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お待たせしました。ブログの更新が遅れてすみません。今回はちょっと長めで~す。明日から大阪出張で忙しくなるのですけどブログの更新を可能な限りやりますね!では沖縄をめぐる魂の冒険のつづきをどうぞ。そんな出会いから8年後の2003年の9月にミユキさんから『この度、夫の転勤で沖縄に引越ししました。』との葉書が届いたのである。しかし葉書が届いてからしばらくはミユキさんに何故か連絡する気にはなれなかった。たぶん何か自分の中でまだ準備が整っていないように思えてミユキさんに電話をする決心が出来なかったのである。「とりあえず石垣島に行ってみよう。何かが分かるはずだ!」そんな思いで石垣島への旅行の計画を立てることにしたのです。そう考えると意外にチャンスはすぐにやってきたのです。出来るだけ早く石垣島に行きたい気持ちがあったのですが仕事のスケジュールとの関係でなかなか日程を決められずにいました。あれこれ決めかねているうちに沖縄から帰ってきてちょうど1週間くらい経った頃でしょうか、1枚のお知らせのFAXが私宛に届いたのです。FAXの内容は10月4日(土)の午後に東京で取引先の主催の販売会議がある旨を知らせて来たのです。その時、「これはチャンスだ!東京に行くついでに石垣島に行ってしまおう」と思ってしまいました。そう思った理由の一つは東京の会議に出ると往復の交通費と宿泊費を取引先の会社が負担してくれるからでした。うまくやれば石垣島から東京の分と東京から福岡に帰る飛行機の分の費用は浮かすことが出来るのです。10月2日の朝に福岡を出発して石垣島に向かい1泊する計画を考えました。帰りは15時台の石垣島発の便に乗れば那覇で乗り換えをしても19時頃には東京に着くので翌日の会議にも余裕をもって出れるなと思い、この予定で飛行機のチケットをすぐに手配しました。今やインターネット時代なので思い立ったら即パソコンで飛行機のチケットの予約が取れるので、10分もかからずに都合の良い便のチケットを取ることが出来ました。宿泊の予約とレンタカーもネットで良さそうな所を検索して予約を入れました。インターネットに繋がったパソコンがあれば、どんな田舎だろうが出張先であろうが24時間いつでもどこかに旅に出ようと思い立てば、ほんの数分で旅行の予約を取ることが出来る便利な時代になったものだとつくづく思います。そんな訳で私は沖縄から帰って1ヶ月も経たないうちに石垣島へ旅立ったのである。今回の思いつき旅行、1つだけ不自由だったのが移動の時は暑苦しい紺のスーツ姿で行かなければならないことであった。東京での移動を考えて出来るだけ身軽な荷物にするためにも仕事の時に着るスーツをわざわざ収納して荷物を多くすることは出来なかったのである。10月とは言え石垣島はまだ真夏そのものの気温なのでこのまま暑苦しいワイシャツとネクタイ姿で石垣島を動き回るにはかなりつらいだろうな~と思いつつも石垣島に行く意気込みは変わらなかった。10月2日、奇しくも私の誕生日の翌日に石垣島へ旅だったのであった。那覇空港で飛行機を乗り継いで石垣空港に降り立ったのは13時頃であった。レンタカーを今日の13時から1日借りるようにしていたので、まずは空港の出口で予約したレンタカー会社の人を探すことにした。どこかで行き違ったのかレンタカー会社の人が見つからなかった。今回車を借りたのはメジャーなレンタカー会社ではなく、地元のガソリン代込みの格安価格のレンタカー会社をインターネットで見つけて予約をしていた。予約する時に少し不安があったのだが、何社か比較して安いのと何故かとても気になったので地元のレンタカー会社に決めたのであった。まあこちらの人はのんびりしているからしょうがないか~と思い携帯電話でレンタカー会社に連絡を取ってみることにしました。予約時に返信されてきたメールに書いてあったレンタカー会社の担当者の携帯番号に連絡を取ると、なんと私の後ろで携帯の呼び出し音が鳴り、ビックリして後ろを振り向くと何処から現れたのか予約したレンタカー会社の看板を抱えたアロハシャツを着た小柄な若いお兄さんが立っていたのであった。