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あれからもう1月末ですね。 父は4日を乗り越えただけじゃなく、今でも眠り続けてます。 脳の大半が死んでしまったため、植物人間になってます。 最初はできなかった自発呼吸もしっかりしてます。 人工呼吸器は15日に手術をして気道に穴をあけ、首から繋いでいます。 自力で咳ができないため痰の吸入が欠かせません。 口から人工呼吸器を入れていた時は痰を吸い出すのも非常に苦しそうで、時間もかかり、何度か痰が詰まって窒息しそうになり先生を呼んで緊急処置しましたが、 喉に穴をあけたことで気管に入ってた管もなくなり本人的にも分かるかどうか不明ですが楽そうで、 痰自体も取りやすくなったそうです。 喉から痰を取ったあとへの口になり口をなかなか開けてくれなくて「怒ってる~!?Iさん口開けて~」と看護師さんを困らせています。 目も時々開けて「お父さん起きてるの?」というときもありますが、見えてはいなく視線も追わないので光を感知してる程度と思われます。 耳は最期まで残る器官だそうで病室にいるときや来た時や帰るとき話しかけています。 話は理解してるか分かりません。 相変わらずつねっても手を大きく動かしても反応はなく、目を開けたり口をムニュムニュ動かしたり大あくびしたり、手や足をぴくっと動かしたりするのも脊髄反応で自分の意志ではないそうです。 最初のうちは肺炎で毎日39度近くまで熱を出して抗生物質が欠かせなかったり、痰が頻繁に詰まって機械がピーピーなったり心臓の機械もピコンピコン頻繁になり、 しかも体が固くならないため体の寝る向きを2時間ごとに看護師さん2人で変えてくださるのですがこの後に危険な状態になり大変でしたが、どれも今は落ち着きました。 たまに目を開け、今は昏々と眠り続けています。 気持ちよさそうに眠って、たまにするあくびや口をムニュムニュするしぐさが可愛くてお父さん可愛いなぁと思いつつ。 8日に兄と決めて泊まり込みをやめ、普通の生活に戻る事にしました。 そんなに仕事も休めないし、先生も戻った方がいい、幸い持ってくれているし、とおっしゃってくれました。 もし仕事中に父が亡くなったら仕方ない、と決めました。 兄は頻繁に休めないので、私はパニック障害のため週3日しか仕事してないので私がまめに病院に来るよ、と言い、兄は来られるときに来ているようです。 伯母たちも割と頻繁に来てくれています。 私が行けなかった時は父の様子を伝えてくれたりします。 父と食べる予定で買った箱買いのミカンやリンゴが消費できないので伯母の家に持っていったり、伯母に頼まれて買い物したりしたついでに夕飯をごちそうになる機会も増えました。 1人で生活していると夕飯なんて適当に済ますのできんぴらやお鍋がありがたいです。 兄と父の通帳や保険を見ていろいろ整理しています。 父が継続通販していたものを中止したり、電気のアンペアを下げたり、私が新聞を読まないので新聞をやめたり、家の駐車場を片付けてそっちに車を入れるために今の駐車場を解約したり。 お金のかかることは極力やめています。 灯油ストーブを使っていましたが灯油代と電気代がかかるので電気ストーブに変えたり。 今は一軒家に私1人でいます。前は父が入院してても退院があるから寂しくはなかったけど、もう父は家には戻ってこられないのでずっと一人。 近所の付き合いがある方には父が心筋梗塞で倒れたことは伝えてあったので会うとお父さんの様子どう?と声をかけてくれていましたが、 私が頻繁に雨戸をあけ忘れることがあるので心配してくれていたようです。 近所のおじさんとおばさんたちにお父さんの事聞かれたので話しました。 何かあったら何でも言ってと言ってくださいましたが、極力自分の事は自分でやらなきゃです。 (ただ、救急隊員の人が入れないからと外した玄関の格子戸が取り付けられなかったので向かいのおじさんが手伝って取り付けてくれました。優しい。ありがとう) 仕事先では案外私が変わらず仕事してるので安心したと言われました。 