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2018年11月09日
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第 三百八十五 回 目

 以下の文章は私が野辺地の町の人々に向けて趣旨を説明する機会に恵まれた場合の、防備録

として纏めたものであります。参考にして頂けたなら幸いであります。念の為に申し添えますが

これは万人に向けた行動白書としても、利用可能ですので、御一読願いたいと切に念願いたします

ので、どうぞ宜しくお願い申し上げる次第であります。 


 なぜ今、野辺地なのか? 音読読み聞かせの会 発足の呼び掛け


 通常の 予算 を使わずに、潜在している 資源 の有効活用を図るのは、一体何故なのか…。

 東京や大阪といった大都会には大勢の人々が集まり、溢れかえるような盛況を呈している。それ

に反して地方の田舎は寂れる一方です。中央政府の内閣も夙(つと)に地方創生を声高らかに唱え



決め手を欠く感がぬぐえません。焼け石に水、自分達の所までは乏しい予算はとても廻っては来な

い。そうした絶望や焦燥が強く人々の上にのしかかっている。

 自分達の事は自分たちで解決せよ。地方創生とは所詮、天はみずからを助ける者をしか、助けな

い。そう駄目を押しているに過ぎないでしょう。

 そこで、地方に何があるか、野辺地町に一体どのような可能性と未来の発展に向けた、明るい道

筋や展望が許されているか……?!

