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いつ気がついた、という明確な何かがあるわけではない。が、虐待気付き週間、とでもいうような、集中的に、自分は娘を虐待していたんだな、と、思いしらされる出来事が立て続いていた。その仕上げ、とでもいうべき事件が、娘の怪我、だった。私は、まだ…疑っている。本当に娘の怪我は、椅子から落ちた、ときに出来たものなのだろうか。あの日の昼過ぎ、娘が食事をしたくない、と逃げまどったとき、無理矢理椅子に座らせた、あれがもしかしたら原因だったのではないか。着替えを嫌がったとき、床に叩きつけた、あの時泣いたのは、もしかしたら激痛が走ったからではなかったのか。あの怪我以来、娘が『天使』に見えるようになったのも、あたかも、自分の虐待を止めてくれたから、自分の虐待を許してくれたから、と、勝手に解釈したからではなかったのか。虐待していた親によくあるように、私も自分が娘を虐待している、とは夢にも思わなかった。いや、夢にくらいは思ったし、ここにもそんな話も書いたかもしれないが、そんなに深刻に思うほどには自覚をしていなかった。年をとったから、と口では言いながら、化粧方法も服装もまったく変えていない、そんな程度だった気がする。言ってるときは結構マジであせってはいるのだけれど。どのような言い訳があったとしても、虐待は決して許されるものではない。が、きっと、どの虐待にも、それに至ってしまった原因があるのだ、と思う。そして、やはり、私にも、彼女が生まれてからここに至るまでのことを思い起こせば、どうして彼女を虐待してしまうに至ったのか、と、思い当たることがある。経管栄養のチューブに、口の矯正具、鼻の矯正具、手術後のケア。と、彼女には常時、後天的に人工的につけられたものが幾つかあり、そのどれもが彼女に必要なものであった。何も分からない赤ん坊が、手に触ったものに興味を示し、結果として矯正具を外してしまうのを、私は恫喝と痛み、という恐怖によって、抑制した。それを外してしまっても、どのみち入れ替えねばばらず、もっと辛いめにあうことになる。彼女の人生には、今後も様々な困難がつきまとってくるはずで、それを受容させることも彼女の人生として教えてあげなければならない。こう思って、私は娘を厳しく制した。本当に本当にその時は、それが娘のためと思い、涙を流しながら怒ったことなど数えられる回数ではない。が、それは娘のためでもなんでもなかった。私のため、でしかなかった、ような気がする。入れ替えるのが辛いのは、娘より自分であった。その動作をする度に手間がかかる。立ち上がり、準備をし、押さえつける。泣き叫ぶ娘の顔は無言で私にこう叫ぶのだ。どうして、私をこんな風に産んだの?尋常ではない作業を、尋常ではない状態で行う度に、自分が今までいた世界から遠く離れてしまい、窓の向こう、ベランダの下で、当たり前に営まれている日常生活からも追い出されてしまったかのような孤独感と焦燥感に身を焼かれる、そのことから、とにかく逃げたかったのだ。娘が怪我をして、とってつけたように娘に優しくしているうちに、世界が音をたてて開いていった。恫喝しなくても、拘束しなくても、矯正具をつけることも、傷のケアをすることも可能だ、ということが。待ってあげれば、自分からこちらに来る、ということが。何度も教えこまなくても、期待せず、何気なく日常に組み込んであげたほうが、生活習慣も言葉もはるかに覚えが早い、ということが。そして、それらの方法の方が、何倍も、強制し恫喝するよりも時間も忍耐もかかる、ということが。けれども、その方が何十倍、何百倍も、幸せだ、ということが。心から、分かったのだ。以上のことを私が知らなかったか、と言えば、そうではない。知識では、そのようなことは知っていた。それどころか、自分は実行している、とさえ思っていたのだ。それでも、娘には覚悟し我慢しなければならないことがある、それを叩き込んであげなければならない、そのことを免罪符に、私は最もてっとり早い方法をとっていたに違いない。悪徳託児所、保育園、幼稚園、ベビーシッターのように…。