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マクルーハン「メディアの法則」(NTT出版)の訳者(中澤豊氏)あとがきから引用する。マクルーハンは、演繹とか機能といった論理学の用語は避け、「概念(コンセプト)から知覚内容(パーセプト)へ」という彼らしい表現で、抽象的な「思惟」よりも、「観察」の重要性を説いている。そして、観察をより確かなものとするため、知覚の偏向(バイアス)への注意も怠らない。マクルーハンのアフォリスティック(箴言集・金言集的)な記述スタイルは、フランシスベーコンに倣った、理論的知識の体系が押し付けてくる近くの変更に対する反撃であった。アフォリズムは、通常、箴言集・金言集と訳される。要は、体系的に論述する(演繹・帰納・弁証....)のではなく、具体的事実や根本法則を破断的に提示することによって、論理ではなく直感に訴える言論形式ではないたろうか。☆私は考える。ブログのエントリーというものは、ひとつの体系としての分量を許されない。カテゴリーとしての連続した文脈を提出することもできるが、果たしてそれが、そのような文脈の中で読まれるかどうかといえば、それは疑わしい。もし、私のブログの閲覧者が、私というひとつの文脈を理解してくれれば、私は次のように、ブログに書くことはなかったはず。私は、1000件以上にも登るエントリーを読むことを閲覧者に強いることはできぬ。私は、スポンタという固定的な文脈を知ってもらうことが、読者・閲覧者の理解に資すると思って、エントリーを溜めてきた。だが、その結果に起こったことは、逆である。スポンタという固定的な文脈を、読者・閲覧者に強いることは傲慢・僭越である。*そして、ブログというフレームでは、帰納や演繹という体系・文脈として、言論を提出することはできない。それは、アトグランス的にパソコンディスプレイで情報に触れること閲覧者の生理から言っても当然のこと。このブログの1つのエントリーの文字数の限界は、1万である。ということは、400字詰め原稿用紙25枚以内で、訴求点をまとめなければならない。原稿用紙25枚という分量が、演繹や帰納に適していないことは言うまでもない。体裁が整えられた論文を想定するならば、原稿用紙25枚というのは、演繹や帰納を構成するひとつの項目としても、足りないぐらいである。*ひとつのエントリーについて1万字という制限は、ブログの閲覧者の生理から言って、限界的な字数である。そして、シリーズとしてエントリーを読み連ねるかといえば、それも極めて疑わしい。何故なら、日記の時系列は、現在から遡る形で提示されているため、シリーズをはじめから読むということが、ネットでの習慣として奇異であるからだ。☆思えば、私の中では、25枚という原稿は、極めて中途半端な分量である。何かを論述するに、最低限必要な枚数は、100枚だろう。そして、200~300枚が適当な枚数である。きっちり、じっくり語る・論じるならば、500~1000枚必要だというのが、本当のところ。しかし、そのように詳らかに丁寧に書かれたものを誰が読むのか。といわれれば、極めて寂しい状況になる。「幻想の市民参加型ジャーナリズム」の分量は350枚である。私は仕事の合間の1カ月(1日2時間、土日は8時間)ほどで、一気に書き上げた。そこに提示されている言論はほとんどブログにおいて提示されていたものである。だが、それに私は満足をせず、何故そのようなものを書いたのか。それは、私自身の体系的な言論に対する劣等感であり、アフォリズム的な言論の集積では価値を見出されぬという絶望があったからである。*当該原稿のブログのアクセス数は、すでに1万3千のアクセスを集めて、更新はせぬものの今だに1日の数十件のアクセスを集め、時として100件を越えることもある。だが、それをエントリー数106で割ってみれば、理解できる。延べにして、私の作品を全部読んだ人は、122人に過ぎない。体系的な文脈として、「幻想の市民参加型ジャーナリズム」を捉えるならば、極めてお寂しい状況となる。だが、ひとつひとつをアフォリズム式の集積物として考えれば、状況は変わってくる。1万3千は1万3千であり、122ではない。そもそも、ブログという文体・文脈の中で、体系的な情報提示をしようとした私が間違っていた…。そのことを、マクルーハンとフランシス・ベーコンは教えてくれる。☆そのようなブログの文脈において、私が言えることは次のようなものである。もし分からない語句があれば、スポンタと当該用語をキーワード入力してググルことによって、理解を深めて欲しい。キーワードとは、アフォリズム(箴言)の核をなす単語である。その単語と私のハンドルネームを入力すれば、閲覧者の理解に資すると期待するのだ。フランシス・ベーコンのペンネームが劇聖・シェイクスピアではないかといわれるような16世紀の人物である。グレン・グールドの友人であり、1980年に亡くなったマクルーハンの言論ではなく、16世紀の思想家の言論を引いて、ブログを論じることの意味をかみしめている…。ベーコンは、「学問の進歩」(服部英次郎・多田栄次訳、岩波文庫p242~243)の中で次のように述べている。それとは別の、重要な、伝達方式の区別は、アフォリズム式か、あるいは体系式かの知識の伝達である。それについて注意すべきことには、どの主題についても、少数の一般的命題あるいは所見から、本式のできあがった学問をうちたて、それにいくつかの叙説をつめこみ、それを実例をもって説明し、もっともらしい体形式の書き物にまとめ上げることがあまりにも習慣になりすぎている。ところが、アフォリズム式の書き物には、体形式の書き物などの及ばぬ、多くのすぐれた長所がある。すなわち、まず第一に、アフォリズム式のものは、筆者が浅薄なひとであるか、堅実なひとであるかの試験になる。というのは、アフォリズム式のものは、嘲笑されるようなものでない限り、諸学の真髄からつくらざるをえないからであるが、それというのも、例証のための説明も省かれ、実例をあげることも省かれ、脈絡と順序のための説明も省かれ、実際の応用のための叙説も省かれるからである。それで、アフォリズム式のもののうちにもられるべきものは、ある適量の所見だけであり、したがって、健全で、しっかりとした基礎のある人でなければ、何人もアフォリズムを書く資格はなく、書こうと企てても無理であろう。ところが、体形式のものにおいては、「順序と配列は大きな力を持っていて、平凡なことから取材したものにも素晴らしい光彩を与える(ホラティウス『詩篇』)」ので、解体されればつまらぬものになってしまうようなものでも、うわべだけはりっぱな学問にされるのである。第二に、体系式のものはむしろ同意や信用を得るには適しているが、行動を指示するには適していない。というのは、体系式のものは、一種の循環式あるいは相互的証明の方法をとり、各部が互いに説明しあい、それゆえに納得させるものであるからである。ところが、個々の事例は個々別々のものであるから、個々別々の指示がそれにもっとも適しているのである。最後に、アフォリズム式のものは、断片的な知識を示すので、一層深く研究するように人々を誘うが、それに反して、体系的なものは、うわべは全体のような様子であるので、研究の果てまで来たかのような安心感を人々に与えるのである。「メディアの法則」(マーシャル&エリック・マクルーハン。訳・中沢豊 NTT出版 P346より)私は、16世紀の思想家の原稿を読みながら、佐々木俊尚氏の言説を思っていた。何故、研究対象・領野を共有する彼と私の言論がこれほどまでに乖離しているのか。フランシス・ベーコンは、体系的記述スタイルとアフォリズム的記述スタイルを比較しているが、その底にある意識の違いに気づかなければならぬのだろう。☆私は、マクルーハンとベーコンの言論を持って、自己肯定をしようなどとはついぞ思ってはいない。1970年前後に「マクルーハン詣で」などとういう言葉が誕生し、メディアからひっぱり凧になったにも関わらず、学会からは冷ややかに見られたマクルーハン。そのような事情もあって、彼の思想はメディアに消費されつくすと、ブレーク後の彼の名声には翳りが差したという。それをして、佐々木氏の名声と私の無名をメタファーするならば、それはルサンチマン(感情的)すぎるのかもしれない。とはいえ、インターネットの存在しない16世紀の思想家が指摘したことが、新鮮に捉えるとは、なんとも痛快なことである。否、グーテンベルグの活版印刷の普及期に生きた稀代の思想家が感じたことと、21世紀の我々がインターネットの普及において感じていることが等しいというのは当然のことなのだろう。ベーコンの著作を一作とて読んでいない私であるが、シェイクスピアの正体とも疑われるベーコンの著作が、アフォリズムの現出であることは容易にイメージできる。*ベーコンのような地位やマクルーハンのような名声のない私が、アフォリズムで語っている。何故、アフォリズムで語るのか。それは、ブログというメディアの制約上の出来事でしかない。だが、体系的でないことに劣等感を持つ必要は無い。散文的であることは恥じるべきだが、アフォリズムであることを恥じる必要はない。そして、体系的であることこそ、出口のない現在を語ることであり、明日への入り口を見失う所作なのである。
2007年05月05日
時事通信社の湯川さんがNHKラジオ第一放送に出演するとmixiで知り、番組の2/3を聞いた。マクルーハンは、「メディアはメッセージ」であるという言葉を残している。私のキャリアは、ずっとメディアと付き合ってきた。だから、どのような立場に彼がいたか。そのことが推測できる。彼は、何を言うことができて、何を言うことができなかったか…。とはいえ、湯川氏はいつもの親しげのある語り口で、いくつかのエスタブリッシュとして、極めて厳しい発言をしていた。・いまのネットは、西部の荒野が都市になっていく過程である。・メディアがユーザーのニーズに応えていない。・現行・著作権法の不備・匿名・実名論争の不毛(携帯サイト・韓国ネット自殺をとりあげて)湯川氏は、西部の荒野から都市になっていくと形容している。私も最近、「ブログがすでに終った」と論じたアルファブロガー氏に、ゴールドラッシュに群がった金の亡者たちにとってのブログが終わったに過ぎぬと、言論している。私の中の西部は、ジョンウェインの映画だったり、映画「ダッジシティー」「真昼の決闘」でしかない極めて貧しいイメージだ。だが、アメリカ西海岸に長い間暮らした湯川氏には、西部の荒野とロサンゼルスの都市が明確なビジュアルとしてイメージできているのだろう。*最近では、番組の裏事情をリークすることがはやっている。いままでタブーだった、ジャニー喜多川氏のエピソードも、ジャニーズ事務所のタレントたちが、「You...○△□しちゃいなよ」と言われたと暴露し、スタジオの笑いをさそう。二枚目俳優として活躍していた沢村一樹氏は、バラエティー番組でエロ話を披露して話題になると、最近では、トーク番組の出演前の打ち合わせになると必ず、「エロ話をお願いします」とディレクターに懇願されるという。そういえば、ある女性タレント(私の記憶では勝恵子?)は、料理挑戦番組で、誤って重曹を入れてしまい膨らせて、スタジオの爆笑を呼んだ。番組のディレクターは、次からも爆笑をお願いします。と、懇願したようだが、彼女は、報道番組のキャスターでもあったので、料理学校に通い、当該番組で爆笑を呼ぶことはなかった。女医の西川史子も嫌われキャラを作っているというし、磯野貴理も、すべりキャラを演じている。番組の出演者が、すべて小倉優子のようなコリン星のプリンセスを演じてるとはいわないが、すべからくメディアの出演者は高校野球の選手同様、監督の指示によって役割を演じているに過ぎない。そのような予定調和の世界だから、予期せぬ発言が新鮮で、大受けになる。だが、その大受けも、次からは二番煎じよろしく繰り返される…。*では、そのような番組制作者たちが、意図的に何かを行なっているかといえば、そうではなく、まさにマクルーハンが言うメディア(放送枠)からメッセージ(文脈)を感じ、そのストーリーと不即不離の関係にある個別のコンテンツを組みあげることに努力しているのだ。新聞には新聞の文脈・文体があり、テレビ・ラジオも同じ。それぞれのメディアには、すでに読者がいて、その読者のニーズに合致した番組をつくらなければならないのだ。☆そのようなことを思いながら、湯川さんのMIXIに次のように書き込んだ。NHKラジオ第一の休日の午後という文脈が分からないのでなんともいえませんが、湯川さんとしては、思っていることのどれほどを喋られたのでしょうか…。 きっと、20%くらいじゃないかな。 というのが、私の感想です。 ☆ 実名・匿名論争にしても、インテグレーター(引用者・第三者重要度審査員)が介在しないから、問題が起きているに過ぎない。 ネットの最大の利点は、集団の自浄作用であり、そのシステムの現出をエスタブリッシュたちが拒んでいるから、いまのネットの問題が存続しつづける。 その見えざる意図は、労働組合ができるのを拒んでいる企業経営者と同じ。 一人の個ならば、言論に対抗できるけれど、団結されたら、自らの立場が危うくなる。 それが、今、ネットで起きていること。 ☆ 鼎談者の一人のチャーリーさんはネットでは発信しないというし、エスタブリッシュのブロガーでも、コメント欄を閉じたりやTB欄を認証制にする人も多い。 そして事が起こるや、コメント欄が閉じられることも多い。 歌手の絢香。そして、若槻千夏…。 対話を拒絶することは仕方のないことかもしれないけれど、そういう自分を誇らない、少なくとも恥じることは必要ではないかと思っています。 湯川さんの仰るように、対話を粘り強く続けなければならない。 それに尽きるのでしょうね。 ありがとうございました。 追記: 番組で提起されたネットの問題の多くが、インテグレーターの介在と、多様なアルゴリズム(言論の抽出方式の組み合わせ)の並存によって解消できるのに…。 と、残念でなりませんでした。 いまネットで何が起きているか。という議論をする前に、ネット世界がいかにリアルな世界と違う常識によって動いているか。そのことをまず、提示しなければならなかったのでしょうね。 ☆このブログの読者であれば、上記のテキストが、私が思っていることの20%も述べていないことを理解していただけるだろう。何故、そのようなことになったかといえば、SNSというクローズド・コミュニティーというメディアの中で存在するテキストだからである。湯川さんが「対話の重要性」を指摘するならば、私も一言付け加えたい。「発信者は対話を拒んではならぬ」。対話を拒む発信は、ピンボンダッシュでしかない…。*いつか、私のインテグレート論・アルゴリズム論・ステークホルダー論・言論の最小単位論・コミュニティー論・トリガー論たちが、沢村氏のエロ話のように、メディアのディレクターたちに所望される時が来る。そのときが来るまでは、湯川氏同様20%の持論を提出しながら、その時を待つことにする…。とはいえ、言論の妥当性・有効性によっては、ユーコリンのコリン星バナシのようなキワモノ扱いに終わる可能性もある。余談は許さない。
2007年05月04日
佐々木俊尚さんの「グーグルの次にくるもの」について論じている。☆グーグルの時代がずっと続くような言説が巷間あふれているが、その議論は浅薄である。何故なら、グーグルには明確な不備があり、それがグーグルが現状のままであることを許さないからだ。☆その論脈の中で、私はまず次のように指摘した。Googleの本質は、Top 5 by Quantityのリストを作ることでしかない。 その指摘から導き出されるのは、次に記す、グーグルにつきつけられている目標であり、すでに取り組まれてだろう課題である。Googleは、Best 5 by Quarity(質)にup grade 昇華すべきである。☆量的勘案から質的勘案をすべし。と、書いてきたが、実はもうひとつの視点が抜けていることを、佐々木俊尚氏は指摘してくれる。佐々木氏の言説はこうである。グーグルはPageRankというランキング付け精度が優れているアルゴリズムの検索エンジンでインターネットの世界を席巻したが、この次に来る物は、機械のアルゴリズムによってお勧めされたものではなく、「誰それが」お勧めしているという、情報がより重要になってくるだろうというお話。その他にも色々な話があるけれども。(シバチョ氏の要約)そして、私は気づく。グーグルの本質は、アルゴリズムなのであるグーグルという企業が特定したアルゴリズムによって、ベスト5ランキングをつくっているに過ぎないのだ。私たちは、アルゴリズムという言葉を理解しないまま、グーグル信仰をつくりあげている。SEO業者が、ディファクトスタンダードとなったグーグルを絶対視して、対策を練ることには必然がある。だが、検索者であるネット者が、アルゴリズムに対する勘案なくして、グーグルを信仰する浅薄さを思いいたらなければ、なんともはや…。ということになる。☆アルゴリズムなどという奇怪な単語にごまかされてはならぬ。アルゴリズムとは、仕事を最小にするために仕組まれるシステムにすぎない。☆甲子園大会を、高校野球全国トップを決める仕事だと考えてみよう。トップを決める唯一確かなやり方で、仕事を最小化したのが、夏の大会である。夏の大会では、地方大会と全国大会ともに、トーナメント(ツリー状)をして、日本一を決める。だが、第三決定戦はないから、三位が2校、四位は空位である。もし、夏の甲子園で、全国高校野球ランキングをつくるならば、準決勝で負けた高校が3位になるだろう。全国優勝校は、確かに全国の頂点である。だが、ベスト4では、半分の結果が推測値でしかない。さらに言えば、ベスト3~4位の学校があり、次に、ベスト5位~8位の学校があり、次いで、ベスト9位~16位の学校がある。ならば、トーナメント方式(ツリー状)は、ベスト1を決めるには、効果的な方法(確かさ100%)であるが、それ以外の確かさは、不確定である。つまり、準優勝校と優勝校に破れた3位の学校が対戦して、必ず準優勝校が勝つとは限らないのである。勝負が運気に左右されるような時間軸で変わるものではなく、時間軸で変化しない絶対値を争うようなものだとしても、結果は同じである。つまり、夏の大会で決められるのは、地方大会のトップと全国大会のトップでしかない。それ以外のランキングは、確かさ100%ではない。☆春の選抜甲子園の場合は、そのトップさえも確かさ100%ではない。ここにおいて、アルゴリズムの恣意性はトップ1にも波及している。つまり、秋の地区大会で地区優勝をしたからといって、春の時点で強いとは限らない。そこで、大会審査員の主観によって選ばれた選抜出場校が全国優勝を果したといっても、その時点で、全国一であるかどうかの確かさはない。唯一、権威ある春の選抜優勝大会で、優勝したという価値を持つに過ぎない。このような恣意的な主体である、選抜大会の主宰者と同様な意味で、グーグルがネットに君臨しているに過ぎないのだ。☆日本の高校野球の春の大会と夏の大会の違いをメタファーにしたが、サッカーのFIFAの世界ランキングを思えば分かりやすい。ブラジルが世界一なのは、たしかだとしても、日本のランキングを信じている人たちがどれほどいるだろうか。世界ランキング20番台の日本が、世界ランキング50番代の国に苦戦する。負けることも珍しくない。☆グーグルによってアルゴリズムの詳細が非公開・クローズドされているから、ネット者たちは、それを信じることしかできぬ。だが、ネットが技術進化をすすめていくなかで、ネットにおける公共インフラをめざしているグーグルにも、アルゴリズムの公開を要求するムーブメントがおきてくるに違いない。それは、マイクロソフト(クローズド・ソース)がリナックス(オープン・ソース)の登場によって、翳りをさしたことと同じ状況が起こるに違いない。グーグル(クローズド・アルゴリズム)は、次世代検索ツール(オープン・アルゴリズム)によって、無力化する運命にある…。☆重要度勘案に関する独占権をグーグルが持っている。それが問題である。だが、私は、「グーグル八分」などといって、代替物もないのに批判することを意図しない。「フラット化する時代」の著者によれば、マイクロソフトに対抗するためにIBMはリナックスに資金を出した。ならば、グーグルに対抗するためにマイクロソフトが、次世代オープンアルゴリズム検索ツールの誕生に尽力することは、当然の流れである。これからは、オープン・アルゴリズム検索ツールを用意することが時代のニーズである。さらにいえば、グーグルに席巻されているマイクロソフトの苦境を思えば、そのような企画に、ビルゲイツが参画・助力することを時代の必然とみる。☆FIFAランキングを信じないサッカー者の多くが、ネットでは、グーグルのリストを信じている。私には、そのような時代がいつまでも続くとは思えない…。追記:NHKスペシャルのグーグルを特集した番組では、グーグル本社が、SEO業者に内部情報が漏れないように、厳しいセキュリティーシステムを配備していることが紹介されていた。それは図らずも、アルゴリズムがクローズドであることが、グーグルの根幹であることを示している。*今後開始されるだろうオープン・アルゴリズム検索ツールでは、すべてのネット者に合理性のあるアルゴリズムの選択が求められる。したがって、論理性のない利己的なアルゴリズム設定を行なうものは、開発コミュニティーから追放される。そのようなやりとりによって、極めて合理的で理想的なアルゴリズムを使った検索システムが構築されるのである。
2007年04月22日
トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」を読んでいる。私はかつて、同著を論じているが、それは下巻からの感想である。そして、今、私は上巻を読んでいる。ま、それは世田谷区の図書館のご都合で妙なことになっているのだが、それはそれでいい…。さて、すでに私は、同著は、「フラットとは、南北問題が解消すること」であり、優越する立場でなくなるアメリカ人の危機感をあおるための著作であると書いている。今回感じるのは、フリードマンが観察者ではあっても、言論人ではないということである。そして、次のように断じる。彼は、フラット化する世界。などと、危機感をあおるのではなく、次にやってくる時代の指針はインテグレートであると示唆すべきだった」。そして、この著作の決定的な不備は、インテグレート機構の不在を嘆いていないことである。p172には、「ブログ:ニュースや評論のアップローディング」との小見出しがある。そこでは、当然のように2004年秋におきたCBSのアンカーマン・ダンラザーの降板を取り上げている。私は仔細を知らないが、ほんとうに、ブログvsCBSなどという構図があったのかどうか、今の私にはとても疑わしいことに思えている。それは、フリードマンが同著p.140以降において、「コミュニティー開発ソフトウェア」に関する記述をあげているからだ。☆コミュニティー開発型ソフトウェアを述べるなら、誰もがリナックスを想起するだろう。だが、フリードマンは、リナックスの前に、アパッチのことを語っていく。アパッチとは、ウェブサーバーシステムのフリーソフトである。フリードマンは、コミュニティー型開発といっているが、2007年の今において、リナックスの開発システムとでもいえば大方は理解してもらえるだろう。簡単にいえば、これは究極の公共財といっていいもので、誰もそのソフトを販売してはならぬというもの。ならば、プログラムを書いても、誰も利益を得ることができぬ。だが、使いたい人が作るという理想のもと、開発は頓挫することはない。だが、そんなことをフリードマンは書いていない…。☆ソフト開発の現場で劣勢に立った、IBMがマイクロソフトに対抗するために、アパッチの開発にIBMが協力・資金提供したのだ。IBMは成果物で利益を得ることはできないが、マイクロソフトに打撃を与えることは、総合的な企業利益には通じる。ハード志向でやってきたIBMにとって、コンシューマーパソコンのソフトの分野の一社独裁に一矢を投じることは意味があったに違いない。考えてみれば、日本でも同様なことは起きている。機能的にみて、優れている「親指シフト」という入力方式があり、それをもとに富士通は、パソコン界のリーダーシップを取ろうとしていた。だが、そこでNEC陣営は、JIS規格をすすめることで、富士通主導でワープロ業界がすすんでいくことを阻んだ。敵の敵は味方という単純な論理である。☆そして、OSの世界でも、グヌーに端を発して、ヘルシンキ大学のリーナス・トーバルスがリナックスを提唱する。それを、フリードマンは分析する。リーナスは何もしていない。全部やったのは、IBMである。…と。☆なあぁんだ。(・_・)そんなこと、知らなかったよ。びっくり…。フリードマンさん。教えてくれてありがとう。☆でもさ、だったら、CBS vs ブロガーのフェイズだって、違うと思うんだよね。きっと、CBSに対抗する陣営がブロガーの言論をトリガーにして、弾丸にして、CBSを追い詰めていったに違いない。たとえば、ブッシュ政権やそれに連なる人たちが…。そこにこそ、パワーがあるのであって、インテグレートシステムを持たないブロガーは、いまだに何のパワーも持っていない。そこにこそ、気づくべきであって、その不在を嘆くべきだと思うのです。インタグレーターの不在。それが、インターネットの最大の問題であり、インテグレータの創出にこそ、新しいビジネスの芽があると確信しているのです。
2007年04月03日
私が社会に否応なくはじきだされた20年ほど前。浅田彰という人が一世を風靡していた。彼は、「構造と力」を書き、世界をリードするフランス現代思想という世界があることを教えてくれた。アカデミックな体系を持たぬ私には、なんど読んでも、その言説がまったく体の中に入ってこなかった。あれから、20年以上。ぺヤングソース焼きそばなら許されることかもしれぬが、現代思想などという生ものが変わらなくていいのか…。脱構築主義以降、かの業界には、新しいヒーローは登場せず、いまにおいても、ガタリやドゥルーズが語られている。つまり、現代思想がポストモダンのまま、思考停止に陥ってしまったのかを考えてみるべきです。そのような中で、揺らぎの一つともいえるのが社会構成主義かもしれませんが、門外漢の私から見れば、脱構築の先を提示したかに見える社会構成主義は、ポストモダンよりも退行していると感じられます。☆結局のところ、フランスの思想界の人たちの停滞は、アクティビズムを実行したサルトルの惨憺たる晩年を見てしまったから。だから、身動きがとれなくなった。そして、脱構築を旗印に戻らなければならない時代は、第二次世界大戦の前や、産業革命以前、または、フランス革命以前といった比較的最近ではなく、遥か昔、ギリシァ文明以前に戻ることなる。それがなかなかできぬ。そこにフランス現代思想者たちの桎梏がある。☆もうひとつは、彼らのステークホルダー。脱構築主義とは、「現実を疑ってみよう」ということだと思うのですが、それというのは、今までの価値観をシャッフルしてしまえということ。しかし、現存の価値観の上で、巴里の学者たちは絵札を沢山もっている。シャッフルした後に、自分の手元に絵札があるかどうか分からない。だから、脱構築などと言ってはみたものの、誰もシャッフル・脱構築などを試みなかった。脱構築を喧伝した人たちは、実はサルトルを見殺しにした人たち。彼らは、サルトルほどの豪華なカードを持っていなかったから、シャッフルに加わらなかった。そういう卑怯ものたちなのです…。そのことを観客たちも気づいていたから、サルトルが亡くなった時に彼の名誉回復がなされたのでしょう。☆門外漢の私にとって、「脱」と言っておきながら、向かうべき方向も新たに集合する場所も明示しない輩は、はなはだ無責任だと感じています。そして、それは、リゾームなどというもうひとつの構造を見つけることでもない。☆結局のところ、私が何を指摘したいかといえば、フランス現代思想家たちは「人の子の親としての良心」を持っていないということです。もし、あなたに子供がいれば、あなたは、人生の門出に立ち、青雲の志を持つ息子に、「現代社会の構造は幻であり、疑ってかかれ」などと説諭する親を理解できますか。許すことができますか?さらにいえば、「現代社会の構造は邪悪なものだから、逃げ出せ」とでもいうのでしょうか。カタカナによって参入障壁をつくって、一般論を禁じるディレッタントな人たちの心の底にある不毛を感じずにはいられません。あるべきは、世の中には善も悪も満ち満ちているが、それらに染まず漂わず、自らを失うことなく行きぬけと…。☆唐突ではありますが…。親たれば、映画「デスノートthe Last Name」で鹿賀丈史である父親が、息子・藤原竜也 に対するように、いまの人類の叡智を肯定せねばならぬ。もちろん、そこには瑕もあるし、間違いもある。だからといって、それを否定することに何の意味もない。私には、藤原竜也演じる神夜月なる人物が、脱構築主義を論じた者たちに見えている。ライト君(神夜月)は、ギリシァ以前ともいえる百鬼夜行の世界を操っている。だが、脱構築主義者たちはそのような悪に染まる勇気さえない。この物語は、直観力と論理力を併せ持つ少年・エルのある決心・決意で大団円を迎える。原作者が「デスノート」の結末に込めた思いとは、私の脱構築主義の行く末とも重なってくる…。☆結局のところ、差異ではじまった現代思想が、差異を巨視化したに過ぎぬ構造に注目し、その枠から逃れられなくなった。その枠の価値を自分で高めるだけ高めてしまったので、引くに引けぬ事態に陥ってしまったのである。門外漢には、ことは単純に見える…。木を見て森を見ず。を批判して、始まった議論が戻るところは、木に立ち返れということ。それは、私が一貫して主張している。コミュニケーションの時代が終焉し、個のアイデンティティーが重要になる時代がくる。と等価である。