「探しましたよ~、何処におられたのですか?」と私が尋ねると、ずっと到着口付近で待っていたとの事、数分前の記憶をどうたどっても私の目には全くこの若いお兄さんの姿が出てきた記憶がなかったのである。石垣島の旅の最初の出だしから何か変だな~と思いつつも、その若いお兄さんに案内されて今日借りる車が停めてある駐車場まで歩いて行くことになったのである。そのお兄さんは1台の黒塗りの大きなランドクルーザーの前で立ち止まり、「今日お貸しする車がこれしかなかったんですよ。」と車を指さしました。確かシビッククラスの小型車を予約したはずが私の背よりも車高が高いランドクルーザーになってしまったのであった。余りのアバウトさに唖然としましたが、ガソリン代を含んだ安いレンタル料を考えると、まあしょうがないかなあ~とすぐに諦めがついて、何も文句を言わずにお兄さんから車のキーを預かって車に乗り込んだのであった。今まで7人乗りのワゴン車は運転したことがあったが、タイヤも車体もでかいランドクルーザーを運転するのは始めてだった。しかし実際に運転してみると加速が遅いことを除いては意外に楽に運転することが出来ました。とりあえず目的地を決めずに私の中から湧いてくる「直感ひらめきに従って」空港道路の連絡道路を出ると石垣市の街の中心街とは反対の海沿いの道を走ることにした。私は、サチコさんの『あるがままに生きる』の本の中に書いてある「直感ひらめきに従って行動する」ことを普段から実践している。「直感ひらめきに従い行動すること」はけして「いい加減に考えて行動すること」ではないことをこれまでの私の10年間の数々の体験が物語っている。何かの見えない糸に導かれてまさにベストのタイミングで自分にとって必要な何かと出遭ったり、人とのご縁が出来たり、現象が起こったり、時にはワンダフルな感動体験をしたりするのである。車の運転も例外ではない。道に迷った時に何故か真っ直ぐ行かず右に曲った方がいいと思い右の道を進むとすぐ標識が出できて助かったり、高速道路が空いているので思わず制限速度を越えて走っていると急に殺気を感じてスピードを落としたらスピード違反の取締りをしていたり・・・。しかしながら最初の頃は自分の直感ひらめきを無視して酷い目にあったこともありました。ある日、父親と共に取引先の会社に自分の車を運転して行かなくてはならないことがあって、その日朝目覚めた時に「今日は運転したく無い」と強く感じて今日は車で行くのやめようと言ったにも拘らず、父親が頑強に自宅から私の運転する車で営業に行くと主張するので、仕方なく車を運転して取引先の会社へ向かうと、その途中の道の交差点で急に車が飛び出してきて父親が座っていた助手席側にぶつかるという事故に遭ってしまいました。幸い乗っていた車が頑丈なフォルクスワーゲンのセダンだったので車は大破しましたが、乗っていた人には怪我はなくすんだのですが、父親は自分の横に車が突っ込んできたという事故のショックでそれから以降、私の意見を無視して車で営業に行こうということは言わなくなりました。そして不思議にもその時に事故をした場所がなんとフォルクスワーゲンを修理してくれる車のディーラーの裏口の前だったというおまけ付きの体験だったのです。この体験を通じて私は自分の直感ひらめきに従って行動することに改めて自信を持てましたし、直感ひらめきに従って行動することは自分の人生を良い方向へ導いてくれているのだという確信へと繋がっていくのを感じました。つづく
2006.03.30
