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秩序、破裂 京都橘のやった「手柄」のような話が、いっこう人口に膾炙(かいしゃ、人々の評判になって、知れ渡ること)して来ないのは、たぶん大手既存メディアの抱いている「高校生のあるべき姿」と、彼女たちがずうっと見せてきたパフォーマンスに、少なからずズレがあるからなのではないか? で、そうしたズレというのは、きっと青山議員をずうっとネグレクトする感覚と共通する姿勢なのだろう、というような話をしようと思っていたのですが、不愉快な話ではあるし、現時点では理屈的にかなり飛躍がある(引っ込めるわけじゃないですよ)ので、いったん楽しい音楽の話題に戻りたいと思います。 先ほどのマーラー「交響曲第2番ハ短調」は、彼34歳のときの作品で、後半には別働隊の金管楽器群や声楽、さらにはパイプオルガンも登場し、きわめてスペキュタクラーな音楽となっています。19世紀末から20世紀初頭に活躍した人で、クラシックの作曲家としては驚くほどブラスや打楽器のサウンドを多用した作曲家でした。 交響楽というのは、そもそも弦楽が主体となって発展してきたので、ベートーヴェンやモーツアルトをはじめとして、その響きの中心は弦楽が受け持ち、管楽器群はそれの補完にまわることが多い。それは後期ロマン派や国民学派の場合も基本的に同じで、オーケストラの規模はハイドンの時代に比べれば、4倍か5倍くらい大きくなっているのにもかかわらず、弦楽器主導の音作りには変わりがなかったのです。それかあらぬか、今でもオーケストラのコンサートマスターは、第一ヴァイオリンの奏者が務めるでしょう。 その理由については、弦楽器がサスティナブルな音型も、律動的な音型も両方柔軟に繰り出せるので、それがシンフォニーのあり方にマッチしたのかな?などと、いろいろ考えてしまいますが、ここでは深入りしません。確かなことはマーラーが、弦楽器主体のオーケストレーションではなく、管楽器はもちろんシロフォンやトライアングル、ハンマーにいたるまで、すべての楽器の音を「等価の響き」として扱ったということです。 私が第二番のLPを思い切って買ったのは高校2年のとき、バーンスタイン・ニューヨークフィルの二枚組だったのですが、映画音楽のように臆面なく前に押し出してくる、金管楽器の響きに仰天したものでした。同じ百人以上の大編成オーケストラであるにもかかわらず、その響きはウィーンやベルリンとはまったく違う。きらきらと金属的な乾いた音色は、きっとバーンスタイン・ニューヨークフィルだけが出し得るアメリカのサウンドだろうと、かってに考えていましたが、今では「そうでもなかろう。それもあるかもしれないけれど、元をただせば結局それは、マーラーが意図した書法そのものじゃないか、バーンスタインはその一面を、分かりやすく前景化してみせただけじゃないの」という気がしています。 先ほどの動画、演奏しているのはオランダのロイヤル・コンツェルトへボウ管弦楽団。かつてはアムステルダム・コンツェルトへボウ管弦楽団として知られた名門オーケストラですね。メンゲルベルクやヨッフムといったドイツ系の指揮者が育てたせいか、きわめて重厚なサウンドを響かせるオーケストラとして有名です。 それかあらぬか、ここのブラスサウンド、最弱音のコラールから最強音の咆哮に到るまで、金管楽器群のバランスが驚くほど滑らかで、音が濁ることがない。さらには金管楽器群全体の繰り出す響きが、決して他の楽器群の音を邪魔するところがなく、きわめて「高い秩序」を維持しているように聴こえる。このあたり、いかにもヨーロッパのオーケストラだなあという感じがします。その根本的なところでの「秩序性」が、ということです。 バーンスタインの指揮は、決してそうじゃなかった。彼はきれいに整った「秩序」よりは、汚くなっても「破裂」を望んだのではないか?で、その「破裂」はマーラーが世紀末のウィーンで、確かに見たであろう悪夢の一面を、きわめて明晰に「言い当てていた」のです。あるいはその「破裂」の先に見える風景を見たくて、そうせざるを得なかったのかもしれません。 次は長大なうえに真に危険な曲なので、聴いてくださいとはよう言いません。しかしバーンスタインらしさのよく出た、ウィーンフィルの貴重な記録映像なので紹介だけしておきます。 「マーラー交響曲第6番」なのですが、まるで自分の臓腑を引きちぎって並べて見せたような音楽で、終始聴く者を威嚇する。ここではきれいな音楽を聴かせよう、などという意図は皆無で、神経的なきしみ音だけが全体を覆っているのですが、であるにもかかわらず、最後まで聴いた人は、言葉では説明出来ないけれど、明晰なメッセージをそこから受け取るでしょう。表現というのは、どこまでも残酷なほど「自由」なのです。 正直申し上げますが、私は高校のときからマーラーのファンですが、大好きな「大地の歌」も交響曲第9番もそしてこの第6番も、通しで聴いたことは一回もありません。それでも間歇的に、かのサウンドを無性に聴きたくなるときがある。あの金属片の散らばったような金管とトライアングルの響きが。 それがなぜなのか、今だに分かりません。
2018.08.31
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贖罪 というわけで、2012年のBenefit Concert。後半は音楽というよりは、何やらドキュメンタルな記録映像という感じになって、ホストファミリーとの交歓とか、「星条旗よ、永遠なれ」での締めくくりとか、感動的なシーンが続くのですが、おそらくこのあたりは主催側の予想をはるかに超えて、大幅な時間延長になったのではないか?京都橘の高校生が「絶対に届けようとしたもの」があまりにも重くて大きく、それを嚥下し確かに受け入れるのに、ある程度の時間を要したということでしょう。 彼女たちが前半で見せた、底抜けの「エンターテインメント」は、ここで別の相貌を見せているのです。自分たち自身がつかみ出したコンセプトを、本当に他人に届けようとするなら、そのエンターテインメント性に「徹し切る」ほかない。「心底楽しんでいる」姿の裏に、物事に真摯に取り組んだ者たちだけが、発することの出来る「覚悟」が重なり合うことで、そのメッセージはより深く相手の心に届くのです。 まあそれにしても、当日会場に来た人たちは得したと言うか、めったと起こり得ないコンサートに遭遇して、腰を抜かしたでしょうな。京都橘が最速で今年のローズ・パレードへの再演を果たしたのも、これを見れば大いにうなずけます。 ちなみに当日集まった義捐金は、ローズ・パレード参加の他のマーチングバンドからの義捐金と合わせて、すべて東北に送られたそうです。 さてここからは音楽の話を離れて、少し嫌なことに触れなければなりません。彼女たちがアメリカに旅立つ半年前、京都では何が起こっていたのか。ほとんどの方はお忘れでしょうが、京都五山の送り火で「陸前高田の薪」を燃やすか燃やさないかで、市中が沸騰していたでしょう。 当時書いた私のブログ記事は、くどくて僭越で読むに耐えない代物ですが、まさしくこの同じ時期に京都橘の生徒たちは、上のような「覚悟の修練」を重ねていたわけで、グズグズした洛中の大人たちを尻目に、この時期の若者たちは何とまっとうな「大人の判断」をしていたことでしょう。つまらない「似非環境主義者」たちのクレームに、大人たちが右往左往するなか、彼女たちは「東北に対して、今自分たちに出来ること」を真剣に考え、少しもブレることなく猛練習に励んでいたのです。 洛中の皆さん、今からでも遅くないから、京都橘の生徒諸賢に感謝状の一つでも送ってはいかが?福島や東北の人々を二重三重に傷つけた京都市民のエゴイズムを、すべてとは言わなくても、多少なりと彼女たちは贖っているのだから。 