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エチオピアから一路南下し、ケニアの首都「ナイロビ」へ。この街のダウンタウンで事件は起きました。宿に置いたバックパックに金目の物 (パスポートにカメラに金に) を隠し、ガッチガッチにワイヤーロックで鍵をかけ、部屋にはフィンランド製のゴッツイ鍵をかけ、恐いもの見たさに向かうはアフリカ最大のスラム、南アはヨハネスにあるソウェトに次ぐ規模を誇る、ケニア最大のスラム、「キベラ」2.5平方kmにナイロビの人口の約半数、60万人とも120万人とも言われる人々が暮らすといいます。宿を出たのが昼の3時。街は活気に溢れ、爆音を流しながらアフリカ系ミュージシャンのステッカーを無数に張ったワゴンタイプのバスがどこそこを走り抜けます。ナイロビのダウンタウン勇気を振り絞って、この街を跡にする前に激写した貴重な一枚この中にいては目立たないはずがない3ブロックスほど歩いたでしょうか。まわりには沢山のケニア人。キベラはすぐそこ。そこで事件は起きました。次のコーナーに出た瞬間。。。アフリカ人の男、5~6人に囲まれ、瞬間こめかみにガンを突き付けられたのです。ガチです。流石にこの時は失禁するかと思いましたね日中堂々と。僕は必死に懇願し、こんなこともあろうかと持ち合わせたUS50$紙幣を彼らに手渡し、どうにか事無きを得ましたが。勿論日中なのでどこそこ人間でごった返していますが。無法地帯ですから。この時は世界を旅していた中でも相当にデンジャラスだった瞬間の一つでした。また時を同じくして、白昼堂々、シャラトンホテルの近くで日本人の男性がアフリカ人数人に首を切られると言う事件が起きたことを後から知りました…。アフリカ恐す……。つい先日まで滞在していたヨーロッパ五感全開で生きる感覚に慣れるまで、また確立したスタンスに立つまでは、毎日このままでは死ぬ、このままでは死ぬ、そう思いながら旅をしていたことを憶えています。
2012年05月08日
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ロンドンのヒースロゥで僕が乗るはずの "Ethiopian Air" のカウンターをいくら探しても、誰に訊いても見つからず…、どうにかこうにか見つかったものの、ロンドンを発ってからイタリアのローマを経由していゆくはずの便。のはずが、何時間経っても、もういい加減しつこいだろと思っても高度を下げず、結局気付けばエチオピアに到着。。。エチオピアに到着してから現地のお金持ちに尋ねると、、機体は中古 (でもメンテナンスの腕は一流だから問題無いと自ら詠っているらしい) だし、一度ハイジャックされて燃料が尽きそのままお陀仏。。。一度は着陸時に車輪が下りず胴体着陸、あわや再度お陀仏。。。だそうで……。新大陸の旅の始まりが不安でならなかったことをよくよく憶えています。世界の "空飛ぶ棺桶" シリーズ何と言ってもある日アディスアベバの町を歩いていると頭に包帯グルグル巻きの日本人の女の子に出逢い。どうしたのかと尋ねると、、、ある昼下がりに数人の男らに石、、と言うか最早岩で後頭部を引っ叩かれて頭蓋骨やられたそうで……「Noooooooo!!!!!!!!!!!!!!!」ってなアフリカ第一国目……。始めのうちは毎日毎日生きた心地がしなかったことを憶えています。。。追伸。アフリカの旅では身を護るのに必死で殆ど写真を撮っていません。悪しからず。。
2012年03月19日
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パリからロンドンへ。今回はモロッコでお世話になった懐かしの「EURO LINES」社のバスでドーウ"ァーを渡ることに。ユーロスターでロンドンへ向かうのの半額ほどです。ただ、列車のコンテナにバスを入れてドーウ"ァーを渡ったのは笑えました。笑両サイドピッチピチの入庫に、あるアメリカ人が、「僕の人生の中で、君がナンバー1ドライバーだよ!!」と讃えていたことを憶えています。笑この街、ロンドンでヨーロッパの旅にも別れを告げ、未知なる大陸、「アフリカ大陸」へ向かいます。その昔、人類が誕生したと言われるアフリカ大陸!!今度は一体何が待っているのでしょうか?!無事でいられるのかスナフキン?!バッキンガム宮殿最近、その傾きが話題になった「ビッグ・ベン」ピーター・パンでも有名です。
2012年03月06日
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一路パリに戻り、、、我が姉から、クリスチャンルブタンのクツを買ってきてくれとのemail。パリの街を彷徨い、捜し、出張るも2秒でノックアウト。吐きそうになりながら店を去ります。東京にいた頃は僕もよく服や宝飾品の類いを買ったものだけど、この時は旅中。まあ日本へ帰って来てからもほぼほぼ何も買っていませんが。と言うことで、当初の予定通り、念願のユーロディズニーへ!!!!2parks3daysチケットを購入ヤフー!!!!ピンク色の「眠れる森の美女」城屋外からスタートのスペースマウンテン・ミッション2こちらではピーターが人気のようでユーロディズニーの第一印象は??ちょっとしょぼい??ゴミも落ちてるし汚いし、アトラクションの塗り忘れも。ミッキーと写真を撮って下さい、とキャストに頼むも答えは「Non!!」だし。サイン書いてるミッキーの利き手が始めは右で、ブレイクタイム後は左だし。数え上げれば多々ありますが、やっぱりディズニーは最高!!!!2park目の "Disney Studio"方向性のイマイチ解らないジェットコースター中ではエアロスミスが爆音です。ハリウッド・タワーホテル東京でもお馴染みのあれ、ですが、ベルトが東京なら乗用車と同じ3点式ですが、ここでは2点式だったことを覚えています。3日目にはディズニーパークへ戻り、僕の一番好きなアトラクション、「It's a small world」へ。今世界を旅している自分を重ね合わせ、、これから始まる未知なる大陸の旅にビビりながらも心躍らせ、世界中みんなで助け合って生きていけたらと願いました。明日にはロンドンへ戻り、一晩したら旅立ちです。
2012年02月20日
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ある曇りの日にウェブでチケットを見ていると、ロンドン-アディスアベバ (エチオピアの首都) のチケットが安く、一度パリに戻って、ユーロディズニーを満喫してからの、再度ロンドンへ戻り、アディスアベバへ向かうことにしました。意外とコルチェスターの町が気に入った僕。愛犬のアンバとジャスパーと、デッカいブルがいる麦畑を歩いたり、コルチェスターのハイSt.を素見したり。スーパーで食材を買ってきて料理を作ったり。久しぶりにのんびりとリラックスすることが出来たコルチェスター。可愛らしい友人のアパート広大な麦畑テンションが上がると死ぬまで走り続けてしまう男の子のジャスパーテンションが上がるとおしっこをもらしてしまう女の子のアンバイギリス一古いと言われるコルチェスターの町並み中国人が経営するdamnな和食レストラン、"NIPPON CENTRAL"イギリスと言えばfish & chips最後の晩餐コルチェスターを去る前夜の夜の有り得ない空この日は良く晴れた一日でしたが、ここまでの夕焼けになるとは。ちなみにこの時22時を回っています。笑煙たい顔のDaviくんに別れを告げコルチェスターの町に、Davi夫婦に別れを告げ、パリに戻ります。本当によくしてもらったので、別れが惜しかった。来週は1人アフリカへ。不安もあります、淋しさもあります。でも希望もあります。
2012年02月08日
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一路パリからロンドンへ。ドーヴァー海峡を潜りつつ、ユーロスターに揺られること3h。後から知ったのですが、ロンドンまで得意のユーロラインズ・バスもあるし、ユーロスター自体も曜日と時間で料金が変わってくるようでパリのUKイミグレでは感じの悪いおねえさんに軽く入国を拒否されつつロンドンはパンクラスSta.で日本からイギリスに嫁いだ友人と感動の再会!!ここから友人夫妻の住むエセックス州 (悪名高き。ここに住む人たちは基本マナー悪し、エセックスガールと言えば、かなり下げずんだ言い方らしいです、ビッチ的な) 、コルチェスターへ。イギリスもスイスほどではないにしろ、例外なく全てが高い。チューブと呼ばれる世界最古の地下鉄 (夏は死人が出るほど暑いらしい) も、ゾーン制で、1ゾーンL4、当時のレートで600円ほど。コルチェスターまでも1時間ほどで3000円はしました。ロンドンの重厚な街並み諸外国ではよく見かけますが、日本でこんなことしたら…ダブルデッカー of ユニクロ大英博物館モヤイまで…世界中からガメてきたモノが多数コレクションされていましたがちなみに入場料は無料、当たり前か。それにしてもイギリスは曇りの日が異常に多く、故に "SAD" という病気があって、毎年自殺者も相当数いるとのこと。冬の北陸のようなものでしょうか。しばらくこの町 "エセックス" にて旅の疲れをリフレッシュすることにしました。
2011年10月10日
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ベルンの街を跡にした僕たちは、念願の (きっと僕だけ)「TGV」に乗って、花の都「PARIS パリ」へ向かいます。 "Berne 駅"BERNE TO PARISフランスの新幹線、TGVなかなかニクい顔してます。スイスは物価は高かったけれど、本当に綺麗で自然も多く、平和的で過ごしやすい国だと思いました。いつか歳をとって、お金に余裕ができたらまた訪れてみたい国。TGVの車内では独学で各国の言葉を勉強している車掌さんがいらして、勿論日本語も堪能。随分感心したことを覚えています。TGVと言っても、路線が路線だからか、高速で走るのは1時間ほど。これなら我が国の新幹線、"のぞみ" の方が勝る、と異国の地で勝手に采配。到着したパリではまた宿探しに苦労。何件も何件も回ってみても、駄目。結局翌日安い部屋が空く、と言うから我慢して泊まった宿も、翌日も部屋は空かず。また宿探し。バックパックと彼女を残し、安宿を探す、勘だけで。どうにか1泊19.5ユーロの宿を発見!!勿論全てアウトサイドだし、お世辞にも清潔とは言えないけれど、ここはフランス、それもパリ。一休みしてから観光に出るも、僕にはシャンゼリゼにアエロフロート (ロシアのポンコツ航空会社) があって、日本人のオバさんが働いていて、PARIS-NARITAが8万円を切っていたのでいよいよ彼女の帰国日を予約。解ってはいたし、終わりがくるものだけれど、今までカイロからずっと2人で旅をしていたので淋しくなります。…が、彼女はTOKYOに帰るのを、大好きなお母さんに会えるのを楽しみにしているようで、僕とは全く違った心境の様子。女ってのはー 現金なものです。ベルサイユ宮殿華やかすぎる門如何にも、的な外灯如何にも、的なベルサイユの庭園シャンゼリゼ通りと凱旋門はて?何処かで見たようなおフランスにもかっぱらわれていたようです。。欧米列強恐ろし…。ちょっとがっかりのエッフェルタワー極めつけはこれだ!!LOUIS VUITTON フランス パリ本店回りには怪しい中国人の姿多数。どうやらここで商品を購入し、本国に持ち帰るか、どこかの国に持ち込んで売り払うようで。コミッション払うから代わりに買ってくれと何度か頼まれました。どこでもかしこでも厭らしいことをしてらっしゃいますなー。
2011年10月06日
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翌朝、きしむ廊下を静か~に、静か~に部屋から宿から脱出し、ズーリック駅に向かい、ここから電車で1時間弱のベルンへ。のチケットを買う場面でOMG中央線の特別快速くらいの次元の電車。全てにおいて。窓際に電気のプラグはあったけど。それが46Fr=4000円越えもう何がきても驚きません。彼女と2人、「はいはい」ってな感じで。ただ今日中にこの国から脱出したい、そう思いました、本気で。ヨーロッパ、特にスイスなんて国は、貧乏旅行で行くところではありません。旧市街が世界遺産に認定されているベルンの町一軒一軒の家のプランターの花まで統一されていて、可愛らしいベルンの旧市街。こんなところで放牧市街地からそう遠くはありません。遠くにアルプス山脈の雄姿回りに美しい緑あり、アルプスの姿あり。アルプスなんて子どもの頃の歌でしか聴いたことのなかった世界。笑けてきました。もう最高、それしか出てきませんでした。旧市街の町並み市街地の街並みさすがスイスなチョコレートの品揃えはて??はてはて??もうよくわかりません。
2011年09月27日
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ツーリスト・インフォで訊いた通り、"ズーリックの街の" 安宿街へやってきた僕たち。駅からの道中、今まで通ってきた他のヨーロッパ諸国とは違い、大分落ち着いた、そして清潔で大人な印象。ヨーロッパの時点で精錬されていますが。「何泊しようか?」なんて余裕こいていた僕たち。1件目の安宿のドアを叩いて…2件目…3件目…その値段設定に言葉を失いました街の人たちに訊いて回った恐らくこの街で最安であろう「Back Packer's Hostel」そこですらダブルでアウトサイドで140Fr=当時のレートで12000円無理無理無理。何かおかしいと思ってたんだよなー途中にあったスターバックス、のラテ。日本ならトールで400円ちょいちょい?が、まさかの15Fr 十五フランク 15Fr スーパーで見た出来合いの薄っぺらいサンドイッチだって7Fr=600円越え。笑ってしまいました結局宿も1階が怪しげなバー (恐らくここで女の子を選んで)上は売春宿になっている、その一部屋を借りて、夜な夜な激しい喘ぎ声や、獣の様な喚き声、トイレに行こうとすればバス・ローブ姿のレィディーに出会いつつ一晩を明かし、早急に次ぎなる街、スイス連邦の首都、「BERN ベルン」を目指しました 黄色が鮮やかで美しいモダンなスイス・フランク紙幣ズーリックの街並みズーリックの街並み2ズーリックの街並み3スイスのタクシーこれじゃぁ、ねぇ。迂闊に片腕挙げて止めれません自転車専用レーンヨーロッパでは多く見かけました。電車に乗って、自転車専用車両があったことも。売春宿@Zurich
2011年09月14日
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ヴェネツィアの町に別れを告げた僕たちは、一旦ミラノに戻り、そこから国際列車に乗り換え一路、スイス北部、遠くアルプス山脈を眺める同国最大の都市、「ZURICH ズーリック」を目指すことにしました。あくまでも軽いノリで。後先考えず。ロクに情報を集めず、「スイス」「アルプス」と言うだけでスイスの国際列車MILANO TO ZURICH=118ユーロ……TO ZURICHヨーロッパ切っての避暑地、コモ湖を横目に湖畔には各国王室や富豪たちの豪華できらびやかな別荘が多数。具合良く進んでいた列車が、コモ湖を過ぎた所で突如緊急停止。結局再度この列車に乗車することはできず、後からやってきた代わりの列車に揺られてズーリックを目指すことに。かなり緊急のことだったようですが、理由を尋ねても教えてくれず、駄々を捏ねた子どもをあやす如く、クソ硬いグミと水を与えられ葬り去られました勝手に1st classに乗り込み御満悦の彼女再出発した列車はアルプス山脈の奥へ、奥へ。その景色の素晴らしいこと。「ハイジ」の世界そのもの。それは緑が美しく、そこそこに滝があり、途中雲の中を走って。。童話の世界に潜り込んだかのような光景に、感極まって涙が出ました。そんなおとぎ話の世界もつかの間。列車を降りて、駅のツーリスト・インフォで訊いた安宿街を目指した僕たち。そこで待っていたものとは?!
