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自分の選択した行動で 事実がどう変化したかを客観的に見ると 冷静な判断ができますね。 「事実」を見るんです。 「感情」じゃありません。感情は人生を豊かにするスパイスですが 変化しますから判断材料には向きません。 「感覚はあてにならない」 というのはピンと来ないとしても 「感情はコロコロ変わる」 というのは理解しやすいですね。 目の前の事実も その時の自分の置かれた立場 精神状態 体調 ・・・など いろんな要素次第で 怒ったり笑ったりと 猫の目のように変化します。ところが心揺さぶる印象的な出来事があると その時の感情と勝手に結びつきがちです。 心地よければあまり問題も無いでしょうが 心地よくない感情だと 事実と絡み合ってしまい 感情が固着することがあります。 痛みや辛さというのは とても刺激的な情報です。ですから状況次第では 「心揺さぶる印象的な出来事」に なることもあるかも知れません。痛みは身体の状態を教えてくれる一つの情報ですが それをどう判断するかは自由です。 どの感情を選ぶのかも自由なんです。普通は誰だって痛みを好まないでしょうが 必ず否定的なものとして捉えるのもどうかと思います。 例えば 人に合わせようとして 頭で頑張っているのを 痛みとして 身体のサインがなだめているのかも知れません。人の身体は わざわざ自分を壊すためにする作用は 一つもないんです。 痛みといえども 最善のものだからそこに現れています。 痛みや辛さに感謝することは 自分が本来持っているシステムを 発動させる大切な鍵でもあります。
2009.05.30
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感覚が鈍い方が気持ち良いからと グイグイと力を込めて刺激を入れるのは 気持ち良いという 慣れ親しんだ「感じ」を信じて 自分の組織を傷めることにもなりかねません。 どちらかというと 軽く触れられても刺激が物足りませんし 何でも「痛気持ち良い」と感じるので 「痛いくらいがちょうど良い」と思いがちです。 その結果 感覚と構造の許容値が違うため 身体を触り過ぎたり 酷使し過ぎて ますます壊れていくことがあります。 ・・・何度も言いますが 感覚があてにならないんです。 でも感覚はとてもリアルに思えます。 リアルに感じるのは 何度も同じ事を繰り返して 学習パターンができているからかもしれませんね。 生活の中で 繰り返し同じ情報が頭に入ってくると いつしかそれはその人の常識となりがちです。 場所や環境が違えば 同じことでも価値観が違います。 その場での習慣が違うからですよね。 習慣が違うというだけで どちらが正しい/間違いというのはありません。 「習慣」というのは 日々の繰り返しで 「作り込まれる」ものなんですね。 みんなが当たり前のようにしている事でさえ 「井の中の蛙」で 地域限定ルールかもしれません(笑) 感覚って本当に人それぞれ違います。 自分が信じている感覚を ひとまず横に置いてみて 自分がとった選択で 問題がどう変わったかという 事実だけを客観的に見ると 役に立つかどうか冷静に判断しやすいようです。
2009.05.27
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身体感覚がかなり鈍くなっていると 例えば辛い所の刺激も 「痛い」と感じるまでは 「別に・・・」だったりします。 ちょっと「痛い」と感じるところから 「痛い=気持ちいい」になりがちのようです。 ・・・感覚の境界が絡み合っているという感じでしょうか? 以前にもお話ししましたが 「感覚は当てにならない」というのは こういう場合なお更でしょうね。 例えば 仰向けに寝れなかったのが平気になったとか うずく場所が減ったとか 歩く姿がスッとしたとか ・・・そういう生活の変化があっても 身体の奥底の わけの分からない辛さ感覚は なかなか薄れ難いようです。 辛さが残っている限り 楽になっている「感じ」がしないんです。 すると 傍から見れば明らかに不具合が変化していても 本人にとっては辛さが変わらないように 感じていることが多いんですね。 客観的には明らかに姿勢や生活が変化しても 感覚が鈍っている当の本人は 「辛さは変わらない」 という 「感じ」 に捉われていることが多いんです。 ですから 事実がどう変化しているのかを 客観的情報として確認することもとても大切なんです。 感覚的に 人にうまく説明ができないような辛さってあるんですね。 訳が分からなかったり しつこいものであれば 「不具合を改善していこう」という 本人のモチベーション維持のためになお更です。 広告でも「使用前/使用後」があるように 何かアクションをする前と後で 「辛さ」以外の項目も 事実として確認するということです。 客観的事実として 身体の動く範囲 姿勢や生活の変化など 諸々が大事な指標となるんですね。
2009.05.24
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身体の負担の興奮状態が続くと 感覚器はシャープな痛みを感じにくくなるようです。 どちらかというと重痛いとか おもりを載せたようだとか うずくような 文字通り「にぶい」感覚になっていくことが多いみたいです。 慢性的に負担が掛かっている時の独特の状態ですね。 そして心と身体は繋がっているので思考も鈍くなります。 常に刺激に身体が対応することになるので それだけで 本来考えたり行動するはずのことまで 意識が廻らなくなってしまいます。 まだ余裕があれば 「ちょっとまずいなぁ」 と考えられます。 でも酷くなると そんなことにエネルギーを使っているとは 思いもしないこともあるんです。 不具合があると やる気が起こらなくなったり 投げやりになりがちなのは そういうことなんだと思います。
2009.05.23
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「痛い」とか「気持ちいい」という 体感覚がはっきりしないという方がおられます。こういう方たちは だいたい共通して 慢性的に重痛いような不具合を抱えておられます。ずっと長い間からだが悲鳴をあげていたため 身体が防御策として感度を鈍らせているのかなと思っていました。でもひょっとしたらそれだけでなく 本当に体感覚として「痛い」「気持ちいい」という 感度が鈍いのかもしれないと思うようになりました。ふつう施術者は身体の情報を知るために 「痛みとか気持ちよさがありますか?」と聞きます。するとこのタイプの人からは共通して 「我慢できます」というような独特のコメントが返ってきます。またはどう表現していいか分からず困惑してしまいます。「痛い」「気持ちいい」などの感度が鈍いと 例えば凝っている所の緊張が緩んでも 押さえて変化している差が本当にわからないようです。どちらかといえば何でもかんでも痛気持ち良く感じるようです。その種の方のコメントいわく 『私の場合 「快感♪」です。 痛みじゃありません。 施術の時の痛みは私にとって「快楽」です。』…ですから 「強い刺激でないと気持ち良くないので もっと押してもらって良いですよ!」 ということで 「我慢できます」 という類の コメントになるのかもしれません。軽いタッチで体感覚の変化を質問されても 本当にわからないので返答に困ってしまい 「?」と悩んでしまうんでしょうね。緊張が緩んでもずっとその感覚がある時って 身体全体がかなり興奮状態だと思います。人は何か自分の重大な関心に意識が向くと 疲れていても強制的に興奮して対処するんでしたよね。特別な時だけに起こるこのシステムが 特別だらけだと はかりのゼロ調節が狂うように 疲労感も麻痺して当たり前になってきます。ところが疲労感という感覚だけでなく 肉体的な感度自体も実際変化するようです。今までの経験からですが 興奮状態が続き過ぎると 身体に感じる刺激の強さレベルを 「痛い」と感じるのは低く 「気持ちいい」と感じるのは高くして 身体を守ろうとしているように思えます。
2009.05.21
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