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住宅地と水田地帯のちょうど中間にある踏切です。抜け道としての利用があるためか比較的交通量が多かったです。踏切名の「宿後」は付近の小字が由来で、読み方は「しゅくご」となっていますが、「角川日本地名大辞典」の小字一覧では「しゅくうしろ」という読み方となっていました。第一宿後踏切 8K970M 幅員3.0M所在地:千葉県袖ヶ浦市横田
2021.01.31
「その4」では昭和戦前期の車両を掲載していきます。「マイテ39 11」です。マイテ39は、昭和5年(1930年)に特急「富士」用の展望車として製造されたスイテ37010→スイテ39を戦後に改造した車両で、昭和24年(1949年)より特急「へいわ」用の展望車として活躍しました。製造は鉄道省大井工場(現在のJR東日本東京総合車両センター)が担当しました。展望車は主に特急編成の最後尾に連結され、乗客が景色を楽しめるよう車端部に開放式のデッキを備えている客車です。乗客が運行中にデッキに出るといったことは少なく、始発駅で見送る客に手を振って応えるといった利用が多かったようです。また「イ」の記号が示すように当時最高級の一等車であり、富裕層や外国人観光客に利用されたといわれています。車端部の展望デッキ部分です。デッキ部分には「富士」のテールマークが掲げられています。また窓は非常に大型のものが取り付けられています。マイテ39 11の大きな特徴といえるのが、「桃山式」と呼ばれる和風の豪華な内装です。日本の伝統的な建築様式を鉄道車両に取り入れた桃山式の内装は、当時の鉄道省が外国人観光客を誘致しようと努めていたことが反映されたもので、実際に外国人からは非常に好評だったようです。しかし、戦後になると「霊柩車のようだ」などと言われるなど次第に人気に陰りが出てきたため予備車となり運用から外れてしまいました。1963年からは東京都青梅市にある青梅鉄道公園に保存されました。しかし屋外展示だったため状態が悪くなり、かつて製造を担当した大井工場に引き取られたあと可能な限りの修復をおこなって鉄道博物館に展示されています。車番表記です。「東シナ」はかつて所属していた品川客車区(のちの品川運転所)の略称です。続いては「オハ31 26」です。オハ31形は鉄道省初の鋼製車体を持つ客車として、昭和2年(1927年)から製造されました。この時期は鉄道車両の車体材質が木製から鋼製へと移り変わっていく時期で、国内でも全鋼製車体を採用した電車などが私鉄を中心に導入され始めていました。また、木造車体では事故時に安全性が保てないといった問題もあり、鉄道省でも鋼製車体の客車を製造することとなりました。オハ31形は当初は「オハ44400」と称し、「オハ32000→オハ31」という改番を経ています。主に急行列車や普通列車に使用された三等座席車です。車内は木材を多用したクロスシートが並んでいます。背の部分にはモケットが貼られていないのも特徴的です。網棚と日よけ用の鎧戸です。かつての鉄道車両はカーテンなどはなく、日よけには鎧戸を用いていました。現在はあまり見ることができなくなっていますが、阪急電鉄など一部私鉄では現在も鎧戸が使用されています。このオハ31 26は国鉄での廃車後に津軽鉄道に譲渡されており、「ストーブ列車」として運用されていたため車内にはダルマストーブも残されています。
2021.01.30
水田が広がる場所にある小さな踏切です。近隣住民の利用が主で、交通量は少ないです。ちなみに、第二・第三踏切は欠番となっています。第四宮脇踏切 8K724M 幅員2.3M所在地:千葉県袖ヶ浦市横田
2021.01.27
住宅地から水田地帯に通じる小道が交差する踏切で、第4種踏切となっています。幅は2M以上あるので、軽トラックなどは通行することができそうです。踏切を反対側から眺めます。写真奥に写る住宅は、すでに住民がいなくなり荒廃した状態のものもありました。踏切名は付近の小字「宮ノ脇」が由来です。第一宮脇踏切 8K444M 幅員2.7M所在地:千葉県袖ヶ浦市横田
2021.01.24
