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父の事はずっと嫌いだった。憎んでいると言っても良い、、。物心がついた最初の記憶が父への殺意、、。でも、、次第に僕が大人になって感じはじめたのは、父は僕を恐れていた、ということ、、。僕という人格や個ではなく、息子という存在に怯えていた。そして、自分が父親である事を受け入れきれなかった、、。僕がこの歳になってそう思える様になった。僕が父を憎んだのは、父が僕を受け入れてくれなかったから。父は出来なかったのだと思う。父は父親、つまり僕の祖父を四歳のときに亡くしている。享年49歳、享年は数えだから今の僕と同い歳で亡くなっている。母も享年49歳で亡くなった。僕が今その数えの49歳まっただ中である。その歳に父が死んだ。偶然とは思えない、、。祖父は播州の明石大蔵町でクリーニング屋を営んでいた。もちろん戦前の事である。「そのころが一番良かった。」徳島から通夜と葬儀にかけつけた父の姉がそう話してくれた。祖父の死、戦争、貧困、、そして、父の兄が死ぬ。確か享年34歳だったと思う。父はその一回り以上も離れた34歳の兄の死体を自分一人で焼き場まで運んで行った。葬儀もろくに出せなかった。父は末っ子だった。他にも兄が二人居たが二人とも幼くして死んでいる。また、もう一人女兄妹が居たらしいが、本家に養子に出されたらしい、しかし、養子に出て僅か三日後に病死。祖母は四人の子供を相次いで亡くしている。亭主にも先立たれている。おそらく祖母の心も尋常では無かったはずだ、、。幼い僕への父の怯えはこんなところから来ていた、。そう思っている。死なせてしまうのではないか、、。自分に出来るだろうか、、。自分は関わらない方がいいのではないか、、、。何故、その父の心がわかるか、、僕の心の中に同じ気持ちが残っているからだ。そして、母と結婚しその母が無惨な死に方をする。今回の父の死に接して思うが、死に方はとてつもなく大きい!!母の死に方はあまりにもあまりにも惨すぎた。死ではない!死に方だ!改めてそう思う。震災の日、多くの死を見て、母の死を思い出した。震災の日の街は母の顔の骨と肉が溶けて行く我が家の日常の姿そのものだった。しかし、その母の死は平和な日常の中に紛れひっそりと、、母も僕ら家族もその苦しみを抱えて孤独だった。震災の日と大きく違ったのは、誰も助けの手を差し伸べてくれなかったことだった、、助けを求めても理解されなかった、また拒絶もされた、、。その孤独が更にのしかかる大きな苦しみだった、、。と、すると、父は途方も無く大きな苦しみを負いながら生きていたのだ、、。父が逝き、何か安らぎと安堵を感じるのはそのせいだと思う。父はやり遂げたのだ、、。そう思う、、。静かな安らかな、眠る様な父の死。"Es ist vollbracht"そして"Ich habe genug"という言葉が響いている。
February 23, 2007
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ドイツ語はリエゾンが無い。良くそういわれる。しかし、昔、とあるドイツ人音楽家に、ドイツ語にはリエゾンがある。と言われた事がある。つまり、日本語を母語とする文化の言語感覚からすればドイツ語にはリエゾンがある。そういうことなのだ、、。歌って確かめてみればわかる、確かにそうなのだ。イタリア語やフランス語を母語とする人からみれば、ドイツ語にはリエゾンが無い。しかし、日本語だけを母語とした文化の中では、ドイツ語にはリエゾンがある。音楽のリズムと言語の関係をみれば、わかる人にはわかって頂けると思う。だから、日本文化の中の日本人は、ヨーロッパ文化の中での視点に捕われずに、ドイツ語にはリエゾンがある。そうハッキリいっても良いんじゃないかと思う。むしろヨーロッパ文化の中での定説を、日本文化という違った土壌にいるにもかかわらず、鵜飲みにしたままでいて、自分の演奏という作業に当てはめてしまう、、。すると、現実認識がややこしくなってくる。こういった事が野放しになっている事を、憂うべきではないか、、。そう思う。最初の「とあるドイツ人音楽家」は当然日本に長く住み日本の文化を知った上で、ドイツ語にはリエゾンがある。そう発言している、、。イタリア語のディクションや、フランス語のディクションを、ある段階まで身につけて、ドイツ語のディクションに向かう場合は、当然!ドイツ語はリエゾンが無い。
February 22, 2007
