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:もっと早く始めていればよかった・・・国立国会図書館での文献探し。私は、後悔はほとんどしない。けれど、今回だけは、:そう思わずにはいられなあぁぁぁ・・・かった。でも、できなかった。やれなかったんだ、もう一度、戦うだけの生命力が満ちるまで。これからまた忙しくなるぞ。:たーたかうぞおおおぉお~今、papa, mama, Talino が、ぺ・ヨンジュン主演の「太王四神記」を観ている。くぅ。誘惑されないぞ。というか、あまり興味もないなり。ただ、「家族と一緒に観る」ということ自体が魅力的なんだ。でも、やることがいっぱい、ある。フィリピン出発は、6月4日。:泣。あぁ、時間が足りない。:時よ、止まれ!そんなこと言ってる暇があったら、さっさと動け!そうそう、最近、痛い実感とともに思ったこと。人間って結構、自己中心なんだな。私も、自己中だ。私の通る一本の道。まずは越えなければいけない、目前の山。その山を越えることに、自分は大切な意義を見出している。でも、その山を越えることを最優先するために、周囲にいる人に冷たくなってしまったら、助けが必要な人に手を差し伸べる時間まで懸念したら、、、もちろん、今は、自分の時間のすべてを捧げることなど出来ない。線を引かなければいけない。でも、この線引きが、私にとってはまだ難しい。目標を達成するために、いつの間にか、自分の心が「二乗」になっていることがある。目標そのものは、他者への貢献を究極の目的としているのに。知らない間に、大きくずれてしまう。人との間の、上手な距離のとり方を身に着けないと。私は、根本は、どう生きたいんだろう?・・・Number 9 の生き方をしたい。最近、この faith をしていても、利己的な人、人の気持ちが分からない人、勘違いしている人を見て来て、とても悲しかった。日本に帰ってきて、とても落ち込む日々が続いた。その中で光を見つけたような思いを感じたのは、あるテレビ番組で、ネパールの標高8000メートルの本当に貧しい村で、初めて稲作に成功した日本人の農学者の方を知ったときだった。近藤亨さんという。この faith を行じていなくても、number 9 の生き方をしている尊い人は世界にたくさんいるんだ。心のすみずみまで、静かにしみわたるように、洗われるような思いがした。「困っている人をなんとしても助けたい」というその心は、人に高潔な人生を歩ませるんだな。人の振舞い。ただそれだけなのだと思った。大事なのは。faith それだけでは決まらない。まして、ポジションの「上」「下」もないし、そういう言葉もおかしい。「慈悲」なのかな。行動の根本に、常にあるべきなのは。厳しくも、優しくも、その底に常にあるべきもの。
2008.05.31
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フィリピンで学び始めて以来、私はずっと、自分に「見える」ものだけ、自分が「知っている」ものだけが「すべて」と思ってはいけないということを学んだ。それは大体、人を見る際や、学問分野の文脈においてだった。:けれどこれは、それ以外の面においても通じるんですね。たとえば、「Kさん」は私たちには見えないけれど、時々、この家の中を歩いているように・・・(汗)ともあれ、思う。謙虚であるためには、人は学び続けなければいけないんだ、と。自分の「限界」を知っておくこと。とても大事なことだと思う。たとえば、どこまでやってきたか。どれだけの本を読んだか。自分が一番知っているんだ。自信を持ってたった一つのことを言うために、どれだけの時間と労力をかけることだろう。それに、何事であれ、すべて自分の力でやってきたと思ったら、そこに他者への恩を思う気持ちはまったく消えうせている。感謝だって生まれないだろう。ここからまた別の話題に移る・・・ けれど、それはまた後ほど。
2008.05.26
