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動物のなかにも、哺乳類なのに空を飛ぶ仲間がいる。鯨やイルカのように魚のかたちをした哺乳類がいる。 言語でも、そういう見方をしていくと、いろいろ面白いことに気づかされる。 格が発達している言語にはふつう冠詞がない。格のなかでも生格、分格の類が発達しておれば量子の役割を担う冠詞が不要になり、格があることによって語順の自由度が増せば流子としての冠詞が不要になる。 ブルガリア語の例にみるように格変化がやや弱いために、冠詞が残っている言語がある。 ドイツ語が面白いのは、冠詞があって、しかも格変化があることである。英語以上に語順が拘束されてしまうドイツ語に冠詞が発達しているのはわかるが、格変化がある理由はすぐにはわからない。もちろん、格があるといってもわずか4つであり、スラブ諸語の6、フィンランド語の16に比べればはるかに少ない。 もちろん、文法規則のなかにはヒトの盲腸や蛇についている脚の痕跡のようなものがある。英語で動詞の現在形三人称単数につくsなどがそれに当たる。 しかし、ドイツ語の格変化はそういうものであるとは思えない。 トラドキスタンでも、このドイツ語のナゾについては答えを出していない。 その意味でも、オランダ語、北欧諸語との比較ができる人材が必要である。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.31
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さらにそのうえに、冠詞と語順の自由度と格変化の問題がある。 基本的にこのみっつを同時に必要とする言語は存在しない。 冠詞の話をするときに、「英語の」冠詞の話をする人がいる。これは困る。冠詞というものは何も英語の専売特許ではない。冠詞には冠詞に普遍的な機能と、各国語に特有の機能とがある。これをごっちゃにして英語の冠詞の理屈だけで話をされたら困る。 英語では楽器を演奏するとき、楽器の前に定冠詞がつく。もちろん、言いたい内容によっては不定冠詞も無冠詞もありうるが、オーケストラの担当という意味では定冠詞がつく。この点はスペイン語も同じであるが、スポーツになると英語は無冠詞になり、スペイン語ではa+定冠詞のalがつく。詳しい説明は省くとして、文法の規則は違うが、発想としては同じである。オーケストラは全体でひとつであるが、スポーツはそれぞれのスポーツが独立している。 冠詞の機能のうち、文の流れを司る機能だけを取り出すと、語順の自由度や各変化との関係が浮かび上がってくる。 基本的に、語順の制約が大きくなると冠詞が必要になってくる。語順が文法規則によって拘束されると、情報面からみた文の流れを語順に反映させることが困難になる。だれがどんなことをどのように思考しようとも、一定の構造のなかに収めてしまなければならないからだ。 この考えでいくと、英語やフランス語、ドイツ語のように語順に制約のある言語に冠詞があるのは十分に理解できる。 もうひとつ、格変化の問題があって、格が発達している言語は基本的に冠詞を必要としない。スラブ系の言語のように格が発達している言語には冠詞はない。ところが、ブルガリア語には後置冠詞と言われる冠詞が存在する。それもそのはず、ブルガリア語は他のスラブ諸語に比べて格変化が少なくなっている。 では、スペイン語のように語順の自由度が高い言語になぜ冠詞があるか。 日本語も含めて語順が自由になる言語は数多いが、それはいい加減な使い方も含めてのことで、スペイン語の語順が本当にそれほど自由であるのか、実は疑問である。「スペイン語がお上手ですね」をスペイン語で言うと、文法的には理論的に6通りの語順が可能になるが、実際には Habla usted muy bien espnol. しかありえない。何か特別の意味をもたせるのでないかぎり、これしかない。 一見、語順が自由にみえながら、基本的な語順、スペイン語のスペイン語たる語順というものは案外かちっと決まっているのではないかと思う。 そういうこをもっと考えていくためにも、ラテン系の言語をやる人がもっと必要である。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.30
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冠詞のない言語はあっても、冠詞の機能を担うものがない言語は存在しない。 冠詞の問題は、文法の問題ではなく情報伝達上の機能の問題に還元できる。 この問題に明解な答えを出すためには、冠詞のある言語とない言語とを徹底的に比較する必要がある。 さらにそのうえに、冠詞と語順の自由度と格変化の問題がある。 基本的にこのみっつを同時に必要とする言語は存在しない。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.29
