全557件 (557件中 101-150件目)
半年の間、この通路の本棚の側に、ケージと、カートを置き、思い出の品など、突っ込んで、毎日眺めていた。なかなかに撤去、取り去ってしまうことが出来なかった。ケージは、ジャズヴォーカル教室のや先生のワンちゃんに貰って頂いた。捨ててしまう、と言うことでなく次の使い手がある、と言うだけで気が休まる。感謝。カートは、、ほとんど使用していない。北海道へ行くために買ったようなもので、。でも、このカートがあって、はじめて病気ではあったが、犬を連れて行くことが出来た。大型犬用のカートなので、タイヤも大きく恐らく将来、何か別のことで使うことになるかもしれないので、とりあえず、視界の外に移動した。突き当りの犬用通用口の右側の壁に立てかけて置いた。通り土間の向こうは納屋なんだが、この片付けをしないとだな、と考え始めている。犬のもの、すっかり払拭したわけじゃなくまだ、食器とか、。。あるんだ。納屋に。あの子は死んで、あたしは生きている、ので、懸命に毎日を送るが、そして、人には大げさな、と思われるかもしれないが、犬を飼う暮らしがもう出来ないのだと自分に言い聞かせると余計に、しんどいので、今は、もし、門口にこちらでお世話になれませんか?と訪ねてくる犬があれば、しかたがないかな、、とは思ったりする。ともあれ、通り道になんでこんなにかさの高いものが並んでいるの?と素直に感じられるまではそのままにしよう、と思って思っていた通り、半年もすればこれはやはり、まずいね、と考えられるようになり、先月の28日に、片付けた次第。ビフォア、アフターとお示ししようと過去のアルバムを探したが、モノに溢れる通り土間の写真は無かった。またペースは相変わらずだが、この向こうの納屋の片付けに取り掛かりたい。
2021年04月04日
コメント(2)
あるコンクールで大きな賞を頂いて、ある会社の人事部長とそのお付きの人が大学の研究室に来られ、あたしは、その会社のデザイン室に就職した。そのコンクールは、プロが対象であったので、並み居る現役を差し置き、一学徒が最高賞になったのでその世界では当時話題になったためだ。幾つかの会社のお誘いがあったが、一番近いところ、つまり神戸に本社のある所を選んだという事。当時は、結婚退職が当たり前、女子は補佐役が当たり前。ただ、カラフルな職場であったので女性の専門職、例えばデザイナーなどは外部委託だった。社内では女子には事務服が支給された。あたしは、専門職としての意地と、デザイナーとしての仕事には、事務服は不要と申し出て、自分規定で、紺のジャンパースカートに白のブラウス、と言う恰好。出勤は男性より半時間程度早く、お部屋の掃除とか、特にお茶当番はお茶の用意が課されていた。大卒の女子の採用がその会社では最初のことでもあり、制服も着ないあたしは女子社員のお仲間とは少し離れたところに位置したが、(したがって女子情報網とは縁がない)そこはそれ、次第に女子の側からの不満のようなものがジワジワしみだしていた。ある時、湯沸かし室にお呼び出しがあり、お局様はじめ関係部署の女子がずらありと狭い湯沸かし室に集合していて、その中心にあたし、こちらへ、と誘われる。何か?お局様がかくかくしかじか、こういう体制は困ります。あなたも他の女子と同じように当番を。お茶くみ当番を消化して頂きたい。所謂つるし上げである。暴力はない。こないだ首相官邸でのお茶くみ事件があったと何かの記事で読んだが、それは男子2名によるいざこざであったとの事。。隔世の感ありだが、場面は変化がない。性は違えど、場所は同じ、ってえのに、本当に感じ入る。さて、歌舞伎の場面のようにあ、さあ、さあ、っさああて、どうする??と詰め寄られたあたし。どうなったか。そんなに現状維持が大切なら、あなたがなされば?少なくともわたくしはお茶くみとは違う仕事があるので。と答えたと思う。お茶くみも欠くべからざる仕事であるが、そういう契約で入社したのではないという事が言いたかった。しかし、皆さんのお気持ちはその時理解した。なので、この事件以降は、朝以外に気がついたときは上司、同僚にお茶を入れたと記憶する。この会社では、翌年の昇給の時に後から入った同じ分野の仕事人が男性のため、あたしより給料が2000円多かったのでアタマに来て、組合に文句を言いに行き、恫喝され、(組合も女性の味方ではない)ほどなく、退社を決意した。以来、一匹狼で仕事をし、現在に至るわけだが、。ああ、もう50年も経過した。生き延びた、というのが当たっているか。最近は、毎日が大事になって来ている。えらいこっちゃ。
2021年03月17日
コメント(2)
長男、長女の結婚であったのであたしたちは、どっちの姓にするかは、ジャンケンで決めた。あたしは敗けて、彼の方になった。たしか、彼はパーで、あたしはグーだった。そう言う話をこないだしたら、それは違う。ジャンケンなんかしていないという。夫もボケて来たか・・。
2021年02月28日
コメント(0)
昨日に続き、スキーの事。高校では、たまたま、体育の先生がスキーに造詣?が深い事もあってスキー合宿を毎年計画された。自由参加型である。紙があるわけでもなし、今度、あそこにいくねんて、へえ、いついつ??学年も関係ない。それでも、20人から30人は集まったのではないか。当時、我が家は母が小商いを始めていたこともあり少し経済的に潤沢だったこともある。行っていいかとお伺いすれば、大概はオッケーが出た。こういうのは、休みの日を利用するので問題ない。高2の時に、生徒手帳の連絡欄に母の記入で、いついつ休ませます。スキーに行くためです。と書いたのを、担任の中川先生がアタマに来て、(笑)あたしは、職員室に呼び出され、「学校辞めてしまえ!」と怒鳴られたことがあった。スキーには、行ったと思う。叱られたことは親には伝えたのだと思う。あれは、キョウレツだった。学校からのスキーにも参加したし、学校を休んでも出かけた。そうそう、大学の時には六甲人工スキー場があったので、ケーブルカーで行けばすぐ行けた。その出発点の駅が研究室の傍であったので、スキーの道具を大学に置いておき、よく出かけた。そういえば、、スケート場も傍にあったのだった!スケート靴も、、あれれ、遊びまくるぼちぼち像、である。。そのスケート靴、今も2階のふとん部屋に、父のホッケー用の靴と、置いてあるのだ。。あれ達の処遇、ねえ、。。捨てられないなあ・・。
2021年02月20日
コメント(0)
滑るスキーの風切る速さ♪内田先生のブログです。子供たちがそれぞれにスキーに出かけるようになるまでだから、、かれこれ、、20年前くらい?に最後のスキーをしたのだろうか。あたしは、3歳から!スキーをしていたので、50年くらいは優に冬はスキー!が定番だった。関西では、神鍋高原がいつも行くところで、後に、ハチ高原、ハチ北、そして、マキノ、琵琶湖バレー、花背(はなせ)、大山(だいせん)、蒜山(ひるぜん)、信州の妙高高原は、中学2年の時、赤倉、高校になって熊の湯、横手山、栂池、車山、大学の時、スキー部の合宿に参加して、立山、結婚してから、御岳山、薮原、野沢、、と方々に出かけている。小さい頃は、専ら毎週日曜日の日帰り神鍋スキー。福知山線で和田山経由八鹿下車、全但バスで神鍋山まで。そして、スキーバスで、琵琶湖方面へ。最近は、スノーボードなるものが主流?なんでしょうか。。父との日帰りスキーでは、弟(3歳下)も、自分のスキーや靴など各自で持って、装着、片付けを自分でする、リフトは乗らずに自分で斜面を上がる、(その前に、、滑るゲレンデを足慣らしで作成!)最後のダウンヒルのみ、リフト使用、弁当持参。などと、サバイバルだった。当時は汽車はまだ煙を吐いていた。ヒッコリーの板だった。ケースは母親が作ってくれた。外国では、ノルウエーのスキー場にデンマークから出かけている。その時買ったミトン、今でも持っている。もう本当に無敵に暖かいのだ。このスキー場は、頂上からダンガンで、それこそ、3歳くらいの幼児が背中を丸めてストックを抱え、目の前をすごいスピードで、降りて行ったっけ・・。アイスバーン、なんてものじゃなく、新雪3センチ下はミント色の氷!だったなあ。。ノルウエーには、スイス人のカップルと一緒だった。彼らは、ダウンヒルと、ノルディックを両方楽しんでいた。それで、ノルディックスキーの楽しさを教えてもらった。スキーがあまり好まれなくなった今の時代でも、3人の孫はべったり毎冬、スキー三昧である。息子は野沢温泉のさる民宿とご縁が出来て、随分お世話になったようだ。まだ、そのオーナーさんにご挨拶をしていないので一度は、出向いてお会いしたいものだと思っている。もう、滑らず、温泉だけの旅行になるけれども・・。
2021年02月19日
コメント(2)
JAバンクの窓口ではないスーパー併設の1個だけのATMでのある日の出来事。振り込みがミッションで、いつもの出金よりは少し時間がかかる。無駄な時間の浪費は無いはずだったが、自分でも、少しは、後の方に悪いなあ(もし並んでいたら)とか言う気持ちはあった。そこへ突然、背中のドアが開いて、罵倒される。本当に驚いた。(言葉は省略)クルっと振り返るとそこにご老人が一人、目が合う。また、大声。(彼の言葉は省略)勢いに押されて、謝った。反射的であったか・・。入れ違いに彼が機械に。そこで、つぎに待っておられた女性(あたしと同じ初老?)と目が合う。(ちなみに、あたしがATMに入ったときは待っている人はいなかった)その刹那、彼女が、穏やかに、「何か嫌な事でもあったのよきっと、。」と呟く。あたしの何かに火が付いた。(笑)次の瞬間、あたしはドアを開けて、その怒鳴られた男性に、大声と、文言の中身について、それはないでしょう。と返していた。(言葉は省略)すると、その男性は、、またすぐ振り向き、なにおー!と怒鳴った。(次の言葉は省略)あたしは、また先ほどの言葉を繰り返す。(言葉は省略)気がつくと、彼の軽トラックの所まで行ってる。大声のやり取りは続く。(言葉は省略)次の瞬間、男性はあたしを殴ろうと手を挙げた!すかさずあたしは、その動作に見合う言葉を発する。(言葉は省略)周りに人だかりができる。だって、スーパーだもの。(笑)彼の軽トラックのドアに手をかけ、そういう事なら、警察に行きましょう。と言う。あたしの言葉の弾丸は留まるところを知らない。アルコールの臭いがした。ますます警察だ。(と思ったことを覚えている)彼は、あたしの手が車のドアにあるまま、クルマを発進させ、去る。。事程左様に、田舎のおじいさんは、傍若無人である。どこかの、御大と変わりない。これがさてと、数年前の出来事であった。あたしは、クルマのナンバーをメモし、しばらく、それはポケットに入っていた。その時以来か、、異議申し立ては都度するべし。をモットーに、すべての出ることになる会議では意見を言うようにしている。道まだはるか遠いが、言い続けないといけないと思っている。無視されようが、怒鳴られようが、笑われようが、だ。。今朝の朝日新聞に初めてラグビー協会の女性理事になった方の記事が出ていた。その記事の最後に、彼女は、・・そういう意味では、彼に(森さん)感謝ですよね。と結んでいる。(問題が顕在化した、という)そう言う意味では、ATMで怒鳴ったお爺さんに感謝だな。そう思った。
2021年02月05日
コメント(2)