2007年03月22日
「インターネットガバナンス-理念と現実」(会津泉著)を読んだ。著者は、多摩大学 情報社会学研究所 主任研究員 ということだから、「新聞がなくなる日」の歌川令三先生の同僚ということになるだろう。歌川先生の研究会のメンバーとしては、傍ら痛いことではあるが、言論の根本からして会津氏と乖離していることを明確にしなければならない。そして、それは、単に私と彼との言論の乖離というのではなく、エスタブリッシュメントと非エスタブリッシュメントの乖離であり、生産者と消費者の乖離であり、その間隙は決して埋まることはないと絶望している。そして、何故、私がその絶望に負けずに言論するかといえば、どのような商品においても、消費者に対して生産者の数の割合は殆ど無視できるほどに少ないはずなのに、生産者やそれに組する者たちの言論しかメディアに登場していないことを憂いてのことである。☆そもそも、インターネットにガバナンス・統治するなどという概念は似合わない。それは、帝国主義的国家のみならず、極めて民主主義的な国家をイメージしたとしても、成立しえない。その理由は何かといえば、24時間365日の連続会議が可能なインターネットにおいて、代議制は合理性を持たぬからである。そのようなインターネットにおいて、委員会制度や理事会を想定することは、本来フラットであるべきインターネットで、自らの優位性を保持・獲得しようとするエスタブリッシュの試みである。彼らは、委員会や理事会をつくることに専心し、エンドレスな議壇をつくることをしようとしない。☆衆愚に委ねては、インターネットの存亡に関わるルールを決めることはできぬ。との批判もあるだろう。しかし、そのような批判こそ、硬直した過去の論理であり、旧態然としたものなのである。☆ガバナンスというものが、どのような条件によって、成立してきた概念かを考えてみればいい。リアルな場において、人間というものは、一つの場所にしか存在できぬ。そして、一端存在してしまった以上、すべからく統治を逃れることはできぬ。そして、統治を合理化するものは、何らかの外敵・外圧である。つまり、離れ小島で、ちいさなコミュニティーが存在しているとき、それは共同体であって、政府や国家ではない。だが、突然黒船のような外来者がやってきてコミュニティーの安逸が危険にさらされるようなことが起きると、単なる共同体は国家への変貌せざるをえないのである。そして、自らの共同体の同胞が彼らの幸福を約束するかどうかも分からない。外来者の統治が必ずしも不幸を呼ぶとは限らぬことを、いまのハワイ諸島の繁栄を想起すれば、理解できるはずだ。☆インターネットは無限の地平である。したがって、有限の地面の所有権を争うことに意味はない。したがって、ガバメントにも合理的はない。まず行なうべきことは、24時間365日継続して有効な論議が行なわれる論壇をつくることである。そして、その論壇の意見を元に、エスタブリッシュがインテグレータをつとめることである。エスタブリッシュが、何者の代表者・代弁者であるかが、そこで明白になる。そして、そのようにして、施行案ができあがる。☆そして、ひとつのルールができあがる。だが、そのルールに合意するかどうかは、すべてのネット者の判断に委ねられる。つまり、新しいルールに合意しなければ、そのコミュニティーに参加しなければいい。それだけのことだ。コミュニティー構成員の意見と乖離した委任者たちの合意によって、コミュニティーの方向が決定するのではない。コミュニティー構成員たちが直接合意したルールのもとに、新たなコミュニティーが誕生し、その内容に合意するものだけが、新しいコミュニティーに参加するのだ。(この指止まれ方式)☆村井純教授は、IPV6の立ち上げのために尽力している。その必要性は理解するし、そのために尽力する彼の努力は尊敬に値する。だが、もうひとつの視点として、IPV6は、その外の世界としてIPV5を否定することができぬ。そこにこそ、これからのインターネットの未来がある。旧来の思想を引きづったインターネット・ガバナンスなどいう概念に意味はない。☆会津氏は言う。インターネットの理想は、自律・分散・協調である。と。そして、ガバナンスの理念は、集中・統一・管理である。…とも。だが、インターネットの理想に、協調はない。他者の言論によって、自説を曲げることを理想とするなど、馬鹿げた話である。インターネットの理想とは、言論の対照化であり、個の言論のコミュニティー内での進化・深化である。インターネットを主導しているような頭のよい人たちが、そのことに気づかいていないとは考え難い。きっとステークホルダーの奴隷と化して、目的追求的所作ではなく、手段追求型所作に陥っているのだろう。インターネットがこれほどまでに新しい思想を提出しているというのに、それを否定し続けているとは、何とも嘆かわしいことだ。
2007年03月19日
今回の2ちゃんねるの閉鎖騒動を時代の転換点と捉えるならば、ここから読み取るべきことは、「メディアを介したコミュニケーションでは、表現の自由はけっして実現しない」こと。だが、RSSリーダーのような「メディアを持たぬP2Pのコミュニケーションでは、世論は形成されぬ」。 これでは、情報の海の片隅の存在に過ぎぬメディアが復権し、メディアを牛耳る強権者(既得権者)たちのバイアス(偏向)のかかった言論の時代はいつまでも続くことになってしまう。 そうしたP2Pコミュニケーションの不備を埋めるのが、インテグレータ(統合者)・オーソライザー(署名者・権威づけ者)である。 インタテグレータという個がネット上に存在し、個が提出する情報を精査し、要約・対照・統合していく。そのようなインテグレータの多層な作業によって、メディアを介さずに世論が形成されていく。 情報は個やメディアを離れ、もはや、情報そのものによってしか存在しない。 インテグレータ上位の個は社会的な認知度・信用度が高く、扱う情報は世論として認知され、オーソライズ(権威化)される。 いま、四大新聞の一面を飾る記事は、新聞社という権威によってオーソライズされた情報であり、政府・企業・関係者たちは無視することはできず、即刻対応するか説明が求められる。現在のマスコミは、そのようにして世論提示システムとして機能し、社会に影響力を行使している。 P2Pの時代にあっても、同様なことがインテグレートとオーソライズを通じて行われなければならない。 では、そのようなインテグレートとオーソライズを行うものが誰なのかといえば、そのような高度な知力を市井人に望めることはできない。市民記者は情報提供者にはなれるかも知れぬが、高度な洞察力・分析力、そして、国語力を兼ね備えたジャーナリストにはなれぬのである。ならば、インテグレートとオーソライズの役割を果たすものこそ、これからの時代が求めらるジャーナリスト像といえる。したがって、もし歌川氏が言うような「新聞がなくなる日」がきたとしても、新聞人たちがやらなければならぬことはなくならないのである。(以上、6957字)論外追記:東京財団に提出した原稿はこの原稿とはまったく別物です。つまり、その後、歌川氏、赤川氏との対話を得て、あらたにインスパイアーされ、私という個の文脈の上にありながらも、アウフヘーベンされたものです。ご期待ください。
2007年03月16日
【メディア型コミュニケーションの時代から、P2Pコミュニケーションの時代へ】 私は、2006年初夏から、インターネットのこれからは「P2P(メディアを介さない情報交換)の時代」であると説いている。P2PというとWinneyに象徴される違法システムと捉える向きもあるだろうが、基本的には、ネットワークの情報伝達のネックが一極に集中するという性質を持っているクライアント・サーバー・システムに究極の負荷分散をもたらすシステムである。 Winneyでは著作権の侵害が問題になったが、私の論では著作権は捨象している。情報の個人取引・物々交換といった意味合いだ。 2ちゃんねるの反社会性はさておき、「自由な言論空間」が無くなることは憂慮すべきことだ。 さらにいえば、言論を封じるにあたり、コンテンツ(情報そのもの)やコンテンツサプライアー(情報発信者)をターゲットにするのではなく、メディア(媒体)をターゲットにするのは、極めて論理性を欠く。 30余名の死者を出したオウム真理教の布教メディアとして機能した京都大学のキャンパスが、「自由な言論の場」という理想のもとに、事件発覚後も一切の規制が加えられていないことと対照すれば、今回の2ちゃんねるの閉鎖騒動が異様であることが理解できる。 勿論、無数に存在する発信者たちのもぐらたたきに勝機を見出せない強権者たちが、メディアを攻撃目標にすることで勝利を目論むのは当然のことではあるが…。では、何故、2ちゃんねるが閉鎖騒動に巻き込まれたかといえば、それは、2ちゃんねるがメディア型コミュニケーションだったからだ。 メディアという実体がある以上、介入は可能だ。情報介入を許した場合、情報内容と情報価値に特定のバイアスが生じてしまうことは避けられない。メディアを分散し、情報のバックアップがとられたところで、構造的欠陥は解消しない。 だが、P2P型コミュニケーションならば、一切の介入を許さないシステムが構築できる。韓流ドラマの大ヒット作「冬のソナタ」のヒロインは、「私の記憶は私のもの」と名セリフを吐いたが、いかなる権力によっても、個のローカルな情報に介入できぬことは間違いない。 いかにストレージメディアを分散しても、ログの廃棄を強制する強権力からは逃れられない。だが、個人のローカルなログ(情報の記録)は、いかなる強権といえども介入できぬ。 ならば、個人の言論を基本単位として、それらのリンケージ(連携)やインテグレート(統合)を図ることによって、自由な言論空間をつくればいい。 インテグレートとは世論形成システム。個の言論たちを統合し、社会の意見として形成していくことである。 グーグル検索はメディアを感じないP2P的なシステム(キャッシュというストレージがあることはさておき…)だが、その検索を左右するのはアクセス数である。 そこで、ネット企業はSEO対策を練りアクセス数を水増しする。行き過ぎた不正を行う広告主に対しては、グーグル八分が行われる。人気投票は客観的評価のひとつだが、組織票の影響を免れない。私は、「人気投票とは、議論を尽くせぬままに採決を行ったもの」と断じる。
2007年03月15日
【2ちゃんねる閉鎖騒動】 2007年1月15日、ネット上の巨大掲示板である「2ちゃんねる」が、運営者・西村博之氏の債権未払いに関連する閉鎖騒動に巻き込まれた。 これは、カテドラルの主(既得権者)たちが、バザールに集まった人たちに退去命令を出したと、形容することもできる。 考えてみれば、カテドラルもバザールもメディア(媒体)の上で情報を交換してきた。だから、メディアの危機が訪れれば、その上にあるコンテンツも変質せざるを得ない。また、メディアが攻撃目標にされ、情報伝達が停止に追い込まれることも避けられない。 だが、カテドラルやバザールがなければ、人と人は情報を伝達できないのだろうか。メディアがなければ人と人はコミュニケートできないのだろうか…。 そんなことはない。いつの時代も、人と人はコミュニケートしてきたし、それはメディアがあろうとなかろうと関係がない。 それが、P2P(メディアを介さない情報伝達方式)の時代である。 メディアの構築には対価がかかるため、その対価を支払った個が権力を持つ。権力を持った個はそのまま発信者となり、言論を欲しいままにする。それが、グーテンベルグの発明以来世界中で繰り広げられてきた伝統だ。 だが、インターネットの登場により、メディアの構築費用は限りなくゼロに近づいた。 結果、いままで対価を支払うことで強権を得ていた発信者の合理性が希薄になる。これまでメディアを持つ余裕のなかった人たちが発信権を持つことにより、いままでメディアを牛耳ってきた強権者たちの歪んだ言論が糾弾されることが日常になった。 2006年。ブログが普及し巨大掲示板が一般的になった。そのトピックスは、有名人ブログの炎上や、既存マスコミが、批判という文脈ながらも、インターネット言論を引用しはじめたことだ。 インターネット言論の社会的注目度は限りなく盛り上がり、堪りかねた強権者たちは、一致団結して、言論封鎖をしかける。そして、2007年。正月早々に2ちゃんねるの閉鎖騒動が起きるのである。 悪名高い2ちゃんねる。それが世の中から失われて喜びの声を上げる人たちも多い。だが、この稀有なスケールを持つメディアが、多様な言論を許容してきた役割は大きいし、その価値は高い。 この言論のサンクチュアリ(聖域)が、管理人である西村博之氏が訴訟の一切を発言者に代わって引き受けることで成立していたことは重要である。 私は、「2ちゃんねるは、管理人の西村氏が訴訟のバッファ(緩衝材・調整槽)となることで、かろうじて成立している」と指摘してきたが、今回の閉鎖騒動がどう展開していくにしても、管理人・西村氏がゲートやフィルターではなくバッファでしかなかったことが理解できる。論外追記:黒崎氏が指摘するように、ブログスフィアも実は、ブログスペース運営会社のビジネスの上に乗っかっているバイラルなものであることは、言うまでもない。だから、2ちゃんねると同様に、ブログ上に公序良俗に関わる言論が提示されれば、公権力の介入は避けられない。事実、イザというブログスフィアにおいて、運営者からブログ者への削除依頼があった…。ブログスフィアは自由な言論空間ではない。☆昨週末、私はトリル氏と公権力の窓口を訪れたのだが、公権力の側もそれ以外の手段を想定していないようである。(私はトリル氏の行動に同意したのではなく、純粋コメント者トリル氏が抱える問題を体現したかったのである…。)彼とは初対面であったが、素直な印象を述べれば、私と同じ、非エスタブリッシュの側にいるようだ。彼には思いがあり、理想があるが、エスタブリッシュへの恨みはない。そういう清清しい人物…。窓口の担当者に思いを語るトリル氏は苦戦していた。私は、その窓口の担当者にすぎぬ人に、RSSリーダーというものが広がっており、メディアを通じたコミュニケーションではないから、被害の実態が分かりにくい状況になっていることを指摘した。ま、P2Pのコミュニケーションなどと突然言われたとしても、私よりも年長である非ネット者にはなかなか理解できなかったことだろう。今回は、まだ、公権力が介入するレベルに達していないし、トリル氏も善意の第三者でしかない。☆私は、公権力が介入することによって、世の中が窮屈になっていくことを指摘したが、窓口担当者もうなづいてくれた。問題を当事者同士が解決できなければ、民間のインテグレータが解決を模索する。そうしてはじめてオーソライズ機能とでもいうように公権力が介入にいたるべき。しかし、現状は、当事者同士も解決のための労をとらない。インテグレータも存在しない。結果、当事者にすべての原因があるにも関わらず、法の不備や公権力のふがいなさに不満をぶつける。そのようにして、窮屈な日本ができあがっていく…。☆語らぬことで自己主張ができぬ純粋コメント者トリル氏は、多くの気づきをこれからも私に与えてくれるだろう。
2007年03月14日
【カテドラルとバザール】 マスコミ型の情報配信の形をカテドラル(伽藍)型式。インターネットをバザール(市場)型式と定義されることがある。 カテドラルには、権威者たる情報発信者が存在し、集まった受信者たちに情報を伝達する。情報の流れは一方的であり、出版や放送をイメージできる。 一方のバザールは、カテドラルの門前の市場である。情報発信者は複数存在するが、彼らは必ずしも権威者ではない。受信者たちも私語を禁じられていないから、対話が成立する。情報発信者が複数存在し、受信者たちもけっして孤立していない極めてインターネット的な世界である。 この概念は、インターネットをオルタナティブ・メディア(既存メディアの対称物)と捉える文脈上にある。既存型のカテドラルな情報伝達形態を補完する意味で、より自由なバザールな情報伝達形態が存在するのだ。 だが、インターネットがオルタナティブ・メディアだったのは、ブログの普及前だ。ブログの登場により、カテドラルの中の発信者たちも対話を強いられるようになった。ブログ空間から沸き起こる対話の中から、アメリカの有名ニュースキャスターのダン・ラザーが降板するといった事象も起きた。 いまもカテドラルの発信者が、カテドラルに集まった聴衆に一方的に情報を発信する状況は変わっていない。たが、バザールでの噂話がカテドラルの主たちの耳にも入る。その結果、カテドラルの発信者たちが言説を変えたり、発信する権利を失うことが起きている。 そして、カテドラルの発信者に限らず、エスタブリッシュな発信者のほとんどは、ネット上の対話を拒絶する。2007年においても、そのような現実を捨象し、「インターネットを対話型メディアである」と喧伝して恥じぬ者がいるが、彼らはスポンサー企業の短期的な利益しか考えぬエバンジェリスト(業界語用論者)に過ぎぬ。長期的企業戦略に立てば、メイカーフレンドリーな方針は必ず挫折し、ユーザーフレンドリーな方針が実を結ぶに決まっているのだから、彼らの言説は参考には及ばない。追記:ダン・ラザーの一件は、発生当時においては、ブロガーが巨大メディアに勝利したことを示していた。だが、だが、巨大メディアNBCが行なったのは、トカゲの尻尾切りにすぎない。ブロガーは、アンカーマン個人には勝利したのかもしれぬが、それにより報道体制が見直されたわけではないだろう。報道機関の責任などといわれるが、その実体は、実態解明であり、原状復帰であり、再発防止であり、賠償金の支払いである。その尺度に照らし合わせれば、ダン・ラザーの降板が、報道機関の責任とはまったく関係がない、臭いものには蓋的な行為であることを理解していただけるだろう。ダン・ラザーはスケープゴートにされたにすぎないのだ。
2007年03月13日
【アナログvsデジタル論争の終焉。かつて言葉はデジタルだっだ】「私はアナログ人間だから…」といって、パソコンを操らないことを言い訳できる時代はすでに終わった。パソコンが苦手と言って憚らない中年者たちも、リビドーの手伝いもあって携帯電話の使い方をマスターしている。 あのアナログvsデジタル論争は何だったのか…。 デジタルが事象を無限に切り刻んでいくならば、出来上がるものはアナログと同じ。デジタル技術は、アナログな世界を切り捨てて数値的な世界にしてしまうのではなく、より精細なアナログな世界を構築していく。 言葉こそ、リアルな世界に存在する複雑で微妙なものを一刀両断に切り捨てて記号世界に引っ張り込むという、極めてデジタルなものなのだ。世の中には、寸分たがわず同じリンゴなど存在しないのに、リンゴが一つ、リンゴがふたつと言って、誰も疑問に思わない。パソコンで扱われるものとそうでないものをデジタル・アナログといって分別することにはじめから意味などなかった…。 いまでもインターネットをオルタナティブ・メディアと定義する人たちがいる。だが、既存のジャーナリズムに対して、ネット上の言論がオルタナティブ(相互補完的)かといえば、それは極めて疑わしい。 新聞人・歌川令三氏は、「新聞がなくなる日」(草思社2005/09/06)と言い、経済学者・池田信夫氏は「ネットがテレビを飲み込む日」(洋泉社2006/07/10)と言う。だが、それはセンセーショナリズムでしかなく、現実を正確に捉えていない。追加補足:フランス記号論では、差異こそが認識であると言ったが、私はすでに「差分のないコミュニケーションに価値はない」といっている。幸福も、現在と未来の変化量デルタと等価であり、コミュニティーの求心力も、外部因子との差異でしかない。そのように、世の中は、ストック(ためこむこと)型価値観からフロー(ながれること)型価値観に変化してきた。否、万物は滅びるのだから、溜めておいた食べ物の腐る。ならば、人間というものは、もともとはフロー型な処世術を身に着けていたのだろう。フロー型社会の中で、自己のアイデンティティーをどこに求めるかといえば、差異でしかない。だが、それが他者をリファレンスすることによってしか実感できぬところに、人間の悲劇があるのだ。
2007年03月11日
【表現したい私の中のむずむず】 私は、かつてメディアの人間であった。 テレビでは、ひとつのコンテンツをつくるのに、100人が関わる。舞台では、50人というところか。プロモーションでは30人ぐらい。ラジオ番組では5人ぐらいが関わっていた。 20代半ばの私は、使いっ走りや駆け出しでしかなかったが、コンテンツづくりで一番の手ごたえを感じたのはラジオ番組だった。 ブロードバンド元年といわれる2000年。私は、インプレスでブロードバンド番組のディレクターをした。半年ほどで私は役割を終えたのだが、当時も今と変わらず、インターネットの社会的な評価は、犯罪予告、援助交際、集団自殺を誘発するメディアであって、芳しいものではなかった。 とはいえ、あの頃も今もインターネットは、個が単独で世の中に表現できるツールである。2004年、それまで個人サイトを続けていた私は、個人ブログを始める。そして、2005年、ホリエモンブームの中で、ライブドアがはじめた市民参加型ジャーナリズムに市民記者として参加することになった。 ライブドアのインターネット市民新聞の主宰者は、大学で新聞学を研究する人物。研修会でジャーナリストが持つべき心得えを知ることになったが、私は何ひとつ納得できなかった。「取材対象との一定の焦点距離を必要とするジャーナリズムは、他人の悲しみさえも自分の悲しみとする市民感情と相容れない」。これは研修を終えた数日後の私を捉えた言葉だ。様々な軋轢を経て、半年を待たずして、私は書かざる市民記者になっていた。 2006年夏。編集長に鳥越俊太郎氏を迎えてオーマイニュース日本版がスタートした。インターネットにおける市民参加型ジャーナリズムの社会的認知度は、数年前に比べはるかに上回っている。だが、一向に盛り上っていない。 その理由は、「ネット上の市民参加型ジャーナリズムは、既存マスコミ文化の延長線上にないこと」。既存マスコミ出身者たちが運営に携わっている限り、市民参加型ジャーナリズムの成功はありえない。 だが、日本における市民参加型ジャーナリズムの誕生を危ぶむ声はあっても、誕生を歓迎しない声はひとつとしてない。 だが、アルファ・ブロガー(有名ブロガー)を中心とするいままでインターネットに主導的な役割を果たしてきた人たちの中にも、市民参加型ジャーナリズムを成功させるタレントが存在しない。彼らは情報技術関連のビジネスマンであって、民主主義の理想を真剣に考えたことのない人たち。彼らが求めているのは、儲かるビジネスモデルであって、民主主義の理想ではなかった。
2007年03月10日
東京財団による研究会「それから」の作業が大詰めにはいっている。研究テーマは、ジャーナリズムの「それから」であり、ネットの波にさらされる現状の分析である。先の研究会で、私は、主宰者の歌川令三氏に、大宅壮一はクズである。と語っている。私が言論界の重鎮を貶す理由は、極めて明快である。彼は、私が愛してやまないテレビをして、「一億総白痴化」の原因をつくると世の中を煽動した。私は、彼のような言説をダダイズムの所作だと思う。あるべきは今を憂うことではなく、未来を語ることである。それは、梅田望夫氏と私が尊敬するフランスの哲学者アランの言葉、「悲観主義は感情のものであり、楽観主義は意志のものである」に通じる。大宅氏は、テレビを分析して語らなかったために、大衆のテレビ妄信時代が始まったといえる。私はすでに指摘しているが、大宅氏が語るべきだったのは、テレビの限界である。テレビの映像は、カメラマンの意図により全天周360度のうち30度程を切り取ったにすぎぬものだし、編集者の意図により、無限の時の流れの中から、数分間を切り取ったものに過ぎない。テレビの問題は、そのように意図的・恣意的なものであるにも関わらず、そのような制作者の恣意を感じずに視聴者たちは、それがあたかも現実に起こっていることに何も加えられていないことのように受け止められることである。もし、大宅氏が、テレビの時代の知性の崩壊を嘆くばかりでなく、テレビの限界を喧伝していれば、いまのような世の中は出来上がっていなかったと、私は残念でならない。☆私は、「ネットは新聞を殺すのか」の湯川鶴章氏と「新聞がなくなる日」の歌川令三氏を、新聞ターミネイターと形容する。だが、彼らは単なるターミネイターではない。最終兵器・リーサルウェポンでもある…。湯川氏は、「今後のジャーナリズムにとって必要なことは対話である」と折に触れて語られているし、歌川氏も、今を嘆くことに意味はなく、未来を語ることに主眼をおいて、この研究会を運営してきたと言説する。その言説を受けて、私は勝手に、湯川氏の言う「対話」を、永遠のベータ版。歌川氏の言う「未来を語ること」を、インテグレート。と、読み換える…。☆とはいえ、ネット者・非ステークホルダーの私と、その他の研究会メンバーとの乖離は深い。だが、私はそのことを嘆いてはならぬ。何故なら、私はすでに、「コピイ&ペイストが専らなインターネットが登場した時代において、差分のない個同士のコミュニケーションに価値はない」と断言しているからだ。☆私は、「それから」研究会の末席を汚す身分でしかないし、スポークスマン的な役割を委託されているのでもない。だから、自らの意志において、この研究会の私感を述べているに過ぎないことを理解して欲しい。それにしても、魅力的なメンバーが集まったものだ。「それから」研究会のメンバーは以下…。「新聞がなくなる日」の歌川令三氏(主宰者・東京財団理事、毎日新聞OB)「ネットは新聞を殺すのか」の湯川鶴章氏(時事通信編集委員)「グーグルgoogle」の佐々木俊尚氏(フリージャーナリスト、毎日新聞OB)「情報社会学序説」の公文俊平氏(多摩大学情報社会学研究所所長)「グーグル・アマゾン化する社会」の森健氏(フリージャーナリスト)そして、ネット上で、「幻想の市民参加型ジャーナリズム」を発表したにすぎないスポンタ中村(個人ブロガー・書かざる市民記者)の私。合計6名である。※それぞれ最新刊を紹介していないことを許して欲しい。☆さて、この研究会において、それぞれの立場(ステークホルダー)と世代(ジェネレーション)、そして、何よりも、それぞれのネット経験の違いによる大いなる乖離が提出されている。ネットとは多様なものであり無限の地平。それぞれの個がどのようにネットを使ってきたか。それにより紡ぎ出される言論もまったく違うものになる…。その乖離にもめげずに揺らがない6人の侍の姿が、この研究会の魅力。否、研究会のハブの役割を果している東京財団の赤川氏を加えて、7人の侍とするのが、正しいだろう。研究発表として書籍化されることは確実だろうから、楽しみにしていて欲しい。☆さて、昨日私は脱稿している。その晴れ晴れした気持ちの中で、初稿を提出したい。この原稿は、研究会でのコミュニケーションを待たずに書かれたものであり、分量的にも多く、表現的にも極めて私的な部分がある。したがって、完成原稿とは大いに隔たっている。研究発表されたものがアウフヘーベンされたものとするならば、そのもとになったテーゼに過ぎぬものである。すでにアウフヘーベンされてしまったのなら、テーゼには価値がないのかもしれぬ。だが、ことはそのように単純ではない。と、私はひそかに思っている。ということで、数回に分けて、私の研究論文初稿を発表することにする。書かれたのは、マスコミが2ちゃんねる閉鎖報道をした真最中。2007年1月初頭である。原稿タイトルは、「2006年。500年ぶりにP2P時代がやってきた。」内容は、研究論文とは別物になっている。以下、次号。
2007年03月06日
