全22件 (22件中 1-22件目)
1

日本銀行と三井系銀行と三越前回のブログで書いた常盤橋を渡るとそこは日本銀行の側面にあたる。ガラス張りの金融街にあって異色の重厚な佇まい、最近の円高で私の小額の外貨預金は見る影も無いが円の総本山はどっしりとしている。 前回の絵図をもう一度示すと日銀は右下の常盤橋正面である。別の絵図からこの部分の細部を示すと「5」の真下が常盤橋そして中央の「6」の下が”金座”跡で”本両替町””金座”などの地が今の日銀である。小額貨幣しか鋳造しなかった”銀座”が有名なのに反し、大額小判を造った金座はすっぽりと日銀用地に納まってしまったため、後世に名は残らなかった。つい最近中央区が通りに愛称をつけて、浜町の通りに”金座通り”の名を冠したそうであるが、なぜ金座から遠く離れた中央区の外れに金座通りがあるのか理解に苦しむ。残念ながらこの日は土曜日で近づけなかったが日銀正面玄関はなかなか立派な造りで、近代国家への意気込みが伺える。ギリシャ建築でも一番華やかなコリントス様式の円柱で囲まれ、屋根に彫刻を並べれば立派な西洋建築だ。両翼も正面から見るとなにやら神殿か教会風に見えてくる。上で屋根に彫刻がと記したが別館の側面バルコニーにそれらしき物を発見した。アカンサスの葉を着けたコリントス円柱に支えられたバルコニーに飾られた杯の様な彫刻はローマ建築でよく見る造形だが意味はよく調べていない。さて日銀とは何ぞや問うと、それは”円”を作って貸し出している株式会社なのだ。ちなみに先週の日銀株はジャスダック市場で5万2千円とかなり高い。株式会社とはいっても日本政府の株保有率は50%を下ることは有り得ないので事実上人事権は大蔵大臣が持っている。現在の白川総裁決定までのごたごたは記憶に新しい。しかし金利を決めたりする営業面では政策会議が自決権を有するのは当然である。でもお金がもっと欲しいなと思えば日銀は自分で印刷すればよくて、人に貸し出して”後で増やして返してね” とか ”今困ってんだったら無利子で貸したげる”などと言うのはなにやら子供が母の日に発行する”子供銀行券”とあまり変らない。などと思っていたらどっこいGoogleから借りた下の写真を見ていただきたい。円を発行するだけあってちゃんと建物本館は”円”の字をしている。でもこれって本当に設計されたものだろうか。明治時代"円”は”圓”と書いたはずである。日銀の並びはこれまたコリントス柱をずらりと配した三井xx銀行がある。ギリシャ遺跡の様に大理石の輪切りを積んだものではないがこのように列をなすと見事である。いまここには三井系の2つの銀行や美術館が納まっているが交差点から見るともう一つ紋章旗をなびかせる白亜の塔屋が見える。三越百貨店日本橋本店である。後記余談: 1673年三井高利 (こうりではなく、たかとしと読むのだろう。いずれにしても金貸しには相応しい名前)が今の日銀用地に呉服店”越後屋”を開店、後両替店(三井銀行の濫觴)併設、さらに1904年三越デパートとして客と売値交渉をしない定価販売にして信用獲得。1914年には欧米以外(?)で最大のルネッサンス式建築を建てて日本のデパートメント業の開祖となる。そして日本銀行もまた三井銀行から分離したと言うから驚きである。私は三井銀行が三越(三井 + 越後屋 = 三越)を創ったと思っていたがその順序は逆であった。越後屋→三井銀行→日本銀行の流れは想像だに出来ない歴史の流れである。
2011.01.31
コメント(0)

江戸城常盤橋御門 夫婦で都営交通のフリーパスを持っているので体調と天気が良いとつい何処かへと思ってしまう。録画しておいた"ぶらタモリ"を見ると日本橋界隈が面白そうだったのでフラット出かけてみた。都営地下鉄大手町駅下車、東京駅を出てすぐのJR線のガードは明治時代のものだろう、コンクリート壁や鉄骨むき出しではなく重厚なレンガ積みで風格が有る。下の江戸城絵図で中央下部"松平内蔵頭・松平伯耆守" 屋敷辺りが東京駅、そしてその右側 "松平越前守"上屋敷・御作事方辺りが大手町である。江戸の絵地図では名前が四方を向いているがこれは文字の頭方向に屋敷門があることを意味している。そして家紋が付いている。よく見ると大名家ではなく公共役所の"何々方"とか藩の役所などには紋所が無い。また葵の紋所を使う御三家・御三卿の屋敷にも紋はない。乱用するのを憚ったのだろう。大体絵図は参勤交代でやってくる田舎侍のために作られたものらしい。ガードを潜って少し行くと小公園が有り、いきなり江戸城の石組みが現れた。もうお城は離れた筈なのにといぶかしく思ったが案内板を見て納得した。このあたりは江戸城の正門大手門に通じる外門で人員・物資の大動脈のため石組みの枡形門を要した検問所が有ったのだ。上の絵図で右下の赤字で示した"常盤橋御門"跡である。そして常盤橋門の左にもう一つの呉服橋御門があり、上の絵図で"日本橋方面へ"と矢印を加えておいたがその"橋"の字のあたりに有るのが"一石橋"、そこから下がった次が日本橋である。常盤橋の枡形門脇に小公園が有り、渋沢栄一の銅像がたっている。不審に思ったが疑問はすぐ解けた、常盤橋を渡るとそこは日本銀行でその創設者が渋沢である。目の前の常盤橋は二連アーチ式の素晴らしい石橋であるが、今は通る人も殆ど無く、川面に移る景色からも分かるように高速道の下、橋の上ではホームレスの人が邸宅を構えていた。それにしても私がもう何十年もこの辺りに近寄らなかったのは堀川の汚れ故であったが、今は水面に浮かぶ物も無く匂いも感じない。高速道路さえなければこの辺りは東京のシンボル地区になり得たのにと残念である。江戸城の石がそのまま橋の建築に使われたそうだ。 次のブログに記すがこの橋を渡った所は日本銀行である。常盤橋界隈から大手町方向を望むと五重塔かイタリアの鐘楼を思わせるようなアンテナ塔が見えた。隣にもう一つ平安時代の貴婦人か近頃はやりの韓国ドラマの役人の帽子みたいな形の電波塔が見える。NTTかKDDIかのものらしいが電波塔にもこのような好もしい造形が有るのを見て嬉しくなった。
2011.01.30
コメント(2)

