か合理性とは道理にかなった性質、あるいはむだなく能率的に行われるような物事の性質を意味する。生物は無駄なエネルギーを節約しようとして捕食活動や生殖活動以外の時は巣穴に隠れて寝ていたりして合理的な行動が生存本能になっているし、人類が作る社会もエネルギーや労働力が無尽蔵に使えるわけではないのでどこに労力や資本を振り分けるかの合理性が必要で、合理的なものは発展するし、非合理的なものは競争に負けて衰退するものである。●文明の合理性・暴力の合理性あらゆる生物は他の物から栄養を取りこんでいるけれど、植物みたいに棲息環境が固定されていると環境が変わった時に栄養がとれなくなって成長効率が悪い。なのでヒレや足や羽を使ってあちこち移動しながら暴力的に他の生物を捕食する動物が繁栄して進化して、植物プランクトンを食べる動物プランクトンが生まれて、植物を食べる草食動物も生まれて、草食動物を食べる肉食動物も生まれた。人間も生存本能として暴力性を持っていて、敵からの攻撃に対して怒りが起きてアドレナリンが出て戦闘態勢に入るようになっている。強い動物が群れのリーダーになるように、原始時代の人間も暴力で他人を支配してきた。誰でも殺されたり傷つけられたりするのは嫌なので、自分より強い相手に脅されたら従うようになる。そして集団の構成員が増えると群れの戦闘力が上がって、他の集団よりも強くなってますます勢力を拡大できるようになる。暴力は合理的であるがゆえに、初期の文明は暴力によって敵を排除したり支配したりすることで作られてきた。しかし暴力は復讐を引き起こすし、力が衰えたときに別の勢力によって暴力で地位を奪われるので、短期的な支配の手段としては合理的でも長期的な統治の手段としては合理的でなくて、暴力によってできて恐怖で支配された国は長続きしない。例えばメディアの将軍ハルパゴスは息子をアステュアゲス王に殺されて食べさせられたことを恨んで、キュロスの反乱に協力してメディアを裏切って滅亡に導いた。古代の中国では何かの王朝ができても圧政に耐えかねた民衆の蜂起で滅ぼされることを繰り返してきて、倫理観がなければ安定して統治できないということで儒教が発展した。チンギス・ハンは命令に従わない人を連帯責任で処刑することで恐怖を植え付けて命令に服従する戦闘集団を作り上げて他国を征服して巨大なモンゴル帝国を築いたけれど、統治が優れていたわけではなかったのでチンギス・ハンの死後はなんちゃらハン国に分裂して消滅している。・宗教の合理性人類が文字を発明して歴史を継承するようになると、暗殺された暴君の逸話とかが山ほどあって暴力では国家の統治が安定しないと理解するようになって、暴力に変わる仕組みを考えるようになる。そんで識字率が低くて文官が少なくて法律が未発達だった時代には宗教の戒律で価値観を統一することは統治の上で合理的だったので、宗教が発展していった。王や貴族は宗教施設に寄進して福祉を担わせることで国民の不満が直接統治者に向かないようにできるので、反乱が起きにくくなる。それゆえに古代ローマは最初は弾圧していたキリスト教の布教を認めたし、日本でも飛鳥時代に聖徳太子が中国から伝播した仏教を普及させて江戸時代には朱子学や陽明学として儒教も取り入れた。中世は金持ちの貴族しか教育を受けられなくて庶民の識字率が低かったものの、教会での説教や寺子屋などが庶民の教育を担うことで庶民の教育水準が上がる効果もあった。しかし宗教指導者が神の代理人として王よりも権力を持つのも問題で、中世のキリスト教の教皇は腐敗してモラルがなくなっていった。それにある程度文化が発展してくると宗教的価値観がボトルネックになって、聖書に基づいて地動説や進化論を否定して異端審問で優秀な学者を処刑したりしてそれ以上学問が発展しなくなって非合理的になる。宗教を持たない人や無神論者にとっては非合理そのものである。宗教と利益が結びついたときも宗教は暴力の正当化に使われて、原始的な暴力以上の残虐性を発揮して非合理的な戦争や殺戮が行われる。アメリカ人はアメリカ大陸が神によってアメリカ人に与えられたものだと解釈して先住民を虐殺して居留地に追いやって排除したし、スペイン人はキリスト教の布教と称して南米の先住民を虐殺して奴隷にしたし、ユダヤ人はエルサレムが神によってユダヤ人に与えられるものだと解釈してパレスチナ人を虐殺して土地を奪おうとしてハマスの誘拐と直接関係ない周辺の国まで攻撃している。宗教戦争は長期的な復讐の連鎖を生むし、若者の労働力が軍事力に奪われて戦争で生産施設が破壊されるので合理的でない。・民主制の合理性民主制は独裁と違って議会で議論して少数派の野党でも問題提起して多数派の政策が間違っているときに法律や政策を変えられる余地がある点は合理的と言える。法律は信教の自由がある中で宗教的価値観の影響を受けて制定されて、法の執行のためには警察や軍隊とかの制圧のための暴力が使われるので、宗教や暴力といった原始的パラダイムも憲法の下に内包してコントロールしていて、その点でも合理性がある。しかし国民の教育水準が低くて多数派がアホだと民主制が機能しなかったり、政治家が腐敗してクーデターが起きて軍隊の暴力をコントロールできなくなったりする問題があって、例えばアメリカ主導のアフガニスタンの民主化が失敗したように識字率が低くて高等教育を受けていない人たちに今日から国民が政策を自分で判断して投票しろといったところで政策の良し悪しを判断できなくて、アメリカの傀儡政権が作られて国民に支持されないままでアメリカがアフガニスタンから撤退したら民主制を維持するために戦う国民もいなくてタリバンに暴力で支配される宗教的軍事独裁国家に戻った。それに資本主義だとピケティが言うように株の配当金をもらう資本家の資本がどんどん増えていって、資本家が政治家に政治資金を提供して金持ちに有利になる法律を作る一方で賃労働をする大多数の労働者は貧困化していくので、次第に中間層が没落して大学に行けない貧困層が増えて教育水準が下がっていって議会や裁判での議論の質も落ちていく。それに宗教的価値観は議論をしたからといって変わるようなものではなくて、例えばアメリカのキリスト教福音派が中絶を殺人扱いしてレイプでの望まない妊娠に対してさえ中絶を認めないような場合は議会での議論では決着がつかなくて、宗教的価値観が異なる少数派の不満がいつまでも解消されなくなる。これは福音派とリベラルのどちらかが正しくてどちらかが間違っているという問題ではなくて、価値観が全く違うのだから違う自治体や国に住んでそれぞれ違う生き方をする以外に根本的な解決方法がない。つまりは民主制にしたら必ず合理的になるわけではなくて、教育水準や価値観の違いがボトルネックとなって非合理になって発展が阻害される。独裁国家は価値観の違いを無視して政策を実行できるので正しい政策をすれば一気に発展するし、毛沢東のスズメ駆除みたいな間違った政策をすれば一気に衰退するので、長期的に見たら民主制のほうが大失敗するリスクを少なくできるけれど、短期的に見たら民主制では新しいテクノロジーの普及やシステムの採用に関しては保守派が反対するので非合理的になりうる。だからこそ国民の教育水準を保って教養がある中間層が多数派になって国民がなるべく文化的に近い価値観を持つことが民主制を維持するうえで重要なのだけれど、ヨーロッパはこれに逆行して教育水準が低い中東やアフリカのイスラム教徒の移民を大量に受け入れて自ら民主制を崩壊させる道筋をたどっている。原理主義に近いイスラム教徒の移民が増えて多数派になれば中世の宗教的パラダイムまで文明のレベルが逆行して絵画や音楽や女性のファッションとかの文化が衰退するし、暴力や暗殺やテロによる言論弾圧を肯定する宗教原理主義者や共産主義者が多数派になれば暴力で支配する古代の原始的パラダイムまで文明のレベルが逆行して、いったん言論の自由が失われてしまうと議会制民主主義が機能しなくなって対立する人を暴力で強制的に排除するようになって暴動や私刑や内戦が起きる。先日暗殺されたチャーリー・カークは国家とはpeople、principles(原理、主義)、placeの3Pで、3つのうち1つが欠けると消え始めて、3つが欠けると存在しなくて、グローバリストはこの3つをすべて排除しようとしているのだと言っていた。リベラル派にはカークの暗殺を喜んでSNSではしゃいで特定されて職場にチクられて解雇されている人が少なからずいるけれど、カークはprove me wrong(論破してみろ)を掲げて公開討論をするのを売りにしていたので、カークの意見が間違っていると思うなら論破しまくればいいだけの話である。民主制の法治国家では信教の自由や言論の自由がある国民の代表が議会で議論して法律を制定して、国民はその法律に反したら罰せられると言うのが統治の規律になっているけれど、あいつは思想が違うから殺してもいいという考え方は魔女狩りと同じでレッテル貼りした相手に対して法律を無視した私刑と言論弾圧の肯定で、アメリカのリベラルのprinciplesはセイラム魔女裁判レベルにまで低下している。非合理的だけれど一貫した宗教的モラルがある福音派と、宗教的モラルを破壊して無秩序に導いてテロを肯定する新自由主義グローバリズムのリベラルのどっちがましかというというとモラルがあるほうがまだましなので、トランプは大統領選挙で圧勝して左翼のANTIFAをテロ組織に指定したりチャーリー・カークの追悼式に出席して「アメリカに神を取り戻す」と言ったりしてアメリカを統治するうえで必要不可欠なprinciplesを取り戻そうとしている。principlesが異なっていて法律よりもイスラム法を優先するイスラム教徒の移民が大量にくるとどうなるかはヨーロッパがすでに実証している。ロンドンでは9月14日に「Unite the Kingdom」という反移民デモが行われて、メディアは10万人以上が参加したと報道しているけれどYouTubeのコメント欄では参加者は300万人だと言われていて、デモを矮小化しようとするメディアが批判されていて、実際の人数は不明だけれどそれだけ反移民感情が高まっているのだろう。イギリスは移民が増えすぎてEUを離脱したけれどいまさら反移民デモをしたところでもはや手遅れで新生児の名前でムハンマドが一番多くなっていて、トランプみたいな強硬手段を取らないといずれイスラム教徒が自治を求めて独立運動が起きてアイルランドみたいに紛争の火種になるだろうし、既にロンドンの人口の35%が移民なのでこのまま移民が増えれば50年後や100年後には独立してロンドスタン共和国になっているかもしれない。移民を入れたがるグローバリストと原理主義に近いイスラム教徒の移民というコンボが西側の民主制法治国家の崩壊の端緒となる。●経済の合理性資本主義が出現して以来、経済力が軍事力につながるので世界各国が経済的合理性を追求するようになって富国強兵して植民地や労働者とかから搾取して、利益を最大化するために人権や健康とかの他の重要な部分が犠牲になってきた。労働力目当てで発展途上国から大量の移民を入れるのもそうで、企業が儲かる代わりに規律や道徳とかが犠牲になっている。人間は経済的合理性のために生きているわけではなくて幸福になるために生きているし、アーミッシュみたいに伝統的な非効率なやり方で生きる自由もあるけれど、国としてはある程度の経済合理性がないと自国の産業やインフラや福祉を維持することが不可能になってQOLが低下して国民が幸福でなくなるので、どこで線引きするかが重要になる。経済は暴力性も内包していて、動物が自然界で弱肉強食で弱い生物を捕食して直接エネルギーの授受をしているのに対して、企業は貨幣の授受をして競合する弱い企業を淘汰してシェアを奪ったりして合理的に成長していく。淘汰された企業の従業員は失業して収入を失って犯罪をしたりすると治安維持のためのコストがかかって社会全体としては非合理的になるので、政府は単に市場原理に任せて企業のやりたい放題にするのでなくて最低賃金や失業保険や生活保護とかの社会保障もセットにして労働者を保護する必要があって、外貨を稼げる企業を育てる一方で失業者を再就職させて福祉に依存させないようにして企業の淘汰と労働力の供給の循環をさせる必要もある。発展途上国が発展しないのには相応の理由があって、政治家や官僚や警察や裁判官みたいに直接物を生産しない人のモラルが低くて賄賂が横行して事業の許認可に賄賂を要求してビジネスの効率が悪くなったり、国民が高等教育を受けていなくて単純労働しかできなくて生産性が上がらなかったり、インドで誘拐した子供の目を潰して乞食させたり南米で強盗殺人が多発したりするみたいに生産力を減らすやり方で金を得ようとしたり、電線や水道の金属部品とかの窃盗が多発してインフラの維持コストが高くなったりする。つまりは教育水準とモラルが経済成長のボトルネックになっているので、この逆をやって、高等教育を受けさせて、まじめにちゃんと働くと豊かになるというインセンティブを与えて労働意欲を高めて、信賞必罰で不正した人を罰してモラルを高めれば経済活動が合理的に行われて生産力が増えて経済成長していく。キリスト教ではカトリックは労働を神から与えられた罰ととらえて金貸しも禁止してユダヤ人を差別していたけれど、中世のプロテスタントは働いた対価を得るのは良いことだと解釈を変えて勤勉な労働者が生まれて、ユダヤ人に金を借りて株式企業に投資して資本効率を高めて合理的な経済活動をしたので欧米は他の国に先んじて工業化を進めて近代化して経済成長した。イスラム教の国でも世俗化して合理的になっている国は産業が育って経済成長している。例えばUAEは単にアブダビで石油が産出されるから儲かっているわけではなくて、ビジネスに有利な法律が整備されていて外国企業への優遇制度があって絶対君主制の元で契約が確実に履行されるのでドバイに非イスラム教徒の世界中の富裕層や実業家が集まってきて金融業が成長してイスラム教の国家の中でも例外的な発展を遂げている。UAEの隣のサウジアラビアは元々保守的だったものの、徐々にイスラム教を世俗化して女性が男性と同じ職場で働けるようにしたりしてオイルマネーでの投資に頼らない産業を育てて経済を成長させようとしている。世俗化したイスラム教は異教徒の信教の自由も認めていてイスラム教の価値観で相手を裁こうとしないし、サウジアラビアで偶像崇拝を禁止するどころか日本のアニメが人気なように外国との取引でもトラブルは起きにくい。イスラム教徒を労働力目的の移民として受け入れる場合は世俗化の度合いを考慮しないと失敗する。近代は宗教を否定してより合理的な科学に基づく政策をして、宗教の戒律が変えられないのと違って法治国家では状況に応じて法律を変えられるので、科学が引き起こす新しい問題も法律で規制したりして調整してきた。そうすると今度は宗教の戒律は変更できないので相対的に非合理的なものとなって否定されて廃れて無神論者が増えていく。ところが発展途上国のイスラム教徒が経典の非合理的な部分を否定するプロセスを経ずに先進国に移民してきた場合、宗教的な非合理性まで輸入することになって非効率になる。UAEみたいに外資を受け入れている国のイスラム教徒は異教徒には違う価値観があるのだと理解して宗教を相対化できるけれど、アフガニスタンやパキスタンとかの原理主義に近くて外資があまり進出しない国のイスラム教徒はイスラム教を絶対視して他のやり方を認めないので摩擦が起きて効率が悪くなる。毎日何度も礼拝するのでは工場の稼働率は落ちるし、礼拝の時間や場所の融通が利かなくて道路を占拠して礼拝を始めるのでは交通が妨げられるし、学校給食やレストランとかでハラル認証を要求されてイスラム教徒用に特別な食材管理や調理をしないといけないのでは調理の効率が悪いし、女性に教育を受けさせずに働かせないのでは高度人材も増えないし、避妊しないで子だくさんなので教育水準が低い子供だらけになって失業率も上がるし、イスラム教は豊かな人が貧しい人に喜捨する文化なのでプロ乞食として生計を立てて働こうとしない人もいて福祉の負担も増える。スペインは中世にイベリア半島をイスラム教に征服されてからレコンキスタで国土を取り返してキリスト教純化政策をしてユダヤ人を追放した歴史があるけれど、その割には保守的でなくて移民受け入れに前向きで、社会保障制度の維持や高齢化の負担の軽減のために25万人の外国人労働者が必要なので今後3年間で最大30万人の不法移民を合法化するつもりだそうな。ちゃんと働いて自立している不法移民を選別して合法化するならいいけれど、移民が働かないで福祉に依存する場合は狸の皮算用に終わってかえって社会保障制度の崩壊につながるので、シンガポールみたいに働けなくなった移民を強制帰国させることもセットでやらないと移民を労働力として合理的に運用できないだろう。そもそもビザを取らずに不法移民としてやってくる人は法律を守る意識がないので、法治国家に受け入れるのはかなりリスキーな政策である。経済合理性のためだけに移民を入れて、企業は儲かっても犯罪が多発して行政コストがかかって国民の幸福度が下がるのは非合理的である。移民を推進するグローバリストやリベラルは世界中の国を移民まみれにすることを目指さずに、どこかの島を買い取って国境も関税もない誰でも出入り自由で移住したら即選挙権がもらえる超リベラル国家を作って、そこで理想の国作りを試してみればいい。リベラルの主張通りに犯罪者の人権が尊重される国家ができたら犯罪者だらけになって大失敗すると思う。・感情の合理性弱肉強食の自然界では天敵に遭遇した時の一瞬の判断の遅れが生死を分けるので、戦うか逃げるかを瞬時に判断する感情が本能として残った。例えば暗い場所では不安を感じて身を縮めて敵に備えて、足元から蛇がにゅっと出てきたら恐怖を感じて瞬時に飛びのいたり、子供が蛇に襲われそうになったら怒りを感じて攻撃して追い払おうとしたり、苦いものを口に入れたら毒かどうかわからなくても嫌いだと判断してすぐに吐き出す。原始時代では感情で即座に判断するのが合理的だったけれど、文明が進歩して社会が複雑になってくるにつれて損得の計算とかが必要になって、感情的な判断が間違うことが多くて合理的でなくなってくる。例えば感情任せで欲しいものをカードローンで買うと一時的に楽しくても後で返済できなくなって自己破産するし、感情任せでやけ食いでストレスを発散しようとして塩分や糖分が多いものを食べすぎると後で生活習慣病になるし、感情任せで嫌いな人を誹謗中傷したり殴ったりすると一時的にすっきりしても後で刑事事件になる。感情は一時的なもので長続きしないので、進学や就職や引っ越しや投資や結婚とかは一時の感情で判断せずに長期的な計画を立ててよく考えて理性的に判断する必要がある。感情が害をもたらしうるとしても人間から感情をなくすことはできないので、仏教が感情に執着しないように説いたり、アンガーマネジメントで怒りを制御したりして、感情に振り回されないようにする後天的な思想や訓練が必要になる。政治的な判断も感情に基づくと非合理的になりうる。例えばヒトラーは大衆の理性ではなく感情に訴えかけて扇動してファシズム体制を築いたし、欧州難民危機は密航しようとして溺れたシリア人の子供がかわいそうだからという一時的な感情に流されて難民を短期間に大量に受け入れて犯罪が多発して大混乱を引き起こしている。政治家はいったん選ばれると任期が終わるまで数年間政治家で居続けるし、政策を変えるのにも法案を審議して実行するまで時間がかかるので、感情任せで政治家を選んだり政策を支持したりしてはいけない。●芸術の合理性 ヘーゲルが現実的なものはすべて合理的であるという命題を提示したけれど、逆に考えてみると、非現実的なものは何らかの理由で非合理的なので実現不可能だと言える。芸術は頭の中に着想があるだけだと芸術作品とはみなされないし空想にふけるだけでは何の生産性もないけれど、作品として現実世界に具現化できるのであれば何かしらの合理性や労力をかけて作品を作る必然性があるものと言える。どの国にも神話や民話や民謡や伝統芸能があるように、古代に生産活動と直結しない芸術的な活動をしていたのは統治者を権威付けしたり集団の結束を高めたりする合理性があったからだろう。キリスト教だと宗教画を通じて文字を読めない人にキリスト教を布教して聖歌で神を称えたりしたので絵や音楽が発展していって、芸術の価値を高めることで宗教の価値も高めて価値観の布教に利用した。仏教は仏像を崇拝の対象にすることで彫刻が発展していって価値観の布教に利用した。労働者は田植えや船漕ぎやタタラ製鉄とかで歌を歌うことでテンポを合わせて作業効率を高める合理性があった。指輪やネックレスや高級腕時計とかの宝飾品は平時は地位を誇示して周囲を従えやすくする合理性があったし、戦争が起きて避難するときに財産を持ち運びやすくする合理性があった。近代の芸術は他の作品と似ていて個性がないと価値がなくなるので、新しい芸術の創作が難しくなっている。一般的に工業製品は原料を大量に購入してコストを下げて製造工程を機械化して品質を均質化してなるべく生産効率を上げて大量生産するほうが儲かるけれど、芸術に関しては生産数が多くなるほど希少価値がなくなっていくので、合理的に効率よく生産すればよいといものではない。他の誰もやっていないことや他の人が真似できないことをやって芸術作品に付加価値をつけるには、時間をかけて超絶技巧を身に付けることに挑戦したり、採算を度外視して材料費をかけたり、偶然性に頼ったりして、非合理的になることが必要になる。芸術は役に立たないと言われることもあるけれど、芸術作品を鑑賞する人が実用性以外の感性のインスピレーションを得られるという点では社会にとって有用なものである。昆虫が遺伝子に組み込まれた本能に沿った合理的な行動しかしないのに対して、人間は意図的に非合理的な行動ができる点が人間の強みで、実用性がない芸術作品を作ることは短期的には非合理的に見えても人間の発展の可能性を模索することで長期的に見たら合理的な行動となる。例えば効率だけ重視して皆が同じ人民服を着て同じ間取りの公営住宅に住んで毎日同じ食事を配給されたら衣食住には困らなくてもそれで幸福になれるわけではなくて、芸術があるからこそデザイナーや建築家や料理人の美的感覚が育って、好みの服を着てライフスタイルに合う間取りの家に住んで記念日におしゃれな飲食店で豪奢な食事をして価値観が違う個々人の幸福を最大化できるようになる。女性のおしゃれなファッションは冬にへそを出して寒かったりヒールが高くて歩きにくかったり着け爪が長くて物を掴みにくかったりして実用面では非合理的でも、他の人と違う服装をして目立って配偶者を見つけやすくなると言う点では合理的である。街づくりだと交通の便や建設費だけ考えて合理的に画一的な街並みにすると魅力がなくなって人が来なくなるので、逆説的に短期的には非合理的でも建築家がこだわった変なデザインのビルや怪しい個人店が並ぶ小道とかのその街にしかない刺激やセレンディピティがあると長期的に見て魅力があって人が集まる合理的な街になる。文明のパラダイムはフィクションにも関連している。例えばアクション映画の主人公が敵を暴力で倒して問題解決するだけなら原始的レベルで、暴力で解決するのは良い事なのだろうかと善悪の価値観を考えて相手を説得するようになったら中世的道徳レベルに進歩して、主人公が壊した車やビルの損害賠償請求をされたり悪党の遺族に訴えられたりして弁護士を雇って法廷闘争するようになったら現代的理性レベルの物語になって、フィクションの中で個人や社会の在り方や問題解決の方法が模索されている。リオタールは「大きな物語」が失われてポストモダンになったと言ったけれど、いま世界で起きている問題は大きな物語である。プーチンがスラブ民族の独立を維持するためにNATO拡大を拒絶してウクライナに侵攻したり、イスラエルは世界中から批判されようがパレスチナを侵攻して確固たる宗教国家を作ろうとしたり、パレスチナが国家承認を求めて民族による自治を維持しようとしたり、トランプがリベラルを批判してアメリカに神を取り戻そうとしたりしている。宗教的・民族的伝統に回帰して新自由主義グローバリズムの欺瞞から救済されることが大きな物語としてポストモダンの終焉になりうるのじゃなかろうか。今は純文学は『推し、燃ゆ』や『コンビニ人間』みたいな多種多様な生きにくい個人の「小さな物語」を中心に書いているけれど、そこに社会批判が欠落していて主人公と属性が近い一部の読者には刺さっても普遍性がなくてその先の広がりがないので、個人の生きにくさの原因となっている社会にも目を向けるべきである。文学が読者の価値観や思想に影響を与えて社会を変える力を持つようになれば、合理的なものとして社会に受け入れられて発展していくだろう。●まとめ個人の権利と国家の統治は対立するもので、ある程度個人の権利が侵害されないと国家は統治できない。民主制がちゃんと機能しているうちに、社会的合理性のために個人の権利が侵害される場合にどこで折り合いをつけるのかをよく議論するべきだろう。「社会などというものはない」というサッチャーの言葉は新型コロナパンデミックで否定されて、個人主義で個々人がただ自分の権利を主張するのでなく、誰と一緒に生きてどういう社会をどういう手段で作るのかを考えるフェーズに入っている。特に移民への対処を間違うと国家を崩壊させうるので、アフリカのホームタウン問題みたいに地元の理解を得ずに一方的に政府が移民を推進するのでなくて、移民を推進するにしろ拒否するにしろ議論を尽くしたうえで決定するべきである。
2025.09.25
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最近は経済産業省の若手官僚が100ページくらいあるデジタル経済レポートを書いていて、広義のデジタル赤字は2035年までに最大45兆円に達する可能性があるそうな。あとGoogle検索も超絶劣化していて情報が探しにくくなっていて、あまり役に立たないのに他に代替になる国産検索エンジンがなくてデジタル赤字につながるのはよくない。このゆゆしき問題を放置するとさらに大きなゆゆゆゆししきき問問題題になりかねないので、これについて素人なりに考えることにした。●Google検索の超絶劣化とAIの問題「〇〇とは」みたいなビッグワードでの検索はSEOが機能しているのかそれなりに役に立つ検索結果を表示することもあるけれど、「〇〇が△△のときの□□」みたいに細部の情報を探しているときは完全一致検索(検索ワードを""で囲む)や検索除外(-をつける)をしないと関係ない結果ばかり表示するし、完全一致検索や検索除外をしても関係ない結果が紛れ込むことがある。例えば高次脳機能について調べようと思って[高次脳機能とは]というクエリで検索すると高次脳機能障害についての情報ばかり表示するし、[高次脳機能とは -障害]で検索すると今度は「高次脳機能障がい」の情報を表示して検索アルゴリズムがユーザーの検索意図を理解していなくて、["高次脳機能とは"]の完全一致検索でようやく目当ての検索結果が出てくる。広告収入を目的にしていない学術研究とかはSEOをやらないので、ますます見つけにくくなる。新しい情報も表示しなくなっていて、Fortniteのアップデートで実装された技能自販機について検索したら、検索結果のトップにGameWithの2023年の古い記事を表示して、検索結果の2番目に表示された生成AIは技能自販機はないと断言した。YouTube内を検索したら普通に技能自販機の動画が出てきたのでそれを検索結果に出せばいいだろうに、Google検索が同じGoogleのサービスであるYouTubeとさえ連動していなくて使い物にならない。ちなみにBingで完全一位検索しても技能自販機の情報が出てこなかった。サーバー上に膨大な有益な情報があったとしても検索できなければ存在しないようなものだし、特定の情報を見つけるために何度も検索ワードを変えて検索しないといけないのでは時間がかかって効率も悪い。Google検索の劣化はGoogleも認めているようで、アメリカ司法省(DOJ)との裁判でGoogleの弁護団から提出された文書に「事実として、今日、オープンwebはすでに急速に衰退しており、原告(DOJ)の事業分割案は、その衰退を加速させるだけだろう。そして現在、オープンWebのディスプレイ広告収入に依存しているパブリッシャー(Webサイト運営者)に損害を与えることになる」と書いてあったそうな。GIGAZINEの記事によるとGoogle検索が超絶劣化したのは責任者が変わったのが原因なようで、黎明期から「ユーザーに最適な情報を届ける」という理念でパンダアップデートやペンギンアップデートなどをやってきたベン・ゴームズ氏が2020年に解任されて、後任のプラバカール・ラガヴァン氏が広告収入の成長を最優先する方針になったのが原因のようである。そんでただでさえタイパ重視の若者が劣化したGoogle検索を使わなくなってSNS内で検索するようになって検索のシェアも若干落ちているそうな。さらにGoogleはAIが直接検索に答える仕組みにシフトしようとしているので、これからGoogle検索のアルゴリズムが改善する見込みがない。一般ユーザーは検索でもAIでも答えがわかればいいじゃんと思うだろうけれど、学術研究とかで引用するにはいつの誰による情報なのかソースなのか確認して一言一句正確に引用するのが重要なので、ソースを表示しないタイプのAIでは検索の代替手段にならない。生成AIはハルシネーション(嘘を事実のように提示する応答)を起こすので、ソースを表示するタイプのAIでも勝手に言い換えて間違った情報を広める可能性もあるし、ソースがAIの応答と全然関係ない内容の場合もある。なのでAIがあれば検索がいらなくなるわけではない。TBS CROSS DIGのYouTubeの動画だと「グーグル検索の60%がクリックされない」そうで、AIが直接検索に対する答えを表示するとユーザーがページを訪問しなくなって広告収入はなくなるし、SEOが無駄になりつつある。それだけでなくてジャーナリストやフリーランスライターとかが苦労して取材した記事を勝手に使われて掲載元のサイトには広告収入が入らないこともありうるので、AIによる情報の窃盗にも対処する必要がある。・コンテンツビジネスへの影響クリエイターにとっては良い作品を作るかどうかよりも、まず検索結果に表示されるかどうかのほうが収益への影響が大きい。凝ったコンテンツをSNS上にアップロードしても検索結果に表示されなくてほとんど認知されない場合もある一方で、平凡なコンテンツでもなんかのきっかけで検索のアルゴリズムに適応してバズって有名になることもある。それゆえに自営業者たるクリエイターは広告の手段としてSEOの知識も持つに越したことはないけれど、Google検索自体が劣化すると一生懸命SEO対策しても無駄になる。Googleはまとめサイトとかのコピペ中心のコンテンツやAIの自動生成コンテンツは一応排除する方針のようだけれど、方針通りにアルゴリズムが機能していない。生成AIで手軽に文章や画像や動画を生成できるようになったことでAIスロップと呼ばれる低品質なコンテンツがあふれるようになって、GoogleがTikTokのショート動画とかのAIで生成されたコンテンツを検索結果の上位に出してくるので、結局はAIでコンテンツを大量生産して視聴数を増やすのが今の状況に適応したコンテンツビジネスのやり方になっていて、悪貨が良貨を駆逐する状態になっている。●日本はアメリカのサービスに依存するのをやめるべきデジタル経済リポートによるとデジタル関連収支は著作権等使用料、通信サービス、コンピュータサービス、情報サービス、経営・コンサルティングサービスの5項目を指していて、2024年の支払いは10.8兆円、受け取りは3.95兆円で、6.85兆円の赤字になっている。そんで悲観シナリオだと2035年にはモノを含めたソフトウェア・データ市場の赤字が45兆円まで拡大する可能性がある。例えば経営・コンサルティングサービスの収支赤字はインターネット広告関連の支払額とほとんど同じ変動をしていて、日本企業がGoogle広告やFacebbokを使って広告を出稿するとデジタル赤字になる。著作権等使用料にはWindows、Android、iOSとかのOSの使用料がかかっていて、国産のパソコンやスマホを買ってもデジタル赤字につながる。関税について考えるという記事でも考えたけれど、コンテンツやサービスのようなモノとしての形がないものには関税がかからないので、関税では外資系IT企業の影響力をコントロールできないし、かといって中国みたいな独裁国家でないとアクセス遮断とかの措置も取りにくい。ドイツはGoogleとかのオンラインプラットフォームが利益が大きいわりに税金を払わなくて投資も少なくて社会に還元しないということで10%の課税を検討しているそうだけれど、こういう外資狙い撃ちの課税は正当化しにくい。ネパールはフェイクニュース、ヘイトスピーチ、オンライン詐欺に対処するという名目でYouTubeやFacebookとかのソーシャルメディア禁止措置をとったけれど、これはソーシャルメディア上で政治家の汚職疑惑を告発するキャンペーンがされていた最中での禁止措置だったので単なる娯楽の規制でなくて言論弾圧の一種で、反発した若者が暴徒化して19死者が出て放火されたりしてオリ首相が禁止を撤回して辞任する事態になっている。詐欺を防ぐにしても全面的な規制でなくて技術的に対応するべきである。外資系ITを規制でどうにかしようとするのでなくて、まず自国でITインフラを整備するのが筋だろう。Google検索が超絶劣化していることは日本のIT企業にはチャンスになりうる。アメリカだとAIの発達でエンジニアが不要になって解雇されたり新卒が就職に苦労したりしているそうだし、トランプがハーバード大学の留学生を追い出そうとしたりしているけれど、これもIT後進国の日本にとっては優秀なエンジニアを雇うチャンスである。デジタル経済レポートの46ページに「日本企業が実行すべきソフトウェアチョーキング戦略は、汎用OSとしてドミナントデザインが築かれ、かつ初期投資が膨大に必要なOS領域ではなく、新規参集も比較的容易で、開発コストと収穫逓増のバランスが取れたミドルウェアの領域であるといえる。」と書いてあるけれど、国産OSの開発は無理にしてもLinuxを中心にするのじゃだめなのだろうか。パソコンのOSのサポート期限が切れてもLinuxやLibreOfficeを入れたらブラウジングや書類作成程度しかしないライトユーザー向けなら十分使えるし、リユースの推進という点でもLinuxの普及は公益にかなうものである。ETAXのダウンロード版ソフトがWindowsにしか対応していないので私は仕方なくWindowsを使っているけれど、政府がデジタル赤字を解消するつもりならLinuxにも対応してほしい。ブラウザも広告を一切表示しない国産ブラウザを開発して、変な広告を表示したらまずいような教育用タブレットや役所用の標準ブラウザに指定すればよいと思う。そんでロボット型検索エンジンからディレクトリ型検索エンジンに回帰して信用できるサイトだけ表示するようにすれば広告収入がなくてもディレクトリの登録料とかでブラウザの利益は出せるのじゃなかろうか。Googleのロボット型検索エンジンはフィッシング詐欺サイトを検索結果の上部に表示することがしばしばあって、これからAIを悪用したフィッシング詐欺サイトや投資詐欺広告の乱造が予想される一方でGoogle検索が劣化していって詐欺の脅威が増していくと思われるので、詐欺防止の観点からいまこそディレクトリ型検索エンジンをやる理由になると思う。Yahooのディレクトリ型検索はAIが出てくる以前の2018年に終了したけれど、今はAIが使えるのでAIチャットボットを併用してディレクトリ型検索に登録してある信頼性が高いデータベースの中から情報を抽出したり商品やサービスを提案したりするとかの今の技術だからこそやれるアップグレード版のディレクトリ型検索が作れると思うし、そしたらロボット型検索エンジンが有象無象の低品質なコンテンツをクロールして取り込んで生成AIがハルシネーションを起こすのと違ってディレクトリ型検索だからこそより精度が高い情報を検索できるだろうし、Googleが取りこぼしているITに疎くてサイトの信頼性を自分で判断できない日本人の高齢者層や若年層の検索シェアを取れると思う。あとFacebookが2016年のアメリカの大統領選挙の時にタイムラインで情報操作していたようなことが日本でも行われる可能性があるので、選挙に外資系のSNSを使うのもあまりよくない。ブログ系はテキストや写真が中心でデータ量が少なくてあまりサーバー代がかからないので楽天やAmebaとかいろいろな日本のIT企業がブログサービスを提供しているけれど、動画はデータ量が多くてサーバー代がかかるせいかニコニコ動画くらいしか国産のサービスがないし、ニコニコ動画にしてもサーバー増強に投資せずにニコニコ超会議で浪費したりエンジニアの給料をけちってランサムウェアの被害にあったりして運営がよくないのでもうちょっとましになってほしい。通販だとVISAとMastercardの規制が理由で駿河屋がアダルト商品の取り扱いをやめるそうで、こうした外国資本による規制が間接的に日本の二次創作文化やクリエイターの収入にも影響するので、国産の決済手段も普及させるほうがよい。日本のITはどこの会社の支払いサービスも機能にたいして違いがないのに自社で囲い込もうとして規格を統一しなくて、〇〇ペイが乱立したり、交通系ICカードが乱立したりして、効率化するのがITの意義なのに全体としてシステムが複雑になって非効率になる本末転倒なことをやっている。もうマイナンバーカードを作って銀行口座と紐づけているのだから最大限に活用して、例えばマイナペイやマイナタッチ決済とかを開発してそれで支払いをして決済データを会計ソフトと連動させて確定申告に使えるようにするとか、公共交通機関はマイナ系支払方法を義務付けるとか、国が介入して全国で統一の規格を作る方が効率が良くなると思う。というわけで日本のIT企業にはがんばってGoogleに変わるサービスを作ってほしいものである。
2025.09.11
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最近は石破総理がインドから「5年で50万人以上の相互の人材交流」や「インド人の5万人以上の受け入れ」の目標を検討している。自民党政権が続く限り移民が増えていくことは間違いないけれど、移民に対して十分な対応ができているか疑問である。知日派を増やして外国と協力関係を強化していくこと自体は重要だけれど、日本での受け入れ態勢や送り出し国の選別基準に問題があるとかえって信頼を損なうことにもなりかねない。移民を搾取の対象にしてはいけないし、医療や法的なサポートも必要である。日本人と移民の双方が幸福になる移民政策なら良いけれど、片方か両方が不幸になる移民政策ならやるべきでない。というわけでこれについて考えることにした。●移民とは何か国連によると、「国際移民の正式な法的定義はありませんが、多くの専門家は、移住の理由や法的地位に関係なく、定住国を変更した人々を国際移民とみなすことに同意しています。3カ月から12カ月間の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住と呼んで区別するのが一般的です。」と言っている。つまり定住しないでホテルを転々として短期間で帰る観光客は移民でなくて、短期的であれ住居を定めて移住して生活基盤を持つ人は移民に当たるわけで、日本で技能実習生や留学生と呼ばれている人も長期的移住をする移民である。日本の4市がアフリカのホームタウンに指定されて特別なビザが出るとBBCやナイジェリア政府に報じられたことで役所に問い合わせが殺到して、林官房長官は「JICA研修事業等を通じたインターン生の受け入れを想定している。この研修は期限付きで、研修終了後は研修生の出身国への帰国を前提としていて、移民の受け入れ促進ではない」と否定しているけれど、経済同友会が後援して国際移住機関とJICAが開催しているTICAD9のシンポジウムは2040年に今の2倍の688万人の外国人労働者が必要になるという推計を背景にしているし、JICAの「コンサルタント等契約(業務実施)(2025年1月15日)」という資料の11ページには「【目的】タンザニア及び山形県長井市における産業人材に係る情報収集及び分析を行い、外国人材受入れ体制及び持続的運営にかかるボトルネックとなる課題を調査する。ガーナ及び新潟県三条市においては、今後の民間連携・将来的な持続的交流を見据え調査し、初期段階にあたる関係構築(含むパイロット事業)を実施する。併せて、パイロット派遣を実施する中で、JICAとしての、または自治体による外国人材受入れにかかる効果的な支援策を検討する。」と書いてあるのだから、アフリカからの移民推進でないという解釈のほうがおかしくて、中長期的にアフリカからの移民を増やすつもりだろう。市民の理解を得る前に勝手に移民のパイロット派遣用の検証地に指定されたなら市民から批判があって当然である。インド人についても林官房長官は「インド国籍者に対して入国要件や基準を緩和したり、特別な枠を設定したりすることは想定しておらず、指摘の懸念はあたらない」と否定した。たぶん林官房長官は恒久移住ではないという意味で移民の受け入れ促進ではないと否定したのだろうけれど、恒久移住でなくても短期の移住でも移民だし、移民の定義をはっきりさせないと政府が移民ではないと言いつつ国際的に見たら移民に該当する人を受け入れて国民を騙していることになる。日本は奈良時代に鑑真から仏教を学んだり、江戸時代に朝鮮人の陶芸家から陶芸を学んだり、明治時代にヨーロッパの学者や芸術家を招聘して西洋の技術や芸術を学んだりして、高度な知識や技能を持つ移民から恩恵を得て発展してきた。日本からも移民を送り出していて、明治時代の貧しかった頃は新天地に食い扶持を求めた人が移民となって、ハワイのサトウキビ畑で働く契約移民になってそのまま定住したり、ペルーのサトウキビ畑に働きに行ったら過酷な労働条件で死者が出て離農してブラジル、ボリビア、チリ、アルゼンチンへ移動して定住したりした。満州事変後は日本軍が清の最後の皇帝の溥儀を皇帝に据えた満州国を作って日本人が出稼ぎに行って、人口4300万人のうち約82万人が日本人だった。かつて日本人は移民として世界中に出稼ぎに行っていたのに、なぜ現代の日本人は外国人が日本に出稼ぎにくることに拒否感があるのかというと、外国人差別というよりももともと同調圧力が強い田舎に余所者が来るのが嫌なのだろう。田舎と違って都会は近所との付き合いも薄くて同調圧力がないし、外国人観光客も多くて移民と観光客の区別がつかないし、隣に住む人の国籍や人種がなんであれ騒音やゴミ捨てとかのトラブルを起こさない限り気にしないので、都会だと移民への拒否感はあまりない。社会実情データ図録というサイトによると、1950-70年代は特別永住者が60万人程度いるだけで他の移民があまりいなかったけれど、1990年代から中国系移民が増え始めて2024年には約94万人いて、2010年代からベトナム系移民が増え始めて2024年には約63万人いる。他にはフィリピンとかの地理的に近いアジアの移民や、日系人が多いブラジルとかの南米の移民が多いようである。意外なことにアメリカには日系アメリカ人が少なからずいるわりにアメリカ人移民はほぼ横ばいで約6万人しかいなくて、給料が高いアメリカからわざわざ日本に出稼ぎに来たり何かを学んだりするほどの魅力がないので移民が少ないのだろう。世界中から様々な背景を持つ移民が日本に来て文化交流が促される一方で文化の違いから問題も起きるし、共生するには問題解決に取り組む必要がある。●移民が引き起こす問題・脱税しやすいしばしば在日中国人が空港で違法白タクで稼いでいるけれど、ニュース番組の取材班が直撃取材すると友人を送迎しただけとか言い逃れしている。他にもマンションの規則を無視して民泊を経営したり、マンションで違法に風俗店を経営したり、売春したり、無許可で道路を占有して露店を出したり、違法な金利で金を貸したり、旅行客が免税店で買ったブランド品を買い取って転売したりして、違法に稼いだ金は当然確定申告していないので所得税や住民税の脱税になる。日本の銀行を通さずに地下銀行や外国の支払いアプリとかを経由して母国の銀行に送金されると国税庁も証拠を追えない。そんで脱税した金で事業規模を拡大していくので、徐々に外国人が経営する企業に侵食されていってしまう。例えば8月27日に神戸市で無届けで美容室を営業してベトナム人理容師2人を不法就労させたとしてベトナム人の経営者ら3人が逮捕されたけれど、月に200万の売上があったそうで、その分は周辺のまともな美容室の売り上げが減るわけである。美容室や飲食店みたいな刃物を扱って衛生管理が必要な仕事は少人数で開業しやすいうえに客が怪我したり病気になったりする可能性もあるので、発展途上国の衛生基準で無許可で経営されると危ない。・教育が不十分になる留学生は基本的に日本語を覚えるので日本に長期滞在して結婚して子供を作っても子供が日本語を話せるようになるけれど、一家で難民申請した外国人や中国残留孤児とかは両親も子供も日本語がわからなくて、一応学校に通っても子供が授業についていけなかったり同級生と意思疎通できなくて仲間外れにされたりしてドロップアウトして、学歴がないとろくに就職もできないので不良化して犯罪で生計を立てるようになる。・行政コストがかかるビザの種類によっては日本語を勉強しない状態で来日する外国人がいる。そうなると役所、病院、警察、裁判所とかのあらゆる機関で通訳が必要になって、そのぶんコストがかかる。警察は48時間以内に取り調べして起訴するかどうか決めないといけないけれど、通訳が足りないとかで十分な取り調べができない場合は犯罪行為をしていても不起訴になりかねなくて、警察の事情聴取や裁判といった統治のための機能が十分に働かなることが問題である。・性犯罪が起きるイスラム原理主義勢力が影響力を持っているような女性蔑視の国から来た人はそもそも女性の権利を守る意識がないので性犯罪が起きやすくなる。イギリスだとパキスタン系移民の性犯罪が問題になっていて、イーロン・マスクがスターマー首相の検察時代のパキスタン系のグルーミング・ギャングの集団レイプ事件への対応を批判していた。statistaの「Number of police recorded rape offences in England and Wales from 2002/03 to 2024/25」によると、イギリスとウェールズのレイプは2000年代は1万3千件程度だったのが、欧州難民危機が起きた2015年頃から増え始めて2025年には7万件になっている。イギリス人が急に性欲に目覚めて5倍レイプするようになったとは思えないので、移民による性犯罪が増えたのだろう。対照的にポーランドはウクライナから200万人の避難民を受け入れる一方でイスラム教徒の不法移民を一切受け入れておらず、statiaの「Number of rapes in Poland from 1999 to 2023」を見るとレイプの件数が右肩下がりになっていて、ポーランドの首相はレイシストと批判されようが国民を性犯罪から守っている。日本だと2025年8月6日に松戸市の路線バス内で面識がない女子大学生にわいせつな行為をしたバングラディシュ人の無職の男(29)が逮捕されて、「やったことに間違いないが、彼女が同意してくれていると思っていた」と供述したけれど、常識的に考えて初対面でデートもせずにわいせつに同意しないだろうに、そういう異性に対する常識がない。そもそも無職なのに何のビザで日本に滞在しているのか疑問である。2024年9月11日にはJR中央線で女子高生にわいせつをしてバッグを奪って登山道脇の茂みに連れ込んで性的暴行をしたパキスタン人が逮捕されている。・窃盗や強盗や麻薬の密売が起きる酔っ払いとかの粗暴犯なら犯人が日本人でも外国人でも最寄りの交番から来た高卒の警察官が対応できるけれど、不良移民が集まって犯罪組織になった場合は外国語がわかる警察官でないと踏み込んだ捜査ができないので犯人の逮捕が難しくなって犯罪が深刻化する。関東でベトナム人グループが家畜や農作物を盗んでSNSを使って売りさばいたり、カンボジア人グループが銅線を窃盗して売りさばいたり、六本木でナイジェリア人グループがぼったくりをしたり麻薬を密売したりしていて、redditの日本観光スレッドだと夜遊びする場合に六本木は避けるように警告されているくらい外国人観光客にもナイジェリア人の素行の悪さは知れ渡っている。金持ちの中国人を狙った中国人同士の犯罪も起きていて、中国大使館や中国公安局を騙って詐欺をしたり、中国人経営者から強盗したりしている。特に麻薬は日本に製造拠点がなくて主に外国から密輸されるので、移民ギャングの資金源になりやすい。名古屋の中国系企業のFIRSKY株式会社が中国産フェンタニルのアメリカへの不正輸出の拠点になっていたことが判明したけれど、警察は単に粗暴犯を捕まえるみたいに通報があってから出動して対処するのではだめで、外国に拠点を持つ国際的な犯罪組織の犯罪を未然に防ぐための捜査網が必要になる。・交通事故が起きる日本は左側通行で右ハンドルだけれど世界では少数派で、カーネクストの「世界の右ハンドルと左ハンドルの比率」という記事によると左側通行と右側通行の比率は34:66だそうな。右側通行で左ハンドルの車の運転をしてきた外国人が日本で車を運転すると、疲れているときとかにうっかり逆走しかねないし、標識をちゃんと理解できるのかという問題もある。2023年には大阪で飲酒・無免許運転のナイジェリア人が逆走して正面衝突して対向車の運転手が死亡している。海外の運転免許証を保有する外国人が簡単な筆記試験で日本の免許証を取得できる外免切り替えが批判されて、警視庁は10月1日から住民票の写しの提出を義務化して外国人観光客の切り替えを認めないようにして試験も10問から50問にして正解率も70%から90%に引き上げるそうだけれど、最初からそうすればいいのに今まで試験を簡単にしていた意味が分からない。アメリカだと商用トラック運転手に対する就労ビザの発給を即時停止するそうで、トランプは「米国の道路で大型トレーラーを運転する外国人運転手が増えており、米国人の生命を危険にさらし、米国人トラック運転手の生計を脅かしている」と言っている。Xを見ていたら不法移民のインド人のトレーラーの運転手が旋回禁止のところで旋回して道路をふさいで荷台に後続車が突っ込む死亡事故の動画が流れてきたけれど、運転手が逮捕された後に英語のテストをしたらほとんど英語がわからなくて4つの標識のうち1つしか読めなかったそうな。アメリカで免許を取るのは簡単なようで英語がわからない人でも免許が取れるので、事故が起きる原因になっているのだろう。本来なら就労ビザの停止でなくて運転免許取得の条件を厳しくするべきだけれど、免許関連は各州が独自の基準で発行していて大統領が直接いじれないので、大統領の権限でどうにかできるビザの方を規制して対応するということなのかもしれない。・外国に逃げる移民が民事訴訟を起こされたり、交通事故や刑事事件を起こしたりして、日本に留まるメリットよりデメリットの方が多くなると責任をとらずにさっさと外国に逃げてしまって被害者はやられ損になる。日本が犯罪人引き渡し条約を締結しているのは韓国とアメリカだけなので、それ以外の国に逃げられたら日本で裁判して罪に問うことさえできなくなる。・不動産関係の問題が起きる移民が急に増えても不動産は急に増えないので、移民が増えるほど住宅の需要と供給のバランスが崩れて、特にインフラが整っている都市部に金持ちが住みたがって不動産価格が高騰する。オーストラリアは国自体は大きくても居住可能地域は狭くて沿岸部に集中していて、そこに金持ちの中国人移民が来るので家賃が高騰して現地人が家賃を払えなくなってホームレスになったりして、もともと白豪主義だったのにさらにアジア系移民への反感が高まっていて、8月31日には「オーストラリアのための行進」という大規模な反移民デモが行われた。韓国だとソウル一極集中だったところに中国人やアメリカ人が高層マンションを買うのでソウルの住宅価格はニューヨークやロンドンを抜いて世界4位まで上がったそうで、対照的に第二の都市の釜山は寂れているそうな。日本だと首都圏のタワマンが投資の対象になって高騰していて1億円を超えてサラリーマンが買えない値段になっていて、円安が進行するほど輸入資材価格が高騰して日本人には買いにくくなって、外国人は割安な為替レートのおかげで買いやすくなる悪循環になる。外国人が投資目的で買ったマンションが空室なのも問題で、ホテルなら利用者が名簿に残るので警察が捜査しやすいけれど、外国人所有のマンションは不法滞在者やテロリストの潜伏先として使われかねない。数十年後には相続の問題も起きる。日本人でも不動産の所有者が死んでも相続登記がされなくて所有者不明のまま不動産が放置されている場合があるけれど、不動産の所有者が外国人だと相続する人が外国在住で日本の法律を知らなくて相続登記をしなかったり、登記の手続きを面倒くさがって放置したり、固定資産税を滞納して競売にかけられた後で勝手に財産を処分されたから賠償しろとごねたりして、日本人以上に問題が起きるだろう。外国人が日本の不動産を積極的に買うようになったのは最近の事なので相続の問題が出るのは数十年後だろうけれど、問題が起きることを見越して早めに対処する必要がある。・介護や福祉の問題が起きる日本人と結婚して日本国籍を得た人の中には日本語が話せない人もいるし、あるいは日本語を覚えて日本に永住権を持つ外国人でも歳をとって認知症になると日本語を忘れて母語に戻る場合があって、介護施設や病院に外国語が話せる人がいるとは限らないので介護が不十分になる。短期的に見たらうまく日本に同化したように見えても歳を取ってから離婚して配偶者ビザが失効したり、病気や失職とかで生活能力がなくなったりして在留資格を失って問題が顕在化する場合もある。2022年にはイタリア人のホームレスが入管に収容されて自殺したけれど、彼はグラフィックデザイナーとして働いて日本人と結婚したものの妄想性パーソナリティー障害になって妻もいなくなって在留資格を失ったという経緯だった。彼は悪気があって在留資格をなくした訳ではないし、入管も法に則って在留資格がない人の収容を執行していて対応に問題があったわけではない。しかし長年日本で暮らして母国に生活基盤がない病気の高齢の外国人の在留資格がなくなったときに収容したり送還したりするにしても人道的であるに越したことはなくて、ただ送還して後は知ったこっちゃないというのでなくて送還先の国の福祉サービスと連携するとかもやるべきかもしれない。●どうすれば移民と共存できるのか・難民と移民は分けて考えるべき難民支援は政治的に迫害されている人を助ける政策で、日本は難民条約に基づいて審査をして難民だと認定した場合は保護する義務がある。一方で移民政策は自国にとって有益な人を受け入れる政策で、移民を受け入れるか否か、どういう基準で受け入れるかは国会で判断してビザの要件は日本独自に決める。観光ビザで日本に来て期限が切れたら彼氏にDVされるとか借金取りに脅されているとかの政治的迫害と関係ない理由で難民申請するような偽装難民は難民ではないし、正規の就労ビザを取れるほどの技能がない人は日本にとって有益でもないので、嘘をついて難民申請して滞在期間を延ばそうとする人は不法移民として速やかに強制送還して再入国禁止にするべきである。左翼はしばしば日本の難民認定率が低いことを問題にするけれど、迫害を立証できないほうに問題があって、難民だという根拠が乏しいのなら難民認定されなくて当然である。難民審査中の仮放免者は離島に隔離したりして偽装難民の不法就労や犯罪を防ぐ方法もあるだろうし、仮放免中に一切仕事をさせないのでなくて刑務所みたいに政府が管轄して監視できる作業所を作って特定の仕事なら収入も得てもいいようにも制度を変えられるだろう。難民の生命の保護をするのが日本である必然性もないので、デンマークが難民をルワンダに移送することを検討したり、オーストラリアが難民申請が不認定になって在留資格がなくなって本国に送還するのも難しい人をナウルに受け入れてもらったりするみたいに、難民申請者や難民不認定者を他の安全な国に移送することも検討するほうがよい。例えば2007年に脱北者の木造船が青森県に漂着して一時保護した後に韓国に移送されたように、日本に難民が来たからといって生涯日本で保護しなければならないわけではないし、文化が近い国のほうが難民も生活しやすいだろう。難民は外国の事情で発生するので日本側ではコントロールできないし難民に該当する人は保護する必要があるけれど、移民政策は政府の裁量で自由にできるので、移民を受け入れるにしろ追い出すにしろいろいろやりようがある。政府が10月に経営・管理ビザの要件を厳格化する予定で、資本金を500万以上から3000万以上に引き上げて、経営者の経歴として3年以上の経営・管理経験と経営・管理に関する修士相当以上の学位の要件も設けてペーパーカンパニーを作って日本に滞在する人を排除しようとしているように、ビザの要件を変えればビザを悪用する人を日本に滞在させないようにできる。あと日本で移民というと技能実習生やエスニック料理の調理師や大学教授や外資系企業の駐在員とかの就業ビザで働く労働者のイメージがあるけれど、他の国だと移民は必ずしも労働者である必要はなくて、例えばタイやインドネシアとかの東南アジアにはリタイアメントビザと呼ばれる50-55歳以上の一定額以上の預金と収入がある金持ちの外国人が働かずに投資の配当金を得ながら5-10年くらいのんびり滞在できるビザもあって、金持ちは高級コンドミニアムの家賃を長期間払ったり現地で車を買ったり家政婦を雇ったりして短期滞在の観光客以上に金を落としてくれて経済に貢献するので優遇している。日本も移民を労働力の補完とだけ考えずに、長期滞在する消費者として富裕層の移民をいれるというやり方も考えるほうがよい。日本の医療ビザは90日、入院する場合は1年までの短期滞在用だけれど、外国人の富裕層向けにリハビリや湯治やホスピスで過ごすための滞在期間を延ばしたり家族の滞在を許可したりする富裕層用の長期療養ビザみたいなのを作って、保険適用外の高額治療で医療費をがしがし徴収して病院の収益に充てるみたいなやり方もあるかもしれない。病気で療養している富裕層なら不法就労や強盗殺人や麻薬の密輸とかの金目当ての犯罪はやらないだろうし、日本にとって有益かつ無害な移民になりうる。・保証人の責任を強化する技能実習生の送り出し機関は人材の質に関わらず大量に送り出すほど儲かるし、技能実習生を受け入れる企業も儲かるけれど、DQN外国人が引き起こす問題は地域住民が負担することになって、受益者と負担者が一致していない。伊万里市で起きたベトナム人技能実習生による強盗殺人事件はそもそも送り出し機関がちゃんと人柄を見て選別していれば防げたはずで、送り出し機関の責任も問われるべきである。例えば複数人の連帯保証人や保証金を必須にして、外国人が事故や犯罪の損害賠償とかを払えないときや帰国の旅費を払えないときには連帯保証人に払わせたり保証金を使ったりするようにすればよいし、外国人が逃亡して連絡が取れなくなった場合は見つかるまで毎年捜査費用を100万円くらい保証人に払わせればよいし、問題なくビザの期間内に帰国する場合には保証金を返却すればよい。難民申請者の身元保証人も問題で、出入国管理庁の「現行入管法上の問題点」という令和3年の資料によると弁護士Aは約280人中80人を逃亡させているそうで、身元保証人としての責任を果たしていない。保証人の責任が強化されたら左翼が難民申請中の人に対して誰彼構わず保証人になって仮放免中の外国人が逃亡したり犯罪をしても誰も責任を取らないような現状を改善できるだろう。私が前に勤めていた零細企業には一度も出社したことがなくて勤務実態がない中国人の部長が在籍していることになっていたけれど、たぶん社長はその中国人が就労ビザを得る便宜を図る代わりに何かの見返りをもらっていたんじゃないかと思う。こういう名目上の保証人になって実質的な責任は取らないケースがなくなるようにするほうがよい。・保険を分ける日本は皆保険制度があるとはいえ職業や年齢で保険が分かれていて、無職か自営業者は国民健康保険、会社員は全国健康保険協会か健康保険組合の健康保険、公務員は共済組合の保険、75歳以上の高齢者は後期高齢者医療制度を使っている。日本人の高齢者は若い頃に週休一日で頑張って仕事をして長年保険料を納めてきたので年を取ってから体にがたがきて病院の世話になって高額の医療費がかかって現役世代の負担が増えるのも仕方がないし同じ国民同士で助け合うべきだと思えるけれど、いままで保険料を納めてこなかった高齢の外国人が経営・管理ビザで500万でペーパーカンパニーを作って日本に3か月滞在して国民健康保険に加入してすぐ高額の治療をして保険で賄うのは納得がいかない。オマキザルにぶどうときゅうりをあげる実験できゅうりしかもらえなかった個体が怒ってきゅうりを投げ捨てたように、動物は群れとして暮らすうえで不公平感があると怒りを感じるようになっていて本能に近い感情として強く働くので、日本人と移民で不公平感があると移民に敵意が向かう。だったら最初から日本人向けの制度と外国人向けの制度を分けてしまえばいい。例えば外国人専用の保険の中から病気や一時的な失業に対する生活支援とかをすればよいし、全額外国人の負担なら日本人からの批判は出なくなるだろう。・日本語を覚えさせるだけでなく常識を身に着けさせる外国人の犯罪によくあるのが「知らなかった」と言って罪を軽くしようとするパターンで、例えば8月26日に仙台市でスリランカ人が職務質問されて乾燥大麻が見つかって「日本でマリファナが違法ということは知らなかった」と容疑を一部否認しているそうな。知らないなら調べてから行動しろっちゅう話で、特に大麻はタバコと違って薬局でさえ販売されていないのだから常識的に考えて違法だとわかるはずである。人材育成機構の「「技能実習制度」が「育成就労制度」に変わります」という記事によると2027年には技能実習制度が育成就労制度に変わって、日本語能力要件が強化されるようである。それ自体は良いけれど、日本語は話せても常識がなくて犯罪をするのでは意味がないので、大麻や飲酒運転みたいに国によって合法か違法かが分かれるようなものに対する社会常識研修みたいなものも徹底してほしい。高度な技術を持つ特定技能2号だと家族帯同の無期限就労が可能になるけれど、家族に対する日本語教育とかの同化政策も必要だろう。・人数に上限を設けるヨーロッパの移民政策は短期間に狭い地域に大勢の移民を入れたことで移民が言語を覚えようとしなくて同化が不十分になって失敗した。川口のクルド人問題も同じ構図で、クルド人は在日外国人の中では比較的少人数にもかかわらず川口に集中したことで同化せずに軋轢が起きて全国的に注目されることになった。その反省を活かすなら、特定の国の出身者が短期間に一か所に集まりすぎないようにするとか、一定数の人口の割合を超えないようにするとか、国籍別の犯罪率が高い国の移民を制限するとか、国ごとに1年に帰化できる人数の上限を制限するとかすればよい。スパイやテロリストへの対策としても公安の監視能力を超える人数が一挙に来日するのは問題で、日本を敵視している国やテロリストが活動中の国からの移民にも制限が必要だろう。鈴木法相は8月29日の記者会見でこれから出入国管理庁にプロジェクトチームを作って上限を設ける必要の是非などを検討することを明らかにしていて、対応が遅くて本来は欧州難民危機が起きた安倍政権の頃からやっておくべきだったけれど、検討すること自体はよい。上限を設けるとオーバーツーリズムへの対策にもなる。例えばGWやお盆や年末年始の旅行シーズンに外国人観光客の入国可能人数に上限を設けたり、入国税を高くして日本旅行を他の時期に移すように誘導すれば、外国人が減る分だけ日本人が公共交通機関やホテルを使いやすくなるだろう。・不起訴の理由を明らかにする外国人の犯罪はしばしば不起訴になるけれど理由が明かされない。例えばドラゴンボールの初版本の偽物を販売した中国人が8月27日に不起訴処分になったけれど、静岡地検は「諸般の事情に鑑みて」と詳細を明らかにしていない。麻薬取締法違反(営利目的輸入)の疑いで逮捕されたスリランカ人が8月27日に不起訴になったけれど、さいたま地検川越支部は詳しい理由を明らかにしていない。不起訴の理由を言わないと外国人犯罪の捜査が面倒くさいから仕事をさぼっているのじゃないかと検察への不信感や無罪放免になった外国人への嫌悪や偏見につながっていく。誰もが納得するような公正な捜査をしているなら不起訴にした理由も言えるはずである。もし言葉が通じなくて捜査が不十分で不起訴になっているのなら問題で、暴力団や半グレが外国人を実行犯として利用する犯罪が増えかねないし、外国のギャングに日本は取り締まりがゆるい国だと知れ渡ったら狩場にされかねないし、外国人犯罪が多発して警察官の人手が足りなくて捜査が不十分で不起訴になって犯罪者が野放しになってまた犯罪する負のループになったら治安が崩壊する。ヨーロッパで移民や難民を大勢受け入れて犯罪が多発して右傾化したように、治安が悪くなったら反移民感情が高まって良い移民も悪い移民も一緒くたにされて移民排斥の流れになって移民との共生は失敗する。警察や検察は日本人の犯罪も外国人の犯罪も公平に捜査して治安を維持する姿勢を示す必要がある。●まとめ世界中の人がなるべく幸福であるに越したことはないけれど、それは日本人の犠牲や我慢の上で成り立たせるものではない。まず日本人が独力で幸福になって、日本人みたいに幸福になりたいなと思う外国人はビザを取って日本語を覚えて日本の文化に同化して自立して生計を立てて幸福になればよい。日本の文化や歴史や法律を尊重せずにインフラや福祉にフリーライドする自分勝手な外国人とは隣人として共に生きることはできないので、そういう人は日本に来ずに母国や他の国で幸福になることを目指せばよい。
2025.08.30
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こないだの参院選は参政党や日本保守党とかの新興の保守派が議席を増やした一方で、左翼は熱心に政治活動をしているのに国民民主党以外は支持者は増えていない。支持者が増えないのには相応の理由があると思うので、これについて考えることにした。●日本の左翼政党のおおまかな流れ19世紀の資本家は労働者から搾取して工場の稼働率を上げるために長時間勤務させたりしていて、資本主義への批判から労働者の待遇改善を求める社会主義や共産主義を標榜する人が増えていって、日本社会党や共産党とかの左翼政党ができた。かつては日本社会党は55年体制で野党第一党で、1996年に社会民主党(社民党)に改称して自民党・社民党・新党さきがけの自社さ連立政権で村山富市が総理になったこともあったけれど、北朝鮮の拉致問題を否定したことから支持を失って、社民党は議席を減らし続けてもはや与党になる可能性はない。村山総理を見限って社民党から分離した議員が新党さきがけと合流して1996年に民主党ができて、アメリカみたいな二大政党制を目指して2009-2012年には民主党が念願の与党になったものの、小沢一郎が陸山会事件で告発されたり円高を注視して放置したりマニフェストを無視したりして問題だらけで短期政権で終わって、政権担当能力がないとみなされて二大政党制の幻想がなくなって、また自民党政権に戻って安倍晋三に「悪夢の民主党政権」とまで呼ばれた。民主党に維新の党が合流して2016年に民進党になって、前原誠司が代表の民進党が小池百合子の希望の党に合流する際に左派が排除されたのでその受け皿として2017年に枝野幸男が代表の立憲民主党ができて野党第一党になって、2018年に民進党と国民党が合流して国民民主党ができた。日本共産党は旧社会党系の政党とは違って分離や合流をせずにそのままで、党員数は25万人いて地方議員も多くて支持基盤はしっかりしているものの、支持者が高齢化して死亡していくにつれて議席を減らしているし、資金源にしている赤旗の発行部数も減っている。新興の左翼政党としては2019年に元俳優の山本太郎が党首のれいわ新選組ができて、ロスジェネ世代や官製ワーキングプアや障碍者とかの弱者支援を中心とした政策を掲げている。そんでソ連の崩壊で社会主義の失敗が明白になって、中国も実質的に資本主義国家になって、21世紀の左翼は社会主義国家の実現を目指すというよりも個人の権利や自由を追求するリベラルになって、女性の権利、LGBTの権利、夫婦別姓の権利、労働者の権利、外国人の参政権、福祉、環境保護、反戦、反原発とかを政策にするようになった。●なぜ左翼の支持者が増えないのか・建設的な議論にならない参院選で左翼が参政党の選挙妨害をしていたのが典型的で、藁人形論法とかの詭弁を使ったり、大声で恫喝したり、煙を炊いたりして、建設的な議論にならない。左翼は自分が正しいという傲慢な思い上がりがあるようで、意見が違う人を差別主義者だの陰謀論者だのなんだのと人格否定して、相手の話を聞かなくて理解しようとしない。これは左翼の致命的な欠点で、議席数が少ない日本の左翼政党が支持者を増やすには意見が異なる人を説得することが必要なのに、正義の戦士を気取って他者を糾弾して自己満足するやり方では対立と分断が深まるだけで左翼に共感する人は増えない。他党を批判するにしても人格否定でなくて政策について批判して議論するべきで、民主主義国家で議論を拒否するのは支持されない。あと左翼が保守政党や保守派の政治家を批判するのはいいけれど、保守支持者を馬鹿だの低学歴だのとレッテル貼りで批判したらもう敵だと宣言しているようなもので、その馬鹿な人たちの不満に向き合って幸福になれる政策を訴えないと説得して左翼の支持に転向させることは不可能になる。アメリカの大統領選挙の時に左翼はトランプ支持者を低学歴の馬鹿だと批判して結局トランプ政権が誕生したけれど、日本でも左翼が同じことを繰り返して参政党支持者は馬鹿だの若者は政治リテラシーがないだのと批判してかえって参政党の支持を強固にして失敗している。・言動が矛盾している左翼は多様性を主張する癖に保守を多様性のうちの一つとして認めず、自由や権利を守るどころか言論弾圧していて、理念と行動が矛盾している。例えば『トランスジェンダーになりたい少女たち』という本がキャンセルカルチャーでいったん出版を取りやめる事態になって、問題提起することさえ邪魔している。バイデン政権下でLGBTとかのリベラル政策を推し進めて問題が起きても批判も検証も許さないという姿勢では社会はよくならない。民主主義国家で言論弾圧をするのは支持されない。・公金に集る体質1970年代には被差別部落の環境改善のための巨額の予算が利権の温床になって、関西で部落解放同盟による横領や恐喝などが行わて、公官庁を糾弾して不当な要求をするえせ同和行為が行われて、差別を盾にして左翼の人権屋が擁護するので問題解決が長引いた。学術会議は政府に干渉されたくないというくせに民間団体として活動するのは嫌がって金をほしがる。左翼のNPO団体も政府に補助金をもらいつつ政治活動をしていて、colaboの仁藤夢乃が共産党のYouTube動画で「比例は共産党に入れます」と言っていて共産党支持者なのは明白で、参院選で参政党の選挙活動の邪魔をしていたら三橋貴明にぶつかって転んで「参政党支持者から暴力受けた」と主張して転び公妨のようなことをしている。どんな大義名分を掲げようが結局自分の組織に公金を引っ張ってくるのを目当てにして私利私欲で政治的な活動をしていると思われたら支持されなくなる。・攻撃性が高い最近ミツカンが冷やし中華はつゆだけでもおいしい旨をXに投稿したら、主婦がそうめんを作るのは重労働か否かを論争していたフェミニストたちが女性蔑視だと批判してミツカンが謝罪する事態になった。冷やし中華をどう作ろうがどうでもいいだろうに、これを女性蔑視に結びつけて批判するのが意味不明すぎる。赤いきつねのCMが性的かどうかの問題も同様に少数の人たちが過剰反応していた。些細なことを女性蔑視に結びつけるフェミニストの攻撃性の高さは異常で、もしかしたら統合失調症かなんかの病気で自分が差別されているという被害妄想に取りつかれているのかもしれない。しかもその批判の基準も個人の主観でしかなくて解決できるような問題でもないので、議論するのも不毛である。主観を根拠にして表現を規制しようとするのは支持されない。あと日本で普通に生活していたら中指を立てる人にはあまり会わないだろうけれど、左翼活動家は中指を立てて威嚇する習慣があるようである。香山リカが中指を立てている姿を見た人は百年の恋も冷めてしまうだろう。ロックミュージシャンじゃないのだから反体制派だからといって過激なパフォーマンスをする必要はないし、敵意むき出しの言動は知性を感じられないので支持されない。保守にも日本第一党(旧在特会)みたいなヘイトスピーチをする過激派がいるけれど、だからといって左翼も同レベルに堕ちてやり返す必要はないはずで、誰かを批判するにしても中指を上品に折りたたんで教養ある文明人にふさわしい批判をするべきである。・いつも同じ顔ぶれ左翼政党は労働組合とかの支持基盤があって、党の役職についているようなベテラン議員はたいてい当選確実で入れ替わりがないので新鮮味がない。石丸伸二が都知事選で具体的な政策がないにもかかわらずある程度の票を得たのは何かやってくれそうという期待があったからだろうし、参院選で支持基盤がないチームみらいが議席を得たのも若くてITに精通した安野貴博が何かやってくれそうという期待があったからだろうけれど、左翼政党にはそういう話題性と勢いがある新人がいないので特に期待や関心が持てない。・マイノリティー重視でマジョリティー軽視自民党が裏金問題で支持率を落としていて政権交代の絶好のチャンスのときに立憲民主党は夫婦別姓を選挙の主な政策に掲げたけれど、ごく少数の人しか要求していない夫婦別姓を争点にしても多数派の支持が得られなくて当然で、野党第一党なのに政権交代をする気がないんじゃないかというくらい民意を掴めていない。マイノリティーの権利も大事には違いないけれど、女性の権利とLGBTの権利が対立する場合とかでも左翼は過剰にマイノリティー側に立つので、マジョリティー側の支持を得られないのも当然である。・若者へのアピールが足りない国民民主党や参政党とかの新しい政党がSNSを使って若者の支持を増やしたのに対して、古くからある政党の議員や支持者は高齢者が多いのでSNSを使いこなせていない。選挙期間中に選挙特番で数分だけ各党首の主張を聞くのと、SNSで普段から定期的に十数分の党首の動画を見るのとでは政策の理解度も違ってくる。それにプラカードを掲げてデモ行進するようなアナログな政治活動は暇な年寄りは参加しやすいのかもしれないけれど忙しい若者は参加しにくいし、SNSで動画を投稿する方が若者に関心を持たれやすい。左翼が参政党の選挙妨害していたのも若者へは逆効果で、若者が初めての投票で徒党を組んで選挙妨害している左翼を直接見たりSNSで見たりしたらそれ以降は左翼政党には投票しなくなるだろうし、政策云々以前にまず人として恥ずかしい行動はやるべきでない。SNSを使わない高齢者は議員も支持者も知識のアップデートをしないのも問題である。若者はテレビや新聞を見ない人が多いのでマスコミの偏向報道に誘導されにくいし、SNSでいろいろな情報を取捨選択しているので財政破綻論が間違っていると理解している人が多いし、増税の時には値札を変えるのが大変だとは言わないくせに減税の時だけ値札を言い訳にするような詭弁で減税を拒もうとする増税派の矛盾にも気づいている。立憲民主党も国民民主党は元は同じ民主党系の政党なので選択的夫婦別姓に賛成したりして政策は似ている部分があるけれど、立憲民主党は食料品の消費税率を一時的にゼロにする公約を掲げていたものの枝野が消費税減税に反対しているしそもそも野田が総理の時に消費税を上げたのがその後の不況の原因なので支持が増えなくて議席が横ばいで、国民民主党は実質賃金が持続的にプラスになるまで消費税は一律5%にするという減税を掲げて比例票では立憲民主党を若干上回って議席を大幅に増やして、明暗がはっきり分かれた。若者は知識と経験が乏しくても馬鹿ではないし、やらない言い訳ばかりして行動しない中高年の欺瞞が嫌いである。そこで減税をポピュリズムだと批判してきた枝野と減税をやると言ってYouTubeのたまきチャンネルで発信を続けてきた玉木の違いが際立って、若者の票に顕著な違いがでた。毎年160万人くらいが死亡している一方で、100万人くらいが18歳になって選挙権を持つようになってそのぶんの票の入れ替わりが起きるので、若者を取り込めないと高齢者が死亡していくにつれて票が減ってジリ貧になっていく。・反日私は支持政党がないのでどの政党であれ日本を発展させて日本人を幸福にする政策をするのなら支持するけれど、日本を破壊して日本人を不幸にすることを目的に活動している反日左翼は支持しようがない。共産党には良い質疑応答をする国会議員もいるし赤旗の自民党の裏金問題とかのスクープは頑張っているけれど、共産党の支持者が暴力革命を主張したり国旗にバツ印をつけて日本解体を主張したり他党の街頭演説を妨害して言論弾圧をしたりしていて、共産党が党員に他党の妨害を指示しているかどうかは知らないけれど党として支持者の暴走を止めようとしないのだから、共産党は民主主義や思想の自由を脅かす危険な政党と見なすしかない。●左翼の無能さが世界の右傾化を招いた多様性と移民について考えるという記事でも考えたけれど、ダイバーシティ、エクイティ、インクルージョンはそれぞれは大事な概念で、私も多様性は大事だと思うし、いろいろな人がいる方がよいと思う。しかし具体的にどうやって言語や宗教が違う人が共生できる社会を実現するのかが問題で、一緒にいたら自然に仲良くなるというようなものではなくて言語や習慣とかの同化政策が必要になる。同化できずに軋轢を招いて害のほうが大きいのならインクルージョンするべきではないのに、ヨーロッパの左翼は害を無視して移民政策を推し進めて失敗して、ヨーロッパ各国が右傾化している。もしスウェーデンが中東系やアフリカ系の移民を大勢受け入れてヘレニズムみたいな文化や技術の融合が起きて経済や文化が発展して多文化共生に大成功したのなら世界中が真似をして左翼政党が躍進しただろうけれど、実際は識字率が低くて職歴がない人や犯罪者を無選別に受け入れたところで働かずに福祉に依存したりギャング化して犯罪が激増したりして反面教師になっている。ヨーロッパ各国は貧しい発展途上国の人たちがかわいそうだからと受け入れるだけで満足して、様々な国から来た移民の思想や生活習慣を理解せず、共生するための効果的なプランがなくて、軋轢や犯罪が起きても寛容になって我慢することを強要して対策しなかったので失敗するべくして失敗したといえる。キリスト教圏で言語や価値観が似ているEU内の移民を受け入れるのと、言語や宗教が違う中東やアフリカの移民を受け入れるのでは勝手が違うわけである。特にイスラム教徒は原理主義に近いほど法治国家とは相いれなくて、男性が女性をレイプしても肌を見せて誘惑した女性が悪いという考え方だし現地の法律よりもシャリア(イスラム法)や宗教指導者に従うので、先進国の男女平等の人権感覚や法律を順守する道徳観とは相反する。イギリスで1997-2013年に起きたロザラム児童性的搾取事件では1400人以上の児童がパキスタン系住民に性的虐待されていたことが判明したけれど、パキスタン系地方議員が人種差別を招くとして問題の解決を遅らせていたそうで、そのせいで被害者が増えたようである。法律違反した人を法に則って裁いたところで差別でも何でもないだろうに、左翼は移民の犯罪を取り締まることさえ差別扱いして、移民の犯罪者の人権を守るために犯罪被害者の人権を蔑ろにしている。だからこそ移民の犯罪を何とかしろという声が大きくなって移民の増加に反対する保守政党が台頭するようになる。日本では左翼が参政党の日本人ファーストのスローガンに反発して差別主義者のレッテルを貼って街頭演説を妨害していたけれど、逆に言えば外国人が引き起こす問題に苦しむ国民がいても左翼は対処する気がないと言っているようなもので、それで無党派層が左翼政党を支持するわけがない。日本の左翼に世界中の外国人と共生するための素晴らしい政策があるならそれを主張すれば無党派層の支持者が増えたかもしれないのに、「差別するな」と大声で叫ぶだけでみんなが仲良く暮らせる理想の社会を実現できると思っているのなら幼稚である。ヨーロッパの移民政策は移民を受け入れる側に寛容であることを押し付けるやり方をとって既に失敗しているのに左翼はその失敗から何も学んでいなくて、ヨーロッパの失敗を分析して日本はどうすれば移民との軋轢を減らして社会統合できるのか具体的な政策を言う左翼がいない。そんで左翼が熱心に参政党の選挙妨害をしたり偏向報道したりするほどかえって参政党の支持が増えて当初の予想より議席を増やす結果になって、左翼活動家は無能な働き者を体現している。左翼が自分の政策を言わずに他党を批判するやり方の政治活動を続けるなら、左翼の主張もとりあえず聞いてから投票先を判断しようという無党派層からも無視されるようになるだろう。政治団体のつばさの党が選挙妨害で存在感を示そうとして幹部が公職選挙法違反の疑いで逮捕されたように、左翼も他党の選挙妨害を改める気がないならいずれ「熊を殺すな」と抗議して役所の業務を妨害する人みたいに常識がなくて話が通じない人たちと思われて、どんな主張をしようが真摯に話を聞いてもらえなくなる。他党の街頭演説を妨害したところでプロレスのヒール役みたいなものでかえってSNSのショート動画のバズネタを提供して相手を目立たせる結果になるのでやめたほうがいいのに、左翼は中高年が多くてSNSを使いこなせていないのでその程度のSNSの基本さえ理解できずに無能ムーブを繰り返すのだろう。●まとめ左翼は保守政党を批判するけれど、保守政党にいろいろ問題があるにしてもだからといって左翼政党を支持しようという投票行動にはならなくて、参院選では左翼政党は国民民主党以外は議席が増えなかった。左翼は保守政党の批判ばかりするのでなく、日本を発展させて日本人を幸福にする政策を掲げて、選挙妨害や偏向報道や詭弁やレッテル貼りとかの姑息な手段を使わずに真摯に政策の議論をするべきである。それをやった国民民主党は議席を増やした一方で、それができない他の左翼政党は若者の支持が増えなくて衰退するべくして衰退しているのだろう。
2025.08.18
