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ミューザ川崎シンフォニーホール 14:00〜 2階右手 ブクステフーデ:前奏曲 ト短調 BuxWV148 いざ来ませ、異邦人の救い主よ BuxWV211 我らが神は堅き砦 BuxWV184 ブルーナ:聖母の連祷による第2旋法のティエント コルネ:ファンタジア モーツァルト:小オルガンのローラー用のアンダンテ へ長調 K.616 C.P.E.バッハ:オルガン・ソナタ イ短調 Wq.70-4 J.S.バッハ:バビロン川のほとりに BWV653 アッラ・ブレーヴェ BWV589 前奏曲とフーガ ハ短調 BWV ダカン:スイス・ノエル J.S.バッハ:パッサカリア BWV582 <アンコール> J.S.バッハ:我汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ BWV177 〜 コラール トッカータとフーガ ニ短調 BWV565 〜 トッカータ D.スカルラッティ:ソナタ ト長調 K.328 / L.S27 オルガン:トン・コープマン オルガンの演奏会、っていうのも微妙は微妙ですよね。ピアノ以上に演奏者の違いが音に出てこないというか・まぁ、むしろ、音色音量の選択で個性は出るものではあるのですが、ただ、こっちもそこまでオルガンを聴き込んでいるかというとそうでもないし..... とはいえ、なにしろトン・コープマンだし、ということで、ミーハー的に行ってきました。 うん。ミーハー的なお客が多かったんじゃないですかね.......いや、人のことは言えない......... 良かったはよかったですよ。ただ、席が悪かった。ミューザの、横の方の席って、勾配が付いてるんですよね。坂に、段差なく、並んで片側から反対側へ低くなったりしている。正直、人間工学的にどうなの、という感じなんですよ。そういう席買ってしまった方が悪いっちゃぁ悪いんですが、そういう席に座ると、座面は水平であっても、足元の床が傾いているので、左右の足の置き所の高さが変わるんですよね。その結果、普通の椅子を水平の床に置いて座ってる場合、ってつまり普通は、体の重心はブレないんですが、この場合、当然のように床の下がっている方へ重心が偏る。結果、物凄く居心地悪いんですよ。 それでも、普通のコンサートのように、舞台を向いて座っていれば、それなりに我慢出来るしあまり違和感は感じないのだけれど、なにしろオルガンコンサートなので、舞台の遙か奥、上の、オルガン演奏席を向く訳です。これは、辛い。 正直言うと全然集中出来なくて、なんだかよくわからない感じでした。まぁそんなもの。でも、あの席の置き方は、やはり人間の生理を無視した、非人間的座席なので、改修した方がいいと思います。床の問題なので、簡単じゃないですがね。 ミューザは特にそうですが、なんというか、最近のホールは実際にコンサートに行って聞いたことがないような人、想像力がまるでない人が設計してるんじゃないか?と思うようなのが増えましたね。図面さえ引きゃなんでも作れるし作れれば問題ない、ってなのが増えてるんじゃないだろうかと。 演奏の方ですが、しかし、どうだったのかしら。アンコール1曲目、カンタータのコラールを演奏したのだけれど、なんというか、心の残る終わり方でした。あれ?これで終わりなの?というような。あれ、繰り返しがあったんじゃないだろうな、という感じ。なんかね、変な感じでしたよ。で、例の「トッカータとフーガ」のフーガ抜き、トッカータだけのアンコール。いや、まぁ、アンコールだから、それでもいいんですけれどもね。でも、正直言えば、トン・コープマンだったら、フーガこそ聞きたいと思うのですが、どうですかね。 なんかね。今日は私の日ではなかった、ってやつですかね。全然面白くないなぁと思いながら帰ってきました。別にコープマンに責任はないんだとは思うんだけれども。まぁ、こんな日もあるさね。
2023年02月25日