2011年09月09日
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部屋の小窓から見えるゴンドラ、何処からか聴こえてくるカンツォーネ。町には美味しそうな食べ物が沢山。一度だけ彼女と本場のジェラートと、トロケたチーズとハムがサンドされた、サンドイッチ的な "カルツォーネ" を買って食べたけど、これがここ、ヴェネツィアの町は本当に気に入りましたある日ヴェネツィアの迷路を2人して散策していると、橋のたもとで、ニースからのバスで一緒になった日本人カップル(トイレ代も節約していた)に遭遇!!何をしているのかと訊いてみれば、2人で楽器を叩き、歌を歌い、それで稼いだお金で旅をしているのだとか。「今日は屋根付きに泊まれそうだね!!」と、彼女さん。ヴェネツィアに着いてからはしばらく野宿だったそうで。同じカップルのパッカーでも、スタンスは全然違うな、と、改めて感心したことを覚えています。ホテル某のエントランス車停め、ならぬ、"ゴンドラ停め"某氏の玄関町中網の目のように張り巡らされた水路オンリー・ゴンドラの標識こちらもヴェネツィアヴァージョン旧き良き、と、現代のコントラスト突如ヴェネツィアの港に "イカダ" で乗り付けてきたヒッピーたちリアルト橋からのビュー運河には400もの橋が架かっているそう。細く狭い路地 "ヨーロッパ1" 気に入った、と言ってもいいくらい好きだったヴェネツィアの町。高潮がくると、しばし水没するヴェネツィアの町。建物自体もかなり老朽化が進み (元々干潟の上に建てられたそう)、地球温暖化も相まって、近い将来、島全体が水没するとも囁かれている水の都。世界を旅した中で、死ぬまでにもう一度訪れたい場所の一つとなりました。カーニバル (謝肉祭) のマスク
2011年09月07日
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優しく気さくだった「HOTEL GAMBARA」のオーナーと "JUS BIG CITY" だったミラノの街に別れを告げ、水の都「VENEZIA ヴェネツィア」へ。ヨーロッパへ入ってから、割りと当たり前になりつつある、4人掛けボックススタイル対面方式の電車に揺られ到着したヴェネツィアの町はいい感じ。細々とした路地、それと同じく沢山の水路。風情があってロマンチックで、、しっかり浸れますが、しかし、物価は高い。netで1h、8ユーロもあり…。事前にホステルワールドで調べた宿の相場もなかなかどうして駅前にいた客引きと交渉して、部屋の小窓から水路の見えるペンシオンにしたけれど、それでも1泊ツインのインサイドで60ユーロ駅から中心部へ向かう船も高し。ただ、ノッケから雰囲気は◎◎◎僕たちの見たかったイタリアは、どうやらここにありそうです。中心部へ向かう船からのビューカナル・グランデに架かる4つの橋の一つ、"リアルト橋"橋の上には沢山のお土産屋さんやペテン師の姿水路を行き交うゴンドラいつかは揺られてみたいヴェネツィアでの僕たちの家 "San Salvador" のある裏路地
2011年09月05日
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翌朝、居心地の良かったニースの街と特に部屋に別れを告げ、国際バスにてイタリアは「Milano ミラノ」を目指します。途中、2006年冬季オリンピックの開催地だった「Torinoトリノ」を通過。このバスの乗客に、当時はヨーロッパ各国の巷で、彼女と2人、ジャンベの様な太鼓をたたいて路上パフォーマンスをして、そのチップで旅を続けているカップルに出逢いました。ヨーロッパでは、大抵の場合、公衆トイレは有料だったので (1ユーロ~2ユーロくらい)、日に何度も行ってはそれなりの出費になりますが、それでも生理現象なので仕方がない (S野軍曹のように人の国で "立ち○○○" するわけにも…) と僕は思っていましたが。彼らは、休憩に寄ったトイレが有料となると、我慢していました。僕なんかは、ヘタレパッカーでしたが、すごい人たちがいるものだと、感心したことを憶えています。ミラノでバスを降りた僕たちでしたが、ここが郊外のバスターミナルだったため、地下鉄に乗って街に散らばる安宿街を目指します。無数のヒマワリがラッピングされたミラノの地下鉄が、この街、ニースより宿事情は最悪で…。彼女と2人、半ベソかきながら何度も何度も地下鉄に乗って、今夜の寝床を探しまわりました勿論事前に情報として調べてはいましたが、ヨーロッパのネットカフェでは、大抵の場合、日本語書き込みは愚か、読み込みすらできないこともありました。PC内に、インストールすらされていないのです。G8に入ったって、世界屈指の裕福な国になったって、ネットカフェ入って言語環境すら用意されていないなんて遺跡の様な "ミラノ中央駅"そんな日本ですが、世界各地での日本食ブームには驚かされるものがありました。それも今となっては「FUKUSHIMA」の一件で、その知名度もガタ落ちでしょうが。この時も疲れ果てて地下鉄を降り、宿を探していると、まさかの「日本食屋!!」「鉄板焼き」と看板!!これは!!と店内に入り、「すみませ~ん!!!!」店の人間の様子がちょっとオカシイ。僕らの挨拶にも返事はなし。それもそのはず、彼らは日本人に化けた「中国人!!!!!!!」相変わらず厭らしいことしてるわ~、と閉口各国で日本食屋を多く見かけましたが、大抵の場合経営しているのは大陸の人間でしたそんなこんなでようやく見つけたペンシオンのような「GAMBARA」という宿。自分の住むアパートを改築して、何部屋かを安宿として提供しているようで。ここのオーナーは本当に親切で優しかったです。お互い下手な英語で意思疎通をし合い、この後に向かおうとしていた「ヴェネツィア」行きの列車チケットからなにから、色々助けてくれました。部屋のバルコニーから地中海特産の真っ赤なオレンジをイメージした "Fanta Aranciata"およそ500年の時をかけ、造られた世界最大のゴシック建築の、ミラノの "ドゥオーモ" こちらのドゥオーモ、500万人のカトリック信者がいる世界最大の司教区であるミラノ大司教区、を統括する首都大司教の司教座聖堂であるとのこと。 "ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア" と呼ばれるミラノのアーケードありとあらゆる高級ブティックからカフェからバーから入居していました。勿論PRADA本店があるのもここ。ですが、この時の僕たちには、ここは苦痛以外の何者でもなかったことをよく覚えています。世界各地から大金を持ってやってきた観光客 (大抵の場合いがエイジアン) が、あらゆるブランドのショッピングバックを肩に、精一杯のお洒落をし、次から次へとお店をハシゴして興奮し、感極まっている様は、「異常」以外の何者でもありませんでした。ちなみにここのガッレリア、東京ディズニーランドのワールドバザールのモデルになったことでも有名です。僕たちには、、特に僕には、単なる大きな街でしかなかったミラノには、宿事情も重なって1泊しかせず、翌日の列車で「水の都、"Venezia ヴェネツィア"」を目指しました。
2011年08月25日
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この街に滞在中、"トルコ旅" を供にした、あの懐かしのS野軍曹からHotmailにメールが届きました。内容は、「2ヶ月後にデュッセルドルフで治験バイトが始まる、報酬は2週間で2500ユーロ、ヨーロッパ圏内からのチケットは製薬会社持ち、内容は血液を凝固させないための薬剤の投与、至急連絡されたし」これが元で彼女と大ゲンカ。僕はハナっからドイツで治験バイトを行って、先行きが怪しくなってきた旅の軍資金に "色を取り戻そう" と目論んでいたのですが…。どこでもかしこでも言い合いになり、さぞニースっ子にはあの "エイジアン供" と白い目で見られたことでしょう。カイロで合流してからというもの、四六時中片時も離れることなく、全ての時間を共にしているのです。しかもそこは異国の地、全てが相手、お互いなのです。この経験も勿論生まれて初めてのことだったので、お互い思いやりに欠け、自分達の主張を通そうとすれば、物事は悪い方向へ、どんどん加速していきました。この時は結局、治験バイトはよして、どうにか収まりましたが、人間だから仕方ないと言っても、旅先で尚、"ケンカ" なんて下らない争いは避けたいものです。まぁ普通に考えて、「治験バイトします! 未承認の薬投与されて金もらってきます!!」「はいそうですか、いってらっしゃい!!」という彼女がいるか…それに冷静になって考えてみれば、そんな風にして得た金で、旅を少し長く続けたところで、それがどれほどの意味を成すのか、同じように神聖な時間として過ごすことができるのか、自信が持てなくなりました。 "Andorra2000" で購入した "ミロ" の偽物大抵この手の粉物は食後のデザート的な代物として、ジップロックに移し替え、バックパックに忍ばせていました旧市街の裏路地だいたいこのくらいの大きさのバケットパンで1ユーロ弱、これにフランスに入ってからは、どこの街にも必ずある、 "プーレ" と呼ばれるチキンの丸焼きを買って帰り、victorinoxで捌いて毎日ルンルンで食べていましたちなみに1羽3ユーロちょっとです。街を見下ろす高台から白い波打ち際、鮮やかなブルーのコントラストが眩しいニースの海。勿論トップレス多数紛れてオバさんブヨトップレスも多数流石欧米!!!!真っ青な海に面したオープンテラスのお洒落なカフェやレストランが並びます子ども用おもちゃこんな物でもこのセンスの良さ、日本なら真っ赤なフェラーリとかそんな潰れた餅のようなホワイトピーチ所変われば~~~。果物は例外を除いては日本がダントツ!!日がな一日地中海を眺めながら散歩空を見上げれば、引っ切りなしに飛行機の姿夜はプーレの1羽食い気づけばフランスの高級リゾートに5日!!!!これはマズいと翌日のバスで一路西へ向かい、イタリアはミラノを目指すことにしました本当に、残高の減り具合が尋常ではないのです。アジアで節約していたのがアホらしく思えてきました
2011年08月16日
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朝一番のバンでアンドラを出発し、まだ夜が明ける前の峠道を、どこかで乗ったのと同じ型のメルセデス製のバンでグイグイ登ります。初夏だと言うのに外気温は0度を下回り、オープンをまだ先に控えたゲレンデと共に、閑散期のホテルが多数見受けられます。万年雪を抱いた岩山が月明かりに見え隠れする神秘的な光景。少しずつ西の空が紅く色づき始めると、同時に山の景色が目を覚まします。これまたTVの中の世界。岩肌には厚く、緑々したコケが生え、背の低い黄色い花が咲き乱れ。谷になっているところには、雪解けの滝。ハイジ顔負けの世界。これは1人でなくて良かったと、隣りの彼女の顔を覗き込みます。フランスに入り、トゥールーズの駅で列車を調べると、ニースまでの空席があったので、そのまま列車に揺られること6時間。長閑な小麦畑が広がる南仏、プロヴァンスの風景。モンペリエ、マルセイユ、カンヌを経て、かの有名な「Nice (ナイスではありません) ニース」到着。ピレネー山脈を越えただけで、スペインとのこの違い。高級ブティックもそこかしこ。それでも物乞いの姿を目にし、日本との違いを実感。日本にいる "ホームレス" とは、根本的に違います。フランス国鉄SNCF、"Nice駅"事前に調べた情報では、ホテルは腐るほどある、とのことでしたが、こちらはシーズンオンで、どこもどこもフルFullふる!!この時ほど宿探しに翻弄され、泣き入ったことも稀でした。最終的には彼女とバックパック、小型ナイフを残し、1人、安宿を探しますが、こんな街に安宿なんて、、なし!!ユースですら、ダブルで70を超えています結局、何十件と探した中の最安、ダブルで60ユーロの部屋にしましたが、この頃からです、僕らの金銭感覚も、ユーロップ仕様になり始めたのは…。citiのワールドキャッシュの口座からは、みるみるうちに、汗水垂らして貯めた軍資金が、ユーロップの土地へ旅立っていきましたフランスから先は、何より宿探しに困りました。my PCも持っていないので "HOSTEL WORLD" で予約するのもあれだし…。新しい街に着く度、非常に苦労したことをよく、覚えています。最終的には、いい宿が見つかるよう、お祈りさえしていましたから…フランスと言えば日本にはない、多くのフレーヴァーがありました。さすが本国…これではわかりませんが、娘さんのほうは同じ柄のスカーフを首に巻いていました。さすがにこの時は、「LVかっこいいー!!」とは思いませんでしたが高台から見下ろす、ニース旧市街旧市街の町並みたったのこれだけ、これだけで、相当の絵になる風景。ヨーロッパは、ただ街を歩いているだけで、その歴史的町並みに、デザイン性に、センスにうっとりするところでした。
2011年08月10日
