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「加野恵への質問」の続きです。 質問者4 しかし、練習問題は必要なんじゃないでしょうか。 加野 もちろん、必要です。でも、それは別の意味でです。 質問者4 別の意味でですか。といいますと、、。 加野 何事にも学習段階というものがあります。言語の学習では、これから学習する言語がどういう言語であるかを知らなければなりません。それが知識段階です。ところが、みなさん、語学学習でよく遭遇すると思うのですが「ええ、なんでそんな回りくどい言い方をしないといけないの」とか、「なぜ、その意味を表現するのに、そんな言い方をしないといけないの」とか、「なぜ、これがその意味になるの」などという疑問をもつはずです。疑問なんかじゃなくて、時には腹立たしい思いにかられることもあります。でも、この言語はこうなんだと納得しないことには、いつまでたっても次に進めません。これが了解段階です。 質問者4 それで練習問題が応用段階に相当するのではないのですか。 加野 違います。学校でやる練習問題というのは、知識段階、了解段階がきちんと身についているかを確認するということであって、応用することにはなりません。文法を覚えて、いくつか単語が与えられて、しかるべき文を組み立てさせるということは、単にこれまで教えたことをしっかり覚えているかどうかを確認するだけのことで、応用からは程遠いものです。そんなことをやっていると、文法知識を活用して文を組み立てる練習をすることが、語学力の向上につながると思いこんでしまいます。とんでもない勘違いです。生徒だけならともかく、教える側も勘違いしているから困るのです。 質問者一同 それがつまり、学校で6年間英語をやっても話せるようにならない理由ですか。 加野 そうです。それと同時に学校でみっちり英語を勉強した者をしかるべき方法で訓練するとすぐに上達する理由でもあります。了解段階までをほぼ終了していますから、すぐに応用に入っていけます。ところが、知識段階や了解段階を終えていない者に、話せることが大事と言って、いくら会話学校に通わせても上達しないのは当たり前なのです。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.30
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「加野恵への質問」の続きです。 質問者4 言語間距離を克服するということは、ある意味、これまでの学習方法の誤りを指摘することでもあるのですね。 加野 誤りと言っていいかどうかわかりませんが、これまでの方法より一段階先に進めることは確かだと思いますね。 今、およそ世の中のどの語学の授業を見ても、過去形の「作り方」や、複数形の「作り方」を教えますね。そんな作り方などあるわけないんですね。 質問者4 ない、んですか。 加野 そうです。ありません。過去形にせよ、複数形にせよ、すでに存在するもので、新たに作るものではありません。 質問者5 それは詭弁ではありませんか。 加野 詭弁こそが語学上達の道です。 質問者5 ・・・・・・・ 加野 ちょっとした捉え方の違いで、成果に大きな差が出ます。数学と違って数式を覚えたら、そこに代入するだけで何もかも答えが出るようなものじゃないんです。さきほどのrelazione だと( )relazion( ) estern( ) のような姑息な問題を出して、括弧のなかに冠詞や語尾を入れさせる問題がありますが、これから私がまた新たに何か言語を習うときは、そういうものをいっさい拒否しようと思います。そういうことは考える意味のないことです。決まっているものを考えてもしようがないんです。そんなことを考える暇があったら、実際の文のなかで具体的にどう使われているかを見て、聴いて、どんどん頭に入れていく方がいいに決まっています。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.30
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トラドキスタンでは学歴はまったく意味をもちません。 このため、大阪市のような学歴詐称の問題は起こりません。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.29
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「加野恵への質問」の続きです。 質問者3 文の蓄積というのは、非常に面白いですね。もしかすると、言語間距離の問題を克服する糸口が見つかるのではないかと思いますが、その点はどうなんでしょうか。 加野 ほかの方のために説明させていただきますと、言語間距離というのは、母語と学習しようとする言語とがどれだけ違うかということですね。英語の母語話者がフランス語を習得するのに必要とする時間を1とすると、ロシア語3、日本語10などと言われています。 質問者4 英語から見てロシア語が3なら、日本語とロシア語との言語間距離はどうなりますか。7ですか。 質問者3 ロシア語が日本語から見て英語のまだ向こう側にあるとすれば13になりますね。それも足し算ですめばの話で、掛け算なら30になります。 加野 でも、本当にそうなんでしょうか。文法を機軸にするとそうなりますが、情報を機軸にすると、事態が変わってきます。 たとえば、スペイン語では基本的にsをつければ複数形になりますが、イタリア語では最後の母音が変化します。基本的にoで終わる男性名詞はiに、aで終わる女性名詞はeになります。それで終わればいいのですが、eで終わる名詞のなかには男性も女性もあって、複数はiになります。これに形容詞がかかるとやっかいなことになって、名詞の語尾は同じiでも、形容詞の語尾は男性の場合にはi、女性の場合にはeになります。 もちろん、ここでは単純化して話をしてますので、それだけですむわけではありません。仮にこれで全部だとしても、スペイン語では名詞と形容詞を並べて話すとき、 o o、a a、os os、as asというリズムでほぼ間に合います。ところが、イタリア語だと、o o、a aにi i、e e、e iなどが加わって、話すときのリズムがつかみにくくなります。 la nuova campagna pubblicitariaのようなものだと、新たな売り出し作戦くらいの意味ですが、aが全部eに変わってle nuove campagne pubblicitarieですみます。これがたとえば、la relazione esterna商売の話だと外回りくらいの感じですが、a e a になっているのが、le relazioni esterneと e i eになります。