全563件 (563件中 251-300件目)
< 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 >
今住むマチの姉妹都市は、米国のワラワラ市。ワシントン州の小さな市である。ホバート、という市が、オーストラリアタスマニア島にあって、ここも、小さな市である。この市は、大阪府池田市と姉妹都市だった。(今も?)あたしは、中2の時、この街に手紙を出し、留学したいと言った事があった。親には言わないで、手紙を出した。どなた宛であったかは忘れた。市長であったか?英文の手紙の書き方と言う本を買ってきて、対訳が書いてあるから、その文章の中で自分が使いたいと思うのを抜粋し、組み合わせ、長い手紙を完成させ、航空郵便の封筒に入れ、投函した。忘れたころではなく、ほどなく、、親が、そう言う事をしたか?と聞いてきた。両親の知るところとなったわけで、父親があたしに聞いた。出したよ。と返事をする。だって、そちらに伺いたい。と書いたのだもの。山の上に、父親の知人で、ライオンズクラブのメンバーで地区の代表で、という人がいるので、そちらに行って、話を聞くように、と、父が言った。そうか、成功したんだな。と、その時思った。大きなお屋敷の、応接間は本の臭いと、洋風の家独特の臭いとがした。応接間の大きな椅子にお爺さんが座っていて、(初対面)どうぞそちらに、おかけ下さい。ハイ。みたいに。長椅子に座る。お説教かと思いきや、引き留めにかかるのである。要するに、まだ早い。というわけ。知らないオジサンに説得され、分かりました。と言ったんだと思う。。53年前の事だ。(その当時の学校の仲間たちに先月、再会したばかりだ)いろいろ話、といっても一時間もいなかっただろう。辞して、自宅に帰り、厳しく叱咤され、、は一切なく、時は過ぎ。あの時の手紙はよく書けていたらしい。と後で聞いたようにも思うが。その時、だって、お手本があったんだもの、と、思った事も覚えているが、。今回の姉妹都市、の件でふと、思い出した事だった。
2015年07月01日
コメント(0)
昔の写真、スライド、などキレイに復元します。CDにしてさしあげます。という、会社にお試しで、頼んでみた。「想い出」という小さなアルバムが手元にあってそのページが、バラバラになってしまい、袋に入れてあり、なんとかしないと、、と思い始めて幾星霜・・。スマイルシェアリング、という会社がそのサービスをしていて10ショットまで、0円で、キャンペーンをしていた。この、ボロボロになったアルバムがあたしにとっては一番古いもので、その次に古いものは、まだ引っ越し荷物の中にある。表紙など見てすぐ分かるものは、40年くらい前からである。この膨大な古い写真をどうしたら良いか、。一つの解決策は、このようにCDにしてしまう。とゆーわけだ。今回、古い写真を10枚選んで、、と思っていたがマニュアルを読んでいて、スライドも、出来ると書いてあったので古い写真は1枚だけにして、残りの9枚はデンマーク留学時代のスライドを選んでみた。ソ連(ロシア)で買った、絵画資料のスライドはもうすっかり退色してダメだったが、自分のカメラで撮影したものはまだ見えたのでどんな様子か、やってみた。単価一枚28円から48円くらい。。さて、。ベルリンか、コペンハーゲンか、分からない。建物は、外部を撮影したものがあることは記憶にあるが、それを見つけてからだな。。ル・コルビジェのようだが・・。コペンハーゲン郊外のルイジアナミュジアムの外の展示エリア。一番前を歩くのがトルコのザファー。次が一番の友達だったイギリスからのアリソン。そして、3番目が同じくイギリスからのデビッド。その次は別の学部から合流した女性で、名前は忘れた。この日は、気温マイナス12度だった。1973年の11月か12月。1974年の5月?クラスでロシアに旅行。ノブゴロドの有名な塩漬け壺の肉料理のレストランで。夜。奥、黄色いセーターで笑ってるのがあたし。ルイジアナの外展示の作品。この近くに、日本の作家さんで、関根さんと言ったと思うが、大きな人間の耳、の彫刻があったと思う。中央の赤いシャツの人がこの時のツアーのロシア人ガイドのビクトル。旅の間中、いじられていた。(笑)コサックダンスを披露しているところ。手前赤のワンピース着てる人が国際クラスの秘書のソルバイ。手を挙げてる白のブラウスの女性がエルサルバドルからのカルメン。彼女とはベルリンに一緒に旅行した。その向こう、こちらを向いているのが助教授のラース。その向こうがオランダからのグース、紫のシャツの後姿が助手のイエンス、その右側向こうの髭がシカゴからのウイリ―・・。ベルリン、と、スライドにはメモがしてあった。から、ベルリン、なんだろう。上と下の2枚。これは、ペルガモンミュージアムの展示物。1990年にも再訪しているが1973年だ。以上9枚はスライドを復元したもの。そして、あたしの3歳か4歳の時、大阪市西区北堀江の4階建てのビルの屋上で。これは写真から。1950年か、51年。すごい昔やね。
2015年06月28日
コメント(0)
スイカを、頂戴する。倉吉スイカ。今年初めて。でっかいのを頂いたが、2人家族では身に余る。身に余る?じゃないなー・・手に余る?じゃない。。食べあぐねる。だ。押し問答の末、半分持って帰って下さる事に。切る時に、いややっぱり、切らないで!となり、また押し問答でちょっと、、お腹いっぱいだけど今食べよう。ということになって、結局、4人で4分の一をたいらげ(4分の一でも大きかった)半分を頂く事にして、4分の一をお持ち帰りだった。たさんご夫妻と久しぶりのディナー。強引に誘った。といっても、から揚げ。夫が、四角豆の苗、たさん、ご入用でないかな。というので、メールした。メールの結果が、夕食。となったわけ。揚げものは、2人だと、、あたしにとっては、邪魔くさい事で4人前となると、やろうか、と言う気になる。この時点では、もも肉1枚を買っただけだったので、もう一枚買おうとそ商店へ。そこで、豆アジが安かったから、ついでに買う。パック100円。付け合わせのキャベツの千切りから始めて、小一時間で、出来た。最後の豆鯵を揚げ終わって、ゲスト、丁度来られる。いつものように、おしゃべりをしておるところへ、今回はあたしの同窓会の話題が加わる。たさん奥様が、リサイクルショップマニアなので、(今はあたしも影響されてる)同窓生の中に、それを生業の一つとして始めた人がいて、ちょっと離れているが行っていけない事はないと言うあたりだったので、知ってる?と、話した。そのお店の話より前に、その店をしてるお君!その人、ヴァイオリンやってなかった?!と、たさんが突然言い出した。。。知らない。と答える。同窓生であるけれど、。。こうで、ああで、こうなってああなって、、と、今度はたさんが話す番。たさんは、同い年で、小さいころにお父様にヴァイオリンを仕込まれて(お父様がヴァイオリン教室をして近所の子供たちも教えていた)今も、ヴァイオリン三昧の生活だが、お君が、その、お父様のヴァイオリン教室に長い事、通っておった、と言うのである。。。で、あたしは、13日の同窓会の参加者名簿をどれどれと持ち出し、テーブルに。。そうよ、この人だわ。!!。テーブルにじーばー4人。同時に、顔を見合わせる。へー、こんな事があるんだね。思いきって、電話してみようとあたしは思い、彼のケータイに電話した。午後9時半である。ちょっと、お行儀悪いかしらね。。ま、いいか。出た!こんばんは。まるまるぺけこと申します。ああ、こないだは。突然、ごめんなさい、いまいい?ええよ。ちょっと、・・(と、ケータイをたさんに渡す!)ま、電話口の向こうがどんなに驚いているかは分からないけど、ちゃんと通じているようだ。実は、たさんご夫妻は、この、お君のリサイクルショップを何度も利用していた?そうで、場所も、様子も、よく知っていたのだった。。以前、お住まいのすぐ近くだったそうで。ケータイがあたしに帰ってきて、なんでまた。これこれしかじか、と繰り返し。。今回のディナー、こういうハプニングがあり、娘が電話してきてたんだけど、あとでまたね。と言い、あとで、電話するのを忘れてしまい。。お君は、本当に驚いたと思うが、あたしも、驚いた。たさんもきっと、驚いただろう。でも、スイカのように、あっさり甘い驚きだったなー・・。
2015年06月24日
コメント(0)
こないだの雨よりは大人しい集中豪雨であった。今は、晴れている。雨の合間に混声合唱の強化練習に出かけ、声だし。そう、父は、讃美歌の楽譜も持っていて、コーラスのあの3度下や上を歌って、ハーモニーを作って歌う事を教えてくれたなー・・。あたしは3歳の時に初めてスキ―もし、キャンプも経験し、スケートは8歳、12歳で、サイクリングもやり、ビリヤードも覚え、チェスも、マージャンも覚えた。皆、父が教えてくれた。小学校高学年になった時、いきなり銭湯に行く!と子供二人を連れだした。生まれた時から銭湯は知らなかったので、、だと思うけど、母がその時、反対したのを覚えている。6年生の時に、便所掃除をさせられた。ってか、こうしてするのだ。と、幸田露伴のように、。。あまり、それ以後は強制されて、掃除とかをする事は無かったけど。。母が亡くなって、父が再婚してからは幾度もここに書いたように、自分と実家の繋がりは薄れる。あたしの結婚式には出ず、東京での披露宴には父と、継母が上京し、出席した。その写真は今もあって、感慨無量。しかしその後、益々距離は遠のき、孫を見せる事もなく、約20年後、父は亡くなる。あたしが39歳の時である。今のあたしの周りに父、と呼ばれる人は、夫をはじめとして、婿殿のご実家も含め、息子や、息子の妻となっている人の父、もおられるし、沢山ある。オトコ、であり、そして、父、なのだなー・・。なんか、中途半端に終わったなー・・。(笑)風邪から、早く抜け出したいなー。。
2015年06月21日
コメント(0)
父は、大正8年9月10日生まれ。続き数字なので覚えやすいやろ?と、言ってたなー。あたしは、昭和23年生まれで父母の結婚はその前年。日本家屋の中のキリスト教式だと思しき簡素な結婚式の後の、親類縁者一同の集合写真があったのを覚えている。母は、花を持っている。洋装である。いや、あったのではなく、今もその写真はたぶん・・あると思う。(この住まいのどこか)整理しないとだな。中*牧師先生が中央に写っている。父は復員後、洗礼を受けている。○×教会には、しばらく通ったようだ。あたしも、中*先生のお顔はおぼえているもの。いつのころからか、父は教会に行かなくなった。なぜ、と聞いた事もあるが、記憶する答えはない。その屈託は思い出の一つではあるが、思い出だけだ。大阪の土佐堀に勤め先はあった。この勤め先のビルは有名なアメリカの建築家によるもので、両開きの正面のドアから入ると、ホールがあって、階段があって、階段はホールをなぞるように回転して2階に。階段の途中には、壁に額が並んで、、と、アメリカそのもの。であった。4歳5歳、あたしの小さいころの思い出である。その建物の屋上で泣いているあたし。・・の写真を取り込んでここに載せようと思ったけどやめた。今日は父の思い出だし。ほどなく、父は転職し、公務員となる。これが、あたしが8-9歳の時。電話口で、母が(父の転職を聴いて)泣き崩れたのを覚えている。(お家の事情ってやつ)父が46歳の時に母が亡くなる。で、48歳の時に再婚。再婚するが、子供たちは家を離れてしまう。(この間もお家の事情多々あり)以来、その職場を変わることなく、任期満了退職。退職後は、悠々自適、、と2番目の妻と過ごすが、67歳で、亡くなった。父の命日が過ぎるまで、あたしは不安であった。お墓は、出身の和歌山の実家の菩提寺に。この場所も、こちらで調べた結果である。継母との連絡は昔に途絶えている。父は、ひきこもり傾向の強い母に変わり、いろんなところに連れて行ってくれたし職場にどんどん呼び出したし、アウトドアの遊びも教えてくれたし、ダンスも小さい頃は自分の足の上にあたしを乗せて踊ってくれたし、(こういう映画のシーンがあると思い出す。必ず。)・・と書いていると、、雷さんがごろごろと来だしたので、。いったん中断。
2015年06月21日
コメント(0)