それにしても、こんな話があったということを、2012年の年明け皆さんは知っていましたか?私は京都の市民ではなかったので、地元の新聞は見ていませんが、少なくともテレビの地方局を見る機会は何度でもありました(当時、京都府民だったので)。しかし私の記憶をどうほじくっても、こんな話題はここから先も思い出すことが出来ません。 とすれば、メディアそのものも、こうした話題には最初からあまり関心を示さなかったというか、まったく興味がなかったということでしょう。それとも、ローズ・パレードじたい、その意味するところを知らなかった(紅白歌合戦をはるかにしのぐ、アメリカの一大国民イベントに、京都のマーチングバンドが出ているというのに)!?何となく最後のが当たっているような気がします、あ~あ。 なぜこんなことを言うかというと、今年も同じ事態が起こっているからです。私は新聞を読まないので、あまり迂闊なことは言えませんが、少なくとも吹奏楽コンクールやマーチングバンド・コンテストを主催する大手新聞社やテレビ局は、ローズ・パレードに出ることは知っていたでしょう。それに「あえて触れない」というのには、前の青山繁晴参議院議員に対する既存メディアの取り扱いと似たところがある、というふうに私には見えてしまうのです。 気が鬱屈してきたので、まったくの口直しですが、プロのブラスサウンドとは、いったいどんなものだろうと考えた時、私などジャズはまったく門外漢なので、クラシックに目をやると、例えばG・マーラーの「交響曲第2番の終楽章」が思い浮かびます。まあちょっと聴いてみてください。
2018.08.30
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召命 さて、カーペンターズが終わった後、橘の高校生の行ったスピーチで会場の雰囲気が一変し、このコンサートの趣旨が明らかにされます。そもそもBenefit Concertとは慈善演奏会であり、その収益は毎年さまざまな慈善事業に送られていたようですが、今回は前年の「東日本大震災」後、初めてのコンサートでもあり、それに触れないわけにはいきません。 それまでの30分ほど、いわばアメリカへの深いリスペクトを込めた、最高のパフォーマンスを示してきた京都橘ですが、ここへ来てその底抜けに明るい演奏会の質が、一段引き上げられているのです。「エンターテインメントに徹する」というコンセプトは、確かに震災以前から彼女たちが練り上げた理念であったかもしれないけれど、震災直後の悲惨な東北の現状が分かってくるにつけ、「果たして自分たちは、このままでいいのだろうか?」という疑念もわいたに違いない。モチベーションを以前と同じように維持するのが難しいなか、「京都橘高校部員として、自分たちには今何が出来るのか、すべきなのかということを一生懸命に考えて、アメリカにやって来たということでしょう。 その回答は、次の「祈り、そして誇りを胸に」(35分~)という曲の演奏と、それに合わせて流された映像に示されていると言っていい。 作曲した内藤淳一氏は吹奏楽曲の名手だそうです。かつて仙台で教えていたこともあって、鎮魂と復興への祈りを込めて、震災直後にこれを書かれたらしい。しかし華やかな音響とパンチの効いたリズムが持ち味の吹奏楽にあって、こうした厳粛でゆったりとしたテンポの、シンフォニックな響きを表出するのはなかなか難しい(と拝察します)。 面白いのは、この映像を撮り続けているMusic213さんが、カメラを演奏のほうに戻そうとしながら、結局ずうっとプロジェクターに釘付けになってしまったということでしょう。そうです。ここでは前年にあった悲惨な出来事から、目を背けてはいけない。 この映像をよく見ると、もちろん震災映像の寄せ集めなどではなく、どうもこの編集じたいも、橘高校自身が行っているらしい。そのほとんどが津波とか震災の映像ではなく、そこにいた「人々の映像」で占められているのです。これは明らかに、橘としての意図があったからなのであって、それは例えば「私たちは、あなたたちに常に寄り添っていきます」といったメッセージであったでしょう。 じつはこうした悲惨な状況に置かれた人々を見るとき、私たちはその痛みや悲しみを「共有」出来る、などと思ってはいけません。神戸の震災のときもそうでしたが、「あの恐怖と悲惨だけは、本当にあってみなければ、絶対に誰にも分からない」のです。世の中には「共有」や「共感」を安易に叫び、またほとんどそれを「強要」するかのような言辞を吐く人が、(とくに政治家に)多いですが、例えば、がん患者の痛みをどうやって、健常者に「共有せよ」というのでしょう。 安易な共感や独りよがりな善意は、かえって当事者たちを傷つける。そこで私たちに出来ることとは、「ただただ寄り添って、見守る」ことしかないじゃないですか。 ここからはまったくの想像ですが、あるいは彼女たちはこの映像を見ながら、練習を重ねたのかもしれない。とすれば、「どうしたら音楽を、本当に届けることが出来るか」という命題は、そのときあるいは「どうしても、この音楽を届けたい。届けなければならない」という「召命」性を帯びたのではないか知らん。 このときの演奏には、何やらそうした「切迫」した感じがあって、心を打ちますね。 じつはこの曲、今年のBenefit Concertでも取り上げられていて、すばらしいハーモ二クスを聞かせるのですが、そうした「切迫性」という点では2012年の時とは比較になりません、というか、そもそも比較できない種類のものでしょう。こうした響きはある種の「邂逅(かいこう、思いがけない出会い。運命的なめぐりあい)」があって、初めて成立するので、そうした瞬間は二度と起こらないものなのです。私には最後の全奏の響きが、何やらパイプオルガンのクラスターのように聴こえましたよ。
2018.08.27
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標準化された指標 私の友人にも、かなりディープなジャズファンがいて、村上春樹ほどではないにしても、目を向くほどのLPを揃えて悦に入っている。で、いきなり「J・コルトレーンはどう、A・ブレイキーは…、H・ハンコックは…」とかぶせられても、これから楽しもうかと思っているこっちとしては、何となく引いてしまうところがあるじゃないですか。 ジャズ音楽が世界のクラシック、ポップ問わず、20世紀音楽に与えた影響はとてつもなく大きく、しかもそれは純正のアメリカ音楽なのです(20世紀のアメリカ以外では、絶対生まれなかった音楽。間違っても、アフリカ音楽じゃないですよ)。つまり20世紀は政治経済社会文化すべてひっくるめて、良くも悪くもアメリカ的エートスの影響下にあったのであって、あたりまえのことですが、アメリカ抜きに前世紀を語ることはできません。 ところが、先ほどのこうした「したり顔」が、私たちをジャズに入り難くさせている面があったのではないか?早い話、中学高校の音楽の時間に、ジャズを聞かせる先生方が果たしておられたのかどうか?ベートーヴェンやモーツアルトに関しては、あれほどいわくありげな「物語つき」で、時間を割いていたにもかかわらず、M・デイビスの何者であるかなどということは、眉をひそめて絶対触れなかったでしょう(というか、触れようがなかった?)。 新しい文化とか、それを推進するエートスというのは、しばしば既存の良識とか通念に、ヤスリをかけるような不愉快な仕方で現れて来るものです。前にもどこかで触れましたが、網タイ、ホットパンツ、ノースリーブといった女性ファッションの淵源は、街の売娼から生まれたものでしょう。同じようにガングロ、ヘソ出し、ルーズソックスはJKビジネス=援交といった、はなはだネガな表象をともなって、はじめは街に登場したのです。 