 野辺地には様々な資源が眠っています。豊かな自然環境、緑豊かな山々と多様な魚介類を育み育

てる広大な海・陸奥湾。そしてその土地に密着した伝統ある味わい深い文化。人々の優しく奥床し

い、温かな心根とニュアンスに富んだ言葉と。

 今回、よそ者としての私・古屋が着目しているのは、方言の醸し出す魅力と、人々が生まれなが

れに身に備えている優しい心根であります。それだけ、なのであります。



善意の奉仕精神さえ得られれば、万事は O K です。嘘ではありませんで、その後も序でに申し上

げれば、ほんの少し奉仕精神を持続して頂ければ、全て上手く運ぶに相違なく、少なくとも金銭的

な面での心配は皆無でありましょう。

 そんな莫迦な、そんな上手い話がある筈がない。世の常識はそう言いますが、そうなのです、こ

の計画は常識外れの話には違いありませんが、現在ただ今世に蔓延っているペテンや詐欺の類と



 第一に騙す意図もありませんし、騙される筈もないことです。最初から最後まで徹頭徹尾に堅実

その物ですし、嘘や偽りなどが入り込む余地は全くないのですから、ご安心下さい。

 原理は単純明快ですし、その効果は即座に万人が実感し、即時に証明可能ですから、疑いや不審

の入り込む余地もありません。

 そこで、原理とは何かについて最初に御説明致しましょう。古代に 手かざし という原始的な

治療法、つまり癒しのテクニックが広く活用されていました。 手あて とも言い、手当つまり治

療の語源ともなっているごく手軽で、誰にでもそれこそは子供にでも利用可能な「手軽な医療行

為」であります。

 これを身体ではなく心、精神、魂に応用する。その場合に手ではなく言葉を使用する。つまり、

心の中の患部に「翳し・当て」て健全な状態に戻してあげる。私達の内面にある心理面の軽い癒し

効果を意図的、意識的に行い心の健康と平安とを維持・強化する。これが本質的な目的であり、目

標であります。

 そして、身体の場合には手を使ったわけですが、心には言葉を使います。但し、その場合に言葉

は心の内部の軽度の痛みや疵、炎症などに有効な「工夫され、洗練された一連の詩句・散文」を用

います。ただそれだけの違いしかありません。そしてヒーラー・治癒する者としての人(俳優・役

者)が治療を受ける側の人(観客・見物人)に可能な限りの温かな気持ちを込めて言葉やセリフを

発語する。この一事が決め手であり、非常に重要な要素となります。

 ですから、私達の目指す新しいコンセプトに依る読み聴かせやセリフ劇では、読み手や役者はプ

ロである必要性は全くありません。むしろ、稚拙でたどたどしい素人の方がより相応しいとさえ、

言い得る。弁舌爽やかで立て板に水の如くに澱みなく話す人には、人の真実の心、優しさや温かさ

が籠りにくいためであります。

 しかしながら、町興しという目標を実現させるためには、その素人集団の中から、それを生業

(なりわい)とするプロフェッショナル・職業人が登場することが、是が非でも必要なのでありま

す。が、それは追々考える事として、当面は誰にでも可能な素人の「手当人」が一人でも多く名乗

りを上げて頂く事が、今後の展開を容易にするという点で、重要かと思われます。

 しかし、と人は用心深く警戒するでしょう。その目的が仮に素晴らしい目的に役立つとしても、

それだけでは、私達はこれまでしていなかった新しい活動や行動を、自ら進んで積極的にしようと

は思わないし、思わない事に意欲的に参加するのは難しいし、それを継続させるのは猶更に困難で

ありましょう。

 御心配には及びません。私達はどんなに無口な人であっても生まれながらに言葉を発して、生き

て行く習性があるし、生活の必要上からも会話して相互の考えや欲求を伝達し合う、生活習慣を維

持する必然があります。言葉を発する事自体はごく自然な事であり、特別な事柄ではありません。

 そして発語してみれば直ぐに解ることですが、言葉を発する行為は健康増進に役立つばかりでは

なく、それを継続すると非常に楽しく、愉快なことであることが納得出来る筈です。それも一人の

例外もなく。

 それが自分一人の楽しみや満足の為だけでなく、他の人の役に立つ、更にはその心の癒しや治癒

に貢献し延いては、広く世の為、他人(ひと)の為に大いに寄与する重要な行為に無理なく繋がっ

て行くのですから、喜びや遣り甲斐はいやが上にも大きくなろうと言うもの。

 ここで、話はちょっと飛躍するように感じられるかも知れませんが、非常に大切な点に触れさせ

て頂きましょう。つまり、この音読や読み聞かせ、そしてセリフ劇に発展する一連の活動が目指す

所は、申すまでもなく野辺地の町起こしなのですが、その最終的な目標は日本中はもとより、世界

中から人々を招き寄せる爆発的な起爆剤にする事にあります。その際に、新鮮な魅力あふれる有用

なセリフ劇公演を中心にして町全体が真心からのホスピタリティー精神を発揮して、ゲストを迎え

入れ歓待することであります。

 町の人々の温かな心と、そこから発する衣、食、住、自然環境の全ての要素に工夫を凝らした持

て成しの在り方が肝要であります。全ての面での、隅々にまで神経を通わせ、行届いた用意の万端

なのであります。それでこそ、画期的なコンセプトに基づく「癒しの町」が本当の意味で成立する

のでありますから。

 今の時点では、この程度にととどめておきますが、この最終の目標に向けた町民の意識改革に関

しましては、音読・セリフ劇活動と並行して説得力のあるアピールを、継続して辛抱強く行う必要

もあるでしょう。一見して、気の遠くなるような青写真のように感じられるかも知れませんが、そ

うではありません。

 一旦取り掛かったら一瀉千里、心を一つにする事さえ出来れば、それこそ一息で理想は達成出来

