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オーロラ展ここのところ2,3日暖かい日が続き、つい何所か出かけたくなった。こんな時コンセルジュとしてわが相棒は便利である。新聞の催し告知欄にはくまなく目を通していてファイルした新聞の切り抜きがすぐ出てくる。今丁度新宿高野ビルにあるコニカミノルタギャラリーで下のオーロラ写真展が無料開催中でそこへ行くことにした。まずは船外活動用の宇宙服を着た宇宙飛行士のモデルが出迎えてくれる。真空に近い軌道域で背中に背負ったボンベ(注:和製英語。ボンベは爆弾の意なのでふさわしい言葉ではない。かって鉄製の爆弾型気体容器をこういったので今でもこの語を使っている)から1気圧の空気が供給されている。服が爆発しないため真空に耐える硬い鎧に包まれている。中世ヨーロッパの甲冑が服を着ているイメージである。オーロラはローマの暁の女神Auroraにちなんだ名であるがガリレオ・ガリレイの命名とする説が有るもののはっきりはしない。展示は大きく分けて4つの構成からなり、その第一が若田光一さんらが撮影した宇宙ステーションからの映像である。オーロラは太陽風に含まれる電荷をもつプラズマ粒子が電離層の酸素・窒素のイオンに衝突してそれらのイオン種から発した光の色である。宇宙ステーションの航行域はまさしくこの電離層である。地球上から見るオーロラは100kmも上空の光を見ているのだがステーションからだと同じ目線から見ることになるので下から緑、黄、青、赤と賑やかである。丁度会場にベビーカーを押した若いお母さんが居合わせた。彼女は新婚旅行でカナダ・イェローナイフにオーロラを見に行ったという。そこではオーロラの発生場所直下のためかほとんど緑の光しか見えなかったと教えてくれた。 一方オーロラの上部は赤いらしい。何年かに一回はオーロラバンドが南下して北海道でも見えるらしい。地球の丸みで北海道から見えるオーロラは薄い赤色の空だけだという。火事の空と見分けがつかないが夜中の海上に突如火事など起きるはずもなく区別できる。超重装備の船外服に比べて飛行士が手を振りながらロケットに乗りこむ時の服は下のやたらに固定紐をつけたもの。第2部は松本紀生さんが地上から撮影した数々のオーロラ映像。松本さんはアラスカ大学出身の写真家でー30度以下という酷寒のアラスカ・マッキンリーにカマクラを築き、そこをベースにして一人で生活しオーロラの写真を撮り続けている。カマクラの生活展示映像をここに載せるわけにはいかないが小さなパンフレット写真を拡大してみると下の様子で、とにかく展示場のパネル画面だけでも言葉が出ないほどの美しさと雄大さである。第3部は古賀祐三さんが作り上げたシステムでアラスカにサテライト基地を建築し、そこから1年24時間オーロラ中継をしている。(http://aulive.net/).なんと「自宅でリアルタイムにオーロラを体感したい」という夢を実現してしまった人がいる。もちろん365日24時間オーロラが出るはずもないのでこの日の大型スクリーン上ではオーロラを見ることはできなかったが、横のスクリーン上のダイジェスト版では美しいオーロラとともに流星は絶え間なく流れていたのは感動的である。今や古賀さんのおかげでスマートフォンで簡単にアラスカのオーロラをリアルタイムで見ることができる時代らしい。しかもカメラの操作は東京からできるのだそうだ。面白いのはサテライト基地のガラス窓についた氷をはがすのはブラシでさらさらしているところが映っていた。話は飛ぶが子供のころ夜中に屋外のトイレに起きてよく見た流れ星と天の川を思い出した。第4部は上出洋介さんの観衆のビデオ「オーロラの仕組み」観賞だ。少年時代からオーロラの謎を追い続ける上出さんが実に分かりやすく素晴らしい映像でオーロラが発生する仕組みを教えてくれる。このブログもこのビデオからの知識が下敷きになって書いたものである。帰る時上出さんの少年向け著書「オーロラの秘密ー私の研究」を買い求めた。来月誕生日を迎える孫へのJ・Jからのプレゼントとして買ったが帰宅してすぐ読みふけってしまった。B・Bも読むという、孫にわたる頃に手あかにまみれていなければいいのだが。いい気分で帰宅しエレベータを降りると西の空が真っ赤に染まっている。しばしオーロラの赤い空に見立てて佇んだ。普段ははっきりした山容の富士山がこの日は霞んで左のマンションの中ほどから斜めにぼやけた稜線を示していた。はっきりした稜線ではオーロラにたとえようもないがこの日はいい感じであった。(Editorの不調で展が付いてくる。今のところ原因不明)
