草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2019年07月25日
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先程、いつもやっている料金の振込を A T Mで して来たのだが、銀行の店員さんの手助けを借りなけれ

ば出来ないで、自分が早くもボケ老人になったような、妙な気分に一時的に陥ってしまった。

 今は幸せかい? そう、自分自身に問いかけてみる。すると、勿論幸せだよと、即座に返答が帰ってく

る。人生のどんな局面を想定しても、ずっと幸せであると言うようなことは、恐らく考えられないだろう

が、少なくとも今現在は、不幸ではないから、論理的には幸せの部類に在ることは、言えるだろう。

 でも、そんな消極的な幸せの定義に満足していて、そもそも、本当に、真実に幸福の中にあると、いえ

るのだろうか。

 しかし、考えてみれば、今仮に幸せの絶頂にいると感じ取っている者が、自分は幸せだと実感するもの

なのだろうか知らん。何だか、そうではないような気がする。つまり、傍から見て、あの人はとても幸せ



 苦しかったり、悲しかったり、何となく不満や不足を感じていてさえ、幸せだと感じることは可能だろ

う。何故なら、完璧な幸福などは、この世では、私たちの人生ではあり得ない事柄なのだから。

 今読み返している芥川竜之介にしても、彼の描く登場人物たちの多くが、不幸であったり、孤独であっ

たり、少なくとも完全な幸福者からは遠い存在である。現に、龍之介は自殺している。自己の人生を自死

することで全否定している。少なくとも自殺を決意し、それを実行した作家は、その作品を全否定しては

いないにしても、全肯定出来なかっのではなかろうか…。

 自殺と言えば、三島由紀夫も特異な自殺を自ら選んで、それを決行している。

 そもそも、人は、小説家であると否とにかかわらず、人生を幸福に築きあげたいと望んだ筈である。し

かし有能であったり、天才であったりした為に、人生に絶望して、人間のあり方に満足できないでしま

う。

 あるがままでよいのだ。与えられた人生で百パーセント O K なのだ。神を、真の「絶対者」を信ずる



してくれている。残るのは、直感である。それも、正しく感じ取る場合には。同じことを少なくとも、私

に教えてくれている。凡俗には、凡俗の矜持、プライドというものがある。

 今の私は、平凡に居る幸せを心の底から、実感したいと念じつつ、毎日を過ごしている。

 幸せ、幸福などというものは、私たちとともに常に与えられている。信じる者は救われる、のでありま









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最終更新日  2019年07月25日 16時51分12秒
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