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衆院選に続いて参院選でも自民党が単独過半数の議席を取れなくて、自民党の衰退が明確になった。比較第一党として依然として多数の国民の支持を受けているには違いないけれど、言い換えれば過半数の国民は自民党を支持していないわけで、自民党内からも石破降ろしと自民党総裁選の動きがある。長年与党だった自民党がなぜ支持されなくなって衰退しているのか考えることにした。●大まかな自由民主党の流れ自由民主党は最初から自由民主党だったわけではなくて、複数の保守系の政党が分離したり合流したりしてできた政党である。戦後は保守系の諸政党、非共産主義で労働者主体の合法的な社会主義を目指す社会主義系の諸政党、共産革命と天皇制の廃止を目指す日本共産党があって、保守系の諸政党に共通する目的は社会主義の台頭を阻んで天皇制を維持することだった。鳩山一郎が中心の日本自由党が民主クラブと合流して1948年に民主自由党になって、鳩山一郎がGHQに目をつけられて公職追放されて吉田茂を後継者に指名して1950年に吉田茂が首相になって日本民主党の合流支持派と合流して自由党になって、1950年の朝鮮戦争勃発でGHQの対日政策が転換してレッドパージして公職追放指定者が処分解除になって保守派が力を増して、鳩山一郎が復帰しても吉田茂が総理の座を譲る気がないので対立して、吉田茂が改正警察法案を強行採決したら支持率が落ちて1955年の首班指名で吉田茂が日本民主党の鳩山一郎に敗れて、自由党が日本民主党と合流して自由民主党(略して自民党)になった。社会主義系の諸政党はサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約への賛否で右派と左派に分かれていたものの合同して日本社会党になって野党第一党になって、自民党と日本社会党の比率が2:1の55年体制が出来上がって、しばらくはこの体制が続いた。自民党内に政策が違ういろいろな保守政党を取り込んできたので党内で対立があって、各派閥に大臣のポストを約束する代わりに協力を取り付ける形で権力闘争をしつつ政権を維持して、CIAが日本を社会主義国にしないために自民党に資金援助して岸信介が総理になって日米安全保障条約に調印して、安保闘争を乗り切った後は共産主義者が過激化してあさま山荘事件や日本赤軍のテロとかを起こして共産党が支持を失って、日本社会党は土井たか子が日本初の女性党首になってブームになったもののソ連が崩壊して冷戦が終わって社会主義の失敗は決定的になって支持を失った。自民党はロッキード事件や東京佐川急便事件とかのいろいろな不祥事がありながらも社会主義や共産主義を標榜する野党の衰退によって長期間政権を担った。1999年の小渕恵三内閣からは公明党と連立政権を構成するようになって自公連立政権がしばらく続いて、2009年に麻生太郎政権でリーマンショックに対する無策から支持を失って、国民が自民党にお灸をすえていっぺん民主党にやらせてみようというムードになって民主党が与党になって自民党が下野して、民主党が円高を放置して製造業が打撃を受けてやっぱり民主党ではだめだということでまた自公連立政権に戻った。安倍晋三内閣は保守派に支持されて長期政権になったものの病気で辞任して、岸田文雄内閣で検討ばかりして支持率が下がって、岸田では選挙で戦えないということで自民党総裁選で石破茂が総裁になったものの、2024年の衆議院の解散総選挙で自民党が大敗して、2025年の参議院選挙でも自民党が大敗して、7月22日放送のクローズアップ現代によると「自民党を中心とした政権が衆参両院で過半数を割り込むのは1955年の結党以来初めてのことだ」そうで、自民党政権は公明党とだけ協力すればよいというわけにもいかなくなった。●自民党はもはや保守政党でない上で書いたように元々の自民党の目的は社会主義の台頭を阻んで天皇制を維持することだったけれど、社会党、共産党が議席数を減らして日本が社会主義国家になる可能性はなくなって、戦前からあったイデオロギーの対立軸が消滅して保守の目的も失われてしまった。現在の野党第一党の立憲民主党でさえ自民党と政策が似ていて自由主義、民主主義、資本主義の体制を変えるつもりはないし、女性天皇、女系天皇を認めるか否かという問題はあっても天皇をすぐに廃位するつもりはない。そうなると政治の焦点は国防、外交、経済政策などに移る。国防のためにアメリカや中国と対立するかしないかで自民党内で勢力が分かれていて、日米安全保障条約を支持してアメリカに追従すればおのずと反中になるし、中国に追従すればおのずと反米になる。小泉純一郎や安倍晋三や岸田文雄みたいな親米派は新自由主義グローバリズム政策にも追従して規制緩和して生命保険に外資を参入させたり移民の受け入れを推進したりする。二階俊博や茂木敏充や岩屋毅とかの親中派は中国企業に便宜を図ったり中国産の太陽光パネルを推進したり中国人の観光ビザを緩和したりしていて、秋元司元衆議院議員がIR参入を目指す中国企業から賄賂を受領して有罪になったように、見返りをもらったりハニートラップにひっかかったりしている。それで小泉純一郎が郵政民営化に反対した小林興起や城内実を選挙で公認せずに対立候補を立てて潰したり、岸田文雄が党議拘束でLGBT法案に賛成することを強要したり、自民党総裁選の党員投票で高市早苗が1位だったにも関わらず親中派の公明党と中国共産党の意向を汲んでタカ派の高市が総理になれないように石破を総理にしたり、中国に配慮して靖国神社に参拝しなかったりするのでは自民党はもはや保守政党とはいえなくて、国民を見ずに外国のご機嫌伺いをして国民の権利や財産を外国に献上するグローバリズム売国政党になっている。ヨーロッパで移民問題に端を発して政治が激変したように、政治の軸は自由主義か社会主義かでなくて、グローバリズムか反グローバリズムかが焦点になっている。グローバリストには外国人を搾取対象にして儲けようとするグローバル企業の株主や経営者と、貧乏な発展途上国の人がかわいそうだから自国に受け入れて助けてあげようと考えて不法滞在者や偽装難民を支援する平和ボケした人道主義リベラルがいて、グローバリストが必ずしも左翼というわけではなくて目的は違っても結果的に資本家と左翼の一部が移民を推進している。保守政党ならば反グローバリズム側で自国の文化や伝統を守るべきだろうに、自民党は経団連に要求されるままに移民を推進して文化や伝統を壊す側になっている。2025年1月1日時点の外国人は前年比で約35万増加して約367万人で、2040年には日本の総人口に占める外国人の比率が10%を超える見通しだそうで、国立社会保障・人口問題研究所の2023年の推計だと2070年代に10%を超える予想だったのが30年も前倒しになっているくらい急激に外国人が増えているし、このまま外国人の比率が増えていったらなし崩し的に在日外国人に参政権を与えようということになって、外国人は天皇に特に思い入れがなくて反日教育を受けてきた中国系や韓国系の移民はむしろ反感を持って天皇制を廃止する流れになるだろうし、日本語が母語でない人も増えて学校で英語や中国語で授業をするようになって古典の授業で歴代の天皇が詠んだ和歌を学ぶこともなくなって、いずれ日本語が国語でなくなって日本人の先祖が築き上げて継承してきた唯一無二の日本の文化も失われるだろう。外国人が少ないうちに同化や不法滞在への対策をしないと手遅れになるけれど、自民党は対策が不十分なまま移民を推進している。参院選で自民党から立候補して落選した中田フィッシュは「自民党であるだけで『愚かだ』というコメントをもらった。漠然と悪評が広まってしまっている」と記者団に語ったそうだけれど、政治家になろうとした人がこういうコメントしか言えないのではやはり愚かである。無党派層の票が他党に流れただけならまだしも、元々保守を標榜して結党した自民党を支えてきた保守層が離れたことの重大さを理解していないのじゃなかろうか。参政党は漠然とした悪評どころか明確に悪評を広められて排外主義だの差別だのデマだの陰謀論だのと言われながらも大幅に議席を増やしているのだから、漠然とした悪評が原因で自民党が票を減らしたのではない。今までは保守派の国民の期待に応えなくても野党よりはましという消極的支持で自民党が票をもらえただろうけれど、他に反グローバリズムの保守政党ができたらもはや消極的支持票が自民党に入らなくなったのである。保守派の議員の大きな役割のひとつは現在の日本の体制を変えようとする法案に反対票を投じて法案成立を阻止する事なので与党の議員でなくてもよいし新人議員でもよいし、保守派のふりをしてLGBT法案に賛成するような自民党のガス抜き議員はむしろ邪魔である。自民党が保守政党としてやるべきことをやらないのであれば次の選挙でも参政党や日本保守党に票が取られて自民党の保守派の議員は当選が危ぶまれるだろう。比例で最多の97万票を獲得した日本保守党の北村晴夫が文藝春秋PLUSのYouTube動画で自民党からの出馬は考えていなくて「特に石破さんが総裁をしている自民党から出る、ありえない」と言っていたように、今後は保守派の有力な候補者が自民党以外から出馬するようになるだろうし、そうなるとますます自民党は保守政党でなくなって保守層の支持を失っていくだろう。●有言不実行の政治家はいらない自民党から支持者が離れたのは有言不実行も大きな原因だと思う。かつての自民党の首相は有言実行で、池田勇人は1961年から10年間で毎年9%成長して国民総生産を26兆円に倍増させる所得倍増計画を掲げて、人口ボーナス期の団塊の世代の労働力を利用して工業化を主導してインフラを整備して高度経済成長を成し遂げた。高度経済成長に伴う自然破壊や公害とかの弊害もあったけれど、東海道新幹線が開通したり、三種の神器が普及したり、遊園地やデパートができたりして国民生活は見違えるほど豊かになった。新潟出身で土建屋だった田中角栄は「国土の均衡ある発展」をスローガンにして貧しい地方にも道路や鉄道のインフラを整備して発展させたし、33件の議員立法をして公営住宅法、道路法、水資源開発法、電源開発促進法、国土総合開発法、高速道路連絡促進法、新幹線建設促進法とかの建設に関わる法整備をして日本が先進国になる下地を作った。小泉純一郎は自民党をぶっ壊すと言って族議員を批判してぶっ壊したし、郵政民営化もやると言って選挙で勝って民営化した。私は郵政民営化はやらないほうがよかったと思うけれど、彼はやると言ったことが国民に支持されてやったのだから政治家としては筋は通している。ところが安倍晋三は長期政権だったにもかかわらず憲法改正をやると言ったのに結局やらなかったし、アベノミクスも中途半端にやって不景気の中で消費税を増税したせいで結局うまくいかなかったし、「日本を取り戻す」と言って逆に移民受け入れを拡大したし、北朝鮮の拉致問題にも進展がなかった。岸田文雄は自民党総裁選で新自由主義からの脱却と所得倍増を言ったのに、総理になったら金融所得倍増に変えて、新NISAでちょっと節税できるかもという程度で倍増とは程遠いし新NISAでオルカンやS&P500とかの外国のETFが買われて結局は新自由主義から脱却できていない。同じ宏池会でも池田勇人と違って成長プランがないまま総裁選で人気取りのためのでまかせを言っていたわけである。石破茂は自民党総裁選でアジア版NATOや地方創生をやると言ったのに、総理になったら何もやっていない。石破は今まで5回も総裁選に出たそうで、政治家としての長い経験の中で何か地方創生のアイデアを実行したいから総裁になりたいのかと思ったら、地方創生できたらいいなという希望を語るだけで具体的な政策がなくて、「当選させていただきました。そこにおいて掲げました政策が、当選をしたのだからこの通りにやるということにはなりません」と開き直って、何もやらないのに首相の地位にしがみついて衆院選と参院選で大敗した責任も取ろうとしない。石破は自分の言葉に責任を持たない恥知らずな嘘つきで、自分が所属する党にさえ責任を取らない総裁が国民に対して責任を持つはずもないし、首相の器ではない。トランプは大統領になったらすぐにUSAIDに手を入れたり不法移民を強制送還したり関税を上げたりして有言実行でトランプ支持者にアピールしたように、本来政治家は権力がないと実行できない政策を実行するために権力を手に入れるものである。その一方でここ数年の自民党は誰が総理になって何を公約にしたところで結局やらなくて権力を手に入れて私腹を肥やすことが目的になっているし、石破は日本の財政はギリシャより悪いと大嘘をつく一方でアメリカとの関税交渉で5500億ドル(80兆円)の投資を約束して、日本には投資せずに増税してインフラが老朽化してあちこちで水道管が破裂したり道路が陥没したり堤防が決壊して浸水したりして国民の生活が豊かになるどころかどんどん苦しくなっていくのだから、選挙のたびに期待を裏切られてきた支持者が離れるのも当然である。北朝鮮の拉致被害解決のために行動しなかった歴代総理がブルーリボンバッジをつけていること自体がおかしくて、もはや国民を救う気がない詐欺政治家の象徴みたいなものである。●アホな政治家はいらない政治家は政治団体で政治資金を管理していて、親が政治家の場合は子供がその地盤・看板・鞄を受け継げば贈与税なしに政治団体の政治資金を使えることになって選挙で有利である。それゆえに自民党は世襲の議員だらけで政治が家業になっている。別に世襲でも優秀なら良いけれど、問題は世襲議員にアホが多いことである。例えば小泉進次郎は私人としては明るくて良い奴なのかもしれないけれど、発言がことごとくアホ丸出しで、政治家として国民の生命や財産に影響を及ぼす決断を下すのには不適格である。明らかにアメリカのジャパンハンドラーの傀儡要員で、もし小泉純一郎の息子でなかったら国会議員になれるレベルではない。安倍晋三や麻生太郎も漢字を読み間違えていじられていた。世襲議員だけでなくて比例票を集める目的で芸能人や元スポーツ選手が自民党から出馬することもあるけれど、あまり頭が良いとは言えなくて政治家として目立った活躍をする人がいない。本来は政治家は官僚を使う側なのに、政治家がアホだと官僚の嘘や矛盾に気づかなくて官僚の言いなりになるのが問題で、その最たるものが財務省の言いなりになって増税や緊縮財政をやることである。世襲政治家はコネでちょろっと民間企業で働いてもビジネスマンとして出世する気がないのでビジネスマンなら当然知っている貸借対照表や信用創造を知らないまま、負債は資産だということを理解できずに国債の発行額が増えると財政破綻すると勘違いして緊縮財政をやるようになる。戦後の政治家はインフラが壊滅した状態から日本を立て直す必要があったので、投資をして生産力を高めれば経済成長をすると理解していたし、実際に経済成長させた。ところが豊かになった中産階級や土地成金とかが生産力を高めない財テクで資産を増やそうとして株や不動産やゴルフ会員権のバブルが起きて、バブル崩壊後は羹に懲りて膾を吹く状態になって必要以上にインフレを警戒してデフレを招いて、やる必要がない貸しはがしをして黒字の企業を潰したり、消費税を増税して資本力が乏しい中小企業や個人事業主を潰したりして生産力を棄損する本末転倒なことをして、世界各国がリーマンショックや新型コロナを経てもなお経済成長をしている中で日本だけ経済成長せずに30年停滞し続けていた。豊かになるということは貨幣が増えることではなくて貨幣で交換できる物やサービスが増えることで、例えば米不足で米が高騰して庶民が困っていたら政府がやるべきことは米を買うための給付金を配ることではなくて米を増産することだし、電力の需要がひっ迫して電気代が高騰していたら政府がやるべきことは給付金を配ることではなくて原発の再稼働とかで発電量を増やして電気代を下げることだろうに、自民党は選挙になると給付金を配って国民の不満をそらして問題の根本的解決をせずに先送りして、金融政策ばかりして目先の株価を上げて経団連のご機嫌取りをして、企業も非正規雇用で人件費を下げて内部留保を貯めつづけて生産力を上げるための設備投資や研究開発をせず、労働者は所得が増えなくて結婚できなくて少子化が深刻になっていく。この現状をおかしいと思わないアホが政治家になると失われた30年が40年や50年へと延びてますます日本は衰退していく。それに世襲議員は子供のころから豊かな生活をしていて自分で買い物しないので食料品の値上がりや社会保険料の増加による可処分所得の減少とかの庶民の生活苦の現状を知らなくて、国民の代表と呼べないくらい一般常識から乖離しているのが問題で、庶民感覚がないので少子化対策や経済政策が的外れで効果がないものになる。昭和の政治家はどぶ板選挙で田舎の過疎地にも行って庶民の不満を直接聞いて改善を約束して支持を取り付けたけれど、今の公職選挙法では戸別訪問を禁止しているし、自民党は経団連や医師会とかの業界団体や選挙区の企業が支持母体になっていて企業献金で政治活動をしているので庶民の声を聞く気がない。その一方で国民民主党は庶民目線で103万円の壁を焦点にして手取りを増やす政策を打ち出して、参政党は政治に参加することをコンセプトにした政党で党員の意見を聞いて地方議会でも地道に活動しているので、これらの庶民の不満を聞いて解決のために行動する政党の支持者が増えていくのも当然である。●まとめ高齢者の支持率が高い自民党は日本の高齢者の悪い所を詰め込んだ縮図のようなもので、貸借対照表や信用創造を理解せずに財政破綻論を唱えたり、USBを知らないままIT担当になったり、ハードディスクにドリルで穴を開けて証拠隠滅したり、縁故主義で身内の企業に利益誘導したり、派遣を規制緩和して就職氷河期世代を非正規雇用で搾取して少子化を促進したりしてでたらめな政治をやってきた。自民党が議席を減らして若者の支持率が高い政党が議席を増やしたことは日本にとっては世代交代が起きてシルバー民主主義から脱却する兆しで、自民党が過半数割れして強行採決ができなくなって野党の意見を聞かざるを得なくなったことは自民党以外の政党を支持する過半数の国民にとっては良い事である。
2025.08.12
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最近は佐賀県伊万里市で技能実習生のベトナム人による無慈悲な強盗殺人事件が起きたし、特殊詐欺の被害も増えている。金銭目当ての犯罪が起きない社会を作ることは人類の課題といえる。共産主義で労働者の格差をなくす試みは産業が育たなくて失敗したし、かといって資本主義では格差が拡大するにつれて犯罪が増える一方で、迷惑系YouTuberや転売屋みたいなアンモラルな行動をしようが儲けたもの勝ちになっている。少子化対策や労働力の確保にしても大量の移民を入れて治安が悪くなって幸福度が下がるのでは意味がない。私が思いついた善本位制が様々な問題の解決方法になるんじゃないかと思ったので、実現可能性は無視してSF小説の設定のようなものとしてとりあえず考えてみることにする。●善本位制の概要善本位制では企業の決算に使う通貨と個人の支払いに使う通貨を分ける。企業間の取引には今まで通りの通貨を使う。家賃や電気代や所得税や社会保険料とかの個人の支払いに使う通貨は仮に「善ポイント」と呼ぶ。国民全員に身分証と紐づいた善ポイント専用の口座があって、善ポイントを得るためには国営の交換所で現金を善ポイントに交換する必要があって、交換レートは個人によって変わる。そして企業は商品やサービスの代金として個人から受け取った善ポイントを交換所で現金に換えて、それをまた企業間決済や従業員の給与の支払いとかに使う。前科のない人の場合は基本交換レートは1:1で、この場合は現金を使う場合と違いはない。しかし前科が増えていくにつれて交換レートが不利になっていって、例えば交換レートが1:0.1になると10万円の現金があっても1万善ポイント分しか支払いに使えなくなる。強盗や詐欺とかの犯罪の収益を隠したまま捕まって、刑期を終えた後に隠しておいた金を使おうとしても善ポイントへの交換が不利になるので、金銭目的の犯罪のインセンティブがなくなるわけである。悪人の善ポイントの交換レートが不利になる一方で善人ほど交換レートは有利になる。一定時間ボランティア活動をしたり人命救助とかで政府に表彰されたりするごとに交換レートが有利になっていって、例えば善ポイントの交換レートが1:2の善人は10万円の収入しかなくても20万善ポイント分の買い物ができるようになる。犯罪をせずに善行をするほうが生活が豊かになるインセンティブになって、若い頃から善行を積んできた老人は年金が少なくても豊かに暮らせるようになる。犯罪を犯した人は裁判の時だけ反省したふりをしたところで意味がなくて、不利になった交換レートを元に戻すには地道に善行を積んでいって善人になるしかないので、悪人が生きにくくて善人が生きやすい社会になる。●善本位制の発展形・善マッチング善ポイントの交換レートが高い善人だけが使えるマッチングアプリがあると、品行方正な善人同士が収入以外の価値観でマッチングしやすくなるかもしれない。そんで子供を産むことを交換レートの評価対象にすると、若いうちに子供を生むほうが交換レートが有利になって生涯使える善ポイントが増えるのでお得だということになって晩婚化から早婚化に移行して少子化が改善するかもしれない。例えば子供を一人産むごとに交換レートに0.5加算すると三人子供を産んだら交換レートが1:2.5になって、育児の合間に手取り10万のパートの仕事をするだけでも25万善ポイントを使えて生活しやすくなって、キャリア志向で出世してばりばり稼ぎたい女性ものんびり子育てしたい女性も好きな生き方を選べるようになる。児童虐待をすると交換レートが悪くなって損をするので子供を大事にするようになって、善人の家族が増えていって、子供に万引きをさせるDQN家族は減っていく。・善投資NISAみたいな税制が有利な善ポイントでしか投資できないような投資枠を作って、環境保全活動とかをしている善企業を投資対象にして新株発行を優先的に買えるようにすると、善ポイントが多い善人ほど資産を多く持てるようになったり、善企業の資金が潤沢になったりして、環境汚染をしたり労働者から搾取したりするブラック企業が減っていくかもしれない。そしたらモラルそっちのけで株主の利益ばかり追求する新自由主義の是正につながる。・善エッセンシャルワーカー支援企業がエッセンシャルワーカーの賃金を上げられなくても、政府が交換レートの比率を変えることで公的にエッセンシャルワーカーの支援をやりやすくなる。例えば交換レート1:1の小売業で年収300万円をもらうより、交換レート1:1.5の介護職で年収300万円をもらうほうが使える善ポイントが1.5倍で得だとなれば介護職に就く人が増えるかもしれない。・善詐欺防止システム善ポイントは身分証と紐づいていて本人しか使えないし、善ポイントでの支払いを受け取る企業も法人番号と紐づいているので、偽のショッピングサイトとかで実在しない企業を騙って善ポイントを振り込ませるような詐欺はできなくなる。特殊詐欺とかで善ポイントでの支払いでなくて現金での支払いを要求してくる相手は詐欺だとわかりやすくなる。・善犯罪被害者救済現在は強盗殺人とかの犯罪被害者に賠償金が満額払われることはほとんどなくて被害者はやられ損になっているけれど、善本位制で賠償額分を交換レートに上乗せして、差額を自動的に被害者救済に充てるようにして賠償額分を払い終えるまで交換レートを改善できないようにすれば被害者救済になるし、犯人の逃げ得を許さなくなる。全国指名手配犯とかで犯人が特定できている場合は逮捕しなくても先に交換レートを変更することで逃亡中の生活が苦しくなって潜伏しにくくできる。・善採用システム高学歴で勉強や仕事ができても性格が悪い人は少なからずいるけれど、そういう人を採用すると他人の手柄を奪って出世したりパワハラしたりして組織が壊れてしまう。善ポイント交換レートを基準に採用すれば自己中心的な悪人を採用せずに済むし、大学も就職率を上げるために知識だけ教えるのでなくて人格形成に力を入れるようになる。・善国際交流善本位制を採用する国が複数ある場合、善ポイントの交換レートが高い善人に滞在可能な期間を延ばしたり就労ビザの要件を緩和したりすれば国際交流を促すことができる。・善選挙選挙の際に善ポイントの交換レートの公表を義務付けると、口先で良いことは言っても何もやっていない偽善者や、贈収賄事件とかで交換レートが悪くなっている政治家を見分けやすくなって、善人が当選しやすくなる。・善資格制限何か前科があって交換レートが一定値以下の人は資格を取れなくしたり、資格を取り消したりするようにすると、悪人が重要な仕事につくことを防ぐことができる。●善本位制の実現のための問題・犯罪と善行でどのくらい交換レートを変えれば適切なのか不明。善人だらけになって交換レートが高くなりすぎたら通貨量が増えて物価が上がるかもしれないし、悪人が普通に働いても生活できなくなるほど交換レートが悪くなったら労働意欲が失せて生活苦から刑務所に戻りたくなってかえって犯罪を誘発するかもしれない。衣食住の面倒を見る代わりに善行をさせて交換レートの改善を手伝う刑務所以外の更生施設が必要になるかもしれない。あるいはベーシック善ポイントを支給して最低限の衣食住には困らないようにする必要があるかもしれない。・何を善行とみなすのか、誰が判断するのかで揉めそう。宗教団体の活動を善行とみなした場合、ボランティア活動と称して信者に無給で強制的に活動させるカルト宗教が力をつける危険性もある。・悪人が他人に現金を渡して良い交換レートで善ポイントに交換して代理で買い物をするようなロンダリングの対策が必要になる。・交換レートが高い人が闇落ちして企業とグルになった場合に売り上げの水増しがされかねない。例えば交換レート1:2の人が1万善ポイント分の商品を買って5000円のキャッシュバックをもらってそれを1万善ポイントに交換してまた商品を買うというループで売り上げを水増しできてしまうので、給与以外の現金の授受を制限する必要があるかもしれない。・支払いを善ポイントに統一するために身分証に紐づいた善ポイントカードを発行する必要があるし、全部の小売店のレジの入れ替えやクレジットカードの決済システムの変更が必要になる。外国人観光客用の善ポイントカードや口座を作るのも手間がかかる。・善本位制を採用していない外国のオンラインショッピングサイトから買い物をする場合は現金で支払いができてしまうので、悪人の善ポイント交換レートが悪くなってもあまり犯罪抑止効果がないかもしれない。・これまでの経済学の理論が当てはまらなくなって経済政策がやりにくくなるかもしれない。・全国民の交換レートは政府で管理する必要があるけれど、担当者が意図的に知人の交換レートを変えたり、ハッキングされて交換レートが変えられたりするかもしれない。●まとめというわけでいろいろ考えてみたけれど、独裁者にならない限り現実世界では善本位制は実現しないので、機会があればSFかファンタジー世界で善本位制国家がどうなるのかシミュレーションしてみようと思う。品行方正な偽善者だらけで誰も本音の悪口を言わなくなるディストピアになったらそれはそれで面白そうである。SF映画に善本位制を採用したい映画監督がいたら私のアイデアを買うといいよ。
2025.08.02
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最近は国立青少年教育振興機構の国際調査で、社会に出たら理科は必要なくなると考えている高校生の割合が日本が45.9%、韓国が33.5%、アメリカが27.6%、中国が17.6%だったそうな。まだ社会に出ていない未成年に社会に出た後のことを聞いても間違った答えになるのは仕方がないにしても、必要ないものだという意識で勉強したところで興味を持てなくてつまらないだろう。日本だけ突出しているのは日本の高校生は社会とのかかわりが乏しくて視野が狭いのかもしれない。理科は必要だと思うので、これについて考えることにした。●理科とは何か理科とは物理、化学、生物、地学の自然科学の教科をまとめたものである。例えば物理では力の働き、光、音、電流などを学び、化学では化学変化や質量などを学び、生物では細胞や遺伝子などを学び、地学では地層や気象や天体などについて学ぶ。●理科を理解していないと危ない現代社会は科学文明で、ほとんどのものが工場で化学的プロセスで製造されていて、取扱説明書に使用上の注意が書いてあって、科学的リテラシーがないと事故につながる。アフリカだと道路が整備されていないのでタンクローリーがしばしば横転して、こぼれたガソリンを盗もうとして住民がバケツを持って集まってきて、気化したガソリンがタバコの火とかに引火して何十人も死ぬ事故が何度も起きている。教育水準が低いのでガソリンが常温で気化して引火するするという知識がなくて、タンクローリーからガソリンが漏れているのは危険だという認識がなくて逃げるどころか窃盗チャンスとばかりに集まるので死者が多くなる。2013年福知山花火大会露店爆発事故では3名が死亡して59名が重軽傷を負った大事故が起きたけれど、これも理科の知識が乏しいことが原因である。ベビーカステラの屋台の店主が発電機にガソリンを継ぎ足そうとしたところ、カップルが座る場所を確保するためにガソリンの携行缶を発電機のそばに移動させていて、ガソリンが発電機の排熱で高温になって気化して内圧が高まっていて、店主がエア調節をせずにキャップを開けたとたんガソリンが噴出して事故につながった。ガソリン携行缶の管理責任がある店主に直接の責任があるとはいえ、ガソリン携行缶を熱いところに移動させたカップルにも間接的な原因がある。アパマンショップでは消臭スプレーの在庫を処分するために閉め切った室内でスプレーを使い切っていたら爆発が起きた。京都の焼き肉屋ではグリルの火力を増すために消毒用のアルコールを継ぎ足して炎上して客と従業員が重いやけどを負った。これらの事故は理科のリテラシーがあれば防げたパターンで、理系の仕事でないからといって理科の知識が必要なくなるわけではない。零細企業の工場だとコンプレッサーをふざけて同僚の尻に向けて死亡させる事故もたまに起きている。どんなに便利な工具でも目的外の用途をすると事故につながるし、理科の常識がない馬鹿が人に工具を向けると殺人兵器となる。中国の甘粛省の幼稚園ではコスト削減のために蒸しパンの着色に食用の着色料を使わずに絵具を入れて、233人の園児から異常な量の鉛が検出されたそうな。コスト削減が目的ならそもそも何の着色料も使わなきゃいいのに、わざわざ食用でない有害なもので代用するあたりがチャイナクオリティである。スピリチュアル系の詐欺も理科を理解していない人がターゲットになる。カウンセリングだけなら合法だけれど、レイキヒーリングや波動とかの科学的根拠がない施術で健康効果があると称して医療行為としてやるのは違法だし、病院での治療が遅れて病気を悪化させかねない。理科を知らないと陰謀論にもつながる。例えば飛行機雲は飛行機の排気ガス中の水分が空気中で冷えることで雲になるけれど、陰謀論者は理科を理解していないので飛行機雲は人口削減のために毒を散布しているケムトレイルだと主張するようになる。釣りにも理科が関係していて、月の引力で満潮や干潮のサイクルがあるし、雲の流れから天候の変化を読めないと高波にさらわれたり足場が水没したりして水難事故につながる。●理科は生活に必須である掃除は理科の知識が役に立つ典型である。例えばシャワーヘッドについた水垢はアルカリ性の汚れで、そのままこすっても落ちにくいけれど、酸性のクエン酸を溶かした水につけておいたら軽くこすっただけで水垢がポロポロとれて、シャワーヘッドが新品みたいにピカピカになった。理科の知識がない人は力任せに汚れを削ろうとするけれど、化学反応を利用する方が簡単に掃除ができる。これは洗濯も同じで、力任せにこすって汚れを落とそうとすると生地が傷むけれど、洗剤を使って繊維に絡みついた汚れを分解すると生地を傷めずに洗濯できる。体調管理にも化学的知識が必要で、腎臓に結石を作らないためにカルシウムを多くとるとかの分子の結合について知っておかないと特定の栄養素を多くとりすぎたり不足したりして病気になる。柿を食べすぎると柿のタンニンと胃液が化学反応を起こして柿胃石ができることがあるけれど、コーラを飲むと柿胃石を溶かせるという知識も柿が好きな人は知っておくほうがよい。虫歯や歯石のできやすさも理科の知識が関連していて、口の中が酸性だと虫歯になりやすい一方で歯石はできにくくて、口の中がアルカリ性だと虫歯になりにくい一方で歯石ができて歯周病になりやすくて、これは歯磨きだけでなくて唾液の量とかの個人の体質にもよるそうな。私の高校の同級生は虫歯になりにくい体質で歯磨きをさぼっていたので、そういう人は歯垢が残って歯石ができやすいのだろう。●理科を理解していないと料理がまずくなる料理は化学と同じで、レシピと同じ工程で作れば誰でも同じ味を再現可能である。調理の工程にも化学的な理由があって、例えば調味料を使う順番の「さしすせそ」は分子の大きい砂糖から先に入れないと食材に味が染みないので順番を守る必要がある。肉を調味料に漬け込むと内部まで味がしみこんだり、魚を塩に漬けると水分が出てきて身が締まったりするのも細胞の浸透圧が作用している。液体窒素とかを使った分子ガストロノミーも変なことをしているわけではなくて化学的に合理的なことをやっている。レシピ通りに作ればおいしい料理が作れるはずなのに、まずい料理を作る人が少なからずいる。料理が下手で、手順に戸惑ったりもたもたしたりするだけならたいした問題ではない。しかしわざわざ美味しく作れるレシピをアレンジしてまずい料理を作る人は味覚がおかしいか、頭がおかしいかのどっちかである。例えば気分次第で分量を量らずに調味料をどばどば入れたりすると、適量をどのくらい超えているのかという分析や改善もしにくくなって失敗から得られるものも少ない。それゆえにまずい料理を作る人は気分次第で失敗のパターンを無数に増やしていくだけで、いつまでも料理がうまくならない。●理科は応用の範囲が広い理科の知識は他の分野に応用できることが多い。スポーツだと物理との関連が強くて、例えばボールにスピンをかけるとまっすぐ飛ばずに曲がるのはボールと空気で摩擦が起きるからで、野球、サッカー、テニス、ゴルフ、卓球とかのたいていの球技だとスピンが技術として必須になっている。格闘技だと相手の攻撃をガードしてもダメージをうけるので、力のベクトルをかわしたり受け流したりする技術が重要になってくる。音楽だと音響システムを組むときにスピーカーのインピーダンス(電流の流れにくさ)で音の大きさが変わってくるし、イコライザーで周波数を調整する必要があるし、部屋の広さによって音の反響の仕方やスピーカーのちょうどいい位置も変わってくるので波の干渉の理解が必要になる。美術だと光と色の関連が強いので、画家やイラストレーターは自分が意図したとおりの色を出すために照明やモニタの発色に気を付ける必要がある。筆先を自由に使うには力のベクトルや摩擦を把握する必要がある。自然の造形美もデザインに活かされる。文学だと言葉は母音と子音が組み合わさっているという点で化学式に似ていて、理科の発想も応用できる。例えばガートルード・スタインの詩にある"Rose is a rose is a rose is a rose"というフレーズはポリマー的な言葉の使い方といえる。芸術系はいろいろなアイデアを組み合わせるために引き出しが多い方が有利なので、一見無関係そうな理科も武器になりうる。マジシャンは磁力がある指輪をはめて磁石を埋め込んだマジック用の小道具を指の裏に隠したり、磁力の反発で物を浮かせたり移動させたりして、目に見えない力を使って観客を騙している。マーケティングにも理科が関連していて、不動産の価値を正当に評価するには地層の知識や夏や冬の日光が当たる角度の把握が必要になる。商店街はたいてい道路をはさんで両側に店があるけれど、パッと見て日当たりがよいほうが店の印象が良く見えるものの、日中に日陰になる側の店のほうが紫外線で商品が傷まなくて八百屋や服屋や本屋とかの店先に商品を並べて集客するタイプの小売りに向いているので、冬に出店する人は夏の日差しを計算に入れないと失敗する。●まとめそもそも世界の仕組みの原理原則を理解するのが高等教育で、実務的な知識を得ることや直接仕事に役立てることを目的にしていない。実務的な知識は新しい技術が発明されて代替されたときに役に立たなくなるけれど、高等教養で習う物事の原理原則は不変のものである。原子と原子がくっつくと性質が変わるよ、温度でも性質が変わるよ、という理科の原理原則を知っておけば、学校で教えられなかったことも理解しやすくなる。例えばポリエチレンやポリエステルやポリプロピレンの化学式を知らなくても、レジ袋を引っ張ったら割けにくくて薄く伸びてガサガサ音がするのはポリマーの分子が絡み合っているからだと理解できるし、プラスチック製品のポリなんちゃらはポリマーのことだと理解できる。どんな学問であれ〇〇は必要ないと言っている人は高等教育を受ける意味がないので、中卒で専門学校にでも行って仕事に必要な知識と技術だけ覚えて働けばよい。教養がなくて世界の仕組みについて知らなくても仕事さえできれば生きていくことはできる。ただし「自分にとって必要ない」というだけならまだしも、「社会にとって必要ない」と言うようになると教養がないのを通り越して馬鹿である。学校でわざわざ教科として教えるのには相応の理由があるので、よく考えずに必要ないものとみなしてはいけない。
2025.07.27
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最近は参議院選挙が近いせいか、ポピュリズムとかのよくわからない言葉がレッテル貼りに使われているので、これについて考えることにした。●レッテルとは何かレッテルはletterのオランダ語での発音のようで、もともと文字を意味する。商品名とかを書いた紙を商品に張り付けたことから、人物を断定的に評価したり物事内容を一面的に決めつけたりすることをレッテルという。例えば「あいつは〇〇だ」と一面だけをとらえて断定することがレッテルを貼る行為である。●ポピュリズムWikipediaによるとポピュリズムとは「政治変革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層を批判し、人民に訴えてその主張の実現を目指す運動である」そうで、エリート主義の対義語となっていて、政治家、官僚、裁判官などの既成の権力を持っているエリートが批判の対象になる。日本だとポピュリズムが悪い事であるかのように使われるけれど、政治変革を目指すこと自体は別に悪いものではない。例えば減税に反対する政治家や経済学者が「減税ポピュリズム」という言葉を使って批判しているけれど、減税が政策として正しいかどうかとポピュリズムは別の問題で、正しい政策ならエリート主義だろうがポピュリズムだろうがやればいい。不景気の時は減税したり金利を下げたり財政出動をしたりして景気を刺激して、好景気の時は増税したり金利を上げたり財政出動を減らしたりしてバブルが起きないように景気を引き締めるのが経済政策の基本だろうに、減税を訴える政治家を大衆の人気取りをするポピュリストとして批判するのはおかしい。国民民主党の榛葉賀津也幹事長が自民党が0.8兆円のガソリン税の暫定税率の廃止の財源はないと言う癖に選挙前に1人2万円の給付金を配ることに対して「庶民を馬鹿にするな」と演説していたように、自民党は明らかに不合理な主張をしているのに、それを変革しようとする野党をポピュリズムとしてレッテル貼りするのは庶民を馬鹿にしている。日本維新の会の柳ケ瀬裕文議員が財務省の試算で毎年約10兆円も税収を少なく見積もっていて税収弾性値が間違っていることを指摘したように、財務省も明らかに間違っているのだから、財務省のレクチャーを受けた議員もまた間違った政策をするようになる。高齢者はほとんど中卒や高卒なのでエリート主義で官僚や政治家任せなのだろうけれど、若くなるほど大学進学率は増えていて20-40代は約半数が大卒で官僚や政治家の嘘や詭弁や間違いがわかる程度には頭がいいので、エリートへの批判が増えているのだと思う。首相にしたい人に小泉進次郎の名前が挙がるのが典型的で、高齢者はエリート主義なので自民党の世襲エリート政治家を支持するし、若い人はたいていの大卒なら小泉進次郎より頭がいいのであんなアホが首相候補とかありえないと批判する。与党が状況に応じて柔軟に政策を変更して正しい政策をとれるのなら政治変革を目指すポピュリズムは起きない。ところが自民党の森山幹事長が「消費税を守り抜く」と発言したように、与党の政治家は財務官僚に洗脳されて消費税増税路線を変更するつもりがない。出生数が70万人を割ったことに対して三原こども政策担当大臣は「重く受け止めている」と言って石破総理は「少子化に歯止めがかかっていない状況を重く受け止めなければならない」と言ったけれど、政策を変えるつもりがなくて、少子化は国の根幹に関わる重要課題にもかかわらず、日本人の人口を増やそうとせずに外国人移民の受け入れを拡大して対処しようとしている。与党が政策を変えないなら他の党に投票するしかないじゃんということで政治変革の機運が高まって、前回の衆議院選挙のように自民党の票が減った分だけ国民民主党、参政党、れいわ、保守党とかの新興政党の支持が増えているのだろう。エリートの官僚が間違った政策をしてきたからこそバブルが起きてバブルが崩壊して他の国が経済成長している中で日本だけ30年成長してこなくて度重なる増税で生活が苦しくなるのだから、大衆がエリートと逆の政策を求めるのは当然の流れで、だからこそ財務省解体デモが起きたし、野党が消費税減税や廃止を求めるようになった。ポピュリズムの政治変革が起きるのは政治家が大衆の声を聞いていて民主制が機能している証でもある。民主制が機能しないと行きつく先はフランス革命のような暴徒化した大衆による支配階級の追放や処刑で、スリランカでは経済政策に失敗して経済危機が起きて公邸がデモ隊に占拠されてラジャパクサ大統領が軍用機で国外逃亡した。日本の政治家や官僚も暴徒に殺されないうちに過去の政策の間違いを認めて陳謝して方針転換して、民主的に問題を解決するのが良いだろう。●差別主義左翼はしばしば保守に対して差別主義者というレッテル貼りをする。差別はわかるけれど、差別主義という主義はない。じゃあ差別主義という言葉は何を意味しているのかというと、左翼が主張する多文化共生とLGBTQの推進に反対する人を指すようで、あたかも左翼が正しくて他の人が間違っているかのような印象操作である。差別と区別は違うもので、性は法的にも生物学的にも区別されるものである。トランスジェンダーのトイレや銭湯の使用はどの段階で男性や女性見なすのかという区別の問題で、男性器がついている人が女装したところで生物学的には男性なので女性として区分されないのは当然である。リベラルの要求通りに区分しないと差別なのかというと違うだろう。差別は何かというと、例えばカトリック教徒が多い南米だとしばしば女装して歩いている男性が襲われて殺されたりするし、イスラム教徒が多い中東やアフリカだと同性愛者やトランスジェンダーが殺されたりする。これは差別主義という何かの主義者がいるのでなくて、神は男女を作ったのでそれ以外の性はないという一神教的な宗教の教義が原因となってLGBTQが差別されている。どの共同体であれ価値観が異なる人は差別されがちだけれど、差別主義だとレッテル貼りしたところで差別が解決されるわけではないし、宗教を否定しない限り性に関する根本的な差別はなくならない。racism(人種差別主義)という言葉はあるけれど言葉の使い方としては正しくなくて、白人至上主義やユダヤ人の選民思想はそれぞれ違う理由で人種を差別しているので分けて考えるべきものである。白人至上主義もユダヤ人の選民思想もどちらも宗教が理由なので、結局は差別をなくすには宗教を否定する必要がある。国籍も区別されるものである。糖尿病のガーナ人が生活保護の申請が却下されたのは不当だと訴えた裁判で外国人は生活保護法の対象外だと判決が出たように、外国籍の人の権利はその母国が保護するものであって、日本が外国人の保護をする責任があるわけではないし、外国籍の人に生活保護を与えないことも差別ではない。ラサール石井が「人間にファーストもセカンドもない」と言うのは個人の信条としては好きにすればいいけれど政府の対応としては間違っていて、例えばスーダンのように戦争が起きた国から法人を避難させるために日本政府が飛行機をチャーターするけれど、日本人を優先せずに誰でも先着順に乗せていたら日本政府が邦人を保護する責任を果たせなくなる。左翼は参政党を差別主義者だと批判して演説を妨害しているけれど、じゃあ国家ぐるみで反日教育をして日本人を差別している中国や韓国を差別主義国家や差別主義者として左翼が批判してきたかというとしていない。結局のところ左翼は日本を批判する名目があればなんでもよいわけで、差別に反対する人道主義者を気取ったところで日本国旗にバツ印をつけたりして日本人を差別して日本を破壊したいという思想が根底にあるのが丸見えなので、左翼が熱心に政治活動するほど化けの皮がはがれて支持者は減っていく。●排外主義参政党の「日本人ファースト」というスローガンにも左翼がヘイトスピーチだ差別だと噛みついていて、TBSは『報道特集』で参政党が排外主義であるかのように偏向報道をして炎上している。外国人の不法就労をきちんと取り締まったり、偽装難民を送還することは法治国家ならやって当然でやらない方が問題なのだけれど、「不法外国人の排除」を「外国人の排除」にすり替えて排外主義としてレッテル貼りする藁人形論法が左翼の批判手法になっている。そもそも左翼は今まで沖縄の在日米軍の犯罪を問題視して排除を訴えてきただろうに、それを排外主義と呼ばないのはダブルスタンダードである。大手マスコミに入社する人はそれなりに高学歴で頭が良いのだろうけれど、なぜ選挙期間中にアナウンサーが「自分の1票が身近な外国人を脅かすかも、想像力持って投票を」と参政党の落選運動ともとれる主張をするのかというと、根底に日本人の財産を外国に渡そうとする反日思想がある。韓国の統一教会が日本人信者を詐欺のターゲットにしたのと同じで、在日韓国人が朝鮮併合を恨んで日本を衰退させるために活動している。TBSは民主主義の根幹である選挙でさえ公平に報道する気がないのだから、その他のニュースも当然偏向しているだろうし、TBSのような極左からみたら外国人の犯罪の取り締まりを求める普通の日本人が排外主義に見えるようである。TBSは坂本弁護士一家殺人事件から体質が何も変わっていないし、TBSが身近な日本人を脅かすかもしれないので報道に関わるべきでない。MBSは外国人の犯罪で治安が悪化しているイメージはデータ上では誤りだとして、犯罪検挙人数を根拠にしている。これは数字は嘘をつかないけれど嘘つきは数字を使うパターンである。例えば川口市では警察が外国人絡みの苦情や事件を面倒くさがって対応しなくて被害者が泣き寝入りしているけれど、この場合は犯罪として認知されないし検挙もされないので犯罪としてカウントされない。外国人が運転する暴走車に追突されたりしても事故なので犯罪としてはカウントされない。警視庁は2025年1-6月の外国人運転手による死亡・重傷事故が昨年同期より19件多い258件で、全体に占める割合は2.1%で2016年の1.0%から倍増して過去最高だそうな。川口市では2024年9月29日に中国人の19歳の少年が飲酒運転で一方通行を時速約125キロで逆走して車と衝突して51歳の会社役員の男性が死亡する事故が起きたけれど、これは通り魔がうろついているようなもので誰でも被害にあう可能性があった。三重県でもペルー人が運転している車が高速道路を逆走して事故が起きた。暴走族がいる町は治安が悪いと思って当然だろうに、外国人が運転する暴走車が走り回っているのを治安が悪いと思ってもデータにないから「誤り」扱いされるのか。戸田市では河合ゆうすけが戸田市議選で埼玉県南部の外国人移民の犯罪の取り締まり強化を訴えて歴代最多得票数でトップ当選したし、市民は間違ったイメージに基づいて排外主義になったのではなくて、日々生活するうえでの実体験から当然の要求として治安を求めているに過ぎない。最近は難民申請を6回繰り返して20年間日本に滞在して解体業を経営してフェラーリやクルーザーを乗り回していたクルド人のリーダー格のユージェル・マヒルジャン(34)が強制送還されることになって「入管に爆弾を投げてほしい」と仲間に呼びかけたそうだけれど、テロの扇動するほど反社会的な外国人を20年も送還できなかったのは問題である。彼は「旅券を取り直し、近隣国を経由して日本に戻ってくる」と言っているように、自国に戻っても政治的理由で投獄されたり処刑されたりするわけでもないし、彼みたいに明らかに難民ではない偽装難民でも仮放免中に生活費が支給されているし、日本人が増税されてそのフリーライドの費用を負担している。その問題を解決するために不法滞在している外国人への対処を厳しくしたところで、合法的に日本に滞在している善良な外国人には何の問題もないだろうに、どこが排外主義なのか。2025年5月1日に成田市でブラジル人の言語学の修士号を持つ研究者の女性が「日本はとても安全な国。だから私はここに移住したい」とSNSに投稿した後にスリランカ人の男性に強盗されて放火されて一酸化炭素中毒で死亡したように、日本に移住したがっている善良な外国人にとっても民度が低い外国人が日本にいることがリスクになるのだから、外国人と共生したいのならなおさら治安は重視しないといけない。ヨーロッパが語学学習や就職支援プログラムとかを用意して中東やアフリカの貧しいかわいそうな移民を大歓迎したのに結局多文化共生に失敗して移民の受け入れを停止して右傾化したのは治安が悪化したのが大きな原因で、治安問題から目を背けたら共生は無理である。川口市を視察中にクルド人に追跡されて武南署で取り囲まれた高木功介県議らが刑事告訴して記者会見して「被害に遭っても黙殺され泣き寝入りしてきた住民の思いも込めて告訴した」と言ったり、会見に参加した市民が「クルド人の問題をこじらせているのは、あなたたちジャーナリストの皆さんです」と批判したりしたように、不法外国人の犯罪を取り締まることさえ排外主義扱いして外国人に肩入れして被害者の人権よりも加害者の人権を守ろうとするマスコミが外国人問題の解決を遅らせてこじらせている。もはやマスコミは市民の敵で、人権意識が高いエリートジャーナリストを気取っているマスコミも大衆によって否定されて、もう若者はテレビを見なくなったし新聞を読まなくなった。●まとめ選挙がその後の数年の政治の行方を左右するので、レッテル貼りによる印象操作に惑わされずに各政党の政策を多面的に見て、自分の生活や日本の将来を良くするにはどうすればよいのかをよく考えてから投票するべきである。選挙が終わったので追記。衆院選で自民党が負けたのにその後に何の実績もない石破総理のまま参院選をやったところで勝てる理由がなくて、予想通りの自民党が大敗して議席を減らす結果になった。山形、秋田、和歌山、愛媛、徳島、鹿児島、沖縄とかの地方では自民党の議員が2位で落選して無所属の議員が当選していて、自民党の組織力を動員しても無所属に勝てないのだからだいぶ支持者が離れたようである。杉田水脈や長尾敬とかの自民党の保守派議員も全国比例で落選したけれど、自民党内に保守派がいても党議拘束で結局リベラル法案に賛成するので最初から保守的な主張をする参政党や保守党に投票するほうがましだということなのだろうし、自民党に代わって保守の受け皿になった参政党は6議席が目標だったのが2倍以上の14議席を得て躍進した。しばき隊とかの参政党のアンチの左翼がレッテル貼りだけでは満足せずに日本国旗にバツ印をつけたり東京都選出のさや氏に殺害予告をしたりしてあからさまな反日活動や選挙妨害をしたことが逆効果になってかえって日本ファーストの必要性を高めて参政党の追い風になったようである。国民民主党は17議席を躍進していて、高齢者ほど自民党支持率が高くて、若者ほど国民民主党の支持率が高いようで、上で書いたように若者は半分が大卒で頭が良いので自民党の嘘が理解できるので自民党を支持しないのだろうし、国民民主党の政策を理解できるし所得控除の影響が大きいので玉木の不倫とかの問題があっても国民民主党を支持するのだろう。チームみらいの安野氏も当選したけれど、この人もたぶん若者の支持が多かったのだろうし、イデオロギーとは違う軸での政策には期待が持てる。高齢者が支持してきた古い政党は高齢者が死んでいくにつれて議席を減らしていって、今後は若者が支持する政党が力をつけていくのだろうし、ようやく日本の政治が変わる兆しが出てきたのは良いことである。
2025.07.15
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私はついさっきまでかわいい幼児だったのに、朝起きたらかわいくないおっさんになっていた。時間の流れは速いものだと思ったので、徒然なるままに流れについて考えることにした。●様々なものが流れている時間は概念として流れているともいえる。万物は流転して環境の変化から様々な生命が生まれてきたので、必然的に生命にも流れがある。人体は絶えず血液を循環させないと細胞に栄養や酸素が行きわたらなくて壊死してしまうので、意識しなくても寝ている間でも心臓と肺は動いている。細胞も流転して死んだ細胞が新しい細胞と入れ替わっていて、細胞のコピーが正常にできなくなると老化やがんで身体の機能が衰えて死に近づいていく。脳は神経細胞から電気信号やらなんやらが流れるので五感を感じる。人間が作った様々なものにも流れがある。インフラは電流、水流、物流が滞らないように整備されている。空気の流れも家や都市設計では重要で、一戸建ての屋根が風を受け流したり、オフィス街でビル風が強くならないようにデザインにしないと、台風のときに屋根が飛んだり看板が飛んだりして被害が大きくなってしまう。家の中の空気がよどんでいるとカビが生えやすくなるし、料理の煙やたばこの煙が室内に充満すると肺がんの原因になる。企業はいくら売掛金が多くても現金が足りなくなって支払いができないと帳簿上で黒字でも倒産するので、現金が不足しないように入出金のキャッシュフローを管理している。服や音楽とかの流行も流れるように伝播して移り変わるもので、特定のスタイルが他よりも優れているわけではなくて、なんとなく皆が真似することで時勢として勢いづいて、次第に飽きられて他の流行に取って代わられる。流れに乗れる人はITブームの時にプログラミングをしたり仮想通貨ブームの時に億り人になったりSNSブームの時にインフルエンサーになったりして稼ぐ一方で、生きづらい人は様々な流れに乗れていないのだろう。ただし流れに乗ることと、流されることは似ているようで違う。世間の流れが自分の主義と違うなら、安易に流されずに抗うほうがよい。新型コロナワクチン接種の同調圧力なんかが典型的で、テニスのトップ選手のジョコビッチはワクチン接種を強制されることに反発して大会出場を諦めてでも未接種を貫いた。結局は新型コロナワクチンは感染予防効果はなかったので感染防止目的で接種するのは無意味だし、専属のトレーナーをつけて体調管理に一般人以上に気を付けている若いトッププロのスポーツ選手は重症化予防の目的で接種するメリットもあまりないし、他人に強制されて接種するようなものではなかった。サッカー選手や野球選手はワクチン接種後に死亡したり心臓疾患で引退したりした選手がいるけれど、チームが逸失利益を補償するわけでないし、体が資本だからこそ安易に他人に決定をゆだねてはいけない。●理解の流れ物事には因果関係があるので、人間は何かを理解するときは何かの出来事に基づいて別の何かの出来事を説明付けようとする。例えば科学がない時代は雷が落ちて木が燃える現象を理解しようとして、雷や火を司る神の力だとかの原因をでっちあげて理解しようとした。そんで火が付くには条件があって、どうやら発火点や酸素や水分とかが関係しているらしいぞと実験でわかるようになって、じゃあ原子が他の原子とくっつけばいろいろな物質になるやんけ、AならばBやんけ、BならばCやんけ、CならばDやんけという流れで事実をもとに他の事実も芋づる式に理解できるようになる。いまでは科学的教育を受けた人は共通の理解を持てるようになった。我々が事実を科学的に理解すれば物事の認識が異なることはないはずだけれど、実際は世界中で認識の齟齬があって、様々な物事に対して理解が異なっている。数独(ナンプレ)は最初に用意された数字を基にして残りの数字を論理的に推測して埋めていくけれど、どこか一つの数字を間違うと他の数字もあちこち矛盾することになるように、理解のどこかの段階で間違いを含むと最終的に間違った認識が出来上がる。その認識の相違の根源を辿っていくと宗教が間違いの大きな原因になっていて、宗教の経典は科学が未発達な時代に書かれて間違いだらけなので必然的に現実の理解も間違うようになる。例えば一神教の宗教では全知全能の神がいるという概念をあらゆる思想の根源にして、神の教えを説いた経典を基にして世界の理解を発展させているので、そこから物事の認識が狂っていって、事実と矛盾するところが出てくる。神に祈れば苦しみがなくなるはずだと勝手に期待して、なぜこんなに祈っているのに神は助けてくれないのだと期待通りにいかないことを嘆いて、これは神が自分に課した試練なのだと勝手に解釈して納得して、神の教えを記した経典に従えば天国に行けるのだということを希望にして、宗教を広める目的のためならどんな手段でも正当化して、経典に異教徒を殺せと書いてある通りに異教徒を殺したり奴隷にして改修させたりするし、同性愛は男女を作った神に反するので異端として殺そうとする。神は正しい、経典は正しいということを前提に世界の理解が出来上がっているので、世俗化して宗教の影響から抜け出さない限り間違いが正されることはないし、倫理観が修正されることはない。自分と異なる宗教の人を殺したところで自分の正しさが証明されるわけではないことを理解していおらず、神の名を騙って蛮行を正当化する愚か者となる。一方で仏教はあらゆる生物はいずれ死ぬという生死一如の真理を基にして、苦しみをなくするにはどうすればよいのかと思想を発展させていったし、わからないことは断定せずにわからないという態度なので、仏教の教えは現実と矛盾するところはあまりない。ブッダが弟子にした筏のたとえ話があって、旅人が筏で川を渡って、筏が役に立ったからといって川を渡った後も筏を担いで歩くのは適切な行動かと弟子に尋ねて、仏教の教えも必要なら使って必要ないなら執着せずに捨てろと教えている。小乗仏教はブッダや経典に対する信仰ではないという点で宗教ではないし、同じ仏教でも仏を拝んだりお経を唱えたりすれば極楽浄土に行けると主張する大乗仏教と小乗仏教とは本質的に違うものである。欧米の意識が高い人には無宗教や無神論者の人やマインドフルネスとかの仏教の思想を取り入れたりする人がいるけれど、たぶん頭がいい人ほど一神教の欺瞞に気付くのだろう。神道では『古事記』や『日本書紀』は神典という扱いになっているけれど、昔話のようなもので教義があるわけではない。古代に天皇が実在したことを信じる人はいても、現代にイザナギやイザナミとかの神々が日本列島を作ったと信じる人はいない。仏教では幽霊という概念はないけれど、日本人に幽霊を信じる人が多いのは、子供のころから初詣とかをやってきて八百万の神々とかの超自然的なものや霊的なものを受け入れているからだろう。物事の因果関係を論理的に理解して説明できる人は理性があると言えるし、物事の抽象的な因果関係を直感的に理解できる人は悟性があると言える。例えば宮本武蔵は悟性があって、現実的な合理性を軸にして特定の武器や構えにこだわらない戦術を組み立てたので、非合理的な構えや小手先の技にこだわる人と戦ったときに有利になったのだろう。ただし人間にとって理解したように感じられるからといってそれが事実というわけではない。例えば統合失調症の人は関係ない物事を結び付けて理解したつもりになっているし、地球平面論者も本人はそれが正しいものだと理解したつもりで主張している。第三者が検証可能な形式にすることで自分の現実の理解が正しいかどうかがわかるので、理解することよりも検証することのほうが重要である。ITなら開発環境でテストしてエラーが起きないか検証してからシステムを実装するけれど、人間の場合は知識が正しいか間違っているかあやふやなままダイレクトに継ぎ足していって認識の体系を作るので、理解が間違っている場合に流れを遡って原因を突き止めて修正するのが難しい。宗教的な間違いを受け入れない人もいるし、学者とかでキャリアを気にして間違いを認めようとしない人もいる。●芸術と流れ宗教が物の認識に影響を与えることで、芸術観にも違いが生まれる。イギリスの美術評論家のジョン・ラスキンは神の創造物である自然に完全さを見出して、自然をありのままに再現すべきだという考え方をした。その一方で日本画は中国の絵の影響を受けていて風景を忠実に描こうとしなくて、尾形光琳の『白梅図屏風』は余計な背景をそぎ落として梅の枝ぶりのぐねった感じと川の流れのぐねった感じをドヤァと描いて主題を強調して、梅の木の周りのどうでもいい雑草とかの気が散るような細部はいちいち描かない。芸術には文脈の流れもあって、作者は自分が生きた時代の思想の影響を否応なく受けて、思想や技法の流れを継承したり、あるいは反発して別の流れを作ったりしてきた。だから明治時代の日本画の画家が文脈を外れていきなり精緻なリアリズムの西洋画を描けるようにはならなくて、ヨーロッパに留学して油絵の技術だけでなくて西洋思想自体を学ぶ必要があった。明治時代は西洋画が最先端の思想だということで、小説家志望の人でも絵を勉強させられたそうな。現実世界をどう理解するかという思想が独自性の根源になるし、既存の作品が作られた背景とかの文脈をどう理解するかが差異を作るので、芸術家は創作技術だけあればいいというわけではなくて歴史や哲学や他のジャンルの芸術の教養も必要になる。芸術は時間と関連していて、たいてい時間の流れを表現するか、あるいは一瞬の出来事を表現している。例えば横山大観の『生々流転』は山中の木の葉の霧の雫が渓流になって支流と合流して大河になって海に流れ込んで雲を呼ぶという水の一生を描いていて、絵としては一瞬の場面だけれど、概念としては移り行く時間の流れを表現している。音楽は時間の芸術で、初めから終わりまで連続した時間の流れを鑑賞する形式になっている。小説や漫画や映画は物語を必ずしも時系列順に展開する必要はなくて、回想シーンで過去に戻ったりすることもある。因果関係が物語の流れの中心になって、そこに感情の抑揚が加わる。例えば推理小説では誰かが殺されて犯人を推理して突き止める流れになるけれど、淡々と捜査して犯人を捕まえるだけでは読者は共感できないしたいして面白くないので、恐怖や憎悪や悲しみや驚きや安心や憐憫とかの登場人物の感情の変化が描かれる。登場人物の感情に共感してスッキリするだけなら娯楽作品だけれど、犯人が殺人に至った理由とかの登場人物の思想が読者にも理解できるように描かれれば読者の認知に影響を与えうる芸術作品になりうる。特に小説は言葉の意味が直接読者に伝わるので、作者が理解していないことをあやふやに書いても読者も理解できないし、作者や登場人物の物事の理解の仕方を読者が追体験できるような流れで書く必要がある。芸術家は自分が生きた時代を観察して作品を残して、良い作品は古典として歴史の流れの中に組み込まれて、未来の世界でも参照されるようになる。●文明の発展の流れ人間は食事をしないと死んでしまうので、まず食料を得るための道具が発展してきた。骨の釣り針や石の斧や黒曜石の槍とかで獲物を効率よくとれるようになって、そうすると調理器具や保管容器とかも必要になってかまどや土器が作られて、余った獣の皮で服が作られる。荷物が増えると移住しにくくなって、農業を始めて定住するようになると家の住み心地が良くなるように頑丈で雨漏りしなくて洪水とかの災害に強い家に発展して、家具や寝具が発展していく。大きな家に食料や財産を蓄えるようになるとそれを奪おうとする人が出てきてより強い武器を求めてかまどで金属を溶かして青銅器や鉄器が作られるようになって武器や防具が発展して、周辺の集落を征服すると大勢をまとめる必要がでてきて、身分や掟とかの社会制度が発展して、人間同士で殺し合うようになって苦しみが大きくなるとこの生き方でよいのだろうかと道徳や宗教が発展していく。集落の人数が増えると分業で効率よく作業できるようになって、手工業や兵士とかの専門職が発展していく。征服や交易の距離を広げるために馬を捕まえて乗るようになって、馬が荷物を引けるように荷車や馬車が作られたり、船が作られたりするようになって、乗り物が発展していく。乗り物は人力で動かしたり動物に引かせたりしていて動力不足がボトルネックになっていたものの、蒸気や電気で動く機械が発明されると生産効率が良くなって余った労働力は知的労働をするようになって学問が発展していく。大型船で外国と貿易をするようになると難破するリスクを分散させるために株式会社ができて、銀行ができて融資したり保険会社ができて損失を補填したりするようになって大規模な設備投資が可能になって経済が発展していく。起業家が出現して貧富の差ができると個人の幸福を追求するようになって、医療や福祉が発展していく。機械を動かすために木炭、石炭、石油が大量に使われて環境破壊や環境汚染が深刻化していくにつれて省エネ技術が発展して、乱獲や環境破壊で絶滅する種が出てくると植林・養殖技術や動物の生態研究が発展していく。先進国ではすでに衣食住やインフラや医療が充実していて、飢える人はあまりいなくてむしろ肥満が健康上の問題になっているし、生活を便利にする家電もいろいろあるし、モノはこれ以上いらなくなっていて省エネ効率を高めるくらいしか発展性がない。じゃあこれからは文明はどういう方向に発展していくのか。科学の発展という点では、スーパーコンピューターやAIの演算能力が増えることで科学的真理の発見や社会問題の解決とかにつながるかもしれない。製品開発の際には加速試験をして数カ月かけて劣化具合をチェックするけれど、もしコンピューター上で正確なシミュレーションができるようになれば製品開発のスピードが速くなって、不良品も出にくくなって、技術的理由による事故や損失が起きにくくて効率がよい社会に発展するかもしれない。個人の幸福の追求という点では、いくら生産効率を高めても消費者は限られていて経済成長には限界があるので、金やモノを増やすよりも面倒な作業を機械やAIに任せて労働時間を減らしてストレスを少なくして健康を追求したり、労働時間が減った分の余暇で芸術を鑑賞したりスポーツやゲームとかの娯楽をしたりして精神的充足を得てQOLを高める流れになると思う。今は仕事をしないと収入が得られないので仕事が人生の中心になっていて「アタシと仕事のどっちが大事なのよ」がベタなカップルの喧嘩のセリフになっているけれど、今後は何の仕事をして生きるかよりも、誰とどう生きるのかを追求して個人の幸福と他人との共感を発展させていくと思う。2010年代にSNSが発展して素人の絵師や歌い手やダンサーやなろう作家とかが金儲け目当てでない作品を投稿するようになったけれど、今後はさらに増えるだろう。SNSはインフルエンサーが派手な言動をして金儲けする個人主義的な使われ方をしていることが多いけれど、最近は政治系の動画が共有されているように、共同体を強化する方向に発展していくだろう。個人主義の価値観で一対一の勝負をしたら貧乏人はどうやってもスーパーリッチには勝てないけれど、年収200万円の人でも10万人集まればスーパーリッチと対抗しうる資本力を持てるし選挙でも有利になるので、放っておけば格差が拡大していく資本主義社会の中では共同体で結束することが庶民が自分の居場所を作って幸福になる効果的な手段になる。アメリカの大統領選挙がまさにその流れで、民主党のグローバリストの金持ちエリートに反発した貧乏人たちがトランプに投票して不法移民を共同体から追い出した。個人主義から共同体主義に移行して、原始時代と同様に獲物を仕留めたら皆で分けて、子供が生まれたら皆で子育てを手伝って、死者が出たら皆で葬儀を手伝って見送って、共同体に貢献しないで自分だけ得しようとするフリーライダーは排除するという生き方に回帰していくのではないかと思う。もともと人類はその生き方で原始時代を数万年生き延びてきたので生存方法としては安定していると言える。共産主義は個人の権利を抑圧したせいでアイデアが出てこなくなって発展が止まって失敗したし、資本主義はモラルがないサイコパスのスーパーリッチが力を持ちすぎて労働者から搾取して少子化に向かって失敗したけれど、共同体主義では個人の権利と共同体での義務を折衷する形でさらに社会制度や福祉が発展すると思う。そんで際限なく欲を持つと他人と利害が衝突したり搾取したりするようになるので、欲を制限する方向に発展すると思う。例えば皆が自宅にプールを作る必要なんかなくて共同体で公営プールを共有すれば十分で、物を私有して共同体に還元しない金持ちは強欲な奴として蔑まれるようになる。●政治の流れ政治の流れは歴史の流れともいえる。古代から世界各地で王国ができて権力や領土をめぐって争って、大航海時代に移動範囲が広がると文明の発展度合いに差がある南米やアフリカの王国を植民地として支配下に置いて勢力を拡大する帝国主義になって、第二次世界大戦がおきて帝国主義が終わって旧植民地が独立して武力による国境の変更が国際社会で認められなくなるとヨーロッパでグローバリズム新自由主義が始まって欧州共同体(EC)ができて欧州連合(EU)になって加盟国が増えて範囲を拡大して国境はそのままで人を移動させて移民の労働力で儲けるようになって、キリスト教圏のEU内の人の移動で満足せずにアフリカや中東からもイスラム教の移民を入れたら治安が悪化して多文化共生が失敗して、またナショナリズムが台頭して欧米で不法移民や偽装難民を排除する流れになっている。一方で中国やソ連とかの共産主義の計画経済は失敗して共産主義国家は自由貿易をするようになったもののまだ領土拡大の野心を持ったままで、NATOの拡大に反発したロシアがウクライナに侵略戦争を仕掛けてからは西側と東側が決裂してブロック経済に向かう流れになっている。じゃあこれからどうなるのかというと、AIの自動翻訳やリモートワーク環境の発達で生まれた国や言語や人種の違いはたいした問題ではなくなって、AIがいくら発達しても変わらない部分である宗教的価値観の違いが対立の原因になって、イスラエルとパレスチナやインドとパキスタンのように宗教の違いで争ったり、同じ宗教でも世俗派と保守派の違いで共同体が分かれたりする流れになると思う。どんなに文明が発展しようが戦争やテロで家屋や生産設備が破壊されてしまうのでは文明を発展させてきた意味がなくなるし、敵国を倒して得られる土地や資源とかの利益よりも失うもののほうが多いので、たぶん同盟国同士で連携を強めたり、敵対する国や共同体とは不干渉にしたりして平和を模索する流れになるだろう。イスラエルがイランの核施設を攻撃して反撃されてアイアンドームの弾が切れたらさっさと停戦したように、イランと戦争をして勝てるとしても核兵器で攻撃される可能性がなくなったことでイスラエルの目的は達成していてそれ以上攻撃を続けるメリットがないし、膨大な費用をかけて建設したインフラやビルが被害を受けないことのほうが重要なわけである。帝国主義時代は植民地でブロック経済圏を作ったけれど、今後は宗教がブロック分けの基準になるかもしれない。そうなると日本の存在意義が際立ってくる。バフェットが日本の商社の株を買ったのは、たぶん商社が世界各国で資源の権利を持っていて移民の移動が制限されようがブロック経済になろうが契約を守る法治国家が相手なら長期的に利益を出せるからかもしれない。LGBTQゴリ押しのGoogleとかのアメリカのグローバル企業と違って日本企業の経営陣は単なるビジネスマンで宗教観に抵触するようなイデオロギーがないし、日本の仏教や神道は他の宗教を否定するものではないのでキリスト教圏でもイスラム教圏でもヒンズー教圏でも反発を招かずに世界中で商売できるし、日本国内では宗教や人種を理由にしたヘイトクライムやテロがあまりないので無宗教や世俗派の外国人にとっては安全な移住先の選択肢になりうる。日本の政治家や経営者が単に宗教的に無関心なのでなく、世界中の宗教を理解したうえで距離を取ったり仲裁したりできるようになれば今後の日本の発展の可能性は十分あるだろう。日本が見返りを求めずにアゼルバイジャンを支援してアゼルバイジャンが親日国になったのが典型的で、中東の石油利権をほしがって干渉する欧米のキリスト教国家よりも礼儀をわきまえている日本のほうがうまく中東で外交ができると思う。中国も無宗教なので世界中に進出しやすいけれど、相手を騙したり賄賂を贈ったりして搾取しようとする魂胆が丸見えなので、長期的な信用を得られていなくて一帯一路やAIIBもうまくいっていないし、そこに日本がアジア系の比較対象として信用を得るチャンスがある。しかし日本には文系の教養や文系の大学に価値はないと主張する新自由主義グローバリストが未だに大きな影響力を持っているので、世界の流れが読めずに労働力目当ての移民を入れて周回遅れで多文化共生に失敗して自滅するパターンになる可能性も十分にある。今度の参院選が日本の未来の分岐点になると思うので、よく考えて投票してほしいものである。
2025.07.04
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気候変動とかで価値が減少する化石燃料とかの資産のことを座礁資産というけれど、コンテンツも同様にいつまでも価値があるわけではなくて、価値がなくなるコンテンツは座礁コンテンツと言えるかもしれない。人気のコンテンツでもいつかはオワコンになるのは仕方がないにしても、コンテンツを作るのには時間や労力がかかるので、どうせ作るなら長期間鑑賞できるコンテンツであるに越したことはない。というわけで徒然なるままにコンテンツの鑑賞期限について考えることにした。●コンテンツの旬コンテンツを鑑賞して一番面白く感じられるのは発表直後である。というのも作者が何か現代の社会問題や生き方とかに対して主張したいことがあって作品を発表した場合は当事者として鑑賞するほうが共感しやすいし、発表直後は盛り上げようとしていろいろプロモーションをしていて賑やかだし、いろいろな人がああだこうだと感想を言い合っている中で自分の感想を言うのも楽しいものである。旬を過ぎても鑑賞自体はできるけれど、新しい作品が次々に発表されている中でいまさらこれを鑑賞するのはどうじゃろうという感じになって、あまり鑑賞したい気分でなくなる。面白さは主観的な感覚なので、気分が乗らないときに鑑賞しても面白く感じにくくなる。●コンテンツの鑑賞期限に影響する要素・流行の変化漫画やアニメとかは絵柄に流行があって、目を大きく書くような特定のスタイルが一時期は流行っても数年たって流行が終わると陳腐になって魅力がなくなってしまう。流行に便乗して作られたコンテンツほど内容も薄いので、時代遅れになるとなおさら鑑賞に堪えなくなる。・政治的変化政権にとって都合が悪い本が焚書されて存在を抹消されたり、アダルトコンテンツの判断基準が厳しくなって昔は合法だった少女のヌード写真が児童ポルノ扱いされて違法になったり、『はだしのゲン』の描写が過激だという理由で学校の図書館に置かれなくなったり、ドイツで戦後にヒトラーの『我が闘争』の研究が禁止されたり、政治的理由でコンテンツが閲覧不可や入手不可になることがある。・価値観の変化昔のコンテンツは今でいう差別用語を使っていたりするけれど、そういう言葉を使うのは良くないというように価値観が変わると、古い価値観を表しているコンテンツとして敬遠されるようになる。あるいは視聴者が年を取るにつれて価値観が変わることもあって、子供向けコンテンツは視聴者が青年期に入ると幼稚な子供っぽさが嫌われて鑑賞されなくなる。・言葉の変化古典扱いされているコンテンツは鑑賞期限が長いけれど、数百年経つと言葉遣いが変わって、専門家の解説や現代語訳がないと古典を読めなくなってしまう。青空文庫にある旧字体の小説やエッセイは時間をかければ理解できるとしても旧字体を調べながら読むのが面倒くさくて気軽に読む気にならないので、研究者とかの専門家しか読まなくなる。・時事ネタ時事ネタは主に同時代の人に向けた内容で、後世の人が鑑賞しても面白さが伝わらなくなる。例えば間抜けな発言をするイケメン世襲政治家を作品に登場させたら同時代の人にはあいつやんけと風刺として受け取られるけれど、後世の人が鑑賞した場合には前提となる知識がないので風刺として伝わらなくなってしまう。社会問題とかに問題提起する作品だと、何年も経って既に問題が解決されてから鑑賞しても当事者性がなくなってしまって面白さが減る。・上位互換の出現創作手法はしばしば技術革新が起きていて、特に映画では顕著である。数百億円の予算を使ってCGを使って現実では撮影できないような高い所から飛び降りたり大爆発が起きたり手足が吹っ飛んだりする派手なアクション映画が出現すると、昔の映画の拳銃をポンポコ撃ってぐわーっと大げさにのけぞって倒れる程度のアクションは相対的にあまり面白く感じなくなってしまって、わざわざ見るほどのものでもなくなる。・不祥事俳優の人気で視聴率が支えられているドラマは俳優が不祥事を起こして反感を持たれると視聴者が離れていく。小説や漫画とかだと作者が不祥事を起こすと作品も嫌われて売れなくなったり、連載途中で打ち切りになったりする。・希少性再版されない古書は時間が経つほど現存数が少なくなって徐々に値段が高くなっていって庶民には手に入りにくくなる。ノーベル文学賞を受賞したナギーブ・マフフーズの『渡り鳥と秋』はamazonで中古で28000円くらいで、良い内容だけれどわざわざ定価より何倍も高い値段を出してまで読むものでもない。絵画は元々一点しかないので希少で、外国の美術館に所蔵されている作品はなかなか鑑賞できない。・物理的限界白黒映画のフィルム、レコード、カセットテープ、CDとかの記録媒体は空気で酸化したりカビが生えたり紫外線で脆くなったりして経年劣化するし、レコードみたいに針と物理的な接触があるものは再生のたびに徐々に擦り減っていくのでいずれ再生不可能になる。ゲームは新しいハードが出てソフトの規格が変わったり、パソコンのOSが変わったりすると遊べなくなることがある。電子書籍はサポートが切れると読めなくなる。●コンテンツの延命手段・人気があるうちに終わる漫画やアメドラとかは物語の終わりを決めないまま登場人物を増やして新しいエピソードを継ぎ足してずるずると長期化するパターンがあるけれど、展開がだれてくると悪評のほうが目立つようになる。最初は面白いけど最後まで見る価値がないという評価がついてしまうと新規の読者や視聴者がつかなくなってかえってコンテンツの寿命が短くなるので、引き伸ばさずに面白さを凝縮して完結させて、やり残したことがあったら別の作品で仕切りなおす方が良い。・シリーズ化前にも奥野正寛『ミクロ経済学入門』という記事で考えたけれど、いちから登場人物や世界設定を考えるのは労力がかかるので、いったんヒット作が出たら限界費用逓減の法則や限界効用逓減の法則に則って飽きられるまで登場人物と世界設定を使いまわして続編を作るのが商業的には効率が良い。ガンダムやドラゴンボールやポケモンやコナンとかは個人的にはいつまでやってんだと思うし興味ないけれど、それでもファンは飽きないようでそれなりに人気がある。しかし作品として一番力があるのはたいてい新しいアイデアを試したりメッセージ性を持っていたりする第一作で、続編はアイデアに目新しさがなくなってメッセージ性が薄れて新しいファンを獲得するほどの力がなかったりする。・スピンオフ、外伝本編で人気があった脇役を主人公にして物語を掘り下げたり、パロディーや4コマとかの違うフォーマットにしたりして、コンテンツを有効活用できる。ただしたいてい本編より劣る内容になるので、本編に人気があるうちにやらないとあまりやる意味がないし、続編を出すまでのつなぎにはなるけれど延命効果は長続きしない。ドラゴンクエストはゲームの続編が出るまで漫画やアニメで興味を引いていたように、ゲームや漫画やアニメはどれも主に子供向けなのでメディアミックスの相乗効果が高い。・他のジャンルで作る漫画の『今日から俺は!!』が連載終了から何年も経ってからドラマ化されて、漫画版を読んだことがない小学生に人気になったように、他のメディアで作り直すと時間が経ったコンテンツでも新しい見どころを作って再利用できる。・リメイク最近は『らんま1/2』や『YAIBA』とかのセル画時代の古いアニメが最新のアニメ技法でブラッシュアップしてリメイクされている。新しい技術を取り入れてリメイクすることで原作を懐かしむ層だけでなくて新規の視聴者も増やすことにつながる。・謎を残す『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメ版は謎だらけだったけれど、それがかえって視聴者が考察する余地になって、疑問を解決するために何度も見返したりするようになる。人間は謎を解きたがるもので、最初の作品に謎が残っていると続編で謎が明らかになる期待が残って長い間興味を維持できるようになって、アニメの終了から10年経ってから劇場版が作られてもまだファンが残っていて人気が出た。・アレンジ音楽だと何かの曲をジャズやボサノバやレゲエとかの別のジャンルの曲としてアレンジして、メロディーは同じでも違うテイストにすることで目新しさを出している。・弟子をとる伝統芸能は〇〇派や〇〇一門として子孫や弟子に芸風や技術や思想を継承することで、何代にもわたって芸の価値を落とさずに鑑賞できるようにしている。ただし新しいことはやりにくくなって発展性は犠牲になるので、古典以外のジャンルではこのやり方は向かない。・マルチバースマーベルは単体作品のヒーローやヴィランが大勢いるので、今度はそのキャラクター同士をかけあわせてコンテンツを作るようになった。超能力があるヒーローとヴィランがなんか知らんけど戦ってどっちも強いから最終的な決着がつかないというような話を延々とやっていて、延命にはなったけれどファンに飽きられて、さすがのマーベルも反省したのか乱造をやめる方針のようである。『スーパーロボット大戦』もガンダムやマジンガーZとかのいろいろな作品のロボットが勢ぞろいするところがロボット好きの男子にウケたようで、マジンガーZやゲッターロボとかの単体だと古すぎて今更続編やリメイクを作っても人気がでないようなロボットでもマルチバースだと賑やかし要員として出番がある。・イベント遊戯王やポケモンが飽きられないのは、カードゲームとして実際に遊べて大会とかの大人が参加できるイベントがあるのが大きな理由だろう。ポケモンと似た感じの子供向けコンテンツの『デジタルモンスター』や『妖怪ウォッチ』はゲームやアニメや漫画とメディアミックスして一時期は人気になったけれど、個人で作品を鑑賞するのにとどまって対人イベントへの広がりがなくて子供向けコンテンツ止まりなので、子供が成長するにつれて飽きられていったのだと思う。・新しいことをやるこの手法は〇〇が発祥で、と言及されたり真似されたりするような新しい技術やテーマで作品を作ると、古典として度々参照されるようになる。例えばジョジョ立ちと呼ばれる気取ったようなポーズはしばしば真似されるので、ジョジョを知らない子供も興味を持つようになる。しかし新しいやり方はなかなか思いついたり技術的にできるものではないので、狙ってやるのは難しい。流行を追わずに作者が本当に表現したいことを追求していけば、おのずとアイコニックな個性がでてくるものである。
2025.06.23
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2024年に生まれた子供の数は68万6000人で、特殊合計出生率も過去最低を更新して1.15になったそうで、政府の想定よりも少子化が加速している。そもそも結婚する人を増やさないと子供が増えないのに、子ども家庭庁が子供がいる既婚者の支援ばかりしているのだから子供が増えないのも当然で、成果が出ていない政策を見直さずにそのままのんびり続けているのだから、政府は少子化がたいした問題だとは思っていないのか、あるいは日本の衰退と消滅のために邁進しているのかどっちかだろう。少子化については少子化と反出生主義について考えるという記事やロバート・マルサス『初版 人口の原理』という記事で考えたので、別の視点から考えることにする。20世紀は恋に対してロマンティックな幻想があって、それが結婚への憧れになっていたと思う。ロマンスがなくなったことが若者が結婚しなくなった一因ではないかと思うので、これについて考えることにした。●ロマンスとは何かロマンスとはもともとは中世ヨーロッパの騎士の恋愛や武勇などの空想的で伝奇的な物語で、現代では激しい恋愛や理想の相手との情事を指すようになった。日本ではロマンスという言葉がなくても恋の情事はあって、江戸時代には結婚できない恋人たちが川に身投げして心中したし、明治時代は高山樗牛が恋愛を礼賛して若者に支持されて、家父長制で親に結婚相手を決められて自由恋愛できなかった若者たちが自由恋愛するようになった。戦後はテレビや雑誌とかのメディアが若者向けのロマンスを取り上げてトレンディドラマを作ったりしたのでロマンスの追求が顕著になって、C-C-Bの『Romanticが止まらない』や広瀬香美の『ロマンスの神様』という曲も流行した。●ロマンスの喪失ロマンスの典型のシンデレラストーリーはたいてい平凡な女性が金持ちの男性に見初められて結婚をゴールにして幸せになりましたとさで終わって、結婚したら幸せになれるという一種の幻想をもたらしていた。それゆえに結婚式は人生の一大イベントして派手な行事をしていた。身分違いの恋をした女性が幸せになる物語はヒット作の定番のパターンで、例えば1988年の映画『星の王子 ニューヨークへ行く』はアフリカの大金持ちの王子がハンバーガー屋の娘と恋をする話で、1990年の映画『プリティー・ウーマン』は実業家と売春婦が出会って惹かれ合う話で、1997年のドラマ『ダーマ&グレッグ』はエリートWASP男とヒッピー女が一目ぼれしていきなり結婚して両家の家族といざこざがおきる物語である。こういう身分違いの恋は単に金持ちの男が美人の女に惚れて貧しい境遇から救ってやるという単純な話ではなくて、男が女に諭されたりして価値観が変わって内面が成長したり救われたりする話でもある。価値観の違いによるいざこざで喧嘩したり仲直りしたりして距離感が変わっていって、親の反対とかの障害を乗り越えて最終的に大団円になる様子がドラマになるわけで、パターンが確立されているのでエンタメとしてはストーリーを作りやすいと言える。しかし最近は現代を舞台にした作品でシンデレラストーリーをあまり見かけなくなった。私は少女漫画やテレビドラマには疎いので私が知らないだけかもしれないけれど、私みたいな疎い人でも名前だけは知ってるというようなヒット作がない。ウーマンリブ運動が起きて女性が自立して自分で稼いで自己実現するものだという価値観になると、高学歴高収入のエリートの似た価値観の男女同士が結婚してパワーカップルになって、独身の女性も収入が低い男性を負け組として蔑むようになって男性に頼らなくなって、価値観が違う身分違いの恋が成立しにくくなる。それに援助交際やパパ活と称した売春も行われるようになって、ポルノサイトも出てきて、面倒くさい恋愛を経なくても性欲を満たせるようになった。身分差がある結婚はキャリア志向でない大多数の女性のサクセスストーリーであると同時に女性を男性より下に位置付ける社会制度への反逆でもあったけれど、女性でも立身出世できるようになると反逆する相手が男社会のガラスの天井とかの別の社会問題に変わって、結婚することがサクセスストーリーにならなくなって結婚に焦点が当たらなくなったのだろう。2000年代は匿名掲示板やSNSが出現して既婚者の愚痴が共有されるようになって、現実から結婚の幻想がなくなるにつれて、フィクションでは『セックス・アンド・ザ・シティ』や『東京タラレバ娘』みたいに独身女性の恋愛の失敗談を描いたり、『よつばと』みたいに恋愛や結婚をすっとばして子育てを描くようになっていく。『クレヨンしんちゃん』はキャラクターが歳をとらない世界で何十年も延々と幼児の子育てをしている。シンデレラストーリーは現実世界を舞台にしなくなって過去をや異世界を舞台にするようになったようで、韓国の時代劇は王朝時代の政争に身分違いの恋の要素を入れて、史実よりもロマンチックなドラマ性を優先したフュージョン時代劇を作って人気になっている。女性向けのフィクションも『薬屋のひとりごと』とかあまり恋愛にがっついていない女子が地位が高いイケメンに気に入られてちやほやされる展開が多い。現実世界にロマンスがまったくないわけではないし、アイドルやVTuberに恋をする人もいるけれど、たいてい恋は成就しない。ホストクラブやコンカフェで大金を貢ぐ人もいるけれど、金で相手の時間を買っているだけで愛を買えるわけではない。あるいはロマンス詐欺で金持ちの外国人と結婚できると思ったら偽の投資アプリに誘導されて金を盗まれたという話ばかりである。女性の上方婚志向はずっと変わらないけれど、男性が低収入化して現実社会にロマンスが少なくなって、そのぶんフィクションの男女格差がある世界での上方婚のロマンスを求めているのかもしれない。●ロマンスと似て非なるものの台頭アイドルオタクや推し活は異性への関心はあるけれど、ロマンスとは性質が違うものである。オタクは相手を自分のものとして所有しようとする。知識やグッズを集めるのもコスプレしてキャラクターになりきるのも所有の形態で、何かすごいものと同化することで、自分もすごいものになろうとする。オタク的な恋愛はフィクションのキャラクター相手には通用しても、人格がある生身の人間には通用しなくて、大金を払ったのにアイドルが自分のものにならないからといって襲撃する人もいる。『転生したらスライムだった件』や『OVERLORD』とかの異世界で国作りする話も世界を自分のものにして自分と同化させようとするオタク的なコンテンツで、支配者には対等の相手がいないので恋愛をしない。愛は存在の投影であるという存在論的な見方でいうと、オタクの愛は一方的に自己を投影するだけで、相手が自分を愛するかどうかを考慮していない。アラブやインドとかの父権主義の社会では男性が女性を所有物として扱うので愛のない結婚も成立するけれど、日本はもう父権主義ではないので女性の意思を無視した結婚はできない。一方で推し活は誰かを応援して頑張っている姿を見ることで感情移入して満足するので、相手が恋愛対象である必要はない。それゆえにアイドルはアーティストとして完成している必要はなくて、育てがいがあるような未熟で世間知らずな若者がプロデュースされている。推し活は子育ての代替のような行為ともいえて、自分より優れた才能や容姿を持った人に対して自分が育てたのだと一種の優越感を持つことができるわけで、これも対等の恋愛とは違っている。あるいはリストカットして生きていることを実感したがる人のように自己犠牲を充足と勘違いして、無理をしてでも誰かを推すことで自分を肯定しようとしているのかもしれない。恋愛なら価値観の違いで拒絶されることはあっても、推し活で相手から拒絶されることはあまりないので、恋愛でないからこそ成立する関係性といえる。オタクや推し活が恋愛ではない趣味の活動と自覚して、それとは別にパートナーを見つけるための行動をしていれば問題ないのだけれど、自覚がない場合は実際に会ったことがないアイドルやVTuberとかに一方的に親しみを感じるパラソーシャル現象が起きて、のめり込んでいくほど実際に会って自分の事を知って理解してくれる他人が少なくなって、恋愛の成就や結婚からは遠ざかって少子化につながる。●AIの出会いへの影響出生率が低い東京都ではAIを使ったマッチングシステムで価値観が合う相手を紹介している。これ自体はそれなりに役に立つのだろうけれど、他の面ではAIは人との出会いを減らす要因になる。例えば昔は男性は女性に愚痴を聞いてもらって慰めてもらうためにクラブやスナックに行っていたけれど、最近は生成AIが話し相手になるようになって、AIに恋をして自殺する人まで現れるようになった。生成AIが出現する以前も二次元キャラクターに恋をして「俺の嫁」扱いするオタクがいたけれど、生成AIの登場によって理想の外見と中身の両方が揃うようになって、現実世界の女性に蔑まれている男性の女性離れを助長してしまう。オタクでない人にも悪影響を及ぼしかねない。大抵の人は中学や高校で最初に付き合った人とそのまま結婚するわけではなくて、いろいろな人との出会いや別れの中で自分と一緒に生きていけそうなパートナーを見つける。ところがみんながAIを相談相手にすると思考や価値観が生成AIの一般的で無難な応答に寄って行って長期的に見て個性がなくなって、AIの絵より不細工でAIの応答より気が利かなくて刺激がなくて魅力が乏しい人だらけになって、自分にとって特別な存在となるロマンスを感じるようなパートナーがいなくなっていく。誰と結婚してもたいして変わらないのであれば、相手がフリーなうちに一生懸命口説く必然性もなくなるので、結婚適齢期に婚活よりも仕事を優先したりして晩婚化や少子化につながりかねない。AIが出現する以前の人たちは人間は不完全な存在だと知っているけれど、これからAIと会話して育つAIネイティブ世代が不機嫌になったりわがままや悪口を言ったり嘘をついたり老いたりする人間の欠点も含めて誰かの存在を肯定してパートナーとして愛せるのかという問題になる。●生存か繁栄か生存は繁栄より優先するのが生物の真理で、いくら天敵がいない生物でも繁殖しまくって餌を狩りつくしたら食べるものがなくなって子孫を残せなくなって絶滅する。それゆえに食欲や性欲とかにブレーキがかかるように生物の脳が進化してきた。知能がないウイルスも宿主を全滅させてしまったら存在できなくなるので、いくら致死率が高いウイルスでも致死率100%ということはなくて、宿主を変えて増殖と変異を繰り返して存在が消えないようにしている。バクテリアは周囲の資源が乏しくなると代謝活動を低下させて増殖しなくなる。人類も生存のために行動している。特定のパートナーを持たずに性欲任せにとっかえひっかえしてやりまくるほうが子供の数自体は増えるけれど、人類は未熟な状態で子供が生まれるので、親がつきっきりで世話をしないと子供が死んでしまうし、子供が早死にするのでは子孫が残しにくくてエネルギー効率が悪い。それゆえに愛情ホルモンとかを分泌させて特定の相手に執着して守ろうとする仕組み(恋)が進化の過程で出来上がったのだろう。そんで3年くらいして乳児がある程度育ってくる頃に愛情が冷めてきて、また別の相手とくっつくようになる。狩猟採集生活をしていたころは周囲で手に入る食べ物の量に合わせて出生数を管理して、人口が増えすぎないように調節してきた。ところが農業をするようになって定住するようになって国家ができると、権力者が繁栄を求めるようになる。人手が多いほど土地を開拓できるので出生数が増えて、勢力を拡大していけばいずれ周辺の国と領土争いが起きて、戦争で土地を奪ったり、奴隷を労働力として使ったりするようになって、1万年の間に世界各地で国家の勃興と滅亡を繰り返してきた。現代はようやく武力による領土拡大や奴隷制度が禁止されたけれど、資本主義では資本家の繁栄のために労働者からの搾取を合法化したので、ある程度発展した国は少子化になる傾向があって、国家や民族の存続が脅かされつつある。これは際限なく利益を求める株主資本主義の問題と言えて、短期的な利益を追求した結果として長期的に見て国は少子化で衰退していくという矛盾した状態になっている。日本ではバブルの頃の若者はロマンスの全盛でモテるためにファッションや車に大金を使っていたのに、バブルが崩壊したら大企業の一時の繁栄のために就職氷河期世代を労働力としてこき使ったので、若者は低賃金で生きるだけで精一杯でロマンスどころでなくなった。自民党は根本的な原因である新自由主義を反省しないどころか推進してきたくせに、選挙前になっていまさら就職氷河期世代の支援を言い出すのは就職氷河期世代を馬鹿にしていると思う。手取りが増えなくて結婚できない根本原因を解決せずにちょこっと給付金を配るのも意味がない。バブル崩壊と不良債権処理だけならたいした問題ではなかったのに、なぜ30年もデフレ不況が続いたのかといえば、そもそも間違った財政破綻論に基づいた消費税の導入と単年度のPB黒字化を目指した緊縮財政が元凶である。石破が日本の財政はギリシャより悪いと発言したように、自民党の幹部議員はデフレが長引いた原因も実質賃金が増えない原因も少子化が深刻化している原因も何も理解していない。減税の財源を求めること自体が「減税」の意味を理解していなくてナンセンスで、減税したら信用がなくなると言うのは馬鹿かあるいは嘘をついて国民を騙そうとする悪人である。石破が言う地方創生も口先だけで具体的な政策が何もなくて、首都機能移転や地方への投資や開発をするわけでもないので地方は今までどおり若者が都会に出稼ぎに行って少子化が進んで行くだろう。馬鹿の頭を良くすることはできないし、政治的利権にまみれた悪人を善人に変えることはできないので、政策を変えたかったら選挙で与党の現職以外の候補者に投票して馬鹿と悪人を落選させるしかない。次の参院選でも自民党と公明党の議員が減らないなら更なる増税で少子化が加速するので、少子化を大きな問題だと思う人は自民党と公明党以外の候補者に投票すると良いよ。