愛犬の死から、昨日で4か月経過。日常の暮らしに加えて、何やらいろいろ気晴らしを考えて、七転八倒。時が解決、、を実践しているところ。ヘアスタイル変えたり、何時本格再開ともしれぬ歌の稽古してみたり、出来るかどうか定かでない弾き語り(弾き歌い)に突破口がないかと逡巡したり、、去年は諦めた味噌つくりしたりと、ぼちぼち、それなりに(あ、このぼちぼちは、自分の事)時間割を作る。一番のシーン転換は、かさんのお誘いに乗ったスイミングである。プールに行くなどと、とんとご縁の無かった活動、はてさて、どうなりますか・・。ま、せめてこの時間割表に書いてあるウオーキング、ってのから始めてみちゃれと思い、昨年11月から通い始める。しみじみ、、持つべきものは友!(笑)あたしの感想は、、ウオーキングが難しいという事。隣では、はじめてスイミング、ってのをしてるし、その向こうでは、、簡単アクアビクス、ってのもやっている。同じ参加するならと、、これらにも顔を突っ込んで、今まで来た。通い始めると、知ったお顔も増えてきて、ご挨拶もするようになる。この間、、これにも参加したらどうか、と誘って頂く。クロール、のクラス。いえいえ、とんでもございません。溺れてしまうのがおちです。と、首をひっこめた。またその数日後、これに参加したらどうか、、と、平泳ぎのクラスに誘われる。お声かけていただくうちが花。とは思っているので、断ってばかりではまずいかもと、じゃあ、やってみます。と返事した。返事したのはいいけれど、心は平泳ぎ、で満たされて、困った困った・・。と、思いつめていた。いよいよその日が来て、その前の晩。夢を見た。中学の時の親友、ゆきこ、の夢だ。彼女は、亡くなって久しい。上のお兄ちゃんが京大を卒業するかしないか、くらいで、夜、床に就き、そのまま、。。学校では、ダントツに可愛くて優しい人気者だった。同窓会に参加する前に、彼女のお墓に行く男子もいるくらいだ。その、ゆきこが、夢で逢いましょう。カラフルで、リアルで、ちょいと、、いやかなり、あたしは驚いた。起き抜けに、ネットで、亡くなった方が出てくる。という夢占いをチェックする。(笑)夢のディテール、ちゃんと覚えていたので、調べることしきり。。結果、、。大吉!。それも、かなり上の方。と出る。ホッとしたことは言うまでもない。おりしも、平泳ぎのクラスが始まる数時間前。自分では、、??なのである。へえ、何かいいことがあると出ているが、あたしは、半信半疑。どちらかというと、荷車に乗った子牛。(on on wagon bound for market..♪あのジョーンバエズの唄の気分)言い訳まみれで、とにかく、水に入った。。。コーチ曰く、(平泳ぎは)足の蹴りがちゃんと出来ているので、もう泳げています。もう、周りもびっくりしたと思うけれど、自分が一番驚いた。タップをしていたからかもとか、高校の時にバトントワリングをしていたからとか、いろいろ思い出が巡ったが、泳げないよりはずっと嬉しい事に変わりない。で、ひとまず、ホッとしたわけさ。45分で、500メートルは泳いでいるかも。すごいね。500メートルなんてさ。25メートルの端まで、喘ぎあえぎなんとか、、ってくらいなのに。。3か月の精進?のおかげです。ハイ。幾つになっても、前に進めると言うのはいいもんです。来月には73になるあたしである。
2021年01月29日
コメント(0)
コモンの再生 [ 内田 樹 ]タイトルは、中身と相関しているようなしていないような。項目は、まず、質問から始まる。例えば、結婚、今していいか?とか、。我がままオジサンのこと、どうしましょう?とか。ウチダ先生は、それらに対して、理と、情を尽くし真面目にお答えしている。それらが、ほぼ、時系列で並ぶ。この人のいう事は、何でも一応は聞いておきたい、と思う人には美味しい時間だ。だから、ナイトキャップとして最適ではある。ではあるが、ザンネンながら甘い言葉は一切ない。だんだん覚醒してくるのだ。(笑)ともあれ、やめられない。コロナ後の食と農 腸活・菜園・有機給食 [ 吉田太郎 ]1970年代の我が国のゴミ捨て事情、関西地方、どうだったか。ごみと日本人 [ 稲村 光郎 ]ほぼこの本に網羅されているが、70年代中盤に北欧では、すでに、徹底した分別収集が行われていた。老いも若きも男女問わず、要するに誰もが、その方法を熟知していて、かつ、徹底していた。なるほど、と思っていた。あたしは、教えてもらった。26年前に阪神大震災が起こって、罹災する。当時40代。いつかは、田舎暮らしが希望、、はこの震災が遠因となっている。災害を学んだわけだ。で、26年後、田舎に住んでいる。畑もしている。震災当時すでに、味噌や梅干しなどは、手作りで、ああそういえば、マヨネーズも自分ちのだったなあ、。若くて元気な分、出来るだけ自分で作れるものは自分で、と街だけどしていた。。ここへ来て、(ここへのココは、場所じゃなく状況)コロナ禍である。政府は、オリンピックで頭が一杯だ。(笑)かじ取りは、おいぼれ爺さんばっかりだ。sigh!しかし、次の世代、誰もいないというわけではない。やはり、どのような世界でも、次は確かに存在する。人生の第4コーナーをこのような状況で迎えるとは、。(思いもしない)今日、そして明日は一日、静かに考えよう。次の世代が確かな歩みをして行けるよう、少しでもお役に立たねば、。。
2021年01月16日
コメント(0)
日めくりを毎日繰っているような9月28日以来の時間。ようやく、先月末にお別れから3か月経過。歩みはのろいが、ちゃんと遠ざかる。このお正月に、娘に頼んで、犬の写真を探してもらった。小さいときのが多いけれど彼の素晴らしさがどのショットからも伝わる。以前、イケアで安かったフォトフレーム、数年も使わなかったので、今日、まとめて飾れるようにした。実は、、まだ、スロープや、カート、ケージはそのまま置いてある。なかなか、お片付けには手が出ない。ま、これで、一つ、階段を上った。愛犬のいる生活、でなくて、愛犬のいた、生活である。
2021年01月06日
コメント(0)
西瓜とゲートル -オノレを失った男とオノレをつらぬいた女ー [ 桑原茂夫 ]戦争から帰って来たオトコは皆、「ココロココニアラズ」症候群であると、当時子供であった著者は言う。読者のあたしは、戦争を知らないが、父は復員してきている。母の男兄弟は2名戦死し、戦争に行かなかった男兄弟1名は自殺している。この本を読んで、ようやく、腑に落ちることが多かった。第二次世界大戦の勃発から敗戦、戦後すぐの昭和21年からの東京の下町の息遣いが生き生きと描写されている。読み進みながら、父の復員のことを思わずにはおられなかった。彼は生家大阪西野田に帰ったのだが、一家は北海道に移住した(疎開した?)あと、。追いかけて父も北に向かうが、合流後、肌が合わずか、すぐ単身で大阪に帰っている。以来、北海道とは音信不通。6-7年して、音信再開、父の兄弟で、一番年下の叔父が、父を頼り、大阪に来る。父の友人のまさんのところに就職、数年後、個人営業の商いを起業。この時代、北海道の祖母が来たり交流はあったが、こちらが北海道に出向く事は無かった。さてあたしが、大学進学し、そこの研究室で旅行をしようという事になりこの、北海道の地を目的とした。稚内である。半世紀前になるが、研究室の学生が10人ばかし、稚内でキャンプをするのだ。その時に、もう一人の叔父の住む、荒野の一軒家を訪ねている。ただただ広い野原が印象に残る。お隣まで電気は来ているが、彼はランプの生活であった。シャクヤクの根が婦人病に良い漢方と言うので、それを栽培しようとしていた。(場面は変わり)さて、今年の3月に、そのランプの叔父が亡くなり、相続が発生したと、一番下の叔父から連絡が入った。ついては、姪のあたしにもその権利があるとの事で(叔父が独身であったため)司法書士とのやり取りが始まる。ただただ広い荒野も残している。亡くなるまで、ランプ生活であった。らしい。もう一度、そこに行ってみたいと思い、お盆のころに家族旅行を計画。実現はしたが、台風と同行だったし、コロナ禍で大変ではあった。けれども、あたしは嬉しかった。世の中が、大変な時に叔父と、子孫一同とともに、ゆかりの北海道の土地を見に行くことが出来た。周りの善意と、自分自身の健康に本当に感謝している。すでに、その一番下の叔父に委任状を出す用意が出来ている。姪のあたしにも権利がある、という事は、、8人兄弟姉妹であった父であるから、おそらく多くの相続人がおいでになるだろう。手続きは大変である。どなたがその荒野を受け継ぐにせよ、来年は大変だろう。。また、従妹にも、初対面。牧場経営の由。嬉しかった。こちらに帰ってからも旅の余韻は残り、満たされている。犬は、高齢のためダメだった。一緒に旅に付き合い、ちゃんと務めを果たし、あたしの腕の中で9月末に静かに息を引き取る。16年と5か月。これとて、感謝である。2020年は、明けてすぐ東京に行った後、世間はコロナ禍で翻弄されてはいたが、あたしには、また別の意味で特別な年となった。そんな一年が、今日で終わる。ジェットコースターに乗ってるような日常であるが故に、本は沢山読んだ。(笑)今年の一番印象に残った本は、。。↓です。スマート・ジャパンへの提言 日本は限界費用ゼロ社会へ備えよ [ ジェレミー・リフキン ]
2020年12月31日
コメント(0)
あたしが就職した20代前半、そこは商社であったが毎月の全社員対象の営業報告会があって、(小さい会社であるから100人程度?)営業係長が、前年対比〇%増加、前月対比〇%増加、(売上)と、毎月レポートしていた。もちろん、聞くだけである。思ったことは、、そんなに増えて行って大丈夫?(無限に続くわけはない)と。しらけていた。1年数か月後には退社して、(男女で給料が違ったこともあるけど)留学する。その昔。。さて、「音楽の危機」以下引用:137-138P右肩上がりの時間の呪縛を脱する「右肩上がりに盛り上がる時間の呪縛から以下に脱するか」という問いが、コロナ以前からすでに、全人類の喫緊の課題であったことについてはいうまでもあるまい。石油が永遠ににあるわけではなく、GDPが永遠に増え続けるわけがなく、人間の能力が無限に向上していくわけでもないことは、長らくいろいろな人によって語られてきた。にもかかわらず、人々が「右肩上がり」の夢をいまだに捨てられないとするなら、その理由の一つは、ふだんから聴いている音楽にあるのではないかと、誇張抜きで思うことがある。もちろん、音楽の代わりに映画や、スポーツであってもいい。わたしが問題としたいのは、「ただの娯楽だ」と思って消費しているものからの、無意識の刷り込みである。とりわけ、「君はヒーローだ」とか「明日は明るい」とか、「愛は永遠だ」といったメッセージには気をつけたほうがいい。これらの標語は右肩上がりの時間表象と大なり小なり結託しがちだからだ。(中略)ましてベートーヴェンの≪第九≫のように、右肩上がりの時間を絶対的な説得力でもって現前させる音楽作品があっては、いつまでたっても永遠に近代の重力圏から脱せないのではないかという気がしてくる。 引用ここまで。音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日 (中公新書 2606) [ 岡田 暁生 ]ぐいぐい引き込まれて読み進んでいる。読んで良かった。
2020年12月18日
コメント(0)