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今朝、父が逝った。今日はCDのレコーディングのスタジオ組のミュージシャンに集まってもらい、練習を始め、ほんのしばらく経って、さあ、これから、、というとき、、電話が鳴って受話器を取ると実家の義理の弟から、、父が死んだ。集まってくれた皆も気づかってくれたが、ろくに感謝の言葉も伝えられないまま、実家へと向かう。それからの事は全部今は書いてると大変だ、、そういえばこの木曜日辺りから、、僕自身、何か心が不安定だった。とても、、、、このブログでもついこの前の日記の様な消化不良の文を書いたのもおそらく初めてだ、、。焦り、不安、色んな感情が一気に押し寄せた様な、、何だこれは、、、と思っていたが、これが虫の知らせ、、???父が残していたメモに基づき、葬儀社に電話をかける、、。父の教え子である担当者が駆けつけてくれた、、。それから、あちこちに連絡をし、、父の教壇での姿を、、今、初めて知る事となる、、。家庭では本当に見事なぐらい不器用で、どうにもならない、、そう思っていた父が、実に見事な教師であった事を知る、、。正直、あんなに恩義を感じ、心から話す父のかつての生徒と面と向かって話をするのは初めてかも知れない、、。今、この文を書きはじめ、やっと父の人生を少し考えはじめている。でも、また今から、忙しくなる、、。
February 17, 2007
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今日、わかったこと。とてもシンプル。ある歌をその固有の文化や歴史に乗っ取って、そのやりかたで忠実に歌おうとするのは、、その方がその歌を沢山の人と共有出来るから、、。訛りや癖を勝手に都合良く不誠実に残したままだと、より狭い範囲のやりかたになってしまう。極端には孤立?鎖国?つまり、どんな国や地域の人ともその歌を共有しにくい、、。ということかも、、今更、、、、、わかるのが遅い!!かも、、
February 15, 2007
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レコーディングが終わり既に二週間が過ぎた。疲れまくった喉も徐々に回復に向かっている、、。さて、今でも体の中に残っているのは静寂の余韻、、。 ホールのみならず、会議室、楽屋、、宝塚ベガホールを借り切った、、。これは最初から僕の意図ではなく、ホール側のお奨め。他の部屋の音が漏れると録音に影響が出るため、、。そして。当日。足音はもちろん、楽譜をめくる音も、椅子の軋む音も、、服のすれる音も、、、全ての雑音に神経が行き渡り、ほぼ無音に近い状況を作り出し、"Take One"という僕の声だけが響き、、数秒の無音の後、前奏が始まる。 今も尚、音楽に向かおうとすると、あの静寂を無性に欲している自分に気付く。思えば、無音は厳冬期登山で経験して以来かも、、。いや、レコーディングもそれ以来何度か経験しているので、無音の中に実際はいた事があるはずなのだ、、。でも、何だろう?これは?夜の電灯などの明かりがその陰にあるものを見えなくしている様に、無音の無い生活は何かが聞こえなくなっている、、。真の闇真の静この中に佇んでいられる幸せ。緊張という至福。 光は善とは違った次元の存在。音も楽や善とは別次元の存在。無は有を豊かにする。無は埋めてはいけない、、、そう思う今日この頃です。
February 7, 2007
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先日から絵葉書のコレクションをいくつか公開した。こんなのや、、こんなやつ、それから、これに、これもその中でも同世代の男性から反応があったのが、摩耶観光ホテル、略してマヤカン。嵐寛寿郎 はアラカン。舞台監督はブタカン。山手幹線はヤマカン。何故略すのか??クリオラ、モツレク、べー7、ドボ8、、いやいや、、、本題へ戻ろう、、。楽壇の帝王はカラヤンすみません、、、もうやめます、、さて、実はマイミクのしみつ99さんが、そのマヤカンのパンフレットを送ってくれた、、。 しみつ99さんとはネットがあってこそ再会出来た人。コレクションが増えた事も嬉しいには違いないが、こうやってネットで意外なコミュニケーションが取れた、、ということに驚きとよろこびと、人の繋がりを感じた次第です。もちろん、しみつ99さんの善意と好意があればこそ、、なのです。インターネットならではの素晴らしさをしんみり感じ入った次第です。人のコミュニケーションの暖かさを教えて頂きました。ありがとうございました。 パンフレットのマヤカンの写真 前回掲載したマヤカンの絵葉書の写真もう一人のマイミク、グレンMさんのお友達もマヤカンと縁の深い方らしい、廃墟専門の写真家になった、ということだが、、どうやって生計を立てているのか、自由業者同士としては気になるところだ、、、今のマヤカン六甲道駅のホームから見た摩耶山(携帯で撮影) 六甲道駅周辺から望遠で、、 以下摩耶観光ホテル関連のリンク摩耶観光ホテル摩耶観光ホテルについてあ、こんな画像が出てきました、、。白黒写真の時代に手彩色という白黒に色を塗る手法がありましたが、それを真似て以前にPhotoshopで彩色したのがマヤカンでした、、 マヤカン、、廃墟となった今も、何故か魅力的な存在、、
February 6, 2007
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