磐越西線 3 磐越西線沿線の雪景色は際限なく続き、山も里も完全に水墨画の世界である。 レトロ調の駅名版もガス灯も埋もれて何も表現できないでいる。 列車の進路もこの雪では殆ど見えない、この辺りになるとレール跡も黒くは無く、ただ雪にくぼみがあるだけである。分かりにくいが下の写真石垣の黒い線右側は駅の乗降ホームなのだが使い物にならない。 実はこの列車には運転手のほかに3人の路線保安員が運転席横で勤務していた。二人は常に前方を凝視して運転手と3人で前途確認しながら前進している。そして3人目の人はひっきりなしにデジタルカメラに状態を記録している。しばらく観察してみるとトンネルの入口では必ずパチリ、線路が曲がっている所も大抵パチリ、後続の運行や運転ダイヤの確保の並々ならぬ努力が読み取れる。 駅ではラッセル者が待機しているがこれも雪に埋まっている。 雪国で列車を動かすことの大変さとその陰で働く人の努力に頭が下がる。そのお陰で我々の乗った窓に氷が張り詰めた乗客のまばらな汽車は殆どダイヤどおりに運行されたいた。 外の雪景色、氷の張った窓ガラスの外を流れる阿賀野川沿いの集落が流れる。 そして美しい水墨画の世界を堪能している間に時々は単線の対向列車待ちでゆったり流れる時間が訪れる。 そんな時は上の窓を開けて景色を見ると白黒のコントラストは深くなる。暖かい車内からこんな景観を眺めていると時間が止まったように感じる。 こんな光景を楽しみながら列車は新潟に達する。 新潟で上越新幹線MAXトキの2階席に乗り換えた、新潟は雪は少ないが程なく長岡、浦佐、越後湯沢とまた豪雪地帯を通るが今度は新幹線である。窓の景色も流れが速すぎて雪景色を愛でる雰囲気は出ない。乗客も殆どがビジネスマンで書類を見ているか、本を読んでいるか、パソコンに向かっているか、あるいは鼾をかいているかである。誰も窓外など見る人はいない。磐越西線とはなんと言う違いだろうか。そして長い長いトンネルを出るとそこは上州、赤城の山も上部は雲に隠れていたが新幹線の走る平野部はからりと晴れた関東平野が始まっていた。 昔は山の反対側にそれぞれ理想郷を夢見たものだが今はトンネル効果で何の余韻も無くなった。 カール・ブッセ(上田敏訳) "山のあなたの空遠く 幸い住むと人のいう ああわれ一人 尋(と)めゆきて 涙さしぐみ かえりきぬ 山のあなたはなほ遠く 幸い住むと ひとのいう" Über den Bergen Karl Busse Über den Bergen weit zu wandern Sagen die Leute, wohnt das Glück. Ach, und ich ging im Schwarme der andern, kam mit verweinten Augen zurück. Über den Bergen weit weit drüben, Sagen die Leute, wohnt das Glück. ( 山の向こうにはきっと幸が待ってる と聞いたので行ってみたがそんなものは無く涙して帰ってきた そしたら 幸せが待っているのはもっともっと向こうの山だ と教えてくれた) 高校の教科書で新体詩として習い、60年近く過ぎても大好きな詩である。
2011.01.29
コメント(0)

磐越西線 続会津若松で乗り換えスイッチバックした列車はしばし平地を過ぎる。阿賀野川は盆地を流れる所ではまだ大河とは思えない様子、しかし雪は相変わらず重い。このあたり平地でも雪深くこれから入ってゆく山間部が思われる。列車はまたすぐ山間に入り、くねくねと流れる阿賀野川に沿って走る。このあたりはもう細い裸の小枝にも雪がへばり付き、白と黒の細い線が寄り添い曲がり、その見事な造形にずっと見とれていた。ここは今回の雪見旅でも最も雪深い地である。列車の運行には大変な労力を必要とするに違いない。気がつくとここでは運転手の他に3人の線路保安員が乗り込んでじっと行く先を見つめていた。線路が雪で埋まっていたりするとすぐに降りて除雪するのであろう。駅舎も人手が少ないのかこの通りである。不思議なことにこんな降雪なのに時としておぼろ月のような太陽が顔を出すことである。 分かりにくいが下の写真窓下のホームの写真で、積雪を切り取って使えるようにしたホームもまた降り積もって使えなくなっている。 そしてそのホーむ横の小木に雪が降り積もって雪国の少女が頭巾を被って涙を流しているような顔に見えた。 雪深いことは計算済みで人の背丈ほどに高く立てた駅名版も殆ど読めない。この路線は今でもSL列車を走らせている観光路線でレトロ調を謳い文句にしているので”野沢駅”が右から綴られている。
2011.01.28
コメント(3)

磐越西線 前日、仙山線・山形線の豪雪地帯を駆け抜け会津への入り口磐梯熱海温泉に泊まった。土地の人はまだここは郡山のはずれで会津ではないと言う、地形図を見るとあと1km位で会津の山に入るのだが、そしてここはもう十分に雪深い里である。磐梯熱海を出た列車はかってスイッチバックが有ったという隣駅の中山宿駅を過ぎて会津に入り線路脇の積雪を吹き上げて1輌目の窓は凍り付いてしまった。程なく列車は猪苗代に着く、磐梯山や裏磐梯高原への基地であるがこの雪模様では磐梯山の勇姿を見ることは無い。小原庄助さんも朝湯でもしていることだろう。ホームと駅舎の間も屋根まで届く雪深さである。線路は普通は枕木から上に出ているものだが、ここでは2本の線路は雪に埋まって白い谷間を走っている。運転手の他に保線要員の黄色いヘルメットが見える。そして最前席の乗客は殆ど席に付かずにビデオやカメラを使い殆どの時間はレールを見つめている。いわゆる鉄ッチャンオジサンなのだろう。彼らの肩の間から前面ガラス窓越しに眺めてみると確かに変化に富んでいて面白い光景が連続して流れる。この著名な観光路線である磐越西線の中継地会津若松駅に着く、雪煙を巻き上げてきた電車の前面スカートや車両の下には雪がこびり付き、激走してきた駅伝走者のように見えた。磐越西線はここでターミナル駅となり、隣のホームの新潟行き快速に乗り換えてスイッチバックで再出発となる。
2011.01.27
コメント(2)

山形ー(新幹線)ー郡山ー磐梯熱海今回の旅はほとんど街に出ず暖かい汽車の車中から窓外の雪景色を見るのが目的なので、仙台ー山形ー郡山ー会津若松ー新潟ー東京と東北地方を横向きW字型に行ったり来たりして銀世界を見ることにした。仙台ー山形については昨日記したが、今回は山形から始まる。仙山線で山形に着くと二階の改札口から回廊で繋がっている霞城セントラルと言う24階ビルの最上階へ向かった。前回の旅で可なり勝手を知った行動である。 まずは美味しい千円ランチを頂いて早速無料の展望室へ、霞城とはすぐ下に有る山形城址のことである。下には山形新幹線・仙山線・左沢線などを挟んで左にJR山形ホテルメトロポリタンが見える。 目を左に転じると道路部は黒いが鉄道線路部は夏のごちゃごちゃした細部が見えず真っ白で空港の滑走路みたいである。 更に左に向かうと霞城祉の全景が見渡せる。堀に囲まれた城址には体育館やグラウンドが広がっているらしくここも白っぽい一角である。そしてその手前右の部分になにやら変った建物が見える。ズームアップ すると重要文化財に指定されている14角形の山形市郷土館が見えてくる。この建物は明治11年に工期わずか8ヶ月で建てられた病院で、町大工・原口祐之によってたてられている。西洋人の手を借りずに日本の大工が立てた素晴らしい建物で以前見学したことがあるが、一階には中庭を擁し、病室と医務室が夏は庭で冬は回廊で繋がれた素晴らしい建築である。町大工がこのような教会風擬西洋建築をすぐ建てられたと言うことはなんと言うことだろう、この勢いで西洋文明を吸収していった日本人の能力は大したものである。 以下の写真は山形新幹線の窓外風景である。新幹線とはいってもここは在来線の線路を敷き変えただけのミニ新幹線方式と言うもので正式には新幹線に当らないらしい。今は標準軌道だけで在来線も広軌を走っている。そんな訳で奥羽本線である福島・新庄間の在来線は山形線と愛称している、その結果困ったことに山形線の列車は狭軌の在来線への直通運転が出来なくなってしまった。この区間SL時代に何度か乗ったことが有るが、歩くような速度で喘ぎながらスイッチバックを繰り返して山形・福島県境の板谷峠を越えて行った。今は新型強力電気機関車を投入し、在来線(山形線)でもスイッチバックは無くなっている。この区間は新幹線ではないので東京へ直通の新幹線車両でも130キロ以下でしか走行できないそうだ。そしてここは名だたる豪雪地帯である。そんな訳でとても新幹線の窓風景とは思えぬ雪景色の中をゆっくり走る。外は激しい降雪、風はあまり無かったがこちらは車両と共に進んでいるので外の景色は吹雪の様子そのものである。新幹線車両から見るこれらの光景はローカル線のそれとしか思えない。
2011.01.26
コメント(3)