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冠詞のある言語、冠詞のない言語(プロジェクト目的2) 上位合格者にやってもらいたいことのひとつは、習得する5言語のなかに冠詞のある言語とない言語とを含めてもらうことである。 冠詞のない言語はあっても、冠詞の機能を担うものがない言語は存在しない。 冠詞の問題は、文法の問題ではなく情報伝達上の機能の問題に還元できる。 この問題に明解な答えを出すためには、冠詞のある言語とない言語とを徹底的に比較する必要がある。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.28
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加野恵プロジェクトの目的(1) 下位合格者には自由に5言語を選んでもらうつもりである。まずは不均衡を是正し、さまざまな言語を少しでもなじみのあるものにするには、それくらいのことをやるしかない。 われわれは、この世界に棲息する動物を何種類も知っている。犬は知っているが、猫は知らないという人はいない。単に存在を知っているだけでなく、およそどのような動物であるかを知っている。 ところが、言語に関しては、どの言語とどの言語が近い関係にあるのかさえ、知らない人が多すぎる。 どういう特権があってのことか、あるひとつの言語だけが病的なまでに尊重され、その言語の理屈で日本語が「裁かれ」、人体改造にも等しい手術を受けさせられている。明らかに、庶民の無知につけこんだ知識人のやりたい放題になっている。 だからこそ、その状況を根本から変えてしまう必要がある。 下位合格者には理屈も何もいらない。ただひたすら、やってもらう。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.26
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「中越逮捕」のつづきです。「海賊版の線は消えても、中越がとんでもないことをやってる可能性がある。中越には実体のない会社がいくつもある。翻訳会社を名乗って翻訳者を募集し、講習会などを開いているが、たとえば、翻訳者にパソコンを持参させて豪訳くんの使い方を説明したあと、別の部屋で4時間ほど講習をしていた事実もある」「すると、その間に豪訳くんのデータを改竄してしまうということですか」「そうだ」 こうして、警察の目はしかるべき方向に向いたように見えた。 ところが、数日後、一部に「中越は愉快犯」の報道が流れた。 川村恵や川村忍がこれを知って激怒したのは言うまでもない。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.23
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第一次選考の結果、150万人の応募者を20万人にしぼりこんだ。 トラドキスタン人は140万人中19万9346人が合格。日本人は10万人中654人。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.22
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10万人の定員に対して150万人の応募があった。うち日本人は10万人。 第一次試験の問題は次のとおり。 日本人が英語ができないのはそもそも英語が必要でないからだ。それなのに、一人平均5言語もできる人材を育成する必要性があるのか。あるとすればその理由は何か。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.20
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トラドキスタンでは、3年間で10万人に延べ50万言語を習得させ、日本国に送り込む。 そのプロジェクトが今始まる。 10万人の定員に対して150万人の応募があった。うち日本人は10万人。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.17
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トラドキスタンでは、3年間で10万人に延べ50万言語を習得させ、日本国に送り込む。 そのプロジェクトが今始まる。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.16
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× 毅然とした、かつ柔軟性のある料金交渉をしていただける方にはプロ意識や頼もしさを感じます これで「毅然とした、」と「柔軟性のある」とを「かつ」によって「料金交渉」につなげようとするのだから、めちゃくちゃである。 どんな文法が頭のなかにあれば、そんなことを考えるようになるのだろうか。 翻訳会社から送ってきたものをそのまま掲載するのではなく、自社できちんとチェックして、おかしな日本語が翻訳者に届かないようにするのが、アメリアの役目なのではあるまいか。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.14
