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2025年10月23日
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近松の言説  「難波みやげ」発端抄

 往年、某(それがし、穂積以貫)近松のもとにとむらいける頃、近松が言ったのは、総じて浄瑠璃

は人形にかかるのを第一にするので、外の草紙と違って文句は皆働きを肝要とする活き物である。

 殊に歌舞伎の生人(しょうじん)の人の芸と、芝居の軒を並べてなす業であるから、正根のない木

偶に様々な情を持たせて見物の感を取ろうとするものなので、大形であっては妙作と言う物には至

り難い。

 某、若き時、大内の草子(宮廷内の事を書いた草紙、ここは源氏物語)を見侍んべる中に、節会

の折節に雪がいたく降り積もりけるに、衛士に仰せられて橘の雪を払わせられければ、傍(かたえ)

なる松の枝もたわわなるが、恨めしげに跳ね返って、と書いてある。



自分で枝を跳ね返して、たわわなる雪を刎ねおとして恨んでいる気色は、さながら活きて働く心地

ではないか。

 これを手本として、わが浄瑠璃の精神(しょうね)を入れる事を悟ったのだ。されば、地文句、せ

りふ事は言うに及ばず、道行などの風景を述べる文句も、情を込めるのを肝要としなければ必ず関

心が薄くなるものだ。

 詩人の興象(きょうしょう、形象を写して心意を表明する)と言うのも同事であり、例えば松島

宮島の絶景を詩に賦しても、打ち詠めて賞するの情を持たなくては、徒に描いた美女を見る如くな

らん。

 この故に、文句は情をもととすと心得るべし。

 文句にてにはが多ければ、何となく賤しいものである。

 然るに無功(ぶこう、未熟)なる作者は、文句を必ず和歌や俳諧の如くに心得て、五字七字等(と



 例えば、年も行かない娘をと言うべきを、年端もいかぬ娘をばと言う如くになる如くになる事、

字割りにかかわることから起こるので、自然と詞ずらが賤しく聞こえる。

 されば、大様は文句の長短を揃えて書くべきだが浄瑠璃はもと音曲であるから語る所の長短は、

節にある。作者から字配りをきっちりと詰め過ぎれば、却って口にかからない事がある物だ。この

故に、我が作にはこのかかわりがないので、てにはが自ずからに少ない。



などがある)同然であって、花も実もないものであったが、某が出て加賀の掾より筑後の掾に移っ

て、作文(さくもん)してからは文句に心を用いる事は昔に変わって、一等高く、例えば公家・武家

より以下、皆それぞれの格式(身分)をわかち、威儀の別よりして詞遣いまで、その移りを専一とし

た。

 そうであるから同じ武家であっても、或いは大名、或いは家老、その外禄の高下につけてその程

ほどの格を以て差別(しゃべつ)をした。

 これも読む人のそれそれの情によく映る(共感する)ことを肝要とするからである。

 浄瑠璃の文句は皆、事実を有りの儘に写すうちにも、又芸となって実事にはないことがある。近

くは女形(ここは、若い女の役の人形を指すか)の口上、多く実の女の口上には得言わぬ事多い。

これらはまた芸というものにて、実の女の口では得言わない事を打ち出して言う故に、その実情が

顕れるのだ。

 この類(るい)を実の女の情にもとづいて包んだ時には、女の底意なんどはが現れずして、却って

慰めにはならないからだ。

 さるによって、芸と言うものに気を付けないで見る時には、女に不相応なけうとき(とんでもな

い)詞が多いと謗るであろう。しかれども、この類は芸であると見なくてはいけない。その外、敵

役があまりに臆病なる躰(てい)や、道化様のおかしみを取る所、実事の外に芸と見做すべきところ

は多い。

 この故に、これを見る人はその斟酌(しんしゃく、汲み取る事、事情を察する事)があってしか

るべきなのだ。

 浄瑠璃は愁いが肝要であると言うので、多く、哀れなり、なんどと言う文句を書き、又語るにも

ぶんや節様(よう)(文弥節風)の如くに泣くが如くに語ることは我が作にはないことであるよ。

 某の憂いは皆、義理(ぎり、そうなるべき経緯、止むにやまれぬ訳。人が踏み守るべき道と解す

る説もある)を専らとする。藝のりくぎ(六義、様々な道理・筋道)が義理に詰まって(道理至極し

て、そうならざるを得ない必然的な事情があって。義理詰は道理を押し詰める事。義理を詰めると

は理屈を立て通すの意)哀れであれば、節も文句もきっとしたほうが益々哀れが増すであろう。

 この故に、哀れを哀れなりと言う時は、含蓄の意が無くて結句はその情が薄いだろう。

 哀れなりと言わずして、ひとり哀れであるのが肝要である。

 例えば、松島なんどの風景にても、ああ、良き景かなと褒めたる時には、ひと口でその景象(風

景、景色)が言い尽くされて何の詮(せん、甲斐もない。頭で理解はされても胸に共感されないので

無益であると言う)もない。

 その景を誉めようと思うならば、その景の模様共を客観的に数々言い立てれば、良い景と言わな

くともその景の面白さが自ずから知れる。この類は万事に渡る事である。

 ある人の曰く、今どきの人はよくよく理詰めのことでなければ、合点しない世の中、昔語りにあ

る事に当世は請け取らない事が多い。さればこそ歌舞伎の役者などもとかくその所作が実事に似る