こういうものを、話しているときに瞬間頭で考えて判断するのは神業に近いことです。 質問者4 そうすると、少なくともその点だけをとれば、イタリア語の方が日本語から見てスペイン語より遠い位置にあるということになりますね。 加野 そういうことになりますね。それが私にとっても大きな壁になりました。文法から攻めていくと、どこまでいってもそういう問題がつきまといます。relazioneという名詞と esterno という形容詞を知っていて、女性だから冠詞がla、形容詞はesternaになって、複数になったら、冠詞がleでrelazioneはeで終わっているからrelazioniになって、さらにesternaは女性複数に合わせるとesterneになるなんて考えていたら、とてもじゃないけど、肝心の情報伝達をしないといけない段になって、容量が残っていないなんてことになります。その証拠に、13ヵ国対訳文をブログに発表している人がいますが、文法はまちがいだらけで、母語話者がけっして使わない語法はまあいいとして、意味をなさない言い回しが多いですね。 文の蓄積というのは、基本的には、こういう名詞と形容詞がひとつになったもの、もちろん冠詞がいる場合には冠詞も含めて、le relazioni esterneという情報単位が頭に入っていなければいけないということです。 いざ情報伝達をしようとする現場に臨んで、文法のことを考えないといけないということ自体、おかしいんです。文法というものは無意識の領域に沈めてしまわないといけない。 手持ちのカードが何枚もあって、そのなかからどのカードをどこでどう切るかが会話であり、情報伝達であるわけで、その場に及んで一からカードを作っているようでは、情報伝達なんかおぼつかないですよ。 質問者3 つまり、そこに言語間距離の問題を克服するヒントがあるというんですね。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.28
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「英語力は幻想」を証明できるか。 トラドキスタンの学生村で、1日かぎりの面白い講座があった。「英語力は幻想」を証明しようとする試みである。 もちろん、英語力が幻想であることくらい、トラドキスタンではとっくの昔から常識になっている。翻訳をするにも会話が上手になるにもである。 柱となるのは、次の5つ。この5つがあれば、外国語は読み解ける。だから翻訳はできる。読み解いてなお自らの武器にすることができる。だから、会話もできる。 ・母語の力 ・(母語での)思考力・言語の本質の理解・基礎知識・ごく初歩の専門知識 多剤耐性菌が増えているという話の流れで、次のような文があった。 (前略)20% were resistant to any three classes of drugs from among the following: β-lactams, macrolides, tetracyclines, phenicols, folate-pathway inhibitors and quinolones. このresistant to any three classes of drugsの部分、(少なくともお金をもらって翻訳をしたことがあるという意味での)プロがほぼ半数を占める数十人のうち、正しく解釈して訳文に反映させることができたのはただの一人だった。英語圏の大学を卒業した者もいれば、半年から数年の語学留学をした者もいる。アメリカの高校に通った者もいる。 もちろん、「20%がいずれの3クラスの薬剤にも耐性を示した」や「20%がいずれか3クラスの薬剤に耐性を示した」ではない。「20%が、~のうちどの3クラスの薬剤を選んで併用しても耐性を示した」でないと意味がわからない。「どの3剤併用にも耐性を示した」でもいいし、「どの3剤にも耐性を示した」でも、意味を理解していることはわかる。ただし、「どの3クラスの薬剤にも耐性を示した」は不可。 では、これから証明に入る。 まず、内容の点で、それほど専門性の高いものではない。したがって、専門知識がないためにできなかったという理屈は成り立たない。the followingのあとはどれも薬剤名、複数になっているから、それぞれグループをなしており、そのグループをクラスと呼んでいることがわかる。:の前はresistantを除けば、どれも易しい単語ばかり。しかも、any three classesが「どの3つのクラスにも」となるくらいの英語の知識はだれでも持っている。辞書を引けば、それくらいの説明は書いてある。トラドキスタンでは英語力は幻想であることが常識になっているが、ここで、仮に英語力というものが存在すると仮定してみよう。すると、any three classesがわからなかったのであるから、英語力が相当お粗末であることになる。どれほどお粗末かというと、中学1年の英語がわからないほどのレベルである。そのレベルでアメリカの高校が卒業でき、英語圏の大学が卒業できるとは到底考えられない。さらにそれ以上に、そのレベルにしかない者の半数以上がお金をもらって翻訳の仕事ができるとは考えがたい。ここで、any three classes of drugsが「どの3剤にも」ならよくて、「どの3つのクラスの薬剤にも」がダメだと言うのであれば、classを訳出しようとした者がバカを見る。しかも、「クラス」を使うのであれば「どの3つのクラスの薬剤を選んで併用しても」くらいにしないと意味がわからない。この理屈がそっくりそのまま英語の理屈だと言うのであれば、なるほど英語力というものは存在しよう。 だが、これはどう見ても、日本語のなかで起きている不思議な現象であるとしか考えられない。日本語のなかでひとつことばをいじっただけで、ひとつ足したり引いたりするだけで、全体が担う情報がころころ変化する。この文を訳した数十人はその変化についていけなかったと考える方が自然である。別のことばで表現すると、英語と日本語との間の関係、言語の本質というものが今ひとつ体で理解できていなかったと言える。 だからこそ、母語の力、言語の本質の理解が必要なのである。 さらに、基礎知識、ごく初歩の専門知識はすでにあるのだから、あとは、思考力の問題だけが残る。 多剤耐性菌が増えているという記述があって、6クラスの薬剤名が書いてある。 そのなかから(from among)、any three classes of drugsに耐性を示すと書いてあるのだから、6クラスのなかから、どの3クラスを選んでみてもというくらいのところに落ち着くはずである。あとは多剤併用、3剤併用などという慣用的な言い回しがあるのだから、「どの3剤にも耐性を示す」と書いておけば、まさに「6クラスの薬剤のなかからどの3クラスの薬剤を選んでみても」という意味になる。ここで「いずれの3つのクラスの薬剤にも」などとすると、とたんにその意味が消えてしまう。 この問題を解決するのは思考力をおいてほかになく、仮に英語力なるものが存在したとして、それをどこまで鍛え上げてみても、ここではまったく無力であることがわかるはずである。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.28