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諄いようですが、今月も東フィルの定期演奏会は指揮がミハイル・プレトニョフなので、個人的にボイコットしようと思います。サボタージュまではしないけどさ。 色々な意見はあろうけれども、他国に侵略を行っている国の公職の禄を、かつてにせよ食んでいた人物が、現状に鑑みて演奏会に出てくるというのはやはりおかしいと思うので。 文化芸術と政治は別物、という意見は相変わらずあるようですが、単なる政治的意見の相違みたいなことではなく、具体的物理的に侵略を行う、戦闘行為を行い市民を巻き込んで害している、というのは、全くの別物で人間としての在り方を問われる事態だと思うので、それに与することはあり得ません。 それならイスラエルだって中国だってアメリカだって、という意見も世の中にはあるらしいですが、形の上にせよ、実は個人的には本当はだからこうした国の演奏家はあまり聞きたくないなぁと思っていたりするのですよ。そうは言っても、今足許で具体的に曲がりなりにも国家として成立している国を侵略し征服しようとしている、というような蛮行を現在進行形で起こしている国とはちょっと違う。しかもこの国は日本だって具体的に脅しているのであってね。 そんな国出身で、かつて公職にありながら、現状について一言も発しない、というのは、やはり無責任というものだと思います。今のロシアのような事実上の全体主義国家にあっては、そうしたメリットを享受したことのある人間はその分責任を負うべきだし、立場を表明するべきだと思います。 理不尽というなら、それは誰にでもあり得る人生における理不尽の一つであって、そうした理不尽に際してどのように身を処するかがその人の真価を問うてしまうものであって、不公平なものなのですよ。 だから、やるというのなら止めないし、聞くというのなら止めないけれど、私は行かない。そういうことです。
2023年02月24日
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東京芸術劇場 19:00〜 1階右手 J.S.バッハ:カンタータ第22番 BWV22 〜 第5曲「悲しみもて我らを死なせ」(デュルフレ編) パストラーレ BWV590 〜 II. アルマンド トッカータとフーガ ニ短調 BWV565 ベートーヴェン:交響曲第9番 ニ短調 BWV565 「合唱」 オルガン:石丸由佳 ソプラノ:市原愛 アルト:山下牧子 テノール:笛田博昭 バリトン:青山貴 日本フィルハーモニー協会合唱団 日本フィルハーモニー交響楽団 指揮:小林研一郎 ボツボツと書き残しを書いていこうかなと。 去年年末の第九です。日フィルは、例によって安いチケットが出ていたので。安いとはいえS席扱いのところを特価で、なので、一番安い席よりは高いのか。まぁ、たまには、と思って。 一応前後半で、前半はオルガン演奏。まぁ、最近よくある「前座」方式ですね。この辺になると良し悪しというものが段々分からなくなってきます。面白かったけどね。オルガンの真ん中に小さな風車みたいなのがあって、そこのパイプが鳴るとくるくる回るのが、まぁ、面白いとか、そんな感じで。 第九の方ですが、こちらは、まぁ、なんとも。小林研一郎だしなぁ、と思って聞きにきましたが、まぁ、それなりによかった。合唱はアマチュアな訳ですが、アマチュアなりによくやっていたと思います。ある意味新国合唱団よりもよかったのやも。発語もそれなりにしっかりしてるし。ただ、聞いていて、発音が統一されていなかったのかな?という気はしましたが。(derのerの処理とか、ですね) まぁ、アマチュアだから、大目に見てよ、というところもあるかも知れません。 歌手は、まぁ、ねぇ。という程度だったかなぁと。水準的には合唱とあんまり変わらないかなぁ。 オケは................この年末は、結局第九は違うオーケストラで3回聞いたのですが、上手い下手を言ってしまうと、やはり日フィルが一番力量的には苦しいかなぁ。