2014.01.26
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鳥の芸能界石神井公園には隣り合って石神井池と三宝寺池があり、前者はボートが浮かんだり釣りが盛んな池である。後者はなるべく自然の状態を保持した自然風地林で都内にしては珍しく野鳥の豊富な保護区でもある。ウイークデイのこの日は両池rともボートや摸形ボートも浮かんでおらずまさしく野鳥の世界であった。こ の日数種類の鴨を見たが一番美しいのは「ハシビロガモ」であった。Wikiで調べてみると嘴の幅が広いことからの命名で非繁殖期では褐色の冴えない色になるらしい。本来北の鴨であるが本州には越冬のために来るらしい。オシドリに似た配色であるがオシドリの貴品はない。ここには何つがいかのカワセミがいて撮影スポットには同好会の人が、ときどき餌をやるようで止まり木によく姿を見せる。餌があるときはダイビングして餌取りする姿も見られる。この日は餌が無いらしく目をあまり動かすこともなく左右に視線を配りカメラに収まっていた。すぐ近くには五位鷺が10羽近く羽を休めていた。平安時代ある時天皇が御所の神泉苑(今は二条城の近くに引越している)でこの鷺を見つけ六位の蔵人に捕まえてまいれと命じた。蔵人が近付くと鷺は飛び去ろ うとしたが「帝の命であるぞ」と告げるとおとなしく捉えられた。天皇は気に入ってこの鷺に蔵人より一つ上の五位の位を授け、「鳥の王」であるとの札をぶら下げて話したという。Wikiにこんなエピソードが記されていた。中に1羽子供が混じっていた。五井鷺は背中の青羽が特徴的であるが子供の時は下のように背中が褐色で白い紋、腹は逆に白羽の褐色紋である。池の周 りに三脚・望遠レンズのカメラマンが数名いて直近の五井鷺には全く振り向かないで池の向こうの島を狙っている。私のカンパクトカメラを精いっぱい ズームしてみると1羽の冴えない鳥が、、野バトにしては大きく上の写真の五位鷺の子供に似ているが背中の紋もはっきりしないうえに尻尾が長く、後ろ首の力強さ がまるで違う。何だろうと尋ねるとオオタカが羽を休めているという。10年以上も前のことであるが住宅近くの林を造成しようとして一対のオオタカの巣が見つかり開発が遅れたというトピックスが新聞紙上をよく賑わしたものである。オオタカは絶滅危惧種に指定されて保護され近年は大分復活している鳥である。そんなオオタカが三宝寺池に生息していることは始めて知った。考えてみればこのあたりは昔は武蔵野のど真ん中で将軍などがタカ狩りをした処であるがその時の鷹はオオタカである。猛禽類で森の食物連鎖の頂点に立つ鳥で生態系が整っていない と生きていけない、ということはここの生態系はまだ良好ということになる。歩を進めるとまたカワセミが現れた誰も気を留めない場所であったが鳥もカメラの前で気取る事もなく上枝に移ったり隣の木に越したりして私をもてあそんでいる様子、私ももてあそばれるのをしばし楽しんだ。
2014.01.24
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野鳥のうたた寝春を探しに公園に行くといろんな鳥が池端で日向ぼっこをしている。公園側道に沿って立派な家並が続くが際立って瀟洒で私が勝手に「プチトリアノン」と呼んでいる家の屋根には立派な風見鶏が珍しく静かに北を向いて孤高を楽しんでいる。傍らの池端には赤い嘴の加茂の一種バンが眠るでもなく、起きてるでもなく明るい陽光の下で日向ぼっこ。珍しくカラスがツインベッドで仲良くこれまた日中ぼっこ。マガモはもう嘴を背中に突っ込んで熟睡中、隣の枝ではお友達が今度は嘴を脇の下にうずめて熟睡中。周りの葦の枯れ木のベッドで眠れば安定しているのに、水泳は得意なので落ちても溺れることはないがどうしてこんな不安定な枝で眠るのだろうか。尾長鴨は大木の下の水面で唯我独尊の眠り(悟り?修行中?)。この公園には白鷺、青鷺、五井鷺が生息するが今までは孤独な五井鷺しか見たことが無かった。いかしこの日は10羽近い五井鷺が一本の木に宿ってカメラの放列などどこ吹く風と昼寝を楽しんでいた。下は初めて見た五井鷺の幼鳥、天皇から五位の官位を貰ったというがどうしても五位の蔵人には見えず、よく見て丁稚小僧にしか見えない。