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さて、その話を聞いたのは、いつだったか・・・:従姉妹のromi ちゃんの結婚式に行く前だったから、金曜日の夜ですね。東京にある my alma mater から帰ってきたその夜、パソコンでメールを打っているTarsha。TVルームでごろんと横になっている papa, mama, Talino.:そういえば、ターシャ、出たよ。:え? 何が?:・・・「Kさん」だよ。:あぁ、そういえば、出たねえ。最近。:え!え?え~!!パソコンの前から跳ね上がって、トドのように寝転んでいる3人のもとへ駆け寄る Tarsha. 私たち家族が住んでいるこの家は中古だ。この家の前の持ち主「Kさん」は、実は「行方不明」である。今も、どこにいるのか分からない。私たちがこの家に引っ越してきた当初、奇怪な現象がいくつも起こった。* トイレの鍵が、「内側から」閉まる。:これは、意味が分からない。 しかし、聞くところによれば、Kさんはこの家に住んでいた頃、トイレによく閉じこもっていたらしい・・・* 2階の部屋にもともと取り付けてあったスピーカーから、「トントントントン」音がする。中に虫がいるのかと思ってpapaが解体したが、何も入っていなかった。* 2階で誰かが歩いているような音、物につまづいて転んだような音がする。:でも、誰もいないし、何も動いていない。* 部屋の壁面中を、何かがものすごい速さで「シャカシャカ」駆け回っている音がする。もちろん、その「何か」は見えない。:ネズミではあ~りません。いつからか私たちは、その奇怪現象は、行方不明中の「Kさん」が関係しているのだと考えるようになった。・・・というか、むしろ、「Kさんがやってんだろ」みたいな解釈である。しかしここ数年は、そういうことも起こらなくなった。mama がだいぶ、この家に、daimoku を染み込ませたのです。さて、ここまでは「Kさん」の背景知識。以下、また家族の会話のつづき。:ほんとに? ほんとに?? いつ「出た」の?:う~ん、いつだったかな・・・でも、Tarsha がいない間だったよ。:何がおこったの??その夜。papa, mama, Talino の3人は2階の寝室でいつも通り寝ていた。:夜中の2時頃だったかな、Talino が一度寝たんだけど、また1階に降りていったんだよ。階段を降りていく音が聞こえたんだ。でも、Talino は降りてないって言うんだよ。・・・・Talino、お前、ほんと?:ほんとだよ。その夜は降りていないもん。:いや、おかしいなぁ~って思ったんだよ。一度寝たTalinoがまた1階に降りて行って・・・ でもmamaが、「Talinoは時々、夜中の3時ごろまでパソコンをやってるのよ」って言うからさ、「あ、そっかぁ、くそぉ、Talinoのヤツ、こんな夜中に起きているから、朝早く起きれないんだ」って、言ってたんだよ。・・・確かにあれは、階段を降りていく音だったよ。・・・おい、Talino、お前、夢遊病者じゃないか:違うよ!!:ほんとか:ほんとだよ!! だって一度寝たら、普通起きたりしないよ、私。起きてるのは、mama が疲れて下で寝ちゃったのを起こす時だけだよ。:・・・でも、あれは、階段を降りていく音だったよな?:・・・うん。: きゃー!!!! こわあ~~~い!!! きゃー!!!!!顔を両手で挟んで「絶叫」するターシャ。:なんで、なんで?? なんで出たの??:でも最近、よく出るようになったよね。&:そうなんだよ。:ターシャンが帰国したのと前後して、Kさんも「戻ってきた」感じ。いともナチュラルに言い放つ Talino.:そうそう。まさに、「戻ってきた」感じなのよ!:ターシャを歓迎してたりして。:げぇ~!!!:まあ、それで、Talino が下に降りて行ってから、いつまで経っても上がってこないからさ、よっぽど、下に降りて怒ろうかと思ったんだよ。・・・でも、行かなくて良かった。(笑)・・・「どちら様ですか?」・・・「ご、ご自由にどうぞ」って。&&&:爆笑:mama ね、ずっと daimoku あげてたよ。:まじで?:うん・・・なんだか変な感じがしてね。しんみり言うmama.:おぉぉぉぉぉぉ・・・(怖):なんなんだょ、この家はぁあああ~今度はpapaが「絶叫」。:でも大丈夫。Kさん、危害は加えないから。mama、お願いしてるの。「私たちを怖がらせないでね」って。:まるで、「ベルセルク」の世界だよ!:そうよぉ、私たちには見えなくても、各々の境涯に従って、みんなこの世界に漂っているんですものね。
2008.05.26