さすがに4日から休み続けて初出勤したときはすごく心配してくれていましたが。 オーナーさんともあいかわらず仕事上がりに20分ほど仕事の話や父の話、くだらない話などしています。 1度一緒に働いてるUさんが私の事を「元気そうだけど笑顔が笑っているような泣いているような感じがする」と言っていたと聞かされてた時は泣きそうになりました。 生活はほんとに普通です。眠って起きて、食べ物は美味しいと思えるし、将来の不安が何もない。逆におかしいんじゃないかと思えるくらい普通で感情が壊れたのかと。 たまにボロボロ涙が出るけど、慌ただしく洗濯して部屋が散らかり放題だからたまに片して、めんどくさい皿洗いして。 もうお父さんと話はできない。 私が作った料理を食べてくれない。 一緒に月一回の贅沢の回転寿司にも行けない。 もう一緒に旅行行くこともない。 ケンカもできない。 話して笑うことも、愚痴もきいてくれない。 母が亡くなって17年、2人で暮らしてきた日常に二度と戻れない。 でも病院に行けば眠る父がいる。それだけでいいんです。父が生きてるってことが嬉しいんです。 先生からは健常な人が人工呼吸器をつけても持って1年、父の場合は癌や心臓病があるから持って数カ月と言われています。 でも明日の事は考えないで、今日の父に会いに行きます。 顔色もよく、気持ちよさそうに眠り続けて、ほんとにあと数カ月?と不思議に思えるような感じです。 状態も落ち着いてきたので今日相談員さんと話をして、今後療養病院に移すそうです。 出来たら今の病院でケアしてほしいけど、そうもいかないようで。 自宅で介護も、もっとひどい状態で介護してる人もいるけど、人工呼吸器に機械をいっぱいつけてる今の状態ではかなりの覚悟がいるそうです。 私の場合、手伝える人が近くにおらず、伯母たちも高齢で兄も仕事や家族があり、私1人になってしまいみんなから無理と言われたので、療養病院になります。 出来たら近くの病院がいいけど、そんなとこに父を1人にさせるのは可哀想だな。 また更新しますね。 長々すみませんでした。
2019年01月29日
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4日は病院に行く日。私は父が心筋梗塞起こした日から何かあってもいいように居間で寝ていました。私は6時頃起きてスマホをしていたら、7時過ぎころかなぁ。父が起きる音がしました。トイレに行く音から洗面所でドライヤーをかけていて、私もトイレに行ったのでその音は聞こえました。そのとき父に「おはよう」って声をかければよかった。だっていつもの日々が続くと思っていたから居間に戻って、父が来たらおはようって言って、昨日の科捜研の女の感想や重大発表は何だったのか聞くつもりでいました。私がまとめておいたごみを父が出しに行きました。私が行ったほうがいいかな…そう思っていました。行けばよかったんです。ゴミ出しくらい。ゴミ出しから帰ってきて洗面所に行った父が、しばらくすると息を深く吸い込むような、吐き出すような音を出し、すぐにドタン、と音がしました。あ。と思ってすぐに居間の扉を開けると父が倒れていました。目はつむっていて、口からはうーという声が漏れていました。「お父さん、お父さん!」と声をかけすぐに119へ電話。この時は冷静に対処で来ていたと思います。救急隊の人はすぐうちの場所を把握してくれ、今向かってます、と。何をしたらいいか聞いたら気道確保してくださいと。父のところに戻り、首を後ろに曲げ「息して、息してお父さん」ですが父の反応が無くなっているのに気づき、すぐまた119番、心臓が止まってると。心臓マッサージの方法をすぐ指示され、父の心臓を1,2,3・・と繰り返し押し続けました。心臓って本当にべこっと押せるんだな、とか、そんなことを考えつつ、お父さん、救急車くるからね、息して、ずっとマッサージをし続けました。救急車の音が聞こえたとき、やっと来た!と思い玄関へ。救急隊の方が処置を続けてくださり、私は居間へ移動して救急隊の方にお父さんの保健所を渡し、質問に答え、すぐに一緒に病院に行ける用意をしてくださいと言われ適当な服に着替え、兄の携帯がつながらないので、兄の家へ電話しました。