草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2019年05月04日
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第 四百三十 回 目

 これからは A I が重要視され人間が人間らしさを発揮できる分野が次第に狭められ、人間とは何か、人

間らしさとは、その人間らしさの本質とは一体何なのかが、厳しく問われるようになる。それは間違いの

ないことのようであります。

 単なる能力という点では、譬えば将棋ではプロを超える A I が既に出現しています。人口的に作られた

人間のような知能ということですから、様々な人間の能力の内で、ある特定の分野だけに限定して、その

優秀性を競うと言う事になれば、人間の能力を遥かに超える A I ・人口知能が出現しても不思議はありま

せん。

 そうした現実が既に存在している。すると、人間とは、その本質とは何かを真剣に追求しないわけには



 これは飽くまでも私・草加の爺個人の私見・管見にしか過ぎませんが、優しい心を持っているか、愛情

溢れる暖かな魂を持っているか否かに、結局は行き着くのではないでしょうか。

 そこで、私たちのセリフ劇との関連で、この問題に考察を加えて見たいと考えます。

 私はセリフ劇の場で一番に重要なのは、心と心の通い合いだと申しました。上手いとか下手とかの技術

的な面は二の次、三の次とも主張して来ました。この演技の巧拙だけを問題にすれば、将来 A I 、つまり

人口頭脳の方が上手(うわて)であるという事態は容易に想像出来るで有りましょうが、人間の心や魂

を持たない人口頭脳には不可能な、人間だけに許された行為・行動がセリフ劇の本質だと、極めて明確に

定義出来るのであります。

 この極めて人間的な理想の行為・行動であるセリフ劇と真摯に、心を込めて真正面から向き合い、お互

いを元気づけ高め合う事が出来るとしたら、私たちにとってこれに勝る幸せは他にないのではないでしょ

うか。



述べてみたいと思います。勿論、御縁があって野辺地の地域活性化に微力ながら、貢献出来たらという

気持ちが第一なのですが、これは同時に私・草加の爺の人生の総決算でもある。つまり、何よりも私個人

の為になる活動でもあるわけでして、また不遜と聞こえるかも知れませんが、現状ではその役割を果たす

者としては最適任者であると自負もしている。

 そして又、町の方々の意向を無視して、一方的に押し付けるような考えは少しもありません。町の方々



うな良好な関係を基本に、活動を展開させて行く。主体は飽くまでも当事者である町の人々の側にあり、

私はサポーター役に徹する覚悟であります。つまり、予め私の或る目論見のようなものがあって、それに

向けて強引に引っ張っていく様な事は、何も考えて居りません。

 唯、楽しいことで、しかも役に立つ、その上に財政的な負担もない。良いこと尽くめの嘘のような事を

提案し、サポートしたい。掛け値なしで、これだけの気持ちであります。

 人口頭脳という人間のあり方を考える上で非常に参考になる便利な道具の急激な発達を目の前にして、

最も人間らしいセリフ劇に真剣に関わり合いを持てることは、非常に有意義なことだと自然に感謝の気持

ちが湧いてくるのを感じてもいます。

 さて、このブログをお読み下っているお方は既にご存知の如く、私は既に自分で出来る範囲で野辺地で

のセリフ劇構築の準備を開始して居ります。音読や読み聞かせに必要な台本候補の発掘であり、それから

発展させた寸劇・コントのそれであります。先ず、野辺地の人々が必要としている、或いは現在只今の時

点で興味や関心を寄せて頂ける可能性のあるものを、自分なりに模索しながら試作している段階です。

 しかし振り返って反省すると、私たちは自分が本当に欲している対象を、全部が全部意識できている訳

のものでもありません。逆に、無意識に望み、意識しないけれども実は強く待望している何物かが、数多

く存在する筈なのです。それを野辺地の人々と一緒に開拓し、より明確な形に育て上げる事が出来るとし

たら、それ以上に素晴らしいことはないでしょう。是非、そういう方向に進んでいきたいものと、強く念

願します、強く心の底から。

 私は前回と前々回に近松門左衛門の出世作「出世景清」をセリフ劇の台本用にと、翻案してみました。

どの様に演出したら良いのかの問題は残りますが、作品から受ける感銘は強いものがあり、時代が変わり

従って人々の価値観や考えが大きく変化した今日では、同じ人間として、同じ国土に生きる者の一人とし

て主人公の景清に共鳴し、感動する部分が大でありました。同じ運命を共にした同族の平氏に寄せる強烈

な思い、愛する妻や子供への情けの在り方、又、恩讐を超えた人間同士としての頼朝との友情、自己の

生き方に対する責任と決着の取り方など、ドラマティックな要素がふんだんに盛り込まれていて、ゲスト

を飽きさせないでありましょうし、カタルシス効果も抜群だと感心しました。

 そもそもがフィクション・虚構の世界ではどの様な事でも許されます。現実には叶わない夢や憧れが容

