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こんにちは、妻です。NHKのEテレで『すくすく子育て』という育児に関するTV番組があり、よく見ているのですが、今回はその中で紹介されていた「Watch me play !」というものが気になったので、それについて考えてみたいと思います。この「Watch me play !」は、「子どもが安全な環境で大人に見守ってもらいながら遊ぶもの」です。それだけ?という感じですが、それが効果があるようです。イギリスで開発され、日本でも研究を行っているらしいです。なぜ「Watch me play !」が気になったのかと言うと、簡単に家で自分もできそうだからということと、子どもへの心理療法(プレイセラピー)に似ているからです。まず、「Watch me play !」のやり方について、ホームページを参考に以下にまとめました。【対象】0歳〜8歳の子ども【時間】週に2回、可能であればそれ以上。5分〜20分。(5分でも効果あり!)【環境】静かなところ。テレビ、パソコン、電話の電源を切り、電池式や電子式のおもちゃをしまう。子どもが想像力を働かせるような、シンプルなおもちゃを準備。 【5つのステップ】1. 準備 大事!(遊びにだけ集中する時間の確保、電子機器から離れる、シンプルなおもちゃ)2. 子どもが主導の遊び 大人が遊び方を教えたりはしない。3. 子どもの遊びを見守る 子どもの遊びの邪魔はしない。スマホを使わない。4. 遊びについて子どもに話しかける 子どもの遊びに興味を示す。5. 他の大人と子どもの遊びについて話す 子どもの遊びについて自分がどう感じているかを話したり考えたりすることも、子どもを理解するのに役立つ。文章にすると大層な感じですが、子どもと遊ぶだけです。しかも5分だけでもいいのです。どんなに、子どもと過ごすのが疲れた、面倒くさい、などとネガティブに思っていても、5分だけなら頑張ればできそうです。さて、これが、子どもへの心理療法(プレイセラピー)に似ています。子どもへの心理療法(プレイセラピー)とは、子どもは、まだ言葉でうまく自分の感じていることを表せないけれど、遊び(プレイ)を通して自分の内面を表現していると考え、それによって子どもを理解するのに役立てようというものです。「Watch me play !」と、どんなところが似ているかと言うと、まず、枠がしっかりしています。「枠」とは「Watch me play !」でいう、1. 準備、のことです。遊びだけをする時間が保証されている、電子機器から離れてシンプルなおもちゃだけを用意する、ということは、子どもが安全に安心して自分のしたいように遊べることが保証されています。次に、2. 子どもが主導の遊び、3. 子どもの遊びを見守る、4. 遊びについて子どもに話しかける、などは、心理療法の姿勢そのものです。みなみに、子どもだけでなく大人も同じです。私は邪魔をせず、あなたは何をしてもいいんだよ、自由にしていいんだよとその人に興味を示し、その人の思うように表現してもらい、それを見守ります。そして、5. 他の大人と子どもの遊びについて話す、については、子どもの遊びを通して自分がどう感じているかを考え、それを、子どもの理解に役立てます。ちなみにこちらも、先ほどと同じく大人も同様です。自分がどう感じたかは心理療法においてはとても大事です。たとえば、子どもの遊びを見て残虐な印象を受けたとして、それで苦しい悲しいと自分が感じたならば、子どもも同じように苦しい悲しいと感じていて、それを表現したのではないかと考えます。これらから、「Watch me play !」は子どもへの心理療法(プレイセラピー)に似ていると考えます。「Watch me play !」の【5つのステップ】の全てが似ていましたね。心理療法(プレイセラピー)では、大人も子どもの遊びを同じように体験することが大事です。かつ、観察をします。これを「関与しながらの観察」と言います。「Watch me play !」もただ外から見守るだけではなくて、4. 遊びについて子どもに話しかける、などして子どもの遊びの内容を理解しようとしています。子ども(たとえは私の子ども)の立場では、きっと次のように感じると思います。いつもママはスマホを触りながらあんまり私のことは見てくれないけど、今のこの時間は一度もスマホを見ずに私のことだけを見てくれた!、嬉しい!いつもは私の意思に関係なくYouTubeからどんどん勝手に動画を見せられるけど、今のこの時間は、私の意思で、私のしたい遊びが、静かだったから集中してできた!、楽しい!たった5分でも、「ながら」ではなく真面目に「遊ぶ」ことに効果があるのです。たった5分でも、ママが私だけを見てくれた体験は、信頼関係を築きます。たった5分でも、静かな環境で集中して、自分の好きな遊びができた体験は、子どもの集中力や発達を育てます。しかし、私も「Watch me play !」的なことをしようと思ったけれど、簡単に自分もできそうだと思ったけれど、実際はたった5分でも、腰が重い、よいしょがいる、と感じます。(私はとても面倒くさがりで、私こそ子どもの遊びに集中する力がありません)ですがある時についに見つけました!