仙山線風景日本列島は本州の新潟・千葉を結ぶ線でねじ曲げられており、左右・上下の幅もこの線で一番太く、長い列島の背骨部には北から南まで山脈が?がっている。したがって関東地方は日本海から最も遠く、山脈からも遠い。冬日本海でたっぷり水分を吸っ湿った大陸からの西風が山脈にぶつかって上昇し膨張すると温度が下がる(断熱膨張)、そこで水分を雪に変えて吐き出す。山脈を超えた西風はからからに乾燥し空っ風が吹き荒れる。越後でたっぷりと雪を振り落とした空っ風はなぜか上州で元気なカカア(お母さん)を育てる。その粕みたいなただただ乾燥した空気は関東地方にたどり着いた時、雪を降らせる栄養(水分)も無くエネルギー(風力)も無い。結果として関東地方は穏やかな天候の冬を過ごすことができる。雪国を旅するたびにその労苦を重い、申し訳無いと思う。江戸に首都をおき多くの人を住まわせた家康に感謝すべきだろう。実際雪国にこれだけの国家機能と人口を集中させたら随分余計な国家費用を必要とするだろう。 仙台ー山形を結ぶ仙山線に乗ると、最初は粉雪の空に時にはお月さんのようにぼやっとした太陽を認めることもあったが程なく本格的雪になった。"程なく"と書いたが、これは時間のことではなく場所の移動で雪模様となったのである。汽車が宮城の名湯"作並温泉"にかかるともうそこは白銀の世界。ここの老舗旅館では部屋から長い降り廊下を通って渓流露天風呂が有名で、仙台市内をくねって流れ市民に親しまれている広瀬川の源流の瀬音を聞きながらの入浴は仙台市民にとっては特別な意味が有る。私も仙台在住時何度か訪れたことが有る。またここはこけしの里としても知られ、胴が細くくびれた"作並こけし"はコレクターには必須アイテムである。作並を過ぎると宮城・山形を分ける本州中央部山脈の"面白山"である、ここはなんと読むのかなど考えずに素直におもしろやまと読めば良い。豪雪地帯でスキー場も有り私の数少ないスキー経験の最初はここのリフトも無い素朴なスキー場で、登りはひたすら蟹の横ばいで歩いて登り、下りは登りの歩数と同じ位転んで、滑り降りたと言う感覚は無かったことを思い出す。標高掲示も見えないが500m近い駅で前週の雪かきをする鉄道保安員の姿が見える。雪国の冬季、彼らの働きぶりはこの後もたびたび頭が下がった。走行中の汽車の窓景色でも葉の落ちた裸木に雪の花が咲いていた。面白山を過ぎると山寺は近い、ここは山形平野の奥でありまだ山は険しい。雪に埋もれた山寺奥の院が汽車の窓から見える。少し左によって谷に突き出した崖の上には有名な舞台がせり出している。何度か登ったことがあるが夏この舞台に立ち谷の空気を集めて吹き上げる涼風に吹かれてみる平野の光景は見事である。この雪景色からは芭蕉の句"静けさや 岩にしみいる 蝉の声" は浮かんでこない。"五月雨を 集めて速し 最上川"と読む直前の山寺参詣であればむんむんする初夏の頃であろう。
2011.01.25
コメント(0)

松島湾景色今回の雪見旅一日目の宿は湾を望む丘の上にある松島大観荘若い頃私は仙台で1年半を過ごしたことがあり、その後も何度と無く松島を訪れる機会が会った。そして船上から見える丘の上のホテルに泊まり島影の上に浮かぶ満月を見たいと思っていた。そろそろ実現しないと手遅れになりかねない。今回はいい機会なので湾側の部屋を指定して予約しておいた。残念ながらこの時期太陽がまだ西空に有る時刻東の青空には白い丸い月影が上がっていた。そんな訳で4時半頃の入室時部屋全面のガラス戸の景色は下の写真で、ピンク色に染まりかけた東天にはもう月がかなり高い位置にあった。残念ながら松島湾の海面から昇る真っ赤な満月を捉えることは出来なかったが、月令と月の出を同時に松島の島影の間に見ようという無理な注文は無理であった。しかし天気は良好で松島に満月を見る丘の光景は"松島や ああまつしまや 松島や"と詠んだ松尾芭蕉も知らないだろうと思うと痛快であった。下の写真は3枚の写真から作ったパノラマなので中央上部にかすかに見える月は実際の視界では可なり大きく見えた。島へ渡る観光ようの赤い橋もまだくっきり見える時刻で橋の向こうの牡蠣の養殖棚もこの時刻には綺麗に映る。月と夕焼け空と島景色を同時に視界に納められる絶好の時空であった。そそつかしい私は陰暦15日が満月と信じていたがズームに納めた月影は左下が少しぼやけていた、調べてみるとこの日は十五夜で本当の満月は陰暦2月17日であった。しかしまあ13-17夜は15夜月と言えば間違いかも知れないが満月と言う分には問題なさそうである。正確には満月(望月)は15-17日の間に起るが昼間のこともあり見えないことも多い。暗くなると赤い橋に照明が灯り満月が海面の一部を白く見せていた。翌朝窓の外を見ると小雪がちらついて松島の島影は霞んで見えた。雪の松島もおつなものでなんだか得したような気分であった。雪はだんだん大きな塊になり視界もだんだん霞んできた。窓の下の竹の葉も新雪で白み始めた、笹の葉は広いのですぐに雪が溜まる、一方針葉樹が雪を溜め込むのは時間がかかるようだ。この時間差変化も良かったが松島海岸駅へのシャトルバスの出発が迫り何時までも眺めていられるわけでもなかった。
2011.01.24
コメント(4)