2025.06.10
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私はあまり音楽の勉強はしていなかったのだけれど、エデュアルト・ハンスリックという19世紀末の音楽批評家がワグナーやリストのオペラとかの歌がついているロマン主義の標題音楽を否定して、器楽曲が純粋な音楽である主張して形式主義(フォルマリズム)を展開して、「音楽は鳴り響きつつ流動する形式である」と定義したというのを小耳にはさんだので、形式について考えることにした。●形式とは何か形式とは物事が存在するときに表に現れている形や、物事を行うときの一定のやり方を意味する。生物は遺伝子という設計図によって形が作られていて、植物の葉や花の形は一定の法則で成長して一定の形になるし、自由意思がない昆虫は光や温度とかの周囲の環境に反応して一定のやり方で行動する。自由意思がある人間が作る様々なものも形式があって、ハンマーやハサミとかの道具は何かの目的があって作られるので目的を達成するのに適した形式になる。工業製品はモデルごとに設計図が違っていて形が違う。家にも〇〇造りとかの形式があって、屋根の形式だけでも切妻屋根や片流れ屋根や方形屋根とかいろいろある。役所の手続きや裁判とかは法律で形式が定められて一定のやり方で行われる。スポーツやゲームはルールが形式になっていて、プレイヤーの裁量がある部分で身体能力や技術力や判断力を競って勝ち負けを決めていて、裁量部分が少なくて運の要素が大きいのはスポーツでなくギャンブルになる。食事の食べ方にはコース、アラカルト、ブッフェ、おまかせ、立ち食いとかの形式があるし、料理にも揚げ、焼き、蒸し、煮込み、鍋、生、ジュース、発酵、漬け、ムース、冷凍とかの調理方法の形式がある。良い形式は共通のマナーとされて、形式を外れると行儀が悪いと批判される。こうした様々なものの形式の違いが総合的な文化の違いになって、国ごとにいろいろな形式がある。●芸術の形式音楽、絵画、文学は相互に影響を与え合っていて、どこかでなんとか主義が出てくると他の分野も変化していくけれど、形式の考察に関しては音楽が先に発展したようである。西洋音楽にはソナタや舞曲や行進曲とかの目的に合わせた構成の形式があって、長調や短調や旋律や終止形とかのパターンがあった。それからジャズでアドリブでコードを展開するようになった。シンセサイザーやミキサーやサンプラーとかの電子楽器が作られたら同じリズムパターンを繰り返すハウスやテクノが作られた。リズムパターンに即興のラップを載せる形式のヒップホップが出てきて、高い楽器を買って長時間の練習をやらなくても済むようになったことで貧困層でも音楽を表現できるようになってラッパーが増えて、ポップミュージックにもラップの形式が取り入れられるようになった。EDMではビルドアップして盛り上げてからドロップするという形式をとっていて、ハウスよりもメリハリがあってドラマチックな展開がわかりやすいので人気になった。西洋絵画は宗教画を中心に発展してきたものの、カトリックが腐敗して人文主義やルネサンスが起きて徐々にキリスト教の影響力が衰えて風景画が描かれるようになって、近代になってリアリズムを否定する抽象画が出てきて絵が色や形に還元されていって、ダリがシュルレアリスムで物の形をぐにゃっと崩したり、ピカソがキュビズムで多面的な人を描いたり、マティスがフォービズムで描写を簡略化して人を抽象化した色と形で描いたりして、絵を構成するモチーフの形が変化していった。美術は二次元から三次元に発展して芸術作品が単に部屋を飾る装飾品でなくなって作家性が強くなって、インスタレーションで観客と相互作用する形で作品を展示したり、芸術家自身がライブペインティングで制作の様子を見せるパフォーマンスをしたりして、絵画とは違う形式で表現するようになった。漫画やアニメは初期はリアル寄りの劇画調だったのが、表情がわかりやすくてかわいく見えるように目が大きくて鼻が小さくデフォルメされた人間が標準的な表現形式になった。建築ではヨーロッパではレンガが中心で窓が小さい形式だったけれど、建材に鉄筋コンクリートが使われるようになってデザインの自由度が増したらドイツで建築の機能性に美術的な要素を取り入れたバウハウスが出てきて、壁がなくて窓が広くて開放感があるようなシンプルでモダンな感じの形の建物ができた。映画は初期の無声映画(活動写真)の時は活動弁士が映画の内容を説明する形式をとっていたけれど、音声がつくようになったら活動弁士が不要になって、CG合成ができるようになったらアクション映画で実際にセットを爆発させたり危険なスタントをさせたりする必要がなくなったりして、撮影機材や撮影技術の進歩とともに表現形式も変わっている。演劇だとスーパー歌舞伎が3S(スピード、スペクタクル、ストーリー)を重視して伝統的な歌舞伎よりも派手なストーリーや演出の形式をとってエンタメ性を強めて差別化している。●文学の形式文学では詩には形式があったけれど、その形式の良し悪しとかの美学の考察には発展していない。20世紀にシュルレアリスムのアンドレ・ブルトンが自動筆記とかの手法を試したけれど、意味が分からない言葉の羅列では読者は感動しようがないので、文学は標題的にならざるを得ないということで音楽や絵画とは違う道をたどる。そんで波乱万丈のロマン主義小説や格調高い古典の否定として出てきたのが自然主義小説で、人間を誇張したり美化したりせずに書くのが純粋な文学だということで自然主義小説が日本の純文学の主流になった。明治時代の初期の自然主義小説はまだドキュメンタリーみたいに当時の人の生き方や考え方を後世に残す意義があったし、言文一致したばかりの口語体での文章を普及させたという意義もあったけれど、大正時代の自然主義小説は現代でいうインフルエンサーみたいなことをやりだしてカフェやバーで遊びまわってネタ作りしてその様子を描くようになって、思想の深化や技術の洗練や独自性もなんもないので次第に自然主義小説は廃れていった。そんでポストモダン小説でSFやファンタジーっぽい変なことをやったりして迷走して、今では何が「純」なのかという本質が忘れ去られて純文学雑誌に掲載されたら純文学だという大雑把なくくりで芸術性が乏しいエンタメみたいなリアリティがないものも純文学扱いされる有様になってしまって純文学は表現形式の特徴を失って劣化してしまった。別にリアリズムだけが文学の評価基準というわけではないのでリアリティがないこと自体が悪いわけでもないけれど、シュールリアリズムやマジックリアリズムやアンチネオレアリスモとかのリアリズムに代替する形式がないままリアルでない小説を書くのでは単に下手なだけに見えるし、リアリズムの手法や面白さは確立されているのだから代替する形式がないなら素直にリアリズムで小説を書けばいいじゃんと思う。どういう表現形式をとるにせよ、作者が人間の実存を観察する姿勢が根底にないのでは読者も共感して感動できないのでたいして価値がある作品にならないし、美大生が遠近法や明暗法で物の形を正確にデッサンできるようになってから独自の表現を追求するように、実存を観察するにはまずリアリズムを基礎にするのがよい。文芸批評ではロシア・フォルマリズムや構造主義とかの文学理論が出てきたけれど、小説を細切れに分析して解体したところで人を感動させる小説を書けるようにはならないよということであまり創作手法には反映されていない。だからといってフォルマリズムに意味がないというわけではなくて、音楽一家出身のミラン・クンデラが小説に音楽的構成を取り入れて構成の美しさを目指したように、形式が創作の要点になりうる。文学理論は創作理論というよりたいてい批評理論で、直接創作に役に立つわけではないけれど、それでも理論を知らないよりは知っておく方がよい。停滞している純文学を再興するには、かつて音楽や絵画と相互に影響し合ったように、他の分野の形式に目を向けるやり方もあると思う。例えば協奏曲のカデンツァでソリストが即興で演奏するように小説で主人公が長めの自己主張をする場面を入れるとか、ミニマルミュージックで音のパターン反復するように同じフレーズや描写を何度も繰り返して強調するとかの構成の工夫もありうる。音楽のマッシュアップみたいに小説Aの登場人物と小説Bの舞台を組み合わせたセルフパロディーをしたらネタ切れしにくそうである。ビジュアル系純文学として美男美女のグループを主人公にして純文学的なテーマを書くようなやり方も外連味があって面白いかもしれない。スーパー歌舞伎に倣ってスーパー純文学として派手な比喩をわんさか使ってズンドコと畳みかけるように物語を展開したら従来の地味で暗くてもっさりした純文学と差別化できて面白いかもしれない。ライブ創作として掌編小説を書く様子を動画で撮影して公開するような美術的なプロモーション手法もできるだろうし、印象的なセリフを抜き出して詩的な動画にする音楽のMV的なプロモーション手法もできるだろう。文学作品の品質管理に製造業の品質コストの評価形式を取り入れて、出版社側が出版したら後は知らねという態度を取らずに、内部失敗コストとして出版前にフィードバックして一定の水準になるまで書き直させるとか、出版後に作者が聞きたくないような読者の不満や厳しい批評も外部失敗コストとして作者にフィードバックするとかして、出版ビジネス自体の改善をしたら作品の品質も上がるだろう。小説を書くときにカスケード制御のフィードバックループの形式を取り入れて、主人公(マスター)が破天荒な行動をしても脇役(スレーブ)が修正してストーリーの破綻を防ぐようなやり方もできるかもしれないし、そしたらロマン主義的な波乱万丈な展開を昔の作家よりもうまく書けるようになってシン・ロマン主義的な形式ができるかもしれない。というわけで、世界には様々な形式があるし、どの分野もいろいろ工夫の余地はあると思うので、様々な形式を観察していろいろな形式を試してみるとよいと思う。
2025.05.24
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最近は中国人観光客が日本で桜の枝によじ登って枝を揺らして折ったり、写真を撮るために枝を折ったりしているようである。というわけで花について考えることにした。●花とは何か花とは種子植物の生殖器官で、たいていおしべとめしべがあって、受粉すると実がなって種ができる仕組みになっている。花が咲くには温度とかの条件があって、春に咲く花は多いけれど冬に咲く花は少ない。花を咲かせるのには栄養がいるけれど、まず葉のほうに栄養が行くのでつぼみができてからすぐ花が咲くわけではなくてタイムラグがある。そんでたいていの植物は耐寒性がなくて冬に枯れたり、葉が落ちたり、日照が少なくなって光合成が減って冬眠モードに入って水やりがいらなくなったりするし、たいていの昆虫も越冬できなくて死んだり、冬は卵や幼虫の状態で越冬していたり、ミツバチは気温が下がると巣ごもりして受粉を手伝わなくなったりするので、冬は花が咲くのには向いていない。そんで冬が終わって温かくなってくると植物が活動モードになってつぼみに栄養が行って花が咲いて昆虫が花粉を集めたりして受粉して、花が散ったら新芽が出てきてまた葉のほうに栄養が行って、葉が大きくなって光合成して実に栄養が行って種ができて分布を広げるというサイクルになっているようである。サガリバナや月下美人のように夜に花が咲いて蛾やコウモリとかの夜行性の動物に受粉させて朝には花がしぼむ植物もある。バラとかの観賞用の花は咲き終わった花をそのままにしておくと綺麗に咲かなくなるので、剪定して花に十分な栄養がいくようにする必要があって、手間をかけて育てられている。●桜の枝を折ってはいけない梅と桜は似たような花が咲くけれど、梅は2月頃に咲くのに対して桜は3-4月頃の卒業式や入学式の節目に咲くので、桜のほうが日本を代表する花として人気があって、桜をテーマにした歌も多い。公園や街路樹の桜は自然に生えたものではなくて植樹されていて、病気や害虫に弱くても人が手入れしてきたからこそきれいな花を咲かせるわけで、いわば病弱だけど皆に応援されて頑張っている花界の清純派アイドルのようなものである。「徒然草」に「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の公衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ」とあるように、桜の花が散る様子をもののあわれとしてとらえるのが日本ならではの鑑賞の仕方である。野生の猿でさえむやみに桜の枝を折ったりしないのに、猿より知能があるはずの中国人が意図的に美しいものを壊して喜んでいるのだから、よけいに無教養な無粋さが際立つ。桜の花を派手に散らそうとして枝を揺さぶって折ったり花見で酔って騒いでごみを散らかしたりする人たちはそもそも美を理解していないので花見をしても時間の無駄である。そもそも中国人は同胞の中国人でさえ人間扱いしていなくて臓器移植のために児童を誘拐したり有害な偽食品を販売したりしている有様だから、桜を傷つけるなと注意したところで理解できないだろう。しかし華道で花を切ったり花束を作ったりする行為自体は日本人もやる。生け花で花を切るのはよくて中国人観光客が桜の枝を折るのはなぜだめなのか、どちらも植物を傷つけているのにどこに違いがあるのかと考えると、根底に植物の美しさへのリスペクトがあるかどうかが大きな違いといえる。華道は自然のままでも美しい花をより美しく見せるために配置を考えて飾り付けるけれど、中国人観光客は自分を飾るために美しい桜を利用する。共産主義の中国人は植物をただの物体として扱って自然への畏敬の念がないので、「花を愛でる」という感覚を持つ日本人からしたら花を雑に扱うことにイラっとするのだろう。●花と文化花は色も形も様々で、自然の中では色鮮やかなので、昔から人目を引いて栽培されて利用されてきた。花の鑑賞としてはガーデニングとして四季折々の花を楽しんだり、花畑を観光地にしたり、生け花とかで花を花瓶に入れて部屋に飾って観賞したりする。植物の派手な生殖器を鑑賞したり匂いを嗅いだりするのはとらえようによっては変な文化で、ポリコレが極まった未来の世界では植物虐待の変態行為として禁止されるのかもしれない。農業だとマリーゴールドとかの虫よけの効果がある植物がコンパニオンプランツとして畑に植えらている。紅花のような色の濃い花は染料として使えたので産業用としても利用されてきた。花柄は華やかな文様として家紋や衣類や壁紙や包み紙などにも取り入れられて、特に女性向けの衣類や小物ではよく使われている。ドレスのフリルも花びらを模したものだろうし、アクセサリーとしてコサージュやブートニアのような花飾りをつけたりもする。女子はシロツメクサとかで花冠を作ったりする。花粉症でマスクをする人が多いのも文化といえるかもしれない。花の匂いにはリラックス効果もあるので、ローズティーのように花を乾燥させてお茶にして飲んだり、花を蒸留して香油や香水や化粧水として使ったりもする。食用としては日本では黄色や紫の食用菊を刺身に添えたり小鉢に入れたりして彩を加えている。ブロッコリーも花のつぼみが食用になっている。エディブルフラワーは高級レストランの創作料理とかで使われたりしているようである。一般的に花を食べるよりも葉っぱを食べる方が収穫量が多くて農業の効率がよいので、視覚的な効果を気にしない人ならわざわざ花を食べるものでもない。人参の飾り切りやアイスで花を模したりするように、食材として花を使うよりも花の形だけを真似るほうが一般的である。花は贈り物としてもよく使われて、表彰式や送別会とかのセレモニーで花束を渡したり、母の日にカーネーションを贈ったり、店の開店祝いに花を贈ったりする。ハワイでは歓迎や祝福の時にレイという花の首飾りを贈る。演劇の舞台で客席を突っ切るような作りになっている通路を花道というけれど、そこで役者に祝儀の花束を渡したのが名前の由来だそうな。菊や牡丹や百合や蘭や薔薇は豪奢な花を咲かせるので贈答用だけでなくガーデニング用にも人気がある。故人を飾るのにも花が使われて、葬式を花で飾ったり棺桶に花を入れたり墓に花を添えたりする。神棚には榊以外の植物を飾らないのに墓には花を飾るのは何なのかと考えると、花の色で悲しみを紛らわせたり花の匂いで死臭をまぎらせたりする意図もあるのかもしれない。蓮は仏教を象徴する花になっていて、しばしば仏像は蓮の花の上に座っている形になっている。ブッダの誕生日の4月8日の灌仏会は「花まつり」とも呼ばれていて、ルンビニーの花園で生まれたこととか桜の季節だからとか由来には諸説あるそうな。女性の人名にも花の名前が使われることがあって、桜、梅、菊、百合、菫、葵、蘭とかの2-3文字の花が名前に使いやすいようである。茄子や葱や里芋とかの野菜も花を咲かせるけれど、野菜は花よりも葉や実とかの食べる部分の印象が強いせいか人名にはなりにくいようである。花は花びらの数や形が数学的に均整がとれていて、フィボナッチ数列やバラ曲線とかの数学的なテーマにもなる。小学校では夏休みに朝顔や鳳仙花を栽培させて観察する宿題が出たりするし、校庭にチューリップやヒマワリとかの子供が好きそうな植物が植えられていたりするし、押し花を作ったりするので、子供のころから花と親しむ環境がある。●花とビジネス日本は南北に長くて雨量が多いので、いろいろな気候条件で多品種の花を育てることができるのがビジネスとしての強みになっていて、令和3年の国内消費は1.1兆円(個人消費8813億円、業務用2491億円)で、令和4年の花き輸出額は91億円で植木や盆栽の74億円よりも多い。切り花は鑑賞期限が短いし、一年草は一年で枯れてしまうので、定期的に花を買うリピーターが多いのだろう。花き市場では輸出体制が整っていて、アジアへは3-5日、アメリカやヨーロッパへは5-7日で輸出できるようで、リーファーコンテナとかで花を冷やして品質保持をして輸出しているようである。日本固有の花が人気というわけでもなさそうで、ダリアとかの豪奢な外国の花を高品質で栽培できるので外国に需要があるようである。花屋は華やかなイメージと違って重い鉢を移動させたりする重労働が多くて手荒れもして、八百屋と違って鉢に水やりとかをしてこまめに商品の管理もしないといけなくて大変である。しかし冠婚葬祭での個人消費の需要があるし卒業式・入学式シーズンの花束需要やお盆用の仏花需要とかの繁盛期が毎年あるのでビジネスとしては安定しているようで、街角の小さい花屋が長く営業を続けていたりする。植物園や花畑を観光地にするのもビジネスといえるけれど、数百円の入園料を取ったところでたかがしれているし、無料の集客の手段にして他の商品やサービスで収益を上げるようなやり方のほうがよさそうである。花畑でのセルフィーで満足できない層に向けてプロのカメラマンが映える記念写真を撮るとか、花畑の借景がきれいなカフェを作るとか、何かしら花を有効活用したビジネスができそうな気がする。他に何か花をビジネスにできないかと考えてみると、最近はアイドルがメンバーカラーというのを設定してグループ内で特徴を差別化しているけれど、メンバーカラーの代わりにメンバーフラワーという花のイメージを決めれば物販で推しメンの花を売るビジネスができると思うので、採用するアイドルがいたら私にアイデア料を払うと良いよ。あとホストクラブが酒の代わりに花束を注文するシステムになって花束を抱えてフゥワフゥワするようになればもっと健全になって王子様っぽくなるかもしれない。採用するホストクラブがあったら私にアイデア料を払うと良いよ。●花と芸術華道やフローリストの表現手段として花が使われて、花の飾り方で芸術性の違いが出る。ニコライ・バーグマンが箱に花をぎっしり詰めた『フラワーボックス』は、花束が一般的だったフラワーギフト界に新しいフラワーギフトの形を提示して人気になったようである。花は詩のモチーフになりやすくて、花の名前は和歌の季語になっている。小説だと美しい人物の比喩としてしばしば花が使われるし、花が咲いたり散ったりする様子を人生の比喩として象徴主義的に使うこともあるし、「花を売る」が売春の比喩になったりもする。花言葉はあまり実用的な意味はないけれど、フィクションなら象徴や暗示として使える。絵画だとゴッホの『ひまわり』やモネの『睡蓮』のように絵の主題になることもある。少女漫画で登場人物の背景をゴージャスな感じにする演出にも花が使われるけれど、恋愛がテーマの場合は植物の生殖器で飾り立てて性的な雰囲気をむんむんさせるのは正しい演出の仕方と言えるのかもしれない。植物の派手な生殖器を装飾的演出に使うのが許容されるのなら、マンドリルの派手な尻を装飾的に使うのもよいような気がする。音楽では『チューリップ』のように童謡としてなじみがある。クラシックだとゲーテの詩にシューベルトが曲をつけた『野ばら』やリヒナーの『勿忘草』とかがある。ラトビアの民謡を基にした『百万本のバラ』も有名である。日本のポップスだと桜がテーマになりやすくて、森山直太朗の『さくら』みたいなしんみりした感じの卒業ソングも多いし、『千本桜』みたいなかっこいい感じの曲もある。せっかくいろいろな種類の花があるのだから、桜ばかりテーマにしないでもっといろいろな曲を作ればいいのにと思う。「百万本のショクダイオオコンニャクの花をーあなたにあなたにあなたにあーげーるー」とかだったらすごい嫌な歌になって面白そうである。アニメだと花が擬人化されて、花のところに顔がついて喋ったりする。しかし木の場合は幹に顔がついていることが多い。たぶん花の茎は細すぎて顔を書き込めないという技術的な理由なんだろうと思う。●花と私私の父は植木が好きで庭にいろいろな木や盆栽があるので、私は男子のわりには花に親しんできた。特に実家のアベリアの生垣が好きで、くまばちがぶんぶんと蜜を集めているのをよく見かけた。私は藤の花も好きで、上杉神社の藤みたいに和風の建物のそばに紫の藤の花があると風情があってよい。藤の花があるところに行くとくまばちがぶんぶんと蜜を集めているのをよく見かけた。私とくまばちは好みが合うようなので、私はくまばちも好きである。もしミニロトが当たったら田舎の中古の家を買ってアベリアと藤を植えてくまばちの楽園を作ろうと思う。
2025.05.09
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最近は高校授業料の無償化について石垣市議会が外国人学校も対象とする制度の見直しを要望して政府に意見書を提出したそうな。教育は国の維持や発展にかかわる重大な問題なので、これについて考えることにした。●無償化とは何か無料と支出について考えるという記事でも考えたけれど、無償化と言っても実質的に無料になるわけではない。教師の給料を払わずに強制労働させることはできないので、生徒(の親)が払っていた授業料を国民全員が負担することになる。無償化というより公費化と呼ぶ方が実態に合っている。高校の授業料の無償化では就学支援金の所得制限がなくなって一律11万8800円が支給されるけれど、その財源はどこからくるかというと、財政均衡主義で税を財源ととらえれば住民税の増加とかで直接負担することになるし、国債を財源ととらえればインフレ率の増加とかで間接的に負担することになる。これから子育てをする人の負担は減ることになるけれど、子供がいない人や既に子育てを終えた人に対して他人の子供の教育費を負担させることが正当化されうるのかが問題になる。図書館や公園は公費で整備して国民全員が費用を負担しているけれど子供から老人まで誰でも無条件で使えて費用の負担者と受益者が一致しているので公費で無償にすることを正当化できるけれど、義務教育以降の教育は誰でも受けられるわけではなくて無償化の費用負担者と受益者が一致しない。公立高校や国公立大学の費用は公費で賄っていて、高等教育の質を保つために教師を公務員として雇って公費で校舎を整備するのはわかるけれど、生徒の授業料は教育の質とは関係ないのに公費で負担するのはどうなのという話になる。それに無償化することでサービスの質が悪くなることもあるので、無償だから得するとも限らない。小学校の給食費の無償化は2026年度に実現して中学校へも拡充する予定だけれど、無償化の弊害がわかりやすく出ていて、弁当持参なら親が子供の体格や嗜好に合わせて量や味を調節できるけれど、給食費を無償化して公費で負担するようになったら議会で年間の予算が決まっているので材料費や光熱費が値上がりしても予算を増やせなくて、契約している給食業者は予算内に収めるために給食の量を減らしたり食材の質を下げたりして対応するしかなくなって、給食の量が少なすぎて食育云々以前に栄養がちゃんととれていないという本末転倒な状況になって、倒産する給食業者も出ていて児童も給食業者も不幸になっている。授業料の無償化で私立に進学しやすくなると、お洒落な制服があったり設備が整っていたりする私立のほうが人気になって公立が定員割れして公教育が非効率になるかもしれないし、その一方で営利目的の私立への入学を公金で補助するのは公金の使い方としてはおかしい。●高校の無償化の是非私は高校の無償化には反対である。公費として支出する以上は納得できる公平性が必要だけれど、義務教育の中学校までならまだしも高校への進学は義務ではないし、貧乏で結婚できなくて子供がいない人や既に子育てを終えた人が他人の子供の教育費を強制的に負担させられる筋合いはない。私は外国人や外国人学校を無償化の対象にするのにも反対である。授業料を無償化するにしても生徒がいずれ日本の発展に寄与するものとして日本人全員が費用を負担するのだから、日本に一時的に滞在しているだけでいずれ母国に帰る予定の外国人の教育費用を日本人が負担する筋合いはない。例えばインターナショナルスクールに通う外国人の授業料を無償化したら、インフレや通貨高で生活費が高い国から生活費が安い日本にやってきて卒業したらすぐ母国に帰るみたいな日本の発展に寄与しないフリーライドができてしまう。あるいは日本を仮想敵国として反日教育をしている国が運営するフリースクールの外国人生徒に対して日本人が教育費を出してやるのはナンセンスである。維新の会を中心にして高校の無償化をやりたがっているけれど、国を良くするための政策というより、無償だから得すると思って短絡的に賛成するような層から支持を得るための選挙目的の政策なんじゃないかと思う。●大学の無償化の是非本来は大学は学生を集めるために良い講師を集めてカリキュラムや設備を充実させる必要があるけれど、大学の授業料が無償化されると教育の質が悪くてもとにかく学生の数さえ集めてしまえば入学金で儲けることができるようになってしまう。例えば今後少子化で大学が定員割れするようになると、大量に外国人留学生を入学させて授業料を貰ったあとで学生が授業にでないまま退学しようが失踪しようが知ったこっちゃないというモラルハザードにつながる可能性がある。2001年には酒田短期大学が学生を集めるために定員以上の中国人留学生を入学させて留学生が不法就労していたのが発覚してその後に廃校したけれど、無償化したら同様のことが起きうるし、出稼ぎ目的の外国人が滞在資格を得るための踏み台にされかねない。あるいは生徒が学割目当てに無償でFラン大学に入学して授業に出ないで学割でお特に買い物するやり方の制度のハックもありうる。学生は大学に安くないお金を払うからこそ在籍中にちゃんと勉強しようというモチベーションになるし、卒業後の進路でどれだけリターンを得られるかという将来をちゃんと考えるようになる。単位が足りなくて1年留年したら学費が何十万も余計にかかるとなったら、損しないようにまじめに授業に出るようになる。もし留年しても無料で最長8年在籍できるとなったら単位を落とせないという緊張感がなくなって、勉強もおろそかになりかねない。それにMOOCや公開市民講座が既にあってある程度の無料の講義を受けられるし、知識を得るだけなら図書館で本を読んで学べるのだから、公金を使って大学を無償化する必然性はないと思うので、私は大学の無償化には反対である。全員の学費を無償化するのでなく、給付型奨学金の拡充とかで優秀な人の経済的負担を減らすのがよいだろう。あるいは自衛官か予備自衛官や警察官になることを条件にして防衛大学や国立大学を無償化するとかのほうが政策として効果的だと思う。●大学院の無償化の是非私は高度人材を育成するなら大学院こそ無償化するべきだと思う。大学の授業料を無償化してあまり頭が良くない大勢の人が定員割れして入学しやすくなった大学に行くようになっても研究者として頭角を現してイノベーションを起こしたりするわけではないので公金の使い方としては投資効率が悪いし、それよりは大学で好成績を収めて大学院に行く少数の優秀な人を集中して支援する方が投資効率が良いだろう。「「欧米の大学院で給料をもらっていない理系の学生は一人もいない」。日本で博士学生が減るのが当然な理由」という記事によると、アメリカやヨーロッパの大学院だと修士課程に入ると修士でも博士でも国から給料をもらえる場合が多いそうな。日本だとアルバイトして学費を払って無給で教授の研究の下働きをさせられていて、その後のポスドクの雇用も不安定で、金銭面がボトルネックになって研究に専念できない環境になっている。iPS細胞でノーベル賞を受賞した山中教授の研究チームの雇用でさえ不安定なのは問題で、優秀な教授だけいればいいというわけではなくて優秀な助手も含めて研究をサポートしないと、新しい発見や発明をしたところで後発の外国が大金をつぎ込んで人材を引き抜かれたら追い抜かれてしまいかねないし、それだと日本で頑張って研究したところで先行者メリットがなくなってしまう。基礎研究はすぐに新しい成果や利益につながる成果が出るわけではないので、そういう利益が出にくくて民間がやらない重要な研究こそ国費で支援することが長期的に国力を増やして豊かで幸福な国を作ることにつながると思う。
2025.04.28
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最近はアメリカのトランプ大統領が関税を上げまくって、メキシコとカナダ以外に10%の追加関税をかけたうえに一部の国に上乗せの関税をかけて、世界経済への悪影響が不安視されてダウも日経も大暴落したらトランプが報復をしなかった国への関税は90日停止すると言い出して株価がリバウンド大暴騰したりしているので、関税について考えることにした。●関税とは何か関税とは外国から貨物を輸入する人が納税する義務がある税金である。「関」という漢字が関所や出入口を意味するように、もともとは関所で人や物の出入りを調べて金を払わせていた。鎌倉時代の関所が関銭という通行料を取って寺や神社の建設費用に充てていたそうな。そんで外国と取引をするようになったら、武器や麻薬やテロリストへの援助物資や生態系を乱す動植物とかの輸入してはいけないものもあるし、市場原理に任せて安いものを無制限に輸入したら国内の産業を潰されてしまうので、日本は明治時代に開国したあとにイギリスやアメリカと通商航海条約を締結して関税自主権を回復して輸入貨物や宛先をチェックして関税を取るようになった。貿易の際にどのタイミングで貨物の所有権が輸出者から輸入者に移転するのかはFCAやCIPとかの契約の仕方によって違うけれど、いずれにせよ輸入した人が貨物の所有者なので、輸入した人が関税を払う必要があるわけである。例えばトランプが中国に対して関税率を上げても中国の輸出企業から金をもらえるわけではなくて、アメリカに輸入した企業や消費者がアメリカに対して関税を払うことになる。そうすると商品代金自体は安くても関税がかかるぶん消費者が払う金額は高くなるので、中国製品の価格優位性がなくなって中国製品の売り上げを減らすことができる。中国が台湾を国家として承認する国への嫌がらせで輸入を禁止したように、正当な理由なしに一方的に輸入を禁止すると世界貿易機関(WTO)に提訴されて制裁されることもあるけれど、関税は主権国家として自由に決められるので、好ましくない製品を流通しにくくさせるという点では関税をかけるのは効果的である。関税以外の政策で貿易を制限するものは非関税障壁と呼ばれる。例えば輸入割当制で国ごとの輸入量を規制したり、輸出に補助金を出して有利にしようとしたり、政府調達で安全保障上国産の製品やサービスしか使わないとかが非関税障壁になる。日本の消費税は名目上は社会保障費のために導入されたけれど実質的には輸出企業に輸出還付税をあげて輸出を促進するための税なので、トランプは非関税障壁とみなしているようである。●関税を上げることの問題・輸入した原料や部品のコストが増えるスマホとか服とかのそれ以上加工しない最終製品に関税をかける場合は国内産業の保護ができるけれど、原料や部品にまで関税をかける場合は国内の産業にも問題が起きる。例えば中国産の原料や部品の輸入に高い関税をかけると、アメリカ国内に工場があっても関税の分だけ原材料費が高くなって、コストがかかるぶんだけ商品価格も上がって輸出する際に不利になるし、国内で売るにしても値上がりしたら売上減少につながる。部品工場とかの大手企業の下請けが関税で原材料費が上がった分を価格転嫁できなければ国内の製造業の保護になるどころかかえって負担になって弱体化させることになりかねない。スウェーデンのボルボのアメリカ法人は製造コスト上昇と需要減を見越してトラックや部品を製造している工場の550-800人をリストラするそうな。・報復に関税を上げられるアメリカが中国への関税を34%に上げたことへの報復で中国もアメリカへの関税を34%に上げると言ったら、アメリカはさらに104%に関税を上げて、中国も50%追加して84%まで関税を上げて、アメリカはさら145%に上げて、中国も125%に上げるそうな。どこかの国からの輸入に対して関税を上げて国内産業の優位を得ようとしても、報復に関税を上げられるとその国への輸出が不利になるので、高い関税で国内産業を保護して輸出で自国だけ儲けようと思ってもうまくいかない。アメリカが1930年に世界恐慌への対策として国内産業を保護するためにスムート・ホーリー関税法で関税を上げたときには報復関税で輸出が半分以下に落ち込んで逆に世界恐慌を悪化させることになった。織田信長が関所を撤廃して楽市楽座で税をなくして安土城下に商人を集めて農民の税負担も軽くして領内を発展させたように、税が少ないほうが産業は活性化する。アメリカは安全保障にかかわる食料やエネルギーや武器を自給できるのでトランプは強気の姿勢がとれるのだろうし、中国との取引がなくなっても構わないのだろう。日本だとそもそも食料やエネルギーが自給出来ないので材料を全部国内で調達できる産業はほとんどなくて、自給自足のイメージがある農業でさえ種や肥料や農薬を輸入しているし、飲食店は外国産の安い食材を使っているし、さらに外国産の安い食品の輸入コストも上がったら食料品価格が全体的に値上がりして家計を圧迫することになる。日本だと貿易協定とかで関税を安くすることはあっても関税を上げるデメリットが大きいので報復関税はやらないだろう。・輸出入のリスクが増える輸出入の手続きは複雑である。原材料ごとに細かく税率が決まっているし、国によっても税率が違うし、リスト規制やキャッチオール規制とかで輸出入が禁止されているものもあって輸出入の申告書を税関に提出して許可を貰う必要があって、取引相手国の法律や税率を調べてから商談をしないといけない。取引先の外国企業の与信調査もしないといけないし、売買契約をして輸入代金を払うにしてもいきなり海外送金できないので銀行と相談してコルレス銀行経由で売り手の銀行口座に振り込む必要があるし、契約時から振込時までに為替が大きく変動したら為替差損のリスクもある。コンテナの荷揚げ・荷下ろしや船や飛行機での配送の手配や貨物への保険の手配もしないといけなくて、膨大な手間がかかっている。大手メーカーなら自社に輸出入や法務の部署があるけれど、中小企業が自社で輸出入の手続きをするのは手間がかかりすぎたり取引している銀行が海外送金に対応していなかったりするので、メーカーと買い手の商談を仲介する商社や通関手続きの代行をする通関業者がある。突然コロコロ関税を変えられたら売値や利益率も変わるので商談のやり直しになったり、書類を作り直したり、取引が中止されたりするし、そうなると輸出入を仲介している商社はキャッシュコンバージョンサイクルが長くなって資金繰りのリスクが増える。・密輸が増える関税を高くするほど合法的に輸入する企業が競争で不利になって、違法に密輸して関税を払わない企業が有利になるので、反社会的勢力が資金源を得やすくなって勢力を拡大してしまう。日本は島国のおかげで空港か港を経由しないと輸入できないので密輸しにくいけれど、アメリカは不法移民を介して麻薬を密輸できるし、さらに密輸の手段としてテクノロジーを駆使されてドローンや暗号資産を使われたら取り締まれないんじゃなかろうか。すでにクリップスやブラッズやフロレンシア13とかのストリートギャングが麻薬の売買をしていてフロリダ州でハリケーンの後に海岸に大量のコカインが漂着しているし、さらに移民のギャングもいてベネズエラのギャングのトレン・デ・アラグアが勢力を拡大していて、トランプが238人をCECOT(セコット)というエルサルバドルのテロリスト監禁センターに移送したけれどそれが全員ではないだろうし、すでに推定70万人のベネズエラ移民が不法入国したようなので不法移民の中にギャングも大勢いるだろう。アメリカは不法入国も麻薬も人身売買も取り締まりきれてなくて犯罪だらけなのに密輸を防げるとは思えないし、いくら関税を高くしたところで密輸を防げないのでは意味がないので、関税よりも不法移民やギャングの対策が先である。・産地を変更して関税を安くできてしまうイタリア産のトマトの缶詰として売られているものはたいてい原材料のトマトが中国産で、イタリアの工場で加工して輸出しているけれど、どの国で缶詰にしようが味が変わるわけではないので実質は中国産である。イタリア産の服も中国人移民がトスカーナ州プラートに縫製工場を買収して中国の安い生地を縫製工場に送って中国人移民が縫製しているので実質的に中国産のものがある。実質的に同じ商品でも国によって関税が違うので、外国で加工したほうが関税が安くなったりブランドイメージが良くなったりして競争力があると企業が判断したら直接輸出せずに迂回した輸出ができてしまう。普通の企業は工場の従業員は現地で雇うけれど、中国企業は中国人移民を連れてくるので雇用に寄与しない問題もある。・産業の保護の仕方によっては競争力がなくなる安全保障に関わるものは保護する必要があるだろうけれど、嗜好品は市場原理に任せる方がよい商品が出てくる。例えば日本では牛肉の輸入自由化のときに平凡な零細畜産業者は潰れただろうけれど、その代わりに和牛ブランドを作って肉質等級を決めて高級化した畜産業者は世界的なブランドとして競争力を持った。・消費者の選択肢が減る国産を買えばGDPが増えるから国産を買うべきだと言う政治家の理屈はわかるけれど、消費者にとってはどこが原産国だろうが欲しい商品が手に入るほうがよい。富裕層は関税を気にせずにヨーロッパの高級ブランドとかの欲しいものを買うし、中産階級は国産の粗悪品よりも輸入の高性能な商品のほうがQOLが上がるので外国人は故障しにくくて燃費がよいトヨタ車を買うし、貧困層は発展途上国の服や食品や家電が値上がりすると家計が苦しくなるので貧困層が一番不利益を被る。アメリカに工場ができて貧困層が雇用されて所得が上がれば不利益はなくなるけれど、工場ができるまでに時間がかかるし、新しい工場ほどオートメーション化して人手がいらなくなるので工場で雇われるとも限らない。●トランプの関税政策はうまくいかないと思うトランプの言い分を端的に言うと、貿易赤字は悪だ、アメリカで商売したかったらアメリカに直接投資しろ、アメリカに工場と雇用を作れ、アメリカ人はアメリカ産の製品を買え、外国人はアメリカ産の製品を輸入しろ、外国を金づるにしてアメリカの製造業が復活するぞ、またアメリカが偉大な国になるぞ、笑いが止まらんわはははははは、ということなのだろうけれど、そううまくいかないだろう。既にトヨタやホンダがアメリカの工場で生産していて雇用を生んでいるにもかかわらずアメリカ人が日本車を買っていることに文句を言っているし、日本製鉄がUSスチールを買収(=アメリカへの直接投資)して現地の雇用を維持しようとしているのに「USスチールは日本に渡ってほしくない」と口出しして越権的に潰そうとするし、言動に一貫性がなくて外資が儲けるのが気に入らなくて難癖をつけてくる国に直接投資するのはリスクが大きい。アメリカは巨額訴訟が多いしポリコレ判事の理不尽な判決や人種的偏見に基づいた冤罪も多いので、法務部門が弱い企業がアメリカに進出すると合法的に身ぐるみはがされることになりかねない。外国に工場を作るにしてもどこにでも作れるわけではなくて、水が豊富で、電力が安くて停電が起きにくくて、災害が少なくて、道路や港や空港とかのインフラが整っていてスケジュール通りに部品調達や輸出できて、労働者が科学的教育を受けていて機械を操作できて、労働者が勤勉で時間通りに勤務して工場の稼働率を上げて、人件費が安くて、通貨が安くて、内戦やテロとかの政情不安がなくて、官僚や政治家が賄賂を要求しなくて法律が守られている国が向いている。じゃあアメリカはどうかというと、西部の地下水が50年で枯渇すると予想されていて水不足の懸念があって干ばつが起きてカリフォルニア州では節水が義務化されているし、インフレで原材料費も人件費も高いし、関税がかかるぶん部品調達のコストがかさむし、ドルも高いので輸出には不利だし、大統領が暗殺されそうになったりBLMとかの大規模な暴動が起きたりして政情不安もあるし、アメリカで売る分をアメリカで生産するならまだしも世界に輸出する生産拠点にはしにくい環境である。特にアジア向けに太平洋航路で輸出する場合は東海岸側から輸出するとパナマ運河の通行料がかかるので西海岸側から輸出する方がよいけれど、西海岸側に工場を作ろうにも水不足がネックになりそうである。アメリカのヘッジファンドマネージャーのRay Dalioは「60% of the U.S. population has below a 6th grade reading level. It's tough to be productive(アメリカ人の6割は読解力は小学6年生レベルだから生産力をつけるのはむずい)」と言っていて、現場でのカイゼンが出来なさそうである。Fortuneの「Americans want more U.S. factory jobs─as long as they don't have to work them」という記事だと、もっと多くの人が工場で働いたらアメリカは良くなると考える人が80%いる一方で、自分が工場で働く方がいいと考える人は25%しかいなくて別に工場労働者になりたがっているわけでもなさそうで、アメリカに工場を作ったところで労働者を集められるのかも疑問である。ホームレスや囚人を工場で働かせたりしないと低賃金の工場労働者は集められないんじゃなかろうか。トランプは日本人がアメリカ車を買わないことに文句を言っているけれど、じゃあアメリカの自動車メーカーが日本向けの車を作ってきたのかというと作ってない。アメリカ人はピックアップトラックでスーパーで二週間分の食品の買い出しをしたり冬にクリスマスツリーを買って荷台に積んだりするけれど日本では加工品より生鮮食品を好んでこまめに買い物に行くので中途半端に荷台が広い車の需要がないし、アメリカには西部に乾燥地帯があってオープンカーで快適に走れるのとは違って日本では雨が多くて電線に止まった鳥の糞や街路樹の毛虫も落ちてくるのでオープンカーの需要もないし、アメリカでは舗装されていない荒野が多いので悪路を走れるジープやSUVの開発が得意だけれど日本では基本的に舗装された道路以外は走らなくてアウトドア趣味の人や雪国の人にしかジープやSUVの需要がなくて雪国の人は駐車場は広くても収入が低いので外車は買えないし、通勤用のセダンなら上司の車よりも高い外車に乗ると生意気に思われるので日本車でいいじゃんとなるし、商用のバンやトラックなら故障しやすい外車を買う理由がなくて整備工場での修理や部品の取り寄せがしやすい日本車でいいじゃんとなるし、低収入の人は維持費が安い軽自動車でいいじゃんとなるし、車好きの金持ち用のクーペならGMのシボレー・カマロやシボレー・コルベットやフォードのマスタングが選択肢に入るかもしれないけれど他にもポルシェとかの人気の外車の選択肢が多いし、高齢者は免許を返納して車に乗らなくなるし、若者は車離れをしているので、アメリカ車はほとんどの日本人の選択肢にならないだろう。日本で普通に生活したら車の専門家でなくても日本ではアメリカ車が売れないのがわかる。車以外の乗り物はどうかというと、アメリカかぶれの小金持ちの中高年が趣味でハーレーダビッドソンのバイクを買う人は少なからずいるけれど、これは大型バイクといっても車よりは小さいしハンドルの左右の違いの影響がないからアメリカ車より買いやすいのだろう。アメリカの肥満の人が買い物に使っている電動カートは公道を走れるようにしたら日本の高齢者の免許返納後の移動手段として需要があるかもしれないけれど、そういうマーケティングをしているようでもない。セグウェイも画期的な乗り物として登場したけれど公道を走れないままいつの間にか話題にならなくなって、ループが日常の足として定着したのでもうセグウェイが普段使いの選択肢になる余地はないだろう。要するにアメリカ企業が日本向けのマーケティングをしていなくてアメリカ車に需要や魅力がないから売れないだけで、関税をかけてアメリカで日本車を売れにくくする嫌がらせはできても日本でアメリカ車が売れるようにはならない。車は庶民にとっては家の次に高い買い物なので車を輸出したがるのはわかるけれど、トランプが武器やiPhoneやSNSやスタバやコストコとかの既に日本で売れているアメリカの製品やサービスに目を向けずに小型で燃費がよくて故障しにくい日本車が普及している日本に対して大きくて燃費が悪くて故障しやすいアメリカ車を売ろうとするあたりはビジネスセンスがないし、関税を上げることに関してマスクが反対するのも現役経営者のマスクのほうが企業への影響を理解しているからだろう。●トランプ関税への対抗策・コンテンツや体験を売る物を売る産業は物理的に物を移動させる必要があるので関税の影響を受けるけれど、精神的充足を売るコンテンツ産業はインターネット経由で世界中で商売できる。日本のアニメやゲームを通じて日本に興味を持つ外国人が多くて、それがインバウンドにもつながってアニメの舞台になった場所に行く人が増えて、SNSで紹介された食べ物や商品とかがアニメに興味がない人にも伝わって、間接的に日本製品の輸出も増える。ドリフトする文化は日本の峠の走り屋が発祥で福島のエビスサーキットでスポーツ化したけれど、これはドリフトを観客に見せるショーの体験を売っている。それで外国でもドリフト人気が広まって、車好きの外国人は大黒埠頭に改造車を見に来たりエビスサーキットでドリフトしたりするし、アラブの金持ちは1970年代頃から暇つぶしに日本車でドリフトしまくっている。走り屋仕様の日本車の海外での人気は『ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT』とかの世界で人気があるコンテンツの影響もあるだろう。移動手段として車を買う人は車種にはあまりこだわりがないだろうけれど、日本車で格好良くドリフトする体験をしたい人は関税で高くなろうが日本車を買わないといけない。・代替品がないものを売る最近はフジクラが新しい技術で細径高密度型スロットレス光ファイバーケーブルを作っていて、生成AIのデータセンターで大量のケーブルが必要でGAFAMのデータセンターにフジクラの光ファイバーケーブルが採用されたことで売り上げも増えて、株価も急上昇して2020年は300円割れだったのが2025年には20倍以上の7500円になった。従来の光ファイバーケーブルは曲げると中の石英ガラスが折れてしまうし太いので取り回しが難しいけれど、フジクラの光ファイバーケーブルは細くてある程度曲げられるようで、この高性能なケーブルを作れるのはいまのところフジクラだけのようで、データセンターを有効活用しようと思ったら関税でちょっと割高になってもフジクラのケーブルを使わざるをえないだろう。一点ものの美術品や珍しい模様の錦鯉や枝ぶりがいい盆栽とかもそれが欲しいと思う人にとっては代わりのものではあまり満足できないので、関税で価格が上がっても需要はある。・アメリカや中国に頼らない全部の企業が代替品がない商品を売れるわけではないし、アメリカに新規に工場を作るほどの資金力があるわけではないので、関税が上がったらアメリカに輸出している分の売り上げは減るだろうし、中国に工場がある企業は特に影響が大きくなる。しかしアメリカや中国のようなならず者国家から距離を取って生産拠点を移転したり他の販路を開拓したりするよい機会ともいえる。世界中でサプライチェーンの再編が行われて中国から他の賃金が安い発展途上国に工場が移転するだろうし、発展途上国が発展すればそこに新しい消費が生まれる。スズキが早い段階でインドに投資してインドでトップシェアになったように、人口が多くてこれから成長する国に投資して互恵関係を作るほうが長期的に見たらメリットがあるのじゃないかと思う。
2025.04.15
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私は何かを考えてブログを書くのが習慣になっているけれど、そういえば習慣について考えていなかったような気がするので、徒然なるままに習慣について考えることにした。●習慣とは何か習慣とは、長い間繰り返し行ううちにそうするのがきまりのようになったことや、その国やその地方の人々のあいだで普通に行われる物事のやり方である。普通でない行動を繰り返して習慣になったものは癖という。脳はなるべくエネルギーを節約しようとして、いったん習慣化したことはあまり意識せずに行うようになる。例えば歯を磨くときに今日はどの歯をどの歯ブラシで磨こうかと気にする人はいないだろうし、たいていルーティーンで同じやり方で歯を磨く。ケンブリッジ大学のバーバラ・サハキアン教授の研究によると、人間は1日に最大で3万5000回の決断をしているそうな。それで決断疲れをする人が多いので、スティーブ・ジョブズが同じ服を着たりするように、重要でない行動を習慣化して些事に煩わされないようにする人もいる。●様々な習慣・幸福と習慣たいていの人は幸福になることを目的にして生きていると言っても過言ではないけれど、実際に幸福になれる人は多いとは言えない。犯罪がない国は世界のどこにもなくて犯罪者や犯罪被害者の数だけ不幸な人がいる。犯罪まで至らなくても人間関係の不和はそこかしこにある。しかしこの種の不幸は自分の行動次第で変えられるものである。アリストテレスの二コマコス倫理学では良いエトス(習慣)を形成することで良いエートス(性格、人柄)になると言っていて、それが幸福の条件だと言っている。仏教でも似たようなことを言っていて、テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老は「心は癖で行動する」という記事で良い習慣をつけると幸福になると言っている。禅寺では掃除や食事とかの日々の修行を通じて仏弟子に良い習慣を身につけさせる。日ごろから善行をしている人が酔って暴れても悪人とは言えないけれど、日ごろから誰かを貶めたり金を奪ったりしてやろうと考えることが習慣になっている人は悪人と言える。少年院や刑務所は法的には矯正施設という扱いなので、犯罪をした人に良い習慣を身につけさせるために生活を管理して、規則正しく寝起きさせて、一定時間仕事や運動をさせて、ルールに従わせて矯正を目指している。それでも矯正しきれなくて出所後に再犯する人は少なからずいる。詐欺とかの経済犯罪で大金を奪ったことを成功体験ととらえてしまうと、悪事を考えることが習慣になってしまって再犯するようになってしまう。酒やドラッグで脳をいじって一時的に幸福な感じになる人もいるけれど、それは幸福の前借りみたいなもので後で反動が来て脳が委縮したりして回復に時間がかかるので、酒やドラッグを習慣にしてしまうと後々不幸になる。・子育てと習慣小児科医の成田奈緒子は子育てには順序があって、5歳くらいまでにまず視床下部や脳幹とかの食べたり寝たり自律神経をコントロールしたりして生きるための機能がある「からだの脳」を育てて、それから6-14歳頃は勉強やスポーツなどの大脳新皮質の「おりこうさんの脳」を育てて、10-18歳頃は社会で幸せになるための前頭葉の「こころの脳」を育てるのがよいと『子育てを変えれば脳が変わる』という本で言っている。日本だと早期教育がもてはやされてきたけれど、早期教育には賛否両論があって、1970年代のドイツの調査だと早期教育をする幼稚園に通っていた子供たちは小学校1年では成績が良くても小学校4年生で逆転されてしまうそうな。子供をバイリンガルにしようとして幼児期から英語を教えて、日本語でも英語でも深い思考ができなくなるセミリンガルになって教育に失敗するケースもある。というわけで幼児期の子育ては学校での教育と違ってただ知識を詰め込んで学力を伸ばせばいいというものではなくて、毎朝自分で起きたりして自律する習慣を子供のうちに身につけさせたりして生きるために必要不可欠な能力を育てる事のほうが重要といえるだろう。〇〇キャンセル界隈みたいに風呂に入らなかったり料理や掃除ができなかったりする人たちは、子供の頃に自律する習慣を身に着けてこなかったので、大人になって実家を出て自立するようになっても自律できなくて生活に支障が出ているのだと思う。・躾と習慣躾はどこにでも持ち歩ける一生ものの財産になるので、金持ちほど躾の重要性を理解していて子供をちゃんと躾けて、偉い人と会っても恥ずかしくないように挨拶や食事のマナーを教える。貧乏人ほど躾の有用性を理解していないので、躾を受けていないDQNが親になると子供がスーパーマーケットやフードコートとかで走り回っていても注意せずに放置したりして、非常識な行動が習慣化してDQNが再生産される。マナーは場数を踏まないと身に付かないので、大事な会食の前に付け焼き刃でマナーを覚えるのでなくて、普段から背筋を正して姿勢を良くしたり、服をちゃんと着こなしたり、魚の骨を綺麗に取ったりして美しい所作を習慣にする必要がある。石破の服装や外交の態度や食事のマナーとかがいろいろ批判されているように、自分が恥を書くだけならまだしも、椅子に座ったまま握手したりして無自覚に無礼な態度をとって相手を怒らせたら実害もでるので、出世するつもりの人ほどマナーを身に付ける必要がある。・健康と習慣糖尿病が生活習慣病と呼ばれるようになったように、一日だけ羽目を外して暴飲暴食したところで胃もたれしたりする程度で病気にはならないけれど、習慣として毎日大量に飲食をしたら肥満や高血圧になって内臓や血管の病気の原因になる。運動する習慣がない人は骨や筋肉や血管が老化しやすくなる。姿勢が悪い状態で座ったり歩いたりするのが習慣になっている人は骨格や関節に負荷がかかって徐々にゆがんでいって猫背やO脚や外反母趾とかになる。毎食後にちゃんと歯磨きをする習慣がない人は虫歯や歯周病になりやすくなる。若い頃からの紫外線対策やスキンケアとかの習慣がある人とない人では中高年になった時に肌の老化の具合も違ってくる。スポーツを習慣にしているとテニス肘とかのスポーツ特有の病気になるし、楽器演奏を習慣にしていると指に負荷がかかって腱鞘炎になったり鼓膜を酷使して難聴になったりする。太っている人が過度な食事制限をしてダイエットに成功しても、過度な食事制限は一時的には我慢できても不満がたまって習慣として続かないし、目標を達成したことに満足してしまって痩せたからちょっとくらい食べてもいいやと生活習慣を基に戻すとリバウンドしてまた太りだすので、一時的に体重を〇キロにすることを目標にせずに、健康的な生活習慣を身に付けることを目標にする方がリバウンドしにくくなって長期的に見たらダイエットに成功する。こうして書き出してみると、健康管理には日々の習慣が大事なのがわかる。健康状態が悪化するとQOLが下がったり寿命が短くなったりするので、病気になりにくて老化しにくい生活習慣をつけることが人生で大事といえる。・仕事と習慣たいていの人はどこかの会社に就職して何かの仕事をしないと生計を立てられないので、出社して仕事をするのが人生の大部分を占める習慣になる。しかし自分の習慣に会社の習慣に合うとは限らなくて、自分の習慣を変えざるを得なくなることがストレスになる。例えば自分は疲れやすいから一日4時間労働で週休3日でたっぷり休息をとる生活習慣が適していると思っても、その条件に合って生計を立てられるほどの給料を出してくれる会社は見つけにくくて、無理をして働かざるを得ないかもしれない。あるいは同僚が悪口ばかり言っていて同調しないと仲間外れにされるような会社だと、悪口を言わない良い人間になろうとしても難しいだろうし、他人の行動を変えるのはなおさら難しい。そういう場合は他の会社に転職したり生活費が安い田舎に引っ越したりして環境を変えて、自分が幸福になれる生活習慣を取り戻す必要がある。・勉強と習慣日本人は子供の頃は勉強するのに大人になると勉強しなくなるとよく言われる。パーソル総合研究所の「グローバル就業実態・成長意識調査」の18か国の比較だと、読書や研修や資格取得のための勉強や語学学習とかの社外学習や自己啓発を何もしないビジネスパーソンの割合が日本人は52.6%でトップで、2位のオーストラリアの28.6%や世界平均の18%と大差がついていて、今後自己投資する予定がない人も日本は42%で2位のイギリスの19.2%の倍以上で、統計ではっきり裏付けが出ているくらい日本人は勉強しない。これはそもそも学校教育に問題があって、知的好奇心とかの非認知能力を育てる教育をせずに大学入試で高い点を取ることに最適化した認知能力重視の教育をしているので、大学を卒業して学校で勉強する習慣がなくなったら利益につながらない勉強を時間の無駄ととらえてそれ以上勉強しなくなるのだと思う。そんで上の調査だと日本人は管理職になりたい人の割合や転職・独立したい人の割合も低くて、上昇志向が低い。日本はいったん正社員として雇用されると解雇されにくいし、資格を取ったところで資格手当が月に数千円増える程度で労力の割りに収入が増えるわけでもなかったり会社によっては資格取得費用が自費だったりして本業についての勉強をするより副業でアルバイトでもする方が収入が増えるので、勉強しないことのデメリットが少ない一方で勉強することのメリットも少ないので勉強しないのだろう。業種や会社によっては人手不足で超過勤務が常態化して勉強する時間も気力もないのかもしれない。知識を得るだけならインターネットで検索したら一般的な答えが出てくるしAIが要約するけれど、誰でもすぐに手に入れられる知識を増やしたところで差別化にはならない。それにある程度の知識の量がないと深い思考ができないし、新しい発見も生まれない。20代だとたいていの人は似たような勉強をしているので知識の差はあまりないけれど、高校や大学を卒業後に何かのトピックに興味を持って継続的に勉強する習慣があるかどうかが中高年になったときに大きな差になる。・スキルと習慣他人にできなくて自分だけができることを身に付けるための確実な方法は時間をかけることである。毎日コツコツ技術を向上させる練習をする習慣がある人だけが習得に時間がかかるスキルを身に付けることができる。例えば習得に時間がかかる特殊なスキルを身につけたら他人が真似しようと思ってもすぐには真似できなくて競合がいないので、しばらくは仕事を得やすくなるし、他人にスキルを教えることを仕事にすることもできる。・創作と習慣芸術だと天啓のようにビビビと創作意欲が湧くようなイメージがあるけれど、やる気は待っていても出てくるものでなくて、やり始めてから5-10分で作業興奮が起きてやる気が出てくるものである。だもんで創作も創作意欲が出てから取り組むのでなくて、少しずつ構想を練って下準備をして作業に取り掛かって長期的に取り組む必要がある。しばしば将棋の棋士が散歩中に将棋のことを考えて道を間違えたり電車を乗り過ごしたりすると言われるけれど、創作も同じで、普段から創作のことを考える習慣がない人がパソコンの前に座ったとたんに良いアイデアをひらめくことはないし、普段から少しずつ作品の完成に向けて取り組んでいないと作品は完成しない。なろう小説は未完のまま中断する作者が多いけれど、たぶん創作が習慣になっていないのである程度書いたらアイデアが枯れてしまって、苦労して作品を完成させる気がなくなってしまうのだろう。未完の作品は「永遠に鋭意制作中」を皮肉ってエターナる、エタると呼ばれる。創作を習慣化するにしても同じ行動を繰り返していたら同じアウトプットしか出てこないので、少しずつコンフォートゾーンを抜けて新しい挑戦をしていく必要がある。少しの逸脱を日々積み重ねることで、人の行く裏に道あり花の山とでもいうような他の人が到達しなかった独自の作風にたどり着く。傑作はある日突然作られるわけではなくて、そこに至るまでに日々試行錯誤を積み重ねる習慣がある。・事故と習慣事故が起きる前にはヒヤリハットと呼ばれるようなぎりぎり事故にならない危ない事が何度か起きているけれど、その原因を改善しないままでいるといずれ大きな事故が起きてしまう。例えば車を運転するときに面倒くさがってちゃんと周囲を確認しない習慣の人は発進時に車のそばにいる人を轢く可能性が高くなるし、酒を飲んで寝る習慣がある運転手は起きてもアルコールが抜けていなくて事故を起こす可能性が高くなる。歩行者もスマホを見ながらふらふら歩く習慣の人は注意が散漫になって事故にあいやすくなる。釣りや登山とかのアウトドアでは危険な場所に行く習慣がある人ほど事故にあう確率が高くなるので、出かける前の装備の点検や天気予報の確認とかの事故のリスクを減らす習慣を身に付ける必要がある。・依存と習慣自分の意思で習慣をやめられない場合は依存という。地下鉄サリン事件から30年でオウム真理教の特集していたけれど、信者たちは麻原彰晃が何でも答えてくれるので傾倒したそうな。信者たちは教祖の言う通りにやれば幸福になれるのだと思って自分で意思決定することをやめて依存したわけである。ストレス発散のために酒や薬物に依存して生活が破綻する人もいる。洗脳を解いたり薬物依存をなくしたりするには、依存できない環境にある程度の期間隔離して違う習慣を身につけさせる必要がある。・商売と習慣企業は1回限りの取引をやってもあまり儲からなくて事業の継続性がなくて設備や人材への投資が無駄になるので、顧客満足度を高めて常連客に何度も商品を買ってもらって顧客生涯価値(Life Time Value、LTV)を高める必要がある。飲食店みたいに商品に販売期限があって在庫を抱えられない商売では客が通勤時や休日に店に寄るのが習慣の一部になるかどうかが残る店と消える店の違いになって、駅や繁華街から遠かったりして立地が悪くて習慣的に立ち寄るのが面倒くさい場所に家賃が安いからといって出店してもすぐに潰れる。タピオカミルクティーは客が1回買ってインスタに写真を載せたら満足してしまって習慣的に購入するには至らなくて、ブームに便乗して出店した店はほとんど消えていって食文化として定着しなかった。ラーメン店も潰れる店が多くて、背油やにんにくとかで味を濃くすれば1回食べるぶんにはおいしく感じても、味が濃い分健康に悪いし、飽きやすいし、高齢になると胃が弱ってきて脂っこいものを食べられなくなって習慣的に食べる人が減ってしまうし、強面の黒シャツ腕組み店主が独自ルールを強制する店は居心地が悪くて何度も行きたくならないので、おいしいラーメンを作ることは比較的簡単にできても特定の店でラーメンを食べる習慣を作るのは難しいといえる。外食でのラーメンの支出額の都道府県ランキングだと山形市が一番多いけれど、山形のラーメンはオーソドックスなあっさりした醤油味の中華そばが中心なのでものすごくおいしいというわけでもないし単価が高いわけでもないけれど、頻繁に食べても飽きにくくて、黒シャツの店主が腕組みして睨んでいなくて子供から老人まで気軽に店に入れて、外食でラーメンを食べるのが習慣になっているので結果的に年間の支出額が多くなっているのだろう。観光地だとイタリアの飲食店みたいに外国人観光客はリピーターにならないしどうせ訴えないからと舐めてかかって1回の取引の利益を最大化しようとしてぼったくるところもあるけれど、ぼったくりの悪評が広まって観光地としての価値が下がってリピーターどころか新規の観光客まで来なくなって、外国人観光客が減ったらツアーや直行便とかも減ってアクセスしにくくなってさらに観光客が減る悪循環になるので、短期的に儲けたつもりになっても長期的に見たら損をしている。観光客個人の習慣としてとらえず、日本人が年末年始にハワイに行くのが定番なように〇〇人が〇〇国に旅行する習慣としてとらえて、長期休暇でリゾートに観光に行く習慣を維持しないと観光地はさびれていく。バブルが崩壊して企業が非正規雇用を増やして社員旅行の習慣がなくなったら日本各地の団体客向けの温泉旅館もさびれていって、旅館はリフォームして部屋数を減らしてそのぶん豪華にして顧客満足度を高めて客単価を増やす高級路線にシフトしたように、VUCA時代は外部の習慣の変化にも対応してビジネスモデルを変える必要がある。・地方創生と習慣しばしば地方創生が失敗するのは、田舎者の政治家がおらの村にもショッピングモールや体育館や遊園地がほしいだわさと立派な箱物を立てることだけに夢中になって、地元民がその施設を利用する習慣を作ろうとしていないからかもしれない。需要以上に立派な施設を作ったところで客数が少なくて稼働率が落ちるし、活気がなくてつまらない印象になってますます人を呼ばなくなる。スポーツや趣味とかの何かをやる習慣がある人たちがボトムアップでこういう施設を作ってくれと陳情して作る場合なら無駄にならないだろう。・娯楽と習慣かつてテレビは昼は家にいる主婦や老人向けにファミリードラマや時代劇を放送して、子供が家に帰る夕方にアニメを放送して、夕食の家族団らんの時間帯にバラエティ番組を放送して、子供が寝た頃に大人向けの恋愛や殺人のドラマや映画を放送して、深夜に夜更かしする若者向けの音楽番組を放送して、視聴者の生活習慣に合った番組作りをしてきたので視聴率が高かった。ところが核家族化して個々人がばらばらの生活習慣を持ってスマホやパソコンで好きなコンテンツを消費するようになると、テレビを持たない人が増えて居間で家族でテレビを見る習慣自体がなくなりつつある。その一方でYouTuberたちは毎日同じ時間帯に規則的に動画を投稿していて、個々の動画の質がどうであれ暇なユーザーが毎日新着動画を見る習慣をつけさせたことで登録者数を増やしていった。いったん習慣になると時間の無駄だからもう見なくていいやと踏ん切りがつくまではずっと動画を見るようになるので、くだらない動画でもそれなりに再生数がある。小説や漫画とかの雑誌は本と違って1回だけ売れたところで雑誌が存続できないので、人気作品を連載して続きが気になるようにして読者に毎号読む習慣を持ってもらおうとしている。音楽だと日本人が洋楽離れして洋楽を聞く習慣がなくなりつつあるので、ユニバーサルミュージックがUM English Lab.というプロジェクトで洋楽を使った英語教育を推進して洋楽を聞く習慣を取り戻そうとしている。ゲームではログインボーナスを配布したりデイリークエストを設定したりしてユーザーに毎日ログインさせる習慣をつけさせて離脱を防ごうとする。ただしボーナスやクエストに変化をつけないとかえって飽きるのが早くなるかもしれない。●まとめ日々の習慣が幸福や健康や仕事に大事だと言えるので、漫然と日々を過ごすのでなくて、なるべく悪い習慣をなくして、良い習慣を身に付けるとよいよ。
2025.04.01
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最近はふわっちという配信サイトで活動している女性がライブ配信中に殺害される事件が起きた。被害者は「バイト先に財布を忘れて手持ちがない」とかの理由で消費者金融での金の借り方まで指南して度々容疑者に金の無心をしながらフィアンセと旅行したりして豪奢な生活をアピールする一方で、容疑者は家賃3万円のところに住んで貯金を取り崩しただけでなくて消費者金融に借金して総額250万円を貸しても返済されなくて、貸金返還請求訴訟で勝訴しても相変わらず返済されなくて生活できないから1万円だけでも返してほしいというDMも無視されて、怒って殺害に至ったようである。この事件以外にも借金が原因の殺人事件は度々起きているので、借金について考えることにした。●借金とは何か借金とは金を借りることで、借りた金に利息をつけて返す必要がある。個人の借金は貸す側や借りる側にいろいろ制限があって、事業として継続的に貸金業をするには国か都道府県知事への登録が必要で、貸金業法では総量規制があって借り入れ残高が個人の年収の1/3を超える場合は新規の借り入れができなくて、金利は借入金額に応じて15-20%の上限がある。事業ではない個人間の借金でも利息をつけるのは違法ではないけれど、利息制限法を超える利息は禁止されている。企業の資金調達だと借入や社債発行などのデットファイナンス、自社ビルとかの不動産を担保にしたアセットファイナンス、新株発行によるエクイティファイナンスがあるけれど、零細企業だと担保になるほどの資産がないし無名の会社が社債を発行しても買う人がいないので、銀行からの融資やビジネスローンによる借入が主な資金調達方法になる。法人へのビジネスローンは総量規制の対象にならないので、上限なしに借りることができる。日本で銀行ができたのは明治時代だけれど貸金業はそれ以前に存在していたようで、WEBアステイオンの記事によると、1691年には三井グループの元祖の三井高利が開設した三井大坂両替店があって、顧客から借入の申し込みがあると信用調査をして人柄を調べて、浪費癖や遊び癖がある人には貸付しなかったそうな。●良い借金と悪い借金無料と支出について考えるという記事で考えたけれど、日本人はゼロリスク信仰が強くてリスクが少ない貯蓄をしたがって、リスクがある借金をしたがらない。しかし借金には良い借金もある。投資ではレバレッジをかけるほうが投資効率が良いので、借金の金利以上の利益が出る見込みがある投資のために借金をする場合は貸した側も借りた側も双方が得をするので良い借金と言える。例えば新しい発明をした研究者が1億円かけて設備投資したら3年後に10億円の利益が出る見込みがある場合、何十年も働いて自己資金で1億円貯めてから起業するのでは他社に先に製品化されて先行者利益が出る時期を逃しかねない。その場合は初期費用を借金で調達して事業化を急ぐほうがよいし、金利が低いならなおさら金を借りる方がよい。クレジットカードは全く使わないでいるより、一括払いで普段の買い物や水道光熱費の支払いで使ってちゃんと期日に支払いをすることでクレジットヒストリーを積み重ねいくと、将来車や家とかの高額な買い物をローンで払うときに信用情報の審査に有利になるので良い借金と言える。一括払いなら手数料や金利はかからないし、すぐに払うかあとで口座から引き落とすかの違いでしかないので、口座の残高を把握して余裕をもって使えばデメリットはない。成績がいい高校生が学費がなくて進学できない場合は、奨学金を借りて一流大学に進学して大企業に就職したり、教員とかの大卒でないと資格をとれないような仕事に就職すれば十分返済できるし社会の役にも立つので良い借金と言える。ただし高卒と大卒であまり収入が変わらない仕事に就く場合は若くて収入が少ない時期に奨学金の返済もしないといけなくて生活が大変になるので、就職先の希望がないまま就職率が悪い大学に奨学金を借りてまで進学するのは投資効率が悪い借金の仕方である。ローンで家を建てる時はライフステージに合わせてQOLが上がったり、将来離婚や転勤や介護とかで家を売って引っ越す場合のリセールバリューが維持できる場合は良い借金と言える。リセールバリューが低くなるような個人的な趣味にこだわったデザインをして、高齢になるまでローンの返済を続けないといけなくて住み替えることを想定していないような返済プランを組むのは不動産投資としては筋が悪いやり方である。金利を払えない場合や、返済の見込みがない場合や、計画性がない場合の借金は借りる額が大きいほど返せる可能性が少なくなって、返済を延滞するほど利息が増えて損をするので悪い借金と言える。例えば借金の利息分を返すために他の貸金業者から金を借りて自転車操業をする場合は、元本を返済していないので借金や利息がさらに増えてますます返済が大変になる。借金でギャンブルをしたり、SNSの配信者に投げ銭したり、ホストやホステスに頼まれて売掛で高い酒を注文したり、ソシャゲのアイテムが欲しくてガチャを回したりする場合は一時的な欲を制御できずに計画性なしに借金をしていてダメなパターンである。会社の同僚とご飯を食べに行ったときに財布を忘れたのに気付いて一時的に建て替えてもらったり、貯金がない状態で交通違反をして罰金を払わないといけなくなって借金をしたり、避妊せずにエッチして望まない妊娠をしてしまって中絶費用を借りたりするようなミスに起因する借金は本来はやる必要がない借金で、周囲に迷惑をかけて誰も得をしないので悪い借金といえる。●個人間の金の貸し借りが殺人に至る理由銀行や消費者金融とかのビジネスとして金貸しをやっている人たちは、客が借りた金を返さないからといって相手を殺したりはしないし、客が金を返さなくても損害が小さくて済むようなビジネスモデルになっている。例えば銀行の住宅ローンだと家を担保にすることを条件にして金を貸して、客が金を返せなくなったら代わりに家の権利を手に入れて家を売ることで回収する。事業者への融資では連帯保証人をつけることを条件にして金を貸して、金を貸した社長が夜逃げしても連帯保証人から回収する。消費者金融は担保や保証人がいらなくてすぐに借りれるぶん金利が高くて、少しの客が返済できなくなっても他の大勢の客から利益を得ているし、客もちゃんと返済しないと信用情報に記録されてクレジットカードを持てなくなったり他の金融機関で金を借りにくくなったりするデメリットがあるのでちゃんと返済しようとする。ところが個人間の貸し借りだと、金利で利益を得ることが目的でないので、そのぶん信頼とかの他の見返りを求めるようになって、それが満たされないと恨みに変わる。それに担保も取らないし、口約束で貸して借用書を作らなかったり返済期限を決めなかったりするし、引っ越して電話やメールをブロックして行方をくらましても金融機関の信用情報への悪影響もないので、貸した側が金を回収しにくい。それを見越したうえで消費者金融で金を借りずに知り合いに無心して返済期限を延ばしたり借金を踏み倒そうとしたりする人もいるけれど、少しでも返せば返済するつもりがあったとみなされて詐欺になりにくいので悪意があっても司法が罰しにくい。契約に基づいて利息目的で金を貸し借りするドライな関係よりも利益が目的でないほうがこじれたときが厄介で、返済の約束を無視されると自分を蔑ろにされたという怒りが湧いて殺意に変わる。兄弟姉妹でさえ遺産相続で揉めるのだから、他人と利害が絡むときには揉めて当然である。借りた金を返さずに信用を無くすと、金融機関だと新規の借り入れを断られるだけだけれど、個人間の借金の場合は返さない場合の恨みがずっと残る。発達障害や境界知能で頼まれると断れないタイプの人や、自尊心が低くて頼れれるとうれしくなって無理してでも相手に尽くそうとするタイプの人がいて、そういう人に金を貸してと頼めば貸してくれるとしても、相手の負担になっている。相手が断らないからといって社会的弱者の精神的な弱みに付け込んで生活に必要な命金まで奪おうとしたら、相手からの借金の取り立ての仕方も相応に激しくなる。孤独な弱者から金を奪うと、相手はそれ以上失うものがなくなって逮捕や死刑を恐れない無敵の人になってしまうし、司法が罰しないなら自分で罰しようとしてしまうので、金の問題が恨みの問題に変わると命の危険がある。貸す側と借りる側の収入や金銭感覚が違うと金の重みや信用の重みも違うので、借りる側が感謝するどころかその程度の金くらい貸してくれてもいいだろとか別にすぐに返さなくてもいいだろという横柄な態度でいると人間関係がこじれる。貸す側は返すと言うから信用して金を貸してやったのに返済を無視するなんてひどいやつだと怒ったり、生活を再建するために金を貸してやったのに酒やギャンブルに使われて怒ったりして相手を殺したりする。借りた側が殺人をする場合もあって、生活に苦労しているから金を借りているのに返済を要求するなんてひどい奴だと逆恨みしたり、相手を殺せばもう催促されないで済むと短絡的に考えて貸主を殺したりする。ホストやホステスが親の病気で手術費用が必要だとかで相手への好意や同情に付け込んで嘘をついて借金をした場合は、嘘がばれるとそれまでの相手への愛情が金づるにされたことへの憎しみに変わって刃傷沙汰になる。●個人間の金の貸し借りはしないほうがよい・貸す側(借金を頼まれた場合)の注意そもそも収入がなくて生活費を借りるような人は生活が破綻していたり事業が破綻していたりするので、あとで収入が増えて借りた金を返せるようになる確率が低くてトラブルになりやすい。金を借りたい人はクレジットカードのキャッシングを使ったり消費者金融で借りたりして自己責任で金銭管理をすればいいのに、知人に借金を頼む時点で踏み倒す気満々で、そういう相手に金を貸しても貸す側のメリットがないし、頼めば無利子無期限で貸してくれる相手だとロックオンされたら何度も無心されて次第に金額も大きくなるだろうし、相手が反社会的なサイコパスなら言いなりにできる格下の存在として認定されて金づるにされて保険金をかけられて殺される可能性だってある。金銭的にルーズで金遣いが荒い人は約束を守るとかの他の部分のモラルも低いと思われるので、なるべく関わらないほうがよい。金を貸したら返ってこないものだと思って友情の手切れ金代わりにあげるつもりで金を貸すという寛大な人もいるけれど、どうせ友情が終わるのなら最初から断ればいい。相手が金に困っているからといって同情で金を貸したところで相手の生活が立て直せるわけではなくて、仕事がなくて生活ができないなら素直に生活保護を受けるほうがよいし、事業が赤字で黒字になるめどが立たないならもう事業の継続は無理なのでむやみに借金を増やさずに早めに事業を畳んだり自己破産したりするほうがよい。困っている知人を助けたいなら金を貸さずに生活を再建して自立できるように知恵を貸せばよいし、口出しはいらないから金だけ寄越せというような横柄な態度の人とは縁が切れても別に問題ないだろう。ホストやホステスは客の恋愛感情や同情心を利用して不幸な身の上話で嘘をついて金を借りようとする人がいるけれど、本来サービスの質で金を稼ぐべきところなのにサービス以外で私的に客から金を引き出そうとする奴はプロじゃない。そういうプロ意識が乏しい人に金を貸しても大成しないので、俺がビッグになったら倍にして返すぜとかの言葉を信じて金を貸してはいけない。金持ちの道楽として余ってる金で愛人に店を持たせるとかなら問題ないけれど、貧乏な庶民が水商売のパトロンになろうとしたところで貸した金は恋人とのデートや浪費に使われて金がなくなったら用済みとして縁を切られて借金を踏み倒されることになるだろう。・借りる側の注意急に金が必要になる事情があって知人から借りる場合は、貧乏な人から借りずに殺人をしなさそうな金持ちから借りて、必要最低限の額にして、借用書を残していつまでにいくら返済するかプランを明確にして、暴利を取らずに金を貸してくれた相手に感謝と誠意をもって対応してなるべく早く返済するほうがよい。感謝の言葉を言うだけなら無料なのだから、頼みごとをした場合の最低限の礼儀は持つべきである。上記のふわっちの配信者も横柄な態度をとって借金を踏み倒そうとせずに感謝を伝えて少額でも毎月返済していたら殺されることはなかっただろう。金を借りる相手が金持ちだとしても反社会的勢力と関係があると借金返済のためにタコ部屋や風俗で働くことを強制されたりして望まない仕事をやらざるを得なくなるかもしれないので、相手の仕事や交友関係をちゃんと確認するほうがよい。●借金とフィクションシェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』では金貸しのユダヤ人のシャイロックは冷酷非道な悪者として描かれていて、商人のアントーニオがシャイロックに借りた金を返せなくて裁判で契約通りに肉1ポンドを取られることになったけれど血は契約書に書いていないので肉を取るときに血を流してはいけないというとんちでやりこめるようなオチになっている。これは金貸しを禁止するキリスト教が金貸しを生業にするユダヤ人を蔑視していたという当時の事情が反映されているのだろう。尾崎紅葉の小説『金色夜叉』は主人公は失恋をきっかけにやり手の金貸しになる展開で、イギリスのバーサ・M・クレイの『女より弱きもの』という種本を基にして書かれたせいか、金貸しは冷酷な悪人として扱われている。英語で高利貸しをローンシャークというように、サメのように無慈悲にがぶがぶとローンを取り立てるイメージがある。天王寺大と郷力也の漫画『難波金融伝・ミナミの帝王』は十一の高利で高利貸しを営む男が主人公で、高利貸しだけれど悪人として描かれているわけではなくて約束を守らせてきっちり回収するところが見せ場になっていて、1992年から連載して2025年2月時点で181巻が出版されていてVシネマ化もされて人気シリーズになっている。真鍋昌平の漫画『闇金ウシジマくん』は闇金業者と客の双方の事情を掘り下げて、人間関係のいざこざを見せ場にするフィクションになっている。これは連載当時は消費者金融のグレーゾーン金利の過払い金が問題になって、資金繰りのために闇金に頼る人が多かったという社会問題を反映した内容になっている。福本伸行の漫画『賭博黙示録カイジ』は多額の借金を抱えたクズ達が借金返済のためにギャンブルやデスゲームをする話で、クズ同士が協力したり金に目がくらんで仲間を裏切ったりするところや主人公のカイジが追い込まれてから逆転したりするところが見せ場になっている。金貸しが主役になる場合も悪役になる場合も人気の作品が多いけれど、実在したら嫌な奴でもフィクションの登場人物としては特徴付けできて魅力になるので人物像を作りやすいし、金が必要になる動機や金策の苦労や返済しないで制裁されたりするオチをつけるまでのストーリーを作りやすいし、金貸しを主人公にした場合は客を変えることで複数のエピソードを作りやすいし、悪役がいるので物語にメリハリが出るし、喜怒哀楽や人情や勧善懲悪とかの見せ場が多いというエンタメ向きの特徴が複数あるので人気になるのだろう。借金をテーマにしたフィクションは他のジャンルへの発展性もあると思うので頭の体操として考えてみると、借金SFだと酸素本位制の宇宙コロニーで酸素を借りて利息を払えなくて酸欠で死ぬ話とか、借金ホラーだと呪いの闇金から金を借りたら利息を血で払わないといけなくて返済しないと心臓を取られて死んでしまう話とか、借金時代小説だと商人に金を借りて戦をした大名が借金を踏み倒そうとして暗殺される話とか、借金アクション映画だと破産してホームレスになった元特殊部隊員が借金踏み倒し請負人になって取り立てに来た闇金グループを壊滅させる話とか、借金ファンタジーだと商人が勇者の装備一式のローンを取り立てようとして世界の果てまで付いてきていつの間にか最強の商人になる話とか、借金学園モノだとテストの点を貸し借りできる私立学校で借点まみれになって点を返すために猛勉強する話とか、いろいろやれそうな気がする。
