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2014年04月28日
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 理解には自己理解と自分以外の人や社会、その他諸々の自然現象などを

理解するという二方向からの捉え方が、普通には考えられますね。普通に

「理解」とは、物事に接してそれが何であるか、何を意味しているのか、

を正しく判断すること。で、義務教育を始めとする学校教育や、社会人に対する

教育などでは、通常の家庭生活や社会生活が支障なく送れるような、極めて

常識的な知識や、判断力、行動の仕方などを教えますし、学ぶのであるます。

 ですから、その理解が正しく行われているかどうかは、日々の生活の中で

円滑に支障なく行動できているかどうかにより、検証され、試されており、

誤解などがあれば適切に矯正され得るものであります。が、一応その範疇での



表面上は、という但し書き付きであるますが。

しかし、よくよく考えてみますとこの常識的な理解の範囲内でさえ、理解は

考えるほど簡単ではないし、むしろ誤解や無理解が横行しているとさえ、言い得る

のですから厄介至極なのでありますね。第一に、同じもの・対象を見ていると言いましても

視点が違いますし、見ている人が違っている。対象そのものも刻々と変化してやまない。

同じ判断や評価を下しているつもりでも、いくら公平さを誇示したところで、前提

そのものが相違しているのですから、事は複雑そのもの。そして、各自が

各自の「正しい判断」を相互にぶつけ合うのですから、収集がつかなくなるのは

当然の成り行き。現在の世界情勢などをざっと見渡した場合でも、同様な

事態が進行しているのが明瞭に見て取れますね。







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最終更新日  2014年05月01日 07時54分17秒
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