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2021年01月26日
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今回は「日本書紀」について書いてみようと思います。

 御承知の如く、神話の神代から第四十一代持統天皇まで、それぞれの天皇の事績が年代順に記載され

ている、日本で最初の正式な歴史書であります。また、同時期に「古事記」が編纂されていますが、その

違いは目的の違いで、日本書紀が外国向けに作られたのに対して、古事記は国内向けに作られている。共

に、天皇家の支配の正当性をアピールするものとされます。地域ごとの首長国を束ねるだけの倭王権が、

周辺の東アジア諸国と影響し合う中で、古代国家へと成長する過程こそが、この書が編纂された時代的な

背景だった。

 日本書紀の記述で特徴的なことは、当時の国際語であった漢文で書かれている事であります。従って編

纂には中国人が加わっていると言われています。古事記が日本に固有の古語という言葉を大切にして、可



いるのも、特徴の一つであろう。日本書記、古事記ともに、典拠とした資料が同一な部分が多かったため

に、記述されたエピソードは類似な物が大多数を占めている。

 私は、古事記をかなり詳しく読んで、稚拙ではあっても、現代語訳を試みた過去がありますので、熟知

した説話が日本書紀にも出てくるので、書紀では割愛されている物語のとても魅力ある部分が、何だかも

ったいないような気持になったりします。しかし、先進大国の中国の歴史書と肩を並べるべく、国家的な

意図をもって企画されている以上、私的な物語に始まる、神話的なエピソードは可能な限り簡略化しなけ

れば、目的には合致しなかったことは、容易に納得できるのです。

 納得は出来ても、歴史を純粋に楽しもうと待ち構えている私のような素人愛好家には、古事記が大切に

して収録している楽しく、魅力ある、語る喜び満載の、従って、聴き手である( 文字化される以前は、

語り部と呼ばれるプロの職業集団が代々、口承で伝えてきているので、読者ではなく、聞き手である )