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× 領収証などは乗車券ではありません。これらをお持ちでも、乗車券を紛失された場合にはもう一度乗車券をお買い上げいただくことになります。(JR) ○ 領収証などは乗車券ではありません。乗車券を紛失された場合にはもう一度乗車券をお買い上げいただくことになります。 まるで、「これら」を使いたいがために無理やり作ったような文である。「これら」という日本語はないのはもちろん、これ、それ、あれが担う遠近感までおかしくなっている。ちょっとくだけた言い方をすれば、「こういうものをお持ちでも」ではなく、「そういうものをお持ちでも」になるはず。いや、そうしかならないはず。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.27
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崎陽軒のシウマイは昭和三年の誕生以来、長きにわたり多くの皆様にご愛用をいただいております。 おいしさの秘密は、良質の国産豚肉とオホーツク海の帆立貝柱を塩、砂糖、胡椒の他は調味料を一切使わず、素材の旨みを活かし大切に仕上げているところにあります。 素材の旨みがぎっしり詰まった崎陽軒のシウマイをお召し上がりください。 突然、いったい何をと思われるかもしれないが、新幹線の売り場でシウマイを買ったさい、外箱に書いてあった日本語がいたく気にいったので、ここに転載させていただいた次第である。 何が気にいったか。 最初から最後まで、まったくの「自然体」で書かれていることだ。 人目を引くために、効果的な手段を用いるのはもちろんかまわないけれども、近頃は何が自然体で、何が効果体かがわかっていない人が多い。 効果を狙ってもいない文なのに、やたらに連体形のあとに「、」を打ちたがる者がいる。どんどんどんどん連体形を積み重ねる者がいる。変に他人のまねをして下手な翻訳まがいの日本語を書きたがる者がいる。 この文にはそうしたものがいっさいない。 これだけ力みのない文は、実はそう簡単に書けるものではない。「帆立貝柱を塩、砂糖、胡椒の他は調味料を一切使わず、」も、今の似非学者らはなまじっか表面だけ西洋の言語をかじっているものだから、意味の切れ目を構造的にわかりやすくしようと無用な工夫をする。「帆立貝柱を、塩・砂糖・胡椒の他は調味料を一切使わず、」 バカじゃないかと思う。「を」は何のために「お」ではなく「を」と書くのか。「、」などなくても「を」があれば切れ目はわかる。塩、砂糖、胡椒はどれも調味料だから、元の文の句読点の打ち方で意味の理解にまったく支障はない。 さらに似非学者の病が高じると、「塩・砂糖・胡椒を除くすべての調味料を使わず」などという「ふざけた」文を書くようになる。 こういう人にはつける薬がない。 崎陽軒のシウマイでも食べながら、料理も文も自然がいちばんであることを噛みしめてもらうほかない。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.26
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こうして、いよいよ猿越の独壇場になる。 学校のカリキュラムはみな、できるやつらの都合、国の都合に合わせて作られている。そいつら以外はただただお付き合いをさせられる。とんだ迷惑だ。わけのわからないことを聞くために机に座らされている。 その意味でも、数学や物理ってのは、ごくごくふつうの人間にはものすごく迷惑なものだ。だけど、何べんも言うように、日常生活で、こいつは数学のできないやつ、物理のできないやつという烙印を押される心配はない。 数学や物理のできる人間がビルを建ててくれて、そんなビルが立ち並ぶところで生活すればすむようになっている。 数学や物理ってのは、だれかができれば、それで世の中が回っていく。いったん、ビルが建てば、物理のわからない人間だから、その中に入らせてもらえないなんてことは絶対にない。 学校時代だけ、劣等感にさいなまれ、わけのわからない授業を聞かされるのを我慢すればそれですむ。 ところが、英語はそうはいかん。 数学や物理は、学校にいる間だけの地獄ですむ。 ところが、英語の地獄は生涯つきまとう。 会社に入っても、英語のできが出世の目安だなどと言われる。痘溢苦で何点とらないと、どうだこうだと言われる。むりやり勉強させられ、試験を受けさされる。しかし、実際には仕事ができてはじめてそういうものが意味をもつから、仕事のできない人間にとっては、けっして報われることがない。報われないのにムリヤリやらされる。やらないと乗り遅れるように思わされる。 学校時代で終わる地獄とちがって、えんえんと続く地獄だ。 そういうことを吹聴する人間がいるかいないかはわからないが、やつらだってバカじゃない。バカじゃないというか、動物的な勘は学者やマスコミなんかとは比べ物にならない。バカなマスコミがいくら英語、英語と騒ぎ立てたって、わかるやつにはわかる。このままいけば、一生続く地獄が来ることが、、。 そういう恐怖、好きでもなく、報われることもないものを一生強いられることへの鬱憤。この国の地下に今、その鬱憤がマグマのように蓄積されつつある。 マグマは必ず噴火する。 何とか英語をモノにしてのしあがろうとしている連中も、そういうことにうすうす気づきつつある。 だから、黒にとっては、二重の危惧がある。ひとつは、このまま英語を学習する環境が維持できるかどうか。もうひとつは、自分たちがやがて暴徒の餌食になる不安。 そこまで語っても、猿越の言うことはただ現状を分析しているだけで、猿越自身は白とも黒ともとられることはなかった。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.25