ジャズやビートルズは、さすがに中高の音楽史に取り上げられるようになったとしても、上のような風俗については、いつ頃のことになるのか知らん? それにしても、昔懐かしのスウィングから、ガレスピーのビッグバンドを経て、カーペンターズを聞かされると、カレンのボーカルがないぶん、かえってジャズ的なフレージングが、そこから立ち上がって来るような気がするのは私だけでしょうか?アメリカの聴衆は期せずして、自前の音楽文化を一気に通覧するような、ワイドな気分に誘われたのではないか。 こうしたシャレた選曲など、やっぱりしかるべき「趣味」を持った人がいないと出来ないのではないか、というのが目下の論件なのですが、ここまで話して来て何となく自信が揺らいできました。「いや、そうじゃないだろう。きっとこれらも我がJK諸賢が、自ら選んだのではないか」という気がしているのです。 私たちはあるいはJKとか高校生という、何やら暗黙裡に「標準化された指標」を見ているのかもしれない。例えば高校野球の選手像に代表されるような指標です。早い話、自身の高校生活を思い出してみれば、少なくとも私は新聞やテレビがはやし立てる高校野球選手のような、「美しい物語」などいっさいなかった。むしろ「大人の入りかけ」という、まことにややこしい心身を持て余して、ずいぶん鬱屈した気分を過ごしていたような気がする。 それの代償行為として、タバコをやったり酒を口にしたり暴走してみたり、要は子供をやめて親や先生や、あるいはそれまで関係した世界から離れたいという時期が誰にでも必ずある。これって「美しい青春」なんて指標では、とても括れない危うさを含んだ時期なのですが、そうであればあるほど、大人社会はそれらを、あたかも「美しい物語」であるかのように言いくるめようとする。高校野球の記事は、ほとんどこの種の「大人の都合と願望」で綴られているのです。たまに、そういう大人の意に反するような言動や振る舞いをした選手は、徹底的に忌避されるか矯正されるでしょう。 私の場合、それらがタバコや酒や暴走でなく、たまたま三島由紀夫や大江健三郎、あるいはシベリウスやマーラーに入り浸ったということであり、その入れ込み度合いだけで言うなら結局、上の場合とほぼ同じだったのではないか?それが証拠に、大学に入ったとたん、それらはすべて任意の選択肢に変貌していたのです。 とすれば、多感なJKたちの中には、限りなくジャズやアメリカンポップスに、ディープに入り浸る人がいたとしても、ちっとも不思議でない。それも「大人の都合と願望」では決して括られない、はなはだ「美しくない」仕方で。 と、ずいぶん過激なことを話してしまいました。気分直しにもう一場面、今年のパレード最終ストレッチでの「Happy!」。疲れを知らぬ演奏に、最後はAKBばりのハイタッチの大サービス。笑っちゃいますね。
2018.08.25
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楽しむ 断っておかなければなりませんが、こういう話をしていると、何か私が今どきのJKたちが繰り出すKAWII立ち居振る舞いを、あたかも日本の希望であるかのごとく、礼賛しているように取られるのを恐れる。826Asukaさんの場合もそうですが、私の話は常に対象の「氏素性、年齢性別一切関係なし」、NETに並べられた半公共の動画を見て、「他者に物事を届ける」とはどういうことなのか?「真のインパクト」とはどういうものなのか?を考えるのが面白くて、はなはだ心許ない素人の賞味力を動員しつつ、思い切り私の関心に引き付けてしゃべっているだけです。 したがって、ここを京都橘さんや826Asukaさん、まして平原綾香さんや荒川静香さん他の、偏頗なファンサイトみたいに取られては困ってしまう。彼ら彼女らがどういう選択をし、この先どういう未来を開いていくのかというのは、ある意味冷たいですが「私にとって関係がない」。関係があるのは、彼ら彼女らがさまざまな形で発して来るメッセージが、私には「どのように届いたか」というところだけなのです。いわゆるファンサイトに寄せられる、「ああしてほしい、こうしてほしい」というコメントのなんと多いことか(まあ、気持ちは分かりますが)。 私はそうしたサジェッションは基本的に一切しません、というか何だか料理している人に、「ああせえ、こうせえ」と(自分は何もしないのに)注文つけているみたいで、恥ずかしくてようしません。ひたすら並べられた作品を、自分の感覚で賞玩するだけです。閑話休題 さて、音楽の面白味を「本当に聞き手に届ける」ために、自ら「エンターテインメントに徹する」というコンセプトを定めたなら、自分たちは何を優先しなければならないか?人に楽しんでもらうためには、まず自分たちが心底「楽しまなければならない」。自分たちが腹の底から「楽しむ」ためには、猛練習でスキルアップするしかない、という筋がたちまち出来上がってしまうでしょう。 何度も触れたことですが、野茂が周囲の反対を押してメジャーに行くと発表したとき、「野球を楽しみたい」と言ったのを皮切りに、「試合を楽しんでやりたい」と口にするアスリートが増えましたが、ほとんどの選手はその含意を履き違えて、使っていたのではないかと思う。「野球を心底楽しむ」ためには、絶対「勝つ」しかない。で、絶対「勝つ」ためには、死ぬほどの猛練習と過剰なまでの「準備」が必要で、それに耐え得た者だけが、真に試合を「楽しむ」と言うことが出来る。しかしここ最近のアスリートの口吻を聞いていると、何やら高ぶる気分をリラックスさせるために、いたって手軽に使っているような気がします。 京都橘の「エンターテインメントに徹する」というコンセプトには、野茂の「楽しむ」に似た「覚悟」のようなものを感じる。実際のところ、9キロの道のりを楽器を弾きながら、激しいステップを踏んで行進するというのは、音楽というよりはアスリート的な鍛え方をしていなければ絶対無理で、かつてスーザホーンを吹いていた友人に聞けば、「向かい風が吹いたら、どないしても他より遅れるんや」と言ってましたよ。私のつたない経験でも、吹奏楽ではないですが、学生時代尺八を少しやったことがあり、二時間も吹き続けに吹いていたら、酸欠状態になって頭がボーッとしたものです。 彼女たちの軽やかなステップと、はなはだ切れの好い演奏には、自ら選んだコンセプトを引き受けようとする、恐ろしいほどの練習を積んだ成果が、ありありと現れているのです。 さて先のBenefit Concertに戻りますと、冒頭のダンスを交えた演奏が終わり、京都橘としては珍しい座奏に変わります。演舞がないということは、それだけ演奏の実力が問われるということにもなるのですが、ここでも彼女たちは見事な音楽を聞かせる。モダンジャズの開祖の一人でもあるD・ガレスピーの「Manteca」(17分位から)と、「カーペンターズ・メドレー」(20分くらいから)を聴いてみましょう。 「Manteca」という選曲はどう考えても、顧問の先生方のサジェッションというか、かなりディープな趣味がないと出来ないのではないか。先の「Sing, Sing, Sing」といったスウィングジャズは、2004年の大ヒット映画「スウィングガールズ」で取り上げられていたし、G・ミラーなどはそれよりはるか前から、中学のブラバンでも盛んに取り上げられていました。 しかし、ビ・バップとなると、私などから見ればかなりオタクというか、それこそ巨泉的な「したり顔」が浮かんでくるじゃないですか。C・パーカーにT・モンク、D・ガレスピーですよ。
2018.08.24