池田先生は、カテドラルは、伽藍ではなく大聖堂だと不満を述べている。そのつながりでググっていたら、カテドラルとバザールにつき、発案者の原稿に接しました。提案者のエリック・レイモンドは、リナックスというオープンソースOSとウインドウズについて語っています。しかし、それはそのまま、市民参加型ジャーナリズムと、既存マスコミとして読み取ることもできます。この原稿が発表されたのが1998年。私が今回の研究発表のために参考にした「インターネットと世論形成」(電気大出版局 遠藤薫)は2004年です。2007年。地方自治体は、旧タイプのパソコンの有効活用をすすめるために、OSをマイクロソフトからリナックスに移行させている。その一方で、マイクロソフトはビスタなどという自らを一層孤立化させるOSを発売してしまった。そんなことが起きているというのに、商業主義の既存マスコミでは、広告主の敵対要素であるとともに、それ自身が広告主になる可能性のないリナックスが語られることはほとんどありません。それでいいのでしょうか…。今後の日本社会にとっても、リーナス・トーバルスおよび、リナックスの思想が重要であることは確かでしょう。☆原典の内容は、システムエンジニアにしか分からないような文言にあふれていますが、社会学的にみて、極めて重要な示唆を与えてくれるテキストだと思います。そして、最後にレイモンド氏が、ちらりとP2Pについて触れていることが私を嬉しくさせています。
2007年02月19日
一昨日、新宿のヨドバシカメラに行った。電子辞書が欲しいので、いくつかを見ていった。私が電子辞書が素晴らしいと思うのは、履歴である。履歴が残ることで、何度も引くことを避けることができる。で、電子辞書コーナーで、履歴をチェックしたのだが、笑ってしまった。・大人買い・萌え・コブラツイストヨドバシカメラのユーザー、恐るべし…。私は、電子辞書の履歴からメッセージを送られるとは思っても見なかった。マクルーハンは、メディアはメッセージであるといったが、電子辞書の履歴もメッセージなのである。電子辞書の履歴は匿名言論であり、ログが残ることを知った書き込み者は、次にこの電子辞書を見る人のことを意識して、情報発信をした…。ここに、私は日本人の特質を見る。(^o^)そして、そのメッセージは、いままで、不特定多数としか見えていなかった、ヨドバシユーザーに一体感を与える。私は、履歴欄にそのようなウイットを書き込むことのできぬ、愚者である。☆さて、私はkerodonのRSSリーダーというのを購読している。いまは、何も言わなくなったけろやん氏であるが、これを読んでいると、「読みました」という彼のメッセージを受け取ることができる。そして、これを見ていると、「これ、僕は読みましたから、あなたも読んでみたら」というメッセージを受け取ることができる。そして、私は、けろやん氏から、「スポンタさん。これ読んでみたら…」というメッセージをいただいた。これがメッセージだということは、このエントリーが、2005年9月23日のものであるということから明確である。私は、このブログのエントリーが直近のものであり、この本が新刊書だと勘違いしてしまったのである。☆反論するために反論をすることはしないのだが、間違いは指摘しなければならない。それが私のスタンスである。だから、田中秀臣氏の「最後の『冬ソナ論』」は批判しなければならない。田中先生は、池田信夫先生の同僚のようである。私は池田先生との少なからぬご縁を感じる…。☆いくつかの書評を読んでいると、氏は次のように論じているようである。「冬ソナ」は利他愛を歌い上げているから、日本の淑女たちに受け入れられた。そして、経済学は、利己的なエゴなる個を扱うから、「経済学には純愛はない」。私は、冬ソナ・アナリーゼを書いている。何故、書いているかといえば、ユン・ソクホ監督が冬ソナに託したメッセージを私のカミサンやカミサンの友人をはじめとする多くの人たちが理解していないことに気がついたからである。そして、講演で発表する学者が、我田引水とばかりに、勝手な冬ソナ論をばら撒いているからである。とはいえ、私も冬ソナ論を語ってしまったら、同じ穴ノムジナになる。だから、アナリーゼという手法をとっている。源氏物語でいえば、その研究論文を書いているのではなく、あくまでも精読のための解説書を書いているのです。☆「最後の冬ソナ論」が発売されてから、すでに1年以上の時が流れているということなので、あまり気にせずに反論を書くことができるのは幸いである。ということで、次のエントリーでは、冬のソナタが利他的愛ゆえに日本の淑女たちに受け入れられたのではないことを詳説する。ログもメッセージである。そして、発言する権利を持つものが、価値ある情報を持っているとは限らぬ…。そんなことを論じていきたい。もちろん、その論理を私が逃れられているはずもないから、私の言説を信じてはならぬ。
2007年02月17日
インターネットの歴史は、人類の歴史をトレースしていく。いまはまだ、原子共産主義の時代である。と、すでに述べている。さて、いま気づいたことは、グーグルが何をやっているかということだ。誰も言っていないようだから、私が指摘しておくことにする。グーグルがやっているのは、国書総目録や群書類従をつくることだ。つまり、グーグルも国書総目録の編纂者たちも、情報の散逸を防ごうとの思いでなされたことである。☆群書類従の編纂者・塙保己一(1746-1821)は、萩原健一(ショーケン)と並ぶ、私の郷土・埼玉県が生んだ数少ない偉人である。では、この後に何が起こるか…。☆賀茂 真淵1697年~1769年)、本居宣長(1730年から1801年)たちは、アルファブロガーということだろうか。☆このあとに、何が起こるかといえば、インテグレートである。ウィキペディアは、大日本史について、つぎのように記している。明暦三年(1657年)水戸藩二代藩主徳川光圀が彰考館(史局)を置いて自ら監修を務めてから、明治三十九年(1906年)に十代藩主慶篤の孫にあたる徳川圀順が完成させるまで実に250年の歳月を要した(ただし、本紀・列伝は光圀存命中にはほぼ完成しており、幕末以後何度か刊行されている)。水戸光圀は、水戸藩のステークホルダーと、尊王思想で、情報をインテグレートしていった。現代の歴史家たちは、そのような大日本史を形成した史観について批判的であるが、歴史作成に限らず、文章に主観性が盛り込まれるのは当然のことである。☆インターネットの登場を、グーテンベルグの活版印刷の登場に喩える人たちがいるが、国学をリファレンスしてみるのも、おもしろい。今日は、建国記念日の振り替え休日だし…。と、逝っちゃってる二人のイラストを出して、本日もエントリーを締めくくる。ORZ
2007年02月12日
2007年にネットに何が起きているかを論じようとしていたら、ネット上の現象が、既存マスコミに影響を与え、新たなムーブメントをつくっている。☆オリコンが言論封鎖を画策して、訴訟を立ち上げたというが、それが、ジャニーズ事務所との全面戦争にも繋がるとの観測をしているブロガー氏もいる。ブロガー氏は、ジャニーズ事務所のやり方に批判的なようだが、私は、ジャニーズ事務所はステークホルダーとして当然のことをやっているだけであって、批判には値しないと考えている。問題は、ジャニース事務所のコンテンツ力に対抗できない企画力しかもたない出版各社であり、歪んだ横並び意識である。私は、国会に二大政党制を求めるよりも、美少年芸能事務所に二大勢力の確立を求める。森昌子関連で、和田アキ子氏と森進一氏が対立したように、二大勢力化は寡占状態よりはまし。いずこの業界であっても、寡占はよくないし、迎合することは結果として、業界全体のパイを小さくする。☆結局のところ、寡占状態を破るには、今回のようなことが頻繁に起こることが必要だということだ。かつて、テレビ芸能界は、ナベプロが牛耳っていた。そこで、番組編成に苦慮した日本テレビは、「スター誕生」をホリプロと連携して行い、山口百恵などをプロモート。もうひとつの流れをつくった。それではいまはどうかといえば、若手の男性俳優は、ジャニーズ事務所所属でなければ、なかなか役がつかぬと状況だという。これは、鑑識官シリーズの主演俳優・西村和彦氏が嘆いていたのを憶えている…。結局のところ、現在のテレビは、歌謡部門、お笑い部門、バラエティー部門など、それぞれが、10指に満たない寡占プロダクションによって運営されている。それらが相互不可侵条約を結びながら、業界の序列を乱さぬように配慮しながら仕事をしている。同様に、出版界も、大手出版社が流通を握っており、いくつかの例外を除けば、無名出版社がヒット作を出すことが極めて難しい状況になっている。このような状況がどういうことを意味するかといえば、情報発信者や情報そのものの価値ではなく、情報取扱者の重要度によって、情報の価値が決められるということだ。波陽区や青木さやかがブレークしたといっても、ふたりともナベプロの所属だ。新人が登場したといっても、新しい才能が発掘されたのではなく、プロダクションの新製品が登場したにすぎないのだ。そのような予定調和的な情報発信には、価値がない。☆さて、新聞社のカメラマンが盗撮していたことがネット新聞で告発されたり、言葉狩りをした民主党に批判がネットで散見されたり、いままで新聞の論調だけでしか民意を知ることができなかった諸機関が、ネット上の言論を参考にするようになった。このムーブメントは、短期的にはそれぞれの報道機関の浄化作用に発展するが、長期的には、既存報道メディアの浅薄度が露見することにより、社会的な地位が低下する。そして、そのムーブメントの中で、報道機関同士のカルテル的な関係が崩れていく。その中で、上位10社程度のなれあい状態が崩れていく…。☆簡単な言い方をすれば、マスメディアは日本プロ野球的な寡占状態だったが、参入障壁がオープンで参入も可能なJリーグのような形に以降するということだ。☆では、ネットはどうかといえば、ブログ・SNSともに、商人バイアスがきつくなっている。いままでは、眞鍋嬢や女流小説家のようなみえみえの商人ブログがあった。だが、使用料金無料のブログにおいても、それは広告収入のためのコンテンツを作らされていることを意識せざるをえない状況になっている。それは、はてな関連サイトでは顕著であり、はてなでブログを書かぬものには、発言権を与えぬ。質問権を与えぬ。という制度を行っている。そして、はてなが目論むものとは何かといえば、ブログの崩壊である。☆すでに、ブログ空間はホームページとまったく同じ状況になっている。アルファブロガー氏や有名人は、コメント欄を閉じている場合も多く、TBも認証制にして自由なTBを認めない。また、ビッグネームでかなりのアクセスを稼いでおられるとみられる人のコメント欄でも、コメントゼロの状態が珍しくない。では、誰も、そのブログ記事に何も言いたくないのかといえば、そうではなくて、はてなブックマークには、短いコメントがたくさんついていたりする。はてなが創出している、経済合理性にのっとって、コミュニケーションを閉じていく。または、あらたなコミュニケーションスキル・メディアリテラシーを求めるようなやり方は、退行現象である。そのような、マニア志向・クローズド志向のマーケティングがどこかでリミッターがかかることは明確。彼らがグーグルを越えることなどない。☆一方、MIXIには、もうすこしオープンなコミュニケーションがある。それが成立する素地は、SNS的な同胞意識と、コミュニティーにおける、興味や関心を持ったもの同士という共通項が、混雑する電車の中にいる感じではなく、学校の教室にいるような感じを持たせるのかもしれない。私は、MIXIの音楽教育関連コミュニティーに参加しているが、概ね和やかにすすんでいる。私は、学校の音楽教師たちの即物的な音楽の捉え方にかなりの疑問を呈しているのだが、それでも尚、大喧嘩がはじまるということはない。☆一方、まったくクローズドなコミュニケーションがある。その一つが、ペ・ヨンジュン氏の公式サイトである。このサイトは有料登録であり、私は現在登録申請中である。このサイトでの掲示板はおもしろい。ペヨンジュン以外のことは語ってはならず、固有名詞は伏字にしなければならない。これは、さまざまな摩擦が起きたための処置だそうだが、その特殊性は特筆すべきだと思う。パド厨という若年者のコミュニティーにも、足跡をつけたら必ずコメントをしなければならぬという掟があるそうだし(※私は、最近のムーブメントは理解していない)、それらは、2ちゃんねるの偽悪のダンディズム同様に価値のあるものであり、そういうものが固有なコミュニティー文化をつくっていると感じている。結局のところ、そのようなクローズドなコミュニティーでありながら、オープンさをもったところに2ちゃんねるのGreatなところがある。そして、そのようなクローズドコミュニティーの掟も守らずに、ROM者(マスコミ)たちが、2ちゃんねる上の言論で勝利することもできず、自前のメディアでひかれ者の小唄よろしく、文句を言う浅薄さを認識しなければならない。☆最近、このヨン様を巡るコミュニティーにも変化がおきているという。2年前には、奔放な意見をすることでこのコミュニティーを追放された人たちが、公式サイト以外に言論の場を見つけられずに嘆いていたのだが、現在では、非公式サイトも活発になり、公式サイトがその方向性を模索しはじめている…。ヨン様ファンの淑女の方々のパソコンスキルもそれだけあがったということだろう。☆私はいま、カミサンの力をかりて、今回の「冬ソナ・アナリーゼ」を掲示板にアップさせているが、そのアクセス数かすごい。ひとつのエントリーに、4300件のアクセスがつき、必ず10数件のコメントが寄せられる。いまだ、10件に満たないエントリーだが、アクセス合計は、20数万件を数えている。ネットではアクセス解析が盛んであり、最近では自分のサイトでなくてもアクセス解析ができるようになった。だが、そのようなものとは無縁な世界もある。☆つまり、リアルな言論の世界もネットの言論の世界も拡散の方向にすすんでおり、インテグレートの必要性を指摘するものは皆無である。というのが、この2007年2月の状況である。もう少し拡散の度合いがすすめば、インテグレートシステムの必要性に気づく時代がやってくる。マスコミが喧伝した2ちゃんねる閉鎖騒動も、騒動でしかなかったようで…。そんなことを思っています。
2007年02月11日
小学生の作文指導で私が娘に教えていることは、そのまま、いまのマスコミおよび言論界が陥っている不毛な状態を暗示する。対立をさけ、摩擦をさけ、ドラマを欲しない。もしくは、予定調和的なドラマしか作らない。現状を批判するばかりで、理想を語らない。もしくは、現状から遊離した理想を語る。池田信夫先生は、finalventさんのブログに言及し、女性の人間製造機関説による大臣の更迭の不毛について述べている。先生は、それによりブログ空間の中立の重要性について説かれる。だが、インテグレートされぬ言論空間に中立などという概念が成立するはずもない…。インテグレートする場が誕生すれば、中立などという概念に意味はなくなる。それぞれの言論のセンターは、それぞれの個が規定するものであって、集団なり、権威が中立という概念を提出することこそ、言論の偏向。P2Pの時代とはそういうことである。相互リファレンス(インテグレートされた言論空間)がない現状では、中立なとどいって、自説でしかないものに客観を装うことは許されぬ。そして、相互リファレンスがある状況であっても、自説は自説に過ぎず、中立などという概念はありえない。中立とは主体のなさを印象付けるだけであって、相互リファレンスの誤用単語にすぎぬ。相互リファレンスは相互リファレンスでしかなく、そこで中立という概念を持ち出すやからは、自らの主観性を偽ろうとする卑劣漢である。これ、重要です。☆さて、池田先生のブログから、柳沢大臣のコメントを採録。なかなか今の女性は一生の間にたくさん子どもを産んでくれない。人口統計学では、女性は15~50歳が出産する年齢で、その数を勘定すると大体分かる。ほかからは生まれようがない。産む機械と言ってはなんだが、装置の数が決まったとなると、機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね、あとは産む役目の人が1人頭で頑張ってもらうしかない。(女性)1人当たりどのぐらい産んでくれるかという合計特殊出生率が今、日本では1.26。2055年まで推計したら、くしくも[年金給付の中位推計と]同じ1.26だった。それを上げなければいけない。(ネタ元は、スポーツ報知)関連、2ちゃんねるのテンプレートから…。・「女性は子どもを産む機械」などと発言し、「女性蔑視」「人間失格」とバッシングされている 柳沢厚労相について、「問題だが、少し騒ぎすぎでは」という見方も出てきている。 今や「女の敵」どころか「日本の恥」など「国賊」扱いされている大臣だが、橋下弁護士は 「サンデージャポン」でこう熱弁した。 「比喩としては問題あるかもしれないが、『女性が子供を産む機械』だと言おうとしたわけじゃない。 生まない人、生めない人のことを何も批判している言葉でもないのに、皆が(発言を)逆手にとって 『生めない人は欠陥か!?』、とか、国語力がそんなに日本国にはないのか!」 全体の論調は「普通の内容」であり、一部分だけ取り上げるのは誤りだ、と主張しているわけだ。 民俗学者の大月隆寛さんも「前後の脈絡すっとばして片言隻句を揚げ足取りして騒ぎ立てる メディアの手癖も恥知らず丸出し。その尻馬に乗って女性議員たちが一斉に文句つけるあり さまには、心底萎えました」と野党とメディア批判をしている。 騒ぎすぎではないか、という意見は女性にもある。 「野党が批判して辞任要求、そんなことやってる前に国防含めて国会でやることがあるだろう。 メディアも騒ぎすぎで、すごい幼稚な気がします」(ジャーナリストの大高未貴さん) 「全然気にならなかったんですけど。これまで大きな問題になるのか、とビックリ。問題発言 ではありますが、そんなこと本気で思っている人いないですし」(タレントの眞鍋かをりさん) 「私達は何とも思っていないのに」(医師の西川史子さん) ネット上のブログを見ても、こんな意見も出ている。 「初めから『問題視させるための報道』である臭いがプンプンすることを考えれば、文字通りには 受け取らない方が良さそうだと私は思った。またこれに反応しているのが、社民党の福島さん やら『自称女性と弱者の代表』たちなので、余計疑わしいと思ってしまったのだが(苦笑)」 「たとえを間違えただけで、ここまで批判されるか?大臣だから、発言の責任ってのは 重いとしてもだよ。全文読んだら、言ってることは普通のことでしょ」 (一部略) 国語力バッシングときましたか。いやはや、前回の税調本間会長の不倫更迭問題は、言論主体による言論封鎖の企み。今回の柳沢大臣の女性出産機械説関連更迭問題は、国語力による言論封鎖の企み。昨年、私が書いたネットシンポで分析したことが、既存のメディアで起きているのですね。(^o^)追記:さて、今年の作文の課題だが、デジタル時計とアナログ時計のふたつの時計を見て、あなたが考えたことを書きましょうというものだった。我が娘は、話の枕をつくりながら、友達と過ごした時間について作文をしあげたという。勿論、デジタルとアナログという単語が出てくれば点数はあがるのだろうが、とりあえず、私は娘を褒めることにした…。デジタルとアナログを対立概念とする時代は終わっている。デシたるとアナログは等価である。娘は私の思想を感じているのだろうか。
2007年02月06日
私が、「冬のソナタ」のアナリーゼを始めたことを奇異に思っている人がいるかもしれぬ。だが、その理由は、簡単である。新しいメディアが誕生するとき、技術者は、その技術的革命性を喧伝するが、それによって、そのメディアが一般に普及するのではないこと。このエントリーのタイトルを見れば分かるだろう。テレビ放送は画期的な技術だが、それが何故、爆発的に普及したかといえば、「力道山」というキラーコンテンツが、大衆の民族心を刺激したからである。どうように、何故、ビデオカセットレコーダーが普及したかといえば、否、VHSビデオのビデオレコーダーが勝利したかといえば、「洗濯屋けんちゃん」というキラーコンテンツが暗躍し、男たちのリビドーを刺激したからだ。では、インターネットでは何がそうにあたるか…。「冬のソナタ」、ならびに、BYJ(ペ・ヨンジュン氏)である。☆新製品好きの人たちに商品が売れるだけでは、その商品が普及したことにはならぬ。メディアが一般化するには、もうひとつの起爆剤が必要なのだ。インターネットの普及における一番のネックは、ビジネスシーン、または、教育機関などでパソコンに接したことのない世代にいかにパソコンを操ることに興味を持たせられるかだった。つまり、2000年頃は、オフィスでパソコンを使った人はパソコンに親しんでいるが、それ以外の人たちは携帯電話しか使っていなかった。だが、2003年にNHKのBS放送で「冬のソナタ」がオンエアされると、新しいムーブメントが起きる。この作品でBYJの魅力に惹かれた淑女たちが、彼の情報を得たいとネットに殺到したのだ。彼女たちは、インターネットに、BYJの画像や動画や情報があることを知る。そこで、パソコンの使いたいと思うようになる。そして、その情熱によって、多くの淑女たちがパソコンを使いこなすようになった。韓流ドラマの流行によって、韓国語をマスターしようとする人も多いようだが、それに比べたら、パソコンのマスターなど簡単なものだ。☆私は、すこしいい気になって、冬ソナ・アナリーゼを書いているかもしれない。有体にいえば、村松友視の「私、プロレスの味方です」と、同じ感覚でいるのかもしれぬ。スポーツ界にあって、まったく評価されぬプロレスと、映画界にあって、まったく評価されぬメロドラマ。その共通項は以外に大きいのかもしれぬ。ただ、プロレスとメロドラマには決定的な差異がある。それは、プロレスは終わってしまった出来事だが、メロドラマは、ストレージとして残っている知的財産である。以前、渥美清の「泣いてたまるか」のDVDを買ったことがある。あのリバイバル企画は、国民的スターである寅さんこと渥美清氏をして、始めて成立したものだろう。だが、いま韓流映画の流行と、日本のドラマ界の堕落を見るに、日本のドラマが輝いていたときをもう一度思い出すことも大切なのではないかと思っている。☆それにしても、昨夜の「拝啓、父上様」は、ひどかった。おばあちゃんたちの原宿たる巣鴨をテーマに、説明ゼリフの大量生産。とげぬき地蔵をほねぬき地蔵というダジャレ。よりによって黒澤明の「生きる」を引用する凡庸さ。そして、何よりも、今回の主人公を「お兄ちゃん」と呼ぶ女性との喫茶店のシーン。モノローグを言う主人公と「お兄ちゃん」と呼ぶ女性が喫茶店で話をするといえば、倉本聰のファンならば、100%、萩原健一演じるさぶちゃんと、桃井かおり演じるうみちゃんを思い出したに違いない。だが、うみちゃんのように二宮君がブスの深情けよろしく愛されているのでもない。リンゴの君にしても、坂口良子が演じたかすみちゃんのように、室田日出男演じるハンツマさんや、川谷拓三演じるトシオさんという枷もない…。基本的には、批判するだけのための批判はしたくないが、「冬のソナタ」や韓流ドラマを語るにおいては、言及せざるをえない。日本の巨匠・倉本聰氏がこのような作品をつくれば、無垢な若者たちは、ドラマとは、シナリオとは、こんなものでいいと思ってしまう。恐ろしいことだ。同様に、日本の巨匠・山田洋二氏は、木村拓哉氏の演技を褒めている。困ったものである。☆だが、日本も、フジテレビも捨てたものではない、先ごろ、トリビアの泉の復活スペシャルでオンエアされた「警護人・内田晋三」はよかった。シナリオも演出も申し分ない。高橋克美は、一九分けがなくなって魅力が半減したが、ようやく復活してきたようだ。
2007年02月02日
インターネットはプルのメディアだから、私がどの程度理解しているかは分からない。だから、ことのディテイルは定かではない。ただ、私がイメージしているところをいえば、けろやん氏は、ブロガーとして存在し、たくさんの人たちに愛でられた。その結果、2ちゃんねるに、彼をウォッチするスレッドが立った。スレッドは、けろやん氏をウォッチする(愛でる)ためのものだったが、2ちゃんねるが被写体を批判するものだという文脈にいる主体が、けろやん氏を攻撃した。そのあたりの攻防はさまざまなことがあったと思われるが、その仔細を私はトレースできていない。これこそ、まさに2007年1月のインターネットを象徴している出来事である。☆いままで、論争は、主にブログのコメント欄で起きていた。炎上という表現もあるが、論争に興味を持った人は、そのブログのコメント欄に行けば、論争を見ることは簡単にできた。2ちゃんねるにしても、そうだ。コメントが千件に達すると、スレッドは増殖を終える。モリタポを買わなければ観ることもできぬし、議論はすすんでいかぬ。そこで、新たなスレッドが建てられる。旧スレッドと新スレッドは一件不連続に見えるが、2ちゃんねるのカテゴリー内では、同じ場所に位置するのだから、トレースは容易である。☆だが、今回のけろやんの場合は違う。論争の発端になった2ちゃんねるだけでなく、渦中である数人のブログ。そして、そのコメント欄。そのブログに連なるハテナブックマークのコメント。私は確認していないが、Wikipediaやまとめサイトなども関連しているかもしれないし、SNSなどもあるだろう。そのようにして、何が起きているかといえば、インターネットが普及し、グローバルになっていくトレンドと対照的に、インターネットのヘビーユーザーたちがよりパーソナルなコミュニケーションを作り出しているということだ。突然、チェ・ジウ姫が登場してしまったが、けろやん氏への攻撃はけろやん氏の脳内でのみ像を結ぶ。だから、誰も彼の苦悩をわかってあげられない。そのような事態が起きている…。ユジンの心の中のチュンサンに誰も手が出せぬように、けろやん氏の苦悶を誰も察してあげることはできぬ。こんな悲しいことはない…。☆話を戻そう。もう一方のトレンドであるインターネットのグローバル化のトピックスは何かといえば、FPNの2006年度のアルファブロガーの選出である。このトレンドの最たる特徴は、ネットが普及してきたことにより、既存のメディアの慣習をより色濃く踏襲するようになったということだ。一昨年の暮れに行われた、ブロガー・カンファレンスを黒崎氏は、有名ブロガーたちが、相互不可侵条約を結ぶために開いた会合であると看破されている。今回、FPNがラインアップされたアルファブロガーたちへの説明文を読んでみれば分かる。ぬるい。ぬるすぎる…。そのようなステークホルダーに満ちた説明文たちに価値を認めるならば、自分がネット者ではないことに気づかねばならぬ。ここにこそ、メディアリテラシーが問われている。FPN関係者が、GripBlog関連騒動を知らぬはずはない。なのに、ステークホルダーに溺れて、オウム関連M氏や、その擁護4人組に関する出来事にまったく言及せずに解説をしている。私は、「ほのめかし戦術」さえもないこのまとめサイトにまったくの価値を感じない。せめて、池田先生がやめてくれと言明した「○○って知ってますか」ぐらいのことは触れるべきだった。☆私は、イソブログさんのコメント欄に、「他者につき、○○さんと、敬称をつけるのは、競合関係にある会社を引用するにつき、悪意の引用ではありませんよ。との意味である」と指摘した。FPNの今回のまとめサイトも、いつ競合関係になるかもしれぬ…。そういうムードを感じ取ってのことであろう。結局のところ、あのまとめサイトは、情報の希釈作用に効果的な役割を果たすスパムの一種である。インターネットは既存のメディアを踏襲するばかりでなく、日常の商習慣までも追随するようになっている。その意味で、インターネットはすでに自由な言論の場ではない。2ちゃんねるは、かつて歌舞伎町にある大衆キャバレーだったのだが、いまは、国会議事堂や新聞社のとなりにできた大衆キャバレーになってしまった。と、言えば理解できるだろうか。ならば、大きなSNSの中に、2ちゃんねるを格納すればいい。インターネット上に、あたらしい歌舞伎町をつくればいい。それだけのこと。つーのは、ライブドアPJのときに、私か「スモールワールド計画」という記事を挙げていたのと同じことだ。私がインターネットであるべきだと思っているのは、ローザンヌ・バレエコンクールのテレビ中継の解説でビシバシと思いのたけを語る女性解説者が存在するような言論の場である。☆今回のような現状が見えてきたとき、何があれば、そのような忌々しき状態を解決できるかといえば、ネットにおけるインテグレート機能に他ならない。セグメントを切ることでコミュニケーションの有用性を高める方法ともうひとつ、セグメントを切らずにインテグレートシステムをつくることによっても、コミュニケーションは活性化できるのだ。私は、RSSリーダーを通じて、けろやんの一件を見てきたのだが、その事案もインテグレートされていかぬため、けろやんは一人苦しんだのであろう。勿論、部外者の私には、けろやんに非があるのかどうかも分からないから何もいえぬ。かといって、ヒロユキ氏が言うように、「ネットで傷つくような人は、ネットに関わってはいけない」などと突き放して言いたくはないのだ。☆けろやん氏の大いなる不在と書いたのは、けろやん氏が、「さよならはしない」といいながら、ブログの更新を止めているにも関わらず、RSSリーダーは続々と更新しているからだ。これを「突っ込んで」やらないと可愛そうだ。それが、このエントリーの意味である。インターネットには、純粋コメント者としてのトリル氏がいる。同様に、純粋ソシアルブックマーク者としてのけろやん氏がいる。けろやん氏のアバンギャルドを思う。あいつは、いいやつだよ。スポンタは、そのように思っている。