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三寺、白草、猿越らが集まる居酒屋「ホットケ」では、三寺の弁舌がますます冴えてきた。「楽しく英語を勉強できます。楽しくなきゃ英語じゃない。英語ってこんなに楽しかったの。楽しくなけりゃあ続かない。なあ、英語について書いてあることはみんなこんなのばっかりだ。どれもこれも、ずいぶん間抜けな科白だとは思わないか。これじゃあまるでわざわざ『英語は楽しいものではありません』と告白しているようなものだ。その証拠に、「英語」の部分をテニスやバドミントン、サッカーや野球に置き換えてみるとよい。そんな思いで、テニスやバドミントン、サッカーや野球をやる人はいない」 そういう科白を聞きたくて集まってくる客も増えてきた。 テーブルを叩いて喜ぶ者も、腹をかかえて笑い転げる者もいる。「英語を楽しく学ぶためのゲームが人気だそうだが、そもそも英語そのものが楽しいゲームなら、そんなゲームが飛ぶように売れるわけがない」 拍手が起きる。 猿越の登場となる。「要するに、格差がいかんとか何とか言うが、その格差こそが社会を変革するエネルギーの源泉じゃないのか。それに、格差より怖ろしいのが、その格差を縮めるために学習を強要されることへの憤りだ」 なかでも、数学や物理。国の科学技術を支えるために、ごく一握りの人間だけは思い切りできる必要がある。学校のカリキュラムはみな、そいつらに合わせて作られている。そいつら以外はただただお付き合いをさせられる。とんだ迷惑だ。わけのわからないことを聞くために机に座らされている。格差はあってもいい。それよりも、自分ができることだけを確実に身につけ、あとは面白おかしく人生を過ごす方がいいに決まっている。 ただ、数学や物理が救われるのは、日常的に数学や物理の力の差が露になることがほとんどない。 道を歩いていて、「すみません、三平方の定理教えていただけるでしょうか」なんて訊かれることは絶対にない。 英語はそれがあるから厄介なんだ。「だからこそ、英語が必要なんじゃないんですか」 そうそう、それ。そういうように思えるからこそ、厄介なんだ。 そこにビルがある。耐震性が十分かどうか、できるやつだけがわかっていればいい。本当は英語だってそうなんだ。「だけど、外人に道を訊かれたりしたら、」 そんなもの、日本に来るなら来るで、ちゃんと日本語を勉強してこいと一蹴してやればよい。「でも、それで日本の評判が悪くなったら」 ほう、妙なことを言うやつだなあ。道にたばこを捨てるときには、他人の迷惑を考えないくせに、そういうときだけ、自分のことじゃなくて全体のことを考えるのか。まったく、踊らされてるよ。洗脳されてるよ。 一億総催眠ってやつだな。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.25
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「加野恵への質問」のつづきです。 質問者2 すみません、割り込んで。それに関してうかがいたいのですが、加野さんはそうやってイタリア語も話せるようになったということですが、それを20年間放っておいて、話す力もかなり落ちているとご自身でもおっしゃっていますが、今再び、かつての自分を超えることができると思われる根拠はどこにあるんでしょうか。 加野 スペイン語ができて、イタリア語の特徴がある程度わかると、単純に単語を置き換えるだけでしゃべれてしまうんです。もちろん、いわゆるfalsos amigos、発音がそっくりでまったく別の意味になる単語などを心得ておく必要がありますが、そういう問題をある程度克服すれば、それなりに用を足せるようになるんです。ですが、ことばというものは、パズルでもなければゲームでもありません。そんなことができるようになったところで、それはそれだけのことです。 イタリア語の文そのものの蓄積があまりない人間が、単純な置き換えによって話せてしまうのは、やはり一種のまやかしです。もちろん、ちょっと旅行したりするにはそれで何とかなりますが、本当にイタリア語で話をし、イタリア語で議論するには、イタリア語の文の蓄積が必要です。スペイン語やフランス語からの類推でその場しのぎをしていては、やはり押しが利きません。 スペイン語には圧倒的な自信がありました。相手がスペイン語を母語としない人間だと、文法的な間違いや語法の間違い、スペイン人なら絶対言わない言い方だとか、そういうことが手に取るようにわかりますが、イタリア語ではそれができません。今は話せていても、今言いたいことは言えても、次に言いたいことが本当に言えるかどうか、いつも不安になります。イタリア語文の蓄積がないからです。 日本人は間違っていても何でも、とにかく思ったことを口にすることが大切だと言いますが、それはあくまで話すコツというか、自分の知識をいかに動員する方法というか、そういうものを身につけるには重要なことですが、そんなものはヨーロッパの人たちなら当たり前のように身につけていることです。問題はもっとずっと先にあります。 20年間放っておいて思うのは、意外に落ちないということです。ある意味、自転車と同じです。いや、アイススケートくらいですかね。 そういう意味で、イタリア語の文の蓄積がほとんどなくて、コツだけでしゃべってきた私が、これからイタリア語の文を蓄積すれば、どんなことができるようになるか、実はとても楽しみになってきたんです。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.25
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× 現在の生活は、さまざまな「技能」と「気持ち」に支えられている。これらは、就職した直後には皆無といってよかった。 第一に、日本語には双数というものがある。ふたつのものを「これら」で受けてもピンとこないのが母語話者の感覚。 第二に、技能や気持ちなど、つかみどころのないものを複数で受ける意味がない。 もちろん、それよりも何よりも日本語に「これら」はいらない。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.24