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× ご自身が対応できる、また精通している分野なのかを把握していただく必要があります。(アメリア) こんな文法があると思っているのか。アメリアに翻訳に携わる資格なし。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.13
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トラドキスタン政府は、英語脳、英語脳と騒ぐ日本国を厳しく批判し、これに対抗すべく日本語脳という概念を前面に打ち出す方針を固めた。 何でも「すべての」をつけたがるアナウンサー、こういう人はすでに日本語脳が破壊されているとみてよい。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.12
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加野 碁には石の力学とも言えるようなものがあって、どの石も同じ強さのはずなのに、その配置によって強さに差が生じ、効率よく配置した方が勝つようになっています。 言語もそれと同じで、基本的にはできるだけ少ない労力で、自分が伝達しようとする情報を伝えることができるのがいちばんいいわけですが、そんなことを一から自分で考えるのは不可能です。ですから、これまで先人たちがどのような表現、どのような言い回しを用いてきたかを知らなければなりません。 それが囲碁の定石に相当すると思うのですが、定石というものは覚えて忘れるものだと言われることがあります。 定石なんかいくら覚えても、それだけでは実戦で役に立たないということですね。 だから私は、アマとプロの差は定石の差ではなくて、その定石を超えた何かの差だと思っていたんです。ところが、あるとき「いや、そうじゃなくて、プロの方がアマよりはるかにたくさん定石を知っている」ということを聞いたんです。 質問者6 えっ、どういうことですか。矛盾しますよね。 加野 でも、私はそのことばを聞いて震えました。定石の捉え方が若干違うのではないかとも思えるのですが、そう考えてしまうと面白くないんですね。 アマチュアは数限りなくある定石のうち、よく知られているものだけをいくつか覚えて、それで定石に通じているように思っているんですね。しかも、定石の使い方も中途半端にしか頭に入っていません。当然、実戦では何とかのひとつ覚えみたいに異なる局面で同じ定石を使ってしまう。だからこそ、定石は覚えて忘れろって言われるわけですね。 翻訳でも、私が使わないように指示していた表現とか、この語はこう訳してはいけないと注意を、何度言っても無視する人がいたんで、ある日思い切ってその理由を聞いてみたんです。すると、いけないと言われているのはわかっているんだけど、ほかにいい訳が見つからなかったから、仕方なく使ったと言うんですね。 これを囲碁で考えたらどうなるでしょうか。ある定石を使うのにふさわしくない局面でも、ほかにいい手が思いつかなかったら、とりあえずは知っている定石を使うしかないということになりますよね。 質問者6 なるほど。 加野 もちろん、プロでもどう打ってよいか迷う局面はいくらでもありますが、やはり手持ちの定石が圧倒的に違うので、少々のことであれば、どの定石を選ぶかという選択肢がいくらでもあるんですね。 たとえば、言語でもそうです。 学習者が例文を覚えますよね。会話集には、それらしい場面設定があって、例文がありますが、そんなものをそのまま使える場面なんてめったにないわけです。 この例文、というか、そのうちの情報単位と考えてもいいんですが、そういうものを覚えても意味がないと思う人が多いわけです。 実際に会話ができるようになるには、そういう文の蓄積だけではだめだと思うのでしょうが、蓄積だけではだめということじゃなくて、蓄積が少なすぎるんです。 日本語の文でもそうです。 文章の書ける人というのは、日本語の知識があるだけじゃなくて、たとえば、この問題を論じるときに、この評論家がこんな表現を使って、こういう論法で攻めていたみたいなことがたくさん頭に入っている人と、そういうものがまったくない人とでは、本当は勝負になんかならないんです。 さびしいのか何なのか知りませんが、翻訳ブログのあちこちにちょっかい出しては嫌がられて、最後には捨て台詞を吐いて出ていく人がいますよね。日本語で勝負なんて言ってますが、あの人の文、一目みただけでそういう蓄積がないことがわかります。 日本語は知っていても、囲碁で言えば、古今東西の棋譜にまったく通じていないんですね。だから、文に発展性がない。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.11