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スペインの街に、イベリア半島に別れを告げ、スペインとフランスとの国境を成すピレネー山脈の東部に、面積は468平方km、人口およそ7万5000人という、まぎれもない小国、「アンドラ公国」があります。バルセロナの街を跡にした僕たちは、フランスに入国する前に、山間のこの小国で一休みすることにしました。冬でもなければ全くやることもない、この小さな小さな国ですが、2人の思い出作りのため、そして少しばかりの話しのネタに、数泊することにしました。我が家からのビューアンドラの首都、"アンドラ・ラ・ラベリャ" の町並みシーズンオフのため、ようやく見つけた宿でしたが、値段の割に清潔で広く、しかもバスタブまでついていたので、彼女と2人、久しぶりの湯船に浸かり、「お湯に浸かる、ってこんなに気持ち良いものなんだね」と、時間を忘れるほど浸かりました。アンドラ・ラ・ベリャの町並み標高も1000mを越えているので、初夏と言えども、朝晩は肌寒かったのを憶えています。ん?!んん??!!この街でまず最高だったことは、「ANDORRA2000」たるスーパーマーケットがあって、プロモーションで色々な物が安く売られていて、シャンプーから何から買いだめできたことと、手続き無しで免税で買い物ができるとあって、最近壊れてしまった腕時計をこの街で買い替えました。まさかのG-SHOCKそして何よりT/Cを現金化するのに、コミッションが発生しなかったこと!! しかも "Credit Andorra" という名の、かなりしっかりした銀行でしたが、「No commission」を連発するスタッフに笑い出しそうになったことを憶えています (笑)なにかと居心地のよかったアンドラで、更にの延泊をしそうになったところでどうにか持ち堪え、フランスはツゥールーズ行きのバスチケットを購入し、思い入れの激しかったアンドラの町に別れを告げました
2011年08月05日
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翌未明4時、カタルーニャの州都、「Barcelona バルセロナ」の北バスターミナルに到着。いくらユーロップと言っても、初めての街でこの時間は一抹の不安が残るので、薄暗いターミナル内で時間を潰し、少し明るくなってから、徒歩で中心地で安宿の集まる通称「ゴッシク街」へ。早朝からこの街でもゲイやレズビアンのカップルを多く目にしましたここはバルセロナの "セントロ" と呼ばれる旧市街に位置し、古くはローマ時代に起源をもつ、この街の中心地で、およそ2000年にわたるバルセロナの歴史を感じさせてくれるエリアです。セントロにある細い路地裏路地で見つけたタイル画数々の歴史の舞台になったであろう、"王の広場"三方をゴシック様式の建物に囲まれた、由緒ある広場。中世の佇まいを今も残す、バルセロナの街並みゴシック真骨頂!! バルセロナの守護聖人を祀る、ステンドグラスが美しいカテドラル13~15世紀に建てられ、完成までにはおよそ150年の月日がかかったと言います。カテドラルの地下、バルセロナの守護聖女、 "サンタ・エウラリア" の墓室セントロを歩いていて、偶然出逢った結婚式旅先でこのような門出に出逢うとは◎そしてこの街で忘れてはいけないもの、それは「カタルーニャ風パエーリャ」と、この街が生んだ偉大な建築家、ガウディーも制作に加わった「サグラダ・ファミリア大聖堂」スペイン名物 "パエーリャ"久しぶりにパン以外の物を食べて最高に幸せだったことを憶えています。ちなみに彼女の所へは、何故か "カタルーニャ風" のパエーリャが。具材はこれまたこの地方ではポピュラーな"ウサギ"の肉。子どもの頃にウサギを飼っていて、相当に可愛がっていたようですが、なんら問題なく口にしていた所をみると、少しずつ、旅にも慣れてきた様子。想像より幾分小さな、かの"サグラダ・ファミリア"の姿が今も尚、建築が進められ、人々を魅了し続けている "サグラダ・ファミリア大聖堂"勿論内部の見学は未。せっかくスペインまではるばるやってきたのに、フットボールも、イビサへも行かず、この国を去ることになりましたが、それでも当初の予定より大幅に規模拡大してのヨーロッパの旅。中世の旅は、まだまだ続きます。
2011年08月01日
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マドリッドの街は、9世紀にイスラーム征服地の砦として、ムハンマド1世によって造られた、小さな集落が始まりの高原の街です。そんなこの街に着いて先ず驚いたのは、同性愛者の多いこと。どこぞかしこで「ちゅっちゅっちゅっちゅっ」あんな可愛い子や、あんな綺麗な子までその後に何かの書物で読んだところによると、世界で1番同性愛者が多いのがこの国、スペインなんだとか。それ故多くの犯罪が頻発しているのも事実だそう。そして、とても大きな街で、世界有数の美術館や、あの「MITSUKOSHI 」マドリッド店まで存在し (残念ながら僕たちが訪れたその年に閉店する予定でしたが。僕たちが勝手に名付けた通称 "ヒデキ" 元気かな。よくこのMITSUKOSHIでT/Cを現金化するために、最安の商品を買ったことを憶えています。笑) 世界の名だたるブランド店や、世界最古のレストランまで存在し、あの超有名なフットボールチーム、レアル・マドリッドの本拠地の街「Madrid」何不自由なく、あらゆる物が簡単に手に入り、東南アジア、中東、北アフリカを旅していた時とは大違いで。でも心の貧しい人を多く目にするようになったのも、この頃からでした。いくら物質的に貧しくても、この街にいるホームレスのような、闇の貧困を抱えて生きる人たちは、今まで旅した国では皆無でした。そして、パッと見は裕福で、何の不自由もなさそうな人々の、心の渇き。王宮150m四方の建物の中に、2700もの部屋があるそう。中南米対陸から奪ってきた財宝が、いかなるものだったか、容易に想像がつきます。哀しいかな、入場料が払えなくて、遠目からの撮影のみ中世ブルジョワを連想させる街灯Praza de Armasを挟んで反対にある "アルムデーナ大聖堂"Praza Mayor を囲むように建てられた家、そして中央はスペイン王家の紋章この街で、エジプトはダハブで鼻緒が千切れてビニールテープでグルグル包帯していたネパールはポカラ産のビーサンに別れを告げ、新たなる「Diesel」のサンダルと、MANGOでセール購入したTシャツ片手に街を去り、次なる目的地、「 Barcelona バルセロナ」を目指しました。そして廻り廻って、アジアに戻り、バンコク滞在時に、私の魔法の「VISAカード」がスキミングされ、スペインはマドリッドで悪用された、との連絡が入ることになるとは…。偉そうなことぬかして適当なことやってるから思わず日本が恋しくなって、しばらく全開不審にガラス越しに店内を覘きまくった "トーキョー屋""Adios amigos..., adios Madrid...″
2011年07月28日
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マドリッドのバスターミナルは、国際バスが何本も発着している、とても大きなものでした。今となっては "懐かし" のトルコ方面へのバスも発着していましたこの街での我が家は、マドリッド中心部にある「プラザ・マヨール」のすぐ近くにある、お母さんがとても優しく家庭的なオスタルでした。早朝7時前からチャイムを鳴らしまくった僕ら。なんの嫌な顔もせず、ツルッツルのシルクのパジャマで「最後の1回がなかったら起きなかったわ!!」と快く受け入れてた「Hostal Esparteros」のオーナーママで親日派?の「マリアさん」マドリッド滞在中は大変お世話になりました。この日は運良く日曜日、と言うことで、1ユーロマックを朝食にし、「ソフィア王妃芸術センター」へ!!!!ヨーロッパでは多くの美術館や博物館が、曜日や時間によってフリーの日、時間帯を設けていました。普段では6ユーロなので2人で12ユーロは痛い出費です。早朝の "Praza Mayor=マヨール広場"マドリッドの街はとても大きな街で、メトロだけで12ライン、市バスも多く走っています。僕たちは極力使うことはできませんがこの時も4駅歩いて、「ピカソ、ダリ、ミロ、タピエス」ら、現代美術の巨匠の作品を所蔵する、ソフィア王妃芸術センターへ。そうです、当初はここに所蔵されているピカソの「あの作品」をこの目に焼き付けるためだけにヨーロッパ入りを決めていた "ソフィア王妃芸術センター"パブロ・ピカソが戦争への怒りと悲惨さ、命の尊さを描いた大作、「ゲルニカ」を所蔵する美術館。この日はフリーということで、朝から既に長蛇の列。ちなみにこのムセオ (スペイン語のミュージアム)、18世紀の病院を改装したものだそうでです。この超大作「ゲルニカ」だけはこの規模故に、日本の土地を踏むことは簡単にはないだろうと思っていました。世界に出て、また一つ、「夢が叶った」瞬間です。この街に滞在する間は、他にも「受胎告知」を所蔵する「プラド美術館」や「ディッセン・ボルネミッサ美術館」等、数多くの芸術作品に触れることができました。ある日のプラザ・マヨールkonichiwa
2011年07月25日
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歴史地区が世界文化遺産にも登録されているポルトガル第2の都市、「Porto ポルト」街の歴史は古く、その起源は5世紀以前までさかのぼると言います。「ポルト」と言う地名、勿論国名の「ポルトガル」のもとでもあり、世界的に有名なワイン、「ポートワイン (ポルトワイン)」の産地でもある "ポルト"しかしこの街がなかなかどうして、暑くしかも高低差の比がリスボンの比ではありません街の中も上がったり下がったりリスボンでもそうでしたが、アラブ人やインド人が多く住み、懐かしの "ケバブ屋" や、 Windows Vista搭載PCのネットカフェ、1時間1ユーロ、なんてものを、奴ら経営していました。いくらヨーロッパと言っても、西ヨーロッパの西の田舎街。外を歩いていると、昼間からプッシャーらしき人物が蔓延っていたり、普通にジョイント片手に歩いている若者も多く見かけます結果的にはヨーロッパでは当たり前な光景でしたがポルトの歴史地区とドウロ川に架かるドン・ルイス1世橋アーチ型の美しい鉄橋。下段部は道路、上段部はメトロの線路となっていて、歩行者も通行可能。ドウロ川の崖にそそり立つ歴史地区の美しい町並み歴史地区に残る "サン・フランシスコ教会"赤と青のコントラストが美しく、そしてなんとも可愛らしい郵便ポスト日本人のセンスでは絶対に造られることのない "ツアーバス"もちろんちゃんと走ります可愛すぎる?!HELLO!!笑。ちなみにここは下り坂でした。こんなものでもアートなプレートポルトの町並みこの時初めて、メルセデスがカッコイイと思いました。モダンなメトロの改札突如現れた "チンドン屋?!" 的なこんなものでも所変われば~、です。さすがヨーロッパと絶賛してしまった町の雰囲気、センス、中世の町並みに触れ、フルタリア (果物屋) で懐かしの「フジリンゴ」を発見したポルトの街に別れを告げ、国際バスに乗り込み、スペインの首都、「Madrid マドリッド」を目指しました。
2011年07月22日
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ここ、リスボンの街には、沢山のレストランがあって、いつもどこかでいい香りが漂っていました。色んな物を食べたいけれど、僕たちには無理。いつもスーパーにて、ハムとパンを買って来て、彼女がサンドイッチを作って。生野菜がパックされた袋も、毎日買えるわけではなくて、たまに安い日に買える程度。僕は電気コイルでお湯を沸かして、粉物のスープを作って。そんなのが2人の幸せだった旅の日常。24時間毎日一緒。経験する全てが初めてで。色んな "国" で "地域" で、何日かずつの生活。こんな幸せそうはありません。ポルトガルという国も、一時はアラブ人に占領されたことがり、未だにアラブ色が残っている風景を目にすることがあります。メトロ、バス、トラム、ケーブルカーを1日乗り放題のチケットを購入し、無駄に途中下車しまくり、散策散策驚いたことにこのチケット、1日と言っても、日付の1日ではなくて、丸々24時間制のチケット。「正論!!」と1人で納得。ペンシオンの前からケーブルカーに乗って "グラサ展望台" へここ、リスボンは、"七つの丘の都" と言われるほど丘の多い街です。ケーブルカーの運転席リスボンの町並み中央に見える建物は、リスボン最古の建造物、"サン・ジョルジェ城"リスボンの町並みヴァスコ・ダ・ガマが大航海に旅立ったリスボンの海帰りがけに、以前から気になっている、ものすごいゴッツイ真緑のバナナを購入。どんなものかとワクワクドキドキ大好物のバナナyey部屋に戻って皮をむいたら…、「バッキッ!!」……。どういうこと??硬くて硬くて、とても手では剥けませんようやくのことナイフで剥いて一口。「」シブい、実に、シブいきっとこれは新種のバナナで、まだまだ若くて、もっとじゅくせいさせるのだと1人ガッテン。もう1本買っていたので、大事に大事にバックパックに忍ばせ旅を続け、頃合いを見計らって念願の試食!!木???これは最早野菜。芋の類い。アフリカンが多い街だったので、きっと大陸では火を通して使うんだと勝手に決めつつ。。。リスボンの街に別れを告げ、ポルトガル第2の都市、「Porto ポルト」へ向かいました
2011年07月20日