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「加野恵への質問」のつづきです。 質問者 なるほど、一見現地滞在が有利にみえることも、分析というか分けて考えてみると、日本でやってたことが役に立ってて、それがあるからこそ、現地滞在が生きてくるということですね。どうも、一般の人が考えていることとは、悩みが違うという気がするのですが、、。 加野 悩みが違う、のですか。 質問者 そうです。一般の人は、なんというか、頭でわかってるんだけど、口がついてこないというところで、悩んでいるではないかと思います。本当はもう少し手前、頭と口とをつなぐ回路でしょうけど、。それにひきかえ、加野さんは、そういうところを飛び越えてしまっている。たとえば、フランス語はともかく、イタリア語なんか、基本的にはイタリア語そのものを知らなくて、というか、一部は知っておられたんでしょうけど、スペイン語はこうだから、イタリア語はたぶんこうだろうって考えてしゃべって、それで直してもらって身につけている。つまり、加野さんのなかでは日本人がかかえている問題は終わっていると思うんです。でも、そういうことってのは、ヨーロッパの人間同士の間では、みんなごく当たり前にやってることで、そんなこと、ほとんど値打ちのないことだってわかってるわけで、本当の問題はそのずっと先にあるわけですよね。 質問者2 すみません、割り込んで。それに関してうかがいたいのですが、加野さんはそうやってイタリア語も話せるようになったということですが、それを20年間放っておいて、話す力もかなり落ちているとご自身でもおっしゃっていますが、今再び、かつての自分を超えることができると思われる根拠はどこにあるんでしょうか。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.24
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「加野恵への質問」のつづきです。 質問者 加野さんは現地滞在にむしろ不利な条件が多いとおっしゃいますが、本当にそうお考えですか。 加野 ご質問が抽象的すぎてお答えしにくいのですが、村長がおっしゃいましたように、時間的にはすごく有利な面があります。自分の時間を丸ごと勉強に使えますから。でも、今は知りませんけど、私の時代はやはり「貧乏留学」でしたから、お金がありません。いったん自分の部屋に戻ってしまったら、ラジオも聴けません。 なんというか、練習の機会は多くても、きっちりと身につける機会がなのです。 質問者 その部分をもう少し、詳しくお聞かせ願えませんか。 加野 そうでうね。現地にいると、とにかく自分のいいたいことを言わなければ生活できませんから、まちがっていようがとにかく口にするわけですね。それが通じてしまうと、本当にそれでいいのか、もっときちんとした言い方があるのか、わからずじまいになってしまいますね。10年も20年もいると、そのうちにわかるようになるんでしょうけど、いずれにしても時間がかかります。 スペイン語の場合には幸い、日本にいるときに、本でかなりの勉強をしていましたから、ある程度の表現、少なくとも、学者先生が母語話者と相談しながら作った文、母語話者に目を通してもらった文が頭に入っていましたから、いつでもその表現を土台にして、応用していくことができます。 会話の教科書は昔、いくつも勉強しましたが、そっくりそのまま使えたのはあまりありません。丁寧すぎるんですね。ただ、だから無意味かというとそうではなくて、何も知らないと現地の人がどの程度の「くだけ方」でしゃべっているかわかりませんが、教科書の表現を知っていると、匙加減がわかってくるんですね。 質問者 匙加減ですか。それは面白いですね。でも、やはりそれは現地滞在が有利ということではないのですか。 加野 現地滞在はいくつもある手段のひとつで、ある意味では最後の仕上げです。私の場合は文法も、ある程度の表現もすでに知っていたので、そういう匙加減がわかるようになったのであって、現地滞在だけではものすごく長い時間がかかってしまいます。もうひとつ、学生らと議論するには、やはり新聞で身につけた表現が訳にたちますね。それも、日本で下地をつくっておいたからできたことです。 質問者 なるほど、一見現地滞在が有利にみえることも、分析というか分けて考えてみると、日本でやってたことが役に立ってて、それがあるからこそ、現地滞在が生きてくるということですね。どうも、一般の人が考えていることとは、悩みが違うという気がするのですが、、。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.24
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「中越の押収品」のつづきです。 海賊版に加えられた修正が、ネットワーク障害辞典に比べてあまりにもおそまつなことがわかった。 中越が本当に海賊版に関与しているのであれば、もっと徹底的にやるはずだ。 それに、警察ではまたしても妙な事実をつかんでいた。 警察では、豪訳くんを保有している翻訳者43人を洗い出し、聞き込みを続けていたが、誰一人例外なく正規の販売元から購入していることが判明した。 これは明らかに「豪訳くんを持っている者に翻訳を発注したときに、明らかに本物の内容が改竄(実はよくなっているのだが)されている海賊版を使ったとしか思えない訳文が返ってきた」という翻訳会社側の証言とは食い違っている。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.24
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村長の挨拶のあと、加野恵への質問が始まった。 質問者 加野さんは現地滞在にむしろ不利な条件が多いとおっしゃいますが、本当にそうお考えですか。 加野 ご質問が抽象的すぎてお答えしにくいのですが、村長がおっしゃいましたように、時間的にはすごく有利な面があります。自分の時間を丸ごと勉強に使えますから。でも、今は知りませんけど、私の時代はやはり「貧乏留学」でしたから、お金がありません。いったん自分の部屋に戻ってしまったら、ラジオも聴けません。 なんというか、練習の機会は多くても、きっちりと身につける機会がなのです。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.23
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「中越の押収品」のつづきです。 海賊版に加えられている修正が、ネットワーク障害辞典からそっくりそのまま導けるものであれば、中越の容疑が濃厚になる。 ところが、海賊版に加えられた修正が、ネットワーク障害辞典に比べてあまりにもおそまつなことがわかった。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.23