2025.03.19
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最近はいくつか小説を読んで観察が足りていないとかなんやかやの文句を書いたのだけれど、賞を取るようなプロ小説家でさえ視覚情報を言語化する能力が乏しいのだから、一般人はなおさら言語化する能力が乏しい人が多いのじゃないかと思う。というわけで徒然なるままに言語化について考えることにした。●言語化とは何か言語化とは何かの概念を言語で説明することである。言葉の意味を共有できないと同じ言葉を使っても人によって理解が変わってしまうので、まずは言葉の意味を定義する必要がある。例えば目の前にいる猫という生物について言語化して他の人に「猫がいるよ」と伝えようと思ったら、まず猫とは何かという定義をして、虎やジャガーとかの他の動物と区別して、意味記憶として記憶する必要がある。最近は国連難民日本事務所が「ゴミ箱に捨てなければいけないもの」として「強制送還」を挙げて批判されて、誤解を招く表現があったとして「ルフールマン」に訂正したように、翻訳の間違いとかでニュアンスが変わると意図した意味が相手に伝わらなくなってしまう。定義が定まったら、次は文章の論理構成が矛盾していないことが必要になる。「よいるが猫」だと各単語の形態素が同じでも意味が伝わらないので、「猫がいるよ」という文法に沿って言葉の意味と論理を理解できる人なら誰でも理解できる形にすることで、何かの概念を言語化して、他の人と共通の認識を持つことができるようになる。共通の認識を持つことで、議論をしたり、説を反証したりできるようになる。数学もプログラミングもモールス信号も意味と論理があるので言語になる。ひろゆきの「それってあなたの感想ですよね」はミームになっているけれど、これは言語化するときにも重要で、何かの概念を説明するときに客観的な情報の中に他人と共有できない主観的な感情を混ぜてしまうとそれがノイズになって言葉を理解しにくくなってしまう。例えば猫について言語化しようとするときに、「猫はかわいくて人気がある動物である」と主観を混ぜた言葉にすると、猫をかわいいと思わない人とは共通認識を持てなくなる。「猫は愛玩動物として〇万匹飼われている」のような誰でも共通の認識を持てる客観的な情報と、「私は猫をかわいいと思う」という個人の主観的な感想は分ける必要がある。一つ一つの言葉を正しく定義することで、この世界についての理解が深まっていって、矛盾しない世界の認識ができあがる。・言語化の重要性いろいろな生物は他の個体と意思疎通できる個体が生存に有利になって、繁殖期であることをアピールしたり外敵の危機を仲間に知らせたり威嚇音で外敵を追い払ったりして子孫を残して生き残って、音の出し方が進化してきた。鳥類や哺乳類のように呼吸器や舌を使って声を出す動物もいるし、セミや蛙のように独特な体の仕組みを使って音を出す動物もいる。人間は声やボディーランゲージとかの身体を使った原始的な言語だけでなく、文字や記号とかの道具に依存する言語も意思疎通に使う。中世の戦争では声よりも大きな音が出る太鼓やラッパとかの楽器が進軍や撤退の記号として使われて、のろしとかの視覚的な記号も使われた。あらかじめ記号の意味を定義して共有できていればそれも言語化と言える。「敵が来た」とかの短い情報だけなら動物でも言語化できるけれど、人間は思想体系を共有できるところが他の動物とは違う。人間は目に見えるものを認識して言及するだけでなくて過去形や未来形の文法を使ってその場にないものへの抽象的思考ができるようになって、仮説Aや仮説Bを立てたうえで仮説Aが正しかった場合の仮説Aaを立てたりして、いくつかのレイヤーで推論を重ねて演繹法や帰納法で様々な物事の普遍的な法則をみつけだして、この世界はどうやって出来たのか、自分はなぜ存在するのかという疑問に対して見たこともない神の存在をでっち上げて、神の子孫や使徒や預言者を名乗って統治に利用するようになった。そのうえ文字を持ったことで言葉を蓄積できるようになって文明が発展した。人間のワーキングメモリには限界があるので一度に大量の情報を覚えていられないけれど、石や粘土板やパピルスや木簡や紙やHDDとかに記述して記憶のリソースを外部に移すことで大量の情報を蓄積できるようになって、自分が生きていない過去の時代の情報を共有できるようになって、学問の研究結果を蓄積して真理を見つけて発展させて、外国語を翻訳することで自分が直接行ったことがない外国の知識や技術も共有できるようになった。●様々なものの言語化・コミュニケーションの言語化東北大学の川島隆太教授の「脳とことばの不思議な関係」-ことばで脳はよみがえる-というYouTubeの動画だと、人間は他の動物よりも前頭前野が発達して、前頭前野がコミュニケーションや欲の抑制とかの集団生活に必要な機能を担っていて、認知症になると前頭前野が5歳以下のレベルになるので前頭前野を鍛えるのが重要で、外国語の文章を読んだり聞いたりすると前頭前野が活性化するので脳のトレーニングになって、バイリンガルだとアルツハイマーになりにくいと言っていた。人間は動物の中で一番多くの言葉を使って意思疎通して協力しているとはいえ、言葉は後天的に学習するので、ちゃんと学習しないと言葉を上手く使えなくて失敗のもとにもなる。ディスコミュニケーション(意思伝達が行われない)やミスコミュニケーション(認識の相違)はしばしば起きて、例えば2024年1月2日の羽田空港でのJAL機と海保機の衝突事故は海保機の機長が管制官から「ナンバーワン」と伝えられて滑走路侵入の許可が出たと誤認したミスコミュニケーションが原因で起きた。カップルや夫婦が何も言わなくても相手が察することを要求して、期待と違っていたと文句を言うのはディスコミュニケーションと言える。コミュニケーションは難しいことを要求されているわけではなくて、相手が重要な情報を理解できるように丁寧に詳細を伝えて、復唱したりして確認をすればたいていの伝達ミスは防げる。最近だと商品も言葉を発するようになって、スマホやIoT家電も音声で動作の開始や完了を伝えるようになるだけでなくて、AIを搭載してコミュニケーションが可能になりつつある。車のクラクションも一種類である必然性がなくて、音の高低で意味を使い分けることができれば交通事故を起こしにくくなるかもしれない。・記憶の言語化たいていの人が三歳未満の頃の記憶がないのは言葉を覚えていなくて体験を言語化できないからだろう。長期記憶は陳述記憶(エピソード記憶と意味記憶)と非陳述記憶(手続き記憶、プライミングなど)に分かれているけれど、言葉を知らないと何がどのように起きたのかを陳述しようがないので、体験したはずのことが長期記憶に残っていないのだろう。それで成長して言葉を覚えるにつれて長期記憶に記憶が残るようになって、認知症の高齢者は最近の記憶は思い出せなくても子供の頃の記憶は残っていたりする。人が体験した記憶は死とともに失われるけれど、自分が生きた時代に何の出来事が起きたのかを書き残したり口伝で伝えたりして、その記憶が継承されていくとやがて国や民族の歴史となる。ホメロスの叙事詩「イリアス」で語られたトロイア戦争を基にしてシュリーマンがトロイの遺跡を発掘したように、物体よりも言葉のほうが長く後世に残ることがある。天文学は紀元前3000年のメソポタミアで星に名前を付けることで星の場所を覚えやすくしたことから始まって、何十年も夜空を観察して位置を記録することで学問として発展して、数十年に一度しか起きない惑星食の記録も引き継いで、古代ギリシア人は望遠鏡がない時代に惑星の軌道を正確に計算した。数百年後に人類が滅亡するとしても、遺跡に人類史が残されて数億年後に現れるかもしれない知的生命体に人類の記憶が継承されたら、人類の様々な失敗も無駄ではなかったといえるかもしれない。・感性の言語化芸術を鑑賞するとたいていの人は何かしらの印象を受けるけれど、その印象を言語化する能力は自然に身に付くものではないので、「面白かった」「つまらなかった」「感動した」という印象批評になりがちで、それだと他人にはどこがどう良いのか伝わらない。感じたことや考えたことの細部を言語化することで、他人にも理解できる批評となる。インターネットが出現してからは食べログや価格コムやグーグルマップとかのサイトが作られてあらゆる商品やサービスや企業が批評の対象になって、感性を言語化するのがうまいインフルエンサーが広告塔として使われている。・学習の言語化我々は日々様々な情報を見聞きしているけれど、その情報を全部覚えているわけではなくて、脳はエネルギーを節約するために重要でないと判断した情報は長期記憶に残さないようになっているので、短期記憶はしばらくすると忘れてしまう。学んだことを意図的に言語化してアウトプットすることで、自分の言葉で理解して知識として定着するようになるし、他人にも教えられるようになって、共通の知識を持つ人が増えて教育水準が上がって社会全体が豊かになっていく。逆に教育水準が低ければ文明の水準を維持できなくなるし、教育水準が低い移民を入れたり、言語が違う移民を入れて学校で対応できなくて教育が不十分になることでも文明の水準は下がる。識字率が低いと本から高度な知識を学習できないし、物理学や化学や工学の知識がないと技術職にはつけないので、単純作業をやるか物を盗んで売っぱらったりするくらいしかやることがなくなって、貧困から抜け出すために犯罪をするようになるけれど、生産者が殺されたり生産設備が破壊されたりすると生産力が落ちていって国全体が貧しくなっていく。例えば南アフリカはアパルトヘイト時代はアフリカで唯一発展した国だったのに黒人が政治をするようになったら強盗や殺人が多発して電線や水道管が盗まれて売り払われてインフラが破壊されて汚職が蔓延して荒廃したし、ドイツは識字率が低いアフガニスタン人の移民を受け入れても労働力として役立たせることができなくて移民の犯罪が多発したし、日本でも外国人が銅線や車や果物を盗んでいる。犯罪者を減らして生産者を育てないと国が豊かにならないので、教育が国の礎になる。・意思の言語化仕事や勉強を頑張ろうと思っても、目標がないと何をどうやればいいのかわからなくて頑張りようがないし、それでは成長につながらない。成長するには現状のコンフォートゾーンを抜け出して負荷をかける必要がある。例えば筋肉を成長させたかったらこたつでごろごろするのをやめて、筋トレして筋肉に負荷をかける必要があるけれど、どんなトレーニングを何回するのかという目標を決めないと長続きしない。意思を言語化して目標が明確になると、どうすれば目標を達成できるかというプロセスを考えられるようになって、あとは実行するだけになる。会社に不満があるのに転職しない人や、配偶者に不満があるのに別れようとしない人とかは、さらに状況が悪くなって生活できなくなるかもしれないという不安が勝って、成長してもっといい環境に行こうという意思がないのだろう。目標がないまま不満だけ言っても何かが変わるわけではない。・営業の言語化顧客が抱えている欲望や不満を言語化して、顧客に自覚させて潜在的需要を掘り起こしていくのが良い営業マンである。顧客が欲望や不満に無自覚な状態でいきなり商品やサービスを提示されても欲しくならないけれど、言語化されたときにはじめて欲が顕在化して、それいいじゃんと欲しくなる。なので営業マンは自分が話したいことを一方的に話して商品やサービスを買わせようと押し付けるのでなくて、相手の話をちゃんと聞いて分析してそれを言語化する能力が必要で、外向的な陽キャだからといって営業に向いているというわけではない。IBMがNHKの営業基幹システムの開発を中止してNHKから訴えられたように、技術者と客に知識の差があるときも営業が顧客が何を求めているのかを的確に言語化しないと齟齬が生じやすくて、その後の工程や納期にも影響する。美容院で客が「短くして」と注文しても「短い」の定義が人によってばらばらで、思ったよりも短すぎたとクレームをつけられかねないので、美容師は素人の客の注文を丁寧に聞き出して客が求める仕上がり具合を言語化する必要がある。商品の展示の仕方も言語化が必要で、洋服屋でマネキンにただ冬用の新作コートを着せて展示するのと、「今年は寒さが厳しくなりそうです。冬将軍と戦う準備はできていますか?」とかのPOPをつけて言語化するのでは、たぶん後者のほうが「そういや今のコートだと去年の冬はちょっと寒かったからもっと暖かそうなのに買い替えようかな」と潜在的な欲を自覚させることができるだろう。映画に「全米が泣いた」とかのコピーをつけるのも泣いてストレスを発散したい観客の欲をわかりやすく言語化しているといえる。ファミリーマートは賞味期限間近のおにぎりに「たすけてください」と涙目のおにぎりが訴える値引きシールを貼って、たすけてほしいことを言語化して客に訴えることでフードロス削減に取り組んでいる。・治療の言語化医者の診察も営業マンと似ていて、良い医者は患者がうまく言語化できない細かい不調を詳しく聞くことによって原因となる病気を絞っていく。いろいろな機械を使って精密検査をすればデータとして情報が出てくるけれど、採血やレントゲンや胃カメラとかの検査は患者の身体的な負担になるし検査費用もかかるので、余計な検査をせずに問診で原因を絞り込めるに越したことはない。オンライン診療だと直接患部を触ったりできないだけになおさら的確に言語化する能力が必要になるし、インフォームド・コンセントの際にも医療用語を知らない患者にもわかりやすい言葉に置き換えて説明する必要がある。問診ができないと医者として役に立たないということで、2018年が東大医学部の入試で面接を復活させて、2020年には九州大学で面接を導入して、現在は日本のすべての大学の医学部の入試でも面接が必須になっていて、暗記力が高くてペーパーテストだけが得意なタイプは医者になれないようになっている。精神医療では統合失調症の治療にフィンランド発祥のオープン・ダイアローグという手法が取り入れられつつあって、従来のカウンセリングのように権威がある医師が患者と一対一でカウンセリングして治療を指示するのでなくて、患者の家族や友人のチームと医師や看護師のチームが開かれた会話をして患者だけでなく患者の周囲の人の話も聞くことで投薬治療を減らせたそうな。薬物治療が全く必要なくなるというわけではないけれど、ちゃんと話す、ちゃんと聞くということが人間の認識の改善に有効だと言える。たぶん言語化することで患者と周囲の人の認識のずれが明らかになっていって、周囲の人が間違っていたり嘘をついたり嫌がらせをしたりしているのでなくて自分の認識が間違っているのだと受け入れて被害妄想の思い込みが緩和していくのだろう。・指導の言語化サッカー選手はどの角度でどのくらいの力を入れてボールを蹴ればボールがどこに飛んで行くかを経験と感覚で理解していて狙ったところにボールを蹴ることができるけれど、その角度や力の強さを物理学の数式で示せと言われても言語化できないだろう。人間は自分が理解していることだからといって言語化できるわけではなくて、良いプレイヤーでも自分の技術を言語化する能力がないと他人に教えることができないので、良いプレイヤーが現役引退後に必ずしも良いコーチになれるわけではない。それゆえに指導者には技術や理論や戦術を言語化して間違いを指摘したり指示を出したりする能力が必要になる。職人がしばしば言う「見て覚えろ」は言語化が不十分で指導の効率が悪い。・反省の言語化学校だと何かをやらかした生徒に反省文を書かせることがあるし、会社だと何かをやらかした従業員に始末書を書かせることがある。これはなぜ失敗したのか、どこが悪かったのかを言語化することで問題を自覚させたり、監督者と注意点を共有して再発を防ぐ狙いがある。ビジネスだとKPTやPDCAとかの振り返りのフレームワークがいろいろあって、反省点を言語化して洗い出すことでやり方を改善して次の行動につなげていて、個人の経験を暗黙知のままにせずに言語化することでチームで作業できるようにしている。・規則の言語化原始的な社会は権力者の気分次第で逆らう人を処刑してきたけれど、そのやり方だと謀反の連鎖が起きて統治が安定しなかったので、秦の始皇帝は権力者でさえ違反すれば平等に罰せられる法律を作って統治しようとした。社会が発展するにつれて法律も複雑になって、何をしたらどのくらいの刑罰になるのかという規則が細かく言語化されて共有されてきた。合法なら何をしてもよいというわけではなくて、様々な物事には法律の範囲内でさらに細かく規則がある。例えばスポーツやゲームを成立させるためにはやってはいけないことのルールを明確にしておかないといけなくて、憲法で表現の自由が保障されているからといって不要に歌ったり踊ったりしてプレーを妨害してはいけない。あるいはレストランのルールは店によって違って、予約の必要性、ドレスコードの有無、会計方法が券売機で事前に会計するか食後に会計するか、クレジットカードやポイントカードが使えるかとか、細かい違いがいろいろある。認知心理学だと手続き的な記憶をスクリプトと呼ぶけれど、この手続きの知識がないとレストランで食事をするという一見して簡単に見える行動でさえスムーズに行かなくなるので、店側は規則を言語化して周知する必要がある。最近はいろいろな店のレジがセルフ化しつつあって、老人が会計の時に操作がわからなくて店員を呼んでいるのをたまに見かける。これは会計機のナビゲーションの言語化が不十分なせいで客が何をすればよいのかわからなくて、店員に聞き直さないといけない状況と言える。マイナンバーカードと健康保険証の紐づけでも高齢者は病院の窓口にある機械の使い方がわからないようで不評である。これからは人手不足やAIの発展でいろいろなものが機械化・自動化していくだろうけれど、そのときに規則がわからないと効率がよくなるどころかかえって不便で非効率になりかねない。・弁護の言語化誰でも言いがかりをつけられたり濡れ衣を着せられたりすることはありうるし、その時には自分のアリバイを説明して、論理的に矛盾せずに客観的な証拠を伴う弁護をする必要がある。あるいは自分のミスを弁解したり、他人のミスをかばったりすることもありうるけれど、その時にもこういう状況でミスは仕方なかったのだと弁解できれば罰則や損害賠償が軽くなるかもしれない。自分の責任と自分の責任でないものを言語化して分けるのもレジリエンスでは大事で、自分の責任でないものまで自分のせいだと抱え込んでしまうと無駄にストレスを抱えることになる。たいていの仕事だと裁量権があるところが自分の責任の範囲で、裁量権がないところは上司や会社の責任なので、それは自分の責任ではないよと弁護できるようになると理不尽に責められたりしたときに対応しやすくなる。アメリカとかのジョブ型雇用だとジョブディスクリプションで責任が明文化されているけれど、日本企業だと契約書に権限が明記されていなくて責任が曖昧なので、自己防衛のために上司の言質を取ったりして自分の責任を確認する必要がある。・環境の言語化近代になって温度計や湿度計とかの様々な計器が作られてそれまで肉眼では観察できなかった状態がわかるようになって、気象衛星が打ち上げられて雲の動きがわかるようになって、温度や湿度や風や波や花粉の飛散状況がどう変化するのかという環境が言語化されて天気予報となった。カーナビは現在位置情報の分析からリアルタイムの交通渋滞情報が提供されて、単に地図上の最短距離をなぞるのでなくて移動時間がかからない道をナビゲーションするようになった。環境が言語化されて正確な状況がわかることで、自分にとって快適な環境になるように調整しやすくなる。踏切の警報やメロディーがなる歩行者用の信号も環境の言語化と言えるし、今は単調な音しかだしていないけれど、信号が変わるまでの待ち時間をカウントするとかしたら待ち時間のストレスを減らしたり、無理な横断を防いだりできるかもしれない。パソコンの初心者が「何もしていないのに壊れた」と言うのも環境を言語化できないので原因が特定できない状態といえる。パーツ構成、OS、インストール済みのソフトとかの使用環境を言語化することで、タブを開きすぎてメモリ不足でフリーズしたとかネット回線が貧弱でウェブサイトの読み込みが中断したとかの原因を特定できるようになる。●言葉を巡る問題インターネットが出現する以前は個人が意見を言ったり議論したりする場所があまりなくて、せいぜい飲み会で愚痴をいう程度だろう。インターネットが出現してSNSのサービスが充実すると誰でも意見を言えるようになったけれど、今度は罵詈雑言や誹謗中傷があふれたり論破されるとブロックして逃げたりしてまともな議論になりにくい。秋葉原の無差別殺傷事件は匿名の掲示板で煽られたことが原因で起きたけれど、もし匿名でのコミュニケーションでもお互いを尊重していたら事件は起きなかったかもしれない。それゆえに他人との距離感や言葉遣いや建設的な議論の仕方が重要になってくる。相手の意見を尊重しつつ相手を傷つけないように自分の意見を言うことをアサーションという。意見の表明の仕方にはアグレッシブ、ノン・アサーティブ、アサーティブの3タイプがあって、トランプがゼレンスキーとの対談で感謝してないとかの辛辣な意見を言ったように、アグレッシブタイプは相手を傷つけたり対立を招いたりしてしまうし、正論だとしても印象が悪くてロジカルハラスメントと呼ばれたりする。あるいは何も主張しないノン・アサーティブタイプもいて、日本人は沈黙は金ということで授業でも会議でも選挙でも無言で意見や態度を表明せずに他人任せにする人が多いのじゃなかろうか。アサーティブタイプはアグレッシブとノン・アサーティブの中間で、相手を害さないように自分の意見をちゃんという態度である。アグレッシブな論調に対しては発言の内容でなくて口調を非難するトーン・ポリシングによって議論がそれてしまいかねないので、相手がいる議論ではなるべくアサーティブであるほうがよい。SNSで何も意見を言わなければ変な人に絡まれることもないけれど、批評をしたりして自分で物事を考えないと思考能力や言語能力は徐々に衰えてしまうので、何か言いたいことがあるなら言うほうがよいだろう。間違った意見だとしても表現の自由や思想の自由は憲法で保障されているし、間違ったことを言って批判されるとしてもそれは生涯残るような恥ではなくて間違いを認めて意見を修正すれば済む程度の話だし、自分がもっと賢くなれる機会になるので、意見が間違っていることを恐れる必要はない。批判は相手の人格を否定することが目的でなくて学術的な真理の探究や幸福の追求を目的にしているし、議論を重ねるからこそわかるようになる物事もあるので、批判することも批判されることも恐れる必要はない。全知全能の人はいなくて高学歴な専門家だって専門外の分野の事は間違うものだし、だからこそ自分の意見を言うだけでなくて自分とは異なる他人の意見や批判も聞く必要がある。●我々は言葉と共に生きているGigazineの「知能は老化ではなく「頭を使わないこと」で衰えるとの研究結果、よく頭を使う人は年を取っても能力が成長し続けることが判明」という記事によると、仕事などでスキルをよく使う人は読み書き能力と数的思考力が60代まで成長し続けて、スキルの使用頻度が低い人は30代半ばから能力が衰え始めたそうな。定年退職した人が急に老け込むことはよく言われているけれど、なるべく頭を使うほうがよいという科学的な裏付けが出たといえる。頭を使うことを言い換えると言葉を使って考えるということである。じゃあ何を考えればよいのかというと、たいていの人は働かないと生きていけないので、未成年のうちは勉強のことを考えて、就職したら年金をもらえるようになるまで仕事のことを考える。高齢者が定年退職して時間がたくさんあるのに頭を使わないのはもったいないので、趣味や哲学や芸術とかについて考えるのが建設的だろう。インターネットで世界中がつながっている現代社会において孤独であるということは、単に物理的に一人でいるということではなくて、自分の言葉が誰にも理解されなかったり他人の言葉を理解できなかったりしてコミュニケーションができないことではないかと思う。高齢化が進んでいてもインターネットさえあれば過疎地とかの高齢者の孤立も防げるだろうし、例えばライブ配信中の高齢者が脳梗塞の兆候を見せて視聴者が救急車を呼んで助かったという事例もあるし、ネットで医師とビデオ通話して毎日体調を確認している。他の人を励ましたりしている人には人が集まってくるし、悪口や暴言を言っている人は周囲から人が離れていって孤独になる。介護施設でも穏やかな老人は周囲に感謝を伝えて丁重に扱われるのに対して、暴言ばかり言う老人は疎まれて孤独な最後を迎えることになる。フランスだとユマニチュード(人間らしさ)というやり方で認知症の介護をして、同じ目線で、話しかけて、触って、立つ時間を作るという4つを軸にして人間らしさの回復を目指すそうで、日本でこのやり方を試して認知機能が回復した動画を見たのだけれど、言葉が人間の存在に不可欠な要素の一つといえる。もともと言葉は群れの中でコミュニケーションをとるために発展してきたのだから、自分が孤立しないように言葉を上手く使うにこしたことはないし、引きこもりや認知症や精神障害とかで孤立した人を救うためにも言葉が必要といえるだろう。人間は言葉によって文化や文明を築いてきたからこそ言葉を蔑ろにしてはいけないし、文学部を実学でないからといって軽視するような資本主義の考え方はよくない。せっかく言葉を使う動物として自我を持ったのだから、罵詈雑言を言わずに美しい言葉や楽しい言葉を使うほうがよい。というわけで、人類はもっと小説を読むほうがよいという結論に至る。
2025.03.11
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最近は東洋水産のカップうどんの「赤いきつね」のアニメCMの「ひとりのよると赤緑」 おうちドラマ編が性的だと批判されたので、これについて考えることにした。●CMとは何かCMとはコマーシャルメッセージの事で、企業が商品やサービスを宣伝する動画を作って、テレビや動画サイトなどで見てもらうことである。アプローチするターゲット層を絞って、CMを出稿する媒体を決めて、企業が自分で広告を作れない場合は広告代理店とかに動画を作ってもらう。例えば子供向けにおもちゃを宣伝したかったら、子供がよく見る夕方のアニメ番組を放送しているテレビ会社に対して広告を出稿する。●赤いきつねと緑のたぬきのCMの良し悪し赤いきつねのCMは女性が部屋でテレビを見て赤いきつねを食べて、緑のたぬきのCMは男性が残業中に緑の狸を食べるという内容をアニメで描いたものだった。このCMは単に誰かが食事をしているだけという感じでストーリー性が乏しくてあまり面白味がない。一人暮らしの人をターゲットにして、孤独な人が暖かいものを食べてほっとして癒される感じを出したかったのかもしれないけれど、アニメは現実ではできない演出をやれるのがメリットなのに、動きが乏しくてアニメでやる必然性がない内容になっている。赤いきつねのCMは登場人物の絵柄と背景の絵柄のスタイルが違っていて、窓の横にドアがある間取りが変で、座椅子の座り方やテーブルの高さとかの家具の縮尺にも違和感がある。緑のたぬきのCMはパソコンがある仕事用の机で汁物を食うなよ、食べ終わったやつを書類の上に置くなよと突っ込みたくなる。アニメで宣伝をやるならアニメならではの表現に凝ってほしいところである。私がアニメのCMで印象に残っているのは日清食品がカップヌードルの広告として企画した2006-2008年のFREEDOM-PROJECTで、この広告では大友克洋がキャラクターデザインをして宇多田ヒカルがテーマソングを書きおろしていて短いCMだけでなくてOVAもちゃんと作られていて、自由を応援する企業姿勢が見えたのがよい。CHAGE&ASKAの楽曲「On Your Mark」のプロモーションのためにスタジオジブリが作った6分48秒の短編アニメもストーリー性があってよくできていた。●性的だという批判は妥当か赤いきつねのCMは女性が頬を赤らめているのが性的だとか、髪をかき上げるのが性的だとかの批判があるようだけれど、この批判は妥当なのか。そもそもほとんどの生物は男性か女性かで性別を持っていて性的な特徴がある。どこがどう性的なのかをいちいち指摘するのは不毛で、それを言うならイスラム原理主義者から見たら女性が肌や髪を出しているだけで性的でけしからんということになるし、アニメや漫画で人物を表現すること自体が偶像崇拝でけしからんということになる。同様に、女性からみたら男性にひげや筋肉があったり食べ物を食べてのどぼとけが上下するのが性的だと思う人もいるだろう。1989年のカップヌードルCMでシュワルツェネッガーがやかんを振り回して力こぶを強調していたけれど、それも性的になりうる。中国だと女性インフルエンサーのアー・ミャオが男性の喉仏は性的だからカバーで覆うべきだと提唱して、のどぼとけブラが数千個売れたそうな。誰かにとって気分を害する性的なコンテンツだという理由で表現を規制していくと、最終的に男女ともに布をかぶって目以外を覆わないといけないようになるし、それはナンセンスである。口紅や頬紅は性的アピールのためにつけるものだし、下着や生理用品の広告は人を映さずに商品を見せるだけでも性的になりうるし、じゃあそういう商品は広告を出しちゃいかんのかという話にもなる。それに芸術作品に対するフェミニズム批評には批評のアプローチとして意義があるにしても、広告は映像作品として評価されることを目的としていなくてターゲットに対して商品の認知度を高めて売上を増やすのが目的なので、ターゲット外の人がどう思おうが売上には関係ないので広告の批評はあまりやる意味がない。嘘、おおげさ、紛らわしい内容の広告は消費者の不利益になって景品表示法に抵触するし、差別や偏見を助長する内容の広告は社会的良識に反するので批判されてしかるべきだけれど、広告に性的な要素があるからといって商品を買った消費者の不利益になるわけではないし違法でもないので、商品やスポンサーをボイコットする理由にはならない。アニメや漫画とかの非実在人物の表現にけちをつけるフェミニストは昭和の左翼の言葉狩りと同様のアニメの表現狩りをやろうとしている。赤いきつねだけでなくて、日本赤十字社が献血キャンペーンのポスターに漫画の「宇崎ちゃん」を起用したこともフェミニストは性的だと批判した。どんな表現でも嫌いだと思う自由はあるけれど、たかが30秒程度のCMなのだから嫌いなら見なければいいだけの話で、不快に思ったところで寝て起きたら忘れる程度のことだろうに、わざわざ集団で粗さがしして粘着して炎上させようとするのはチンピラが肩をぶつけてきて慰謝料を請求するみたいなもんでたちが悪い。憲法で表現の自由が保障されていて景品表示法とかの広告規制に抵触しない範囲内で合法的に作られているコンテンツを法的根拠なしに主観だけで規制しようとするキャンセルカルチャーには私は賛同しないし、広告を出す企業側もターゲットから外れていて売り上げに貢献しない少数のセンシティブな沸点が低い人たちのクレームを聞く必要はないだろう。結局のところフェミニストによる無理筋な批判はかえって批判対象の知名度を高めて、フェミニストの異常さを際立たせる結果になっている。●私ならどんなCMを作るか私が赤いきつねと緑のたぬきのCMを作るとしたらどうするのか、頭の体操として予算を度外視して考えてみる。ちなみに私はテレビを捨てたので、武田鉄矢がCMをやっていたのしか知らない。・クリスマス編サンタクロースの格好をした東洋水産の社長が子供の靴下にこっそり赤いきつねを入れていって、子供が大げさに小躍りして喜んで、一口食べてあざとく「おいちいね」という。ターゲットはテレビを見る高齢者で、孫が遊びに来た時にすぐに食べられるおやつとして赤いきつねと緑のたぬきを常備しておくとよいと刷り込む。・バレンタイン編チョコをもらえなくて落ち込んでいる男子に女子が義理きつねをあげて、ホワイトデーに男子が義理たぬきを返して一緒に食べる。ターゲットは食べ盛りの高校生で、小遣いの範囲で買えるおやつとしての選択肢を提示する。・将棋編早指しで対局中の棋士が赤いきつねと緑のたぬきを食べながら将棋を指して、夢中になって食べているうちに時間切れで負けてしまう。ターゲットは将棋好きな高齢者で、将棋を見るたびに赤いきつねと緑のたぬきを連想するように刷り込んで買ってもらう。・ビートボックス編ビートボクサーたちが赤いきつねと緑のたぬきを食べる音だけで音楽を作って、ヌードルハラスメントを芸術に昇華する。ターゲットはデジタルネイティブ世代で、SNSでの話題作りを狙う。・ふんどし編祭りでふんどし一丁の阿部寛が体から湯気を発しながら赤いきつねを食べて、腰をパァンと叩いて去っていく。ふんどしがうどんを表して、コシの強さをアピールする。ターゲットは祭り好きな男性で、祭囃子でテンションを上げて買ってもらう。・ホワイト赤マン編ホワイト赤マンが赤いきつねをずるずるずるずると食べてごくごくごくごくと汁を飲んで寄り目になる。ターゲットは小学生で、ホワイト赤マンの真似をして食べたくなるようにする。・昔話編昔々あるところにいる爺さん(武田鉄矢)が迷子の子狐を助けたら、親狐がお礼に赤いきつねを持ってきたので食べてほっこりする。ターゲットは中高年で、昔からある人気の商品だということをアピールしてノスタルジーに訴える。・名探偵編名探偵コナンとコラボして、赤井秀一が狙撃中に赤いきつねを食べて、目暮警部が緑のたぬきを食べて、コナンがつゆをペロッと舐めて「これは本格的な出汁、謎はすべて解けた」と決めセリフを言ってサッカーボールを蹴ってビルが爆発する。ターゲットはコナンファンで、目暮警部の腹巻や安室透の夫婦箸とかのコラボグッズプレゼントキャンペーンで釣って買ってもらう。・龍玉編ドラゴンボールとコラボして、孫悟空が赤いきつねを食べて、ピッコロが緑のたぬきを食べてパワーアップして、どん兵衛を食べているベジータとナッパをボッコボコにする。ターゲットはドラゴンボールのファンで、7個食べるとグッズが当たるキャンペーンで釣って買ってもらう。
2025.03.03
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コンビニで生まれたコンビニ人間が他の人を真似て人間に擬態する話。第155回芥川賞受賞作。●あらすじ子供のころから突飛な行動をしてきた古倉恵子は大学1年生のときにスマイルマートというコンビニでアルバイトを始めて規則に従うことで居場所を見つけてコンビニ人間として誕生して、19年経って36歳になっても同じコンビニで働いていて、24歳の菅原さんの服装を真似たり愚痴に同調したりして人間のふりをして安堵する。地元の友達のミホたちと話していたら恋人がいないと素直に答えてしまい、病弱だと嘘をついてごまかす。35歳の痩せた男の白羽はバイトをさぼりがちで客の女性にストーカーして異物としてコンビニから排除されて、恵子はミホの旦那と会ったときにアラフォーなのに結婚を焦っていないことをヤバイと言われて自分も異物として排除されると危機感を持って、白羽に結婚を持ちかけて家に連れ込んで餌を与えて風呂場で飼うことにする。店長にうっかり同居していることを言ってしまったら同僚たちがゴシップに夢中になって仕事をさぼるようになる。妹が家に来て白羽を叱り、白羽の兄嫁が家に来て白羽を叱ったので、白羽は恵子にコンビニを辞めさせて就職させることにするものの、恵子は面接に行く途中に立ち寄ったコンビニでコンビニ人間であることを自覚して勝手に商品を整理しだして白羽と喧嘩して面接をキャンセルする。●感想恵子の一人称。ナラトロジーを理解していなくて、いつの時点でいつの出来事を誰に対してなぜ語るのかという設定ができていなくて、現在形と過去形が混在している下手な一人称になっている。私小説作家でない人は一人称で私生活を語る理由がないし、コンビニの規則に忠実なはずの恵子が働いている最中に守秘義務に違反して同僚の年齢とかのプライバシーまで公開して語るのは設定が矛盾しているので、そのぶんリアリティがなくなる。恵子がコンビニの規則に忠実だという部分はこの小説の根幹部分なので矛盾してはいけない。55ページで赤ん坊を静かにさせる手段としてナイフを見る場面は三人称ならホラー的な演出になるけれど、一人称で書くと恵子は子供をナイフで刺して黙らせてはいけないと自覚したうえであえてナイフに言及している計算高い人物だという構図になってしまって、常識がわからないという恵子の人物像が壊れてしまう。登場人物については読書に慣れている人なら恵子と対極の存在の白羽が出てきた時点でこれとくっつくだろうなと予想がついてしまうし、白羽はいかにもプロットのために用意した人物という感じでセリフや思考が芝居がかっていて不自然だし、予定調和的に同居するので、白羽の存在がご都合主義的でかえってつまらなくなってしまった。変人でないと恵子の相手役が務まらないにしても、変人が二人いると主人公の恵子が目立たなくなってしまうし、恵子はコンビニ人間に戻るというオチがついても白羽はどう生きるべきかというオチがついていない。妹が恵子を治そうとするのも変で、病気でもないのに何をどう治そうとしているのかよくわからない。恵子が目的のために手段を選ばないで変な行動をするのも子供の頃だけで、大人になってからは変人ぶりがこぢんまりしている。コンビニを辞めた後に手段を選ばずに老人が一人で経営している駄菓子屋を乗っ取ってコンビニに改装してコンビニオーナーとして働くくらいやるのかと思ったら、普通に就活しているところはけっこう常識的で期待外れである。哲学的な構図としては、コンビニ人間として生きようとする恵子のテーゼに対して、結婚せずにアルバイトのままなのはやばいというミホの夫や白羽とかがアンチテーゼとして出てくるけれど、そこでジンテーゼに至らなくてまたコンビニ人間になろうというところに戻ってしまう。結局恵子の考え方や生き方が変わるわけではないので、白羽との同居云々が蛇足のような話になっている。白羽が納得するようなコンビニ人間像が描けていればジンテーゼになったのだろうけれど、白羽は最後まで恵子の生き方が理解できないままで、恵子や白羽の人生観に進展がない。良い点としては、冒頭で音を中心に状況を描写してものの捉え方を異化しているのはよい。白羽の飼い方にもユーモアもあって、かわいそうな人を書いて同情を誘うような安直な話にはなっていない。この小説ではコメディとして戯化されているとはいえ恵子のような人は実際にいて、その点では人間の実存を描いているといえる。「普通」がわからない女性でもパートタイムの仕事は見つけやすいけれど、男性は生活のために手段を選ばずに犯罪をする「刑務所人間」になりがちで、例えば小島一朗は自分で考えて生きるのが面倒になって無期懲役になることを狙って新幹線で殺人をしたし、境界知能で就職できなくて何度も犯罪をする人は刑務所のほうが規則があってやることが決まっていて楽だからという理由で出所してもすぐに無銭飲食や窃盗とかをして刑務所に戻ろうとする。「刑務所人間」だと被害者がいるのでコメディとして笑えないけれど、「コンビニ人間」は社会の役に立って居場所があるだけまだ救いがある話になっている。結局は恵子は妹が求める「普通」になることはできなくて子孫も残さないだろうけれど、他人が何を言おうが自分が生きたいように生きるのが本人にとっては幸せなのだという希望があるのはよい。良い点があるだけに、ナラトロジーを理解していない下手な一人称なのはもったいない。一人称で書く必然性がない内容なので、三人称で書いたほうが技術的な完成度は高くなっただろうと思う。★★★☆☆コンビニ人間 (文春文庫) [ 村田 沙耶香 ]価格:693円(税込、送料無料) (2025/2/23時点)楽天で購入
2025.02.23
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私は私の視点しか持たないので他人にとって世界がどう見えているのかはわからないけれど、おかしなものの見方をする人や、不合理的な行動をする人や、論理的な話が通じない人がいるのを不思議に思う。こういうのは物事のとらえ方とかの視点の違いが根底にあるような気がするので、視点について考えることにした。●女性の自撮りの視点男性は写真を撮るときに物や景色だけを撮影するのに対して、女性は自分を中心にしてその背景に物や景色が映るように撮影して、なんでもかんでも自撮りにしてしまう。なんでそんな写真の撮り方をするのか不思議である。外国だと迫りくる電車を背景にして自撮りしようとして電車に轢かれる女性や、崖を背景にして自撮りしようとして崖から落ちる女性や、美術館で作品を背景にして自撮りしようとして後ろに下がって展示物を壊した人とかがいる。ARTnewsJAPANの「アート作品の「自撮り破壊」が急増中! 保険会社が「セルフィー・パンデミック」と警告」という記事によると自撮り中の事故が多いようで、個人の不注意というよりも、自撮りして周りが見えなくなる行動パターンが女性に共通する特性なのじゃないかと思う。女性は物事を自分を飾る背景として利用しているという仮説を立ててみると、この女性特有の自撮りのやり方の説明がつくような気がする。もちろん女性が全部そういう人というわけではなくて、YouTubeの旅行や食事の動画でも顔出しや声出しをしない女性はいるけれど、そういうチャンネルはあまり伸びない。アタシを見てというアピールが強くて感情を表に出して共感を集められる人ほどSNSではフォロワーが多くなる。動物の雄は雄同士で争って力ずくで配偶者を得ることが多いけれど、雌は自分に注目を集めるのが配偶者を得るための生存戦略になる。だもんで人間の女性は服にフリルやら刺繍やらをつけてアクセサリーをじゃらじゃらさせて化粧をして目立つ格好をしていることが多い。SNSが登場した後も無自覚に本能的に自分を飾るものとして利用して、フォトジェニックな被写体を自撮りの背景や小道具にして自分を飾って注目を集めようとしているのかもしれない。●理想主義者の視点理想主義者はこうあるべきという理想を掲げて、その理想に人間を合わせようとする。その極限が全体主義や宗教原理主義で、ソ連では個性を無視して国民を理想の労働力に仕立てようとして失敗して、中国では民族を無視して国民を一つの中国人にしようとしてチベットやウイグルを弾圧して文革で知識人が粛清されて文化や経済の発展が遅れた。宗教原理主義では言わずもがなで、異教徒や異端者が処刑されて、経典とは異なる説を主張する学者も処刑されて科学の発展が遅れた。歴史上で理想を掲げて理想通りにうまくいった国はないけれど、その失敗を欧米でも繰り返している。多様性と移民について考えるという記事でも考えたけれど、グローバリストの理想である多様性と移民受け入れ推進が原因で欧米は取り返しがつかない大失敗をしている。スウェーデンは難民を助けられる寛容な国になろうという理想に向けて邁進した結果、犯罪が多発してEUで一番治安が悪い国になった。EU経済の牽引役だったドイツは2000年代はEU内の移動の自由の恩恵を受けてポーランドとかのEU内の出稼ぎの安い労働力のおかげで製造業が好調だったけれど、2010年代に中東やアフリカの難民受け入れ推進や脱原発とかの左翼政策を実行したら、中東の移民は安い労働力になるどころか福祉頼みで働かずに犯罪をするし、ウクライナ戦争でエネルギー価格が高騰して産業の中心だった工業の製造コストが高くなってEVと中国と価格競争しても利益がでなくて景気が減退した。世界一の軍事力と経済力を持つアメリカでさえバイデン政権の4年間のLGBT推進やメキシコからの不法移民の受け入れで内戦の噂が出るほど国内が揺らいで、企業は優秀な人をLGBTだからといって差別せずに能力主義で採用するならまだしも、逆にマイノリティーが活躍するのが理想の社会なのだと優秀でない人をLGBTだからといって優遇して採用するようになって経営が傾き始めて、トランプ政権がDEI推進をやめたらgoogleやディズニーやゴールドマンサックスなどは好機とばかりに便乗してさっさとDEI推進をやめた。企業はCEOや株主がどんな理想を掲げようが現実を見て利益を出さないと収入が減るし最悪の場合は倒産するので方針転換が早いけれど、国家は政策の効果が出るまで時間がかかるし失敗が明らかになっても次の選挙で政権交代するまで何年も方針転換ができないし企業と違って倒産して別の会社を作ってやり直すこともできないので、そのぶん失敗の被害も大きくなるしリカバリーも大変になる。個人で理想の生き方を目指すのは個人の自由だけれど、理想の国家を作ろうとするとその理想と辻褄が合わない現実のどこかに無理がでるし、他人の自由や権利を制限して理想を実現しようとすると最終的には独裁と腐敗に至って、独裁者が自分を脅かす優秀な人や自分の間違いを指摘する人を排除するようになって独裁者の能力不足がボトルネックになって失敗する。ザイム真理教徒も借金や赤字がない状態が健全で安心だという理想ありきで国債発行や公共事業を否定して、バランスシートの負債の反対側には資産があるという会計の基本的なことさえ理解していない。国債を発行せず通貨を増やさず国が産業育成のために投資せずに資産を増やすことは無理だし、国は利益が出ない治水や保安や防衛とかをやらないといけないので必然的に国家運営は赤字になるし赤字でもキャッシュフローがなくなるわけではないので別に問題ないのに、現実の経済の仕組みを無視して理想に合わせようとして無意味な単年度のPB黒字化を目標にして緊縮財政でインフラ投資をやめて、世界が経済成長している中で日本だけ30年経済成長せず、土木業が衰退してインフラ補修ができなくてトンネルの天井が落ちたり橋や水道管が壊れたりして能登地震からの復興も滞って資産価値もなくなりつつある。豊かな国はどういう状態かというと、税収が多いことではなくてエネルギーや食糧やインフラや医療とかの生活に必要なものやサービスの供給が多くて国民がその恩恵を受けられることだろうに、政治家は与党も野党第一党の立憲民主党も税収を増やすことを目標にして増税して零細事業者を破綻に追い込んで供給力を棄損してインフレで国民を貧しくして貧富の差が拡大して食料さえ買えない人を増やして不幸においやって、その穴埋めに外国人を優遇して株や土地を売って国富を外国に流出させるというナンセンスなことをやっている。間違っている理想を否定するには単に正しいことを教えて間違ってるよと指摘するだけでは不十分で、間違った理想を壊す必要があって、それには大きなエネルギーがいる。例えば大日本帝国は太平洋戦争で敗戦しなければ帝国主義の間違いを自覚できなかったし、徹底的に理想が壊されたので日本に帝国主義者はほとんどいなくなって、一億玉砕だの鬼畜米英だのと言っていた人たちがすんなりマッカーサーと民主主義を礼賛するようになった。これはLinuxをインストールしたパソコンでWindows用のソフトを動かそうとしても動かないようなもんで、部品は同じでもいったんOSを削除してパラダイムを変えないと新しい考え方を受け入れられない。財務省の犬の岸田が暗殺されかけたり、財務省の前で財務省解体デモが起きたりしているけれど、それでも日本に数千万人いるザイム真理教徒の考え方を変えるには不十分である。日本でさらに少子化と人手不足が深刻化して移民だらけになって治安が悪化してぼろぼろになったり、首都直下型地震や南海トラフ地震で大都市圏のインフラがぼろぼろになったら政権交代を求めるエネルギーが集まって政策が変わるようになるのかもしれないけれど、そこまで追い込まれないと間違いに気付けないようだと手遅れである。●自己中心的ヒロイズムの視点左翼に話が通じない人が多いのも視点が違うからかもしれない。例えばトルコから来たクルド人は出稼ぎ目的だと調査で明らかになったにもかかわらず、左翼はなぜか偽装難民の不法滞在を支援したがっている。産経新聞の記事だと4人世帯だと最大で27万6千円の生活費が支給されると言っているけれど、左翼はこの事実を見ようとしなくて、デモクラシータイムズの動画だと保護費を何十万円ももらえるのは右翼のデマだと言っている。別の産経新聞の記事だともはやトルコでクルド人の弾圧はなくてトルコ政府は川口市のクルド人をテロ組織支援者だと認定しているにもかかわらず、左翼は現地を取材せずにいまだにトルコのクルド人は弾圧されたかわいそうな人だとみなして支援している。難民申請が認められなくて強制送還された人がその後投獄されたり処刑されたりしたか追跡調査すればすぐわかるだろうに、左翼はそれすらやらない。難民申請をする人が実際に政治的に迫害されているかどうかにかからわず、左翼はクルド人は迫害されているかわいそうな人たちだというストーリーに当てはめて自己満足のヒロイズムのために利用して、実際には迫害されていない単なる出稼ぎ外国人の不法滞在を手助けして、その負担は国民に負わせようとしている。自分は費用を負担せずにヒーローを気取れるので、偽装難民を支援するのは偽善者にとっては都合がいい仕組みになっている。弁護士が集団で偽装難民を支援したがるのも判例に名前を残したい名誉欲にかられているのだろうし、弁護士が不法滞在を支援したりテロ組織支援者を支援したりするのは異常である。生活保護の場合は不正受給すると詐欺罪で逮捕されるし、不正受給を手伝ったら詐欺幇助になるけれど、難民申請は政府に迫害されているという主張が虚偽だろうが放免中は生活費がもらえてビザが切れても滞在期間を延ばせるし、主張が虚偽だとわかっても犯罪になるわけでもないし生活費の返済を求められないのでやり得になっている。放免中は就労を禁止されているといっても常に監視されているわけではないので、既に日本に仲間が定住しているなら仕事をあっせんしてもらって違法に収入を得ることもできる。何もしなくても生活費がもらえる上に不法就労で稼げるし、逮捕されたところで警察官に外国語での取り調べができる人がいなくて不起訴になるか強制送還されるだけで金銭的なデメリットがないので、法律を無視して解体工事をしたり道路を占拠したりしてやりたい放題やっている。そんで偽装難民が無免許無保険で仲間に借りた高級車を乗り回して事故を起こしても、偽装難民を支援している偽善者の左翼が責任を取って代わりに被害者に補償するわけでもない。熊がかわいそうだから殺処分するなと主張する人たちも構図としては同じで、自分を正義の主人公に仕立て上げるための素材として熊を利用していて、電話で役所に抗議はするけれど熊被害を出さないための対案を出すわけでもない。何の知識や技能がない人でも「かわいそう」と認定した相手の庇護者のふりをすればヒーローを気取って満足できるので、役所や猟友会の業務妨害をするクレーマー化してストレスを発散しているのだろう。ヨーロッパの環境保護活動家とかのソーシャルジャスティスウォーリアーもそうで、自分では美術品を作れない無能な人たちが美術品にペンキをかけて壊したり、道路に座り込んで救急車を止めたりして自分に注目を集めて、実際の環境保護に全くつながらなくてもすごいことをやった気分になって自己満足している。こういう人たちは問題を解決するためでなく自分がヒーロー気取りで気持ちよくなるために活動しているので、自分の行動が他人や社会に害をもたらしていても無頓着である。●高望みする婚活女性の視点アラフォーの婚活女性がメディアで取り上げられるときに年収1000万円でイケメンで高身長で高学歴で長男以外で子供は欲しくなくて義両親と同居や介護はしたくないとかの高望みの条件を掲げて炎上するけれど、こういう女性たちは自分を客観的に見る能力がないのだろうかと不思議に思うので、なんでそうなるのか考えてみる。経営者とかの大金持ちの男性がトロフィーワイフとして美人の芸能人と結婚することがあるけれど、この場合はトロフィーワイフは夫の稼ぎで悠々自適に過ごせるので別に文句は出ないだろう。あるいは女医や水商売の経営者とかの高収入の女性が若いイケメンをヒモにするのも同様である。つまりは女性が金持ちになるには、美人になって金持ちのトロフィーワイフとして選ばれるようになるか、あるいは自分で事業を起こせばよい。ところが高望みする婚活女性の場合、美人というほどでもないのにトロフィーハズバンドの稼ぎで悠々自適に生活したがっているところが図々しいし、自分にたいした収入があるわけでもないのに低収入の男性を見下しているのも感じ悪い。しかも条件だけで選別して人格を見ていないのも相手に対して失礼である。こういう女性たちは自撮りをする女性のように、夫の肩書を自分を飾り立てる背景素材として使おうとしているのだろう。なんで当事者なのにそのおかしさを客観視できないのかというと、周りで婚活している女性が高望みの条件をつけていつまでも結婚できない人だらけなので、その中で自分ひとりだけが特におかしいとは思わないのかもしれない。ガンジス川で水浴びしているインド人たちが汚いという自覚がないようなもんで、周りがみんなやっているからそれが普通だと思って心が汚れている自覚がないのだろう。もし周りの人たちが相手の年収なんて関係ないわよ自分で稼ぐわよ容姿より性格わよという人だらけなら自分ひとりがイッセンマンッ!イケメンッ!出てこいやッ!と鼻息を荒くしているのはおかしいと気づくのかもしれない。●被害者ぶりっこの視点Xでしばしば交通事故のドライブレコーダーの映像が出てくるけれど、外国で女性ドライバーが信号待ちで止まっている車に後ろから衝突して、自分に非があるにもかかわらず被害者ぶって相手を批判している様子が晒されていた。こうした女性の傲慢な態度は「退かぬ!媚びぬ!顧みぬ!」とも揶揄される。5ちゃんねるが2ちゃんねるだった頃に、自分が浮気をして有責で離婚しても女性だから慰謝料をもらえると勘違いして相談を書き込んで夫を責めていた「伝説の92」と呼ばれる女性もいて、そういうとんでもない勘違いをしている人たちはまとめサイトで「報告者がキチ」というタグがついていたりする。四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件ではATMで女性が財布を盗もうとして失敗して被害者の男性を泥棒扱いして、男性が誤認逮捕されている間に逃げた。たぶんこういう女性たちは被害者ぶって泣いたりしてかわいそうなふりをすると「どしたん話聞こうか?」と周囲に保護してもらえるということが子供のころから刷り込まれて、危機的状況になったときに生存戦略としてとっさに事実をゆがめて自分は悪くない相手が悪いと罪をなすりつけてぶりぶりと被害者ぶりっこの振る舞いをするようになるのだろう。現代はそこら中にカメラがあって監視カメラやドライブレコーダーとかの客観的な証拠で嘘がすぐにばれるので、自分に非がないと主張してもその場しのぎにしかならなくてあまり賢い生存戦略とはいえない。それでも証拠がない場合だとかわいそうな人を助けてあげなくちゃという義憤にかられてヒーローになりたがる正義マンがしゃしゃり出てくるので一時的な味方は得ることができて、例えば草津町の黒岩町長冤罪事件で虚偽告発した新井町議は被害者ぶることでフェミニストたちを味方につけた。最近は赤いきつねのCMに対してフェミニストたちが女性の頬が赤いのが性的だのと批判しているけれど、この感覚も一般人の感覚と乖離している批判である。漫画やアニメとかのフィクションで女性がどう描かれようが実在の女性が被害を受けるわけではないのに、フェミニストたちは「女性像」が被害をうけたとみなして当たり屋みたいに難癖をつけて表現を規制しようとして、被害者かつ被害者を救済するヒーローという都合のいい立場にいようとしている。●妬む人の視点SNSでは芸能人や有名人のアンチが日々誹謗中傷を繰り返しているけれど、そのエネルギーはどこから来るのかというと、嫉妬が根底にあるのだろうと思う。SNSで誹謗中傷する人を情報開示したら生活保護や精神障害とかで示談金が払えないと泣きついてきたとかのエピソードがあちこちにあるけれど、社会的弱者ほど妬みが強くなるのかもしれない。世の中は不平等で理不尽なもので、生まれた家の親の国籍や裕福さや遺伝子でその後の人生の難易度が大きく変わるけれど、それが受け入れられなくて恵まれた人を妬む人もいるのだろう。あいつだけずるい、だから自分にもよこせという理屈で窃盗を正当化しようとする人もいる。日本人には同調圧力が強くて、自分が損をしてでも相手に損をさせようとするスパイト行動をする人が顕著に多いという行動経済学の研究がある。たぶん日本人は明治時代になるまで農民が土地を離れる自由がなくて同じ集落の同じメンバーでの農耕生活が長かったので、村八分にならないために同調しないといけないというメンタリティーが継承されてきたのだろう。高度経済成長期に終身雇用で一億総中流と言われた頃までは同調圧力があることで社会が円滑になったのかもしれないけれど、もはや終身雇用でなくて個人の自由が大きい現代では同調圧力はむしろ邪魔になっている。スタート地点は違っても結局は自分が知識や技術を身に付けないと自分の生活は向上しないし、自分より恵まれた人や優れた人を妬んで引きずり下ろして平等にしようとするのは不毛なので、SNSで有名人の生活を見て妬む暇があるなら自分の生活を向上させることに集中するほうがよいだろう。論語に「子曰く、如し周公の才の美有るも、驕り且つ吝ならしめば、其の余は観るに足らざるのみ。」というのがあって、いくら周公みたいな多才な人であろうが傲慢でケチならダメよと言っている。「君子は泰かにして驕らず。小人は驕りて泰かならず。」というのもある。実業家や芸能人とかの社会的成功を収めた人の中には傲慢でケチな人も少なからずいるし、松本人志みたいに女遊びに金を払うのをケチって転落する人もいるけれど、たぶんそもそも成功する人の絶対数が少ないので、成功するまで必死で仕事だけして生きてきて成功した後に教養がないし周りに諫める人もいないのでどう振舞えばいいかわからないのだろうと思う。だからといってそういう人たちを妬んで誹謗中傷してざまあみろと憂さ晴らししてよいわけではないし、才能がない人が傲慢でケチならなおさら見苦しくなる。●小説家の一人称の視点統計があるのか知らないけれど、私の体感だと男性の小説家には三人称の小説が多くて、女性の小説家には一人称の小説が多い印象である。そんで女性の小説家が書く一人称の小説は語りの構図が矛盾していることが多い。例えば『推し、燃ゆ』や今読んでいる途中の『コンビニ人間』とかも現在進行形で一人称で語ったりしていて、現実にはありえない矛盾した語り方になっている。これは単に文学理論を勉強していない作家が多いというだけの問題でなくて、性差で物事の認識の仕方が違っていて、女性は構造的な概念の認識能力が弱いのじゃないかと思う。図形認識や空間認識や論理的思考力に男女差があるのは科学的に研究されていて、男女差はないという説もあるけれど、将棋や囲碁では男性のほうが強いのが現実で、一般人の平均的な能力でなくプロ同士の能力を比べると明らかな性差がある。情報量が多い視覚的な構造の認識でさえ差がでるのだから、情報量が少ない抽象的な構造の認識でも当然性差が出てくるものだと推測できる。その一方で、女性は母語や外国語の言語能力や共感力とかの非言語能力が男性よりも高いと言われていて、これは狩猟採集生活をしていた頃に女性が赤ん坊の表情や泣き声とかに反応して育児していく中で能力が高まって性差ができたものと思われる。そんで共感力が高い女性の小説家は共感力を活かして登場人物に感情移入してそのまま登場人物になりきって一人称で小説を書こうとして、結果として矛盾した構造の一人称の書き方になることが多いのじゃないかと思う。美術だとでこぼこした複雑な立体の透視図の書き方を間違えると矛盾したねじれた線が出てきてしまうけれど、図形認識能力が低いとその矛盾に気付かない。スペインで美術品の修復に明らかに失敗しているのに修復した人に失敗の自覚がないのも認知能力が低いからだろう。小説も同様に文字だけで空間と時間の推移の四次元の物語を書く必要があるので、映画のカメラマンのようにどの場面をどの視点から俯瞰してどこに焦点を当てるかという構造を理解する能力が必須になるし、その能力が低いと構造の矛盾に気付かなくなる。共感力が高いのは長所と言えるけれど、だからといって小説の構造が矛盾してよいことにはならない。俳優の演技なら登場人物になりきるやり方でいいし、脚本家はセリフが中心で空間を描写する必要がないし、詩は抽象度が高くて主観的な感性が魅力になるので、共感能力が高い一方で空間認識能力が低い人は小説家よりも俳優や脚本家や詩人とかのほうが向いてると思う。●まとめ私は研究者でないので根拠のないただの偏見だけれど、男性は三人称的に社会と自分の感情を切り離して見る人が多くて、女性は一人称的に社会と自分の感情を結び付けて見ている人が多いような気がする。例えば女性は自分のことを〇〇ちゃんと言ったり、公的な場で家族に言及するときに第三者から見た血縁関係の「父」「母」でなく自分から見た「お父さん」「お母さん」と言ったりする。性差だけでなくて個性の影響もあるだろう。感情に左右される一人称的な視点ではものの見え方にバイアスがかかってしまうのが問題で、面白い考え方をする人がいる一方で、偏見にとらわれて困難な生き方をしている人もいる。男性は生涯を通じて視点があまり変わらなくて、社会に出て競争して強くなって地位を得て相応の配偶者を得て家族を守るために死ぬまで敵と戦うだけである。一方で女性は若くて弱いときは同性と群れて仲間外れにならないことが生存戦略で、婚期になると仲間の同性を出し抜いて利己的に優れた配偶者を得る必要があって、妊娠中は利己的でないと胎内の子供を守れなくて、出産後は〇〇ちゃんのママという社会的立場になって利他的になって子供を生活の中心にしないと子供を育てられなくて、育児中はまた群れを作ってママ友とギブアンドテイクで協力するのが生存戦略になって、育児が終わって働きはじめたら歴戦のゴリマッチョ男性と不利な競争を強いられてセクハラやパワハラの被害にあうので、ライフステージに応じて社会性や視点が変わる。その視点の切り替えがうまくできないと、子供を自分を飾るアクセサリーのように扱って子供の学歴でマウントを取ろうとして教育虐待をする毒親になったり、ママ友にクレクレ攻撃して利己的で非常識な人として仲間外れにされたりして不幸になってしまう。というわけで、人生や社会のいろいろなところで視点が重要である。視点を理解するには芸術を鑑賞したり小説を読んだりするのがよいと思う。
2025.02.16
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自転車便のメッセンジャーが刑務所に行く話。第166回芥川賞受賞作。●あらすじ佐久間(サクマ)は急ぎの自転車便を届ける途中にベンツに迫られて転倒してしまい、自転車が壊れたので近藤に配達を頼んで事務所に戻って自転車を修理する。所長の滝本に正規雇用にならないか誘われるものの、体力的にきついので断る。仕事が終わって事務所に戻り、町を見るとブラックボックスみたいだと思う。近藤が店を出すために仕事を辞めることになり、サクマは横田と晩飯を食べながら転職について会話して家に帰る。サクマは大家の離れの家に円佳と同居していた。部屋が片付いていないのに苛つきつつも円佳とエッチしたら妊娠したので、正規雇用になろうかと思ったらもう横田が正規雇用になっていた。滝本が近藤の陰口を言うのをダサいと注意したらシフトを減らされて、ウーバーイーツの仕事をしていたら税務署の職員が税金を払えと言うので職員と警察官を殴って逮捕される。刑務所に円佳から手紙が来ても子供のことは書かれていなかった。同じ部屋の伊地知が向井の食事にいたずらしていたので喧嘩して懲罰を受けて、手紙の返事を書きそびれたので忘れることにした。●感想サクマを焦点人物にした三人称。オーソドックスなリアリズムのスタイルで、ほとんどの読者が知らない自転車便の配達員を主人公にして、自転車パーツや業務内容とかの細部を詳しく書いているのはよい。作者は2016年にデビューして2021年にこの小説を書いていて小説を書き慣れているようで、描写や展開の仕方の基本ができている。いつの物語なのか明示されていなくても、「コロナ」という単語を出すことで現代の物語なのだと時代を仄めかすやり方は手際がよいし、登場人物はキャラ立ちしていて書き分けができているので名前を覚えやすい。しかし地の文で「ベンツ」「マック」「バーガー」みたいな略称を使っているのは気になる。神の視点の三人称の小説は建前としては作者がその世界にいないことになっているけれど、略称を使われると作者の存在を意識してしまって若干リアリティがなくなるので、作者の存在を感じさせないようにしてほしい。56ページの「高橋は、確か横田と同い年の二十四だ。」みたいに地の文でサクマが読者に対して直接説明するような書き方もおかしくて、三人称なのに地の文が客観的でなくて主観寄りになっている。刑務所にいる佐久間が過去の自分を客観視して回想してサクマについて語っていると解釈できなくもないだろうけれど、それだと144ページの「もういないやつなんかどうでもいいわ」という態度と矛盾するので、こういう主観交じりの三人称の書き方が意図的なのか単に下手なのかよくわからない。描写や説明の量もアンバランスで、横田との雑談や大家の家の離れがどうなっているのかとかのプロットに関係がない部分は書きすぎなくらい詳しく書くのに、円佳とのエッチの場面は6行くらいしかなくてDays Goneでだらだら遊んでいる場面より短いし、サクマが家から離れたかったという割には親との関係を掘り下げないので、焦点を当てて掘り下げる部分がちぐはぐな感じ。固有名詞の扱い方も一貫していなくて、iPhoneやYahoo!ニュースやNetflixやDays Goneとかは固有名詞を出すのに、70ページに出てくる100人が戦うゲームはPUBGなのか荒野行動なのか知らないけれど名前を出さないのは基準がよくわからない。あとタイトルだけ見て何の内容なのかわからなくて興味を惹かれないのでもったいない。他人の生活の様子はブラックボックスみたいでよくわからない、明日がどうなるかわからないというテーマをタイトルにしたのだろうけれど、異化したりして面白そうなタイトルにするほうがよかったかもしれない。文学的な仕掛けとしては、82ページでいきなり刑務所の場面に飛んで、過去の出来事か未来の出来事なのか妄想なのかよくわからなくなるような場面を展開している。これは物語に緊張感をもたらすけれど、その一方で読者を混乱させるので、あまり効果的な手法とは言えない。それに自転車便のネタだと話が膨らまないので後半の刑務所の話とつなげてニコイチにして、そのつなぎ目をごまかそうとしているように見える。刑務所の中の様子をテーマにしたフィクションはすでにあるし、せっかく自転車便を取り上げたのだから自転車便のネタだけで作品として仕上げてほしかったけれど、自転車便の話はウーバーイーツに逃げてしりすぼみになって終わってしまって、これなら別に自転車便の話でなくてもいいじゃんと思った。ニコイチみたいなやりかたで中途半端な中編にせずに、短編で自転車便の話か刑務所の話のどちらかに絞るか、あるいは長編で出所後の話も書いて円佳との人間関係を発展・変化させて、子供を見てサクマの考え方が変わるとか子供にイラついて殴り殺すとかのオチをつけるなりするほうが作品の完成度は高くなったかもしれない。例えばシリトーの『長距離走者の孤独』は長距離走という一つの場面で一つのテーマを書いて余計な場面がなくて、暴力を使わずに反抗をするやり方もひねりがあるので短編の名作として残っているように、文章を長く書くよりも必要最小限の文章に削る方がセンスがいる。心理描写としては喜怒哀楽のうちの怒の連続で、感情のメリハリがないのでストーリーが単調になって人物像が浅くなる。サクマはそういう人なのだと言われればそれまでだけれど、変化や成長が見られないので人間的魅力がない。サクマは出所後も同じような短慮で衝動的な行動を繰り返すのだろうし、サクマの今後の人生が気になるわけでもなく「もういないやつなんかどうでもいいわ」という読後感になる。1950-60年代のイギリスではangry young menの労働者を描いたキッチンシンク・リアリズムが流行したけれど、現代の日本を舞台にしてサクマみたいな些細なことで怒って周囲に反抗して殴りかかる若者を書いても20世紀の古臭い怒り方みたいな感じで今時の若い読者は共感しにくいと思う。Adoの「うっせえわ」の歌詞に「殴ったりするのはノーセンキュー」とあるように、殴らないで反抗的な言葉を言うのが21世紀のZ世代のおしゃれな反抗の仕方のように思える。angry young menを書くにしても、サクマが単に粗暴なのではなくて何かしらの魅力や哲学的な特徴がないと、昔書かれたテーマを現代を舞台にしてやり直したような既視感が出てしまって純文学としてはあまり見どころにならない。サクマの反抗のカウンターパートになる滝本や税務署の職員や伊地知もすぐに物語からいなくなってしまうし、本来カウンターパートになるはずの親が出てこないので、喧嘩が散発的で人間関係に発展性がない。明日のことはわからないという考えもサクマのような体験をしないとたどり着かない思考ではなくて当たり前のことを言っているだけだし、ちゃんと避妊していれば望まない妊娠は避けられるしちゃんと納税していれば税務署の職員が来ないことくらいはわかるのに何言ってんだこいつアホなのか自業自得じゃねーかと呆れてしまう。というわけで私が感動するような内容ではなかったけれど、平凡な書き方に収まらないように工夫する姿勢はよい。元自衛官だとかの作者の実体験以外の話題を取材して作者とは違う生い立ちの人間を書けるかどうかが今後の課題になるかもしれない。★★★☆☆ブラックボックス (講談社文庫) [ 砂川 文次 ]価格:682円(税込、送料無料) (2025/2/4時点)楽天で購入
2025.02.04
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最近はフジテレビが問題になっているので、徒然なるままにオールドメディアについて考えることにした。●オールドメディアとは何かオールドメディアとは新聞、ラジオ、テレビなどのインターネットが出現する以前のメディアで、レガシーメディアともいう。インターネットのニュースサイトやSNSとかはニューメディアと言われる。オールドメディアは単に技術的に古いというだけでなくて、インターネットを使いこなせない情報弱者の老人御用達の価値観が古いメディアのような侮蔑的な意味合いも含んでいる。●オールドメディアの劣化昭和時代は映像コンテンツはテレビ番組か映画しかなかったので、家庭用ゲーム機が開発される1980年代以前はテレビは娯楽の中心だった。そしてテレビ業界に才能がある人が集まってテレビ番組が人気になって、高い視聴率をとれる人気芸能人が所属する芸能事務所がテレビ局への影響力を持った結果、平成時代にはニュース番組やスポーツ番組にも芸能人が出張ってくるようになった。ニュース番組が情報バラエティ番組に劣化して、政治経済の硬いニュースを取り上げなくなって暇な主婦や老人向けにインターネットでバズった動画とかにひな壇芸人が感想を言ったり楽屋トークをしたりして尺を埋めるような速報性もオリジナリティもなくてただ時間の隙間を埋めているだけのようなくだらない内容が増えた。クイズ番組は『アメリカ横断ウルトラクイズ』みたいなクイズ自体の面白さを追求した視聴者参加型の番組からバカを売りにするおバカタレントの変な答えを晒して笑いものにする番組に劣化した。テレビドラマも2000年代くらいまではオリジナル脚本のヒット作があったけれど、インターネットが普及して若者のテレビ離れが進んで視聴率が落ちていくにつれて視聴率を気にして漫画原作のドラマばかり作るようになって、脚本家がオリジナルを脚本を書く能力がなくなったうえに原作改変でしばしば問題を起こしている。昭和や平成は新聞にもまだ権威があって、新聞の社説は立派な文章として入試に使われて、就職活動の際には新聞を読んで新聞の話題を振られても答えられるようにしないといけなかった。新聞は芸能人との絡みがないのでテレビに比べたらまだましだけれど、それでも記者は劣化している。大手新聞社は記者クラブで横並びで情報をもらって政府や警察の発表をそのまま発表して取材能力がなくなって、海外特派員は直接取材するわけでなくて現地のテレビや新聞がどう報じているかをまとめて紹介するだけで、スポーツ新聞のネット版は芸能人のSNSの情報を転載したりして直接取材しないコタツ記事でPVを稼いでいる。共同通信の記者が裏取りをせずに生稲晃子参院議員議員が靖国参拝したと誤報を報道して外交に影響が出たのは論外で、もはやジャーナリストでなくて日本の外交を妨害する諜報工作員じゃないかというほど偏向している。ラジオはインターネットが出現するまでは流行の音楽を無料で聴けるので人気だったけれど、Spotifyとかでスマホで音楽を無料で聴けるようになるとラジオで音楽を聴く需要が減った。それでもオールナイトニッポンとかのトーク番組は人気で、デジタル化にも対応してアプリやポッドキャストで聞けるので通勤時や運転時の暇つぶしの需要があるし、ラジオのJDやアナウンサーは実力がある人が少人数でやっていてテレビ局みたいに調子に乗って不祥事を起こさないので、新聞やテレビほどの劣化はない。●オールドメディアの凋落読売新聞の正力松太郎がCIAのエージェントでCIAの工作活動に長期間協力していたことがアメリカの公文書の公開によって明らかになったように、オールドメディアは3S政策で日本人を愚民化するプロパガンダに使われてきた。しかしインターネットの出現によってオールドメディアの世論誘導が効かなくなってきて、若者中心にオールドメディア離れが起きている。ニューメディアがオールドメディアよりも正しくて信頼できるというわけではなくて、ニューメディアのほうが素人が発言しているぶん間違いは多いだろう。しかしオールドメディアは自社やスポンサーにとって都合が悪いことは報道しない問題がある一方で、SNSでは重要な話題を無視することはなくてむしろ積極的に関わっていくし、誰でも議論に参加して、たとえ誰かの発言に間違いがあっても他の人が間違いを指摘できる。各分野の専門家がSNSで直接意見を発信するようになって、日経新聞が喧伝していた財政破綻論が間違っていたとかの問題が明らかになって、問題が周知されるにつれて「日経よく読む馬鹿になる」などと揶揄されてオールドメディアの権威や信用がなくなっていく。オールドメディアに右派と左派があるように、ニューメディアにも右派と左派がある。FacebookやYouTubeやイーロン・マスクに買収される前のTwitterとかの左派のSNSは、左翼のグローバリズム推進政策やDEI推進政策に反発する人を極右の差別主義者や馬鹿な陰謀論者とレッテル貼りして議論せずに一方的にアカウントをBANすることで言論弾圧をして議論を封殺しようとしてきたけれど、他社や他国のSNSまでは規制できないしかえって反発と分断を生んで懐柔することもできなくなったので、結局は左翼に都合がいいように世論を誘導できなくなった。それが端的に表れたのがアメリカの大統領選挙で、オールドメディアはこぞってハリスが優勢だと報道して討論でもハリスをひいきしてきたけれど、開票したらトランプが激戦区を制して圧勝して、新聞やテレビの偏向報道による世論誘導が不発に終わった。トランプはポッドキャストで長時間のスピーチをして若者の支持者を増やしていたように、もはや左翼メディアの検閲や編集を通さなくても自分の意見を直接相手に伝えられるようになった。左翼政党が国民を幸福にしていたら支持を増やしてそのまま左翼政権が続いていただろうに、働かないで福祉にフリーライドする不法移民や偽装難民に給付金を配って自国民以上に手厚く保護するようなでたらめな政策をしてインフレや治安の悪化を招いて国民を不幸にしたので、その反動で右翼が支持を集めて台頭している。政策に失敗した左翼が支持を取り戻すために新しく打ち出せる目玉政策はないので、しばらく欧米の右傾化の傾向が続くと思われる。それでも左翼メディアは選挙結果を直視せず、右翼を批判するばかりで政策の反省もしないので、左翼メディアに愛想をつかして離れた人は戻りそうにない。CNNテレビは約3500人の従業員のうち数百人を解雇する予定だそうな。左翼政党の凋落と左翼が運営するオールドメディアの凋落が重なったことで、オールドメディアの凋落がいっそう際立つようになった。オールドメディアの権威がなくなったのはダブルスタンダードも原因だろう。例えば新聞が安倍晋三と統一教会の関係を批判した一方で、テレビ局では視聴率を上げるために霊能力者や占い師を持ち上げて霊感商法を助長してきた。森喜朗が日本は神の国だと言ったり政治家が靖国神社に参拝したりすると批判するくせに、アメリカの大統領がしばしばゴッドブレスアメリカと言ったりアーリントン墓地に行ったりするのには無反応である。日本は膨大な「借金」で財政破綻するぅーハイパーインフレで円が紙くずになるぅーと大騒ぎする一方で資産は無視するし、アメリカが国債を償還せずに借り換えして27兆ドル(約4200兆円)の膨大な「借金」をしていても破綻するぅーハイパーインフレでドルが紙くずになるぅーとは言わずに無視している。新聞が非正規雇用が問題だと報じる一方で、テレビ局は下請けの映像制作会社やフリーランスを酷使している。他人の不祥事は夜討ち朝駆けでプライバシーを侵害してまで報道するのに、自社の不祥事は隠して目立たないようにこっそり謝罪して謝罪記事にno followをつけて検索結果に出てこないようにする。ロシアがウクライナを侵略したら「日本は西側諸国の一員として武力による国境変更を認めてはならない」と主張するくせに、イスラエルが武力でパレスチナ領内に入植地を拡大しているのは批判せずに黙認している。相手によって主張を変えて態度が一貫していないし、批判はしばしばブーメランになって戻ってきて「お前が言うな」と逆に批判されるので、オールドメディアの左翼ジャーナリストの主張に説得力がなくなっている。●オールドメディアの腐敗新聞は政治的に偏向していて誤報や捏造はあるけれど、性的な不祥事はあまり起こさなかった。それに比べてテレビは芸能界と近いだけあって、バラエティ番組のプロデューサーが芸能人と懇意になるにつれて倫理観も遊び人寄りになっている。最近はフジテレビが女子アナを取引先に上納した疑いが出て批判されている。中居の件は当事者に守秘義務があるので詳細は不明だし当事者が和解しているので他人が詳細をほじくりかえす筋合いはないけれど、中居の件以外にもフジテレビの女子アナがホテルの飲み会に呼びだされたら裸の男がいたと匿名で文春に告発したし、元アナウンサーの青木歌音もセクハラ被害をYouTubeで告発したので、中居の件を脇に置いたとしてもフジテレビ自体に看過できない問題があると言える。一般的な良識として、未婚の若い女性を飲み会に呼んだとしても偉い人のお手つきだとかの変な噂が立たないように男性と二人きりになる機会を作らせるべきではないし、酔っ払いに絡まれてトラブルになったり帰宅が遅くなって事件や事故に巻き込まれたりしないように早めに帰らせるのが年上の男性としての配慮だろうに、その程度の気遣いさえできなくて若い女性を呼び出しておいて一人残して先に帰る人だらけなのもおかしい。もし若い女性を一人だけ残して周囲の人が帰るのが意図的でないとしても良識がないし、もし意図的に女性の合意なしに騙して逃げられない状態にして上納して性の道具として扱うのは上場企業としてはありえないコンプライアンス違反の人権侵害だし、それで上納した側に見返りとして利益がもたらされるのなら人身売買と見なされうる組織犯罪である。女子アナは女性の職業の中では年収も高いし、能力や容姿も求められて競争率も高い。その女子アナを性接待要員として使って男性よりも劣る存在として扱うところに人権感覚が古いオールドメディア仕草が露骨に表れている。高学歴エリートの女子アナでさえその扱いなのだから、ADとかはさらに雑な扱いだろう。どのテレビ局の番組かは忘れたけれど、極楽とんぼの加藤がエロい女性にキャッキャと反応して、最後に若い女性ADが全裸で出てきても全然反応しないというオチになっている深夜番組があったけれど、立場が弱いスタッフを性的なネタに使うのは職業倫理としてダメだろう。権力は腐敗するという法則はメディアにも当てはまるし、メディアが大金を稼いで社会的影響力を持つ権力になるとモラルがなくなって腐敗した。NHKは公共放送として比較的堅い組織だけれど、それでもジャニー喜多川に放送センターのリハーサル室の通称ジャニーズ部屋をあてがって児童虐待を助長していたし、紅白歌合戦のチーフプロデューサーが番組製作費を架空名目で支出してキックバックをもらって懲戒免職になった。いわんや民放をや。日本では電波オークションがないので放送局の新規参入がなくて放送局の入れ替えも起きないし、系列の新聞やテレビがメディアグループを作って利害関係者で株を持ち合っているので、株主によるガバナンスがゆるくて身内の批判ができていない。テレビ番組の内容についてはBPOが勧告するけれど、BPOはテレビ局員のパワハラやセクハラとかを取り締まるわけではない。権力となったテレビ局を批判する新しいメディアとしてインターネットが出現して、テレビ局の中で一番批判されたのがフジテレビだけれど、インターネット上の視聴者の声を「嫌なら見るな」と一蹴したり、高岡蒼佑がフジテレビの韓流推しを批判したら所属事務所と契約を解除されたり、フジテレビの偏向報道に対するデモが起きたりしたように、批判が無視されて改善はなかった。その結果としてフジテレビの問題がついに明るみになって、スポンサーがCM出稿を控えてCMがACに差し替えられる事態になって、フジテレビの経営陣に外資系の株主から圧力がかかってようやく調査をやり始めたけれど、港社長の記者会見が動画撮影禁止で、日弁連のガイドラインに基づいた利害関係者を排除した第三者委員会でなく「第三者の弁護士が中心の調査委員会」を作ろうとしたのも独立性が担保できるか不明で批判されて、記者会見をやり直して社長も交代することになってかえって評判を落とした。港社長は「フジテレビは社員を守る温かい会社でありたい。社長として全力で皆さんを守ります」と社員に一斉メールを送ったそうだけれど、そもそも女子アナウンサーから上司に対して被害の訴えがあった時点で調査せずにこれから調査を開始するのもおかしくて、言っていることとやっていることの辻褄が合っていない。企業はただでさえテレビ広告からネット広告へ移行しつつあるのに、そのうえテレビ局自体の腐敗臭が隠し切れなくなったらいったん離れた大企業のスポンサーがレピュテーションリスクを気にして戻らないのじゃないだろうか。フジテレビはテレビドラマのロケも断られて撮影に影響が出ているようだけれど、今まで調子に乗って態度が悪くて取材協力者やドラマ原作者を蔑ろにして揉めてきたのだから、落ち目になって助けてくれる人がいなくなっても自業自得である。●これからオールドメディアはどうなるのかオールドメディアの視聴者はインターネットを使えない中高年が中心で、50年後くらいにはインターネットを使えない人がいなくなってほとんどの国民はスマホやAIアシスタントを使えるようになるだろうし、新聞とテレビは今と同じことを続けていたら見る人がいなくなると思う。新聞は不要になってもジャーナリズム自体は社会に必要である。新聞は印刷して各戸に配達するのが非効率なのでデジタル版への移行は必須で、記者クラブで同じ情報を得て似たようなニュースを広く浅く発信する新聞社が何社もあっても意味がないので、ジャーナリストの質で差別化するか、トピックの選別で差別化する必要があるだろう。ユーザーは情報源を選べて新聞がなくてもSNSで十分なので、新聞社の伝統と規模に頼るのでなくて情報源として選ばれるために個々のジャーナリストの専門性が必要になる。フジテレビの記者会見では司会に指名されていないのに勝手に発言して進行を妨げる人がいたり、質問を簡潔にまとめられない人がいたりして、フジテレビだけでなくジャーナリストの程度の低さも目立ったので、ちゃんとジャーナリストを育てないとだめだろう。労働安全衛生法違反には官庁の指名停止とかの行政処分があるのだから、新聞が誤報を報じたときもしばらく公官庁の取材を禁止するとかの行政処分をして、日本を貶めようと躍起になっているジャーナリストもどきの反日活動家が政治的影響力を持たないように排除していく必要がある。テレビ局はいろいろな番組を作るのをやめて、テレビならではのコンテンツ作りをする必要がある。ドラマは制作会社が直接インターネットでオンデマンド配信してスタッフが専門化することで質を高めて、くだらないバラエティ番組はわざわざ公共の電波で放送する必要がないので芸人やYouTuberがSNSでやればいいだろう。天気や交通渋滞やスポーツや花火大会や祭りの中継とかのリアルタイムで情報や映像を提供することに意味があるコンテンツだけテレビに集約すれば、テレビにも存在意義が残せるかもしれない。民放がデジタルコンテンツに移行してテレビから撤退して電波の帯域が空いたら、NHKを民営化して受信料関連の法律での優遇をやめて、新しく国営テレビ局を作って国会中継や公務員の記者会見や官報や政府広報とかを専門にしてコメンテーターのバイアスが加わる余地が少なくすれば、NHKよりもまともな公共性がある放送局ができると思う。ラジオは災害に強いという強みはあるけれど安泰とは言えなくて、AIが自然な声で音声を自動で読み上げるようになるとアナウンサーが不要になってしまうし、著作権が切れた小説のAI朗読やAI声優のドラマとかの娯楽番組がわんさか出てきて、個人でもSNSでライブ配信するインフルエンサーがわんさかでてきてラジオの優位性がなくなると思うので、そのぶんAIで代替できない番組づくりが必要になって、トーク番組の司会やゲストの人間的な魅力が重要になってくる。生島ヒロシのパワハラやセクハラが発覚してラジオを降板したように、ラジオは人がコンテンツの中心なので問題がある人に番組をやらせてはいけないし、人がリスクになるなら不祥事を起こさないAIのほうがいいやということになりかねない。結局のところはどのメディアであれ真善美を追求しないコンテンツを提供すれば生活に不要なものや有害なものとして廃れていくので、ちゃんと取材して裏取りして検証して真実の情報を提供して、倫理的に善い行動を推奨して悪い行動を批判して、美しいものを紹介していくしかない。何を真善美と見なすのかは人によって違うし議論の余地があるからこそメディアが検閲して言論統制してはいけない。双方向で議論があるニューメディアと違って、一方向で発信するオールドメディアこそ真善美により高い水準が求められるようになるだろう。バカ向けの低俗なコンテンツを作るのをやめて、質が高いコンテンツを伝えて〇〇を見るとバカになるという評判を覆えさないと、オールドメディアは遠からず使われなくなると思う。
2025.01.29