こんばんわ。会社の前の警固神社の桜が満開できれいです。警固神社の桜は福岡でも先駆けて早く咲く場所なのでやっと春がやってきたという感じです。春といえばレンゲの花が沢山咲いた所に寝転んでポカポカの日差しを浴びながら、空でさえずるヒバリの声を聞くのが私にとっての最高のリラクゼーションだと思います。皆さんはどんな春の楽しみ方をしますか?では「沖縄をめぐる魂の冒険」の続きをどうぞ新しいオフィスに変わってからというもの目まぐるしい毎日であった。そんな最中に不思議な電話をかけ訪ねてきたのがミユキさんであった。電話が来て数日後の午後に会社のオフィスに彼女はスケッチブックを抱えて訪ねてきたのである。初めてミユキさんにあった印象はどこか懐かしく、以前から知っている人のように思えてならなかった。お互い初対面なのにもかかわらず古くからの親しい友人のように時間を忘れて結局4時間以上も語りあってしまった。ミユキさんの頭の中でサチコさんの声が聞こえてきたのは子供を出産した時から始まったとのことだった。最初は自分の妄想や錯覚なのだと思って戸惑ったようですが、それが絵を描くことについての具体的な内容にだんだん変わっていき、そのうち誰かに操られるように筆記用具を持つと自動的に手が動いて紙の上で絵を描き始めたのだそうです。持参したスケッチブックをひろげイルカの絵、子供の笑顔の絵、花の絵、地球の絵などを実際に見せてもらいました。その時点では普通の具象画を描かれていたのですが二度目以降にお会いした時にはサチコさんが描いていた宇宙の波動の絵が描けるまでになっていました。絵にはテーマが決まっていて例えば「感謝」というテーマでプログラムして具象画を描くことも出来るし「感謝」という波動エネルギーの形を絵で表すことが出来るということを目の前で絵を描いて説明してくれました。これもすべてサチコさんのレクチャーによってここまで描けるようになったとミユキさんは説明していました。お会いしたことも無い今は亡きサチコさんがミユキさんに私の会社へ行きなさいというメッセージを送るには何かとんでもない意味があるようで、「これから何が始まるのだろう、サチコさんは我々に何をさせようとしているのだろうか」と言ってはお互いにちょくちょく顔を見合わせました。この後の数年のお互いの人生は善くも悪くも濃縮ジュースのようなぎっしり詰まった驚きの連続の内容のものだったのは言うまでもないことだった。ミユキさんはこの後、コズミックアーティスト&作家としての活動を通じて多くの人に影響を与えることとなり、私も不思議なご縁を通じてたくさんの方々と出会い、色んなプロジェクトにかかわり、現在の仕事であるホメオパシーやフラワーエッセンスなどを先頭に立って普及する立場になって、これからの時代に人々が意識を変革させ魂を成長させるのに必要なことの種まきをしてきた感じであった。今から考えると1995年は少なくとも日本にとってこれまでの価値感を宇宙意識へ変化させる目覚めの最初の年であったように思われる。今やエコロジーは当たり前になり人々はロハスな生き方へ意識を成熟させていっている。私達はこの変動の時代に合わせて生まれそして出会い何か究極のゴールのようなものに向かって何らかの役割を果たしていっている、そんな感じがしてならないのであった。つづく
2006.03.25
東京出張も最後の夜です。すごくめまぐるしく忙しい2日間でした。WBCの優勝で世間の話題が盛り上がっていますが、先日のトリノオリンピックの唯一の金メダルの荒川選手といい、今回の神がかり的な日本の野球の世界一といい世界中が注目する中で起こる出来事に何か目に見えない神の意図を感じませんか。そんなことを考えるとこれから起こる出来事に注目ですね。どんな神のメッセージが込められているのか皆さんも考えてみてください。では沖縄をめぐる魂の冒険の続きをどうぞアダチサチコさんについてここで話しておかなければならない。サチコさんはコズミックアーティストとして沢山の芸術作品や商品パッケージのデザインを手がけられた方で著書「あるがままに生きる」という本の中で「現代のファインアートは、自我と自己主張を観念的に表現した観念のかたまりの様な作品がほとんどの様ですが、私の作品は、全く自我も自己主張もない、只々、宇宙の波動をアートにしている本質のみを追求した、いっさいの演出のない、要するにLet it be!の心境で作った作品です。宇宙は、アートと科学です。」と自らの作品に対する考えを述べられています。思い返せばサチコさんをめぐる不思議な出来事が1994年頃から私の周囲で起こり始めていたのである。