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2018年11月15日
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第 三百八十六 回 目


      ――  天才喜劇役者・渥美 清の光と影  ――


 「 捨てられて 」 ( 詞:鈴木紀代 )

  でもね あの人悪くないのよ  噂信じた私が悪い  そうよ一人に なるのがこわくて

  尽くしすぎて ささげすぎて捨てられたの  /  どんな愛でもいい すがれるものなら

  どんな愛でもいい やり直せるなら  でもね帰る部屋は 部屋はもうないの  だからだか

ら 今夜はつき合ってよ  /  でもね あの人憎めないのよ  ひどい男というのはやめて

  そうよ 悲しい嘘がなければ  あの人よりやさしい人いないはずよ  /  どんな愛でも

いい つめたくされても  どんな愛でもいい そばにいられたら  でもね 大事な鍵も 



  ものなら どんな愛でもいい やり直せるなら  でもね 帰る部屋は 部屋はもうないの

  だから だから今夜はつき合ってよ

 ご存知の通り、長山洋子の往年のヒット曲です。私もこの曲に惹かれた一人ですが、男なら大概

こんな風に女性から下手に出られたり、甘えられたりしたら黙っては居られなくなる筈ですよ。

ただし長山洋子程のいい女だったら、という条件が付きますが。これが酷いブスだったりしたら

忽ちに興ざめしてしまうでしょうけれども。( ここで、私としては言い訳をしておかなくては

いけないという気持ちに襲われますので、一言だけ弁解させて下さい。私は男として女性に所謂

ブスなる形容に適合する人は居ないと、固く信じている者であります。この事に関しては以前に

一冊の本にするくらいの分量を書き連ね、私の意見を述べて居りますので、極めて簡略に表現する

だけに留めます。つまり、ブスという言葉に附き合えばその女性は人間ブスなのであって、女性と



ように御作りになられたのだから、であります。では、先を急ぎましょう )絶世の美人でなくっ

てもちょっと見が可愛くて愛嬌があれば、一晩くらいなら附き合っても構わないか、という気分に

なるでしょう。しかししかしです、大勢の男達から文句なくちやほやされるセクシーな美人と

いうものは、なかなかこの歌のように下手には出てくれない。そうと相場が決まっている。だから

彼女の存在価値が謂わば低い所で、低止まりして、見る目を持った男から不当に侮蔑されたりも



のパートナーに恵まれる彼は、大体において成長が、人間としての成長が低い所で停止してしま

う。

 ここからが最初に掲げた 渥美 清 論の主題に入ります。彼も役者として自分を売り出すから

には恰好いい二枚目をやりたかった筈であります。しかしながら、彼の持って生まれた風貌が、

風采がそれを許さなかった。反対に、極端な三枚目を演じるにはうってつけ、と世間の非情な

視線は彼に教えたし、聡明なことに於いては人後に落ちない田所康男は悟るのだ。アホな役柄を

演じて人々の笑いを誘う、これ以外に自分がスターへの階段を駆け上がる道はない。そして彼は

車寅次郎というはまり役でスターダムの頂点に上り詰めた。巨万の富と同時に国民的な人気者と

しての地位を不動のものとできた。

 同時に、その反動というか、大きな見返りが要求されていた。フーテンの寅イクォール渥美

清というジレンマなのだ。私自身俳優の経験はないし門前の小僧として数十年を、芸能界の人々

の身近にあって生活してきた 岡目八目 的な観点からすれば、人に笑われて人気稼業とするのは

ある種人間技を越えた途轍もないエネルギーを必要とするようで、とても傍目に見る「気楽な稼

業」などと嘯いていられる、生易しい業ではないようであります。ずばり神業に近い所業だと断じ

ておきましょうか、少なくとも天才と呼ばれる程の名人上手にとっては。

 国民栄誉賞に輝いた天才人気役者・渥美 清はまさにその典型でありました。私とてあの晩年

の映像記録を見なかったなら、あれ程の孤独地獄が輝かしい栄光の陰に色濃く浮き彫りされていた

事実に気付かなかったでありましょう。田所康男の賢明さと、その彼の聡明極まりない所業が結果

した虚構の栄光の蔭での、巨大な孤独と塗炭の苦しみ、砂を噛む様な空虚さと。このジレンマ、矛

盾、真空の矛盾、煩悩そのものの煩悩、人間存在そのものに発した暗黒の虚無…。

 彼の境地は、荒野に叫んだ狂気寸前のリアの怒りと悲しみに酷似していたと、敢えて断言しよ

う。更に言えば、救世主と称されるイエスキリストの対極に置かれた、ピエロとしての負の、

余りに悲し過ぎる「救いの人」であった。人間の身で、誰が一体よくこの業苦に耐え得ようか…。

 そうです、少なくとも生身の人間には不可能なのですね。男からも女からも文句なく愛され、

憧憬と羨望の眼差しで見られる恰好いい二枚目俳優には、逆立ちしても理解出来ない惨めで侘しい

限りの悲哀が、零下百度以上の凍える孤独の痛さ侘しさの極みが身を苛む。それはもう想像を絶し