まさんと久しぶりにバッタリ、スーパーで、出会った。彼女とは、こちらに来て最初のライブを山南町のカフェでした。その前に、いくつか演劇でお世話になった。当時新婚さんだった。もう娘が5歳になります。とのこと。あらそれはそれは。。アメリカに行ってたんです。夫の仕事で。。4年間。あらそれはそれは、。時が、。。彼女曰く。ブログ、見てますよ!あら、それはそれは・・。と、驚く事ばかり。お若い方は、本当に5年ほどだと全く変わらない。あたしだって、彼女の年齢の時はきっとそうだったのだろう。。(笑)お久しぶりに出会えて、良かった!フルート独奏の時の細いウエストが印象深い・・。さてと、今日はあたしは歌う。かさんと2重唱。ホイ!過日の夕食の写真は、なんとステーキ、一人100gと小ぶり。ウチはミディアムレア、と相場は決まっている。もちろん、マークダウン、で半額だった。それでも、予算はちとオーバー、であったので、大盤振る舞い、としておこう。水菜のサラダ、味噌汁を添える。
2020年12月12日
コメント(0)
GOD JUL!(デンマーク語でメリークリスマス!)と、大きな白い文字で、真っ赤な円形のシールに書かれているのをコペンハーゲンの街ゆく人々は皆、胸の所に貼っていたっけ。。シールは、ハート形だったかも。まるで、制服のようにカーキ色の国民服?というのだろうか、、同じロングコートだった。男性も女性も。あたしは、この国の人たちも、戦争で大変なご苦労をされたのだろうな、と思った。50年前である。クリスマスシーズンは、年が明けてもまだ続いていた。凍る戸外、あまり雪は深くなかったが寒かった。この、西瓜とゲートルは、戦時中のそれも、昭和20年の4月、5月ころに書かれた著者の母の日記風のメモを読み解いて、微に入り細に渡り、戦争、というものが一般庶民にどんな影響があったかを一冊の本にまとめようと、されている。もっと、ホットな、ジェンダー論かと思って図書館から引いたが、のめりこんで、鋭意読書中。著者は18年生まれ、あたしより、5つ年上。あたしは、戦後生まれで、戦争を知らない世代ではあるが、香り、くらいは、という程度なので、そうか、そういう事情か、、と、知識に上書きが出来るので有難く思っている。西瓜とゲートル -オノレを失った男とオノレをつらぬいた女ー [ 桑原茂夫 ]
2020年12月04日
コメント(0)
今年の暖冬のお勉強。昨日、19日は、ボジョレーヌーボーの日。だったっけ?もう霞みかけてはいるが1989年のこの日、未知の仕事、実店舗の開業の日だった。婦人服雑貨を取り扱うのである。インテリアデザインが本業で、屋上屋の仕事だ。仕入れ資金が全くなく、弟の伝手で、さる商社系メーカーさんを紹介してもらい、そちらの商品を置くことになった。つまり、借りるわけだ。売れたら代金を支払う、との約束。忘れもしない、担当の営業マンは、ウチの店の前に陣取り、一日様子を観察していた。小さくとも、店にパラパラとぶら下げるわけにはいかぬ。個展じゃないのだから。品揃え充実感が必要。この開店初日の売り上げ、実はすごく大事、だそうだ。忘れもしない、11万円を超えたと思う。営業マンは嬉しそうだった。あたしは、その時は、ブティックには全く素人であったので、その笑顔の意味は分からなかった。ただ、自分なりの計算で、一日の売り上げ2万8千円は欲しいとは思っていたが、。。もう、30年も過ぎたのだ。。。
2020年11月20日
コメント(0)
キッチンの設計の仕事が入ったと、連絡が来たのは、1980年代の初めだ。谷町9丁目で住み、インテリアの仕事をしている方(女性、あたしより少し年下)が伝手を通し、お声かけ下さった。しさん、だったか。。建築士や、デザイナーなど女性ばかりで企業さんの要請に応じる。そのオフィスで出会った、むさんと意気投合し、コンサル・ユニットを立ち上げ、多くのキッチン関連の商品開発をした。これが、日本での仕事の道筋を作ってくれた。むさんはあたしより8つ、上。すでに40年の歳月が流れた。むさんは頭脳明晰、キッチン関連にはド素人のあたしを仕込んでくださった。あたしは途中でブティック開業、住宅関連の仕事の上乗せとして。それが1989年のことである。でこの、ざっくり10年間の間の中で、住まい方調査の仕事を請けて走り回っていた時期があった。鵜飼いの鵜のように、指示されて、まとめて、提出。を繰り返す。データが、その会社の次の商品開発に役立つ、あるいは、販売している商品の改良につながる、あるいは、クレームに対しての検証、いろいろだったと思う。調査の中には、対象となる台所の写真や図面が必要なものもあり、しっかり、お礼が出る。ただ、対象を特定するのも仕事の内であったので苦労した。なかなか、お宅のキッチン見せて下さい。とお願いして、すんなり、返す言葉でいいですよ。とは、ならないからである。候補に挙がる対象者リストを貰って、電話でお願いし、承諾、時間の調整、これで、日がな一日デスクの前で電話にかじりつく、という事だ。当時、豊田商事の事件などがあって、電話で勧誘?みたいなモードになるとガチャ!と切られてしまう事も多かった。もちろん、2020年の今でもあたしは、ガチャ!としている。(笑)電話を受けるのは家事の最終責任者である主婦だ。40年前はまだ専業主婦という名前の女性は多かったのだ。整理整頓しているとかそういう事は関係がないのであるが、見せろと言われていいですよととにかく友好的な方はそれでも少数派である。(と思う)この段階で、ある程度意識をして片付けている、あるいは自分はちゃんと家事を回していると自覚している主婦が残る。当方の台所研究では、すでに、日本の台所、モノが溢れている状況を把握済みであるので主婦たちが、片付いていない台所について落ち込むことはもともと必要のない感情ではあった。標準的な持ち物調査と平均的なキッチンの設備広さは、もとより、相容れない。溢れて当然、の状態である。(何も、ゴミ屋敷予備軍のチェックに回るわけじゃ無し、)気にしないでいいです。(混乱について)特別の事をして下さらなくていいです。じゃあ、。とお約束し、お伺いする。溢れて当然の住宅事情なのでこちらも覚悟はしていく。何百というキッチンを見せていただいて本当に勉強させてもらった。それを仕事に出来たという事、有難かった。だから、というわけではないが、合わせて、じぶんちのキッチンは、自分の家事の回し方はとやはり考える。足の踏み場のない程の混乱キッチンから、とにかく、水と火(熱源)と食材、食器などをやりくりして、毎日の料理を生み出す台所。各人各様のやり方、そして、住宅全体とのかかわり、等々。プロットしていくと、俯瞰できる。ああ、こんな風にすればいいな、これは参考になるな、すごいキレイ、尊敬だな、というキッチンは、あたしの場合は、対象100に対し1件あるかないか。であった。そのピン、の台所を当面の目標にし、今現在のネット情報(記事などにありますね・・)とかも参考にさせて頂いて、作業しやすい台所とは何か、と、問い続けている。40年経過し、老夫婦2名の食事を毎日作るにあたり、レシピももちろん大事だが、その作業がスムースに運ぶように与えられた環境で四苦八苦。膨大な台所関連の知識をやはりある程度は取り込み、実現したいものだ。せっかく、仕事として与えられ、それを生業として来た自分なのだからと、気持ちを引き締める今日この頃である。なーんちゃって♪
2020年11月08日
コメント(0)
昨日、書いた文章は、60年前のことであった。少し時間がこちらに来て、50年前。(笑)北区中之島に国連協会の事務所があって、確か、それは、、フェスティバルホールの近くのビルの3階か、4階、であったと思う。部屋は、3個くらいで、その中の事務室。その一。あたしは、学生で、アルバイト。住所書き。使い走り。もあったか。。とにかく一番若い。(学生だもの)住所書きのアルバイトは、実はベテランだった。叔父の一人が歯医者であったので、患者さんに年賀状を毎年書くのである。その数、600枚ほど。小学校6年から。一枚2円が、アルバイト料。当時、お年玉が200円であったことを思えば、何らかの親戚の配慮?があったのだろう。公務員であった父のお知り合いが、国連協会に天下ったのではないか?そのつてで、たのんますわ。ほなお願いしますわ。みたいな流れであったのだろうと、今になって簡単に想像がつくけれど、なぜあたしが、国連協会のアルバイト?と、思ったけれど月に1000円の授業料、月に2000円のバス代(大学が山の上にありバスで通学)だけで、美術の勉強は無理。経済的にひっ迫、、(と書いて、自分で苦笑するが、ひっ迫は、人生を通じてずっとであったなあと、。(笑))いやいや、恵まれていたのだ。世の中を知らなさ過ぎ。いやいや、今もありがたい暮らし。なんとか、というレベルではあるが。。ま、それはそれとして、国連協会のアルバイト。使用済み切手を集める活動の一環として、大阪市内のすべての小学校にそのお願いと回収をする、と言うのがあった。池田市に住む学生が、だから、大阪市内の区の住所、熟知する事になる。みてじま、はなてん、つくだじま、ながよしながはら、あいじつ、などなどなど、、。(漢字で書くのですけどね)区と、学校名、リストに従いひたすら書くのである。今なら、自動でプリントアウト、なんだね。。50年前だからして。このアルバイトの思い出、ビッグスリー。(笑)◇その父のお知り合いのもさんが、毎朝、ヤクルト、を飲まれる。(笑)(半世紀後の今、夫が飲んでいる)◇フェスティバルホールと朝日新聞社のビルの谷間に、地下街があって、その通路が、白いタイル張りで、美しかった。何にもない通路だけなのだが、真っ白で、目地がグレー。パースペクティブに見とれた。ウエストサイドストーリーの映画のダンスのシーンを音楽を、思い起こした。高島屋ハイストア、と言ったと思うが、名称は定かでないが出店、のようなショッピングコーナーがあって、ウインドウショッピング、楽しかった。実はここで、買い物をしている。当時の若い娘さんにはまことに不似合いな、、陶器。グラタン皿。(笑)アルバイト代を貰ったからか、その安さに飛びついたか、その両方か、もう忘れたが楕円のではなく、円筒形の深さ5センチくらいの紺の模様が付いた耐熱陶器。100円だったと思う。(しばらくして加筆、80円だったかな?・笑)(ここまで書いて、感じ入る。自分らしい、このらしさ、?は本当に変わらないのだと・笑)今も、現品限り!には、反応する。そして、なんとそれは、50年後もちゃんと持っているのだ!◇その国連協会に一度、富田林のある宗教の一番偉い方がお見えになったことがあった。あたしは、ご挨拶というか、、まあ、ぴょこんと前で頭は下げたと思う。お話したか、しなかったか、もう、覚えていないが、覚えていることがある。それは、その方の(男性)指にあった、リングの、、石。サファイアのでっかいのがそこにあった。。。一つじゃない、?もうサラサラと場面が霞んではいるので、確かなことは言えないが、他の色の石もあったのではないか。。頂いたものです。と言っておられたと思う。肥後橋には、西梅田から地下鉄で通った。週に一度くらいか。。学生アルバイトとして。もうすでに、阪急3番街、8番街、とか出来ていたのではないだろうか・・。今朝はこの辺で。
2020年11月05日
コメント(0)