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:ふぅ。。。mama が仕事から帰ってくる前に、洗濯干しと食器洗いとごはん炊きと部屋掃除を終えた。Talino も今日は仕事が休みだったが、仕事場で常に水を使うため、爪が痛んでいる。家で水仕事をさせるのはかわいそうなので、2階にたまっている乾いた洗濯物を整理させた。(というか本当のところは、すでにたたんであった彼女の洗濯物がそのまま積み重なって、結局、ぐちゃぐちゃになっていたのだ)今朝は、昨日申し込んでいたフィリピン行きの飛行機に空席があるか心配だったので、旅行会社からの返信メールを待たず、直接、電話した。良かった!まだあった。即予約。その後、フィリピン大学の院生オフィスに国際電話をかけた。インターネットで事前に行なう履修登録(Pre-enlistment)について分からないところがあったためだ。この Pre-enlistment を締切日までに終えていないと、「本番?」の履修登録ができないという仕組みになっているので、不安は残したくなかった。向こうの友人にお願いしてスタッフに聞いてもらおうかと色々悩んだが、彼女たちを煩わすのも気が引けて、自分で電話した。:不安、解消午後は航空券のお金を銀行に振り込みに、自転車を猛然と走らす。初夏を思わせるような青空。向こうの空に浮かぶのは、ボリュームたっぷりの入道雲ベイビー。:なんたる陽射しの強さだ!駅前の銀行に入ると、ちょうどフィリピン人の親子2組がATMにいて、フィリピノ語で何かしゃべっていた。少し優しい気持ちになった。本当はもうちょっと彼らを見たかったのだけど、見られているという不快な思いを万が一にもさせたくなかったので、視線を逸らしていた。帰りに行き付けの古着屋さんに寄り、フィリピンで着れるシャツを買った。:1枚500円なり。安くてかわいいのが、探せばあるんですよ日本の一般女性のように、あまり「オシャレ」=「かわいい」「きれいな」格好をしていると、フィリピンではお金を持っていると思われて、狙われる対象になりやすい。カメレオンのように周囲に同化していること=目立たないことが、安全策のひとつである。:でも、あんまりかわいくない服は嫌だ。実はわがままターシャ。だからこうやって、安いところでチョチョチョッと探すのさ。フィリピン出発まで、あと10日をきった。しっかり計画を立てて準備しないと。
2008.05.26
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疲れた・・・ターシャにしては随分しばらく、日記を更新していない。面白い話題は多々あるのですが・・昨日は従姉妹の結婚式に出席するため、埼玉県の南部を覆う山林地帯、秩父まで行ってきた。その前日まで、実はまた my alma mater にいたターシャ。そして、学問の恩師であるMr. Gentleman や研究者の方とお話をし、図書館で論文の資料集めをした。図書館が閉まる夜9時ギリギリまで残っていたため、埼玉の実家に着いたのは11時。ターシャの好きなTVドラマ「Around 40」 がまた観れなかった!来週にはフィリピンに戻ることになった。昨夜、結婚式から帰ってきてフィリピン大学のホームページをチェックしたら、例年よりも授業登録期間の日程が早まっており、慌てて飛行機のチケットを申し込んだ。Time flies so fast... 余裕ができたら、また、ちゃんちゃんと日記を更新したいと思う。:Kさんのこと:運命数とmamaとの会話:単身乗り込み to 東洋哲学研究所、そして新しい出会い :秩父での結婚式:Mr. Gentleman との懇談:My alma mater にて―5/15~5/18:ニャンにゃん、ごろにゃん。 (すみません、意味は特にありませぬ。)これから食器洗いと洗濯干しをする。うぅん、天気がよくないなあ。
2008.05.25
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午後3時。今週末、従姉妹の結婚式に着ていくドレスを買いに行ったmama と Talino の留守番をするpapa と Tarsha。2人で遅い昼食―papa が作ってくれた野菜ラーメン―を食べる。:papa、良い男性って、どうやって選んだら良いのかなあ?:人柄だね。:人柄って、なんだろう・・・?:そう、それがなかなか難しい問題なんだよ。「誠実」という言葉と同じで、一言で言い表そうとすると、なかなか出来ないんだ。・・・与謝野鉄幹がこう言ってるよ。「友をえらばば書をよみて、六分の侠気四分の熱」:へえ!すごいねえ。