2007年01月30日
「2ちゃんねる」が無くなるか、無くならないかは、「2ちゃんねる」という家を愛している人がどれだけ「悪いこと」をしている人を説得出来るかにかかっていると、思うんだ。と、ブログで書く人がいた。対話形式で答えるのが、分かりやすいと思うので、2ちゃんねるの悪いところを端的にコメント欄で指摘してくれると嬉しい。それに答える形で、あたらしい対話がはじまるかもしれぬと期待している。上記についての私の感想は、「悪い」と感じるところに、改革の芽がある。「悪い」という現実を認識することはいいことだ。ついでに言えば、説得するのではない。理解することが重要である。お互いが共感すれば、説得など必要はないのである。
2007年01月24日
ガ島氏がすでに言及している。さて、ガ島氏は、「ちなみにNHKの放送内容はGoogleのビジネスと危険性を45分という短い時間でよく描き出せていたと思います」とNHKを讃えている。彼に限らず、一般の視聴者が読み取ったGoogleビジネスの危険性は次の二つだろう。ひとつめは、Googleの恣意性(検査基準のバイアス)をどうとらえるか。という問題。だが、これは、マイクロソフトにUNIXが対抗したようなやり方で解決できる。ふたつめは、巷間広がっている個の情報が公開されることへの個の恐れ。自分が住んでいる場所が衛星写真で閲覧される。自分の情報が他者に公開されることへの漠然とした不安。番組では、90万円/月に稼ぐ青年が、過去の記憶をGoogleに溜め込んでいることを紹介しながら、その歪みと不安を表現した。☆池田先生は、NHKスペシャルの現場は「分かりやすい」という大テーマで動いている。という。だから、不安を煽るところで止めている表現を選択したことは、きわめて示唆的である。本当は、過度に情報公開・情報共有がすすむ未来について疑問を呈したいのだ。だが、それが波紋を呼ぶので、投げかけで終わっているに過ぎない。極論をいえば、9.11以降、個人情報を隠したままで、個は社会の中で安心して生活できぬ。安心とはギブ&テイクで達成されるもの。情報公開がさけばれているが、それは、情報が公開されるのではなく、情報が寡占されていた状況が解消されるだけである。論理を展開していけば、個の不安など、とるにたらぬ感情であることは明らかだ。☆そもそも、Googleを文化としてとりあげるのか、ビジネスとして取り上げるのか。その勘案がこの番組ではなされていない。日本ならば、月額報酬額90万円のアフィリエイターなど、ネット者たちの判の的とされる。女子大生ブログが炎上したように、90万円を稼ぐアフィリエイターの言論は、バイアスのかかった言論の提出者として糾弾されるのが日本の良識あるインターネットである。いやぁ、アメリカのネットって、バイラルを許容するんですな…。☆そして、もうひとつ。Online Collegeで検索されることで、5000円を支払う広告主がいるという。これもバイラルのひとつである。意地の悪い私は、Google経由でその広告主のサイトに行ってやろうか。などと思う。適正価格で取引が成立していないところには、何かからくりがあるはずで、エージェントも広告主も暴利を貪ってはならぬ。☆このNHKの番組を観ていて、私は、「かなりヤバイ」ことになっている。と、感じた。Googleの経営指針は、「もし、世界政府があったとしたら、その時に役立つデータベースとなる」こと。だと認識していた。だが、この番組を見る限り、それとGoogleの現実がかなり食い違っていることを感じざるをえない。そして、それはNHKの取材班(資料提供社:Eye tools, 日経BP, 毎日コミュニケーションズ)たちの恣意的な思想背景が理由ばかりとはいえないと断じるに至る。さて、人間はイメージしたものを現実にすることはできるが、イメージできぬものを具現化することはできぬ。という法則があるという。ならば、「世界政府があったときに、そのときに役立つデータベース」とは、世界中のすべての情報・記憶をログするものであるはず…。だが、NHK取材班の眼を通して感じられたのは、「商業的利益をもたらす情報」だけである。また、NPO,NGOなど、非営利的な情報に関連しても、Googleが取り扱う範囲は極めて限定されている。これでは、Googleが社会の一面をネット上に抽出するだけであって、そこにあるものだけがこの世界の現実だと見誤る人たちが続出するならば、Googleは社会悪でしかない。いままで理想論を語っていた私だが、Googleが、けっしてアカシックレコードにならぬことがようやく見えてきた。☆理解していただけるだろうか。世の中には、プラスのエネルギーと同様にマイナスのエネルギーが存在する。もし、Googleがプラスのエネルギーしか相手にしないのならば、マイナスのエネルギーは行き所を失って暴発する。そのような危機感がある。「少女嗜好」でキーワード検索をかけると、129万件のヒットがあるが、広告はまったくない。「自殺」では2280万件のヒットがあり、広告主には、かろうじて「悩み相談」「占い」がある。これがGoogleの現実であり、世の中の劣情にいかにネットが対応するか。それにつきる。少女嗜好者にはカウンセリングが必要だし、自殺者にも相談者が必要である。Google上の広告とは明記されたバイラルという凛々しいものであって、一流企業がSEOを駆使するなら、アクセスランクとは明記されぬバイラルでしかない。2ちゃんねるは、辛いけれど、世の中の劣情と付き合っている。そのような役割をするものをネットからなくしてはならぬのである。宮崎県知事に当選された、未成年者風俗関連で謹慎経験があるそのまんま東氏には、ぜひとも、そのあたりの対策を練っていだだきたいものである。劣情関連検索ワードにつき、関連画面において、関連告知を提示すること。それが一つの良識に違いない。言論を禁じてはならぬ。適宜、タグをつければよいのだ。
2007年01月22日
そもそも、何故、私が2ちゃんねる擁護論を展開しはじめたかといえば、2ちゃんねるが怖かったからである。ネットで言論を展開するにおいて、2ちゃんねるを敵に廻したら厄介になる。だから、2ちゃんねる擁護論を展開しよう。そういうご都合主義があった。そして、2ちゃんねるについて考えた。・「逝ってよろしい」「お前もな」について考えた。・匿名について考えた。・ハンドルネームについて考えた。・アスキーアートについて考えた。・「ソースを明確にしろ」ということについて考えた。・「まったり」について考えた。・「当て字文化」について考えた。「乱暴な言葉遣い」について考えた。・「祭り」について考えた。・「縦読み」について考えた。・「田代砲」について考えた。・テンプレートについて考えた。・なぜ、スレッドが1000件になると、お金を払わないと情報を見れないことについて考えた。・発信者のトレーサビリティーが一定の範囲で確保されていることについて考えた。そのようにしてたどり着いた私の結論は、「2ちゃんねるは極めてアバンギャルドで、論理性と合理性のある言論メディアである」というものだった。発信者の属性と、発信内容を分離するというのは、究極の民主主義であり、理想主義である。その旗を掲げ続けるのが、2ちゃんねるである。☆そういえば、ライブドアPJの市民記者登録したときも、私は最初擁護論を展開している。8000円払って参加した研修会では、ライブドアのシステムに非難が集まった。それらは、・ライブドアポイントという薄謝では、記事を書くメリットがない。・記事の責任のすべてを、市民記者が持つのは不公平だ。・ブログと市民記者新聞に違いはない。ブログの記事をリンクすればいいじゃないか。多くの参加者は、一日という時間を使い、8000円を払ったというのに、市民記者登録をしないと言う。私は彼らを、お大臣だと思った。だが、私は団地育ちの貧乏人である。その後の私は、その8000円を無駄にしないために、せっせと市民記事を書き、擁護論を展開した。それらは、・市民記者は報酬を求めて記事を書くものではない。・発言の責任を発信者がとることは、どんなメディアであれ、当然のことである。・市民記者新聞の特徴は、個の発信が市民新聞というメディアによってオーソライズされることである。である。その擁護論は、私のステークホルダーによって紡ぎ出されたものだが、いまもって間違っていると思っていない…。だが、そのような擁護論から展開される論理的帰結とあまりにかけ離れた運営をライブドアPJが行っていたため、決別することになった。(つーか、私が書いても載せてくれなんだもんね。ORZ)ま、娘の誕生日プレゼントに、オレンジ色の自転車は買えたから、まいっか。(^^;)その決定的な思想は、「プロもアマも、すべてが市民であり。すべてが市民記者である」ということである。ブログ空間に戻った私にとって、その言葉は、「エスタブリッシュも非エスタブリッシュも、同じブログ空間を共有しているのだから、コメントやTBを通じて対話がなされるべきだ」ということである。だが、エスタブリッシュたちは、反論者との対話・TBを敢然と拒否する。これでは、対話が期待されたブログ空間も、煎じ詰めれは問わず語りのメディアでしかない。そのような現実を踏まえて、かろうじて有用な議論を期待させるのが、2ちゃんねると2NN。そして、それと呼応するマスコミたちである。☆ブログスフィアに圏域があると指摘したのは、佐々木俊尚氏だったと思うが、確かにそういう世界ができあがりつつあることを感じている。池田信夫先生が、内田樹氏のブログの内容に言及しているのは、示唆的であり、けろやん氏周辺でBB氏やM氏がオーマイニュースやジャーナリズムについて話題にしているのも、ある種の圏域を感じさせる。…私が内田樹氏と武術家・甲野善紀氏の対談本を持っているのは、奇縁である。私は、この件につき言及したいのは山々だが、それは東京財団の研究論文に書いてしまったので、ここでまだ発表するわけにはいかぬ。これは単に仁義の問題であって、R**氏のように、「お金を貰わないと教えないもんね」などという狭い了見からのことではない。…あと一月もあれば、ネット上にPDFという形で原稿がアップされるだろう。楽しみにしていただけると幸いである。とはいえ、今、このとき考えていることが、一ヵ月後に価値をもつかどうかは疑わしいのだけど。そもそも、お金を貰わないと情報を発信しないなんて、ネット者ではない。真鍋かおりの劣化コピイでしかない。ネットとは情報発信の場ではなく、不特定者との対話による気づきの場である。そういうコミュニケーションをしていないブログ者たちが、お金を貰わないと情報リリースなんかしないよね。と嘯く。私は、ネット者たちから気づきを与えてもらっているから、当然のように私からも他者への気づきをもたらすような情報を発信する。そういうギブ&テイクがインターネットである。対話をしない者たちが、「お金を貰わないと情報を発信しない」と嘯くのは当然のことなのだ。
2007年01月22日
考えるヒントを下さる先生に感謝している。だが、その一方で、先生もエスタブリッシュに過ぎなかったと落胆している。2ちゃんねる関連のエントリーにつづく別のコメント欄でのことだ。自由は、不自由である自由を許容しないのはずだが…。 (スポンタ) 2007-01-18 18:37:56 >もちろん、2ちゃんねるのようなアナーキーに転落しないように最小限度のルールを設定する必要はあるが、その場合も重要なのは自生的秩序を尊重し、目的を設定しないことだ。ハイエクが強調したように、自由とは「~を禁止しない」という消極的な概念であって、特定の目的を達成することではないからである。先生と私の言論の基盤が違うことが、ここにきて決定的に出てきて面白いと感じています。アナーキーという語をネガティブなニュアンスで使われていますが、国家レベルでしか世界平和を希求できなかった時代では、無政府主義がネガティブなニュアンスを纏っていましたが、さまざまなレベルでグローバリズムがすすんでいる現代では、無政府主義がそのまま100%否定される概念でもないと思われます。自由についてもそうで、絶対主義に対して自由という概念が成立するわけであって、2007年の時点における、自由の意味は変質していてしかるべきだと思います。先生は、自由とは、「~を禁止しない」と定義されますが、それは、「(不自由を強いること)を禁止しない」という状況を想定されるのでしょうか。自由とは、不自由である自由を否定するのだから、そもそも絶対的なものに対するの概念でしかなかったのです。そういう二元論から一歩踏み出すためには、「多様性(ダイバーシティー)」という概念が重要になってくると思います。事実、従来であれば自由という語をつかっていたものが、多様性という語に差し替えられているケースは、世の中に散見されています。私は、アナーキーの語に退廃を見るのと同様に、自由なる語の中に凶暴なるものを感じます。したがって、前のエントリーのコメント欄での議論になかなか加わることができぬ。そういう感慨を持っています。ありがとうございました。 つづけて、池田先生の「意味不明」と題するコメントが載りました。批判的な意味合いになるので、引用はしません。感想は以下。☆自由と自由主義を大雑把に語った私が、池田先生の理解を妨げた可能性もあり、反省しごくである。 コメントで池田先生は、「絶対主義というのは「専制君主による統治」のこと」と仰っているので、自由と自由主義の違いも、関連も、経緯も分かっていらっしゃる。この日本において、殺人を肯定する言論に発表の自由はない。未成年者との性交を目的に勧誘するような言論の自由は無い。また、自殺を一緒にして欲しい人を探す自由はない。だが、殺人、幼児嗜好、自殺願望などが、それが社会にとって奇形として認識せざるをえないとしても、その行為においては禁じることに合理性はあるが、その言論を禁じることに合理性があるのかどうかは疑わしい。何故なら、殺人に関する言論は、殺人を犯したくない魂の呻きでもあるからだ。幼児嗜好に関する言論は、そういう自分を矯正して欲しいという切なる願いを含んでいるし、そういう言論がネット上に現れることによって、関係諸機関は矯正の手筈を整えることも可能だ。自殺願望者が仲間を探しているうちは、まだ自殺は実行に移されないのだから、まだ説得が可能である。そのように考えてくると、臭いものには蓋とばかりに、日本の公序良俗から排除されている言論を無闇に禁じてしまうのも、極めて乱暴である。自由というのは、そのような乱暴なニュアンスがあり、それは絶対制に対する対立概念として成立してきた歴史がそうさせていると思っている。多様性の許容は、まさに多様性の許容であって、個別の案件にたいして、個別の許容度が設定されるべきという極めて現実的なやり方だろう。先に、奇形なる語を使ったが、それは突然変異と等価であり、必ずしも劣性を意味しない。標準的で平均的な人間などひとりとしていないのだから、異端者という概念そのものも希薄になっている。事実、性的異端者は、芸術的異能者としての価値が高く、私が芸術者として尊敬する性的異端者は多い。あまりのビッグネームなので明示することは避けるが、演出家・脚本家・舞踏家・歌手たちにそのような魂が多いことは多くの人たちが理解されていることだろう…。☆先生は私のブログを読まぬと指摘したうえで、私を「ポストモダン」的な言語遊戯が多いと指摘し、コメントを書かれるのは迷惑であると言明される。私は、ポストモダン的でありたいなどとは思っていないし、ポストモダンなるものが卑怯者の所作だったと感じている。私が、そうありたいと願っているのは禅者である。西洋の近代思想のほとんどは、東洋思想の劣化コピイでしかないと認識している。ましてや、言語遊戯などというものに組しない。勿論、私の言葉の先にある目標を読み取っていただけなかったのならば、反省するしかない。ただし、私は、「日本語なんてクソ食らえ」の一文で、2ちゃんねるバッシングを呼んだ漢である。言葉で遊ぶことなどに興味はない。そして、「迷惑」などという感情を表現することが、プロにとっていいのか悪いのか、私には分からぬ…。エスタブリッシュはステークホルダーの奴隷であることは仕方が無いと思うが、オーマイニュース鳥越俊太郎氏や平野日出木氏と同じように感情的であることが必然であるとは思えない。やはり、いかなる知性を持ってしても、実名では、ステークホルダーでローカルな議論になってしまうのだろう。匿名によってのみ、グローバルで目的追求型議論が実現できる。また、コメントを認証制にしているが、2ちゃんねるでは池田先生の認証の基準を楽しく観察しているという。認証基準も言論のひとつなのだ。☆さまざまな思いを込めて、感謝の言葉をコメントした。お詫びご立腹させてしまったようで、心よりお詫びもうしあげます。今後の書きこみに関しても、慎重にさせていただきます。具体例について、苦言を呈されていらっしゃいますが、私の1000を越えるブログのエントリーを読めと強いることはできませんし、限られた字数のコメント欄で具体例を述べることは、私の言語力ではほとんど不可能というのが実情だと思っています。本当に力不足で申し訳ありません。とはいえ、何故、意味不明と先生が書き込まざるをえなかったのか。それは、私と言論内容は違うけれど、その言論の重要度に関しては意識・無意識に関わらず共感しているということの実証であるといえます。ネットでは、スルー力(りょく)が求められるといいますが、私のコメントについて、スルーすることも先生はできたはずで、何故、先生がスルーしなかったのかといえば、それは、「私のコメントが意味不明である」と指摘することの重要性を認めたということです。先生のような頭の切れる方が、何故そのようなことをされるのか、理解に苦しみますが、「インターネットは対話の場所ではない」ということですね。場違いな発言を繰り返しまして、誠にもうしあけありませんでした。考えるきっかけをあたえてくれるこのブログに感謝しております。ありがとうございました。極めて矛盾に満ちた私である。個とはそのように捉えようのないものであるし、礼を失すべきではないとの規範と言論する気概のバランスを考えるならば、このようなきわめて不可解な形にならざるをえない。その後、けろやん氏のブログに次のようにコメントした。 『鳥越さんや、平野さんはともかく、殆どの職業人はそのプロの現場において、感情的になることを禁忌要件にしているはずです。だから、けろやんさんが、気にする必要はないし、もし、気にしていたら佐々木さんがプロではないということになるのかなぁ…。もちろん、プロとして相対するのではなく、ローカルコミュニケーションに堕ちてしまうのなら、謝罪もしかたないけど。私は、謝罪をいろいろなところでしているけど、それは、立腹させたことに対する反省と、考えるヒントをくれた相手への感謝でもある。そして、多くの場合。私はけっして訂正はしませんよ。という確認だったりする。もしくは、過去に発言した自分と過去の発言を別離させることでもある。ま、そんな感じなんだけどな。朝令暮改は恥ではない。過去の自分の言説に縛られることの方が恥である。ノマド(放牧民)とは逃げることではなく、浮遊することなんですよ。浅田彰さん。そして、ステークホルダーになったら、浮遊することはできぬ。きっと、そうなんだよ。追記:けろさんのコメント欄で、無料でブログが開設できることの不気味さを鮫さんが指摘していた。ホットペッパーは、バイラル見え見えだからオッケイだけど、その意味じゃ、ブログもバイラルなんだよね。だから、ブログでエントリーを沢山書かないと発言権を与えぬという「はてな」は卑劣だよ。その思想は、公文俊平氏(知者に愚者を代弁させる時代の到来を説く選民主義者…。福澤諭吉は、学問によって人の間には経済格差ができますよ。と論じたのであって、学力の差によって人を差別していいと許したのではない。)と同根。民主主義を否定するものなんだ。私がイザで感じたことは、その典型的なケースだったんだよね。
2007年01月20日
池田さんの意見に同意しますが、「掲示板」と「2ちゃんねる」は、「P2P」と「Winny」と同等であると申し添えておきます。蒸し返すようですが。参考資料そうなんだよね。そもそもネットでは情報を受信する側のリテラシーが問題で、ノイズが多いことを問題視するのはナンセンスなのではないでしょうか。2ちゃんねるのノイズをいちいち「中傷」と真に受けるのは、単にその人がネットの特性を理解できていない“コドモ”だからではないかと思います。池田先生は「ネットワーク社会の神話と現実」P38で“匿名性を使いこなすのは、成熟した大人のモラルしかないのである”と書いてましたよね。そうそう。そうなんだよ。平均点で評価すべきメディアではない。日本代表サッカーと一緒…。犯罪者がいるからといって、コミュニティーをせん滅するなら、そもそも日本社会はせん滅させられているしね。管理人の責任 (池田信夫) 2007-01-18 02:10:48 多くの人が指摘しているように、2ちゃんねるがこういうひどい状態になったのは、管理人のひろゆきが管理責任を放棄したためだと思います。別に彼ひとりでやる必要はないのだから、Wikipediaのようにボランティアを募れば、mixiに近いところまで持って行くことはできたかもしれません。 池田先生は、プロ市民とか、ボランティアの腐敗を知っているのかなぁ…。(ν即)2chの評価について、主観的断定的な記述ばかりが先行していて残念です。その評価論理が示されないと、単にエスタブリッシュメントとしてのバイアスが掛かって、ネットの著作があるにもかかわらず、>それにしても、これだけ醜悪でノイズの多い掲示板が8年間近く生き延びてきたことが驚異的です。のようにネットの事象の予測を誤らせるところまで及んでしまっているように見えてしまいます。(全文掲載)要するに、情報って言うのは個人のイメージで語れるほど狭い世界の話ではない。実はその事は2ちゃんねらの多くの方が池田氏よりも肌身で知っているんですよ。2ちゃんねるの功罪の功の一つに、若者のメディアリテラシーを劇的に高めたことがあります。彼らは自然に情報をクロスチェックして、安易な報道や主張を簡単に信じず、必要ならばいろいろな事に興味を持ちつつも判断を保留する慎重さを身につけています。これは日本人にはかなりかけていた部分だと思います。意図的に凡庸な2ちゃんねる否定論は採録していないんだけど、これは違うニュアンスを感じたので以下…。海外の掲示板やNewsgroupなどでも、発言者同士が誹謗中傷しあってバトルになっている例は良く見かけましたが、集団ヒステリーのようになって相手を血祭りにあげる「祭り」は見たことがありません。付和雷同というか「長いものには巻かれろ」ということでしょうか。2chねらーは、納豆ダイエットに踊らされている人と変わりませんね。話を戻そう。インターネットの黎明期あなたは何してました?? ネットサーフィン? 現在、日々のアクセス数が1億超え?の2ちゃんねる。築き上げたのはひろゆき。んでもってWinnyの発祥も2ちゃんねる。2ちゃんねる。 次世代ネットワークへの課題として大きく貢献したと思いますよ。あなたは? ・・ネットサーフィン?wそれと、祭り? スキャンダルやゴシップで大騒ぎしてるマスコミやワイドショーは? あれも、祭り?で、で、もちろんこのエントリもその祭りに加担するってわかってて書いてるよね??・・・あれ?わかるよ! 2ちゃんねる関係の記事って伸びるよね!!(中略)*このコメント。載るか載らないか2chでWatchされてます。(いしだ) 2007-01-18 08:16:28 mixiの力を2ch以上と評価される根拠が分かりません。この点を具体的に示していただきたいと思います。2chには、各板に、管理人が存在し、一定のルールが検討されながら形成されています。しかし、mixiはアラシと見なした書き込みの削除、アラシと見なした人物の排除を機械的に行うだけで、そこにはコミュニティメンバー間で自然に作られたルールのようなものが存在しません。そしてmixiの規約は、コミュニティメンバーに周知徹底されることなく、ある日、突然書き換えられるというような形で行われています。不透明な削除、排除体制に対する疑問の声は内部で続出しています。Wikipediaには徐々に検討されて作られたルールがあり、アラシ対策や、保護の方針もWikipedia自体に明記されていますが、mixiの規約は曖昧で、またコミュニティメンバー間で議論されることもなく突然変更されて行っています。2chを過小評価されていると共に、mixiを過大評価されているのではないでしょうか。 (全文採録) 池田さんは2ちゃんねる管理人の管理責任の杜撰さが原因だと結論づけたいようですが,2ちゃんねるを管理することが問題解決にはなりません.「管理しないという管理方法」で2ちゃんねるは今日まで成り立っているからです.もし2ちゃんねるを管理すれば「管理したかった2ちゃんねる」ではない2ちゃんねるになってしまいます.それは管理したことになるのでしょうか?これは禅問答ではありません. そうなんだよね。やっと私のコメントっす。体罰擁護論者として2ちゃんねるでバッシングされた私。 (スポンタ) 2007-01-18 11:07:17 >事実無根の悪口を書かれる不快感は、そういう経験のない人にはわからない。(池田先生)私は、2ちゃんねるでバッシングされたことがあります。それに関しては、wikiにも2ちゃんねるにもログが残っているので、興味がある方は確認できます。だが、はたして事実無根だったのでしょうか。私は二元論を浅薄な論理だと認識しています。否定することは、肯定することと同じ土俵に乗っかっている。誤解があれば正せばいいし、それを「事実無根の悪口」と対話を停止してしまうことは利己的だと考えます。そもそも、きっかけをつくったのは自分の言論なのですから。バッシングの原因は、私の説明が足りなかったと思い、論述を続けました。あれから2年経ち、いまだに言論をつづけていますが、果たして説明が足りているのか、いまだに極めて覚束ない状況であるといえます。☆先生は、学生運動や労働運動を想起されていますが、2ちゃんねる者が石を持ってあつまったことがあったでしょうか。みんなでどこかに集まって火炎瓶の準備をしたでしょうか。確かに、そこにはファナティックな人物もいるかもしれぬが、集団の陶酔感はない。どこまでも参加する個に責任を強いるメディアになっている…。言葉の凶暴性を勘案すれば、ぎりぎりのところで思いとどまっている2ちゃんねる者たちの心ねの優しさと悪意のダンディズムが見えてくると思うのですが…。☆議論が成立しないのは2ちゃんねるに限ったことではなく、リアルな会議でも、このブログでも同じこと。情報が公開されても、自分に不利益になるものは接しようとしないし、閲覧しても否定する。もちろん先生が2ちゃんねるのすべてのスレッドを読むことなど無理なのだから、仕方ないことです。ただ、そのようにして見えてくるものは、「インターネットの特徴は情報交換・対話・議論ではなく、ログを残すこと」だということです。私は、安倍首相、梅田望夫氏、鳥越俊太郎氏、佐々木俊尚氏、歌田明宏氏など、さまざま人たちとコンタクトを試みましたが、一切の対話は成立しませんでした(例外:湯川鶴章氏)。それがインターネットの現実であり、2ちゃんねるから読み取るべきことでしょう。 引用が過ぎた気もするが、採録した言論たちの価値を評価するし、その発信者はすばらしい見識をお持ちであると尊敬したします。感謝いたしております。ありがとうございました。そして、引用の許可を求める手段がなく、お断りもうしあげず申しわけありませんでした。意図的な引用ではあるが、私の言説がけっして一人歩きしているのではないことを感じられて嬉しく思っています。ありがとうございました。追記:このエントリーでやったことは、ビートルズのLOVEと同じことなんだけど、長すぎて、誰も読まないかなぁ…。ま、いいっか。でも、私のメモ書きをネット上で見れるようにしたかったんだよね。考えるきっかけをくださった池田先生・池田先生のブログのコメント者のみなさん。ほんとうにありがとうございました。追記:引用の署名について、全文掲載について、考え方が揺れています。ネットにおける引用のやり方について、今後とも考えていきたいものです。どちらにしても、私が引用する言論も、私が反論する言論も、私が何がしかの価値観を認めている言論であることは言うまでもありません。これにつき、明日エントリーをあげることにしましょう。