【第(2)類医薬品】【ダンヘルスケア】ダン鼻炎錠 10錠 ☆☆※お取り寄せになる場合もございます【RCP】【02P03Dec16】ダン、そして、登録商標のRを〇で囲んである小さな文字がついて。当時、この〇アール、があったかは分からない。今から、60年以上前、大阪市北区曽根崎のある場所のビルの屋上にでっかい「ダン」というこのロゴタイプのネオンサインがあった。もちろん、風邪薬としての商品名だ。上の商品を、ロゴだけのためにご登場願った。(笑)(この、商品の鼻炎錠、という字の左側に小さく、ダン、とありますよね。それです。)長生きのロゴデザインである。やはり、パワーがあるのだろう。語感も、強いし。〇アールは、ネオンの後かもしれない。このネオンサインを覚えており、思い出の一つとして書き出す。母の生家が北区堂島で、通った小学校が曽根崎小学校。大手前女学校の校門の前で、お友達と人力車に乗った母の写真を見たことがあるがおそらく、もう、その写真は無いだろう。その母はなんと、豹の毛皮のコートを着ている!だれだれが嫁に行き、子が出来てその子がどこに嫁に行き、して、親戚が増えていき、あたしは堂島で生まれ育ったわけじゃなく、池田市で生まれている。遠縁ファミリーの一つに、大阪市北区に居を構える家族があった。小さいときは、その北区の親戚に泊まりに行く。たしか、小学校の4年生か5年生くらいからだと思う。その家は、戸建てではなく、ビルの3階か4階、5階、くらいまでを住居としていた。池田の田んぼに囲まれた平屋と違い、狭い階段があった。そこのおばあちゃん、(ごりょんさん、と言ったと思う)のお部屋(階)には、ちゃんと、日本舞踊の稽古のためのちょっとした舞台があった。使用人の方々も居たと思う。その家のトイレは、水洗トイレ。そして、和式でなく、洋式だった。色のついたタイルが天井まで貼ってある。空間が長細く、一番奥に便器がある。ハイカラ(古っ!)なインテリアだ。このトイレの便器の後ろ側に小さな窓があり、そこから、この、ダン、と大書したネオンサインが見えたのである。白になったり、赤になったり、したと思う。飽かず眺めたか、、は覚えていないが、印象に残っている。そのネオン広告はビルの屋上だった。少し見上げていたので、自分のいる高さよりは高かったのではないか。阪急梅田駅の正面から、地下に降りて、向かい側まで行き、そこから、地上に出て少し歩く。と言った距離だった。当時はまだ、あの歩道橋は出来ていなかったのではないか。。などと、。実は、このところ、大阪都構想の住民投票のニュースで盛り上がっていたので、自分と、大阪市の思い出に浸っている。今、大阪に出かけても、全く違う街のように感じる。そりゃあそうさ、長い時間が過ぎたんだもの・・。隣の県の山奥に今はいるけれど、大阪と言う街の思い出はあたしに取り、抱きしめていたいことの一つである。
2020年11月04日
コメント(0)
秋の気配が深まって来る、情緒深い季節になってきました。ぼちさま、いかがお過ごしでしょうか。先日は、お手紙等、また漢方のよいお店などご紹介いただき本当にありがたく思いました。チャーリーちゃんが亡くなられて一か月になりますが、まだまだ寂しいお気持ちがあるかと思います。以下、チャーリーのカルテ参照しつつ、初診が2009年9月、(つまり田舎暮らし開始後すぐ)腰痛の診察で初めてお出会いして以来の、経過を書いてくださり、その他大きな病気もせず、今年に入り6月に脾臓の腫瘍が見つかり、よく頑張って、北海道旅行も家族と一緒に行くことが出来、(ああ、本当に大ごとだったわい!!)リンパ球療法もしながらでしたが、彼の生命力、に驚嘆しつつ、、16歳4か月の天命を全うできたと思う、と。飼い主としての在り方にも言及があり、よくお世話出来ましたとお褒め頂き、どうか、これからもお元気でと。。有難いお言葉。先生、本当にお世話になりました。犬の看病、とくにターミナルケアは、辛いものがありますが、伴走して見守ってくださったおかげで、何とか乗り越えられることが出来、感謝です。などと、しんみりしました。今日は来客で、朝から片付けに余念がない。
2020年11月02日
コメント(0)
犬が死んで、ようやくひと月が経過。昨夜も何度目かの犬との夢を見る。夢の中では、彼は若いし、活発。16年4か月の長い間、一緒に暮らしたのだから、無理はない。あさんのお悔やみの品、お線香(と言ってもアロマ系で良い香り)を折に触れて炊いてます。会社も今期で16期。そうか、同い年か。。阪神大震災後、PTSDの一種なんだろうが、埃が気になり、掃除をしまくり時間を過ごした時期があった。その時のことを思い出すほど、周りの埃が気になって、一つの家事をする過程で、先にその埃を何とかしないと、という気になりうだうだと家の中を動いている。しかし、その、掃除行為は後でしよう、と思うよりはその時に身体が動くように自然に動かす方が心には、おそらく良いのだと思って、作業をしている。少しづつ、チャーリーの痕跡が消えていく。それでよい。片付けをしていく中で、犬関係のモノが多い事に気がついて、それらを、まだそのままにしてあるケージや、カートの周りに集めてそのケージや、カートは通り土間に置いたまま。これらは、しばらくは、そのままだろう。モノをそこに集める事くらいしか、気持ちが動かない。実は、、全く涙が出ないのだ。悲しい事は悲しいのだが・・。何度か、温泉に行き、(近く)何度かロングドライブに行き、何度か都会に行き、何度かライブに参加し、としているうちに時間が経って、また、空中の悲しみも降りてきて、沈んでいくのだろう。今回の犬の死は、自分と犬との生活というライフスタイルを卒業することでもある。顧みれば、ムク(雑種)から、ちびくろ、クリ、いち、に、さん、(3匹同時)レオ、アンディー、ビリー、そして、チャーリーと、犬たちが傍にいた。犬がいない時期もあり、結局はそれが人生の半分近くになるので、なんだ、そういうことか、とは思ったが、最後が濃かったなー。(笑)この、一つの事を外す、ことをこれから、続いてしていくのだろう。更に続いて、何かをあきらめる、という事をしていくのが、生きていくという事なのだろう。喪失、に対してことさらに構える必要はない。と自分に言い聞かせる。第一、そういう風に少しづつでもダウンサイジングをしていかないと、、というよりそれが、暮らしの本質なのだから。ま、そういうこってす。まさに、As time goes by.そして、ぼちぼちです。(笑)今日は、午前中薪ストーブの掃除に業者が来る。周りを片付けておかないとだ。
2020年10月30日
コメント(0)
やめます。と、朝日新聞の記事にあった。宝塚市にいる時は、幾度となくこの光景に遭遇したあたしとしては、懐かしく思い出される。予科生のグループとすれ違ったとき、オツカレサマです!の、お声かけも頂いている。(??)意味不明ではある。鉄橋の上を走る阪急電車に揃って一礼!は、歌劇創業者の小林一三さんに対する、敬礼のようなもの、、と聞いた。稽古場のお掃除にしても徹底していて、仕上げはガムテープ!で、。訓練を受けた予科生は、お嫁さんとしても最高、というわけ。。今になって思うが、ガムテープ、までは行かずともこの、空間管理、は素晴らしいと思います。
2020年09月12日
コメント(0)
犬の力を知っていますか? [ 池田晶子 ]大型犬であったので往診が専らであった。やはり、経済力があると違う。と思った。犬にのめりこむとはこういう事か・・。タイトルだけ覚えており、(読んだけど、昔)、現在あたしが、介護中なので思い起こす。下の本もそう。のめりこみ方が半端でない。しかし、病床日記は無く、現世、来世の境もない書き方だった、。【中古】スピンクの笑顔 /講談社/町田康 (文庫)両方ともお気に入りの作家さんなので、犬好き感性も重なるのかしら・・。と、思っている。
2020年09月05日
コメント(0)
あたしが生まれる前に亡くなっていたことが最近分かった、祖父は、代々和歌山藩に仕える氏族の家系であった。名を雄、と言う。妻は菊子。菊子は加納家から嫁ぐ。8人の子供。雄と菊子夫婦は、北海道に移住する。と、。これが、1940年以降かその辺り。(もう、昔の事なので実名です。悪しからず)ただ、この雄さんは、算数が得意で技師系の仕事であったようだ。亡父から話を聞いていた範囲では、(今回叔父からも聞いた)あの、陸上競技の砲丸投げに使う砲丸、真球で、制作、ってのがなかなか難しい時代に、成し遂げた。という事だけが独り歩きしている。鋳物のエキスパートであるのか、計算でのそれなのか、材料学に長けていたのか、はたまた、仕上げの研磨が上手かったのか、、情報はないので、茫洋としているが・・。真球、、って、どの程度の精度であったのか、それも不明。大阪から北海道へ、。。移住のイキサツとて、私にはわからない。しかし事実は事実。8人の子は長じて後、関西、、をはじめとして、東京や、和歌山やにまた移動しているが、数人は北海道に住み続けていた。(ので、子孫がいるわけ。(今回判明事項))で、今回、叔父の一人が亡くなったのをきっかけに生き残りの関西の叔父と連絡がついて、再会出来て、現地に行こうという事になり、、、。(コロナ禍で何かと騒がしいので、困る・・)道北旅行を計画したという次第。この亡くなった叔父が、あたしが50年前に訪問した時もそうであったが、当時、電気を引いていなかった。隣家、といっても数百メートル離れているが、隣家には電気はすでに来ていた。今回分かった事であるが、亡くなるまで、電気は無しの生活であったという。(何度も言うが、隣家までは電気は来ている・笑)漢方薬の研究をしたり、くらいしか、生活の実相は不明である。要するに、徹底している。いた。のだ。。生涯独身であり、子もいない。だから、姪に当たるあたしにも連絡が来たのであるが・・。変わり者と言われていただろう。人付き合いもそういう事もあり、少なかったであろう。だけどあたしは、おじちゃん、あっぱれだね!と思うのだ。今は、便利な世の中でグーグルの地図で、空から見る事が出来る。そう、今も、、ポツンと一軒家、なのである。
2020年07月26日
コメント(2)
夏に旅の途中で現地集合の叔父とは、電話や手紙で春以来やり取りが続いている。昨日電話を貰い、同行予定の時間割の打ち合わせをしたので、今朝、手紙を書いた。生まれてこの方、全く知らなかった従妹(いとこ)に出会えるらしい。嬉しい事である。以下、叔父にあてた手紙の一部。↓昨日は、お電話ありがとうございました。世間の、予断許さぬ今日この頃、皆様お元気でしょうか。私も、犬がおかげさまで回復途上になって来ているので、ここまで来たからには致し方なく連れ出そうかと思っています。(笑)獣医とは、旅行の事でも相談し、来週火曜にリンパ球点滴し、もう一度、血液を採って旅行前にトライしてみようという事になっております。獣医先生も予想外の回復のようです。ただ、病態は悪い事には変わりありませんが・・。・・中略・・(叔母の一人で故人→)ミおばさんは、私が小学校3年くらいの時に、ピンクの手編みのカーデガンをプレゼントしてもらっています。印象深い出来事があったので、記憶に残っているのです。私は〇〇小学校に通っていたのですが、自宅からは、〇〇川を渡って通学しています。お転婆で、遠回りの橋を渡らず、家のすぐ裏の川に直接行って、工事用の幅が30センチくらいの簡易梯子のようなものを使い、いつも行き来していました。その日の下校時は、(梅雨であったと思うのですが、)川が増水しいつもの梯子がありません。そのまま、川に入り渡り始めました。膝くらいまでの水、と思っていましたがその時はもっと深くなっており、意外な急流と、水量の多いことで川の中ほどで目が回り、転んでしまい、流されかけたのです。自分で起き上がったか、一緒に帰っていた友達が手を引いてくれたか、忘れましたが、(連れはいた)ずぶぬれになって帰宅しました。ガタガタ震えている私に、母が、着せてくれたのが、この、ピンクのカーデガンでした。時が過ぎて、、大学生になって、〇子おばあちゃんが我が家に来てくれた時にその話をしたと思います。50年前にかの地にキャンプに行き、〇子おばあちゃんに会って、写真を撮りました。その写真は、今は未整理のアルバムのどこかにございます。・・後略。昨日は曇り、今日は晴れて夏らしいお天気。