私なりに「Watch me play !」が特別に頑張らなくてもできる方法が!それはお風呂です!我が家のお風呂には、もともとお風呂用のおもちゃが何種類か置いてあって、入る度に何かしら遊んでいました。お風呂の中では電子機器はなく、スマホも持ちこまないし、子どもと一対一で過ごすしかしません。湯船の中では、子どもはシンプルなおもちゃでいつもキャッキャキャッキャ楽しそうに遊んでいるし、私は一緒に湯船に入っていてそれを見ることくらいしかできません。なんと、特別やろうとしなくても、お風呂では否が応でも「Watch me play !」でした。そう思ってからは、お風呂での時間を以前より大事に考えるようになりました。「Watch me play !」は子どもが主体ではありますが、私はママとしても、子どもをかわいいと思える、自分が穏やかになれる、ことを育ててもらえている気がします。【参考文献】Watch Me Play!:https://watchmeplay1.w.waseda.jp/
2025.03.19
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こんにちは、妻です。私は今まで他人の目を気にして生きてきました。何かを決断する時も、社会的にみて良さそうなことを選んだり、何かあったら合理的なもっともらしい理由をつけたりしていました。物理的にも、実際歩く時は人がいたらキョロキョロして周りを気にしたり、もしくは逆に、人と目が合わないように下を向いて歩くなど不自然に意識していました。自意識過剰ですね。人のことなんか気にしなくていいし、人も私のことは気にしていない、と理解しているつもりが、なかなか実感できませんでした。だけど、少し変われた出来事がありました。私は、誰と言うわけでもない社会からの目や、保育園での他の保護者の目などを、勝手に気にして、ほどほどに無難なイメージの存在であろうと、しばらく無髪な髪型で過ごしていました。それは、離職後、働いて稼いでいないのに美容院にお金をかけることに罪悪感を感じて、ということも理由の一つでした。ある時、保育園にも慣れてきたし、他の保護者の目とか、別に大丈夫かなと思ったときに、髪の色を変えました。現在の髪の色は緑色です。ちょっと目立ちます。それから、すれ違う人がたとえ私を見たとしても、または、見られている気がしたとしても、それは私という存在を見ているというよりかは、髪の毛を見ているのだろうと思うようになりました。そして、だんだん私自身に対する他人の目が気にならなくなってきました。ある時、定期的に行っているあるお店に行って、自分の担当のような感じで何度か会っている店員さんと会いました。数ヶ月ぶりということもありましたが、まるで初めて会うような感じで「お子さんいるんですか〜?」と聞いてきました。「はい」と応えると「えぇっ!(笑)そうなんですか〜!」というような感じの応答でした。おそらく見た目の影響があるのだろうなと思いました。なぜかというと、その店員さんは、初めて会った時も「お子さんいるんですか?」と同じ質問をしてきたのですが(なんならその後も同じ質問をすることがありましたが)、聞き方と反応の仕方がまるで違うからです。何回か会っていても同じ質問をしたりする店員さんなので、客の一人である私の記憶は薄いのかもしれませんが、緑色の髪の毛になると、別人と認識し、その私に対する薄い記憶とも結びつかなかったのだと思います。そして、無難な髪型の女性と、緑色の髪の毛の女性とでは、店員さんは人によって態度が異なるということを実感しました。無難な髪型だと子どもがいて働いている女性、緑色の髪の毛だと、、、どう思ったのでしょうか、もしかしたら実年齢よりも年齢が若く見えたのかもしれません。以前は丁寧な口調で「大変なお仕事をされていますね」とか、「お子さん大変だけどかわいいですよね」とか、客として、ある程度たててくれている感覚がありました。しかし、緑色の髪の毛の私には、口調がカジュアルになっており、子どもがいることにも意外だといった感じで、仕事のことなども聞いてきませんでした。この経験が、人の目を気にすることに対して、なにか吹っ切れるキッカケの一つになったように思います。だって、私は私で変わらないし、仕事は変わりましたが、以前も今も変わらず真面目に一生懸命過ごしています。だけど、髪型だけでここまで人の態度は変わります。だとすれば、他人はそこまで私のことを見ていないのではないのか、というように思いました。改めて、人の印象は見た目がほとんど影響していて、見た目でいくらでも印象操作できることを感じました。実態もない、自意識過剰な、「他人の目を気にする」ことで、自分の生き方が左右されるなんて、なんてもったいないんだと思いました。好きな髪型をして、好きな服を来て、好きな過ごし方をして、生きたほうが良いなと思いました。そうでないと、一寸先すら生きているかも分からないので、後悔する気がしました。これからは「他人の目を気にする」ことをやめようと決めましたが、そんなに簡単には変われません。しばらくは無難ではない緑色の髪の毛で過ごすことにより、他人は私の髪の毛をみているのだ、と思うことで、変わっていきたいと思います。
2025.03.05
