草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2012年10月10日
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先日、急逝された知人のお通夜に参列し


11年前に築地の聖路加病院のホスピスで息を引き取った


妹の葬儀以来、初めての黒いネクタイを使用しました。考えてみると


私たちの存在は生まれた瞬間から、死と隣り合わせで生きている。



と言うより、死という深い神秘の闇にすっぽりと包まれて、まるで


死という大海の中を漂う本当にちっぽけな泡粒のように、儚く、頼りなく



寄る辺無く存在しているわけです。それを、殆どの人が普段は自覚せず


そんな存在だと言う事を全く忘却してしまったかのように、毎日を



あたふたと、せわしなく、何かに憑かれたかの如く生きている。何時







様に感じられはしますが、実は生そのものが死によって囲まれ、それ故に


瞬間瞬間を、死と戦っていると見ることも可能ですね。自覚はしていなくとも



生きている以上は、誰しも常に無自覚のうちに死を恐れ、迫り来る死の



「魔手」から逃れようと抵抗している。そう考える事も出来る。しかし


反面では、死は救いである。そう積極的に、肯定的に理解することも許される。



そう、医師から緊急に手術しなければ半年の命と宣告され、その手術を



自らの意志で拒否し、その後五年間生きながらえた妹にとっては、全身に



ガンが転移し末期癌の激痛と四六時中戦い続けていた、死直前の妹に



とっては正にその「突然の」死は救いそのものでした。いや、妹は死の間際まで


生き続ける、ホスピスから普通の健康体に戻って生還すると、心に


決めていた本人にとっては、まことに残念な「無念の」死であったかもしれない。







知らされ、現在の医療では手の施し様が無いと説明されていた者にとっては



一種の慰めであり、救いでもあった、確かに。かくして、生は死によって



シッカリと保証されている。こんなに確かな事はない。だから私達は



安んじて「死を忘却し」、余分・余計な煩いを排して、生の営みに



専念すればよい。死のことは、神や仏と言った「絶対者」に委ねきって







有難い事に私たちに許されている生のあり方なのですよ。今を完全燃焼



させればよい。余計な、自分達にはどうしようもない分野には、思い


悩んでも手の施し様がない、神聖な領域には立ち入らない、断じて。何故なら


神聖な場所には、そこを管理し宰領されている支配者が厳然として存在するのだから。


人間の分際を良く弁え、驕り昂ぶることなく、全幅の信頼を寄せればよい。



それによって、私達は生かされ、又祝福されても居るのだから。どうですか?


無駄な煩悩は、あなたの身内から綺麗さっぱりと消え去りましたか……。



死は恐ろしくも、忌み嫌うものでもありません。死は真の意味の救いであり


慰安であり、安住の場所なのですからね、その真実の実相自体は!



如何ですか?では何故死者との別れを悼み、悲しみ、滂沱の涙を流すのか?



ですって。それが我々の、人間の仕事であり、本当の務め、この世での


生きている証、生きている確かな証明、となるからですよ、きっと。涙


と言えば、最近、私・草加の爺はめっきり涙脆くなりました。何でもないことに



さえ予期せずに「不覚」の涙を流す。不甲斐ない、意識はそう感じるのですが


無意識はきっとそれを自然に要求しているのでしょう。体・肉体が傷ついた時に



血を流すように、心も涙を催す事で悲しみの「傷」を癒そうとするのでしょうか。


先日の葬儀でも、夫に先立たれた奥様のご挨拶の言葉を耳にした瞬間


思わず涙が零れていました。それまでは知人の死が実感出来ずに呆然としていたのですが。


死に対しても、明るく、積極的で前向きな解釈を施してみましたが、何か


ご異見等ありましたら、お聞かせ下さい。お願い致します。









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最終更新日  2012年10月10日 08時38分03秒
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