もちろん、経管栄養の場合、どうしたって泣き叫ぶ我が子を押さえつけなければならない。何事もまだ分からぬ乳児の頃は、言って聞かせることは無理であるし、拘束しなければならなかった事情は、たとえ、あの頃に戻れたとしても変わらなかったかもしれない。その親子関係を、いつから私は日常、当たり前のものと、していってしまったのだろう。ここで出会った誰かが教えてくれた。子供は、いつまでも悔やみ、泣いて謝り続けられるよりも、元気で明るい、大好きなお母さんに一日でも早く戻ることが、何よりの謝罪である、と。これからの私の笑顔で、彼女も過去のことを水に流してくれるのだろうか。私がしてしまった過去のせいで、彼女の心に深くつけてしまった傷が癒える日は来るのだろうか。
2005.03.21
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誰が何と言っても、娘は摂食障害である。誰が何と言っても、と、書いたが、正確に言えば、それは違う。「誰も何とも言ってくれなくても」と表記するのが正しい。娘が経管栄養になった時、私は2つの大学病院、1つの国立病院、1つの総合病院の門を叩き、診察し、検査をしてもらった。が。いずれも、明確どころか、少しの希望さえ、教えてもらえなかった。それどころか、「原因不明」とさえ言ってもらえず、管で生きているんだから、そのうち(ミルクを)飲むんだから、命に危険はないんだから、他の病院の出方もあるし、お母さんのやり方が悪いんでしょ。という扱いしか受けなかった。出会った栄養士、管理栄養士、保健師は10人を下らないが、真剣に向き合って、力になってくれた人は、1人しかいなかった。その方から、種類を問わず障害児に、摂食障害の子供が存在し、その研究はまだまだ途上である、と、教えてもらった。その方との出会いも、思えば、ネットを旅に旅した末に、だった。摂食障害について。私は専門家ではない。が、少なくても娘に関して、今になって分かってきたことがある。それは、『発達具合に起因する摂食障害』があるのではないか、ということである。娘の摂食障害で半狂乱になっていた頃。栄養士や管理栄養士、保健師などに火に油を注がれるアドバイスをされて、その人の家に娘を送り届けて失踪しよう、と、本気で思ったこともあった。彼女らは私に、よくこう言っていた。可愛い盛り付けで。小分けにして。楽しい雰囲気で。カラフルな色合いで。食器も興味を引くもので。1年以上も経った今になって、ようやく得心のいくことが多い。今の娘は、ぷーさんの器が大好きである。食べなくなると、器のぷーさんをダシに使って、もう一口、食べさせることがよくある。また、海苔が好きなので、食べなくなった物に、海苔を目の前でサーブして、更にまた一口、と、食べさせたりもする。茶色一色の物は嫌がるし、好きなプリンも、いつものカップに入っていないと怪しんで食べない。そうやって工夫する度に、あぁ、栄養士らが言っていたことはこれなんだね、と、あらためて、この分野で未だ苦しんでおられる、まだ見ぬ方々を思いやったりする。あの頃の娘は、こんなレベルではなくて、食欲そのものがなかった、という感じなのだが、今更、その原因について、どうのこうの言うつもりはない。障害のある娘をもって、世の中には原因の分からぬまま傷害や病気を抱えている子供がいかに多くて、医学はまだまだ発展途上である、ということは分かったつもりである。が、だからといって、分からぬことを開き直ってもらったり、無知のまま既存のアドバイスを押し付けてもらっては、かえって害にしかならないのである。例えば、原因不明の発達遅滞があり、且つ難聴もある娘は、その中の一つ、言語・認知面がかなり遅れている。で、あるから、どんなに可愛いキャラクターを見せても、それを認知してはいないのである。事実、本を見て興味を覚えるのも、テレビやビデオを見るのさえ、最近、と思うほど、本当に長い間、興味を示さなかった。そんな子供に、可愛い皿に可愛く盛り付けたって、そりゃ興味を示さないのは当然で、そんなアドバイスを、それでも必死に一度は実行していた、あの頃の自分が哀れだし、また、それほど追い詰められていたのかと思うと、ぞっとする。