2007年01月19日
※ お断り:長いエントリーだから、枠内を読むことで飛ばし見ができます。※ 引用させていただいたコメント者・池田先生に感謝いたします。【本文】池田信夫先生のブログに「ビジネスマンが2ちゃんねるから学ぶべきこと」というエントリーがなされたら、2万ページビューがあったという。エントリーのあらましは、「規制をつよくすれば、ユーザーは集まらず、ビジネスは失敗する」という至極当然のものである。はてなブックマークによれば、このエントリーのコメント欄が面白い。と言う。ブログというオリジナルコンテンツがあり、それに対応する2ちゃんねる(掲示板)があり、ブックマークのコメント欄がある。そのようにして、情報は渦をなしていることは興味深い。ただ、RSSリーダーの利用者はまだ1割程度だというし、M氏が絡んだという「はてな」に違和感を持っている私は一定の距離をおいているのは事実だ。ここにおいて、個のインターネット・リテラシーが求められる時代ではなく、インターネットのインテグレート技術が問われる時代になっていると痛感する。さて、私も、池田先生のブログのコメント欄がおもしろいと思ったので、私のコメントを採録するととにも、経緯を概観してみる。もちろん、採録にあたっては、私の主観がバイアスとして機能したことを読み取って欲しい。そして、2ちゃんねる是非論が、ネット者と非ネット者の踏み絵と機能していることも…。☆ここから先は、私がインテグレーターとして池田先生のブログのコメント欄を採録していきます。何かしらの文脈が成立していれば嬉しいのですが…。以下は、池田先生のブログのコメント欄の採録です。..........................................................................ノイズを丸ごとカットするのは、一種のファシズムであり、表現の自由を後退させているのではないかと思います。2chはその情報がConcentrated, Intensive, extensive,robust,である点でブログより優れると思います。池田さんが述べられているように、1000人集まればとんでもないことができる・知っている人間がいるということです。αブロガーといえ、瞬時に1000人コメントが集まることなど少ないのではないでしょうか。2ちゃんねるはリゾームだが (スポンタ) 2007-01-17 02:47:49 先生の前半の論理は、日本は法治国家ではなく、人治国家であるという指摘でしょうか。そして、あたかも人治主義を擁護されているようにも読み取れるようで、落胆しています。また、LINUXが単なる集合知であるような認識も、現実を見誤っていると思います。2ちゃんねるでの祭りが、特定の人たちの統率のとれた行動であるように、LINUXも無名な集合知の結集などではない。たしかにRSSリーダーで2ちゃんねるの代用はある程度果たせるが、そこにインテグレート機能やオーソライズ機能はない。つまり、不正が指摘されても、それがマスコミや社会を脅かすような言論にはなっていかないということです。いくつかのエントリーを関連してあげています。反論など頂戴できれば幸いです。 匿名コミュニティは、コミュニティであってコミュニティではない。コミュニケーション・情報交換(入手)のあり方として、ブログやSNSでは代替不可能な機能を持つと思いますけどね。あと、大衆性。ブログでいくら正論で盛り上がってる、とブログを「普通」に使ってると思ってる人達が思っても、現実には一般の人にとってブログは「きょうはウチのニャンコちゃんがカツブシ食べてニャー」であって、そんな盛り上がりは社会的には存在しないのと同じです。(全文採録)ブログは匿名性が薄いです。 普通の人は匿名でないと、池田さんのように前に勤務していた会社の法律違反の内部告発とか、検察批判とかこわくてできないのでは。(中略)むしろ、完全匿名のフリーネットのような場所はこれからますます必要になるはず。昔パソコン通信でニフティーのフォーラムを巡回してましたが、今では存在すら忘れてしまってます。2ちゃんねるも同じ運命を辿るなら、もっと進化したものが登場するのでしょうね。そうなんですよ。ログが残っていないんですよね。2ちゃんねる(モタタポ買わねば…)も、ニフティーのフォーラムも…。 (池田信夫) 私は、Nifty-Serveの初期からのユーザーでした。ニフティのフォーラムもしばしば荒れることがあり、「現代思想フォーラム」の騒ぎには私も巻き込まれました。しかし2ちゃんねる上の言説は、それとはまったく違います。その最大の原因は「名無し」という完全匿名を許したことです。ハンドルネームがあれば、ニフティのように誹謗中傷が起こることはありますが、基本的に論争が可能です。しかし「名無し」では、だれと議論しているのかもわからないし、自作自演も多く、コミュニケーションが成立しない。一方的な罵倒が連ねられるだけです。私の知る限り、このように発言者の同定もしない巨大な電子掲示板というのは、世界にも例がないと思います。これが匿名の無責任性をさらに強め、日本のネット文化のS/N比を著しく低下させました。その功罪は、百害あって一利あったぐらいでしょう。(全文掲載) このコメント欄もまた匿名を許容して発言の個人からの中立性を維持されているように2chの匿名性もまた個人の発言ではなく2chの発言として個人の発言から中立していることに大いに役立っていると感じています。新聞、雑誌もまた記者の同定をすることは困難で、記者の同定を避け、新聞社の発言として記事の記者からの中立を維持していると思います。池田さんレベルの優秀な人達であっても理性的で建設的な議論はそれほど安価ではなく、まして一般の人達にとっては相当な困難を伴うモノでしょう。特別優秀ではない一般大衆は、臭い口閉じて黙ってろ、と言っているのに等しいと思います。発言の責任というのは、立場×発言で生まれると考えます。発言一般について責任を持つという旧習に拘る以外に、立場を剥ぎ取った発言に責任を求める論理は思いつきません。床屋談義にもノイズにも、そこに意味を見いだすかどうかは受け手の問題と考えます。ノイズが嫌なら、S/N比を上げて接する技術が発展してるのですから、ノイズをそれほどの悪と決め付ける理由もないと思います。(全文採録)>池田先生> 私も2ちゃんねるはほとんど読まないので普段先生がご利用になられていて、その上で「役割は終わった」と仰るなら至極ご尤もですが、使っていないのにその仰りようは明らかにおかしいのではないでしょうか?。情報発信の場としての2chは確かにmixiやBlogにその役割を譲っている感がありますが、現在の2chの価値は既に情報の発信ではなく、情報の交換と議論の場となっています。あれだけ体系化された生の議論の場こそ、世界に類のないインフラそのものであり、2ch否定を行う人々か必ず口にする罵詈雑言やアラシなどほとんどの板でスルーされて終了します。S/N比など2ch全体で見れば問題にならない数値でしょう。実際に「コミュニケーションが成り立たない」掲示板に於いて、『電車男』のようなストーリーが成り立つ道理はありません。死ぬ死ぬ詐欺にしても日本ユニセフに代表される寄付金ビジネスがあまりにも不透明な金の流れを持っており、そこに高額収入を得ている夫婦があのような形で出てきたからこそ、問題になったといえます。2ちゃんねるに存在する情報のそれぞれは,誰かが何らかの意図をもって生成したデータのコピーにちがいないが,しかし同時に他の誰のものでもない共有財産でもあり続ける.この二律背反的な事実を考えると,いったい誰が誰に責任を課すことができるのか,まったくもってわからなくなる.まったくもって,2ちゃんねるについてそのすべてを理解したフリをするのは実に楽な作業ですな.池田さんの意見に同意しますが、「掲示板」と「2ちゃんねる」は、「P2P」と「Winny」と同等であると申し添えておきます。蒸し返すようですが。参考資料そうなんだよね。(つづく)
2007年01月19日
2ちゃんねるが騒がしいんだけど、連載だから、アップしときます。【ジャーナリズムの行方】 2006年10月。毎日新聞奈良支局の女性記者の書いた記事は、同年12月、奈良県南部の産科医療を全滅させるという事態を招いた。 奈良県南部の生活者にとっては極めて厳しい事態だが、当の毎日新聞は勿論、テレビ報道各社もひとつとして批判の報道をあげていない。それは、昨今2ちゃんねる情報に拗心するマスコミとしては、異例である。 私は、医療関係者が匿名でネットにリークしてきた情報に接することにより、マスコミの恣意的な取材姿勢によって医療事故が捏造された、と推理する。とはいえ、匿名情報に真正性が得られぬならば、それを言っても無駄だろう。 だが、それを言わぬとしても、この事例から学ばなければならぬことがある。 それは、「たとえ真実であっても、報道することが必ずしも社会の利益に資するとは限らないこと」である。【メディアの無力化。そして、リアル者、ネット者、ネット言論、世論がシームレス化する未来】 市民が市民レポーター(取材者)になることはできる。だが、市民が市民ジャーナリスト(世論形成者)になることは難しい。 同様に、いままでジャーナリストと称していたマスコミ者たちが、本当の意味でのジャーナリストかどうかという篩(ふるい)にかけられるのが、「これから」である。 その過程で、いままで自説を世論として発信していたマスコミ者は批判される。マスコミ者の運営するブログが度々炎上するのも、その一例である。 そもそもマスコミ者は情報伝達を助ける人たちであって、情報源ではないのである。 では、これからの時代、何がジャーナリストの役目を果たすのだろうか。 気の早い人は、IT技術の進化がめまぐるしい時代だから、アクセス数によってのみ情報の価値が吟味され世論が形成されていくと考える方もあるかもしれぬ。 だが、それは議論をつくさずに結論をだすことと等価であり、あってはならぬことである。 ならば、誰かがジャーナリストの役割をしなければならない。 その一番の近道は、良質なマスコミ者の中から、本物のジャーナリストが生まれ、市民たちのあげる取材記事をもとに世論にまとめ、世の中をあるべき理想の世界に近づけていくための世論(言論)を形成することである。 だが、現状は、マスコミ者たちはジャーナリストを名乗り、市民たちがあげる取材記事を批判し、無視する。 私は、そのような時代が早く終わって、「それから」の時代がやってくることを祈っているし、そのための尽力の労を惜しむつもりはない。 (3722字)ま、最後がおさまりすぎている。反省だす…。ORZ
2007年01月15日
2ちゃんねるが本当に閉鎖されるのか、一時的に止まっているのかよく分からない。しかし、2NNのヘッドラインから、閉鎖関連のスレッドが消えていることを見ると、閉鎖に反対する言論をまず最初に規制するという意図が働いていることが分かる。この事例を見るにつき、ひとりの個人が出した訴状に、さまざまなエスタブリッシュメントの思いが「主観的正義」となって結集していることが分かる。☆佐々木俊尚氏は、絶対的正義という言葉をつかったので、私は主観的正義という語を使いたいと思う。主観的正義とは、個の行動規範であり、それが主観的でしかないと認識することか重要である。逆に、絶対的正義という言葉を使う裏には、固有のコミュニティー内の純粋律でしかないものを、コミュニティーの外も含めた純粋律であるという誤解がある。彼の友人に、カルト集団内の善でしかない思想を、日本社会全体に広げようとして30以上の人たちを殺した集団に属していた人がいる。カルト集団がいまだに存続し、そこにかつていた人もいまだに反省の弁を口にしないことは、いまだに彼らの心の中で、コミュニティー内の主観善が主観善としてとらえられてないことを意味する。土台、正義などというものは、月光仮面のような扮装をしなければ口に出来ぬ。そんなファナティック(狂信的)な概念なのだ…。佐々木氏はそれが分かっているから、絶対的正義などという言葉を使うのである。私は、それを人文主義だと思う。「我思う、ゆえに我あり」などというヨーロッパの哲学者の言葉に騙されてはいけない。「我思わざれども、我はある」それが東洋人の実感であり、黙想・瞑想とは思いを絶つことによって、存在の真理を感じることである。 ☆個の主観的正義の多様性が発揮されてこその、コミュニティーの主観的正義がある。それを、絶対的正義などといって、論理停止にしてはならぬ。今回の2ちゃんねる閉鎖騒動というのは、コミュニティーの主観的正義を絶対的正義に見誤らせる格好な例だと思っている。2ちゃんねるが終焉を迎えるならば、あたらしい個の主観的正義の集う場所をつくらなければならない。そのために何をすればいいのかも分からないが、西村博之氏が質問に答えるというので、質問というか、提案をしておいた。お疲れ様です。JANJANの市民記者交流会でお目にかかったものです。今回の件は、コンテンツとメディアが不可分であり、メディアに介入することによって、公権力に規制されざるを得ないという実例だと思います。メディア型の情報交換ツールは根本的にそうした問題を抱えていて、もし、新らしい形の2ちゃんねるをつくったとしても、必ず、何らかの意味で、規制がはじまることはいなめない。ならば、「RSSリーダーやgoogleのような形。P2P的でありながらも、ひとつの言論空間をつくっていくこと」でしか、自由な言論の場をつくることはできないと思っています。☆つまり、雑誌というメディア型媒体の花田編集長のホロコースト関連記事はユダヤマネーから言論介入され、花田氏は失脚した。だが、P2P的メディアであるグーグルでは、「アンネの日記」と入力すると、ふたつめの検索ワードとして「ボールペン」というのが出てくる。そこで、「アンネの日記」と「ボールペン」とググってみると、ホロコーストは捏造だったというさまざまなブログ・サイトにあたる…。☆西村さんがやってきたことに価値はあるのですが、2007年においてターニングポイントになっており、2ちゃんねるの今後には、たとえ今回の件がなかったとしても、悲観的にならざるを得ません。もしよろしければ、私の名前でググって、ブログにやってきてください。ネット言論の今後について、お互いに考えていきたいものです。私の質問は、1249番目に掲載されている。質問は300字制限があったので、要旨のみ書いたが、ここでは全文を掲載している。☆西村氏への質問たちを見ればおもしろい。どんなシビアなときも、笑いと明るさを忘れない。そういう文化を西村氏がつくってきた。そういう文化に私は強く憧れているが、残念ながら私のキャラクターには難しそうである…。私が考えるP2P型コミュニティーのイメージは以下。それらを法的・システム的に実装していくのが課題である。
2007年01月15日
1月15日に2ちゃんねるが閉鎖されるという噂が出ている。最初は、「釣り」かと思ったが、次に、「マジ」と思い、そして、今はどうなんだか分からない。祭りは盛り上がり、秋葉原と福岡では、2ちゃんねる存続のために署名OFFをしているという。☆私は、最後っ屁として、スレッドを立てようと思ったが、ぎりぎりのところで思いとどまった。スレッドを立てようとしていたのは以下である。【2ちゃんねるP2P version(仮称)の設立に関する募金のお願い】私たちは、募金夫婦が1億円を集めたことを知っている。(夫婦自身の拠出金を除いた金額)たしかにあのことで、ネット者たちは遊んだのかもしれぬ。だが、社会的な不正の芽をひとつ摘んだことは確かである。いま、2ちゃんねるというひとつの言論メディアが消え去ろうとしている。世の中の2ちゃんねる批判は心得ている。だが、2ちゃんねるの抱えている悪意の量は、わたしたちが普段接しているリアルな世界の悪意の量となんら変わらない。2ちゃんねるには、リアルの世界と同様の割合で善意が存在し、リアルな世界と同様な割合で悪意が存在する。ならば、そういうコミュニティーの中に悪意が存在するからといって、そのコミュニティーを閉鎖することに、何の合理性もない。そこにあるのは、ステークホルダー(利害関係者)たちの結束・決断によるバッシングだけである。☆今回の経緯を考えてみれば分かる。2ちゃんねるを閉鎖に追いやってきたのは、政治や団体や企業だったのだろうか。そうではない。あくまでも、一個人が2ちゃんねるを追い落とそうとしている構造になっている。そのことこそ、まさにViral Marketingに繋がることであり、2ちゃんねる閉鎖への願望が広くエスタブリッシュたちに大きいことが理解できる。政治や団体や企業は、2ちゃんねるの言論の正当性を認めている。そのような後ろ暗い気持ちを持っているから、一個人の訴状によって、2ちゃんねるが終焉するというストーリーを実行に移そうしているのだ。☆ならば、われわれネット者たちは、2ちゃんねるに変わる「自由な言論」の場を創造するために、力をあわせよう。私は、西村氏を偉大なる魂だと尊敬するし、2ちゃんねるの存在を偉大だと思う。だが、2ちゃんねるが、「自由な言論な場」として理想の形だった訳ではない。その理由は、2ちゃんねるが急所を持っていたことである。☆2ちゃんねるの急所は以下になる。1. メディアとコンテンツを分離する文化を構築できなかった。2. 結果、コンテンツの内容によって、メディアホルダーたる西村氏が莫大な訴訟案件を引き受けることになった。それは、京都大学のキャンパスでオウム真理教の布教が行われたにも関わらず、学問の自由を盾に京都大学のシステムが何ら変更をされずにいても、何ら社会的制裁を加えられていないことと比べれば、大きな違いがある。3. サーバーを海外にし、分散するシステムを構築したが、それとて、クライアント&サーバーシステムの延長線上にしかない。サーバーが吹っ飛べば、すべてが吹っ飛ぶのだ。ならば、どうするか。どのような「自由な言論空間」をつくっていくべきか。それは、以下になる。2007年型「自由な言論の場」のイメージ。1.コンテンツとメディアを分離する文化の育成。コンテンツには多様性が保持され。メディアがひとつの色(バイアス・論調)を持つことがなくなる。2.メディア型システムから、P2Pシステムへ。ムーアの法則はまだまだ続いており、ストレージに言論の場の本質を求める時代は終焉を迎えつつある。言論の場の本質は、ストレージ(情報を溜めること)ではなく、リンケージ(情報が繋がること)である。いかなるエスタブリッシュなパワー(公権力・巨大資本・思想・勢力など)もP2P的に張り巡らされたリンケージに手出しはできないのだ。☆私が考えているのは、まず、法的にメディアとコンテンツを分離する方法を模索するために、弁護士・法律家などの研究会を開くことである。次に、行うのは、P2P型の「言論メディア」の構築をシステム者たちと考案していくことである。自分を含め、優秀な人材の時間を獲得するには資金がかかる。そのために1億ほどのお金があれば十分だろう。そのための募金を募る。募金に関する批判は私がすべて受ける。それでいいじゃないか。東京地裁に日参した西村氏に比べれば、楽なことだ。ムーブメントとして広がってくれば、日本財団を始めとして、さまざまなところに寄付金を貰いに頭をさげて廻る。そのような未来・将来が来ることを念じている。☆勿論、2ちゃんねるが復活すれば、そのようなニーズは無くなる。それはそれで結構なことでもある。とはいえ、2ちゃんねるは構造的な欠陥により、すでに耐用年数が近づいている。それは、孤立する天才肌の西村氏によっても、なかなか克服できぬことではないのだろうか。追記:私の構想するイメージが分からぬ人は、スポンタ・平成目安箱など、適宜ググっていただければ幸いである。
2007年01月14日
【市民記者は、Citizen Journalistなのか、それとも、Citizen Reporterなのか…。】日本初の市民参加型ジャーナリズムであるJANJANと韓国発のオーマイニュース日本版は、「市民記者」という語を使い、ライブドアは「パブリックジャーナリスト」という語を使う。一方、アメリカの草の根ジャーナリズムの実践者であるダン・ギルモア氏は、Citizen Reporterという語を使う。これを日本語に訳すならば、市民レポーター(取材者)である。 市民参加型ジャーナリズムの中に市民取材者が存在するということで極めて明瞭な概念である。ギルモア氏がレポーターという語を使ったのは、市民記者に、自分ではない何物かを取材することを求めた結果のネーミングだろう。 だが、日本の市民参加型ジャーナリズムの運営者たちが市民記者に求めたのは、0次情報・当事者発信である。 2006年3月、JANJANの市民記者交流会に招かれた2ちゃんねるの西村博之氏は次のように言明する。「市民記者に実名を求め、登録の垣根を高くするならば、市民記者の数は増えず、当事者発信がなされる可能性も低い」。 実際、実名での発信を強いられた市民記者は、リアル世界の属性(ステークホルダー)に阻まれて自由な言論ができない。結果、プロ市民と揶揄されるようなバイアスのかかった言論者たちが市民参加型ジャーナリズムを席巻する。これでは、市民参加型ジャーナリズムが四流ジャーナリズムと批判されても仕方がない。 そもそも、市民がジャーナリスト(世論形成者)になることなどほとんど不可能だし、実名が課せられるなら、レポーター(出来事の報告者)にもなれるはずはない。【叩かれる市民記者】 それだけではない。 私が、ライブドアの市民参加型ジャーナリズムに参加したときにさまざまな批判が起こった。 一つは、市民記者の国語力に関するもの。これは、読者からは勿論、現役の新聞人・言論人からも多くの批判が集まった。 彼らは、市民が発言することを期待するとの賛辞や結語を絡めながらも、市民記者の瑕か編集システムの瑕かを考慮もせずに、市民記事の国語力や内容を痛烈に批判する。 これでは、リソース(能力・経験・時間)に限界のある個は発信などできぬ。 実名で生活の周辺を記事にすることは現実世界で摩擦を生み、早々に市民記者を脱退するものも出た。 尼崎の鉄道事故では、近隣の市民記者が取材したが、関係者でもないのに救護所に立ち入ったという批判にさらされた。 悲劇的なできごとに思いを寄せる記事にも、記者としての売名行為ではないかとの批判が出た。 ある分析では、2ちゃんねるが匿名である理由は、「日本人同士が議論に興じるためには,発言者地位と発言内容の情報価値を切り離すことか必要」だという。 記事を書く前は市井の個でしかない市民記者は、取材現場で自分の居所を確保できぬし、情報の発信においても、実名を強いられる現状では、市民記者は問題を抱えているのだ。 結果、市民記者活動をする人物像には、かなりのバイアスがかかってしまう…。提出した原稿の分量は、3700字。字数が多いから3つに分けたのだが、実際に分けてみると、自分がソナタ形式(3部)で書いていたことが分かった。第一楽章:・民主主義社会におけるジャーナリズムの程度とは、「選挙・国民投票と同様に、重要な構成員の意志を国政に反映させるためのシステム」である。・「選挙・国民投票」のような間隔を持って実施されるものでないから、「ジャーナリズムが有効に機能すれば、社会は漸進的に変化することが可能になり、改革を、より少ない血を伴うことによって、実施することができる」。・インターネットの実現(BBSの社会的認知度の向上・ブログの一般への普及)により、選挙や国民投票の経費は無限小に限りなく低くなっている。同様に、ジャーナリズムにおいても、「大衆を語りながら、マスコミ者が自説を主張することは許されなくなる」。そして、本日のエントリーたる第二楽章:・2002年のJANJAN発足以来、日本でいくつかの市民参加型ジャーナリズムが誕生したが、それらの運営者は、何らかの事情で職場を追われたマスコミ者たちだった。・2006年には、産経新聞本体がブログ空間を創出し、2007年、毎日新聞は、元日一面で、2ちゃんねるを話題にした。これは、メジャーメディアも、積極的にインターネットを言論の場として活用しようというムーブメントが本格化してきたことの表れである。・すべての市民記者媒体は、2ちゃんねるでのバッシングにさらされている。そして、マスコミがネット上に拵えたメディアも全てが批判を受けている。・マスコミは、その理由を「嫉妬」や「感情」と決め付けるがそうではない。ネット者たちを発言に駆り立てるものは、「発信者は平等である」「すべての情報は共有される」という民主主義の条件である。・「民主主義の条件を満たさぬ行為は許されない」それが、ネット者たちの正義である。・具体的には、「肩書きや知名度といった、言論内容以外のもので、情報の価値を嵩上げすることは許されない」であり、「個のステークホルダー(利害関係・事情・体温)によって、情報を操作してはならない」であり、「すべての情報の内容と、情報の重要度を議論参加者が共有して議論をすべき」。・また、「煽動」という感情を操ることも卑怯であり、・「洗脳」という、絶対的正義を装いながら、宗教活動・思想活動・営業活動をするのは悪である。このように分析をすすめてくれば、「マスコミというステークホルダー(広告主・監督官庁)の奴隷のメディアは、インターネットと相容れない」のは必然である。ならば、そういう職業的な道徳を身に着けているマスコミ者・マスコミ出身者が、ネットメディアをつくろうとしても、成功は覚束ないのである。要旨を説明するといいながら、新たに文章を綴ってしまった。反省しきりですが、私の頭の中で整理がすすんできた…。スポンタ論03では、第三章:メディア文化とP2P文化の相克について触れることにする。
2007年01月14日
昨日は、研究発表の論文の打ち合わせで、財団に行ってきた。私は、ステークホルダー(個の利害による言論の制限)を否定しない論者である。研究会の主宰者はマスコミOBであり、彼の文脈を考えるならば、当然、私の論ずる限界というのが見えてくる。私のいままでの仕事や人間関係で通じて培ってきた経験は、「相手の誇りをけっして傷つけてはならぬ」であった。だから、相手の職業の誇りを傷つけるような発言については、慎重であろうとしてきた。だが、主宰者は、わたしのそのような配慮がダメだ。と言う。ブログにいるあなたではない。と指摘する。☆痛いところを突かれた。研究会は、私のエスタブリッシュ化への一つの手がかりであって、そこでの人間関係を円滑に守りたいという、私のステークホルダーがある。そのようなステークホルダーの奴隷であることを主宰者は見抜いている…。ステークホルダーに染められた私は、小さくまとまった、面白みのない文章を紡ぎあげてしまった。☆反省をこめて、正月明けに提出した原稿を掲載することにする。勿論、ここに掲載することで、旧原稿には別れをつげて、まったく新しい原稿を紡ぐことができるだろう。「ネット時代のジャーナリストと市民記者の微妙な関係」(1/3)【民主主義におけるジャーナリズムの定義】 私は、2005年の初頭、ライブドアがニッポン放送株を大量取得したときに発足したライブドアの市民参加型ジャーナリズムに参加した。一日数本しかない状況の中で毎日記事を提出し、ネット・ジャーナリズムにおける市民記者とは何かについて体現した。その後、ライブドアとは決別する中で、真剣に「ジャーナリズムとは何か」と考えた。 その答えは、「ジャーナリズムとは、選挙・国民投票と並ぶ、国政への民意の伝達ツールである」ということものだった。【ジャーナリストたちのジャーナリズム】 私は今村昌平の映画学校の出身者であり、市民記者ではあったが、ジャーナリズムに対して、特別な思いはない。 だが、報道関係者は勿論、ジャーナリズムについて言論したり、関心を持つ人たちは、「シャーナリズム」という言葉に特別な思いがあるから厄介である。 紙面には、世論を呼び起こす記事もあるが、娯楽や広告に繋がる記事もある。だから、新聞社の社員記者が一様にジャーナリストと呼ばれることに、違和感を感じる。 社会の木鐸・ウォッチドッグなどと、権力の監視役としてジャーナリズムを定義する人もいるが、では、どんな権力がジャーナリストに監視役としての特権を与えているのか…。自らを誇ってみても、その存在理由は街の自警団と大差がない。 そもそも民主主義の国家において、民意を背景にジャーナリズムが営まれるならば、反権力であることがジャーナリスト的であるはずはない。 韓国で成功をおさめた市民参加型ジャーナリズムのオーマイニュースのオ・ヨンホ氏は、「みんなが市民記者」というスローガンを立てた。だが、その実際は、市民記者のほとんどは日常瑣末事の記事をあげるばかりで、大統領選挙に影響を与えるような言論活動は、オ氏をはじめとする専従プロ記者の手柄によるものだった。 つまり、市民参加型ジャーナリズムの成功例として世界的に知られるオーマイニュースも、その実際は、マスコミ者たちが作り出したムーブメント(世論形成)であって、かならずしも市民が記事を書き、新しい時代を切り開いていったものではない。【掲示板・ブログで、ジャーナリズムの意味が変わる】 平成の今も、民主主義は社会の理想として輝いている。 スイスのような直接民主主義が理想だが、それが不可能なので、代議制民主主義・議会制民主主義が、この国で採用された。 だが、インターネットの登場によって、直接民主主義が可能になる。 一回の投票に莫大な費用がかかる選挙や国民投票は、インターネットを使えばほとんど費用がかからずに行うことができる。やろうと思えば、一日一回の投票も可能だ。 同様に、国民の意見を代弁することで世論を形成してきたジャーナリスト(世論形成者)たちも、インターネットを使えば簡単に国民の意見を聞くことができるようになった。 思えば、報道とジャーナリズム(世論形成機構)は混用されてきた。事実が伝わるだけで世論形成を促さない報道。そして、権力に迎合した言論誘導。部数や視聴率を増やすためになされるセンセーショナリズム…。 さまざまな問題を孕みつつも、いままでマスコミ者は、民意を正確に知る手段が少なかったから、自説を民意として記事に仕立てることが許された。 だが、インターネットの時代、そんなことはあってはならない。ジャーナリストは、言論人ではないのである。3700字の原稿なので、3つに分けて掲載することにする。