2014.01.23
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春はまだかな節分もあと10日余りとなりもうすぐ光の春の2月を迎える。気温はともかく少しづつ日が長くなり光が強まる気配を感じるようになった。 このところの寒さで外出も控えがちだったが今日は久しぶりに10度近く風もないので石神井公園に春を探しに出かけた。出かけたといっても怠け者の私が公園に出たのはもう昼過ぎ、それでも池にはまだ氷も浮いていて時折吹く風が水面をさざ波の領域と静かな水面を二分したりする。この境界線は長い時間停滞し続け るのが不思議である。そういえば船の航跡なども久しく消えないのは水がほんとうに流体なのか疑いたくなることがある。水面の上に広がる林も絵にかいたような冬景色である。メタセコイヤの落葉が地面を赤く染めている、地面を探したがまだ朝夕霜が降りるであろう場所に春の気配は見当たらない。ふと見上げると公園に一本だけある栴檀(センダン)の木に去年の実が豊かに下がっていてまだ昨年の夏を曳きずっている。60年ほど前、ひらひらと風になびく薄葉が小学校の運動場にやさしい夏の日影を作ってくれていたことを思い出す。真夏の熱さを増幅させるサルスベリ、赤い花を長く咲かせることから百日紅とも綴る、ちなみにサルが滑ることはなく、するすると登るそうだ。いまはその気配さえなく坊主状に剪定されて拳が天を衝いている。上を見たついでに目を留めると、ありました春の息吹が。桜の枝は明日にも開きそうなつぼみをつけている。桜は前年の夏にはもうつぼみを作り、じっと春まで我慢しているのでちょっとした気温の違いで簡単に1週間や10日は開花が前後する。東北では開花を遅らせて春の連休に合わせるために雪を盛り上げて桜をだますこともある。柳も心なしか青めいて見える、よく見ると確かに枝には色づいた膨らみがみえる。柳 の花には強い印象を持たないが確か白くて長い房を垂れ下げていると思う。したがって枝のふくらみは若葉の芽であろう。日本人は色の感覚が鋭いと言っている(自分で)が、柳は青めるのであって決して緑づくとは表現しない。ひどい色音痴であるがそのほうがしっくり感じる。柳は種類が多く350種もあるが日本で柳と言えばしだれ柳を指すことが多い。柳の木からはあの世界中で一番有名な薬のアスピリンの元が取れる。もうひとつ春を告げる木花にココブシがある。これも柔毛に包まれた蕾を満載している。あの大げさな花も今はまだネコヤナギの風情である。
2014.01.22
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鉄道ジオラマ 原信太郎さんは鉄道模型だけでなく記念乗車・乗車券蒐集にも情熱を注いでいる。新しい鉄道の一番列車の一番乗車券も多く獲得している。博物館をここ横浜浜に開いたのも日本の鉄道の原点だったからであろう。一番切符の入手は金で買えるものではないのでその入手労苦は大変なものである。原氏は勤め人としても多くの業績を残した人で有名企業の常務まで務めた人であるが鉄道に懸ける氏の情熱には会社も制御できないことが多かったらしい。氏の業績をみるとその趣味を認めさせるためには人の何倍も働いたことであろう。また一番切符を求めて何日も徹夜で並ぶには奥様の協力が不可欠であったようだ、なんという幸せな人生だろう。1933年(昭和8年)東京渋谷・井の頭公園間に井の頭線が開通している。写真が悪いが拡大してみると8.8.1の日付、渋谷より井の頭公園ゆき、22銭と読める。つい最近まで使われた硬卷切符で改札の鋏の形が懐かしい。渋谷駅の形はこうだったんだ、乗客がいない時若い駅員は改札口でこの鋏をリズミカルに打ち鳴らして楽しんでいたことを思い出す。この切符の価値は裏面にある、鏡に映った番号は鏡文字で0001と刻まれている、原14歳の時に当たる。伊豆急行電鉄が伊東・下田間に開通したのは1961年(S 36)12月10日。伊東からの一番切符は無理だったのか蓮台寺から下田の一番切符である。蓮台寺駅は終点伊豆下田駅の一つ手前で2.3Kしか離れていない。あっという間の乗車だったことだろう、それでもやっと手に入れた1番切符は貴重である。いやしかしもっと意味がありそうである。隣に同日に下田から神戸行きの切符が置いてある。