さっちゃんが「あらむむちゃん、あけましておめでとう」「あけましておめでとう、お兄ちゃんいるかな?」「今すぐは出られないけど、伝えるよ」お父さんが心臓が止まって倒れたこと、これから救急車で運ぶことを伝えるとさっちゃんはびっくりして、すぐお兄ちゃんに伝えるから!と。地元の心筋梗塞時に入院してた行きつけの病院か、埼玉医大か聞かれましたが、今の状況から行ける方をと伝え、地元の病院へ連絡を取っていただき、父を救急車へのせ、私は前に乗りすぐにしゅぱつしました。救急車の中でもずっと心臓マッサージは続けられていました。地元の病院は5分程度で着き、すぐ処置室へ。私は家族室へ連れていかれ、兄に地元のS病院にいることを伝えました。しばらくしたら救急隊の方が見え、今の状況、引継ぎなど伝えてくれました。父は心臓が動いたと聞いたとき心底ほっとしました。しばらく後、考えたよりも早く兄が来ました。(いえ、もっと時間は経っていたかもしれませんが、けっこう早く兄が自宅から来たのでびっくりした)今伝えられる人に電話した方がいいよね、と、兄は母の実家へ、私は父の妹の伯母姉妹へ。私は仕事先に連絡し、しばらく休む旨伝えました。先生にしばらくして呼び出されました。父は口から管をいれられ胸はバクバク大きく動かされていました。色んな機械がついていました。そして先生から、心臓マッサージが遅かったため脳がダメになったこと、これは回復しないこと、ガンで片肺が潰れていること、今日持つかどうかわからないこと。兄は立ち尽くし、冷静に話を聞いて返事を返していましたが、私はそのあと泣き崩れてしまいました。なんで、なんで今日なの。だって朝まで普通に動いてたじゃない。私朝何も話さなかった。家族室にまた連れていかれ、兄とぽつぽつと話をしましたが、よく憶えていません。多分どんなふうに倒れたか、その後の経過とか、誰に連絡した方がいいかとか、そんなだったと思います。LINEで父の様子や病院の結果などは兄にまめに連絡していました。なので経過は分かっていたと思います。兄は泣かないって強いなぁ、とか考えつつ、ガンで片肺潰れてたとか、なんで?だって先生良くなってるって言ってたじゃない?あれなんだったの?優しいウソ?ぐるぐる考えているうちにまた先生が来てくれて「もう時間の問題ですね」あっけなく父とお別れなんて、こんなことってあるんだ…もうすぐお父さん死んじゃうんだ‥涙は出なかったです。感情がすっ飛んだというか。兄が伯母たちにそのことを伝え、しばらくして伯母たちと伯父、あと母の実家から連絡受けて近くに住む母の妹の叔母ちゃん夫妻が来てくれました。(さっちゃんも来てくれたんだけど、風邪をひいていたので早々に帰宅しました)処置室隣にある個室に移された父の前にみんなで囲んで父の名を呼んだり話しかけたりしました。父に付けられた心臓の機械の数値がめちゃくちゃ上下して、すぐピコンピコン音がしました。父は眠ったままでした。いつまで父の顔を時々見つつ座っていただろう。伯母たちが一旦帰り、気づいた時には15時回っていてびっくりしました。8時にここに来たような…もう15時?早いね?父の様子が少し落ち着いたとのことで、5階の個室に移されました。それからみんなで長い時間を過ごし、今日は持ちそうだとのことで、夜皆一旦帰り、兄と私が泊まり込みました。泊まり込みは4日続きました。その間兄も休みを取ったので下のコンビニでご飯を買い、食べ、ペットボトルを飲み、皆が来てくれて父を囲み話をし、帰ったら兄とぽつぽつ話をし、夜は交代で眠り…父は一向に目を覚まさない。いつ急変するか分からない。意識はないのに苦しそうな父。病室で兄にもし仕事に復帰して、仕事中にお父さん亡くなったら動揺しない?大丈夫?と話したことがあります。兄は高速バスの運転手で、長距離の運転が多いため、連絡受けてもすぐに帰れないからです。兄は、残酷なようだけど、ガンって聞いた時から覚悟はしてきたからね、もし電話受けても動揺はしないと思う。と答えました。私は覚悟が足りなかった。兄のような覚悟がなかったんだな。兄の強さが分かった気がしました。オーナーさんに電話したときは、むむさんとお兄さんがいろいろしてくれてから、お父さんは幸せだったと思うよ?と言ってくれました。そうじゃないよ。私は散々父に迷惑かけて心配させて。親孝行すらしてない。母の時に後悔しつくしたから、父にはその分後悔しないよう、自分の時間を父に使おうと決めたのに。結局後悔だらけ。ご飯作んない日もあった。もっとご飯美味しいもの作ればよかった。あれだってこれだって。父の寝顔を見ながら、後悔ばかりしました。