微妙なところでブレるのと、時々「ん?今何やろうとしてる?」というような感じが出てしまうのと。コンサート全体としては悪くないとは思いましたし、それなりにやってはいるんだけれど...........上手い下手を言うと、ねぇ。それがいいんだ、って言う人は言うんでしょうけれど、なんというか、よく言えばファンが付いてる。悪く言えば内輪での評価が高い。 私は、たまに定点観測的に聞いとこうかな、というところですかね。まぁ、しばらくは、いいや。また安いチケットが出てきたら考えるかな。
2023年02月18日
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新国立劇場 14:00〜 4階右手 ファルスタッフ:ニコラ・アライモ フォード:ホルヘ・エスピーノ アリーチェ:ロベルタ・マンテーニャ メグ:脇園彩 ナンネッタ:三宅理恵 フェントン:村上公太 クイックリー夫人:マリアンナ・ピッツォラート カイウス:青地英幸 バルドルフォ:糸賀修平 ピストーラ:久保田真澄 新国立劇場合唱団 東京交響楽団 指揮:コッラード・ロヴァーリス 演出:ジョナサン・ミラー ファルスタッフ。あんまりオペラとして面白いと言えるかどうか.....その割にやりたがる人は多いようで、時々ぶつかります。新国ではこのジョナサン・ミラーの演出が今回5回目だそうで、前回は2018年。個人的にはその直後にベルリンで観た方が印象は強いのですけれども。新国は東フィルでカルロ・リッツィの指揮。ベルリン国立はバレンボイム。最近では去年東フィルがチョン・ミュンフンの指揮で、定期演奏会で演奏会形式で。これは結構面白かったのだけれども、その辺が実はファルスタッフというオペラの難しさでもあり。 いや、皆やりたがるし、割と珍重する人もいるけれど、基本的にファルスタッフってオペラとしてはそんなに面白いというわけでもない部類のそれだと思いますよ。 まずはアリアの類が充実しているわけではない。といって、例えばオテロのような劇的緊張に満ちた作品でもない。劇として見ると、個人的には、同じシェークスピアの原作であっても、オテロが原作からエッセンスを抽出してオペラとして高い完成度を達成したとするならば、ファルスタッフは、まぁ、そこまでではない。嘘だと思うなら、機会があれば素人じゃない劇団で一度「ウィンザーの陽気な女房達」をご覧になることをお勧めします。ファルスタッフは悪い出来ではないけれど.... 音楽的には、山があるわけではない。敢えて言えば、終幕のフーガが勝負なんですよね。決して全編にわたって出来が悪い音楽ではないけれど、やはり劇的緊張は深くない。強いて言えば、3幕冒頭のファルスタッフのモノローグくらいですかね。それが、ストーリーから外れて最後突然始まるフーガ。ここが締まらないとダメなんですよ。結局。 で、今回は、これが締まらなかったですねぇ。これが全て。言えばファルスタッフはそれなりに声量はあるようだったし、歌手によりそれぞれ歌ってはいました。日本人キャストも、ってざっくり言うけれど、タンホイザーよりはもうちょい良かったのではないかと。でも、最後のフーガ。ここのアンサンブルは死んでも守らなきゃ、なんですがね。東フィルの時は、頑張ってたけど、歌手がもうもたないです、という感じでした。でも、チョン・ミュンフンは、流石にそれでもどうにかしようと頑張ったし、歌ってる方も、オケも、どうにかしようと頑張る風はあった。今回は、まぁ、皆、頑張ってる感じはなかったかな、というか、ここが肝だと思ってやってる風ではなかったかな...... 個人的には、これが全て。言い換えれば、他がそれをカバーするほど出来が良かったわけでもないしなぁ。悪くはないんですよ。でも、ねぇ。 演出。既に書いた通り今回で5回目の演出なのですが...... 今更こんな言い方もどうかと思うのですが、ジョナサン・ミラーの演出って、必ずしも優れているというわけではないと思うんですね。