:「書をよみて」は勉強家であること、「侠気」は、一言でいえば正義感だね。「熱」は情熱・・・ 友を選ぶなら、勉強家で、正義感と情熱を合わせ持った人が良いということだよ。:いいねえ、それ!:優しいだけで、弱ければ駄目なんだよ。:正義感がないと、結局は護れないんだね。:妻の場合もあるんだよ・・・「妻をめとらば才たけて、みめうるわしく情けある」・・・:はは!やっぱり「見た目」入るんだ。:でも、女性も男性に対して同じでしょ? :うん。:「才」・・・賢くて、「みため」も美しく、情けは・・・:思いやり、かな? あるいは優しさ?:そうだね。これらを重複して考えたらいいんじゃないかな? 「人柄」だけでは、こういったことは漠然としていて浮かび上がってこないかもね。常に学び続け、正義感と情熱があり、賢く、見た目も整っており、優しい人。 そんな人がいたら・・・&:かーんぺぇきじゃーん考えてみれば、私の周りの素晴らしい先生方には、このような条件をそろえた方が多い。Mr. Gentleman, Mr. Genius, Ma'am Artemis... :私の宝だ・・・ともあれ、言葉の内実を振り返ることは本当に大切だと思う。知識人とは、言葉を大事にする人だと、Mr. Gentleman の師匠は仰っていた。「良い男性を選ぶ基準」という問いから、一つ学んだターシャであった。
2008.05.19
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TV番組「美の巨人」を見る。印象派の画家アルフレッド・シスレーが紹介されていた。シスレーは、印象派の画家たちの中でも、ほとんど名前を知られていないそうだ。モネやルノワールといった仲間たちがだんだんと富と名声を得ていく中、シスレーだけは生涯1度も絵が売れず、極貧のなかで死んでいったという。それでも彼は絵の描き方を変えなかった。モネやルノワールが光による華やかな絵を描き続ける中、シスレーが書いたのは、どこにでもある平凡な、身近な風景、そしてキャンパスの大部分を占める「空」だった。「空」は普通、背景として描かれる。しかしシスレーは、その空をメインに描いた。当たり前すぎて、誰も気づかなかった、いつもそこにある空。しかし一瞬として同じ空はない。たえず変化し、たえず新しい。シスレーの絵が飾られているフランスのオルセー美術館で20年以上、ガイドを務めている女性が語っていた。晴れの日も、雨の日も、嬉しい時も、悲しい時も、どんな時でも観る者の心に入ってくる、そしてその度に新しい発見がある―シスレーの絵はそういう絵だという。彼女はシスレーの絵が一番好きだそうだ。:泣ける。そんな思いがする。彼は「空」に、人生の「実相」とでもいうべきものを感じ取っていたのだろうか。絶えず変化しながらも、常にそこにある、無限の青い底。TVナレーターはそれを「静かな希望」と言っていた。:根源的な希望は、厚い雲を突き抜けて初めて見られる。その時に、あぁ、常にここにあったのだ、と心から分かるんだろう。何気ない風景に、新鮮な驚きと美しさを発見する。平凡のなかの非凡。それは、非日常的な華やかさが与えるそれらとは違い、一見、目立たぬ、ひそやかなものだ。けれど、涙が砂に染み込むように、こんなにも心に染み通っていく。そこに静かにたたずみながら、優しく心に寄り添っている。そんな景色を彼は描く。このようなシスレーの日常を見つめるまなざしに、心から共感する。:・・・評価されないというのは、過酷で辛いことだ。けれども、そのような中においてもわが道に徹するとは、誰が信じなくても、自分がその価値を信じ、行じ抜いていくことなんですね。ちなみにシスレーの絵は、彼の仲間だったモネが、シスレーの死後、競売にかけ、その時初めて、当時としては破格の4万5千フランで売れたという。極貧の生涯だったシスレー、その死後1年後の評価・・・なんということだろう。けれど、それを可能にしたモネの行為に、人間としての温かな誠実性を感じる。ターシャはモネの絵も好きだ。ルノワールも。番組で紹介されていたシスレーの「ポール・マルリ 洪水と小舟」の連作も、本当に素晴らしい。彼らの絵が飾られているオルセー美術館に、いつか行きたいな。フランス語、やっぱり頑張ろうかな。
2008.05.10