で、こないだの、同窓会に、千葉からの参加者で、獣医がいる。彼が、日帰り参加すると聞いてはいたが、本人、1時間ほど遅刻した。よーよーよー、って感じで、再会。きけば、ゆきこのお墓に行ってきたので、遅れた。と言う。ゆきこちゃんは、あたしは一番の仲良しだった、と思っている。彼女がどう思っていたかはわからないけど。2004年に亡くなった。(あとからじこさんから聞いたんだけど、じこさん夫婦、獣医夫婦、ゆきこ夫婦、この3組の夫婦は、長い間一緒に遊ぶ仲間であったと。。)旅行とか、ゴルフとか、であったらしい。お墓の場所を、彼から聞いた。知っている場所だ。将来、行くかどうか、分からないけど、教えて頂戴、と言うと、住所の紙に書いてくれた。考えてみると、、シュールではある。これからの同窓会は、お墓めぐりになったりして。(笑)また、まったく、存じ上げないお顔だったが、カラオケで、一緒に歌った女性がいる。お住まいを聞けば、娘の在所のすぐ近くだ。自転車で行けるくらい、近いよ、と言われた。彼女の中学時代を想像するが、覚えてないものをどうやればいいのか・・。ま、それほど、団塊の世代は多い、ということなんだろう。あなたのこと、全く覚えてない。とその場で断言はできないものだ。煙のように、その場の空気に交じり始める様に、会話を始めて今日はどちらから?ええ、東京なのよ、、みたいな。。えへへ。中には、過去は捨ててるの、あたしには未来しかないの!ゼンーゼン、(あなたのこと)わかんない。とあたしの顔を見て、再会の開口一番言った人がいた。なにさ、知ってるくせに。まどかよ!(まどかと言う名前)とは思ったけど。ジーンズに、模様入りのポロシャツを着て、エリの後ろを立ててイキがっておった。確かに、これで、後姿だと、40代には見えそう。だけど、それがどうしたのだ。彼女は、まーえに会った時、中南米の政治的要人と親しく、ボンドさながらの冒険をしたと話していた。(と聞いた)へー、それでそれで、、と周りを囲む人にはあたしはならなかったので、あとで、聞いたのだが。で、今は、、というと、、通訳なんだそうです。スペイン語かね?一年生の時、同じクラスだったじゃない。覚えてない?ううん。覚えてない。と、最初はとりつくしまもない。失礼千万。というわけで、あたしは彼女との話は切った。未来しか見ないのなら、来るなよ。というわけ。小一時間して(テーブルの端と端で、隣にいたのだ、彼女)あたし、女子美なの。あなたは?と聞いてきたから、コペンハーゲンのロイヤルアカデミー。と答えてやった。専門は?と聞くので、都市計画。とだけ言った。黙った。こんどはあたしが、女子美でご専門は?と聞いた。生活美術?とか言った。ははん、。何より、眉をひそめたのは、彼女は男子にしなだれかかるの。ま、独身だから、別にどうってことないけど。。あたしには、とてもじゃないが、受け入れられない。場所が違うやろ!おまえ!と言いたいが言わなかった。すべて、楽しい事ごとの一日の思い出となろう。楽しいと言えば、、同級生で大学の教員をしてるものが2名、いるんだけど、そのうち1名が参加した。か君である。驚いた事に、彼が、2次会で、「愛の賛歌」をフランス語で堂々と歌った事だ。地元の不動産屋を継いでるよ君が、「おれ、永年カラオケしてるけど、愛の賛歌をフランス語で歌うやつ、初めてみた」と、言っておった。上手やんか。なんで、フランス語なの?と聞くと、(彼の専門は法律なので)法の事勉強しようと思うと、どうしてもフランス語をマスターしなきゃならないんだ。同じ勉強するなら楽しく、、と思って、、と控えめである。この際、彼に敬意を表して、サイトを紹介しておきます。見てあげて下さい。(笑)この2次会の場所から、すぐのところに、あたしがたちゃんと高校時代にデッサンを習ってた、先生のお家がある。そのお家は川沿いで、反対側に、あたしの祖母のお墓がある。旧友のお墓参りをして同窓会に参加した獣医君に感じ入ったが、ああ、そう言えば、、と、思い出すあたしも相当だ。この墓地の管理は、やはり同級生の工務店経営のか君。なんとなく、安心。(どこが)近くを散策し、対岸の祖母の墓を確認し、、。思い出に浸った。墓参りをとんと、しない、ぼちぼちなのれす。しかし、石橋は、変わらないなー・・。変わったなー・・。
2015年06月15日
コメント(2)
15で卒業だから、67から弾くと、52年前である。3組の担任だったみ先生の米寿のお祝いにかこつけて、同級生が参集した。関東から、中部から、からから、、。この、み先生を軸とする同窓会が一番続いている。幹事さんがゲンキ?だからだろう。公立で、地元、であったあたしだからかもしれないがメンバーの中に、小、中、高、と同じ、、要するに幼馴染が多い。顔ぶれを見て、再会して、こないだは、、と挨拶したのは小学校の同窓会の事だ。別の人には、だれちゃん、(これは高校)どうなってるの?ああ、あれはねー。。みたいに、高校の同窓会の話題。となって、一体、どこの時点の同窓会か定かでなくなって来る。(笑)出席者35名で、顔を知っているのが三分の一、聞けばわかるのが3分の一、あとは聞いてもわからない。(笑)3組が主体で、あたしは4組だったし、1組とか、8組とか、、もう分からない。11組まであった?と思う。すべての出席者がマイクでコメントした。該当するコメンテーターの当時の写真が後のスクリーンでアップになっても分からない人は分からなかった。男子も、女子も、変わらない。東京住まいで、山梨に田舎暮らしを始めた方が1名、別荘が1名。あたしも、田舎暮らし、と言う事ではこの場では3-4名。リタイア=田舎が10%。準備中が2-3名。地元にずっとが33%。こんなものか・・。2次会にも出たが、小さなラウンジだったので、満席以上になり、話声がうるさくて、そして、耳が遠くなった?のも多いので声が大きくなり、店内わーん。あんなにうるさい空間は久しぶりだったので、耐えられず、表に出たくらい。(笑)お酒を買ってきて、と頼まれていたのを幸いに(クルマ同士で、やりとりする、、だって一升瓶2本だもの)早めに退出した。静かであれば、もっと、居たかったけど・・。今日もまだ、その余韻が残る。
2015年06月14日
コメント(2)
若い時は困難にぶつかるが、年を取ると困難がぶつかって来る。けだし、名言。誰の言葉か、ジョシュ・ビリングス。(知りません)佐藤優さんの、どこかのコラムに引用されていました。今日は、中学校の同窓会!です。ちょっと、スピーチをする事があって、この言葉を使わせてもらおうとおもとります。
2015年06月13日
コメント(0)
梅雨らしい天候が続く。気持も、落ち着く。「どや」 これでどうだ!の意味だと思うがこの名前の焼酎があって、このメーカーの経営者の大奥様と、混声でご一緒。なんでも、このお酒にモーツアルトを聴かせているらしい。で、この「音楽を聴いたお酒」を売っているが、近くに無いの―!と、行って来た友人がいる。買ってこい。というわけだ。ええよ。と返事をして、あまりというか全く知らないので、大奥様、にさんに、聞いた。よう売れてるみたい。と。昨日、買いに走った。明日の中学校の同窓会で、その友人に会う。幹事さんの奔走で、今回は結構な人数が集まる。30人以上にもなる。3年3組の同窓会なんだけど、1970年代の後半から隣のクラスとか、離れていても(クラスが)同じクラブだったとか、よく喧嘩してたとか、で、お前も、お前も、、となり声かけが広がって、3組でないが、、行く。と言う人も増えて、あたしは、4組、だったが、3組のゆきこちゃんと仲良しであったので早くから参加してる。ゆきこは、10年くらい前に亡くなったので、それもあるかも。明日は50年以上も会ってないかつての級友にも、会える予定。分かるかしら?
2015年06月12日
コメント(0)
何やら最近、人恋しくなりまして。。と、諸平の短冊を落札し、実は子孫です。と、名乗った。父方の祖母は加納菊子、加納家は和歌山城に出仕していたので、祖母菊子は、箪笥には、御女中としてお城に上がる際の打ちかけとか、丸い、着物の紐類とかがあったと言ってた。菊子の父は順平、順平が明治維新を経験している世代。菊子に男兄弟が居て、東京で、薬局をしている。今はどうなっているか知らないけれど。この薬局のおばさんが、1970年の万博の時、大阪のあたしの生家に来ている。だから、一度は会っている。父は、この薬局に中学時代、奉公に行っている。奉公時代の辛い話を聞いた事がある。東京のおばさんは、父の叔母である。菊子はあたしの祖父(名前は雄(ゆう))と結婚し、8人の子をなした。大阪の野田に住まいする。非常に貧しく、父が奉公に出されたというわけ。三男だったか。。父は出征し、帰国するが、野田の一家は北海道に移住した後で。。北海道に追っていくが、そりが合わずか、何があったか知らないが8人兄弟姉妹の内、父だけが関西に帰り、就職。そして、あたしの母と結婚。通常なら、父の兄弟姉妹、戦死は無かったから7人とのお付き合いがあるはずであるが、どういうわけだか、全く没交渉。あたしは、19歳になった夏に北海道に旅行し、叔父さん一人とおばさん一人、そして、菊子祖母に会う。叔父さんは、稚内豊富村で、芍薬の根を栽培するのだと張り切っていた。電気も引かずに・・。独身で、従姉はいなかった。祖母は、その後、8人の内の末息子が関西に就職したので時々関西に来ては、また北海道に、、という感じで暮らしていたようだが、この末息子さん(あたしの叔父さん)を、母がとっても嫌ったのでこれまた、没交渉。北海道の親戚の情報も全く知らず、あたしは、成人する。母方は、9人兄弟姉妹。内2名戦死、2名病死。1名小さいころ亡くなっている。それでも、4人残るはずだが、すぐ上のおばさんだけ、知っている。その上のお兄さんは加古川で薬局をしていた。一度かニ度、会っただけだ。それも中学に行く前だと思う。残るは2名。。亡くなっていたのかしら。。一体、どうなっているのだろうか。。すぐ上の叔母さんが近くに住んでおり、子供が無かった。というわけで、従姉はいない。母方の祖母はウチの家族と同じ敷地に住まいし、そして、86歳で亡くなっている。要するにあたしの家族は4人と、おばあちゃんであった。おばあちゃんが亡くなって、4人になってすぐ、母が亡くなった。父が再婚し、継母との関係がうまく行かずあたしは23歳で家を出た。(当時20歳の弟は遠縁に下宿後、地方に進学し下宿)以来、父とも会わずに結婚、出産、と過ごして。。父が亡くなり、弟が亡くなり、して、とうとう、この4人家族もあたしだけになってしまった。というわけ。だから、周りの方々よりは、孤独なんであります。大家族が羨ましい。親類縁者御一同で事あるごとに集まるとかそういうの、良いなあと思う。もちろん、今は、ばあばと言われる年だから、夫の家族とも、あたしの下の世代の人たちともわいわいしたいと、おもとります。境遇で、思いは、それぞれ、と言う事です。
2015年06月10日
コメント(0)
陶器の裏に書いてあった文字・・。道光年製 この、小皿が2枚あったぞ・・。あの茶碗はなんだっけ。。大明成化年製だな。。でも欠けてるな。。金継ぎするほどでもないしな。あの皿・・は(これはまだ見つかってない)心当たりをほじくり出す。ついでに、お漬物用もみてと・・。見れば、大のような、太のような、玄のような、明のような、朋のような、年は上と言う字が、年にのっかってるし、製はなんとなく製だが・・。という母の使っていた漬物鉢。欠けているがもう、欠けさせまいと置いてある。これは出さないけど。しかし、道光年製には驚いた、。鉢2個で、25万。石もそうだが、陶器も好きで、若い若いころは東寺の弘法さんによく通った。今現在の繁盛ぶりは全く知らない。弘法さんで、一回り。楽しかった。もう、母は亡くなっていた。彼女、お嬢のくせして、子供たちが学齢になると故買の鑑札を取って、骨董屋のオークションに出入りし、いろんなものを買って、、、ああ、そうか!売っていたかもだな。半世紀たって思う。あたしをその市(いち)に連れて行った。3の着く日は難波、8が尼崎、とリアルオークションである。一緒に通って、いろいろ取引を傍で見ていた。暗い天井の低い、広い部屋で、おじさんたちがたたみ2枚ほどの台を中心に周りを囲んで、次から次へとモノをその台に出し、もごもご言って、ハイ次。てな具合で。その台だけが、明るかった。ほどなく、宝石やさんと取引が始まって、これまた、あたしは、キラキラを横で見るのである。エメ、とか、アレキ、とかの単語も覚えるのである。身にしみ込んだ鑑識眼はかけがえの無い財産だ。お金にまつわる真贋にはいまだに縁は無いけれど、(って、そのモトデが無いし・笑)人の評価より好き嫌いでモノを集めてると、どうしても増えるばかりになっちゃって、これはこれで、あまり良くないのであるが。。。で、今度は、この東寺で買った猪口と、高台の裏になんとか年製と書いてあるくみ出しを出して見ようかと考えている。