ええと、ダメって訳ではないんです。むしろモダン・オーソドックスとでもいうようなものだと思うし。だから、違和感はないんだけれど、それ自体に強い求心力があるというものではない。だから、気を抜くと、すぐにダレると思うんですね。 で、最近の新国のオペラの演出って、再演演出がどうも細部で腐ってしまう傾向がある気がするんですよね。 いや、明らかにここはおかしい、とかいうのはないと言えばないんですが。ただ、オペラ自体も勢いで見せられるものではないから、その分、演出は気を配って欲しいのだけれど、どうも細部に丁寧さがないというか.......芝居になりきってないんですよね。 それが、モロに出てしまうのが、このオペラで唯一の合唱の出てくる、最終幕の公園の森の場。合唱はファルスタッフをからかい脅しにやってくる、精霊やら妖精やらに扮した集団。なのだけれど、専らファルスタッフに絡むのは主要メンバーだけで、合唱は実質ちょっとウロウロするだけ。それだけのこと?でも、そういうのが、舞台を、芝居を、具現化するということなのですよ。 実は合唱はタンホイザーの時も、巡礼の合唱とか、芝居になってないんですよね。歌うから?いや、東海林太郎や鶴田浩二じゃないんだからさ。(って言って分かるのか知らんが)直立不動じゃないけれど、舞台であまりに芝居が見えないんですよね。 そこなの?って言われそうですが、ええ、そこなんですよ。ファルスタッフは、なんとなく音楽でエイヤーっと走り抜けられるようなものではないし、そこまでの実力も演奏家の側にはないのだから、じゃぁ、丁寧に作るしかないと思うんですが、丁寧さというものが、ね。 なんかすごくつまらなかったとか、酷かったとか、そういう訳ではないですよ。でも、観て、正直なんとも思わないよね、というものであったのも確か。ある意味その方が深刻です。そう、比べるものでもないけれど、前日に聞いた水車屋とかの方が遙かに音楽もドラマも濃かったと思いますよ。
2023年02月15日
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横浜市緑区民文化センター みどりアートパークホール 15:00〜 右手 ベートーヴェン:「遙かなる恋人に寄す」op.98 ピアノソナタ第28番 イ長調 op.101 シューベルト:美しき水車屋の娘 op.25 D.795 ピアノ:仲道郁代 テノール:西村悟 青葉台のフィリアホール、あれは青葉区民文化センターになるのですが、これが去年の4月からこの4月まで工事中ということで、フィリアホールの主催で長津田のここでの開催、という態。 この組み合わせは、以前シューマン・シリーズで詩人の恋をやったそうで、今回のこの企画、だそうですが.........しかし、まぁ。 普通、水車屋だけでリサイタルを組むものです。それだけでも十分な分量。まぁ、冬の旅に比べると幾分軽いですが、他と組ませることは殆どないし、アンコールだってやらないのが普通。それをリサイタルの後半に組んで、前半にベートーヴェンの「遙かなる恋人に寄す」と、28番とはいえソナタを一曲....そりゃ無茶じゃないのか、と思ったら、仲道郁代自身が「普通、やらない。まずピアニストが嫌がる」ええ、そうでしょうとも。 で、どうだったか?まず、水車屋最後までやり切りました。その意味でこのプログラムで失敗はしませんでした。まぁ、個人的には後半だけでよかったし、後半の方が分かる内容だし。演奏も良かったし。 なので、水車屋から。 率直に、というか、偉そうに言って申し訳ないけれど、率直に言いますと、私の好みではない。いい歌唱だと思います。勿論伴奏もよし。唯一気になるとすれば、時々語尾の子音がはっきりしないことがあり。それは少し気になりますが、歌い切らずに抜く、というのとは違うので、まぁ、そこまででは。あと、若干、たとえば Wandern のwがfに近くなっちゃうかな、とか、dernのerの処理が不安定かな?とか思わないでもないですが。言い換えるとそんな重箱の隅突っつくような話でしかない。