東北雪見旅 プロローグ1月後半になるとJRジパングクラブから3日間JR東日本圏内フリー切符が発売されるので殆ど毎年東北の雪景色を見に行く。天気予報はもう長い間日本海側の大雪を伝えている。そして今年はことの他どこもかしこも豪雪に苦しんでいる。こんな時に雪見旅行なんて恨まれそうであるが、考え方によってはこんな時だからこそ訪ねて観光産業を少しでも活性化すべきとも考えられる。東北新幹線が福島に入ると左に円錐形の吾妻山と吾妻連峰が目に入る、その向こうは会津である。前日の列島大雪(関東は例外)で家々の屋根には白いものが残るが山の太平洋側斜面にさほどの積雪は見られない。しかし山の向こう側を見ると一面雲に覆われている、会津地方はこの日も雪である。 今回仙台での2,3時間を県立美術館の佐藤忠良記念館で過ごした。わが相方は以前から佐藤忠良さんのファンである。ルノアール、高村光太郎の絵画や彫刻に見られるあの豊満な肢体よりもギリシャ彫刻に見られる女神の肢体に憧れてのことであろう。佐藤さんの作品は近江の佐川美術館と出身地のここ宮城美術館に多く収蔵されているとのこと。地方の公立美術館らしいゆったりした敷地と展示室である。 玄関広場展示室では写真は撮れないのでロビーや屋外展示品のみの写真となる。佐藤忠良さんと言えば素晴らしいプロポーションの帽子を被った少女像が有名で素晴らしい。 ロビーにて美術館本館と佐藤記念館の間の空間は一方の壁が鏡の"アリスの庭"という屋外展示室になっている。何時の時代の作品だろうか靴を履いた蛙の子供がおもちゃの動物と遊んでいる作品とその鏡像、そして写真をとっている人の鏡像。少年も佐藤さんの活躍した時代には肥満児は少なかったと見える。帽子を被った少女の胸像、肩の線が特徴的である。玄関前の作品は帽子の少女以前の作品であろう、胴から下の線がルノアールに近く力強い。展示室には娘さんの女優・佐藤オリエさんの幼児期の胸像等も有った。実は今東京の世田谷美術館で佐藤忠良展が開けれており、多くの作品がそちらに回っているようで、お目当ての帽子の少女は2,3体しか見ることが出来なかった。外国の美術館で時々経験することだが目玉作品がよく日本に出張していることが有り、がっかりすることがある。日本に来ると警備員が"立ち止まらないで下さい"と叫ぶことがよくあるので興行価値は有るのだろう。しかし折角高い運賃を払って世界中から見に来ている人のがっかり度とのバランスは考えているのだろうか、それとも経済効果優先なのだろうか。
2011.01.23
コメント(4)

ディズニーランド 拾遺集一連の記録は私にとって備忘録の意味が大きく、本人以外 の人にとっては殆ど意味を持たないものである。私の写真アル バム記録なので無視していただいて結構である。 最後にディズニーランドを後にする時遠くから眺めるだけだった シンデレラ城を通ることにした。一階通路に差し掛かると壁面に 見事なモザイック壁画がある。よく見るとシンデレラ物語の場面を ガラスのモザイック画で描いたものである。継母にこき使われて 箒を持って働いている場面やゴッドマザーの模倣の杖で変身した白いドレス姿のシンデレラ。 ゴシック様式のドーム柱に見立てた柱の後ろに広がるステンドグラス風に見えなくも無い。キリスト教会や仏教寺院で聖書や教義を図案化したモザイックを各所で見てきたがそれらが一般にタイルを砕いて描かれているのに対してここではガラス片のモザイックだけに色彩が実に豊かである。Web 上に城の外観写真は無数に有るのにこのモザイック画の写真が殆ど見られないのは不思議である。 最後に夜のまだまだシンデレラが王子様と踊っている時間の城の麗姿を記念に。 出口から右を見るとなにやらパリのアンヴァリッドかワシントンのキャピタルヒルを思わせるドームが目に入った。調べると各種みやげ物店らしい、でも夜の外観は素晴らしい。 そして出口を出ると正面は私たちのホテルからもよく見えたヴィクトリア王朝風というディズニーランドホテルが真正面に浮かび上がる。 訪ねてないのでなにがヴィクトリア風なのか分からないが、ここからこのフラワーロードを通ってカボチャの馬車に乗ってお城に出かけると言うのは確かにロマンティックではある。 そして帰りはミッキーマークのシャトルバスでホテルへ。 前に書き忘れたが昼食を取った地下洞窟の基地の天井には各種の計器類がぶら下がっている。面白いのは本質的にこの遊園地のコンセプトは古い時代のものなので、この洞窟はジュール・ベルヌ描く”海底2万マイル”や”地底探検”の概念に基づいている。したがって現代っ子には不思議に映るかもしれないがどこにもコンピュータの姿は無い。キーボードで制御するのではなく全て手回しのバルブの開閉で運行されていたことが分かる。 そう言えば同じジュール・ベルヌの”タイムマシン” も駆動力は足踏み式で自転車と同じであったことを思い出す。 したがってこの洞窟レストランの地価基地にしてもエンジンはソーラー電池や原子炉ではなくSL機関車のボイラールームの様相を呈している。 最後の日(12/28日)はディズニーをは訪れず隣の西葛西公園に行くことにしたが、京葉線のディズニーランド駅前には毛布・食料を持ち込んでの徹夜の列があった。不思議と若い女性ばかりだった。聞けば大晦日にディズニーランドでカウントダウンがあり、その一番乗りをするためだそうだ。一番前の人に何時から来てるのかと尋ねたがブスっとして何も答えてくれない。警備会社の人に聞いてみると多くの人はアルバイトの並び屋さんらしい。どうりで何も答えないわけである。警備の小父さん曰く、「一日一万円以上でいい報酬らしいですよ。私らも代わってもらいたいくらいです」。夜は追い出されるので居なくなるが翌日は前夜の順に並び直すそうだ。そのあたり、その世界の仕切り屋がいるのだろう。この年でいい社会勉強をさせてもらった。 JRで一駅隣の葛西臨海公園に日本最大の観覧車が有るというのでそれに乗って帰ることにした。広い園内に人影はまばら、駅で降りた人たちも大半は園内の水族館に入る。出来た頃はペンギンやアザラシなどの展示が斬新で人気があったが今はどこも同じようになってあまり知名度が無い。 17分で1周する実に気持ちのいい空中散歩である。高速(?)自動車道や鉄道などが重なり合う鉄橋は後ろの煙突のデザインと共に結構いかす都市景観である。 この広い公園もかっては海で東京のゴミで出来た所、人工の渚もあり、夏には海水浴も出来るようだ。かっては山を崩した土で埋め立てをしたが今は地下施設を作るために出た土砂が埋立土となっている。人間は山を削り、地を堀り、今度は海底を掘り下げて島を作るのだろうか。それとも土が重要な輸入品になるのだろうか。馬鹿げている、かくして人間は地球を壊し、自分の首を絞めている。ディズニーランドもディズニーシーもかっては海であった。 年末の雑踏とは程遠い東京駅に孫たちを送り、爺婆達の2010年は暮れて行った。
2011.01.15
コメント(5)