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KAWAII それにしても、アメリカの女子高生たちが、「Bad Romance」や「Sing Sing Sing」で、同じような振り付け(まず考えにくいですが)を行ったら、どんな感じになっただろうかと想像してしまう。もっとあざとく、セクシーな面が表に出てくるのではないかしらん。概して日本人は外国人から見ると、実年齢より若く見えるそうですから、女子高生など、ほとんどジュニアハイスクール、つまり子供に近く見えるんじゃないか。要は姿有様の一つ一つが少しづつ幼い感じ、世に言う「KAWII」に総称されるイメージになるのです。 KAWIIに近い英語はCUTEに当たると思うのですが、これは未熟なもの、幼児的な愛らしさ(そこには利発とか、ずる賢さという意味も含まれます)に限定されているのに対し、KAWIIの包摂する範囲はそれよりはるかに広い。例えば会社で社長のあるしぐさに対して、女子社員が「KAWII!」と言うことは普通にあるのです。欧米の会社でトップに「CUTE!」と部下が言ったら、おそらく侮辱と取って怒り出すでしょう。なぜならそれは「お前は未熟だ」と言われているに等しいからです。KAWIIにはそうした「未熟性」に対する肯定感があって、この感性の違いから、KAWIIという日本語はアニメのキャラクターなどとともに、世界語として使われ出したのでしょう。 考えてみれば、スウィングジャズもビッグバンドも、言うなればアメリカの大人の音楽、言い方を変えれば「女子供」の入る余地なんかない音楽だったはずで、そこには何やら「大人だけが占有しているらしい」、あるいは「大人の男だけにしか分からない」はずの、怪しげな雰囲気が漂っていますね(酒とかタバコとか、薬とか女とか…)。 しかし京都橘にかかると、それらはKAWIIが包摂する肯定感でもって、軽々と大人と子供、あるいは男と女の壁を飛び越えてしまう。「Bad Romance」や「Sing Sing Sing」に続けて、違和感なく「ディズニー・メドレー」を演奏できるというのは、KAWIIのなせるわざなのです。それを示す動画があるので見てください。途中、腹を抱えて大笑いしている女性の声が聞こえますが、これはあるいは、大人という「禁止空域」の価値観を足取り軽く蹴散らしてゆく、KAWIIの爽快な感性に気づいた笑いであったかもしれません。 数ある京都橘に関するローズパレードの動画を見ていると、驚くほど女の人の歓声が多い。男たちはミニスカートの大群を見ただけで、勝手に立ち騒いでいますが、もし彼女らがそれこそガガ嬢のような、大人のセクシーさを押し出して登場したら、果たしてこれほど女性の声援が起こったのかどうか? かといって、「KAWII」を基底にした京都橘のパフォーマンスが、彼女たちの専売特許なのかと言えば、もちろんそんなことはない。彼女たちは同世代のJKの感性や立ち居振る舞いを、そのまま出しているに過ぎないとも言えるかもしれません。 しかし、私は今回この動画を見ていて、京都橘にはKAWII扮装に託した橘なりの主張というか、かなり気骨のあるメッセージ性を感じるのです。それは先に触れた、徹底した「エンターテインメント」性というところに帰って来るのですが、この場合の「徹底する」とは、仮にそれが吹奏楽のコンクールやマーチングコンテストの規定上、不利に働く場合があっても、「私たちは私たちが作り上げてきた、このコンセプトのほうを優先します」というレベルの話ではなかったか? 早い話、コンクール規定に厳密に合わせた、きわめて練度の高い音楽を聞かせる高校は、橘に限らずかなりあるでしょう。しかし、ここで例によって「音楽とは、どこに本当に『ある』と言えるのか?」という命題に、私はまた立ち返らざるを得ません。で、それは結局のところ、作曲者でもなく楽譜でもなく、楽器でも奏者でもなくて、聴いている「相手に本当に届いたとき、初めてそこに音楽が成立している」と考えざるを得ないように、またしても思ってしまうのです。 以下はまったく想像ですが、彼女たちは自分たち世代の感性を、彼女たちなりに考えて考えて、煮詰めた結論として「こうだ」という基本コンセプトを、おそらく十数年前に選び出したのだ思う。そのあたりの経緯は部外者にはまったく分かりませんが、指導側の顧問の先生方は、選曲や技術指導は別として、生徒側の出した「エンターテインメントに徹する」という基本コンセプトを尊重するのに、相当勇気がいったと思いますよ。「音楽を届ける」方法は、あたりまえですが「エンターテインメント」だけとは、限らないからです。肝心なことは、それを彼女たち自身が「選び取った」ということでしょう。 そういう想像をさせてしまうほど、彼女たちのローズ・パレードにおける立ち居姿は、怖じず臆せず、また必死でアピールするわけでもなく、不思議な落ち着きがあるように見えてしまうのです。
2018.08.23
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ギャップ それが分かるのは、10日間ほどの日程の最後に行われたGreen Band Festival Benefit Concertという、ホストファミリーへの謝恩もかねた会場演奏なのですが、2012年は「東日本大震災」へのチャリティーという意味合いが前面に出たコンサートとなっています。 余談になりますが、アメリカには熱心なマーチングバンド・ファンがけっこういるらしく、さまざまな団体の映像を撮影しては動画をUPされている。もちろん日本から同様の撮影組の動画もありますが、いずれも良心的な編集で頭が下がります。何しろとくに会場演奏では、その中味はカメラが入ってないと誰にも分からない。 こんな話が出来るのも、こうした動画があってこそなので、報道にはどこにも出ていません(たぶん。つまり公には誰も知らないことになっている)。 さて、ラ・パルマの高校で行われたという2012年の「Benefit Concert」は、ほぼノーカットなので一時間半と長く、全部をいっぺんに見るのは大変なので、とりあえず冒頭の14分ほどだけ見てみてください。動画をUPしたMusic213という方、下のタグに詳細な記録と、演目ごとの時間を付しておられるので、検索しやすいですよ。 冒頭のD・エリントンからL・ガガ、G・ミラー、N・K・コール、そしてクラリネットの「ミスティ」から「Sing, Sing, Sing」に到る一連のパフォーマンスは、緻密に演出された一つのショーとみるべきで、見ている人のほとんどは1分もたたないうちに、それが高校生によって演じられていることを忘れてしまうでしょう。ラインダンスのようなステップに、タップダンスの要素も取り入れ、群舞の面白さを余すところなく伝えているという意味では、ほとんどミュージカルと言っていいのではないか?それぞれの振り付けにも創意があって、知っている人によっては、ニヤリとさせるところもあったでしょう。 これらはガガ嬢をのぞけば、すべて1950年代以前の古き良きアメリカの名曲で、聞きに来ているアメリカの、とりわけホストファミリーの人たちは、どんな印象を持ったでしょう。底抜けに明るくスウィング感にあふれる音楽は、かつてのアメリカ以外では絶対生まれなかった、純正のアメリカ音楽なのです。あるいは自分たちが子供のとき、祖父母たちが熱狂していた時代を、セピア色の記憶とともに思い起こしたのではないか? で、それが21世紀の異国の女子高生によって、よみがえって来るという現実とのギャップ感こそ、この15分間がかもし出している魔法だったでしょう。 それにしても、初めのほうにブラスなしのガガ嬢の原音で、カラーガード(楽器以外の旗などの手具を使うパート)の演舞を持ってきたというのには、何か隠れたメッセージがあるようです。一つはマーチングバンドにあって、どうしても地味になりやすいカラーガードに光を当てるということ。もう一つは「東日本大震災」直後の6月と12月に二回来日し、精力的に支援活動を行ったガガ嬢に対する、返礼とリスペクトが含まれていたでしょう。 しかしアメリカ人からみればL・ガガというのは、さまざまな意味で「旧秩序と戦う」女のイメージがあって、歌もパフォーマンスもかなり挑戦的。面白いのはそれを京都橘が演じると、不思議なくらい挑発的でなくさせてしまうのです。前日の2012年ローズ・パレードで彼女たちが行った「Bad Romance」を見てみてください。 この曲を取り上げることじたいが、場合によっては明晰な何かの意思表示になりかねないところ、彼女たちはそれを「KAWAII」コスチュームと振り付けにくるんで、さらりと広げてみせる。見ている側はガガファンは拍手喝さいでしょうが、そうでない人たちもまた苦笑せざるを得ない、という仕儀になるのです。