2015年05月21日
コメント(0)
ランドセルの中を点検するのが、今、娘の日課らしい。点検、と言っても、朝じゃなくて、前日。前日と言う事は、、宿題の事も入る。二人の子供が社会人になり、結婚もして、それぞれ家族を構成し、あたしは老いて、田舎暮らし。の今日この頃、たけのこが着いた、ありがとうの電話のついでにそんな話が出た。彼女は、自分の子供時代、そんな風だったかと話したが、あたしはうろたえた。だって、忘れていたが、あたしは、・・。あたしは、子供たちをほったらかしだった日々を途端に思い出したからだ。子供のランドセルは義母が贈ってくれた。のは覚えている。(笑)箕面から、宝塚に越したのも、上の子が学校に行き始めたころだった・・。自分の関心が、仕事に向いていたこともあるし、自分自身、学校の件で親に頼った?記憶がないし、毎日、そんなに親が干渉?していたかしら、、と、正直、思った。それで、娘に聞く。それを毎日やるわけ?そう、毎日。(時間割揃えたり、文房具の点検、持ち物、プリントの整理?先生とのやりとりなどだと、思うのであるが・・)記憶にあるのは、食べさせていた事くらいか。(笑)ひどい親だったものだ。この春から、孫の生活時間に変化が生じて、娘が、自分の勤め仕事をセーブしないといけない状態になるらしい。あたしは自営業であったから子供の学校行事などは優先で時間の組み立てをばしておったが、毎日、ランドセル?・・はしなかったように思う。で、どうなの?なんとか、その方向でしばらくやってみようかと思っている。とのこと。私の子供時代、ぼやっとしてただけみたいに思うんだけど・・。と、娘が言う。ま、ゲンキでご無事に過ごして欲しい。今日は、その孫の、N児。の入団式。
2015年04月15日
コメント(0)
昨日は、深紅のロングドレスのお渡し日だった。着物位デレッ、として長いので40着をハンガーにかけて並べると相当なインパクトだ。40名が着て並ぶともっとすごいだろう。(笑)今度のコンサートで着ることになっている。出ない、と言っていた方がこのズラリ!(服)を見て、やっぱり出る。(笑)となり、採寸をした。タイトルの、引き揚げのお話は、この赤いドレスから始まった。いつもは、あまりおしゃべりしない合唱の稽古の合間に、それも、たまたま(席はランダム)お隣になったふさんが、あたしより20歳近くお年上の方なんだけど、それもその時に分かったくらいに存じ上げない方だったが、私の母は、一度も赤い洋服を着せてくれなかった。と、話しだされた。あたしもですよ。と答える。でも、着物(和服)は赤いのが多かったのではないですか?と言ったら、満州で大きくなったから、着ものは着なかった。と。以下、ふさんの話。撫順の炭鉱技師であった父と、妹とで、引き揚げてきた。女学校の友達と街を歩いていて笑い声をあげて、ロシア兵に街角で因縁をつけられて銃口を頭に突きつけられ、「もうあかん」と思ったその時、日本人会の世話をしていた父の知り合いのロシア人将校がたまたまそこを通りかかり助けてもらった。女学校とは名ばかりで(つらつらと軍国少女であった彼女は学校名や学年、など軍隊式の名前を言われたがあたしはここに書くほどは覚えていない)毎日、兵隊さんが学校に居て、軍人勅語を暗唱させられて、出来なければ殴られた。生きて虜囚の辱めをうけず、というので、自決の方法を、軍人さんから教えてもらった。カミソリで頸動脈を切る方法、青酸カリを飲む方法。以来、首の付け根には、左にはカミソリ、右には青酸カリを貼り付けて、暮らした。終戦後、関東軍はもう逃げて、あと、引き揚げが始まる。(お父上は民間人)無ガイシャ、(わかる?屋根の無い貨車のことよ、、とふさんはあたしに言った)に乗るんだけど、荷物が一番外側、その内に男性、そして、女性と子供が一番中。それで、港まで行き、収容所に入り、船に乗った。貨物船。私たちの乗った船は無事に佐世保まで着いたけど、私たちの一つ先に行った船は魚雷に当たって、沈没した。航行中、亡くなった人は白い布に巻いて水葬。水葬して、船はその場で数回転してまた元の航路に戻った。佐世保について、陸に上がったとき、首の剃刀と、青酸カリを捨てた。佐世保の収容所で米軍の身体検査があって、頭からDDTを真っ白になるまでかけられた。佐世保から汽車に乗り、関西地方へ。途中、広島の惨状を目の当たりにする。広島、と言えば、私の夫は原爆の投下に遭遇している。学徒動員で当時、寮と、工場の往復の日々であった彼は、その8月6日が寮に待機する日であったと言う。ところが、旧友が身体の調子が良くないので交代してくれないかと言ったので工場に出かけた。その朝、寮は全焼。彼は、工場に居て助かった。(ご主人はもう亡くなったのだが)主人は原爆が原因の病気であったと思う、と。しかし、申請は一切拒否していらしたらしい。旧友が僕の代わりに亡くなっているのに、。。と言われていたらしい。(そういう気持の優しい国民が大勢いるのかもしれないとあたしはその時、思った)ーーだから、数字はあまりあてにならんかもと。。こういう話を他人さんにするのは、初めてなんだと、ふさんは言われた。このトシになって、真っ赤なドレスを着て、歌を歌えるなんて、どんなに幸せな事でしょう!戦争は嫌だね。と。このお話を聞いたのが、休憩時間だったのでまた、コーラスの練習が始まったが、あたしは、13歳や14歳の少女が剃刀と、青酸カリをいつも首に張り付けての暮らし、、と思うと泣けてきて、歌えなかった。最前列にいたので、指揮の先生に悟られないようにするのが精一杯だった。昨夜、。当のふさんからお電話頂戴し、また少しお話を聞いたが、今日はこれで。。
2015年03月26日
コメント(0)
元号と西暦の早見表を見ている。今日は亡母の命日である。母の親の世代の人はもう誰もいない。兄弟姉妹は8人いたが亡くなっている。配偶者も亡くなった。(つまり父)子は2人。の内一人は亡くなった。生き残りがあたし。というわけだから、あたししか、思い出す人はいない訳。そういう風に考えると、伝承・・何らかの形で伝承するって、大切かも。しかし、伝承しないからと言って、とがめる人もいないし。。こないだ、117歳の世界最高齢のおばあちゃまが、お誕生日のケーキをほおばっている写真がネットに出ていた。ほっぺが赤くて、嬉しそうに。。食べ物をほおばれるんだからお元気そうだった。117歳。早見表には、115歳、1900年生まれまでしか、無かった。と言うわけで、このおばあちゃまは、1898年、明治31年生まれ。ということ。亡き母は、生きていれば97歳。亡き父は同じく、96歳。一昔前だと、90歳代はまれであったが今現在は、100歳も珍しくなくて高齢者コーラスなどに行くと、自分が高齢者なのにその親がひゃくいくつ、、とかよく耳にする。現に、この117歳の息子さんは92歳。である。ま、お孫さんが70歳代かも。70歳過ぎて、ばあばが存命。。というケースもこれから出てくるわけだ。昔、私の秘密(古っ!)と言う番組があったけど、70歳過ぎの人が「私はこの子供たちの祖父(あるいは祖母)でありますが、家族の中では○でもあります。」さて、この○の中には何が入るでしょう。まさか、○の中に、孫、とは、、。ううむ。なかなかよい問題です。(笑)早見表からなるほどと分かる事も今更ながらあるが、今日はこれくらいで。
2015年03月10日
コメント(2)
古道具屋さんの外にほうってあったお皿を磨いておりまする。ひたすら・・・。わたしが人生について語るなら / 加島祥造 【単行本】読了。文中、著者は60歳過ぎてから絵を描き始め(墨彩画)個展もするほどの腕前。子供のおりに、学校で、自分の描いた絵を先生が、皆の前で貶したことで、以来彼は半世紀、絵を描きたくなかったそうだ。彼の絵を見ていないが、きっとよい絵を描かれるのだろう。あたしも、子供のおりに自分の描いた絵を授業中、絵の先生が(専科だったと思う、担任では無かった)校外に出て書いた、家の絵について、「こんな屋根の形は考えられない」とあたしの絵を皆の前で悪い例、と紹介された事があった。それは、青い艶のある西洋瓦の増築の小さな部屋の屋根だった。斜めから見て描いたので、妻の部分が鋭角になったものだ。あたしは、恥ずかしく思ったのではなく(この本の著者のように)先生が勘違いしていると思い、ほくそ笑んだ。この絵が間違っているのだったら、一体誰が正しいのだ!言うてみい!みたいな気分だった。(笑)凄い自信。まだ、10歳になるかならんかの時だ。そして、半世紀。今のあたしがある。とか、考えていた。。この本は若い人向け、と先日書いたようにルビがふってあるので、読みにくかったが、量が少なく、もう読んでしまった。汚く写っていますが、暗いのとカメラのせいです。犬がようやく、(半月ぶり位・・?)上を向いて寝てくれるようになりました。飼い主としてはホッとしておりまする。(ヘルニアで、、痛いと上を向いて寝ない)
2015年03月06日
コメント(0)
今日の、コーラスのマネジャー会議は指揮の先生も参加。これから、5月末のコンサートに向けて、忙しくなる。モギリの方や、受付、駐車場の係員まで、会場のお世話や、司会進行、段取り、打ち上げの場所まで、喧々諤々と楽しい事よ。司会の選考について、いろいろアイデアをマネージャーから出したが指揮の先生が却下ばかりで困り果てて、じゃあどなたに、、とボスが聞けば、。歌が食われるのはダメだと思う。丁度、ぼちさんがこないだの音楽祭で(演目の合間のコント)お芝居したけど、完全に音楽を凌駕していて、ダメだった。・・・。褒められたのか、けなされたのか。。歌がメイン、というのはわかるが、食われる食う、の関係をそこまで厳密に考えるものなのか。と少し感動したし、言われる事も良く分かったけど。演出の存在、ってのがあって、あたしは演出の通りに動いたつもりだから演出が良くなかった。ということなのかしらね。でも、あかん。と言われると、、落ち込んだ。ぐじゃ。
2015年02月25日
コメント(0)
最近、メールばかりで明日はよろしく。と電話で話したりしなかったなー。ステージ衣装を頼んでいる会社の担当からサイズ取り大会(団員全員で衣装合わせ)の件で、電話があった。結局、彼とは30分話した。明日、つまり今日の件は、10秒。残りの、29分30秒は、、、。数十年前の大阪神戸のアパレル業界の話だった!!まるで、同窓会のおもむき。厭なオバハンだったろう。しかし、シゴトのためなら。。(と彼は思ったかもだ)アパレルの営業は、おばちゃんおばはん、ばーちゃん、喜ばしてナンボの世界だし。(笑)今朝になり、発言内容を思い出し、恥ずかしいな。とか思った。でも、なんだ。気持が、高揚した。あたしも、付き合いのあった会社の名前、次から次から単語が出てきた不思議。なんでかしらね。今日の定休日は、かつてヨウフクヤをしてた時のように、デザインの方のお仕事を一日する。考えることの多い一日となりますよう。そして、あたしのプレゼンが、うまくいきますように。。。ところで、昨日は孫たちに、アップルチョコレート、作成し、送った。
2015年02月18日
コメント(0)
東洋医学のさる講演を、その昔、聴いたからか、定かではないけど、ある時、、(遠い目)40代だったっけ・・。頭皮を冷やすと、子宮に良くない。従って、洗髪は、生理中、しない方が良い。そういうコメントを見たか聴いたかして、あたしは、それを守った。仲良くしてた美容院の先生が、あなたは、染めなくてもいいです。(もうすでに当時、ヘアダイが一般的になってたと思う・・)と、断言!されて、ちょいと、セキセイインコみたいにしてみたいとか思ってたんだけど、やめた。ってのもあって。ヘアダイも、一切しなかった。どのくらいの割合で長じても、、じゃないな、老いても、、かな、、毛染めをしない方がおられるか、知らないが、(多くはないとは思うが。。。)今も、まあ全体が黒いので、何も考えていない。もともと、どうやっても黒いままなのか、その、東洋医学の教えを守ったからなのか、因果関係は分からない。昨日、ネット上で、上記タイトルを垣間見て、思い出した事だった。こないだから取り組んでいる、グラフィックデザイン、チラシとチケットがようやく出来た。明日の会議に間に合った。毎日一定時間、集中してカーソルを動かしたり、ワードの扱いを勉強したりするのは、やはり、疲れが残るなー・・。ペースが大切だな。。昨夜、孫から電話。ばあば、聴いてくれる?と、電話をセットしたらしく、新しい曲を電話口で弾き杯める。新しい曲なので、ゆっくりだし、間違うし、だけど、聴く。一音一音が、いとおしいな・・。それで、夕食の用意は30分、ずれてしまい、、。(天ぷらだった)遅い遅い夕食となった。天ぷらは、時間がかかるのだ。(笑)川エビのカキ揚げ、蕗の薹、イワシ、シメジ、など。ゆうべは、雨がかなり降って、地面が湿ってる。曇り。雪ではなく雨、というところが季節、でんなー。。