基本的には、歌としてちゃんとしていたと思います。ベートーヴェン歌ってからのこれですが、それを割り引かなくてもちゃんとしてました。 ただ、好みではない。というか........そうねぇ。若いなぁ、というところかなと。 18曲めの「しぼめる花」。これはこの曲集の白眉と言っていいと思うのですが、この最後の節。私は、ここは、heraus, heraus の方にこそ想いがこもると思っているのですね。楽譜上は、言えば、その後のder Mai ist kommen, der Winter ist aus の方にはアクセント記号もあるし、伴奏の方はクレッシェンドしていく。でも、heraus、というのは、命令形なんですね。だから、明らかに叙述ではなくて、呼び掛けなんです。彼女が私が誠実だった、と思い起こした時、その時こそ花たちよ咲き誇れ。その時こそ5月 - 春の象徴的な言い方ですね - が来たのだ、冬は終わったのだ。という、咲き誇れ、というのを命令形で繰り返す。こここそが一番言いたいことではないのかな、と思うのですよ。後段の方が理屈ではあるのですけれどもね。でも、端的に言いたいのはそっちではないかな、とか。この辺は解釈の問題ですが。 最終曲の「小川の子守唄」は、もう少し表現があってもいいかな、と。一番最後、多くの歌い手はリタルダントしたりするのですけれども、確かに楽譜上はそうはなっていない。だから、淡々と最後まで進めるのはむしろ正しいし、考えようによっては、むしろ子守唄なのだから、この行き方の方が正しいのかも知れない。そういう意味では勉強になりました。いや、そういう意味では、正しいとか正しくないの次元ではないんですよね。そういうレベルだったと思います。 ただ......若い、かなぁ。元々歌い手以上に若い青年が恐らくは主人公の設定だと思うので、その意味では「若い」というのも妙なのですが........... いや、良かったと思いますよ。 伴奏は勿論言うまでもなく。強いて言えば、やや抑え気味でしたでしょうか。確かにあまりピアノが主張する余地は多くないし、無理に主張するとバランスは崩れますから、これはこれでいいと思うんですけれども。 一方、前半のベートーヴェンは......正直、よく分からなかったかな、と言うのが本音です。 いや、「遙かなる恋人によす」って、あまり聞いてないんです。ちょっとよく分からなくて。演奏会後のトークで出演者の二人が「ベートーヴェンは声を楽器として扱う」みたいな話をしていて、その通りだと思うのですが、言い換えると歌としてちょっとつまらないんですよね。歌としては、やっぱり圧倒的にシューベルトの方が聞いても歌っても面白い。選んだ詩も、まぁ、そう言っちゃなんですが、ええかっこしいだし。 加えて、ソナタは28番。op.101。正直、渋いです。「熱情」や「告別」と「ハンマークラヴィーア」の間に挟まれて、それなりに聞く機会はあるのだけれど、しかし、渋い。この演奏が、なんというか、決然としたものとでもいうか。シューベルトの世界とは全く違う世界ですね。いい悪いではなく。これは「遙かなる恋人によす」とも通じます。決然とした歌。いや、そもそもそういう歌なんだと思うんですよ、これ。確かに、なんというか、まぁそういう恋心を歌っているのだろうとは思うけれど、それにしてもなんというか、理性的なんですよね。こっちも一応悲恋の筈なのだけれども、そうですね、激情はないなぁ、と。シューベルトなんてそればっかりなんだけれども。でも、歌としてはそっちの方がいいですよね。音楽的にはベートーヴェンなのかも知れないけれども。 そういう意味ではよく捉えるべきを捉えた演奏なのだと思います。もうちょっと、それにしても、ピアノは歌ってくれていいかなとは思わないでもなかったですけれども。
2023年02月12日