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こんにちは、妻です。アドラー心理学を分かりやすく書いてある『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を読んで、私が考えたことは、①【過去とはなにか】、②【自分と他者】、③【いまを後悔しないように生きる】でした。前回、②【自分と他者 Ⅰ自立とは】について考えましたが、今回は、そのことについてさらに具体的に考えていきたいと思います。前回、「課題の分離」について、人のことは人のこと、自分のことは自分のこと、と分けて考えましょうということを書きました。そしてそれは、他者のことを信じることであり、また、自分のことを信じることでもあります。自分のことを信じて「勇気」をもって自分のことを自分で決めることが自立です。しかし、現在around 40歳の私は、未だ自立できていません。このことを『嫌われる/幸せになる勇気』は真正面から突きつけており、受け入れることはしんどいことです。では、どうしたら自立に向かえるのか、それを考えていきたいと思います。私はこれまで人の目を気にして生きてきました。それは、どうすれば他者から認められるのか、どうすれば注目を集められるか、どうすればほめられるのか、どうすれば、、、と、子どもの親への気持ち、すなわち幼少期の家庭環境の影響は大きいと思います。『嫌われる/幸せになる勇気』を読んでいて、だいたいはしんどかったけれど、唯一救われたと感じたことがありました。それは、親(あるいは別の誰か)に対して反抗することは、感情をコントロールできないのではなく、むしろ十分すぎるほどコントロールした結果の行動である、ということです。どういうことかと言うと、怒りを表出させたりして反抗する行動は、感情統制ができずにただわめき散らかしているのではなく、他者からの注目を集めるために、他者をコントロールするために、という目的があってしている行動だということです。または、自分の弱さを武器にして、他者に心配させ、それにより他者の言動を束縛する、なども他者をコントロールするために学習した行動です。自分は、情緒不安定で、感情表出をコントロールできず、喜怒哀楽を自分の中で抑えられずに出してしまいます。それはただの欠点で、未熟で、未だに治らず、対人交流に不利な、とても否定的なことだと思っています。分かっているなら治せば?と考えるけれど、それができないから困っています。でもそれが自分自身なので、感情コントロールができないことに否定的なことは、すなわち、自分で自分の存在に否定的なことであり、悲しいことです。それを、むしろ他者の目を気にして十分すぎるほど自分をコントロールした結果の行動である、と肯定してくれました。自分の否定的なことを、目的があって学習して得た行動だとすると、じゃあ今後はどうすればいいのかと、なんとなく考える希望が見える気がします。本を読んでいて、もう一つ気になる言葉がありました。メサイヤ(救世主)コンプレックスという言葉です。これは、劣等感を払拭できない人の優越(他者より優位と思いたい)コンプレックスの一形態で、人を助けることによって人より優れていると思いたい、というコンプレックスです。私は心理学を勉強し始めたとき、目に目えない精神的なことで苦しんでいる人を助けたいんだといった動機がありました。そして、精神科病院へ就職しました。べつに対人援助職に就くことが駄目なわけではないけれど、私はこのメサイヤ(救世主)コンプレックスのために、人をただ助けたいだけというピュアな目的ではなかった、ということを確認させられました。もしかしたら本来は自分が援助を必要としていたのかもしれません。このコンプレックスを解消したいと。その状態で他者の援助に一生懸命になると、本来の目的である自分の問題は解消されません。結果的に離職し、もう人と関わる仕事からは離れたいと思って今に至りますが、あまり意図せず決めたことだったわりには、良い判断だったと思います。なぜなら、自分の問題は他者に解決してもらうのではなく、自分で向き合う必要があるからです。そして、自分の価値は他者ではなく自分で決める「勇気」をもつ必要があります。それが自己中心性からの脱却であり、自立です。アドラーは、人は、何をしたかという「行為」ではなく、そこに居るという「存在」だけで他者に貢献している、と言っています。なのでそこに居るだけで、つまり誰かと存在し合えるだけで、他者と貢献し合えているということです。ふと、私の2歳の子どもの顔が浮かびました。あの子はたとえイヤイヤしても、私がイライラしても、間違いなく存在するだけで可愛くて、居ないと淋しくなります。そこに居るだけで私に貢献しています。だから、もしかしたら、私も、誰でも、そこに居るだけで誰かに貢献しているのかもしれません。しかし、私は居るだけで人に貢献しているんだといったポジティブな考えはすぐには受け入れられません。まずは、居るだけでいいんだという理解を持って、人を助けるとか特別な行為をしなくても、普通でいる「勇気」を持ちたいと思います。アドラーは「共同体感覚」という言葉を使っています。これは、自分は集団の一員だと感じ、自分を信じ、他者も尊敬し信じることです。大昔、狩りをして生活をしていたころ、人は集まってコミュニティを作り、それぞれにやることを分業して協力していました。決して一人では生きられません。現代も、誰かがやらないといけないことを誰かがしており、その分業の考え方は変わりません。つまり、仕事の優劣はないのです。給料を稼ぐだけに価値があるわけではなく、家事育児にも同じく価値があります。私は仕事をしていないこと、お金を稼いでいないことに負い目を感じて、自分は役立たずだと思っていましたが、この「存在」するだけで他者に貢献しているということや分業の考え方を自分の中に取り入れる「勇気」を持ちたいと思います。