2015年02月17日
コメント(0)
山の話はあまりしない夫だが、時々は、かつての山仲間の同窓会がある。メンバーの中で、カトマンドゥで登山家のお世話の仕事をしているおさんが帰国したら、連絡が入って、皆で集合するようだ。この会社。(奥様が社長)若い時は、やりたい事をやっておかねば。。と、こういう事があると思う。所謂、過去の遺産、ってわけ。(笑)メンバー全て、高齢になり、かつての活動をするというわけにはいかないけれど、集まって、ワイワイやって、お酒を飲んで、つるむ。ってのは何物にも代えがたいひと時なのだろう。なんとなく、、だけど。いつか、ネパールに行くことがあるかもしれない。義理の伯母がこないだ、言ってたけど、80歳で、ロンドンまで行ったけどもう、卒業だわ。。(海外旅行)と。。彼女は娘が米国なので毎年西海岸に滞在しておった。。(寂しいのかしてよく電話がかかって来る)しんどいのだろう。きっと。まず、移動。これだね。先の事、考えても詮無い。さりとて、全く考えない、ってのも、、。なんだかなー。このところ、晴れ、という日が全く無くて雪か、霙か、雨か、曇り。ばかりである。こういうときは、美味しいものを食べるに限る。とばかり、昨夜は天ぷらにした。秀眉は、人参とサツマイモのカキ揚げだった。ピーナッツを砕いて、衣に入れた。天つゆに、大根おろし、畑の大根、皆、鹿にやられて1本しか残ってなかった。いよいよ立春だ。冬の残り野菜が、どこまで持つかしら。。さて、今日は何を食べようか。白菜かしらね。
2015年02月03日
コメント(0)
世界がうんと揺れて、あたしだけじゃない多くの人が、何かを感じた。今までのぬるま湯はあかん!ジャズヴォーカルの稽古をしていたあたしは、ライヴ路線に方向をはっきり向けた。3年後、近くのレストランでかなり大がかりなライブした。この直後、数年は関西では女性の活躍が目立ったのではないか。(あの数字で、世界何位とかいうやつ)また、沈静化して元通り。地震から5年経ってあたしは仕事の仲間から引導を渡され、一人で放り出される。借金と一緒に。店にしがみついてなんとかしようともがいた。10年頑張った。一人であったが、一人ではなく、助けてくれる人も多かった。大いなる救いである。ヴァイオリンもその時に出会った。20年前に両肩を後から掴まれてガタガタガタと揺さぶった神様。。20年前の朝は焦げくさかった。静かで。あたしの住まいの方は、怪我人位であったと思う。店のある地区は震度7で、亡くなった方も多い。現に、田舎暮らしを始めて、ごく近くに、親御さんをその地区で亡くした、、かたがおられる。(彼女も6年前にこちらに帰って来た)20年前のガタガタガタ、、は今日の田舎での朝に繋がってる。世間的に大きな出来事も、皆が知らない自分にとっての事件も、みな、あたしを作ってくれている。
2015年01月17日
コメント(2)
結婚して、子が出来て、家族で盆暮れに里に帰る。これを全く経験せずに家庭生活をしてきた。そのような境遇の方は時々おられてそれがどうした、と思われるかもしれないが、あたしには、とても侘しく、寂しい事だった。夫の生家には、もちろん帰った。しかしあたしの親の家ではない。夫にはまだ、母親が存命で、しかも近くにいる。だからきっと、あたしのこの寂寥感と言うか、、独特の感情は理解できにくいだろう。何度も書いてるなー、と思いながら書くが(笑)二十歳になる7日前に母が亡くなって、父が再婚して、家を出て、(継母との関係が上手く行かなかった)一人暮らしして結婚。その時の相手と今も夫婦なのであるが(笑)当時、あたしの父は結婚に反対で、式に出ないと言い張って、夫の母が、父の職場で土下座したとかしなかったとか、したんだろう。披露宴と言う形の東京でのパーティーに父と継母とが出席してくれた。(あたしたちの関西での式は弟夫婦が出てくれた)そして、父は孫の顔も一度も見ないまま、67歳で亡くなった。正確には、石橋の商店街でばったり出会ってるので見てないことはない。その刹那は見ている。要するに、帰省、と言う事を娘のあたしは一度もしなかったのだ。クルマで20分のところにお互い住んでるにもかかわらず・・。連絡役と言うか、、弟の一家も帰れなかったので、弟を通じて父の気持?を打診し、ほぼ毎年、もうそろそろ、、帰ってもというか家がダメなら外でも会えないか、とは聞いていたのではあるが父の答えは、「もう少し待ってほしい」というものだった。何がもう少し?とは思ったが、会いたくないと言われて押し掛けるのもなんだし。。と。高倉健さんと同じ病気であったが継母は伝染病と言い張り、孫たちを病院に連れてくることも嫌がった。伝染性、と聞いて、わざわざ子供を連れていく親でもなかったし。。良くなるとも思ってたし。しかし、そのまま彼は天国へ。だから、あたしは、自分が孫を持つ立場になった時には絶対にそんな事はしたくないと強く決心し、今日に至ってる。娘には婿殿、息子にはお嫁ちゃんが出来て、あたしには子供が2人増えた感じだ。二人とも、いとおしい。ま、ココだけの話、夫の実家に行っても、交通費から食事代から一切、弁済されることはなかったので、サラリーマンの嫁さん実家からの援助一切ない状態の家庭では、関西から東京に一家で移動となるとかなりの出費。出向く回数が子供の成長とともに減じるのは必定。それで、武士は・・よろしく、出来る間は娘には片道の交通費、息子にはお嫁ちゃんにガソリン代、と現金を渡してる。そうしたいと思い、そう出来ているのは幸福である。なぜかと言えば、あたしは実家に帰れなかった期間中、つまり子育て時代を通じてずうっと、うさん、という亡き母の従妹の叔母さんから盆暮れの金一封、ってのを貰ってたので。それが何より嬉しかったので。素封家であったう家は、無理してあたしに渡すとかそんなんではなく、可哀想、とは思ってくれていたのだろうと今にして思う。父の遺品の中に紙飛行機の作り方の本が3冊もあった。しかし、妻の存在がそれより大きかったのだと思う。19年、連れ添って妻(あたしの母)が亡くなり、2年後再婚(継母と)してまた19年連れ添った。あたし達子供とは養子縁組をしなかったし、相続でもめたので継母の行方は知らない。昭和4年生まれ、、なので、もうかなりの高齢者だ。子は無い。【送料無料】 F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記 / 藤原岩市 【単行本】年末に、きさんからお借りした本。読みつつ、亡き父を思い出した。
2015年01月04日
コメント(0)
最近、麻雀にはまっている。(笑)一人で出来る、無料のお手軽なやつ。ヒマヒマに、ってか?いや、まひまひくらいかしらね。もう、トップ、おめでとうございます。とアナウンスがあるあれは100回を越した。とんとん回し(東々)半荘戦である。しろでんでん、とかで白が3枚来たりするときに、いつも思い出す、三白を避ける。という言葉。白砂糖、漂白小麦粉、そして、白米。もう、子育てはとっくに卒業で、今は考えないでもあまり大勢に影響は無い、とは言え、小麦粉は、もう探すのも面倒で、ヴァイオレットさえ、高いと思うので、普通のにしてるが、砂糖と、米は、やはり、白ではない。米は、玄米で購入、7分づきにしてる。材料に一定のフィルターをかけても、甘いものを出来あい買ってるとなんのこっちゃ、になるので、お菓子類は、すべて手作りにしようとの方針。マーガリンは使わない。ケーキ類、パイ類、餅菓子、ヨウカンまで、作った。炭酸飲料は一切なし。生協の運営委員もやって、食のお勉強も怠りなく、。子供が学齢前に、住んでいたマンションのお隣にちょうど、「友の会」(羽仁もと子さんの)の会員がいらして、お話を聞いたり活動の様子を聞いたり、、、でも結局、家計簿くらいが参考になったか。。親子劇場の会員がいらして、一緒に出かけてみたり、他にも 山岸会とか、いろいろ。。参考にしたが、結局、続いたのは、灘神戸生協、だけだったなー・・。でも、友の会のことで、覚えてるのは、調理の際、卵を割って、白身と黄身がどろっと流れるときに、指で、殻の内がわを掬って、最後まで白身を出す。ことくらいか・・。しないときは、それを思い出し、する時もそうだったなー。。と思い出したりする。きのうあたりから、、寒さが本格的である。薪収納棚の増設の検討に入り、夫は、今の2.7mの棚に続いて、更に2.7mのを作ろうと準備を始めた。お隣のあさんは、裏の納屋を取り壊してあたらしい納屋を作ろうとしているとの事だった。そう、昨日は、裏庭会議が活発だったのだ。
2014年12月08日
コメント(0)
壁ある時にベルリンを訪れて、17年目に再訪。壁というのは、見えても見えなくても、一定、感慨深いものではある。1990年の夏。ベルリンのホテルだけは、日本で予約。夜行列車でベルリン入り。動物園と、ペルガモン博物館を見学。中学生になった子供たちと欧州鉄道縦断旅行をした。今は、昔。スコットランドにまず行って、ウインダミア経由でロンドンまで。そこからニースまで飛んで、ニースから鉄道旅行開始。南へ。バルセロナへ。だったっけ?いやあ、忘れるもんだねー・・。壁だった。あたし達が行った時はすでに、殆どの壁はなかった。壁、として認知できる構造物はあった。どこまでもどこまでも壁が続く、、というような1970年代の風景とは全く違った。シュールな光景であった。瓦礫だらけで。息子は、ハンマーで、その残っている壁を壊した。カケラは持って帰ってしばらくは日本の我が家にあったけれど。昨日、探し物をしていてその事を思い出し、そのカケラの石があった場所に置いてあったモノたちの箱とか見たが、、無かったなー・・。壁の前に、お兄さんが座っており、ハンマーを貸してくれる商売?をしていたのである。1回いくら、みたいな。娘もしたいと言ったかどうか忘れたが、私(娘)はしなくていい、と言ったようにも思うが。。予算の関係で一人だけ!とか言ったのかもだし。すでに2人は子の親となっている。あたしには、孫。実は一昨日、いつもしている腕時計が壊れた。もう、動かない。1万円と少しで購入は覚えているので、修理、、といっても解体だが、店ですると1万5千円、メーカーに出すと3万円、と言われて諦める。ただ、腕時計、と言うものが、我が家にはまだあるはずなので、探したのである。それが無く、乾電池の新品と、洗濯バサミが見つかった。古いバッグを磨いて、使おうと思った。ので、磨く。マンジャメリ。いつも愛用していたが、仕事でウロウロしていた時のだから今は大きく感じる。ま、いいか。さて、引き続き探すか、腕時計買うか。。無くてもいいもの、、携帯に時間表示があるのだから、。。でも、永年の習慣なので、左手首はなんとなく所在ない。探しているのは。。。これ。【お取り寄せ対応商品】【欠品・廃盤の場合納品不可】MONDAINE モンディーン Classic Ladies スイス国鉄公式 レディース 腕時計 A658.30323.16SBB 30mm ホワイト ブラック レザー
2014年11月11日
コメント(0)