2020年07月18日
コメント(2)
オーレ・トマッセンが、主任教授であった、半世紀前のデンマーク王立アカデミー。70年代初め、あかの牙城、というタイトルを冠した、欧州大陸の北端のコペンハーゲンの大学。この、アカの牙城、とは、日本語であるから、日本人がそう訳していたのだろう。日本女子大からの留学生ひろこが、あたしに説明してくれた。1960年代のカルチェラタンからの大学改革は、燎原の火のように欧州全土に広がってついに、コペンハーゲンまで至る。王立でありながら、改革の波は留まるところを知らず、少しの資料はまだあたしの手元にあるが、留学した当時は、学生自治会がすべての学内のカリキュラムを制覇していた。自治会長は、シリウス、と呼ばれていた男子であった。オーレトマッセンの自宅に、ゼミ生が招待されて、夕食にありついた時、彼は、立派なオーブンから、魚の形をしたパイを自慢げにほうらごらん、みたいにテーブルに運んだ。それからしばらく、助手のイエンス(男性で、乳飲み子のパパでもある)と、パイ談義をデンマーク語でしていた。あたしは、余程、偏った共通の趣味の男性たちなんだと思ったけどすぐにそれが、至極一般的な男性の振る舞いであることを知る。学内保育所、未婚の母に政府から養育費の支給、学生の保母、保父の当たり前のアルバイト、10代の一人暮らし、公務員という職の多い事、市バスの運転手が半数は女性であること、シェアハウスの普及、大学教授の子連れ教室・・。世の中が分断されず、だれもが当たり前に無償労働を(いわゆる名もなき家事?も含む)生活の技術の一部として担い、暮らしを回していってる、。そんな印象だった。日本は30年遅れている。そう当時は思ったものだ。47年経過、。いまだに、イクメン、などとほざくメディア。ああ、と嘆息する朝。(笑)ちなみに、オーレは、授業の時、ビールの木箱をかついで教室に入ってきて、出席を取る代わりにツボルグを配って授業開始!だったなあ!!なぜこんなことを今日は書くか。これを読んでいるので。社会とことば (井上ひさし 発掘エッセイ・セレクション) [ 井上 ひさし ]
2020年07月10日
コメント(0)
ヒグマ・ノートなるものを発見!。この夏、所用により、北海道を訪問するに際し、孫たちのテキスト?として、大量に?購入に至る。半世紀前、・・本当に、、そんな時間が経過したのだ・・。学生時代、兜沼でキャンプして、森を散策。本州とは全く違う植生の、雄大な感じがしたが、、その森で、、小さな祠を発見し、中を除いたら、、ヒグマの頭骨がお祀りしてあった。記憶が定かではないが(笑)後で、人に聞いて、ヒグマの頭骨だと、認識したのだと思う。そういえば、、熊のプーさん、というディズニーの映画。高校生の時に母と観た、最後の映画。珍しく、母が映画を観に行こうとあたしをお出かけに誘った・・。行こうか、と付き合ったが、その時は最後だと思わないで。。夏であったと思うが、秋に、病に伏して、翌春には亡くなったのだもの・・。あの、プーさんは、何熊だったのか、。グリズリーであったのかしらね。専門課程に上がってからのキャンプであったから、母が亡くなってからだな、。頭骨は・・。ふううむ。。
2020年06月30日
コメント(0)
この女の子が、あたし。約70年前の大阪市北区土佐堀の、初代YMCA土佐堀ビルの屋上で。確かこの会館は米国人の設計による文化財的な建物、取り壊されて久しい。入って右側から階段があり、踊り場にキリストの絵が額にあった。ワックスの匂いが印象深い。階段を上り、総主事室があったと思う。もう全くそこは、アメリカ、であった。まだ20代の若者であり、下っ端であった宮崎さんがシッター、撮影者。彼は当時、屋上の小屋?に居候?であったか。。彼はYMCAで、出世し、えらいさんになられたと思う。花壇は、宮崎さんが作っておられたのだろうか。泣き虫のあたしはこの写真で、泣き止んだか。。昨日、読んでいる本の文中で、松田稔さんのお名前が出てきて、(おおブレネリ♪の日本語詞作詞者)すぐ、お顔とそれに連なる思い出が湧いてきて、古いアルバムめくり、写真を探し出した。と言ってもアタマにこの写真を浮かべていたので3分で見つかった。(笑)この頃から、六甲山のキャンプ場で、(YMCAの)毎年キャンプ。キャンプファイアーで歌った歌は、今も口ずさむ事が出来る。くいかいまにまにまにまにまにまにだすきーくいかいほーくいかいかむ(もう一度繰り返す)おにこでぃーもーおちゃりありうんぱーおにこでぃーーもおおーちゃりありうんぱうんぱうんぱ♪・・とか、はんすかれーべーはんすかれーべーはんすかれーべほいふーらふーらふーらふーらふらふらふーらふーらふーらふらふら、、♪どんどん出てくる。(爆笑)まくえこておえーくいたーな♪これは、2本の棒で、地面を叩きながら歌った。この歌は、小学校に上がってからであった。ああ、今は昔。
2020年06月10日
コメント(0)
年子の、ヤンママ一人での子育てには、自動車の免許が必須だ!と決心したのは、あたしが、うんさいの時である。それまでは、排気ガスは環境に良くない、とライセンスを取らなかった。当時、時代はもうすでに自動車免許は一般的な資格となっている。山の上のマンションで、買い物には、どうしても、自動車は必要であった。(あたしが自動車を運転、、というのは、同窓生が皆、驚いたものだ。あなたの主義に反するじゃないかと・・笑)手元不如意につき、急遽、家庭教師を始めて、貯金をし、自動車学校の費用を賄った。当時は、自動車学校は、入学に半年待ち。待っている間、スキーに行って、足を骨折。ギプスで、入学手続きに行く。ベビーカーに下の子を載せて、上の子は無理して歩かせて。(笑)キッズルーム付設のそこに、(経済的にも後がない!)最短で、ライセンスを取るべく、頑張った。なんと、40年ほど前である。最初の車は、ランサーだった。緑色で。練習用にと、安いのを車屋さんが探してくれた。そのメーカーの車は結局、買わなかったんだけど。次は、クイントだった。徹底的に乗るタイプであったので、愛用。次は、、と、すぐ言えるほど種類は少ない。ブログのどこかでおしゃべりしたが、免許を取る前から好きだったのはミニ、である。しかし、クルマのデザインが大幅に健康になり、じゃなくて、変更になりあたしは老いて、(笑)合わなくなった。仕事(住まい方調査)で、関西一円を乗りまくった時期もある。ナビもない時代、後部座席には各市の広げるタイプの地図を束にして、箱に入れ乗せていた。今になり、当時の運転集中が日常生活に役立っていることを実感する。さて、。トランクに花束!さすが、おフランス。ショウルームに行き、即決だったが、(購入)前倒しとは言え、つもりはしていたので、ネットでは検討車種、20以上!ま、このくらいにしといたるわ。(笑)老いさらばえているドライバーであるが、よろしくね。新車ちゃん。
2020年06月04日
コメント(4)
叔父の、2回目の我が家への訪問が叶った。前回は、出前ランチにしたが、今回は、昼から行きます。と言って、午後べったりだった。戦後の、ハイパーインフレの前後のこと、父の復員の事、一家で農業を始めたこと、長兄(長男)の振る舞い、長女の消息、、。8人のうち7人の叔父叔母、皆、鬼籍である。今の末っ子の叔父以外は・・。でも、話していると、亡き父の顔を思い出し、泣きはしないが、感情が首の所まで上がって来る。とにかく、変わった家族だった。との、叔父の弁。仲良し兄弟一家の総勢何十人かの集まりです!とか、時々聞くが、あたしのファミリーは、そうでなかったようだ。だとしても、それが何か?の心境である。良い関係が築けるか、そうでないかは、各人の人間性にもよるのだろうが、。何より、キーパーソンの存在が大切であろうが、そういう立場の人がいなかったからかも。時代に翻弄されてやむを得ず事が進んだのかも、。とか思う。あたしが、せがんで、どんな事があったの?と聞いたので、叔父は重い口を開きいろいろ、教えてくれた。なんせ、30年以上出会ってなかったのだ。叔父叔母の子供さん、つまり従弟たちには、それこそ、生まれたときから出会ってない。(笑)だから事件です!なのである。あたしにとっては・・。そのあたしだって、充分老いてしまった。息災で、生き残り?の叔父に再会できたことを感謝している。せめて、これから残り少ない日々をちゃんと、お付き合いしたいものだ。また、次回、、と、約束できたことも良かった。今日のこの日を楽しみにしていた。日が暮れる。
2020年05月27日
コメント(0)
ちょいとお待ちよ車屋さん♪これは、美空ひばりの歌だが、作曲者は米山正夫。曲だけ聞くと、邦楽畑の古い歌をアレンジしたのかしら、という感じを持っていたので、今朝、歌詞を眺めて、そして、作曲者の事、ネットでウロウロしてみた。森の水車♪これも彼の作曲。知らなかった。(当然?)1942年に発表され、4日で発禁になったそうだ。嫌な時代ですね。怖い時代ですね。辛い時代ですね。。といくらでも他人事のように書くことはできるが、もちろん、あたしの生まれる前なので、いかんともしがたいけれども・・。最近は、、こういう発禁とかのことばを聞くと、身が引き締まる。さて、。森の水車、いい曲です。へえ、と思って、ネットに書いてあるところを進むと、。山小屋の灯♪、これも。そして、これも、1942年、未発売。。なんと!次いで、、リンゴ追分♪、鼻が作動中、じゃなくて、花笠道中♪霧よ雲よ峰よ♪ すぐ思い出せるメロディー。時代は下って・・花は遅かった♪、これも!!すごいね。。その直前、兄妹の星♪365歩のマーチ♪驚くなかれ、、おんなの朝♪(印象深い事、あたしが就職した会社の直属上司の係長の愛唱歌・笑)ヤン坊マー坊の歌♪これも、彼の作曲!!旋律が明るく、素直で覚えやすいし、美しい。ああ、クルマやさんが、昨夜ウチに来たのでこんな事になっちゃった。(爆笑)
2020年05月23日
コメント(0)
メンバー募集です。と、助手のイエンスが言った。へえ、こういうプロジェクトもアリか・・。と、驚いたので覚えている。時は1973年、半世紀前のコペンハーゲンのロイヤルアカデミーの都市計画クラスでだ。日本人は、あたしの他にもう一人女性と男性、計3名。女性は同い年のひろこさんと、東京の大学のデザインの先生、田中さんとだった。田中先生は、ご家族で、こちらに来られていた。授業のあとで、いろんな連絡事項があってその一つにフィアット社からの依頼でクルマのインテリアを提案して欲しい、ってのがあるんです。という事だった。クラスの中から誰かが手を上げたか?どうかは記憶にない。自動車の内部のデザインなど、全く出来ないだろう。椅子一つのデザインで四苦八苦しているというのに。。と、あたしは思ったものである。見学くらいはするべきであったか。。このアカデミーは王立で授業料は無料だったが、(一応、審査には合格したので)生活費は自分で、という前提の留学であったので、コペンハーゲン市内、郊外の関係するインテリア事務所をばガツガツと探索し、結局、学校のすぐ近くのヘレクリントのところで、お世話になった。(台所関連の小物のデザインでは、アクトンビョンのところにも行ったし、テキスタイルでは、マリメッコの支店にも作品を見せに行き、断られたり、、学生たちが手作りでニュハウンの半地下に事務所を立ち上げて、そこを冷やかしに行ったり、、)ああ、もう半世紀前の事だ。だからかどうか、もともとの性格か、、どこまでも、その性能より、見たもののかたち、その背景、などが気になるのである。夫は、違いが分からない。と言う。あたしは中身は全く違いが分からないけど、見た目には拘りの強い、妻なのだ。今日は、相当期間、悩んでいた今度の自家用車について、研究を始めたところ。事情があり、前倒しとなる。