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「村長の挨拶」 それともうひとつは当然、実際その場で現地にあるものを見て、同時にその名前を目にしたり耳にしたりすることができる点です。 生の状況で生のことばを聴けるのは確かに何物にも代えがたいものです。ただ、十分な下地のない人間が生の状況だけでことばを覚えるのは危険なことでもあります。私も子どものとき、友だちが使っていたことばを家で使って「そんなことばどこで覚えた」と親にしかられたことがあります。 仮に高校生のなかに入ってことば遣いを覚えて、それがそのまま社会で通用するとはとても思えません。 生のことばから、自分の言語を形成するなんてとても凡人のできる芸当ではありません。 生のものから何かをつかみ、それを自分のものにするには、それ相当の下地がいるのです。その下地は必ずしも現地で身に着ける必要もなく、母語話者に習う必要もないものです。 ただ、私は最後の一歩は現地が必要だと思います。 1年もいてやっと日常会話ができるようになったなんていうのは、非常にくだらない話です。それ以上のことができるようになったのならともかく、日常会話を覚えるために現地に 行くのはまったくばかげています。 ただ、逆に「現地に行かなくても」を売り物に10以上に及ぶ言語で作文を書いて披露している人がいますが、どれも頭で考えて理屈で組み立てたもので、血の通った文になっていない。もちろん、それ以前の段階での誤謬もありますが、現地には行くべきです。行って仕上げをするべきです。ただ、1年なんて期間じゃなくて、場合によっては1週間でもいい。目的意識をきちんともって最後の仕上げをするのであれば、それで十分です。それ以外は自国でできる。あとは、いかにこれまで申し上げた「現地滞在が有利になる」条件に近づけていくかということです。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.23
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「村長の挨拶」のつづきです。 では、現地滞在が有利に働く条件とは何でしょう。 まず、なんと言っても新聞ですね。 毎日、安い値段でその日の新聞が現地の人と同じ時間に手に入る。 この条件も、さまざまなメディアが発達した今、克服されようとしています。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.22
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「村長の挨拶」のつづきです。 それに、現地滞在がむしろ不利に働いた問題もたくさんあります。 まず、当時の加野さんはテレビを毎日見ることができたわけでもなく、ラジオも手に入れるのに苦労したということです。 お金があれば別なのですが、ただ現地にいるだけでは何もできないこともあります。 逆にこの20数年の間に機器がものすごく進歩しました。 特にCDができたのはすごいことですね。同じことを何度も繰り返して聴ける。しかも、テープのようにいちいち巻き戻す必要もない。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.19
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「村長の挨拶」のつづきです。 さて、今まで申し上げたようなことを踏まえて、加野恵さんが自らの留学体験を見直し、留学で身に着けたことを、実はトラドキスタンにいながらにしてできるのではないかということを考えようとしています。 これから、そういうことをお伝えいていきたいと思います。 実は加野恵さんも、現地滞在中に大いに語学力を伸ばされた方ですが、その加野さんが現地滞在ははたして本当にそれほど大きな条件なのか、もう一度考え直してみようとしています。 加野さん自身、スペイン語は日本にいるときにすでに話せるようになっていたわけで、その点でも加野さんのおっしゃることには説得力があります。 加野さんが指摘する問題のひとつに交絡因子の問題があります。 留学という言い方をしてもよいし、現地滞在という言い方をしてもいいのですが、留学したから語学力が伸びたというより、勉強する時間がふんだんにあったからそれが可能であったのではないかという問題があります。 自分の国にいるときには勉強する時間がなかなかとれない。現地に行くときは、人にもよりますが、たいていは勉強だけができるようなお膳立てをしていきますよね。 そういう条件が違うのに、自国での勉強と現地での勉強の有利性を比較するのは、非常に非科学的なわけですね。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.17
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「村長の挨拶」のつづきです。 さて、今まで申し上げたようなことを踏まえて、加野恵さんが自らの留学体験を見直し、留学で身に着けたことを、実は日本にいながらにしてできるのではないかということを考えようとしています。 これから、そういうことをお伝えいていきたいと思います。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.14
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「村長の挨拶」のつづきです。 ここで、もうひとつ申し上げておきたいのは、学習段階の問題です。 日本ではよく、6年間も英語を勉強してしゃべれないなどと言いますが、学習段階をまったく無視した議論です。 日本の中学高校でやっている授業は、いわば英語とはどのような言語であるかを知ってもらうための授業であって、知識段階かせいぜい了解段階のものです。 それでしゃべれるようになる方が不思議で、しゃべればないのが当たり前なのです。 そういうこともわからずに、6年という時間だけを盾にとって、こんなにやってもしゃべればいなどと、責任転嫁に近いことを言うのはまったく許せません。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.13
