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2008年03月01日
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カテゴリ: クラシック
 みなとみらいホール  14:00~


 ソプラノ:ウテ・ゼルビッヒ
 アルト:エリザベート・ヴィルケ
 テノール(福音史家):マルティン・ペッツォルト
 テノール:アンドレアス・ヴェラー
 バス:マティアス・ヴァイヒェルト、ゴットホルト・シュヴァルツ
 聖トーマス教会合唱団
 ゲヴァントハウス管弦楽団


 先日、シャイーの急病を理由に来日キャンセルとなったゲヴァントハウス管が、改めて来日して、バッハ所縁の聖トーマス教会の合唱団と、マタイ受難曲及びロ短調ミサを演奏するツアー。今日はその初日。首都圏で休みの日に行われるのはこの日だけ。
 で、どうだったか?結論から言うと、久々にいい演奏会でした。

 結局の所、クラシック音楽というのは、とても「我々と同時代のもの」にはなり得ていないのが実情です。オペラについては、演出等を通して、現代に繋がる道を模索しているけれど、そもそもそのフォーマット自体が「我々と同時代のもの」と言うには無理がある。その中で唯一「現代に生きている音楽」でありうるのが、実は、宗教曲だと思います。
 というのは、なんだかんだ言っても、やはりまだ西欧諸国の文化社会の基礎には、キリスト教というものがある。各個人が強い信仰を持ち得ているかどうかとは関係なく、存在する。その上で、教会というものがあり、そこで演奏される音楽がある。その音楽で表象される信仰を実際に持っている人が居る、という関係に於いて、宗教曲というのは、過去の作品であると同時に、現代に於いても生きている音楽でもありうる、と思うのです。

 今回の演奏でやはり特筆すべきは、聖トーマス教会合唱団の歌唱だと思います。まず、合唱として大変素晴らしいのは言うまでもない。今回は、少年合唱団が40人ほど、それに男声合唱団が30人ほどの構成です。これだと、最近の古楽演奏系の編成に比べると大掛かりです。実際、今日の演奏は、古楽奏法も取り入れてはいるし、ヴィオラ・ダ・ガンバも入ったりしているけれど、基本的には「古楽」ではない。オーケストラは、ヴィヴラートこそ抑え気味だけれど、基本的には現代オケのスタイルとそう変わらない。何より、「バッハの往時に戻って演奏する」というやり方ではないのです。結果、大きめの現代のコンサートホールを満たすだけの音が出て来る。
 けれど、合唱で言えば、それは、数に任せての力技ではないのです。これだけの大曲をやると、下手な合唱団なら歌うだけで精一杯でしょう。けれど、この合唱団は、それを表現に回すことが出来ている。例えば、ペテロの否認の後、アルトによるえも言われぬアリアの後の合唱(私はこの曲をどう表現したらいいのか、言葉が見つかりません。ただ単に悲しみだとか後悔だとかそういった言葉では説明し切れないのは確かなのだけれど)、その後でキリストを十字架に付けろ!と要求する群集としての怒りの声、或いは最終曲に於ける、悲しみに満ちた、けれどとても力強い合唱。勿論、それぞれの音楽としては楽譜に書かれていることではあるのだけれど、それをきちんと歌唱として表現してみせることが出来る、ということ。言ってしまえば、本来はそうあるべきなのですが、それが実際に出来る合唱というのはそうは多くない。いや、聞ける機会は多くない、と言うべきでしょうか。

 この歌唱は、今のバッハ演奏の標準からすると、やや「遅れた」ものであると思います。が、ここに聞かれる表現の裏付けに、キリストの受難、という、キリスト教というものに多少なりとも関係を持って生きている人であれば恐らくは知らぬ振りを出来ない「出来事」に対する個々人の態度、というものがあると思うのです。
 今日の演奏では、一部の独唱について、独唱者ではなく合唱団の一部により歌われた部分があります。例えば、ペテロの否認の場面で、ペテロに向かって「お前はキリストと一緒に居たろう」と指摘する女中を、合唱団のボーイソプラノによって歌わせています。それを聞いた瞬間、「ああ、これは受難劇なのだな」というのを改めて思い知ったのです。オーバーアマガウの受難劇は有名だけれど、結局、バッハのマタイ受難曲だって、それらと大きく変わる所は本来はないのだと思います。その種の受難劇は、確かに観光化しているとは言え、「今、ここで、"我々"の為に、"我々"によって行われる」ということに意義があるのですから。
 勿論、聖トーマス教会合唱団が、それほどに牧歌的である訳ではありません。わざわざ飛行機に乗ってやって来て、少なからぬチケット代で演奏会を開く行為が「牧歌的」とは言えないけれど、やはり何処かにそうしたことに通じるものがあると思うのです。そう考えるのは、こちらの幻想なのかも知れませんが。

 まぁ、そうした思い入れを抜きにしても、この演奏での合唱のパフォーマンスは、滅多に聞けないレベルの高さであったのは間違いありません。

 独唱陣は、個々人の出来不出来というより、一つの演奏者群としてのパフォーマンスが高かった、と見るべきでしょう。福音史家は出ずっぱりで、存在感もあっていい歌唱だったけれど、レチタティーヴォで時々音程がつらかった、とか、言えばきりは無いのです。そういうこととは違う次元での良し悪しを感じました。とはいえ、第二部でのアルトのアリア(39曲、ペテロの否認の後)やソプラノのアリア(49曲、ピラトと群衆のやり取りの間)は思わず背筋を伸ばさずに居られないものではありました。








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最終更新日  2008年03月01日 22時25分52秒
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