2007年01月13日
グッチ裕三の芸能界の挨拶に関するギャグについては、すでに紹介している。 芸能界1年目の新人:しっかりと立って、顔に満面の笑みを浮かべながら「おはようございまぁす」芸能界5年目くらいの中堅:歩きながら、「おはょ~~す」と、ほとんど聞き取れないようにおはようと発声する。そして、芸能界のボスともいえるスーパースター:新人たちが、笑顔満面で「おはようございます」というと、「誰?」と切り返す。私が指摘したのは、挨拶というのは、コミュニケーションの基本ではなく、コミュニティーにおいてヒエラルキーの上下を確認する作業だということである。☆たしか、日経新聞だったと思うが、オシムが日本代表監督になる前に、ジェフ千葉のスタッフが、「日本人は、朝の挨拶はしっかり行うが、それがコミュニケーションに繋がっていかない」不備を指摘していたことを憶えている。☆私の義兄は、かつて日本企業のフランス工場の担当者だったが、フランス人たちが朝やってくると、ひとりひとりに挨拶をして、長話をし、なかなか仕事が始まらないことに不満を漏らしていた。☆私も、イギリス人家庭に家に遊びに行くと、「中村さん、元気?」と聞かれた。勿論、それは日常会話のひとつのシーンでしかないのだが、How are you?Fine thank you and you.などという定例句で終わることは、相手に対して極めて失礼であると感じて、コミュニケーションをとっていた。☆コミュニティー論から、コミュニケーション論に移行した理由は、日本におけるコミュニケーションが、情報の伝達ではなく、「同じコミュニティーの構成員であることの確認」や「コミュニティー内のお互いの序例の確認」のために行われていることがほとんどであるという指摘をしたかったからである。そして、理解さえも、情報の伝達ではない。トリガーが過去の記憶を活性化させる。つまり、「冬のソナタ」よろしく、初恋の人に似た人が突然目の前に現れて、過去の記憶が蘇るように…。☆たしか、新聞のコラムだったと思うが、フランス領のちいさな南の島では、飛行場でも、挨拶と自分の軽い自分の日常を披露し合うことが行われているという。日本人の筆者は、そういうコミュニケーションをわずらわしいと感じていたと白状していたが、それはある事件を契機に転換する。税関関係でトラブルが起きたときに、普段からコミュニケーションをとっていた役人が「この男のことを知っているから…」と、融通を利かせてくれて事なきを得たのだという。 ☆相手の階級や肩書きを知っていることが、果たして相手を知っていることになるのだろうか。私は、ベルナルド・ベルトリッチ監督の「ラストタンゴ・イン・パリ」を思い出している…。☆インターネットのコミュニケーションはヒエラルキーではなく、フラットである。そういうフラットなコミュニティーで、秩序を維持したいならば、円滑なコミュニケーションを実現するしか方法はない。そのような思いを念頭に、図を眺めて欲しい。コミュニケーションとは何なのか。せめてこのブログを読んでいる諸賢の方々には、もう一度考えて欲しいと願っている。スポンタに洗脳されてはならぬのである…。
2007年01月12日
メディアの時代が終焉し、P2Pの時代がすでにやってきていることを論じている。P2Pの時代とは、情報の価値によって、情報が伝達されるかどうかが決定する時代である。いままでのように、メディアの都合で情報の流通が決まるのではない。☆コマーシャルの大滝秀治は、「ばかもん」と、「つまらん」と喝破している。P2Pの時代とは、「ばかもん」:間違った情報。「つまらん」:価値のない情報。がコンテンツとして伝達されない時代である。☆P2Pの時代とは、コミュニケーションの価値が低下する時代である。コミュニケーションに価値はなく、個の価値が再認識される時代である。そういう時代では、情報の受け手の意味が変わってくる。マスコミ者たちは、けっして認めようとしないが、情報の受け手たちの反逆の時代がすでに始まっているのだ。☆産経新聞の水曜日のイザ欄では、梅田望夫氏が、新聞とネットが別の世界として並存する未来を語っている。いま、新聞の記事のうち、どの程度がネットをニュースソースにしているのか。そのことを考えてみるだけでも、新聞とネットが別の世界として並存などできるはずはないことは明らかだ。私は梅田氏にネットで対話を試みているが、一向に対話が成立しない。インタラクティブでないならば、そのコンテンツがネット上にあるとしても、ネット的ではない。そして、対話ができぬコンテンツもすでにネットではないし、それを発する個も、ネット的ではない。梅田氏の言説は、ブログ普及前にネットがオルタナティブメディアと認識されていた時代のものである。何故、彼が、ネットがマスコミに対して、オルタナティブなメディアであるという言説をするのか、理解に苦しむ。彼は、日本の新聞たちが、ネットを目の仇にしているのを知らないとでもいうのだろうか。毎日新聞の元日の一面を2ちゃんねる関連が飾り、紙面にインターネット情報が横溢している。新聞がネット者たちから批判されていても、新聞がもうひとつ別の世界をつくるというならば、それは孤立でしかない。「国家の品格」の藤原氏同様、梅田氏の浅薄さが世の中を覆っていく日々がいつまで続くのだろうか…。☆ということで、図説を見て欲しい。ざっと眺めてくれればいい。この概念を元に、論をすすめていくので、後々理解していただけると思う。・理解するとは、ある情報がトリガーとなって、すでに獲得されていた情報が活性化することである。・すでに獲得されていた情報をトリビアという。すべての情報のやりとりを強制・規制してはならない。それが民主主義の基本である。
2007年01月10日
誰でも情報発信の権利があるということで論じてきた。フラットな世界というが、フラットということは、「誰もが発言する権利を有する」ということだが、「誰もが他者よりも大きな影響力を有さない」ということでもある。つまり、情報が伝達されるかどうかは、「情報発信者の価値(属性・グレード・エスタブリッシュ)」によるのではなく、「情報そのものの価値」によるべきだというのが、私の主張。そして、私が何をせずとも、それが実現するのがP2Pの時代である。☆いままでメディアの時代では、エスタブリッシュたちが、重要度を低い情報を垂れ流してきた。その理由は、「他人のシノギ(生業)には口を出さない」という商売人同士の相互不可侵という規範によるものである。だが、インターネットでは、商業的であることはバイラルであり、いかなる言論であっても、存在そのものを否定することがあってはならぬ。結果、インターネット上にはみ出してきたメディア者やビジネス者は、相互不可侵と暗黙の了解のうちに共同戦線をはって、自由な言論を妨げる。匿名批判、死ぬ死ぬ詐欺サイト批判、2ちゃんねる批判がその実例である。☆池田信夫先生のブログでは、NHKなどのテレビメディアが、「わかりやすくする」病に陥っていることを指摘している。なぞりテロップはその一例であり、「わかりやすくする」という絶対善のために現場が抵抗できず、複雑な事象を単純化して描く方向で番組制作がすすめられているという。私は、スポーツ番組の解説者に専門家ではなく、テレビタレントや専門外のスポーツタレントが起用されていることに不満を持っているが、これも「わかりやすい」病のせいだろう。☆【言論の最小単位…既存メディアの図】政界では、小泉純一郎氏のような「主体・文体・意志」の三拍子が揃っていなければ政治改革が行えない。税制調査会長のように、文体や意志は優秀でも、主体に問題があれば発言権は拒否される。マスコミ界は、広告主や電波権をもとに政治の介入が日常であり、「意志」は他者のステークホルダーを毀損する可能性があるとして拒絶される。結果、「名ばかりの主体」が「重要度のない文体」を連発し、「言論の希釈作用に寄与」している。☆在野勢力の自由民権運動がつくった新聞たちに対抗して、既存勢力たちが今の新聞たちのルーツたちを誕生させた。その伝統はいまも生きている…。
2007年01月10日
次は、意志である。大滝秀治の「ばかもん」や「つまらん」は、立派な言論である。大滝秀治氏は、劇団民芸の重鎮だから、国語力がなくても、発言を許された。無名氏であっても、「ばかもん」「つまらん」という意志を発言する権利をもたせるのが、市民参加型ジャーナリズムでなければならない。思えば、民主主義における選挙・国民投票とは、主体も文体も必要なく、ただ「意志」を発することである。ジャーナリズムが民意の抽出システムならば、選挙や国民投票に準じるべきだろう。☆私が言論を個・文体・意志と分けたのは、「実名・匿名論争」をもう一歩すすめたものです。つまり、本間税制調査会長が、新地のお姉ちゃんを囲っていることで失脚することは仕方ないことだとしても、新地のお姉ちゃんの問題によって、日本の税制が影響を受けるのならば、それは社会のシステムとして不合理だということです。小泉純一郎氏は、一匹狼だったから、政治資金のくびきがなかった。だから、政治改革をすすめられたというのでは、世の中が理想的な形にすすむには、小泉氏のような異端児が毎回でてこなければならぬことになる。政治改革というのは、戦後政治を眺めていれば合理として成立するものであって、その合理を推し進めるのに、政治家の個人的資質が影響することは不合理である。そのためには、まず、2ちゃんねるのように、個の文脈とコンテンツを切り離すことが必要なのだ。☆・価値ある情報を発信できるのに、個の属性(非エスタブリッシュ)により発信できぬのは不合理である。・個の属性(エスタブリッシュ)により、価値のない情報を発信するのは、有価値情報の検索をさまたげるので社会悪である。(言論の希釈作用)☆さらにいえば、文体は文体でしかなく、意志はもうひとつ別のところにある。つまり、文体は国語力を反映したものでしかない。文体の底にある発信者の意図・意志を読み取らすに国語力を批判することは、浅薄である。デジタルデバイドなどと喧伝する諸氏がおられるが、受信力・発信力に個体差があるのは当然である。勿論、個の能力の向上をめざすべきではあるが、それでも能力の低いものには隣人たちが助けてあげればよいのである。デジタルデバイドなどという人に限って、国語力で個を鑑別し、能力低きものの意志を否定するものが多い。選挙が、投票者に求めているのは、「はい」と「いいえ」でしかないことを、忘れてはならない。すべてのマスコミ者は、国語力なきものの代わりに文章をつづり、主体力のなきものの代わりにそれを発表する。それが、私の言うインテグレートである。だが、マスコミ者たちは、市民記者たちを鑑別し、自らの立場の凋落に怯えながらも、自らを誇り、市民記者の発言をつぶしていく。それではマスコミの地盤沈下はすすむばかりである。既存のマスコミの生きる道は、インテグレートシステムをつくることにしかない。私はそう確信している…。☆汝、発信者の出自を問うなかれ。汝、発信者の学力を問うなかれ。すべての人の意志に耳を傾けよ。民主主義とはそういうことなのではないだろうか。
2007年01月08日
メディア時代は、主体・文体・意志の三拍子そろっていなければ発信できない。だが、メディア時代の発信者は、いったん発信権を獲得すると、発信権維持のために意思表示をしなくなる。というのが、私の結論である。☆☆次は、文体。何故、このような概念を提出したかといえば、ライブドアPJにおける国語力バッシングである。ライブドアに限らず、市民参加型ジャーナリズムは、「国語力のない市民」には発言権がないと言って憚らない。JANJANの市民記者交流会では、編集長が、市民たちを教育して国語力を身につけさせ、立派な市民記者にすると胸を張っていた。たが、どうだろう。国語力と分析力を養うことは、直観力を減じることにならぬだろうか。魚屋のご主人が、魚屋の現場からの意見を言うことは価値があるが、言論人が魚屋をやっているような状況になってしまったら、中途半端な言論人が誕生することにしかならぬ。ジャーナリストは自分自身がニュースになってはならぬという職業規範があるから、エスカレートしないが、市井人にはそのようなものはない。パン屋の素人がジャーナリストよりも優秀に見えるのはそういうことである。実際、世田谷区にはオンブズマン活動をするパン屋のご主人がいたが、いま彼は議員となり、パン屋の主人という立場は副業でしかない。それでは市民が意見を発するようになったのではなく、市民が副業として記者をはじめたことにしかならない。一定の国語力がなければ発言権のない社会では歪な社会が出来上がる。そのようにしてできあがったのが日本であるといえないだろうか。「物言う人のバイアスをなくすことが、このブログの主旨」と書いたが、具体的には、「国語力によって発言権を制限してはならぬ」ということ。それに対抗するムーブメントが、若者たちの方言の流行である。方言は言い方が変わるだけではない。論理的構成力の重要性は低い。説話体が長いと批判されにくい。若者たちの心に耳をすますべきだろう。☆小6の娘の妙な関西弁に、私の胸がざわつかぬわけではない。だが、私は対抗して、イギリス人の日本語をまねてみせる。美しい日本語の世界とは異なるが、和やかな家庭の風景である。余談であるが、2ちゃんねるが匿名になっているのは、情報の価値と発信者を切り離すためである。同様に、2ちゃんねるで正式名称が使われず、蔑称・別称が使われるのは、正式名称による検索をさけるためであるし、訴訟をさけるためである。ディズニーランドを鼠園。ライブドアを生扉などと記すのは、その例である。そして、言葉づかいの荒さを専らとするのは、対論が悪意の露出であることを無力化する意図である。2ちゃんねるのようなロゴス(言葉)を越える営みを、私はアバンギャルドだと思っている。
2007年01月08日
コンテンツの最小単位として、個と文体と意志の3つの要素があることは、昨年の夏のネットシンポジウムで指摘している。【言論の最小単位の図】☆何故、このような図を提出したかといえば、限りなくつづいている発信者に実名を強いるマスコミ者たちの言説である。最近では、2ちゃんねるにおける匿名の理由は、×:発信者が無責任に発信したい。ではなく、○:発信者の属性に捉われぬ議論をしたい。ということがネット者の間での共通認識として定着しつつある。 勿論、それをマスコミ者やエスタブリッシュたちは認めようとしないが、それはステークホルダーとして仕方のないことであるというのは、私が一貫して主張してきたことだ。マスコミという限定されたステークホルダーの集団の言論は、ネットの無名氏たちがつくる集合知に太刀打ちできない。だから、集合知を認めないし、集合知を実名によって分断し、各個撃破することにより、勝利を目論む。この図では、主体と書いているが、リアル属性と、情報(主体)そのものを切り離すために、私はこの図を描いたのである。*私は、できれば匿名で書きたいのだが、それでは、私と考えを異にする人たちとの対話ができないので、ハンドルネームを使っている。私が固定ハンドルネームは、ネット上の属性を誇るためのものではなく、私の固定した文脈を知ることによって、読み手の理解が深まることを期待してのことである。ネット上の属性もリアル属性(肩書き・立場)も、それがコミュニケーションの弊害となるならば、あえて指摘すべきではないというのが、本論の主旨である。☆2年前から、実名について考えてきた。最初に思いついたことは、発信者のトレーサビリティーを確保するために実名が必要だということだ。実際、2ちゃんねるでは、発信者がどのコンピュータから発言されたかが記録されており、警察権力が捜査権を使えば、プロバイダーの協力を得て、発信者をつきとめることができる。そのような状況においても、市民参加型ジャーナリズムの運営者たちが、何故、実名を求めるのかは理解に苦しむ。最近でも、鳥越俊太郎氏は、「現役の役人が実名で内部告発をして欲しい」などとありえぬことを述べている。鳥越氏は、旧来のマスコミの価値観によるセンセーショナルな記事を求めているだけであって、よりよき社会ができあがることを求めているのではないことが分かる。ハチの一刺しの榎本美恵子氏や西宮冷蔵の社長氏のその後の人生を、彼は知らぬとでも言うのだろうか…。実名にこだわる人たちの議論に加わること自体、私には価値のないことだと考え始めている。否、実名にこだわる人が非ネット者で、実名にこだわらない人がネット者。そういう踏み絵的な価値をこの議論が示している。実名派・匿名派をリストアップすれば、非ネット者とネット者のリストができあがるだろう。
2007年01月07日
世の中はすべてエントロピー逓減の法則(熱力学の第二法則:偏在したものは拡散する。それは、水面に落とした赤インクがひろがっていくように…)にしたがっている。エスタブリッシュたちが獲得した価値観も、実は偏在した価値観のひとつでしかない。ならば、その価値観が拡散していくのは必然だ。ならば、自らが属する特定の価値観が拡散することに、敢然と抵抗することがエスタブリッシュメントの義務なのである。☆イメージできるだろうか…。イチローが少年野球教室で少年たちに野球を教えるのは利己的な行為なのである。その傲慢をイチローは知っているから、「野球でなくてもかまわないんです。どんなものでもいいから目標を持って、その目標に向かって努力してください」と、こどもたちに語りかけるのです。【マルチターゲットなコミュニティー】個の評価軸は多様であっていい。かつて、落語家の柳屋小さんは、「芸がせこ(拙い)なのに、親孝行で真打ちを誕生させた」と言って、三遊亭円生から批判された。芸術と人生は対立概念であり、生活によって芸術が評価されるのはおかしいから、私は円生と三遊協会を支持する。だが、連城三紀彦の「戻り川心中」の指摘のように、「もし、石川啄木が豊かな生活を送っていて、空想の中で貧窮の歌を紡いでいたら、世の中は評価しなかっただろう」 という問題もある。芸術と人生は切り離せぬものであり、親孝行だが芸がせこという咄家が、本当に芸がせこだったのかどうか。それも分からないことであり、いまをもって振り返るならば、小さんと円生の芸術上の対立でしかなかったのかもしれぬ…。人間の評価とは、そもそも多様なものであるべきであって、そこになんらかの情実が混じったとしても、情実を生むことさえも、もうひとつの評価なのだ。研ぎ澄まされた芸で人を酔わせるのもいい。愚鈍な存在で場をなごませるのもいい。高座も多様な価値観によって成立すべきなのだ。☆「お金で幸せは買えない」というけれど、お金がないと不幸がやってくるのは明確。そして、高学歴が収入に直結するならば、経済や学歴という単一な尺度で世の中の価値観が出来上がっているといっても過言ではない。そのような社会が歪であると私は指摘している。だが、私のような言説をマスコミに見ることはほとんどない。その理由は何か…。☆「ものを言う権利」を持っている人のすべては、エスタブリッシュメントであり、何らかのステークホルダーである。ならば、私が言論するようなマルチターゲットな社会を擁護することはできぬ。だから、格差社会などという浅薄な争点に応じるのである。だが、そのようなステークホルダーの奴隷が、本物の学者といえるのだろうか。ユーザーフレンドリーな企業人といえるのだろうか。市民の司直たる役人といえるのだろうか。民意を尊重する政治家といえるのだろうか…。防衛戦をマッチングしないチャンピオン。芥川賞作家は、元芥川賞作家でしかないのに…。それが日本のエスタブリッシュな現状であり、それぞれのエスタブリッシュたちが相互不可侵条約を結んでいるのだ。※黒崎さんの一昨年のブロガー・カンファレンスに関する発言からの連想です。暗澹たる思いで、日本の言論の場をみているスポンタである。すばらしい未来とは、新しい価値観が続々と生まれていくこと。それは個にとっても、コミュニティーにとっても…。幼少期、可愛いだけで愛されることが許されたこどもたちが、中高生になり、新たな愛でられるに足る価値観を自らが創造できなかった場合、自己崩壊を起こす。それが引きこもりと逆ギレである。追記:次は、ようやくコミュニケーション論である。
2007年01月06日
産経新聞が、クラウド・ソーシングと読者からの情報発信を記事に募るやり方を正月3日の一面に載せたと紹介した。すると、「ウェブ人間論」を書かれた梅田望夫さんのブログでは、「群集の叡智」とのタイトルが踊る。また、愛・蔵太さんのブログでは、「集合愚」について述べられている。BigBangさんは、M氏と「ブロガーとジャーナリスト」について対論をされているが、「正義が単独な個の主観でしかない」ことを捨象して述べられているところを見ると、ブロガーとジャーナリストたちが、「何物かの仮想権力」を背景に、大衆や群集と対峙していると考えているに違いない。☆さらにいえば、世の中は、絶対善と絶対悪が戦うスターウォーズ的なモデルで世の中は動いているのではない。枢軸のそれぞれが主観的な善を持っていて、対立し、戦争になる。田中芳樹氏の「銀河英雄伝説」における、ラインハルトの帝国主義国家とヤン・ウェンリーの自由惑星同盟が戦うようなものだ。☆みんながおんなじことが気になっている…。でも、私が去年の夏から言い続けているように、これからはP2Pの時代なんです。通信と放送の融合って、エスタブリッシュ vs 大衆・群集ではないんです。☆to 産経新聞さま市民記者が匿名でありつづけるならば、クラウドソーシングも可能だが、裏づけ取材や発信者責任を求めるならば、発信者がクラウドのままでいられるはずはないんです。to 梅田望夫さま叡智などという讃美をしても、群集という語に含まれる差別感は拭い去れないし、何万の読者の感想を読んだと嘯いても、読者はあなたにとって群衆の一員でしかないと言うんですか。私はあなたの本にお金を払いました。私に限らず、自分の作品を読んでくれた人たちに、「群衆」という単語を投げつけることが非礼といえないのでしょうか。読者たちが紡いだ言葉たちは、個の属性から切り離されて、発信者の脳に定着する。粗忽な読者は、その選民主義に気がつかない。そして、そのようなものを讃美をする…。北海道日本ハムファイターズの新庄氏は、球場では観客という群集・大衆に対してサービスをしたが、マスコミを離れたところで、施設を訪問したり、傷ついた少年たちとの交流を持った。私は引退後、新庄氏が、兄を交通事故で亡くし深く傷ついていた野球少年と手紙のやりとりをし、少年をはげましたことを知った。群集・大衆の中に、それを構成している個を見失ってしまうならば、それは傲慢である。さらにP2P的に言えば、発信者の個の属性から切り離されて、受信者の脳に定着しなければ、発信者は有用な情報を発したことにはならぬ。固有名詞というタグがつかなければ有用にならぬ情報はゴシップでしかない。☆世に、衆愚という言葉があるなら、実名愚とでもいうのだろうか。まいまいクラブでは法政大学の先生が2ちゃんねる批判をされているが、コメント欄でリアル属性をひけらかすことが逆に批判をよんでいる。2ちゃんねるの本質は「(お前)モナーの精神である」。モナー(情報発信者の属性)を越えるために匿名がある。そのことを多くの2ちゃんねる者が自覚している。私は、固有の文脈を維持するために、ハンドルネームを使っているが、できれば匿名にしたいと願っているのだが難しい…。私がもし匿名であれば、もっと対話が期待できるかもしれないのに…。☆もちろん、スポンタという固有名詞がついても無価値なままの私が発する情報の有価値性は極めて疑問。とはいえ、無価値な言論が数百のアクセス数を維持するともと思えぬ。かねてから指摘しているように、理解するとは、相手の言説によって、すでに持っていた情報が体系化されることだ。理解できぬという方々にはお詫びするしかないが、理解せぬ個の存在を否定しないし、理解を強制しないし、そんなことはできぬというのが私の立場。そのことについては、コミュニケーション論で語っていく…。☆今年も、エスタブリッシュなステークホルダーたちを相手に言及しなければならないのだと思うと、暗澹たる思いになる。だが、対話を試みることが人生である。私のコメントやエントリーが対話を生み出さぬとしたら、反省するしかない。だが、私にはどうしても、木村剛氏のようなカラミニケーションという技法を使う気にはなれぬのである…。対話が無理なのであれば、せめて反論をお待ちしています。これだけ同じことを書きつづけているのに、なかなか内容に言及してもらえぬのは何故なんだろうか…。(^^;)....ORZ
2007年01月06日