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それにしても面白い国があったものである。 事務所の経費に領収書はいらないが、年金を納めた証明には領収書が必要だと言うのだから、下手な漫才よりよっぽど笑える。 その赤城脳薄い相(すみません、単なる変換ミスです)、弁明のことばに「家族、親戚が赤城を応援してやろうと作った、、これらの方々が、、、」と自らの教養のなさを暴露するような表現をまぜていた。 × これらの方々 △ この方々 ○ その方々 要するに、方々で複数であることがわかるのに、わざわざ本来の日本語にない言い回しを用いることはなく、距離感を考えれば、当然「この」ではなくて「その」になるはずだ。 赤城脳薄い相(すみません、変換ミスです)の発言の中身ともども、「これらの方々」という言い回しにも嫌悪感を覚えてくれる人が一人でも増えてくれればと思う。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.10
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「中越逮捕」の続きです。 そこで警察では、豪訳くんを保有している翻訳者に協力を求め、対照作業に入った。 その結果、同じ原文に対しては同じ訳が出てくるはずの豪訳くんから、人によって違う訳が出てくることがわかった。 豪訳くんが明らかに感染している。 そうなると海賊版を出したのではないかという中越の容疑が晴れることになる。「釈放ですか」 そのとき、一人が言った。「海賊版の線は消えても、中越がとんでもないことをやってる可能性がある。中越には実体のない会社がいくつもある。翻訳会社を名乗って翻訳者を募集し、講習会などを開いているが、たとえば、翻訳者にパソコンを持参させて豪訳くんの使い方を説明したあと、別の部屋で4時間ほど講習をしていた事実もある」「すると、その間に豪訳くんのデータを改竄してしまうということですか」「そうだ」 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.09
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「加野恵への質問」の続きです。 質問者6 スポーツよりもむしろ囲碁や将棋に近いという点について、もう少し詳しく説明をお願いしたいんですが、。 加野 私はどちらかと言えば囲碁の方がよくわかるので、囲碁との比較で行きますね。囲碁にはルールというものがあります。これがいわば文法ですね。囲碁のルールは至極簡単で、あまりに簡単すぎて面白みがわからない人が多いほどです。ルールさえわかれば、確かにゲームができるんですが、ルールだけわかっている者同士で碁を打ってもちっとも面白くない。文法だけわかって、それを頼りに文を組み立てても、文が生きていないと感じるのと同じです。 碁には石の力学とも言えるようなものがあって、どの石も同じ強さのはずなのに、その配置によって強さに差が生じ、効率よく配置した方が勝つようになっています。 言語もそれと同じで、基本的にはできるだけ少ない労力で、自分が伝達しようとする情報を伝えることができるのがいちばんいいわけですが、そんなことを一から自分で考えるのは不可能です。ですから、これまで先人たちがどのような表現、どのような言い回しを用いてきたかを知らなければなりません。 それが囲碁の定石に相当すると思うのですが、定石というものは覚えて忘れるものだと言われることがあります。 定石なんかいくら覚えても、それだけでは実戦で役に立たないということですね。 だから私は、アマとプロの差は定石の差ではなくて、その定石を超えた何かの差だと思っていたんです。ところが、あるとき「いや、そうじゃなくて、プロの方がアマよりはるかにたくさん定石を知っている」ということを聞いたんです。 質問者6 えっ、どういうことですか。矛盾しますよね。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.08
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「中越逮捕」の続きです。 警察では、豪訳くんを保有している翻訳者43人を洗い出し、聞き込みを続けていたが、誰一人例外なく正規の販売元から購入していることが判明した。 これは明らかに「豪訳くんを持っている者に翻訳を発注したときに、明らかに本物の内容が改竄(実はよくなっているのだが)されている海賊版を使ったとしか思えない訳文が返ってきた」という翻訳会社側の証言とは食い違っている。 そこで警察では、豪訳くんを保有している翻訳者に協力を求め、対照作業に入った。 その結果、同じ原文に対しては同じ訳が出てくるはずの豪訳くんから、人によって違う訳が出てくることがわかった。 豪訳くんが明らかに感染している。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.07