その1つは、サチコさんが生前親しかった友人の方々と不思議なご縁で出会うことが次々と続いたのである。その1人であるムトウさんはサチコさんの作品のギャラリーをその当時されていた方であり、最初の出会いはたぶん仕事の関係のパーティーだったと思うが、1994年の11月の初め頃に突然私の会社のオフィスを訪ねてこられたのである。当時私の会社のオフィスはビルの3階にあり約30平米ほどの小さなオフィスだったのですがムトウさんが訪ねてこられた時に私が「サチコさんの本だけではなくサチコさん自身がデザインされたマグカップやトレーナーなどの商品を展示するコーナーが出来たら嬉しいけれども今はスペース的に無理なんですよ~」と言うとムトウさんは「このオフィスが2倍になればサチコさんのコーナーが作れるよね~」とお互い笑いながらその話は終わったのですが、それが二週間後に現実化に向けて動きだすことになるとはその時は思いもよらなかったのである。ムトウさんがオフィスに訪ねてこられて二週間後にちょうど私会社のオフィスの真下の階の部屋が空いたのである。部屋の広さは倍の60平米であった。早速ビルの大家さんに部屋を借り替える相談をすると長年の付き合いから良い条件で部屋を借りられることになったのである。奇しくも新しいオフィスのオープンは1995年の1月17日、あの阪神淡路大震災の起こった日だった。私は1月12日から珍しく高熱が出て物凄く具合が悪くなり肝心な引越し作業を全く手伝うことが出来ず、やっと熱が下がって会社に行けたのは1月17日の新しいオフィスオープンの日であった。昨日まであれだけ具合が悪く苦しんだのに今朝にはすっかり気分が良くなって会社に行く気力がわいてきたのは自分でも驚きだった。大きな地震の前には具合が悪くなることも大きな理由だと後から分かったが、今から考えるとこの後に起こる大きな意識の変化に対応する為に体の調整が行なわれていたのも理由の1つではないかと思う。新しいオフィスになってサチコさんのコーナーが出来ると加速度的にいろんな出来事が起こり沢山の人がオフィスに訪ねてくるようになったのである。保管してあった1995年のスケジュール表を今見直すと毎日が不思議の連続であったことが分かる。1995年からの不思議なエピソードの数々はこれから機会をみて徐々に語っていくことにします。つづく
2006.03.22
こんばんは。今日は久し振りに東京に出張で来ています。明日私が講師を務めるホメオパシーの学校の卒業式に出席するためにやってきました。東京は私にとって思い出深い場所で計16年間過ごした場所でもあります。3歳の時に東京オリンピックがあって水球とレスリングを父親と一緒に見に行った記憶が今でもまだ鮮明に残っています。その時は練馬区に住んでいたのですが、あの頃の東京にはカブト虫やクワガタ虫がお寺や神社の森に沢山いて捕りに行ったことを良く思い出します。また小川にオタマジャクシやメダカも沢山いたのを覚えています。江戸時代の東京の町は人と自然が調和した環境に優しいリサイクル型の美しい町であったと聞きます。ちょうどホテルの窓から見えている東京タワーや高層ビル群の人工物の光の夜景は見た目確かに綺麗かもしれませんが、私の心の中では何万匹の蛍の光のシャワーの中を歩く時の一生忘れられない程のすごい感動を再び皆さんと味わえる時代が来るといいなと何故か今日感じました。では沖縄をめぐる魂の冒険の続きをどうぞコズミックアーティストのミユキさんとは1995年の春に初めて出会った。ある日いきなり会社に変な電話をしてきた女性がいたのである。最初電話に出たのは当時会社の社長であった私の父親であった。「この人変なことを言っているぞ、電話を変ってくれないか」と言って父は私に受話器を手渡したのであった。私はなんだろうと思いつつも受話器を受け取ってその変な女性と話をすることとなりました。すぐに電話の向こうからその女性が不思議なことを語り始めたのです。「始めましてミユキと申します。実は変なことを申しますが驚かないで下さい。