人々をいかに楽しませて、巧みに物語世界に引き込むかに、専ら情熱が注がれて、洗練の度を時代が下る



 つまりは、歴史と言えども、いや、歴史であるからこそ、無味乾燥な所謂事実の羅列であってよいわけ

はなく、楽しく、エンターテインメント性に富んだ、語りであり、叙述である必要性が必須になるのだ。

 源氏物語の中で光源氏が、「日本紀なぞは、片側(そば)ぞかし」と正式な歴史書を、女子供が愛玩す

る物語類の下に置いて、娯楽を実用や公務などの権威の上に置く、至極尤もな発言に、私ももろ手を挙げ

て賛成したい。人間の真実、人間性の秘密の宝庫、それが結局は本当に人々の心を掴み、動かし、正しい



 天皇家を神格化し、同時にその支配を正当化する、国家的な大事業、など、当時の東アジアに於い

て国家的な権威を確立する野望は野望として、それは結局、一大豪族の権力拡大の手段でしかなく、物語

の芸術性尊重の視点からすれば、途轍もなく野蛮で、恣意的に過ぎるエンタープライズと言わざるを得な

い。結果として、生き生きと、根源からする生命の息吹という、極めて大切な物を矯めて、命のない、従

って精彩の失せ切った、形骸だけの遺物の羅列の観が、無きにしもあらず。そう言ってしまったら言い過

ぎであろうか。否であり、然りであると、ここは体を躱しておこうか。

 ここでも、一寸御断り致しておきますが、私は全く私的な立場で、極めてフリーな物言いをしているの

であって、例えば、教室とか、講演会などの公的な場では、絶対に発言する事はない事柄を、勝手に述べ

ているにしか過ぎませんよ。それも、日本書紀が利用した資料の説話集の精神を大切にしたいと心掛ける

物語愛好家の一人として、発言しているもので、それ以上でも、それ以下でもありませんので、お含みお

き下さいな。

 そもそも、物語とはその性格上極めて私的な場での、極めて個人同士の親密な語り合いの中から発生

し、継承され、発展を遂げていくという性質上、尤も私的で、個人的なものであります。である以上は、

それが少しでも外部的、公的な場に持ち出されて来た場合に、その固有の性格を変化させずにはおかな

い。その極端な例が、国家がその公的な権威を最高度に発揮して、歴史書作成などという、およそ物語と

は性格を異にする舞台に無理やり登場させられた際に、もうそれだけで、物語が本来持っていた素敵な、

魅力ある特徴を、何処かに置き去りにしてこなければ、その強制的に発揮させられる役割を果たすことは

出来ないわけで、エンターテインメント至上の物語は既にその生命力を根源の所で、絶たれてしまってい

ると言わざる得ないのだ。

 従って、光源氏の物語に関する称揚の言葉はまさしく正しかったのであり、命あるものが死体に等しい

記述の権威的で、厳めしい外見に少しも気圧されたりせず、徒手空拳で勝利するのは当然過ぎるくらいに

当然な、言わば自明な事柄だった。

 私の言いたいのは、歴史などと大層らしくいった所で、王などと呼ばれる覇王や最高支配者の主だった

業績を羅列する記述に過ぎず、それが庶民のひそやかで、慎ましい日輪や月輪の下で、母なる大地に見守

られて行われる人間味溢れる地味な生活より勝っていると判定する確たる根拠など、何処にもないのであ

る。

 私が日本史と言い、中国史、乃至は世界史と言って若い頃に繰り返して学んだ内容は、主としてその地

域で勢力を最大限に発揮した Sacred king や War king などの業績を主体としたエピソードの集積であ

り、支配され、収奪された庶民たちの生活や文化に関しては、申し訳程度にしか言及されてはいないの

だ。

 支配する側だけが大切であって、それを支え、盛り上げる底辺は無視される。それが、御大層に歴史な

どと名乗って幅を利かしている。ならば、命のない、精彩のない、無味乾燥な内容に大した意味を感じ取

れずに、単なるお飾りとして、外見上は如何にもにぎにぎしく、そして虚仮脅かしに過ぎない文章のオン

パレードと化している現状の歴史書などに、大した意味をくみ取る事など不可能である。

 三度目に、強調して言おう。私的な場で、生き生きと、密やかに、しかし力強く語り伝えられて人々の

心に脈々と真の命を繋いで来た 物語 に、躊躇なく軍配を上げようではないか。

 物語は、私的で、個人的な狭い範囲のものであるが故に、歴史書などが及びもつかない、普遍性や宇宙

的な広がりをすら獲得する。この、支配階級から見た時には非常に皮肉で、パラドキシカルな現象は、人

は驕り昂ぶることなど許されておらず、ただ、絶対者によって創造され、表現され、踊らされる木偶の坊

にしか過ぎない存在だと、改めて襟を正すように求められている事を、明らかにしているのである。

 以上で私の日本書紀を読んだ印象は尽きるのですが、私の主張、私的な物語は権威ある公的な歴史書に

勝る、の実例になるかどうか、非常に心もとないのでありますが、私の体験して心に銘記している事柄を

お話し致します。

 私が接した子供たちの中で強く感じた事、それは親の子供に及ぼす影響力の強大さと言う事でありまし

た。そう、ごくごく当たり前な事であります。「親に、私の生殺与奪の権を、握られている」、これは或