そんな具合で、発達度合いが、分野によって、2歳9ヶ月の時点で既に1歳半以上の開きがある娘のような場合、互いの発達程度が邪魔しあうこともあるのではないか、と、思うのである。例えば、先述の例。今の状態で言えば、娘は、社会性・好奇心が2歳半の判定である。が、運動面は、1歳半程であり、食事面は1歳程であり、その中ほどが認知面である。つまり。どんなに食事に興味を持ち、自分で食べたい、と思っても、運動能力がついてこず、また、食べるためには、どこに何があって何が必要か、という認知面がなく、いざ、口に入れても、噛み砕き飲み込む能力も低いのである。それでは、自分の精神面と肉体面が共存できないではないか。大人であれば、それでも食べなくては生きていけない、と知恵も回るが、そういった意識のない幼児が食事を拒否するのも、そんなにおかしな話ではない、とも思えるのだ。そんなジレンマを、彼女はずっと抱えてきたのではないのか。もちろん、答えは分からないし、彼女からの応えもないし、あったとしても、今更どうしようもないこと、なのだけれども。
2005.03.17
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あ…と、思って振り返った時には、もうすでに彼女は床に倒れていて、その上に大人用のダイニング椅子が覆いかぶさっていた。一瞬、彼女の口からは聞いたことのない、小動物の甲高い悲鳴のような声をほとぼらせた後、しばしの沈黙。そして、火が点いたように泣き出し…もせず、そのまま静寂の中で横たわっていた。時間は、夕方6時。その日は夫が、家で仕事をする、といって帰ってきていた。食事の準備と、彼の仕事場所の確保。普段から汚くしているため、これがなかなか終わらない。今、彼がパソコンで調べものをしている間に、早く早く。火にかけている鍋を気にしながらも、彼が仕事をする場所に溜まっていた物を、空いている場所へとピストン輸送していた。たとえ、仕事場が汚くても、子供が遊び絡んでいっても、彼は気にはしない。子供が遊びに行けば、それをきっかけに少し休憩し、また、仕事モードに戻っていく。だからこそ、こちらも彼に甘えず、彼が仕事をし易いように気を使ってあげなくては…と、頭はそのことでいっぱいになった。いや、それだけではない。娘の保育園が決まり、その準備に、半ば浮かれていたのだろう。購入した物や、名前付けの最中のものも、散らばっていた。そんな中、彼女は私を戒めるかのように、椅子から落ちた。それでも。私は思った。何やってるんだ、まったく、いつでもトロいなぁ、と。聞いたことのない声をあげ、いつまでも起き上がらない彼女を、静かだから、と、それをいいことに、作業を進めていった。…どれぐらいが経っただろう。食事も出来、彼も仕事をやり始め、やれやれと思って娘を見ると、床で遊んでいた。ご飯だからおいで。と、言っても来る気配がない。強く、繰り返すと、娘はノロノロと立ち上がり、こちらへ歩き始めた。その光景は今でも忘れられない。心臓が壊れ、血が逆流したかのような衝撃と共に、きっと一生、忘れないだろう。娘が左足を引きずって歩いてきたのだ。一歩歩く毎に顔をしかめ、不安そうに、周囲に支えるものを求めて、細い両手を伸ばしている。私は夢の中を走っているかのようなもどかさを感じながら、彼女の元へ駆け寄った。庇っている左足を点検し、頭に陥没した後がないかを確かめていた私の手は、きっと震えていただろう。左足の甲の骨にヒビ。それが彼女の診断だった。子供に怪我はつきものだ。これから保育園に入れば、ある程度の怪我や喧嘩もしてくるに違いない。だから私は、そのことがショックだったのではない。いくら他に目がいっていたとはいえ、我が子が椅子から落ちたのに、その怪我の有無はともかくとして、瞬間、トロい、と、思った、そのことが悲しい。その状態がいつもと違う、と、咄嗟に分かったのに、それを優先させなかった、自分の母親としての資質が、なんとも情けなくて悔しい。翌日。娘は歩こうとしなかった。歩くどころか、ハイハイすら、立つことすら拒んだ。気落ちしたように、一日中、肩を落として、食事もほとんど手をつけなかった。