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「村長の挨拶」のつづきです。 マラソン選手がとにもかくにも距離を踏まなければならないのと同じように、言語を学習するものは、理屈も何もなく、覚えて、覚えて、覚えまくらなければならない時期があります。それだけではありません。とにかく、読んで、読んで、読みまくらなければなりません。 言語の性質上、当然のことです。 いわゆる語学力というのは、ほぼ経験の差なのです。 文法を知っておればある程度ごまかしは利くのですが、それにも限界があり、そういうことを重ねると、いわゆる「下手を固める」ことになってしまいます。 言語というものは、基本的に自分で新しい言い回しを作ることができないものなのです。作家の創造的な活動はちょっと横に置いておきましょう。できないのです。 ですから、出会ったことのない言い回しは言うことも書くこともできません。 単語でも情報子でもよろしい。ひとつの情報子を本当によく知ろうと思ったら、その情報子の「素行」を知ることが必要です。どんな情報子といっしょに使われ、どんな働きをするか、あらゆる分野のすみずみまで知っている人間が、その情報子についていちばんよく知っている人間であることになります。 言語で本当にモノを言うのはそういう経験だけです。 それを理屈だけで、この情報子はこういう意味であるなどと定義に頼っていては、自分の知識に立体感が生まれません。 ですから、量的なものが必要なのです。 ←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.12
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「村長の挨拶」のつづきです。 言語の学習はマラソンと同じ 次に申し上げておきたいのは、要領よく外国語をモノにしたいと思っている人がいますが、われわれはそういうものにはいっさい関知しないことを、ここにはっきり申し上げておきたいと思います。 もちろん、あまりにも無駄なことをしている人がいることは確かでしょうし、そういう人にはやはり、もっと効率のよい方法を教えてあげる必要がありますが、基本的には近道などどこにもないことだけは、はっきりさせておかなければなりません。 まさにマラソンと同じことです。 いかに1万メートルの世界記録保持者と言えども、マラソンに挑戦するかぎりは、一定以上の距離を踏まないかぎり絶対に勝てることはありません。 マラソン選手がとにもかくにも距離を踏まなければならないのと同じように、言語を学習するものは、理屈も何もなく、覚えて、覚えて、覚えまくらなければならない時期があります。それだけではありません。とにかく、読んで、読んで、読みまくらなければなりません。 言語の性質上、当然のことです。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.11
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「村長の挨拶」のつづきです。 文法の誤解 次に文法について申し上げておきます。よく母語話者は文法を知らなくてもしゃべれると言う人がいますが、これは大きな間違いです。 母語話者は文法を知らないのではなく、無意識のうちに文法を体得してしまうのです。あるいは無意識のうちに分析し、あるいは体で、舌で、発音に必要な筋肉、神経系統で覚えてしまうのです。 もちろん、それでは完璧ではありません。90%程度でしょうか。それ以上は習うなどして意識化しないことには身につくものではありません。ですが、単に話せるだけならそれで十分です。 いずれにせよ、文法がいらないというのはウソなのです。 逆に外国人は文法を意識的に覚えることから始めますが、どこかでそれを無意識の領域に沈めてしまわないといけません。 母語話者は無意識のうちに体得したものを意識化することによって、自分のことばを高度なものにすることができるのに対して、外国人はこれとは正反対の方向で文法を身につけることになります。 文法がいらないなんて、バカも休み休み言えと言いたいですね。 いらないどころか、文法を覚えただけでは不十分で、それを無意識の領域に沈めることができなければならないのですから。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.10
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「村長の挨拶」のつづきです。 ここでまず確認しておきたいのは、人によって言語を学習する目的はそれぞれ異なりますが、柱となるのはあくまで「読む」力であるということです。 もちろん、口頭で最低限の意思疎通が図れなければならないのは言うまでもありません。 「話す」力を伸ばすには「聴く」力を伸ばさなければならないという側面もありますが、「聴く」力はある意味では、「話す」力を伸ばすことによって伸びるという面もあります。発音が身につくことによって相手が発する音を聞きやすくなるということもありますが、「聴く」という行為は、相手の言ったことを記憶にとどめておきながら、新たに発せられる音声に耳を傾けるということでもあります。相手の言ったことを記憶にとどめるというのは、話す力がなければできないことです。 ですから、「聴く」ことは「話す」ことにとって大切なことではありますが、エネルギーに喩えて言うと、変換率は必ずしもよいとは言えません。 一方、「書く」力を養うには「読む」以外にありません。殊に外国語の場合には「1書くには100読め」と言われるほどです。すこしばかり知識を吹き込まれた単語を、文法知識を頼りに並べてみても、外国語の文は書けないのです。「読む」ことはそれだけではなく、「話す」力を伸ばすためにも重要です。 ただペラペラ話せばいいとうものではないことがわかっている人には、私の言うことはすぐに理解してもらえるはずです。「話す」ということは、内容が問われることなのです。そのためにも「読む」以外にありません。どれだけ読んでいるかが、そっくりそのままどれだけ内容のあることを話せるか、内容のあることをきっちりと書くことができるかにつながってきます。 もう一度まとめておきます。 トラドキスタンの学生村が宣言を発表したと考えてもらってもいいでしょう。 言語の柱は「読む」ことである。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.09