これは下田から国鉄への連絡切符一号である。行き先、経由駅料金などすべて手書きである。当 時はすべてパチパチと算盤をはじいて計算し、手書きしたものだ。私の帰郷切符など東京から四国の小さな駅まで、学生割引率も国鉄・私鉄で違うので駅員さん は大変である。旅行マニアの私の切符は帰郷切符も決して最短距離を通るものではなく夜行列車で時間を稼ぎながら各地を巡るもので駅員泣かせの切符だ。何日か前にお願いしておいて後で取りに行くことが多かった。次の切符は昭和39年10月1日、東海道新幹線🚅の一番切符。ひかり2号となっているが大阪からの登り一番列車の特急券、一番切符であるが1号車1Aではない。新大阪駅の駅員が頑張っても他からの電話が早かったのであろう。よく経験したが今のように緑の窓口がないので主要駅以外で指定券を買う場合、駅員はまず電話で確認してデーターを手書きで記入すたものだ。次も同日の東京駅発新大阪駅行のこだま一等一番切符。ここで注意点はグリーン車ではないことだ、当時は一等二等の時代である。1960年(昭和35年)までは1,2,3等で記号はイロハで田舎ではイロ記号の客車など見たことがなかった。次はスケールの大きい鉄道ジオラマ、スケールが大きいだけでなく模型車両は材質や導電様式、駆動様式など本物に忠実なのでカタコト音まで本物そっくりで実に臨場感がある。原がこだわりはこの走行音だという。時間帯も夜朝昼夕刻と変化させて運行しており、それぞれの雰囲気だ出ている。 私の若い頃の関西東北への旅はいつも夜行列車だったので懐かしい気分を味わうことができ、同行の孫たちとは次元の違う楽しみ方が出来た。 気が付くと空中ではロープウエイ🚡も運行されており、部屋の壁や 窓もみんな独特のレンガと上部が円形のガラス窓ある。 そういえば昔の絵者や整備工場はこの形であった。
2014.01.11
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原鉄道模型博物館家族合宿最後の日偶然の箱根駅伝見物後、原鉄道模型博物館を訪れた。ここは原信太郎氏が自作・所蔵する鉄道模型や収集した鉄道資料の膨大なコレクションの展示場である。世界中の鉄道模型が見られ、室内では世界最大と言われるジオラマの運行も実際の鉄道の完全模型で、他の多くの例と違って電車の電源も架線とパンタグラフで、 鉄のレールの上を鉄の車輪で走り「走行音」にもこだわった鉄道模型で二つと同じものがないものばかり。原信太郎は幼少期から鉄道マニアで各地の鉄道乗車を楽しんだり摸形作りに没頭していた。大学も機械工学を選んだが戦後はコクヨに就職、数々の技術で貢献し専務で退職してい る。この間鉄道趣味は広がり続け、所有する模型は6千両を超えるそうだ。昨年横浜の日産本社隣の三井不動産ビル二階にオープンしたこの博物館は原の 収集品を展示する施設である。原少年は4歳時ブリキの電車で遊んでいた時関東大震災に見舞われ、激しい揺れに縁側から庭に転げ落ちたが、その時大事に抱えていたのが下のゼンマイ式ブリキの電車模型。これが鉄道趣味の原点となる。6歳で自作した機関車摸型が下の物。いろいろな廃材を利用して自作したというから驚きである。世界中の名機関車が展示されているがどれも今に走り出しそうである。機関車にはあまり知識が無いので間違いもあるかと思われるが思い出せる範囲で写真を示す。1938年のロンドン・ニュウカッスル間を200キロ以上のスピードで走ったマラード号。その50年後私はニューカッスルに数ケ月間滞在した。その時3カ月有効のブリットレイルパスを使って週末ごとにロンドンに通ったことがあり懐かしく思い出した。今もロンドン・ニューカッスル・エディンバラ間のこの路線は英国のの主要路線である。下は1870年に建造されたグレートノーザン号で動輪直径が2.45mと巨大である。当時のスピードは80キロ位であるが始動はともかくスピード競争に勝つために動輪を大きくしている。下はサザンパシフィック号、アメリカの鉄道会社でトンネルの多い山岳地帯を走るため機関士が酸欠にならないように運転席を最前面に設置してあるそうだ。下の上段はオーストラリアの貨物専用機関車で石炭と水の補給が困難なため、機関車本体の前後にテンダーと呼ばれる炭水車を付けたタイプ。テンダー自体が重いため操作しにくく、そのため動力車輪をテンダーに移したもので極めて珍しいタイプの機関車である。