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才能とは何ぞやとあれこれ考えて、クリスマス前に動画を作りたかったのだけれど、仕事が忙しくてなんやかやで動画作りに時間がかかってしまった。このブログで前にネガティブ・ケイパビリティについて考えたかどうかは忘れたけれど、創作するうえで重要な資質だと思うので、動画を作ったついでに考えることにした。●創作とネガティブ・ケイパビリティ答えが出ない状況に耐える能力の事をネガティブ・ケイパビリティという。詩人のジョン・キーツが弟宛ての書簡で「特に文学において、人に偉業を成し遂げしむるもの、シェイクスピアが桁外れに有していたもの――それがネガティブ・ケイパビリティ、短気に事実や理由を求めることなく、不確かさや、不可解なことや、疑惑ある状態の中に人が留まることが出来る時に見出されるものである。」と書いたことが初出のようで、偉人達は全ての物事が解決できるものではないということを受け入れる能力があるのだと信じたようである。ジョン・キーツが評価したシェイクスピアは、「険しい丘に登るためには、最初にゆっくり歩くことが必要である」と言ったそうな。この言葉に急がない姿勢が端的に見える。芸術家は他の人がたどり着かなかった場所にたどり着くために、後に控えている険しさを自覚しつつゆっくりと時間をかけて歩かないといけない。仏教のパーリ語の経典のサンユッタ・ニカーヤにはブッダと弟子のカーマダ天子との対話で、「この道は、行きがたく、険しいのです。聖者たちは、行きがたき、険しい道を進んで行きます。聖者ならざる人々は、険しい道において、頭を下に倒れます。聖者の道は平らかです。聖者は険しい道においても平らかに歩むからです。」という内容があるようだけれど、この考え方も芸術に当てはまる。人間の身体能力は20代でピークになって、情報処理速度とかの流動性知能は30代でピークになるけれど、脳は歳をとっても成長していって言語能力や批評能力や創造力とかの結晶性知能は60代でピークになる。時間をかけるほど知識が蓄積されて技術が洗練されて成功の確率が高まっていくので、ネガティブ・ケイパビリティがある人にとっては自分の成長を待つことが苦にならなくて、その道は平らかである。ところが金銭欲や名誉欲に駆られた人は自分の成長を何年も待つことができない。恵まれた環境で早く成功した他人と比較して嫉妬して、自分はこんなに努力したり苦労したりしたのに評価されない、理想の傑作が作れないと焦って、理想と現実のギャップのストレスが大きくなるにつれて待つことを苦痛に感じてしまう。『耳をすませば』の月島雫が早く小説を書こうとして焦ってもうまくいかなかったように、早く完成を目指す向上心さえ身をむしばむ呪いになりうる。それゆえに向上心が高い若い芸術家志望者には精神を病む人が多いし、芸術家になった後でもスランプになって思うように創作ができなくなったりしてアイデンティティクライシスを起こして自殺する人もいる。生活必需品でない芸術で生計を立てられるようになるにはただでさえ困難が伴うけれど、おしゃれな芸術家を気取って有名な金持ちになってモテたいという煩悩に惑わされている聖者ならざる人々にとっては煩悩が強いほど苦悩が強くなっていっそう険しい道になる。こうした人々は目的と手段を取り違えて、創作を目的にせずに立身出世の手段にしてしまうので、偉大な芸術家にはならないだろう。脳に可塑性があると提唱されたのは1973年からのようで、それ以前は才能は生まれつきのものだとみなされていたので、昔の人は余計に才能の有無を気にして苦悩したと思われる。芸術作品はコンペに出品したりして他人に評価してもらうことで作品の価値が上がって仕事が増えていく仕組みになっているので、他人の評価を気にせずに創作を続けるのは心理的には難しい。しかし評価されなくても気にせずにめげずに自分の芸術観を貫いて創作を続けられる人の中から偉大な芸術家が出てくる。例えばゴッホが絵が売れないからといって創作を辞めたり、絵を売るために自分の画風を捨てて巷で流行している売れ筋の画風に変節したりしていたら、金持ちたちが何十億円も払って所有したがる独特な「ひまわり」は存在しなかった。カフカも生前は小説があまり評価されないまま創作を続けて、死後に友人のマックス・ブロートが未発表の遺稿を公表してから評価された。メルヴィルも生前はあまり小説が売れなかったけれど、『白鯨』はアメリカ文学の古典になっている。世間の人は登山家の登頂シーンやマラソンのゴールシーンのクライマックスだけ見たがって、日ごろの地味な準備やトレーニングを応援してくれる人はなかなかいない。最初は応援してくれる人も、何年経ってもなかなか成果がでないと応援しがいがないので飽きて離れていく。芸術家は自分が行く先には結局何もないのではないか、人生を無駄に費やしたのではないか、という疑念にも耐えないといけない。その不確実さの中に飛び込んでいくには勇気がいる。誰も勇敢さを褒めてくれない類の、自分の死に場所を求める勇気がいる。来た道を戻って着実に成果が出るありふれた仕事をして平凡な市民としてそれなりに幸福な人生をやり直す選択肢があっても、その平凡な選択肢さえも捨てて道なき道を手探りで進まないといけない。たとえたどり着いた先に何もないとしても、それもまた自分がその道を歩まなければ見えなかった景色である。その秘境探検を面白いと思える人は芸術家に向いているのだろうし、苦行や無駄と感じる人は芸術家には向いていないだろう。他人の進路に対して向いてないからやめた方がいいよとは軽々しく言えるものではないけれど、創作することで苦しんで不幸になる人は創作を辞めてゲームするとか猫を飼うとかのもっと楽しい事でもしたらいいじゃんと思う。
2025.01.22
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ファンを殴って炎上したアイドルをアホな高校生が推す話。第164回芥川賞受賞作。●あらすじ高校生のあかりは何かの病気で学校を休みがちで保健室の常連になって、「まざま座」の上野真幸がピーターパンを演じるのを見て自分を重ねて推すようになって、上野を推しているときは元気になれたので、推しくんのブログを書いて他のファンたちと交流していた。上野は謝罪して活動を再開して、あかりは夏休みは定食屋でバイトしてミスをして常連客にあかちゃん呼ばわりされながらバイト代を推し活につぎ込んでチケットを買う。あかりは子供の頃から勉強ができなくて、そのせいで勉強を頑張っている姉のひかりの気分を害して喧嘩していて、母の負担になっていた。CDを50枚も買ったのに上野の順位が5位になってしまったので、推し活以外にお金を使わないことにしてさらに推し活にのめり込む。成績が悪くて高校2年の3月に原級留置を言い渡されたので退学すると、祖母が亡くなって海外転勤していた父が一時帰宅して、進学も就職もしないならお金は出せないと言われて、祖母の家で一人暮らしすることになるものの、バイト先に欠勤の連絡を忘れていてクビになる。上野が殴った相手はファンではなくて同棲している女性だと噂されて、「まざま座」が解散することになったので、あかりは最後のコンサートに行く。●感想あたし(あかり)の一人称。いつの時点でいつの出来事を誰に対してなぜ語っているのか不明で、過去形と現在形が混在して現在進行形で実況中継したり過去の回想をしたりしていてナラトロジーを理解していない書き方になっている。ページに文章がみっちり詰まっていて言葉が多くて勢いでごまかしているけれど、技術の基礎ができていなくて文章が洗練されていないので言葉の多さがかえって読みにくさにつながっている。それにあかりは漢字を書けない子供だったと国語力が低いエピソードを言っているのに、誤字脱字もなく「戦慄き(わななき)」とかの漢字を使って饒舌に自分語りの小説を書いているのは矛盾している。もしあかりが小説家志望で常にメモを書いているとかなら実況中継する語りの構図のリアリティは出せたかもしれないけれど、そういう設定でもないので、あかりが自分の生涯について語ろうとする物語というより、作者があかりを通じて推し活について説明しようとする意図が前面に出てしまってあかりの存在自体にリアリティがなくなっている。いわば操り人形の糸が見えてしまっている状態である。語り手に魅力がないと小説全体の魅力がなくなるのが一人称の自分語りの欠点で、あかり自身に魅力がないとこの登場人物の人生の続きを読みたいと思えなくなってしまう。あかりは自分語りをしているくせに自分の将来の目標とかに言及せず、病名を覚える気がなくて病気の治療にも向き合おうとしない欺瞞がある。こないだ読んだ市村沙央の『ハンチバック』が病気の症状を詳しく掘り下げて病気に向き合っているのに対して、この小説はあかりが何の病気でどういう症状があって治療可能なのか読者が知りたいことを語らないので、勉強ができなかったりバイトでミスしたりするのが病気のせいなのか不明でかわいそうな感じがしなくて、あたしなりに頑張ったのに周りに理解されなくてつらいのよとぶりっこされても同情できなくてどうでもよくなってしまう。病名を出さずに病気をダメ人間の演出としてご都合主義的に利用しているのはよくない。物語の展開はあかりと推しとの関係がどう変わるのかという点がストーリーの軸になっているけれど、バッドエンドになる予想がつくし、予想外の展開が起こるわけでもないのでストーリー自体は特に面白いものでもない。ピーターパンを演じていた上野がアイドルを辞めて人間に戻ったので、あかちゃん扱いされて食べ物を吐いて自活できないあかりも四つん這いから人間をやり直して大人になることを目指すというようなことをやりたかったのかもしれないけれど、親に見放されて救いようがない話になっている。頭が悪くてかわいそうな状況の女の子を主人公にしてみじめな様子を見どころにして読者に同情させようとするのは安直で、今村夏子の『こちらあみ子』とかもそうで女性の小説家の安パイの展開パターンになっている。一時期流行したケータイ小説がDVされて堕胎したりする話だらけだったそうだけれど、悲惨な人を書くだけなら素人でもできるけれど、そういう人をどう救えるのか何に希望を持てるのかまで書かないと純文学としての見どころにならないし、かわいそうな人を小説のネタとして面白おかしく見世物にして金を稼ぐ下衆な行為になってしまう。登場人物に関しては、女性の作者の小説によくあることだけれど大人の男性があまり物語に出てこない。父親は海外転勤することになって、家族が父親についていこうとするのを祖母が止めたので父親が家にいない状況になっているけれど、書きにくい人物をご都合主義的に物語から排除したように見える。ホストやコンカフェにはまる女性たちには父親に褒められた経験がなくて男性に褒められるのがうれしくなって父性を求めて推し活に依存する人もいるそうだけれど、そっち方面の心理を掘り下げるわけでもないので、父親の不在が単に不在なだけになっていて主人公の心理を掘り下げる文学的な仕掛けとして機能していない。単身赴任していても父親と連絡はとれるだろうに、あかりは連絡をしないどころか父親の事をほとんど考えていないし、父親の職業も海外がどこかも不明なままである。そんであかりと母と姉との不和という女性の作者にとって書きやすい同性の身内の展開に逃げているのはよくない。いもむしちゃんとかの他のファンとの交流が伏線になるわけでもないし、冒頭に出てきた成美も終盤に出てこなくなってプロット上の役割もないので、何のために登場したのかよくわからない。良い点としては、推し活という現代的なテーマを主題にしたことはよい。中年男性の作者がいまどきの若い女性の心理を書いても違和感が出るし、女子高校生に近い年齢の女性の作者でないと書きにくい女子高校生の推し活を書いたという点では語りの形式がでたらめでリアリティがなくなる分をある程度はカバーしている。タイトルの時点で予想していたけれど予想通りの『文藝』クオリティで、若者向けの純文学雑誌の『文藝』に掲載するなら読者も文学理論を理解していないのでこういう小説でもいいのだろうけれど、綿矢りさの売り出し方と似たようなものでナラトロジーを理解せずにイタコの口寄せみたいに主人公を憑依させて心理を代弁する一人称で書き続けても「若い割にはまあまあ書けてる」レベル止まりで中年になっても大成しないパターンになりそうな感じ。他の文芸誌が載せないような若い小説家の粗削りで未熟な小説を載せることに『文藝』の存在意義があるのだろうし、頑張っている若い小説家を若い読者に推してもらうのが『文藝』の狙いだろうから、そういう点でもこの小説は『文藝』には合っているけれど、これって純文学じゃなくてノンジャンルのエンタメ小説を純文学雑誌に載せてるだけじゃないのと言いたくなる。日本料理店でピザを出しても日本料理とはみなされなくて、民謡レーベルからヒップホップをリリースしても民謡の曲とはみなされないように、純文学雑誌にこの小説を載せても純文学じゃないじゃんと私は思う。私は純文学に芸術としての洗練された技術や作者の人生観の表現を期待しているので、こういうでたらめな一人称の語りの小説は欠点の多さが気になって楽しめない。例えば若い女性が車を運転してアクセル全開で信号無視して横断歩道の歩行者をなぎ倒してコンビニに突っ込んだら、運転初心者の若者らしくて型破りで元気があっていいねとは褒めないし、あたしなりに頑張ったのに周りに理解されなくてつらいのよとぶりっこされても同情されなくて運転が下手だと批判されるだろう。運転がうまいレースドライバーはコースの構成を熟知してタイヤの減り具合やブレーキの利き具合も熟知して車の動作を完璧に制御して、他の車の軌道も計算に入れて前の車のタイヤがすり減ってグリップが効かなくなってカーブで膨らんだところでインサイドに入って抜いたりして、その芸の上手さを競って見世物にしている。小説でも言葉数を増やして感情的にワアワアまくしたてて勢いよく書きなぐればよいというものではなくて、視点や章立てとかの小説の構成を理解していなくて言葉の制御ができていないのは技術的に下手だし、上手い小説家は読者に小説がどう見えるかという読者の認知まで計算に入れて制御するものである。例えば本格ミステリではどの段階で読者がどれくらいの情報量を得ているのかという読者の反応を制御しながら物語を展開して読者に犯人の推理を楽しませて、終盤のここぞというときにトリックを明かして読者の推理の予想を裏切るようなフィニッシュを決める。私はそれが上手いと思うし推理を楽しめるので本格ミステリが好きである。『文藝』の藝の字が飾りでないなら、若くて未熟な作者のパッションあふれる下手な作品を見世物にするのでなくて読者が感心するようなプロとしての洗練された藝を見せてほしい。あるいは漢字を読めない若者向けに雑誌の名前を『文げい』に変えたらいいと思う。『文げい』掲載作なら藝がなくても仕方がないと思える。★★☆☆☆推し、燃ゆ (河出文庫) [ 宇佐見 りん ]価格:638円(税込、送料無料) (2025/1/12時点)楽天で購入
2025.01.12
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おっさんの釣り仲間が死んでしまう話。文学界新人賞を受賞したデビュー作で、第157回芥川賞受賞作。●あらすじ1わたしは会社の異動で盛岡市に移住して、友人の日浅典博と川釣りに行く。日浅は物流課の課長だったけれど退職してすぐにセレモニーホールに転職して訪問営業をしていて、わたしがお気に入りの川に誘ったのだった。日浅は大きなウグイを釣った。2日浅に釣りに誘われたので川に行くと、営業ノルマを達成できなくてクビになりそうだからと頼まれて契約する。日浅に服装やアウトドアグッズを貶されたので、わたしは日浅が勧める酒を断って家に帰って、性転換して女になった副嶋和哉に電話をかける。3アパートの大家の妹の鈴村さんは回覧板を郵便受けに入れると怒るので「次の人」と呼ぶ。東日本大震災が起きて昔の同僚から見舞いのメールが来る。出社するとパートの西山から日浅が死んだかもしれないと言われる。日浅は東日本大震災の時に釜石に営業に出かけて海に釣りに行って津波に巻き込まれたのかもしれなかった。6月に日浅の実家を訪ねると、父親は日浅とは縁を切ったから捜索願は出さないと言って、日浅のエピソードを聞かされる。●感想「わたし」(今野)の一人称。こないだ読んだ『ハンチバック』みたいな私小説で語り手が自分の障害を理解してほしくて語るのと違って、この小説の今野は一人称で語る動機がない。『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーみたいに登場人物がすごいキャラ立ちしているならその相手に惚れた語り手が熱心にその人について語るのもわかるけれど、今野が日浅についてなぜ語りたいのかよくわからない。田舎に赴任して寂しい今野が日浅と喧嘩したとか大家の妹に回覧板の回し方で文句を言われたとかの愚痴レベルの話をお金を払ってまで読みたいかというと私は興味ないし、愚痴ならキャバクラで言っとけというレベルの話題である。構成の点では冒頭の現在-過去-現在の構成がわかりにくい。今野と日浅との関係を中心に物語が展開するのかと思ったら、中盤に和哉やら大家の妹やらの話題にそれたりするのも構成がよくなくて、日浅のプロットと関係ない脱線になっている。長編なら脱線しても後のエピソードへの伏線にできるけれど、短編で脱線すると語り手に何の意図があって誰の話を展開したいのかという物語の軸になるプロットがよくわからなくなるので、物語の続きが気になって引き込まれる感じがなくなってしまう悪手になる。前半に川釣りの話を展開していたのに終盤に急に海釣りの話になるのも違和感がある。渓流釣りとバス釣りと磯釣りと釣り船での沖釣りは装備や釣り場やターゲットや醍醐味が違うので釣り師はお金持ちでない限りはあちこちに手を出さずにどれか好きな分野の装備を充実させていくものだと私は思っていたのだけれど、日浅は海釣りの装備を持って釜石に営業に出かけたのだろうか。8ページの「そもそもこの日浅という男は、それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた」という記述が最後の日浅が津波を目にして逃げようとしないところへの伏線になっているけれど、内陸育ちで川釣りが得意な日浅が急に海釣りをすることへの説得力がないとプロットありきでオチをくっつけたようなご都合主義的な感じになってしまう。登場人物にも魅力がない。今野は日浅に一目置いている感じに書いているけれど、その魅力がわかるような具体的なエピソードがない。ラストに明かされる日浅の悪事がある意味では魅力と言えるけれど、今野が日浅を好きになる理由がよくわからない。今野も凡庸なので語り手をしたいのか登場人物をしたいのかどっちつかずで、物語の主人公がいなくて脇役だけ集まって些細な事でごたごたしているようなまとまりがない感じになっている。今野が和哉と2年付き合って別れたという話も同性愛のカミングアウトなのかよくわからなくて、扱い方が中途半端である。良い点としては、釣りの動作や服装などの描写は良い。2章で今野の服装が日浅に貶されることで認知的不協和を起こして、今野が日浅に対しても感情が悪化していく様子はよく書けている。しかしそれが面白いかというと、別に面白いというほどではない。描写が丁寧でもテーマ自体がつまらなければどうしようもなくて、他人との些細な諍いは誰でも多少経験していることで目新しさはない。言葉遣いにもポエジーやユーモアがない。こういう文飾が少ない自然主義純文学みたいな作風で書くのは作者の自由だけれど、平凡な人のつまらない日常をリアルに描いても結局つまらないという自然主義純文学の欠点を克服しないと読者にとって面白い話にならない。この小説が作者の友人の死を基にして書いたのかフィクションの登場人物なのか知らないけれど、人が死ぬ話を書けば文学的というわけでもなくて、毎日地球のどこかで誰かが死んでいるし、今野にとって親しい人が死のうが生きていようが読者にとってはどうでもいい話で、ただ人が死んだ感傷を書いただけでは純文学としての見どころにならない。今野にとっては親しい人が死ぬのはめったにないことかもしれないけれど、読者は数百回や数千回の登場人物の生死を見てきているので、ありふれた感傷でなくて田舎で生きることの人生観とかを掘り下げてほしい。結局のところ日浅の死は今野にとっては他人事でしかなくて、これから今野がどう生きてどう死ぬのかというところにつながらない。釣り文学として他の小説と比較すると、ヘミングウェイは『老人と海』で老人の不屈の闘志をハードボイルドのスタイルで書いて、『二つの心臓の大きな川』は第一次世界大戦後にPTSDになったニック・アダムスが釣りで生命力を回復させようとする様子を書いているように、単に釣りを書くのでなくてその背後にある登場人物の生き方を書いている。そこまでテーマや構成を掘り下げずに単にサラリーマンが釣りをする場面を書いても純文学としての見せ場にならなくて、芸術としての勘所を外している感じ。釣りの様子を見たい人はYouTubeで釣り動画を見ればいい話で、釣りを小説として書くことへの芸術的な意味付けがないと読者が釣り文学を読む意味がない。それに川釣りを書いているのに遊漁券への言及がないのも釣りへのこだわり具合が中途半端である。電車に乗るときに乗車券を買うことは一般的なので描写を省いてもいいけれど、遊漁券は地域によって違うので、岩手ではどうなっているのかを書いてほしい。日浅がふだん遊漁券なしに密漁しているかどうかでも日浅の人間像が変わってくる。というわけで純文学っぽい形にはなっていて描写は丁寧で悪い小説というわけではないけれど、新人らしくて構成がたどたどしくてあちこちが中途半端で、新人の小説のわりにはこぢんまりしていて芸術的野心や個性や思想が見えなくてテーマもスタイルも既視感があるので、この作家の他の作品を読んでみたいという気にならない。この小説は芥川賞を受賞したけれど、作者はこのスタイルで純文学を書き続けるより、エンタメのストーリーテリングの手法を学んで三人称でエンタメを書いたりして小説の展開方法の引き出しを増やす方が描写力を活かしてもっと面白い小説を書くようになるかもしれない。★★★☆☆影裏 (文春文庫) [ 沼田 真佑 ]価格:605円(税込、送料無料) (2025/1/5時点)楽天で購入
2025.01.05
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最近は妹尾ユウカが「商談の際などにパーカー着てる会社員のジジイなんなん?」とビジネスシーンでパーカーを着ているおじさんを批判したところ、おじさんたちがビジネスの文脈を無視して怒っているようである。ファッションに疎い私もパーカーを着ているので、徒然なるままにおじさんがパーカーを着ることについて考えることにした。●パーカーとは何かパーカーとは綿やポリエステルのトレーナーにフードがついた服で、英語ではhoodie(フーディー)と呼ばれる。プルオーバーパーカーはお腹の部分にポケットがついていることが多くて、ホッカイロや自販機のホットの缶コーヒーとかをポケットに入れるとお腹が暖かくなって便利である。ジップパーカーはジップを閉じずに羽織って使えるのでプルオーバーパーカーよりも温度調節をしやすいし、薄手のジップパーカーは夏に紫外線を防ぐためのUVカット用として使われていて実用的である。アウトドア用のマウンテンパーカーはたいてい化学繊維の撥水仕様で、登山の時に傘をさすと風にあおられたり木に引っかかったりして歩きにくいので雨をしのぐためにフードがついていて、袖口やポケットにも水がはいらないような実用的なデザインになっている。夏以外のアウターはマウンテンパーカーでいいじゃんというくらい機能性が高い。●ビジネスでのおじさんのパーカーの是非基本的にパーカーはカジュアルウェアで、ビジネスシーンで着用するものではない。Tシャツやセーターなら上にジャケットを羽織ればビジカジとして格好がつくのでIT系とかのオフィスワークならそういうネクタイをしないスタイルでもよいけれど、パーカーだとフード部分がはみ出てジャケットやコートに合わないし革靴とも合わないので、どう組み合わせてもフォーマルな感じが出なくてビジネスで人と会うのには向かない。ゆったりしたパーカーは部屋着として着るならリラックス感はあるけれどビジネスではだらしない印象になるし、年齢に不相応な若作りをしているように見られると貫禄がなくなって頼りない感じになって熟練のおじさんのメリットがなくなってしまう。それに服は身分や状況を表す記号としても機能している。スーツを着ていれば仕事をしている人だとすぐにわかるけれど、職場でパーカーを着ていたら私服で休日出勤しているのか制服がないパートタイム従業員なのか役職がよくわからないし、オフィスワークで同僚としか会わないならまだしもパーカーで外部の人と会うとTPOをわきまえていない人として社会的信用もなくしかねない。自分が職場でパーカーを着たいかどうかより、取引相手がパーカーを着ていたらどう思うかを基準にするとわかりやすい。パーカーを着た弁護士には弁護を頼みたくないだろうし、パーカーを着た医者には手術を任せたくないだろうし、パーカーを着た坊主に読経してもらいたくないだろうし、パーカーを着た世襲のボンボン政治家に増税されたらフードの紐をぎゅっと絞って殴りたくなるだろう。独立したクリエイターやアーティストがフォーマルな服をあえて着ないことで無頼で先進的な感じを出してサラリーマンと差別化して認知度を高めるのは営業戦略としてありだと思うけれど、広告代理店の社員みたいに会社の看板で仕事をして組織に守られているサラリーマンが気鋭のクリエイターぶってスーツを着ずに無頼を気取ると室内飼いの小型犬がイキって吠えているみたいでかえってダサくなる。天才サックス奏者のチャーリー・パーカーがパーカーを着ないでスーツを着て観客への礼儀を保っていたように、仕事の中身で勝負できる人は外見で目立つ必要はない。『王様の仕立て屋』という漫画ではスーツのいろいろなうんちくが書いてあるけれど、紳士服の本場のロンドンのサヴィル・ロウのスーツにはブランドタグが付いていなくてどの店で作ったのかわからないけれど着道楽たちは仕立てた店を当てて遊ぶそうな。スーツは着ている人を引き立てる脇役にすぎないので、スーツはロゴでブランドを主張することがないし、サイズがぴったりのオーダーメイドスーツはしわがなくてシルエットが美しくて凛とした佇まいになる。ブランドのロゴがドンと書いてあって主張が強くて誰でも着れるサイズ感でシルエットが大雑把なパーカーは紳士服の美的感覚と対極にあるので、ビジネスシーンでロゴドンパーカーを着る人は場違いな印象になってしまう。●私服でのおじさんのパーカーの是非ビジネスとは違って私服は好きなものを着ればいいじゃんと思うけれど、おじさんが子供が履いていた瞬足をまだ履けてもったいないからと履いていたらおかしいように、年相応の服装はある。それに体型によって似合う服が変わってくるので好きな服が似合うとは限らないし、高級ブランドの高い服を着ればおしゃれになるわけではない。おじさんになると筋力が衰えて貧相になったりおなかが出てきたりして、ポロシャツとかの体にフィットする服は体型を隠せないけれど、だぼっとしたパーカーは体型を隠せて便利である。女性ならゆったりしたパーカーを着るとかわいい印象になって相対的に足を細く見せられるし、若い男性がゆったりしたパーカーを着るとシルエットが丸っこくなって胸や肩や腕のごつごつした男らしさを抑えてなで肩でかわいくて活動的な印象になるけれど、おじさんの服がかわいくなっても老けた顔とちぐはぐな感じになるのが問題で、歳をとって老けていくほどパーカーのかわいさが似合わなくなる。パーカーに合う帽子もベースボールキャップやニット帽とかなのでいっそうシルエットが丸っこくてかわいくなってしまう。角がとれた柔和な老人ならかわいい格好も似合うけれど、まだ野心や性欲があって脂ぎって角が立っている短気なおじさんが服装だけかわいくなっても似合わない。あるいはB-Boyがだぶだぶのパーカーを着ているけれど、ダンサーがだぶだぶしたパーカーを着ると体格やダンスの動きを大きく見せられるメリットがあるし、パーカーがめくれたときに引き締まったシックスパックがチラっと見えるとセクシーだったりするけれど、膝が痛くてブレイキンを踊れないお腹ぽっこりおじさんがパーカーを着て贅肉をチラ見せしても全然セクシーではない。若作りの服装をしたら否応なく若者と比較されてしまって、老化による衰えが見えてしまうと年齢に不相応でみっともなくなる。ではおじさんがおしゃれをしたくなったらどうすればよいのか。ジェントリーというスタイルでジェントルマンとしての威厳を出すおしゃれの仕方はおじさんのおしゃれに向いている。パーカーだとゆるい感じになって威厳が出ないので、襟がついたジャケットを着てかっちりした肩や胴のラインを出すと男らしくなるし、中折れ帽やハンチングとかをかぶれば髪の薄さをごまかせて熟練のおじさんの威厳が保てるし、膝が痛くて杖をついても杖がファッションになじむので老化している印象を和らげられる。あるいはもっと派手なおしゃれを追求する人はダンディなスタイルがよい。コンゴのサプールは赤や緑の派手なスーツを着て街を練り歩いていて、長い手足にフィットした派手なスーツを堂々と着こなすことで派手なスーツに負けない自信に満ちたエネルギッシュな男らしさを強調している。これが派手なパーカーだと子供っぽくなって大人の自信があふれたダンディズムにならない。シャツはネクタイやベストやジャケットと組み合わせることで色や形や素材のパターンを変えられるけれど、たいていのパーカーは単色だし1着で上半身が完成してしまって差し色になる小物もいらなくなるので組み合わせの面白さを出しにくい。というわけでおじさんがパーカーを着てもおしゃれになりにくいので、おしゃれなおじさんになりたい人はパーカーを着ないほうがよいと言えるだろう。私は冬はしまむらで500円で買った無地の黒い綿パーカーの上に中古で500円で買った黒いMA-1を羽織って買い物に出かけているけれど、これはおしゃれのためにパーカーを着ているというより、冬の風が強くて寒い日に耳がしもやけにならないようにするにはパーカーのフードが便利だし、襟付きのジャケットやコートだと買い物用のリュックが合わないので実用性重視でパーカーを着ている。耳当てだと音が聞こえにくくなるし、ニット帽を深めにかぶって耳を覆うのでは台風の後の水田のように髪がぺちゃんこになって一層みすぼらしくなってしまうけれど、パーカーだと音が聞こえるし髪への圧も少なくて耳のしもやけ防止にはちょうどよいのである。私みたいに貧乏で着る服を選べなくて安い服を擦り切れるまで着てなんとか生活をしている人の服装をどうこう言うのは感じ悪いので、貧乏なおじさんの服装は放っておいてほしい。しかし大企業に勤務している小金持ちのおじさんは自分で服を選べるだけの収入があるはずで、服がダサいと文化的な教養や感性がなくてがさつな人とみなされかねない。しばしばプロ野球選手の私服がダサいと言われるように、金があるのにうまく使えていないと一層センスのなさが際立ってしまうので、お金があってそれなりの地位にいてドレスコードがあるレストランやセレモニーに行く機会が多い人はファッションも人並み以上に気をつけるほうがよいだろう。既婚のおじさんが公園で子供と遊ぶときに動きやすいパーカーを着るのは別にいいけれど、独身のおじさんがデートで美術館やレストランにいったりするときにパーカーだとおしゃれをしてきた相手の女性に恥をかかせるかもしれないというくらいのTPOはわきまえるべきである。●おじさんの是非おじさんもかつては若者だったけれど、老いて髪が薄くなってお腹が出て筋肉がしぼんで膝や腰が痛くなって動作がもっさりして見苦しくなっていくのは仕方がない。仕方がないからといってみすぼらしさに甘んじずに、体臭や態度に気を付けたりして他人を不快にしない程度のエチケットはもちたいもので、自分が若い頃に批判していたような自己中心的でうざい老害にはならないようにするほうがよい。おじさんが格好良くなるのは難しいにしても、だらしない格好にならないように気を付けることはできるはずである。中国で夏に暑くてTシャツをめくって腹を出すおじさんの格好が北京ビキニと呼ばれて批判されているように、体型がくずれたおじさんがだらしない格好をするといっそうダメさが際立ってしまう。パーカーを着たらだめなのかと怒っているおじさんたちは、なぜパーカーが良いのか論理的に説明するべきである。自分の行動や美的感覚を否定されたからといって条件反射的に怒って論理的な説明ができないのではもはやおじさんではなくて前頭葉が収縮して感情を抑制できない老害の域に入っている。意見が違うにしてもまず相手の話をちゃんと聞いて論拠や論理構成を把握してから反論するべきで、相手の話をちゃんと聞かずに前提や論理を無視して感情的にわめきちらして威圧して相手を屈服させようとするようなおじさんは若者に馬鹿にされて当然である。格好いいおじさんには若者が憧れて指導してほしくてぞろぞろついてくるものである。若者がついてこないどころか避けられているおじさんが若者にかまってほしくて自己主張したところで見苦しいので、青春を謳歌している若者の邪魔にならないように終活の準備をして社会の端の方で目立たないようにひっそり生きて若者に頼られたら手助けするくらいでよいと思う。
2024.12.20
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せむしの怪物が閉経間際になって中絶に憧れる話。第169回芥川賞受賞作。●あらすじ40代の井沢釈迦は背中がS字に曲がる障害があるものの、親の遺産で生活には困っていなくて自分が所有するグループホーム「イングルサイド」で生活して、エロ記事を書いた収入を寄付して、中卒なので大卒になりたくて通信大学を受講している。グループホームにVRゴーグルを寄付しようとしたら弱者男性のヘルパーの田中に絡まれて、山下マネージャーが腰痛だったので代わりに田中に体を洗ってもらい、生まれ変わったら高級娼婦になりたいとか中絶したいとかSNSに投稿していたのが田中にばれていたので、田中の身長分の大金の小切手をちらつかせて田中をしゃぶると誤嚥性肺炎で入院する。田中を堕胎の共犯にしたかったものの、退院する前に田中は辞めてしまった。●感想釈迦の一人称。先日読んだ古川真人の『背高泡立草』とは対照的に、早い段階で主人公の年齢や職業とかの情報を出していて小説の展開の仕方の基礎ができていて、日々の生活の様子の細部をよく観察している。例えば11ページでは「西向きの掃き出し窓から晴れた日は富士の頂がかすかに見えるけれど、西は右にあるから首が回らない。バルーンシェードの降りる出窓を背にしたワイドデスクの奥を定位置に、午後は座ったきりの生活を送る。正面の壁に50インチのテレビが据えてあって、しかし滅多に私はそれを点けず、隣の入居者の部屋から壁越しに聞こえるテレビの音に時々耳をそばだてた。」と部屋のレイアウトが書いてあって生活の様子がわかるし、18ページでは「巨峰とピオーネが3粒ずつ載った小皿がデザートに付いている。鯖の味噌煮とマカロニサラダとわかめのお味噌汁とごはん。部屋からふりかけを持ってくるのを忘れた。」と食事をちゃんと描写している。こういう細部のアクチュアリティから登場人物のリアリティがでる。人間は毎日食事をしないと生きていけないので、フィクションの登場人物が生きている姿にリアリティを出そうとしたら食事と排泄をちゃんと書く必要がある。ほとんどのジブリ映画で食事をしているシーンがあって『もののけ姫』でサンがアシタカに肉を口移しで食べさせるシーンや『千と千尋の神隠し』で親が勝手に店で食事を始めて豚に変わるシーンや千尋がハクから塩むすびを貰ったりするシーンとかで物語内で食事が重要な意味を持つように、食事をただの栄養補給の作業にせずに面白く書けるのはよいクリエーターだと思う。排泄は下品になりかねないので端折るのは仕方がないにしても、食事は書くべきだろう。この小説ではふりかけの「救世主み」を出しているところがよいし、箸で鯖の背骨を折るのはあざとい気もするけれど小道具の文学的な魅せ方がわかっているやり方である。葡萄も床に落として障害がある生活の不便さを強調するのに使っていて、食事を漫然と書き流さずに意味のある場面として丁寧に展開しているのはよい。生きていれば性欲もあるし、性欲を満たすことが幸福にも結びついているけれど、障碍者の性欲を書くのは難しい。ドキュメンタリーだと男性の障碍者が風俗で性欲を処理する特集をするのは見たことがあるけれど、女性の性欲はテーマにしにくい。健常者の小説家が障害者を取材して濡れ場を書くのでは取材相手の負担が大きいし、他人の不幸で金儲けしているようなあざとい感じが出るし、もし田中みたいな介護施設のヘルパーの弱者男性が女性の障碍者を観察してこういう小説を書いたら批判されて職場を解雇されるかもしれない。女性の障碍者自身が書かないと小説にしにくい空白地帯の内容を私小説として書いたという点でユニークで、好奇の目に晒される作者にも覚悟がいる。釈迦の出版業界への批判はまっとうである。文学界新人賞は確か何年か前にデジタルでの応募を受け付けるように変えたけれど、もし紙に印刷して綴じて応募する従来のやり方だったら負担が大きくて障碍者は応募しにくかっただろう。出版業界は紙での出版にこだわらずに文芸誌のデジタル化もすすめてアクセシビリティを高めていくべきだと思う。90ページ程度の短編なので構成はシンプルで登場人物が少なくて、釈迦が田中と接近して別れるという一つの出来事しかないけれど、シンプルなぶんよくまとまっている。釈迦が田中と命がけでエッチしようとする姿を見せることで冒頭の釈迦が書くエロ記事の軽薄さが消えて、最後に釈迦が書く娼婦の紗花のエロ記事が救済として昇華されて、障碍者についての知識がない読者が釈迦の性への執着を理解できるところまでもっていけている点でこの小説は成功している。技術的には大きな欠点はないけれど、人並みに堕胎することに執着してエロ記事を書いている釈迦が涅槃にたどり着くのは仏教とは違うかなと思った。仏教は執着を捨てて妄想を否定して今の瞬間に集中するけれど、女性は子育てするために男と子供に執着する脳の仕組みになっているし、小説も仏教が否定する妄想である。執着することで生命を全うしようとする釈迦はたぶん仏教の悟りとは違う境地にいると思う。というわけで、単にポリコレ棒で殴りかかってくる障碍者の恨み言の羅列の力技にならず、惰性で小説を書いているような中堅作家以上に観察眼や描写技術がしっかりしていて、表現したいことを過不足なく表現できていてデビュー作とは思えないくらいに完成度が高くてよい小説である。表紙のタイトルがゆがんでいるのもよい。私がブログでいろいろぼろくそに感想を書いていたら小説に命は賭けられないみたいなコメントをもらったこともあったけれど、この小説は作者が死ぬ前に書き残しておきたくて仕方がないことを表現しようとしている気迫がある。純文学はこうあるべきである。★★★★☆ハンチバック [ 市川 沙央 ]価格:1,430円(税込、送料無料) (2024/12/15時点)楽天で購入
2024.12.15
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九州の島にある納屋の草刈りをして帰る話。デビューから5作目で第162回芥川賞受賞。●あらすじ・船着き場大村奈美は母の美穂に言われて島にある20年以上前に捨てられていた母の実家の吉川家の納屋の草刈りをすることになり、美穂の車に乗って、美穂の姉の加代子とその娘の知香と合流してから船着き場に向かって伯父の哲雄と合流して、伯父に納屋について聞くと80年前の戦時中に買ったものだった。・雄飛熱戦時中の夫婦の話。夫は島を出たがり、妻は反対するものの、夫は満州に行くことに決めてしまったので、男が家を買い取った。・昼昼前に島に着いて昼食を食べて、敬子婆ちゃんから戦後に朝鮮に帰る人の船が難破して漁師を助けた話を聞く。・芋粥朝鮮人の男が乗っている船が難破して、漁船に助けてもらって、納屋にいた子供に芋粥を食べさせてやる。・納屋草刈り機で草を刈り、死んだ智朗のオジジが定置網にかかった鯨を引っ張った話を聞く。・無口な帰郷者鯨組の網本の息子の青年が関西に向かう船に乗り、半年して島に戻ってくると村に疫病が流行っていて、青年はあまり話そうとしなかった。・夕方新しい方の家はかび臭くなっていたので除湿剤を取り換えた。奈美は敬子や美穂が死んだあとも島に来て草刈りをするのだろうかと考える。土間にカヌーが置いてあった。・カゴシマヘノコ中学二年生の少年は漁師の父と喧嘩して、父から夏休みにカヌーで海を渡るように命令されて、30万円を持ってどこかの漁港にたどり着いて不信がられて、カヌーで九州を一周する高校生のふりをして鹿児島のヘノコから来たと嘘をつく。・帰路船に乗って平戸に着いて福岡に帰る。●感想三人称で、奈美視点の現代の章と過去の章を交互に展開する構成。句点で文章を長くつなげて改行が少ない文体で、文章量が多いわりに描写や説明があまりない。私はこのブログで何度も書いたけれど、登場人物の描写がなくて名前しか書かないような小説は嫌いである。ストーリを展開するなら小説でなくても漫画でもアニメでも映画でもできるし、会話ならアニメや映画のほうが俳優の感情表現が乗るぶん優れているし、心理描写なら漫画のほうが表情と心理を一挙に描けて優れている。じゃあ小説でしか表現できない部分は何かというと、描写の言葉遣いや比喩とかの言語表現で状況を読者の頭の中に想起させて読者一人ひとりに独自の読書体験をさせることだろうに、その描写を省いてしまうと漫画やアニメや映画の下位互換でしかなくなる。「船着き場」の章では船着き場や船や海の状態の描写がなくてどんな大きさのどんな場所でどういう船なのかわからない。「芋粥」も船が難破する話なのにどういう船なのか大きさとかの描写がないので、誰がどこで何をしているのかさっぱりわからない。海辺の場面なのに潮風の匂いも波の音も海鳥の鳴き声も書かれていないので、港町で育った私にとってはいっそうリアリティがないように感じる。美穂が運転する車にしても「車」と書いてあるだけで何の車種かわからなくて、中古のN-BOXに乗っているか新車のレクサスに乗っているとかで奈美の資産や年収とかを仄めかすこともできただろうに、そういう細部の情報量がなくて小道具でリアリティを出すような小技を使えていない。36ページの食事の場面では「次々と食卓に料理が並び、美穂たちはさっそくそれぞれ椅子に座り食べだした」と書いてあるけれど、材料に肉が入っているらしいけれど牛肉か豚肉か鶏肉かも不明だし、何の料理を食べているのかも不明である。島だから何か郷土料理的なものが出てくるのだろうかと期待したら「料理」を食べているのであった。なんじゃそりゃ。これは小説の文章としてはすごく雑で、例えば飲食店のメニューで「料理」と書いてあるのと、「新潟産コシヒカリの炊き立てふっくらご飯、おばあちゃんの秘伝の合わせ味噌の味噌汁、地物のイシモチの塩焼き」と書いてあるのでは、中身が同じでも後者のほうがおいしそうだろう。素人の主婦でも料理エッセイ本で稼げる時代に料理をおいしそうに書けないのはプロの小説家の文章としてダメで、基本のデッサンができていない。九州の島というほとんどの人が経験したことがない特異な場所を舞台にしたところで、描写がないとどんな場所なのか雰囲気が伝わらないので、マグロの身を捨てて皮しか使っていないようなもったいないネタの使い方になっている。短編なら描写を端折るのはわかるけれど、中長編で描写を端折って人物像を掘り下げないのは私は怠慢だと思う。冒頭のドライブと会話の場面なんかは急いで展開しないといけないわけでもないのに年齢や髪型や服装や体型とかにさえ言及しなくて、焦点人物の奈美の人物像が固まらないうちにどしどし脇役がでてくるので、誰が誰やらわからなくなくて初めの章を読んだ段階でこれはダメだと思って続きを読む気をなくしてしまった。そんで奈美の母が美穂で、美穂の姉が加代子で、奈美にとって加代子は伯母にあたるはずなのに、72ページでは奈美は加代子をおばちゃんと呼ばずに「加代子姉ちゃん」と呼んでいるのでいっそう混乱して、人間関係を間違っていたっけと思って前のページに戻ってもう一回確認しなおさないといけなかった。そんで99ページになってようやく奈美があと数年で30歳になろうとしているという情報が出てくるけれど、情報を出すのが遅すぎる。こういう気が利かないところにイライラする。喫茶店でコーヒーを頼んだらコーヒーを半分飲んだころに砂糖とミルクを持ってくる店員みたいなもんで、プロの仕事じゃない。又吉直樹の『火花』にも描写で文句をいったけれど、いまどきの若い小説家は観察眼がない。車、船、島、料理という抽象的な概念で物事をとらえて、個別の人や物の在り様、実存を観察していない。観察していないので、色、形、大きさ、重さ、匂い、味、素材、目的、しぐさ、思想、感情、記憶とかの様々な情報を取捨選択して組み合わせて言葉に落とし込めていなくて、「車」と書いただけで車を書いたつもりになって、登場人物の名前を書いただけで人を書いたつもりになっている。作者に見えていないものが読者に見えるわけもないので、作者のインプットの足りなさがボトルネックになってアウトプットもしょぼくなって物語の面白さのポテンシャルを引き出せていない感じになる。カメラで言うと30年前の25万画素のカシオのデジカメのQV-10で撮った手振れでぼやけた写真を4Kモニタに出力しようが画質が良くなるわけではないようなもので、観察眼がないのではいくら文章を長くしてもぼやけた印象になるので、リアリズムの観察眼の解像度を上げて精緻な描写をしてほしい。漫画で言うなら背景が真っ白で輪郭しかない人物が喋っているラフ画のレベルで、冨樫義博みたいに週刊誌の人気漫画家が締め切りに追われてやむなく未完成の原稿を雑誌に掲載して後でコミックス版で修正するならまだしも、これから世に出ようという新人小説家が満足して発表してよい文章ではない。作者が描写しないのでは私は場面を想像しようがないので、仕方なく金髪ドレッドヘアのタンクトップで腕が背高泡立草みたいなリストカットだらけの奈美が紫のパンチパーマの美穂が運転する走り屋仕様のカーボンボンネットとエアロでカスタムしたシーマに乗ったりTボーンステーキを手づかみで食べたりしているところを想像して無聊を慰めるしかなかった。現代の章と過去の章を交互に書く構成も特に面白いわけでもなくて、誰の何の話を書きたいのか焦点が散漫になっている。過去の章だと猖獗とかの難読漢字をちょっと使う程度で、文体レベルの書き分けをするわけでもない。作者が直接体験したはずの現代さえろくに描写できていないのに、作者が体験していない過去の話になるとなおさらリアリティがなくなってかえってしらけてしまった。奈美にゆかりのある人物に焦点を当てて一族の歴史みたいなのを書こうとしたのかもしれないけれど、そもそも人物の描写がなくて書き分けができていないので群像劇にならず、主人公が不在で見どころがなくなってしまっている。カゴシマヘノコの章だけ短編として発表した方がましだったかもしれない。あとタイトルがあまりよくないよ。この本自体は2年位前に買っていたのだけれど、タイトルが面白そうに見えないので読まずに放っておいたのだよ。背高泡立草だから何なの、という「何なの」の部分の工夫やとっかかりがないよ。私の偏見だけれど、タイトルに気が利かなくてオヤこれは何じゃろうなァと読者に思わせることができないような作者の感性では作品の内容でも読者を楽しませる気がないんじゃないかと思ってしまうよ。そんで読んでみたらやっぱり描写が乏しくて気が利かなかったよ。デビュー作の「縫わんばならん」は何を縫うのか、なぜ縫わないといけないのかを伏せることでオヤと思わせる感じの工夫をしているのに、なんでタイトルのつけ方のセンスが劣化しているのかよくわからないね。タイトルじゃなく内容で勝負したいということなんだろうかね。売り方を考えるのは編集者や本屋の仕事とはいえ、タイトルが地味なうえに本の装丁も地味で、作者も売る努力をしないと本屋に並んだ時に地味すぎて他の本より見劣りして内容がどうかという以前に手に取ってあらすじを見てもらうことも難しくなるんじゃなかろうかね。良い点としては、会話の方言に精彩があってよかたい。作者は福岡市の出身のようで、その点は地の利があって自然な方言で九州の人物のリアリティを出せているたい。おいどんのようなよそもんが付け焼き刃の方言を使ってもバレバレやけん、その辺ばうまかやっとうたい。新人のうちは地元付近を舞台にするとリアリティをブーストできて良かと思うけん、もし他の土地を舞台にするつもりなら上記のように観察眼と描写をどげんかせんといかん。というわけで、文章が長いわりに描写が乏しくて内容が薄くて読者に対して気が利かなくて小説としての勘所をはずしているというアンバランスな文体で、方言がなければ何の見どころもないような小説だった。小説は文章が長ければよいというわけではなくて、情報の密度がなければ脳への刺激が足りないのでつまらないし、描写や説明がなくて人物像のメンタルモデルができあがらないのでは共感できないので感動するほどの完成度にはならない。これを完成形として意図的にアンチリアリズムの描写のない小説を書いたというより、小説の技術を知らないので見よう見まねでこういう風に書くしかなかったような書き方に見える。この小説は芥川賞を受賞してはいるけれど、私は受賞するほどの技術水準に達していないと思うし、これをプロの純文学作品として送り出す編集者も芥川賞の選考委員も終わってると思う。私はぼろくそに文句を言いたくて小説を読むわけではないし、若い新人には頑張ってほしいし古本を買って作者の収入に貢献していないのにいろいろ言うのも申し訳ないけれど、内容の好みの問題でなくて技術的に欠点があるのはさすがにダメだと言わないといけない。本来は読者の私がダメ出しするのでなくて編集者が書き直させるものだし、雑な料理の場面とかはすぐに修正できそうなものだけれど、エンタメ寄りの集英社の編集者の文学観じゃその程度の修正も無理なのだろうか。小説の書き方を知らない作者が見よう見まねで書いたような下手な小説を読むと、虐待された栄養失調の子供を見ているようで悲しくなってしまう。この物語は編集者がちゃんと世話をして育ててやればもっと良い内容にできたはずだった。新人とはいえ5作目でこの程度の出来栄えなら描写をしないスタイルが既に定着しているのだろうし、下手な作品で芥川賞を受賞したことでこのスタイルでいいのだと自信をつけてしまったらかえって純文学作家としては大成しないだろうなァと思った。冬にちょっと読書しようと思ってブックオフで芥川賞受賞作をいくつか買ってきたのだけれど、芥川賞受賞作でもこんなに下手なのかと思うとさっそく読む気をなくしてしまった。★★☆☆☆背高泡立草 (集英社文庫(日本)) [ 古川 真人 ]価格:550円(税込、送料無料) (2024/12/6時点)楽天で購入
2024.12.06
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「すし匠」の中澤圭二がマンハッタンに出店して、キャビアやトリュフが高級食材をどしどし足していく「足し算の鮨」をやる現地の寿司屋に対して、「引き算の鮨」でシャリを主役にして魚のうまみを引き出してシャリに合わせる江戸前鮨で勝負するというような話を最近見かけた。こういう感覚は料理だけでなくて芸術にも重要なので、徒然なるままに算数について考えることにした。●料理の算数味を形容する言葉に甘酸っぱいや塩辛いとかがあるように、味の足し算をするにしてもたいてい二つの味が中心になるので、何でも足せばよいわけではない。鍋料理は足し算の傾向が強くて、汁のベースになる味があるにしてもいろいろな食材からだしが出るほど汁が濃くなって美味しくなる。スターバックスのコーヒーはキャラメルやらクリームやらをマシマシにする足し算のコーヒーで、喫茶店のコーヒーはミルクか砂糖を最低限入れるだけでコーヒー本来の味を楽しむ引き算のコーヒーといえる。酒は割り算で、アルコール濃度が高い酒を氷や炭酸とかで割って薄めて、そこに果物とかのフレーバーを足して好みの味に仕上げる。酒と食べ物のマリアージュはおいしさを引き上げる掛け算といえるかもしれない。デザートは足し算になりがちで、洋菓子のケーキやクレープはごてごてと果物を盛っているほうがインスタ映えして美味しそうに見えるけれど、飽きるのも早くてたまに食べるにはいいけれど毎日は食べたくない。和菓子は餡をメインにして餅や最中を合わせて素材のおいしさを引き出す引き算のお菓子で、地味だけれど毎日食べても飽きにくい。湖池屋がカルビーの真似をしてごてごてと味を足したポテチを出すのを見直してジャガイモのおいしさを追求したプライドポテトを出したらヒットしたように、普段食べるおやつは引き算の考え方で本質的なおいしさを追求するほうがよさそうである。パンはハード系パンは小麦のおいしさを追求した引き算のパンといえる。サンドイッチやホットドッグやハンバーガーや総菜パンは足し算のパンである。焼きそばパンとかの日本特有の総菜パンはパンと具のどっちがメインなのか不明で具が甘めのパンに合わなかったりするので、私は総菜パンをあまりおいしいとは思わない。●製品の算数平成の日本の家電は機能を足し算するのが付加価値だとばかりにいらない機能をてんこ盛りにして、テレビのリモコンがボタンだらけになったりパソコンやアプリがプリインストールされたいらないソフトだらけになったりして迷走して、Appleとかのデザインに凝ったシンプルでスマートな家電に取って代わられた。バルミューダもトースターとかの単機能の引き算の家電で成長したのに、スマホに独自の電卓アプリを足すことにこだわった足し算病にかかって、自己満足のこだわりが消費者のニーズに合っていなくて失敗した。電卓にこだわりたいならスマホでなくて意識高い事務職用の卓上電卓を開発して引き算の製品にするべきだった。●建築の算数家を建てる時は家族の人数や必要な用途に応じて寝室や書斎やウォークインクローゼットとかの部屋を足していって、大は小を兼ねるということで大きな家になりがちである。昭和は大きな家で3世帯同居して、ジジババが死ぬ頃にひ孫が生まれて家族構成が入れ替わるので、家の構造自体はあまり変わらなかった。核家族化してからは子供が生まれたり子供が家を出たりしてライフステージが変わるごとに引っ越すのが普通になって、単身用の最低限寝起きできるだけの超狭いアパートや月極のロッカーみたいな用途を限定した引き算の部屋が出てきた。●ファッションの算数化粧は素顔に対する足し算で、まつ毛の長さや唇の厚さとかを盛って誇張するのが標準になっている。そのうえ写真アプリやプリクラとかでさらに加工して盛る。女性らしさを足していくとドラァグクイーンのド派手な化粧にいきつく。昔の服は身分を表していたので、偉い人ほど足し算のファッションで装飾が増えていって、冠をかぶったり勲章をつけたり凝った刺繍を入れたりフリルをフリフリしたりする。現代の服はコーディネートが難しくて、服のブランドも靴のブランドも鞄のブランドもアクセサリーのブランドも個性を出そうとして派手になりがちで、重ね着でも動きづらくなって、足し算をするとゴテゴテした感じになるので足しすぎないようにする必要がある。モノトーンのモード系ファッションは服から色の要素を減らしてそのぶんスタイルに特徴をつけた引き算のファッションといえる。女性は性の解放で好きな服を着られるようになると、スカートの丈が短くなったりへそを出したりして服の面積を引き算して露出を増やすようになった。服で隠さずに直接性的魅力をアピールするようになったら豊胸手術で胸を足し算する人も出てきた。●スポーツの算数ボディービルダーは筋肉を足していくけれど、筋肉ムキムキのマッチョマンがあらゆるスポーツに強いわけではない。身長や骨格に最適な筋肉量があるし、格闘技は体重制限もあるので、スポーツマンは無駄な筋肉や脂肪をつけないように引き算で体を鍛えて機能を絞る必要がある。スポーツのスコアは基本的に足し算で、相手のスコアを減らせるスポーツはないような気がする。●音楽の算数音楽は演奏者の人数や楽器の種類が増えるほど音が豪奢になるので足し算になりがちだけれど、そのぶん作曲や合同練習が難しくなる。西洋では大人数のオーケストラが隆盛して、アメリカのポップミュージックではジャズの後に大所帯のファンクが出てきて、日本では大所帯のアイドルが出てきたけれど、大人数だとそのぶん維持費がかかるのでジャンル自体の人気がなくなると運営できなくなる。楽器が電子化してからはシンセサイザーがあればいろいろな楽器の音が出せるようになったうえに楽器ごとのズレがない正確な音が出るので、オーケストラやマーチングバンドやアイドルみたいに生演奏のパフォーマンスに価値があるグループ以外は大所帯のグループはいなくなった。その一方でジャズはロックは3-4人が専門の楽器を担当するので、個性の掛け算的なところがある。音楽の方向性の違いでメンバーが抜けて別のメンバーを入れるとソロパートの部分が違う雰囲気になって人気が変わったりする。ラップバトルも掛け算で、一人だけうまくてもだめで、相手もうまい返しをしないと盛り上がらない。アカペラのバラードは引き算の音楽で、伴奏がないぶん歌唱力が要求される。ボイスパーカッションは音を足していって一人でいろいろな音を出すのが面白さになる。●文学の算数文体面ではヘミングウェイのハードボイルドの文体は描写を必要最小限にした引き算の文学といえる。日本文学にあるような句点で文章を長くしてつらつらと書いて独特のリズムを出す文体は足し算の文学といえる。物語の内容は登場人物同士の足し算でなくて掛け算になるようにしないと登場人物を増やす意味があまりない。足し算の登場人物はいてもいなくてもたいして変わらないけれど、掛け算の登場人物はいなくなったらプロットが成立しなくなったり物語の魅力がなくなったりする。テーマとしては甘酸っぱい恋とかほろ苦い恋みたいに味に例えることもできるので、料理の算数も応用できるだろう。ミステリに恋愛要素を足した甘辛い殺人事件とか、自意識の探究に文明批判を足した塩辛い純文学とか、ポストアポカリプス世界で死闘を繰り広げる苦辛いSFとか、二つの要素なら足し算ができそうである。●ゲームの算数ゲームは足し算の傾向が強くて、オンラインゲームやソーシャルゲームは経験値を貯めてレベルを上げてアイテムやスキンを集めさせることでユーザーが成長して強くなった感じを出したり、ログインボーナスでゲーム内資産が溜まった感じを出してユーザーをつなぎとめている。その一方でローグライク系は良いアイテムを集めても死んだらアイテムがなくなって初めからやり直しという緊張感があるのがウケていて、これは引き算のゲームである。『桃太郎電鉄』は基本的に足し算で資産を増やしていくゲームだけれど、貧乏神が強制的に引き算をすることをイベント要素にしてゲームバランスを調整している。引き算もやり方によっては面白いイベントになるわけである。●番組の算数ラジオは人数が増えると声だけ聴いても誰が喋っているかわかりにくくて足し算はできないので、キャストの人数を最低限にして企画を掘り下げる引き算の番組作りといえる。ラジオはメインパーソナリティーとアシスタントやゲストがいれば一時間くらい会話を途切れさせずにつなげることができるので、キャストは1-2人で十分である。バラエティ番組はキャストが多いほど賑やかな感じになるので足し算の番組作りといえる。企画がしょぼくてもひな段に芸能人を並べて何かコメントをさせて良さそうなものをピックアップして編集すれば尺を稼げるので、企画力がないテレビ番組はたいていひな壇に頼っている。YouTuberも似たようなもので、1人でやるとくだらなくて盛り上がらないような事でもグループ系YouTuberが5-6人でわちゃわちゃやるとリアクションの引き出しが増えて楽しそうに見える。●宗教の算数宗教を広めるにしても、一人づつ説得して教化するのには時間がかかる。そこで避妊を禁止して子供を増やして親と同じ宗教にすれば信徒が増えるし、あるいは異教徒を征服して改宗させれば信徒が急増する。そのやり方で中世のキリスト教やイスラム教は掛け算で世界中に増えていった。現代は人権が重視されて信教の自由があるので宗教戦争で征服した相手を改宗させることはなくなったけれど、それでも結婚と出生への宗教的な干渉は残っていて、統一教会は合同結婚式と避妊禁止で二世三世を信者にすることで信者を増やしたし、モルモン教は一夫多妻制と避妊禁止で信者を増やしている。その一方で原始仏教は引き算の宗教で、個人的な欲や執着を捨てることを目指していて出家した僧侶は子供を持たないし、布教して権力や資産を持つことも目的にしていない。それゆえに出家者は尊敬の対象となって、在家の仏教徒に説法をして悟りに導く代わりに布施を集めて生計を立てられるようになる。●人生の算数人生は学習の連続で、知識や技術の足し算で成長して仕事で生計を立てられるようになる。人脈も足し算で、友人や知人が増えていくほど仕事に有利になる。しかし過去の成功パターンにはまって認知バイアスができたり、人間関係のしがらみにとらわれて身動きできなくなることもあるので、時折アンラーンしたり、悪人との縁を切ったりする引き算も必要になる。艱難辛苦を乗り越えて頑張って生きても死なない人はいないので、最終的には積み上げてきた知識やキャリアや資産とかがリセットされてゼロになる。あるいは人生に何も足すことができなくて生きがいがなくて自殺したり、やけになって他人が積み上げたものを壊そうと無差別殺人をする人もいる。その虚しさにどう対処すればよいのか。ノーベル文学賞を受賞したメキシコの詩人のオクタビオ・パスが『弓と竪琴』で愛は存在の投影であるというようなことを言っていたような気がするけれど、何か他の物に自分の存在を投影して、知識、技術、愛情、人脈、金、志とかの自分が築いた価値を子供や弟子や部下とかに譲渡すれば、価値が一代限りで消えずに受け継がれて文明が発展していく。一度はヨーロッパから消えた古代ギリシアや古代ローマの芸術の技法もルネサンスで再発見されて芸術が再び隆盛したように、直接価値を継承できなくても間接的に継承されることもある。いくら世界の真理を知っていても誰にも伝えずに死んだら文明の発展に寄与しないので、知識を積み上げてきた人は本に書き残して他人に伝えればよいし、いくら金持ちでも使わない金を残したまま巨大な墓を建てるのは無意味なので、金を積み上げてきた人は事業をするなり寄付をするなりして他人に金を渡せばよい。使い道がないお金が余っている人は私にくれるといいよ。ちょっとでもいいよ。●まとめ足し算でマシマシにすると強くなる感じがするけれど、それだとバランスが悪くなりがちで食品や製品や芸術だとかえって欠点になりかねない。引いてみることを選択肢にいれるのも良いと思う。
2024.11.25
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最近は修正なんとか主義とかいろいろ言われているので、徒然なるままに修正について考えることにした。●修正とは何か修正とは、不十分・不適当と思われるところを改め直すことである。どんな計画でも細部まで完璧に想定通りに行うことはできないので、何か間違ったりうまくいかなかったりしたら計画を修正する必要がある。●生物の進化と適応と修正生物は巨大隕石の衝突や大噴火とかで地球の環境が大幅に変わった時に適応できなかった遺伝子を持つ生物は淘汰されて、環境に適応した遺伝子を持つ生物が生き残ってきた。無性生殖で同じ遺伝子をコピーして増える単細胞生物は変化に弱くて全滅しやすいけれど、有性生殖で雌雄で遺伝子を交換する生物はより多様な遺伝子を残せるようになって、環境が変わっても適応して生き延びる個体が出てきて、体が大きく強くなって獲物を捕食しやすいように体の特徴が変化したり、皮膚の色を変えたり毒を蓄えたりして外敵から逃げやすいように変化したり、気温の変化に対応したり、他の種との棲み分けや共生とかができるように変化したり、海から出て陸上で暮らせるようになったりして、遺伝子が徐々に変わっていくことで多種多様な生物へと進化してきた。人間以外の動物は本能によって生きているので自分の意思で変わることはないけれど、人間は自分の体を修正したり環境を修正したり子孫の遺伝子を修正したりできる点に大きな違いがある。現代人は寒ければ厚着をしたり暖房をつけたりするし、灌漑工事をして川の流れを変えて飲用水や農業用水を確保したりするし、婚期の若者は異性にもてるために流行に敏感になって服装や化粧を頻繁に変えたり、顔を整形したりする。他の生物も修正して、時間をかけて動物を交配して遺伝子を変えて家畜やペットとして利用価値が高い品種を作ったり、EMS処理で人工的に突然変異を起こして種子の品種改良をしたりする。・遺伝子の修正の倫理的問題遺伝子治療は病気の治療に役立つ半面で、アスリートの遺伝子研究は遺伝子データで競技の向き不向きが判断されてしまうと差別につながりかねないと問題提起されて研究が停止されたそうな。デザイナーベビーも今は禁止されているけれど、いずれ金持ちが子孫の知能を強化して権力基盤を固めるために遺伝子操作をやると思う。そこから先がどうなるのかはSF的で予想しにくいけれど、安直に考えれば超人的な知能と身体能力を持つ金持ち権力者集団が世界を牛耳るようになって、遺伝子ガチャ頼みの庶民が成り上がって権力構造を覆す機会はなくなるかもしれない。・少子化は修正できるのか植物は自分で移動できないので環境の影響をうけやすくて、標高が高くなると水が凍って水分不足で森が形成されなくなる森林限界があるし、密度が高くなると相変異が起きて小さくなる。昆虫だと密度が高くなると産卵数が減少する密度効果がある。じゃあ人間はどうなのかというと、環境を修正して寒い所に住むことはできても、先進国では出生率が減っていて長期的に見たら種の存続ができなくなりつつある。フランスでは移民2世や3世の女性は1世よりも子供を産まない傾向だそうで、これは単に宗教で避妊を禁止しているとかの個人的な思想だけで出生数が決まるというより、年収や部屋の広さや家賃や電車の混雑具合や治安や福祉とかの社会的な出生限界とでもいうような子供を産みたくなくなる諸条件があるのかもしれない。都市部では仕事はあって教育水準も高いけれど、部屋が狭くて家賃が高くて治安が悪くて子育てに向いていない。都市部の混雑が嫌な人は田舎に引っ越せば広い家に安い家賃で住めるけれど、仕事があまりなくて低い収入になって教育水準も低いので子供を産みたくなくなる。都市部に賃料が格安で家族で住める国営アパートを作ったら子供を産みやすくなるだろうけれど、それだと資本主義国家では民業圧迫になるので現実にはやれないだろう。庶民の収入を増やして少子化を改善することと金持ちの資産を増やすことのどっちが大事かと言うと、資本主義だと後者のほうが大事なので、資本主義を修正しない限り必然的に少子化になるのだろう。●脳の修正・認知や行動の修正脳はエネルギーを消費するので、なるべく省エネにしようとしてどうでもいい情報を無視しようとする。アナログ時計の針の音や雨音のように危険がないと判断した刺激に慣れて徐々に反応しなくなるのを馴化(じゅんか)という。子供が親に何度も遊んでないで勉強しろと叱られても聞き流すようになるのも馴化である。同じ行動に慣れて意識しなくてもタスクをこなせるようになることを自動化という。何かに興味を持つとその情報を認識しやすくなるのをカラーバス効果と言って、逆に興味がないことを認識しなくなるのはスコトーマ(心理的盲点)という。養老孟子が『バカの壁』で指摘したのもスコトーマと似ていて、知りたくないことの情報を自主的に遮断して、わかったつもりになってそれ以上知ろうとしなくなる。このように脳が無意識に認知や行動を修正することでいろいろな問題が起きているので、無意識の認知バイアスを自覚して意識的に認知を修正して、自動化された行動や思考パターンを変える必要がある。ただし自分で自分の認知バイアスに気付くためにはメタ認知能力が必要で難しいので、教師やメンターとかの他人に指摘してもらって修正するのがよい。例えば工場の労働者は最初は慎重にマニュアルを確認しながら作業していても慣れてくると作業を自動化するようになって注意が散漫になって雑談やよそ見をしながら作業して事故を起こすけれど、本人は危ないことをしている自覚がないので、安全管理者が客観的な視点から指導したり、人間の認知に頼らずにセンサーで異常を感知して知らせたりする。自動化は注意を促せば修正できるけれど、バカの壁は修正しにくい。そもそも相手があまり興味をもっていない話題に対して間違いを指摘したところで、バカの壁に阻まれて無視されてしまうと意味がないのである。財政破綻論がバカの壁の典型で、個人の銀行預金を集めて国債を買っていると信じて国債発行額が増えるといずれ銀行が国債を買えなくなるんだという論法で財政破綻論を唱えているザイム真理教信者が未だにいるけれど、2022年3月15日の参議院財政金融員会で西田昌司議員の質問で日銀の担当者が銀行の新規国債は日銀当座預金で買っていると答弁しているので、国民から銀行預金を集めて国債を買っているわけではなくて信用創造で国債を買っていることが既に明確になっている。2023年1月24日の参議院本会議の大島九州男議員の質問で岸田文雄は「国債は政府の負債であり、国民の借金ではありません」と答弁しているので、国債が国民の借金ではないことが明確になっている。経済を知らない人は赤字だと破綻すると誤解している人もいるけれど、赤字続きの企業でも株を売ったり融資を受けたりしてキャッシュフローがあれば倒産しないし、帳簿上は黒字の企業でも売掛金を回収できなかったりしてキャッシュフローがなくて買掛金の支払いや従業員の賃金の支払いが不能になれば取引を続ける企業や従業員がいなくなって事業を続けることができなくなって倒産する。このように破綻は資金繰りができなくて債務を返済できなくて組織を運営できなくなることを言うけれど、通貨発行権がある国が自国通貨建て国債の償還ができなくなることは論理的にありえない。それでも国債発行の仕組みに興味がない人たちは知識をアップデートしないので、相変わらず膨大な借金で大変だー財政赤字で大変だーと財政破綻論を言っている。最近JNPC(日本記者クラブ)の「巨大地震を考える」(1)という動画を見ていたら、1:16:35ころに千数百兆も借金している国でみんなで頑張るしかないのだから行政は頑張っている人は助けるけど頑張らなかった人は助けられないと言うべきだというような財政破綻論に基づく自己責任論の選民思想を言っていたのであきれてしまった。教授の肩書を持っていて人を助ける学問を研究しているはずの人でさえ公的な場で選民思想を言えてしまうところにバカの壁の危険性がある。この考えで小さな政府を目指すと日本は滅亡に向かう。犯罪が多発しても予算がないから防犯意識が低い人は助けなくていい、伝染病が蔓延しても予算がないから健康管理ができない人は助けなくていい、不景気でも頑張っている企業は利益を出しているのだから頑張らない企業は補助金で助けなくていい、スキルがなくて転職できない労働者は努力不足だから助けなくていい、能登みたいな田舎に住んで古い家で耐震工事もしていない被災者は自己責任だから助けなくていい、とあらゆる分野で予算を盾にして国民を切り捨てていけば、貧困層は福祉がない中で生きるために犯罪をするようになって、中間層もどうせ政府が助けてくれないなら税を払う意味がないじゃんかと脱税をするようになって、金持ちの財産を守るために薄給で命を賭けるのはばからしいと警察官や自衛官のなり手がいなくなって、金持ちはこんな危ない国には住んでられねえやとタックスヘイブンに移住して、国民同士が助け合わなくなって次第に国が統治できなくなるだろう。財政破綻論の間違いは単なるマニアックな経済学の話題として扱うのでなくて、国の未来のために間違った貨幣観を修正する必要がある。・修正が難しい問題もある知識が間違っている場合は間違いを修正しやすい。しかしギャンブルや犯罪で成功体験を得てうれしくなったり、薬物で無理やり脳内物質を分泌させたりして報酬系の異常が起きると、社会的に好ましくない行為に依存する問題が起きる。あるいは強迫性障害で確認や手洗いとかを繰り返したり、発達障害で思い込みや固執が激しかったりして生活に支障が出る人もいる。理屈では悪い事や間違っている事に対する認識や行動を修正する方がよいとわかっていても、脳内の異常が原因のばあいは修正が難しい。前科者の社会復帰を支援する団体で共同生活したり、精神科に通院して投薬や認知行動療法の治療を受けたりして、数か月から数年の時間をかけて認知や行動を修正していく必要がある。●なんとか主義の修正初期の資本主義は問題だらけで、児童労働や長時間の重労働による労働力の搾取が行われて、工業化で効率がよくなったぶん失業者も大量に生まれて、ロンドンでは4ペニーの棺桶や2ペニーのすわり宿とかの劣悪なホームレス用の宿屋があったほどだった。それで労働組合や労働者を支持基盤にする政党が生まれて、徐々に法律が整備されて解雇規制や最低賃金や失業保険や有休や育児休暇の制度ができて労働環境が改善されていって資本主義が修正されてきた。修正資本主義のように修正なんとか主義と名乗らなくても、いろいろな主義は徐々に修正されている。例えば中国共産党がソ連と同じ計画経済をやろうとしたら同じ失敗をしただろうし、実際に毛沢東はいろいろ失敗したけれど、経済政策に対しては1978年に鄧小平が改革開放をして資本主義を取り入れて一部の経済特区で外資を受け入れて、中央集権と言論弾圧は共産主義のままで反乱分子を粛清して、ある程度共産主義を修正したからこそソ連とは違って中国は世界の工場として経済成長して豊かになった。需要や在庫や原料費は国外の要因でも変動するので、自国で計画した通りに淡々とやるのではだめで状況に応じて経済政策を軌道修正する必要があるけれど、経済に疎い習近平が強権を持ってからは修正が効かなくなって、不動産バブルがはじけて外資もスパイ容疑での逮捕を恐れて中国から引き揚げて不景気に突入して自滅している。●宗教の修正戒律や経典がある宗教は後世の人が勝手に書き換えるわけにはいかないので修正しにくい。そこで教義に忠実な原理主義を貫くか、解釈を変えて分派するか、世俗化するかでその後の発展性が違ってくる。中世のキリスト教ではジョルダーノ・ブルーノとかの聖書と異なる説を言う優秀な学者は異端者として処刑されて仮説を言うことさえできなくて科学の発展が阻害されてきたけれど、カトリックが腐敗して新教に分派してカトリック教会の権力がなくなって世俗化していくにつれて自由に仮説を言って検証できる啓蒙主義に移行して、プロテスタントと産業主義は相性がよくて科学が発展するほど工場が儲かったので科学が急速に発展して欧米が近代化して白人が世界を席巻した。イスラム教もキリスト教と同様に原理主義が発展を阻害しているけれど、トルコのように政教分離して世俗化した国もある。第一次世界大戦の敗戦後にトルコ革命を起こしてオスマン帝国を打倒してトルコ共和国を建国した初代大統領のムスタファ・ケマル・アタテュルクが宗教と政治を分離しなければトルコの発展はないと考えたのは正しかったわけで、世界のネタ帳の「中東の名目GDP(USドル)ランキング」によると中東ではGDPが一番高い。トルコは石油資源がなくても自動車部品とかの製造業や農業や観光業とかで繁栄している。サウジアラビアも石油に頼りっぱなしではだめだと言うことで産業を育成していて世俗化しつつあって、女性が男性と同じ職場で働けるようになりつつあるようである。サウジアラビアで日本のアニメが人気なのも世俗化と無関係ではないだろうし、偶像崇拝の禁止で視覚的面白さを追求したコンテンツが乏しかった状態でアニメを見たらはまったのだろう。アゼルバイジャンもシーア派ムスリムが多いけれどソ連時代に世俗主義になったようで戒律が緩くて飲酒の制限がないようだし、2003年にイルハム・アリエフが大統領になったのを境に経済成長し始めて、最近はトルコと天然ガスの供給契約をして天然ガスのハブになることを目指していて、ロシアを介さないヨーロッパへの天然ガスの供給ルートなのでヨーロッパの投資も集めている。トルコと対照的にイランは1978年のイラン革命でイスラム法に基づく宗教国家になって、道徳警察がヘジャブを適切につけていない女性を殴り殺したことでデモが起きて国際的に批判されている。ナイジェリアは人口が多くて経済成長を期待されている一方で、イスラム原理主義のボコ=ハラムが女性を教育する学校を襲撃して発展を阻害している。パキスタンもインドと明暗が分かれて、日本の倍の2億3580万の人口がいてもアフガニスタンと接しているだけあってイスラム原理主義の影響が大きくてテロがたびたび起きて外国人が狙われるのであまり発展しない。パキスタンで音楽が弾圧されて衰退して音楽家の仕事がなくなって、シタールやタブラとかの古典楽器を使う伝統音楽家がジャズに転身して海外進出しようとする様子は『ソング・オブ・ラホール』というドキュメンタリー映画になっているけれど、これはサクセスストーリーの美談というよりは苦肉の策で本来の音楽のスタイルを修正しなければ仕事ができなかったわけで、音楽家がみんな海外進出できるわけではないので自国で音楽が迫害されずに栄えるにこしたことはない。このようなイスラム原理主義者が多い国は排他的で異教徒の外国人を迫害していて外資が進出しないし、女性の教育や就労も制限されて人口が多い割には高度な知識や技術がある人が少ないので、経済、技術、文化などのあらゆる点で発展が遅れる。日本は神道と仏教が主な宗教で、神道は境内で殺生を禁じるとか以外には特に戒律がないし、仏教は口伝で広まって経典がいろいろあって経典同士が矛盾したり宗派によって解釈が違ったりするせいか原理主義になりにくくい。それが幸いして特に宗教的価値観を修正する必要がなかったので、学問への宗教的な弾圧がなくて中国やヨーロッパの優れたところを取り入れてすんなりと近代化して文化や科学や経済が発展した。●製品の修正家電とかはいったん売ってしまったら修正ができないので、発売前にいろいろテストしたりして開発に時間がかかるし内部失敗コストもかかる。開発している間に同業他社に先に特許を取られたり、あるいは申請中の特許を真似されて類似製品を作られたりする問題もある。その一方でソフトは後で修正がきくので開発からリリースまでの期間が短くなって稼ぎやすいので、パソコンやスマホとかの家電を作る日本や中国の製造業よりもアプリやクラウドサービスとかを売るアメリカのIT企業が儲かっている。バグやセキュリティリスクが判明したりした場合はその都度アップデートしてパッチを当てて不具合を修正するやり方なので、製品が壊れていなくて動作してもサポートが終了して不具合の修正ができなくなった時が製品の実用面での寿命で、サポートが切れたパソコンやスマホはオフラインでは使えるもののあまり使い道がないし、セキュリティリスクがあるままインターネットに接続するとハッキングされる可能性があるので買い替えるほうがよい。●芸術作品の修正芸術ではどの時点を作品の完成とみなすのかは曖昧である。顧客がいる作品は顧客が満足するまで修正するし、顧客がいない作品は作者が満足するまで修正する。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」は何度も修正されてきて、最初は眉毛とまつ毛があったのに修正されている。作者は自分で満足するところがわかるけれど、素人の顧客がどの程度で満足するのかはわからないのが問題で、最近はホロライブというVtuberを運営しているカバーという会社がイラストや3Dモデル製作などを委託している23人の下請け事業者に計243回の無償やり直しを要求して公取委が下請法違反で勧告した。こういうのはやりがい搾取の労働力ダンピングになって業界ごと潰しかねないので、無料で修正する回数を決めて、無理な要求は断るべきである。エログロとかの過激なコンテンツは社会的な倫理観に基づいて適正な範囲に収まるように黒塗りしたりモザイクを入れたりして修正されることもある。ポリコレも芸術の倫理観を修正しようとする試みだけれど、クリエイターが何かを表現したくて作品を作っていない場合は共感を得られないのでたいてい失敗する。開発期間8年で100億円かけたConcordというゲームはポリコレ基準の不細工でもっさりしたエイリアンみたいなキャラクターだらけで魅力がなくて売れなくて11日でサービスを停止して明らかな失敗例になった。ディズニー映画もポリコレ色が強くなって世界中でディズニー離れが起きているそうな。フィクションでの美化を否定して不細工をありのままに描くという創作姿勢は芸術だとロマン主義からリアリズムに移行するときに起きたけれど、大衆向けの商業作品でそこにこだわってもそれは大衆が求めているものとは違うので売れなくて当然である。もし『タイタニック』が美男美女のラブロマンスでなくて太った不細工なおっさん同士のブロマンスだったらプロットが同じでもヒットしないだろうし、ポリコレ作品を作るのは自由だけれどそれを受け入れることを視聴者に強制することはできない。●選挙と政策の修正科学的な真実は独裁者や宗教の権威が決めるものではないし、民主主義で多数決で決めるものでもない。民主主義でも間違うことはあるし完璧なシステムではないけれど、民主主義国家で定期的に選挙があるのは政策の修正の機会といえるし、そこが権威主義国よりも良い点といえる。こないだ石破総理が国民の信を問うと衆議院を解散した結果、自民党が比例票を500万票減らして大敗してそのぶん現実的な経済政策を掲げる国民民主党が20-40代の若者の支持を受けて躍進して、積極財政策を支持するれいわや参政党や保守党も議席を獲得した。自民党と公明党は過半数を維持できなくなって強行採決ができなくなって、法案を通すには野党を支持する国民の声も聴かざるを得なくなった。国民民主党の政策は正論で、ガソリン税にさらに消費税をかける二重課税はおかしいし、ガソリンの元売りへの累計6兆円の補助金は出してきたのにトリガー条項で年5000億円の減税するのを財源がないといって拒むのもおかしい。いきなり消費税減税を言っても与党の反発が大きいので、まず明らかにおかしい所から改善していくのはよいやり方である。マスコミの財政破綻論に洗脳されなかった若者が積極財政策を掲げる政党を支持してようやく積極財政への転換の兆しが出てきて、次の参院選でも積極財政派が支持を伸ばすようならいずれ消費税の減税や廃止にもつながると思う。こないだのアメリカの大統領でトランプが大差で勝利したのも民主党政権の答え合わせ的な側面があって、民主党の政策ではインフレで庶民の生活が苦しくなったので、自分の生活を守るためには嫌いなトランプに投票してでも政策を修正しなきゃいけないと思ったアメリカ人が多かったのだろう。不法移民は厚遇して高級ホテルで無料で暮らせて1万5千ドルの給付金ももらえるのに、アメリカ国籍がある貧困層はインフレで学費が払えなくて低学歴で仕事を見つけにくくて不法移民が増えたのに住宅建築が追い付かなくて家賃が高騰してホームレスになっても補助を貰えなくて、病院に行けない若者がフェンタニルとかの鎮痛剤や麻薬に依存して年間で10万人くらい死亡しているのは国の対応としておかしい。苦しんでいるアメリカ人の同胞は助けないのに遠くにいる不法移民やウクライナ人やイスラエル人は助けたがって善人ぶるところにリベラルの欺瞞があるので、格差の頂点にいる大富豪の意識高い系セレブたちがハリスの支持を表明しようが庶民には響かなかったようである。日本で間違った政策をやってもアメリカのようにすぐに選挙で修正されなくて何十年も失われっぱなしなのは、言葉の仕組み自体が違うからかもしれない。英語のようなスル的言語では、誰かが何かをするからそういう結果になったのだと動作する個体を認識する。バイデンが不法移民を歓迎するから不法移民が増えて家賃が上がった、バイデンが不法移民に給付金をあげるからインフレになった、と動作主の行為と結果がセットになっている。ところが日本語はナル的言語なので、不景気になる、生活が苦しくなる、という言い方をして動作主をとらえずに全体の出来事をとらえようとして、その結果に至るまで誰が何をしてきたのかという因果関係が不明である。増税による不景気や生活苦は自然災害じゃないのだから辛抱していればいつか災いが過ぎ去って景気が良くなるわけではないし、誰が何をやってきたのかを明確にして、財政破綻論に基づいて不景気なのに増税するような科学的に間違った政策をしてきた政治家は批判して選挙で落として政策を修正しないといけない。間違った経済政策を主導してきた自民党が大敗して経済に疎い石破政権が短期で終わりそうなのは良いことだと思う。
2024.11.12
