草加の爺の親世代へ対するボヤキ

草加の爺の親世代へ対するボヤキ

PR

プロフィール

草加の爺(じじ)

草加の爺(じじ)

サイド自由欄

カレンダー

フリーページ

2016年08月22日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類





 西行は天龍川の渡し場での出来事を思い出していた。

 あれは今度の長途の旅のまだ始めの頃のことであった。自分自身の躯を、意識的に

痛めつけたい、加虐的な衝動に駆られて、何日もの間馬にも船にも乗らず、歩きに

歩いて、丁度あの天龍川の畔りに辿り着いた時には、心身ともに疲労困憊の極に達し

ていた。頑健な体力を誇っていた西行としては、稀な状態であった。岸近くに立って

河の流れを見詰めていると、一艘の渡し舟がゆっくりと、近づいて来るのが目に入った。

いつもなら、この様な渡し舟には、乗ろうとする気さえ、起こらなかったであろう。路銀

には不自由していない彼は、漁師などに銭を与えて小舟を誂え、ひとり静かに川を渡るのが



舟に乗り込んで、半時ほど待つ間も、さほど苦にならなかった。渡しの中が九分通りいっぱい

になって、船頭が出発の準備を始めた時、一団の百姓上がりと見える侍達が、酒の酔いで

顔を銅色に染めてやって来た。舟着き場に立ち、やおら舟中を見渡していたが、西行に

眼を止めると、

 「そこな乞食坊主、我らが乗船の邪魔である。早々に下船致せ!」

 中のひとりが言い出し、直ぐに他の者達も大声で、喚き始めた。西行は半分眠りかけていた。

最初は、何を叫んでいるのかも、気に止めなかったし、何度めかに、自分の事を言っているのだと

気づいてからも、全く無視し切っていた。あと五六人乗り込むだけの余地は、十分にあったからで

あるし、第一、田舎侍の酔漢から、無法な指図を受ける筋合いは更々ない。放って置けば、諦める

であろう、くらいに考えていた。所がずかずかと乗客を掻き分けて近づいて来た一人が、西行の襟首

をむんずと掴むと、その儘舟の外に引き擦り出そうとする。むらむらと燃え上がろうとする、怒りの



穏やかに襟首に掛かった手を払うと、自分から進んで舟から降りた。そのふてぶてしい態度が更に

酔漢達の癇に触ったのであろう、一人が腰に差していた刀の鞘で、西行の眉間をしたたかに打ち据え、

別の二人が左右から西行の腰と、背中のあたりを蹴上げていた。

 船頭も乗客たちも、ただ恐れ戦いて、この一部始終を見守っているだけ。その気配を背後に

察しながら、西行は静かに立ち上がった。生暖かいものが額を伝わって、目の中にまで流れ込んでくる。



いわれのない恥辱に耐えることが、遁世者の勤めなのだ、と。

 あの場合には、生命まで奪われる危険は感じなかった。只、無頼漢の無法に黙って耐え、己の

感情を抑えてさえいれば済んだ。少々の肉体的な苦痛など、精神的な屈辱の思いに較べれば、物の

数にも入らないこと。が、今度の場合は事情が根本から、違っていた。いきなり生命の危険が、

現実社会の生々しい要求とともに、我が身に突きつけられたのだ。彼らの要求が、それ自体、仮に

筋が通ったものだったにもせよ、絶対に聞き入れることの出来ない、性質のものであった。僧侶

西行としてではなく、出家以前の佐藤義清として彼らに対面していたなら、彼は山臥し共を相手に

戦わねばならぬ、立場にあった。いずれの場合にも、どちらかの命が犠牲にならずには、済まされない

問題であった。

 一旦出家してこの世を捨てた者は、現実世界の無法に接した際には、命までをも無意味に捨てねば

ならぬ存在なのか?

 南都の荒法師や、叡山の山法師達が、現世の権力集団として猛威を揮い、屡々暴力に訴えて

現実問題の解決を図っている事実を、西行も知らぬわけでは無い。が、それは少なくとも大義名分

としては、末法の荒廃し盡くした濁世に、正義を守り、仏法の正しい精神を護持する、便法と

してのみ辛うじて許されているので、断じて行為そのものが無条件に認められる事を、意味しては

いな筈。だが、考えるまでもなく、暴力の極限は殺人である。便法にもせよ、仏法の為にもせよ、

殺人は、殺人であろう。それが、理性の上から許されようとは、今の西行には、どうしても考え

られない。しかし、今日の場合、彼は一体どのように行動すれば、良かったのか?

 むざむざと死ぬことは、決してできない。意味のない死、犬死が、彼の出家の結論であるとすれば、

世を捨てる行為とは、一体全体、どの様な価値を有するのか…、或いは、犬死に何か特別の意味合いを

見つけなければ、ならないとでも、言うのであろうか…、やはり、あの場合、ああするしか他に

仕方がなかった。そう観念するより、道は無いようである。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016年08月22日 16時58分04秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: