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こんにちは、妻です。現在私の子どもは3歳になりましたが、2歳児育児 は本当に困ったり悩んだり、うまくできませんでした。今回は、2歳児の子どもの行動で1番困ったことについて考えていきたいと思います。それは、お風呂で私の太ももをつねる行為と、私が寝ている時に髪の毛を思いっきり引っ張る行為、平手で叩く行為です。2歳児とはいえ、細い指で皮膚をつねられると非常に痛いし、髪の毛を引っ張る手をゆるめないので非常に痛いです。これが、お風呂では、私が目を閉じて髪の毛を洗っている時、私が後ろを向いている時に、寝ている時は当然私は目をつむっています。つまり、自分が分からない時に、分からないタイミングで、非常に痛い暴力を受けるということで、それは恐怖です。もちろん、「痛いからやめて」などと、怒って言ったり、落ち着いて言ってみたり、目を見て真剣に言ったり、腕をつかんでみたり、何度も何度も何度も何度も伝えました。でも、毎回嬉しそうにニコニコ笑って、やめません。なぜ怒られているのにニコニコするのでしょうか。なぜやめないのでしょうか。2歳児の感じ方と私の感じ方は全く違います。それは発達段階が異なるからです。2歳児はまだ相手の気持ちが分からない年齢です。正確には、自分とママとが違う気持ちになること、違う人間であることが分かっていません。だから、自分が楽しいときは、いつもママも楽しいものだと思っています。さて、2歳児の子どもがママをつねったり叩いたり、髪の毛を引っ張ったりします。その時、ママは怒ったりして反応しますが、子どもはママにかまってもらえて、とっても嬉しいです。そして、当然、ママも同じように嬉しいはずだと思っています。だから、ママが「痛いからやめて」と何度言っても、2歳児には理解できません。ママが嫌がっていることはよく分からないのです。「なんでつねるの?」とママから言われても、楽しいから!と思うし、自分が楽しいからママも楽しいはず!と思います。だけど、なんか違うかも?っていう予感は少しづつ感じています。おかしいなぁ、うまくいかないなぁ、分からないなぁ、と思いながら脳が成長する中で、相手の視点を獲得します。それまではまだ少し、時間がかります。だから、まだ2歳児である当分の間は、叩いたりといった暴力は続きます。ダメだと強く言えば言うほど、2歳児の子どもには響いて喜びます。ではどうすればいいのか?とママは困ります。うまく無視するとか、スルーして、何度も何度も冷静に「しません」ということだけを伝え続けることが大事で、暴力を受けないように防御したり距離をとってりすることも大事です。ママも困ってしまうけれど、2歳児の子どもも、よく分からない中で不快な気持ちになったりして、不安定になりやすい時期です。自分とママは同じように楽しい気持ちなはずなのに、なんか違うみたい、なんでうまくいかないの、と泣きます。2歳児の子どもはわざとママが嫌がることをしているわけではなく、まだママの気持ちが分からないことや、ママが大好きでかまってほしい、一緒に楽しく遊びたい、不安定なこともあるからこそママに安心を求めている、といったことを理解して、関わっていくことが大切です。ただ、いくら自分の子どもであっても暴力は痛いし辛いし、暴力を受ける恐怖は見過ごせません。時にはやり返したくなることもあります。だけど、決してやり返してはいけません。うまくスルーしたり、他の家族に育児の役割を代わってもらったり、物理的にうまくやり過ごせる環境を整えることが大事です。2歳児の発達を理解して自分の気持ちを落ち着かせましょう、みたいなことは不可能だと私は思っています。気持ちの問題がうまく処理できないなら、絶対に物理的な環境を変えましょう。さて、2歳児の暴力に耐えられなくて、気持ちがいっぱいいっぱいになった私はどうなったでしょうか。もちろん上記のような思考はいっさいできませんでした。まず怒りますよね。怒ってもニコニコしてやめないし、どんどん怒鳴る声が大きくなります。それでも子どもはニコニコしていて、私は気が狂いそうになります。そうすると、この子は言っても無駄な存在だと思って、普段も言葉をかけることをやめます。よくアンガーマネジメントで、6秒待つことは有効だと聞きますが、暴力を受けて痛いときに6秒も待てるわけがありません。一瞬で反射的にすぐ怒っていました。痛いですからね。そして、頭の中では、いいかげんにせぇよ、何回言えば分かるんや、指の骨おってやろうか、腕の骨おってやろうか、頭を持って床に叩きつけてやろうか、お前にも同じようにしてやろうか、ほんまにいいかげんにせぇよ、と思っていました。もし手が出たなら、少しだとしてもそれは身体的虐待です。過剰に怒鳴ることや無視することも心理的虐待です。そんな汚い言葉で頭の中が埋めつくされることに、虐待の可能性があることに、後から罪悪感がいっぱいで、後悔していました。こんなに子どものことが大好きなのに。こんな感じで、うまくいかなくて、辛かったです。今となっては、子どもがそれでもニコニコしていたことが逆に救いです。
2025.04.04
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こんにちは、妻です。アドラー心理学を分かりやすく書いてある『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を読んで、自分が考えたことは、①【過去とはなにか】、②【自分と他者】、③【いまを後悔しないように生きる】でした。前回に、①【過去とはなにか】、②【自分と他者】について考えましたが、今回は③【いまを後悔しないように生きる】について考えたいと思います。本には、「人間の時間は有限なので、すべての対人関係は”別れ”を前提に成り立っている」「すべての対人関係において“最良の別れ” のために努力する」「もしいま突然関係が終わってしまっても別れを受け入れることができるか」といったことが書かれていました。私は26歳の時に、特別仲が良かった友達が突然死にました。私としては、後悔しないくらいにはその友達との付き合いをしていました。だけど、私自身の想いというよりは、その友達のこれまでのことやこれからの未来を想った時、あまりに無念だと感じました。若いけれど、これまで死ぬほど頑張ってきて、やっと落ち着いてきて、これからの未来は希望いっぱいだと私が感じるほどであったのに、突然それがなくなったのです。その友達にとって自分は何かできたかなといったような、たいそうなことを上から言うつもりはなくて、純粋に無念だと”私が”感じました。その経験から、もしかして人って自分のことよりも他人の辛いことの方が、受け入れるのが難しいのではないかと気づきました。おそらく、自分のことではないから、自分ではコントロールできなくて、だから友達のことももちろんコントロールはできないもなので、だから“私が無念だった”と感じることは合ってたんだと思います。そして、せめて、コントロールできる自分の行動だけは、無念にならないように、後悔しないように生きたいと思いました。それは人との付き合いもそうです。大きな人生の目標はそう決めたけど、それを忘れている日もたくさんありました。特に、しんどくて自分中心になっている日々は、頭の中はネガティブなことが堂々巡りで、そんなことは少しも頭の中には残っていませんでした。後から、しんどくて自分中心だったことを後悔しています。だから、こういった目標を続けることも、なんとなくではなくて努力が必要なんだと思いました。そして、本にある”別れ”は死だけではなく、すでにたくさん起こっているのかもしれないと思いました。たとえば、同じ学校だった友達たちは、全国に散り散りになっていて、もう二度と会わないかもしれません。近くに住んでいる人でも、会おうとしない限りはもう会わないかもしれません。家族と喧嘩していても、仲直りしないまま明日死ぬかもしれません。だから、『いま』会いたい人には会って、やりたいことはやっておきたいと思います。自分が後悔しないためにです。できればそれを毎日継続したいと思っています。それも、たいそうなことではなくて、私にとっては丁寧に生活するということです。たとえば、道路は車が通っていなくても、斜め横断はせず横断歩道をちゃんと渡るとか、集合時間のギリギリに行って、待つことは無駄な時間だと思うのではなく少し早めに行くとか、ちゃんと歯磨きをするとか、そういったことです。たとえば、朝遅くに起きてバタバタ急いで準備すると、間に合ったとしてもなんとなく不完全感があります。朝ごはんを充分に食べてないとか、化粧が適当とか、持っていくものの準備も、マスクやティッシュなどなくても大丈夫だけどあればなお良いものに気がまわらないとか、そういう不完全感です。でも、余裕を持って起きて準備すると、自分にも丁寧に接することができるし、自分以外の子どもなどの他の家族にも丁寧に接することができます。このように、自分が丁寧な生活をすることは、丁寧な人付き合いをすることにもなります。本には、「”なんでもない日々”が試練」「”最初の1歩”が大切だが、人生は”最初の1歩“を踏み出した後から始まり、歩み続けることが試練」ともありました。まさに、なんでもない日々が大事で、それを続けることは案外“試練”なのかもしれないと感じました。でも、なんでもない日々を送りたいと心から思っています。これまで、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を読んで、いろいろと考えてきました。ところで、アンパンマンに「愛と勇気だけが友達さ」という歌詞がありますが、この歌詞を書いた人はアドラー思想でも反映してるのかなぁなどと、邪推していました。
2025.04.03
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