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× 税額を変更する 住民税が増えたことをいいことに、わざと多めに請求して住民がキがつかなかたらそのままにしようとした自治体があったらしい。 そのことで住民が訴えたときに対応したことばがこれ。 言っとくが、税率はできるが、税額は変更するものではない。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.06
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トラドキスタン政府は久間元防衛相の発言に徹底抗議するとともに、日本政府の対応を厳しく非難した。 あの発言は断じて許されるものではないが、あれは失言というより「必然」である。久間氏は長崎の原爆投下が明らかにアメリカの駄目押しであると言っている。もはや日本の降伏が決定的となった段階で、ソ連の参戦を回避するために徒に何万という命を奪ったことは断じて許すことのできないものである。 そこまでは久間防衛相はけっして間違ったこと、不適切なことを言ってはいない。 日本国は今までそのアメリカの罪悪をいったいどれだけ追及してきたか。 あれだけのことをされながら、わずか数年で友好国になりさがり、自主的植民地になりさがった。こんな恥知らずな国は、人類の長い歴史のなかで日本国を除いてほかにない。中国が日本に向けているような理不尽な憎しみを持てとは言わないが、アメリカは絶対に許さないという人間がもっともっといてもいいはずだ。 久間元防衛相はそのアメリカの罪悪に言及してしまった。 これまでの日本がアメリカに対してもっと毅然とした態度をとれる国であったなら、「しょうがない」などという歯切れの悪い言い方で、アメリカへの矛先をごまかしてしまうことなどなかったはずだ。 もともと現代文明の実験の場として誕生し、自らの価値観を他国に押し付け、地球が50個あっても足りないほどエネルギーを消費する生活を「豊か」と称して大々的に掲げてきた国。ソ連参戦を回避しようとしたのも、その自らの価値観のためだし、それが共産圏の拡大阻止を大義名分にしたベトナム戦争へと続いていく。 結局はみつからなかった大量兵器の存在を根拠に、イラクで罪のない人々を死に追いやったことは記憶に新しい。 そんなアメリカと馴れ合いをやってきた日本国に、久間発言を非難する資格はない。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.05
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「加野恵への質問」のつづきです。 質問者9 加野さんはたとえば、ヨーロッパの言語を学ばれるときに、言語間距離のハンディを感じられたことはありますか。 加野 ありません。 質問者9 具体的には 加野 具体的にというか、英語の母語話者にとってフランス語が1ならスペイン語も1のはずです。さらにフランス語とスペイン語との間の距離はもっと小さくなります。0.5とか0.3とかになるはずです。 まず、英語の母語話者ですが、聞くとスペイン語を5年やっていたとか、3年やっていたとかいう者が多かったですが、特にできるわけではなかったですね。学習歴の浅いアメリカ人なんかは前置詞がからきしダメですね。英語の前置詞をそのまま機械的に置き換えようとしますから、当然うまくいきません。 ただ一人、お母さんがコロンビア人だという子がいまして、たとえば友好的なというのはamigableと言ったりして、スペインではそうは言わず、amistosoと言うとか、そういうことを常にスペイン人から言われていましたね。ふつうの話なら負けないと思っていましたが、あるとき、その人が「これがこうで、あれがああなって、それで、これがこうなると、ああで、こうで、」なんてことを早口でまくしたてたことがありました。そういうのはやはりかなわないなあって思いました。語学で生きていくのにはまったく無意味なことですが、、。 あと、スイスやベルギーのようにフランス語が公用語になっている地域の人たちはやはりよくできましたね。言語間距離よりもむしろ、国が力を入れて教育しているというようなことの方が大きいですね。 質問者9 加野さんが言語間距離をあまり感じなかったというのは、スペイン語なり何かひとつを身につけてしまったからではないのですか。いったん身につけてしまえば、あとはスペイン語からの言語間距離だけが問題になるんじゃないのですか。 加野 そういうことはあるでしょうが、私は言語間距離が問題になるのは了解段階までで、応用段階から以降は言語間距離は関係ないのではないかと思っているんです。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.04