マークトウエイン号とジャングルクルーズこの一連の記録は私にとって日記の意味が大きく、本人以 外の人にとっては殆ど意味を持たないものである。私の写 真アルバムの記録なので無視していただいて結構である。 ミシシッピー川を航行するマークトウエイン号、これも50年来 同じであるが、昔乗ったのは腹部に水車のようなものを回し て進む双胴外輪船だった気がする。この航海ではアメリカ大 陸の光景や動物を見せてくれた。 北米・カナダの森に多くすむムース大きさから言えばほぼ馬と 同じくらいであるがこれは鹿の類。左奥に見えるオスはその幅広く巨大な角(antler), こんなに大きくて重いものが付いていると行動しにくいと思うが、このアントラー(鹿島アントラーズのあの角で牛の角とは違う)はオス同士の戦いに使われると思われがちだが、そうではなくパラボラアンテナのような集音器の役目を果たしているらしい。無駄なことにこの巨大なアントラーは毎年生え変わり、秋の終わりまでは獣毛に覆われているのに、冬を前にして皮が剥けて垂れ下がり出血して惨めな風体になり、可愛そうで見てられない。そして冬を前に落角してしまう。とに角気の毒な草食系動物である。 もう一つ無駄に思えるものはあごの下のこぶのようなもので moose's nuke というらしい。カナダ・ジャスパー国立公園に行った時、ホテルレストランの名前がmoose's nuke だった。尋ねるとウエイトレスが顎の袋だと教えてくれたが何のためにあるのかいまだに不思議である。カナダやアメリカのハンティングの醍醐味はムースハンティングである。MITのある教授を訪ねたときオフィスに巨大なムースの頭部剥製が飾ってあった。かれが仕留めた最大のものらしく、自慢の一品であった。日本人で釣りの好きな人が魚拓を飾るのと同じである。 こんなことを思い出させるくらいムースの動きがスムースで自然であった。次に現れたのがこれまた大きな鹿であるエルクでこのオスも大きなアントラーを持ち、毎年とり変えている。私はジャスパーでこのオスに追っかけられた経験をもっている。あの時は怖かった。普段は近寄っても平気だが繁殖期のオスは怖い動物だ。 岩山の上にはbig horn sheep, アラスカのデナリ国立公園で何度か見たことがあるが何時も岩の天辺にいて青空に溶け込んでちらりと見えた印象がある。ここではこの場を離れることは無いのでたっぷり見ることが出来た。 インディアン(北米原住民)のtipi, これはアメリカ北部の平原狩猟族の移動天幕。平原で活動する原住民は常に西部開拓民に追い立てられたため、かっての西部劇に出てくるインディアン部族の村はこのようなティピ部落が多かった。 次に楽しんだのはこれも昔ながらのジャングルクルーズ、これもこちらはボートなので平然としているが、次から次えとリアルな動きの猛獣たちが現れる。 餌をしとめたライオンの上にはおこぼれを頂戴するためハゲワシがうろついている。 鰐や河馬は水中から襲ってきたりするので気が抜けない。 かと思うとカンボジアのジャングルに何百年も埋もれていたアンコールワット遺跡群のガジュマルの木に食いつぶされそうな石仏。これも2,3年前カンボジアのアンコール・タプローム遺跡を訪ねたことがあるので懐かしかった。かってのカンボジア内戦の際ポルポト派がジャングルでこもったのもこれらの遺跡群と聞かされ、実際遺跡に残る弾丸の後なども思い起こされた。 最後は小象たちの愛くるしい動きに癒されたクルーズであった。
2011.01.14
コメント(2)

It's a small worldこの一連の記録は私にとって備忘録の意味が大きく、本人以外の殆ど意味を持たないものである。私の写真アルバムの記録なので無視していただいて結構である。 ディズニーランドには色々なアトラクションが有り、日々進化を 遂げているのだろう。 しかし半世紀変わらぬものもいい。 世界旅行が夢であった頃、時間を入ったり来たりする物語の 世界、北の国や南の国の風俗衣装。そういった夢の世界を 巡る華やかなボートトリップは正しくファンタジーの世界である。 老若男女で一緒に素晴らしい時間を過ごせる"It's a small world"、 私は何時までもこの心を持ち続けたいと思う。 そういう訳で爺のブログには似合わないかも知れないが--- 。 International Dancing Troop Once upon a time ---- "-----" バリ島の影絵、影絵用の革人形がいま私の部屋壁に貼ってある。 お内裏様、義経 月の砂漠 メキシコピラミッド、マリアッチ、独特の太陽神(?) トーテムポール ?、インディアン(北米原住民) エスキモー(イヌイット) 思い出します。映画八十日間世界一周
2011.01.13
コメント(0)

ディズニーランド 夜の花火 記録は私にとって備忘録の意味が大きく、本人以外の人にとっては殆ど意味を持たないものである。私の写真アルバムの記録なので無視していただいて結構である。 夕食を早めに済ませ、12階の部屋の窓際に椅子を並べて家族全員で待った。 毎夜のこととて窓正面に上がる花火見物も今回の部屋指定の大きな理由だった。 8時半定刻を過ぎても空は静かである。5分過ぎ、10分過ぎ、何も無い。 風が強くこの余波中止だったらしい。第二夜、この日は部屋正面に上がった。 高い部屋代を払っているのだ、やれやれである。 花火の解説が出来るほど通ではない。花火の色と発色材の関係くらいしか 知識が無い。まあ花火などと言うものは御託を並べるよりも素直に見る ものだろう。そうすることにする。 それにしても毎晩花火と言うのは訪問者には良いことだろうが地元の人にとってはどういうものなのだろうか。知人が葛西の病院に入院していたことがあるので一寸気になる。
2011.01.12
コメント(3)

ホテルからの風景Disney Landには3種類のホテルがある。最初は直営のホテルで園内にあったり、門前にあったりで早期入場とか優先遊戯権とか色々 特典は有るみたいだが、それだけに宿泊料はX¥X¥X¥。ついで オフィシャルホテルと言うもので周回モノレイル駅に近く園を見たり 花火を見たりするのにいいもの。最後にネイバーホテルという訳は 分からないが幕張とか比較的近く(?)のホテルで多分園えの送迎 バスが有るのだろう。 今回選んだのはオフィシャルクラス、xxクラブリゾートホテル。以前は 東急だったが今は長いxxで書く気にもなれない。最上階(12)パーク サイドを指定した。我が部屋からは直営のディズニーホテルの電飾が よく見える。ビクトリア朝様式と謳っているが訪問する機会が無かっ たので良く分からない。電飾の線画で見るとそのように見えなくも無い。パーク側を指定したのだが肉眼での夜景は可なり遠い。ズームするとシンデレラ城も綺麗に電飾されており、まだ夜中前とてお姫様もダンスに興じているみたいである。翌朝見ると城が遠かった理由がよく分かる。手前に綺麗なドットの駐車場、スイッチを切ったテレビ画面を拡大したみたいである。更にぼろ隠しのため園の外周を固めた木立が遮っているのだ。ズームで見ると森の中に聳えるお城は確かに夢を誘う造形で世界中各所のディズニーランド共通の美しさである。城の右側にはビッグサンダーマウンティンが聳えている。この中をジェットコースタのようなものですり抜けた時は生きた心地がしなかった。暗黒の世界を地獄に向かってまっさかさまと言った感じである。チビが「たまねぎ切ったときのように目が濡れちゃったよ」と表現したので皆で笑ってしまった。 プロメテウス火山は日の出時には噴気の様子が分かる。感心したのはこの火山トイレに起きた夜中も赤い火を噴火していた。当然と言えば当然だが少々無駄な気もする。ホテル客へのサービスであろうか。宿泊していた最上階のエレベータホール横の窓から下を見ると街角を見るようであった。この大きな吹き抜けの屋根はガラス張りの天窓。小規模なアーケードなどではよく見るがこれほど大きなのは珍しい。天上から下がる長いリボンは26日まだ赤・緑のポインセチアのようなクリスマス仕様。しかし翌朝はもうお正月バージョンに変わっていた。フロア全体にメディタレーニアンブルーの水辺夜絨毯、白壁・レンガ色屋根の地中海リゾートをデザインしたことは確かである。水辺のカフェ風パラソル、オリーブ並木(?)と地中海の雰囲気に纏めている。ちっちゃくて薄っぺらい演出と見るか気持ちいいと楽しむかは人それぞれであるが、高いお金を払って後者に沈むのは勿体ない。地中海にはいささか思い入れがあるが、建築の門外漢には新鮮で楽しむことが出来た。
2011.01.11
コメント(4)