ある日突然頭の中で誰かが語りかけてきて絵を描くことについていろんなアドバイスをくれるようになったのですが、最初は何が起こったか分からずに自分の頭が変になったと思って抵抗していたのですけれども、余りにも私に関する情報でリアルなことを言うので段々自分の頭がどうかしたのではなくて姿の見えない誰かが本当に語りかけているのだと最近思うようになったのですが、その方のお名前を聞いたらアダチサチコって答えがかえってきてその方からキュウシュウボンテンへ行きなさいとメッセージをもらったんです。私はキュウシュウボンテンという名前を初めて聞く名前だったので私の友人達に知らないかと尋ねたら1人だけ知っている人がいたのものですから、連絡先を聞いてお電話しました。」というものだった。「えっ、サチコさん!もう2年前に亡くなっている方ですよ!」と驚きの余り叫ぶように私は答えたのでした。私とアダチサチコさんは実際にお会いする機会は無かったのであるが仕事上で間接的に一時的にかかわっていた人でもあり、彼女の著書「あるがままに生きる」は私の人生に衝撃を与えるほどのインパクトをもたらし今でもバイブル的な本であった。サチコさんに会う前に突然亡くなってしまったのでどんな方であった全くわからないのであるが、サチコさんが亡くなった後でお兄さんのイクロウさんと出会うこととなるのであった。亡くなった人からメッセージが来ることは霊能者やイタコの存在を考えればそんなに不思議なことでは無いかもしれないが、自分の身近で普通の主婦にそのようなことが突然起こることはその時は想像も出来なかった。しかしながら前にも同じような事を聞いた覚えがあったのを思い出したのであった。そう言えば、サチコさんのお兄さんのイクロウさんも同じ事を言ってたっけ・・・。前の年の夏にスリランカにイクロウさんと一緒に旅をする機会があった時に「サチコが亡くなってしばらくしてから突然夜中の2時頃になると毎日サチコからメッセージが届くようになったのです!」と語っていたことを思い出しました。これは本当のことかもしれないと確信めいた思いが立ち上がるのを感じつつも自分の目で確かめてみなくてはと思い「何か分かんないけど、とりあえずうちの会社のオフィスに来ていただけますか?直接お会いしたほうが事情が分かると思いますので」とミユキさんに返事をしたのです。お互いのスケジュールの合う日を決めて、後日ミユキさんと初めて対面することになるのであった。つづく
2006.03.20
最近珍しく、理由の無いイライラが出てくる。たまにこのような状況になることはあるのだがホメオパシーで体の毒出しをしているせいなのか、それとも地球の磁場の影響なのかはわからない。こんな時はフラワーエッセンスが有効である。今日はとりあえずヤローエンバイロメンタルソリューションという浄化と保護のコンビネーションエッセンスを摂ってみたら即効で意外とすっきりしました。体の中にネガティブなエネルギーが蓄積していたのかもしれませんね。では沖縄をめぐる魂の冒険の続きをどうぞ。朝食を食べ終わるとすぐに荷物をまとめてホテルをチェックアウトした。ホテルから県庁前のモノレールの駅まではほんの数分の距離で汗をかく前に着いたとい感じだった。ちょうど沖縄のモノレールが開通して間もない時期だったので駅もモノレールの車両も真新しいく心地良かった。車内は人もまばらで地元の人よりも空港へ向かう観光客が多いように思われた。車窓が広くとってあるので外の景色が良く見えるようになっていて、高い所から眺める那覇市内の風景に飽きることはなかった。東京のモノレールから見える殺伐とした都会の景色に比べ、どこか温かみのある心地良いパノラマが目の前に展開していた。空港に近づくにつれ、その心地良い風景の中にアメリカ軍や自衛隊の施設が増えていくにつれ沖縄のもう1つの顔を垣間見た気がしてとても違和感を感じざるおえなかった。モノレールはほどなく空港に到着した。モノレールに乗って約13分ほどの短い小旅行であったが何故か旅を満喫したという充実感があった。モノレールと共に那覇空港も新しいターミナルになっていた。