下段はビッグボーイと俗称されたアメリカ最大の機関車で長さが40.5m、重さ350トン、炭水車を後ろに引いて力強くロッキー山脈を横断したそうだその他世界中の懐かしい型式の機関車が展示されている。機関車だけでなくよく見られた客車・貨車の模型、有名列車の編成もみられ、読み物でしか知らない世界の名列車が解説付きで展示されている。下の写真はドイツのWuppertal市にある世界最古の懸垂式モノレールの模型である。ホームページでブッパタール市の都市案内を見るとまずこのモノレールが出てくる、1901年開通らしいがもちろん現役である。1980年代にこの模型がオークションに出された時信太郎は国際電話をつなぎっぱなしにして競り落としたそうである。当時国際電話料はとてつもなく高くついたことだろう。これほど状態のよいものはなく市の博物館から譲渡依頼があったそうである。電動模型としては奔りの物でショートした時の危険を知らせるため大きな赤電球が附いている。電車に乗るためにこの階段を登らなければならないのは大変なことだったろう。信太郎が一生(今も)作り続けた鉄道模型の作業場はこんな風景だとか。次に紹介するが信太郎は形だけでなく動力源や材質にまでこだわったのは実際に線路を走行させてその臨場感を再現するためである。
2014.01.10
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関東大学箱根駅伝家族合宿最後の日ホテルをチェックアウトした後、原鉄道模型博物館を見にゆくことにした。地下鉄をおりて博物館の方へ歩いていると前方の国道に人がたかっている。そう言えばもうそろそろ箱根駅伝復路の選手が通りかかるこ ろである、野次馬根性満載の我身としては見逃すわけにはゆかない。早速国道方面に急いだ。国道に到着する前に白バイが通り先頭の東洋大学のランナーが横浜駅方面に走り抜けて行くのが見えたがもたもたしているうちにはっきりとした姿をカメラに収めることが出来なかった。国道をまたぐ歩道橋を渡る時2位の駒沢大学が通りかかり、ベストショットをものにすることができた。この差ではどうやら駒沢の連覇はむつかしそうであった。歩道橋はマラソン見 物には最高であるが勿論人が群がると危険なので立ち止まることは禁止である。お巡りさんがスピーカーで絶叫し続けている。沿道には大学の幟を立て、新 聞社の小旗を持ったファンでうずまっていた。3位の早稲田が行き過ぎたが最終区では日体大に抜かれて4位が最終順位である。4位の日体大が行く。 あ とは皆抜きつ抜かれつの混戦状態が続いている。世界にも類のない日本一有名な大会であるが全日本選手権でもなく関東地方の大学にしか出場権が無いので全国の長距離ランナーが関東の大学に集まる。何しろ登山鉄道もスイッチバックをしながら登る天下の険・箱根への往復を走り抜くのである。マラソンの比ではないのかも知れない。日本独特の競技でEkidenは世界共通語になっている。以前からあまりにも有名なこのレースを一度見たいと思っていたが偶然に眼にすることが出来て本当に嬉しかった。
2014.01.09
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横浜中華街正月二日横浜での夕食は定番の中華街に繰り出すことにしてホテルの前のピアから出る海上バスに乗り込んだ。暮れ行く夕景色の港風景を眺めながらの10分間のクルーズはコストパフォーマンスが良い。黄金色の夕空にそびえる角ばった屋根は神奈川県庁、そして鐘楼のような屋根は旧横浜税関いずれもかっては日本の表玄関の象徴的建造物である。海上バスは大桟橋を経て氷川丸が係留されている山下埠頭に着く、ここからかって氷川丸で来日した世界の要人たちが宿泊したニューグランドホテルを経て中華街は目と 鼻の先。途中この寒空に足を丸出しにして厚いコートを羽織った少女たちの長蛇の列、話題のハワイのホットケーキを食べるためだとか、夏なら理解できるがこの寒空、流 行とは恐ろしい。中華街の正月は何時もの賑わい、まずは定番関帝廟に詣でた。三国志でおなじみ勇猛果敢な将軍関羽の廟である。かって中華街の正月風景は道路のいたるところに爆竹の残骸が転がっていて好感が持てなかったが今は爆竹自粛なのだろうか街は綺麗であった。 あの異常な喧騒はなんか侵略された気分になるのは確かで 世界中の中華街で自粛の傾向にあるとは聞いていた。世界中には無数の中国人町があり必ず関羽廟が祀られている。商業の神として崇められているそうだが武将がなぜ商売の神なのだろう。世界中に何千とあるであろう関帝廟に関羽の髪一本収まっているはずもないのだが中国人の崇拝ぶりはすさまじい。夕食として食べ放題の飲茶料理をいただき帰りは暖かい地下鉄でホテルに帰った。