のを上手とする。

 立ち役(老人・子供を除いた善人の男の役)の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るのを

以て第一とする。昔の様なる子供だましのあじゃらけたる(ふざけた、馬鹿げた)事は取らない。

 近松が答えて言った、この論は尤ものようであるが、芸と言う物の真実の行き方を知らない者の

説である。芸と言う物は実と嘘との皮膜(ひにく、境目の微妙な所、中間のきわどい所)の間にあ

るものだ。

 成程、今の世は実事をよく写すのを好む故に、家老は誠の家老の身ぶりや口ぶりをうつすとは言

えども、さらばとて真の大名の家老などが立役の如くに顔に紅脂白粉(べにおしろい)を塗ることが

あるだろうか。又、真の家老は顔を飾らないからと、立役がむしゃむしゃと髭を生えたなりにして

頭は禿げたままで舞台に出て芸をしたならば、慰みになるであろうか。皮膜と言うのはこれである

よ。、

 嘘にして嘘にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあるものなのだ。これについて、或

る御所方の女中、一人の恋男が有って、互いに情を篤く交わしていたが、女中は金殿(立派な御殿)

の奥深くに居て男は奥方に参ることも叶わないのでただ朝廷などの御巣の間から姿を見かけるのも

たまさかなので、あまりに憧れなされて、その男の形を木像に刻ませて、面体なども常の人形と違

ってその男とうの毛(兎の毛)程も違わさず、色艶の彩色は言うに及ばず、毛の穴までも写させ耳鼻

の穴も口の内歯の数まで寸分たがえずに作り立てさせたのだった。

 誠にこの男を側に置いてこれを作ったので、その男とこの人形とは神(たましい)があるのとない

のとの違いだけであったが、彼の女中これを近づけて見給えばさりとは生き身を直ぐに写しては興

が醒めてほろぎたなく(小ぎたない)、怖げの立つものである。

 さしもの女中の恋も冷めて、傍に置き給うのも煩くて、やがて捨てられたりとかや。

 是を思えば、生き身のままを直接に写すならば、たとえ楊貴妃であっても、愛想が尽きる所があ

るだろう。それ故に、畫そらごととて、その像(すがた)を描くにも、又木に刻むにも正眞(しょう

じん)形を似せる内にも、又大まかな所あるのが、結句、人の愛する種となるのだ。

 趣向もこの如くであり、本の事に似る内にも又大まかな所があるのが、結句芸となって人の心の

慰みとなる。

 文句(もんく、人の語気をそのまま写して語る詞)の科白なども、この心を入れて見るべき事が

多い。

 慰みとなる物、娯楽、エンターテインメントは「虚と実の皮膜の間にある」とは蓋し古今の名言

であろう。戯曲だけではない、アートも、芸術作品も創作と現実、虚構とリアルの微妙な混合の中

に傑作が立ち上がって来る。そう、首肯させられる。

 私は、主として今の若い人を対象にして自国の古典を「温故知新」して貰い、大いに自信を深め

てもらいたい為に、浅学菲才をも省みずこうして現代語への橋渡し役を買って出ているのですが、

思っていた通りに自分自身が一番古典の有難い恩恵を蒙る次第となり、幸福長者たる面目を日々に

新たにしていて、神仏に(そしてこれは言葉にせずに私の胸の内だけに秘めていればすむことなの

ですが、私のブログを通じて私が如何なる者であるかを熟知して下さっている愛読者ですから、笑

って見過ごして下さると勝手に思い込んでいるわけで、私の素晴らしい亡妻にも)深甚なる感謝の

信(まこと)を捧げながら残された晩年を楽しく過ごしている次第で、実に勿体無く、有難い次第

なのであります。

 奇しき因縁でブログを通じて交流をなさって下さっている方々、どうか、どのような形であれ、

日本の古典に直接に触れる機会を増やして下さい。想っていた以上の幸福感と満足感を各古典は必

ず齎して呉れるに相違ないのです。

 勿論、先人たちがそうして来たように、外国から学ぶことは非常に大切な事です。それは他人の

振り見て我が振り直せ、の教えの通りなのです。しかし、最後は自分です、御自分を大切に、大事

になさって下さい。歴史を、日本の歴史を知るべきです。己の今日の姿を正す為に。

 姿形に化粧を施すことは必要でしょうが、それ以上に心の化粧、魂の歪みを真澄の鑑で正確に見

て取りり適切な処置を施すならば、あなたは間違いなく「世界一素晴らしい、幸福者」に成長でき

るでしょうから。真澄の鑑とは、歴史であり、古典であります。

 近松門左衛門の主要な作品を味読し終えて、私は改めて彼の天才性に驚嘆して、目からうろこの

思いをしています。沙翁・ウイリアム・シェークスピアも勿論傑出した大天才ですが、近松は宇宙

第一の浄瑠璃作者であり、この娯楽の享受者が一般庶民であり、日常茶飯に、今日の歌謡曲を楽し

むように気軽に軽い娯楽として「女子供までが」誰でも楽しむことが出来ていた事実は、今更なが

らに奇跡とさえ激賞してもよいのではないか。私は正直、そう感じている次第なのです。





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最終更新日  2025年10月23日 15時11分15秒
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