Disney Land のキャラクターパレード この一連の記録は私にとって写真を記録に残す意味が大きく、 個人的写真アルバムの記録なので無視して頂いて結構である。 2日目Disney Seaに隣接するDisney Landに行った。 ホテルからLand の入口までは近いのに一方通行の巡回 モノレールに乗せられ、大回りさせられた上に法外な運賃を取る。 取れる所では徹底的に取る姿勢は可なり品が無い商売だと思う。 それはさておき3時にはここの呼び物で特に小さい子供には 絶対的人気のパレードが始まった。この寒いのに皆地べたに 思い思いの敷物を敷いて我慢強く待っている。でも皆さんよく ご存知でちゃんと敷物を用意している。 こんな姿の酋長の娘とカウボーイの不毛の恋はかって西部劇の お決まりのシナリオであった。車上の大木ではなんと虎が尻尾をバネにバンジーをやったり、 派手に金色の刺青をしたサイが歩いていったり、 年齢不詳のお姫様・妖精(?)が満面の笑みで選挙運動のような姿勢、 ペコちゃんかと思える娘が通り過ぎたり、 ピノキオ、ダンボもいました。 この辺りになると比較的新しいアニメの主人公らしく私には感想も書けない。 でも子供たちはバズとかナントとか叫んで気勢を上げている。 すみませんあなた様はどなたでしょうか。 あっつ隊長さんが来たようです。
2011.01.10
コメント(2)

初詣余話一昨日は七草粥、ご馳走やお酒で疲れた胃腸を休ませるため薬草(野草)入りのお粥を食べる習慣。ちなみに七草とは芹(セリ)、なずな(ペンペングサ)、ごぎょう(母子草)、はこべ(ハコベ)、ほとけのざ(コオニタビラコ)、すずな(カブ)、すずしろ(大根)だそうだ。1,2を除けば土手や道端に生えている雑草ばかりだ。これらは体に良いのだろう。そう言えば今年の干支のウサギが下痢すると言うことは耳にした事が無い。 そんな次第で初詣の話ももうそろそろ締め切りが来ているようだ。3日の寺参りで三鈷の松のことを書いたが、実はこの寺には2本の銘木がある。一本は下の無残に枝打ちされた練馬区の銘木イチョウの古木、そしてもう一本は樹齢何百年かの菩提樹の木、釈迦が悟りを開いたのが菩提樹の木陰と言われるので、本堂前のこの巨木はもまた区の銘木であった。幹の根元はぼろぼろの洞となり何年か前の台風で根元から倒れてしまった。それでも鎌倉八幡宮の大銀杏同様株根からまた若芽がでて今では2メートルくらいまで成長している。やはり神様や仏様の聖木は再生したり輪廻の体現者であったりするのかもしれない。そんなことを考えて梢を見上げると天空が薄絹を纏ったような情景があった。 寺には他にも大樹があるがいずれの梢の上も薄絹がかかっている。 こんな曇は晩秋によく見かける気がするが、間違った表現だがこの日も小春日和を思わせるぽかぽかした天気模様であった。 空を見上げながらの帰り道洒落たデザインのマンションの上にも綺麗な雲が。ここまでは良かった、路地の庭木が高い位置に真っ赤なピラカンサスの実をつけている。そしてその隣には鮮やかな柑橘類がそれぞれ濃い緑の葉っぱに包まれている。思わずレンズを向けてしまった。ガラス戸廊下の陽だまりに老婦人が居ることに気が付かなかった。先ほどから盛んに上方の写真を撮っている人物が気になっていたらしい。老夫を連れてきてガラス戸を開けた、「あのー あまり綺麗なものを干してないので ---」 と老人が私に声をかけた。「申し訳ありません、ピラカンサスの実があまりに綺麗だったものですから」 と 言い訳をする。後でよく見ると二階の物干し台に洗濯物が干してあった。まったく気がつかなかったが、老夫婦の日常着が干されていたみたいである。老婦人には先ほどから洗濯物を写している変人に思えたみたいであった。私がこの家を撮影したのは上の2枚だけだったのだが。
2011.01.08
コメント(1)

Disney Sea の 水上ページェント今年は年長の孫が高校受験で正月から塾通い。そんな訳 で静岡住まいの小2.3の孫と親達の6人ずれで年末に Disney Landに遊び、もう少しで金婚の夫婦が始めて二人 で静かに正月を過ごすことになった。 いい年の者がDisneyLandでもあるまいが、1967年まだ Disney LandがAnaheimにしかない時訪れて以来久し ぶりである。したがって、この一連の記録は私にとって写真 記録の意味が大きく、本人以外の人にとっては意味を持た ないものである。私の写真記録なので無視して頂いて結構 である。 少し不気味な地底基地を想定したExpeditionレストランで 食事をしていると地中海ハーバーで賑やかな水上ページェ ントが始まった。 水上スクーターが駆け巡るなか大型の海賊船や物語のキャラクター船が大音響の音楽と共にこれでもかこれでもかと繰り出し飽きさせない。爺婆も面目もなくかなり気持ちの高ぶりを覚えてしまった。 もちろんポート全体で繰り広げられるので何処にいても見られるが、正面に位置するホテルミラコスタ。このホテルは園内にあるため乗り物や開園時間など可なりの優先権があり、その特典以上のコストがかかるのも自明。上の写真の2階レストランの予約などどうして取るのだろう。 船上に人物からも分かるように船の飾り付けが大きい。しかもパレードが始まるまでは船の姿が見えない。一体何処にしまってあるのだろうか。間違っていうるかどうかは別として私の答えは一つ、張りぼての山に隠してあるに違いない。昔から岩山の入り江にある洞窟は海賊が船を隠し、さらに奥の洞窟迷路は宝箱が隠されている所であった。Disney Sea においてもこの海賊の伝統は守られているに違いない。
2011.01.08
コメント(2)

