グレコバクトリアが中原へ手を伸ばし、千の都市の支配者となることを可能にした、と言える。
(グレコバクトリアは「千の都市」で有名だが、千の村はあっても都市は数えるほどしかない。)
そしてこのデオドトスが、千の都市の主人となるべく秦王国を立てた本人なんだ、と思う。
正しくは、彼の持っていた軍旗がそうさせたんだと。
最初から持ってたはずはない、彼はマケドニア・ヘラス人だ。
姻族の誰かが持ってた。
異説は多いが、秦の建てた万里の長城は西域側が緩やかで、どうやら軍用道路。
騎馬民族諸族はすべて、彼に付き従ったんで、そこらに回答がある。
当然阿羅武もいたわけだ。
彼は錦の御旗の意味を知ったに違いない。
太古イシン市の、アラタマの軍旗が持つ意味。
これは辰王の証で、それを持つ一門が東を目指す理由、阿羅武族が旅立った事情も知ったはずだ。
阿羅漢たちは、すべてを時の辰王に託した。
マハー・ラッキタ学園の種族などとともに、黙々と彼に付き従った。
彼らは仏教などとともに、西域からの東方侵略軍の先鋒にいたのである。
抵抗は激しかった。
西域に近いセレス(絹)の国の一角を、ようやくのことで確保。
そして橋頭保となった秦((イ)シン)国を建国。
広大な地域の千の諸都市占領にとりかかった。
しかし今一歩、イシンの栄光再興にあと一息のところで。
突然の唐突の、デオドトスの死。
戦いに倒れたんではない、原因不明の死が立ちふさがった。
彼らは常に戦いの最前線にいたため、相続争いには加われなかった。
その後の、跡継ぎの辰王を擁立すべく騎馬の民を糾合して起こした反乱にも、敗れ去ることとなった。
借氏とも別れ、権勢のあった中原を逃れ去る、阿羅武一門。
そのころの惨めな様が、後の時代の契丹文書にある。
阿羅武としてではなく、敗北の将として。
女王アヤカシコネが乳飲み子を抱き。
軍旗とともに、配下の千戸長のもとへ嫁ぐ。
その様が描かれた。
どうやら匈奴のようである、姜族や姫族との関係かもしれない。
具体的にはワカランのだ。
一門の命脈はなんとか絶えずに、繋がれることとはなったようだが。
見送る人々に、すすり泣きが漏れる。
そんな惨めな様子なども描かれている。
この一門はやがて時代が下ると、巡り巡って、高句麗へと落ち延びたようだ。
秦帝国の跡継ぎは、辰王ではなかったのである。
騎馬の民が望んでいた幼子の方ではなかったのだ。
新しくやって来た若い少年が、秦王権の跡を継いだ。
血筋の怪しい、目の青い子だった。
ヘラス系、パルサワ系なんだが、宰相呂不韋の子(レビ族)だとの、世間の噂。
だとすると、この子はエウチデモスの子?のはずで。
大秦(シリア大帝国)が後押ししていたのか。
(この大秦も、ローマ帝国と読み替えるウソがあるので要注意。)
(しかもレビ族では、話が合致しなくなる。)
後の伝承などから、呂不韋というのが、あとの時代に挿入されたか。
あるいは超細長い回廊でつながったグレコバクトリア=秦帝国の両端に、別々のユダ族宰相とレビ族宰相の二人がいたのか、という事だろう。
前者の可能性が圧倒的に高い。
この時代に、レビがこの地まで来られたはずない。
これにより、騎馬の諸族は実際に各地で離散した。
その騒乱によって、シルクロード北方の通商回廊も、長城も、閉じられることとなった。
そのため、始皇帝がいくら祭祀やって翡翠円盤を流しても、天は彼の王権を決して承認しなかった。
それでも勢いのついている秦は偉業を成し遂げたのである。
この青い目の少年のもとで、中国統一を果たすのである。
まだうら若い、始皇帝が誕生。
しかもこの男の能力はすごくて、中国を統一したのみか。
反対派をことごとく潰し、学者をも殺し、反乱し敵となった諸文化をことごとく焼き尽くした。
秦帝国の基盤を形成していたユダ族の痕跡も、ヘラスの痕跡も、アスカ王が遠路派遣した12支族海軍のその痕跡すらも、見事に消し去ったのだ。
斉(マケドニア)の導師が活躍し、始皇帝にとりいって、その海軍を私物化する話もある。
皇帝の追及を逃れた若者たちが、これで逃がされたという。
しかしまるで一神教が君臨したかのように国は乱れた。
レビの権威と知恵が生き残ったかのようであった。
多神教や、パン・クシュの痕跡も消されていった。
ユダ族の学者たちも、その学術誌ともども地中に消えた。
そして歪に形骸化して残ったのが、儒教なのである。
ジュウ教(ユダヤ教)が儒教となったと鹿島昇は言うが。
これはウソ。
ユダの道徳の知恵が儒教を生んだだけだ。
秦とローマのレビ族は無関係だと思うんである。
。
大秦はローマではなくシリア。
しかしユダ族がここで、まるでレビ族であるかのように一神教化させられていったのは事実である。
そして秦は、中国人(過去の周、後の漢の人)からも疎んじられることとなり。
滅んだ。
その前に、多神教の民の多くは、国土から逃げだしていた。
北方に逃げた騎馬の民は一時期強大化したが。
やがて分裂して、辰王の軍旗も逃げて。
結局高句麗に至ったようだ。
このいきさつは、未だ不勉強のオイラには、わかっていない。
騎馬の民の動向は、つかみにくい。
そして秦王族の一部は国の滅亡後、大勢を引き連れて半島の秦の砦を頼ったのである。
これのみが教科書にある。
但し亡命先を胡麻化してある。
彼らが亡命した先は日本ではなく、シロの砦である。
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