学校教育における人文主義が、学歴社会とそれに連なる格差社会をつくったとして、図説した。格差社会という言葉に騙されてはならぬ。その言葉は「階級闘争」の言い換えでしかない。格差社会を論じるのは、労働組合などを党の支持基盤として持つ政党(民主党・社民党・共産党)が、自らの求心力を弱めぬために作り出した争点であると繰り返し述べている。だが、私がマスコミを見渡す限り、私の論理に類する言論を主張する人は皆無である。何故、そうなのか。私は理解できずにいたのだが、村上龍氏のJAPAN MAIL MEDIAをつらつらと見ていて思い当たった。[JMM408M] 「経済格差」は財政で解消すべきものか■ 『村上龍、金融経済の専門家たちに聞く』【メール編:第408回】 □真壁昭夫 :信州大学経済学部教授 □菊地正俊 :メリルリンチ日本証券 ストラテジスト □金井伸郎 :外資系運用会社 企画・営業部門勤務 □山崎元 :経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員 □岡本慎一 :生命保険会社勤務 □飯田泰之 :駒澤大学経済学部専任講師 □杉岡秋美 :生命保険関連会社勤務 □津田栄 :経済評論家 □土居丈朗 :慶應義塾大学経済学部助教授既存の価値観でエスタブリッシュになった人たちは、私が指摘するようなマルチターゲットな世の中(価値観が多様になること)で、自分が獲得した価値を損ないたくないのである。太宰治は、市井人の生活の中にある宝石を小説にするといったが、いつから小説家は、このような退廃の道を歩むようになったのだろうか。先日も、五木寛之氏をテレビで見たが、仏教を勉強して、超越的世界(ブットビな世界)が存在することを知っているのに、テレビコードを意識し、自分がマスコミの枠からはみ出ないことを意識していた。エスタブリッシュには雁の味がするのだろう…。☆たとえ話をすればこうだ。プロ野球選手というステータス(価値観)がある。なぜ、一流選手が年棒数億が許されるかといえば、社会がプロ野球選手の価値を認めているからである。なぜ、その価値観がつくられたかといえば、少年野球が盛んであり、甲子園があり、日本中が、プロ野球選手になることが憧れであるが、それが難しいことを知っているからだ。だから、プロ野球選手が少年野球教室を開催するのは、そういう価値観の全体像(山高ければ、谷深し。)を把握しているからだ。サッカーの場合は、もっと分かりやすい。サッカー協会は、裾野を広げるために草の根のサッカー大会をし、全国大会をし、サッカー教室し、指導者の育成をし、エリート教育もする。国際大会での勝利も、草の根サッカー大会の反映も、社会の中でサッカーの価値観を増大させることに寄与している。直接的な利益を求めるサッカーくじは失敗したが、サッカーという価値観の創造に陰りはない。☆とはいえ、宝くじを買う人は等しい可能性を秘めているか、運動的才能を持たぬ少年が将来のプロ選手を夢見て努力する姿は無価値・ねずみ講の一種だ。などというつもりはない。人生はそのような合理では進んでいかぬし、むなしい努力をすることが後の人生に生きてくる。思えば、私は中学校の部活で野球部であり、部活では皆勤賞だった。だが、サードの補欠。望んでも、努力しても報われぬことを知った。高校の吹奏楽部は、関東大会で金賞を受賞しながらも、全国大会への推薦をもらえなかった。世の中は主観とステークホルダーでできあがっている。ここでは、サード・クラリネットの末席でなんとか出場の栄誉を与えられたが、自分の音楽的才能がないこともつくづく悟りもした。とはいえ、プロ野球の鑑賞者であり、音楽の鑑賞者としては、けっして2流ではないと自負している。人生に無駄なことはひとつもないのだ。☆話をもどそう…。正月のテレビコマーシャルでは、みずほコーポレイションがこどもたちのための「金融に関する勉強会」を開くことを紹介している。「株式投資の本質は博打であり、こどもたちに勧めるべきではない」などと批判する人は、今では少数派。21世紀のこどもたちは賢い消費者になるべきであって、株式も金融商品のひとつとして賢く利用すべきということなのだろう。だが、前述のプロ野球やサッカーの例で分かるように、証券会社がこどもたちのための株式勉強会を開くことは、自らの価値観を増大するための所作なのだ。☆そのようなステークホルダーの所作は認めるとしても、そのひとつひとつを絶対化するような社会全体のムーブメントは既得権者によって恣意的につくられたものであって、諸賢ならば、そのようなものに乗ってはならない。江戸時代の寺子屋では、対面講義式授業ではなく、個別指導だった。そこでは実学がすすめられる。実学とは、こどもたちの特質を見極め、その才能にあった将来を探し出すことであって、職業教育という意味ではない。昭和以降の大きな人文主義教育の流れは、実は、教員たちが「自分たちの価値観(人文主義)を高め、自らの地位を向上させよう」というステークホルダー的な潜在意識によって生み出されたもの。だから、我々は、そのような西欧発祥のご都合主義的利己主義から抜け出さなければならない。私は、豆腐屋のオヤジを尊敬するし、肉屋の老夫婦を尊敬する。私には、あのような上手い豆腐を作れぬし、肉の匂いをかいだだけで家畜が何を食べていたか、どんな薬を盛られていたかが分かる職人気質には頭がさがる。魚を食べただけで海の状態がわかり、地球が分かるのは、ネイチャージモンだけではないのだ。
2007年01月05日
コミュ論では10エントリーに渡り、コミュニティーについて論じてきた。次に、コミュニケーションについて述べていくが、コミュニティー論の実際について、日本とアメリカを対比しておく。【コミュニティー内の個の差異に関する考察】同質性・異質性などと書いたが、要は共同幻想の有様でしかない。自分たちは違う考えの個の集合と思うか、自分たちは同じ考えの個の集合と思うかである。たとえば、近所にインターナショナルスクールがある。アメリカ人、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人などが通っているから、違う考えの人たちの集合と考えることができる。だが、イングリッシュスピーカーという考え方に基づけば、英語を中心とした国際社会・貨幣経済を是認する同じ考え方の人たちの集まりと考えることもできる。だが、肌の色・目の色が違うので、異質性にとらわれてしまう…。では、日本人はどうかといえば、神道を奉ずる人、伝統的な仏教徒、クリスチャン、最近生まれた宗教に加わる人など、さまざま。だから、考えることはそれぞれ違っているはずなのだが、肌の色、目の色が同じなので、同質であると考えやすい。☆同質性・異質性などと論じているが、その結果として出来上がるのが、ヒエラルキル(階層的)なコミュニティーか、フラット(非階層的)なコミュニティーかということだ。 階層とは序列であり、序列とはオーダーであり、オーダーは秩序である。ならば、非秩序はアンオーダーであり、非序列であり、非階層となる。繰り返し論じているが、ヒエラルキルなコミュニティーの典型が封建社会。一方、フリーなコミュニティーの典型が戦国時代である。封建社会がいいか、戦国時代がいいかの選択は難しいので、あえて問わないが、それを踏まえて理想社会を提出するならば、次のよう。封建社会のような、土地や身分をもとにした固定的な階層社会はよくない。あるべきは、多様な価値観を基にした階層社会がパラレルに存在し、その価値観の中を個は流動的に存在することができる世の中。※イメージは、ヨハン・クライフのポジションチェンジのサッカーだ。*戦国時代のような、個の生存が他者の死を意味するような世界であってはならない。一人勝ちになるような戦いの構造をつくらないことは勿論、如何なる勝ちも絶対的な勝利ではなく、多々ある価値観のなかの一つでしかない。そういう価値観の創造をめざせなければならない。※ゴルフの握りで勝った人が、夜の麻雀大会で負け、麻雀大会で勝った人が寿司屋の勘定を持つ。そういうイメージ…。なんだがなぁ…。
2007年01月04日
コミュニティー論の最後に提出するのは、「外宇宙を意識したIntegratedP2Pコミュニティー」である。孫子の兵法では、「己を知り、相手を知れば百戦危うからず」というが、他者というリファレンスがなければ、自分を意識することはできない。虎舞竜の「♪なんでもないようなことが、幸せだったと思う~」のは、恋愛という二人だけのコミュニティーが崩壊した後、コミュニティーが存在した過去を振り返ることである。そして、それは、恋愛に限らず、コミニュティーについてもいえるというのが、私のコミュニティー論の結論である。もちろん、忍び寄るコミュニティー崩壊の恐怖により、南高節のように「♪ただ、あなたの優しさが怖かった~」などと歌うことは悲しい。忍び寄る外界を意識しつつも、凛として信念を曲げずにコミュニティーの維持存続を図るのが「美しい国」ということだと思う。☆すでに、「武士の一分」批判で述べているが、外を認識することによって自らを律する思想は選民思想であり、世の中がひとつでフラットな時代を求めているならば、それは必ず批判されるに違いない。「国家の品格」は浅薄な言論であると、池田信夫氏は評されているが、私の理解でいえば次のようになる。孤独と戦わない自尊心は美しくない。集団の概念に依存する自尊心は自負心でしかなく、その源泉は選民思想である。たしかに、文化的異分子に晒され、日本人のアイデンティティーを何に求めるかについて、さまざまな意見が分かれていると思う。だが、国共合作でその歴史が始まった中華人民共和国や、屈服の歴史からしか自国の求心力を求められぬ隣国のようであってはならない。国境問題しかり、他者を批判することによってしか、国家の求心力を求められないコミュニティーというのでは、徳がない。隣国を批判するのは、同じ穴のムジナになってしまうが、そのような施策をする政権というのは、クレバーかもしれぬが、ワイズではない。内か外かという二元論により、コミュニティーの境界領域を明確にするのではなく、すべてを認めた多元論によって自己を律し、そのうえで、自らの規範と帰属するコミュニティーの求心力を等価とすることが、フラットな世の中において、個とコミュニティーが存在を許される唯一のスタンスであるに違いない。そして、そもそも二元論というものが、人類を幸せにしない。そのことにようやく21世紀になって人類は気づき始めた。まさに、シーザーのローマ帝国以来、二千年ぶりのことだ。君主の神格化により、徴税システムを合理化したローマ人の知恵。ローマに斜陽が差したとき、キリスト教が援用された。イスラム教も同様のシステムによって社会に蔓延していった。自治社会ではなく、部外者による統治を合理化するためのシステムのもとで育まれていった二元論は、中央集権という権力の偏在によって生まれた思考方法でしかない。遠方にいる部外統治者は、多元論の者たちを束ねることはできないのだ。☆世界のメインストリームな国家の中で多元論的な国家は日本だけであり、天皇制という無用の用ともいえる統合システムがあるため、有用な求心力の必要がない日本のみ、さまざまな批判言論を許容してきた。だが、いつまでもそんな悠長なことを言っていられるのだろうか。当然の所作として、反日思想には答えなければならぬし、適宜、反論や反発もしなければならぬ。それがリアリズムというものだろう。☆いま、良識ある書斎派の言論人たちは、原理主義・無政府主義という無責任の言論に堕している。一方、異文化のステークホルダーをもつ言論人たちの凶暴性(その典型が姜氏)は、そうした無政府主義の理想に付け入ろうとしている。だが、そのような凶暴な人たちが自らのステークホルダーを明かしながら言論をしていった場合、いまの争論の殆どは、虚無化するに違いない。☆私は秋山成勲選手のファンである。大晦日。桜庭選手を半身不随にしなかった良識を尊敬する。自分の手がすべったことを審判に抗議しようと思った時点で、桜庭選手は負け。総合格闘技の理想はルールのない戦い。それを忘れた彼は、すでに終わっている。秋山選手は朝鮮系の出自だが、日の丸をつけて国際試合を戦ったのを憶えている。彼は、普通の日本人以上に日本を愛しているし、柔道を愛している。そして、桜庭選手を尊敬している。日本にやってきてチャンピオンになった「岡山のおばあちゃん見てる。大和魂」を叫んだ藤猛ばかりではない。古くは、日光東照宮の陽明門よりも桂離宮を評価したフェノロサ、怪談を吟じた小泉八雲、近くは、ユニフォームにもっと大きい日の丸をつけろと文句を言ったラモス瑠偉など、日本人以上に日本人な外国からやってきた人は多いものだ。日本という国家・心は、個それぞれの心に宿るのであって、ことさら、コミュニティー論などを持ち出すことは意味がない。日本なるものは、すべての心に宿るのであって、日本民族が独占すべきものではない。古代の帰化人の時代から連綿と続く、日本にやってきた素晴らしい人たちとともに日本を作り上げていきたいものである。そして、トヨタのカイゼンシステムが全世界で導入されているように、日本発の思想が世界中の人の心の中に染み込んでいくならば嬉しいこと。それを、わざわざ日本発の思想であると指摘することは大人気ないことだと思っている。コミュニティー論はこれでおしまい。ご感想を頂戴できれば幸いである。
2007年01月03日
人間のすべての営みを認め、愛でる心と、先のエントリーに書いた。抽象的で分からぬという人がいるかもしれぬが、「個はステークホルダーの奴隷でいいじゃないか」 ということだ。人間のすべての犯罪行為は、ステークホルダーの奴隷となったものである。そのステークホルダーとは、劣情であり、人間関係であり、経済事情.....etc.☆日本という社会は不思議なもので、司法の現場においても、自白・謝罪することが重要視される。自白・謝罪で量刑が減るのは、立証する手間を省かれることを司法が恩義に感じるからではない。アメリカにおける司法取引などというご都合主義とは異なる。☆殺人は謝って済まされる罪ではない。なのに、自白と自供に価値が見出されるのは、日本独特だ。自分が何に強いられ、身動きがとれず、悪行に及んだのかを明らかにすることを、日本社会は望んでいる。誠実な告白と謝罪により、魂はステークホルダーから逃れられる。極刑の場合は特別で、誠実なる告白と謝罪により、たとえ刑が覆らないにしても、ステークホルダーの極地といえるカルマ(因果応報の理)においての昇華が期待できる。そういうカルマ落とし(因縁から逃れること)があることを、日本人の多くは無意識に感じている…。☆私は、吉展ちゃん事件の犯人が処刑直前の牧師の祈りを被害者の魂のために捧げて欲しいと行って、処刑に向かったという事実を、魂の尊さに関する話として記憶している。幼児を誘拐殺害するというステークホルダー(カルマ)と、その後の祈りの獄中生活…。それに感じ入る私は、「砂の器」を作った野村芳太郎のドラマツルギーを評価する。悪行も善行も、慈悲も非道も、コミュニティーの構成員に等しく宿るものである。ならば、それらをコミュニティー内のコミュニケーションからはじき出してはならぬ。☆だが、そのような劣情や悪意に対する反発は多いから、別のコミュニケーションルートを作らなければならない。それが、2ちゃんねるをイメージさせるリゾーム(地下茎的な裏ネットワーク)である。プラスがあればマイナスがある。だから、マイナスの感情があるのは当然であり、マイナスの感情によって発信される情報の行き場を作らなければ、それはどこかで暴発するだろうし、そういうものと対峙していくことが、コミュニティーの健全性に寄与するに違いない。マイナスの情報はマイナス情報としてインテグレートされる。そして、それを対峙できる実力のあるインテグレータがそれをサマライズ(要約)してオーソライズしていく。そういう上部のインテグレーターはオーソライズ機能も備えていて、メディアはそれをリファレンスし、ディストリビューションする。☆対話と共生。それは、意見の違うものと対話することであり、卑劣漢とともに生きるという、善良なる個にとっては、極めて厳しい状況。だが、それを避けては、善良者として生き残れない。支配者と被支配者、富者と貧者との間に交わされるような、そんな予定調和な関係ではない。何の脈絡もなく、関係もない、そんな間柄の個が対話し、共に生きる。支配者と被支配者の立場は、尺度を変えれば逆転するし、それぞれも固定的ではない。富者が必ずしも幸福者を意味しないのは、イギリスの言論人バーナード・ショーの「ピグマリオン」を原作にしたミュージカル「マイフェアレディー」の中で、スタンリー・ハロウェイが歌った「運がよければ」の歌詞をイメージしていただければご理解いただけるだろう。☆価値観のエントロピーが拡散してしまえば、自らの既得権益が減ずるのは当然のこと。だが、世の中のエスタブリッシュ(ステークホルダー)たちは、格差社会という単一尺度で社会を論じることで、自らの利権を温存しようとしている。フラットな世界において、個は個別案件を解決しつづけることによってしか、コミュニティーの中での相対的立場を獲得できない。なのに、フラットが戦国時代のような厳しさをもっているのに、理想であると論じる浅薄者がいる。多様な尺度により、フラットな世界が訪れ、それはコミュニティーにとってはユートピアかもしれぬが、個にとっては厳しい世の中になる。それが私の結論であり、さまざまな変遷を経ながらも、世の中がそのような方向に向かっていくことを確信している。
2007年01月02日
あけまして、おめでとうございます。新春第一日ということで、楽観的未来について提示します。個と個は互いにコミュニケートし、それらがインテグレートされ、メディアからリファレンスされ、メディアがオーソライズする。オーソライズされた言論は、ステークホルダーたちを動かし、コミュニティーをあるべき理想に導いていく。☆このコミュニティーは、ハーバー・マス的なモデル。人と人は、話し合えばお互いのことを理解できるし、議論は結論が出るまで続けられる。そこには、ディスコミュニケーションはないし、引きこもりの個も、逆ギレの個もいない。そんなコミュニティーが成立する可能性は殆どない。そして、コミュニティーの存在を認識させるための外宇宙もない。☆だが、この楽観的未来を構築できる術はひとつだけある。それは、人間のすべての営みを認め、愛でる心。そういうものがあれば、この楽観的な未来は成立する。ということで、「あけおめ」ですので、明るい未来を語って、本日は締めることにいたしましょう。
2007年01月01日
マーク・ブキャナンのクラスターを内包したスモールワールドコミュニケーションを前提に論じてきたが、スモールワールドはコミュニティーを単純化することで成立する論理でしかない。外があることで中と言う概念があるのだから、スモールワールドはそもそもSNSに過ぎない。そして、外の世界があることを考慮して、スモールワールドを考えるならば、外と内にはある程度の行き来があることが前提となる。なぜなら、完全な鎖国状態であれば、スモールワールドがそのままホール(whole)ワールドだからだ。ということで、2.6として、外宇宙が蹂躙するP2Pコミュニティーという図説を紹介する。【2.6 :外世界に蹂躙されるP2Pコミュニティー】異文化の島宇宙とは何だろうか。単純にいえば、「スモールワールドの求心力と対立する文化」である。具体的に言うことは難しいけれど、そのコミュニティーが、「殺人を否定するコミュニティー」ならば、殺人を是認するコミュニティーが外にある。そのコミュニティーが立憲君主制ならば、「共和制を志向する人たち」は、コミュニティーの中の異分子である。日本社会において、朝ごはんにご飯を食べることが国の求心力ではない。だから、朝食にパンを食べることは反社会行為でもないし、日本のコミュニティーの異分子ではない。☆コミュニティーの構成員たちは、そのコミュニティーの価値観にどっぷり浸かっているから、求心力の源泉たちは自然なことであって、それらを意図的に考えているわけではない。だから、コミュニティー異分子や、侵入者が求心力の源泉を否定したり、廃絶するムーブメントを画策しても、はじめのうちはその意図を図りかねて、もっともらしい説であると許容してしまう。しかし、そういうものが、次第にコミュニティーの結束を緩めることに気づかずにいれぬ状況になっている。☆では、今の日本がその状況かといえば、もっと状況は複雑であり、コミュニティー異分子が異分子であることを忘れて、同化をはじめている。その一方で、異分子の言説に同化して、異分子に変化する構成員もいる。その一方で、被虐意識と反抗心にまみれた侵入者たちは消えうせ、融和的な表情で侵入してくるものが増える。☆2.1では、バイラルマーケットを取り上げた。ビジネス系バイラル、報道系バイラル、煽動系バイラル、言論系バイラル。だが、それらと比べれば、スモールワールドの求心性を削ぐバイラルの方が、コミュニティーの存亡にとって致命的であると考えている。☆反グローバリズムが叫ばれる今、スモールワールドの存続を願うことは、アンシャンだと批判する人がいるかもしれないが、そうではない。人類社会をひとつの想念でまとめることが現実的に不可能ならば、もう少し少ない人数でコミュニティーを取り扱うユニット化は必要であり、そのひとつの例として日本というコミュニティーは亡くなってはならぬと思うのである。特定アジアの隣国にしても、自国の求心力を求めるために日本を活用するのはいい。しかし、その言論にのってしまって、日本という国のかたちが歪になってしまうことは愚かなことだと思うのです。☆結局のところ、そういう特定アジアの言論に対するべき、日本人の集合的無意識をインテグレートするシステムもオーソライズする権威もない。それが極めて危うい状況であると、どうしても私は指摘したいのです。勿論、朝日新聞のような偏向新聞ならば、ないほうがまし。という意見も多いでしょう。しかし、反面教師としての存在価値は確かにあった。だが、いまはそれさえも風前の灯火。それがいますぐそこにある日本の危機であると思うのです。
2006年12月31日
バーチャル・リアリティーの言葉を創造したアメリカの作家は、渋谷のハチ公前で、感激したそうだ。日本の若者たちは、「携帯電話というネット端末を使い、サイバーな生活を行っている」。と。だが、日本のネット文化の「意味の含有度の低さ(斉藤孝氏の言葉)」を勘案しないハワード・ラインゴールド氏を私は浅薄だと思う。☆日本人が気づかなければならないのは、渋谷のハチ公前に立ったときに、いくつもの巨大画面(21世紀の街頭テレビ)を目に入ってくるが、それを誰も注視していないことである。それは、約50年前の新橋駅前の街頭テレビの賑わいと対照すれば、多くの日本人が納得できるだろう。因みに、赤い円内にあるのがテレビである。たしかに、当時は力道山のようなキラーコンテンツがあった。だが、当時の街頭テレビにも、キラーコンテンツはわずかで、ほとんどはコマーシャルが時間を埋めていたことは確かだろう。つまり、メディアなコミュニケーション(街頭テレビ・巨大ディスプレイの映像)が、P2P(携帯電話・メイル・リアルなコミュニケーション)に太刀打ちできぬ。という状況が21世紀なのだ。☆だが、その状況にメディア者たちが傷つく必要はない。100人ほどが座れる総合病院の薬を待つ待合スペースなら、誰にもチャンネル権はなく、片隅に配置されているテレビを見る人がわずかなのも仕方のないこと。しごく普通・当然のことなのだ。☆私は、スーパー銭湯に併設されているサウナで、テレビを見ることがある。サウナに座っている全ての人は、テレビに正対してみることになる。彼らは、けっして私語をしないし、画面から目をそむけることもしない。そんな環境を、無名のコンテンツ制作者としての私は、羨望の思いで見る。このような作品に集中できる環境で、自作を提供できたら。それも、観客本人の意思とは別に提示できるなんて…。そんなコンテンツ制作者にとってのパラダイスが、サウナにはある…。だが、新橋の街頭テレビのようなメディアと大衆の関係(究極なプッシュなメディア)はすでに失われてしまっているのだ。☆とはいえ、新橋の街頭テレビで、大衆が望んだものは、コンテンツそのものではなく、テレビ画面という新しいガジェット(品物)であって、かならずしもコンテンツ(情報)そのものではない。それは、私が47年の人生において、「リオネット補聴器」は勿論のこと、「アイデアルの傘」、「前田のクラッカー」を一度も買ったことかないことが証明している。☆「新聞がなくなる日」と歌川氏は著作したが、新聞がなくわけではないことは、タイムズ紙の悲観的な予測が裏切られたことですでに証明されている。ならば、どういう未来がやってくるのかといえば、「P2Pのひとつのフェイズとして、メディアが存在する時代」である。ここに、2.5として図説を提示する。つまり、ウェブ2.0の理想は完遂されぬまま、次のフェイズに時代はすすむ…。メディアがお日様のかたちはして中央に陣取るものの、大きさは小さく、表情は渋いことに気がついてい欲しい。図説の中にある数々のコピイを参照していただければ、私の主旨が理解していただけるかもしれぬ。・リゾーム(2ちゃんねる)に批判されるも、ソースとして依存するメディア。 (募金夫婦)・数年前までは、インターネットはオルタナティブメディアだった。だが、2006年の現時点で、インターネットをマスコミの代替物と考える人はアンシャン(古い人)・アンファン(幼い人)である。・デジタル○○研究会などと、アナログとデジタルを対立概念として考えることも、すでに無価値である。歴史はデジタル(抽象衝動)とアナログ(具象衝動)の間を揺れている。そして、ロゴス(人間の想念)というものは、基本的に抽象衝動(デジタル)であることを理解しなければならない。人間が初めて絵を描いたのがラスコーの壁画のような具象絵であることはありえない。きっと直線や円や三角形など、きわめてデジタル(抽象的)なものを描いたに違いない。☆ネットと長くつきあった人たちは、「ネットはリアルな社会と同じ構造を持っている」と指摘する。炎上を経験した良識ある人たちは、「はじめは、非難記事に目を通すが、あまりに感情を乱すので、深入りはしない。そして、以後は、近親者や第三者にあたってもらって、あまりにひどいものについては、抗議・訂正依頼・削除依頼・訴訟などを検討してもらう」と、経験を語る。炎上も、ストーカー対策と炎上対策はまったく同じである。☆「P2Pコミュニケーション・インターネットコミュニケーションが、普通の情報交換のかたち」なのであって、「マスディストリビューション・マスコミュニケーションが普通である」という、認識が誤解だったのだ。だが、マスコミ者・エスタブリッシュ者はそのことを認めたくない。社会的影響力・既得権益を失いたくない。そのためのさまざまな施策を行っている。それが2006年だった。☆マスコミ者・エスタブリッシュ者の施策の方針は卑劣である。・民衆に媚びることによって、王権を維持しようとする。…マスメディアがネット情報を引用する。・突出した民衆を取り立てることによって、王権を維持しようとする。…マスメディアがネットを積極的に活用する。・自分が王様でなくなったのはしかたないけれど、新たな王様が出現するのは許さない。…マス言論が、実名論争を盾に、ネット上のインテグレートシステムの成立を阻害する。そして、そのムーブメントは、かつて王権に憧れつつも、破れ去った者たちによって、複雑な様相を呈している。…それが、JANJAN、ライブドアPJ、オーマイニュース日本版である。☆私はITエバンジェリストである梅田望夫氏が、そのような言論になるのは仕方がないことだが、ネットの専門家を自負しているだろう佐々木俊尚氏がそのような構造から抜けきれないのは残念に思う。私は梅田氏のブログに度々コメントを寄せているし、佐々木氏にもオーマイニュース日本版の開店準備ブログでは自説を開陳している。したがって、彼らがスポンタ言論をまったく知らぬとは思わぬ。☆時事通信社の湯川氏から、「あなたの評判はすこぶる悪くて…」「あなたと付き合うのはよくない」などとよく言われます。などと、言われる。私は、湯川氏が日常接しているエスタブリッシュたちの乖離を痛切に感じるが、ノーリファレンスでスポンタに言及する人たちの気配を感じ、ほくそえんだりもする。☆すでに、”Sponta,who?”の時代は終わっている。ならば、彼らは、わかっていて拒絶している…。その合言葉は、「分からない」である。私が何故、エントリーを1000も連ねたかといえば、彼らに分からぬと言わせぬためである。「教えて君はだめ」。「ググりなさい」と言うためである。そして、ググらずに文句を言う人は、入れ歯をいれずに料理が硬いと言う人。眼鏡をせずに見えぬと言う人…。だから私は、入れ歯をいれたくない気持ち・眼鏡をしたくない気持ちを理解せぬではないから、そのままにしておくのだ。☆私は、日本で唯一、エスタブリッシュなステークホルダーから逃れていると感じる立花隆氏を社会悪であると感じる。彼ほどの知性が、凡百の徒でしかない私の言説と同じことを閃いてもいないとは考えにくい。とするならば、P2Pの世界にマスメディアが埋没していくことの恐怖があまりに強いのだろう。彼が東京大学で研究室を開いたのも、彼のそういう脆弱さの所以かもしれぬ。松声館を閉じられた甲野善紀氏との乖離は深い。追記:梅田氏のブログにはアンケート依頼をしたので、失礼があってはならぬと、氏のブログを一日に一度は訪れている。すると、氏は、「これは受けた」などと喜んでいらっしゃる。反応元は、こちらである。書かれていることのキーセンテンスは以下だろう。どちらにしても、彼らの発言は個人の立ち位置・経験に基づいたものであって客観的なデータなどはほとんど参照されず(対談集なのだから別に悪いことではないが)、そして、「プロ野球」全体を語っているはずなのに巨人を中心にしすぎる感じだ。スポンタが換言すれば、「本人はネットを語っているつもりだが、ITエバンジェリストでしかない」。その暗喩は、「IT業界の繁栄が、ネットユーザーの利益に直結しない」である。そういう暗喩を笑えるウィットを持つ彼の知性が、私の丁寧な申し出に一切のリプライをしないことは、つくづく私も嫌われたものであると、嘆かざるをえない。☆finalventさんへのコメント欄も、前後の文脈からいえば、「名指しで無視された」事態。一切のコメントを触発しない。私は、昨年のブロガーカンファレンスで交わされたという「相互不可侵条約」の掟を破っている異端者として評価されている…。だから、けろやん氏がFPNのアルファブロガーに私を投票しようとも、絶対にアルファブロガーに選出されることはない。とはいえ、そういう掟がSNS的なクローズドサーキットの産物でしかないことは自明であり、現在が過渡的な状況であることは分かっている。勿論、その過渡的状況は、私が生きているうちに解消されるかどうか、それは神のみぞ知る。である。期待してもいけないし、諦めてもいけない。Tomorrow is another day.Next year is another year.
