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2019年02月08日
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第 四百二 回 目

 愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ  あなただけを 死ぬ程に

 愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ  ねてもさめても ただあなただけ

 生きているのが つらくなるよな 長い夜  こんな気持ちは 誰もわかっちゃくれない

 愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ  あなただけを 生命をかけて


 いつから こんなに いつから こんなに あなたを 好きになったのか

 どうしてこんなに どうしてこんなに あなたの為に 苦しいのかしら

 もしもあなたが 居なくなったら どうしよう 私一人じゃ とても とても生きちゃいけない

 愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ 生命をかけて  生命をかけて 生命をかけて




 此の世に大勢の人々が居て、男と女が居て、誰もが思春期を迎える頃から恋心を覚えて、例えば

上に示したような気持になる。しかし、百人百色と申しますが、その同じ内容を表現するにも実際

には百通りの表現が存在し、人間が人間であることを止めない限りは、無数の 言い方 が存在

し続ける、に相違ない。

 そこで、私流の俳優論であります。これまでの有名俳優は自分自身しか表現できなかったし、そ

れで十分と、自他共に割り切って存在した。

 しかし、理想のセリフ劇における俳優・役者・演戯者・表現者はまるで違う存在としてある。彼

や彼女は自己は勿論のこと、人間の全てを 演じ分ける ことが要請され、その可能性を不断に開

発・開拓する努力を惜しみなく継続する必要がある。仮令、上手や下手があったとしても。

 何故なのか? 人間であるから、と一先ずお答えして置きましょうか。何故山に登るのか、と

訊かれて「そこに山があるから」と答えた人を真似ているようで恐縮ですが、難し過ぎて俄かには



 私は「上手な俳優」は必ずしも必要ではないと主張しています。何故でしょうか? この質問

に対してなら即座に返事が出来ます。

 所謂巧みな俳優の演技は、上辺の、見せかけのテクニックにしか過ぎない。従ってそれは対象

となる観客の目や耳や頭脳などに訴えるかも知れないが、人の心、その琴線には触れて来ないも

の。肝腎要の魂に響いてはこない、残念ながら。人間の全存在を根柢から揺さぶり、震撼させ、強



 それでは俳優はどうしたらよいのか? どうにも出来はしない、自分達だけでは。観巧者の、

「観客」の達人との「奇跡」に近い出会いの瞬間を待たなければ。

 そうです、劇の場でも、いや、劇の場だからこそ人と人との真の意味の出会いが、それを敢えて

「心と心の結婚」と呼んでもよいのだが、真実の表現者と真実の鑑賞者とが間違いなく出会い結ば

れる純粋にして無垢な結びつきの瞬間こそが、待望されて然るべきなのだ。

 しかしながら、こうした理想の出会いはそう簡単には実現できない。表現者と鑑賞者とのたゆみ

ない不断の努力こそ、それこそが必要とされる。どちらか一方だけでは完成しないものだから。だ

からこそ尊いのであります、それ故にこそ又、有難く、勿体無いものなのですね、実際に。

 よくこれからは A I やロボットの時代で、人間の出番が少なくなる、そう言った事が多くの

人の口から聞かれる。仕事の大半もそうした強力な新戦力に取って代わられる、とも。

 そうした予測が的を射た物なのかどうかという問題は、ここでは一応棚に上げて置いて、話を

先に進めますよ。劇・芝居・ドラマだけは人間でないと駄目なのですね、絶対に。ロボットが

俳優を演じ、ロボットが観客として劇場に居る図を想像して下さい。究極のホラーではありません

か、まさに。今の儘で行くと人間の行為・行動は全てロボットの類に置き換えられて、全ての血

の通った人間が抹殺される未来が、容易に予想される。清潔で、合理的で、非の打ちどころのない

完全な未来。正に現代人が無意識の裡に志向している天国の実現! この究極の合理性を纏った

真性の狂気を匡(ただす)のも劇の重要な役割のひとつでありますが、本当に理解して頂けるので

しょうか? ここから後の事は、まさしく神仏に祈りを奉げるしか私達にはなす術がない。

 モーツアルトは「死は、人間達の真実にして、最上の友人だ」とする考えに狎れ親しんでいた、

らしい。モーツアルトの真意が那辺に在ったかは別として、今の私には極めて健全な考えだと素直

に首肯できる。死という海に戯れる光という名の魚群。果てし無く無限に広がる闇の中で無邪気

に、無心に遊戯してまた闇の中に姿を没する有限の輝きの美しさ、いとおしさ、かなしさ…。天才

モーツアルトの音楽をそのように受け止めてみようか。最高の人間賛歌だと褒め称えよう。

 そして、私達の目指す セリフ劇 も同様にそのように美しく、健全であることを理想とする。

男と女とが出会い、別れ、愛憎を繰り返し、そして様々な死を迎える。その実人生という舞台を

より一層輝かすべく、私達は劇と言う素晴らしい祝祭の場を準備しよう。進んで仮死を演じよう、

健康で明るい新しい人生を新たに構築する為に。

世の中に平和運動と言う名前で呼ばれる一連の行動があります。何もしないでいるよりは幾分は

有効だし、第一当事者の気が紛れる。そんな風に割り切っていられる御仁は、まあよしと致して

おきましょうか。私の如き小心者はそのようなレベルでは気も済まない。で、セリフ劇の構築に

残りの人生を傾注する、たとえ余計なお世話と毛嫌いされたとしても。おっと、あまりに性急に

先を急ぎ過ぎてはいけない。劇や演戯の話に戻りましょう。