久しぶりのDisney Land 例年三世代揃って正月を過ごしてきたが、今年は年長の孫が高校受験で 正月から塾通い。そんな訳で静岡住まいの小2.3の孫と親達の6人ずれで 年末 Disney Land に遊び、爺婆は始めて二人で静かに正月を過ごす ことになった。 い い年の男女がDisneyLandでもあるまいと思うが、1967年まだ Disney LandがAnaheim一箇所しかない時訪れて以来である。したがって この一連の記録は私にとって記録の意味があり、他人にとっては殆ど意味を 持たないものである。私個人記録なので無視して いただいて結構である。 孫たちを東京駅で迎え舞浜へ、Disney Trainに乗るとミッキーの窓からは園内が見え子共達の期待は高まる。 車窓からこの日の目的地ディズニーシー に聳えるMt.Prometheusが見える。入口のアーケードをくぐると地中海の世界、とは言っても、ミラノ・フィレンチェ・ベネチア・ローマが繋がったようで何がなにやら分からない。屋根と壁で想像を逞しくする以外ない。先のイタリアンゾーンを過ぎるとローマの水道橋のような、中世の城壁のような壁に沿って移動、壁の裏側はアラビアンコーナーである。この辺りからハーバー越しに見捨てられたマンション・シャトウが聳え立って見える。今ではフェアモントを冠しているカナディアンパシフィック系の豪華ホテルシャトウ・フロンテナックを彷彿させる。レンガ造りでこのような宙ずり構造が可能だろうか。レンガは外側だけだろう。いずれにしてもここは”タワーオブテラー!”だそうで、ミステリーツアーの場所だそうだ。子供も小さいし、触らぬ神にたたり無しである。迷子にならないよう、ここでのオバアチャンの任務は重大である。アーケードをくぐるとアラビアンワールド、実物大も見事なモザイックモスクドームが異次元に誘う。素晴らしいドーム屋根の下はなんとメリーゴーランド、子供達もしぶしぶ始めての乗り物として馬上の人となった。外周のアニメのキャラクター乗り物は若いカップルが占めチッチャナ子供は外が見えない内側の子馬で我慢である。 水上パレードを見にハーバーにでてみた。動物、アニメキャラクターなどが踊り海賊船の跋扈する地中海は豪華絢爛であるが、パレードの行なわれている後ろ側に目をやるとプロメテウス火山が噴煙を上げていた。プロメテウスは巨人タイタン族の神で天上の火を盗んで人間に与え、ゼウスの怒りを買ってコーカサス山に鎖で繋がれ、鷲に肝臓を食われていたがヘラクレスに助けられ人間の恩神。永遠の世界を支えつ続けねばなら無かったアトラスの兄弟神でもあり、泥と水から人間を作り、他の動物の持つ能力を全て人間に与えたという人間がもっとも崇めるべき神なのだ。目前の華やかなパレードの途中私は何度も後ろを振り返り火を噴くプロメテウス山に祈った。
2011.01.07
コメント(5)

三波石長命寺には青い大きな石がいたるところに置かれている。 前々回のブログにも載せたが寺の門標も大きな青い石である。 本堂前には一段と大きな石が置かれ、傍らに小さく三波石の表示。 表示石を拡大すると、 観音堂の石標もまた蒼石である。 これらの石の特徴は緑ー青(時には紫)の生地に白や黒の筋が通り、しかもそれは曲がりくねっている。これらの石は”三波石”で埼玉県北部鬼石地方に産する特異な石である。冬桜(鬼石サクラ)で有名なこの地の神流湖(かんな湖)下流には三波石峡という名所が有って、天然記念物に指定されている。この指定と上流のダムで現在ではここからの石材産出は少なく。後述するが徳島吉野川流域からの石材が主として庭石に使われている。 話は飛ぶが下の航空写真をご覧いただきたい四国の愛媛県北部を通り徳島県の吉野川に沿って、そして紀伊半島から三重県伊勢に抜け、伊勢湾を横切って 伊良湖崎にいたる日本地図を爪で引っかいたような傷跡を認めるだろう。 更に拡大してみると伊良湖崎の上の湾からうっすらと伸びる白い線が南アルプスと木曽山脈の間の伊那谷を通って写真右上の隅にある諏訪湖に伸びていることが分かる。 これが下図の赤い線である。これはあのナウマン像の命名者ナウマンの発見した日本列島中央構造帯である。これを境に2枚の岩盤がくっ付いたのが日本列島というわけだ。ちなみに青い線は破砕帯で有名なフォッサマグナである。これらに沿って無数の断層が走っているのがわが日本の国土である。この空中写真を見て気がついたが、この線の右(南)がわの山脈は左(北)側の山脈に比べて一般に低いことが分かる。 実は私の実家はこの断層の真上にあることが最近分かった。日本沈没時には真っ先に沈んでしまいそうである。この構造帯を境に地層だけでなく、生物の生態相にも違いがあるという話を聞いたことがある。さてさてくどい話である。あと少し、この断層帯の北側には領家変成帯という岩盤が広がり、南側には三波川変成帯という岩盤が広がっている。埼玉県鬼石と徳島県吉野川流域、愛媛県伊予地方でその三波川層が露出しているため、三波石がこれらの地方で産出するというわけである。正確には緑泥片岩と言うらしい。徳島では阿波の青石と呼んでいる。実家にはこの地方特産の青い石で作った大きなテーブルが庭に配置されており、兄が自慢のものである。そういった訳で全国何処の庭園に行っても各地の名石を集めたと言う庭には大抵配置されている。ただし地元ではたいした石でもなく細工しやすいので石垣や踏み石として何処にでも使われている。蜂須賀の築いた阿波の城にもふんだんに使われているそうだ。それにしても珍しい石で武州と阿波の共通の三波石・阿波の青石がふんだんに置かれている長命寺の石ころを改めて見直し、故郷にも今の地元にも思いを馳せている次第。
2011.01.06
コメント(0)

三鈷の松長命寺奥の院に参り、姿見の井戸に何とか自分の顔を認めて、ほっとして引き返そうとすると参道脇の松の木の脇に小さな石標を発見した。”三鈷の松"とある。字体から言ってもかなり古そうだ。ふつうなら見逃しそうなこの小さな石標が目に入ったのもyorosikuさんのブログで”永観堂の三鈷の松”を思い出したからである。 昔空海が唐に渡った時、真言密教の極意を習得し、帰国後の布教を誓い、師から送られた”三鈷杵”を日本に向かって東の空に投げた。鈷杵とは仏具の一種で修行の時手にするもので一本の鉤を持つ独鈷、三本の鉤を持つ三鈷、5本の鉤を持つ五鈷がある。たとえば三鈷には身(水)・口(剣)・意(火)の意味があり、仏道の要素のほかに修行時に大切なものであり、頑丈な金属製のこれらの鈷は荒行時には野獣と戦ったり、登山者のピッケルのような役目も果たしたものと思われる。さて空海は帰国後、紀州高野山中にこの三鈷を見つけここにを真言密教の聖地にした。普通の松は2葉(五葉の松も有るが)なのに三鈷が懸かっていた松は3葉であった。爾来高野山ではこの松の木を”三鈷の松”として大切に育てている。そんな伝説もあってか真言宗の寺には所々植えられているそうである。わが故郷にある四国八十八箇所一番・霊山寺にも植わっているらしい。 さて石標の傍に一本の松の木があり、枯れた松葉が落ちている。よく見ると確かに皆3葉である。 松葉の枯葉は掃き集められ何箇所かに盛られている。なぜか急に杉田玄白「蘭学事始」中のフルヘッヘンド ー ”顔中うず高しは鼻であろう” - が思い浮かんだ。 この掃き溜めや周りの松葉は皆3葉である。なんだか宝物を発見したようで少しばかり興奮してしまった。 これを持つことは大変は幸運を持つことと言われている。こりゃ正月早々縁起がいい。お賽銭をはずもうと思ったがあいにく持ち合わせが無かった。数本を頂いて帰り、また後でお礼参りをしようと思っている。何しろ5分もかからない所にある幸運の木である。これからは毎回拝むことにしよう。青い(?緑の)枝を見上げると確かに3葉、そしてなんと 幹から直接生え出している葉を見てもこれまた3葉である。 ホームページを見ると本家高野山の三鈷の松は赤い垣で覆われ大切に育てられている。なののここ”東高野山”では大して手入れもされず誰にも省見られずひっそりと赤い観音堂の前に佇んでいる。木には松ぼっくりが沢山かかっていた。春になったら育ててみようかなどと思っている。
2011.01.05
コメント(6)