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最近は闇バイトに応募した人の強盗殺人とかの凶悪犯罪が頻発している。白昼に銀座の高級時計店で集団で強盗したのも闇バイトだったし、神奈川県横浜市の強盗殺人事件では実行犯の男は日給15万円以上のホワイト案件と書かれているバイトに応募したら闇バイトで自分や家族への危害を恐れて言いなりになっていたようだし、千葉県鎌ケ谷市では保育士の男が闇バイトに応募してシグナルという通信アプリの指示に従って住居に侵入して逮捕された。無職やDQNや反社会的勢力だけでなくて、正業がある人まで犯罪をして治安が悪化しつつあって、セキュリティ会社の問い合わせが増えているそうな。これについて考えることにした。●闇バイトとは何か闇バイトとは犯罪の実行犯の募集で、SNSや求人サイトで合法な求人を装って高収入で釣って応募者に個人情報や顔写真を送信させてから脅して犯罪に加担させている。犯罪グループの指示役はルフィ強盗団のように偽名を使って外国とかの捜査されにくいところから匿名性が高い通信アプリを使って指示して、実行犯は監視カメラや目撃証言や物証とかで身元が割れて逮捕されやすいので使い捨ての実行犯を闇バイトで調達して、強盗、特殊詐欺の受け子・出し子、密漁、麻薬の売買、犯罪に使う銀行口座の開設、盗んだ金品の輸送、犯行時の運転手や見張り役とかをやらせているようである。このような闇バイトを使った犯罪グループは匿名・流動型犯罪グループ(トクリュウ)と呼ばれている。2024年の4-10月に4472人がトクリュウ絡みの事件で逮捕されて、そのうち4割の1820人は闇バイトで、罪状別では犯罪収益防止法違反が最多の1515人で、闇バイトが銀行口座を開設して譲渡するパターンが多いようである。実行犯は犯罪の素人で証拠を残しているのですぐに捕まるけれど、実行犯が捕まっても指示役の素性を知らなくて尋問しても指示役までたどり着かないので、なかなか犯罪がなくならないのが問題である。今は詐欺や強盗とかの金銭目的の犯罪が中心だけれど、要人の暗殺やテロや言論弾圧にも使われかねない危険がある。闇バイトで雇った人を上場企業の飲食チェーンのバイトとして潜り込ませて、闇バイトに開設させた証券口座で株を空売りしてから一斉にバイトテロを仕掛けて株価を下げて儲けるトロイの木馬のようなこともできてしまうので、強盗だけを警戒すればよいわけではない。●なぜ若者は闇バイトをするのか・闇バイトだと理解していない東京都の詐欺被害加害防止特設サイトの「どっちが闇バイト? クイズでわかる “危険な求人情報”の見分け方」によると、現役高校生の8割が闇バイトの求人情報を判別できないそうな。高校生ならバイトをしたこともない人も多いだろうけれど、楽に稼げる仕事はないのは一般常識の範囲内で、最低賃金とかのニュースを見ていたら高校生でもわかりそうなものだろうに、資格がいらずにリスクもなくて楽に稼げるバイトがあると思っている常識がない若者が多いようである。たぶん親が金融リテラシーを高める教育をしていないのだろう。普通の求人なら合法なのが当たり前なのでわざわざ「ホワイト案件」なんて書かないけれど、「ホワイト案件」と書いてあること自体が怪しいとわからないようである。・タイパ至上主義今時の若者はタイムパフォーマンスがよいのを好んでハックやチートで最適解を見つけて楽をしたがって、長期間努力して技術や経験を積んでいこうとしない。だからこそ最低賃金程度の普通の求人でキャリアを積むのを避けて、「短時間」「簡単」「高収入」「即金」という情弱ホイホイの単語に引き寄せられるのだろう。・金がない今の10-20代の若者の親は40-50代の就職氷河期世代で、親が金を持っていないので子供を支援できない。それに人手不足とはいえコロナ禍で企業の利益が減って高い賃金を払うほどの余裕がない。普通にバイトしてもたいして稼げないので、高収入を喧伝する闇バイトが魅力的に見えるのだろう。若者を騙す反社会的勢力にしても若者に金がないとうまみがない。2000年代はデート商法で高額のローンを組ませたり、マルチ商法に勧誘したり、情報商材を売りつけたりして社会経験が乏しい若者を騙して直接金を取っていたけれど、手口が知れ渡って騙しにくくなったし、今は若者が貧困化して金をとりにくくなった。そこで反社会的勢力は若者を騙して直接金をとるのではなくて、若者を騙して犯罪に加担させてから金づるにしているのじゃないかと思う。・親子の仲がよくない若者に闇バイトを判別する能力がないにしても、応募する前に「このバイトやろうと思うんだけどどう思う?」と親に相談していたら、まともな社会人の親なら闇バイトだとわかって止めるので子供は騙されずに済む。成人したら親に指図されたくないのもわからなくはないけれど、堅い会社で働くときには身元保証人が必要になって親に頼むこともありうるのだから、親の意見を聞いても損はない。・頭が悪い闇バイトをするにしても、手に入れた金の大半は指示役に取られて、逮捕されてその後の職探しに苦労したり、強盗殺人で無期懲役や死刑になるリスクとリターンを考えたら全く割に合わない。目先の数万円程度の報酬につられてその後の人生に得られたはずだった数千万円を失うのは非合理的である。もちろんリスクが少なくて割に合うとしても犯罪はしてはいけないのだけれど、自分が得をする状況でも犯罪をしないためには理性や自制心や思いやりとかの非認知能力が必要になる。闇バイトをやる人たちは損得を理解する認知能力と善悪を理解する非認知能力の両方が低いので、割に合わない極悪非道な犯罪を指示されるままにやるのだろう。頭が悪い人たちの中には粗暴犯はいても計画的に資産家の資産や金庫の場所を調べて強盗をやるほどの悪知恵はないし、闇バイトの求人に騙されて横浜で強盗殺人をした宝田真月容疑者みたいなのは犯罪をするほどの悪意も度胸もないタイプである。指示役も逮捕を恐れて外国とかに潜伏しているので実行犯を調達できなければ犯罪ができない。頭が悪い人たちと指示役が別個に存在するだけでは犯罪が起きないけれど、匿名・流動型犯罪では頭が悪い人たちが偽の闇バイトの求人で騙されて指示役と繋がることで、指示役と同等の計画性と残虐性を持って逮捕されることを恐れずに凶行を繰り返す犯罪グループが量産されるという創発特性がある。暴力団みたいに固定された構成員がいる集団と違って、匿名・流動型犯罪は闇バイトの実行犯を捕まえても代わりのアホを補充できるので犯罪グループの解体につながらないし、刑を重くしても損得の計算ができないアホの犯罪の抑止につながらない点で普通の組織犯罪よりも社会への害が大きい。『ケーキの切れない非行少年たち』で境界知能が指摘されたみたいに7人に1人は境界知能と言われていて、頭が悪くて闇バイトの求人に騙される人たちの頭を良くすることはできないので、犯罪が起きてから捜査する従来のやり方ではなくて、ネット上の求人には企業名や氏名と電話番号の公開を義務付けるなりしてSNSで匿名で闇バイトを勧誘するシステム自体を潰して指示役と頭が悪い人たちとの接点をなくしたり、秘匿性が高い通信アプリを規制して犯罪の証拠を捜査しやすくしたりして、匿名・流動型犯罪に特有の創発特性を消さないと犯罪を減らせないだろう。・反社会的勢力が怖い闇バイトをする人は最初に脅されたり小さい犯罪をやらせられたりして、それをネタにさらに脅されて凶悪犯罪に利用されるようである。脅しに屈せずに犯罪に加担しないのが最善で、犯罪に加担しても刑が軽いうちに自首するのが次善で、凶悪犯罪に加担して逮捕されたらもう手遅れで、強盗殺人で死刑になるか反社会的勢力に殺されるかの二択になるまで言いなりになる意味がない。生き残りたかったら早いうちに犯罪グループから抜けないといけない。警視庁がXで「自分自身や家族への脅迫が理由であっても強盗は凶悪な犯罪です。犯罪に関わってはいけません。勇気を持って抜け出し、すぐに警察に相談してください。警察は相談を受けたあなたやあなたの家族を確実に保護します。安心して、そして勇気を持って、今すぐ引き返してください」と告知しているように、警察に相談すれば自宅周辺をパトカーの巡回ルートに加えたりして保護してくれる。このXの投稿に反響があって警察は3人を保護したそうな。反社会的勢力に脅されたときは「俺の親戚は刑事だから手を出したら事務所総出で潰すぞ」みたいなハッタリを言えばよい。6親等以内の血族に刑事がいなくても1000親等くらい婚姻関係をたどれば遠戚の誰かは刑事だろうから嘘ではないし、匿名・流動型犯罪グループはランダムに個人情報を入手しても親戚まで調べる能力はないのだから、脅迫を恐れる必要はない。反社会的勢力にやばいやつを脅しちゃったと思わせることができればそれ以上執着しないだろう。脅されて従う人がいなくなれば匿名・流動型犯罪グループに実行犯がいなくなって皆が安全になるので、反社会的勢力が怖いならなおさら警察に頼るのが合理的な選択である。●ちゃんとした会社の求人の見分け方・公式サイトがある自社の公式サイトを作ってドメインを維持するのには費用が掛かるので、零細企業や個人事業主とかはSNSで代用したりするけれど、ちゃんとした会社はちゃんとした公式サイトを作っていて、会社概要ページに代表取締役の経歴や役員一覧や資本金や従業員数や業種や創業年や主要取引先とかが記載されているし、採用ページがある場合もある。相手を騙すために偽の企業サイトを作って嘘を書くこともあるので、書かれている情報が正しいかどうかを判断するために裏取りする必要がある。いまどきの意識が高い経営者は他の経営者とつながりを持ってトップセールスするためにFacebookやLinkedInとかをやっていたりするけれど、代表取締役の名前を検索してもSNSに情報がなくて経歴が不明な場合はあまり信用できない。本社の住所はグーグルマップのストリートビューで見て、レンタルオフィスでないか、民家やアパートの一室でなくてちゃんとした事務所なのかを確認するほうがよい。裁判をする場合は相手の住所を特定する必要があるけれど、自前の事務所を持っていなくてすぐに夜逃げできるような会社はあまり信用できない。・大手求人サイトで求人している求人サイトは審査があって違法な求人ははじかれるし、履歴書とかの個人情報を送信しても個人情報保護法で保護されているので基本的に悪用されることはない。求人サイトを使わずにSNSで求人情報を出している場合は求人サイトへの掲載費用が出せない零細企業か、あるいは求人サイトの審査が通らない反社会的勢力なので、SNSでの求人は怪しいものとして警戒して安易に個人情報を渡さないほうがよい。零細企業の求人は犯罪をする闇バイトでないとしても労働基準法に違反するブラック企業だったりするので、他に選択肢があるなら避けるほうがよい。・採用担当者の顔と名前がわかる闇バイトの指示役は素性がばれないように直接会わずにSNSや通信アプリでやりとりする。それに名刺には指紋が残るので犯罪をやるつもりの人たちは名刺を作らないし、他人と会った証拠を残さないようにする。逆に言えば、採用担当者が顔と本名を出して事務所で採用面接をしたり、ビデオ通話でオンライン面接をしたりして一般的な採用活動をしている会社は闇バイトである可能性は低い。求職者が履歴書とかの個人情報を渡す代わりに相手の情報も握って、もし問題があれば訴訟を起こせるようにしておけるようにするのが対等な雇用契約である。作家とかのクリエイターでもないのに、一緒に働く相手にさえ顔と名前を出したがらない人は基本的に怪しい人とみなして関わらないほうがよい。・労働条件が明示されている普通の求人には勤務地、勤務時間、業務内容、賃金などが明示されている。求人情報で応募者を集めて、面接で条件を交渉してそれで双方が納得するなら雇用契約をする流れになる。求人情報に詳細な条件を明示せずに「簡単な作業」とかの曖昧な表現をする場合は応募者を騙すつもりの不誠実な求人なので避けるほうがよい。●犯罪者から財産を守る方法・金持ち自慢をしない2019年に青梅市でジュラルミンケースに札束を入れて1億円あると知人に自慢していた男が強盗に殺害された。誰かが大金を持っているという情報は犯罪グループに共有されて犯罪のターゲットになる。インターネットの掲示板に資産家だという間違った情報が書かれて1年に3回も強盗に入られた人もいる。犯罪者は噂が事実でも事実でなくても金がありそうなところを狙うので、金を見せびらかしてはいけない。・個人情報を出さないフリマなどで貴金属やブランド品とかの高額の商品を売買すると金持ちだとばれてしまうので、匿名で配送するオプションを使って取引相手に個人情報がわからないようにするとよい。空き巣が玄関付近に変なものを置いて、SNSの「玄関にこんなのがあった」みたいな反応から個人を特定して留守の時間を見計らう手口もあるので、自宅付近の出来事や写真をうかつにSNSに投稿しないほうがよい。一人暮らしの人が住所を特定された状態でSNSで「ライブを見に行く」「ハワイなう」「終電間に合わない」とかの予定を言うと留守にする時間がわかって空き巣のターゲットになってしまうので、SNSに投稿するにしても「ライブに行ってきた」「ハワイに旅行してきた」「終電間に合わなくて野宿した」みたいな過去形で事後報告して留守にする時間がわからないようにするほうがよい。・財産を家族に移す高齢者が大金を持っていると、認知能力が低下していて詐欺で騙されやすいし、強盗に反撃するほどの体力もないので、犯罪者に狙われやすい。高齢者は家族信託で子供に財産の管理を任せたり、生前贈与で子供や孫に早めに財産を相続させたりすると、詐欺や強盗で財産を犯罪者に奪われずにちゃんと家族に残せるようになる。神奈川では横須賀警察署地域課の36歳の巡査長が面識がある70代の住民の通帳や印鑑を預かったうえで委任状を偽造して700万円を引き出して借金の返済に充てて逮捕されたように、公務員でも犯罪をするので、公務員だからといって信用して通帳などを預けてはいけない。基本的に公務員が通帳やキャッシュカードなどを預かることはないし、詐欺グループが警察官を装って「口座が犯罪に使われている」とか言って通帳やキャッシュカードをだまし取る詐欺もあるので、他人に通帳を渡してはいけない。・財産を盗まれにくくて換金しにくいものに変える現金は盗んだ直後に使えて足がつきにくいので狙われやすい。宝石や高級腕時計もかさばらなくて高価で盗品市場で換金できるので狙われやすい。現金や貴金属を自宅の金庫に保管するのは悪手で、火災報知機の点検を装った下見とかで金庫の位置を把握されて、強盗グループに拷問されて金庫の暗証番号を言わされて結局金庫の中身を盗まれることになる。普段身に付けない貴金属を保管するなら自宅の金庫でなく銀行の貸金庫を使うほうがよい。三菱UFJ銀行の練馬支店と玉川支店の貸金庫から行員が数十億円の資産を盗んで懲戒解雇されたけれど、銀行員の犯行なら銀行の過失として被害を保証してくれるので強盗に盗まれるよりはましである。すぐに使う予定がないまとまった現金があるなら株や投資信託や個人向け国債などを買ったり定期預金をしたりして本人でないと現金に戻せないようにしたり、不動産を購入して物理的に盗まれないようにしたりするとよい。キャッシュカードも1日の振り込みや引き出しの限度額を低く設定すると、騙されたり脅されたりしてATMで金を振り込まされたり金を引き出させられたりするときに被害を少なくできる。・押しが強い若い営業マンを避ける広島で7月に野村證券に勤務する29歳の男が顧客の高齢者夫婦宅で食事をした際に睡眠薬を飲ませて放火して現金2600万円を盗んで、強盗殺人未遂と現住建造物放火等の容疑で逮捕された。証券会社は金持ちに営業して株を売買させて手数料で利益を出す仕組みで、まれに顧客を金づるとしか見ていないサイコパスが紛れ込んで顧客の損で儲けようとするので、しつこく提案してくるような営業マンは避けるほうがよい。1998年の富士銀行行員顧客殺人事件では32歳の銀行員の男が顧客の被害者夫婦から預かった預金から2500万円を別の顧客に不正融資して、それが焦げ付いて発覚を恐れて夫婦を殺害して債券の証拠を隠滅しようとして、強盗殺人罪で無期懲役になった。どちらのケースでも犯人は2500万円程度のために殺人を辞さないようで、大富豪ではない庶民でも老後の備えを狙われるので注意が必要である。2021年の高槻市の資産家女性の殺人事件では犯人の28歳の男は保険会社に勤務しているときに被害者と知り合って高額の生命保険を契約して、養子縁組の書類を偽造して保険の受取人を自分に変更してから殺害している。親身になって相談に乗る営業マンが良い人とは限らなくて、下心が見えてプライベートに踏み込んでくる場合は避ける方がよい。歳をとっている営業マンは危ない橋を渡らずに長く仕事を続けてきたと言えるので、若いイケイケの営業マンよりは信用できるかもしれない。・家の防犯対策をするドアの鍵を増やしたり窓に格子をつけたりして空き巣や強盗が侵入しようとしても時間がかかるようにしたり、防犯カメラやセンサーライトを設置して敷地に人が侵入したらわかるようにしたり、警報装置をつけて近所に異変を知らせて警察官がすぐに現場に到着しやすくしたり、番犬を飼ったりして、防犯対策がしっかりしていることが外部からわかれば犯罪者が警戒して狙われにくくなる。家をリフォームするくらいお金に余裕があるなら寝室の脇にすぐに逃げ込めるようなセーフルームを作るのもよい。キーホルダー型の通報装置を枕元に置いておくと、深夜にガラスが割れる音や不審者の話し声とかの異変に気付いたときに通報装置を起動して他の部屋で寝ている家族を起こして避難させるのにも役立つ。田舎は防犯意識が低くて日中は玄関の鍵をかけない地域もあるけれど、近所で被害が出てから防犯意識を持つのでなくて、普段からちゃんと鍵をかけるべきである。・予定にない訪問者を警戒する宅配便や設備工事の業者を装ってドアを開けさせて押し込み強盗する場合もあるので、訪問者への警戒も必要である。予定にない宅配便が届いたときは送り主を確認して心当たりがなければ受け取りを拒否したり、「消防署のほうから来ました」みたいな役所系を名乗る訪問者が来たときは名前を聞いて役所に電話してその人が所属しているのか確認したり、ドアを開けるにしてもまずはドアチェーンをかけたままで開けたりすると、訪問者を装った強盗が侵入するリスクを減らせる。屋根の無料点検や床下のシロアリの無料点検とかも反社会的勢力の下見の可能性があるので、無料だからといって家の中を見せないほうがよいし、業者に頼むにしても素性がわからない訪問営業でなく地元の業者に頼むほうがよい。広島県だと不審者が勝手口を開けて「トイレ貸して」「両替して」「一人か」と言ったりする事例が10件以上県警に相談されていて、愛知県では「変な臭いがしませんか」と話しかけてきたり玄関を撮影したりする不審者の通報が79件あったようで、こういうのも反社会的勢力の下見の可能性があるので家の中を見せたり家族構成を教えたりしてはいけない。古い戸建てはインターホンがなくてすりガラスの引き戸の玄関だったりするけれど、それだと玄関を開けるまで訪問者の顔や人数がはっきりわからないので、インターホンや監視カメラをつけるほうがよい。・家の手入れをする都市部の一軒家の庭木の枝が伸びっぱなしだったり二階の障子が破れたままだったりして手入れされていないと、都市部に一軒家がある(資産がある)、木が大きくなるほど長く住んでいる(高齢者が住んでいる可能性が高い)、自分で剪定ができなくて代わりに手入れをする若い人もいない(高齢者しか住んでいない可能性が高い)、二階への出入りが少ない(階段を登れないような高齢者が一階で寝起きしている可能性が高い)、という情報が外部からわかって犯罪のターゲットになりかねないので、ちゃんと家の手入れをしてこの家は人の目が行き届いているよと外部に示すのが大事である。高齢者が自分で一軒家の手入れができなくて持て余すようなら家を売ってマンションやサ高住に引っ越したりする選択肢もある。●まとめ 社会人経験が乏しい若者がリスクなしに楽に大金を稼げる合法的な仕事はほとんどない。治験は楽で高報酬でも健康被害のリスクがあるし、パパ活は性病のリスクや犯罪に巻き込まれるリスクがあるし、起業や投資やギャンブルは損をするリスクがあるし、アーティストは売れなくて一生貧乏になったり精神を病んだりするリスクがある。高収入が欲しかったらリスクをとるか、努力して能力を高めていくしかない。楽に高収入を稼げるという求人は犯罪の実行犯を募集する闇バイトで、犯罪はリスク云々以前に違法なのでそもそも選択肢に入れてはいけない。犯罪をしたら今までのキャリアも信用も失ってマイナスからやり直すことになるし、家族や友人がいなくなったり結婚できなくなったり就職できなくなったりしてその後の人生が大変になる。借金とかがあるなら自己破産して生活保護を受けたりして合法的にやり直すべきである。若者が他の人よりも有利な点は時間があることである。何年か時間をかけて能力を高めていけば相応に収入も増えるのだから、短期間で高収入を得ようとせずに長期間で計画的に物事を考えるとよい。あるいは境界知能とかで能力の伸びしろに限界があるにしてもまじめに働いていれば飢え死にすることはないのだから、犯罪をやらずに分相応に幸福になれる方法を探すとよい。
2024.10.27
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FRIDAY DIGITALの「6、7人の子どもが授業中に寝そべり…衝撃の教育ルポ「勝手に教室から出るのも特性?」学級崩壊の実態」という記事だと、勝手に教室から出て行ったり、床に座ってYouTubeを見たりする子供がいても、発達障害の子供の特性を認める方針にしているので学級崩壊につながっているそうな。デイリー新潮の「「バンザイができない」「骨折の怪我が1.5倍に増加」 子どもたちに起きている運動能力低下の実態」という記事だとハイハイができないとかの未就学児の状態から運動能力の低下が起きていると言っている。文春オンラインの「「ボールをうまく投げられない小学生」急増の理由」という記事だと、親の運動系の習い事への意識によって子供の運動能力が両極化しているそうな。子供の様々な能力が落ちていることは日本の未来にも影響する重大な兆候だと思うので、これについて徒然なるままに考えることにした。ちなみに上の記事はどれもノンフィクション作家の石井光太氏の記事なので、興味がある人は『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』を読むとよいよ。●子供が劣化する原因・格差とSNS依存インターネットがなかった時代の昭和の子供は都会の金持ちの子供の暮らしぶりを具体的に知らなかったので、同級生に会社社長の子供がいたりして格差はあるにしても「よそはよそ、うちはうち」であまり気にしていなかったし、鬼ごっこや缶蹴りやゴムとびや昆虫採集とかの体を動かすアナログな遊びがあって、スポーツと違って道具の費用がかからないので誰でも遊べた。雨の日はトランプや塗り絵や折り紙やお手玉やジグソーパズルやウォーリー探しとかのゲーム機を使わない安価な暇つぶしがいろいろあったし、おもちゃやゲーム機がなくても自分ですごろくを作ったりチラシの裏に絵を書いたりして創意工夫する余地もあって、物がないからこそ想像力が培われた。ところが現代はSNSで他人の暮らしぶりが動画でわかるようになって格差が浮き彫りになって、貧しい子供たちは自分が体験できないことの代償行為として動画で他人を眺めるのに夢中になっている。親に旅行に連れて行ってもらえない子供はリア充のキッズYouTuberが日本中の遊園地で遊ぶ動画を眺めている。親におもちゃを買ってもらえない子供はおもちゃ系YouTuberがトレカを大量に開封したりトミカをコレクションしたりフィギュアで遊んだりする動画を眺めている。親にゲーム機やゲームソフトを買ってもらえない子供はYouTuberのゲーム実況動画を眺めている。子供が自分で直接世界を体験して主役として自分の王国を作ろうとせず、スマホ越しに他人の人生を見る傍観者にすぎなくなってしまったことで主体性や行動力や創造性とかの非認知能力が落ちて、その結果として運動能力が低下したり学級崩壊が起きたりしているのじゃないかと思う。端的に言えば子供に生きる力がなくなっていると言える。・子供の公園離れ公園でボール遊びが禁止されて、様々な遊具も危険だし点検費用がかかるからと撤去されてベンチとトイレしかないような殺風景なつまらない公園になって、公園で遊んでウワァーッと大声を出すと近所のジジババから苦情がきて、夏は暑すぎて日影がない公園は熱中症になる危険があって、公園はもはや子供が自由に遊べる場所ではなくなった。現実世界に子供の遊び場がなくなったので、マインクラフトやフォートナイトや動物の森とかのゲーム内のサンドボックスが公園の砂場代わりになっている。仮想空間で無制限に積み木パーツを使えて自分でデザインした家を作ったりキャラクターの着せ替えをしたり友人とロールプレイをしたりできるのは創造性にとってはプラスだけれど、座りっぱなしでゲームをすればそのぶん運動能力の低下につながる。香川県の調査だと小学4年生の脂質異常の割合が11%で過去最高だそうで、スマホやゲームに長時間触れる生活が定着したことが原因だと県は分析している。仮想空間では基本プレイ無料ゲームが多くてアップデートが充実していてインターネットでつながれるユーザーが大勢いて魅力的になったのに比べて、現実世界がダウングレードして魅力が乏しくなってしまった。バッティングセンターやボーリング場とかの有料の娯楽施設は子供の小遣いでは頻繁に行けるものでもないので、子供が放課後に体を動かして遊べる場所がなくなっている。危険な遊びは面白い半面で怪我をするリスクを伴うもので、子供の頃にはリスクをとってジャングルジムのてっぺんからジャンプして着地に失敗して怪我をしたりして、身体能力と判断力をすり合わせていって次第にリスクを見極めて怪我をしなくなるし、他人の失敗を間近に見て学ぶことも多い。その一方で仮想空間上で失敗しても実際に怪我をすることはないので、自分や他人の痛みや苦しみに対する共感能力が育たない。言葉に身体感覚が伴わないので言葉が軽くなって喧嘩をすると「死ね」「消えろ」とかの暴言も言うし、殺意を持って相手に直接殴りかかることはないにしても言葉が他人を死に追いやる自覚がない。・晩婚化と障害政府の失政によって就職氷河期世代が生まれてデフレが長引いて、安定した収入や貯金ができてから結婚しようとすると婚期が遅れるようになった。父親の高齢化は精神遅滞や自閉症などの子供の精神発達障害のリスクが高くなると言われているし、母親の高齢出産は染色体異常や自閉症などのリスクが高くなると言われている。それに晩婚だと年齢的に二人目の子供を産めなくなって、一人っ子だと兄弟姉妹の競争が起きないのでそのぶんたくましさがなくなると思われる。さらに一人当たりの教育費は増加していて、庶民は共働きでないと習い事の費用や大学進学費用を捻出できないので、専業主婦・主夫として育児に専念することもできない。忙しかったり疲れていたりして子供の相手をしている暇がなくても子供にスマホをいじらせておけばおとなしくさせられるので、スマホを子守代わりに使う「スマホ育児」に頼るようになってしまう悪循環になる。親が一生懸命働く姿を見せずにYouTuberが奇行して散財してわめきちらす動画を見せて、まともな価値観を持った子供に育つのか疑問である。●生活から肉体が置き去りになっている生きるということは何かを食べて栄養をとって活動して寝て体を休めるという物理的な行為である。ところが科学が発達すると歩かずに車や電車やエスカレーターやエレベーターに乗るようになって、肉体を動かさずに空間を移動させるようになった。買い物でも通販が発達して、店まで行かなくても配達してくれるようになった。コミュニケーションのためにはきはきとしゃべる必要もなくなって、メールやチャットで指先をちょっと動かすだけで連絡できるようになった。昔はブラウン管テレビのチャンネルを変えるためにテレビに近寄ってダイヤルを回して周波数を変える必要があったけれど、今ではテレビはリモコン操作が標準で、スマート家電のオンオフもスマホで操作できるので、室内でちょっと歩くことさえしないで済む。イーロンマスクが出資しているNeuralinkは脳直結インターフェイスでPCを操作する研究をしていて、いまは体が麻痺した障害者向けだけれどいずれ健常者も使うようになるかもしれない。あまり体を動かさずに生きていけるのは便利には違いないけれど、運動量が減ったぶんは意図的に運動をして補わないと筋肉がつかないし心肺機能が鍛えられない。家で生活する分には体力がなくても問題ないけれど、文明を維持するために欠かせない仕事に必要とされる体力がないことが問題になる。軟弱な人だらけでは犯罪の取り締まりや国防が危ぶまれて、数十万人のよく訓練した警察官や自衛官がいないと治安は維持できないけれど、現業職が敬遠されていて警察官のなり手は10年で6割減だそうな。ただでさえ日本人と白人・黒人とは体格差があるのに、そのうえ少子化で人手不足で若者が軟弱となれば、移民が増えていく未来の日本の治安には不安しかない。さらには農業、漁業、林業などのある程度の体力が必要な一次産業や建設業なども高齢化していて、若者に技術を継承できないと高齢者が引退した時に食料自給やインフラの維持ができなくなって国の存続にかかわる問題になる。女児の身体能力の低下は成人した時の出産に影響を与えてさらに少子化になる可能性もある。いまから対策しないと軟弱な子供たちが成人して子供を持った時にはさらにひどい有様になるだろう。現業職以外の人に身体能力が不要かと言うと違う。明治時代や大正時代のエリートは結核や神経衰弱とかで早死にしたりする人が多かったけれど、これは栄養状態があまりよくない中で外国語を猛勉強して疲労したことで体力が落ちたのが一因と思われる。漫画家も座りっぱなしで運動不足なうえに締め切りに追われて睡眠不足になって早死にする人が多い。身体能力が低下して疲れやすくなると集中力が維持できなくなるのでパフォーマンスも落ちる。事務職でも肩が凝ったり腰が痛くなったりしてそれなりに疲れるもので、1時間集中して椅子に座っていられなくて授業中に寝そべるレベルの体力が乏しい子供が将来士業やプログラマーとかで活躍できるかというと無理じゃないかと思う。●どうすりゃいいのさ子供の能力が落ちていても子供が悪いわけではなくて、そういう環境を作った大人が悪い。オリンピックのスケボーで活躍している若者もいるように、良い環境があって良い指導者がいれば子供はどんどん知識や技術を吸収して能力が育っていく。子供にはいろいろな可能性があるのに、知力や身体能力のポテンシャルを引き出さないままスマホを渡されて放置されて育つのはもったいない。動物園にいる動物が運動不足で太って野性を失っているように、スマホが檻のように子供を狭い世界に閉じ込めてしまっていて、檻の隙間から外の世界を眺めるだけになってしまっている。スマホは便利で面白いには違いないけれど、とりあえず子供に分別がついて自制できるようになるまではスマホやゲームは時間に制限をつけるなり親がいる時にしか使えないようにしたりして、仮想空間やSNS上の他人よりも現実の自分の周りの世界にもっと興味を持つようにするとよいと思う。自分の五感で世界を感じて自分の手で世界を作り変えていく喜びを感じれば、現実はゲームよりもずっと面白いものになる。例えば農業や家庭菜園をすれば水やりとかの世話をするうちに葉が増えて幹が太くなって実が大きくなっていって収穫する喜びがあるし、音楽を演奏すれば自分の体の動きに合わせていろいろな音が出て自己表現できる喜びがあるし、ダンスをすれば音に合わせて自分の体を自在にコントロールする喜びがある。ウワァーッと歓声を上げたくなるほどの感動を得られるのはたいてい物事を初体験する子供のころくらいなので、その感動を大事にしてほしい。現実の人間にはフィクションのようなチート能力はないのだから、感動に突き動かされて知識や技術を少しづつ身に付けていくしかない。檻を壊して社会を変えていくにはウワァーッという勢いが必要で、それは感動かもしれないし、希望かもしれないし、不正義への怒りかもしれない。若者たちはいまのくだらない拝金主義の社会を作った老人たちの言うことに従って搾取される必要なんかないのだから、自分には世界に干渉して世界を変える力があるのだと自覚して、よく学んでよく鍛えて洗練された蛮族となって、いずれ腐った老人をぶっとばしてウワァーッと台頭して新しい時代の新しい文明の主役になってほしいものである。ルポ スマホ育児が子どもを壊す [ 石井 光太 ]価格:1,870円(税込、送料無料) (2024/10/17時点)楽天で購入
2024.10.17
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最近は小泉進次郎が「大学に行くのがすべてじゃない」「手に職をつければ大学を出てからの所得と遜色なく稼げるようなキャリアが今は作れる」等と言って批判されている。というわけで徒然なるままに進学と就職について考えることにした。●いまどきの高校生がアホすぎてつらい私のいとこの子供が偏差値40台の高校の普通科の三年生で、偏差値40台の大学の総合型選抜入試を受験するのでプレゼンを見てくれと言うので見てやったらだいぶひどいものだった。二つ質問すると一つしか返答しない、二つ修正しろというと一つしか修正しないのでもう一回指摘しないといけない、正しい引用の仕方を教えても「そこまでやる必要あるんですか?」と面倒くさがってその通りにやらない、調べればすぐにわかるような事実を調べないで既にあるものを自分が思いついたすばらしいアイデアのように言う、自分で考える前にどうすればいいのかと丸投げの質問をする、実現不可能な案の大枠だけ考えて細部を突き詰めて考えようとしないのでなぜ実現不可能なのか理解していない、間違いを指摘しても素直に認めない(あるいはなぜ間違っているのか理解していない)、俯瞰して全体の構図を見ることができない、「費用対効果」の意味をわかっていなくて無駄に費用と時間と労力がかかる非効率な方法をやろうとする、「論理的」の意味をわかっていなくて論理が一貫した主張ができなくて論旨と逆の結論を出す、「独創性」の意味をわかっていなくて独創性を出すのが難しいと言って逆切れするような感じで、私が助言しなかったらプレゼンの形にさえ仕上げられない有様だった。事実を把握して因果関係を考えて論理的に実現可能な意見を言う能力が弱いようで、マッキンゼー流のピラミッド・ストラクチャーで事実に基づいて根拠を集めて主張をするのだよ、As-is(現状)とTo-be(理想)のギャップから課題を抽出するのだよ、実行できないアイデアは机上の空論だから思い付きを言いっぱなしにせずに検証して実行可能なものに修正するのだよ、と考え方の基本から教えてやらねばならなくて、無事プレゼンが終わったらたいそう感謝された。このレベルの生徒を何十人も指導する偏差値50以下の高校の教師は大変だなと思った。子供の読解力の低下について考えると子供の国語力低下について考えるという記事でも考えたけれど、国語力が低いのは想像していたよりも深刻な問題なのだなと高校生に接してみてわかった。国語力が低いので「頭痛が痛くて大変なのは大変だ」とかの小泉進次郎構文みたいな二重表現でプレゼンが冗長になって、要点を理解していないのでプレゼンを簡潔にまとめられなくて、メタ認知能力が低くて他人の視点で自分の主張がどう見えるかをとらえなおして修正することができなくて、指導しても言葉の意味を十分に理解できないので「一を聞いて十を知る」どころか0.7くらいしか伝わっていなくて指導が非効率になって、自分の主張の意味を自分でもよくわかっていないのでダメ出しされると落ち込んで自信や楽観性とかの非認知能力も低くなって打たれ弱いようである。一人の例で世代全体のことは言えないけれど、スマホを通じて世界を見て、ファンタジー世界の漫画やアニメやゲームを消費してきた子供は現実世界を直接観察して実際の物事の仕組みを追求する姿勢が欠如しているのかなと思う。●大学に行くメリット・民度の向上1万年前の人類と現代人は脳の大きさに大きな違いはないけれど、現代人が高度な文明を作れたのは身体能力が進歩したからではなくて、再現性がある科学の知識と技術を長期間蓄積してきたからである。狩猟採集生活をしていた頃はどの季節にどの場所にどんな食べ物があってどんな危険な生物がいるかとかを全部覚えていたので現代人よりも若干脳が大きかったそうだけれど、それは再現性がない知識で、一つの場所で食料が乏しくなって他の土地に移動したら食料がある場所をまた覚えなおさないといけない。ところが農業は再現性がある知識である。種から作物を栽培しようと試行錯誤して、どの時期にどういう土地に種を撒けば芽が出るかという科学的知識を手に入れると、あとは同じ条件下ならどこでも作物を育てられるようになる。さらに粘土板やパピルスや木簡や紙とかで後世に知識を伝える手段ができると、世界各地で知識を蓄積して一挙に文明が発展しだした。再現性がある知識を蓄積できるようになるとゼロの概念や車輪とかを頑張って再発明する必要がなくなって、新しく生まれてきた子供たちは文明を維持するための仕組みを学習するだけで済む。そのためにたいていの国では国が費用をだして基礎教育をしているし、その教養のレベルが国の民度になる。OECDの中で日本は公的支出の割合が最低レベルで、OECDが「日本は公的な支出の中で教育費が占める割合が低く、将来世代よりも、高齢者に対してより多く投資している現状がある。日本は若者が減っていくからこそ、教育の質を高め社会を支える人材を育てる必要がある」と忠告したのがニュースになったけれど、それでも国民性として教育熱心な風土なので公的支出がなくても家庭の努力でそれなりに民度が保てている。大学退学率で比べると日本が一番低くて10%で、いったん大学に入学した人は家計の急変とかがないかぎりほとんど卒業している。他の国に比べて退学の基準や学位の審査が緩いというのもあるけれど、それでも4年間まじめに授業を受けている人が多いと言える。GLOBAL NOTEの「世界の大卒比率 国別ランキング・推移」によると日本は大卒人口が世界でも高い方で、25-64歳以上の半分以上が大卒である。国全体の民度を高めるという点では私立のFランク大学でも進学しないよりは進学するほうがよい。・批判的視点の形成高校までの教育では、正しいとされている知識を覚えなさい、偉い先生の言うことを行儀よく聞きなさいという最低限の知識を教えるだけで批判のやり方を教えないし、批判すると素直でないとみなされてマイナス評価にさえなりかねい。クリエイティブであるためにはクリティカルであることが必要で、現状を肯定して批判をしないのでは改善もできないので、クリティカルシンキングができるかどうかでその後の伸びしろも変わってくる。じゃあどこでクリティカルシンキングを学ぶのかと言うと、会社でも教えないので、大学で学ぶか独学するかしかない。我々は日常生活でも様々なことに不満を持つけれど、漫然とした不満をそのままで終わらせずに、じゃあどうすればいいのかという提案をして改善しないと不満は解消しないし理想には近づかない。「不満」を学問的に言い換えると「課題」で、大学では課題の分析や解決のための総合的な知識を分野ごとに学べるという点では学習効率が高い。大学で現代文明のパラダイムを学びつつ、そのパラダイム自体を批判する視点を持つことで文明は進歩していく。山口周がクリティカル・ビジネス(社会批判としての側面を強く持つビジネス)を論じた『クリティカル・ビジネス・パラダイム』という本を出版していて、従来のアファーマティブ・ビジネス(既存の価値観を肯定して利得を最大化するビジネス)は持続しないからクリティカル・ビジネスを目指すべきだというようなことを言っているようである。私は超絶貧乏で金がないのでこの本を読んでいないけれど、批判的であることが今後重要になるだろう。20世紀までは批判するのはごく少数の批評家の役割だったけれど、口先で批判するだけでなくてビジネスとして実際に課題を解決してSNSで支持者を増やしていくのが今後の成長モデルになると思う。例えば車の速度を最大化しようとしてF1レースを見世物にしてスポーツカーを少数の金持ちに売るよりも排気ガスや交通事故に批判的になって燃費や安全性を競うほうが幸福度は高くなるだろうし、食べ放題や飲み放題で食欲を最大化しようとするよりもだらしない生活習慣に批判的になって健康的な食事や運動を提供するビジネスの方が幸福度は高くなるだろう。チャレンジについて考えるという記事でも考えたけれど、薩摩藩の人事評価のように批判的視点を持たずにイケイケドンドンを評価するやり方だとリスクマネジメントもできなくなる。高卒で飲食店を起業する人とかはうまくいくに違いないと思い込んで自分に都合がいいシナリオだけ考えて勢いで開業して見込みが甘くてすぐに店を畳んだりするけれど、何かをやろうとするときにメタ認知的に批判する視点を持って改善していくほうが成功の確率が高まって失敗の損害を減らせるだろう。批判的視点を持つことはリーダーになる人には必須の能力と言える。・論理的思考力の向上PRESIDENT Onlineの「20代社員の文章にストレスを感じる人が84.5%…「頭が悪いな」と思われる報告書に共通するパターン」という記事だと、「説明不足」「語彙や表現が合っていない」「文が無駄に長い」「筋道が立っていない」「主語がわからない」などが原因で文章がわかりにくいようである。上記のいとこの子供もプレゼン原稿の主語が不明なパターンが多くて、この社会的課題を解決するにはこれをやればいいという案を出すけれどいつ誰がどこでどうやるのか不明で、5W1Hがわかるように説明しろと何度も指摘しないといけなかった。たぶん日常会話やSNSのチャットだと主語が自分だと明らかなので主語を省くのが日常化して、三人称の文章でも自分にはわかっているつもりで主語を省いて、それでは他人には伝わらないことがわからないのかもしれない。読書して知識を増やしたり年を取るにつれて人生経験を増やすだけなら誰でもできるけれど、社会人はせいぜい短いメールや報告書を書く程度で長文をアウトプットする機会はあまりないので、ただ仕事をするだけだとアウトプットする能力が育ちにくい。芸能人のSNSはしばしば行間がスカスカで年齢に似合わないような幼稚な短文だったりするけれど、幼少期から芸事ばかりやってきて文章を読み書きする機会が乏しいので論理的構成がある長文を書けないのだろう。いくら人生経験が豊富でも、アウトプットが貧弱なのでは情報や意見を効果的に伝えられない。上記のように文明は知識や技術の蓄積で成り立っているけれど、インプットだけでなくてアウトプットも正確にしないと後の世代に知識や技術を伝えられなくなってしまう。職人の世界でしばしば見て覚えろと言うけれど、こういうのは見る必然性があるならまだしも指導者に暗黙知を言語化する能力が欠けている可能性があって、いくら指導者自身に優れた知識や技術があってもそれを言語化して伝えられないのでは指導が非効率である。大学だとレポートや論文を書かないと単位や学位を貰えないので、セメスターごとに学習内容をアウトプットする機会があるし、そうすると論理的思考能力が鍛えられていく。大学受験の小論文なんかはしょせん1000字程度でしかなくて、それでは論拠を掘り下げたり自分の主張を展開したりするには文章量が少なすぎるので、4000-12000字程度のレポートを書くのに慣れておけばたいていのトピックに対して論理的に矛盾しない文章を書けるようになるだろう。というわけで、金と時間に余裕があって学びたい分野がはっきりしている人は大学に進学する方が良いと思う。仕事をしながら収入につながらない勉強するのは大変なので、勉強に専念できる環境を得たり、自分の将来や社会についてじっくり考えるモラトリアムの期間を得たり、自分より優れた学生やメンターとなる教授に出会って知的な刺激を受けやすくなって青年期の人格形成に良い影響があると言う点でも有益である。しかし学費に教育の質が見合っているとは限らないので、お金に余裕がない人は無理して奨学金を借金して学費に何十万円も払うよりもその金で専門書を数百冊買って独学するほうがましだと思う。大学に行った後に現場仕事をして手に職をつけるのでも何の問題もないのに、小泉進次郎は高卒でブルーカラーの仕事をするか、大卒でホワイトカラーの仕事をするかみたいな間違った二分法で議論をミスリードしている。例えば経済学を学んだ人が農家になってマーケティングをしてブランド野菜を開発したり、出資者に作物を分配する農地ファンドを作ったりしてもよいわけで、大学に行かないよりは行く方が稼げるキャリアを作りやすいだろう。●手に職をつければ稼げるキャリアが作れるのか社会の変化が緩やかだった時代は職人と呼ばれる職業になれば需要の変動はあるにせよ仕事歴の長さが信頼につながったけれど、今ではどの業界でも技術の進歩によって職が奪われうるので、もはや専門的なスキルがあれば生涯安泰で稼げるという時代ではない。例えば自動運転が実用化されてAIが自動的に最短ルートを割り出すようになったら、運転手の経歴が長くて運転がうまくて道を良く知っていようがそのスキルは評価されなくなる。大工は昔は稼げる仕事だったけれど、木造軸組工法から2X4工法に移行してパネルを組み立てるだけなので人手は必要でもノミで正確にほぞを彫ったりするような高度な技術は不要になっていて、将来3Dプリンタの家が普及したら戸建てには大工自体が必要なくなるかもしれない。翻訳や通訳もかつては専門職だったけれど、政治家の外交交渉の同時通訳とかの高度な正確さが求められる仕事以外はAIで代替できるようになりつつある。冷凍技術の進歩で冷凍食品がおいしくなって、コロナ禍では個人経営の飲食店は商品開発力がなくてテイクアウト需要に対応できなくてつぶれていった。職人になって手に職をつけたところで個人の努力で稼げる額はたかがしれていて、既存の枠組みに適応しても技術の進歩と時代の変化に適応できなければ稼げるキャリアは作れないので、大学に進学して社会を変える側になるほうがもっと稼げるだろう。教育者の藤原和博氏が100万人に1人の存在になる方法として、何かに1万時間取り組んで100人に1人の存在になって、それを15-30年くらいかけて3回やって作った三角形の大きさが100x100x100で100万人に1人の希少なキャリアだと言っている。私はこの考え方でキャリアをとらえる方が良いと思う。梯子や竹馬が2点で接地していて不安定なのに対して、カメラの三脚が3点で接地しているので安定しているように、キャリアを安定させるにも3点が必要だろう。芸能人が典型的で、競争が激しくて代わりは大勢いるので、本業の歌や演技や漫才以外にも何かの趣味に精通しているとかで希少性を出してバラエティ番組に出たりYouTubeをやったりしないと稼げなくなっている。文系のエリートの弁護士も過当競争で稼げなくなっているけれど、例えば外国語ができて国際結婚の離婚訴訟に詳しい弁護士となったら100万人に1人の弁護士として依頼が来るようになるかもしれない。●まとめ議会制民主主義では大多数の偏差値50前後の人たちが選ぶ政治家の水準が国の政策の水準になるので、政治家や官僚だけ大卒のエリートであればいいというわけではない。発展途上国はいくら人口が多くても国民の教育水準が低くて生産性が低くて政治家も汚職まみれなように、国民全体の教育水準を上げないと国は発展しない。我々は生涯に稼ぐ額を競うために生きているのではなくて、幸福になるために生きている。無知の状態から脱することも幸福の条件の一つである。私の遠戚に80代で中卒で左官になって70代まで現場で仕事をしていた人がいるけれど、酔うと「学校に行きたかったな」としみじみと言っていた。ただ仕事をして生活ができればそれで幸福になれるわけではないので、学べる時間や機会がある若いうちにできるだけ多くの事を学んでおくほうがよいだろう。クリティカル・ビジネス・パラダイム 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2024.09.27
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最近は牛角という焼き肉チェーン店で期間限定で女性を半額にしたら男性差別だとして炎上したので、これについて考えることにした。●割引・値引きとは何か割引とは一定の価格からある割合の金額を引いて安く販売することである。値引きとは一定の価格からある金額を引いて安く販売することである。割引・値引きすると普段よりもお得な感じがするので客を集めやすくなる。新商品の宣伝、新店舗のオープン記念、期末在庫セールとか、販売促進のために期間限定で一時的に割引・値引きされる。恒常的に割引・値引きしたらそれはもはや定価なので割引・値引きとは言わないし、セール開始前の8週間のうち4週間以上は通常価格での販売実績がないと二重価格表示として景品表示法に違反する。●割引・値引きの是非私は企業が割引をやるのは合法である限りどんな理由であれ自由にやればいいと思うし、客がそれを批判したり不買したりする自由もあると思う。例えば相席居酒屋や街コンで男性か女性のどっちかに客の性別が偏ったら営業が成立しないので、どっちかを優遇して客数を調整するのは差別ではなくて営業を成立させるための事業戦略と言えるだろう。すき屋や松屋が深夜料金を取っているけれど、逆に深夜に残業お疲れ割引をやって近所のすき屋や松屋から客を奪うのも事業戦略としてありだろう。携帯電話会社がMNPの新規顧客だけ優遇してスマホ代金を割引して長期契約している人を蔑ろにしているのもそういう経営方針なのだから別によいし、それが気に入らない客は他の会社にMNPすればよいだけである。会員だけ割引したりポイントを付与をしたりするのも会員を増やすための事業戦略で、非会員に対する差別だと怒る人はいなくて特典が欲しい人は会員になればいいだけである。個人経営の飲食店の禿げた店主が禿げた客を励ますために禿げ割引をして禿げた常連客を増やしてピカピカに励ましあってもフサフサ差別として嫉妬して怒り狂うフサフサな人はいないだろう。しかし高級ブランド店がブランドイメージを保つために値下げをしないように、商品やサービスに魅力があるなら割引・値引きをしなくても客が来るので、頻繁に定価から値段を下げないと客を呼べないようなビジネスは値下げよりも質を改善するほうが良いと思う。それにわが社は〇〇を支援しているんだという企業方針でもない限り性別などの属性を基準にして特定の属性を優遇することは反発を生むので、むやみに割引をしないほうがよいだろう。・牛角の炎上の問題牛角の場合はさいたまスーパーアリーナのTOKYO GIRLS COLLECTIONへの出店を記念して9月2日から12日まで限定で女性の食べ放題90品牛角コースが通常3938円なのがアプリ会員で予約限定で半額の1969円になるプロモーションをしたけれど、食べ放題で女性の方が肉を食べる数が4皿少ないというのが理由で半額にするなら恒常的に定価を下げるのが筋で、期間限定で半額なのは企業姿勢として中途半端で、じゃあ普段は女性に対して割高の料金を取っていることを正当化するのかという話になるし、それだと女性客は常連として定着しないだろう。それにたいていの食べ放題は従量制でなくて〇品から選べるという選択肢の多さでコースの値段が変わってくるので、食べる量を理由に割引するのはサービスが一貫していない。男性だって小食の人はいるし、女性だって大食の人はいるのだから、食べる量を理由に値段を決めるなら性別にかかわらずスマホの料金プランみたいに〇皿までは基本料金で〇皿以上は追加料金みたいにすればよい。たかが10日間のプロモーションのために主要顧客の肉好きの男性客に批判されてその後の客数低下や売上減少につながるのであればプロモーションとしては失敗だろう。そもそも牛角がTOKYO GIRLS COLLECTIONに出店するというのがよくわからない。若い女性が行きたがるおしゃれな店というイメージはないけれど、若い女性客を増やしたかったのだろうか。プロモーションをするにしても既存の食べ放題コースで女性だけ半額という安直な手段にせずに、GYUKAKU GIRLS ALL YOU CAN EAT COLLECTIONとか名付けて、有名なモデルの何某ちゃんが選んだ野菜やデザート中心の〇品2000円程度の食べ放題メニューを期間限定で提供するとかだったら男性客からの大きな反発はなかったと思う。服屋で女性向けのスカートを半額で売ったところで男性客は差別だと言わないし男性客でもスカートを買いたい人は買えるように、牛角は女性向けの食べ放題メニューとして売って男性でも注文したい人は注文できるようにすればよかったわけで、牛角の担当者が「女性限定」と「女性向け」の違いを理解していないので不公平感がでて炎上したのだと思う。カンニング竹山の「“これで何で女だけ安いんだよ”って言ってる男に本音を言うと、ケツの穴小さいこと言ってるんじゃねえよ馬鹿野郎!女が安くてもいいじゃねえか馬鹿野郎」というのはマーケティング的にもジェンダー論的にも筋が悪い意見で、ケツの穴が小さい男性を批判しているようでいて女性はケツの穴が大きい男性に庇護されるケツの穴が小さい存在でいいことを容認するような男尊女卑の固定観念を助長しかねない。2000円程度で文句言うなと金額の問題にする意見も筋が悪くて、2000円程度なら性別で差をつけても問題ないのだといろいろな企業が判断して新幹線やホテルやコンサートチケットや家賃やスマホの料金プランやサブスクとかのいろいろなものが男性か女性のどちらか片方だけが安くなると、マクロで見たら大きな差になって社会全体で性差別を助長するようになる。割引金額の大小の問題でなくて、同じ商品やサービスを提供しているのに性別を理由にした割引をすること自体が妥当かどうかの問題である。牛角に対する擁護には女性だけ割引するのは差別でない(女性は食べる量が少ない、企業の自由、等)という主張と、差別だけど文句を言うな(受け入れるのが男らしさ、男性は今まで優遇されていた、男性の方が収入が多い、等)という主張の2パターンの擁護があるけれど、後者の主張は男性差別容認につながるがゆえに問題である。前者の主張も差別の正当化につながる可能性があって、例えば東京医科大学の一般入試で女性を一律で減点したのは女性差別だと批判されたけれど、35歳時点で24%の女性医師が離職しているという厚生労働省のデータを根拠にすれば減点しても差別ではないということになって、今までフェミニストが女性差別だと主張してきたことと整合性がとれなくなる。●優遇のコンセンサスと公平さ日本は建前では男女平等の社会になっているので、男女どちらかの優遇を正当化するには相応の理由がいる。性別は一部の性同一性障害の人を除いて自分の意思では変えないので、性別を理由にした優遇をすると不公平になって差別と言われかねない。昔は男尊女卑で明治政府は女子教育の整備に消極的で女性が進学できなくて女性が差別されていたので、キリスト教徒によって私立の女子大学や短期大学が作られて女性の教育や就職を支援したけれど、現代では大学全入時代になって女子大学が役目を終えていていくつかの女子大学が学生不足で共学になっているので、女性だけに焦点を当てて優遇する必要がなくなっている。もし現代で女性だけ学費を安くするとかの優遇をしたら男性差別と批判されるだろう。昔は映画館でレディースデーがあったけれど、最近はTOHOシネマズとかの大手はレディースデーを廃止している。アゴラの「牛角の女性割引に疑問の声、アメリカでは既に「違法」」という記事によると、カリフォルニア州だとUnruh公民権法というのがあって、裁判所は性別による価格差は有害な固定観念を強化するため、一般的には男性と女性の両方に悪影響を及ぼす可能性があると判断したそうな。日本でもアメリカ的な自立した女性を目指すのであれば、女性であることを理由にした優遇は女性側から拒否するべきだろう。アメリカのアファーマティブアクションでは黒人が優遇される一方でアジア系は一生懸命勉強して成績が良くても入学できない不公平感が強いように、人種を理由にした優遇も性別を理由にした優遇と同様に社会のコンセンサスを得にくい。親の年収が低いけれど成績が良い学生に奨学金を出すのなら機会の平等といえるけれど、性別や人種や国籍とかの自分の意思では変えられない生得的なものを優遇の条件に入れてしまうと、それに納得しない人からはなんであいつらばかり優遇するのだと相応の批判も起きる。ではどういう基準なら優遇のコンセンサスを得られるのか。美術館や遊園地とかのたいていの公共施設では、未成年、高齢者、障碍者に対しては割引している。これは自分で収入を得られない社会的弱者に対する配慮として社会的なコンセンサスがあるし、誰でも子供だった時期があるし、誰でも長生きしたらいつかは高齢者になるし、誰でも事故や病気で障碍者になる可能性があるので、公平な割引である。飲食店の食べ放題では小学生以下の料金が安いけれど、大人と子供は明らかに体格と食べる量が違うので、子供の優遇というよりは食べる量に相応の値段として誰でも納得できるだろう。新規顧客限定の割引なら誰でも新規顧客になりうるので公平だし、長期契約している顧客や常連客への割引で顧客をつなぎとめようとするのも誰でも条件を満たせば恩恵を受けられるので公平だろう。例えばスタンプカードがある飲食店は常連客が来店数や売上に応じて割引とかの特典を受けられるけれど、一見の観光客よりも店の経営を支える地元の常連客に還元するのは社会的な慣習として一般的で、観光客差別だと言う人はいないだろう。誕生日の割引も誰でも年に1回は誕生日があるので公平である。客が少ない時間帯に客を呼び込むために特定の時間や天候が悪い日に割引するのも公平だろう。プロモーションをしたい企業はなるべく公平なやり方をするとよいだろう。
2024.09.06
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最近は自民党の総裁選挙だの立憲民主党の代表選挙だのアメリカの大統領選挙だので誰をリーダーにするかが話題になっているので、徒然なるままにリーダーについて考えることにした。●リーダーとは何かリーダーとは集団の指導者や統率者のことである。総理大臣、代表取締役、町内会長、学級委員長とか、集団の規模に関わらずリーダーがいて、集団の方向性を決定する。リーダーとしての能力や統率力をリーダーシップと言う。トップダウン型でメンバーに指示を出す人もいるし、ボトムアップ型でメンバーの話をよく聞いて根回しして折衷案を出す人もいる。株式会社あしたのチームによる「30歳以下の若手管理職 「新しい会社のリーダーズ」 に関する調査」だと、若手管理職のMBTI診断では「INFJ・提唱者型」「INTJ・建築家型」がトップ2で全体の3割を占めていた。E(外向型)がリーダーに向いていそうという印象と違って管理職の2割しかいなくて、I(内向型)とJ(判断型)の特徴を持っていて洞察力と合理的判断力がある人にリーダーが多いようである。日本ではコミュ力を重視して採用している企業が多いけれど、実際にリーダーになる若手の性格は企業が求める人材とは違う点が面白い。どういう人がリーダーに向いているかは孫子の智信仁勇厳とかの基準がいろいろあるけれど、いくら理想のリーダー像を求めても実在しない人をリーダーにはできないし、リーダーに向いているタイプを選ぶことよりもリーダーになってはいけないタイプを避けることのほうが集団の存続には大事だと思う。●リーダーになってはいけないタイプイギリスの歴史家のジョン・アクトン(1834-1902)は「Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely(権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する)」という格言を残したけれど、これは歴史が実証している。人々の救済を掲げたキリスト教の教会でさえ教皇が王以上の権力を持ったら腐敗して免罪符を販売して金儲けして人々を弾圧する側になってカトリック離れが起きて、カトリックとプロテスタントの宗教戦争が起きた。テンプル大学の社会心理学教授のデヴィッド・キプニスも「Power Corrupt」という論文で検証していて、「人は権力を持てば持つほど行使したがる」「人は権力を持つほど権威主義的になる」「権限が弱いと権力は堕落しない」と結論付けた。日本人は政治に興味を持っていない人が多いのでどうせ誰が総理になっても同じだと思いがちだけれど、ただでさえ人間の普遍的な性質として権力を持つと腐敗するのに、人間性に問題がある人が権力を持つとなおさら大勢を不幸にするので、リーダーになってはいけないタイプは避けなければならない。・ブリリアントジャークブリリアントジャークとは優秀だけれど人間性に問題があって周囲に悪影響を与える人を指す。最近は兵庫県の斎藤元彦知事(東大卒、元総務省官僚、維新の会と自民党の推薦)が瞬間湯沸かし器や暴君という悪評が多くて、お土産をほしがったりして意地汚いだけでなくて部下が自殺して問題になっている。秋田県鹿角市の関厚市長(京大卒、元農水省官僚)は「俺の言うことを聞かないやつは懲戒免職にしてやる」「おまえ、退職金をもらえなくしてやろうか」などと高圧的な発言してパワハラ疑惑が出ている。この人たちはブリリアントジャークの典型例だと思う。ブリリアントジャークに該当する人は人格障害なんじゃないかと思う。自己愛性人格障害の人は承認欲求が強くて他人に認められたがって努力はするけれど、自己満足のために権力が欲しいだけで権力を用いて他人に奉仕するつもりがなくて、自分の尊厳が傷つけられると激高して、自分の言いなりにならない人を恫喝して従わせようとする。こういう人でもワンマン経営者として頭角を現すこともあるけれど、政治家として強大な権力を持たせてはいけないタイプの人である。任期が長引くほど諫める人を排除して周りをイエスマンで固めて強権化していくので、こういう人に長期間権力を持たせるのは危険である。・頭が悪い人どんなに頭が良い人でもあらゆる分野での専門家にはなれないし、政治、経済、軍事、外交、防災、教育、福祉、医療とかの専門家の意見を聞いて判断する必要がある。頭が悪くて専門家の意見を理解できない人や、あるいは自分で物事の論理や整合性を考える能力がない人はたとえ人柄が良いとしてもリーダーになってはいけない。新しい技術の利便性だけでなくて危険性も理解できないと、治験が不十分で副作用が不明なワクチンを国民に打たせて薬害を起こしたりする。専門家だからといって頭が良いわけではなくて、メンデルの遺伝学の研究を否定した生物学者たちや、センメルヴェイスの手洗いによる消毒を否定した医師たちが科学的真理を検証しようともせずに頭ごなしに否定する馬鹿だったように、自分で物事を考えようとしない馬鹿な専門家は大勢いる。天動説から地動説、聖書から進化論、金本位制時代の古典派経済学から現代貨幣理論へのパラダイムシフトを受け入れられない人も科学的に合理的な思考ができない人で、権威がある人が言ったことを鵜呑みにして自分で物事を考えていないので、通説と違うものが真実だと言われても理解できないままそんなはずはないと否定する。頭が悪いリーダーが馬鹿な専門家の意見を鵜呑みにすると必然的に間違った行動をとるようになるし、頭が悪いと何が間違っているのかも理解できないので問題の解決も遅れる。森鴎外は陸軍の軍医のトップまで出世したけれど、『脚気現象は果して麦を以て米に変へたるに因する乎』という論文で脚気と麦飯の関係を根拠なく否定して、日露戦争で白米食が採用されて麦飯の支給が後回しになって2万7千人が脚気で死んだ。根拠のない自説に固執して科学的に合理的な思考ができていないので私は森鴎外は頭が悪いと思う。20世紀の日本は頭が悪いリーダーが多いせいで大勢の人命が失われることになった。最近は小泉進次郎を自民党総裁選に推す人がいるようだけれど、もしおぼろげに46という数字が浮かんで消費税率が46%になったら日本の経済が壊滅する。そいういう馬鹿なことをやりかねない人に権力を持たせてはいけない。・利益を追求する人論語で「君子は義に喩り、小人は利に喩る」というように、志がなくて利益を求めて右往左往する小人は人の上に立つべきでない。そういう人がリーダーになると社会的弱者を助けても儲からないから別に助けなくていいじゃんと社会福祉を削減して弱者を切り捨てたり、儲けるために弱者から搾取したり、個人の利益のために賄賂を受け取ったり売国したりして社会が荒廃していく。経済の語源は経世済民で、民を救って幸福にすることを意味していたけれど、今では経済学者や経営者が政治家に取り入って規制緩和させて合法的に民を虐げて不幸にして金儲けするレントシーカーになってしまっている。昔は悪政をした王や領主は国民の反乱で殺されたので経世済民をして国民の不満を減らす必要があったけれど、今では政治家はどんな悪政をしても殺されることはないと開き直っているので経世済民をやらなくなった。維新の会が典型的で、経営者気取りで新自由主義の政策を推進して公立病院と保健所を減らして新型コロナ禍で日本で一番の死者数を出した一方で、やる必要がないIRと大阪万博には巨額の公金をつぎ込んだり、上海電力を咲洲のメガソーラー事業にステルス参入させたりして中国と癒着している。失政で亡くなった人たちの遺族が政治家に対して復讐をするわけではないので、吉村知事は慙愧することもなくのうのうと政治家を続けている。利益にとらわれた人は道徳観も狂っている。かつては利益のために黒人奴隷の貿易も植民地の搾取も正当化されてきたし、現代でも利益のために戦争をやりたがっている人たちがいる。イスラエルが自国の利益のためにハマスへの報復を超えてパレスチナ人を民族浄化してガザ地区を占拠しようとして、ガラント国防大臣は「We Are Fighting Human Animals」とパレスチナ人を動物扱いして、スモトリッチ財務相はガザへの支援物資の配給をコントロールすべきだと主張して「今日の世界の現実では戦争遂行は不可能。市民200万人を飢えと渇きに追い込むことは世界の誰も許さないだろう。ただ、彼らが人質を解放するまでは、それが公正で道徳的な行為かもしれない」と発言した。アメリカが1990年からイラクに経済制裁して50万人の子供が死んだと言われているけれど、マデレーン・オルブライト国務長官はCBSテレビの「60 Minutes」のインタビューで「the price is worth it」と発言した。利益を求めることを正当化して計画的に数十万人を虐殺してもなんとも思わない人が世界各国の政治経済の中枢にいて、こういう人たちはいくら儲けても満足せずに際限なく利益を求めて、時間をかけて研究開発して良い商品やサービスを作って利益を出そうとせず、手っ取り早く他人の権利や財産を侵害して利益を出そうとして世界に惨禍をもたらす。・決断力がない人リーダーがやることは決断することである。戦争や大災害の際には検討が長引いて対処が遅れるとどんどん状況が悪化して国が亡ぶので、決断に時間がかかるようではいけない。岸田文雄は検討ばかりして無駄に政治を停滞させた一方で、アメリカからの指令はすぐにこなしてロシアに強硬姿勢をとって必要以上に経済制裁をして外交官まで送り返して北方領土問題の解決が遠のいて日本の国益を損ねていて、岸田はリーダーの器でなくて上司に命令されたことをこなす従業員レベルの器でしかなかった。・有言不実行の人民主党は一度やらせてみようという国民に与党になる機会をもらっても、マニフェストとして掲げたことをやらなかったうえに、財務省に丸め込まれてやらないと言っていた消費増税をやったことで信用を失って、いくら自民党がダメでも政権交代をさせてはいけない政党になった。岸田文雄も総裁選で所得倍増を掲げて総理になったとたんに金融所得倍増に方針を変えた。この人たちは地位と権力が欲しいだけで、国民のことはどうでもよくて政治家としての志は何もなくて嘘をついても恥とも思わないのだろう。・逃げる人戦国時代の武将は戦に負けても自分の首を差し出すことで家臣を守ったし、西郷隆盛は西南戦争の挙兵には反対していたけれど自分のために挙兵した私学校の生徒に生死を預けて最後は切腹して義理を通したように義に厚い人だからこそ大勢の人がついてきた。立派なリーダーたちは自分の命より大事な信念や使命があったからこそ後継者を育てて、自分が率いてきた集団と運命を共にして、一人でなく皆で大事を成した。我が身と財産を惜しんで部下を守ろうとせず責任を取らずに一人だけで逃げる人には部下はついていかないし、たまたま事業が成功したとしても志が継承されないので一代限りで終わって大事をなすこともない。自己愛性人格障害の人は褒められるのが好きで責められるのが嫌なので、仮病で記者会見を欠席したり、嘘をついて言い逃れをしようとしたりする。政治家は記憶をなくしたり、ご飯論法で質問をはぐらかしたり、ハードディスクにドリルで穴を開けて証拠を隠滅したりして追及から逃げようとする。会社経営者で経営が傾くと経営再建や債務処理を投げ出して失踪する無責任な人も少なからずいる。セウォル号の船長は乗客を救助せずに乗組員だとばれないように制服を脱いで逃げて、殺人罪で起訴されて無期懲役になった。・公私混同する人元市川市長の村越祐民は市長だったときにリース代が高いテスラを公用車として導入したり、市長室に360万円をかけてガラス張りのシャワー室を作ったりして、市民のためというより自分のための公私混同ともとれるような非合理的な公金の使い方をして、次の市長選挙では惨敗した。危険な道路を改善したりして良い政策をやっていたとしても村越でないとできないようなことではないので、じゃあ他の人が市長でもいいじゃんと市川市民は判断したようである。舛添要一はテレビ番組では政治家を批判していたくせに、自分が東京都知事になったら公用車で別荘通いしたり家族の宿泊代や飲食代を政治資金扱いしたりして公私混同が原因で辞職した。公私混同する人は監査がある上場企業の取締役や政治家とかになると変な金の使い方が批判されて長続きしなくて大事業を成すことはないし、不正の追求に議論が割かれて議会が停滞してしまう。リーダーが模範を示さないと、部下のモラルも低下していって上司がやってるからいいじゃんと不正をしかねない。・縁故主義の人縁故主義だと身内に対する批判や罰則が甘くなる。泣いて馬謖を斬るようなことができずに信賞必罰の原則がなくなると、そこから権力の腐敗が始まっていく。それに縁故主義者は血族以外を信用しないので、有能な部下が集まりにくくなる。世界中の様々な王朝は縁故主義で政治をやろうとしたがゆえに腐敗して部下が謀反を起こしたり国民が反乱を起こしたりして滅んできた。スリランカでは兄のマヒンダ・ラジャパクサと弟のゴタバヤ・ラジャパクサの兄弟で10年以上大統領になって首相や財務省に親族をあてがって、中国の債務の罠にはまったうえに化学肥料を禁止する馬鹿な政策をして主要産業である農業が壊滅して輸出で外貨を得られなくなって自滅して、国家破綻宣言をして反政府デモが起きたら大統領一家はモルディブに逃げた。ラジャパクサ一族は頭が悪くて目先の利益を求めて中国になびいて縁故主義で親族を優遇してさらに逃げ足が速いという複数の欠点を抱えていて、リーダーにしてはいけない人たちだった。岸田文雄がお坊ちゃんを秘書官にして官邸で遊ばせていたのも批判されたけれど、外国の縁故主義者が親族で要職を固めるのに比べたらかわいいものである。●分断の時代に必要なリーダーとはどの国もたいてい建国時は単一民族や単一宗教だったりするけれど、隣国を征服したり交易したりするうちに多民族多宗教になって統治が難しくなっていく。人種や民族や宗教や性別やイデオロギーで分断されて対立している現代では対立を解決できるリーダーが必要になる。水と油はそのままでは混ざらなくて分離するけれど界面活性剤を使うと乳化するように、文化や宗教が異なる人同士も何の工夫もなければ融和することはないので、何かしらの哲学や政策が必要になる。「和を以て貴しとなす」は中国のことわざらしいけれど、聖徳太子が定めた十七条憲法の最初にも書かれていて、聖徳太子は神道に仏教を融合させたことで宗教の対立を起こさない国家の礎を作って、観音菩薩の化身として崇拝の対象にもなった。現代はそういう立派な政治家はいないのじゃなかろうか。多様性と移民について考えるという記事でも考えたけれど、間抜けなEU各国はEU内の移動の自由化だけでは満足せずに目先の利益目当てでアフリカや中東の不法移民や自称難民を労働者にしようとしたら、福祉に寄生するフリーライダーやテロリストを大勢呼び寄せることになって多文化共生に失敗した。スウェーデンは左派のステファン・ロベーンが2014年に首相になってから積極的に移民や難民を受け入れて、銃による犯罪やレイプが急増している。ちょっとでも考えたらどうなるかわかるだろうに、同化のための十分な政策もなしにイスラム原理主義者や犯罪者を含む移民を受け入れたら失敗して当然である。アメリカも民主党政権では不法移民対策が不十分で、スウェーデンと同様に国家を揺るがす問題になりかねない。カマラ・ハリスはCalifornia DREAM Actというのを作って、16歳以下で親と一緒にアメリカに不法入国したDreamersと呼ばれる人たちを保護して市民権を与えようとしているけれど、トランプは「彼女は最悪の国境問題担当の副大統領だ。何百万人もの犯罪者が入り込んでくる国境は他に存在しない。不法移民の多くは犯罪者。しかも常習犯なのだ」と批判している。もしハリスが大統領になったらアメリカは南米からの不法移民が増えて南米化していくだろう。スウェーデンの移民受け入れの失政は犯罪の増加と言う形ですぐに影響が出たけれど、中国でバブルが崩壊すると北京オリンピック以前からずっと言われてきても景気が悪くなるまで時間がかかったように、大きな国の失政はすぐには影響が出てこない。アメリカは不法移民の流入によるホームレスの増加、犯罪の増加、社会保障費用の増加などで数年かけてじわじわと内政が悪化していって、白人キリスト教徒の保守層との分断と対立が深まるだろう。アメリカは現状でさえ刑務所不足で軽犯罪が野放しで、開拓時代みたいに貨物列車が襲われて物資が略奪されている有様なのに、南米のギャングが不法入国して犯罪が凶悪化するといずれ警察官が取り締まりしきれなくなるだろう。コロラド州オーロラではTren de Araguaというベネズエラの不法移民のギャングが武装してアパートを徘徊している様子の監視カメラの映像が公開されてニュースになっていて、4つのアパートを占拠して縄張りにしているようである。こういう南米からの不法移民の犯罪がアメリカ各地で起こりうるし、もしテキサス州が不法移民の犯罪に耐えかねて独立運動をしたりしてアメリカが内戦になればアメリカの栄華の終わりの始まりになる。たとえエリート揃いの大企業の経営が好調でも中産階級以下の庶民の生命や財産が脅かされるようになったら国家の運営としては失敗だろうし、武装した貧民が金持ちの家になだれ込んで貴金属を略奪したりして金持ちの安全さえ脅かされるかもしれない。かといってトランプの強引なアメリカファーストのやり方だと、不法移民の流入は抑えることはできても中国とかの他の国との分断と対立が進んで、アメリカが世界のリーダーとして自由と民主主義を主導する役割は果たさなくなる。ハリスとトランプのどっちが大統領になってもそれぞれ違う形で分断と対立を深めることになる。じゃあどうすればいいのか。黒人の女性だとか白人の男性だとかの属性でどこかの集団の代弁者になるのでなくて、自分の属性を捨てられる人が分断から融和に導けるリーダーになれるのじゃないかと思う。しかしそういう人はアメリカでは大統領の候補にもなれないだろう。たぶん今後100年くらいして人類が分断と対立に疲弊したころに、哲学者や芸術家や人工知能とかの権力や利益への欲がない人の中から地球規模で人類を俯瞰して国境を越えたリーダーシップを発揮して融和に導く超越者が出てくるんじゃないかと思う。19世紀のアメリカの哲学者のラルフ・ワルド・エマソンは「コンコードの聖人」と呼ばれて、自然の中でエゴイズムが消えて「透明な眼球」として無となっていっさいが見えるという思考をしているけれど、そういう人がまた出てくれば世界は変わるかもしれない。
2024.08.27
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最近はフワちゃんという芸人がやす子という芸人を誹謗中傷して炎上して楽屋で態度が悪いこともばれて仕事がなくなって活動自粛したり、オリンピックの選手や審判が誹謗中傷されたりしているので、徒然なるままに誹謗中傷について考えることにした。●誹謗中傷とは何か誹謗中傷とは特定の人物や組織の名誉や人格を傷つけることで、誹謗はハゲやデブとかの事実に基づいた悪口を公然と言うことで、中傷は噂や嘘などで事実無根の悪口を公然と言うことである。「あいつは不倫して離婚した」と事実に基づく悪口を言うと名誉棄損罪になって、「あいつは淫乱だ」と事実を指摘せずに悪口を言うと侮辱罪になる。本人は冗談のつもりで言ったとしても、言われた側には冗談に見えないものは誹謗中傷に当たる。フワちゃんはやす子の「やす子オリンピック 生きてるだけで偉いので皆 優勝でーす」というツイートに対して「これにアンチコメントがつくなら」という大喜利のようなことを芸人仲間とやろうとして「お前は偉くないので、死んでくださーい 予選敗退でーす」と誤送信したようだけれど、やす子からしたらそういう事情は知らないのでいきなり暴言を言われたと感じて当然である。大喜利みたいなことをやりたかったのならその場に居ない他人を巻き込まずにその場に居る芸人仲間同士でやるべきだった。芸人同士だからやす子が謝罪を受け入れて手打ちにしたようだけれど、もし一般人だったら侮辱罪として訴えられかねなかった。●誹謗中傷でないもの名誉棄損罪や侮辱罪は親告罪で、告訴して裁判をしないとどこまでが誹謗中傷になるのかはっきりしないけれど、過去の判例や社会的な慣習などである程度の基準はある。・芸としての毒舌有吉弘行は「アメトーーク!」というテレビ番組で品川祐におしゃべりクソ野郎というあだ名をつけたけれど、これはエンタメとしてそういう台本があって毒舌を言われる側も了承していてリアクションすることでギャラをもらっているので、芸人同士で悪口を言う分には告訴されることはない。プロレスラーがマイクパフォーマンスで公然と対戦相手の悪口を言うのも同様に試合を盛り上げるための演出なので、「何コラタココラ」「おっさんなめんなよこの野郎」とか言っても侮辱罪として告訴されることはない。・批評スポーツや芸術には技術の良し悪しがあるし、政治や経済には政策の効果の良し悪しがあるので、一生懸命頑張ったからといって必ずしも褒められるわけではなくて、現実と理想のギャップが批評の対象になる。例えば「あのタイミングで選手を交代して逆転されたのは監督の判断ミスだ」とか「あのドラマのヒロインは演技が下手で浮いていたので別の女優を起用した方がよかった」とか「あの市長の政策は膨大な予算をかけた割に効果がなかったので責任をとって辞任するべきだ」とかは個人の人格を否定するものではなくて技術や戦略や判断についての批判なので誹謗中傷には当たらない。批判的だからと言って悪意があるわけではなくて、あれはダメだったからこうすればもっとよくなるのにという建設的な提案である。・商品やサービスに対するクレーム「検品体制が甘くて商品にバリが残っていてけがをした」とか「担当者がタメ口で馴れ馴れしくて態度が悪い」とかの口コミを書いたりして、対価に見合うサービスを受けられなくてクレームの正当性が証明できるときは誹謗中傷には当たらなくて、企業から補償や謝罪を受けられることもあるし、他の客に対しても役に立つし商品やサービスの改善につながるので公益性がある。・叱責立場が上の人が立場が下の人の失敗を叱る場合は職務遂行上で必要な指導の一環で、他の従業員や客の前で公然と事実を指摘してもその指摘が合理的であれば侮辱罪は認められにくいだろう。・価値観の表明人間には性格の相性や価値観の違いがあるし、誰かを嫌いになることもある。「あいつは嫌いだ」と言うのは自分の価値観の表明にすぎなくて相手を誹謗中傷しているわけではないので、表現の自由として認められる範疇だろう。ただし名誉棄損罪や侮辱罪として告訴されることがないとしても、その価値観に賛同しない人からは批判されうる。最近は川口ゆりというフリーアナウンサーが「夏場の男性の匂いや不摂生してる方特有の体臭が苦手すぎる」「1日数回シャワー、汗拭きシート、制汗剤においては一年中使うのだけど、多くの男性がそれくらいであってほしい…」とXに投稿して男性差別だと批判されて事務所に契約を解除されたそうな。1日数回のシャワーは現実的でないにしても私は契約を解除するほどの差別的なコメントだとは思わないけれど、カチンときた男性が多かったのだろう。カードショップで臭い人は出入り禁止になるくらいの問題になっているけれど、それも差別ではなくて他の客を守って店の営業を続けるためだろうし、人前に出る時はやれる範囲で体臭対策をやるのがマナーだろう。・首相などの公務員に対する報道公然と事実を指摘したら名誉棄損罪になるといっても、政治家が不祥事を起こしたのを報道したら名誉棄損罪になるのでは報道の自由や言論の自由がなくなって権力の監視ができなくなってしまう。名古屋法律事務所の記事によると、刑法では首相など公務員について摘示された事実が真実であることの証明があったときは処罰されないという例外扱いになって、真実であることが証明できなくても確実な資料や根拠に照らして真実だと信じた場合にも名誉毀損罪は成立しないそうな。・動物や非実在人物に対するコメント「この警察犬は権力の犬だ」や「アンパンマンはアンポンタンだ」とかは法的人格を持つ実在する人間の名誉を棄損しているわけではないので、誹謗中傷しても法的な処罰の対象にならない。●誹謗中傷しないためにやること、やらないこと・一般化する固有名詞を出さずに「柔道の試合で勝った選手がガッツポーズをするのは相手への礼がなっていないのと同様に、負けて畳に座り込んでごねたり泣いたりするのも相手への礼がなっていないので柔道家としてはダメだ。柔道発祥の国の選手として勝っても負けても世界の手本となる礼を示すべきだ」と一般論を言うのは特定の個人に対する誹謗中傷にはならないので、告訴されることはない。ただし一般化するといっても「男は」「女は」と主語を大きくしすぎると批判されやすくなる。・感情的にならないスポーツは選手だけでなくて観客も熱中するがゆえに興行が成り立つので、情熱の裏返しで選手のミスに対して厳しくなって感情的な暴言が出やすくなる。eスポーツでもプレイヤーが勝ちたいがあまりに熱くなって「引くこと覚えろカス」と味方に対しても暴言が出る。イラついた感情をそのまま言語化せずに自分の意見と感情を切り分けて、個人の人格を否定するような意見を言わずに技術や戦略や判断などの非人格的な部分に対して意見を言うとよい。仏教で人間の苦しみの根源とみなす三毒の貪瞋癡では瞋(自分の心と違うものに対して怒りにくむこと)がこれに該当して、他人が自分の思い通りになることなんて夫婦でも親子でもないのだから他人の言動にいちいち怒るのは不毛である。・炎上に便乗しない有名人が炎上すると掲示板が祭りみたいになって、レスがほしくて過激なコメントをする人やそれをもてはやす人が出てきて、一線を越えて誹謗中傷や脅迫や殺害予告をする人もいる。フワちゃんに対しても誹謗中傷が殺到していたけれど、フワちゃんに非があるからといってフワちゃんを誹謗中傷してネットリンチしてよいことにはならない。・投稿する前に見直す誹謗中傷は罰金を払ったり前科がついたり仕事がなくなったりしてでも言う価値はない。インフルエンサーや言論人とかなら炎上しても知名度向上につながるけれど、一般人が炎上しても良いことはないので、きわどいコメントをして注目を集めようとせずに投稿前に見直して毒気を抜いておく方が良い。「死ね」「生きる価値ない」などと直接生死に言及すると強い悪意がある中傷として侮辱罪で告訴されかねないので、生死に関することは安易に言うべきではない。・事実を確認する2017年の東名高速道のあおり運転事故では容疑者と苗字が同じだけで無関係な会社社長が容疑者の親族で勤務先だというデマを流されて中傷される事件が起きて、中傷した5人は名誉棄損罪で30万円の罰金を払って計176万円の損害賠償の支払いを命じられた。デマを流す人にも問題があるけれど、デマをそのまま信じて事実確認しない人にも問題があって、一方的に批判してストレスを発散できる相手がいれば相手が誰だろうが事実がどうだろうがどうでもよいのだろう。刑事事件などでは容疑者として言及されるだけでも相手の名誉が傷つくので、事実が確認できないことについてはうかつに意見を言うべきでない。・専門外の事に口を出さない警察官でもなくて何の知識もない一般人が刑事事件の犯人を推理してあいつが怪しいだの言って探偵を気取ったところで、事件の真相が明らかになるどころか中傷になる可能性の方が高い。現行犯逮捕でない限り容疑者の段階ではまだ犯人と決まったわけではないし、裁判で判決が出るまでは犯人が確定していない。それに容疑者が控訴している場合は最高裁まで裁判が長引く。凶悪犯が許せないという感情はわかるけれど、それをぶつける相手の容疑者が犯人とは限らないし、事件に無関係な人がしゃしゃり出てきて厳罰を求める理由はないので、事件について何か言いたいのなら容疑者への批判よりも被害者の支援に回るとよい。スポーツや芸術の批評でも専門知識がないと技術に対する批評にならずに人格否定になりかねない。・片方の言い分を鵜呑みにしない漫画家の結賀さとるがイラストレーターの花邑まいに自作をトレースされたと言いがかりをつけて取引先にトレースを認めさせようとしたりブログでトレパクを主張したりしたことで花邑まいの仕事がキャンセルされて、それで花邑まいが名誉棄損で訴訟したら勝訴して、東京地裁は結賀さとるにブログの削除と314万円の賠償を命じた。結賀さとるが花邑まいにトレース行為などを理由に損害賠償を求めた反訴は並行で審理されて棄却された。判決文では花邑まいのイラストのほうが先に描かれていて結賀さとるが後で描いて取引先に納品したイラストはアクセス権限があって部外者が閲覧できなくて外部にも発表されていないので花邑まいがトレースすることは不可能で、それにもかかわらず線の重なりがあってトレースでなくても線の重なりが生じうるので、線の重なりがあるだけでトレースしたとは推認できないとしている。結賀さとるの主張に追随して花邑まいを誹謗中傷した人たちも名誉棄損になるので、双方の言い分が食い違っているときは片方の言い分だけを鵜呑みにしてあいつは悪いやつなんだと誹謗中傷してはいけない。・中立的な視点を持つ芸能人のアンチは中立的に批評する視点を持っていなくて相手のやることなすことすべてをけなしていて、悪口を言うことに慣れてしまって歯止めが利かなくなって誹謗中傷に発展していく。批判だけするのでなくて良い所は認めるべきで、そうでないと建設的な批評にならない。・寛容になる人生で一度も失敗しない人はいないし、若気の至りや飲酒による判断力の低下や更年期障害や仕事のストレスや加齢による前頭葉の委縮や精神疾患の発症とかで一時的に行き過ぎた言動をする人もいるけれど、そういう人たちは社会にまったく貢献していない悪人かというと違う。何か責められるようなことをしたとしても司法が相応の罰則を与えるし、情状酌量の余地があって反省している人たちを敵視して誹謗中傷してやっつけようとする必要はない。政財界の巨悪を批判せずに自分の人生にほとんど影響がない有名人の些細な不祥事をあげつらって粘着して誹謗中傷するのは興味関心の優先順位がおかしい。・公然での発言を控える口が悪くて悪口を言いたくてしかたがない人はSNSや掲示板で全世界に向けて発信せずに自宅で家族と話すだけにとどめておけば「公然」に該当しなくなるので名誉棄損罪や侮辱罪の要件は成立しなくなる。道端で数人で世間話をするだけでも「公然」に解釈されて名誉棄損罪や侮辱罪として告訴されうるので、基本的に家の外で他人の悪口を言わないに越したことはない。大塚・加藤法律事務所の記事によると自分のコメントを含まない単純リツイートでも名誉棄損の判決が出ているので、リツイートを使いこなせない人はあまりSNSに関わらないほうがよい。・ダイレクトメッセージで直接やりとりするSNSや掲示板で皆が見れる状態で投稿をせずに、ダイレクトメッセージなどを使って一対一でやりとりして他の人から見られないようにすれば「公然と」の要件を満たさないので、名誉棄損罪や侮辱罪にはならない。・動物に例えない和田アキ子が陸上女子やり投げの北口榛花に「なんか、トドみたいなのが横たわっているみたいな。かわいいな」とコメントして批判されている。動物は一般的に人間よりも知能が劣る存在だし、宗教や文化によっては不浄な存在として扱われているので、かわいい動物に例えるつもりで使っても相手が褒められたと受け取るとは限らない。悪意はないので侮辱罪として告訴されることはないだろうけれど、普通にかわいいと言えば済むのでわざわざ動物に例える必然性がない。くまのプーさんみたいでかわいいと言うと怒る主席もいる。・フィクションのキャラクターを批判対象にするインターネットがなかった頃はナイーブな視聴者が多くてドラマの悪役やヒール役のプロレスラーを悪人だと信じこんで誹謗中傷していて、それがストレス発散の娯楽として機能していたので華のある悪役がいるドラマやプロレスは人気があった。SNSができてからはそういう人たちが直接芸能人のSNSで誹謗中傷するようになったけれど、実在の人物でなくフィクションのキャラクターをストレス発散の対象にすれば悪口を言っても問題にならないので、悪口を言いたくて仕方がない人は悪役が出てくるドラマとかを見るとよい。●まとめ人間は言語能力を発達させたことで情報を共有して蓄積して議論して社会を発展させてきたけれど、その言語能力は他人を害して社会を壊す方向にも使われうる。日本人は自分が損をしてでも相手の利益を減らそうとするスパイト行動をとる意地悪な人が多いそうだけれど、金持ちや芸能人やインフルエンサーに嫉妬して誹謗中傷して成功者を引きずり降ろそうとするのは生産的でないし、名誉棄損の訴訟も弁護士や裁判所の人的資源の無駄遣いなので、誹謗中傷はしないほうがよい。誰かの言動を批判するにしても個人の幸福や社会の発展に役立つことを目的にするべきで、教養ある文明人として恥ずかしくない言葉遣いをするべきだろう。岸田文雄のように所得倍増という嘘をついて総理になってPB黒字化を目指してインボイス制度を導入して控除廃止とかのステルス増税して国民を困窮させて能登の被災者を見捨ててウクライナの支援を優先する支持率最低のクソみたいな政治家でも増税クソメガネや財務省の犬と呼ぶのは下品で行儀が良くないので、もっと上品に御増税うんこメガネ様や財務省のわんこちゃんなどと呼ぶ方がよいかもしれない。
2024.08.13