数年前に宮古島の経由地として那覇空港を何度か利用したがその当時の建物は古く雑然とした感じで離島便の乗り換えにはわざわざ別の建物まで熱い日差しの中を数分歩かなければならなかったことを記憶している。新しい空港の建物はとてもスペースがゆったりして天井が高く、お店やレストランなどの施設も充実した使い勝手の良い空港に生まれ変わっていた。大きな荷物を航空会社のカウンターで預けてからおみやげ物を売っているお店を見てまわることにした。沖縄はまだ一般的になじみの無い色々な食材があるので見ていても結構楽しめるのである。赤紫色をしたドラゴンフルーツやレモンのような味わいのシークヮーサー、海のキャビアと呼ばれる海ぶどう、長命草やクミスクチンなどの薬草茶‥‥まるで宝探しをするように見ていて飽きなかった。私は味わった事が無い未知の食べ物に出会うとどうしても興味が沸いて一口食べてみないことには落ち着かない性分なので今回も飛行機の搭乗待ち合い室のフロアーでドラゴンフルーツのジュースの看板を見つけて躊躇することなく即注文してしまった。初めて味わうドラゴンフルーツのジュースは味は洋ナシをサラッとしたような感じで余りくせがなくちょうど良い甘さのジュースであった。ジュースを飲みながら売店に張ってあるポスターを眺めていると八重山諸島の宣伝のポスターであった。沖縄本島よりもさらにエキゾチックな南国の風景写真の中に石垣島の写真があった。石垣島にある岬の写真を見た時、次は石垣島へ行かなければというそんな思いが沸きあがってきたのであった。石垣島に一体何があるのだろうか?と後ろ髪をひかれる思いを感じながら那覇空港を後にしたのであった。お昼過ぎに福岡の自宅のマンションに帰りついてから一息つくとすぐに歩いて15分の所にある自分の会社のオフィスへ向かった。会社へ着くと一枚の葉書が私の机の上に置いてのがすぐ目にとまった。その葉書はコズミックアーティストのミユキさんからのものでした。『この度、夫の転勤で沖縄に引越ししました。』その文章を見るやいなや私の背中を電気のようなものが駆け抜けました。「あ~また何かが始まるな~」と私は思わずこう叫んでいました。その理由はミユキさんとの余りにも不思議な出会いにさかのぼるのです。つづく
2006.03.18
こんばんは今日も寒い1日ですね。先程、雷が鳴ってあられのようなものが降っていました。そろそろ春が近くなってきた感じですね。沖縄をめぐる魂の冒険の続きをどうぞ。店を後にした後にホテルまでの道のりをしばらく散策することにした。今度は趣向を変えて国際通りに並行している裏通りを歩いてみることにした。裏通りは表の華やかな喧騒とは裏腹に薄暗く静寂に包まれた感じであった。ビルに混じって沖縄らしい平屋の建物や沖縄定番の玄関や屋根に鎮座する様々な表情のシーサー達を眺めながら南国のつかの間の雰囲気を楽しむことができた。ぼんやりシーサーを眺めていると私の両親が生まれた瀬戸内海の粟島にある1体の逆立ちしたシーサーのことを思い出した。以前からなんで四国の田舎の島に逆立ちしたシーサーがあるのか不思議でならなかった。そのシーサーはあるお屋敷の塀の上に施された小さな屋根瓦の装飾の一角にあった。堂々とした風格でかなり年代が立っているように思えた。粟島は昔は塩飽水軍という海賊が本拠地を置いた島の1つで航海術に優れた船乗りを多数輩出した島でもある。塩飽水軍は古くは倭寇として朝鮮や中国大陸まで進出し、源平の合戦や秀吉の朝鮮征伐など歴史上に度々登場するのである。その優れた航海術によって海外まで活動範囲を広めていたことから考えて沖縄とも交流があったと考えてもおかしくはない。沖縄と瀬戸内海の小さな島との間になんらかの因縁めいた見えない糸を沖縄の裏通りを歩きながら感じたのである。その見えない糸はこの先思いがけない方向へつむがれていくのである。翌日、朝食をレストランで食べていると沖縄の人らしい顔立ちをした給仕のおばさんが声をかけてきた。沖縄独特の言葉で話しかけられたせいか最初何を言っているのかわからなかった。「コーヒーとジュースの飲み物がこちらにあるから自由に飲んでね」という言葉の意味だけは理解したが他の言葉はわからなかった。