我が家、古商家を買って、改装しつつの田舎暮らし。ジャングルになっていた、、つまり耕作放棄なんだけど、飛び地も付いていたが買った時は、その全貌がわからないまま、、であった。今は、一昨日の写真のように畑らしくはなっている。しかし、地目は登記簿上、畑ではない。田畑は、農家で無いものには所有が認められないからだ。農地法という、法律がある。そこで、仮登記、という方法があって田舎不動産の売買には一種、欠かせないやり方なんであるが、この仮登記、というのが曲者で、期限が、10年となっている。仮に登記は可能であるが、10年以内に本登記してね。というものだ。あたしたち夫婦も、こちらにきて、すでに5年、6年周に入っている。ま、言ってみれば、10年などすぐ来ると言う事だ。その10年前に仮登記しました。田舎に移り住みました。10年以内だからと、10年目に、いざ本登記、、と取り組むと、、。10年前の持ち主と交わした約定書が役立たぬ。亡くなったりすると、相続が発生し、相続人が、複数生じたり、その件でもめていたり、知らなかったんですが、、とか次の世代に言われたり、、と。。何かと、ややこしいのである。裁判になる、と、仮登記した方が、負けると言うのが相場。売買時の不動産屋は倒産して、一体どこにいけばいいの、、と泣きつく方々が、、いえ方々を沢山見てきているし今もそういう問題をお世話して大変なんです。・・・という不動産屋さんにこの物件をお世話してもらったのであたしたちは、最初から、本登記でないと、契約しません。と言う事が出来たのだ。それで、物件はすべて、山林、田畑、などから、宅地などへの地目変更をして、購入、と相なったのである。家探しを始めて、7軒目の不動産屋さんであった。(それまでの6人の不動産屋さんが問題あるわけではありません。たまたまそういう巡りあわせでお世話いただいたと言う経緯です。なぜなら、この時点ですでに7人の不動産屋さんと、お知り合いになっているという状態だったので)さて、昨日は、市島(いちじま)町と言う少し離れた場所まで、知己の紹介で、焼き肉レストランへ。うまいでー・・。という言に惹かれていたので。先の豪雨災害で甚大な被害を受けた丹波市の地区のすぐ傍だったので行く前に営業しているかどうか問い合わせた。駐車場の横に、身に畜舎があって、若い牛さん数頭と、ポニーが沢山。犬と挨拶しようと、柵から頭を出す、ポニー。お味は、、食べたのがステーキ丼であったので、良く分からなかった。あっさり系だったと思う。今度は、炭火焼の方にしようか・・。伊賀上野の金谷(かなや)を思い出した。
2014年10月30日
コメント(0)
あたしが41歳の時だから、25年前か・・随分昔だな・・。店を始めて、お向かいに陶器屋さんがあって、オーナーさんと親しくなった。彼女も、本業は別にあって、陶器が好きで始めた、店を、、というところは、ちょっとあたしと似てたので、余計に親しみを感じた。一番最初に買ったのは、傘立てだった。ウチの店用に。これは当時58000円だった。今もそれはあたしの傍にある。2番目に買ったのがこの湯のみだった。2500円だった。店用のは、まあ、開店の御挨拶と言う事で。。会計も別であったから、備品としてもウチのブティックにはよく似合ったし・・。お湯のみに2500円出すのは、やはり贅沢な感じがしたものだ。しかし気に入って、入荷すれば、、つまりお店にあれば、何かの時に(財布が潤沢に決まってるが)買い足した。最初に2個買って、長い間に、5個か、6個、にしたと記憶する。10年後くらいに、オーナーさんの息子さんが、ぼちぼちに、これねー!値段間違ってたんですよ!仕入れ値で売ってましてねー!というではないか。本業以外に副業としてしてるというには余りに、、、お粗末と言うか、、なんと言うか、、以って他山の石。そりゃあ、品物を見る目に厳しい?ぼちぼちのメガネに叶ってたのだ。。お得感あったもの。(笑)とにかく、愛用した。今ウチにある5個の内、4個は、罅が入ってるか、欠けてるか、になった。気になりだすと止まらない。これら4個は、修理の方も検討したが、買うほどいや買うより高くつきそうと言う事が分かった。探しまくるが、見つからなかった。しかし、見つかったとしても5000円は下るまい。すると、3万円も要ることになる。いくら逡巡しても欠けたものは直らないし、あたしの湯のみの在庫もいくつかあるけど、それを下ろすのが、今の気分にそぐわず、結局、、買っちゃったー!わぎゃ。これを買いました。白山陶器 ゆのみ 湯呑 湯呑み 茶器 有田焼【ポイント5倍】【白山陶器】 ゆのみ 湯呑 湯呑み 茶器 有田焼【白山陶器】 文字絵 ゆのみ 青【お取り寄せ商品】白山陶器 ゆのみ 湯呑 湯呑み 茶器 有田焼【ポイント5倍】【白山陶器】 ゆのみ 湯呑 湯呑み 茶器 有田焼【白山陶器】 文字絵 ゆのみ 赤【お取り寄せ商品】その昔、千里中央のギャラリーで、このメーカーと知らず、漬物鉢と、手塩のセットを、2000円かくらいで購入して今もそれはウチの食器棚にある。ま、そんなことでした。
2014年09月09日
コメント(0)
あす楽対応・土日も発送します! ポーター ジャム 2WAY ボストンバッグ (S)/ショルダーバッグ 597-09912 吉田カバン 【送料無料】【代引手数料無料】 ポイント10倍ポーター ジャム 2WAY ボストンバッグ (S)/ショルダーバッグ 597-09912 吉田カバン 吉田かばん PORTER JAM メンズ レディース 【ポイント10倍】【送料無料】【楽ギフ_包装】先代は、ウプラ、というブランドだった。15000円くらいだったかしら。。もう、10年、使用して、底の隅が破れそうになってきたので、探して、今回のになった。一番の変化は、容量が小さくなった事。自営業で店やってると、やはり先代の位が要るけど、今はおそらく、、もう少し小さくても良いと判断した。先々代は、店で扱ってた、イタリアのブランドのオーストの型押し、先代よりも一回り大きかった。マンジャメリ、と言ったっけ・・。先先々代は、バイソンのブリーフ。マンジャメリと同じ大きさくらい。これは、取引先のイベントで、ウチとコラボしたホテルでの宝石・バッグ展示会で、買ったやつだった。常使い以外は、鰐皮しか持たない。・・と言っても、大小2個しか持ってないけど。その前のは、銀座タニザワのショルダー。これは、今もある。就職して最初の買い物だった。これを、イタリア旅行に持って行って、フィレンツエのバッグ工房で、激賞され、たからかどうかは、、あれだけど永年愛用した。容量が小さいので、店を始めてからは持たなくなった。その前は・・・。実は、大阪市電のモギリ用のつまり、車掌さんの持っていたあの、大きながま口のような形の黒の小さなバッグ。首からか、肩からか掛けるようになっていたのを、自分で、学生鞄の取っ手に取り換えてくれるところを探し出して、手提げにした。父が、公務員であったので、この市電が廃止になる時にガレージセールで、私が希望してたので、入手してくれたものだ。父の再婚の直後であったので、継母が、このあたしのバッグ?を見て、、あらいいわね。●ッチ?と聞いた。以来、あたしは、継母を軽蔑するようになったかどうか知らんが、。その程度か。。と思った事も確かだ。記憶に鮮明である。生家は、女子学生の娘に○ッチなど買い与えるような暮らしではない。あたしはあたしで、必死でバイトして、授業料以外の費用をば稼がないと学生を続けられない状態だったし・・。バッグ一つで、こんなに、人生を振り返る事出来れば、いいもんだ。。あ、そうそう、ブランドの書類カバン、車上狙いで盗まれた事もあったっけ・・。L♀。コンタクトレンズが中に入ってたが、財布は持って出ていた。。
2014年09月03日
コメント(0)
亡き母の出身地の近く、曽根崎。彼女は、大正7年生まれ、昭和43年没。3月10日であったので、あたしが二十歳になる1週間前だ。この19歳―20歳に拘りがあって、19歳の時に母が亡くなった、といつも言ってきたけど、このように書くと、(年で区切ると)20歳の時に亡くなっている、と言うのが普通のような気がしてきた。生母の住まいは、堂島。昭和20年3月10日の空襲で、一帯が焼け野原となり、石橋に逃げて(?)堂島の住まいのあたりは、すでに所有権他、何も、今は残ってない。あたしは、エピソードとしては夫や子供に話しているが、孫にはもう、伝わらないかもしれない。記憶。それも、個人的なはかない記憶の中だけに、曽根崎、堂島、は存在する。ほんの、100年前には、確かにそこには証があったと言うに。戦争は、悲惨、以外の何物でもない。もちろん、生きのびてるのだから、あたしが生まれているのではあるが。。大阪市内で、空襲をも生き延びて、同じ場所に生き続ける方々もおられよう。もし、暮らしが、大阪市内のままだと、どんなになっていただろうか。。さて、曽根崎心中。「この世の名残り 夜も名残り、死にに行く身にたとうれば、、あだしヶ原の道の霜・・」で始まる道行のセリフ、お初である。突然ですが、。このセリフも足しましたので、。とお芝居のカントク。浄瑠璃風で、お願いします。と。貰った原稿が、死にゆく身、となっており、引っかかったので帰宅後、大急ぎでネット検索。やはり、死にに、とにが一つ多い。そうでないと、調子が合わない。な先生に教えを乞うべきか、。迷うが、今回は、自分でやってしまおうか・・。しばらく、考えることとする。
2014年08月03日
コメント(0)
加納諸平。ご先祖。(どうも、、高祖父にあたるようだ・・)先般、(って、かしこまっちゃる)彼の和歌の短冊が・ふおくに出ていたので入札した。昨夜、終了時間が来た。ところが、どういうわけだか、その終了時間の直前に、メーラーがおかしくなった。今朝、見ると、すでに時遅し・・。(の程度に、ま、落とせればラッキーと思っていたのだろうけど)終わる時間もちゃんとメモなりしていればよかったんだけど。。今日のココに、それをゲット!と書く予定であったが、人生は甘くない。ただ、先祖、というだけであまり実はよく分かってない。伊竹(いちく)さん、順平さん、とかも名前は聞いている。(加納家)あたしの、父方の祖母が、加納菊(きく)。彼女が、明治13年生まれ。(これとて、定かではない)母方の祖母の生年かも。(笑)その辺りに生まれている事は確か。加納諸平は、1857年に56歳で亡くなっているから、加納菊は、1880年代に生まれているから、菊の祖父、あるいは、曾祖父。順平さんは、菊の父と聞いているから、これで、辻褄が合うか・・。平、という字をつけているし。諸平は、本居大平の弟子。大平は、本居宣長の子(養子)。大平の平を貰ってるかしらね??ただ、順平は、もう、大政奉還後の人の様で、今の時点では全く分からない。諸平も、加納家に養子に入った人だ。夏目家からだ。その夏目の父、みかまろ、(国学者夏目甕麿)さんは、なんと、伊丹の昆陽池で、溺れて亡くなっている。(歌を詠むために小舟を出していたのだそう・・)短冊が手に入ったら、こうしてああして、、と、計画はあったんだけど、今回は、本当に、残念でした。それにしても、タイミング、、悪かったなー。。(と、諦めきれない・・)
2014年06月27日
コメント(0)
先月28日の朝は、霧が濃かった。その前の晩、気温が下がったからだろう。ほどなく、快晴になり、温度は急上昇。翌日、少し降った他は夏の暑い日のような感じが今朝まで続いている。犬は、このところの気候の変化を察知し、夜寝るときは、ベッドの下に入るようになった。クルマで出かけるときも熱中症にならないよう昼間はこれからはお留守番。これから4ヵ月間、ばっちし暑い日が続く。朝に霧が深いとその日は晴れ、ということになるが、これからしばらく、霧の朝があるだろうな。。。さて、昔は、、5月中に30度になっていたか?子供時代、家にテレビが来たのがあたしが8歳の時だから、昭和31年である。天気予報は、まだ、手書きの小さな看板のようなものに気温の数字が書いてあり、それを、予報官が地図の上に貼っていたように思う。30、という数字は、盛夏で無いと出なかったように記憶するが、、どうか。。そういえば、、お向かいのにさんが高校時代(半世紀前!)通学の時、この辺りの地域では膝までの雪など、日常であったらしい。やっぱり、全体に、熱帯に、、移行しつつあるのだろうか。。それにしても、昨日は、暑かったでした。オペラの舞台もライトの熱もあって、暑かったあー!無事終了。夫が義母と観に来てくれたが、予想通り、とっても楽しかったようだった。何より。(彼女は以前、イタリア歌曲の個人レッスンを受けていたようだから・・)
2014年06月02日
コメント(0)