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「加野恵への質問」の続きです。 加野 それはすでに申し上げたはずです。これまで学校で応用段階と思われていることが実はせいぜい了解段階の確認でしかないということがわかれば、答えは自ずから出るはずです。知識段階でも、言語間距離になやまされることは多いと思いますが、言語の学習では、次から次へと「信じたくない現実」に遭遇します。 質問者6 信じたくない現実ですか。 加野 そうです。人間には受け入れたくない現実というものあります。たとえば、最愛の子を失ったりしたときに、その現実を受け入れられない人がいます。自分の子は本当は死んではいなくて、遠くに行っているだけだと思いこもうとします。 子どもが友だちをいじめたと言われたときも、それを受け入れられない親がいます。本当はいじめられた子が何かもっと悪いことをしていて、自分の子はただ自身を守ろうとしたにすぎないのだと思いこもうとします。 言語の学習でも、今まで聞いたことのない文法や複雑な変化を教えられたりすると、自分がせっかくもっと手っ取り早く身につけようと思っていたのに、それが裏切られた気持ちになります。 フランス語なんかでは、否定のときに ne と pas で動詞をはさみます。これに抵抗を示す人は多いでしょう。さらに、リエゾンなど、やっかいなことが次々に出てきます。そうすると、学習者はフランス語の文法そのものが「おかしい」とまで考えてしまいます。もっとやさしいものだったら、もっと簡単に覚えられるのに、なんて思います。 フランス語もイタリア語もスペイン語も、動詞の活用がかなり複雑です。そうすると、なんとか原形だけを使っても通じないだろうかなんて不埒なことを考える人が出てきます。スペイン語だと、tener「もっている」という動詞がtengo、tienes、tieneというように活用しますから、これをなんとか、私tener、あの人tenerというふうに使えないかと思う人が出てきます。 その間は学習が止まってしまいます。 言語間距離のために時間がかかるというのは、案外この部分が大きいのではないかと思います。 ただし、この了解段階を乗り切ると、あとは要するに覚えるだけです。応用段階というのは、基本的には文法のことが意識にのぼってはいけない段階です。この情報を伝えたいときにはこの表現、この情報ならこの表現というように、情報と表現が1対1で対応するようになれば、もはや言語間距離は関係ありません。ところが、いざ情報を伝達しようとする段階になって、たとえば、上だから前置詞はこれ、それに冠詞をつけてなんて考えていると、いつまでたっても言語間距離が尾を引いてしまいます。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.03
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「加野恵への質問」の続きです。 質問者4 すみません。もう一度、前に戻って、言語間距離の問題でおうかがいしたいのですが、よろしいでしょうか。 加野 はい、どうぞ。 質問者4 学習段階のことが話題にのぼりましが、知識段階、了解段階、応用段階ときたときに、言語間距離が問題になるのは、どの段階まででしょうか。 私にはどうも、応用段階に入った時点では言語間距離の問題は消えていると思うのですか。 加野 まさにおっしゃる通りです。 質問者6 ええ、どうしてですか。応用しようと思ったときに、複雑な文法が絡んでくると、当然言語間距離が問題になると思うのですが、、。 加野 それはすでに申し上げたはずです。これまで学校で応用段階と思われていることが実はせいぜい了解段階の確認でしかないということがわかれば、答えは自ずから出るはずです。知識段階でも、言語間距離になやまされることは多いと思いますが、言語の学習では、次から次へと「信じたくない現実」に遭遇します。 質問者6 信じたくない現実ですか。 加野 そうです。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.03
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「加野恵への質問」のつづきです。 質問者6 さきほどの茂木さんの著書ですが、言語はスポーツ同じってことが書いてあります。これは加野さんが常々主張してきたことと同じだと思うんですが、茂木さんは面白いことを言ってます。 道で英語で話しかけられ、あたふたするだけで何もできない。いったい学校で習ったことは何だったんだと思う。そんなことはテニスで考えてみれば、当たり前のことで、あれだけテニスについて勉強したのに、いざコートに立ったら何もできないのと同じこと。そこで愕然とする方がおかしい。そういうことが書いてあります。 そのスポーツと同じという考え方と、学習段階の考え方とをひとつにするというか、そういうことが可能でしょうか。 加野 学習段階の考え方からいうと、スポーツほど上達するのにこの学習段階の考え方が必要になるものはありません。もちろん、楽器の演奏なんかもそうでしょうし、理解しただけでダメというものは全部そうでしょうね。 