る。不可能を可能に変えるのは私達の心次第なのであります、本当の所。

 私がこのような文章を書いているのは野辺地の人々を説得する目的ではありません。もし説得と

いう事を言うのであれば、その説得すべき第一の対象は私自身でありましょう。私は劇と野辺地の

町興しを結び付けて考えた時に、直観的にその成功を確信しました。ただ迷っているのは、確信が

無いのはそのプロセスや手順に関するものだけなのであります。ただし今では、それも迷いの霧が

晴れつつあります。つまり神様の言う通りに、という一事によって。私は絶対的に目に見えない手

によって守られています。

 ですから迷ったり、心配する事など少しもないのです。その時点でのベストを尽くすこと。それ

だけなのです。

 自分が今の時点で出来る最善と思われることを専心に行う。機が熟せば自ずから熟した実が樹か

ら落ちるように、自然にその時が向こうからやって来る。そう信じる事が出来た今日この頃なので

あります。

 ここで少し話題の方向性を変えてみようと思います。私は今度の音読並びにセリフ劇での役者や

俳優には誰でもなり得る、特別な資質なり条件は無い、ただ発声する言葉・セリフに人間としての

温かさなり、優しさを込めればそれで十分なのだと、主張致します。ここは俳優論・役者談義を

長々と開陳する場所ではありませんので、ごく手短に端折って、誰もが素朴に抱くであろうと想定

される、疑問に添う形で述べることにしましょう。

 もし仮に、全くの初心者がこの度の話を耳にして、何となく興味を惹かれたので、何の経験もな

い自分に役者のような真似事が出来るのだろうか、と考えたと致しましょうか。

 それに対して私は即座に次の様にお答えします。大丈夫です、特別な事は何も必要ではありませ

ん。普通に「人様の為に何か役に立ちたい」というボランティア精神さえ取り敢えず発揮して頂け

るのであれば、と。

 皆さん方はきっと私の答えに違和感を覚えるかも知れません。何故なら世間で通用しているドラ

マや劇ではスターやらアイドルと呼ばれる美人やイケメン男性が登場して…、と言うような先入観

念を持っておられるからです。それはショーとして見せる物としての従来型のそれであり、私達の

提案する新しいコンセプトによる物は似て非なる物と、ひとまず考えて頂いた方が解り易いかも知

れませんね。

 そもそも劇や芝居の本来の形、或いはオーソドックスな在り方を考えた場合には、私達のこれか

ら展開しようと考えている方が本式なのであって、世間で通常行われている物は邪道だと此処では

正直に言い切っておきましょう。

 つまり、芝居や劇が行われる場所・劇場に於いては、主役と呼ばれるべきなのは平土間や桟敷席

にいる観客であるべき筈のものなのです、本来は。それが様々な事情によって歪(いびつ)で片寄

った形態として発展を遂げ今日通常行われている形に定着した、のに過ぎないのですよ。ですから

私達の新提案は何のことはない、芝居や劇を本来の形に戻そうという、極めて正常そのもののパ

フォーマンスであり、表面的な奇を衒った怪しげなまがい物などでは断じてありません。

 従って、舞台上で真の主役を、観客を本当の意味で盛り上げ、サポートする役者や俳優側は自己

の正しい役割を弁えた行動とセリフ廻しを、本質から考え直し演じる必要があるのです。

 こう述べて参りますと、ますます役者なり俳優の存在が難しく、困難な仕事をこなさなければい

けない様な印象を受けるでありましょうか。ドントウォ―リィ、御心配は御無用。ただ、本物の人

間であるように心掛ければよい、そう申し上げましょう。役者修行、俳優修業とは結局、人生を正

しく人間らしく生きる事に直結している。その意味で難しく、奥が極めて深いと言い得るでしょう

が、特別な事柄ではありません。何故なら私達は各自の人生を現に、そのように生きているのであ

りますから。

 そして、役者・俳優としての極意を一言に要約して申せば、自分らしさを最大限に与えられた役

に籠めて演じる。この事に尽きる。人生という舞台でも私達は神から振られた自分と言う役柄に、

真摯に向き合って誠実に生き切る、それだけが真に求められている様に。人真似ではない、自分ら

しさの追求だけが真実に求められている。それもフィクションの上では、王様から乞食まで、性別

を越え、通常のキャラクターの枠を逸脱して、殺人者から偽善者はもとより、極悪非道な独裁者、

卑劣な裏切者から清浄無垢な聖者まで、およそ人間がなり得る限りのタイプになり切ってパフォー

マンスする「特権」を与えられてもいる。一人一代にして極限最多の人間性を体験し尽くす神業を

も、可能性としては取得できる、そうした一種特別な立場が役者・俳優の役割であり、特性でもあ

る。

 セリフについても一言。上手であるよりも、温かさや優しさを言葉に込めることが肝要です。言

葉を大切に発声して、意味が相手に伝わりやすいように心掛ける。これだけが肝腎要のポイント

で、その他の事柄は枝葉末節に類することにしか過ぎません。

 最後に残るのは、慣れる事であります。最初は誰でも大変と感じるかも知れませんが、案ずるよ

り産むが易しという言葉の教えの如く、慣れが全てを解決してくれます。安心して、取り敢えず

最初の一歩を踏み出してみることです。その後の事は、神様がお守りくださり、お導き下さいま

す。心配御無用、さあ、及ばずながら不肖私も全力を尽くし、お手伝いさせていただきますので、

さあ、さあ、どうぞ!





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最終更新日  2018年11月09日 14時56分50秒
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