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GWの休暇で実家に帰っていた Pagasa を先ほど、駅まで見送りに行ってきた。駅までの道すがら、将来のこと、進路のことなど色々話した。爪の先のような細い月が出ていた。気心の知れた仲の良い妹と歩きながらおしゃべりする、こういう時間はなかなか楽しいものだ。駅についてからもしゃべり続ける2人・・・:あ、9分の電車行っちゃった。:だいじょ~ぶ。次のに乗るよ。もう別にいいやぁ~って感じ。「全身虚脱状態」のポーズをとる Pagasa. 家大好き人間の彼女は、本当は「あと1ヶ月くらい家にいたい」と言っている(笑) 家を離れるのが嫌なのだ。次の電車も見送り。ようやく、その次の電車に乗るため、改札口を通った。もう、きちんと将来設計しなければいけない年齢に私たちもなったんだな・・・まだ修士のPagasa と Tarsha.社会で働くこと・・留学・・博士過程・・結婚・・・自分が社会でできる貢献・・・私たちにとっては、30歳がひとつの目安だなあ。:根本は、きっと何より、うんと福運をつけることなんだな。 それぞれの道を進んでいる私たち4人。色々なことを思う・・・何よりも、Pagasa, Talino, Halim, わが道と決めたその道で自分自身を完成し、本当に幸せになってほしい。私自身も。
2008.05.07
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これは4日の日記です。その夜は夕食後、家族で、次から次へと放映されるNHKのTV番組を見続けた。その中のある番組で、月から見た地球が映し出された。あまりの美しさに感嘆した。即座に mama の携帯をスナッチし、写真を撮るターシャ。papa も己の携帯を持ち出し、TV画面に焦点を合わせる。&:・・・・(TV画面の前にて集中)・・・パシャ!・・・パシャ!・・・ちょうど前日、星を眺めながら「生」について考えていたために、この風景はいっそう心に染み入った。ふつう、私たちは、地球から月を見る。けれど今は、月から地球を見ている。(それでも私たちは地球の中にいるのだけど)この立場の逆転から思った。あぁ、私は知らない間に、「地球から月を見る」という視点・立場を絶対化・不動化していたんだなあ。:私たち、あそこにいるんだね。とても不思議な気持ちがした。私たちは宇宙に浮かんでいるんだ。今、「地球から月を見る」という視点が相対化されている。「相対化」とは、そうされた対象の価値を下げることではないんだな。なぜなら、月は地球にはなれないし、地球は月のようには光らない。相対化によって、その対象のかけがえのなさ、代替できない価値というものが浮かび上がるんだ。それは、他者の抑圧・排除による「絶対化」を通して保証される「かけがえのなさ」とは違う。他者がいることによって生まれる、それ自身のかけがえのなさ。つまり、お互いの「存在」が、お互いにとって、かけがえのないものであるということ・・・月と地球が引き合うように。:・・・そう考えると、他者への尊敬・尊重は、自分への尊敬・尊重でもあるんだなあ・・・
2008.05.06
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これは5月3日の日記です。昨夜のこと。厚い掛け布団の下に身を横たえながら思った。Halim はあいも変わらず、どうしようもなく大変な境遇のせいで、軽いうつ状態にある。mama は Halim への絶えることなき心配、変わらぬ境遇への怒り、そして忙しい職場と愚かな上司のために、心底疲れきっている。papa の職場にも、まるで宿命としか言い様のないほど不幸な境遇で苦しむ人たちがいる。mama の苦しむ姿も、Halim の苦しむ姿も見たくない。そんなことを思い浮かべたとき、言葉になる間もなく直感で思った::生きるって、苦にぶつかり続けるようなものだ。苦という岩に・・・苦しみながら、苦しんでいると知っていながら、それでも私たちは進み続ける、生き続ける。こんな私たちの「生」って・・・そのような「生=苦」の連続は、「意味」を欠いているようにさえ見えたのだった。もしもそれがただ永遠に続くのであれば、これほど無意味で残酷なことはないように思える。そして、そのようにして生きる私たちという存在って、なんだ? 意味はあるのか?ゴーゴーと流れる、深くて大きな漆黒の空間が、小さな私たちを包み込んでいる。それは、あたりがすでに夜で、寝るために部屋の電気を消しているからじゃない。