質問者6 語学とスポーツがまったく同じであるとすれば、加野さんが現地滞在の利点を低く評価していることと矛盾するのではないでしょうか。 加野 まったく同じではあません。スポーツの方が言語よりもはるかに場慣れが必要で、実線が重要な意味をもつものです。 スポーツは勝負ですから、相手は必ずこちらをやっつけにきます。 でも、言語は必ずしもそうではありません。助け舟を出してくれることもありますし、 質問者6 なるほど。では、スポーツよりも言語に近いものってあるでしょうか。 加野 私はむしろ、囲碁や将棋の方が近いのではないかと思います。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.02
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患者の心を蝕んだカタカナ10傑 第1位 ハッピー 第2位 ゲットする 第3位 シビアな 第4位 エンジョイする 第5位 サポート 第6位 ヘルシー (順位は暫定順位です) ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.02
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英語など必要ない「文科省が英語を壊す」 p.50 その部分が町中に貼られている。 英語など必要ない。 とうとう何かが動き出した。 来るべきときがきた。 英語英語と騒ぐバカな連中が襲われる日が。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.01
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「加野恵への質問」のつづきです。 質問者一同 それがつまり、学校で6年間英語をやっても話せるようにならない理由ですか。 加野 そうです。それと同時に学校でみっちり英語を勉強した者をしかるべき方法で訓練するとすぐに上達する理由でもあります。了解段階までをほぼ終了していますから、すぐに応用に入っていけます。ところが、知識段階や了解段階を終えていない者に、話せることが大事と言って、いくら会話学校に通わせても上達しないのは当たり前なのです。 質問者7 それが茂木弘道さんが「文科省が英語を壊す」(中公新書ラクレ)のなかで主張していることなのですね。 加野 そうです。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.01
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居酒屋「ホットケ」のつづきです。 マグマは必ず噴火する。 何とか英語をモノにしてのしあがろうとしている連中も、そういうことにうすうす気づきつつある。 だから、黒にとっては、二重の危惧がある。ひとつは、このまま英語を学習する環境が維持できるかどうか。もうひとつは、自分たちがやがて暴徒の餌食になる不安。 そこまで語っても、猿越の言うことはただ現状を分析しているだけで、猿越自身は白とも黒ともとられることはなかった。 ここに至って、英語の苦手な連中が両極分解を始めている。 ひとつは、英語は苦手だけれども賢いやつら。英語は苦手だけれども、仕事のできるやつら。日本人に英語なんかそもそも必要でないことをはっきり認識するに至っている。 インドやエチオピアの例を見るまでもなく、英語を身につけたから潤ったのではなく、裕福な家庭に育ったから英語を身につける機会に恵まれただけのことである。 英語を身につけなければ乗り遅れると必至になって英語を身につけようとする連中に巻き込まれて、苦痛以外の何物でもない勉強、しかもけっして報われることのない勉強をさせられる。 何か特別な能力のある者たちでさえ、英語というたかが外国語にすぎないものの学習に時間をとられたくないと思っている。当たり前だ。研究者にとって本当の勝負はあくまで研究であって英語ではない。 まして、それほど優れた能力を持ち合わせていない者が、この社会で生きていくためにするべきことは何か。少しでもいいから他人にはない技術を身につけることだ。それを、英語英語と騒がれたのでは、時間を奪われ、自信を奪われ、そのあまりの苦痛に肝心のものを身につける意欲さえそがれてしまう。 そうならないためには、いわゆる黒の連中をやっつけるしかない。英会話学校を封鎖し、英語さえできればいいと思っている連中を孤立させるのだ。 もうひとつは、それでもなお、英語を身につけ「勝ち組」に残ろうとする愚かな連中である。その者たちも、自分たちが英語を勉強することがやがて命がけになることを悟り始めている。 いわゆる黒と白との間で、内乱が起きる。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.07.01
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