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夜中にあまりの寒さで目が覚め、次に目を覚ました時、彼女があわてて、「大変!!すごい熱!!!!どうしよう???!!!」なんて言い出したので、一度はポルトガル行きを断念しようとも思いましたが、日本を出発する前に、好意にしてくれている歯科の先生から "餞別" に頂いた薬を飲んで気合いで出発。旅先での体調不良は、かなりのストレス。まさかの ブタ?! と勘ぐったものの、ヨーロッパの人間って、全くマスクしないんですね、アメリカも。始めこそ僕もマスクをしてましたが、バカにされるし (滑稽で理解できないみたい) 、ある時TVで目にした、まだブタインフルが日本で発症していない時に、マスクが売り切れ、皆一様にマスクをしている祖国の姿を、遠い異国の地で目にした時は…。軽度の恐怖すら感じましたそれ以来欧米化した僕は、二度とマスクをすることはなくなりましたリスボン中心部にある "ロシオ広場"カフェや土産物屋が並ぶ、リスボン観光の起点。非常に坂の多いリスボンの街いかにも坂の多い街 "リスボン" らしい乗り物、ケーブルカーこちらは "トラム"起伏に富むリスボンの街の景観を楽しむにはもってこい。鉄の車輪で、ゆっくりとしたスピードで、ゴツゴツと走る様がたまりません。世界遺産にも登録されている "ジェロニモス修道院"ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓を称えて建設され、本人の遺体も安置されています。大航海時代の莫大な富をして建設され、最終的な完成には300年の月日がかかったといいます。ベレン地区 (インド航路発見の際に出発した地) の町並みポルトガルの首都であり、大航海時代の莫大な富をして造られた重厚な街。当時は世界の貿易の中心の街で、世界最大の都市だったリスボン。高台に登り、街を眼下に眺めれば、忘れ去られた栄光と陽炎の時に、タイムトリップすることができます。この街が気に入った僕たちは、運良く、ロシオ広場近くにある安ペンシオンを発見 (ただ1階がゲイバーだったので、毎晩毎晩お祭りでしたが) 家族の人たちもとても親切でフレンドリーだったのもあり、1週間近くステイしました。ちなみにこの日は旅一番の体調不良だったことと、街に多くのお洒落なレストランやカフェがあったので、そのうちの一つ (値段で選んだ故に) ポルトガルでインド人が経営するイタリア料理のレストランにて、旅一番の豪勢??な食事を取りました。
2011年07月18日
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グラナダからバスでおよそ3時間半、アンダルシアの州都、「Sevilla セビーリャ」に到着。スペイン第4の都市だけあり、町並みはとても華やかで、イスラーム建築物が現在も多く残ります。旧市街を歩けば、昔ながらのたたずまいを残す民家やお店も多く目にする、まさにアンダルシアの風景、といった街でした。スペイン最大規模を誇るセビーリャのカテドラル中世を思わせる街灯街灯一つ見ても、ここはヨーロッパ。この街は、ポルトガルは「Lisbon リスボン」行きのトランジットのために立ち寄ったにすぎないので、1泊だけし、翌朝のバスでセビーリャの街を跡にしました。かつての駅舎を改築して造られたショッピングモール、ここは地下にあるスーパーこの頃から新しい街に入ると先ず、スーパーを探すことが決まりとなりました。始めのうちこそ "Bar バル" と呼ばれるスペイン人の社交場で、 "ボカディーリョ" と呼ばれるサンドイッチ風の軽食で1日を過ごしていましたが、それでも出費はかさむ一方なので、ついに "自炊" (パンとハムと袋詰めの生野菜を買って、毎日サンドイッチを作っていました)を始めたのです。毎日決まったメニューで、朝はフルーツ、夜はサンドイッチでしたが、この時が最高に幸せな一時でした。良く熟れたパイナップルを見定め、安物のハムを買い、野菜を洗面所で洗い。。その町に長居する時はマヨネーズを購入。日本にいれば、好きな時に冷蔵庫から冷たい物を出し、レンジでチンをすれば温かくなるのが当たり前ですが、そんな当たり前が当たり前では無い旅の実状に、とても感謝いていました。一日一食、毎日こんなサンドイッチでしたが、彼女と2人、心はとても裕福でした。
2011年07月16日
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グラナダ、と言えばアランブラ、というほど、この街を高名にしている「スペイン=イスラーム文明」の輝かしいモニュメントがアランブラ宮殿。グラナダ王国を見下ろす丘の上に建てられたこの宮殿に、最盛期は2000人以上が暮らし、市場、モスク、住宅街まで整備されたと言います。そんな栄光のアランブラも、キリスト教徒によるグラナダ陥落に際し、イスラーム最後の王は、イサベル女王に城を明け渡し、北アフリカに逃れたそうです。アルカイセリア、と呼ばれる、イスラーム時代は市場だったアラブ街モロッコや中近東の土産物屋が軒を連ね、、タジン・クスクスなどの香辛料の匂いをかいでいると、イスラーム世界に舞い戻ったかの錯覚。値段を見ると、現実にグラナダ最古の町並みが残る "アルバイシン" と呼ばれるエリア白壁の家が密集するアルバイシンの町並み。敵の侵入を防ぐ城郭都市として造られたそうで、道は細かく入り組んで、方向感覚を狂わせます。この時も作り手の思惑にしっかりはまり、お約束迷子になりましたいかにも "スペイン" な民家イスラーム芸術最高傑作の呼び声高い、"アランブラ宮殿"アルバイシンの丘の上から。グラナダの街を見下ろすこうしてイスラーム最後の楽園を満喫した僕たちは、次なる目的地、アンダルシアの州都、「セビーリャ」を目指しました。
2011年07月14日
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スペインのバスもなかなか快適。ボルボ製の最新型グラナダのバスターミナルは2階建てで広く、そして近代的。次の目的地までのチケットを事前に購入 (街の中心地から離れているので) しようと、チケットカウンターへ行くも、ここまで差別的な対応も久しぶりここはヨーロッパかー、と、こんなことでも実感。笑イベリア半島におけるイスラーム最後の砦として繁栄を極めたグラナダの街。イスラーム追放の後も、アラブ様式は破壊されることなく、今も街の至る所でその余韻はひっそりと息づきます。それにしても、街全体のこの重厚感は単に歴史からだけくるものなのか。大航海時代以降、キリスト教布教の名のもと、中南米大陸から略奪殺戮を繰り返し、奪ってきた金銀財宝がいかなるものだったのか、容易に想像することができます。サン・ヘロニモ修道院"Catedral カテドラル"いかにもスペイン的なゴシック様式もさることながら、このレリーフには目を奪われます。 ちなみに本国スペインでも、植民地であった中南米の国々の街でも、このカテドラルを中心に街が造られています。最早言葉は出ずカテドラル内部カテドラル内部のステンドグラスグラナダの征服者であり、コロンブスが新大陸に到達する援助もした "イザベル女王" 礼拝堂の、王室礼拝堂カテドラルの一部と化している礼拝堂ですが、1521年落成のこちらの方が、歴史的・美術的価値も高いとのこと。聖具室ではボッティチェルリメムリンクら、女王の収集品が収められていました。街の風景この時既に9時近く。夜の街の美化に努めるバキュームカー、吸い殻専門隊グラナダでの我が家、Hostal Meridiano部屋は清潔で内装も可愛らしく、重厚な門に守られた我が家でしたが、トイレ・シャワー共同のツインで35ユーロ。この頃から限りあるはずの僕のお金に、何故か羽が生え始めました
2011年07月11日
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正式国名「Reino de ESPANA エスパーニャ王国」国土は日本のおよそ1.3倍で、イベリア半島のほぼ80%を占め、北はピレネー山脈を隔てフランスと、南は地中海を挟んでアフリカ大陸と向き合います。人口は日本のおよそ1/3の4250万で、首都はマドリッド。宗教はカトリックが圧倒的多数のキリスト国家。EU加盟国なので、もちろん通貨はユーロで、僕たちが訪れた当時のレートは1ユーロ=およそ120yen物価と言えば、路線バスがだいたい1.2ユーロ、安宿のトイレ・シャワー共同シングルで15ユーロほどでしょうか。5ユーロ紙幣これが最小額紙幣で、最高額紙幣は500ユーロ紙幣ですが、僕は見たことがありません。巷で一般的に使われるのは、US紙幣同様、20ユーロ紙幣。観光目的であればビザは不要で、90日まで滞在可能ですが、ヨーロッパの殆どの国が加盟している「シェンゲン協定」たるものが存在し、加盟国の第一国目のイミグレーションで入国審査をパスすれば、最終的な加盟国を出国するまで、それまでの出入国審査は不要。ですが、話しを変えれば加盟国全て、トータルで90日、ということになります。治安面はヨーロッパなので基本的に問題ありませんが、大都市や観光地ではスリ、置き引き、引ったくりと言った窃盗事件が多発しているようで、近年は減少しているものの、首絞め強盗も未だ発生しているようです (マドッリドで食らっている観光客に遭遇しましたが) 。僕らは詐欺師の様な、手品師のような輩には何度か遭遇しましたが、さすがの僕たちもそこまで馬鹿ではないので、被害は受けていませんフラメンコ、闘牛、フィエスタ (お祭り) 、サッカー等のエンターテイメントに代表される情熱の国、「スペイン」そして忘れてはいけない "スペイングルメ"これからのイベリア半島の旅が楽しみですアルへシラスで準備運動した僕たちは、アンダールシア州 (南スペイン) は「グラナダ」という街を目指しました。ジャイアント・チュッパチャプス言わずとも、スペインはバルセロナ発祥のキャンディースペインビールの "Mahou マオウ"ちなみにスペイン語でビールは "Cerveza セルベッサ"スペインでも定番!! "Calacores カラコレス=カタツムリ"日本で言う所の "あさり" や "しじみ" 感覚で普通にスーパーで売られていました。世界的に有名なスペインの生ハム、 "Jamon Serrano ハモンセラーノ"スーパーでは大体、一足20~50ユーロ
2011年07月08日
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翌朝、モロッコに、イスラームに、別れを告げ、スペインは「Algeciras アルへシラス」行きのフェリーに乗船昨今、このボーダーで日本人が出国拒否をされるという事例を耳にしていたので、彼女と2人で、、僕1人で?勘ぐっていたものの、なんの問題も無くイミグレーションを通過、モロッコを出国。少し別れ惜しい気もするけど、いざ情熱の国、スペインへ。フェリー代金は1時間、たったの1時間 (実際は2時間かかりましたが) で、なななななんと!!!!65ユーロいきなりの先進国プライス!!いやー、ある程度覚悟はしていましたが、まさかここまで!!フェリー待ちをしている時に、UAE人とギリシャ人の女の子と友だちに。彼女たちはフランスはパリ在住だそうで「パリに来たら必ず連絡してね!!」と別れましたが、、こんな時にいつも思うのは、もう少し英語がまともに話せたらなぁ…フェリーは1時間遅れの、時差プラス1時間でアルへシラスに到着。途中の船窓からは、地中海をフェリーにくっついて遊びながら弧を描くイルカの群れにも遭遇しました船を降り、出国審査を済ませ、ぬける様な青空の下、アルへシラスの町へ。つい今し方このフェリーに乗船した、タンジェのターミナルとは大違い!!市場の近くに無事安宿も見つけ、(安宿と言っても1泊16ユーロなので、今までの価値観で言ったら全然安宿ではありませんが)町を散策何を見ても、高い。あれも高い、これも高い、それも高い…しかしただ、値段が高い訳ではありません。ここはヨーロッパ。こんな片田舎な町でも、まるで町全体が統合されたデザイン、芸術のよう。ちょっと海を渡っただけでこの違い。なにより町の衛生的なこと!!今までとは違った楽しみ方ができそうです。ただ、しっかり財布のヒモは縛っておかないと、大変なことになりそうなのも事実。。。町の小さな広場スペインと言えば!!ただ、僕らは遂に闘牛は観に行きませんでした。あんな残酷なもの…、僕たちには観ることができませんでした。彼女に買ってあげた、スペイン版ガチャガチャの "ディスカパ"
2011年07月06日
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翌日目覚めて、おはようの挨拶を交わした直後、2人とも尋常ではないかゆみに意識が集中しました。下半身、特にふくらはぎから下を、1度咬まれたら数ヶ月はかゆみが続き、かけば必ず痕になる (あまりのかゆさに寝ている間もかいてしまい出血)インドでお世話になった、にっくき三点咬みギャング、あの「南京虫」に多数やられていたのですこのかゆいことと言ったらありません。これは本当に笑えません、人生で味わったことのないかゆみ、、発狂するほどかゆいのです。それが数ヶ月続くという、地獄のような惨事。ようやく痕も薄くなってきたな~、と安心していると、OMG!!なんの気なしに掻いたが最後、また一から始まりです僕は今でも足に痕が残っているし、彼女は安宿なんか二度と泊まりたくないと豪語しています映画、「ほにゃらら」で使用された美しい中庭南京ヤローの巣窟はこの奥……そんなこんなでも、タンジェ、モロッコ、北アフリカ、イスラームから去る日が明日となり、最後にこの町で出逢った友人に別れを告げ、明日からはヨーロッパ。日持ちのする、もしくは必要な生活用品を買いそろえてバックパックに詰め込み、スペインはアルへシラス行きのフェリーチケットを購入し、最後のタジンを食べました。メディナ内のサンド屋にてよく見るとショーケースの中央付近に未だ赤々としたフレッシュな脳○ソが…ヨーロッパとアラブが調和された美しいプレート青々と美しい地中海、遠くに見えるはスペイン、ヨーロッパ大陸まだ見ぬヨーロッパ。次はどんなことが待っているのか? 希望?喜び?楽しみ?不安?彼女と2人なら、どんなことでも楽しめる!! はず!!僕たちが旅した国の中でも、特に想い出深く、印象に残っているイスラーム文化圏の国、モロッコ。残念ながら昨今中東全体で起きているイスラーム革命が飛び火し、マラケシュのカフェでも爆破テロが起き、治安面の心配、緊迫する中東情勢ですが、僕が訪れたイスラーム文化圏の人々は非常に優しく、困っていれば必ず誰かが助けの手を差し伸べてくれる、そんな心の優しい、温かい人々の住む国々でした。僕たちの暮らしの豊かさの、そのしわ寄せが、歪みが、彼らを圧迫していることは確かです。誰しも心の奥にある気持ちは、"平和に暮らしたい"、その一言に尽きると思います。優しい灯りがもれだす、モロッコではお馴染みのランプイスラーム文化圏滞在中、何百回と聴いたお祈りの時間を教える「azaan」朝はこれに起こされ、azaanが流れると、今の時刻がわかります。今も目を閉じて、azaanを聴けば、もうそこはイスラームの国です。ちなみにこれ、録音ではなく、町ののど自慢が毎回自慢の美声でマイクを握ります