わからないような困った顔を察したのか「あ~あなたナイチの人じゃないの~、てっきり顔立ちからウチナンチュ(沖縄の人)かと思ったわけよ。」ウチナンチュという沖縄の言葉はおぼろげながら知っていたのでおばさんの言う意味は即座に理解することができた。「え、僕の顔って沖縄の地元の人に見えるんですか」おばさんはうなずくように「似てるさ~」と答えて笑いながら厨房の方へ歩いて行ってしまった。実は沖縄の人にこのような事を言われたのはこれが最初ではなかった。沖縄を旅する度に私の苗字と顔立ちをみて沖縄出身の人と勘違いする人が確かに多かった。私のルーツは沖縄にあるのだろうか?そう考えれば今回感じた不思議な感覚が理解できる。私と同じ経験をすれば誰でもそう思うに違いない。はるか遠くの自分をルーツを知りたいという欲求が心の奥底から湧き上がってくるのを感じざるおえなかった。この後、以外な展開経て時空を越えた自分の真のルーツを知ることになろうとはこの時思いもよらなかった。 つづく
2006.03.16
最近デトックス(体内毒出し)が流行っていますね~。私もホメオパス(同種療法の治療師)をやっている関係上、これまでにも水銀やアルミニウムなどの毒出しは定期的にやってきました。そのお陰でアレルギー性鼻炎の症状もほとんど無くなってきましたし口内炎が出来ることも無くなりました。ホメオパシー版のデトックスは毒出ししたいと思う特定の物質に絞ってピンポイントで毒出し出来るのでとても便利です。みなさんも一度試されたらはまると思いますよ。デトックスセット以外にも様々なホメオパシーのセットがありますのでお試しをでは「沖縄をめぐる魂の冒険」の続きをどうぞ夕方になって日が翳りだした頃、私はホテルのすぐ近くに面した国際通りを散策がてら歩いてみることにした。国際通りは沖縄の物産やお土産を売るお店や南国ムードあふれる食べ物屋が何百メートル先まで軒を連ねている感じだった。修学旅行生なのか学生服を着た集団があちこちの店をのぞき込んでは歓声を上げている風景をぼんやり眺めながらあてもなく歩いていた。外の気温はさすがに30度を越えて時々吹く風も蒸し暑さを増長させ全身に汗を吹き出させるには十分なものだった。しばらく通りを歩いて行くと、沖縄らしい日焼けした感じの建物の看板に目がとまった。観光客向けなのか琉球料理の店「ていだ」と書かれていた。「ていだ」とは沖縄の言葉で太陽の意味である。なんとなくその言葉にひかれて今晩はこのお店で夕食をとることにした。お店に入ってすぐ屋久杉で出来たあろう年輪を刻んだカウンターのテーブルに案内された。メニューを見て知っている名前の料理はゴーヤチャンプルーとソーキそば、豆腐よう、それからオリオンビールと泡盛ぐらいであった。とりあえずゴーヤチャンプルーとオリオンビールを注文した。これまでも何度か沖縄料理を食べたことはあったが、美味しいとは感じたことは一度も無くあまり積極的に食べようとは思ったことはなかった。しかし何故かオリオンビールと泡盛は例外で自分の好みにとても合うテイストであった。泡盛にいたっては最初口にした時にあまりの美味しさにあっという間にボトル1本空けてしまった経験があった。単に酒好きだということなのかもしれないが始めから相性の良いお酒だと感じていたのは確かであった。注文したゴーヤチャンプルーが運ばれてきて一口食べた時になんともいえない安堵感と共に「おかえり」という声が頭の中でこだましたような気がした。故郷に帰ってきてお母さんの手料理を食べた時のあの感じであった。何故か自分の中のDNAがうずくような体験だった。ゴーヤチャンプルーを食べ終わる前にメニューを見ていて気になったイカ墨汁と紅いものてんぷら、豆腐よう、それに泡盛のクース(古酒)を注文した。しばらくして注文したお酒と料理が運ばれてきたが、またどの料理も安堵感をもった美味しさが体中に広がるようであった。特にイカ墨汁に入っているフーチバ(ヨモギ)の苦味がとてつもなく懐かしく心地良く感じられた。今まで苦手だった沖縄料理がこの日を境にお袋の味のように恋しくなっていくのである。明らかに自分の中で何かが変わりつつある、何か封印したものが開きつつある、そんな気持ちで一杯になりながら店を後にした。つづく