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新国立劇場 14:00〜 3階右手 先週に続いて2回目です。 まぁ、正直言って、色々ブラッシュアップされてる気はします。言い換えると、やっぱり1週間前のはゲネプロだったんじゃないの?というような、ですね。今日初めて観た人はそれほど悪い感じはしなかったんじゃないですかね。だからいいってもんではありませんが。 ただ、本質的なところが変わるというものでもないのであって。日本人歌手による歌い手達は、やっぱりそういうものだよね、と。こんなんでいいわけないじゃん、という。外題役は幾分か良くなった感はあるし、ヴォルフラムも改善はされてますけれども、まぁ、マシになった、というくらいかなぁ..... 合唱は、幕切の合唱だけは力強さは増してますが、やっぱり、ハレルヤ!のところがダメダメ。腹から声を出せ!みたいなところではあるのですが、そもそも演出も含めて、やっぱりこれはかなり問題が多いんじゃないかなぁと。 このオペラをどうしたいか、というのが感じられないんですよね。 ちょっと一般論的な話になりますが。 読み替え演出、あれを嫌う人って少なからずいるんですけれども、私は読み替え故に良しとも悪しとも思わないのですが、じゃぁ、何がポイントか?と考えるに、なんというか、作品そのものを信じているかどうか、かな、と思い至ったのですね。これ、多分オペラに限らず、クラシック音楽全般にも、演劇でも文学でもなんでもそうじゃないかと思うのですが。 信じている、といっても、その話が事実であると信じるか、とか、そういうことではなくて、その作品を作品として受け入れるか、信頼しているか、みたいなことかなと思うのですね。その話の中で、たとえば法皇が「この杖に芽吹くことがないようにお前は救われない」と言ったら、その杖が芽吹くという奇蹟が起きた、という話を受け入れるか、そういう物語としてそこにあって、それは何某かの人の心に働き掛けるとかそういう力があると信頼するか、そんなようなこと。よくリスペクトなんて言いますが、はっきり言ってそんな薄っぺらいものではないです。まずそういう話を話として受け入れるか、ということ。決して肯定しなければいけない、というものではないんですよね。読み替えて別の話にしてもいい。結末を書き換えるのもアリかもしれない。でも、元々の話を一つの作品として受け入れて、それを前提にして作り込めるかどうか、そういったことかと。 この演出、原演出それ自体はそれほど突拍子もないものではないと思います。オーソドックスと言えるかどうかの設えではあるけれど、別に話が変わってしまうわけではないし、そういう意味で素材はいいと思うんですね。ただ、そのままゴロンと投げ出せば作品になる、というほど簡単なものでもない。上演関係者のレベルがモロに見えてしまう怖い演出という気もします。いや、そもそも舞台ってそういうものという気はするのですが。 3幕の合唱なんかはその典型例だと思うんですけれどね。例の「ハレルヤ!」は、楽譜上はffになっているけれど、それだけの問題ではないんですよね。ヴァルトブルクのあるアイゼナハのあたりからローマまで歩いて巡礼に行く、それも中世の話です。それがどれだけのもので、そこまでして贖罪を熱望し、無事赦しを得て懐かしい土地に帰ってくる。その喜び、というものを、何某か理解しての上でのその声なのか?神への感謝なのか?幕切の方をもっと盛り上げたいからここは、なんていうことなら、心得違いも甚だしい。それと、その合唱の現れ方と去り方もまた。率直に言って「歌うから舞台に出てきて皆で並んで歌って、歌が終わるので捌けます」というようにしか見えないですよ。そうじゃないんだよ。歌うかどうか以前に君達は何ヶ月もかけて今ローマから歩いて帰ってきた巡礼じゃないのか、ということ。 その辺が如何にも弱い。なんというかそういうことが腹落ちしていないから、一人一人の歌も「自分はこいういう歌を歌う役割」になってる気がします。精神論?いや、舞台芸術というのは、そういうものではないかと思いますよ。
2023年02月04日
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