2018.08.20
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エンターテインメント マーチングバンドといえば、そもそもその起源からして、マスゲームのような規律と勇壮さで、「軍楽隊」をすぐ連想し、またそれを強調したバンドが多いなか、京都橘はコスチュームからしてオレンジ色(巷間「オレンジの悪魔」と言われてるそうですな)と、またリズムやハーモニーは厳密にシンクロさせているとはいえ、醸し出す雰囲気は整然とした「規律」といった印象とはぜんぜん異なる。さらにはそのほとんどが女子で占められているということでも、こうしたマーチングバンドのスタイルというのは、アメリカ人にとって有り得ないことだったでしょう。 しかし、京都橘高校がもともと女子高であったことを差し引いたとしても、日本のブラバンがずうっと前から、女子優勢の団体をなしていたことは、私でも知っていました。歳が知れますが、私が中学生だった五十年ほど前は、ブラバンでの男女比率は、金管と木管を分けあう形で、ほぼ五分五分であったような気がします。 それがいつ頃から、女子が金管を侵食する形で男子を淘汰していったのか?私は中学校をずうっと見ていたわけではないので、まったく分かりませんが、娘が中学校で少しブラバンをやっていた頃には、すっかり「女子化」していたのを覚えています(これらの経緯については、いろいろ思うところがあるのですが、長くなるのでここでは触れません)。一二回演奏会を聞く機会があり、演目がすっかり様変りしていることに、仰天してしまいました。私の中学時代はブラバンといえば、マーチ主体の「軍楽」系が主だったのに対し、すっかりカジュアル化してG・ミラーとかスウィングジャズを中心にやっていて、目を疑いましたね。 で、曲目の中にはソロのクラリネットとかサックスとかドラムスで、ビックリするような腕前を中学生で披露する子もいたのです。したがって今回、京都橘高校が演奏技術面で、ある意味プロ顔負けのスウィングを見せたとしても、私はそれほど驚かない。彼女ら(男の子もいるので「彼ら」とすべきすが、ここはやはり「彼女ら」と呼びます)を生み出すに十分な蓄積が、日本のブラバンの歴史にはあったのでしょう。 では京都橘の何が、私たちを驚かすのかと言えば、それはやはり圧倒的なダンス・ステップのパフォーマンスでしょう。ローズ・パレードの前後にはさまざまな行事があるらしく、年末には同地グラウンドでバンド・フェスティバルが行われたらしい。彼女たちのパフォーマンスがどういうものか「2018 Pasadena Bandfest」の動画を見てみてください。24分とちょっと長いので14分くらいから3分ほどでいいですよ。ハイクオリティの意味がよく分かる。 面白いのは、同じ「Sing Sing Sing」なのに、パレードの時とは違う振り付けを行っていることで、それもどうやら彼女たち自身の企画で行っているらしいところです。 とはいえ、それだけの話であれば、わざわざここで取り上げたりしなかったでしょう。私が言いたいのは、これらの基本コンセプトが、6年前の2012年ローズ・パレードのバンドフェストで、すでに確立されていたということなのです。それは一言でいえば、「エンターテインメント」ということでしょう。それも徹底した「エンターテインメント」性ということです。16分とちょっと長いですが、観てみてください。 スクールバンドというのは、宿命として毎年入れ替えがあるので、クオリティーの維持には新人の補充も含めて、相当きつい修練を毎年繰り返さないといけないはずですが、全体的なバランスは今年のほうが上がっているように思う。とはいえ、京都橘を他のどのマーチングバンドとも違う個性に仕立てたのは、間違いなく2012年の時でした。で、それは同時に「東日本大震災」の翌年、つまり震災後初めてのローズ・パレードだったということです。バンドフェストの司会者も英語でそのことに触れているようですが、彼女たちがそういう状況をどう受け止め、それをどのように表現しようとしたか、私はやはり触れないわけにはいきません。
2018.08.19
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ローズ・パレード この話題もまた音楽の話をしようとyoutubeを検索していたら、たまたま一カ月ほど前に偶然見つけ、これはえらいことになったと思案していたのでした。 ローズ・パレードとは、アメリカの新年最初の一大イベントである、カレッジ・フットボールのローズ・ボウル開催祝賀行事の一つとして、毎年元旦にカリフォルニア州パサデナ市で行われるパレードです。パサデナと言えば、私など若いころ宇宙オタクだったこともあって、すぐJPL(ジェット推進研究所)を連想してしまいますが、ほかにカリフォルニア工科大など学研都市として知られる街ですね。パレードは市のメインストリートを含む9キロほどで行われ、沿道には数十万人の観客が押し寄せ、その様子は全米にテレビ中継されるという、いかにもアメリカらしいお祭りです。 中味は花などで装飾されたフロート車40台以上、マーチングバンド20団体以上、騎馬数百騎などが賑々しく練り歩くというものですが、そのマーチングバンドには1965年天理高校吹奏楽部が海外から初めて招聘され、2010年以降は毎年、日本の高校吹奏楽部が1校参加しているようです。まあ吹奏楽関係者なら誰でも知っていることだったのかもしれないけれど、私はまったくの門外漢で知りませんでした。 天理高校のブラスバンドは昔から実力校として有名で、ブラバンにはまったく無関心だった私でも、甲子園でのこの高校の図抜けた演奏は知っていました。とはいえ、マーチングショーといえば、ローズ・ボウルのハーフタイムにみられるような、マスゲーム然とした行進と演奏を見るにつけ、これは最もアメリカ的な音楽文化の一つと思えるので、日本の高校生たちも客演という感じ、観る側のアメリカ人も「遠いところからやって来て、結構がんばってるやないか」式の構えだったのではないか?という気がする(推測ですよ)。 さてそのyoutubeの一覧を見ていたら、「Kyoto Tachibana SHS Band - Rose Parade 2018 」というタイトルの画像があり、Rose Paradeのことは、ローズ・ボウルと合わせて多少知っていたことと、「何で、それと京都橘高校やねん」という疑念が重なって、思わず観てしまったということです。とりあえずその動画を見てみてください。「FIRE BALL」。 さて、これを見て最初に感じたのは、今揉めに揉めている徳島「阿波踊りの連」なのでした。マーチングバンドですぐ連想する軍隊式整然さとは違って、リズムやハーモニーはシンクロさせながらも、そこから放たれているテイストは、通常のマーチングバンドとはずいぶん異質のものです。アメリカの観客もそのあたりの空気を察知したのか、固唾を呑んで見ていたところが、二百人ほどのオレンジ色の大群が「FIRE BALL」を奏し始めたとたん、大歓声。このあたり、アメリカの観客の反応は、まことにストレートで分かりやすい。 それともう一つ、仮設の観客スタンドの上から撮った、テレビ局(ABC)と吹奏楽専門チャンネル(BANDCAM)の画像があるので見てみましょう。