2020年05月15日
コメント(0)
その昔。まだ、夫の家族の様子がよく分からず、(お互いさま)表面上は笑い声が家の中に満ちていたある時代。(笑)いつの頃かと言えば、それは、あたしの子供たちが幼児のころ。夫の実家は東京の郊外。サテライトシチー。関西からあたしたち核家族が夫の実家に帰省時。「長男の嫁」と言う肩書だけじゃなく、よそ者、としてのあたしは、その日はあたしだけであった。(義父、義母、義妹たちと、甥、姪、総勢11名)全員地元。突然、ぼちさん、今夜のお食事の買い物に行って来て頂戴。もう、40年以上前なので、記憶は完全に「あたしの劇場」と化している。。(笑)(この数年後、同じ場所である事件があり、あたしは離婚を決意する。(笑)結婚7年目だ。でもしなかった。だから今、これを書いている。)さて、突然の要請である、買い物。今夜のおかず、ハンバーグにすることになった。門口の自転車も乗ったことがない代物で、市場とて、行ったことがない。ここを出て、こういう風に行って、こうしてああして、、と道を教えてもらう。ハンバーグと言えばミンチ肉。義母のがま口から、お金が、、。これで、ミンチを買って下さいな。200グラムもあれば、足りるでしょう。当時主婦歴5年に満たぬ、2人の幼児のヤンママであるあたしでも、12人前のハンバーグ、ミンチ200gじゃあ、ちょいと、足りないんじゃない??と、すぐ思ったが、義母の財布からは、ミンチ200g程度の金子しか、出なかった・・。今でも、この財布の中から出たお金のシーン、しっかり覚えている。他の材料のチェックを控えめにして、ああ、そうだった、その時お手伝いさんがいたから、13名だ。〇子さんと言ったっけ、、即時にあたしは、〇子さんにシンパシーを感じたのである。かねてより、、義母と義妹たちはひそひそと、〇こさんについて、おしゃべりが多かった。。200gで13人を分けてハンバーグにすると、ミートボール大のが1個づつくらいじゃん!言わなんだが、アタマはそういう風に回転した。自転車こぎながら思ったことだ。もちろん、あたしの財布は持って行った。一定量のお金があたしの財布から出たが、ああら、早かったわねー、とは言われたが、して、お金は足りた?のひとこともない。何グラム買って帰ったかは忘れたが、夕食には、ちゃんと、一人前の大きさのが2個づつ、並んだ。(ちなみに、、幾度となく、関西から一家で帰省したが、一度も、交通費は義母から話、じゃなくて、は無し。これは、若い核家族にはしんどい事だった。。当然、足が遠のいた。余計な愚痴。)こういう、疎外感は、一生忘れないものだ。と同時に、恨んだ。しかし、恨みは時と共に変質する。感謝には変わらないが、減じることは確かだ。恨みは減るし、色合いも変わる。あたしの場合。何も祭り上げておべんちゃらを言って欲しいと言ってるのではない。買い物に行ってと頼まれても構わぬ。輪の中に入れず、あたしを除いた全員が輪になり、笑い声が充満している。これが本当に辛いことだった。夫は気がつかない。こんな人だったか・・。と思った次第である。あかんで。落胆は、このところ、続いている。昨日、ある県知事が、首相のスピーチ(未満だけど)に反応して、軍資金も無ければ兵糧もない、と言ったそうだ。本当に、感覚の違い、だけで、済まされるのだろうか。。大丈夫だろうか。。個人的な疎外感は40年前は1人が感じ、11人が鈍感であった。今現在は一億人が感じて、一人が鈍感なんである。
2020年05月05日
コメント(2)
その昔、システムキッチンという高級?な台所の設備(流し台を中心とする一連の調理関連のもの)を、国内各社が発売し始めたころ、商品開発に関連して、多くの仕事をした。一つの柱は、調査、であった。一体、どのくらいのモノがあって、どんな風に人がその中で動いて、料理をしているか、というような、。だいどこの設計であるので、鍋カマ、箸類、調理用具、食器類に至るまでお宅には、どんだけモノがありますか?というわけで。。幾度かのまとまった調査の末、判明したことは、収納のキャパに対して、モノが多すぎる、という単純なことだった。平均、2550(ミリ)の流し付き調理台と冷蔵庫(700ミリ)ざっくりこれで、設計上3600(ミリ)-2間ーの長さに収まる。日本の主婦は、片付けが出来ないのではなく、モノが多すぎて片付けられない、、つまり収納装置が絶対的に不足している。と言う結果であった。例えば、炊飯器。これを、調理台の上に置くと350ミリ角の専有置き場所が調理台の上に生じてしまい、全き調理台、としての働きをすると期待されているその調理台が、物置場所になっていますね。みたいなこと。コンロにしても、この600ミリの幅のモノが壁際に設置され、3口、あるいは4口のデラックスなコンロがあったとしても壁際にピッタリ設置されてプランすることが当時は多々あったが、壁際の方のコンロは、中華鍋やフライパン、が置けない。つまり調理行為が出来ない。という悲惨なことになる。コンロセンターは鍋のセンターと同じでないとダメだからである。つまり、コンロの前に人が立って鍋を使用して、調理をしようと思えば、上から見て人の立ち位置の中心とコンロの中心と、鍋の中心とが直角直線で結ばれなければならず、そうなると、必然的にコンロは壁際に設置されてはならず、壁から少なくとも150ミリは逃げないといけない。それでも人の幅(550ミリ)を考えるとギリギリなんだけど、。従いまして、2550-150は2400となり、流し台スペースが平均800ミリとすると、コンロ600ミリで、残る調理台スペースは、1000ミリとなり、炊飯器を置けば残りは650ミリ、である。・・こういう事を書きたいわけじゃなかった。(笑)義母の施設入居に関して、個室型の特養の様子を調べたことがある。基準法によれば、個室型を擁する施設、の設計基準とかがあって、その廊下、車いすがすれ違えなければならないというわけで2900ミリと言う数字を指針に出していたが、東京都は、2700ミリ、であった。その少なさの根拠を、調べると、地価、と言う言葉が出てきた。ま、たかが200ミリ、少ないという事実をどう捉えるかはともかくとして、新型コロナで、在宅を余儀なくされておられる多くの国民、あたしは、さぞや、お大変であろうと案じる。狭いのだ。かねてより、(と言っても今まで何も論じてはいないが・笑)あたしは、住まいスペースには、平米と言う単位でなく、立米(3次元)単位で考えた方がいいのではないか、と言う立場だ。天上高、も考慮しないとと思っている。居住スペースの国際比較して、日本は結構いけてるんじゃないか、と言う議論が散見されるが、とんでもない。諸外国特に欧米では、ストックヤード、つまり納屋的収納空間は居住スペースには入っていないのではないか。(と思う)ヒトが住んで、その中で動いて、暮らしている場合、作業して、休憩して、入浴排便などと食べることして、寝て、という空間に日本の場合、モノが溢れていてその(いろいろ用途がある)モノたちのスペースがかなりの割合になっているのではないか。と思う。最低限のストレスたまらない広さが確保されていないがために人間関係に影響が生じる。おまけに、家事しない人間が突然今日から家に居ます。となればなおさらである。主婦の困難が始まる。というわけだ。ステイホーム、が前提であれば、ぜひ、男性は、これを機会にお掃除をして欲しい。日頃の料理人、掃除婦、家政婦、乳母、役を一手に引き受けている妻、を改めて褒めてあげて欲しい。もくもくと、トイレ掃除、風呂掃除、サッシの掃除、床掃除、して欲しい。少しは、奥様のご機嫌が改善するのではと思います。その場合、独断は禁物。必ず、家事の最終責任者の指示を仰ぐこと。身体も動かし、家庭内暴力も避けられるし、、良いことづくめ、、などと言うチャラついたコメントはしたくない。この場合は緊急避難、的家事サポートとでも言おうか・・。
2020年04月15日
コメント(6)
最後にお会いしたのは、〇さんの御葬式でしたね。と言い、会話が始まる。〇さん、というのはあたしの父。あたしが39歳の時であったので、当時話相手の叔父は51歳。今年、それぞれ72歳と84歳になる。とすれば、、33年振り!半日程度の不祝儀の空間で一緒であった、というだけで、後は、、白紙である。故あって、再会となった。今日。我が家にお越しくださるのに、少し時間がかかるので、気を使ったが(高齢のため)結局、動いたのは彼の方。会話が進む、どうも、顔色もよく、健康で、すこぶるお元気そう。聞いて驚くなかれ、なんと、毎週50キロ!歩いているそうだ。8キロが4日、10キロが2日。な、週にすると、50キロでしょ?と、ニコッ。それも、目標があり、毎月、山行きがあるというではないか。大阪から、車で出かけ、御岳山、大台ケ原、伊吹山、・・あとは聞かなんだが、。(笑)とにかく、一人で早朝家を出て、登り、下り、そして、帰宅する。というのをしているらしい・・。こちらは、一日9000歩・・。でどや顔しているというのに・・。血圧も、120-30で、安定だと。ふううむ。いいと思うよ。(ウオーキング)(いやいや、真似は出来ませぬ・・と思ったが黙っていた)しかも、60歳から始めた趣味と言うのだ。(それまで、命がけで働いてきたからね、、とのたまうが、納得)お昼は、我が家でみやまのお弁当にした。時節柄である。お仲間と、外国にも。キリマンジャロ、8年前。マチュピチュ、もその頃、ヒマラヤだって、トレッキングで参加。マチュピチュはもう一度行ってみたいところだそう。夫とは、初対面であったが山という共通の話題で盛り上がった。ありがたい。(翌日加筆:父の告別式で会っていたのなら夫もその場所に居たはず・・だから、厳密には初対面ではない)あたしにとり、肉親のしぐさ、言い回しの仕方、本当に癒された。嬉しかった。生きていて、良かったね。と、夫は言う。その通り。再会に感謝である。何より、ハツラツ!の先達である。失礼ながら、お会いするまでご高齢のお爺さんを想像していたので・・。
2020年04月05日
コメント(0)
スマート・ジャパンへの提言 日本は限界費用ゼロ社会へ備えよ [ ジェレミー・リフキン ]この本ありますか?と図書館に行ったが、無いそうで、リクエスト。著者のジェレミー・リフキンは、メルケルのブレーンとして有名な人。やっぱ、今時、これくらいは・・。と思う。
2020年03月21日
コメント(0)
えらいこっちゃ、と思ったけど、2009年にもWHOはパンデミック、と言った。この地に移住した年だ。忙しかったからだろうか。記憶にない。。今回は、この数か月、怖い感じが続いている。この違いはなんだろうか?