練馬 長命寺元旦に地元の氷川神社と長命寺に初詣した。我が家と両社寺は一辺200mくらいの正三角形に位置している。元旦には参拝者の列があったので昨日3日、散歩をかねて長命寺を訪ねた。ここは高野山の流れを汲む寺で ”東高野山・長命寺” と号し、建物も本山を模したものが多いそうである。開基の僧が高野山修行の折、東の地に同趣旨の院を祀り、高野山は女人禁制なのでそこでは女性の庇護に当るようにとの啓示を受けた。そこで弘法大師の木像を得て今の地にその木像を祭る院を営んだのが始まりで、後継の僧が紀州高野山を凝縮して整備したものが現在の”奥の院" なのだそうだ。なお東京で長命寺と言えば”桜餅”で有名な向島の長命寺があるがこれとは別院である。 寺領への門として正門ではないが我が家に近いのは”東門”小さな門であるが散歩時境内を通る近道ににもしばしば利用させていただいている。 この近道で出口に使わせていただいている”南大門”脇の大きくて立派な三波石の標石が建っている。 下の標石は”右へ かうや山 おくのいん 入口” (高野山奥院入口)” と読む。明治時代文部省が標準かな文字を制定するまで使われていた変体仮名で、今でも蕎麦屋の幟などに見られるもの。 奥の院入口近くに六角経蔵がある。お経を唱える代わりにお経を納めた蔵の周りを回ることによってご利益を得ようとするもので、回りやすいように普通六あるいは八角形である。チベット寺院によくあるのは大きな経堂の外廊に周り駒を付け、礼拝者はそれを回して歩く。私も四川省チベット村で経験したが大きな駒を回すのはかなりの労苦である。仏教がチベットから中国を経て日本に伝わる途中、より多くの信者をつくる為いろいろな工夫がなされる。その一つが納経堂を納経塔にし、さらにそれを八角のミニチュアにして回りやすくし、更にさらに随所に見られるのはこのミニチュア塔を回転式にして手で回すだけで仏教の経典を唱えるのと同様の功徳を得ようとする。この辺になると神仏と人間の知恵比べである。 忙中閑話:”回転式経蔵” を知ろうと”経堂・回転”で検索すると小田急線経堂の回転すし屋のページが沢山出てきたのにはビックリした。 奥の院参道には多くの石仏・石像が列を成している。弘法大師を祀る大師堂の近くに下の標石を発見。以前はぼろぼろで判読できなかったが最近新しくなっている。 金網で覆われた井戸を覗き込んでみると深くて暗くて何も見えない。これはまずいと凝視するとはるか地底にかすかなわが像が浮んだ。ズームレンズを絞りやっとゲットしたのが下の写真、やれやれ ! さらに奥の院の裏側に回ってみると多くの石像が置かれておりなかに頭や鼻が欠けたものが有る。下のもお腹が壊れている。これらの像は元もと壊れていて、それは普請や火事の際倒れてくる柱を石仏が受け止めた後で、この石仏群は棟梁や僧の身代わりとなって傷ついたため ”身代わり地蔵”と称されている。 その他多くの石仏や文化財の鐘楼・山門(南大門)などがあり、静かな良い場所である。散歩の途中誰もいない境内で日向ぼっこなどするのに絶好の場所である。
2011.01.03
コメント(2)

調神社 と 白兎神社前回のブログで月面のウサギ模様について考察したが、無頓着な私はそのとき干支の卯について何も記さなかった。今年の年賀状を見るとウサギの絵が多い。そう言えばわが相棒は今年”年女”である。 もう10年くらい昔のことで写真も無いが浦和の中心にある調神社(つきのみや神社)にお参りしたことがある。それと言うのもわが相棒の父は国家公務員をしていて神社の隣に官舎があり、小学校時代学校から帰ると毎日この境内で縄跳び・鞠つき・ケンケンパをして過ごしたというので再訪したしだい。残念ながら街に昔日の面影は無く家を確認することは出来なかったが、狛犬ならぬコマウサギは記憶に残っていた。 昔武蔵の国から伊勢神宮に納める調(繊維織物で納める税)を保管する倉を境内に建てた際、鳥居が調の運搬に邪魔だったので取り払って以来この神社で鳥居が無い。その後、調(ちょう)を ”つき” とも読むことから月信仰と結びつき、兎を神の使者と見立てた兎信仰が行われるようになり、何時の頃からか調神社(つき神社、つきの宮神社)とよばれる様になったと言われる。 そんな読み方があるのかと信じられなかったが漢和辞典を見ると確かにあり、 ”貢物" ”年貢” の意味で”ちょう” あるいは ”つき”とあった。この神社では鳥居も狛犬も無く、いきなり兎のコマウサギが出迎えてくれる。税→月→ウサギ と 風が吹くと桶屋が儲かる式の話であるが本当らしい。先ほど初詣した地元の無名社ですら長い列があった、きっとこのお正月調神社の初詣客は列を成したことであろう。何しろ浦和という大都市の伝統ある神社である。 全国的に有名なウサギ神社といえばそれは鳥取の ”白兎神社”であろう。こちらは”大国主と因幡の白兎” の神話に基づく社なの だから ”調神社” とは格が違いそうだ。この日本書紀や古事記にも記された神話は確か小学年生のとき ”修身” という科目の教科書にあったが、日本古来の神話というだけでGHQに文部省が遠慮したのか墨で塗りつぶされてしまった。 これまた今年のお正月は全国から初詣客が耐えないであろう。 毛皮を剥がされたウサギが上陸した海岸も白兎(はくと)海岸という名所らしい。この話、小船で倭の国に渡航してきた渡来人が日本近海で襲われ、衣服を剥ぎ取られて苦しんでいたのを親切な村人が介抱した。そしてやがて支配者となった渡来人は村の娘と結婚したと解釈すると無理が無い。今この神社は縁結びの神、パワースポットとして有名らしい。
2011.01.01
コメント(2)
全22件 (22件中 1-22件目)
1
![]()