2006年12月30日
ネット・ジャーナリズムに関しては、既存マスコミの発想では、ネットジャーナリズムは成立しないことが分かった。それは、鳴り物入りで登場したオーマイニュース日本版が何らの成果も注目も集めていないこと。そして、産経新聞がつくったイザが、マスメディアの論理から抜けられぬ桎梏の中にいることでも明らかだ。そのような状況を総括するに、ベテランネット者から見ると、「2006年は、IT業界の意見を代弁するにすぎなかったエバンジェリストたちの浅薄な言論が、色あせて見える年」だった。☆だが、ラジオ広告費を越えたネット広告の状況はあらたなシーンをつくりだした。それを一言でいえば、「バイラル(感染的)コミュニケーション」である。分類すれば、次のよう…。ビジネス系のバイラル・イザブログ・女子大生ブログ報道系のバイラル・オーマイニュース日本版チェーンメイル的なバイラル・募金夫婦言論系のバイラル・きっこの日記☆詳説…、ビジネス系のバイラル。・イザブログ…イザでは、新聞・ネットともに、ブログのメリットのみ掲載した。薮本氏、上村氏、吉本芸人、乙武氏ブログなどが次々に炎上する時期に、ブログの明るい部分のみ掲載するマスコミ者たちの不実。イザブログの登録者を増やしたい運営者たちのステークホルダーそのままな行為なため、私は彼らを批判する気持ちにもならなかった。・女子大生ブログ…女子大生が企業からお金を貰って商品の感想をブログに書く。ガ島氏は、嘘を書かなければ「それでよし」とする「口コミマーケッティング」を提唱するが、情報の重要度を偽って発信することは、内容に嘘がなくともバイラルであり、有価値情報の検索の阻害要因であることに間違いない。報道系のバイラル。・オーマイニュース日本版…市民記者メディアとして誕生したが、実名により、リアル社会のステークホルダーに縛られて市民に発言の自由はない。リンクもなく、コメント欄を制限したサイト構成は、2006年のIT技術とはかけ離れている。そのような構造を持ちつつも、市民に開かれたネット言論空間であることを喧伝するのはバイラルである。私は、コメントは掲載されぬという制限を受けている。また、記事を書いても、何らのコミュニケーションを期待できぬ形で掲載されるため、以来コメントをしていない。チェーンメイル的なバイラル。・募金夫婦…これは、NHK職員と謎の団体が組んで、煽動を試みたものである。こどもの笑顔・死は、人間の感情を煽動するにもっとも効果的な技法である。どう考えてみても、募金を募るときに、初期投資として100万円近くの宣伝費をかけることは庶民感覚ではありえない。ホームページ、印刷物、のぼり、テレビ出演、イベントなどがプロモーティブに計画され、実行され、目標の募金額は達成された。すべての情報発信者にとって、受信者の心を煽動することはタブーであり、洗脳の一種である。そして、それが利己目的になされるならば、醜悪である。同じ表現に携わるものとして、この事案に関わったすべての表現者たちの良心を問いたい…。言論系バイラル。・きっこの日記…時事通信社の湯川氏の言によれば、きっこの日記に出ている情報は、未確認なためにリリースできないマスコミ情報の域を出ていないという。ネットの噂話では、きっこの日記とは、テレビのコメンテーターとフリージャーナリストたちの共同作業だという。きっこの日記が注目を集めたのは、構造計算書偽造に関する経営コンサルタント会社の関与をはじめて指摘したことだろう。この件に関わらず、ほとんどは政府ならびに与党批判の姿勢が貫かれていて、野党の論調をなぞっている感じがしないでもない。評論家の立花隆氏は「きっこの日記」を評価していたようだが、メイクアップの女性が知る情報のレベルを著しく越えていたことに、疑問の目を向けなければならないかった。マスコミ関係者が、メイクアップの女性を語ることで、未確認情報を世の中にリリースすることが、バイラルでないといえるのだろうか。はなから、「噂の真相」なのだと名乗ってしまえば、批判などされずにすんだのだ。☆「きっこ」という固定ハンドルネームの胡散臭さは、バイラルと言うに一番ふさわしいもの。そして、2006年のブログのみならず、ネット言論とマスメディア言論、政治を含めて、この一年を象徴的にあらわしたものかもしれない。きっこの日記の最大の罪は何か。それは、三次情報(メディア伝聞)に過ぎぬものをニ次情報(当事者伝聞)であるかのように装ったことである。そして、オーマイニュースもJANJANも、ライブドアPJも、一向に一次情報(当事者発信)を発信することができないでいる。バイラルな事象たちが、バイラルであることを暴かれたのが2006年…。ネットにおけるすべてのバイラルは、メディア者たちの反逆といえる。だが、メディア者もITエバンジェリストも、2007年以降のムーブメントが、「情報の地産地消・情報の中間業者の関与の解消」であることに反論できぬ。何故、バイラルであることがばれてしまったのか。それこそが、すでにP2Pの時代が始まっていることの証明なのだ。追記:MIXIの株式上場をして、SNSを2006年型トピックスとするのが一般的かもしれない。だが、そのようなクロースド・サーキットがネット的でないのは自明だし、それをウェブ2.0の事例とするエバンジェリストたちの言説は、ステークホルダーの奴隷的発言でしかない。そして、MIXIが、自他の境界領域の拡大という妄想を誘発するならば社会悪でしかない。
2006年12月29日
インターネット利用者の増加をまず把握して欲しい。因みに日本人の人口は1億三千万人だから、2006年で8000万人に近づこうとしていることは、日本人の約6割がネット者ということになる。つまり、ネット者は普通の人っていうこと。一方、2005年9月に473万人だったブロガーが、半年後の2006年3月には、868万人にブロガーが倍増している。もっとも、複数回ブログを更新するアクティブ・ブロガーは、その半分を下まわる数字らしい。つまり、ブログは社会的に認知されている。きわめて大雑把に考えて、日本人の6割がネット者であり、そのうち1割(国民の全体の6%)が発信型ネット者であり、その半分以下(国民全体の3%以下)がアクティブブロガーというのは、ブログや市民参加型ジャーナリズムをしてきた私の実感と大きく重なっている。この国民の3%のうち、発信リソース(国語力・経験力・時間・経済力)を備えたものだけが、発信を続ける…。とはいえ、ネット者は普通の人とはいえ、テレビ者が普通の人というのとは、まったく異なることに気づかなければならない。ネットは究極の多チャンネルであり、ネットをしていると言っても、同じ情報を受け取っているのではない。テレビはプッシュ(発信者から情報を強制される)のメディアだが、インターネットはプル(受信者が情報を選択する)のメディアなのだ。☆2004年、ブログ登録者200万。(スポンタが総務省統計より断定する)ブロガーを増やすためのプロモーションの時代だった。そのプロモーションをおこなったのがITエバンジェリストたちであり、その中にM氏もいた。☆2005年、ブログ登録者400万(スポンタ断定)。エバンジェリストに過ぎぬ個たちが、アルファ・ブロガーとしての栄光を誇った時代だった。だが、彼らの本質はIT関連ビジネスマンであり、彼らが提出するのは、ステークホルダーにまみれた言論でしか提出しない。とはいえ、彼らの名声と栄光は前年を引きずっており、名声に影がさすことはなかった。FPNのアルファブロガー選出者の顔ぶれの変遷をみれば、理解していただけるだろう。☆2006年、ブログ登録者約800万(スポンタ断定)。この年の冒頭に何がおきたかといえば、アルファブロガーであり、伝道者であったM氏の退場であり、それに連なった、GripBlog氏や、Google本ベストセラー氏、週刊アスキーコラムニスト氏たちに批判の目が向けらたことである。ネットはレフェリーのない無限の地平だから、論争のどちらかが「負け」を予感したとき、ゲームは終了する。だから、表面的には何も起こらないし、何もみえないように映る。したがって、私が重要視するGripBlogの挫折を、多くのネット者は知らないのかもしれぬ。だが、政治家とブロガーの懇談会をしきることで一世を風靡した泉氏の話題に誰も触れぬようになったことは事実であり、それが、パソコン通信から続いてきた、カルト宗教の暗躍に、善良なるネット者は立ち向かわなければならぬという命題が明らかになった。☆過去を振り返らなければならない。かつての初期汚染の先導役は、中沢氏・島田氏といった東大卒の宗教学者たちだったが、今回は、ITエバンジェリストたちだった。マルクス主義が絶対善でないことが明らかになった今、私たちが振り返らなければならないのは、戦後のキャンパスが60年代、70年代以降、共産主義の思想汚染の培養土であったが、その後、統一教会、オウム真理教、その他の宗教汚染の培養土と化したことである。共産主義には自由主義者が対峙したが、論争で決着はつかず、ベルリンの壁の崩壊を待つ他なかった。スピリチュアルな実感を持っている者には、オウム真理教の悪性(劣情としての宗教)は明白だったはずだが、宗教学者などという霊性に憧れる卑劣漢(霊的な素人)が擁護論を展開するばかりだった。その後、ようやく家族を崩壊された被害者たちにうながされた形で弁護士たちが反対運動を展開し、世紀末の混沌の中で、オウムの持つ霊性が虚偽であることが露呈し、それが宗教を終末に向けて追いやる要因ともなった。私は、1990年代に、宗教学者の中沢氏・島田氏がやったことと、2006年において、エバンジェリストの佐々木氏・歌田氏・R30氏がやったことは同じだと認識している。今後、M氏の復権があるのかどうかは知らぬし、M氏の将来について何の興味もないが、第二の中沢氏・島田氏・佐々木氏・歌田氏・R30氏が生まれるならば、私は同じことを指摘つづけるに違いない。すべての発信は個の限界において行われるべきであって、自分ではないエスタブリッシュを背景に語ることは、ネット的ではない。もっとも、私のような非エスタブリッシュ者には、そのような危険はない。ORZそして、自分が理解していないことを、他者の体温に負けて受け入れてしまい擁護論を展開することは、洗脳の本質であり、それがバイラルマーケットのひとつである。☆以上が、M氏関連の総括だが、もうひとつ重要なトピックスが、オーマイニュース日本版の登場だろう…。と、次エントリーにつづく。2007年は、バイラルマーケットの年だったというのが、本論の要旨である。
2006年12月29日
私は夏ごろ、「新聞が亡くなる日」を書いた歌川令三氏より、ゲーム理論の有効性を指摘されたのだが、同様なものを、池田信夫先生からも指摘された。たが、いくつかの書籍をあたった結論は、「誰も自分が負けるゲームはやらない」であり、「自分が負けると確信した時点でゲームは中途半端で終わる」であり、「ゲームにおいて劣勢にある個は、自分が勝つルールで新しいゲームを始める」だった。無限回数のゲーム結果は集束するというのがゲームの理論の要諦だが、負けることが確実な予定調和のゲームをし続けるほど人間は馬鹿じゃないというのが、結論だった。☆個の感情の発露でしかないブログはともかくも、その集積であるブログスフィアはいつも、ゲームの収束点をみせてくれる。ゲームの集束は人知れずなされ、ムーブメントの嵐が収まった数ヵ月後にひっそりと提出される。だから、それに多くの人たちか気づかない。今年あった有名人ブログの数々の炎上の収束点は、明解な答えを出していると、私には感じられた。薮本元アナのブログでは、「たとえ元職場の同僚であろうとも反社会的な行為を擁護してはならぬ」であり、上村愛子氏のブログでは、「専門でないこと、切実でないことについて、安易な擁護論をすることは浅薄な行為であること」。乙武氏のブログでは、「日本国家の根幹をなす天皇制について、軽々しく語ってはならぬ」ということだろう。勿論、そのような答えはどこにも出ていないし、当該有名人ブロガーがそのような気づきををせずに、表面的な謝罪に終始した可能性もないとはいえぬ。だが、ブログの炎上を見届けた多くのネット者にとっての結論は出ている…。芸能人・有名人ブログの炎上の構造は、炎上した彼らが、オーソライズされてきた組織・権威を離れると、何らの存在意義・発言権を持たぬということである。たとえてみれば、NHK社員ディレクターとして異才を放っていた和田勉氏が、フリーランスになったら、名声に影がさしたのと同じこと。本業で失敗してバッシングされた長野五輪時の荒川静氏のケースとはまったく違うのである。☆だが、一方のマスメディアでは、組織を運営するステークホルダーに阻まれて、ゲーム理論にゆだねるどころか、ゲームさえはじまらない。ならば、ゲーム理論をふまえた当然の結果として、「ゲーム理論の結論という合理性の結果であるブログ言論」と「ステークホルダーの言論でしかないマスメディア言論」の間のゲームの勝敗は、「マスメディア言論の負けに終わる」。よって、スポンタの結論からいえば、「ゲームはけっして始まらない…」。結果、マスメディアが満身創痍になっているのが、2006年冬である。否、満身創痍になることをつくろうために、ネット言論をまとうことで、その事実を隠蔽しようとしている。それが新聞、テレビにネット発の情報が溢れている理由である。だが、それとて、ステークホルダーにまみれた引用でしかないことは、私がイザ・ブログにおいて実証したことである。私もイザも、ブロガーたちもメディアたちも負けが分かっている喧嘩・議論などしない。だから、このような今がある…。☆現在のブログ空間は、いっさいのインテグレート・オーソライズ機構を持たない。したがって、個別の戦いの集積でしかなく、それは、自爆テロ同様のゲリラ戦略で市街戦の様相を呈している。それには、アルカイダのような支援組織さえない。オーマイ・ニュースのオヨンホ氏は、集まった市民記者たちにゲリラ戦を起こせと要望している。私は、そのようなたくらみは無責任であり、洗練されたインテグレート・システムとオーソライズシステムを誕生させれば、ゲリラなどという無用な血・摩擦を起こさずとも、社会をあるべき方向に導くことができると確信している。本論において、マスメディア+ブログというフェイズが2.0という冠をつけているのは、ウェブ2.0という意味もある。つまり、受信者のすべてがブロガーになり発信すれば、それは、そのままウェブ2.0の完成したことになる。だが、そこには問題は山積しており、ウェブ2.0が理想郷・ユートピアではない。これから先のエントリーは、2006年という今、そして、2007年、2008年という近未来について論じていくことになる。追記:カミサンが昨日の私のエントリーは分からんと文句を言うし、イッちゃってるわよと指摘する。私には、カンニングの竹山氏にとっての故・中島氏のような貴重なバッファー役がいない。私の芸風は、竹山氏のような際物であることは、間違いない。竹山氏の幸福と不運を思ってやまない。けろやん氏やトリル氏に期待している。
2006年12月28日
【インターネットの普及で、満身創痍のマスメディア】アメリカのニュースキャスターのダン・ラザーが番組を降板すると発表したのは、2004年11月である。ここにおいて、ネット言論の威力を日米の諸賢が確信したに違いない。(日本での同様案件といえるのが、2006年2月の民社党・永田議員のホリエモン偽メイル事件。2006年7月の日経新聞の富田メモの検証だろう。)2005年春、ホリエモンのニッポン放送株大量取得事件が起き、ライブドアに国民的な注目が集まる中で、私はライブドアPJに参加した。市民記者となり、1月もまたず、2ちゃんねる・はてな等でバッシング。ゴールデンウィークを過ぎた頃、市民記者のネットワークはライブドア当局から閉鎖される。市民記者同士をインテグレートするネットワークは消失し、夏を待たずして、私はライブドアPJから追放されることになる。民主党のブロガー懇親会は、その年の11月31日である。2006年春、GripBlogの騒動がはじまり、敬愛する湯川鶴章氏は糾弾され、M氏の擁護論陣を張る、四人組(泉氏、佐々木氏、歌田氏、R30氏)が出現した。そして、夏、オーマイニュース日本版が誕生する。それが2006年の話である。☆思えば、ネット言論とエバンジェリックなネット観の乖離は思いの他深い。この年末。私は性懲りもなく、ウェブ進化論の梅田望夫氏との対論を試みているが、その乖離は絶望的であり、対話の余地はないのかもしれない。また、ネット言論と既存のマス言論の乖離も深い。佐々木俊尚氏は、いくつかの建設的な提案をオーマイニュース日本版に行っている。だが、Googleを論じるジャーナリスト氏も、かつてのメディア者であった時に身に着けた職業規範を脱ぎ去ることができず、無意味に提案をしつづけている。ネットであろうと既存メディアであろうと、思想の右左を問うことに意味はない…。そして、エスタブリッシュメントには、いかなる良識をもってしても、ネット言論を理解できぬらしい。私淑する師・池田信夫先生は、2ちゃんねるに関する不見識を指摘されている。エントリーにあるコメント「2ちゃんねると wikipedia は互いに親和性を持つ (Unknown)」は、2ちゃんねるおよびWikipediaに関する考察は重要なので、ぜひともご参照いだだきたい。※ その後には、私に関する批判コメントもあり、楽しんでもらえるかもしれない。…ORZ☆私が思うに、先生を理解に誘わない原因は、世の中の一切のステータス(権威・事実・正誤)を虚無化することへの生理的な拒絶であり、言葉を相対化することの拒否である。おかしな物言いになるが、私のように卓袱台を引っくり返すことは、先生のアカデミズムが許さないのだ。☆最近の先生は、書評にことよせて、自らの専門領域である経済学の構造的欠陥を内省的に吐露されている。その文脈は、物理学との対比によってなされているが、その物理学さえも科学という狭まれた学問領野の中で悲鳴をあげている。そのことを学習院大学の田崎先生の水の伝言に関するサイトに接し、それを痛切に感じた。☆最近では阪大の菊池誠教授がNHKの視点・論点に出演し、問題点を指摘しているが、その言論は科学の頑迷さ・傲慢さを印象づけるものでもあり、2ちゃんねるの話題ともなった。科学的であるかどうかは、事実が起きているかどうかとはかかわりがない。科学的でないことによって事実が起きていないとするのは非合理である。薬理におけるプラセボ効果にしても、プラセボという心理効果があることを指摘しているのであって、薬理がないから何も起きぬことを証明しているのではない。私とて、血液型のタイプと人間の性格のタイプに、原因と結果の関係があるとは思わない。しかし、血液型のタイプと性格のタイプに類似性があり、そのタイプを参照する類似性が発見されるなら、その事実を否定する必要はないという立場だ。日本語とタミル語、日本語とヘブライ語が似ているなら、それを否定するには及ばない。そこに有史以前の民族間の交流の歴史を探るどうかは別の話である。妙なたとえ話になって恐縮だが、道端で手をあげたらタクシーが止まった。ここには、手を挙げる動作が原因となって、タクシーが止まるという結果になる。だが、バス停の前に立っていて、しばらくするとバスがやってきたからといって、バス停の前に立っていることが原因で、バスがやってくることが結果ではない。バス停に人が立っていようが、いまいがバスは必ずやってくるのだから…。☆大人気ないコメントを私がしているエントリーに続けて、Finalventさんはハイデガーを持ち出し、何事かを紡ぎ出そうとしている。私には、それがわざわざドイツ人の頭をつかって何かをひねり出す必要があるものか…。と、へそ曲がりの私にも思えてしまう。ヨーロッパ近代思想の底流にあるのは、彼らヨーロッパ人たちの東洋思想への憧れである。何もゴッホの絵の安藤広重の浮世絵の引用を見て、浮世絵の素晴らしさに感じ入る必要はない。※ 因みに、かつての中国では、宮仕えのときは、孔孟に律せられ、余暇は老荘を嗜んだという。フリーランスの私が老荘に魅せられるのは当然のことに思われる。そして、何よりも彼らを窮屈にしているのは、知性や科学の他に宗教という尺度しか持たぬ不備である。そのことに気づいている輩はギリシャ哲学を引用したりもするが、その限界は見えている。可知領域と不可知領域をセグメントとして分けてしまえば、実証できぬことなどで悩む必要はない。それはそれ。これはこれであって、もだえ苦しむような問題はないのである。※ ネイチャージモン的な批判・違和感を与えることは承知しているが、私が向こう側に行ってしまっていないことを印象づけるには、この図を提出するほかない…。※ 現代を評するについて、西欧人の哲学を引合にだすことは知性的な行為とされ、老荘思想につながる文化を持ち出すと、ブットビに感じられてしまう時代はそろそろ終わりにして欲しいものだ。※ 甲野善紀氏も、忍術の初見良章氏も、そして、ロナウジーニョや先ごろなくなられた岸田今日子氏も、知を越えた世界を体得することで、評価されてきた…。別に珍しいことでも、難しいことでもない。
2006年12月28日
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