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2019年09月21日
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「マタイ伝」を門外漢として読んでいるわけだから、誰か専門家の解説でも聞かない限りは、意味が取れ

ない所が多々ある。しかし、それはそれとして私の理解が及ぶ範囲で言うわけである。

 彼・イエスキリストは人間の女性から生まれてはいるが、精霊によって身ごもったのであるから、実態

は人間であって人間ではない。神そのものである。それは彼が媒介した様々な 奇跡 によって、何度も

強調されている事実でもある。当時のユダヤ王であるヘロドが、東方から訪れた博士達の言葉を聞いて

驚愕し、幼子を皆殺しにしたエピソードによっても、謂わば裏付けされている。

 誰もがイエスの出現と、その神的な振舞に圧倒され、その奇跡の力に信服したかに見える。しかし、そ

うばかりではなかった。ヘロド王の行動に代表される人々の一団がいた。彼らはイエスの驚異的な力

を恐れ、恐怖して、敵視する。自分たちが既に手にしている地上での権威・権力を、失う事を恐れたか



 だから、それらの人々にとっては訳のわからない、一種邪悪な、魔性の者の代表、悪魔・悪霊の仲間で

あると決め付ける。

 一方で、イエスは人々に父親の国、天国の平安を告げるために、福音をもたらすべくやって来たことを

告げ、ひたすらこの世で苦しみ、肉体や精神の災いによって苦しんでいる、弱者を無条件で救済する。

 このイエスの行動は、そして言動は、当時のユダヤ人にとって馴染み深い、旧約聖書の様々な預言者

達が過去において既に約束し、預言していた諸事績を実際に行ってみせる事、であった。

 しかし、既得権を握っている 強者 を代表する人々には、メシア・救世主たる王者のイメージと

眼前に現れたイエスとの姿とが、しっくりと一致しない。それどころか、著しく相違していた。自分たち

に何か理由のわからない恐ろしい災いを齎す、邪悪なる存在、邪魔者としか映らなかった。

 そして、イエスの方では、この蝮(まむし)の一族の反感と、憎悪とは百も承知であった。マタイ伝に

記述されている事柄を虚心に読む時には、それは明らかである。



実行してみせた。だから、彼の悲惨極まりない最後は、最初からの「目標」であった。つまりメシアと

しての役割を達成するためには、このむごたらしい刑死は不可欠の要素と言える。

 ここで私の愚かな感想を述べなければならない。全能の神は、何故に人間たちを善良なる性質・性格に

お創りにならなかったのか? 先ず最初に、素朴な疑問として、私などはそう考えてしまう。

 また、神は全知全能で、不可能な事は一つもないのであるから、悪魔や悪霊の輩をその力を揮って、



 現実には人間は邪悪な者達が大半を占め、あまつさえ善人であっても、ちょっとした弾みで、悪に手を

染めてしまう。現に、現代の日本国においては、殺人や弱いものいびりが横行して、仏教で言うところの

末世的な堕落・頽廃の極に達しているかに見える。

 つまり、可能な力を神は敢えて発揮されないでいる。悪もまた生命には必須であり、生きがいにとって

不可欠だと考えているからに、相違ない、きっと。

 造物主の立場に立った時に、悪を犯す能力と可能性を持った者が、主体的に、自らの意思で悪を捨て

善を選ぶとすれば、自動的に、機械的に善を行うより、より嬉しいであろう。

 敢えて言えば、造物主としての神は、人間を御自分に似せてお作りになられた。そう考えるのが自然で

あろう。私が、本能的と言ってよいほどに「機械」というものを嫌いだから、そう思うのか…。

 便利よりも、手のかかる不自由な人間を、自由で意のままに従う自動人形よりも、より多く愛された

から、人間をそのように造られた。そんな風に考えるのは、私の浅知恵のせいなのだろうか?





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最終更新日  2019年09月21日 08時48分47秒
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