バンドの編成と振り付けが分かりやすい。曲というか演目は、京都橘高校グリーンバンドのすっかり十八番となっているらしい「Sing Sing Sing」。残念なことにマーチングバンドは移動していくので、マイクが追いきれず前後のフロートやバンドの音も拾って、音楽は聞きにくいですが、私が「阿波踊りの連」と言った意味がよく分かるでしょう。観客の度肝を抜いたのは、たんにミニスカートの女の子たちの大群が押し寄せて来たからではなく、通常のマーチングバンドではありえないほどの激しいステップを踏みながら、演奏を行っていたからです。 テレビ局のアナウンサーも、このバンドの特色を「力と独創性と質の高さ」と紹介してますね。それと、この高校が2012年に続く二回目の招聘だとも触れています。コメント欄を見ていると、Rose Paradeは世界的にも人気が高く、招聘の依頼が世界中から何百とあるそうで、主催側は規定で一回出たバンドは五年間は招かないそうです。京都橘は最短で二回目の招聘を受けているわけで、これは日本の高校では初めてらしい(あるいはひょっとして、世界で初めて?)。
2018.08.17
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既存報道メディアのたそがれ 昨日、ここでの話は、「ほぼ100パーセントyoutubeからの情報です」と言いましたが、それにしてもテレビとか新聞といった既存の報道メディアは、今後どうなっていくのだろうと、ネットでおなじみのメディア批判ではなくて、ほとんど呆れ顔と哄笑をまじえて思ってしまうのです。 いまさら言わでものことですが、参院選後丸二年経った今でも、青山繁晴参議院議員は既存メディアでは「この世に存在しない」ことになっている。NHKも各新聞社も「いや、そんなことはない」とばかりに、自社のアリバイ作りみたいな取り繕いはわずかにしていますが、まともに取材に訪れたということは一回もないらしい。 昨年の予算委員会で青山さんが加戸守行前愛媛県知事から引き出した重要な証言は、いまだに既存メディアではほぼ完全に閑却されている状態です。まともなジャーナリストなら青山さんに聞きにいくのは、さすがに気が引けるにしても、加戸さんを後追い取材するべきところ、何一つしない。それも各社申し合わせたようにです。 「モリカケ問題の全容を明らかにせよ」と呼号しつつ、一方のキーパーソンを取材しないというのは、本音のところでは「全容が明らかになったら困る」、「『永遠に解明されない疑惑』として釘付けにしておいたほうが、安倍降しには都合がいい」とでも思っているのでしょうか? とすれば、事実を伝える報道機関としての最低限の役割を放棄し、たんなるプロパガンダ機関になっていると言われてもしかたがない。ましてNHKは公共放送を名乗りながらです。 私、思うのですよ。青山さんがまた国会質問で、大臣なり参考人なりから、報道機関がよう取材しなかったスクープレベルの重要な証言を引き出したら、その時はどうするつもりなんだろうと。今は青山議員が質問に立つと、記者席は人がいなくなるそうですが、その場合あえて「特オチ」に甘んじるつもりなのでしょうか(まあ全社が「特オチ」なら、「特オチ」にはならないか?)。 とはいえ、そんなことしていたら、今に青山さんが質問に立つたび、現場の記者たちは毎回理不尽な「踏み絵」を踏まされることになりますよ。日大アメフトの監督も、日本ボクシング連盟の会長も、あえて理不尽な踏み絵を、選手たちに強要することによって、我の権力基盤を作り上げていったわけでしょう。あまり出てこないけど、一般企業でも似たような組織構造って、結構あるんじゃないか知らん。 そんなこんな考えれば考えるほど、何だか背筋が寒くなって来ますね。青山さんはこうした既存メディアのありようを、既得権益集団の利益行動として捉えられていますが、本当にこれらを利益行動だけで括っていいものかどうか、私は疑問を持っています。なぜなら今どきの日本人というのが、果たしてそこまで欲得的な行動原理を、すべからく持ち合わせているかと言われると、そりゃ株の投機に熱中するような一部の人たちは別として、そこまで支配的な通念ではなかろう、というのが私の観測です。 それよりもっとはるかに、彼らが必死で守りたいのは、彼らが共有していると信じて疑わない「エートス」なんだろうと思う。「エートス」とは「行動形態」だの「思考形式」だのありますが、要は既存の行動様式や思考形態そのものを脅かされるのが、イヤでイヤでしょうがないんじゃないか。 既存のエートスに沿って行動したり考えたりすることについては、それこそ過労死寸前になるほど労を惜しまないのに、そのエートスそのものに疑問符を立てる、ということは忌み嫌う。青山さんの質問は常に既存メディアが信じよう、信じたいと欲するエートスそのものを揺さぶる、だから全員で「青山議員は、この世に存在しない」ことにしたのでしょう。 さて、うっとうしい話はこれくらいにして、以下しばらく楽しい話題をしたいのです。で、それもまた上の話と、ひょっとすると関係がなくもない。今年元旦カリフォルニア州パサデナで賑々しく行われたローズ・パレードのことなのですが。
2018.08.15
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イノセンス 6. さきにも触れましたが、子供の無垢な耳には、大人とは違う仕方で音声が届くのです。大人たちがすっかり忘れた人声が発する、言葉が意味をなす寸前の響きを彼らは聴き取る。声楽の専門家たちは、かつて聞いたはずの人声の響きを、何とか奮い起こそうと刻苦するわけですが、さまざまな邪念が入って、なかなかママならないというか、それを自在に出来る人って案外少ないんじゃないか?平原さんがこんなややこしいことを、いちいち意識されているとはもちろん思いませんが、彼女の発語にはそんなことを想像させてしまう力があるのです。 聴き手はかつて聞いたはずの言葉の響きを、平原さんの発語によって無意識に感じ取る、で、それがそのような仕方で発せられるとき、その歌はあたかも「今そこで、初めて紡ぎ出されているような」新鮮な響きとなって届くのでしょう。 いつぞや由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」が、アメリカのヒットチャートに名を連ねて、ずいぶん話題になっていましたが、「こんなのスキャットじゃない」と40年ほど前、口をきわめて罵っていた巨泉さん以下、日本の自称ジャズ評論家諸氏は、この現象をどう説明するのでしょう。アメリカ人は由紀さんの発語に、「今まで人声で聴いたことのない響き」を聴き取ったのだろう、と私は思うのです。 なぜそれが届いたのかと言えば、明らかに由紀さんの発語に対するこだわりと、厳しい修練があったからでしょう。それと音楽がyoutubeによって、真の意味でボーダーレス化している影響も大きい。ここでの話もほぼ100パーセントyoutubeからの情報です。 先日NHK教育テレビの「奇跡のレッスン」という番組(普段こういう番組は絶対観ません)で、元ウィーンフィルのコンサートマスターが、日本の小学生を指導するというドキュメントがありました。ここで彼が教えよう伝えようとしていることは、いわゆるヴァイオリンのレッスンとはまったく違って、ほとんど一点だけという感じがしました。その一点とは「音楽とは、『物語』を人に伝えることだ」というのです。 譜面に託された「気持」や「気分」を、想像力を働かせて全力で読み取り、それを楽器という媒体を通して、どうやって聴き手に明晰に届けるか。しかしここで使われている「物語」という言葉には、少し補足が必要かと私は思う(果たしてこの番組製作者は、それを分かっていたのかどうか、失礼ですが!)。 平たく言えば、ここでの「物語」とはストーリーではなく、ナラティブ(語り)のことだということです。ナラティブの意味するところについては、以前どこかで触れたような気がしますが、ネットで調べても話が拡散する一方なので、深入りしません。いずれにしても言葉を発しないはずの楽器が、優れた巧みの演奏にかかると、なぜ私たちの気分を沈ませたり高揚させたり出来るのか、それは「語り」の巧みによって、聴き手に譜面に託された気分や気持を、「まさしく今そこで生成されたかのように、生々しく再体験させる」からなのでしょう。 これは声楽においても同じで、身体を楽器という媒体と見なせば、おのずから「発語の力」の意味するところも明らかなはずです。 長くなりました。ここの話とは必ずしも関係ないですが、もう一曲、平原さんの歌で聴いておきたい名曲があります。トリノ五輪の応援歌だったらしいのですが、当時、私個人的には荒川さんの「トゥーランドット」に血が昇ってしまい、この曲が五輪期間中使われていたことにまったく気づきませんでした。 というわけで「誓い」。