2011年07月04日
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今日でモロッコ滞在中お世話になったCTMバスに乗るのも最後。タンジェまでおよそ7時間。モロッコという国は意外とネズミ取り (速度違反取り締まり) をやっていて、その都度ドライバーはスピードを落とし、慎重にその脇を通過します。タンジェの町では、1泊したら地中海を渡りスペインに入るはずが、なかなかどうして2人でこの町が気に入ってしまい、結局数泊滞在することになりました勿論お金も足りないので更に両替町に住む人々は優しい人が多く、意外にも魅力沢山のこの町がモロッコ最後の町で良かった、と2人で笑顔になったことを憶えています。タンジェはモロッコの海の玄関口、海を渡ればそこはスペイン。周辺の地域はスペインの植民地であったため、その影響を残す白い町並みが印象的でした。海岸から続く階段旧市街に残る民家コンテナや大きなトラックが並ぶ港タンジェのヘソ、"グラン・ソッコ"一昔前は国際商人でごった返し、密輸やスパイの舞台だったここ、"タンジェ" も、今となってはたまにやってくる自称ガイドはさておき、国をあげて観光化が進められ、1人でメディナを歩き回っても、全くと言っていいほど問題はありませんでした。小さな町ですが、沢山の魅力を持ち、人々も親切で明るいタンジェでしたが、1つだけ困ったことがありました…。タンジェでの家をメディナ内にある安宿 (中庭が「なんちゃら」と言う映画に使用されたという) に決めたのですが、中でも最奥の、広いけどお世辞にも清潔、とは呼ぶに程遠い部屋を、値段とその部屋に辿り着くまでの雰囲気で決めた僕ら。排水溝は詰まっていて、もう何日も流れた形跡はないし、沢山の虫たちも同居しています夜は少し肌寒かったのですが、ブランケットを掛けようとする彼女に、「ここのはよしたら?」と助言したのですが、眠気と寒さが勝ったのか、聞く耳持たずそのまま御就寝。翌日目が覚めた2人は…OMG
2011年07月02日
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翌朝未明、バスは「FEZ フェズ」に到着。バスを降りると肌寒く、事前にネットで調べた情報を思い出し、ここが高原に位置することを思い出します。眠い目をこすり、ずしりと重いバックパックを背負い、宿探しへ。1軒目、フル。2軒目、高い。3軒目、フル。4軒目、フル。5軒目、時既に遅し、閉館…。この町には長居はしないだろうし、なにせ、「移動→砂漠→移動」の日々だったので、肉体的にも疲れが溜まっている、という言い訳をし、結局2軒目の少々お高いホテルへ陽当たりの良い部屋だったので、洗濯をしたり、2人でゆっくりまったり午前中は過ごしました。その名も "HOTEL ROYAL"午後は世界一複雑な町、「フェズ・エル・バリ」のメディナへ。道は狭く曲がりくねり、坂ばかりで上がったり下がったり、そんなことで、輸送手段は未だにロバや馬。昼でさえ暗いトンネルを、やっと人々がすれ違い。僕たちはこの世界最大の迷路にはまり、足が棒になるまで歩き続けました新市街と旧市街の境に位置するエリアあの城壁の向こう、世界最大の迷宮が佇んでいますメディナへの入り口この先は1000年前の世界が今も続きます。細い路地に商店が軒を連ね、そこを商人や客、ロバが行き交うモスク入り口にある、手を清めるための水場人ごみや喧噪とは無縁なエリアモロッコの中でも、マラケシュと並んで世界的に有名な観光名所となっている "フェズ・エル・バリ" ですが、メディナもスークも、そろそろお腹一杯、と言うことで、新市街に戻り、CTMのバスターミナルにて、モロッコ海の玄関口、そしてヨーロッパへの窓口、「TANGER タンジェ」行きのバスチケットを購入。いよいよモロッコの旅も終わり、北アフリカとイスラームの国々に別れを告げ、新たなる大陸、ヨーロッパ大陸を目指す時です。彼女と2人、宿の近くでミントティーを嗜みながら、楽しくモロッコの想い出を語り合いました。中国の緑茶にミントの葉、多量の砂糖を入れたモロッコの定番
2011年06月30日
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「サハラ砂漠で一夜を過ごす」普通では体験できない特別な経験をした僕たちは、サハラに昇る太陽に、旅の安全と健康を祈り、拝んでから、砂漠のキャラバン宜しく、らくだに揺られオーベルジュへ戻り、リッサニまで戻るというアメリカ人夫婦に便乗し、サハラを跡にしました。サハラ砂漠での我が家絵になる光景。日の出と共の出発を待つらくだ勢The sunrise in the Sahara desertサハラでの友だち砂漠のキャラバン昔から変わることの無い、砂漠での一風景。余談ですが、アルジェリア側のサハラでは5月頃になると、小さな隕石が度々落下することがあるそうな…。メルズーガで日本人宿を経営するノリコさん談。そんな隕石よりも、こんな所でも逞しく生きる日本人女性、立派です。(僕なんかに言われても…、だろうけど)リッサニに到着した僕たちは、極々短時間ではあったものの、旅の一コマを共にしたアメリカ人夫婦に別れを告げ、モロッコ北部、リフ山脈とモワイヤン・アトラスに挟まれたエリアに位置するモロッコの古都、「FEZ フェズ」へ向かおうとしたところ、バスの出発は夜8時。この時未だ昼前。時間だけはたっぷりと持ち合わせているので、バックパックをバス会社、、否、バス小屋?? に置き、ぷらぷら町を散歩したり商店を素見したり、公園でゴロゴロしたり、この先これほど時間を裕福に使える時など、二度と訪れないのではないか、というほど、贅沢に時間を浪費。この頃に出逢ったモロッコの更なる定番料理の「カリアー(見た目はタジン、中身はチキンとタマゴ)」と「モロッカンサラダ (トマトやキュウリ、タマネギ等を賽の目に切ってクミン風味のドレッシングで和えたもの。ハッサンのソーセージ屋でも出てきたモロッコの定番)」を食べ、ミントティーでお茶をし出発の時を待ちました壁に描かれていたモロッコ画モロッコ国旗にも描かれている、イスラームの星20時を少し過ぎた頃、お待ちかねのバスは出発。ここから10時間の移動です。
2011年06月27日
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キャメルトリップ出発の時間は夕方、ということで、それまで宿の回りを散歩したり、日陰で寝転がったり、昨晩友だちになった子猫の「チャン」(2人で勝手に名前をつけました) と遊んだりして、空腹と戦いながら、出発の時を待ちます。メルズーガでの我が家我が家の回りにあった、小さなオアシスチャン陽も西に傾き始めた頃、アフリカ大陸のおよそ1/3もの面積を占める、世界最大の砂漠、「サハラ砂漠」の砂山目指して出発です人生初、らくだの背中にまたがり、小さなデューンを登ったり下ったり、らくだの長い足が砂に埋もれながら、奥へ奥へ行進します。やはりどこかウマ的な、鼻の長いらくだの顔人生初のらくだに揺られて果てしなくどこまでも続く "サハラ砂漠"上下運動が愛らしい "らくだ" ですが、しっかりつかまっていないとその縦揺れ故に、特に下りは振り落とされそうになります。そしてなにより、1時間もすればお尻が痛い...一見何も無いような不毛の砂漠ですが、よく見ると何者かの足跡。。。なにか幼虫が這っていたり、トカゲやふん転がし、更には小さなカエルまでいたのには驚き!!こんな所にも生命は輝いています。迂闊にも捕まってしまったトカゲ「離せよ~!! なに撮ってんだよ~!!」と言った感じでしょうか (笑)目指すはあのデューン2時間ほど揺られ、大きなデューンに囲まれた小さなオアシスに到着。どこまでも続く、波のようなデューンや山のようにそびえ立つデューン。「今夜は "サハラ泊"」僕たちを運んで来て、少々お疲れのらくだ今夜の宿 in サハラ砂漠サハラに沈む夕陽を拝みに、デューンを登ります美しすぎるサハラ、もはやため息サハラに沈む夕陽こんな幸せが続いて良いのだろうか、という程の幸せな日々。日本を出発する前は、まさかサハラ砂漠に、それも大好きな人と、訪れることができるなんて、夢にも思ってもいませんでした。夕ご飯は勿論「タジン」にモロッコ名物のミントティー。砂漠で食べるタジンは格別!! 最高!!!!そしてクライマックスの砂漠の星空。「なん...だっこれ....」プラネタリウムなんて、まさしく子ども騙しのおもちゃ。満満天の星。サハラに寝転がり、全くの無音の中を、文字通り無数に輝きを放つ星たちの大パノラマ。大小を含めれば30秒に1度、冗談抜きに流れ星が流れます。その長いこと長いこと。お祈りし放題また一つ、生涯忘れられない想い出を作った瞬間。感無量。
2011年06月25日
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マラケシュの町に別れを告げ、翌早朝のバスでオートアトラス山脈を越え、サハラ砂漠との中継点にあるオアシス、 "エル・ラシディア" へ。バスの車窓から眺める山々の景色は壮大そのもので、力強く、まさしくこれはアフリカ大陸でしか目にすることのできない色や形。またもTVでしか観たことのない世界が眼下に広がっていました。この大陸を下って行くと、一体どんなものが待ち受けているのか。今しばらくは北上の旅ですが、その先にあるものに、胸踊らされます。CTMバスドライバーの名はここでもハッサン。イスラーム国家で出逢った人々の名は、大抵の場合が "ハッサン" か "モハメッド" もしくは "ムハンマド"以外は基本的に記憶にありません (笑)彼は熟練のドライバーなのか、峠道をコーラ片手に運転し、停まる先々の町や村で、みなと楽しそうに談笑していたのを憶えています。峠道の途中で見かけたタジン鍋や布を売るお店朝食にと、ハッサンが立ち寄ったタジンレストラン如何にもアフリカ的自然風景力強い岩肌谷底に細く続くオアシス早朝マラケシュを出発したバスは、陽も暮れた頃、ラシディアの町に到着。今日はこの町で1泊して、翌朝サハラ砂漠への玄関口、「メルズーガ」へ向けて再出発です。次の日、移動手段を探していると、"サハラ砂漠でのキャメルツアー" のポンビキ親子 (オヤジの名はまたしても…、まさかの「ハッサンYAY!!」) がメルズーガへ戻るというので、彼らの雇い主のオーベルジュもチェックしがてら、4人で車をシェアーし、一先ず南の果ての最後のオアシス、"リッサニ" を目指します。ちなみにラシディアとリッサニの中間に、「ダカール・ラリー (治安面を理由に、残念ながら現在は南米大陸での開催)」で有名な "エルフード" の町があります。ラシディアの地図何人たりとも寄せ付けない荒れた岩山の中を、突如姿を現したオアシス谷底に集まる僅かな水分を糧に生きる、貴重な植物たち。そこに生きる動物、人間、全ては共存しています。リッサニから更に車をポンコツ四輪駆動に乗り換え、道なき道を進みます。後ろを振り返ると、すさまじい砂ぼこり。結局交渉したら意外と宿もキャメルツアーも安くなったので (それでも高いので食事は1人分だけオーダー)ここのオーベルジュに決まり (オーナーのベルベル人は少々うざかったけど)オーベルジュからのビュー "デューン" =砂丘刻一刻と、その色を変えるデューン色ばかりか、風によって様々な形に姿を変えるサハラ砂漠での夕焼けもちろん電気は必要最低限の自家発電砂漠のディナータイム彼女にベッタリだった、まだ幼い猫と。ベルベル人とのディスカッションに加わる彼女砂漠の夜にベルベルミュージックが鳴り響くこれも生涯忘れることのない、旅の思い出の一つ。この後ライト片手に外に出、頭上見上げて「OMG....!!!!」彼女と2人、絶句......。「なんだこれ?! 現実なの?!」
2011年06月23日
