草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2018年07月02日
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第 三百十八 回 目

 私の俳優論の四回目です。蛇足ですが、これは新提案の「音読を楽しもう」の会に野辺地の人々を

勧誘するのが主たる目的ですが、その他の方々にも大いに参考になるに相違ないと、自負する人生論

も兼ねていますので、是非とも熟読玩味の上で、毎日の生活にお役立ていただけるなら、これに過ぎる

幸いはありません。兎に角、私自身は真剣そのもの。私・草加の爺がこれまでの人生で学び得た人生の

エッセンスを全部が全部、余すことなく開陳し尽くしたいものと、衷心より念願いたして微力を傾注いた

しますので、どうぞご愛読の程、重ねてお願い致しておきます。


 さて、俳優・役者になるには何が一番に必要なのか? 答えはいたってシンプルですよ。決して

他人の真似をしない事。これに尽きています。原理や理窟は何時の場合でも簡単そのものなのですが、



三日と持たずに諦めてしまう。そうと、相場が決まっている、十中の八九と申したいが、十人いれば

十人に限りなく近い人が、その様になってしまう。横道に逸れて、安易で惰弱な性質に適した方向に、わ

れ知らず舵をとっている。


 何故なのか……? 大体が人生を舐めてかかっているから。子供は親の背中を見て育つと言いますが、

その親からしてふやけた根性しか持ち合わせていないから、子供も自然に感化を受けて、安(易)きに就

く生き方を選択すると言う意識もなく、無意識に選択している。これが、先ず世間の相場と言うもの。


 おい、待てよ! 草加の爺さん、随分と偉そうな御託を並べてくれるじゃないか。お前さんは、一体

何様だと言うのだ。お前さんだけは例外だ、とでも言うのかい。―― こんな例によって例の如き御叱正

の厳しい声が飛んで来そうです。私は答えて申します。経験者は、語る、と。


 私の「偉そうな物言い」は謂わば「神の目線」から見た場合の事を申し述べるのでありまして、断じて

私自身が僭越至極にも「上から目線」で、あれこれ論評するものではありませんので、くれぐれも誤解




 次に大切な事、これも同様に言葉にしてみれば簡単なように思えるが、なかなかどうして簡単どころの

話ではない。つまり、自分自身と正しく向き合い、それを少しづつ日々に高める。或いは徐々に深めて行

く。すると何が起こるか? 自他ともに人生が楽しくなり、言葉の正しい意味での向上心が生まれ、益々

自己と正対する作業に熱が入る。すると、益々生きることが楽しく、周囲の人々との連帯感が、絆が

強くなり、いよいよ益々生きる意義が大きく広がる。こうして、正のスパイラルが精彩を放ち、この世が



信念とそれに伴う強靭な意志の力が必要であり、段階を経て高みを目指さなければ、挫折が、失敗が

悪魔や、時には天使の誘惑として訪れ、忘れ去られることになる。人生の陥穽、エアポケットがいたると

ころで待ち受けていて、私たちを苦しめ続けるから。


 「 言うは易く、行うは難し 」、人生の大事などと言っても、この平易で簡単な言葉に尽きている。

大体の君子が、まことに変わり身が早く、君子豹変すで、大部分がそこそこの所で「大成」してしまう。

女性、淑女の場合にも全く同様の事が言え、真の大成など思いも及ばない、実に悲しいことに。


 頑固一徹の大ばか者、虚仮の一念を押し通す大うつけ者、「大物の」たわけが世には中々出てこない。

本当に悲しむべきことでありますよ、実際のはなしが。皆が皆、小悧巧を目指す末世・濁世においては

尚更なのです、ああ!