2025.03.04
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こんにちは、妻です。アドラー心理学を分かりやすく書いてある『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を読んで、私が考えたことは、①【過去とはなにか】、②【自分と他者】、③【いまを後悔しないように生きる】でした。前回、①【過去とはなにか】について考えましたが、今回は、②【自分と他者】について考えたいと思います。アドラーは対人関係について、「課題の分離」ということを言っています。課題の分離とは、人のことは人のこと、自分のことは自分のこと、ということです。たとえば、自分がある人と会話をしていて、自分が言ったことに対してその人が不機嫌になったとき、自分のせいでその人を怒らせてしまったと考えるのではなく、不機嫌になったことはその人自身の課題である、と考えることです。たとえば、自分がある人のことを想ってその人が失敗しないように、いろいろと先回りして教えたとき、それはありがた迷惑なことであり、その人がもし先回りして教えられないまま失敗したとしても、それはその人の課題である、と考えることです。または、これらの逆も同じです。ある人のせいで自分は不機嫌にさせられた、あの人が教えてくれなかったから自分は失敗した、と考えることは間違いで、不機嫌になったのは自分の課題、失敗したのも自分の課題、と考えます。私はこの考え方がなかなかできません。課題の分離とは、他者を信じることだと思います。他者が何をしようと、その人を尊重して、その人の考えることや行動を尊重して、自分は介入しないということです。たとえば、夫の家事のやり方にもっとこうした方がいい、こうしてほしいなどと言ったり、夫に健康に良いことを押し付けたり、という夫への介入は、夫のことを尊重していません。夫のすることに手を出さずに信じることが課題の分離です。そして、自分に対しては、たとえ環境や状況がどうであっても、あの人のせいだと思っていても、自分のすることに他人は関係ない、自分で自分のことに責任を持つ、ということです。これは自立ともいいます。私はこれまで、人の目を気にして生きてきました。だから、「他者に望まれているだろう私」像を想像して、それに沿って生きてきました。それは、他者に認められることを目的としていて、承認欲求ともいいます。この生き方は、さも相手のことをよく見ているように見えますが、実は自分のことしか見ていません。この人は私を認めてくれるのだろうかと、自分のために他者評価を使っているだけで、自己中心的な姿勢です。つまり、自立できていません。たとえ何十年生きていても、死ぬまで自立していない人はたくさんいます。他者評価に頼っている限りは何歳になっても自立できていません。自分のことは自分で決めて、行動していくことが自立です。しかし、それは、私にとってはけっこうしんどいことです。他者に言われたことに従う方が楽だし、他者の責任にできます。だから、私は自立しないことの方が楽です。だけど、自分のことを自分で決めない、自分のやりたい事を自分で選ばない、ということは、多分あまり楽しくありません。他者に従わないと、もしかしたら「嫌われる」かもしれません。それでも、自分のやりたい事をすることは、自分の「幸せ」なことです。タイトル回収ですが、他者に「嫌われる勇気」を持って、自分の「幸せになる勇気」を持つことが、自立であり、本来の自分の姿です。課題の分離は相手を信じることと上記しましたが、自分のことも同じように信じることが必要です。アドラーいわく、その信じることに「勇気」を持ちましょう、ということでした。その勇気をもつことも、しんどいことです。私は現在around 40歳ですが、こんなに生きてきて、法律的には20歳くらいで大人になっていて、子どももいて、、、それなのに、未だ自立できていないと認めなければなりません。精神的になかなか大人になれないな、未熟だな、と思い悩んでいましたが、本当に自立できていなかったのです。そのことは、これまでの、それなりにもがいてきた人生を、まるで否定されたような感覚です。「勇気」をもつには、まずそれを受け入れることが必要だから、とても苦しいことです。この本を読んでいて、それを突きつけられるようで、しんどかったです。しかし、自分が自分らしくあるために必要なことなので、そのことについてさらに具体的に考えていきたいと思います。②【自分と他者】が長くなりそうなので、また別で。
2025.03.03
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