2020年03月12日
コメント(0)
台湾海峡一九四九 [ 龍 應台 ]読了。このご本、執筆時、著者は香港大学から肩書と研究室を提供され、頑張りました。と後書きにある。文章どこまでも具体的、詳細的、率直的で、爽やか。ジャーナリストの一つのお手本、と思った。(著者はジャーナリスト、という肩書ではないが)あたしより、5歳年下。中身の史実について、知らなんだ、、というのは私だけではない。中国の方も、(中国では発禁、なので、外国に出て購入の由)台湾の方も、そのほかの国の方も、知らなかった、、書いてくださりありがとう!のお手紙が世界中からどっさり届いているらしい。。しばらく、眠れなかった。あ、タイトルの香港大学であるが、あたしが、香港に行ったときに、方々に聞いて回り、(って、その土地の人であるが)大学の中に美術館があるという事で、その展示物、中国刺繍の宝庫である、と聞いたものだから、いそいそ出かけ、大いに感動、満喫した思い出があるもので、。。昨年来からの騒動で、今はどうなっているか。。
2020年02月12日
コメント(0)
台湾海峡一九四九 [ 龍 應台 ]昨日は、寸暇を縫って(笑)半分から三分の二、くらいまで、いよいよ、物語は佳境に入りそう。著者の視点は縦横無尽、高所恐怖症も見られない。高度一万フィートから、手元の燭台に、と思えば海の上、山の傍、街の中、、と、ものすんごく、移動して本人はどもないようである。一方、読者の方は(あたしに限ってかも)知識はない、歴史も知らない、漢字もわからんの無いない尽くし。。本当に疲弊して、そして、無知の知、の感動が上回る。少しの人間性が中に現れると、涙する。死体の山、、が頻出するというのに・・。街のそのひどい状況の中に放り込まれた心地も時にはある。さて、堀田善衛。この名前が突然文中に現れる。上海で。さて、内田樹。堀田善衛の「上海にて」を読んでいる。と、twitterで。あ、先生もこの本からの情報か?(すでに読了、とのこと)あたしは、次回の図書館で読もうと、読書中に決めたところだ。亡き父(中国に戦争に行った。小隊長として、若いころ)の戦争の話は断片的でそれこそ、絹を着せている。読んでいる途中で、思い出した。あたしが10歳に満たないころ、中国大陸の地図を中に、そんで、お父ちゃんは、どこに戦争に行ったん?と聞いた時に、ここへ行ってここへ行って、、と、示してくれたことがあったこと。。それは、大陸の龍の腹の下の方で東西の動きが多かったように覚えている。戦争が終わって、、船に乗り、舞鶴にか、佐世保にか、、帰国であったと思うが、どこに帰ってきたと聞いたのか聞いて忘れているのか、今は定かでない。父は、あたしが39歳の時に病死している。本の中で、日本軍とか、日本兵とか、の単語が頻出するので、亡き父はこの時点でどうであったか、と思いながら読み進める。内田先生のご尊父様も中国におられた由。後書き、チラ見で、しんどそうだが、、やはりこれは、、この本は、覚悟して最後まで読まねば・・。
2020年02月10日
コメント(0)
在籍は数年であったが、呼んでいただいたので、出向く。しかも、幹事さんのお名前とお顔が繋がらないほど!忘れている。主催者の中畑先生はかの、必殺シリーズのお仕事をされていた方。「かわばた」貸し切りである。一度は来たかった。というのが、ジツの動機で。許されよ。(笑)蕪の茶わん蒸しと筍のシンジョウのお吸い物。器が、、すごい。長細い座席になったので、遠いヒトばかりで、両となりしか、ちゃんとお話が出来ない。でも、素敵な方であったので(初対面)楽しかった。我がブログを自己紹介して、あなたのおてての写真を載せます。約束した。(笑)たさん、また、お会いしましょう!お名前のアタマ文字しか書かないのです。悪しからず。次の和え物の皿は、いいんだけど、料理とは合わないと思う。だけど、本当に食器がすごい。八寸と天ぷら。サツマイモの天ぷらが、美味しくて、どうやったら??と、思わずお運びさんに聞いたくらいだ。印象に残った。あと、果物、デザート。また来よう!ごちそうさまでした。「かわばた」さん!
2020年02月03日
コメント(4)
内田先生も、師と仰ぐ多田先生から電話が鳴ったと。あたしも、途絶していたはずの電話が鳴り、つくば市の恩師から「ぼちちゃん無事ですか?」お礼を言って、受話器を置いた。すぐ、電話はやはり使えなかった。。。クルマのラジオが頼り。80段の階段を降り、車のエンジンをかけて聴いていた。静寂。そして、土煙、だったか。夫は駅まで行き、また帰ってきた。しかしまた出ていき、それから7日間、帰宅せず。(橋の会社であったので・・)どうやって、宝塚市から大阪市まで行ったのだろうか。今夜聞いてみよう。あの日の朝。夫の行動。地震の日は、夫は、群発地震(12月に能勢方面でガス管が外れたりとかの地震が頻発していた)の一つかも、程度に思って、家を出たらしい。当時の自宅は山の上、阪急の雲雀丘花屋敷まで行ったが、電車が来ない。JRの川西能勢口まで回る。やはり電車はストップ。携帯もスマホもない時代。(すごいね)で、一旦帰宅。在宅時間はそんなに長くなく、非常に大きな地震の様子なので、やはり会社に行くことにして、徒歩で駅まで行き、大阪から来たタクシーを捕まえて(こういうのは敏捷)行こうとすると、3人くらいの人が、乗せて!とたかってきて、いいですよと相乗りになったそうだ。タクシー代はどうしたの、と聞くと、大体で、皆割り勘ぽかった。とのこと。会社に行くと(西区)停電でエレベーターはない。階段でオフィスまで行って、室内のひどさに、ショックを受ける。我が家の方が震度的には大きかったが、作り付けの家具ばかりだし、揺れの方向が家具の配置とちょうど平行であったのとで、ほとんど壊れていないこともあり、見た目はそんなに大きな地震だと感じなかった、のが、会社へ行って後、途方もない規模であったと実感した、らしい。夫の会社が施工した西宮大橋がダメになって、いることもあり、自宅の事を心配するより、仕事優先モードにこの辺から切り替わっている。そんなことを夕食の時に話した。
2020年01月17日
コメント(0)
四半世紀も経ったんだ。今、あたしは生きている。まだ、というべきか。。まあ。まさか、配偶者がケガで義足になるとか、、想像もしてなかった。とき、というのは、そういう事なのかなあ・・。あの日と同じ、明るさ、寒さ。さて、結婚滅亡 「オワ婚時代」のしあわせのカタチとは? [ 荒川和久 ]データのとり方、そしてそれを解析する力がすごい。ま、視点、っちゅうやつ。ですわな。ところどころ、分かりにくいが、熱意は買う。っちゅうやつですな。なんと、恋愛が出来る男性って、、30%なんだってね。。ふうむ。引き続き、読書ちう。。。
2020年01月17日
コメント(0)
年が明けて、最初の揚げ物料理。あまりに、油が疲れており、決心して、揚げ物用鍋と、油濾し器を洗った。油は廃棄。である。この、油濾し器は1980年代の後半、川西の西友で購入したもの。だいどこの長老である。当時にすれば、(結局現在でも・笑)かなり頑張って買った記憶がある。卸金No.8・有次これも、持っているが、(笑)今は使っていない。ただ、目立てが可能だと最近知った。で、ごそごそして、探し出し、検討してみようと思っている。調理行為は食品をだいどこで加工するのだが、手間はとにかく、後始末、つまりその道具を元通りに収納するためには掃除しないといけない。フープロなど、結構便利ではあるがあの、細かいところに入った食品の残りかす?をすっかりキレイにしようとすれば、歯ブラシまで動員せにゃならぬ。これが、記憶の隅に残り、歯ブラシ動員ほどではない料理でも、つい、使わずにできるなら、、と出番が減る。なんせ、1回あたり、2人前である。あ、話がそれた。有次(ありつぐ)のは目が鈍くなってから放置だ。。ちょいと、探してみよう。
2020年01月11日
コメント(0)
告別式のあと、駅まで歩こうと、4人で話がまとまり歩き出す。同じ専攻の同級生3人と、現地で20年ぶりに再会した故人の親友でもあったむさんとの4人。故人のご家族とは30年ぶりくらいだろうか。御夫君も同じ大学の別の学部。2人の子供さんはウチの子供たちと同じ年齢。だから、30年、40年以前は、幼子同伴の同窓会をよくしたものだった。御夫君の告別式でのあいさつは病に伏したときのことから、始まったが、2016年12月にその難病の名前が判明したと。ちょうどあたしは、夫の怪我であたふたしている時であった。ああ、。本人は、友人たちには言わないで。と言ったそう。当時、自意識を保てるのは3か月。との診断。予後が極端に悪いその病、100万人に一人、の罹患率。ああ。それでもどうしても情報がもれてしまい、友人たちの知るところとなったが、心優しい友人たちは、こちらが大変な状況であったので、知らせることをしない。ああ、。このお店の2階にあたしが、買うことになる小さな絵があるのだが、この写真を撮ったときにはまだあたしは知らない。20年前と全く変わらないアグレッシブなむさんはどんどん店内に・・。初めて作品を拝見したのだが、なかなかなので、入手することになる。2階が常設展示室になっていた。川埜龍三さんの作品。深紅の大きな綿布のバッグ(売り物、お値段は知らない)に入れて下さった。駅前で、サイゼリアに入る。トイモイさんが推薦のチーズ、覚えていて、。(笑)4人のうち、2名は、サイゼリア、初体験である。各人、帰途はばらけた。帰る家がそれぞれ遠く離れている。また、会いましょう。とお互いメールすることだ。便利な世の中である。あたしは、傘をサイゼリアに忘れた。不祝儀用で、25年使用したもの。この朝、開いてみて、布がプラネタリウム!になっており、ああ。と感じたもので、深層では、(帰ってから)もう、処分だな・・と思っていたからかもしれない。
2020年01月08日
コメント(2)