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加野恵プロジェクト 加野恵プロジェクト発足式 トラドキスタンの学生村で、加野恵プロジェクトの発足式が挙行された。 留学生村の村長がまず挨拶に立った。 語学の学習というと、いろんな人がいろんなところでいろんなこと、場合によっては好き勝手なことを言っている。そういうことでは、何も前に進まない。こうして、加野恵さんをお迎えして、トラドキスタンなりの見解というか、立場というか、そういうものを示したいと考えております。 ただ、トラドキスタンというより、もともとヨーロッパにはある程度確立されたものがあって、日本国でだけそういうことがわかっていないだけと言えばそうなのですが、この問題をはっきりさせておかないと、犠牲になるのはその日本国の影響下にあるトラドキスタン人、あるいは日本語を母語とする人たちです。 日本国ではそのむかし、日本人は外国語を読むのは得意だけれど話すのは下手だというような「神話」めいた迷信が横行していました。 スペイン、フランス、イタリアの3ヵ国でホームステイし、語学学校にも通ったことのある加野恵さんもおっしゃっているように、そこにやってくる日本人は「話せる」ことだけに異常な執着を示します。コースが終了すると、「聞く」、「話す」、「読む」、「書く」の4つの技能に分けて評価をもらいます。そのとき、「話す」の評価が意外に高いのに、「読む」、「書く」が低いことに驚く人が多いと言います。 ヨーロッパの人たちは、日本人が気を揉むほど話すことに重きを置いていないのです。もちろん、この言い方には多少語弊があります。正確には、「ただ、話せればいい。ぺらぺら話せればいい」ということには日本人ほど重きを置いていないのです。それよりも、文法的なまちがいが少なく、きちんとした表現で、しかも、内容のあることを、いかに順序立てて話すことができるかに重きを置いているのです。 さらに、それよりもさまざまな文がきっちり読めて、きちんとした文を書くことができることが求められるわけです。 ですから、話すのは下手でもいいのです。それよりも、新聞や本が正確に読めて、きちんとした文が書けることの方が重要なのです。 おっと、話せない人が喜ぶのはまだ早い。ただし、まったく話せない人は、いくら読めて書けても、評価してもらえません。必要最低限、口頭で意思の疎通を図ることができなければ0点です。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.08
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語学学習条件の全面的見直し トラドキスタンでは、語学学習条件の全面的見直しが始まっている。 たとえば「学校英語よ、さようなら」(文芸社)の「はじめに」にこんな一節がある。 イギリスに4年住んでいたという人がいます。イギリスの同じ語学学校には日本人も何人かいて、「これで英語をモノにできなかったら」と、だれもが神経をピリピリさせています。そのなかに、半年ほど日本に帰ってはまた戻ってくる人もいたそうです。日本に帰っていると、そのままイギリスにいる人に遅れをとるのではないかと思いがちですが、そうではないのです。日本でもできる英語の勉強、日本でしかできない英語の勉強をしてきて、逆に自分たちを追い抜いていったと言うのです。 現地にいることが、そこで使われている言語を身につけるのに必ずしも絶対的な条件ではないことを示すものである。 もちろん、現地にいてもいっこうにその土地のことばが身に着かない事例はいくらでもある。スペインに5年もいて、日本人同士で住んでいるために片言程度のスペイン語しかできるようにならなかった話など、具体例には事欠かない。 今でも、言語は母語話者に習わないといけないという人が圧倒的に多いが、もちろん必ずしもそうとは言えない面もあることは確かで、この辺りのことがあいまいにされているきらいがある。 トラドキスタンの学生村では、加野恵を中心に、語学学習の諸条件を根本的に見直すプロジェクトが始まり、いつしか加野恵プロジェクトと呼ばれるようになった。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.08
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トラドキスタンの学生村では、練習問題するべからずの原則が徹底されている。 文法規則を教えて「生きた言語」を頭で考えさせるなんて言語道断であるという考えがトラドキスタンでは徹底している。 安泊記者はこれにいたく感動し、トラドキスタンの公用語のひとつ、フィンランド語を学したいと思うようになった。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.06
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× すべてのごみを出される場合には、透明な袋で(大阪市の広報) 大阪市のような大きな都市が、やたらに「すべての」を使いたがるマスコミや学者の悪弊を正そうとしないばかりか、自ら意味すらも危うくなるような日本語を使うのは不届き千万。 そもそも、これでは意図する意味になっていない。これでは家中のごみを出す場合という意味になってしまう。 ○ ごみを出される場合には種類を問わず、透明な袋で ○ ごみを出される場合にはどの種類でも、透明な袋で ○ どの種類のごみを出される場合にも、透明な袋で←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.05
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× 随伴症状を伴う、または伴わない上腹部痛 これが日本語を愚弄するものでなくて何であろうか。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.03
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翻訳裁判所は、メールで次のような文言を会員に送ったアメリアに対して営業停止命令を出した。 × 好評だった、また映画化が決定している、という事実だけでは採用の判断は難しいものです。 日本語を愚弄する以外の何物でもない。 そもそも連体形というのは、体言に連なるからこそ連体形というのであって、いったん「、」で切って、次にくる「また映画化が決定している」とともに事実にかけようなんて、横暴というか何というか、ことばなし。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.03
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「中越の押収品」のつづきです。 捜査は「豪訳くん」の海賊版と押収品のネットワーク障害辞典とを照合するかたちで進められていた。 海賊版に加えられている修正が、ネットワーク障害辞典からそっくりそのまま導けるものであれば、中越の容疑が濃厚になる。←ランキングに登録しています。クリック、よろしくお願いします。
2007.06.01
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