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フナ広場の屋台では、僕たち日本人にはあまり馴染みの無い物も沢山売られています。何やら貝を蒸したような物が売られていると思えば、カタツムリの蒸し物 (小さなバケツに山盛り手渡されます) だったり、昔ながらのモロッコの衣装を身にまとった "水売り" だったり。その中で僕たちは見つけてしまったのです、あれを…。毎晩毎晩流し目はするものの、決してコンタクトは取らなかったあの屋台!!!!最終日に決行です!!!!その前に、スークやメディナをおさらいしておきましょう。お昼ご飯によくお世話になった "タジン屋"パンはサービスなのでタジンを1人分だけ頼んで2人で摘みます。僕たちは日本でもそうですが、気に入ったお店があると、同じ店に通い詰める癖があるようです。この頃のオナラが絶好調に臭かった やふー宿の前のソーセージ屋台スークの裏路地細い路地がどこまでも続きますスークの奥の奥にあるアトリエこれが一体なんなのかは謎 ?????モロッコの伝統的な職人芸の鮮やかなタイル一度部屋に戻り、2度目のエアーメールをここ、マラケシュから出し、イザ出陣!!!!Let's take 脳 miso!!!!まずは脳みそ屋のスタッフとなにか茶色い二等辺三角形のモノが…??意外と繁盛の様子。では!!!!!!!!!!!!!!!!じゃじゃん!!脳みそ本隊より、中央付近のこのスポンジみたいな部位がな~……ぶれーん張り巡らされた血管がOMG!!!!極めつけの!!!!じゃじゃじゃん!!!!!!!!!!!!やふーーーー普段日本にいては見ることのない生の裏側。この日もスークを歩いていると、ニワトリを捌いている現場に遭遇。如何にもこの世の終わりが差し迫った状況の生き物が出すであろう悲痛な "叫び"彼女は相当にまいっていましたが、これが "生きる" ということ。他の生き物の "命" をもらい僕たちは生きながらえる。それが動物とか、植物とか、そんなの関係なく、野菜も生きています。日本にいてはまず、目にすることの無い光景。これも感謝、旅に感謝。明日はこの町を出、オート・アトラス山脈を越え、世界最大の砂漠、「サハラ砂漠」へ。とにかくいい町でした。ハッサンにジュース屋にタジン屋にスークのヨーグルト屋に。みんな親切で大好きな町でした。2人で大のお気に入りでまた絶対訪れたいと思った町、マラケシュ。今も目を閉じるとフナ広場の雑踏と喧噪が、スークでは強気なアラブの商人が、、昨日のことのようによみがえります。夕暮れ時のメディナ
2011年06月21日
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世界遺産にも登録されている、北アフリカ最大の規模を誇るマラケシュのメディナ。ここはモロッコの中でも群を抜いてエネルギッシュで、興奮に満ち溢れている町です。フナ広場では昼間から各地の芸人達がパフォーマンスを繰り広げ、夜には広場一杯の屋台が並びます。そしてこの広場の北側には、世界最大とも言われるスークの迷路の入り口が顔をのぞかせ、手招きして待っています。世界数十カ国を旅した中でも、インドのバラナシ、イタリアのヴェネチア、ボリヴィアのラ・パス、キューバのラ・アバナと並んで僕のお気に入りとなっているマラケシュの旧市街。その魅力は何と言っても、この町の "生命力" 、"カオス" でしょう。はちきれそうなこの町のエネルギー。それは喧噪、雑多、、スークの中では所狭しと店が軒を連ね、ありとあらゆる音が鳴り響き、イスラーム名物の串焼きカバブの香ばしい匂いが立ちこめる、その混沌の中を人々は縦横無尽に歩き回ります。フナ広場で繰り広げられるUFOキャッチャーのはしり、"ジュース釣り"大の大人が子どもそっちのけではしゃぎます。フナ広場名物のフレッシュジューススタンドこれが激ウマ。ジューススタンドの倅とどこからともなくやってくる屋台群人ごみでごった返す夜のフナ広場ジャマ・エル・フナ=「死者たちの広場」を意味し、かつては公開処刑場だったと言います。フナ広場での "行きつけ" ハッサンのソーセージ屋冷たいトマトソースが絶品!! 12DHこれだけを見ているだけでも、毎日毎日、飽きることはありません。昼はスークへ、夜はフナ広場へ。マラケシュ滞在中の僕たちの日課でした。
2011年06月19日
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翌朝8時半のバスで、モロッコ中央部、標高450mに位置する、この国の中でも特にエネルギッシュでエキサイティングな町、そして最大の見所とも呼べる「MARRAKECH マラケシュ」を目指します。この時乗車した「CTM」というバス。ヨーロッパの "Eurolines" (ヨーロッパ各国間で国際バスを運行するバス会社が加盟している連合) にも加盟しているようで、なかなか。カサブランカ→マラケシュ間の料金は、この時プロモーションで95DHが80DH=およそ960yenそして荷物を預けるのにエクストラ発生の5DHそれなりの料金ですが。カサからマラケシュまではおよそ3時間半。高速道路などのインフラもそれなりに整備されていて、快適な移動でした。マラケシュはカサなんかよりずっと暑く、CTMのバスターミナルから路線バスのバスストップまで2人で歩きましたが、地味に遠く、暑くてしんどかったのを憶えていますマラケシュの新市街この町に滞在中はメディナと呼ばれる旧市街に多く存在する、如何にもモロッコらしい壁のタイルが可愛い、 "古民家" とも呼べる安宿に泊まりました。パティオ (中庭) と呼ばれる中庭をどの宿も持つ "Hotel la Gazelle"壁や床に貼られたタイルが美しい屋上からの眺め、夕方編長方形の建物は、クトゥビア、と呼ばれるミナレット (塔) 屋上からの眺め、夜編俄に活気づく、メディナの "ヘソ" 、ジャマ・エル・フナ広場夕方になれば、何処からともなく屋台がやって来、増え始め、大道芸人や人波で毎晩お祭り騒ぎが深夜1時過ぎまで続く、モロッコ最大の楽しみの一つがここ、"フナ広場" 闇に包み込まれる "フナ広場"ありとあらゆる屋台がひしめき合う彼女は僕と訪れた数ある町の中でも、ここ、マラケシュを一番気に入っていました。翌日から僕たちは、この広場に入り浸りになりました
2011年06月17日
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朝起きると鼻の下にヘルペス。2~3日前からノドが痛いのも気になるし、体力がなくなってきたのか、旅先でこれはストレス。モロッコに入ると激しい陽射しのせいか、目がチカチカして、頻繁に頭痛が起きるようにもなりました。カサの街はモロッコ1つ目、ということで、名前の割に大した街ではなかったのですが、様子見がてら3泊しました。街は結構な都会で、アフリカ一の大都会、カイロよりも全然整っているし、高級車も見かけます。古い建物はアラブですが、新しい建物はどこかヨーローッパを感じさせる造り。街で英語はまず通じず、みんなフランス語を話しています。カサブランカのmain Sta. "カサ・ヴォワジャー駅"荷台満載のタマネギ売りスーパーマーケットにて正式国名 "モロッコ王国"面積は日本の1.2倍で人口はおよそ3300万人。地域によって5つの異なる気候に分けることができます。国教はイスラーム教スンニ派で、旅のしやすいムスリム国家。民族構成はアラブ人が65%、ベルベル人が30%通貨名はディルハムDH、当時のレートで1DH=およそ12yen安宿のドミトリーなら30DH~=360yen~、1.5Lのミネラルウォーターで4DH=50yen程度。時差はイギリスと同じ、日本と9時間。観光国であるモロッコ、スリや引ったくり、詐欺以外に目立った犯罪はなく、治安は他のアフリカに比べ、非常に良いと思います。モロッカン・ディルハム紙幣プリントされているのは、国王である "モハメッド6世"カサ中心部後ろに見える塀の奥が "メディナ" と呼ばれる旧市街メディナ入り口メディナ内の様子メディナにてこの後モロッコ滞在中は何度となくお世話になる煮込み料理 (後にモロッコ名物 "タジン" と判明 ) を知ったのもこの街で、気に入った親子が営んでいる、屋台と小さなレストランの中間のようなお店で、カサ滞在中は毎日食事をしました。英語は勿論通じず、初めての国の初めての街だったし、困りましたが、何より優しかったし、毎回たらふく食べることができました。そしてこの頃から多量の香辛料のせいで、異常な、、最早尋常ではない臭さのオナラが出るようになりました2人でいたので本当のところは解りませんが、体臭も異常に臭かったことだろうと推測していますカサ滞在中にお世話になったHotel Touring階段の踊り場には祈りのためのスペースオナラも体臭も、一通り臭くなり、モロッコに少しずつ慣れてきたところで、次なる目的地「MARRAKECH マラケシュ」に向けて出発です。
2011年06月15日
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この日でエジプトに別れを告げ、北アフリカの西の端、次なる目的地、 "日の没する大地"、「MORROCO モロッコ」へと向かいます。最後にコックテイル、フレッシュジュース、最後にコシャリを食べて〆。本当、もう食べたくない、コシャリ…。彼女は相当気に入っていましたがそして余裕を持って空港に到着。ひと月前に彼女を迎えに来たあの「カイロ国際空港」今回は2人で新たなる国へ出発です最後に余ったLEを使うべく、空港内を徘徊していると、、、まさかの「STAR BUCKS」!!!!しかもちょうど買えるぜ キャラメルフラペチーノ まじっすか??ってことで先進国の味、空間に包まれつつ…お値段22LP安宿一泊の料金です。陽沈む、カイロ国際空港にてEGYPT AIR 847便 CASABLANCA行き勘ぐりの往復チケットで2260LE=およそ38000yenもちろん帰りは棄てカイロを飛び立って5時間半、モロッコ最大の経済都市、国民には「カサ」の愛称で呼ばれる「Casablanca カサブランカ」は "ムハンマド5世空港" に到着です。ムハンマド5世空港空港内のATMでモロッカン・デュラハムを引き出し、間違いのないよう、慎重にタクシーを選びます。タクシーはまさかのメルセデス旧型350SE到着したのが現地時間で23時だったので、初めての国だし多少の不安もありましたが、彼女が大好きだった自分の亡くなったおじぃちゃんにそっくりだ、と言うので、このタクシーに決め。無言のタクシーは深夜のカサブランカを猛スピードで市街へと走ります。普段なら威嚇に無愛想な顔をしながら、スイス製のvictorinoxからナイフを取り出し、爪の一つや二つをやするところですがこのおじいちゃんは問題無し。ただ困ったことに言葉が全く通じない。空港を出発する前に目星を付けている宿の住所を見せて、「ここへ行きたい!!」と連呼したのですが、降ろされたところはメディナと呼ばれる暗い暗い旧市街…。かなりまずい雰囲気です…おじぃちゃん的には激安宿が集まるこのエリアに善意で降ろしたのでしょうが、この時間帯に初めての国、場所でここは…。2人でアタフタアタフタしていると、モロッカンの若者2人がスクーターで通りかかり、言葉は通じずとも、状況を察し、タクシーを見つけて手はずを整えてくれましたそれもホテル近くまで先導し、しっかり辿り着いたのを見届けて彼らは去って行きました。別れ際に覚えている数少ないアラビア語で、「シュクラン (ありがとう) !!」と言ったら、少し笑われました。後から知ったことですが、最近のモロッコ、都市部では特に、フランス語が公用語となりつつある、とのこと。アフリカのとある国でもそうでしたが、自国の言語ではなく、得意気に英語を公用語のように話している人たちを見るのは、何だか切なかったことを憶えています。タクシーを降り、料金を支払おうとすると、ドライバーはなにやら怪訝な顔をして受けとろうとしません。訳がわからず、宿のフロントに通訳してもらうと、、、料金は先ほどの若者たちが既に支払っているとのこと。それでもドライバーは僕からも受けとって走り去ることもできたのに。宿の人も深切そうだし、ノッケからモロッカンイスラームの親切に助けられ、明日からのモロッコが楽しみです
2011年06月13日
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ハルガダからカイロに戻り、アフリカ大陸西の果て、「モロッコ」に飛ぶまでのエジプト最後の数日は、4000年の歴史を持つ、念願のギザのピラミッドへ行ったり、イスラーム地区にある大みやげもの市場の "ハーン・ハリーリ" へ素見しに行ったり、エジプシャンフード食べおさめをし、"世界で最も混沌とした街" に別れを告げました。 "ガーマ・アブル・ダハブ"オスマン朝時代に建てられたガーマ。ハーン・ハリーリ14世紀末には市ができたと言われるほど歴史のあるバザールで、ツーリストは必ず訪れる観光名所、、故にテロの標的にされることもあり、この時からさかのぼること数ヶ月前に爆破テロがあり、この時の警備も相当なものでした。カイロ裏路地カイロの街並みエジプシャンマック旅の思い出に、エジプト限定 "Mac Arabia" かなりのお値段だったと記憶しています。。@/!#$%"&$?????市内バス乗り場からのショットカイロ1の美味さ!!カイロにも沢山のアイスクリーム屋さんがありましたが、ここのアイスは最高!!!!旅立ちの前に今一度。カイロで行きつけだったジューススタンド最後のコシャリも食べ久しぶりのTOKYOにも触れ????NB "NEW BORN" SINCE1990エジプシャンのセンスにも触れ念願のギザ、ピラミッドかなりデカいですとうに季節は終わったはずなのに…、ハムシーン (砂嵐) にやられて4000年の間ここに佇む、スフィンクスとピラミッド言葉はもちろん、4000年の前では全てが意味をなしません。また一つ夢が叶った瞬間。最高に幸せな時、隣りに最愛の人。この星をどう思う?アラブ人侵入後に鼻を、大英帝国にアゴヒゲを取られてしまったスフィンクス、アラビア語で「畏怖の父、アブル・ホール」これでエジプトに思い残すことはありません。次なる国、アフリカ大陸最西の国へGo Go!!!!