今日は、昨年春に、ニアミスにて、出会えなかった中学校の時のじさんが、我が家にご主人ともども、来てくれた。ニアミス後、すぐに病気が発覚し、過酷な治療の1年を経て、無事に回復した。その間、メールだけだったけど、ゼッタイ会おう!と言い続けて、いよいよそれが今日、実現した。畑にも入ってもらったし、近くの千年モミにも案内した。何より、これまたご近所の中学校の時の担任の先生宅に、アポなしで押し掛け、談笑出来たのが、良かった。先生宅で、たけのこの佃煮を頂戴する。また会おうね。と、先程バイバイした。お見舞に行かなかった分、おもてなし。麩饅頭と、チーズケーキ、午後ティーして、その後サンドイッチ。もう、頭髪もきっちり生え出して、元気そうだった。本当に、良かった。。。
2014年05月23日
コメント(0)
わさんに初めて会ったのが、パリ行きの飛行機の中。夏だった。彼は、スペインに、ギターの稽古に、、稽古ってへんかしらね。フラメンコギターの習得に行くと言う事だった。同じ機内で、毛利さんと言う方にも会った。彼女はパリだったか、。。観光ではない何かの用事。3人は、意気投合したが、毛利さんのその後は知らない。わさんは、あたしが、コペンハーゲンに行く予定を話していたので、(毛利さんにもだったと思う、。。)秋になって、コペンハーゲンのあたしが入学した学校に突然現れた。帰国途上だったか、。。レオネル(クラスメートのメキシコ人)の部屋に転がり込んでたなー・・。お互い日本に帰国してから、以来長い日々。。いまだに、交流があって、彼の重い病気とかのこともあり、(もうすっかり良くなった)一年に一度、の同窓会くらいの頻度で会っていたのがこのところ、季節に一度くらいになった。昨日も突然電話があって、ウチに来てくれた。筍を掘って、持って帰った。昔やってた・・(ご実家は農家だったとのこと)高知県の今は市内になっているところで、住んでいた時)お父様の代から、大阪に来て、会社をしてる。たけのこを掘る様子が、堂に入ってるので、すごいね、玄人だね、と言ったらそう答えた。そうさな、もう、40年になるんだね。長い付き合いだね。
2014年05月10日
コメント(0)
【RCP】【Joshinはネット通販部門1位(アフターサービスランキング)日経ビジネス誌2013年版】【送料無料】THE BRIDGE/ブリッジ DVD-BOX/ソフィア・ヘリーン[DVD]【返品種別A】GYA○で、第一話を観て、すぐ借りに行く。40年前は、この橋は無かったことにすぐ気が付いた。ああ、この空!この空の為に、あたしは怖いのを我慢して観るのだ。脚本も、衣装も、もちろん、インテリアも、。。胸キュンだ。北欧の映画は、悲しいのは厭だけど、警察もの、マスコミもの、は大丈夫。って、ジツ、おススメですよ。どこかの国のと違い、予想を裏切る展開というか先が見えないから余計に面白いよ。吹き替え無しで観て、デンマーク語、スウェーデン語、の世界に浸る。うれしい。人には分からない快楽。段落ごとにみせられる景色と空。雲!もうたまりまへんなー。。あの橋は、オ―レサンズ橋、というのだね。(お芝居の中だけかも)数カ月だけだったが、住んだ学生寮がオ―レサンズ寮だった。グレートベルトイースト、と言うのだそうだ。1624m、1998年。に出来た?のかしらね。。
2014年04月10日
コメント(0)
60年代、あたしは中学2年、14歳。森山、、良子でなく、(この人ももう随分と、、)森山加代子、ってえ歌手がいて、ティンたれっらディルンナ!とか歌ってた。彼女の歌う、他のカンッオーネで、「砂に消えた涙」というのがあって、それが好きだった。青い月の。。で確か始まった。イタリア語のこの歌を、どこでどんな風に手に入れたかは忘れているが、とにかく、この歌をイタリア語で覚えたのだった。あたしが14歳の時、って、1962年である。おほほ。親戚の家は、大学の先生で、我が家と大阪の中間にあって、阪急電車で4個か5個駅があった。門は見上げるほど高く、ベルを押しても開くまでしばらくかかる。女中さんがいつも開けてくれた。森の中の道を通り、御蔵の傍を通り、裏口に入る。お玄関はその横だった。お屋敷は平屋で、裏から入るとだいどこ、食堂、家事室、居間、居間まで行くと左右に同じ大きさのお部屋が左と右に、廊下を通って行くと、おじちゃんの部屋(こ・・ん大学のせんせだった)お庭が南についていて、前栽と池、鯉が泳いていた。その向こうに、本当の池があって、お兄ちゃんたちはいつもそこで釣りを。。敷地は2000坪あった。(随分後であたしが大きくなってから聞いた)それでも、当時、半分をお隣の大阪府の副知事の赤なんとかさんに売った後だと、。なんやねんそれ。。とか思うけど、昔のその一帯は、そんな家ばっかりだったし。(以上フィクション)このお家によく遊びに行ってたのだが、ある時、女中さんは買い物に、誰それはどこそこに、、、と、この大きな家にあたし一人になった時間があって。そこに、テープレコーダーが置いてあった。大きくなく、今の小さめのノートPCくらいだろうか。。小学校5年から、放送部であったあたしは、レコーダーの使い方には慣れていた事もあり、録音する動作はすぐに出来た。覚えたばかりの「砂に消えた涙」歌いましたがな。イタリア語で。あんぶこねっらさあびあす・・こんでれ。。(・・忘れた・・今、ユーチューブで聴いた、なつかし!)こめそでんとろとって・・あぐりーめ、けだし・・・ぺるめ、えくわんどくおんたららくおんでららるうな・・(このくらいにしといたるわ)録音して、再生して、一人で遊んでおった。誰かが帰ってきた!スイッチを切り、知らん顔した。数か月後・・・再びその家に遊びに行き、、アレ、、の話が出て、。。アレ、、ぼちちゃんだった?と、その家の子供である、5つくらい上のおねいさんに聞かれた。その家の家族は、驚いただろうて。突然、レコーダーから、わけわからん歌のような?ものが聴こえたのだろうから・・。(笑)顔が赤くなった。かどうかも、、もう覚えてないなー。。あたしがその次に覚えたのは英語の「ジョニーエンジェル」だったなー。。誰に教えてもらう事無く、そういう事が好きでやってたんだなー。。本当にずううっと、歌を歌い続けてきたなー・・。と、昨日、ナブッコの合唱の練習の時、思い出していた。おまけ。今日分かった事、ユーチューブを見たから。この 砂に・・はあの大歌手、MINAも歌ってる!デンマーク留学中にミラノ工科大のひとみさんがウチの大学に資料収集に来た時、この、ミーナのテープを沢山くれた。ミーナって、イタリアの美空ひばりなんだよ、と教えてくれたっけ。。
2014年04月08日
コメント(0)
怖い先生がいた。指摘がいちいち鋭く、意地悪だったんだろうか・・。菅先生と言った。家庭科の教師だ。女の先生で、お茶とお花クラブの顧問でもあった。あたしは、お茶とお花クラブに入っていた。(先生が厭でこれらのクラブを止めるわけにはいかない事情があってあたしは入っていた)家庭科の授業で、毎日の食生活を記録して、考察し、改善点があればするし、問題点があればそれを上げるし、(逆かあ)ま、学期の最後にレポートを提出する、ってえやつ。いまだに、その表を覚えている。朝は何を食べたか、昼は何を、、夜は何を、、献立名、材料(肉野菜など種類別に書く)ちょっとした家計簿くらいの大きさで書く欄が、とてつもなく多かった。高校生時代のあたしの食生活、、朝は、パンと紅茶、昼は、学食でうどん(25円)夜は、ぶたまん。とか、チキンラーメンとか。父は飲んで来るし、弟?は遊んでくるし、、母は寝込んでるし、。。(あたしが19歳の時に亡くなるので、このころからしんどかった)25円のうどんか、時々50円のカレー。100円貰うと、その差額がおこずかいになるから、うどんが多かった。主婦するほど、成長してないし、それなりに学校生活も忙しかった。食生活記録に、書く事が無い。困った。緑黄色野菜に、ネギ、とか書き入れて。どんどん日は過ぎて行くし、書く事が無い相変わらずの日常。。書かないと、白紙になっていく・・。そこで、ぼちぼちはまとめて書く事が多かったが、何か、食材のでっち上げをしないとまずいと思ったのだ。それで、朝は、卵焼きを加えた。最終、提出日になって、総括する時に、こうして毎日記録すると、栄養の事とかよく分かって我が家では、毎朝、卵を食べるようになりました。と書いた。後日、家庭科の授業があって、この菅先生の講評の時間。ある方が、毎朝、卵を食べるようになったと、書いておられます。「コレはウソです。そんなに食費がアップするような暮らしじゃないはずで・・。」(どんな言い方であったかはもう忘れているが、、あたしはこう受け止めた)と、あたしは受け取った、先生のご意見。。そういう物言いではなかったが、ニヤニヤしながら、お前のやってることくらいは、お見通しだぜ、みたいな。。そんな物言いだった。クラスの誰もが分からない方法で、あたしだけに分かる言い方?そんな、事があった。あたしは、その事から教訓を得たわけではなく、暮らしもそのままではあったが、長じて、その時、先生があたしのウソを簡単に見破ることは出来ると、実感してる。大人とは、そういうもんだ。当時の、その怖い先生は、外見半分白髪、ひっつめにして、後でおだんご。小さい。決まって、両手を前に合わせて、丸めているが、丁度股部分にそれが行ってて、。グレー基調の上っ張り、長いスカート。銀ぶち眼鏡。(ひーひーばあちゃんみたいな感じ)おそらく、今のあたしよりは若かったのではないか??え??高校教師の定年って、当時、何歳くらいなんだろうか。。書く事が多すぎになる時に、差し障りがある事無い事つい書いてしまいそうになる時に、時効の話を書いておこうと思った。
2014年03月26日
コメント(0)
すっかり熟睡、、はさすがに出来なかった。(笑)けど、電車に乗って、お花見してうたたね、、みたいに。気持が良かった。なんせ、ナマのオーケストラの演奏だったもの。モツアルト、と、芥川也寸志と、ブラムスだった。芥川さんのは、1948年作。あたしと同い年。最初の数小節で、森繁の、映画「社長シリーズ」を思い出した。きっと、彼は、高度経済成長の時代にたくさんの映画音楽を作ったのだろう。とっても、楽しい快活な音たちだった。午後からの演奏に、昼前に出発したのはいいが、、山越えの時に、(この道は休日に通るのは、数年振りである)所謂、観光スポット、ってえのだろうか、、施設などがポコポコ出来ていて、それぞれ、満車!人だらけ!に、夫婦で驚いた。対向車線は車の列、。。今日は何があるの??みたいな。途中の道の駅など、芋の子を洗うような騒ぎ。。当方のつもりが、すっかり狂った。しばらくして、理解する。こちらの感覚が、静寂!!!で、普通がこうなのではなかったのか???ということ。田舎に馴染んで、と言うか気に入って、ほげ、となってしまってる。悪い事ではない。問題は、、あちらの方だ。連休最後のよい天気の日だし。初めて、カフェテリア形式のうどん屋さんに入った。とゆーわけで、時間が余るには程遠く、丁度に入場が出来た。なんせ、信号が多いんだ。(って、それでも都会からは少ない程度)うちらへんなど、じゃあどうなのってくらい。。(意味不明)ハッキリ言う。街のドライブは、もうついていけましぇーーーん。。ま、時々なら。。箕面は、あたしたちが若いころに7年間、住んだ所だったのでとっても懐かしく、夫婦で今ウラシマした。川西市、池田市(五月山の道)箕面市、、とかつての日常に通った道だったので、とっても。素敵な音楽と、思い出ストリートのドライブ。極上の休日。
2014年03月24日
コメント(0)
さて、昨日の打ち上げでは、このアンサンブルでフルート担当の、初老男性がお隣の席だった。昨年の打ち上げでは、これもたまたまであったが、前の席だった方だ。オンナ、ヨリドリミドリ、のお話をして下さった方だ。(去年)ちょっと、この時は、セクハラ気味の、、オトコからすればキショクのええご発言であったし、内容が刺激的であったのでぼちぼちの記憶に残っておったと言うわけ。さて、その続きと言うか、一年後に、、一体なんで、夜のバンド活動?などに入って行かれたか?と言う話になった。労音という集まりがその昔あって、音楽を聴く方ばかりでなく、習う方も結構盛んであったと。そこのサークル活動で、サックスに出会い、素人のバンド、ということで遊んでおったところ、エキストラで、いかへんか?と、先輩からのお誘いで、キタのキャバレーにある夜、、演奏に行った・・。のが事の始まり。彼は、会社員であった。(チョー大企業であるところのひ・・・・・ん)昼は会社員、夜はバンドマンの暮らしが始まった。。当時、給料の5倍は貰っていたとか何とか・・。(驚愕!)あたしも、夜は家庭教師などしておって2倍は稼いでいたからこの辺の事情は良く分かる。(??)寝る間もなかった。。は本当だろう。そこで、サックスの腕が鍛えられたのであるから彼の演奏技術は本物だ。30歳で、その道を卒業し??農家の長男として、見合い結婚。数十年後、定年と同時にこのアンサンブルに笛楽器パートとして参加。と言う具合。へー。であった。他の話題で、同じ楽器フルート関連では、音大卒業して、フルートの先生をしていた方が今は看護師に。。とか。また、このアンサンブルでチェロの担当の方がまさんのヴァイオリンをちょっと弾かれたのであるが、、これが、どこのCDが鳴ってるの?というくらいに上手かった。。へー。とあたしは驚いた。あたしも、キーボードしないで、チャレンジ路線でヴァイオリンである。いやあ、本当に、。皆、すごい。。と思った夜。まだまだある。マンドリンのパートでは、三味線の師匠も居るしね。。きっと、他にも、、というか、、皆、それぞれ、奥行きがあるのだろう。さすがの、シニアたち、である。