2014.01.08
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みなとみらい観覧車 横浜での家族合宿はみなとみらい地区のホテルで客室は15階、運河一つ隔てた対岸には巨大な観覧車がある。そして運河は日本丸を係留しているドックに繋がっている。いずれも夜になると照明がつく鮮やかに映る。ドックの左側にはコスモワールドと言う遊園地があり、照明された各種の乗り物があるが特に観覧車は巨大でその軸中心の高さが15階にある我々の部屋とほぼ同じ高さである。回転しながら常に変化する虹色の照明に照らされているがこの照明のモチーフは時計である。中央下に時刻のデジタル表示、そして外周の短棒は秒針で60本が順次増加点灯し、1分で一周するまさしく懐中時計の様式である。 部屋の正面は大きな観覧車が窓を塞ぎられ、ちょっと目障りな感がしないでもないがいかにも横浜らしい夜景なので我慢するとして小学生の孫たちは翌日このカプセルを楽しんだことは言うまでもない。
2014.01.07
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横浜港風景いつも書いているが我が家には3人の孫があり、彼らの母方には従兄弟はいない。したがって彼等3人だけが同世代の親族である。その3人とて横浜と静岡住まいで意図して企画しない限り合うこともない。彼ら3人が助け合い、私の死後仏事で会ってもよそよそしくならないためには努力して機会を作り彼等の関係の手入れをしておかなければならない。そこで我が家では財(?)は残さず絆の手入れの費用に充てることにしている。というわけでこの正月も横浜ベイエリアのホテルで合宿をした。15階の部屋からは多くの海の男たちを養成してきた日本丸の係留されている一号ドックが見え、後ろには桜木町駅が見える。下に降りてみると日本丸のドック前は半円形の海洋博物館になっておりその屋上は芝生広場になっている。ここからみると観覧車もさることながらパンパシフィックホテルがそのデザインが意図するように一枚の帆に見える。日本丸マストの後ろに聳えるのは上層階が横浜ロイヤルパークホテルになっているランドマークタワー。60階以上というのは日本一(?)背の高い高いホテルであろう。昨年も横浜に来ているが寒くてとても風が強かったのに比べ、今年は実に穏やかなお正月である。昼間は橋を渡って赤レンガ倉庫地帯に散歩に出た。横浜港は海上保安庁の主要基地でもあり、巡視船がか係留されていた。最近尖閣列島で活躍している巡視船であるが、後発の中国海監の巡視船の船腹デザインがそっくりなのは得意のパクリであろうが、兄弟がしのぎを削っているみたいで滑稽である。今はすっかり商業施設となっている赤レンガ倉庫、函館の倉庫群とともにかってのく港湾倉庫は今やすっかり商店街になっている。多くの避雷針がかってはいかに落雷による火災を恐れていたかを窺わせる。残念ながら巨大客船は居なかったが我が国最大の桟橋・横浜大埠頭の屋上は芝生公園となっていて多くの人影が見える。大型ジェット機の出現で太平洋航路はなくなったが1961年まで横浜・シアトル間を結んでいた氷川丸はそれ以降ここ横浜港・山下埠頭で海上博物館である。一貫して我が国のために尽くしてきた船である、引退後の保存は当然であろう。今は市の有形文化財にもなっている。かっては造船所のドックがひしめいていたところも今は再開発で巨大ホテルや国際会議場・見本市展示場・音楽ホールなどを備えた一大商業施設である。いまは地下鉄も出来、中華街駅から東横線を経て東上線に乗り入れ埼玉県へ、西武戦に乗り入れて秩父方面へ直通である。横浜地下鉄・東横線・地下鉄副都心線、と東上線・西武戦とこんな運行様式はかっては想像もつかなかったことである。倉庫群のある島と本土を結んでいた汽車道は今賑やかなプロムナードになっており、そのわきでは正月仕様の観光船が過ぎて行った。
2014.01.05
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