2018.08.15
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イノセンス 5. 平原さんの声質の魅力は、倍音のかかったハスキーな中低音域と、純音の透き通った高音域の対称にあります。ほんとに昔話になりますが、1960年代はじめブレンダ・リーという人気歌手がいましたが、ハスキーな声とシャウト唱法はちょっと似てるかな。しかし高音域の透明な魅力は平原さんにはかなわない。デビュー曲の「ジュピター」をはじめ、自身の声の身体的キャパを十分意識した歌が多かったでしょう。 ところで、さきの「Spain~アランフェス協奏曲」のように、声から言葉を省くということは、自身の身体を一種の楽器のように取り扱うという意味で、クラシック歌手の構えに似ていると言えなくもないかもしれません。 それかあらぬか、ここ最近の彼女はミュージカルにも手を拡げていて、「ラブ・ネバー・ダイ」では、驚いたことにリリック・ソプラノの美声を聴かせます。これ確かイタリアオペラのベルカント唱法と言って、広い歌劇場の隅々に低音域から高音域まで、声を滑らかに届けるために用いられた歌い方で、マイクやスピーカーを使う現代のPOPシーンでは、必ずしも必然性があるわけではないのです。 しかし「オペラ座の怪人」シリーズじたいが、ミュージカルの原点である歌劇に原点回帰したような作品なので、その古典的風合いを尊重したのでしょう。それにしても、彼女のジャズ・スキャットやゴスペルの唱法になじんだ私たちからすれば、まるで別人が歌っているみたいですね。欲を言うなら、これを英語版で歌ってほしい、と思うのは私だけでしょうか? それにしても一つのスタイルにこだわらず、自身のパフォーマンスを筒一杯まで広げてみようとする姿勢は、アッパレとしか言いようがない。ふつうプロのシンガーと言えば、自身のスタイルにこだわることが多いでしょう。明晰な個性を発信しないと、なかなか覚えてもらえないからです。逆にスタイルを途中で変更して成功する人なんて、ほとんどいないんじゃないか? しかし平原さんの場合は、世間的には今だに「ジュピター」の歌い手として認知されているにしても、本人はそちらだけを深堀りしていくつもりはなくて、むしろスタイルを固定化するのを避けようとしているみたい。あるときはジャズシンガーであり、あるときはオペラ歌手であり、はたまた時には中島みゆきであるというような。 まあ、それもこれもご自身の歌唱のキャパに対する自信があってのことで、今の彼女を見ていると自分のキャパの極北を覗いてみたくて歌っている、という感じがしないでもありません。もちろん、それらのすべてがうまく行っているとは、私の知るかぎりお世辞にも言えませんが(とくにクラシックの安直なカバーは、くどいですがクラシックファンの私としてはいただけません。どうせやるならクィーンの「ボヘミアン・ラプソディ」クラスでやってほしい)、その子供のようにこだわらないイノセンス(無垢)な姿勢は、とても爽快で私は好きです。
2018.08.13
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イノセンス 4. とはいえ、それは彼女が二か国語が子供のころから自由に飛び交う、バイリンガル的な家庭に育ったということではない、と私は思うのです(たぶん)。アメリカのジャズやボーカルが家中に満ちていたとしても、そこで交わされる言葉が日本語であるかぎり、英語を日常言語として話したり、英語でものを考えたりすることは、普通しないでしょう。 wikipediaによれば-母語(ぼご)とは、人間が幼少期から自然に習得する言語-とありますが、発語が言語として意識されはじめると、その発語がもともと有していた音声というのは、案外意識されなくなるのではないか?言葉として認識したとたん、われわれの脳はそれらの音声認識を言語中枢回路に切り替え、その「音声じたいを聴く」という手間を省いてしまう(あるいは難しくしてしまう)らしいのです。 余談になります。原因は忘れましたが、私は子供のころ高熱を発して意識が混濁したことがあり、親が発する言葉が言葉として入って来ない。で、その音声だけが耳朶を打つ、という体験を一回だけしたことがあります。そのとき聴いた親の発する音声の異様さはけっこう印象に残っていたらしく、それから十数年後、ある方の講演会の録音をオープンリールのテープレコーダーで再生していて、必要があって等速で少し巻き戻したとき、まさしく子供のとき聴いたあの音声が立ち上がったのでした。 それは朝鮮語、あるいはモンゴルのようなアルタイ語系の音声であり、「なるほど日本語とは外国人には、このように聴こえているのだな」と勝手に一人合点したものでした。 それはともかく大事なことは、私たち日本人が聴いている英語とは、まさしく上のような仕方で耳に入っているのであり、それは英語を母語とした人たちの聞き方とは違う。「ノクターン」と「カンパニュラの恋」がそうであるように、世界はまさしく言語によって別の見え方、聞こえ方をしているということなのです。日本人はおおむね周囲も日本人ばかりなので、日本語で話し日本語で考えることを、空気のように当たり前に思っていますが、逆にそうであるために、自分たちが限局された日本語の語法や思考体系でものごとを見たり判断している、ということになかなか気づかない。というか、気づけないのです。 話を平原さんに戻します。バイリンガルでなくても、幼児のころから日本語と同じように、英語の音声で家中が満たされていたとするなら、音に対して敏感なある種の子供たちは、その発語の響きの面白味に強く惹かれたかもしれない。で、それはあるいは母語である日本語の響きを、言語でなく音声認識で相対化して聴ける契機になったかもしれない、と私など推測してしまうのです(すべて想像ですよ)。 彼女の日本語の歌唱が、子音の勝った独特の発声であることは、はじめにも触れましたが、まあさまざまな要因があるにせよ、根っこのところでは上のような経緯があったのではないか知らん。肝心なことは日本語も英語も言語中枢回路でなく、音声回路で認識できた子供のころのイノセンスな受容力を、彼女もそしておそらくバーブラも、大人になっても維持しているらしいということです(これまた想像。以前に触れたことですが、ピカソは対象を見つめるとき、いつでも幼児の目を起動させることのできた稀代の画家でした)。 と、例によって難しい話をしてしまいました。 口直しに、上の話を補足するのに面白い画像があったので観てみてください。チック・コリアの「Spain~アランフェス協奏曲」なのですが、よく聴いていると、平原さん言葉でなく意味不明の音声だけで歌っていることが分かりますね。この唱法じたいは平原さんオリジナルでなく、おそらくジャズ・スキャットから派生した歌唱法だと思うのですが、人声の有する音声的な面白味を、余すところなく伝えてくれて、彼女の関心の方向が伺えますね。