 以上で俳優として、また、まっとうな人間として生きる上で最低限必要な心得は、全部申し上げまし

た。あとは、それを生かして如何にして実践し、鍛錬を継続して行くか。その実践方法であります。とに

かく上手下手は度外視して、実践にこれ努めていただくしか手はないのですが、それでは余りにも冷淡に

過ぎ、少しく邪険、意地悪とみる御仁も少なからずいらっしゃると愚考致しますので、一般論としての

平均的で無難なアドバイスを、可能な限り具体的に述べることに致します。

 本当は、実地に際しては、具体的な個性に則して、適切に助言するやり取りなり、コミュニケーション

のプロセスが必要、且つ、不可欠なのでありますが…。これは教育、学習の上での生徒との接触に際して

と、全く同様なのでありますが、隔靴掻痒で、当方としては歯痒い思いが頻りなのですが、この際は致し

方御座いません。

 私は「他人真似をするな、自分と向き合え」と申しましたが、俳優としては第一歩を踏み出す時に、

素直に自己の地(じ)を曝け出しなさい。自分の欠点を恐れるな、と言いたい。いわゆる良い声でなくと

も構わないので、兎に角、普段着の声と調子で、自分自身に語り掛けること。そして、自分が発した声音

(こわね)に謙虚に耳を傾ける。もし、耳障りに聞こえたら、どうしたら耳に少しでも快く響くか、工夫

を凝らしてみる。トライしてみてください。

 イージーで簡単そうに見えるけれども、自分と無縁な「猿真似」は厳に慎むべきであるが、逆に有効に

利用でき効率よく活用できるものは、徹底して取り入れる、貪婪とも言えるほどまでに。そういう姿勢も

大切でありましょう。自分を客観的に見つめ、評価する能力。それはそのままで、他者を冷静沈着に

把握することに直結している。

 この辺の見極めに際しても、自己との向き合い方、欠点や短所を含めた己の特性を、日頃どれだけ深く

掘り下げることが出来ているか。それが物を言う。

 例えば、感じの好い言い方とはどのような調子なのか。その反対は…。逆に、実に意地の悪い物言い

とはどのような物なのかに注意を集中していれば、意地の悪い人も、自分に貴重な教えを知らせてくれ

る、恩人と化すであろう。自己の心掛け次第で、世の中の空気も変化して感じられる。先方を指図して

自分の思うように動かしたり、考え方を改めさせたりは出来ないが、こちらの工夫と心掛け次第では、

思いも掛けなかった宝物の発見が、思わぬ場所に待って居たりもする。セ ラ ヴィ! この考え方を積

極的に推し進めて行けば、地獄も極楽も思いのまま、大魔術さながらに不思議の連続が、眼前に展開す

る。あーら、不思議、まあ、驚いた、なのでありますね、たちどころに。

 要するに、音読やセリフの発声を訓練する段階では、自分の心の中心に届く、琴線に触れるにはどのよ

うにしたらよいのか。この一点に注意を集中すればよい。これが基本中の基本であり、完成地点のゴール

でもある。あとは、この技術の応用で、さまざまなバリエーションが無理なく展開できる。そういう次第

であります。徹底して、目標を目指して一直線に突き進む。進んで、進んで、また進む。本当は、完成も

ゴールもない、人生に完成が無いと同じように。

 もし、演技に完成があるとしたら完全燃焼した時々の瞬間的な「花」としての開花と結実だけ。しか

し、それを実現した暁には、さらなる美しい大輪の「華」を咲かすべく、新たなるスタートが切られる必

要が生まれる。そして更なる高みへと、人々と共に歓喜の直中に飛び込む「義務」がある。人として生ま

れたからには、人として見事な死を迎えるためにも。

 ―― 風よ吹け、うぬが頬を吹き破れ。いくらでも猛り狂うがよい。雨よ降れ、滝となって落ちかか

れ、塔も櫓も溺れ漂うほどに! 胸をかすめる思いの如く速やかなる硫黄の火よ、槲(かしわ)を

つっさく雷(かみなり)の先触れとなり、この白髪頭を焼き焦がしてしまえ。おお、天地を揺るがす

烈しい雷(いかずち)、この丸い大地の球を叩き潰し、板のごとく平たくしてしまってくれ。生命の

根源たる自然の鋳型を毀(こぼ)ち、恩知らずの人間どもを造りだす種を一粒残らず、うち砕いてしまう

のだ! ( 沙翁作 の 「 リア王 」より )

 この絶対的なリアの怒りの叫び声を、一体誰が、どの様な名優が完全に、完璧に表現し得ようか。

恐らく、リアルな人間には、血の通った私たち人間には表白は不可能でありましょう。しかし、俳優には

それが許されている、たとえ名優でなかったとしても。シェークスピアという天才の傑作と言う土台が

しっかりと根柢の所で支えてくれているので、安心して、彼の能力の及ぶ範囲で、精一杯の演技力を

発揮しさえすれば、それで事足りるのであります。

 次に福田恒存の解説から引用しておきます。『リア王』はシェイクスピア悲劇の最高峰である。のみな

らず、この作品においてシェイクスピアは彼のみが書き得る、紛れもなく彼自身の刻印を持った悲劇を

書いたと言える。これを書いていた時の彼は、他のいかなる悲劇詩人の目も届かなかったほど深く世界の

核心に入込み、その秩序の崩壊と、引続いて起こる醜怪な不条理の様相とを、まざまざと眼前に眺めてい

たのである。これに較べれば、ギリシャ悲劇の最高のものすら影が薄くなる。アイスキュロスやソフォク

レスにおいてさえ、作品の裏側で常に理性が神々の世界と取引きをしていないか、その帳尻(ちょうじ

り)が必ず零(ゼロ)になるような安定感に支えれれていはしないか。この作品の主題は、第一に親子の

間の愛情と信頼に関わるものである。そして、第二のそれは虚飾の放棄である。リアは言う。「必要を

言うな、如何に賤しい乞食でも、その取るに足らぬ持物の中には、何か余計な物を持っている。人間、外

から附けた物を剥がしてしまえば、皆、貴様と同じ哀れな裸の二足獣に過ぎぬ」と。

 それから又、―― 花のいろは 移りにけりな いたずらに わが身よにふり ながめせしまに (

小野 小町 ) この絶唱を、この最高度に理知的に構成された名歌を、どの様な女優が如何に技巧を

凝らせばと言って、説得力ある表白が、独白が可能だと言えるでしょうか? 絶対的に不可能でありま

しょう。が、しかし、女優たらんとする者には、それが仮に女形(おやま)であったとしても、この

人間技では不可能事にチャレンジする資格が、少なくと許されている。理由は「リア王」の場合と、全く

おなじでありますよ。つまり、作品そのものが、傑作の持つ独自性が自己のユニークそのものの作品世界

を保証しているから。どの様な凡手であっても、カタルシスは自ずからに達成される。そういう物、そう

いう性質の物なのであります、表現の持つ「目出度さ」というものは…。





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最終更新日  2018年07月03日 09時57分26秒
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