2014年03月22日
コメント(0)
今から、半世紀近く前の3月6日、大阪に雪が降った。ずうっと生きてきて、関西に居る時はいつも、3月最初の週には寒くなるのが大概である。雪が降るのは、時々かな。。ちょいちょいかな。それとも、滅多にないかしら。病床にあった母の看病の当番とて、この日は病院で泊まった。それまでも、何度か泊まる事があった。父と、交代だった。当時あたしは19歳。母が相部屋に居る時に、夜中のしゃっくりがひどくて、隣のベッドに居たご婦人が、床に布団を敷いて寝ているあたしを起こしたが起きなくて、熟睡だった、、娘さんにはまだ(看病は)無理ですよ、と、交代の父に進言したらしく、それから、しばらくは泊まらなかった。だから、父は勤め先の中之島の庁舎から、桃山病院に帰る生活。だから、6日は、泊まらなかったかもしれないが、夜、病室からの雪をあたしはみていたのを覚えている。まだその時は、母は話が出来た。でも、6日が最後となる。10日に亡くなったが、お別れは出来なかった。夜明けに父から電話が入って、タクシーで、池田市の自宅から阪神高速で、病院に向かった。弟と。もう、46年になるんだなー。47歳だった。若いなー。。今日は一日、雪が止まなかった。母の事を思い出していた。低空飛行だった。。
2014年03月06日
コメント(0)
かつての、小商いをしていた店のあったビルには、約30軒ほどの商店があったのだが、そのうちの、御大のお一人、にさんが亡くなったと、そのビルの事務所から連絡が入った。あたしが、再開発ビルの一隅を購入して、地権者の皆さまの中に入れて頂き、商売を始めたのが41歳の時、。61歳まで、なんだかんだと言いながらでもお付き合いのあった方である。父は公務員で、母はお嬢、商売とは縁の無い人生であったのが、40歳を超えて初めて、飛び込んだ世界・・。設計や、デザインなどの虚業?で、過ごしていた暮らしから突如、実業の分野にシゴトの一部をシフトした。商売開始後、すぐさま周りとの軋轢があって、愚痴愚痴言った時にお向かいの洋品店のオーナー、いさんが、「ぼちぼちさんの居る世界の人は皆、100点でうごいてるんだけど、こちらは、65点なのよ。そこんとこ、よろしく。」と、言われた事が忘れられない。小さなお店1個、2個、3個、くらいを切り回す商店主たちは皆一国一城のアルジ。自分の事しか頭になく、お金は出すのはいや、貰うならいい。これだけは共通してた。出るのは、会合もいや。損になる事が決まりそうになると、全員出席!の会合だった・・。そんな仲間たちのうちの一人であったにさん・・。いつも、ご自分の意見や提案をワープロに打って、配ってたなー・・。そんな20年のうち、16年は、商店会会長、マンション理事長、副会長副理事長、理事、会計監査、会計、、などあらゆるお役を引き受けた。辛かったけど、今となってみれば、本当に勉強させて頂いた。と感じる。そうだ。こうして、生きてくれば、人生には一切の無駄は無いのだ。もし私が、商売しない人生の人間であったとすれば、自身の性格のしなやかさにおいてはきっと、もっと貧しかっただろう。と、自分で思う。商売の原資となったのは、父母から受け継いだ少々のお金ではあったが、母も父も、早くに別れてるけど、私に経験、というプライスレスの遺産を残してくれていたのだと、思う。。つらつら考えが広がった。。にさんのご冥福を祈って。 ここに、合掌
2014年02月26日
コメント(0)
19歳の時に母が亡くなり、そして、それから19年後、父が亡くなり、と。19年、という数字に思い出した事。あの日、朝の5時46分、揺れたから、今現在8時前なので、丁度、娘とクルマに乗り、とにかく、見学をしないと、と出かけた時だったかしら。出かける、と言う事が不可能と分かって、帰宅したころであったか。。もちろん、停電だし、電話は使えないし、ガスは止まるし、カーラジオだけが頼りだった。長野に修学旅行に行ってた息子は、必死で、ウチに電話をかけていた頃。かからないのが、クラスで自分だけであると分かった頃。しかるに、自宅が、崩壊したのではないかと、心配し始めたころ。夫は、橋梁の関係であったから、すぐ駅に向かって、いったん帰宅して、結局は出かけて行き、一週間帰宅しなかったなー。。。数か月の非日常生活が始まった。子供たちは、大学受験の年代。ケイタイは、まだ家族のだれも持っていない時代。ヒートテッ9も無い時代。この朝に、不思議な事に、つくば市から、恩師からの電話がかかった。様子はどうか、。大丈夫です。この電話だけがかかったなー・・。自宅は山の上であったので、下界に降りてうろついたが、どうどうと涙が出て止まらない。遠くの方で、狼煙が上がるように煙たなびく。なんとなく、世界が埃っぽい。そして、静寂。ただ、音が、何も無い。でも、我らは、生きていた。そして、19年経った。今も、生きている。生きてきたんだなー・・。
2014年01月17日
コメント(2)
彼の声がカーラジオから聞こえてきて、あたしはクルマを運転中。どうしたら、歌がうまくなるか?というリスナーの質問に答えて曰く。何万回という単位で、歌い込め。というのが答えであった。随分前の事だが、これは今もあたしの座右の銘となっている。たかじんさんのご冥福をお祈りいたします。
2014年01月08日
コメント(0)
第九の日本初演に関しての記事がこのサイトにあった。へー。大正年間だったんだ。。大正9年にはこの収容所は解散となっている。1月16日に、東洋残留希望者92名出発。とある。この中に、神戸に残留したユーハイムさんがいたのだろうか・・。さて、場面は変わって、ぼちぼちはうす。ぼちぼちが、第九合唱付きの、コーラスに挑戦しようとしていた日の数日前。30年来のお付き合いである年上の友人、ほさんからミートパイが送られてきた。あたしの、柚子のプレゼントのお返しである。ミートパイは、夙川のリベロのである。黄色い幌が目印の可愛いお店。なつかすい。思い出しておった。中に手紙が入っていて、、。このミートパイ、時々朝食にするんだよとか、いろいろ書いてあって、、リベロのご主人が、昔神戸のユーハイムで、修業されたとかで、、。云々。リベロは知っていたけど、ユーハイムとの関わりはしらなんだ。あたしは、60年前にこのユーハイムのミートパイを、、食べているのだ。(以来、こんにちまで、ずうっとファンです。)亡き父が、一時、神戸のYMCAに勤めていた時に何度か、神戸に連れて行ってもらい、お決まりが、このユーハイムであった。エリーゼ・ユーハイムと言うおばさんが、喫茶店をしておったのだ。ここの、ミートパイが、美味しいと、両親はいつも立ち寄ったようだ。どうも、その創業者が、この収容所の残留希望者の内のお一人らしい。。。リベロのミートパイを、おやつに食べていた時は、以上のような事は分からなかった。ブログに書く前に、ほさんにお返事を書くついでに、カードと、マーマレードを同梱。そんな用をして、第九のリハーサルだった。ドイツ本国ではあまり演奏されていないという、第九がなぜ日本では年末の風物詩?になってるのか、不思議に思い、調べてたら、いろいろ分かったことだった。あたしの個人的なエピソードである。小さな。。しかし、光る。なんせ、ユーハイムのミートパイは、美味しいんだもの。(リベロのも・笑)ギネスの黒ビールの香りとコクが嬉しい。男性に人気!!創元社「関西名物 上方みやげ」に掲載いただいた商品です。手づくりミートパイ★牛肉&ビールBeef & Beer(お得な6個入り)
2013年12月18日
コメント(0)
今、どこ?の答えに、新三田(しんさんだ)。と言う。結婚年数より、少し長いおつきあいのわさん。大阪難波の方で、会社をしてる。クルマを探して、見つけたところが新三田の代理店であったらしく、わざわざ、やって来たらしい。なんでも、クラウンのステーションワゴン、ってのを探しており、予算等の条件に合うのが、見つかったと。関西で、3台しかないとか。。へーとか、ほう、とか、言うばかり。。ま、お元気で、良かったでした。結局、来てくれた。。昔話して、。
2013年10月29日
コメント(0)
ほぼ、30年振りとなる知己が3名、先週末に我が家に来てくれて、旧交を暖める。夫より先輩が1名、まさんと、後輩が2名、のさんとかさんである。特に、のさんと、かさんは、・・実はあたしたちが結婚する前からのお付き合い。結婚してからも、特に親しかった2名である。後輩でもあるので、頻繁に我が家を訪れ、仲良しだった。今回、かさんは、欠席になりそうになり、あたしが電話して、おいでよ!と誘った。んで、来てくれたのだが・・。長らくの、会わない時期を経ると、30年の空白。。トシとって、何か変わってしまった事ごとないかしら、久しぶりに会って、違和感無いかしら、、と心配した。これが、2年、3年に一度くらい会っていれば心配しない事なのだろうが・・。先輩は、やはり先輩で、。この後輩たちは、、やはり変わらず、後輩で。あたしたちが、過ごして来た30年と、同じように人生を過ごして来たのだと、感じること出来て、とても嬉しかった。すっかり、大きくなって、、(っておいおい)立派になって、ホッとした。のさんと、まさんは、夫より3歳、5歳、下。毎週、日曜日には、幼子とともにつるんで、どこかに出かけ、一緒に食事し、帰宅して、ウチに泊まり、、して、おった彼ら。。給料日前になると決まって、泊まりに来た。(爆笑)のさんなどは、あたしたちのアパートの近くに引っ越して来て!洗濯物まで持って来ておった。(洗濯機が無かったので)彼らも、孫も居るようになって、スマホにアルバムを持っている。驚いたのが、2人とも、チャーリーを甚くお気に入りで、写真を撮りまくり、なでまくりして、かさんなど、頂戴!という始末。こんなに、犬が好きだとは、これはしらなんだ。。2人とも、愛犬を亡くして、間が無かったこともあるが・・。のさんは、リトリーバー、かさんはシェルティー。犬の話で盛り上がる。一人は、善通寺市、一人は、岡山市から。今一人、先輩は、八尾市からである。30年前のお付き合いの感覚がまったく変化なしに、楽しく過ごせた。いろいろあっただろうし、いろいろあるだろうことは、話の節々に表れたけれど、それなりに、皆さん、ご苦労もあるだろうて、、と想像もしたけれど、ちゃんと、受け止め、乗り越え、支えて、暮らしておられる。それが、とっても、こちらには、感激のタネとなった。まさに、年齢を重ねる、。ってやつ。皆さん、変わりなくて、(変わったんだけど)本当に良かったね。今回ご招待して。と、あたしが言い、夫が、そうだねと。大きな満足感が、こころに満たされた。こんな事で、満たされた、あたしのこころ。随分、小さいのだな、。と思った。しとしと雨が降っている。秋が深まる。
2013年10月20日
コメント(0)
本日のゲストは、30年振りの、お客様、男性3名。冷凍しておいた、松茸を、、食べちゃった!!それにしても、やろうども、、会社の話が好きでんなー・・。
2013年10月19日
コメント(0)