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2021年に子供の国語力低下について考えるという記事で考えたときにはPISA(OECD生徒の学習到達度調査)で読解力が低下していたけれど、2023年のPISAでは日本は読解力が3位で、前回の2018年に過去最低の15位だった状態から回復したそうな。ところが小学6年生と中学3年生を対象とした2024年4月の全国学力調査だと中学国語の「話す・聞く」「読む」「書く」の技能別で「読む」の正答率が過去最低の48.3%で、「話す・聞く」の59.1%、「書く」の65.7%に比べて極端に低くなっている。間違えた人はキーワードだけ見て、言葉の意味はわかっていても文章としての言葉のつながりを理解していないそうな。前回よりも試験が難しくなったという見方もあるので正答率が低いからといって読解力が落ちたとは限らないけれど、楽観的に見るよりは悲観的に見て対策する方が良いだろう。というわけで徒然なるままに読解力の低下について考えることにした。●読解力は必要なのか読解力の低下は子供がスマホで動画を見ている時間が長くなったことが原因とみられているけれど、動画で情報を得られるのだから本を読まなくていいという人もいる。YouTubeには大学の講義やシンポジウムの動画がたくさんあるし、医療でも法律でもたいていのトピックは専門家がYouTubeでわかりやすく解説しているので、本を読まなくても動画から学べることは多い。しかし動画は文章よりも情報伝達効率が悪い。それでタイパとか言い出して短い切り抜き動画ばかり見るとますます得られる情報が少なくなって、結論だけ見てその結論に至るまでの背景や論拠を考えないようになる。それに文章は能動的に意識を集中して読んで理解する必要があるのに対して、動画は受動的に聞き流すことができてしまうので、動画で知った情報の方が記憶に残りにくいと思われる。中学生の頃に読解力が低いままだと、高校生、大学生と年齢が上がって知るべき情報が増えていくにつれて学習効率が落ちていくだろう。大学生は卒論を書くために動画で誰も解説していないような専門分野のマイナーな文献や先行研究を自分で調べる必要があるけれど、読解力が低いと論拠となる情報を正しく引用できなくてろくに研究もできなくなると思われる。というわけで文章読解力が落ちた分を動画の視聴で完全に補うことはできないので、私は読解力は必要だと思う。動画はそれ自体は有用だけれど、子供のうちは情報源を動画に偏重しないで先に読解力を身に付けて、それから動画で情報を得るのがよいだろう。●読解力の低下がもたらす問題・議会制民主主義の危機古代でも話したり聞いたりすることはたいていの人ができたけれど、文字を読み書きできるのは教養がある貴族や官僚だけで、庶民の識字率は低かった。口頭で伝えられる内容には限界があるし、記憶には間違いも多くて伝達ミスが起きるので、様々な学問の研究成果が記録された資料を読める事が正しい知識を持つことにつながる。それゆえに読解力が高くて長くて複雑な文章を読めることが教養の度合いを示す指標になる。近代国家は識字率を上げて国民に高等教育を施して、教養ある国民が選挙権や被選挙権を持つことで、議会が世襲貴族に占領されなくなって国民の代表による議会制民主主義が成り立つようになった。政治家は法律や科学的根拠を基に政策を議論する必要があるので、いろいろな資料を正しく読めない人とは議論にならないし、議論ができないと議会が機能しなくなる。読解力が低くて政策が理解できない国民が変な政治家を選ぶようになると、個人的な問題で終わらずに議会制民主主義を脅かす社会問題になる。こないだの東京都知事選挙で石丸伸二が若者の票を集めて躍進したのも衆愚政治に向かいつつある兆しといえる。石丸は安芸高田市長のときに議会で寝ている議員をSNSで批判して知名度を上げて、具体的な政策がないのにSNSで露出を増やして若者の浮動票を集めたけれど、テレビでのインタビューではインタビュアーへの敵意が強くて議論がかみ合わない石丸構文が話題になって、石丸支持者も誹謗中傷をして評判を落とした。石丸に投票した人たちは議会は敵と対決してやっつける場所でなくて政策を議論する場所だと理解していないのじゃなかろうか。これは小泉純一郎が「自民党をぶっ壊す」といって郵政民営化に異論を言う人を抵抗勢力扱いして小泉劇場としてブームになった時のB層の投票行動と同じで、敵を作って戦う姿勢を見せれば政策の良し悪しを無視してエンターテイメントとして支持を集めることができてしまうけれど、結果として郵政民営化は失敗だったし小泉純一郎や投票した人たちがそれを反省するわけでもない。改革を主張する維新の会も同様で、公立病院や保健所を削減して新型コロナ禍で大阪で一番の死者を出していて改革どころか改悪して失敗しているのに、テレビで露出を増やして既得権益と戦って変える姿勢だけ見せれば支持を集めてしまうし、失政の結果に対する責任を取らない。小泉進次郎も同じ内容を繰り返す小泉構文が国語力の低さを表していて、二酸化炭素の削減目標で46という数字が浮かんできたと言い出して科学的根拠がないままでたらめに政策が決められてしまっている。もし100というセクシーな数字が浮かんでいたらマジでヤバイことになって、マジでヤバイということは、マジでヤバイことになるところだった。・扇動されやすくなる読解力がなくて情報の真偽を確かめられないとフェイクニュースや陰謀論を信じて社会を破壊する活動に参加しかねない。真偽を確かめるためにはまず情報を誤読せずに正しく理解して、論拠がどこにあるのかを把握して整合性を検証する必要がある。動画などで音声として聞くと複雑な文法や論理を理解しにくいけれど、文章として読めば前後の文章を比較して論拠や論理の飛躍や矛盾を見つけやすくなる。それに動画は話している人を映すので、話の内容についての議論よりも発言者に対する批判になりがちである。そんで発言者に差別主義者だの陰謀論者だのなんだのとレッテル貼りをして議論そのものがなくなってしまうと情報の真偽の検証がおろそかになる。発言を文章化すると発言者と発言内容を切り離して客観視することができるので、動画でなく文章をベースにして議論するほうがよいだろう。・クソリプの増加文章読解力不足で論旨や論点を理解せずに誤読して、具体的な指摘や提案ができず、嫌いな相手に感情をぶつけて憂さ晴らしをしようとする人たちがクソリプを量産していて、インターネットという文明の利器が非生産的な誹謗中傷に使われて、本来は有益な情報交換ができるはずの掲示板やSNSが不快な場所になっている。MBTI診断で思考型と感情型に分かれるように、人の意見にも思考型と感情型のどちらが優勢なのか特徴が出る。私のブログやYouTubeのような場末のSNSにもクソリプがたまにくるけれど、クソリプを送る人は感情型といってよいだろう。誰でも意見を言う自由はあるし、生産的な指摘や提案や批判なら歓迎するし私が間違っているなら訂正するけれど、生産的でないクソリプは相手にしても時間の無駄なので私は無視している。ショーペンハウエルが馬鹿と議論しても無駄だと言っていたように、相手は物事を理解する能力がなくて、相手の間違いを指摘しても相手はなぜ間違っているのか理解できなくて間違いを認めて意見を変えることはないので指摘する意味がないし、教師でもないのに無料で相手を指導して間違いを正してやる義理もない。せっかく人間として生を受けて自我を持ったのに、豊かな言葉を学問や芸術に使わずに誹謗中傷に費やすのは不毛で、私は人間として理性を磨いて生きようと思っているので理性が乏しくて物事の道理を理解していない人たちとはなるべく関わりあいたくない。村上春樹がSNSを見ない理由として「大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから、逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない。」と答えたのも作家としては当然の感覚で、人間は周囲の環境から何かしらの影響を受けるので、まずい文章を読めばそれに影響されて変なミームや流行語や差別用語を使ったりして言葉が荒れかねない。中国のことわざに「一顆老鼠屎壞了一鍋粥」(一粒の鼠の糞が粥の鍋をすべて壊す)というのがあるそうだけれど、一行のクソリプでも読まないで済むならそれに越したことはない。辻美紀や工藤静香が料理を作ってSNSに写真を上げるとけなす人が大勢いるそうだけれど、他人が何を食べていようが自分が食べるわけでもないのだからどうでもいいだろうに、芸能人に嫉妬して粘着しているアンチは他人に不満を募らせて文句を言って非生産的な行為で人生を浪費している。「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざがあるけれど、それに付け加えるなら「クソリプはうんこ」で、クソリプをすればするほど自分の評価が下がっていることにクソリプしている本人は気づいていないのだろう。感情的にクソリプをしてうんこまみれで生きる自由もあるけれど、おそらく幸福とは程遠い生き方になる。木村花や韓国の芸能人のように誹謗中傷が原因で自殺した芸能人もいるし、名誉棄損で訴えられて書類送検されたり慰謝料を払ったりする人もいるし、クソリプは個人の幸福や社会の発展に何も寄与していない。クソリプから殺人事件にも発展して、2018年の福岡IT講師殺害事件ではブログに「低能」と罵倒コメントして荒らしていた人が低能先生とあだ名をつけられて、その対処法を紹介したHagexというIT講師のブロガーが逆恨みされてセミナーで刺殺された。今後読解力がない人が増えたら、相手の意見を理解できずに自分の意見を押し付けようとして揉めて殺害する事件が頻発するような殺伐とした社会になるかもしれない。●読解力を向上させるにはどうすればいいのか読解力を向上させるためには小説を読むのが良い。ニュースやプレスリリースや論文とかのわかりやすく書かれている文章とは違って、小説はあえてわかりにくい言葉遣いをして日常生活では起きないような出来事を書いているので、内容を理解するために橋渡し推論や精緻化推論を頻繁に行って言外の意味を補完して、ワーキングメモリを働かせてこの登場人物はこういう体験をしてこういう価値観を持っているのでこういう言動をしているのだというメンタルモデルを登場人物ごとに作って人物像を想像する必要があって、単に言葉の意味を理解する以上の複雑な認知能力が要求される。例えば恋愛小説なら「恋をした」「嫉妬した」みたいに直接感情は書かないので、頬が紅潮して目をそらしたとか物陰から横顔を眺めていたとかの描写を手掛かりにして言外の微妙な感情を推測する必要がある。本格ミステリだと登場人物の言動や犯行現場の状況を正しく読めないと犯人の推理ができないし、正しく読むことが推理の面白さにつながるので、楽しみながら読解力を鍛える訓練になる。キーワードの拾い読みだと小説は理解できないので、キーワードだけ見て早合点して全体の文章のつながりを理解していない子供の読解力を向上させる対策としてはうってつけである。幼児向けの絵本は絵で状況を補完しているけれど、小説は絵がなくてより高度な読解力が必要になるので、言語能力の発達に応じて絵本から小説にシフトしていくのがよいだろう。しかし子供向けの漫画は多いのに、学校の図書館におけるような子供向けの児童小説やジュブナイル小説があまりないのは出版界の課題といえる。ライトノベルは青少年向けだけれど、たぶん娯楽色が強くて読書感想文の対象にならないので学校の図書館に置いてもらいにくいと思う。その需要を埋められたら小中学生の読解力が向上するかもしれない。国語の授業で小説を読ませないでもっと実用的な勉強をさせろという人がいるけれど、たかが小説さえ理解できない程度の読解力しかないのでは実用的な知識を学ぶどころか文章を曲解して間違って覚えることになりかねない。計算自体はできるけれど算数の文章問題を理解できなくて回答を間違える子供がいるように、読解力がなければ他の学問を学ぶうえでも障害になる。大人になってから小説を読まないのは個人の自由だけれど、認知心理学の点から見たら子供の言語能力を向上させるためには小説を読むほうがよいだろう。
2024.08.05
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最近は『アサシンクリードシャドウズ』(Assassin's Creed Shadows)というゲームが炎上したので、これと歴史の改ざんについて考えることにした。●歴史とは何か歴史とは過去の人間生活に起こった事象の変遷・発展の経過である。文字ができる前の時代の歴史は骨や土器や化石などの出土品を解析して、争いがあったか、何を食べていたのか、栄養状態はどうだったのかなどを推測している。文字ができてからは古代人が戦争や天変地異などの何か重要な出来事を後世に残そうとして石や粘土板や紙に記録するようになって、現代人はそれを信憑性が高い一次資料として現代語に翻訳して、他の資料との整合性を考えていろいろな仮説の中から矛盾がない説を史実としている。しかし鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷大将軍になった1192年じゃなくてそれ以前だという説が有力になったりして、史実とされて教科書で教えられていたことが後から変わることもある。●『アサシンクリードシャドウズ』の問題『アサシンクリードシャドウズ』はUBIの看板タイトルのアサシンクリードシリーズの最新作で11月15日に発売予定のゲームで、日本を舞台にして織田信長に仕えた黒人の弥助を主人公にしている。しかし畳が長方形でなくて正方形だったり、桜が咲いているときに田植えをしていて豊作だと言ったり、日本向けの動画に中国語の簡体字の字幕が使われていたりして、時代考証が不十分なだけでなくて開発チームや監修者の中に日本人がいなくて日本の文化について根本的に理解していない人が作っているのがわかる有様だった。日本人がこれを見たら違和感だらけでよくある外国人が作った和風ファンタジーだとすぐにわかるし黒人が侍として活躍しようがファンタジー忍者が登場しようが別に気にしないけれど、問題はUBIが史実を忠実に描いたかのように発言したことである。ファミ通のインタビューでは「数年間、専門家の助けを借りていましたが、日本のスタジオとチームでも調査を行いました。異なる種類の情報源を使ってチームが正しく理解し、16世紀の日本の様子を再構築するために必要なすべての情報を持っているかを確認しました。」と言っている。Xboxのインタビューでは「We’re showing real historical figures, such as Oda Nobunaga and a lot of events that happened during that time, so you’re not only playing in feudal Japan, but learning about this fantastic time period.」(織田信長のような実在した歴史上の人物や当時の出来事を忠実に描いているので、封建時代の日本を舞台にゲームを楽しみながら、この素晴らしい時代について学ぶことができます)と発言した。それでゲーマーたちが忠実に描いていないだろと批判して、粗探しが始まって画像の無断盗用や左右反転コピペが発覚して炎上が広がった。専門家でない人なら弥助が侍だったと言われてもふーんそうなんだと思う程度だろうし、私もこの問題が起きるまで気にしなかった。そういえば侍とは何ぞやと考え始めると、主人のために戦えば侍で、主人がいないのは侍でなくて野武士だという広義の定義では弥助は本能寺の変で織田信忠がいる二条新御所で刀で戦った記録が残っているので侍といえなくもないけれど、なんで弥助には三浦按針みたいに苗字(家名)がないの、俸禄はどのくらいなの、なんで資料がないの、といろいろ疑問が出てくる。信長は刀好きで森蘭丸には不動行光、黒田官兵衛にはのちに国宝になるへし切長谷部という名刀を下賜しているけれど、弥助には刀を与えたようだけれど名刀として後世に残っていないのでそれほどお気に入りだったとも思えない。資料があまりないことから見ても弥助はたいして重要な人物ではなかったと思われる。この炎上でUBIの株価が一時的に約15%下落して、UBIは「皆さまのご意見は深く尊重されるとともに、日本の皆さまにご懸念を生じさせたことについて、心よりお詫び申し上げます」「史実や歴史上の人物を再現する目的で作られたものではありません」と声明を出してトーンダウンしている。外国産のフィクションでも真田広之に監修を任せて細部にこだわったディズニーのドラマ『SHOGUN』がヒットしたのに比べて、『アサシンクリードシャドウズ』は発売前から不買運動をされる有様で、いくらフィクションと言えども時代考証は重要である。時代考証をしたうえでフィクションとして面白くするために脚色するのはありだけれど、時代考証がずさんなのはクリエイターの創作姿勢としてだめである。歴史フィクションが好きな人は歴史に詳しい人が多いのだから、ネタ元にリスペクトがなくてろくに調べてない外国人が明らかに不正確な情報を史実かのように語ったら批判されて当然である。●弥助の歴史改ざんの問題UBIの炎上で弥助に関する本を書いていた日本大学法学部准教授のトーマス・ロックリーも批判の対象になった。ロックリーは『Yasuke: The true story of the legendary African Samurai』という本を出版して、Wikipediaやブリタニカを自著に沿う内容に改ざんしていたことが判明した。しかもその主張は根拠がない。本能寺の変で自害したとされる信長の遺体が見つかっていなくて、焼けて身元の判別がつかなくなった説と、遺灰が阿弥陀寺の清玉上人に持ち出された説と、首が原志摩守宗安に持ち出されて西山本門寺に埋められた説があって、いまだに真偽は不明である。しかしロックリーはTIMEの「The True Story of Yasuke, the Legendary Black Samurai Behind Netflix’s New Anime Series」で「Yasuke was in the temple with Nobunaga when he performed seppuku. “There’s no record, but tradition holds it that [Yasuke] was the one who took Nobunaga’s head to save it from the enemy,” Lockley said. “If Akechi, the enemy, had gotten the head and he’d been able to hold up the head, he would have had a powerful symbol of legitimacy.” Lockley explained that an act like that would have given Akechi credibility as a ruler. After the attack on Nobunaga, Akechi did not get much support and was soon defeated in battle. “Yasuke, therefore, by escaping with the head, could have been seen and has been seen as changing Japanese history,” Lockley said. 」と記録はないと前置きしつつも弥助が信長の首を敵から守って日本の歴史を変えたと見られると言っていて、弥助を英雄視している。BBCの「Yasuke: The mysterious African samurai」という記事でも同様に「He was also there on the fateful night one of Nobunaga's generals, Akechi Mitsuhide, turned against him and set the warlord's palace alight, trapping Nobunaga in one of the rooms. Nobunaga ended his own life by performing seppuku, a ritual suicide. Before he killed himself, he asked Yasuke to decapitate him and take his head and sword to his son, according to historian Thomas Lockley. It was a sign of great trust. 」と弥助が信長に信頼されて首と刀を息子(信忠)に届けたというロックリーの説を紹介している。CNNの「African samurai: The enduring legacy of a black warrior in feudal Japan」という記事でも「Facing defeat, Oda ended his own life to avoid losing his honor. He performed a ritual called “sepukku” which saw him stab a short sword into his stomach, slicing horizontally while his attendant Ranmaru Mori lopped off his head. Legend has it, says Lockley, that Oda’s last order to Yasuke was to take his sword and his decapitated head to his son.」と森蘭丸が信長の首を切り落として信長が最後の命令をして弥助が首と刀を息子(信忠)に届けさせたというロックリーの説を紹介している。このロックリーの説を裏付ける根拠がない。ルイス・フロイスの『1582年度日本年報追信』だと弥助は「信長の死後、世子の邸へ行き同所で長い間戦っていた」とされていて、弥助が信長の首を本能寺から二条新御所の信忠に届けたかどうかには言及していない。森蘭丸は本能寺で討ち死にしているけれど信長より先に死んだのか後に死んだのか不明で森蘭丸が信長の首を切ったという証拠はないし、明智光秀の1万の軍勢に本能寺が包囲されて首を探している中で長身の黒人の弥助が信長の首を持って逃げていたら目立ってすぐに発見されるだろうし、もし弥助が首を守って二条新御所の信忠に届けたとしても信忠や家臣がそれに言及しないのもおかしい。『信長公記』によると信忠は「腹を切った後、縁の板を剥がしてこの中に入れ、遺骸を隠すように」と自分については言ったけれど信長の首の扱いには言及していないので、信忠のところに信長の首が届かなかった可能性のほうが高い。弥助が日本語を話せて信長の最期を見届けたのならそれを信忠や家臣に伝えないのもおかしいし、明智光秀も投稿した弥助に信長の首の所在を尋問せずに「その黒人は動物であって何も知らず、また日本人でもないから彼を殺さず、インドの司祭たちの教会に置くように命じた。」と何も知らないような扱いをしてすぐに追い払うのはロックリーの説とつじつまが合わない。信忠の家臣が信忠の切腹後も戦って討ち死にしている一方で、弥助が刀を捨てて投降するのは忠義がなくてとても伝説の侍とはいえない。ロックリーが黒人奴隷が信長に信頼される侍になって信長の首を持って逃げて日本史を変えたというサクセスストーリーを主張したいなら歴史研究者としてでなく小説家として言うべきで、根拠なしにtrue storyと言うのは学者としてのモラルが欠如している。TIMEやBBCやCNNのような比較的権威のあるサイトで仮説にすぎないものが史実であるかのように外国に広がると、それを訂正するのも大変になる。日本ファクトチェックセンターは「黒人侍とその家族の画像?【ファクトチェック】」という記事でAIが作った黒人侍の白黒写真の真偽についてロックリーに尋ねているけれど、聞く相手を間違っている。専門家が言うことだから正しいとみなすやり方は専門家が間違っている可能性を考慮していない。●なぜ歴史は改ざんされるのか・利益や名声を得るため歴史が古くなるほど資料が乏しくなって専門家でも何が真実か断言できなくなるので、そこに歴史の改ざんの余地が生まれる。生きている人間は事実無根の事を言われたら反論するけれど死者は反論できないし、専門家でない一般人には反論するほどの知識もないしわざわざ調べるほど暇でもないし、専門家でも外国人が外国語で出版した本や論文を全部チェックするのは大変なので、歴史を改ざんしてもなかなかばれにくい。芸術の盗作と似たようなもので、捏造がばれれば名声を失うけれど、ばれなければ専門家の地位を得て本が売れたり記事の執筆依頼がきたり大学の講師になれたりする。旧石器捏造事件を起こした考古学者の藤村新一は「功名心から捏造を始めたものの、『神の手』などともてはやされるようになり、プレッシャーから捏造を続けてしまった」と言っていて、学者としての真理の探究よりも功名心が上回ったようである。吉田清二が『朝鮮人慰安婦と日本人』を出版して慰安婦が強制連行されたと主張したのは金儲けのためだろうし、朝日新聞が吉田証言を根拠にして女子挺身隊と慰安婦を混同して慰安婦を外交問題にまで発展させたのも反日の購読者に媚びて金儲けをするためだろう。韓国が端島炭鉱(軍艦島)で朝鮮人労働者が虐待された証拠して出した写真が実際は福岡の筑豊炭田の写真だったように、韓国政府は被害者ぶって補償で利益を得るために証拠を捏造して歴史を改ざんして外交問題にしようとする。・国を支配するため新しい国や政権ができたときに、焚書して過去の王朝や政権を否定して歴史を改ざんすることがしばしばある。秦の始皇帝は秦以外の国の歴史書を焚書して自分の偉業を称える刻石を作らせた。日本では第二次世界大戦で敗戦して、GHQが日本人の愛国心をなくさせるために戦前に出版された7000冊が燃やされて、日本人はアメリカに従順な自虐史観に調教された。仮想敵国を作ると愛国心を煽って国内の問題から国民の目をそらさせることができるので、中国は南京事件を大虐殺に仕立て上げようとして合成写真などで証拠を捏造して反日プロパガンダを広めている。・自分の国を擁護するためアメリカは第二次世界大戦で日本人を猿扱いして東京を空襲して10万人を虐殺したり広島に原子爆弾を落として14万人虐殺したり長崎に原子爆弾を落として7万人を虐殺したりして非戦闘員の市民を虐殺して、イスラエルがパレスチナ人を動物扱いして市民を無差別に虐殺しているのと同様の大量虐殺をしたけれど、その蛮行を正当化するために日本人が残虐非道だったのだという物語をでっちあげて歴史を改ざんしたがる。中国系アメリカ人のアイリス・チャンは『ザ・レイプ・オブ・南京』で日本軍が数週間の間に一般市民約26万人から35万人を虐殺し、女性2万人から8万人をレイプしたと証拠もなしに主張して、最近はアメリカ人のブライアン・マーク・リッグが『Japan's Holocaust: History of Imperial Japan's Mass Murder and Rape During World War II』という本で1927年から1945年の間に天皇の命令で少なくとも3000万人が虐殺されたと根拠もなしに主張していて、外国に反日プロパガンダを広めている。ジャーナリストや歴史家の肩書を持った人たちが史実に嘘や誇張を混ぜて拡散する工作活動をするので悪質である。●歴史を改ざんされないためにどうすればいいのかしばしば文系の学問は役に立たない(企業の利益にならない)からなくせと言う人がいるけれど、大学が歴史を研究して研究成果を継承し続けなければ歴史が改ざんされても気づけなくなる。それゆえに歴史研究者の数と質を維持して、文化財や歴史資料や公文書を保管してデジタル化するなり外国語に翻訳するなりして資料に反する説の間違いを証明しやすくするのが重要である。国立公文書館の平成30年の「公文書管理体制の日英比較」という記事によると「欧米先進諸国では、作成後30年経った重要公文書は国立公文書館に移管されて永久に保存され、原則として公開されるという「30年ルール」が定着している。最近はその期間が縮小される傾向にあり、イギリスでは2010年の法改正により、「30年ルール」が「20年ルール」に改められ、現在は2023年の全面施行に向けた移行期間となっている。日本は「30年ルール」さえ定着しておらず、彼我のあまりの差に驚かされるばかりである。」そうで、公文書がちゃんと保管されて公開されることで事実を確認しやすくなる。化石とかの考古学的な資料は放射性炭素年代測定で年代がわかるので捏造しにくい。しかし写真や動画はAIの進歩で捏造が容易になって、古代史よりも近現代史の検証の方が難しくなるかもしれない。AIが悪用されたらカティンの森事件のように虐殺をなすりつけられたり偽旗作戦で被害をでっち上げられたりする可能性があるので、資料の真偽を判定するための科学技術も発展させる必要がある。Xのインプレゾンビが東日本大震災の写真や動画を能登地震の時に投稿したように、写真や動画が合成でないとしても元の文脈とは違う文脈に使われることもあるので、いつどこで誰が撮影したのか、初出はどの本やサイトなのかという背景情報もアーカイブして検索しやすくする必要があるだろうし、exif情報がない写真は加工されたものとみなして歴史的資料として採用しないとかのデジタル資料に対応した保管基準も必要だろう。反日外国勢力による歴史の改ざんからの防衛も国家の防衛の一環として相応の予算をつけて取り組むべきで、従軍慰安婦問題みたいに捏造から外交問題に発展するようなことは繰り返してはいけない。
2024.07.30
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ナショナルジオグラフィックの7月号で世界各地の先住民の特集をしていたけれど、そういえば先住民について考えたことがなかったような気がするので、徒然なるままに先住民について考えることにした。●先住民(indigenous people)とは何かWikipediaでは先住民を「政治的に劣勢な地位にある集団で、その国の支配的な地位にある集団のものとは異なった、同じエスニック・アイデンティティを共有し、現在統治している国家が支配を及ぼす以前から、その地域において、エスニックな実体をなしていたもの」(Greller, 1997) と定義しているけれど、英語版のWikipediaだと「There is no generally accepted definition of Indigenous peoples」と一般的に受け入れられている定義はないとしている。世界大百科事典では先住民とは「一般に,〈近代〉国家が形成される段階で,〈未開〉であるとの偏見をもとに,民族としての存在と固有の文化を否定され,その伝統的領土とともに一方的にその国家に併合された民族集団を指す。その領土には植民地政策が敷かれ,大虐殺や強制同化政策などにより民族としての抹殺が行われるが,同化が進んでも,差別問題は解決しない。この点,先住民族は,近代国家に自らの意思で統合されたかどうか,植民地政策が行われたかどうかによって確認される政治学の概念であり,民族学や人類学の概念ではない。」そうな。白人が征服して植民地にした国に対しては先住民という概念は適応しやすい。オーストラリアのアボリジニはイギリス人に侵略されて人間狩りをされて虐殺されたし、南北アメリカのインディアンやインディオはヨーロッパ各国に侵略されて虐殺されたので、上の定義だとアボリジニやインディアンやインディオは先住民族と言える。しかしもしオーストラリアやアメリカが宇宙生命体に侵略されてキリスト教徒の白人が未開生物扱いされて虐殺されて統治されて支配的地位をなくした場合、キリスト教徒の白人は先住民族と呼べるのか疑問である。あるいはもしアメリカ人が最初に月にコロニーを作って移住して、それから中国人が月に移住してコロニーを乗っ取って支配した場合は、アメリカ人は月の先住民と言えるのだろうか。日本語で先住というと単に先に住んでいるという意味なのでどこかの時点を基準にして先に住んでいれば先住と言えるけれど、英語のindigeousには原産や土着という意味があるし、aboriginal people(土着民)とも呼ばれるので、どこかの土地で文化を持った民族が他の土地に移住した場合は先住民の定義に当てはまらないのではないかと思う。上の定義だと先住民を迫害されている少数派と決めつけている点に問題があって、先に住んでいる土着の民族でも多数派は先住民に当たらないのはおかしい。インディアンやインディオは白人に征服されていない大航海時代以前でもアメリカ大陸の土着民なのに、上の定義だと白人に征服されないと先住民扱いされないことになる。結局のところ先住民の定義をはっきりさせて定義を共有しない限り、どの民族が先住民か否かという議論をしたところで科学的に証明しようがない。●先住民のメリットとデメリット・メリット先進国では近代化して生活が均質化したのに対して、芸術では他と違っていることが魅力になるので、芸術家はマイノリティであることがメリットになる。芸術で0から1を生み出すのは難しいけれど、先住民は伝統文化を受けつぐだけでも他のマジョリティの民族から見たらユニークな存在になる。民族特有のデザインやモチーフを他の民族の人が真似した場合は文化盗用としてポリコレで批判されるので真似されにくい。先住民は観光業もやりやすい。アメリカではカジノがラスベガスとかの特定の地域を除いて制限されているけれど、アメリカ先住民の居留地は自治区で連邦法や州法が適用されないのでインディアン・カジノの運営が産業になっていて、遠方からでも客が来るそうな。革や銀を加工したアクセサリーも土産物になる。・デメリット先住民は自殺率が高いのが問題で、自殺に至るには教育水準の低さ、貧困、人権侵害などのいろいろな問題がある。オーストラリアのアボリジニは1969年まで白豪主義の政策で親権を否定されて子供が隔離施設で育てられて、文化が断絶してアボリジニとしてのアイデンティティーを失うアイデンティティクライシスが起きていて自殺率がオーストラリアの平均の2倍以上である。ホワイトハウスの「2014 Native Youth Report」によると、1/3以上のアメリカンインディアンとアラスカ先住民の子供が貧困で、高校の卒業率が国の平均で80%なのが先住民は53-67%で全学校の人種や民族の中で最低で、先住民の15-24歳の自殺率は国の自殺率の2.5倍である。カジノで成功する人は少数で、多くのインディアンとアラスカ先住民は仕事がなくて過去数十年間の失業率は約50%の高水準である。仕事がなくても土地があれば伝統的な狩猟採集生活はできるけれど、インディアンのように居留地に強制移住させられてアメリカバイソンも白人に狩られて少なくなったのでは伝統的な生活もできない。先住民は差別や迫害の対象にもなって、カナダでは30年間で先住民の女性や子供が1200人以上行方不明になったり殺害されたりしたことが問題になった。映画の『ウィンド・リバー』はアメリカの話だけれど、先住民の失踪や性犯罪被害が多発していることからインスパイアされて作られたものである。田舎で伝統的な狩猟採集生活をするのか、都会で近代的な生活をするのかの選択でも人生がだいぶ変わる。伝統的な生活をする場合、他の国民と同等の教育を受けられないと会社の事務員や営業職とかの一般的な仕事につけないし、貧しさから抜け出せなくて働く気をなくしてアルコール依存症や薬物依存症になったりする。国際医学情報センターの「人種/民族別のアルコールおよび自殺-17州、2005~2006年」によると、人種や民族別に血中アルコール濃度を測定したら、アメリカンインディアンとアラスカ原住民にアルコール依存症が最も多くて、自殺前の飲酒も最も多かったそうな。新自由主義者は貧しい人は怠け者だから自業自得なのだと言って弱者への支援をなくそうとするし、先住民の保護のための支援や補助金をもらったらもらったで自立できない劣った人たちという偏見を持たれてしまう。芸術でもデメリットになる場合がある。音楽では器楽なら民族音楽のエキゾチックな雰囲気を出しやすいけれど、ポップミュージックをマイナーな言語で歌ってもたいていの人は理解できないので人気が出にくい。ナショナルジオグラフィックではペルーのCay Surというケチュア語のラッパーを取り上げていたけれど、YouTubeの動画を見てみたらチャンネル登録者数は397人で再生回数は2000回以下で儲かってなさそうだった。先住民として生まれるとメリットよりデメリットの方が大きくて生きるのが大変そうである。●民族の同化の是非大航海時代から帝国主義時代に世界各国が植民地を獲得して先住民に同化政策をした。同化させれば先住民の族長でなく宗主国の政治家に従うようにできて統治しやすくなって独立運動が起きる可能性を減らせるし、同じ国民という名目で植民地の土地や資源や労働力を国家のものにできる。言語が違うのは統治の上で障害になって、議会や警察の取り調べや裁判や病院の診察とかのあらゆることに通訳が必要になって言語の数だけ行政コストがかさむし、マイナー言語の話者の教育水準が落ちて教育格差が所得格差につながってしまう。同化政策をすることで先住民の生活を宗主国の水準まで引き上げることができるメリットがある反面で、先住民の言語や文化の継承が途絶えて、民族が語り継いできた歴史や土地に関する知識や思想や宗教が失われてしまうデメリットがある。そのデメリットが大きいので、同化するか否かは個人や民族の選択にゆだねられるべきで国が強制するものではないだろう。20世紀の領土拡大競争が世界大戦を引き起こして、第二次世界大戦後に帝国主義が終わって世界各地の旧植民地が独立したり、同化しなくてもそれぞれの民族が自治できるならそれにこしたことはない。ユーゴスラヴィアが各民族の自治を巡って紛争して分裂したり、フランス領のコルシカ島で民族主義運動が起きたり、スペインのバスク地方で独立を目指す過激派が紛争を起こしたり、フランス領ニューカレドニアで独立を目指す先住民が憲法改正に反対して暴動を起こしたりしたように、自分の民族の将来は自分たちで決めたいと思うのは当然である。しかし国は未開の僻地だとしても領土や領海や資源は手放したくないので、民族を独立させたがらない。じゃあどうすれば異民族と同じ国民として共存できるのか。ロシアにはいろいろな民族がいるのでロシア革命でレーニンは民族自決を原則にしていて、連邦という形で小さな共和国を取り込んで従属させて少数民族の文化を残しているけれど、それでも自治権の裁量が地域によって違っていて完全に自治しているとは言えないので、チェチェン共和国が連邦から独立しようとして紛争やテロが起きた。無宗教の中国は宗教が政治的権力を持つことを危険視しているのかウイグルやチベットや法輪功を弾圧している。母語の使用を禁止したり、信仰を捨てさせたりするやり方での同化は人権侵害だし、強制避妊手術による断種は国家の犯罪である。同化のために人権侵害をしてはいけないけれど、同化政策をとらずに放任してもそれはそれで問題になる場合がある。ロイターの「アングル:アマゾン奥地で殺人急増、麻薬密売と環境犯罪が結合」という記事では「ボルソナロ政権下で環境や警察、先住民関連の監督機関が解体されたことが、環境および麻薬関連の凶悪犯罪の急増を招いた」と言っている。アマゾンでは違法採金者が先住民に弓矢で殺される事件も起きていて、違法採金者が悪いにしても逮捕や裁判をすっとばして先住民の流儀で殺害するのは問題である。インド領の北センチネル島のセンチネル族みたいに島に隔離されているなら好戦的な先住民との接触を禁止してトラブルを防ぐ対応ができるけれど、陸続きだとそういうわけにもいかなくて、同じ国民として扱う以上は政府は治安維持に責任を持たないといけない。私は国民の言語は統一して、先住民でも移民でも最低ひとつの公用語は覚えるべきだと思うし、母語を禁止せずに母語と公用語を両方学ばせるやり方が良いと思う。●アイヌは先住民なのか国会は2008年に「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択されたので政治的にいえばアイヌは先住民で、政府の先住族の定義は「先住民族とは、一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、その後、その意に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく同地域に居住している民族である」というものだった。私は政治的に誰が先住民か否かを判断するのでなくて、科学的に検証可能な形で判断するべきものだと思う。現状では先住民の定義に支配を受けたとかのいろいろな政治的な概念を詰め込みすぎているし、世界共通の先住民の定義はないので定義はいったん脇に置いて、北海道には誰が先に住んでいたのかという考古学的な点を素人なりに考え直してみる。函館市のサイベ沢遺跡からは縄文時代前期の円筒土器が出土しているし、伊達市の北黄金貝塚からは縄文時代の集落の遺跡が見つかっているし、函館市の恵山貝塚からは続縄文時代の土器が出土しているので、縄文時代から誰かが北海道に住んでいた痕跡はある。網走市のヨモロ貝塚からはオホーツク式土器が出土しているけれど、5-9世紀ごろのものとみられている。その一方で中世以前はアイヌ的な文化的特徴を持った出土品が出ていなくて、北海道大学の「出土資料からみたアイヌ文化の特色」によると、アイヌ文化の物質文化を特徴づけるガラス玉や蝦夷刀などが出そろうのは13世紀末から14世紀初頭だそうな。伊達市の噴火湾文化研究所の「擦文(さつもん)文化と中・近世のアイヌ文化」という記事には「中世(本州の鎌倉時代から安土桃山時代:約800年から450年前)アイヌ文化の遺跡は上ノ国町や松前町などの道南地域や、平取町などの日高地方で多く発見されています」と書いてある。これを素直に考えたら、北海道では縄文時代に縄文人がいて、その後にオホーツク文化人やアイヌの祖先が北海道に来て鎌倉時代頃にアイヌ文化が出来上がったように見える。日本ファクトチェックセンターの「北海道の先住民族はアイヌではなく縄文人?【ファクトチェック】」という記事では、国立アイヌ民族博物館の佐々木史郎館長は「アイヌは日本が近代国家になる前から北海道の主要な住民でした。その近代国家による開拓政策、植民地政策、同化政策によってアイヌはいろいろな権利を奪われていきました。そういう過程を経た人々を『先住民族』と定義しているのです」「ですから、近代国家となった日本が、北海道などにおいて具体的な政策を展開した段階で、アイヌがすでに北海道で暮らしていたということが、すなわち先住民族であるということなのです」「文化人類学からすると縄文人という『民族』はおそらく存在しないと考えます。縄文土器という言葉があります。縄を土器の器面に転がして紋様をつける、その技法は広い範囲に見られ、そのような技法を持ち、そのような土器を使う人々を広く「縄文人」と呼ぶことは可能かもしれません。しかし、その技法を共有していたからといって、民族としてのアイデンティティーを共有していたかというとそれは考えられません。縄文文化は時代ごとに、地域ごとに非常に多様だからです」「幻想の縄文人という『民族』を創って、現代の大和民族あるいは他のどれか一つの民族の祖先だとするのは論理の飛躍があって、学術的には意味がないです。現代のそれぞれの民族のルーツが何千年もの間、不変であるということは考えられません。様々な集団が離合集散を繰り返してきたと考えるのが自然です」「考古学の最新の知見では、擦文文化から徐々に変化していって17世紀近世以降に見られるようなアイヌ文化に移行していく間に大きな人の入れ替わりはない。擦文文化を担っていた人たちが自分たちの文化を変えていく。変わっていった要因は本州や大陸との交易が飛躍的に発展したからです。擦文文化もその前の続縄文文化も、アイヌの祖先が担っていたはずです」 と言っている。しかし「民族としてのアイデンティティーを共有していたかというとそれは考えられません」というのは論理のすり替えがある。アメリカにインディアンという単一の民族がいるわけではなくてチェロキー族やナバホ族などの数百の部族がいたり、オーストラリアにアボリジニという単一の民族がいるわけでなくてアナング族やジャプカイ族とかの多数の言語が違う部族がいるように、縄文人という単一の民族がいるわけではなくて縄文時代に多数の部族がいただろうし、同朋意識がないと集団は形成されないので、その個々の集団は何らかのアイデンティティーを持っていて自集団と他集団を区別していただろう。「我々は縄文人だ」みたいな民族のアイデンティティーは共有していないだろうけれど、だからといって縄文時代の個々の集団にアイデンティティーがないことにはならないし、その個々の集団は先住していたと言えるはずである。「擦文文化もその前の続縄文文化も、アイヌの祖先が担っていたはずです」という点は考古学的な根拠や遺伝学的な根拠が示されていない。独立行政法人国立科学博物館の「形態と遺伝子から解明する近世アイヌ集団の起源と成立史」という研究だと、「近世アイヌ人骨122体を対象としてDNAを抽出し、ミトコンドリアDNAの解析を行った。最終的に100体からDNA情報を取得し、アイヌ集団の成立の歴史の解明を試みた。解析の結果は、北海道のアイヌ集団は在来の縄文人の集団にオホーツク文化人を経由したシベリア集団の遺伝子が流入して構成されたというシナリオを支持した。また同時に行った頭蓋形態小変異の研究でも、アイヌは北海道の祖先集団に由来するものの、オホーツク人との間の遺伝的な交流を持っていた可能性が示された。」と言っている。東京大学の「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」という研究だと、「アイヌ人と琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国人と同じクラスターに属することも分かった。さらに、他の30人類集団のデータとの比較より日本列島人の特異性が示された。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。また、アイヌ人はさらに別の第三の系統(ニブヒなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があり、本土人との混血と第三の系統との混血が共存するために個体間の多様性がきわめて大きいこともわかった。」と言っている。つまりは日本列島は縄文時代に沖縄から北海道まで縄文人がいて、渡来した弥生人と交雑するか、シベリア系と交雑するかでその後の遺伝的特徴が分かれていったわけである。網走市で出土したオホーツク式土器は5-9世紀のものなので、縄文人とシベリア系が交雑したのはそれ以後と思われる。国立遺伝学研究所の「遺伝子から続々解明される縄文人の起源~高精度縄文人ゲノム~」という研究だと、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した縄文人のゲノム分析をして、「ウルチ、韓国人、台湾先住民、オーストロネシア系フィリピン人と遺伝的に近かった」という結果になったそうな。東京大学の「骨格形態にもとづくオホーツク文化人」という研究では「サハリンのオホーツク文化の人骨は、大岬やモヨロの人骨にもっとも形態が近くサハリンアイヌ、北海道アイヌとは遠いことがわかった」と言っている。つまりは縄文人、アイヌ、オホーツク文化人はそれぞれ遺伝的な特徴が違うわけである。もし北海道から出土した続縄文時代の骨からシベリア系の遺伝子が検出されたりしてアイヌと近似性があるのならアイヌの祖先が続縄文文化や擦文文化を担っていたと言えるだろうけれど、そうでないならアイヌの祖先が続縄文文化や擦文文化を担っていたと言えるような根拠がない。遺伝子からみたら縄文人が北海道に先住していたと言えるだろう。民族衣装もアイヌとシベリアの民族のつながりを示している。アイヌの民族衣装はトゲや渦の模様の刺繍をした半纏のようなもので、文様には魔よけの意味があるとかないとか言われていて、伝統的に獣皮や魚皮や植物の皮を使っていて、江戸時代後半から木綿が普及して刺繍技術が発達したそうな。しかしそれがアイヌ特有のデザインとはいえなくて、シベリアの民族は似たような民族衣装を着ている。例えばOtykenというシベリアのチュルク系民族のバンドが着ている民族衣装と渦巻きの形や位置が似ていて、このバンド名はチュリム人、タタール人、ケット人、ハカス人、セリクプ人の文化を保存する活動をしているけれど、チュリム人はシベリア中部のウイグルやモンゴルの北側に住んでいる民族で、北海道とは距離的にだいぶ離れている。VIEW OF THE ARTSのOtykenへのインタビューによると、「Our clothes are based on the traditional clothing of different Native people of Siberia. We also like to add some modern designs and accessories to our outfits.」と答えているので、現代風にアレンジされているにしてもシベリアの先住民の衣装が元になっているので、Otykenがアイヌの渦巻きの文様をパクったわけではないだろう。他にも東シベリアのエヴェン人はアイヌみたいに長い外套を羽織っていて襟に沿って縦に模様が刺繍してあるし、アムール川下流のウリチやナナイやニヴフなどの先住民の服にも襟に沿って渦のような文様がある。海で隔絶された北海道に住むアイヌがシベリアのいろいろな民族とデザインが似た服を偶然考案したとは思えない。アイヌがアムール川下流との交易をして服のデザインを取り入れたのかというと、アイヌに民族としてのアイデンティティーがあるなら外国の文様は取り入れないだろう。日本人が外国の服を着るようになったのは明治維新で西洋化の方針を打ち出してからだけれど、アイヌもこれからはシベリアの文化を取り入れようと考えるような出来事があったのかというと、アイヌの歴史の詳細が不明なのでよくわからないけれど、外敵がいない状態では大きな変化は起きないと思われる。というわけでアイヌは縄文時代以前から北海道にずっと住んで一から文化を作ったのでなくて、シベリアで服飾などの文化がある程度出来上がった集団が擦文時代前後に北海道に移住して縄文時代から住んでいた集団と交わって、縄文人ともオホーツク文化人とも遺伝的特徴や文化的特徴が違う独自のアイヌ民族になったのじゃないかと私は思う。
2024.07.22
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NEWSポストセブンの「小学校の運動会で「紅組・白組を廃止」の動き “勝ち負けをつけない”方針で、徒競走も「去年の自分に勝つ」 応援は「フレー! フレー! 自分」に」という記事によると、東京の一部の小学校で運動会で勝敗をつけなくなって、運動会も「体育学習発表会」という名称で体育の授業参観という位置づけにしている学校もあるそうな。はたして競争はいけないことなのか、学校の競争だけでなくていろいろな競争について徒然なるままに考えることにした。●競争とは何か競争(competition)とは競い合わせて優劣をつけることである。社会では様々なところで競争していて、枠が限られているときに競争が起きる。役所の入札では複数の業者に価格や設計とかの案を出させてよい案を採用する。入試では定員の枠が限られているのでテストの点数で優劣がついて合否が決まる。スポーツでは走ることを競えば競走、泳ぐことを競えば競泳、技術を競えば競技と呼ばれて、優勝という限られた枠を取り合っていて、良い試合をしても負けるとあまり評価されない。スポーツやゲームでは一定のルールの下での競争を繰り返すことで勝つためのトレーニングや戦略が充実していって、次第に競技の質が上がっていく。スポーツでは競技を成り立たせるために他人と競争することが必然だけれど、他の分野でも競争することが無条件で良いこととは限らない。例えば不景気の時に在庫を捌こうとして安売りの競争をすると、物価が下がって利益も下がって人件費も下がって労働者は物が買えなくなるデフレスパイラルになって安い粗悪品が出回って質が良い商品が製造されなくなってしまう。●学校での競争の是非・競争の成長への影響成功者はたいてい子供のころから負けず嫌いである。将棋や囲碁のような完全情報ゲームだと勝敗に運が関係なくて自分の考えの浅さが負けに直結するので、子供は負けると泣くほど悔しがる。負けず嫌いの人ほど他人に勝とうとして努力して勉強して実力をつけていく。スポーツやゲームで勝てば自信がつくし、負けたからといって悔しいだけで金銭的に損したりするわけではないし、ノーリスクで何度でも負けられる子供時代のうちに競争に慣れておくほうがレジリエンスがついてよいと思う。競争で負ける事で向いていない分野を諦める決断をできるようになるのも成長の証で、そうして子供は幼児的万能感を捨てて現実の自分の長所短所を受け入れて将来の可能性を取捨選択して進路を絞っていけるようになる。競争で負けた子供が泣いてかわいそうだからといって競争させないのは、無菌室で子供を育ててかえって病弱にしてしまうようなものである。左翼は競争と争い(conflict)を混同して、争わなければ平和になると考えて競うこと自体を禁止したがるのじゃなかろうか。学校は自分よりも優れた他人から学ぶ場所でもある。同じ年齢でも性格も体力も知能もばらばらだからこそ長所が際立つ。他人の優れているところからも学べずに過去の自分に勝つだけなら、勉強も運動も独学でいいし学校に行く必要さえなくなる。というわけで私は子供は同級生といろいろな事で競争すると良いと思う。・運動会の競争の是非PRESIDENT Onlineの「リレーをやりたい生徒8割、やりたくない生徒たった15人…それでも「中止」を選んだ中学生が守りたかったもの」という記事によると、麹町中学校では運動会が廃止されて体育祭に変更されたそうで、優勝した1クラス以外は目標が実現しない教育活動で運動が苦手な生徒が苦痛を感じるという理由で運動会をやめて、生徒会主導で全員が楽しめる体育祭を目指したそうな。私は運動会で競争することに問題があるというよりも競技内容に問題があると思う。幼児にとって幼稚園の運動会は玉入れやくす玉割りや大玉転がしとかの普段やらない競技をやるレクリエーション的な側面が強くて、運動が苦手で苦痛だから運動会が嫌いだという幼児はいないだろう。例えば玉入れはクラスのみんなで一斉にわあわあやるから誰の玉が入ったのかよくわからなくて玉を投げるのが下手な人がいても戦犯として責められることはないし、種目ごとに得点があったりして勝敗にこだわるからゲームとして成り立つしクラスでの協力が生まれる。ところが中学や高校の運動会だとレクリエーション的な側面がなくなって、短距離走やリレーとかのゲーム性が乏しい陸上競技に強制参加させられるのでは不満を持つ人がいて当然である。運動が得意か苦手かという以前に短距離をただ走って何が面白いの、馬鹿じゃないのと思う。何かの目的のために体を動かすから楽しいのであって、体を動かすことを目的にしても楽しくないだろう。公園で短距離走やリレーしている子供はいないし、鬼ごっこや水鉄砲やフリスビーとかで遊んで走り回っている子供の方がよっぽど体を動かす楽しさを理解している。たぶん教師は学校で遊んではいけないという変な固定観念があるので面白い運動会を開催できないのだろう。NEWSポストセブンに書かれている都内の学校のように「去年の自分に勝つ」と自分で決めていない目標を勝手に設定されて無理やりやらされてもモチベーションが出ないだろうし、ストイックに自己新記録を狙いたい子供はほとんどいないだろう。競争をなくしてゲーム性もなくしてしまったら運動会が面白くないと思う子供が出てくるのも当然である。というわけで私は運動会ではゲームとして楽しめる競技で競争するのが良いと思う。・部活動の競争の是非日本中学校体育連盟は2027年度以降は全国中学校体育大会で水泳やスキーやハンドボールとかの部活動の少ない競技を実施しないそうで、少子化に伴ってマイナースポーツの部活動に全国大会がなくなりつつある。ヨーロッパでは学校の部活動の全国大会みたいなのがないようである。ほとんどの生徒はプロスポーツ選手を目指すわけではないし、授業でバスケやサッカーとかの一通りのスポーツをやるのにさらに部活動に加入するのはあまり意味がないと思う。本格的にスポーツを習いたい人はプロが指導するスイミングスクールやサッカースクールとかに通ってそっちの大会に出るので素人の顧問が監督して設備がしょぼい学校の部活に参加する意味がないし、レクリエーションとしてスポーツを楽しみたい人はボール拾いとかの雑用や体力づくりの走り込みをやらされて試合をする機会がなくてつまらないので部活に来なくなる。ではなぜ学校は部活動を必須にしているのか。「異年齢との交流の中で、生徒同士や教員と生徒等の人間関係の構築を図ったり、 生徒自身が活動をとおして自己肯定感を高めたりすることができる」というのが部活動の意義のようで、先輩後輩の関係を体験する機会としてみれば教育的な効果はあると思う。となると運動系でなくて文化系の部活動でもいいわけで、競争することが部活動に必須とはいえなくなる。進学の際に推薦がほしい人は学校の部活動があるほうが全国大会〇位の実績をアピールできるだろうけれど、練習時間が長いのは問題である。2018年に柏高校の男子生徒が吹奏楽部の部活動の練習時間が長いのを苦にして自殺して、練習時間は平日約5時間半、休日約11時間、休養日は月平均1.5日で、学業にも影響しそうなほど練習時間が長くて休養もない。柏高校は吹奏楽部の強豪校だそうだけれど、だからといってプロのミュージシャンになって収入が増えるわけでもないし、青春の思い出作りとしてもコスパが悪いし、吹奏楽に興味がない私から見たら吹奏楽の強豪校であることにあまり価値がないと思う。それに上手くなるために自発的に練習するのと、周りについていくために練習を強いられるのではストレスも違う。部活動に楽しさがなくなって苦行になるほど過当に競争するメリットはないと思う。●企業の競争の是非三菱総合研究所の「イノベーションと競争政策」という記事には「保護主義的な政策等により、国や産業の置かれる競争状況を保護することは、経済成長や雇用にプラスの効果を与える場合がある。一方、経済における競争圧力が、イノベーションを促進し、経済の効率性や生産性の向上をもたらすとの見方もある」と書いてあるけれど、果たして保護するのと競争させるのではどちらが良いのか。たぶん分野によって競争したほうがよい分野と競争しない方がよい分野があると思う。・公共事業の競争の是非新自由主義者は競争をすればイノベーションが起きるのだと言って、郵便や水道などのインフラを民営化して民間企業と競争させようとするけれど、はたして公共事業は競争するべきなのか。市場原理に任せて競争すればサービスがよくなるかというと、むしろ悪くなる。小泉純一郎の郵政民営化の結果は西室泰三がM&Aで失敗して大損したうえに土曜日配達が休止してサービスが悪化しただけだった。バスの場合、公営バスは住民が多くて儲かる路線の利益で乗客が少なくて赤字の路線も維持していて、裁判所とかの利用者が少なくても重要な公共施設にアクセスしやすくしている。そこに民間企業を参入させて競争させると儲かる駅や商業施設周辺の路線だけで営業するので、黒字路線の客を取られたぶん公営バスの利益が減る。そうすると公営バスは赤字を減らすためにバスの運行をやめて、地域に均一のユニバーサルサービスを提供できなくなって全体としてはサービスが悪化する。維新の会は大阪で公立病院や保健所を減らした結果、新型コロナ禍でバッファーがなくなって医療がひっ迫して日本一の死者を出した。というわけで公共事業は利益を出すために競争させる性質のものではなくて、国民に必要不可欠なサービスを提供するために保護するほうが良いと思う。公共事業を民間企業にアウトソーシングして競争させるのも役所が説明責任を果たさなくなる問題がある。経済学者のマリアナ・マッツカートの『The Big Con』はコンサル批判の本で、タイトルのConはconfidence trick(信用詐欺)の略とコンサルティングをかけていて、コンサルティングやアウトソーシングに頼るほどやり方がわからなくなって幼稚化させられてしまって、知識の伝達や企業や政治の説明責任を妨げると主張している。公共事業なら住民が開示請求をすれば不正をチェックできるけれど、民間企業にアウトソーシングすると株主でないと内部資料を閲覧できなくなってしまう。例えば都庁のプロジェクションマッピングに対して開示請求をした人がいて電通に48億円で発注したのが判明したけれど、電通の単価は企業の競争にかかわるノウハウとして不開示なので、しょぼいプロジェクションマッピングに対して金額が妥当なのかぼったくりなのか都民が判断できなくて東京都は説明責任を果たしていない。都庁のプロジェクションマッピングを続けたところで観光名所として競争力をもてるようにはならないだろう。アウトソーシングはガバナンスできなくなるのも問題で、愛知県豊田市ではイセトーに通知書の作成を委託したら契約が終了した時点で削除するはずのデータが保存されたままになっていて、ランサムウェアの被害を受けて税額などの42万人分の個人情報が流出したそうな。東京海上ホールディングスグループも保険の損害査定業務の委託先の税理士法人がランサムウェアの被害にあって、21社6万3千人分の個人情報が漏洩した恐れがあるそうな。サイバーセキュリティに関しては役所や大企業が対策したところで取引先の中小企業がセキュリティーホールになっているので、自分のところでやれる仕事は委託しないほうが安全性は高くなる。競争というとコスト削減に焦点があたりやすいけれど、直接利益を生まないセキュリティ対策まで削減されがちである。・労働者の競争の是非労働者に対しては解雇規制をして雇用を守る方がよいのか、解雇を自由にして能力を競争せさる方が良いのか。厚生労働省の「解雇及び個別労働関係の紛争処理についての国際比較」という資料によると、アメリカ以外の国では解雇理由が制限されていて、正当な理由がないと不当解雇になる。解雇規制は雇用を安定させて労働者の生活を安定させて社会不安を減らすという点で必要である。しかし労働者が保護されると企業にとっては負担になって、従業員を解雇したいときに企業は業績が悪化しはじめたときに希望退職者を募って退職金を増やして自己都合で退職させようとして、さらに業績が悪化したら会社都合でリストラするけれど、それだと人員整理に時間がかかって再建も遅れてしまう。解雇しにくいことが雇用しにくいことにもつながって、ハズレを引きたくないがあまりに気軽に人を雇えなくなって、大学生が授業をおろそかにして何カ月もかけて就職活動してSPIやらグループディスカッションやら6次面接やらの何段階ものふるいにかけられていて採用効率が悪くなる。個人や組織が特定の課題について経験を積むにつれて効率的に課題をこなせるようになることを経験曲線効果といって、経験を積ませて効率を高めるという点では労働者を保護する方がよい。非正規の有期雇用に頼っている会社にはノウハウが蓄積されなくて、派遣は最長3年で職場を変えるし、外国人技能実習生は最長で5年しか日本に滞在できないので、目先の人件費は削減できても何度も新人を育成しなおす手間がかかって効率が悪くなる。その一方で解雇しにくくなると勉強しなくなる人が出てくる。日本人は勉強しないと言われていて、2022年の社会生活基本調査によると社会人の勉強時間は平均1日13分で、パーソル総合研究所の調査によると読書や資格取得のための学習とかの勉強を何もしない社会人が52.6%もいるようである。無期雇用の社内失業者が解雇されずに新聞を読んで暇つぶしするだけで給料をもらっている一方で、有期雇用の非正規労働者は低賃金で酷使されてもボーナスもなくてすぐ解雇される雇用格差も問題で、不平等だと労働者のモチベーションが下がって企業に貢献する気がなくなって企業の競争力も落ちていく。私は終身雇用かいつでも解雇できるかの二択でなくて、一定期間の雇用の保障とその期間後の解雇の自由化をやればよいと思う。無期雇用でも一定期間は正当な理由がない解雇を規制して、その期間後はアメリカのat-will雇用のように企業の裁量で解雇できるようにすれば、労働者は解雇されないために勉強するようになったり、適性がない仕事に見切りをつけて適職に転職しやすくなったりすると思う。・研究開発の競争の是非研究開発では発展の方向性がわかっている分野なら早く特許を取得する方が有利になるので、競争するほうがよいだろう。例えば既にある技術を使って製品をコストカットしたり省エネ化したり小型化したりする場合は市場競争すれば消費者の選択でより安くて省エネで小型の製品が売れるので、企業努力で製品が改良されて高性能になっていく。しかしゼロから新しい技術を生み出す場合は比較対象する競争相手がいないので、競争とは違う仕組みにするほうがよいと思う。総務省の「主要国の研究開発費の総額の推移」によると、中国は2022年には日本の5倍以上の5000億ドルの研究開発費を使っていて優秀な研究者を集めて高度な研究をしていて、質の高い自然科学研究に貢献した機関と国を示したNature Indexというランキングでは中国の機関がランキング上位を占めている。それでも中国からノーベル賞の受賞者が出ないのは、短期での評価を求めて論文工場での研究データの捏造や剽窃が横行して査読が不十分で、まじめにこつこつ長期的に基礎研究をする人がいないからだと言われている。つまり単に研究開発費を増やしたからといってイノベーションを起こすような新しい技術が開発されるわけではない。民間企業だと配当を求める株主の圧力が強いので儲からない研究を打ち切って部門ごと研究者が解雇されたりするけれど、公営事業や大学の研究だとすぐに研究成果で利益を出すことは求められていないしテニュアがある教授は解雇されずに長期間研究できるので何かしらの研究成果を出せる。マリアナ・マッツカートがスマホに使われているインターネット、GPS、タッチパネルディスプレイといったイノベーションを起こす技術は公金を投入した研究から生まれたと言っているように、公的機関がスポンサーになって秀才に予算と権限と研究時間を与えて利益を度外視して好きにやらせるほうが民間企業で利益目当てに競争するよりも目覚ましい成果を生んでいる。日本のムーンショット型研究開発制度だと5年を基本として最長で10年間の支援を可能にしていて2050年までに〇〇をするといろいろな目標を掲げているけれど、本当にやる価値があることなら期限を区切らずに何十年でも研究するべきだと思う。天文学は古代ギリシアの暇なおっさんたちが何十年も夜空を観察して少しずつ発展させたけれど、5年以内最長10年で研究しろと言われて地動説の真理にたどり着けるかというと無理だろう。というわけで研究開発では研究内容に応じて競争する方が良い場合と保護するほうが良い場合があると思う。●国際競争の是非何のために国際競争力が必要なのかといえば、安全保障のためである。ロシアのように国内でエネルギーや食糧を自給できていれば世界中から貿易を拒否されても生きていけるので国際競争力はなくてもよい。一方で日本は資源が乏しくて石油や天然ガスや食料を輸入に頼っているので、代わりに外国に輸出して外貨を稼げる産業が必要になって、トヨタなどの自動車メーカーが燃費が良くて頑丈な車を世界中に輸出している。貿易相手の国に必要不可欠なものを輸出できればその国と敵対して侵略されるリスクが少なくなる。国際競争といっても競争で相手を叩きのめすわけではなくて実際はお互いに必要なものを融通しあう互恵関係なので貿易黒字や貿易赤字はあまり気にする必要がなくて、貿易黒字だから良いというわけでもないし貿易赤字だから悪いというわけでもない。輸入額が多いのは国にとって必要なものが多いというだけで、貿易赤字を解消して貿易黒字にしたら相手国が貿易赤字になるので、どこかの国は必ず貿易赤字になる。貿易赤字だから取引を辞めるという考え方だとそもそも貿易が成り立たなくなる。アメリカが対日貿易赤字を解消しようとしてレーガン大統領が日本製のパソコンやテレビに100%の関税をかけたり日米半導体協定で日本の半導体産業を潰したりしたように、日本が対米で貿易黒字になっても産業が規制されて競争力を失うのでは意味がない。その一方で韓国や台湾や中国は政府が半導体産業を保護して成長させたように、自由競争をしないほうが国内産業は成長する。イギリスのエコノミスト誌は市場原理主義とグローバリゼーションを擁護する論調だったけれど、元編集長のビル・エモットは地政学的な緊張でグローバリゼーションが後退していると言っている。新型コロナのロックダウンで中国の工場の生産が止まったり、ウクライナ戦争でロシアからドイツへの天然ガス供給が停止したりしてグローバルサプライチェーンが機能しなくなって、グローバリゼーションを主導してきた欧米人がグローバリゼーションの衰退を言うようになって、次はどうするかという段階に入っている。新自由主義グローバリストは自由競争すればよい製品が世界中に行きわたってみんな幸福になれるよという性善説でグローバリズムを推進して外資の参入への規制を緩和したり関税をなくしたりしてきたけれど、そしたら中国製の粗悪品が世界を席巻する結果になった。日本は製品に付加価値をつけて競争しようとせず、中国と価格で競争しようとして非正規雇用に頼って人件費を抑えてデフレになって国民が不幸になった。中国は人件費が安い労働者が大量にいて環境汚染対策や労災対策をせず知的財産を侵害して政府が補助金を出してダンピングすることで製品価格を安くして世界の工場になって国際競争力を持って急激に経済成長したけれど、経済に疎い習近平が調子に乗って製品やアプリにスパイウェアを仕込んだり、反スパイ法で外資の中国進出のリスクを増やしたり、台湾にリトアニアの大使館を作った報復でリトアニア製品を中国の税関で止めたり、外国の政治家を賄賂で買収して債務の罠にハメたりして中国離れを引き起こして自滅している。アメリカが中国製品に関税をかけて中国からの直接の輸入を減らそうとしても、中国が発展途上国を経由してアメリカに輸出するのが問題視されている。このやり方はconnector economiesと呼ばれていて、ブルームバーグによるとベトナム、ポーランド、メキシコ、モロッコ、インドネシアの5か国が米中間のコネクターになっていて、ベトナムからアメリカへの輸出が二倍になったときに中国からベトナムへの輸出も二倍になっていたそうな。メキシコとモロッコはアメリカと自由貿易協定を締結しているので、中国製品に関税をかけてもメキシコに中国資本の会社を作られてメキシコ製品として輸出されたら関税をかける意味がなくなってしまう。ホワイトハウスの「FACT SHEET: U.S. STRATEGY TOWARD SUB-SAHARAN AFRICA」によると、アメリカと協調して中国やロシアによる有害な活動に対抗する開かれた社会を擁立する方針のようだけれど、その一方でアメリカに規制されたHuaweiはサブサハラアフリカに投資してデジタルスキルを持つ人材を2025年までに10万人育成するLEAPプログラムで12万人育成して前倒しで目標を達成してさらに追加で2027年までに15万人育成するそうで、アフリカでも米中の衝突の芽がある。アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(共和党系のシンクタンク)のエリザベス・ブローは『Goodbye Globalization: The Return of a Divided World』という本を書いていて、インドはまだ不安定だけれど中国以外の安定している民主主義の国が出てきたらわざわざリスクをとって中国と取引する理由がなくなると言っている。次の大統領選挙でトランプが大統領になったらアメリカファーストの保護主義的な政策をして中国への規制を強めるだろう。というわけで私は中国のような平和を脅かして信用できない国と自由市場で競争するのは安全保障上のリスクになるので規制するほうがよいと思うし、リージョナライゼーションとフレンドショアリングで友好国との互恵関係を深めて安全保障上を強化するほうがよいと思う。友好国と過当に競争して相手の産業を潰して反感を持たれたり自分の産業が潰されたりしたら競争する意味がないので、グローバル企業の利益を増やすことが目的の侵略的な競争をせずに国家の安全保障を目的にほどほどに競争するべきだと思う。●生存競争の是非生物は個体レベルでみれば縄張りを巡る競争や配偶者を巡る競争があるけれど、力の競争だけなら強い大型の恐竜は絶滅して小型の動物が環境に適応して生き残ったように、種のレベルでみると環境に適応するほうが重要である。渡り鳥やオオカバマダラとかの蝶が数千キロ移動するように、餌や気温などの生存に適した環境を求めて移動する動物もいる。人間にも生息域の縄張りを広げたり守ったりするために競争する人と、よい環境を求めて渡りをする人がいる。先進国では既得権益の縄張り争いをしていて、資本力の差は容易に覆せないので格差が固定化されて、生存競争があるとはいっても相応の福祉もあるので労働者は飢えることはないけれど子供を持てなくなって少子化になっている。その一方で人口が多い発展途上国は生存競争が厳しくて、福祉も教育もなくて敗者が飢え死にする劣悪な環境から抜け出そうとして命がけで密航して先進国に移民が押し寄せる。サブサハラアフリカでは貧困が多くて、農耕や牧畜をしても武装グループに奪われるので働かずに外国からの支援に頼る人たちがいるけれど、これも支援してもらえる環境に適応した最適解の生き方といえる。社会の最底辺に位置する乞食でさえ環境によって待遇が違って、ドバイのプロ乞食は金持ち相手に月に27万ディナール(2018年で73500ドル相当)稼ぐそうだけれど、インドでは貧民の子供がbeggar mafiaと呼ばれる乞食の元締めに誘拐されて目を潰されたり薬物漬けにされたりして商売道具として物乞いをやらされて搾取されている。人間の生まれながらの身体能力はたいして差がないのに、なぜ国によって発展度合いが違うのか。ゲーム理論だと協調と裏切りのどちらかの自分に有利になる選択をする。人間は道具を使って自分で環境を作り変えることができるがゆえに森を開拓して灌漑工事をして道路や橋を作って文明を発展させてきたけれど、それには大勢の人間の協調が必須だった。先進国では法律で刑罰を設けていて取り締まりが厳しくて、裏切り者が不利になって、協調すると生計が成り立つ社会になっているので、自己家畜化して法律に従って協調するようになる。一方で発展途上国では法律があっても取り締まりが追い付かなくて犯罪者が野放しになって、裏切り者が多くて協調できないがゆえに大事業ができなくて発展しない。劣悪な環境が改善されないままだと人間も環境に適応して、他人を信用しなくなって騙される方が悪いという考え方になって、スリや詐欺やぼったくりが横行して、政治家は権力を持ったとたんに汚職して悪人が勢力を拡大する悪循環になる。個人の生存戦略としては他人を裏切ることでちょっとだけ有利になるとしても、犯罪のやり方を競ったところで社会全体としては荒廃する。日本は協調できるがゆえに資源が乏しくて地震や噴火や台風が多い過酷な環境でも発展したし、アフリカや南米は資源が豊富でも協調できないがゆえに発展しないように、国家単位でみれば集団が協調するほうが生存競争では有利になるわけである。こないだ移民について考えたけれど、同化せずに協調できない移民を増やすのは国家の衰退につながる。というわけで生存競争自体をなくすことはできないけれど、協調と裏切りのどっち側で競うのかが問題で、私は協調を競うほうが良いと思う。●人類が競争をやめる日はくるのか人類は競争によって文明を発展させてきたけれど、競争が人を不幸にしている。金や土地や権力の奪い合いで戦争が起きて大勢が殺されて、努力では覆せないほど格差が拡大して階級が固定化されて、1%の上流階級は親から相続した資産を運用するだけで一生安泰な一方で、中流階級以下は絶え間ない競争で疲弊して心身を病んで、子孫を残そうとする本能よりも理性が勝って、こんな社会で子供を作っても不幸になると考える反出生主義の人も出てきて少子化も進行している。機械やAIは人間の職を奪う脅威としてみなされがちだけれど、私はむしろ人類を競争から解放する希望になると思う。たぶん現代人が生きているうちは無理だろうけれど、千年後には食料が工場で自動生産されてAIがサービスを提供して、無職でも健康な生活が保障されて金を稼ぐために一生懸命競争する必要がない社会になっているかもしれない。そしたら文明は競争の次のフェーズに行って、労働に時間を使うよりも誰とどう人生を過ごすのかのほうが重要になって、娯楽や芸術が充実して、優秀な人よりも善い人が評価されるようになるかもしれない。
2024.07.10
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2018年の中高年を対象にした調査では40-64歳のひきこもりは61万人程度いるそうで、ひきこもりが長期化しているようである。最近ではコロナ禍で引きこもりが急増して、2022の調査では15-64歳の全年齢の2%の146万人がひきこもりになっていたそうな。求職活動をしないと完全失業者としてカウントされないけれどおそらくひきこもりの人は求職活動をしていないだろうし、人手不足の中で労働力が余っているのはもったいない。ひきこもり支援のガイドラインはあるけれど、ガイドライン通りにやってひきこもりがいなくなるなら引きこもりの長期化は起きないはずだし、いろいろ考える余地があると思うのでひきこもりについて素人なりに考えることにした。●ひきこもりとは何かひきこもりとは病名でなくて、自宅に引きこもって仕事や通学をせずに家族以外と交流しない状態が6カ月以上続いている状態のことで、精神科医の斎藤環が1998年に著書『社会的ひきこもり』を出版したことがきっかけで広く知られるようになった。しかしひきこもりの定義はあいまいで、6カ月に達していないという理由で相談に乗ってもらえないケースがあるので、ひきこもりの定義変更を視野に入れて検討するそうな。ひきこもりは日本特有の現象でなくて家族の絆が強いアジアやラテン系の地域にひきこもりが多くて、親子で同居する習慣があるイタリアでもひきこもり現象が起きているようである。ひきこもる人は実家がセーフティーネット代わりになっているのでそのぶんホームレスが少なくて、厚生労働省の2024年4月の資料だと日本ではホームレスが全国で2820人しかいないそうな。その一方でアメリカだと個人主義で親子が同居を嫌がって実家がセーフティーネットにならないので、2023年1月時点でホームレスが約65万3千人いるそうな。ひきこもりが多い社会とホームレスが多い社会のどっちがましなのかというと、私はひきこもりが多い方がましだと思う。●ひきこもりの問題私は個人がどう生きようが自由だと思うし、家にひきこもることで本人も同居家族も幸福になれる場合はひきこもればいいと思う。中国では不動産不況で新卒の就職先がなくて専業主婦のように家事をして給料をもらう「専業子供」が出現しているらしいけれど、このように子供が家事を手伝って親子関係が良好なら一日中家にいても別に問題がないだろう。家族の仲が良いなら世帯を分けるよりも同居する方が家賃が浮いて生活費を節約できて合理的である。動物が冬に餌がなくなるので活動をやめて冬眠するように、不景気で労働条件が悪いときに無職でいるのも悪い事とは思わないし、割に合わない仕事で一生懸命働いて心身をすり減らすよりも充電期間として勉強したり創作したりする方がましである。しかしひきこもることで本人や同居家族が不幸になる場合はひきこもり状態を改善するべきだと思う。・家計の問題ひきこもりの一番の問題は本人に収入がなくて親の貯金や年金に依存する場合が多いことだろう。80代の親が年金で50代の子供の生活を支えることは8050問題と呼ばれていて、親に資産がない場合は親子で貧困になる可能性があるし、生活能力がない子供が親の死を隠して年金を受給し続ける事件も起きている。親が成人した子供の生活費を払いたくない場合は同居せずに世帯を分ける必要があるけれど、子供が家を出ていこうとしないからといって引き出し屋に依頼して乱暴に拉致して施設に入れるのは人権侵害なので、これも問題になる。・言動の問題テレビや新聞とかで特集されるひきこもりを見ると言動に問題がある人が少なからずいるし、親が子供の暴力に耐えられなくなったり子供の将来を悲観したりして子供を殺す殺人事件もときどき起きている。ひきこもり状態に満足していない人は、受け入れがたい状況の不安を軽減するための防衛機制として、暴力、暴言、過食、浪費、ゲーム依存などの問題行動を起こしているように見える。防衛機制は誰にでも起きる行動で、ひきこもる人が本来暴力的な性格とは限らないのでそこは偏見を持つべきではない。いじめやパワハラなどで理不尽な目にあってひきこもっている場合、理不尽な体験を自分より弱い人に転嫁しようとして家族に暴力や暴言をふるうことも考えられる。・病気の問題ひきこもりが外出を嫌がって病気の初期治療を拒むと病気が悪化してしまう。例えば虫歯になっても歯医者に行くのを拒んで歯がぼろぼろになったり、運動不足で肥満になって生活習慣病になったりする。不潔な生活をして掃除や洗濯や入浴をしないと、ダニやカビなどで皮膚炎になったりして外見も悪くなる。あるいは高齢者がひきこもって社会性がなくなると認知能力が衰えていく。●ひきこもりになる原因・挫折厚生労働省の「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン(PDF)」によると、ひきこもりの開始年齢は平均開始年齢は22.3歳で、思春期に自己感覚が過敏になって挫折や恥に対する他者の視線や批判から自己を防衛するためにひきこもるようで、青年期になっても危機になると思春期心性が出てきてひきこもるそうな。例えば学校の授業についていけなくなって成績が悪くなった姿を同級生に見られたくなくて不登校になってそのままひきこもったり、新卒で入社した会社で仕事を覚えられなかったり営業職なのに売上が悪かったりして退社してひきこもったりする。兄弟がいると喧嘩したりゲームで勝負したりして負けることがしょっちゅうあるのでストレス耐性がつくけれど、一人っ子だと親にちやほやされて挫折の経験が乏しいのでストレス耐性が低くてレジリエンスがなくなって、他の人から見たらたいしたことがないような失敗でも気にして再出発できなくなってしまう。・迫害学校でのいじめやブラック企業でのパワハラなどがトラウマになって、社会を怖がってひきこもりになる場合がある。自分の能力不足で目的を達成できなくて挫折するのと違って、迫害をうけるような環境に原因がある。・病気ひきこもる人がうつ病や統合失調症などの精神疾患を発症したり、人格障害や発達障害があったりして、それが正常な生活ができない原因になっている場合がある。ひきこもりの熊沢英一郎は18-20歳頃に統合失調症と診断(他の医師はアスペルガーと診断)されて、就職氷河期で就職できなくて独り暮らししてゲーム三昧の生活をしていて官僚の親が代わりに通院して薬を届けていたようで、実家で同居を始めたらエリートに馬鹿にされているという被害妄想で父親に暴力をふるったことで父親に殺害されることになった。・不況不況で仕事がなくて外出しても買い物する金もないのならずっと家の中にいるようになるし、友人と遊ぶ金さえないと友人が減っていって家族としか人間関係がなくなる。買い物のために外出するならひきこもりでなくてただの無職だけれど、無職であることを恥じて他人の目を気にして外出できないとひきこもりになる。・親の問題ひきこもりの本人の問題でなく、毒親が原因で子供の自立を妨げている場合がある。例えば高齢の親が正社員でないと一人前の人間になれないというような固定観念を持っている場合は子供がアルバイトや派遣やフリーランスとかで働こうとすると仕事として認めずに辞めさせようとしたり、親が人格障害などで子供に依存している場合は子供に見捨てられるのが嫌で子供が家を出て一人暮らしをしようとするとお前には無理だとかの暴言で自尊心をなくさせて邪魔したり、親が過保護で子供の世話に生きがいを見出していると子供が成人しても手放したくなくて甘やかして自立を妨げたりする。・人生をあきらめた無職期間が長引いて高齢になると就職活動をしても雇われなくて、誰にも必要とされないのだと自信をなくして就職をあきらめてひきこもりがさらに長引いてしまう。今まで働いていても失職を期にひきこもる人は、青年期に頑張ってもうまくいかないまま高齢になって、もう結婚したり出世したりする可能性がないと悟って人生に見切りをつけて働く気をなくしてしまったのかもしれない。技術者だと古い技術が新しい技術に置き換わって、今までの知識や経験が役に立たなくなって新しい技術を学ぶ気力もなくなって、かといって現業職をやる体力もなくて転職をあきらめたりする。●ひきこもりを脱出する対策ひきこもり本人が原因なのか、外部の環境や状況が原因なのかによって対策も違ってくる。ひきこもり本人に原因があるとしても自分で対策できるくらいならそもそもひきこもらないしひきこもりが長期化しないので、家族や友人や行政などが対策をする必要がある。病気を治療する、身だしなみを整えて健康な生活をする、他人の目を気にせずに外出して社会不安をなくす、コミュニケーション能力を改善して対人不安をなくす、就労する、実家を出て一人暮らしして自立する、の順に改善していけばひきこもりを脱出できるかもしれない。・心療内科で診療する中国の専業子供のように家事手伝いをして普通に生活できているならまだしも、被害妄想で家族に暴力をふるったりして普通の生活やコミュニケーションができない場合は精神疾患を疑うほうがよいだろう。精神疾患だと本人に病識がない場合もあるので、家族がメンタルヘルスについてリテラシーを持つ必要がある。日本ではまだ精神疾患についての理解度が低くて治療しないで放置しがちだけれど、精神疾患や人格障害は適切に治療をしないと治らないし、放置すると悪化する。心療内科で診察して病名がわかることで、自分が無能で怠惰なのが原因でなくて病気が原因なのだと自責の念を減らすことにもつながるので、おかしいと思ったときは早めに治療するほうがよい。しかし心療内科の治療はすぐに終わるものでなくて長期に診療を受ける必要があって、どこも予約がいっぱいで新規の患者を受け入れる余裕がなくて半年待ちとかだし、ひきこもりを家から連れ出すのも大変なので、ひきこもりを対象にした訪問診療やオンライン診療とかの制度を整えないと診療するのは難しいだろう。精神疾患でないのに体調不良を訴えてだるくてやる気がでなかったりする場合は、脳髄液減少症とかの体の病気の可能性もある。ひきこもっている人が不調を訴えているときは、家族は怠けてごろごろしていると決めつけずに病院で医師に判断してもらうと良い。・考え方を変える普通の無職とひきこもりの違いは家から外出できるか否かで、ひきこもりは心理的要因で家から外出できなくなっている。何かの考え方に固執していることがひきこもる原因になっている場合、その考え方を変えないといけない。例えば完璧主義で理想の自分と現実の自分を比較して無職の自分の姿を他人に見られたくなくて外出できなかったり、容姿にコンプレックスがあって他人に容姿を中傷されることを恐れて外出できなかったりする場合は、想像上の他人とかの妄想にとらわれて現実を蔑ろにしているといえる。しかも脳は同じ妄想を繰り返すことでシナプスが強化されてしまうので、おばけを怖がる子供のように自分で作りだした妄想が肥大していって自己暗示に苦しめられることになる。アメリカのカウンセリングの権威のカール・ロジャーズは理想の自分(ideal self)と現実の自分(real self)の不一致(incongruity)が大きくなると不安定な状態や問題行動につながると考えた。そもそも達成不可能な理想の自己像を持たず、現実の自分を受け入れれば問題ないわけである。仏教やマインドフルネスのように、現実の今の瞬間を基準にして生きるように考え方を変えれば妄想にとらわれなくなる。玄関のドアを開けても外には誰もいないし、ヨレヨレの部屋着で散歩しても文句を言ってくる人もいない。その現実の瞬間に集中していれば妄想上の他人や理想の自己像はどうでもよくなる。妄想に惑わされなくなってから現実の他人と人間関係を構築していけばよい。あと日本だと無職で貧乏なのは恥ずかしいと思っている人が多いと思うけれど、立派な人であるためには職業や収入は関係ない。人格を修養していれば立派な人である。諸葛孔明が劉備玄徳に軍師として招かれるまで晴耕雨読の生活をする無職だったように、立派な人が登用されるかどうかは時の運や人の縁もあるので、運が悪くて無職で貧乏なのを恥じる必要はない。『徒然草』に「愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賎しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。」とあるように、岸田家に生まれればアホな長男でも秘書官になるけれど、地位があるからといって岸田一家が賢くて立派なわけではない。昔の命が軽い時代の偉人たちは人事を尽くして天命を待って、不遇のまま死んでも別にいいやと運否天賦を受け入れる鷹揚さがあったけれど、現代人には命がけで筋を通して生きる立派な人はほとんどいない。資本主義社会では弱者から搾取して金持ちになっている人間の屑や、金持ちや権力者に媚びて悪事の片棒を担いでいる連中が勝ち組としてもてはやされているけれど、真善美がなくただ金を追い求めるだけのくだらない生き方をするくらいなら無職の方がましである。就職活動をしても企業がブランクがある人を嫌がって雇わない場合は個人の責任でなくて社会の責任なので、堂々と生活保護を受ければよい。・目的や向上心を持つ孤独について考えるという記事で考えたけれど、人生に何かしらの目的があればたとえ学校や仕事で挫折したとしてもひきこもりが長期化しないだろう。例えばスポーツで挫折しても毎日筋トレしまくって腹筋がバキバキになったらSNSのアクセスが増えて在宅でも金を稼げるだろうし、就職できなくて挫折しても絵や音楽とかの芸事を長期間やれば才能が開花することもありうる。大きな目的がなくても何事も上達しようという向上心を持って趣味や火事に取り組めば、習字を続けて字がうまくなるとか手芸を続けて小物を上手く作れるとかの些細な事でも自信をもつことにつながるし、普段の家事を上手く手早くこなせるようになるだけでも飲食店や清掃業の仕事を見つけやすくなる。ネルソン・マンデラが反アパルトヘイト運動をして国家反逆罪で終身刑の判決を受けてもめげずに27年間の獄中生活の中で勉強を続けて通信制過程で法学士号を取得したように、向上心があればひきこもり状態でも成長する。固定マインドセットを持っていてどうせ何をやってもだめだとあきらめている場合は、何歳でも人は成長できるのだと成長マインドセットに考え方を変えるところからはじめるとよい。ひきこもりはせっかく他の人より自由な時間が多いのに、知識や技術の習得に時間を使わないのでは成長できない。一日中アニメを見たりゲームをしたりして暴飲暴食して部屋を片付けずに自堕落な生活をしている人は親や社会などの外部が原因でなくて本人が原因なので、自分で生活習慣を正さないといけない。論語で「朽木は雕るべからず」というように、病気でもないのにやる気がない人を他人が変えようとしてもうまくいかない。自分の生活がこのままではだめなのだとメタ認知で自覚するには、生活状況を文章にして事実を陳列すればよいと思う。〇〇ができないという事実を羅列して、少しづつ〇〇ができるに変わっていけば、良い変化が目に見えるようになっていろいろやる気になるかもしれない。・環境を変える植物は環境に合えば肥料がなくてもすくすく育つけれど、環境に合わなければ芽が出なかったり生育が悪かったり実がつかなかったりする。人間にも育つ環境と育たない環境があって、メンターとなる立派な人がいるところにいると成長するので人々は金を払ってでも良い大学に行きたがる一方で、毒親がいる実家にいたところで成長できないだろう。ひきこもり状態を変えたいのに変えられない人は、長期間自宅にいても変わらないのだから同じ環境にいたところで改善する見込みがないし、環境を変える必要がある。挫折がきっかけでひきこもった人は新しい刺激や成功体験や人間関係で過去の記憶を上書きしないと嫌な記憶を何度も思い出してトラウマを強化してしまうので、なおさら外に出ないといけない。しかし金も人脈もない状態でいきなり就職して一人暮らしするのは難しいので、まずは家族以外の他人と普通にコミュニケーションをとれるようになるようにする必要がある。自宅を訪ねてくるひきこもり支援団体の人と世間話をしたり、近所の公園の掃除とかのボランティア活動に参加したり、支援施設でひきこもり同士で共同生活をしたり、ひきこもりを預かる寺で雑用をしながら共同生活したりして、生活環境が変わってあいさつや掃除とかをやらざるを得ない状態になれば、自立して生きていくうえで必要最低限のコミュニケーション能力が身につくだろう。それから仕事を探して自立すればよい。江戸川区の「駄菓子屋居場所よりみち屋」だとひきこもりの人が販売や接客などの就労体験をしていて、1日15分から気軽に働けて給料ももらえてそこでいろいろ経験して自信をつけて、3人が関連企業に就職したそうな。いわば大人向けのキッザニアのようなもので、就労体験が気軽にできることが脱ひきこもりのきっかけになっている。・会話を増やす文章はじっくり添削して書けるのと違って、会話は相手の言葉や意図を理解してすぐに応答しないとコミュニケーションが成り立たないので、相応に会話の訓練をしないと会話がうまくならない。対面で会話するに越したことはないけれど、会話する相手がいない場合や、家族相手だと気まずい場合はスマホに搭載されているGoogleアシスタントやSiriとかでもよい。家族以外の他人との会話に慣れることで対人不安がやわらぐだろう。女性ならライブチャットすれば収入につながるし、アバターや加工アプリを使えば外見にコンプレックスがある人でも外見を気にせずにすむ。ゲーム内のボイスチャットは良し悪しがあって、FPSとかのユーザーの民度が低いゲームだと暴言が多いのであまり会話能力の改善にはならないかもしれないし、かえって言葉遣いが悪くなりかねない。・文章を書く会話が苦手だけれど文章を書くのが得意な人は文章力に全振りしてもよい。日本人なら誰でも文章くらい書けるだろうと思いきや、文章を書くのには時間がかかるので、実際は誰にでもできることではない。フリーライターやアフィリエイトブログやなろう小説とかで収入につながることもあるし、文章を書く仕事は一人で在宅で働ける場合が多いので、ひきこもっていることがデメリットでなくなる。・嫌な奴と戦う方法を身に着ける世界にはいろいろな人がいて、良い人も悪い人もいるし、学校にも職場にも少なからず嫌な奴がいるのは仕方がない。社会不安が強い人は嫌な奴との戦い方がわからないから他人を必要以上に恐れるわけで、嫌な奴と戦えるようになれば他人を必要以上に恐れなくなる。ひきこもり支援のガイドラインをいくつか見たところ、善良な人がガイドラインを作ったのか知らないけれど戦い方を教えていないのはよくない。ドラクエの勇者だって武器なしで旅に出てモンスターと戦えと言われても無理だし、ひきこもりも戦い方がわからないまま外に出てDQNと戦えと言われても嫌だし逃げるしかないだろう。戦うといっても物理的な戦いはあまりやらないにこしたことはなくて、法律で戦えるようになればよい。いじめやパワハラや誹謗中傷されたりしたときに少額訴訟なら弁護士を雇わなくても少ない手数料で合法的に相手の時間と金を奪って反撃することができるし、ポリスメンに電話して代わりにバトルさせることもできるし、めんどくさいやつだと印象付けることができれば嫌な奴も絡んでこなくなる。私は不良が多くて荒れた公立中学校で一学年上の番長グループに目をつけられたけれど、ポケットに鉛筆削り用の折りたたみ型のボンナイフを入れて一対多の喧嘩になって負けるとしても最初の一人はやっちまおうとやる気まんまんで臨戦態勢でいたら、不良が絡んでこなくなった。私は自分の人生を他人に邪魔される筋合いはないと思っているので命がけで戦うけれど、相手は命がけで私に絡む理由もメリットもないので、戦う姿勢を見せることで戦いを回避できることもある。・無料オンライン講座を増やす最近はMOOC(Massive Open Online Course)という無料のオンライン講座があるけれど、英語の講座が多くてまだ気軽に利用できるものにはなっていない。日本語の講座を増やして、金がないひきこもりでも在宅で新しい知識や技術を学習しやすくなるだろう。大学に通学しなくてもオンラインで講義を受講をしていればひきこもりの定義には該当しなくなるんじゃなかろうか。MOOCと求人サイトが連携して、特定の講座を修了した人に適した仕事を紹介すれば就職しやすくなるかもしれない。・在宅の仕事を増やすIT系の仕事はリモートでできるし、SNSの動画チェックや監視カメラのチェックとかのスキルが必要ない仕事もあるのに、日本の企業はリモート対応のシステムを作る能力がないのか無駄に出社を要求する場合が多い。もっと在宅で働ける仕事が増えればパニック障害があったり社会不安があったりして外出が嫌な人でも働く気になるだろう。あるいはひきこもり支援施設が内職を受託してひきこもりに仕事を割り振るようなやり方なら、面接が嫌で就職活動をしたがらない人でも働きやすいと思うし、普通の会社で働くよりも負荷のコントロールをしやすいだろう。少額でも自分で稼ぐ習慣を身に着けるのが自立につがなる。