こんなことを考えたのは、初めてのような気がした。翌日、3日の夜のこと。2階の窓を閉めにいったら、西の空の奥に、キラキラとせわしく瞬く星があった。心を惹かれた。電気をつけず部屋を暗くして、その星だけと、黙ってしばらく向かい合っていたかった。昨夜、布団の中で思った問いが心に浮かんだからだった。生きるって何か。このめぐるましい、複雑な、あらゆることが苦を感じる対象となりうるこの世界の中で生を営み続けていくとは、どういうことなのか。キリスト教の世界観のように、いつかはこの生に終止符が打たれ、この苦を味わい続ける生は終わり、別の世界―天国―が開けるのか。あるいは仏教の世界観のように、この生命には始まりも終わりもなく、永遠に生死の流転を繰り返すのか。この生において、1年後の未来さえ、私にとっては不確かだ。ましてや、この生のその先がどうなっているのかは誰にも分からない。それでも私は生きている。そしてこの世界にいる。今というこの有り様は現として在る。世界にはあらゆることがあり、私たちはその中に織り込まれて、またあらゆることを感じ考え行動する。けれど、もしも、もしも、文学というものが、この根本の問いに真正面から取り組んでいるのなら、それは最も情熱を傾けてやる価値のあるものだ―生きるとは何か。このような世界の中で生きる人間とは何なのか―それに答えようとしているのなら。宗教もそのような問いに答えようとしているものの一つだ。人間は、そうだ、思想の真空状態では生きられないんだ。遠い遠い星。けれどその光は、それが渡ってきた果てしない距離をまったく想像させることなく、瞬時に私に届く。何が自分の心の中に流れているか、考えとして言葉で表現することはできなかったし、しようともしなかった。けれど、不遜にもこう感じていた。:何千年も前に、哲学者と呼ばれる人たちが考え悩んでいたことと、きっとそんなには違わないのだろう。そして、星が発した何千年も前の、でも星にとっては一瞬の間の光を、彼らも見ていたかもしれない。もしかしたら、どこか別の星で、私と同じように、一人、窓辺に座って、星を思い眺めている知性がいるかもしれない。そしたら、生きることそれ自体も、大きな問いと謎に満ちているけれども、そのように考えている私たち自身が在るということも、実は大きな不思議なのかもしれない。もしもそのようにしている知性に出会ったら、私は、「あなたは何を考えているの?」と尋ねるだろう。そして、そんなふうにしている2人がいることそのものも、不思議なのだ。
2008.05.05
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色々書きたいけれど、また明日にしよう。勉強ははかどらなかった。机に座っても、どうも心身の居心地が悪くて集中できなかった。夕方からものすごく眠ってしまった。ここ最近で一番「さえない」5月3日だったかもしれない。天気もかなり久々にさえないこの日だった。今夜、西の空にまたたく星を見ながら、ふと思った。この宇宙のどこかで、やっぱり私と同じように、星を見ながら「この世界で生きるってどういうことか」考えている知性があるだろうか。:にゃ。
2008.05.03
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今日の午後、勉強部屋の本棚にパスカルの『パンセ』を見つけた。その本をパラパラとめくってみたら、人間についての面白い洞察が沢山書いてあった。その幾つかを紹介したい。種類神学は一つの学問である。しかしそうであると同時にまた何といろいろの学問に属していることであろう!人間は一つの基体である、が解剖するならばそれは頭、心臓、胃、かずかずの血管、一つ一つの血管、血管の各部、血、血のもつそれぞれの液質となろうか。都会や田舎は、遠くからみれば、都会であり田舎である、しかし近づくにつれて、家々となり、樹木となり、瓦となり、葉となり、草となり、蟻となり、蟻の脚となり、かぎりがない。これらがすべて田舎の名のもとにつつまれる。:おっもしろ~い! パスカルはこの次のところで、「すべては一つでありすべては多様である」と言っている。上記の内容はその具体例といえますね。矛盾人間は本来的に、信じやすい、不信になりやすい、臆病な、大胆なものである。:まるで、わたし・・・
2008.05.01
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