2019年01月29日
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本当にお久しぶりです。書こう書こうと思っていたんですけど…なかなか筆が進まなくて。まず父の免疫療法ですが、病院に行って採血、レントゲン、1時間くらい待って診察、そのあと点滴ルームで「イミフィンジ」の点滴。点滴はお父さんが来てから用意して点滴するので合計90分くらいかかるんです。で、その間付き添いはできないので私はテラスで飲み物買って終わるまで待って、一緒に帰宅。というコース。ほぼ1日がかりですね。これを2週に1回、金曜に行ってました。で、これが本当によく効いてたんですよ。1回で癌がほぼ無くなっちゃって先生もびっくり。効いてますよ!って。ただ、私が気になったのはレントゲンの肺に映る白いもやもや。なんか回を増すごとにもやもやが広がってるので先生に「これなんですか?」って聞きましたら、薬が効いてる証拠ですね、としか。副作用もなくしばらくは元気に点滴に通ってたんです。でも12月に診察したら「間質性肺炎になってるのでいったん点滴お休みしましょう」イミフィンジって調べたらアストラゼネカの製品で。お母さんと一緒の間質性肺炎って、ここの商品は必ずかかるのか!?って思ったほど。でも先生が言うには、間質性肺炎になって半年ほどお休みして、また点滴して・・・という患者さんもいらっしゃるので大丈夫ですよ、とのことで・・・。次は1月4日に診察になり、その間はお休みしていました。でも、日に日に父の呼吸がおかしくなって、少し動くとぜーぜーと息切れするようになりました。私が仕事から帰ってきたら「お父さん、今日居間掃除したら死にそうになったよ!」と。歩く、動く、そんな動作ですぐに息切れがするようになったんです。「なんでこんなに苦しいのかなぁ」「動くとすぐに息切れするんだよなぁ」思えばこの時医者に連れて行くべきでした。でも1月4日が近かったため、父も次の診察の日でいいよ、と言っていてそれを信用してしまった私も今思うとバカでした。年末は父が動けないため、トイレ、台所、居間、風呂と私が掃除し、30日も調子が少し良かったため一緒に年末、正月の買い出し。父には押して歩くかごを持っててもらって、必要なものは私が走って持ってきて、お刺身とお昼のピザは一緒に選んで。31日は買い込んだお酒を飲みつつ手巻き寿司、父も美味しそうに食べていました。食欲がめっきり減っていたんですが、この日は美味しそうにほおばって。年末日本の歌や紅白や、テレビを見つつ、ゆく年くる年を見て「あけましておめでとう」私だけ初詣に近くの神社に行き、父は1時には寝ていました。元旦は早くから起きて、父が毎年作ってくれるうちのお雑煮「せぇもち」(福島の地方料理)を作り、おせちとお刺身を用意し、張り切って買った久保田を開けつつ乾杯。「今年もケンカもするかもしれないけど、よろしくお願いします」せぇもちやおせちをつまみ、テレビを見つつお酒を交わし、来年もこんな正月が過ごせると良いな。と考えつつ。夜はお歳暮にもらったしゃぶしゃぶ用のお肉でお野菜も入れてしゃぶしゃぶ。本当に楽しい正月でした。2、3日は私が仕事。2日は父と箱根駅伝を見つつせぇもちを食べ、少し寝て仕事へ。3日はほぼ寝て過ごして仕事へ。「じゃあ行ってきますー」「いってらっしゃい」それが最後の会話になってしまいました。
2019年01月29日
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