核家族としてのファミリーのメンバーとはすでに死に別れて久しい。4人家族の長女としていたのは、19年に過ぎない。母、父、弟、亡くなっているので、かつての実家、と言うものはない。事情により、あたしが核家族の母、となってからも、実家、とはとんとご縁が無かった。そういうわけで、じっか、に帰るとか、じっかから送ってきた、じっかの、、じっかが、などの言葉は、あたしの辞書にはなかったわけ。子育て中、マンションの窓々、お盆とお正月は、若いパパママ、小さい子供たち、皆、じっかに帰るので、閑散とする。どんなにか、羨ましかったことだろうか。夫の実家は遠方だし、もちろん、少しは交流はあるが、、の程度。嫁の立場での帰省はつまらなかった。その分、今現在、子供たちが来てくれることを本当に感謝している。あたしが、満たされなかった分、代わりに体験してほしい。という、親の勝手な思いである。子供たちは知らないだろう。そんなことを言ったとしても一笑に付すだろう。今年のお正月も、ひと段落。自分の新年会の出番である。今年も、健康で、人にヤサシイばーちゃん、でいる事が出来ますよう!チャーリーは、引き続き、目の治療中です。
2020年01月05日
コメント(2)
この年末の忙しいときに、オフィスに、誰それと申します。と、覚えていないお名前の女性から電話がかかってきた。はて、。三田演技塾のメンバー、と名乗られた。いっとき、お世話になっていた。ああ、そうなんですね。としか、、答えられない。まだ思い出せず。申し訳ないけれども適当にお話を合わせて、、。とにかく、久しぶりに同窓会のようなことで、新年会を。というのが、電話の内容であった。既に8年、、9年は経過している。覚えていない、という事は、あまり印象に残ることが無かった、という事である。致し方ない。ただ、中畑氏は確実にお顔も覚えている。主催者の方だ。彼の指導は的確であった。なんせ、必殺シリーズの構成をされていた事があるくらいのプロであった。あたしが、この演技塾をやめる時、「また、いつかどこかでお会いすることもあるかも」というのが最後であった。いつかどこかでお会いしなかったけど。。それで、来年2月のこの新年会?には、行くことにしてる。このブログにも、この時の大道具、お地蔵様を作成していた経過をアップしていたっけ・・。遠い目。
2019年12月21日
コメント(0)
利休は、手前、と称し、補助的生活行為を武士の嗜みに昇華した。信長には、イラつく存在だったのだろう。。と、気が付いた!市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道 [ 前田健太郎 ]
2019年12月09日
コメント(0)
三年前の11月22日。あたしは、新幹線で、東京に向かって、新大阪を出たばかりだった。電話がかかり、(お隣のご主人から)夫がケガをして大変です。と。。今新幹線です。帰ってこられた方が・・。と言っても、、。もう、京都に着きますが・・。ご判断はそちらの勝手ですが。。大変です。(詳しいことはこの時点ではさっぱり分からなかった。電波状態も悪かった)それから、警察からかかってくるし、消防からかかって来るし・・)足の怪我、という事は分かったが、中身が分からない。とにかく、京都で折り返した。家への帰途、女性であったと思うが、神戸の病院に行かれたので、神戸に直行して下さい。(まさか、右足のほとんどが無くなるなど、想像もしなかった)午前11時から午後1時までのあたしの電話はいろいろあるが、・・友人に助けを求めたり、家族に連絡したり、電車に乗りながらの混乱。午後10時ごろ、(手術はまだ続く・・)息子と娘、。居た、と思う。結局、終電で帰宅した。嵐のような数か月だった。もう、3年前の事だ。3年経過した。。。それで、最近、疲れが出たのかして、昼寝が多い。(笑)自分も頑張ったけど、お父さん(本人)!よく頑張りました!その調子で、元気で過ごしてね!
2019年11月28日
コメント(0)
【中古】 宝石 改訂版(1) 品質の見分け方と価値の判断のために /諏訪恭一(著者) 【中古】afb宝石 2 品質の見方と価値の判断のために (改訂版) /諏訪恭一 /〈大型本〉【中古】afb『中古』宝石〈3〉ジュエリー—その品質と価値の見方3は、緑色の表紙。ふと我に返り(笑)本棚からこれを引いて、開く。。写真がきれいだし、飾らない言葉で淡々と説明が続くので好きである。もともとの値段は各1万円くらいであったと記憶する。亡き母が少しこういう商いに手を染めており、言い続けていたことは、、石は(宝石は)インフレに強い。という事だった。
2019年11月28日
コメント(0)
あの時君は若かった♪音符が付くだけで、楽曲らしくなる。脳も、(知っている曲だと)メロディーが先に浮かぶように働く。しかし昨日は、ちょっと違った。昨日の午後は、地区の合唱グループの月に一度の練習の日。先月お休みしていたので2か月振りである。27日に本番があるので出ようと思っているので(あつかましい)、参加した。練習の最後に指揮者の先生が、こんなん、(こういうの)友人が企画しているので、もしお時間あったら参加してくださいと、チラシを配布された。そのチラシのタイトルが、、「あの時君は若かった」だった。その友人の企画というのが、、音楽療法士さんたちのイベントで団塊の世代以上の人達に対し、懐メロを一緒に歌ったり、リズム運動をしたり、なにをしたり、かにをしたりの、音楽でしばらく遊んでみましょう。音楽療法士の仕事?とはこういう感じで、うちらを取り込んでいただくとこんなに楽しく、かつ体に良いいろんな事が出来て、いいですよー!みたいな、ことだった。そのチラシの中でひときわ目立つ(タイトルが)大きな文字があの時君は若かった、だったのだ。意図は理解する。しかし、このチラシを作った人は、老いというものを全く、もしくは全くに近く理解していない。おそらく、、男の子だろう。(男の子、、と言っても30近くくらいにはなっているかも、あたしの中では30そこそこまでは男の子、なんである)70代、80代の人間は、老いている。あたし思うのだが、60代はまだ気が付かないのであるが、(なんとなく、、は分かるのだろうが)70代になるとそろそろ、老いの本質が見えてくるのだ。それは、とてつもなく、広く、深く、そして、暗いものなのだ。一番重要なことは、その老い、からは、どなたも逃げられず、誰も避けられない事であるという厳粛さが伴っているという事だ。かく言うあたしだって、お主はまだまだ(見えておらん)、と言われるかもだが・・。おいといない方々にはお好きにされればよいが、残された時間と、金子で、生きていかねばならぬ時、しわ取りよりは、貯金、と、生活の進路を面舵いっぱーい!変更したほうがいいかもと考え始める時期なんである。そういう老いの本質が見えてき始めた人々、すでに見えている人々、そして、その渦中にいる人々、それから、毎日懸命に生き始める人々、、(今日も一日生き延びた)老齢化社会というのは、そういう人間ばかりになるという事だ。チラシのターゲットはもちろん高齢者である。それなら、あの時君は若かった。当り前じゃ!とならないのだろうか。何それ、若い?昔はなあ。じゃあ、今は?若くない。それとて、当然のことだ。若くないという事は、老いているという事である。タイトルに、今はあなたは老人だ、と言っているのと同じなんである。こんなデリカシーのなさに、気が付かないのは、あなた(イベント開催側)が、若い、ということなんだ。音楽療法士、という資格があるとして、それで仕事をしようとして行こうと思うならこういう無邪気さは歓迎できない。しかしなんですな。世話する側(若い世代)ばかりになり、こういう無神経さが当たり前になりお世話される側が、その負い目故、黙り込んでしまい、いいようの無いストレスと悲しみと一緒に生きていかねばならぬとは、いや確かに、老いの一面かもね。。老いては子に従え、というわけか・・。少しでも世の中の為になると思いあたしは、指揮者の先生にはその旨、意見を申し上げました。自分の精神の健康の為です。先生も、もちろん、何のことかわかんない。。みたいなお顔でした。対案を出さずに言いっぱなしは良くないので、最低、♪をコピーの後につける。あるいは、あるいは、、この広い野原一杯♪位にしておかれたら??(笑)
2019年10月24日
コメント(0)
なんと、、ホテルのシャトルバス、20分待って、あたしの前!で、ここまで!と言われてしまい、悔しいので次を待つことにした。(笑)それで、ちょいと、遅刻寸前となった。ずいぶんと久しぶりである。ポートピアホテル。小磯良平美術館から、いっとき、借り出しされたそうだ。会場の正面に飾ってあった。今も、所有権はご遺族にあるが、有名な?絵なので、小磯良平美術館にいつもはある。画集にも掲載されている。婦人像、、モデルになって今は、絵の中・・。ちょうど一年前に召された。お嬢さんの隣の席で、思い出話に花が咲き、雨が降り、、。ほさんの肖像画とツーショットしてもらう。
2019年10月22日
コメント(0)
雲をつかむ話 (単行本・ムック) / 多和田葉子/著第6話か、7話で、ドイツの(ベルリンの?)電車事情の話が出た。改札がなく、自由に人は乗り降りできるが(つまり切符は不要)一旦、車内で無賃乗車が発覚すれば、当該運賃の30倍?だかの高額の罰金を支払わないといけない云々。それに付随する著者の考えとか、社会の事情とかを書いている。思い出した。S-to だったと思うが、エスト、と読んだ。トにアクセント。コペンハーゲンでも同じであった。1973-4年。プラットホーム、駅の閑散とした入り口ホール、階段、電車が来る、乗る、車窓の景色、、一気に思い出す。一度も、検札には合わなかった。数回は、切符を買わずに乗った。しかし、バスの定期券(6番と9番コース)を持っていたので、乗車回数自体は少なかったが、その無賃乗車の数回を除き、切符は買っていたように思う。オセロで有名なヘルシンゴーや、森のあるクランペンボルグに行くとき、電車だった。秋のある日、一人で電車に乗ると、次かその次の駅で、犬が一人で乗ってきた。セントバーナードであった。カンロクだった。車内はすいている、というより、貸し切りに近かった。犬は、あたしの隣に座った。並んだ形になり、犬とあたしは前を向いていた。長いシートであったか、ロマンスシートであったかは思い出せない。ただ、お隣同士であったことは確かである。こちらを見もせず、おもねることもなく、自然に隣、って感じであった。アニメの世界のようだ。と、思ったのを記憶する。あたしは、乗っていたが、犬は次の駅で降りたのである。さよならも言わないで。(笑)半世紀後のあたしの愛犬はこれ。(笑)
2019年10月21日
コメント(0)
全557件 (557件中 101-150件目)