2018.08.12
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イノセンス 3. この歌はフジテレビ系の「風のガーデン」とかいうドラマの主題歌だったそうで、元曲はショパンの「ノクターン第20番遺作」。ご存知かとは思いますが、私はテレビドラマには(朝ドラ「カーネーション」をのぞいて)まったく興味のない人間で、したがってこの十年前のドラマも音楽もまったく知りませんでした。平原さんとしてはデビュー曲の「ジュピター」以来の大ヒットだったみたいですね。 さて肝心なことは、この曲は例によって彼女得意のクラシックカバーであること。そして全編英語の詞を付けているということでしょう。さらにこの作詞編曲はwikipediaによれば、作詞:史香/作曲:ショパン・椎名邦仁/編曲:椎名邦仁となっていて、要は純和製のカバー曲であるということです。 ここで作曲がショパン・椎名邦仁の連名になっているのは、おそらく有名なショパンの主題を起点にして、かなり大幅な編曲を加えているからでしょう。特にトリオの部分など、原曲にはなかった旋律が含まれます。しかしいちばん大事なことは、何と言っても、なぜ英語詞にしたかということでしょう。 まあ平原さんにかぎらず、それまでもJ-POPには、シャレて英語詞を挿入するということは、数多く行われて来たと思うのですが、全編を英語で通すというのはなかったのではないか?それかあらぬか、同じ曲に日本語の詞をつけて、「カンパニュラの恋」という挿入歌も一緒に出しているからややこしい(平原さん自身の詞だそうです)。 聴き比べると、「ノクターン」がゴスペル風の歌唱が濃厚なのに対し、「カンパニュラの恋」のほうは、なんだか昔なつかしの演歌のような感じ。まあ情緒纏綿たるこのような曲なら、どうしてもこうなるのかもしれないけれど、英語と日本語とではずいぶん印象が変わりますね。とはいえ私の率直な感想を言うなら、これはそのどちらでもなくて、気分的に一番近い印象なのは、たぶんシャンソンなのだろうという気がする。英語なのになぜシャンソンと迫られても困るわけですが、基底にあるのがショパンのメランコリックな旋律、でその彼はポーランドからの亡命作曲家で、パリに死ぬまで住んでいましたから、あながち的ハズレというわけでもないでしょう。 それと西欧でつくられた旋律は、結局やはり西欧語の発語によくなじむ。ましてショパンはピアノの詩人と言われたように、「語りかけるようにピアノを弾いた」作曲家だったのです。この曲で終わりに繰り返される-Everything has an end, but we'll be reunited-というフレーズ、ショパンの諦観ともとれる気分をよく汲んで、いいですね。 ところで、平原さんの歌の履歴でおもしろいのは、かなりの歌が英語で歌われていることです。またまた古い話になりますが、かつて弘田三枝子とかしばたはつみといった、かなり英語を巧みに操る実力派歌手がいましたが、いずれも欧米ポップジャズの翻案の域を出ず、オリジナルな魅力とは言えませんでした。 平原さんにおける英語詞というのは、まあメジャーデビューが「ジュピター」ということもあってか、その位置付けはかなり異なる。そもそも彼女のプロデビューのきっかけが、高校時代に学内でやった「JOYFUL, JOYFUL」が、スカウトの目にとまったということからして、子供のころから英語の発語になじんでいたでしょう。
2018.08.10
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イノセンス 2. 養老猛さんに由れば、「私はソメイヨシノがきらい」。ソメイヨシノは種子で自力繁殖することができず、接木だけで人工的に増やした同一遺伝子のクローンなので、花が一斉に咲くのは当りまえ。しかし「生物多様性」という観点から言えば、子孫を残すことが原理的に出来ないソメイヨシノは、かぎりなく反自然の危うい樹木ということになってしまいます。 今年のように、いきなり暖かい日々がやって来ると、咲き始めから満開までが、あっという間、しかも大急ぎで咲いたせいか、雨はちっとも降ってないのに、何がなし色が白っぽい。そうしたくすんだ桜の花が、山や川筋や道路沿いなどに、委細構わず居丈高に咲き誇っている光景には、さすがの私も少し引いてしまいました。前にも言いましたが、桜の清華とは「咲き誇ったまま、サッと散ってみせる」時間の美にあると思うのですが、これだけ大量の花吹雪を目にすると「散華」どころでなく、何やら桜花粉?を気にしたくなってしまいそうです。 まあそれはさておき、平原さんの「ソメイヨシノ」は、まったく別の話。平井堅をはじめとして、J-POP界では「桜」にちなんだ名曲が数多くあるそうですが、これなど間違いなくその一本に入るでしょう(あまりヒットしなかったみたいだけど)。 で、その魅力の根源はというと、次第に本題に戻るのですが、やはり平原さんの「発語の力」にあるのだと思う。歌詞とか発声の力というよりは、声が発せられる瞬間、あるいは発せられる直前の、緊迫した「予感」のようなものが曲全体に満ちていて、確固とした音楽世界を作り出しているのです。 歌謡界ではポップも含めて、歌詞の重要性を強調する歌い手が、数多くおられるようですが、私はそこに少しく疑問を感じるのです。というか、「歌詞の意味性」を強調しすぎるきらいがあるのではないか?かつてのフォークのような、ごくベタなメッセージソングは別として、歌における歌詞の位置づけというのは、もう少し穿って考えてもいいのではないかと思っているのです。 一言でいえば、歌詞はその音楽世界を作り出す、一つの「媒介」に過ぎないのではないか?歌曲はもちろんメロディーに乗せて歌詞が歌われるわけですが、肝心なことは歌い手が声を発しなければ、音楽は成立しないということです(あたりまえです)。しかしさらに加えるなら、歌い手に、この歌詞は「私にはこう聞こえました」といった切迫性がともなわないと、聴き手の心には届かない。 いい歌詞には、たぶん歌い手をして、「歌わずにはいられない」という力があるのでしょう。それは必ずしも「気が利いた歌詞」ばかりとは限らない、意味は判然としないけれど、あるいは文字通り「意味不明」であっても、歌い手の想像力を刺激して止まない歌詞というのは、たぶんきっとあるでしょう。 おもしろいのは、歌詞の段階で「意味」が判然としていなくても、それがメロディーに乗せられて発せられるとき、とたんに別次元の「意味性」を発する場合があるということです。この場合の意味性とは、たんなる言葉の意味とは異なる。そこに付されたメロディーと分かちがたく結びついて、はじめて人の心に迫る「意味」を発するのでしょう。 この場合の「意味性」とは、歌詞だけでは説明がつかないけれど、メロディーに乗せると不思議な切迫性を帯びて、いわば「物語性」を帯びて聴き手に迫って来る、というようなことを言います。それは散文的な言葉では尽くせないからこそ、確固とした「音楽世界」をなしているのです。 平原さんがこんな理屈っぽいことを、意識されているとはもちろん思いませんが(いつも言うように、実践者は自身の行ったことへの説明の任は負っていないのです)、結果的に聴き手は、この「ソメイヨシノ」が発している切迫性を、歌詞の意味とは別のところから、残酷なほど明晰に見出してしまうじゃないですか。 そんなことを考えるよすがとして、彼女の「ノクターン」を聴いてみましょう。
2018.08.09
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