た心の寒さそのものなのですから、堪ったものではありません、実際の話が。

  私は何故に今頃になって亡くなった喜劇役者の話を持ち出したのか、それは落語家が解り易く

その例を示しているように、語りと言う芸の力が笑いを呼ぶには最も重要だと言う事を示したかっ

たからにほかなりません。医学上の最新の研究成果である免疫キラー細胞の増加現象を持ち出す

迄もなく、笑いが精神や肉体に及ぼす良い影響は、過去の経験的なデータからも伺い知ることの出

来ていた重要な事実でありますが、この笑いを取ることは役者個人の技量に負う所が非常に大きい

のであります。台本の構成やセリフ回しだけではカヴァーし切れない要素が大なのです。つまり天

才型の役者の出現に頼らざるを得ない。

 どうしたらよいか? ただ辛抱強く待つしか方法はありません。相互に切磋琢磨を繰り返しなが

ら、その時期を待望しながら、根気強く待つのです。天才は、不世出の喜劇の名人上手は必ず生ま

れて来る筈なのですから。そして、この段階を迎えたら人材を野辺地以外から募ってもよい。無論

外国人であっても一向に構いません。国技と呼ぶ大相撲でハワイやモンゴルその他の諸外国から

助っ人を呼び、発展に貢献を仰いでいる例がありますからね。

 天才的な喜劇役者待望論は謂わば最後の仕上げに属する事で、それなくしては私達の考える本当

の意味のセリフ劇が成立出来ないという意味合いでは、決してありません。相撲の例を挙げた序で

に言えば、横綱や大関の存在は大相撲全体の華と言えますが、関脇以下の関取や幕下から序の口

に至る力士の全体が、大相撲と言う組織を構成する大切な要素をなしている事実と同様に、役者

や俳優を志し人々に貢献しようと言う人々全体が、重要であり、社会全体として待望されなければ

ならない大切な役割の担い手である事に、間違いはないのであります。

 又、事の序でに申せば、大相撲が神事に始まりその伝統を受け継いで発展を期する物であるなら

ば、これから新たなスタートを切るニューセリフ劇もまたその中心に神事の部分を蔵して居り、

それを大切に継承発展させる事で、人類全体への基礎的であるが故に極めて重要な寄与が期待され

る大事業なのでありますね、実は。

 皆さんも御存知の如く相撲の原理はシンプルそのもの、土俵と呼ばれる円の中で廻し意外は身に

付けない力士同士が勝ち負けを争い、勝負の決着をつける。原理原則は単純にして明快ですが、内

容的には極めて多彩にして、内容豊富でありますね。それはまるで人生その物を象徴するかの如く

であります。その極意も、押さば引け、退かば押せ、が基本でありながら、突き押し、投げ、打っ

ちゃり、すかし、掬い、ひねり、足技などなど多岐にわたりますし、土俵上での勝敗は一瞬にして

決まる場合が殆どなのですが、日頃の絶え間ない血の滲む様な厳しい鍛錬と修行がそれを支えてい

る。実に、実に奥が深いのであります。まさに伝統的な日本文化の精華であり心髄の名に相応しい

存在であります。

 新たにスタートする私達のセリフ劇も、この大相撲に追いつき追い越せ、いやいや、可能性と

しては数倍ものスケールと重要性を秘めているどころではなく、明瞭に顕在化させてもいる、間違

いなく。心と肉体とは密接なつながりによって結びついて居り、どちらが主体でどちらが客体と

いう区別もありません。健全な身体があってこその健康な精神ですし、逆もまた然りであります。

どちらから入っても行く着く先は円満なる生命体そのものであり、活力に溢れた魂の十全な在り方

であり、その豊富なエネルギーの放射活動でありましょう。

 そして何事でも基礎や基本の所が肝腎であります。放置しておくと知らないうちに病気や障害に

発展しかねない、未病状態の些細なストレスの残滓を取除き、延いては我々の人生を根柢の所で

保証してくれる、そしてまた、明日への新たなエネルギーと活力、喜びを齎す素晴らしいエンター

テインメントとしてセリフ劇を育て上げる意義は、どれほど強調しても強調し過ぎと言う事はない

筈です。それが今、私達の目前に準備されているのです、さあ、皆さん方もどうぞそれぞれのお

立場でご協力と御支援とを惜しまないで下さい、どうか。

 それから、今回の冒頭に何故わざわざ渥美 清の例を持ち出したのか、ということですがそれは

こういう理由でした。つまり、従来型の芝居や劇の在り方ではこの様な悲劇は、起こるべくして

起こった実に痛ましい悲劇でありますが、我々の目指すセリフ劇ではあり得ない事です。主役たる

観客も、そしてその真の主役を支えるドラマを演じる役者の側にも、健全な成長と自然な発展だけ

が保証されているウイン・ウインの関係だけが存在しますので、「犠牲者」が出る要素は皆無なの

であります。その事実をアピールする目的で、具体的な解り易い例としてお話させて頂いた次第で

す。





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最終更新日  2018年11月15日 11時48分16秒
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