草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2013年12月05日
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 理解ということを考える際に、先ず最初にその

理解の対象として考えるのは自分自身でありましょう。もっとも

身近な存在である自分自身について、述べてみましょう。私は

現在70歳と数ヶ月をこの世に生を享けてから閲しているわけですが

正直のところ、未だに自分の事をよく分かっていない。完全には

理解できていない。恐らくはこの中途半端な状態のままで、遠からず

のうちにあの世に旅立って行くことになるのでありましょう。それは

それで止むを得ない事と半ば諦めながらも、出来る事なら、もう少し

自己の正体を突き止めてから、この生を終えたいとも望んでおります。



自分が古希を過ぎた「立派な老人」であることすら、殆ど忘れている。


 ―そう言ったら少し言い過ぎでしょうか、ともかく気持ちは彼らと同じような

錯覚を持ちながら、毎日を送迎している。これは一見極めて当たり前のようでいて

必ずしもそうではない。自分では「恵まれすぎている」と受け止めている。

漠然と、停年過ぎの老後の生活を想像していた時には、全く思いもかけなかった

幸せに遭遇している。全く自分自身の手柄などではない。誰に感謝したら

よいのか、良く分からないので、浅草の観音様にお参りする時には、感謝の

言葉を述べている。それも、並木の藪で御酒を飲むついでの参拝ですから

本当の信心からは程遠い、怪しからぬ見かけだけの似非信心者なのですね。

しかし、最近は神もしくは天からの間接的な「語りかけ」がはっきりと

感じられるように、自分としては理解しているのですが。本当のところは



説明や合理的な証明の仕様がないのですから厄介なのですね、こればかりは。

自己をよく理解するには、反省や自己批判などの自分自身と向き合う

時間を持つだけでは充分ではない。どうしても社会や、自然との係わり合い

を深め、様々な体験を重ねる必要がある。しかし、それにも限度がありますから

如何しても中途半端のままで、生を終える定めにあるのでしょう。それで



中途半端な妥協は排して、己に与えられた時間を有効活用する、活力有る


エネルギッシュな生き方を続けて行きたいと念ずる事、頻りである今日この頃

なのです。しかしそれは最後の悪あがきとははっきりと違うので、自己や

絶対を勝手気儘に「狭く」限定してしまう恣意を嫌う、本能的な意志のような

気さえしています。私の人生は、これからが本番だ。そう笑って楽しげに

言える老人が一人くらいいてもよいのではありますまいか!?











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最終更新日  2013年12月05日 13時42分16秒
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