草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2019年07月30日
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禅の公案というものに一時期、非常に興味を惹かれて、その関係の書物を読みふけったことがあるが、結

局は余り理解できなくて、そのままになってしまった経験を持っている。

 どんな事をしていても、それがその侭で禅の修行になっていると言う。常住坐臥が、これ即ち修行だと

言う。つまり、公案を一つ一つクリアーしていくのも修行の方法であるのならば、一人の凡人として真摯

に毎日の自分自身と向き合うならば、それがそのままで悟りの境地への道程と成りうる。要はその人間の

心がけ次第ということのようだ。

 私は結局、死ぬまで悟りの境地に到達できないであろうと、一種の悟りを得ている。

 私の意のままにならないのは、私の心だけではなくて、体も又同様である。例えば、昨日ひどい腰痛に

悩まされた。今朝は少し痛みは軽減しているのだが、やはり下半身の冷えから来ているようである。



てみているにしか過ぎない。

 こうして、心も体も自分のものであって、自分の意のままにはならない。自由にコントロールが効かな

い。しかし考えて見るまでもなく、私たちは自分の意思でこの世に生まれて来たのでは無いし、また自由

気ままに死ぬことも出来ない。そういう基本的には、受身、受動的な存在である。良くも、悪くも。

 自己とは何物であるか。そして人生とは、そも何であるのか? 

 これも、様々な他者や環境との対話・交流の中で、少しずつ理解し、理解を深めるより他に手はない。

手段を持たない。

 我々を大海に浮かぶ一艘の小舟であるとして、第一に我々は何処から来て、何処に向かうのかを知らな

い。知らなくとも生きられるのだが、我々は自己に目覚めると同時に、この根本的な疑問の虜になる。余

人は知らないけれど、私は、そうであったし、今もその模索を続けている。ただ、そうせずにはいられな

いので…。



り得た知識ではなく、周囲の人々のお蔭を蒙って知ったのである。と言う事は、私という小舟は大海にた

だ一艘で漂っている存在ではない。家族を始めとする大集団の一員として、現に在るわけであり、その中

からやがて独り去っていく運命の下に、生きて漂っている。

 私という認識は、今や大海と舟の比喩では表現しきれない程に、膨大な広がりを見せている。地球、太

陽系、銀河系、大宇宙…。人類全体も大きな疑問に挑戦し続けているが、この挑戦は限りもなく続き、恐



まう、恐らくは。

 そうした中での、ほんの瞬間的な存在であり、在るか無きかの微小な点である。





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最終更新日  2019年07月30日 09時36分49秒
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