2006.03.15
今日は、真冬に戻ったように寒いですね!夜になってすごく雪が降り始めました。今年は花粉症の症状がほとんど出ないのに北西風が強く吹く日には涙目になりクシャミが酷く喉も痛くなり花粉症のような症状になるのは、どうも中国大陸から飛んでくる黄砂に混じった環境汚染物質が原因のようです。毎年春の黄砂が飛ぶ時期に呼吸器の急性のアレルギー症状の子供が増えることがあり、経験上その子供達に共通していることは黄砂の多い日に1日中外で遊んだ後にアレルギー症状が出たことと、QXという波動測定器で子供の波動測定をするとウラニウムやプルトニウム、大気汚染を疑う重金属や化学物質の数値が断トツに高くリスクが上がっていることから何らかの環境汚染物質が黄砂と共に中国大陸の方から飛んできているとみて間違いないと思います。みなさんも黄砂が飛ぶ日はくれぐれもご用心を。それでは「沖縄をめぐる魂の冒険」の続きをどうぞ沖縄には1泊して翌日の朝の飛行機で福岡に帰る予定でした。国際通りの入り口近くにあるホテルにチェックインして、自分の部屋に入ってからしばらく窓に映し出される南国瓦のセピア色に染まった風景をぼんやり眺めていました。沖縄に降り立ってからずっと感じているこの不思議な感覚は何だろうか?穏やかでどこか懐かしく自分の求めていた心の平安がここにあるような気がしました。かつてスリランカを旅した時に泊まったキャンディーの中心街にあるクイーンズホテルの窓からみたセピア色の風景にどこか似ているような感じでした。そうスリランカといえば私の心をとらえて忘れられない風景がある。けして日本では見ることが出来ない動物達の穏やかで警戒心のない表情と裸電球1つ灯る部屋でみんな幸せそうに笑みを浮かべて家族が団欒している風景である。そのことを思い出すたび何とも心地良い感じなのである。悟りを開いたような動物の表情をみなさんは想像できるだろうか?便利さ快適さを追求すればするほど捨てなければいけない大切なものをみなさん気付いているだろうか?そろそろ人類も欲望の折り返し地点に差し掛かってきているような感じがしているのは私だけだろうか?大切な何かを探し求めて沖縄をめぐる冒険は続いていく。
2006.03.13
先日、久し振りに沖縄に行ってきました。沖縄は今回でたぶん10回目の旅でした。以前はあまり深く沖縄に行く意義を考えなかったのですが、いまから4年前の9月の青森旅行の帰りにふと思い立って沖縄経由で福岡に帰ろうという大胆な思いがよぎってしまい、それを素直に実行に移したことがひとつの意識変革の転機となったのです。山々の紅葉が始まって肌寒い青森から飛行機でいきなり30度をこえる蒸し暑さの沖縄へ行くなんて、なんて馬鹿なことをしているんだろうと考えつつも何かが始まるようなワクワク感が何故か心の底から沸きあがってくるという変な感覚でした。沖縄の那覇空港に降り立って国際通りを歩いている時に「あ~沖縄の意識がいずれ世界の雛形になる!」と確信めいたことが閃いたのです。自分でも何でこんなことが閃くのかその時は理由がわからなかったのですが、後々この確信めいた実体の姿が見えてくることになるのです。この日を境に沖縄との不思議な縁が結ばれていくことになるのである。つづく
2006.03.11
以前ホームページに掲載していた「トトロのひとり言」をブログの日記で復活させました。以前からホームページでご覧になられていた方々も、これから新しくブログでご縁のある方々もよろしくお願いしますね今回の日記のコンセプトは「スピリチュアル・アルケミー(魂の錬金術)の世界へようこそ~かけがえのない自分が今ここに在ることへのメッセージ~感じるままに、あるがままに」という感じです。その時々に感じることを素直に表現できたらと思います。ではご挨拶まで。
2006.03.10
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