2024.07.02
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6月のEU議会選挙だと中道左派の欧州刷新が議席を減らして中道右派の欧州人民党が第1会派になって、右派の欧州保守改革、極右の国民連合も議席を増やしていて、EUの各国で左翼の環境政策や移民政策に対して揺り戻しが起きて右傾化している。NEWSWEEKの「イタリアの移民法令は茶番。メローニ首相が欠陥を認め法律を変える」という記事によると、イタリアでは移民を規制するはずのボッシ・フィーニ法がかえって不法移民を増やすことになっていて、メローニ首相が法律の欠陥を認めて修正するそうな。EUの移民・難民の受け入れと多文化共生は失敗したし、アメリカもバイデンの不法移民対策が不十分で次の大統領選挙ではトランプが優勢とみられていて、トランプが当選したらアメリカだけでなく世界の移民政策の転換点になると思う。前にアイデンティティと移民について考えるという記事でも考えたけれど、移民問題は世界の勢力図を変えうる重要な問題なので、多様性と移民について考えることにした。・移民がもたらす多様性国の伝統的な料理を作る料理人には就業ビザが出るし、料理人は学者や芸術家よりもなりやすいので、移民は飲食店で働く人が多い。東京だと世界のいろいろな国の郷土料理のレストランがあるので、東京で食べ歩きするだけで世界を観光する気分になれる。代々木公園ではブラジルやタイとかがフェスティバルを開催していて、ライブやダンスをしたり服や雑貨や料理を売ったりしている。服や音楽は日本人とは違う感性なので、アーティストにとってはインスピレーションをもらえるよい機会になる。スポーツだと世界中から才能がある移民が集まることで、外国のトレーニング方法や戦術が取り入れられて国内の技術水準が引き上げられていく。黎明期のJリーグがラモス瑠偉とかの外国人選手に引っ張られたり、最弱だったラグビーの日本代表がニュージーランド出身で日本に帰化したリーチ・マイケルをキャプテンにして躍進したり、相撲で外国人力士が横綱になって国外にも相撲人気を広めているように、スポーツには良い影響がある。良い影響だけでなくて悪い影響もある。犯罪も多様化して、地下銀行の不正送金、違法賭博、薬物の密輸、密漁、詐欺、売春、人身売買、身分証の偽造、通貨の偽造、盗品の売買、不法就労などが行われてギャングの資金源になる。警察官が外国語がわからなくて捜査しにくいし、逮捕できても捜査が不十分で不起訴になりやすいし、犯罪の収益を正直に確定申告して税金を払う犯罪者はいないので、ギャングが勢力を拡大しやすい。ヴァンダリズム(器物破損)も起きやすくて、イスラム教徒は異教徒の寺や神社を破壊するし、自称芸術家が建築物に落書きしたりする。犯罪でない軋轢も起きて、パーティーをやる文化の外国人は壁の薄い日本のアパートで大勢で騒いで近隣住民や大家とトラブルを起こす。良い移民は移住した先で良い影響をもたらすし、悪い移民は悪い影響をもたらすし、移民が良いとか悪いとかの二元論でなくて結局は個人次第なので、誰でも移民を入れれば国が発展するわけでもない。欧米の移民政策が失敗した理由は明確で、就業ビザを取ったり留学したりする正規のルートで入国する民度が高い移民でなくて、高度技能も学力もないのに無理やり国境を越えてくる順法意識がなくて民度が低い不法移民を大量に入れたのが原因だろう。移民の良し悪しは個人次第とはいえ、ある程度の国民性が出る。日本も貧しかった頃にアメリカや南米に移民を送り出したけれど、日系アメリカ人は第二次世界大戦で奮戦したし、南米の日系人は働き者で荒地を開拓して農園を作ったし、努力して自分の居場所を作っている。中国は世界に移民を送り出しているけれど、中国企業の従業員としてアフリカや中東に行く労働者から英語を覚えて欧米に行く大卒エリートまでピンキリで、エリート層は勤勉で働き者で中国人同士で助け合うので起業や投資で成功する人も多い。それは移民としては良い特性だけれど、その一方で世界中にチャイナタウンを作って現地に同化しようとしなくて景観を破壊するし、移民1世は勤勉でも2世や3世から不良が出現して犯罪をするし、無宗教で欲への歯止めとなる思想がないので事業が成功しても典型的なモラルのない成金になってスポーツカーで暴走して人を跳ねたり買春しまくったりするし、中国のプロパガンダを拡散したり産業スパイをしたり政治家にハニートラップを仕掛けたりして中国共産党の手先として活動したりするので、世界各地で嫌われている。韓国人は世代によってだいぶ違う。日本では戦後に朝鮮半島からの不法入国者の対処に苦慮していて、Wikipediaの特別永住者のページによると1949年に在日朝鮮人が100万人いてその半数は不法入国だそうで、犯罪を犯すものが多くて日本の復興に全く貢献していなかったそうな。特別永住者の韓国人移民1世は強制連行されたと嘘をつく人や生活保護に頼って働かない人や暴力団に入る人や反日活動をする人もいた。しかし最近の韓国は超学歴社会で若者がまじめで勉強熱心なので外国に行く人は英語ができるし、日本に来る人は日本語もできるし、インターネットの普及後は反日教育の洗脳も解けたようで教養がある層は日本を敵視しているわけでもなくて優秀で、日本のゲーム会社やIT系企業の役員の名前を見ると韓国系だったりする。・多様性を尊重する必要がないものもあるたいていの先進国は歴史や伝統があって固有の文化が出来上がっているので、その幸福の形を余所者や新参者に変えられる筋合いはないし、その国の法律に従えないのは多様性を尊重するとかしないとか以前の話で、どの国籍や宗教であれ社会の構成員として不適格である。言葉がわからないからといってゴミ捨てルールを無視して不法投棄していい理由にはならないし、役所の手続きがわからないからといって納税しなくていいという理由にはならないし、宗教の戒律に書いてあるからといって異教徒を殺害していいことにはならない。結婚とかの人権に関する部分はマイノリティーを尊重しないと人権侵害や差別になりうるので法律を変える必要があるだろうけれど、生活習慣に関する法律はマイノリティーにあわせて変える必要はないと思う。例えば尻割れズボンを履いて道端で子供にうんこをさせる民族や、うんこの後で指で尻を拭く民族が自分の国でそういう生き方をするのは勝手にすればいいけれど、トイレが整備されている国ではその不衛生な排泄の流儀を尊重する必要はないし、マイナス方向の多様性はいらない。イギリスで一番金持ちで435億ドルの資産を持つヒンドゥジャ家の4人がスイスの別荘で労働者のパスポートを取り上げて家から出ることを禁じて1日18時間週7日働かせてスイスの法律で定めた給与の1/10しか支払わなかったとして4年半の懲役刑を言い渡されたけれど、こういうヒンドゥー教の階級意識による下層階級からの搾取も外国では尊重する必要はないだろう。・DEIの欺瞞と失敗DEIとはDiversity Equity & Inclutionのことで、意識が高くて目覚めた企業や大学の人材活用のスローガンのようなものとして扱われている。Diversity(多様性)は文化や宗教や人種や民族や性自認や障害などの個性を尊重すること、Equity(公平性)は機会の公平を追求すること、Inclusion(包括性)は組織にいる多様な人を認めて組織に活かすことを指す。個々の要素を見ると大事なことを言っているように見えるけれど、この取り組みがうまくいっていないようで、スペルを並べ替えてDIE(死)と皮肉を言われているそうな。アメリカでは保守的な共和党員がDEIに反発していて、リベラルによるDEI推進への反動からDEIを解体させる動きも起きていて、例えばフロリダのHouse Bill 999ではフロリダの大学でDEIを促進させるプログラムに資金を提供しないことにして、急進的フェミニズムやクイア理論とかの批判的人種理論に関するプログラムを禁止したようである。Xは30人いたDEIチームを2人に減らしている。ではなぜすばらしい理念を掲げたはずのDEIはうまくいかないのか。保守派が頑固だからというより、ダイバーシティ、エクイティ、インクルージョンのそれぞれの概念が単体なら成立するけれど、同時に成立しないものを全部いっぺんにやろうとするところにリベラルの欺瞞があるのでうまくいかないのだと思う。ダイバーシティとインクルージョンが両立しないのは生物を例にするとわかりやすい。生物の多様性を大事にしたいときは環境を保護する必要があって、例えば日本固有種のタナゴを保護しようとしたらタナゴがいる池に外来種を入れないようにして環境を保全して生息域を分ける必要がある。ところがDEIはタナゴは他の生物を排斥したがる差別主義者でオオクチバスもヌートリアもウシガエルもジャンボタニシもオオカナダモもインクルージョンしてお互いを理解して個性を尊重するべきだと言ってタナゴの池に外来種をどばどばぶち込むようなものである。料理に例えると、ラーメンとカレーとうな重と刺身とピザと麻婆豆腐とおはぎとケーキとクッキーとコーラと抹茶はそれぞれ違うおいしさがあるし、相性が悪い味や素材は除外するほうが味の個性を出せて多様性が出るけれど、DEIは全部混ぜて一つの料理として提供しようとしたり、ケーキの材料に果物だけ使うのは差別主義者で刺身にもケーキの食材になる機会を公平に与えるべきだと言ってケーキにマグロを飾ったりするようなものである。化学物質で言うと、酸性洗剤を差別主義者だと批判してアルカリ性洗剤をインクルージョンして有毒ガスを発生させるようなものである。DEIを推進するリベラルはこういう非合理なことを人間の社会でもやろうとして、自国の文化を多様性のうちの一つとして尊重せずにダイバーシティの根源になる文化や伝統や価値観などを破壊しようとするところに矛盾がある。ダイバーシティを尊重するならむやみにインクルージョンしてはいけないし、インクルージョンしたいのならダイバーシティをあきらめてある程度同化させて軋轢を生まないようにする必要がある。人間が顔と名前を憶えて安定的な人間関係を作れるダンバー数は150人程度と言われているけれど、DEIを推進している意識が高いリベラルのエリートたちは自分の交際関係の150人の中に自分と価値観が異なる人を加える気がないのも欺瞞である。エリートは新自由主義の金持ち同士で交流してDEIを推進して自己満足する一方で、実際に価値観が合わない人の近くで生活する庶民が軋轢の犠牲になる。アメリカのように黒人奴隷の解放後に黒人をアフリカに送り返すわけにもいかなくて異なる人種で差別せずに仲良く一緒に暮らせるように知恵を絞るのはわかるし、インドやロシアのような他民族多宗教の国家が自国内の民族や宗教の違いを尊重して民族紛争や独立をしないように配慮するのならわかるけれど、EUのようにわざわざアフリカや中東から言語や宗教が異なる移民を呼び寄せたがるのは意味が分からない。ポーカーだと同じマークや同じ数字のカードを集めると手が強くなるけれど、これは国や企業でも同様で、大きな組織で構成員が多様になるほど団結するのが難しくなって、団結力がない烏合の衆は弱くなる。17世紀にオランダがインドネシアを統治していたときにはインドネシアの民衆が結束しないように共通語を作ることを禁止したり、3人以上の立ち話を反乱罪として禁止していたりしていたように、支配する側からしたら搾取の対象は結束しないで分断している方が都合がいい。企業が社内人事でDEIを推進してLGBTや障碍者や移民を幹部に登用するのは勝手にやればいいけれど、短期間の任期中にできるだけ高い報酬が欲しいグローバリストの外国人役員と、利益を伸ばすことよりも女性の地位を上げるのが目的のお飾りのフェミニストの女性社外取締役と、子育てして家のローンを払い終えるまで長く安定して働くのが目的の正規雇用の従業員と、早くキャリアアップして転職したい新卒と、低賃金でも無職よりましなので我慢している非正規雇用の移民で、それぞれの目的もモチベーションもばらばらなのに多様性があってお互いを尊重してすばらしい組織ができるかというと無理だろう。東日本大震災が起きたときに在日外国人が一斉に帰国したように、国家や同朋のために尽くす意識が根底にない人を寄せ集めたところで有事の時には結束が弱い所から崩れていく。多国籍企業のジョイントベンチャーや外国企業のM&Aも失敗が多い印象がある。銀行のシステム統合が難航して失敗しているけれど、人間の社会も異なる文化を安易に統合できるものではない。・移民の経済合理性欧米が何で移民を入れたがるかと言うと、国民が子供を産んで20年かけて育てるよりもすぐに働ける大人の移民が来る方が早く労働人口を増やせるからだろう。企業にとっては労働者のアイデンティティはどうでもよくて自国民だろうが移民だろうが働いてくれるなら利益が出るけれど、金儲けのために移民が欲しいと公言すると感じ悪いので、多様性や多文化共生を方便にしているんじゃなかろうか。移民が来て人口が増えても通貨の流通量が変わらない場合、貧しい移民が使う分の通貨が手元になかったり、移民が就職したらしたで仕事を奪われた人の収入が途絶えたりして、需要があっても通貨がなくて商品が売れなくて消費が伸びない。そこで自国通貨建て国債(=自国通貨)を発行して、直接通貨を給付するか、公共事業などで仕事を作ってどこかの会社で雇って賃金として通貨を与えると需要の分だけ消費が増えてGDPが増える。通貨を直接給付する場合は供給力が増えなくて、移民に仕事を与えて賃金として支払う場合は供給力が増える。アメリカの人口は1970年には2億人程度だったのが2022年には3.3億人程度まで増えていて、人口に占める移民の割合が1970年には4%台だったのが2022年には14%台まで増えていて、移民の労働力によって産業が支えられているので労働人口の増加分に相応の自国通貨建て国債を発行しても問題ないわけで、国債発行額が増え続けていても毎回債務上限額を引き上げながら国債を借り換えしていればよくて、国債を償還しなくても財政破綻論者がいうような膨大な借金で通貨の信任がなくなってハイパーインフレになって通貨が紙くずになるような事態にはならない。移民をわんさか入れて需要と供給を増やして経済成長させる目的で新自由主義グローバリストの政治家や学者や経営者は移民を入れたがるけれど、人間は経済合理性のために生きているわけではないし、国のGDPが増えて企業の利益が増えても強欲な経営者が労働者に分配しなければ国民の所得は増えないので国民の幸福度が増えるとは限らない。アメリカは世界一の経済大国だけれど国内は人種と宗教と格差で分断して犯罪が多発して国民の不満が高まっていて、バイデン政権下では不法移民が730万人も流入したそうで、バイデンでさえ次の大統領選挙に備えて国境対策の法令を出したけれど、アメリカ国民はより厳格な不法移民対策を求めている。特にメキシコと国境が接しているテキサスは1835年にテキサス革命を起こしてメキシコ軍と戦ってメキシコ合衆国から独立してテキサス共和国を作ってからアメリカ合衆国に併合された経緯があるので愛郷心が強くて、そこにメキシコから郷土愛がない不法移民がわんさか来るのが我慢ならないようでバスで不法移民をニューヨークに送り付けていて、テキサスの独立を目指して運動をするテキサス・ナショナリスト運動も出てきている。それに移民が来たら食べ物や衣類や住居やエネルギーとかの需要はすぐに増えるけれど、移民が福祉に頼って働こうとしない場合や、言語や技術の教育が不十分で労働者として役に立たない場合や、不景気で仕事がない場合や、窃盗や麻薬の売買などの不法行為で生計を立てる場合や、犯罪で収監された場合は供給力は増えない一方で福祉の負担が増える。その場合は需要に対して供給が足りなくなるので物不足でインフレになって福祉の負担も増えて、貧民ほど悪影響を受けてインフレで高騰した家賃が払えなくてホームレスになったり、犯罪や薬物中毒とかで治安が悪化したり、刑務所に犯罪者を収監しきれなくて早期に釈放されて再犯したりして内政問題が慢性化して深刻になって、移民で経済成長するどころか景気減速要因になる。企業は働く移民を選別して儲ける一方で、働かない移民のしわ寄せは一般国民に来る。アメリカは貧乏人が働かずにホームレスになって病気になって高額の医療費が払えずに野垂れ死ぬのは自己責任として働かない移民を自然淘汰して働き者の移民を残して移民を経済成長の燃料としてこき使っているのに対して、EUはアメリカと違って働かない移民にも人道的に十分な福祉を与えてかえって移民の自立を妨げて移民を働かせられないでいるので、EUに数百万人の移民を受け入れたからといってアメリカのように経済成長するわけでもない。ドイツは人口が多くて自動車産業とかの主要な産業があるので若干景気後退してGDPが減少しているもののまだなんとかなっているけれど、スウェーデンのように人口が少ない国ほど働かずに犯罪をする移民の悪影響が早く出ている。2015年の欧州難民危機以降は発展途上国の人にとっては緩い審査でEUの福祉に寄生できるボーナスステージで、就業ビザは技能や学歴の条件が厳しいうえに解雇されて生計を立てられなくなると在留資格を失うけれど、難民を自称すれば技能がなくても働かなくても無期限に在留できるので、本来は入国を拒まれるはずの人までEUに押し寄せた。傲慢なEUのリベラルは識字率が70%以下のアフリカや識字率50%以下のアフガニスタンからの移民を厚遇すれば立派な労働者に育てることができると思い込んでいたようだけれど、それができるなら発展途上国はとっくに経済成長している。ドイツでは5月31日にイスラム過激派に反対する団体「パクス・エウロパ」の集会でアフガニスタンの移民がナイフで襲撃して警察官を1人殺害して5人を負傷させたけれど、この犯人は無職で市民金(ドイツの生活保護のようなもの)で生活していたそうな。この事件を受けてドイツではアフガニスタンへの強制送還再開を検討するそうだけれど、送還云々よりもこの犯人はそもそも入国させるべきではなかった人物で、働かずに凶悪犯罪まで起こしてドイツに害しかもたらしていない。EUで移民政策への反発が強まったところで凶悪犯罪を起こさない限り強制送還はできないし、子孫の代まで福祉に依存するつもりでいるフリーライダーを強制労働させることもできないので、EUはもう詰んでいる。一方でイギリスはEU移民の流入を制限したり国金保険サービスを競争から保護したりする目的でEUを離脱して、インド系移民のスナク首相でさえ純移民の減少を支持していて主要政策として不法入国者をルワンダに移送する法案を可決させたけれど、ブレグジットを主導したイギリスの保守党の政治家にはEUが移民の増加によって中長期的に衰退していく未来が見えたのかもしれない。デンマークもイギリスと同様にルワンダに亡命希望者を送ってから難民審査をしていて自称難民を国内に滞在させないようにしていて移民受け入れに消極的で、難民審査中に国内の治安が悪化することを防いでいる。日本だと高度専門職の外国人の永住許可要件を緩和して高度人材を歓迎する一方で、難民申請や永住許可の取り消しを厳格化して素行が悪かったり独立生計を営む能力がなかったりして国益にならない外国人を国外追放しやすくしようとしていて、欧米に比べたら基準が厳しい。日本は観光ビザで入国してから難民申請するような日本語を習得する気がなくて生計を立てる技能もない自称難民は難民認定しないし、2021年には約4万6000世帯の外国人が生活保護を受けているものの在日外国人が300万人以上いる割には生活保護世帯が少ないし、基本的に生計を立てられない外国人は生活保護法の対象外で国外退去になるので、労働意欲が高い外国人を選別できているし、外国人による家畜や果物の窃盗とかの軽微な犯罪は起きているしベトナム人同士や中国人同士での喧嘩での殺人事件は起きているけれど、日本人を対象にしたテロとかの大きな事件は起きていない。外国人留学生がバイトばかりして勉強がおろそかになっている問題はあるけれど、働く気がない偽装難民よりはましである。日本は西側諸国の中ではうまく移民とつきあっているほうだと思うし、寛容な移民政策で失敗している欧米に追随して移民の受け入れ基準を緩和する必要はない。・宗教と政治の問題エジプト、チュニジア、アフガニスタンでは民主化が失敗した。いろいろ要因はあるのだろうけれど、これらの国でイスラム教徒が大半を占めていることが大きな要因だと思う。宗教に敬虔であるほど経典を妄信して自分で物事の仕組みや是非を考えなくなって宗教指導者に従うようになるので、民主制で自分たちで政治家を選んでより良い生き方のために法案を作るやり方と権威主義の宗教は相性が悪い。イスラム教徒が多い国でもインドネシアやパキスタンのように独立戦争の末に独立して民主制を採用した国と、途中から民主制になろうとした国では政治に対する意識も違うようで、アフガニスタンは国民がタリバンと戦ってまで民主制を続ける気がなくてアメリカが撤退したらすぐにタリバンの支配下におかれてしまった。ヨーロッパでも中世はジョルダーノ・ブルーノがコペルニクスを擁護する宇宙論を主張して異端審問で処刑されたり、ガリレオが地動説を唱えて異端視されて終身刑(自宅謹慎に減刑)になったように宗教的反啓蒙主義が障害になって哲学が発展しなかったけれど、宗教改革後の啓蒙時代以後はルソーやロックやヴォルテールとかの哲学者が出てきてパラダイムが変わって、宗教に頼らずに理性で合理的に物事を考えるようになって科学を発展させて、フランス革命で王を処刑した末に民主制に移行した。一方でイスラム教では神やコーランを否定すると死刑になるので著名な哲学者がいなくて不合理な神を否定して合理的に考えるプロセスを経ていなくて、宗教に基づいて物事を考えて意思決定する中世的なパラダイムのままでいる。民主制はすばらしい体制というわけではなくて多数派による独裁に過ぎないので、政権を担う多数派が中世的なパラダイムから変わらない限り、独裁から民主制に変わったところであまり意味がない。イスラム教圏で独裁者に不満を持って民主化革命で政権からおろしたところで、合理的に物事を考えて議論で解決する能力が育っていないのだと思う。中世のアゼルバイジャンの詩人のImaddadin Nasimiはイスラム教で異端とされるフルフィズムで宗教的不寛容さに抵抗して詩の表現の自由を追求して、イスラム教のシャハーダに「神(アッラー)以外に神はなし」とあるのに対してNasimiは「我々以外に神はなし」という人間を中心にした啓蒙主義の先駆けのような思想を持ったことが原因でスンニ派に処刑されたけれど、死ぬときに「地上の邪悪な人たちは自分たちの意思を支配するために神を利用する」と言い残したそうな。アッラーアクバルと叫んで蛮行を正当化するイスラム原理主義者たちがまさしくそうで、イスラム原理主義者が世界を中世的なパラダイムに戻して人類の理性の進歩を止めようとするので、世界中でイスラム原理主義のテロリストと戦っている。イスラム教徒の中から哲学者が出てきて内部から思想が変わらないとテロとの戦いは延々と続くだろう。世俗化していないイスラム教徒は自由に生きれるEUに移住しても自由に生きようとせずにイスラム教の教義に従って生きて、教義が異教徒の殺害を肯定しているので法律に基づいて裁判や議会で議論して問題を解決しようとせずにシャルリー・エブドを襲撃したように短絡的に敵を殺害して解決しようとする。既に価値観が出来上がった大人を変えるのは難しいし、その親に育てられた子供も同じ価値観を継承するので、イスラム教徒の移民の子供が社会になじめずにホームグロウンテロリストも育つようになる。イスラム教徒は避妊しないし改宗もしないので、世代を経るごと人口が加速的に増えていく。数百年後にイスラム教徒が増えた頃にはイスラム教徒が自治を求めるようになって紛争の火種になって、イスラエルがパレスチナ人を追い出そうとして塀で囲って虐殺するようなジェノサイドがEU各国で起きうるし、もしイスラム教徒が勝った場合はEUの民主制が終わって白人が迫害される側になって難民として他の国に逃げてEUがイスラム化していくと思う。・増え続ける難民難民条約の定義だと自国にいると迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れる人々のことを難民というけれど、これは政治亡命者を念頭にしていて紛争や内戦による難民には当てはまらないので、紛争や内戦による避難民を難民として認めるかどうかは国によって違う。日本は出稼ぎ目的の偽装難民が多いので難民認定を厳しくていて迫害をうける可能性があることを証明する必要があるけれど、EUは認定が緩くてテロリストも紛れ込んでいる。国連難民高等弁務官事務所によると、世界の難民や避難民は去年末の時点で1億1730万人で、12年連続で増加しているそうな。ウクライナ、パレスチナ、スーダン、ミャンマーとか、世界各地で紛争や戦争が起きている。香港の民主活動家の周庭がカナダに事実上の亡命をしたように、中国やロシアのような独裁国家では反体制派はスパイ容疑や内乱罪や脱税などの罪をでっち上げられて逮捕されて長期間収監されたり拷問されたり暗殺されたりする恐れがあるので、民主制の国家よりも独裁国家の方が政治的な難民が生まれやすくなる。世界では民主制の国が減っているので、今後独裁国家が増えていくほど腐敗や権力闘争が起きやすくなって難民が増えていくだろう。国連の難民の地位に関する条約に加入している国は難民の人権保障と難民問題の解決のために国際協力しているものの、政治家や学者や経営者とかが政治亡命を希望するなら受け入れる国にもメリットがあるけれど、高度技能がないどころか就労意欲さえもなく犯罪をする難民を受け入れるメリットがない。日本は難民を受け入れないと外国に批判されているけれど、そもそも他国の内政や外交の不始末で紛争や戦争が起きているのに、なんで無関係で地理的にも遠くて言語も文化も宗教も違う日本が外国人を保護してやらないといけないのか。国連安全保障理事会の常任理事国のロシアがウクライナを侵略して、中国がウイグル人やチベット人や民主運動家や法輪功を弾圧して、欧米がイスラエルを支持してパレスチナ人に対する非人道的なジェノサイドを容認して難民を作り出しているのは矛盾しているし、常任理事国でない日本が外国の尻拭いで大量の難民を押し付けられる筋合いはないしその難民を受け入れないからといって非人道的だと非難される筋合いはない。1億1730万人のすべての難民を受け入れる余力がある国はないので、難民キャンプの支援とかで現地で人道的援助をするのが最善である。あるいは言語や宗教や文化が近い国で保護するほうが軋轢が少なくて済む。ミャンマーはロヒンギャを少数民族として認めずに国籍を剥奪して不法移民扱いして弾圧して、バングラデシュも難民として押し寄せたロヒンギャをミャンマーに強制送還しようとして、どっちも移民として受け入れる気がなくて押し付けあっているので現地では問題が解決しそうにない。それで人身売買のブローカーが難民をサウジアラビアやパキスタンとかのイスラム教の国に密航させているように、現地に居場所がない場合は外国に帰化するのが現実的な解決策になる。外国に移住した難民がずっと支援に頼るのも負担になっているけれど、難民だからといっていつまでも保護対象にする必要はないだろう。ウクライナ戦争で630万人のウクライナ人がヨーロッパ各国に避難したけれど、避難当初は住宅の提供や給付金とかの支援が中心でも戦争が長期化したら就職促進プログラムで自立して生計を立てるように促している。福祉に依存するだけの人はどの国でも歓迎されないし、難民がかわいそうだと同情してもらえるのはせいぜい半年くらいで、長期滞在するのに言語を覚えて就労する意欲がないのであれば福祉目的の偽装難民として送り返してもよいのじゃなかろうか。・解決できない問題難民や移民を受け入れれば戦火を逃れた人や発展途上国から来た貧しい人に衣食住を与えることはできるけれど、だからといって移住した先で異教徒や異民族同士が仲良くできるわけではない。例えばイスラム教徒が少ない国にイスラム教徒を受け入れると、スンナ派とシーア派の対立や宗教に基づく女性差別や同性愛差別とかのもともと国内になかったイスラム教徒特有の問題まで一緒についてくるし、それは非イスラム教徒の部外者には解決できないし改宗させることもできないので内政問題が残り続けることになる。偽善者のリベラルはいろいろな属性の人を自分の国に受け入れただけで何かすばらしいことをしたような気分になっているけれど、紛争や対立が起きる根本原因を解決できないまま国内に問題を増やしている。インクルージョンしたからといって価値観の共有はできていなくて、例えば学校で同性愛について教育をしようとしたらイスラム教徒の親に同性愛について教えるなと抗議されるような問題が起きていて、同性愛者も同性愛を嫌うイスラム教徒もお互いに不満を持つようになる。中国人も移住した先のアメリカやカナダで反体制派と体制派が争っていて、SNSで中国を批判した反体制派の中国系移民が体制派の中国系移民に殺されたりしている。日本でも2015年のトルコの総選挙のときの在外投票でトルコ人とクルド人が対立してトルコ大使館で乱闘して7人が病院に運ばれた。こうした国内での移民同士の対立は部外者が仲裁したりできないので、対立が過激化してしまう。だったら価値観が違っていて同化する気がない移民を入れずに別の国に住んだ方がお互いに幸せになれるだろう。トランプは大統領だった2017年にイスラム教徒が国民の大半を占めるイラン、リビア、ソマリア、スーダン、シリア、イエメン6カ国からの入国や難民の受け入れを90-120日禁止する大統領令を出してニューヨーク州やハワイ州から差し止め請求を出されていたけれど、厳格なイスラム教徒と異教徒が共生できないのはEUが実証したし、パキスタンやバングラディシュがインドから独立したりユーゴスラヴィア紛争で民族や宗教ごとに国が分裂したりして歴史でも実証されているので、差別と言われようがトランプの移民政策の方がアメリカ国民の幸福にはつながる。・私の意見私は移民政策については保守思想だけれど、移民自体は必要だと思っている。明治時代に欧米から教師を招聘して学問や芸術を発展させたように、優れた学者や技術者や芸術家は国が大金を払ってでも招く方が日本の国益になると思う。頑張って日本語を覚えてビザを取って日本で働いたり留学したりする人の意見も日本を良くすることにつながると思う。しかし外国人技能実習制度は外国人から搾取して不幸な外国人を増やして日本への反感を増やすのでやめるべきだと思う。リベラルがかわいそうな外国人を救ってあげたいと聖人気取りで偽装難民を受け入れさせようとゴネるやり方にも反対で、偽装難民を支援したい人は公金にたからずに私費でやればいいし、難民申請した外国人が放免中に起こした犯罪には支援者が連帯責任を負って損害賠償すればいい。外国人への生活保護の支給にも反対で、日本人でさえ水際作戦で生活保護を受けられなくて餓死する人まで出ているのに、なんで国民の福祉が不十分な状態で外国人を保護するのか。病気で働けなくなったガーナ人が千葉市が外国人の生活保護の申請を却下したのは違法だとして提訴して敗訴したけれど、千葉市の「生活保護法が保障対象とする『国民』は、日本国籍を有する者を意味することは明らかだ」という主張はその通りで外国人は国民ではないし、病気で働けなくなったガーナ人を保護するのはガーナ政府やガーナ大使館の責任なので日本が面倒を見る必要はないだろう。もし外国人の生活保護を認めたら、外国人の女性が妊娠して働けなくなったとして生活保護に頼ったまま働かずに日本に居座って育児をして、子供は日本語しか話せないから母国に送還されても生活できないとゴネて滞在期間を伸ばそうとするケースが多発して、少子化している日本の金で外国人の出産と育児を支援する不合理な状態になりかねない。欧米の傲慢なリベラルや強欲なグローバリストが難民や不法移民の増加で自滅するのは自業自得だと思うし、欧米が迷走して衰退する方が日本の利益になると思う。最近中国の新興富裕層が台湾有事を警戒して日本に移住しているように、欧米の治安が悪化して金持ちが強盗や誘拐やテロの標的になるようになったら平和な日本に行きたがる欧米の金持ちも出てくると思うし、日本は欧米に追従せずに偽装難民や不法移民に厳しく対処して治安やモラルを維持することでまともな移民を集めやすくなると思う。Preplyの「Expat nation: Why more young Americans than ever are emigrating」という記事によると、アメリカのZ世代3000人に調査したら、移住候補でイギリスが1位、カナダは2位、日本は3位で、英語が通じるシンガポールやオーストラリアよりも日本が上位で、日本が移民に媚びなくても飯がうまくて皆保険制度があって治安がいい日本の良さを理解している外国人は日本に移住したがっている。人間は幸福になるために生きている。戦後の物がない時代は物があることが幸福につながるので、一生懸命仕事をして物を作ることで幸福になった。しかし現代はもう物はあふれるほどあるし、移民の労働力で物やサービスを提供することで幸福になるとは限らない。店が24時間営業になって物が安く買える代わりに近所の移民の騒音が増えて夜に眠れなくなったり、移民の暴走車にひき逃げされたり、家の周りがポイ捨てされたゴミだらけになったり、強盗やレイプが起きるようになって夜に一人で外出できなくなったりするのなら、店の営業時間が短くて物が高くても静かに安心して生活できる方が私は幸福になれる。モラルや平穏とかの金を払っても買えない価値と引き換えに金を払えば買えるものを安く手に入れるのは馬鹿げている。日本は少子化だから移民を入れろと短絡的に言う人がいるけれど、人口が増えたら幸福になるのかというと違うし、人口が増えているアフリカ諸国は貧しくて教育も受けられなくて不幸な人だらけである。観光地に住んでいる人がオーバーツーリズムでモラルがない外国人が旅館で騒いだり道端にゴミをポイ捨てしたり列に割り込んだりしてうんざりしているように、移民が増えたら職場でも学校でも近所でもモラルが低いDQNが隣にいるのが日常になるけれど、それで幸福になれるだろうか。人口が多くて民族や宗教や言語が多様なほど統治が難しくなるけれど、日本の政治家が3流でも治安がいいのは国民がほぼ単一民族で公用語が日本語だけで統治しやすいからで、多言語多人種の移民社会になったら教育や警察の取り締まりが追い付かなくなって統治できなくなるだろう。経済成長したら幸福になるかというと、アメリカで格差があるように株主が儲かるだけで労働者に還元されないと経済成長の恩恵がないし、移民に職を奪われる人はむしろ不幸になる。国民が幸福になることを目的にせず、人口を増やすことや経済成長することを目的にして国民が不幸になったら本末転倒なので、グローバリスト主導の労働力としての移民を増やそうとする政策には私は反対である。世界中に多様な文化を持つ人間がいるということを尊重して外交や貿易や観光や留学を通じて時間をかけてお互いの国を尊重できる人同士が相互理解すればいいし、日本人が不幸になってまで日本の文化を尊重しない外国人と一緒に暮らす必要はないだろう。
2024.06.17
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原作改変について考えるという記事で漫画『セクシー田中さん』のドラマ化が原因で原作者の芦原妃名子が自殺した件について考えたけれど、この件に関して日テレが「セクシー田中さん」調査報告書(公表版)を公表して、小学館も調査報告書(公表版)を公表したので、この調査報告書について考えることにした。日テレの調査報告書が小学館の調査報告書よりも先に公表されたので、日テレの調査報告書を中心に考察する。●テレビ局の同一性保持権軽視の問題日テレの報告書によると日テレのA、Bと小学館のC、Dの話し合いでは同年 3 月 9 日、及び同年 3 月 29 日の打ち合わせの際には、2024 年 1 月 26 日に公表された本件原作者のブログにあるような「必ず漫画に忠実に」「漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様『原作者があらすじからセリフまで』用意する」という条件は小学館からは口頭あるいは文書で提示されていなかった。なお、この点についての当調査チームの質問について、C 氏、D 氏は条件として文書で明示しているわけではないが、漫画を原作としてドラマ化する以上、「原作漫画とドラマは全く別物なので、自由に好き勝手にやってください」旨言われない限り、原作漫画に忠実にドラマ化することは当然という認識である旨書面回答している。と書いてあるけれど、この小学館の認識が著作権に関する常識的な認識で、わざわざ日テレに伝えなくても著作権を守って当然である。ところが日テレのAはその認識がない。ドラマ化にあたって「必ず原作に忠実に」「終盤は本件原作者が脚本を書くこともあり得る」という条件については、A 氏自身そのような条件が小学館から出されているという認識がなかったため、A 氏から本件脚本家には説明されていない。とあるようにこのAの同一性保持権の認識がおかしいことがその後に何度も改変されまくって原作者に修正を強いて疲弊させる根本原因になっている。本件ドラマの脚本制作は、まず原作を基にドラマ化するためのプロットを作成して C 氏を通じて原作者に提出し、原作者の修正意見を基に修正プロットを作成する。何回かのやりとり(以下、このやりとりを「ラリー」という。)の後、原作者から修正プロットに OK が出たら、脚本作成に進むが脚本段階でも C 氏を通じて原作者に提出し、原作者の修正意見を基に修正脚本を作成し、何回かのラリーの後、原作者から修正脚本に OK がでたら決定稿とするという流れであった(但し、後述するとおり 9,10 話は異なる)。プロット・脚本の本件原作者への提案、及びその後の完成台本の最終承認は A 氏の責任であった。これらのプロットや脚本の制作は、コアメンバーでアイデア出しを行い、話し合いをする場である本打ち主体で進む。原作を読んでコアメンバーで話し合った内容をホワイトボードに記載していき、それをもとに、本件脚本家がプロットや台本におこした。本打ちは、2 時間以上の話し合いになる事が多く、合計で 30 回程度行われた。③ コアメンバーの原作への姿勢A 氏は、本件原作のキャラクターが不器用だけど生きづらい世の中で変わっていくところに惹かれており、このキャラクター像を失わないようドラマ作りを心掛けた。本件脚本家も原作漫画がしっかりしているので、大きく変える必要はないという意見だった。コアメンバーの間では「原作を大切にしよう」という話は当初からされていた。本件脚本家の記憶では、最初の本打ちの際、本件ドラマ全体の方針や軸となる部分について協議し、本件脚本家から女性 2 人(朱里・田中さん)のシスターフッドの要素を取り入れることが提案され、それを一つの軸とすることになった。本件ドラマの方向性としては「原作のいいところを活かしながら、ドラマとして成立できるとことを探る」というところに落ち着いた。A 氏は、原作を大事にしようという思いを持ちつつも、ドラマ化にあたっては、尺、撮影、連続ドラマとしての1話ごとの盛り上げ、実写化するにあたり実在する俳優の演技・セリフ、実写化にあたってのロケや予算等の制約、スポンサーへの配慮等による原作の改変は発生すると考えていた。当調査チームへの C 氏の書面回答によると、過去にドラマ化経験がある本件原作者もそれらは理解していた、ということであった。また、A 氏は、原作をドラマ化するにあたっては映像化のプロである制作サイドと本件原作者との間で意見のやりとりを続けて、よりよいドラマを作っていこうと思っていた。なお、後述のとおり、キャラクターのうち、特に朱里、進吾という内面の難しい点を抱えたキャラクターについては、制作サイドが作成したプロット、脚本に対し、本件原作者が原作のセリフ、エピソードに戻してほしいという修正意見をいうことが多かった。とあるように、責任者のAは小学館から原作漫画に忠実にドラマ化しろと明言されていないから変えたあとで原作者に了解をとればいいと解釈したようで原作者とのラリーをやりまくって、「朱里のキャラクターについて、ただの可愛くて軽い女に見えないようにしてほしい」と原作者に意見を言われたにもかかわらず、「よりよいドラマ」のために無駄にキャラクター設定を変えようとして同一性保持権の侵害を原作者に認めさせようとしたようである。その結果として4話で原作者からエピソード順番を入れ替える度に、毎回キャラの崩壊が起こってストーリーの整合性が取れなくなってるので、エピソードの順序を変えるならキャラブレしないように、もしくは出来る限り原作通り、丁寧に順番を辿っていって頂けたらと思います。漫画とドラマは見せ方が違って当然なので、本来なら、ドラマはドラマのアレンジを加えてより良い物にして頂くのが 1 番と承知しておりますが、まだキャラクターや物語の核になる物が共有しきれていないせいか、アレンジが加わった部分から崩壊していってしまいがちな気がしていますので、何卒宜しくお願い致します。とキャラ崩壊しないように釘を刺されているし、6話のプロットでもアレンジに対して原作者が修正しているし、7話の脚本の修正では「散々説明して来たつもりなので、流石にもう堂々巡り、なのでもうこれ以上のやりとりはしたくない」とまで言われている。漫画とドラマは媒体が違うので、本当はドラマ用に上手にアレンジして頂くのがベストだって事は、私も良く理解してるんですよ。(中略)でも、ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変がされるくらいなら、しっかり、原作通りの物を作って欲しい。(中略)これは私に限らずですが…作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変は、作家を傷つけます。悪気が全くないのは分かってるけれど、結果的に大きく傷つける。それはしっかり自覚しておいて欲しいです。最終的に意にそぐわないモノが出来ても、多くの作家は公に文句が言えないです。莫大な数の役者さんスタッフさん達が、労力や時間を使って関わってくださってる事を知ってるので。その事に対しては、本当にとても感謝をしているので。なので、闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階で出来るベストを尽くしているつもりです。宜しくお願い致します。と原作者に「作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない」とまで言われているのに悪気なく何度も安易に改変しようとするのは「③ コアメンバーの原作への姿勢」と矛盾している。「(13) リテイク(撮り直し)の発生」には本件原作者は「制作サイドから何を言われても信用できない」という思いを抱いたと書かれているように、Aが原因で原作者との信頼関係が破綻している。小学館の報告書の35ページでは原作者は「脚本で100点を目指すのはもう無理だと思うので、演技や演出力で、なんとか80~90点に、引き上げて欲しい。」とはっきりと脚本に見切りをつけているけれど、日テレの報告書でそこを中略するのは脚本家への配慮だろうか。原作者に脚本を拒否されているにもかかわらずA 氏は、1~7 話において制作サイドの提案を本件原作者が受け入れることもあったため、このときは、本件原作者も絶対に譲らない人ではないと考えており、すり合わせで 8 話以降も作っていきたいという思いだった。C 氏は A 氏に対し、オリジナルで挿入したセリフをマストでなければ削除してほしいと言ったところ、A 氏は、それでは本当に本件原作者が書いたとおりに起こすだけのロボットみたいになってしまうので本件脚本家も受け入れられないと思う旨答えた。とAは同一性保持権を理解していなくて脚本家が改変するのが当然だという認識で、だからこそ何度も原作者に文句を言われているのにAは原作者の言葉を理解していなくて話が通じない。原作者に対して「譲らない人ではない」という言葉が出てくること自体がおかしくて、許諾を受けて原作を使わせてもらう側が原作者に譲ってもらって改変を押し通すつもりなら傲慢極まりない。60ページに改変例が載っていて、原作では朱里が短大に進学した設定があるが、本打ちでは、同設定に関して、「短大に進学するよりも専門学校に進学する方が近時の 10 代、20 代としてはリアリティがあるのではないか」、(短大進学の原因となっている)「父親のリストラはドラマとしては重すぎるのではないか」等の議論を経て、高校受験の際に、父親が勤める会社が不景気になり、母親から「高校は公立でいいんじゃない?」と言われて本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかったけど、「うん、そうだね」と笑って受け入れたという設定に変更する旨のプロット案を送信した。というのはドラマ化で必要不可欠な改変とは言えないし、変える必要のない部分をわざわざアレンジしてキャラクター像を変えようとしている。小学館側の報告書には日テレの報告書以上にやる必要のないアレンジ箇所がわんさか出てきて、飼っていたハムスターの逃走範囲を原作で100M以内だったのを200M以内に変えようとするとかの間違い探しみたいな些細な改変までやろうとして原作を尊重する姿勢がまったく見られない。小学館の報告書によると物語で重要なベリーダンスについてドラマ班が理解しないまま改変しようとして原作者が修正していて、それで原作者から最終通告が来る。・ 脚本家は今すぐ替えていただきたい。・ 最初にきちんと、終盤オリジナル部分は本件原作者があらすじからセリフまで全て書くと、約束した上で、今回この 10 月クールのドラマ化を許諾した。・ この約束が守られないなら、Hulu も配信も DVD 化も海外版も全て拒絶する。・ 本件脚本家のオリジナルが入るなら永遠に OK を出さない。度重なるアレンジで何時間も修正に費やしてきて限界はとっくの昔に超えていた。・ B 氏が間に入ったというのを信頼して今回が最後と思っていたが、また同じだったので、さすがにもう無理である。一方、2023 年 10 月に脚本家を変えるよう要望があったことは、今後のモチベーション低下につながるため、本件脚本家に伝えていなかった。そのため本件原作者が書いた脚本は本件脚本家にとっては突然見せられる形になった。と原作者の意向をAが脚本家に伝えなかったことがその後の脚本家のSNSでの原作者批判につながって、原作者と脚本家が対立したと思われる。原作者はAに対する不信を関係者に打ち明けている。・ A 氏は最初から本件ドラマについて改変ありきで進めていたのではないか疑問に思う。・ 1 話から 8 話までは自分が大変な思いをして修正したものであるのに本件脚本家の手柄にされており、自分が脚本として作った 9,10 話が駄作と言われているのが許せない原作者が危惧したようにAが「改変ありきで進めていた」のはその通りだったと日テレと小学館の双方の調査報告書からわかるし、Aがうそつきな無能で同一性保持権を無視してやたらアレンジしたがるせいで問題を引き起こしている。そのうえAが脚本家に詳細を伝えていないので脚本家は悪くないよというのが日テレの調査チームの結論のようで、85ページでは「脚本家はクリエイターであり、その尊厳は尊重されるべきである。同時に原作の改変において、最終的な責任は脚本家ではなく日本テレビ側にある。」と脚本家が被害者かであるかのように扱っている。その一方で日テレが原作者をクリエイターとして尊厳を尊重している様子はなくて、原作者が同一性保持権を守ろうとしている様子を「難しい作家」とわがままであるかのようにとらえているのは中立な見方とはいえない。それを言うなら権利を持つ原作者の意向を無視してまで改変することへのこだわりが強いプロデューサーや脚本家が「難しいプロデューサー」や「難しい脚本家」と呼ばれるべき存在である。●脚本家の問題日テレの調査報告書はAからドラマ化の条件を聞いていない脚本家は悪くないという風に誘導しているけれど、「作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変」をやりたがって、何度も大幅に改変して原作者に修正されることが異常だと理解していないという点では脚本家にも問題がある。だからこそ脚本家を変えろ、創作するなと原作者にきつく言われるほどこじれて対立することになる。そして一番の問題はInstagramに原作者批判の投稿をしたことで、調査報告書の38ページに脚本家の投稿について書いてある。② 本件脚本家の当時の心境2023 年 12 月 24 日の投稿については、「9 話の脚本をなぜ書かなかったのか?」という心配のメッセージが本件脚本家のインスタグラムに届いていたため、何らかの説明をしなければと考えた。その際、本件脚本家は、自分が体調不良やスランプなどで周囲に迷惑をかけたと受け取られるのは困ると思い、状況を書ける範囲で正直に伝えた。同月 28 日の投稿については、放送終了後、9,10 話を本件脚本家が書いたと誤解した視聴者から、本件脚本家に多くのメッセージが届いた。なかには物語の内容に不満を訴える声もあり、本件脚本家は再度自分が書いていないということを明確にする必要があると感じ、インスタグラムに投稿した。また、状況を鑑みて脚本家の権利として商習慣上「脚本協力」のクレジットが表記されるのが当然であり、日本テレビの対応を容認できないと考えていたため、2 度と同じことが繰り返されないようにという思いを書かずにはいられなかった。本件脚本家は、当時は何をどこにどう訴えても届かないことに疲弊し、精神的にも限界だった。不評だった9-10話の脚本を書いていないことを強調しているくせに、9-10話の「脚本協力」のクレジットの記載を要求するのは矛盾していないか。それに商習慣よりも契約や法律が守られるべきで、クレジットの記載を要求する根拠がおかしい。日テレの調査報告書は「本件原作者の死亡原因の究明については目的としていない」と書いてあるけれど、原作者が自殺するほど追いつめられる異常な状況になったことが問題なのだから、死亡原因の究明をしないなら調査する意味がなくなるだろう。この脚本家のInstagramの投稿が原作者の「1 話から 8 話までは自分が大変な思いをして修正したものであるのに本件脚本家の手柄にされており、自分が脚本として作った 9,10 話が駄作と言われているのが許せない」という感情を引き起こしてSNSで反論をせざるを得なくなって、直接的にしろ間接的にしろ自殺の原因になったと思われるし、たぶん世間の人もそう認識するだろう。調査チームはAをスケープゴートにして、脚本家は日テレの部外者だからこれ以上脚本家を追求しないつもりなのだろうか。この日テレの姿勢は一回限りの付き合いの原作者をないがしろにして、今後も付き合いがある脚本家をかばっているように見える。●原作者軽視の問題日テレの調査報告書の32ページの「(16) その他の原作サイドとのトラブル」の「③ Hulu の本件ドラマページのクレジットに関するトラブル」に「日本テレビ側のミスで Hulu の本体ドラマのキャスト・スタッフ欄に原作者の表記が一切されていないことが発覚した」とあるけれど、これは単なるミスでなくて原作者軽視の表れだろう。例えばもし有名な村上春樹の小説を原作にしてテレビドラマ化したなら原作者をこれでもかとアピールして表記を忘れることなんてありえないだろうし、芦原妃名子があまり有名でない漫画家だから原作者の名前を出したところで視聴者を集められないと日本テレビは原作者を雑に扱っていたのだろう。ウェブサイトの技術的エラーで他のスタッフについても記述がごっそり抜けていたとかならまだわからなくもないけれど、原作者だけスタッフ欄に入れ損ねるなんて普通はない。こういうところに人間の本性が出るし、リスペクトを欠いたミス(あるいは故意の嫌がらせ)をするドラマ班が原作者の言葉を真摯に聞いて原作を尊重したとは思えない。日本シナリオ協会が「緊急対談:原作者と脚本家はどう共存できるのか編」という動画で原作は大事だけど原作者には会わなくていいというような原作者を軽視するような発言をして批判されたけれど、調査報告書は84ページで「制作サイドは出版社の理解と協力を得ながら、できるだけ早い段階で原作者に直接会うことを要請する」を原則にすることを提言している。調査報告書を作った人から見ても脚本業界の原作者を軽視する態度は改善すべきだということになる。最近は生成AIが急激に進歩しているので、原作を改変することが脚本家の仕事だと誤解して変なプライドを持っていて原作レイプしたがる脚本家を起用するくらいなら生成AIを使うほうがましということになって、10年後にはオリジナル作品を作れないくせに原作者も軽視するような才能も仁義もない脚本家の仕事はなくなっていると思う。●契約の問題日テレの調査報告書の18ページに「脚本化の過程で本件原作者の了承がどうしても得られない場合は、本件原作者自ら脚本を執筆する可能性があること、これを実施すると、専業の脚本家の方に大変失礼であるので、予め了承を取っておいてほしいこと」について「言った」とか「記憶にない」とかの記述があるけれど、重要な交渉なのだからメールか契約書で確認とって証拠を残しておくべきだろう。この辺はテレビ局も出版社も普通の会社に比べて常識がない。「③ ドラマオリジナル部分の制作方法に関する問題」では65ページに日テレと小学館の認識の齟齬が書かれていて、 以上のことから、本件では、原作の上記「要望」が許諾の条件に等しいレベルの要望であったのか、それとも、単なる今後に向けた「お願い」だったのか、原作サイドと制作サイドの間で認識の齟齬が生じていた疑いが強い。このような認識のずれは、ドラマオリジナル部分に関する脚本制作に関し、スムーズで噛み合ったやり取りがまったくできなかった(その結果、本件原作者の不満が募った)原因になったと考えられる。とあるように、条件か否かでは扱いが全然違う。87ページの「2 ドラマ制作におけるトラブル回避のための方策」に契約書の早期締結が提言されているけれど、ふつうのビジネスなら当たり前の契約書の締結を今までやってこなかったこと自体がおかしい。89ページに契約書の秘密保持条項等にSNSの利用に関する条項を定型的に追加する提言もあるけれど、今まで秘密保持契約書を作っていないこともおかしい。外国のコンテンツ制作の契約書だとロケで出演者が滞在するホテルはどこにするとかの細かいところまで契約書に書いておくそうで、明文化することで契約に書かれていないことでトラブルが起きることを防いでいる。ドラマ制作を始める前に契約書で条件を詰めて、条件に同意できないならドラマ化をあきらめるのがビジネスとしての筋だろう。日テレに限らずに契約書を作らずに原作者との交渉が終わる前にドラマを作り始めるテレビ業界の慣習自体がおかしくて、辻村深月が『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化の脚本に納得できなくて許諾を取り消したらNHKから提訴された件とかが典型的で、許諾をもらう側がやたらと図々しい。しばしばテレビの常識は世間の非常識と言われるように、ドラマ班だけでなくてテレビ業界の体質事態に問題がある。小学館もおかしくて原作者の代理人として契約条件を詰めるべきところをやっていなくて、「難しい作家」を妥協させれば改変が通るとドラマ班に勘違いさせてしまっている。出版社もしばしば編集者が非常識な行動をして契約書なしで口約束で発注して原稿を納品しても無視して原稿料を未払いにしたり原稿を紛失したりして作家と揉めていて問題がある業界だし、テレビ局と出版社という契約を軽んじる連中のしわ寄せが原作者に来て多忙な原作者の時間を奪って精神的・肉体的な負担になっている。こないだ機会論について考えたけれど、どんな脚本家が担当しようが契約で縛ってしまえば改変する機会をなくせるので、原作者が望まない改変を防ぎたいなら契約書を作ることが効果的だろう。●今後の原作のドラマ化の問題 いうまでもなく、日本テレビは、著作権者にあたる原作者(ライセンサー)から、原作の利用許諾を得た上で、新たにドラマを制作・放送するライセンシーという立場である。もっとも、そうではあるものの、今回当調査のヒアリング等を通じ、制作サイドにおいては、原作を映像化するという作業の中で、原作を何ら改変しないことは基本的にないという考え方が標準的であることや、原作をもとに、どのようなエッセンスを加えれば、より視聴者の興味を惹きつけるドラマにできるか、という考えを少なからず持って企画・制作に当たっているということが分かった。これは、ドラマという映像コンテンツはあくまでもテレビ局の作品であるという考え方が根底にあるものと思われる。この点に関して、小学館 S 氏は当調査チームの質問に対して、あくまで個人の見解とした上で「ドラマ制作という一面だけを見れば、作家の先生や担当編集部、担当編集者はテレビドラマの制作者あるいは制作協力者ではない。作家の先生、担当編集部、担当編集者は、利用許諾者(ライセンサー)であり、監修者であるから、制作者側(ライセンシー)と必要以上に相互理解を深める必要はない」、「ドラマ制作者の意図や思いといったものは、作家の先生がそれらを受容可能か否かで判断されるべきことであり、双方協議の上、落としどころを調整するようなものでない」、「貴社に限らず、ドラマ制作者側は、ドラマ制作にあたり原作作品を改変するのが当然で、原作作品の設定やフォーマットだけ利用して、ドラマの内容は制作側が自由に改変できると考えているように見受けられた例が多数ある。…ドラマ制作者側のそういった意識の改革が必要」、「原作を利用する以上、必要最低限の改変とすべきだということをドラマ制作者側が認識すべき」といった回答をしている。と78ページに書いてあるように、「ドラマ制作にあたり原作作品を改変するのが当然」というテレビ局の考え方を改めない限りドラマ化を巡るトラブルは今後も起きうる。芦原妃名子が「難しい作家」だから起きた問題ではなくてテレビ局側が同一性保持権を軽視して必要最低限どころか積極的にキャラを崩壊させたがるところに根本的な問題があるのに、ドラマ班に終始その自覚がない。テレビ局はオリジナルのドラマを好きなだけ弄り回せばいいだろうに、オリジナルを作れないくせに原作を叩き台扱いして「ドラマという映像コンテンツはあくまでもテレビ局の作品である」とクリエイターぶる感覚がおかしい。テレビアニメでは漫画の原作を忠実に再現した人気作品が多いのとは対極的で、どうしてテレビ局内でドラマとアニメで原作の扱い方が全く違うのか不思議である。たぶんアニメは世間では無名な声優を起用して少ない費用で制作して深夜に放送しているのに対して、ドラマは有名な俳優を起用してアニメよりも多くの製作費を使っていて視聴率が高いゴールデンタイムに放送しているという驕りがドラマ班を増長させて、原作をブラッシュアップして原作を宣伝してやっているのだと原作者よりも立場が上であるかのように勘違いするようになるのかもしれない。日テレは調査報告書を出して終わりでなくて、調査報告書の提言を踏まえてこれから日テレがどう変わるのかを記者会見してプロデューサーたちが質疑応答しないと調査した意味がない。TBSは坂本弁護士のインタビュービデオをオウム真理教の早川たちに見せて情報源の秘匿というジャーナリズムの原則に反したことで批判されてワイドショーを自粛したように、日テレも何かしらの反省を示さないと出版社や作家からの信用は回復できないだろう。例えば年間のドラマ枠でオリジナルドラマと原作付きドラマの枠を分けてオリジナルドラマを規定数作った実績がないプロデューサーや脚本家には原作のドラマ化は担当させないようにしてゼロから作品を作る大変さや原作者へのリスペクトを教育するなりすれば安易に原作を改変しないようになるかもしれない。一朝一夕に日テレのドラマ班の態度が変わるとは思えないし、調査報告書のひどい有様を見る限り、日テレからのドラマ化を拒否したいと思う作家や日テレのドラマは見たくないという視聴者が多いんじゃなかろうか。
2024.06.03
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最近犯罪機会論というのを知ったのだけれど、犯罪学には犯罪機会論と犯罪原因論があって、犯罪機会論は犯罪者に犯罪の機会を与えないことで犯罪を未然に防止しようという考え方で、犯罪原因論は犯罪者の人格や境遇に原因があるとしてそれを取り除くことで犯罪を防止しようという考え方だそうな。犯罪機会論は例えば割れ窓理論で小さな悪を放置しないことで凶悪犯罪が起きにくい雰囲気にしたり、警察官が犯罪が起こる確率が高い所を重点的に回るホットスポット・パトロールをして犯罪者に犯行をあきらめさせるようにしている。人間に原因を求めずに機会に原因を求めてよくないことを防止する機会論という考え方は他の物にも応用できると思うので、徒然なるままに機会論について考えることにした。・無職機会論無職になることを未然に防止することはできないけれど、無職を続けたいと思う人の機会をなくすことで無職が長期化することは防げるかもしれない。ドイツだと市民金(日本の生活保護に相当)の受給者が働けるにもかかわらずジョブセンターの斡旋する就職を断り続けると補助が10%減らされるそうだけれど、低賃金の仕事と市民金の金額がほとんど差がないので10%減額されても市民金を受給する人が多くて、市民受給者の2/3が移民だそうで、働けるのに働かない移民のフリーライダーへの福祉が労働者の負担になっている。受給開始からの時間経過ごとに減額割合を増やして最終的に需給停止にしたり、就労したらすぐに補助を打ち切るのでなくてしばらく補助を受けながら働く方が所得が増えて生活基盤を作りやすくするなりしていけば、働けるのに働こうとせず無職のままでいる機会が少なくなるかもしれない。・ブラック企業機会論サービス残業とかで法律を無視するブラック企業がなかなか淘汰されないのは、労基の権限が弱くて監視の目が届かなくて違法行為が見逃される機会が多いせいかもしれないし、逆に言えば企業に対する監視がつよくなって違法行為をする機会が少なくなればブラック企業は減っていくかもしれない。個人だと履歴書の賞罰欄に刑事事件で有罪判決として確定した罰を書かないと経歴詐称になるけれど、企業も法的人格として疑似的な人格があるのだから、金融商取引法や不正競争防止法や労働安全衛生法とかで刑事罰を受けた場合は企業情報に賞罰を書くことを義務付けたり、社名を変えたときに旧社名を書くことを義務付けて悪い評判があっても検索逃れをさせないようにすれば、法人が組織的に不正をやりにくくなるかもしれない。工場や工事現場では作業の様子を監視カメラで記録して契約書と同様に最低2週間保管することを義務付けたら労災隠しや残業代未払いや労働ビザがない外国人の不法就労が少なくなるかもしれない。・交通事故機会論スピードの出しすぎや危険運転などの交通事故につながる行為をする機会をなくすことで交通事故を防げるようになるだろう。田舎はしばしば見通しがよくて信号がない道路でコリジョンコース現象が起きて相手の車が止まっていると錯覚して交差点で事故が起きるけれど、交差点をラウンドアバウトにしたら手前で減速する必要があるので事故を起こす機会がなくなる。北海道警察は一斗缶を使ったダミーのオービスを作って速度抑止をしていて、費用は本物の移動式オービスが1千万円かかるのに対してダミーは1000円で済んだそうで、費用対効果がよさそうである。ドライブレコーダーが普及してあおり運転をする危険な車をSNSで晒し上げしたり動画を証拠にして警察に通報したりしやすくなって、あおり運転をやろうとする人をあきらめさせてあおり運転が原因の事故を未然に防止できている。将来自動運転が普及して全部の車が機械で制御されれば、ドライバーの運転技術や体調とかの個人差は関係なくなるので、人間が運転するよりも事故が起きにくくなる。・読書離れ機会論最近は電車の中ではみんなスマホをいじってSNSを見たりゲームをしたりしていて本を読んでいる人はほとんど見かけなくて、本を持ち歩いてちょっとした空き時間の暇つぶしに読むという習慣さえなくなっているようである。本屋も経営が厳しくなって町の小さな本屋が廃業していて全国の3割の自治体には書店がなくなっていて、遠くの大きな本屋に行ったりしないといけなくて気軽に本を買いにくくなっている。そこで病院の待合室やバス停や道の駅やサービスエリアとかに本の自動販売機を置いて待ち時間や休憩時間に暇を潰せるようにしたら、本屋が身近にないがゆえに本を読まなくなる状態をなくせると思う。絶版への対策も必要で、もし興味がある本があっても絶版なら古本を探すのも面倒くさいし、絶版本の価格が高騰して買えないこともあるし、図書館に蔵書がある場合でもわざわざ遠くの図書館まで行きたくないので、すぐに手に入らないなら別に読まなくてもいいやと本への興味をなくしてしまう。図書館による電子書籍の貸し出しをやれば興味を持ってすぐに本を借りやすくなって、読書離れを防げるだろう。・恋愛離れ機会論男子校や女子校だと日常生活で異性と会う機会がないので、ふとしたきっかけから仲良くなって恋愛に発展していくようなイベントが起きない。共学でもいったんクラス内の人間関係ができあがると次のクラス替えまでは新しい出会いがなくなる。そこで学園祭や体育祭とかは近隣の学校と合同開催したり、部活で他校と合同練習したりしたら、人間関係が固定される機会を減らして新しい出会いを増やせると思う。企業だと席を固定しないフリーアドレスを導入すれば、普段話をしない人と隣の席になる機会が増えてそこから恋が始まるかもしれない。・病気機会論イタリアのブレシア大学医学部のルイジ・フォンターナ氏の研究チームによると、フライドポテトを週に2-3回食べると死亡リスクが上昇するそうで、トランス脂肪酸による動脈硬化やアクリルアミドの発がんリスクが原因の可能性があるようである。学術誌「ニューロロジー」には超加工食品(インスタント食品や菓子パンや加工肉や清涼飲料水などの乳化剤や保存料を添加して工業的過程によって作られる食品)の摂取が10%増加すると認知機能低下リスクが16%上昇して、未加工食品または最小加工食品を多く食べることは認知機能障害のリスクを12%低下させるという研究を発表した。フランス・パリ第13大学の研究によると超加工食品の割合が10%上昇すると全がんリスクおよび乳がんリスクが10%以上有意に上昇するそうな。こうした揚げ物や加工肉とかの健康に好ましくない食べ物に税金をかけると、小売りの値段が上がって摂取する機会を減らすことにつながって、生活習慣病とかの病気になりにくくできるだろう。例えばイギリスだと砂糖税があるし、イタリアだと加糖ノンアルコール飲料の消費に対する税がある。日本のたばこ税や酒税とかも有害な嗜好品の値段を上げることで摂取を控えさせるようにしている。日本だとやたらと入院を長引かせたりやたらと薬を処方したりする過剰医療が社会保険料の負担の増加につながっているけれど、病気にならないように予防できれば社会保険料の負担も減らせていいことづくめである。場所も機会と関連がありそうで、例えば家の周りや通勤の経路に高カロリーのジャンクフードの店が多い人は健康によくないものを食べる機会が多くなって病気になりやすくなるかもしれない。健康に悪影響がある食品を提供する店を撤去するわけにはいかないけれど、サラダなどの健康的な食事を提供する店よりはジャンクフードを提供する店のほうが不利になるように税制や条例で規制するくらいならできるだろう。たばこの包装に警告表示をするのも機械論的な考え方で、ジャンクフードも同様に広告や包装に健康に悪影響がある旨の警告の表示を義務付ければ買うのを躊躇して食べる機会を減らせるかもしれない。・詐欺機会論こないだ投資詐欺について考えたけれど、金融リテラシーが低い人は自分で投資や詐欺の手口を勉強しようとしなくてほいほい詐欺被害にあっているけれど、詐欺が起きた後で被害者の落ち度を責めたところで詐欺はなくならないので、詐欺師が詐欺をしにくくする仕組みにするほうが詐欺被害を防止しやすいだろう。寸借詐欺のような対面の詐欺に比べて、SNSの投資詐欺やロマンス詐欺や詐欺メールによるフィッシングや詐欺通販サイトはオンラインで完結していて詐欺師が身バレしにくくて逃げやすくて外国人詐欺師がわんさか現れるところに問題がある。前沢勇作がMetaを提訴して自民党にプラットフォーム規制を要望したように、そもそもSNSが詐欺広告を掲載しなきゃいいのに詐欺広告を通報されても放置しているのが詐欺の温床になっている。被害者が詐欺師の偽SNSアカウントや広告を知る機会がなければ詐欺を未然に防止できたはずで、被害が起きてから動く警察のやり方だと被害を防止できなくて被害が増える一方なので、政治の力で規制する必要があるだろう。検索結果の上位に詐欺通販サイトを表示するGoogleとかのプラットフォーマーの責任も追及して詐欺サイトや詐欺広告の表示数に応じて罰金を取るなりすればよい。広告を閉じる×ボタンの表示や大きさを規定して、広告を閉じにくくしたり広告だとわかりにくくしたりするのを違法にするとかでも投資詐欺広告に誘導させにくくする効果があると思う。あるいは広告主の名前の表示義務をつけてクリックしなくても広告主がわかるようにすれば、例えば有名人が投資を呼びかける広告なのに広告主が中国の企業だったらなんかおかしいと気づきやすくなるだろう。スマホやパソコンの機能を制限することでも詐欺対策できて、例えば広告をブロックするアプリやブラウザを使えば詐欺広告が表示されなくなる。・ペット遺棄機会論去年の落し物は過去最多で、落とし物として全国の警察に届けられた動物は2万5535匹で、犬が1万2722匹、猫が4382匹、鳥やカメなどのその他が8431匹だそうな。愛護動物を遺棄した者は動物愛護法違反で1年以下の懲役または100万円以下の罰金になるけれど、遺棄の現行犯逮捕や監視カメラとかの遺棄した証拠が残っていないと捕まえにくくて、目を離したすきにペットが逃げてしまって探していたとかの言い逃れをされたら遺棄したと証明できないので、罰則があったところであまり抑止効果がない。令和4年6月1日からブリーダーやペットショップなどで販売される犬や猫のマイクロチップ装着が義務化されていて、これは遺棄をした際の個人情報を割り出しやすくして遺棄を防止するのに効果的だと思う。しかしこれだけではブリーダーやペットショップから買わずに自家繁殖したり知人から子犬や子猫を譲ってもらったりした場合の遺棄を防げないので、動物病院で受信する際にマイクロチップの有無の確認と新規登録を義務付けて、マイクロチップがない場合は診療しないようにすればさらに遺棄を防ぎやすくなるかもしれない。あるいは新規にペットを飼うまでの手続きを面倒くさくすれば、ペットが欲しくなって衝動買いしたけれどすぐに世話に飽きて1週間で捨てたり虐待死させたりするようなパターンを防いで、面倒な手続きをしてでも本当にペットを飼いたい人だけが大事に飼うようになるかもしれない。・消費控え機械論エコノミストの永濱利廣によると、経済学者ギヴリアーノとスピリンバーゴの2009年の論文では若い頃(18-25歳)の不況経験が価値観に影響を与えることを米国のデータから実証的に明らかにしていて、その価値観はその後年齢を重ねてもほとんど変わらないそうな。クレジットカードでがんがん消費する傾向が強いアメリカ人でさえ若い頃の不況の価値観を生涯引きずるのだから、けちな日本人ならなおさら不況の影響は強いだろう。若い頃に第二次世界大戦を経験した日本人が戦後に地価が上昇して農地を売って金持ちになっても老後が不安で金を使わずに質素な生活をして数千万円のタンス預金を残したまま死ぬのが典型的である。就職氷河期世代以下の年代は若いころから30年間ずっと不況と低賃金と不安定な雇用の中で生計をやりくりしてきたし、政府がPB黒字化目標を掲げている限り給付金や減税の分は結局他の増税や社会保険料の増加で取られて意味ないと賢い国民は理解しているので、1回限りの10万円の定額給付金を配ったり1回限りの4万円の所得減税をするだけでは消費は増えないし、ましてや実質賃金が低下している現状ではなるべく金を使わずに安いものを求めて節約して将来に備えて貯金を増やそうとするデフレマインドの改善は難しい。若いころから豊かな生活をしてきて親のコネと政治団体の資産引き継ぎで金にも仕事にも困らない世襲議員には不況を経験した若者の価値観がわからないので、あまり効果のない経済対策ばかりやるのだろう。そこで単に実質賃金を増やそうとするのでなく、金を使ったら得して金を使わないと損する仕組みにすれば消費控えする機会をなくせる。韓国ではキャッシュレス決済をした人に所得控除をすることによって金を使うようになって、キャッシュレス普及率が96.4%になったそうな。日本だと特定地域で期間限定で使えるプレミアム商品券は現金で買い物するよりも得なので購入者が殺到するように、プレミアムを付けて使用期間を限定すれば期間内に確実に消費する必要があるので消費控えしなくなる。くら寿司で5皿寿司を食べるとガチャの景品がもらえる『ピッくらポン!』のように消費に対して非売品とかで付加価値をつけるやり方も効果的で、4皿食べた人がそこで満足して消費をやめずにせっかくくら寿司に来たのでついでにもう1皿追加で注文したくなるようになる機会が生まれる。インフレでタンス預金の価値が目減りしていくと、金利が低いうちにローンを組んで家や車とかの高額の消費をしたり投資したりして金の価値が目減りする前に使うほうが得するので消費控えする機会をなくせる。それゆえに緩やかなデマンドプルインフレを継続させることが消費と投資のサイクルを回すことになって経済成長につながる。・モンスター機会論本来はサービス提供者と客は対等な関係なのに、デフレ下の消費社会ではお客様は神様だと増長して自分を特別扱いするように要求して、些細なことで尊厳を傷つけられたと激高するモンスターを生み出してしまった。このような欲求が肥大したモンスターは違法ではないけれどサービス提供者のストレスになって社会を害している。中国の信用スコアは窃盗やローン未返済などの行動が信用スコアに影響するので、信用スコアを悪くしたくない人が好ましくない行動をする機会をなくしているけれど、学校の内申点も同様に進学の際の内申点を下げられたくなければ素行を良くする必要があるので、問題行動をしたい衝動にかられた生徒の脳裏に内申点がちらついて問題行動を抑止する効果がある。しかし内申点はあくまで生徒の評価であって親の評価ではないので、親のモンスターペアレント化を防ぐ効果はない。となると親に対するなんらかの評価基準を作ることがモンスターペアレント化を防ぐことになると思う。私立学校では幼稚園や小学校の受験で親の素行もチェックしてモンスターペアレントに育てられた素行が悪い子供が入学する機会を減らしていて、入学後に保護者と教師の争いや保護者同士の争いが起きることを防いでいる。東京都はカスタマーハラスメントの防止条例を制定する方針のようだけれど、違反者への罰則がないのでたいして防止効果はないと思われる。JR西日本グループはカスタマーハラスメントをする客への対応を中止するそうで、これはカスハラ客は自分を特別扱いさせようとしたらかえって不利益を受けるのでそれなりにカスハラ防止効果があるだろう。カスタマーサポートで通話を録音すると告げるのもハラスメント予防に効果的なように、言った言わないの掛け論にならないように交渉事には録音や録画を標準対応にすると、言葉尻を捕らえて相手を屈服させて謝罪や賠償を引き出そうとするモンスタークレーマーへの牽制になるだろう。・傍観者機械論日本財団18歳意識調査で「自分の行動で国や社会を変えられると思う」日本人は46%で、他の先進国よりも若者の主体性が低くて、日本では当事者意識がなくて不平不満を言うだけで選挙にも行かない人が大勢いる。これは主体性を育てない日本の教育の仕方に問題があると言われていて、子供のころからおとなしく授業を聞いて教師に素直に従うことが評価されて、同級生と喧嘩したとかの問題が起きたときに親や教師が口出しして子供自身に問題を解決させようとしなくて、ヘリコプターペアレントが子供に付きまとって口出しして子供が失敗するまえに先回りして助けて子供が失敗から学ぶ機会を奪うので、子供が当事者意識を持たなくて問題は親や教師が解決するものだという傍観者になってしまって、問題解決のために取り組んで自分で考える能力が育たなくなってしまうようである。そういう子供が大人になると自分で問題を解決しようとせずに相手がやってくれないことに対して不満ばかり言って感謝しないモンスターペアレントやモンスタークレーマーになる。事故現場でもスマホを構えて録画するだけの野次馬は多いけれど、率先して救急車を呼んだり救助したりする人は少ない。アメリカの大学では授業で発言することを求められるし、スティーブ・ジョブズは日本に来た時に会議でメモを取るだけで発言しない日本人に対して怒って退場させたそうで、アメリカでは意見を頻繁に聞かれるのでそもそも傍観者になる機会がない。その一方で恥の文化にいる日本人は間違いを恥だと感じるので正解がわからないことや間違っている可能性があることを言おうとしないし、空気を読んで周りと違う意見も言おうとしない。とりあえず自分の意見を表明しないことにはそれが間違っているかどうかの検証も議論もできないのに、何も言わずに周りの様子を見てから付和雷同するのでは課題に取り組む気がないとみなされても仕方がない。失敗や間違いは学習の機会だし、失敗や間違いは恥ずかしいことではなくてむしろ失敗が多いほどいろいろな事に挑戦する意欲があると評価するべきである。学校の授業で主体的に発言したり行動したりするほうが評価されるようになって、教師が生徒にやれと命令せずにどうしたいのか意見を聞いて自分で判断して行動するように促せば、様子見して傍観者になる機会が減って当事者意識を持つようになるだろう。創作では自分で主体的に考えて作らないことには作品は完成しないので、創作をするのも主体性を持つのによい。創作の授業は図工や美術だけとは限らなくて、例えば算数で教科書に書いてある問題で一番早く手を挙げて正解を答えた人を評価するのでなくて、各生徒が数式を創作して隣の人と交換して答えるとかのやり方でもいいわけである。小中学校の日々の授業で創作の機会が増えれば、黙って教師の言うことを聞いているだけの傍観者になりにくくなるだろう。
2024.05.27
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