易に手に入ります。但し、それが人に感動や感銘を与えるか否かは、自ずから別の事になりますね。表現

が優れたカタルシス効果を齎す為には、夢や憧れが実現するだけでなく、それに伴うそれ相応の代償を

支払う必要があります、必然的に。

 代償と言うと大袈裟に聞こえるかも知れないが、端的に言えば別の夢や憧れを断念しなければならな

い。同時に二兎を追うことは許されないから。しかも、その行動なり生き方に明瞭な筋が通っていて、美

しいと感じたり立派だと思わせるものがないと、いけませんよ。その点では現実と少しも違いがないの

かも知れません。

 悪は悪なりに、善は善なりの筋道がきちんと通っていない限り、ダメなのですから、やはり現実社会で

も虚構の世界でも難しい物は飽くまでも、難しいのであります。それが人間の生き方の基本なのでありま

す、きっと。行き当たりばったりやデタラメでは、その当人も、周囲の人間でさえ満足出来ない。

 この一本の太く確かな筋を通す生き方なり、行動が現実では殆ど不可能に近い。様々な要因が複雑に絡

み合っている私たちの日常では、好むと好まざるとに係わらず中断の止む無きに至る。そしてまた次なる

行為・行動に移った瞬間に、又もや全く違った要因が介入して来て、あやふやで中途半端な、宙ぶらりん

の状態にされてしまう。この無限の繰り返しが私たちの日常と言う現実であり、その為に私達の内部には

ストレスとしての不純物が蓄積され続けるわけです。

 これはどう考えても精神衛生上、宜しくない。そこで心の清掃が必要となり、そのベストの形が劇なの

でありますが、中でもセリフ劇は、劇の中でも最上のものと、少なくとも可能性としては為り得る。また

そう言う形に持って行かなければならないものなのです。

 理屈を言えばそういうことになるのですが、要は考えられる限りでベストな娯楽であり、エンターテイ

ンメントであればよい。難しい理屈をわざわざ前面に出す必要はないのであります。

 ここで、セリフ劇のセリフとは言葉ということです。言葉は最も人間らしい特色を示すと同時に、人間

の行動の中でも一番「行動的」と言われます。視覚優位の時代にあって眺めるもの、見物する物であ


過度にショー化し興行化していた劇を、体験し、自らがイマジネーションを働かせて行動する方向へと、

大幅に矯正する。同時に、それによって心や魂に直接的な、そして根本的な治療を施す。それも誰かから

強制されたり命令されたりするのではなく、主体的に、自らの意思でそうするのであります。

 そうした自発的な行為が楽しくない筈もなく、また、役に立たないわけもないわけです。私たちは通常

明確な目的意識を持って行動することは、非常に限定されている。

 学校教育に於ける勉強とか、生活の為の仕事とか、それを意識していなくともそこには強い強制の力

が働いている。劇の場ではこの強制は皆無であります。楽しい事で、自分の役に立つから進んで体験した

くなる。そうした素晴らしい、純粋な、行為の為、行動の為だけの行為・行動の場なのです。

 セリフ劇を構築する過程・プロセスを楽しみながら町の一人でも多くの人々と交流を深め、人間として

の成長の糧にしたい。私・草加の爺は今切にそう念願しています。

 近日中に五十嵐氏から紹介を受けた中村さんとお会い出来る予定になっています。中村さんとは電話で

少しだけ会話を交わしただけで、まだ面識はありませんが、直接お目に掛かってお話出来るのが楽しみで

ありますが、今度の会見が実り多い将来に道を開いてくれることを、希望しながら待機している現状で

す。

 考えてみれば今度の中村さんとの会談も、一つの劇と看做す事が可能です。筋書きは私にも、先方の

中村さんにも知らされてはいません。私の方としては誠意を尽くしてセリフ劇とそれに寄せる思いとを

語るだけに過ぎませんが、中村さんが置かれていらっしゃる状況や、考え方など今の私は全くと言ってよ

いほど、何も知りません。先ずは虚心坦懐にお話を伺い、自分の理解の及ぶ範囲で理解を深めたい。出来

れば劇やその他色々なテーマについても、考えや御意見を拝聴したい。更には町の様々な事柄に関しても

お話を聞かせて頂きたいと、念願しても居ります。

 私は今回、人口頭脳 A I から書き始めましたので、人口頭脳に関連させて締めくくりたいと思います。

私は人口頭脳に限らずロボットとか機械とか、命のないものが嫌いと言うよりは苦手であります。つまり

人間が大好きなのであります。無条件に、理屈抜きで心惹かれるのですね。ですから、そう言う意味から

も大いに人間らしく、飾らずに、また偽らずに中村さんと接したいと考えて居ります。要するに、無欲

無心で対したい。そう願うのみなのであります。

 会談の結果に関して、随時このブログで報告する積りであります。





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最終更新日  2019年05月04日 11時28分35秒
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