その日は、晩春の麗らかな日差しが、山の斜面を穏やかに照らしている、五月の
ことであった。珍しく一人の案内者も、お供も連れずに、西行が出羽との国境に近い
山中を、徒歩だちで歩いていた時のことである。
付近の薄暗い木立の奥から、十数人の屈強な若者達が、風の如くに出現した。手に手に
山刀などの武器を携え、有無を言わさずに西行を捕え、忽ち荒縄で雁字搦めに縛りあげると、
丸太に吊るして山奥に向かった。いかにも山賊どもが棲み着きそうな、大きな洞穴の前の
広場に、焚き火が真紅の大きな炎を上げて、燃えている。その近くの湿った地面の上に、
西行は乱暴に、どさりと頭から投げ出された。眼から火花が出るような痛みに、顔を顰めながら
頭を擡げると、首領らしい年嵩の男が進み出て、
「都から来た、藤原家の縁故の者だという、坊主と知って、頼みたい。藤原の館に拉致された
我らが女房や娘共を、我らが元に返すよう、基衡・秀衡父子に談じ込んで貰いたい。返答次第では
お主の命が無くなることを、念頭に置いて答えるがよい」
意外と分別のありそうな、落ち着いた声である。西行が黙していると、男は更に言葉を継いだ。
「我らは以前、藤原家の家臣として仕える、侍であった。我らのうちに中央の役人に反抗する
気配を察知した基衡・秀衡の両人は、我らの妻や娘を人質として、その動きを封じ込めようと
図った。しかし、役人が去った今も尚、我らの忠誠心を疑ってか、人質を解こうとしない。
我らは、我らの信義の為に遂に旧主人に、反旗を翻す決意を固めた。が、逸早く藤原方に先手を
打たれ、持てる居城の悉くを焼き払われてしまった。今こうして山野に臥して、中央政権の手先に
堕落し果てた藤原一族に、弓引く機会を狙っておるが、人質に獲られている妻子の身が案じられて、
思うような動きが出来ない。聞けばお主も以前は歷とした、武人であったそうな。武人としての
我らの苦衷を汲んで、協力を願いたい」
「断る。拙僧は浮世を捨てた身、浮世のことには、いかなる事情があろうとも、介入いたさぬ
所存じゃ。お手前、武人と申されたが、真の武人とは礼節を重んじるもの。お手前達の如き
無頼の徒に、既に信義を云々する資格はなかろう」
抑えようのない強い怒りの感情が、西行の胸に漲り溢れ、全身をわなわなと震えさせていた。
相手の眼に殺気が迸り、自分の身内を、冷たい戦慄が走り抜けた。その刹那、西行は自分が死ぬ
ことをほぼ確信していた。その時、彼の心はふしぎな落ち着きと、冷静さを取り戻している。
その平静な心の表面に、少年の頃の死に瀕した折の、あの懸命な思いが鮮明に、蘇ってくる…、そして
あの碧い瞳の少女の、仄かな、青白い顔が一瞬、浮かんで消えた。あの時の死の恐怖は、彼を
この世で最も美しく、魅力に満ちた存在へと導いたが、今回のそれは、果たして何を齎そうと
しているのか?…男の醜く歪んだ顔が、凍りついた如くしばらく変化を見せなかったが、やがて
口の隅に皮肉な冷笑、ともつかぬ表情が現れた。
「お主と儂(わし)の、いずれが生きるに値するか、神の託宣とやらを、占ってみるとしよう」
男は傍らを振り返ると、顎をしゃくって何事か、手下に合図したようである。気が附くと、西行の
後ろ手に縛られた縄が切られ、目の前には、鈍い光を放っている、重量感のある偃月刀が、投げ出さ
れている。と、鋭い、空気を裂く音が、頭上で起こっていた。西行は反射的に身を躱す。拍子に、
右の足が焚き火の薪を蹴散らし、火花と灰が、空中に舞った。次の瞬間、男の二の太刀が西行の
肩先を目掛けて、切り落とされていた。今度も西行は炎の側の地面にのけぞって、辛くも切っ先を
逃れたが、第三、第四の厳しい攻撃は、もう間近に迫っている。その時西行の脳裏に、あの少年の
日の恐怖が、再び掠めた。野党の群れを遁れて、必死の思いで走る自分の姿が、絵の様にまざまざと
見える。生きねばならぬ、生きねば…、何としてもー。ただ闇雲な生への執着と激情とが、西行の
全身を衝き動かしていた。無我夢中で、足元近くに投げ出されてあった偃月刀を手にすると、男の
振り下ろした太刀をがっきと受け流し、返す刀で相手の胸元を払っている。
落雷を受けた際に立木が発する如き、凄まじい手応えであった。男は口からは一声も発する
ことなく、その場に崩れ落ちた。その後も、無我夢中であった。呆気にとられた様に立ち竦んでいる
手下達の表情に気付くゆとりはない。四方からの襲撃を警戒して、西行は血刀をしっかりと握り締めた
儘、周囲を素早く見回すと、一番手薄な方向を目掛けて、ジリジリと後ずさりし始めた。
西行の動きに連れて、近くに虚けたように立っていた数人の者が、道を開いた。西行は、後も
振り返らずに、走りに、走った。自分の後を追ってくる人影が全くないことを知ったのは、一体
どのくらいの走ってからで、あったろう…。やがて細い渓流に出た。氷の様に冷たい水が、熱く
渇した喉に沁みた。その時初めて、自分が人を殺めた事を、自覚した。自分が生きる為、万止むを
得ずに為した行為だが、出家の身が殺人を犯したというのは、やはり痛切な心の呵責を伴う…。