 男女の別がある。動物にはメスとオスの違いがあり、植物にも雌雄の差異が見られる。プランク

トンにも動物性と植物性がはっきりと分かれている事からも明瞭に認識出来るように、原始状

態の生命体は、たとえばアメーバ―に例を採ればメスやオスの違いどころか、動物・植物の差異も

なかった。単一の微小な命が分裂を際限も無く繰り返して、命のバトンを、D N A を伝達して今

日に至っている、らしい。だから「進化」というような概念を忘れてしまえば、単一であることが

生命の本来の在り方であるらしい。

 それが環境との折衝・折り合いを付ける中で、一旦は両端に別れる方が戦略上で有利と見てプラ

スとマイナスに分裂した形態を擬装した。しかしより高次の生命体としての「延命」を演出する

為には両端の結合が、合体が要請される。これが有性生殖の仕組みであります。

 この原理を劇の特性に則して置き換えてみましょう。もともとは同一である人という同一の単位

が、観客と俳優という役割を担って「劇場」という空間・時間の中で「結婚」する。新しい健康

で活力に溢れた人として、「劇と言う仮の場」から出て来る。観客はもとより、俳優も。

 劇場という架設の場所で人々は一体何を得るのか? 癒しであり、心の平安であり、明日を元気

に生きる上での新たな活力なのであります。これは人にだけ出来る特性でありますから、人という

唯一の資格さえ備えていれば O K なわけです、原則としては。

 扨て茲で、ちょっと途中下車してみることにします。私は劇の本質を説明して思わず知らず「結

婚」と言う言葉を口に出した。それは生物的な観点からすれば延命、つまりは究極として「永生」

を目的とした実に遠大な野望であったとも、言い切ってみました。

 そうした視点で以って昨今の結婚の在り方に、少しばかりメスを入れてみようかと思うのです。

勿論、永生を夢見るなどとは愚の骨頂だ、くらいの皮肉は当方も心得て居ります、しかし、否定の

為の否定はナンセンスであり、反語と同様に否定はいつの場合でも肯定を強め、強調する手段で

なければなりませんよ。

 つまりは、こういう事ですね。われわれ人間は生物の一部であり、その生の直中にある者が例え

ば人生などくだらない、永生を願うなどとはもっと下劣だ、と切って捨てたとする。結構、大いに

結構であります。結論は至極簡単でありまして、即刻に生を、生きるのを止めるに如くはないので

すから。哲学論争などという無駄口を叩いていないで、即刻「死の海」に身を投げ入れてしまえば

よいのですからね。これは冗談などではない、全くの大真面目な話なのであります。

 話を続けましょう。永生こそは人類共通の切ない願望であり、それは既にスタートを切った時点

で解決済みの事柄でもあった。いや、とんでも無い、一体何処に「永生」があると言うのか、何処

にも一度だってそんな例は無かったではないか。頭を冷やして、冷静になって判断してもらいた

い。個人のレベルでは確かにそうだ。だが、考えてみてくれたまえ、最初から、そもそもの生命

の始めから生命は一部、部分としての永生を断念して、全体としてのそれを実現しようと志向し

た。そしてものの見事にその願望を果たしてのけた。見事の一語に尽きる。

 しかし、何十億年が経過して遥かな子孫の末端に連なる者のほんの一部に、愚かにも己一身の

永生を願う悲願を、是が非でも実現したいと、途轍もなく無謀極まりない野望を抱くたわけ者が

現れたりする、愚かにも…。

 取り敢えず、否定やニヒリズムは健全な肯定を前提とした場合のみ、有効で意味が認められる。

わざわざ仏教を引合に出すまでも無く、これは自明でありましょうから、再び結婚の話題に戻り

ます。

 結婚とは個人のものであって、実は人類全体の存続の為の、社会的な仕組みであり、制度でもあ

る。その様に前提して、考えるのが正論であると思われる。もっと俯瞰して広く範囲を広げれば

動植物を含めた生命体全体の中で、結婚を捉えて見るのが至当であろう。また、一国の一時代だけ

の在り方だけではなく、様々な地域の様々な時代の結婚に関する生態・制度も参考にして、然るべ

き筈のものであろう。少なくとも、個人主義が根本に於いて強く、鞏固に信奉されている現状に

あって、その「乱れ」や「諸問題」を考察し、それを正しい方向に振り向けるにはどうしたらよい

のか、を判断する場合には。

 このように理窟をこねてみた私の意図は、と言えば簡単至極であります。女性の「男性化」現象

に物申したい、ただそれだけのこと。但し付け加えておきますが、男女同権に異議を唱える訳では

ありません。女性にもっとチャーミングさを取戻して貰いたい。その一言に尽きるのであります。

 暴言を吐きますよ、そもそも日本では歴史始まって以来、すくなくともその底辺部分では女性が

社会をリードして来ている。天照大御神、卑弥呼に代表される如くに農耕型の母系社会が根柢に

ある我が国では「女性上位」がずーっと続いて来た。そして太平洋戦争後、急激に家庭内での女性

の影響力が弱まったせいで、様々な問題が芋蔓式に発生するようになった。非常に粗雑な管見によ

る社会史でありますが、私が最も問題視したいのは、女性が馬鹿な男共の真似をして自らの魅力を

かなぐり捨てた、事であります。

 因みに申し上げますが、私の幼時から知っている女性達は皆一様にチャーミングでしたよ。母親

、妹、姉、姪など、これに亡妻が加わりますが、とも角も皆が揃いも揃って魅力あふれる存在だっ

た、文句なく。

 要するに、女性も男性も、全員がチャーミングになって欲しい。そして素敵な人生を謳歌して

頂きたい。その思いを セリフ劇 に託したい、セリフ劇にはその様な偉大な潜在力が、ポテン

シャルが無尽蔵に秘められている。そう申し上げたい。





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最終更新日  2019年02月08日 09時24分02秒
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