草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2021年03月06日
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哀しい哉 哀しい哉 哀れが中の哀れなり  哀しい哉 哀しい哉  悲しみが中の悲しみなり  哀し

い哉 哀しい哉 復(また)哀しい哉  悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉  ―― 亡弟子・智泉

の為の追悼の文。

 空海(774-835)は平安時代初期の僧で真言宗の開祖である。

 私は前回に述べた如くに、自己流で毛筆書道を極めているのですが、古典の名筆の中でも飛びぬけて精

神性の高い彼の筆跡は、素晴らしいの一語に尽き、臨書をいくら繰り返しても足元にも及ばない、一種の

凄みさえ感じさせる。骨太で、知的でありながら野性味を内側に秘め、堂々として、霊界の王者に相応し

い高貴さを現出して見せてくれている。

 その男の中の男・空海が実に女々しくというのか、悲しい、哀しいを諄いくらいに繰り返している。そ



う言っているようであります。

 人間は、本質的に「悲しい」のであり、「哀しい」のであります。

   哀しみを 生きる証(あかし)と 見定めて 日輪の下 一筋の径  ( 克征 作 )

 私の人生は悲しみと哀しみに満ち満ちた人生でありました。悲と哀、つまり裏返せば喜と悦と言っても

一向にかまわなないのですが、これこそが人生の神髄でありましょう。悲哀を数多く舐めたからこそ、喜

悦の季(とき)も何層倍も大きく、豊かだったのだ。とことん味わい尽くし、骨の髄までその喜悦に浸り

こむ事が可能だった。上の空海の文をつくづくと眺めて見て下さい。まるで悲哀の法悦に酔い痴れてでも

いるかのようではありませんか。

 空海はその法号の示す通り、広大にして無辺であります。有り余る活力と滾々と清冽な泉の如くに湧き

出しては、四方に広がり流れる水源の如くであります。汲めども尽きる事のない才能の宝庫であります。

私の如き凡才とは、生まれながらの天稟に於いて、雲泥の差があるのです。しかし、仏教では山川草木悉



勇気は持ち合わせては居りません。しかし敢えて異を唱えてみようと、へそ曲がりの片鱗を出してみる魂

胆です。仏説の主張する「万物の平等性」とは、神仏なる一個の絶対者から見た実に慈悲深い眼差しの平

等性であり、公平性でありましょう。私の如き盆暗が遍照金剛たる大師・空海と本質が同じであろう筈が

なく、俗にいう蛙の子は蛙にしかならず、遂に縄文杉と化生することは断じて許されていない。

 一寸待ってくださいな、私は口下手なのであらぬ方向へ論を進めてしまったのかも知れないと気づき、



は私に予め 下心 があっての事。つまり、蛙の蛙なりの矜持と言う事です。

 それは縄文杉は偉大でありましょう。しかし、その偉大な縄文杉にも限界があり、比較の対象にもなら

ない一匹の虫けらの境涯に及ばない僅かの一点がある。それを此処で申し上げたいと思ったのでありまし

た。私は取るに足らない市井の一市民にしか過ぎません。しかし、私にしか見えない人生があると信じ、

それを一種の生き甲斐ともしている。他人から見てつまらない、取るに足らないことであっても、私には

非常に貴く、掛け替えのないものである。それが又、私に存在価値とまで言うと、言い過ぎになるでしょ

うが、誇りなのでありました。

 逆に、空海や縄文杉にしか見えない境涯というものがあるに相違ない。たとえて言えば、以下に引用し

た空海の言葉は、私でも、一寸背伸びをすれば言えそうな文章です。が、同じ言葉でも、空海が言ってい

るのと、私が述べるのとでは、大変な相違がある。ですから、これは自戒の言葉なのですが、自分が簡単

に理解できた。或いは、なるほどと首肯出来たからと言って、文字面からだけを読んで、早合点するのは

禁物でありましょう。重さがある、豊かさが違う、含蓄に富んでいる。よくよく吟味して、よく噛み、よ

く味わってから咀嚼する必要があると、思うのであります。特に、直ぐに、素直に胃の腑にすとんとばか

り落ちたと感じた時などは、要注意でありましょうから。


  人の短を道(い)こと無かれ、己の長を説(と)くこと無かれ   優れた知恵者は愚か者にみえる

   修行して悟りを得ようとする人は、心の本源を悟ることが必要である。心の本源とは清らかで綺麗

な明るい心である   仏の教えは一言で言えば、自分の利益と他人の利益を一致させることである   

気持ちが落ち込んでいる時や悪いことを考えているときは、すること全てがわざわいを招く   信じて

修行すれば誰でも必ず仏になることができる   人を思いやる気持ちと、人に利益をもたらす行動をす

ることが全ての根本である   つまらない人は、善行と悪行との区別がつかず、その因果も信じる事が

無い。 目の前の利益だけを見ているので、その因果は必ず返ってくる   周りの環境は心の状態によ

って変わる。心が暗いと何を見ても楽しくない。静かで落ち着いた環境にいれば、心も自然と穏やかにな

る   薬は病気から救ってあげたいという気持ちからうまれたものである。仏の教えは心を救ってあげ

たいという気持ちから生まれたものである   心を洗って香となし、体を恭(つつし)んで華と為す   

 道理に迷って苦しむのも、自分の中にある仏に目覚めて正しく励むのも、みな自分の決心次第である

   業障は重く功徳は軽し   嫉妬は自分以外の人とは別々の存在だと思う心から生じる   優れ

た大工が木材を使う時、真っすぐな木は曲げずに、真っすぐな特徴をいかしてその木が必要な場所に使

う。曲がった木は、無理に伸ばさずに、そのままその特徴をいかしてその木が必要な場所に使って大きな

家を建てる   高山は風起こり易く、深海は水量り難し、空際は人の察する無く法身のみ独り能く詳ら

かなり   善行をなそうとする人も、悪行をなそうとする人も、まず心の中でそれをなそうと決めてか