痛みの走った足よりも、きっと、何分か、何十分か分からないが、あの静寂の時間。彼女がどれだけの痛みと、不安と、叱られるかもしれない、という恐怖との中で、うち震えていたのだろう、と、思うと、あの場で、大きな声で泣き叫んで助けを求めなかった娘に、自分との関係を通告されたような気がして、気が狂いそうなほど辛くなった。身体に力が入らないのか、赤ちゃんに戻ってしまったようにクネクネした娘の体を抱き寄せると、涙が自然とばたばたと音をたてて娘の顔に落ちた。ごめんねごめんね、と、呪文のように繰り返して娘の顔に頬をすり寄せたが、その表情を何度見ても、私を責めているようには見えなかった。足に痛みを抱えているとは到底思えないような、いつもと全く同じ笑顔だった。
2005.03.12
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保育所入所決定通知が先日、我が家に到着しました。そこに第一希望の保育園の名前を見つけたとき、喜怒哀楽、全ての感情が押し寄せてきました。厚生労働省が把握している全国市町村待機児童の数ランキング(『保育所の状況(平成16年4月1日)等について』)で、堂々のベスト10入りを果たしている居住地域で、障害児枠(3歳児から適用)が使えない2歳児の状況で、どうやって娘を保育園にねじこむか…。どうして娘は保育園に入れないのか…。そればかりを日々、考えて生きてきました。双方の親類が近くにおらず、転勤中で子供を預けられるような人もおらず、頼みの綱の夫も月単位で海外出張してしまう状況で、何度も手術入院を経験し、自宅で経管栄養や術後のケアをし、難聴や発達遅滞の通園をし、またその学習を家でフォローし、摂食障害のための食事を日に5回こなし。そうやってギリギリでやってきた母娘が、通院、通園があってフルタイムで働けないから、といって、経済的に困窮していないから、といって、就労証明を偽造出来ないから、といって、救いの対象にさえならない行政では間違えている。何度もくじけそうになったとき、私はこうやって自分を励ましていました。ようやく肩の荷がおりました。もちろん、これだけ頑張っても、保育園の担任と私の相性が悪かったり、娘が全くなじめなかったりして、止めるハメになるかもしれません。が、それは、どのような道にもついてくること。少なくとも、娘に最良あれ、と、努力したのだから、それも必然だ、と、心から受け入れることが出来ると思います。保育園については各自治体によって異なるので、参考にもならないかもしれません。が、何より、私が辿った軌跡を記録するためにも、『障害児を保育園に入れる』というページを随時アップしていきたいと思っています。日記にも助けてもらいながら手抜きで作るため、読みづらいことが多々あると思いますが、通常の日記共々、よろしかったら覗いてくださると嬉しく思います。最後に、このような不安定な場所に顔を見せてくださった方々に、感謝の言葉もありません。かえって今更失礼だろう、と思われる書き込みには、お返事を遠慮させていただきますが、なるべく、お返事をつけさせていただきたいと思っています。これからもどうか、よろしくお願い申し上げます。pms
2005.03.11
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以下は、私が娘(2歳児)を入園させたときに気をつけていたポイントで、特に、後から振り返っても重要だった、と、思えるものを列挙したものです。3歳児以降、障害児枠で障害児を入園させるためにはどうしたらいいのか、私には経験がないので分かりません。また、保育園入園は各自治体によって異なりますので、全く、意味のないことを書いているのかもしれません。ですが、私が確かに努力してきた軌跡を残すため、と、もしかしたら、一人でも誰かのお役にたてれば、誰かが待機児童激戦区で保育園入園を志し、その方の情報の末席にでも加えてもらうことができるのであれば、心から嬉しいと思っています。pms
2005.03.01
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