2011年06月09日
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ルクソールから、それはそれは臭いバスに揺られること6時間、苛立ちも最高調に達した頃、紅海最大のリゾート地「ハルガダ」に到着。お金はないので、マリンスポーツとは無縁ですが、 "紅海ビュー" の綺麗なホテルに滞在決定リゾートライフを満喫です YAY!!!!この町に滞在中に彼女と今後の予定を立てていたら…。当初の予定で彼女は、TOKYO-CAIRO往復のはずでしたが、紅海ビューの部屋で日がな一日作戦会議をしていたら、「モロッコ行っちゃう?! サハラ行っちゃう?! ヨーロッパ行っちゃう?! ユーロディズニー行っちゃう?!」みたいになってきまして(彼女はイカれディズニーフリークなので)CAIRO→TOKYOの帰りのチケットは棄てチケットに彼女も丁度、勤めていた職場を辞め、時間だけはあり そんな時に2人で海外。こんなこと、そうはない!!俄然燃えてきたところでネットカフェに足しげく通い、情報収集。この頃はヨーロッパ、特にスペイン辺りでブタインフルが流行していたこともあり、外務省のHPを要チェックそれに彼女はエジプト滞在の資金だけ、僕もヨーロッパはピカソの "ゲルニカ" だけ観たかったので、スペインはマドリッドのみの予定だったので、資金面で若干の不安があり…。しかーし!!行きたいと思えば行くしかない!!!!「旅の醍醐味その2」バックパックさえあれば、世界中行きたい所へ行くことができる!!!!一応の紅海ビューこれでも旅の身分でこの設定は◎最初で最後のリゾートライフ (株) 大榮工業??こちらは中国からやってこられた方ハルガダにてリフレッシュした後、カイロへ戻り、エジプト最大の見所とも呼べる「ギザのピラミッド」を観光。エジプトでの旅も終わりに近づいています。ハルガダのバスターミナルドリンクと軽食まで出た "EL GOUNA" バス日本も真似すべき風力発電
2011年06月07日
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ナイル川をポンコツフェリーで西岸へ渡り、流行りのレンタサイクルで彼女と目指すは、「ファラオたち安眠の地、"王家の谷" 」エジプトへ訪れたことがない人でも、この「王家の谷」と言う名前を聞いたことがある人は多いはず。新王国時代になり、ファラオたちが盗難を防ぐためにルクソール西岸の奥深い谷に死後の安住の地を求め岩を掘って造られたもの、それが有名な王家の谷。「トゥトアンクアムン (ツタンカーメン) 王」のお墓があることでも知られています。ルクソール東岸鉄道駅やスーク、安宿が集まるエリア。カルナック神殿、ルクソール神殿があるのもこちら。ナイルを挟んで西岸王家の谷や貴族の墓等、死者の都があるのはこちら岸。フェリーを降り、自転車を借りて、2人ノリノリで王家の谷を目指しますまるで世界は2人のモノだと言わんばかりに叫んだり歌ったり!!!!途中途中のロバや、遊ぶ子ども達にちょっかいをかけながら、砂礫の山の中を漕ぎます漕ぎますサトウキビを運ぶためのトロッコのゲージの狭い線路サトウキビを満載に積んだトロッコノリノリで死者の都を漕ぐ!!!! やふー!!!!"死者の都" を警備する少年少女にちょっかいをかける心臓破りの坂始めの威勢はどこへやら。漕いでも漕いでも終わらない坂を恨み、同じ苦痛を今し方味わったヨーロピアンカップルが風のように頂上から滑りおりてきて、「もうすぐだよ!!頑張って!!」苦痛を共有した者同士、妙な一体感を味わいながら瀕死の状態で坂を上ります。この砂礫の山の奥に "王家の谷" がひっそり (ファラオたちの希望はよそに金銀財宝を狙う盗人を防ぐことはできなかった) 佇みます。どうにか王家の谷、エントランスに到着。王家の谷、模型チケットを購入していざ入域ファラオ某の墓ここでファラオ某の墓の内部...、をご覧にいれたいところですが、そこは悪しからず。。。メモリースティックには永久保存されていますが国際問題に発展....、はしないでしょうが、一応禁止されていたので。。。撮ってるけど数千年の昔、死後の世界を信じて疑うことのなかったファラオたち、安住の地。当時を回想し、数千年の時をトリップ。最高に幸せな、様々な時間が流れ続けている旅の日常。とても言葉では表現できるものではありませんが、「幸せ」、以外の何ものでもありませんでした。帰りはニコニコでやふー!!!!!!!!ファラオが生きた時代も、今も変わらぬ砂礫の山?!?! 何者かが住んだ形跡あり砂礫の山肌に建てられた民家死者の都を守るように立つ "メムノンの巨像"エジプト南部の遺跡巡りはこのくらいにして、翌々日のバスで紅海最大のリゾート地「Hurghada ハルガダ」へ向かうことにしました
2011年06月05日
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ある日の午後、彼女と共にルクソールにある小さなスークへ出掛けました。インドのそれとは比べ物になりませんが、バクシーシをねだってくる子どもは何人もいました。中には僕たちを見つけると、お母さんが背中を押し、収入を得るために我が子を使う姿を目にすると、「貧困」と言うものは、物質的に貧しい所にあるのではなく、大抵の場合は、都市部に集中しているのだ、ということを再認識します。ただ明らかに太っている子どもが、バクシーシをねだってきた時は、流石に彼女と笑ってしまいましたが。ルクソールの駅前スークのはずれ住宅街昼だというのに人はまばら。良い雰囲気とは決して言えません。ナイル川西岸にある学校校庭町を散策していると、ノドが乾いたし、たまには、と言うことで、エジプト名物のフルーツカクテル、「コックテイル」屋に入った時のことです。なんの気なしに店の奥へ入ると、そこは "衛生" とはかけ離れた、まるで僕たちが "住居" と呼ぶには程遠い、悲惨な現状で暮らす生活空間を垣間みました。いつだか、しつこくバクシーシをねだってきた子どもが寝ていました。パッと見は観光大国で、アフリカ一の大都市、カイロのある国で、見ようとしなければ見えてこない現実の中で、中身は全く違う現状が渦巻いています。ロバとトラックの対比コックテイルこのお店は別のコックテイル屋さんですが、いつ訊いても5LEだったのが、ある時いつもと違うお父さんが立っていたので試しに尋ねてみると、3LEだったので彼女と即注文。お父さんは彼女が気に入ったようで、アラビア語の単語を教えていました (笑)大抵の人が騙してくる、ボッてくる旅の日常、たまにいる良い人。どこの国も基本は変わらず。
2011年06月03日
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この日からエジプトはサマータイム、日本との時差は7時間から6時間に。少年が営むポンコツレンタサイクル屋で自転車を借り、前回に続き、ラメセス2世ゆかりの遺跡、「Ma'bad ll-Karnak カルナック神殿」を、今にも分解しそうな自転車で灼熱地獄の中、目指します彼女と世界で自転車を借りたのは、この時が初めてでしたが、これは最高、と2人で事あるごとにレンタルしました。イスは回る、カゴはガタガタ、ペダルはフニャフニャのブレーキは利かない40度超えの中をLet's Go!!!!ルクソールの町並みCHANEL ????ここは確かエジプト、ルクソールのはず…中国では CHANNEL とプリントされたTシャツを着ているオバさんがいましたが… ちゃんねる??D&Gまでよく見ると、、DOLCE&GABBAN…GABBANってエジプシャンSUPER MARKETこの町辺りで気づいたことですが、海外で売られている牛乳、欧米諸国は別として。異常に日持ちが良い…、2~3ヶ月はザラで、中には半年物までエジプト版 "VODAFONE"しかし暑い。ルクソールの町を出る際に、2Lの水を2本仕込んだはずが、残の終わりが近い…。どうにかカルナック神殿に到着。喋るのもしんどい…。でもこの素晴らしさと言ったら。スフィンクス参道大列柱室、あまりの大きさに圧倒高さ23m、15mの巨柱が134本並ぶ15mの巨柱群オベリスクこれよりも遥かに立派なオベリスクがフランスはパリのコンコルド広場にあったような…オベリスクの側面美しいヒエログリフラメセス2世の歴史にお邪魔して一枚100人以上の子を持ち、90歳を超える天寿を全うしたと言われるラメセス2世。これだけの偉業を見せつけられると、如何に偉大な王だったかが嫌でも解ります。おまけのルクソール神殿これもラメセス 2世の残した遺跡今も残る、3300年前に生きたファラオ、ラメセス2世の偉業を観ることができて感無量のエジプト南部の旅。最高です。
2011年06月01日
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今回のブログも、先々週末訪れた福島県いわき市に続き、先週末訪れた「岩手県陸前高田市、宮城県石巻市」の現状について、状況をアップしたいと思います。震災から3ヶ月近く経ち、仮設住宅が建てられるにつれ、一つ、また一つ、避難所が閉鎖されていく中での、今回の東北行きでした。勿論避難所から仮設住宅への移動は喜ばしいことだと思います。ただ、その中でも、避難所は閉鎖されるのに、仮設住宅の抽選が決まらない、これからどうすれば…、という声を耳にしました。中には、仮設住宅の抽選が決まらないのに避難所が閉鎖されてしまうので、まだ小さな子どもがいる家庭なのに、親戚の家を頼って、家族バラバラになってしまった、という話しも聞きました。一関市から陸前高田市へ向かう途中にある "天照御祖神社"神様に御挨拶してから、被災地に入ります。被災地は未だに生々しい爪痕が残ります見るも痛々しい電信柱コンクリートは剥がれ、鉄筋がむき出しになっています。コンクリートの橋台だけが残る陸橋津波の力が如何に強いものだったか、容易に想像できます。顔を寄せ合う軽自動車JR大船渡線の線路鉄骨だけになってしまった3階建ての建物この場所で、海岸から数百メートル離れていますが、海抜が低い土地なため、被害が広範囲に及びました。それでも、少しずつ、みんなが力を合わせ、町の復興が始まっていました。瓦礫を除去し、集める大型の重機海岸の目の前にある松の木あれだけ巨大な力を持った津波、その力にも耐え、今も大地にしっかりと根を張る陸前高田、"希望の一本松"避難所となっている中学校ハワイから届けられた支援物資を前に手形を付けまくり御満悦の子ども達避難所の体育館で生活する女性とこの方と会うのはこれで3度目ですが、今回はいつになく、不安げな心境のようでした。いっそ、津波で流されたほうが…、残された側もつらい…、と。仮設住宅もなかなか当たらず、震災の日からずっと、体育館の壇上で寝起きをされています。それでも、僕たちがやってきたことを放送で知り、体育館を出てきた所を再会。こんな僕たちでも、東京から来るのを楽しみにしてくれている、と。こんな方が1人でもいてくれるなら、僕たちが向かう意義はある、と思いました。そしてこれは誰のためでもなく、第一に自分自身のために僕は、被災地へ足を運んでいます。別れ際に配給されたパンやお菓子を手渡してくれました。 東北の方々は我慢強く、そしてとても親切。この時も別の避難所に立ち寄ると、明日々々そこの避難所は閉鎖されるというのに、またしても僕たちにまで夕食を分けてくれました。閉鎖された先の住処は未だ決まっていない、という心境の中で。そして宮城県石巻市へ向かいました。石巻の現状も酷いものでした。陸前高田のように壊滅的な状況でないにしても、こちらは地震の影響が強く、未だに電気の復旧が送れている地域や、路面の陥没は多大なものでした。日夜警察官の誘導が続く復興を急ぐ電力会社津波により、ガソリンスタンド内に入り込んでしまった家屋この町は港町だからか、生ものが腐ったような強烈な異臭が鼻をつきました。そして少し車の窓を開けていただけでも、埃っぽい臭いが車の中に充満していました。今回の震災は決して他人事ではありません。みんな口を揃えて、まさか自分たちが被害に遭うとは、と話していました。誰かに起きることは、自分にも起きるのです。今回の震災で、僕も含めて、多くの人間が "助け合う心、励まし合う心"を思い出し、何より三食食事を摂ることができ、寝床を心配せずに生活する、といった今までは当たり前だったことが、当たり前ではなく、一番の幸せなのだ、と気づいたはずです。「It's time to CHANGE」明るい未来のため、より良い社会のため、ここで変わらなければ、僕たちの未来は最悪のシナリオとなるかもしれません。
2011年05月30日
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アスワンから北へ列車でおよそ3時間、ファラオたち安眠の地で知られる「王家の谷」のある、「Luxor ルクソール」へ向かう時のことです。この距離でも僕たちが乗ることの出来る列車の本数は限られていて (確か午前10時の時点で今日は後3本だ、とか言われました)15時まで列車はない、と言うのです。チェックアウトもしてしまったし、こんなに暑いところで5時間は…。言うまでもなく、僕たち以外の人々が使う列車は何本もあります。言いたいことも、やりたいこともわかるけど、、せっかく世界一周へ日本を出て、そんな守られた旅を続けても、(確かに彼女が一緒なので、そんな無茶はできませんが、彼女にも僕のスタンスで視点で、物事を観てもらいたいのもあり)パックツアーでもあるまいし、観たいものが観れない。と言うことで、半ば強制的にホームに突っ込み、(アスワン駅のスタッフは両手を挙げて俺は知らないのポーズ) 僕たちが乗ることはできない列車に飛び乗りましたタンカ切って列車内には乗り込んだものの、2ndはインドの3rdと同等レベル。さすがに彼女がいるのにまずかったか…、と思っていると、横に座っていたおじぃちゃん家族が、身振り手振りで、隣りの列車は荷物も置けるし少し綺麗だし、そっちへ移りなさい、と。しかもその車両に水を忘れてきてしまったのですが、お孫さんがわざわざ持ってきてくれました。時と場所に寄っては睡眠薬を混入される場合がありますが、この頃には少しずつですが、その程度の感覚は戻ってきていたので、お礼を述べて、普通に飲みました。上の物置で眠るエジプシャンの男性列車の中は非常に暑く、この場所でファンすらありません。僕は犬のように舌をだし、少しでも体温を下げようとしていましたそしてしばらくその車両に乗っていると、今度は噂を聞きつけたポリスがやってきて、「なんでお前たちがここにいるんだ!!」なんてこったい、と言うことで、一度いなくなったものの、再度現れ連行。ポリスメン席の横に段ボールに手書きで何やら描かれたリザーブ席に案内され、セキュリティーはV.I.P待遇でルクソールを目指すことになりました。始めはバクシーシ目当てか、と勘ぐっていましたが、彼らはとても親切で、上司の方が彼女を気に入って、つたない英語で色々話しかけ、エジプトを教え、僕にはタバコをくれたり、お菓子をくれたり。僕たちも日本のお菓子を勧めますが、受けとろうとしません、自分たちで食べろ、と。すると他のお客さんのエジプシャンたちも、こんな所に外国人が乗っているのが嬉しいのか、決して安価ではないはずのライターや、なけなしの物を僕たちにプレゼントしてくれるのです。知っての通り、この国は先にムバラク政権が倒れるまで、今も劇的な変化はないでしょうが、表向きは別として、一般の人々は、非常に貧しい生活を送っています。配給ですら、みなには行き届きません。その生活の中で、です。彼女とポリスの男性本当に心優しい人間は顔に出ます。ダンディーです。部下と思われる男性とこの二枚の写真は、僕たちの大切な思い出となっています。別れ際にお礼を手渡そうとしましたが、受けとってもらえず、どうにかポケットに滑り込ませ、みなに感謝を述べ、涙々に別れました。彼らは、「またいつか会おう」と言ってくれました。完全にムスリム。感謝感謝。この日は良い出逢いに恵まれた一日。これぞ旅の醍醐味。こうして沢山の人たちに助けられながら、旅は続きます。
2011年05月27日
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イシス神殿も素晴らしく、そして美しい神殿でした。末期王朝時代の比較的新しい神殿ですが、彼女はこちらの方が気に入っていましたが。アブ・シンベル同様、水没する危機にあったところを隣りの島へ移転されたこの神殿。神殿まで向かうボートの船着き場日本、欧米諸国以外、交渉が全て。この時間帯、客は僕たちしかおらず (へっぽこ日本人中年男性が2人居合わせましたが、残念ながら戦闘力はゼロ) 、向こうも強気。駆け引きが面白いし難しい。何より彼女が来てからの僕は強かった、、と思います交渉に応じてくれた若い船頭自分の携帯電話で彼女と2ショットを撮り、御満悦だったヌビア人の男性とここの暑さが如何に厳しいかを物語る肌の黒さ。2ショットは彼女だと言ってみなに自慢するんだと意気揚々でした (笑)ナイル川に浮かぶ "イシス神殿"聖なる島に建つ "Ma'bad il-Fiila"まるで映画のセット。ローマ支配時代には教会として使用されたというイシス神殿教科書や参考書で嫌というほど目にした古代エジプトの "ヒエログリフ"まさかこの目で見る時がくるとは…こんな暑いのに、寒気がするほどでした。美しく残る列柱群7世紀にイスラームが流入すると閉鎖を余儀なくされ、廃墟となっといいますトラヤヌス帝のキオスクこの日は僕たち (+戦闘力ゼロの2人) 貸し切りだったので、思う存分、誰にも邪魔されることなく、歴史ロマンに思いを馳せることができました。しかし暑くて焦げるかと思いましたが。なんせネパールはポカラで買った安物のビーサンのゴムが溶け寸で足が可哀想でした。言うまでもなく、今までの人生の中でも、これからの人生の中でも、最も暑かった1日で有り続けるであろう赤道直下での1日でしたアスワン市内へ戻るタクシーの中からこの日の晩は、スークでフルーツを買い込み、彼女とフルーツパーティーをしました。何気ないことが最高に幸せだった旅の日常。YAY.