法人化したんが平成16年、なので、まるまる9年が過ぎ、9期目の決算だった。10期目に突入して、すでに40日余・・。単クロさんは、このたび売上高一兆円をはるかに越えられたそうで、お祝い申し上げます。10年続くのは、2割。とのこと。それだけで、ちょっと誇らしい。うふふ。内緒にする気も無いが、さりとて、誰が祝ってくれるでもなし、ここに書いて、ニンマリしておこう。事務所の立ち上げは、這えば立て立てば歩め、、のように先輩の建築士さんと共同で設立したオフィス、サブとして参加したが、それが、、1983年だから、30年になる。3年後、県境を越えての引っ越しで、一人事務所を設立。それが27年前。買い写真を少しした、あれ?会社員を少ししたのがさらに遡り(これが、今年金になってる)40年近く前。わーすごい昔。わーすごい私。共同オフィス設立時、時間を守れるのが紳士。守れないのは貧士。と、先輩が言った。自覚が無かった。あたし。当時は、自分みたいなものと一緒に事務所をしようと言ってくれた先輩に対して、怖さもあった(8歳上)から、じわっと、怒らないでそういうアドバイスをしてくれた人に対して悪いなー、としんみりして、約束の時間を意識するようになった。時間単価はとにかく、1本数百万の企画プロジェクトとかそう言う仕事を彼女は取ってきたから、シャン!としたのも事実。はいるお金は経費を除いて、完全にブンブンだったので、入ると、お金持ちになった気分がした。すごい量の文字と図面、スケッチをば、書いたから、今から思えばまあ、そんなもんか、、とは思うけれども。。単純作業の無い色とは、あれ、内職とは違うので子供が小さい時は自宅で、少し大きくなってからは図書館で、ガンガンにやったものである・・。(遠い目)そんなあたしは、商売を始めて、ネットに首を突っ込んで、して、今は、PCと、猫ちゃんにお世話になりながら、ブログを書く。紳士と貧士、と言われた事と言えば、コペンハーゲンで、ヘレクリントの事務所で下働きをして、パン代を稼いでおった時、掃除機の使い方について、彼女が、真剣にせよ!(つまり腰を入れろ!)とはっきり言ってくれたこと。非常に頻繁に思い出すのである。思い出したい事なのだろう。。お掃除すると、時々、思い出す。今の我が家の洗面所が、土足もOKっぽい、ジュート麻の氏着物を?あれ、敷きものをひいてるので、底の?そこの掃除をする時に思い出すのだ。力が要るので。今月、昨日の東京からの泊まり客を筆頭に、沢山のゲストをお迎えするにあたり、重点掃除どころか、日ごろの怠け掃除にカツ!を入れるべく、トイレの拭き掃除から始り、2階から納屋まで、徹底掃除の仕上げが、昨日だった。決算の作業も昨日だった。混声の練習も昨日だった。それで、ピアノが遅刻だった。。遅刻は厭なので、、、いい気分では無かった。でも、あたしは、歌うのが好きだから、止めない。遅刻の当人の人生で、紳士と貧士、と誰かが言って、そんでまた、悟る。ことがきっと、これからの人生途上であるだろうし。。お若いの、遅刻はあきませんでー。
2013年10月12日
コメント(0)
台風の時もだが、しこたま雨が降って川の増水があると、決まって、見たい衝動にかられる。小学校2年の時に、雨の後の川(じゃないけどかなり水量は多かった)をいつものように(通学路では無く川を渡る!)飛び石をつたって、渡ろうとして目が回って、流れに落ち、流されて、びしょ濡れになって帰宅した記憶がある。水の色は、すでに茶色で無く、透明に近かった。いつもの石は流れに沈んでいたが、膝くらいまでの深さだったと思う。流れが強かったのと、じいいっと流れを見つめているうちに吸い込まれるような感覚があった。転んだ感じで、水に投げ出されて、少しは流れたけど、手をついて、自分で立ち上がった?のか、一緒にいた友達が騒いでくれたか、帰宅は、数人でしたと思う。もちろん、ずぶ濡れはあたしだけだが・・。母は驚いて、季節外れではあったが、長袖のピンクのカーディガンを着せてくれた。それは手編みの、父の姉である、叔母が編んでくれたものだった。濡れた皮膚に、少しチクチクする、ウールの感触。
2013年09月17日
コメント(0)
この、10周年の記念すべき日に、タイトルが事故!など、。相応しい話題じゃないようだが、幸福な自己、じゃなくて事故。かもと思い、。かいちゃるが。事故は事故でも追突事故である。こっちが追突した方。しかも、警察署の前の交差点。サンドイッチを食べていた。もう一つ食べられる。と思ったその刹那。前の軽トラに。信号なので、止まっておった。青になった。つもりであった。。いや、青は進まないといけないではなく、進む事が出来る。なので、前方不注意。かなりの衝撃ではあるが、身体にはそうでもない程度。前のクルマからオジサン、「あーびっくりしたー」と降りて来られた。8月の25日の事。そう、舞台の日。警察に事故届。舞台。(双方クルマは動いた)舞台終了後、修理工場へ搬入。保険会社に連絡。翌日、お詫びにオジサンの会社へ。そして、昨日。あたしの愛車がキレイになって帰ってきた。その間、代車。ボンネット、取り換え。保険金、小さな文字で自損は25万と書いてあり、自分で契約していながら、そういう認識はなかったので、25万なんだー。と判明してからに(事故後)到底、こんな状態では、、25万ではできましぇーん。と宣告され、、うー、定期預金も夢のまた夢だわい・・。涙!とか、思っていた所。中古のパーツが見つかり、なんとか・・。中古とは言え、そのパーツ、ちゃんと普通の形なので、言われなければわからない。この車種、いま日本では売ってないから、ちょっと心配はしていた。。でも、あって、(パーツ)良かった。そんで、こっちの実の財布には影響が無かったのである。もちろん、お相手のも、保険で。。警察に行った時に、その紳士に、病院、とお勧めしたが、断固拒否され、。警官も行った方が、、とお勧めされたが、いいです。常識的に考えて、あれくらいでは、大丈夫。と言ってもらい・・。ええひとにあたったもんやと、ホッとしたりして。。渦福は糾える縄の如し。そんなこんなで、本日、ブログ開設10周年でございます。皆様、ありがとうございます。まだ生きておりますので、しばらくこのまま継続させて頂こうかと思っています。よろしくお願いいたします。
2013年09月07日
コメント(0)
この際、言ってしまおう。明日でブログが10周年で、毎日、一応はこちらを利用させて頂き、つらつら自分の思いや、出来ごと、シゴトの事、家庭生活など、日記風に書いてきた。たかが、(本当に)10年書いたと言うだけの事であるが、やっぱ、それが、(ブログ)自分にとってどうなんだ、とか、考えていて、10年前の自分はどうか、キッカケとなったのは、、とか回顧していて、トイレに行った回数はとか、(笑)10歳年取って、変わらず何かしている、変わった事、変わらない事、と進んで来て、変わらない事。すぐ浮かんだ事。定期預金が無い。つくづく思う。あたしは、貯金というものが出来ない人なんだと。
2013年09月06日
コメント(2)
音楽祭では、アンサンブルで、5曲弾いた。ヴァイオリンという楽器に出会い、お付き合いして一緒に舞台に上がるのは、何度めだろうか。。困った状況のときに、出会った(ゆちゃんが譲る・・と言ってくれて)ヴァイオリン、なるものを弾いてみようと思い、同じくゆちゃんのお勧めで女性センターのグループレッスンに参加した。5人か、6人、おられたと思う。店が始まる前だったか、それとも、定休日であったか、店とは反対側のその施設に出向いて、小一時間、レッスンだったなー・・。夕焼け小焼けとか、易しい曲。先生は歌劇団のオケで、ヴィオラを長年担当だった方。1年くらいは続いたが、先生のご都合が悪くなって(プロモーターをしておられてその本業が忙しくなったとかで)そこで、レッスンはおしまい。夕焼け小焼けのままだった。次の先生は出稽古してもらった。店にだ。おンとし、19歳の若手。大学で、ヴァイオリン専攻のお譲さん。この方もゆちゃんの紹介だった。2週に一度、来て下さり、閉店時間30分前から、だったけど。閉店後、鏡だらけの店の前の通路で、姿勢とかチェックできたので便利だった。姿勢はチェックするが、音は全く進歩しなかったなー・・。半年くらいは頑張ったけど、弾かなくなって、中学生の本格的にこれから弾きたい、と言ってる方にお貸しすることになり楽器は、あたしの手元から離れる。3-4年。。で、また、戻ってきた時は、引っ越しの直前であった。資金繰りのしんどい時代。実は、手放そうと思って、価格もご提示したが断られた。眺めて、磨いて、している時、いつもヴァイオリンとの歴史を思い出す。こちらに来て、今の先生が一番もう長く教えてもらっている。よく続いている。じっくり考えてレッスンのペースを決めたりしたのが良かったのだと思う。全く不出来な生徒ではあるが、100の内一つでも、良い傾向があると、褒めて下さり、後はスルー。それで、続いているのだと思う。これが、月に一度、教えてもらうときに怒られて注意ばかりだととてもじゃないが、じゃあ、来月ね。とはいかないだろう。演奏家になるわけじゃないから当然だろうがしかしこの分野には永遠の課題が横たわっているのだぞ。。。上手くなると楽しさは倍増する。上手くなるためには修行が要る。必ず!である。修行は楽しいが疲れる。楽しいばかりでもない。続ける、、ということの困難。何時まで経っても出来ない事もあるかもしれない。それでも、立ち向かい、続ける事をしないと上手には絶対になれない。ああ、寝て起きたら、上手くなってた。と言うのは無いのである。そこまでは分かっている。分かっているのに出来ない。で、こないだの本番の前日、明日の曲を。と先生がさらえようと言われた。いつも、予想外の展開である。ぎょ。明日の??曲??ですか??あたしは、むちゃくちゃに弾いてごまかしているのを自分だけ分かってるんだけど、先生もご存知でしたか??みたいな。5曲の内、ごまかしてる部分があるのが、3か所。運弓と、指、チェーック!せんせ、あの、パリは燃えているか、伴奏しますから弾いて下さい。などと、ごまかしている上にまたごまかしたりして。(笑)もちろん、あたしはピアノに向かうのであるが。。ヴァイオリンのレッスンでだ。ボウイングで、また弾き方チェーック!響きは弓からではなく、楽器が響くのです。(**;)開放弦で、ひたすら弾く・・。すると、テニスのラケットのスイートポイントのようにぼわん!と響くときがあるのだ。格段に、とまではいかぬが、確かにぼわん、と良く響くときがある事が分かる。おう。これかー。などと、戻りつつ。。もういいです。と一時間後、おしまいのお願い。これで、楽器を置こう、という気持ちになる時、置かないと、疲れるのだ。腹八分目。シニアのレッスンのコツ。である。こういうのが、若い人とは違うのだ。だから、若い時にやっておかないとなんだ。光陰矢のごとし。むはは。で、本番。教えてもらって舞台の上でもそれらは覚えており、少しはその通りに実現しました。ここに書いておくと、おまじないのようですので書きますが、来月のレッスンは、パッフェルベルをします。
2013年08月27日
コメント(0)
この、韓流ドラマは、最後まで観た。話の筋もさることながら、何があたしを惹きつけたかと言うと、ヒロインがトンイのヒロイン、であること・・じゃなくて、お話がハッピーエンド(これはお約束)になるから、、でもなくて、ちょっとあるかしら。ままははの役の人が、あたしのままははであった人と、ソックリだったからだ。遺産と呼ばれるほどではないが、彼女とは父が亡くなって相続が発生した時に裁判になった。弁護士が、現金は諦めて下さい。と言った。人生には、諦めが肝心である。(笑)この、ドラマでは、悪い事をした(との描写である)ままははは、ソウルから遠くへ、手荷物一つで追い出される。何時の日だったか、、あたしがまだ、独身の時であっただろうか、、20代だった。実家の近くで、彼女と道でばったり出会ったのである。挨拶をしようと、こちらは気持が動いたその刹那、彼女は、自分の顔を隠し、コソコソと、道の端によって、、(まるであたしがバイ菌ででもあるかのように)あたしを避けたのだ!そして、通り過ぎた・・。言葉なく・・。顔を隠したまま・・。このシーンは、うす暗さの中であたしの脳裏に焼き付いている。こちらは、目が点だ。なぜそういう展開になるのか、さっぱり分からなかった。これは、、裁判の前である。(その後協議により合意してる)父も存命のころだと思う。そうだよな。父が亡くなったのがあたしが39歳の時だもの。ああいう態度を取られると、その後、どうして気軽に声かけが出来るだろうか。まだまだ、若かったなー。ちょっと、かわいそうな自分。今のあたしだと、へーきかしらね。。いや、実際、傷つくよね、。
2013年08月22日
コメント(0)
全563件 (563件中 251-300件目)