る実に気の毒な高校生が、胸に秘めていた悲痛なる叫びの声でありました。生殺与奪などと、古めかし

い表現でありますが、実感は超現代の感覚なのでして、ボクが生きるのも、また死ぬのも、親の気持ち次

第でしかなく、その親の心はまるで氷の様に冷たく、その絶対的な影響下にいるボクは、毎日生きた心地

が全くしないのだ…、誰か助けてください!。

 これは、私のような傍観者の目から見ては、ただ仲良く暮らしている平和そのものの家族の、性格の良

い青年の抱いていた極めて切実な悲鳴なのであり、誰かに伝える事など不可能と諦めていた願いなのであ

りました。良き母、善き父、そして善良を絵に描いた如き若者。それが一体どの様な悪魔の働きで、この

様な修羅の嵐に飲み込まれてしまったのか! 風が吹けば桶屋が儲かるの譬えではありませんが、小学生

たちが悪戯半分に苛めを試みた、言ってみれば些細な行為から始まった事。

 苛めが原因ではありませんが、母親が「氷の様に冷たい態度で接した為に」学習障害に陥っていた小学

生がいます。学校の担任から「お宅のお子さんは、普通の学校では対応が出来ませんので、精神障害者な

どを受け入れる学校に入れた方が、お子さんの為になると思います」と告知された一人の御母さんがいま

した。人一倍聡明で、男勝りの美人の母親は、家の子供が知恵遅れで絶対にないと確信していましたが、

現に学校でのテストではゼロ点ばかりの惨憺たる成績ですから、担任の言い分に反論など出来ません。

 様々な学習塾を試した挙句に、最後に授業料は高いけれども成果を上げているらしい学習塾にたどり着

いた。

 その塾でも大半の講師が匙を投げてしまったが、一人だけ進んで担当を引き受けた変わり者の、教師ら

しくない、従って講師らしくない講師が登場した。それが私でした。私は自分の孫か曾孫位の年齢の生徒

と目線を同じにして対したのです。なにしろ、精神年齢万年十歳ですから、その生徒と少なくと精神的に

は同年代です。詳しい経緯は企業秘密ゆえに省きますが、ほぼ二年程で、その生徒が知恵遅れではないこ

とを見事に実証して見せました。「先生、うちの子、テストで百点満点を取ってきました」、そう言うお

母さんの声が、喜びで震えていました。私は、当然の事をして、当然の結果を得たのですから、平常心で

ありましたが、やはりお母さん以上に嬉しかったですよ。

 最後の締めに、やはり一種の知恵遅れとの烙印を、学校の教師を始め、両親からも公認されていた中学

生を、私は見事にひっくり返して見せましたよ。お断りいたしておきますが、以上記述したのは、似たよ

うなお子さんが世の中には大勢いるに間違いないので、世の大人達に警告を発するのが主たる目的であっ

て、私個人の手柄話を吹聴しようとの狭い根性からではありません。また、私は精神一到何事か叶わざら

んと蛮勇を振るうのが癖で、最初からなにがしかの成算があって事に臨む人間ではないのであります。私

が生徒とともになしとげた 奇跡 は、神仏が仲立ちして仕上げを施されたもので、人間の手柄と見え

て、さにあらず。人に出来ることは、ただ一心不乱におのれに与えられた「悩みや障碍」に体当たりする

一事だけであります。

 さて、問題の中学生ですが、御両親が実は外国人で、実の親ではなかった。謂わば、生まれながらに

言葉のハンデを負って生活していた。その上に、弱視に近い、こちらは本当の障害を抱えてもいた。

 この生徒との出会いも、神仏がその様に仕組まれたとしか、今では考えることが出来ない程に、生徒は

私に出会っている。尋常ならざる邂逅だった。特別に優しく丁寧な教えを以て知られた「古屋先生」が、

別人の如くにスパルタに徹して教育する。声を荒げ、暴力を振るわんばかりにして生徒に対している。何

事が起こったのか、と教室中が耳目を集中させている。詳しく書き出すと長くなりますから、省略しま

す。

 実の親が暴力を振るって自分の子供にせっするのと、義理の親が撫でさするのとは、同じくらいの愛情

だと、私の母が幼い頃の私に諭した記憶があります。親でも、義理の関係でもない、全くの赤の他人が、

それも現代のまやかしの愛情教育がまかり通っている御時世の中で、学習塾という微温的な商売環境中

で、暴力的な言動で生徒に臨み、真の教育効果を上げる。これだけで、人間業ではありませんよ。それを

私は自然に、普段の極めて温厚一筋の真綿の如き扱いを豹変させ、相手の生徒は文字通りに涙を流しなが

ら講師の愛の鞭を受け止めて、成績を飛躍的に伸ばした。生徒も立派だったが、この場合に一番立派だっ

たのは、私でありましょうか。

 人間の世界では誰一人、私を褒めてくれる人はいないのですが、神仏が「あっぱれ!」と称賛してくだ

さいましたね。それで、十分と言ったら神仏から御叱りをうけるでしょうか。





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最終更新日  2021年03月04日 20時55分53秒
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