2011年05月26日
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今回のブログは、先々週末の岩手県宮古市に続き、先週末に福島県いわき市を訪れた感想、思いをアップしたいと思います。家族や友人は、この状況での福島県入りには不安を示していましたが、同じ被災地でも岩手県などの東北地方ばかり訪れていても、なにか腑に落ちないところがあったし、福島県には人があまり入っていない、ということを耳にしたので、福島県入りを決めました。何より、どうなっているかをこの目で見ておきたい、という、世界一周に出ようと決めたのと、同じ思いが、この時も大きかったと思います。福島県に入る前に、寝床として立ち寄った栃木県那須塩原市。ここは福島第一原発から90km圏ということでしたが、客足は減り、閑古鳥が鳴いていました。ただ、5月3日にアメリカのエネルギー省が実施したという、放射能測定の結果で、那須塩原駅も0.46μSv毎時、というアメリカ軍基地・施設で健康リスクが認められる0.32μSv毎時を上回った、ということですが。ちなみに東北新幹線を東京から仙台まで片道乗車すると0.4μSv被ばくするとの情報もあります。この那須塩原で面白い出逢いがありました。ひょんなことから立ち寄った「UNICO」というカフェ。ここで20時からとあるミュージシャンが小さなライブをやるとのこと。ここで働いていたヒッピー風の青年や他のスタッフの感じが気に入り、彼らが勧めるのでちょっと足を運んでみようと、夕食後に出掛けてみると。なかなかどうして、いいじゃないですか。一瞬にしてその世界観が気に入り、ラムコーク片手に一番前に丸イスを持ち出し、その世界に入り込んでしまいました。「NAOITO」@ UNICO気になる方がいたら是非。http://groundriddim.com/naoito/気に入ってCDまでゲットしましたが、更に裏があり、僕がインド・ネパールを旅した時に出逢った清士くん、みなさま覚えていらっしゃるでしょうか?出逢うべくして出逢った、僕が大好きな世界観を持つ、あの清士くんです。NAOITOくんを見た時に清士くんが出てきたので、東京に帰ったら連絡してみようと思って、先ほどメールしたらビックリ。「なおいとくんなら去年こっちに来た時にうちに寄っていったよ~」だって流石清士くん!! これぞ人生!!!! YAAAAAAAAY!!!!!!!!どれも良い曲ですが、この曲が好きです。NAOITO : 演歌艶花翌日目指したのは福島県いわき市中央台。福島第一原発から南南西に40km震災から2ヶ月以上経ち、地震・津波被災地では少しずつではありますが、復興への歩みが始まっていますが、福島第一原発だけは事故収束のメドが立っていない、ということ。ですがそこにも人々は住み、生活をし、日常生活を送っています。子どもは無邪気に遊び、お腹の大きなお母さんがそこを歩いています。確かに同じ40km圏の飯館村などと比べると、かなり放射能濃度は低いようですが、政府発表のものでも常時の5~6倍。あるお母さんは、風評被害でね~、と話していましたが、そうであることを祈りたいです。青空ワークショップある女の子に、プール教室はいつから??と尋ねると、「今年はやらないみたい、放射能がね~」風評被害を口にしたお母さんは、政府が安全だと言っているから、と話していましたが、では何故プール教室はやらないのか??一刻も早く、事態が改善されることを切に祈ります。スクリーニング検査をしてくれる町の建物取り壊されるはずだったマンション、避難民が生活をする「犬も歩けば棒にあたる、人が歩くと誰かに出逢う」とNAOITOくんは唄いますが、これからも "出逢い" を大切にし、よりよい社会のため、明るい未来のため、自分のできることしていきたいです。
2011年05月24日
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翌3時半にアスワンの町を出発し、「アブシンベル神殿・イシス神殿」ツアーへ。なんでこんなに早いんだ、と2人で首を傾げていましたが、後々謎が解けました。この時間に出なければならないほど遠いわけでもない、アスワンに戻ってきたのはお昼過ぎだったし。なぜなら日中は暑すぎるので (特にアブシンベル神殿は) 観光移動ともに向かないので、少しでも早く出発したいのでしょう。車は例の如くトヨタ製の新型ハイエースにも関わらず、あまりの暑さにエアコンは利かず…。この時、少々お腹の調子が優れず、下痢止めを飲んだものの、それも効かず、勢いあまって3回分取り込んだら、下痢は止まったものの、砂漠を走行中あまりの暑さの中、体中の水分を奪われ、体内外ともにカラカラに乾涸び、死ぬ思いをしました…。アスワンを出発した僕たちは、この日、アブシンベル神殿方面を観光をする全台数の車が一先ず一カ所に集まり、車を隅々までチェックし (腹下まで鏡を使ってチェック) いくつかのグループに別れ、前後を警察車両に援護され、目的地へ向かう、といった物々しいものでした。アスワンから南へ280km、北回帰線を越え、赤道ド直下、スーダン国境まで残りわずか。ナイル川氾濫の為に造られたアスワンハイダム建設時に神殿が水没の危機にさらされ、ユネスコの元に救済、1964年から4年かけて工事が行われ、2つの神殿をブロックに切断する方法で、もとより60m上にそっくり移動する、と言った離れ業で、どうにか事無きを得た、エジプト最南端の見所、「アブ・シンベル大小神殿」歴代のファラオの中でも、スケールの大きさから一際目立つ存在の「ラメセス2世」各地に数多くの建造物を建てたラメセス2世の建築物の中でも、規模の大きさと完成度が群を抜く、あの神殿。子どもの頃からTVや教科書ではお馴染みのあのアブシンベル神殿を、しかも大好きな彼女と一緒に観ることができるなんて。また一つ、夢が叶った瞬間です。Ma'bad Abu Simbel il-Akbar アブ・シンベル大神殿高さ20mにもなるラメセス2世像が並ぶ姿は圧巻です。ラメセス2世像の横に立つ "ネフェルトアリ" の像心無しかGrayに見えなくもありません。小神殿大神殿の横に並ぶ、ラメセス2世が愛しの妃のために建造したアブ・シンベル小神殿。アブ・シンベル大小神殿これだけ巨大なアブ・シンベルも、1813年にスイスの探検家が発見するまで、砂に埋もれかけていたと言います。3300年も前にこんなものをよく造ったものだ (造らされたものだと) 感心しつつ、アブ・シンベル神殿を跡にし、次なる目的地のイシス神殿へ。なんせ暑いという次元ではありません。赤道直下とはここまで暑いものかと思うほど暑い、、というより最早地獄。慣れていない貧弱な僕たちなんか簡単に死ねる暑さです。ちなみにあまりの暑さにこの日の気温をアスワンに戻ってからネットで調べると…、まさかの 47℃…よんじゅうななど?!人間が生活するレベルではありません。申し訳なさ程度の "アスワンハイダム"ナイルの反乱を畏れて造られた悪の根元
2011年05月22日
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22時にカイロを出発した列車は、14時間かけてエジプト南部、ヌビア地方にある「Aswan アスワン」に到着。昨日の夜行列車は、6人一室のコパートメント形式だったのですが、バクシーシ目当てのスタッフが後に部屋割りを行い、僕たちは2人で一室を使うことができました。ただ寝台ではなく、60度ばかりリクライニングするだけのシートで、165LPは高いよな~、とグチりつつ他にいくつも列車の数はあるのですが、僕たち外国人旅行者が利用できるものは限られていて、1つの路線で日に3本程度。これもテロを警戒してのことでしょうが、面白味には欠けます。列車の車内旅にトランプは必需品。2人のバックパック列車を降りてからのアスワンの感想は、「暑い、眩しい、陽差しが痛い」そしてこの熱風。正面から風でも吹こうものなら、まるでドライヤーの風流石の現地のヌビア人もこの季節、日中は下手に出歩かない様子。日陰を求めながら宿を探します。あまりの暑さ、そしてこの湿度の低さ、汗をかいても即蒸発するため、危険です結局この町での部屋はトイレ・シャワーともに室内の、まさかのエアコン付きで1人20LPカイロに比べるとその安さに驚きます。 "YASSIEN HOTEL" 室内洗濯したデニム (脱水機などありませんからビショビショ) が、部屋干しまさかの、、2時間半2時間半で乾いた、という世界最速の記録を持っているのもこの町ですエジプト南部に滞在中は基本、昼間の行動は避けることにしました。なぜなら、南インド滞在中に現地のインド人ですら、泡を吹いて倒れていたのを思い出したので安宿のドミトリーでは割りとよく、泡を吹いているカニのようになった各国のバックパッカーの姿を目にしたものだと、旅を振り返りつつ…。この日は陽が暮れてから、明日のスーダン国境にほど近い世界遺産へのツアーのリザベーションや、スークに果物を買いに行ったりコシャリを食べに行ったり、とりあえずこの暑さに少しでも慣れることにしました。
2011年05月19日
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正式名称「エジプト・アラブ共和国」国土は日本のおよそ3倍、人口およそ7300万、首都はアフリカ大陸最大の街「カイロ」イスラーム・スンニ派が人口の90%を占めるイスラーム国家です (コプト・キリスト教が7%)観光地では英語も通じますが、数字くらいはアラビア語で覚えておかなければ、バスすら乗ることができません。通貨はエジプシャン・パウンドでLE、1LE=およそ17円が僕が訪れた当時のレートでした。エジプトの紙幣はどれも美しく、表面にはカイロにある伝統的なイスラーム寺院が、裏面にはエジプト各地にある世界遺産が、それぞれデザインされています。1.5Lのミネラルウォーターなら1.5LE=25円ほど、安宿のドミトリーなら20LE=340円程度で泊まることができます。色合いのみならず、デザインも美しいエジプシャン・パウンド紙幣僕が訪れた当時は、目立った争い、暴動は無く、表向きはみな、平然と生活していました。ですが、どこへ行っても警察の影がついて歩き、監視されているのだな、という感想を持ちました。貧富の差は激しく、ちょっと裏路地を歩けば、貧しい風景が目に飛び込んできます。国の配給で生活している人も少なくないようです。ちなみに当時は非常事態令が発令されたままの状態だったので、空港や駅などの公共施設、軍事施設でのカメラ撮影は禁止されていました。ジョルダンのアカバからヌエバアに上陸した際のボーダーで、コリアンのオッパーが写真撮影をした瞬間、セキュリティーが飛んできて、全て消去させられていました、大したボーダーではなかったのですが。さて、来たる翌晩23時、1時間前から空港内で待機 (カイロの街は渋滞が多いからね)そわそわそわそわ。ARRIVAL GATE前をちょろちょろちょろちょろ。見慣れた骨格の方々が多数出てこられたので、この便や、と思い、深呼吸この時未だ日本を発って然程経っていませんが、日本で送る時間の概念とは異なる、全く別次元の時間とでも言いましょうか、非日常の、、例えば同じ1月でも、外国で1人旅をして過ごしていますと、日々物凄く多くの出来事があり、感じ、考え、成長させられるのです。ですから、彼女とも、もう随分長いこと離れている錯覚に捕われ、感極まっていた、といったところでしょうか。そこへおっかなびっくり、不慣れなバックパックを背負った女の子が1人、やってきました2人が目が合い、気付いた瞬間、小走りに走りより、一目も憚らず、抱き合ってしまいました。こんな感動的な再会、そうあるものではありません。この時の光景、想い、感情は、今も昨日のことの様にはっきりと、思い出すことができます。空港職員までもが、温かい眼差しで見守ってくれていました。市内に向かうバスや、地下鉄の中でも、男一人の時より、心無しかみな、親切にしてくれ、「Madam」なんて言って助けてくれたりするのです。インドを初めて旅した頃から、そこで目にする光景、感動、出逢い、強いては食べ物に至るまで、、全てに至り、起こることを、大好きな人と共に味わうことができたら、どんなに幸せだろう、こんな幸せなことはない、と夢にみていたのです。翌日から、僕の幼い頃からの "夢" +αだった、ちょっと間の「世界一周ふたり旅」の始まりです。心無しか顔が綻んでいます。 エジプト考古学博物館にてアスワン行きの列車の出発が夜だったため、日中はカイロの街を自慢げに案内。エジプト考古学博物館初日の大盤振る舞いエジプトに入国してからは "コシャリ (ライス、ビーンズ、マカロニ、フライドオニオンにトマトソース) " と呼ばれるエジプトでは一番安く済む、それでいて栄養価はほぼ炭水化物という、まさに魔法のような、、食事しか食べていなかったので、この日は豪勢に!!勿論、コシャリもオーダー。彼女と旅をするようになって、太ったのは…、言うまでもありません…。
2011年05月17日
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