ら、その行動をするものである   身は華と与(とも)落ちぬれども、心は香りと将(とも)に飛ぶ   

   仏法は遥かに非ず。心中にして即ちちかし   貧を済(すく)ふに財を以てし、愚を導くに法を

以てす、財を積まざるを以て心となし、法を惜しまざるを以て性となす、故に若(も)しくは尊、若しく

は卑、虚しく往きて実(み)ちて帰り、近きより遠きより、光を尋ねて集会することを得たり   心暗

きときは、即ち遇うところことごとく禍なり   心を和らげて耐え忍ぶという心の鎧を着て、目的に向

かって努力するという心の鎧を着て、目的に向かって努力するという兜をかぶり人として守るべきルール

や道徳を守るという馬に乗り、心静めて落ち着けるという弓を持ち、正しい事と悪い事を分別するという

矢を射って外には悪の軍勢を破り、内には心の賊を滅ぼす。これを仏と言う   ものの道理を見る目が

開いていれば、身の回りのものすべてが大事なものだとわかる   地獄は恐ろしいところだと言われて

いるが、必ずしもそうではない。善心を発揮するならば、仏が救ってくださるからである。栄えるのも衰

えるのも、みな自分の善行と悪行によるものである。善心を発揮して行動するならば必ず幸せになること

ができる   他人の病気のことをとやかく言う前に、まず自分の病気を治すことを心がけなさい   

もし自分に適していることにその能力を使うなら、物事は極めてうまくゆく。しかし、自分に向いていな

い物事に、その能力を使うなら、労多く益は少ないだろう   仏として生きる道は遠いところにあるの

ではない。すぐそこにある   能書は必ず好筆を用う   人間は誰もが胸のなかに、宝石となる石を

持っている。一生懸命磨いて、美しく光り輝く玉となる   物の荒廃は必ず人に由る。人の昇沈は定め

て道に在り   夫(そ)れ仏法は遥かにあらず、心中にして即ち近し、真如外(ほ)かにあらず、身を

捨てて何(いず)くにか求めん   他人の利益をはかるようにつとめていると、苦しみの世界に行く因

縁が消える   虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願も尽きん   ものに決まった性質などな

い。

悪人もいつまでも悪人ではない   三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識

(し)らず、生れ生れ生れ生れて生れの始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し   

もし自分と自分以外の人を別ではなく、同じ存在だと見ることが出来れば、嫉妬することがなくなり、公

平な心になり、全ての人の善行を心から賞賛できる   片手だけでは拍手は出来ない。片足だけでは歩

けない。右手と左手が感応して拍手となり、右足と左足が感応して歩く。だから相手が感応するまで祈り

続けなさい


 真言宗(しんごんしゅう)は空海によって9世紀初頭に開かれた、大乗仏教の宗派。空海が長安に渡

り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。同時期に最澄によって開かれた日本の天台宗が法華

経学、密教、戒律、禅を兼修するのに対して、空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』、『秘蔵宝鑰』で、空

海が執筆していた当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、密教を最上位に置くこ

とによって十段階の思想体系の中に取りこんだ。最終的には、顕教と比べて、真言密教の優位性、顕教の

思想・経典も真言密教に包摂されることを説いた。

 仏教の一般的な特色は、絶対者、或いは、絶対の真理を、法 dharma として自覚し、これを絶対無と

して表現する。そして絶対無は自己否定の原理であり、献身の働きとして捉えられ、同時に、慈愛の発動

となる。仏の応現や菩薩の本願として顕現するとする。

 しかし、真言宗はこの真理としての絶対無の力としての発動を強調し、大日如来という人格として、そ

れを表現してきた点に特色がある。真言宗には、仏教の中でも、有神論(ゆうしんろん、 theism 、神は

存在する、という主張を言う)的な一面が非常に強く出ている。

 真言宗では、大日如来の真理の言葉・真言の中にのみ、人間が 絶対 に和解し、融合する道があると

する。真言・mantra を媒介としてのみ、我々は神秘的な結合において大日如来と一つになり、大日如来

そのものとなる。この様にして、空海は、華厳の哲学を論理から、象徴へと転じた。「一 即 一切」の

体系は曼荼羅 mandala に移し替えられた。

 肝要なのは、分析ではなく、分有 participation であり、生きた真理との道交こそ究極の物となる。

 真言の世界では、論理が融解して「原型的に聖なるもの」即ち、「ヌミノーゼ・ numinose 、言葉で

は表現できない対象で、戦慄すべき、強大な、活力ある物、などなど諸要素を内包する」に変容し、その

躍動する生命の流露となった。

 そうして我々人間がこの絶対者との統一に入るのは、長い修行によるのではなく、端的に今、ここで一

つとなるのでなければならない。しかも私の魂が身体から抜け出して浄化され、というのではなく、身体

的な私の全体が、そのままで仏になるのでなければならない。つまり、これが即身成仏の意味である。

 よって真言密教によれば、私たちは儀礼的な統一と、曼荼羅の中でのみ、この様な唯一の、信実な、絶

対の解脱を体験し得るのだ。





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最終更新日  2021年03月06日 20時39分37秒
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