「その3」では大正時代の車両を掲載していきます。1913年(大正2年)から中央線・山手線などの電化区間で活躍した「ナデ6141」です。先述した「デ968号→ハニフ1」が活躍していた中央線では利用者の増加によって車両も大型のものが要求されるようになり、当時の鉄道院は独自設計の電車として「ホデ1→ホデ6100→デハ6250」を登場させました。これは16メートル級の木造車体を持つ電車で、デ968などよりも大型の車体を採用していたため一度に多くの旅客を運べるようになりました。ここに展示されている「ナデ6141」は、16メートル級車両の増備の過程で大正2年(1913年)に登場しました。両運転台で、片側に3つの扉を備えています。製造は鉄道院新橋工場(のちの大井工場→現在のJR東日本東京総合車両センター)が担当しました。ナデ6141の車内です。木造車なのでニス塗りとなっており、重厚感があります。天井は二層式(ダブルルーフ)となっており、座席はオールロングシートです。この車両は鉄道院から目黒蒲田電鉄(現在の東急電鉄)に譲渡され、さらに鶴見臨港鉄道(現在の鶴見線)→日立電鉄と譲渡されました。国鉄が昭和47年(1972年)の鉄道100周年を記念して日立電鉄から引き取り、製造元の後身である大井工場で復元したうえで展示されています。電気機関車ED40 10号です。1919年(大正8年)に登場した国産初の電気機関車で、鉄道院大宮工場(現在のJR東日本大宮総合車両センター)で製造されました。この機関車は信越本線横川~軽井沢間(1997年廃止)のアプト式(線路の真ん中に凹凸のあるラックレールを敷き、車両の下部に設置された歯車と嚙み合わせることで急勾配を登る方式)区間専用に導入されたもので、箱型の車体を持つ独特なスタイルが特徴的です。碓氷峠での運用終了後に東武鉄道に譲渡され、同社の日光軌道線(1968年廃止)で貨物列車を牽引していました。日光軌道線の廃止後に国鉄に譲渡され、製造を担当した大宮工場で保存されたのちに鉄道博物館での展示が決まりました。電気機関車ED17 1号です。1923年(大正12年)にイギリスから輸入した機関車(製造元はイングリッシュ・エレクトリック・カンパニー)で、東海道本線電化の際に導入され、主に旅客列車の牽引に使用されました。東海道本線時代は「1040形→ED50形」でしたが、中央本線への転属に合わせて改造が行われ、「ED17形」に変更されました。中央本線で活躍した後は身延線などに移り、廃車後は山梨県甲府市の舞鶴城公園に展示されていたものをJR東日本が引き取り、鉄道博物館で展示されることになりました。
2021.01.21
小櫃川を渡る橋梁のすぐそばにある踏切です。国道409号から分岐する農道と交差しており、農作業をする車両の利用が多かったです。踏切名は付近の小字「熊野前」が由来で、踏切近くには「熊野神社」もあります。熊前踏切 8K210M 幅員3.5M所在地:千葉県袖ヶ浦市横田
2021.01.17
「その1」に引き続き、明治期の車両を掲載していきます。「1290形1292号機関車」です。この機関車は1881年(明治13年)製で、主に鉄道建設工事や入換用として活躍しました。展示されている1292号は東北本線などを開業させた日本鉄道が工事用に導入したもので、「善光号」の愛称で知られています。この機関車は日本鉄道から鉄道院に引き継がれ、後に東武野田線の前身である千葉県営鉄道野田線で資材輸送用などとして活躍しました。「善光号」の知名度があったことから、廃車後に保存されることとなり、1942年(昭和17年)に東京・神田の交通博物館に移され、2007年からは鉄道博物館で展示されています。「ハニフ1」形です。この車両は、現在の中央本線の一部を開業させた「甲武鉄道」【1906年(明治39年)国有化】が1904年(明治37年)の電化(飯田町~中野間)に合わせて製造した、「デ968形」という電車を改造したものです。甲武鉄道は都市内の路面電車的な電車とは一線を画す、都市と郊外を結ぶ通勤電車的な電車を日本で初めて運行し、「郊外から都市への電車による通勤」というスタイルを確立させたことで知られ、「国電の始祖」ともいわれています。デ968など甲武鉄道時代の電車は、国有化後にさらに大型の車両を導入したことで余剰となり、各地方の私鉄などに譲渡されていきました。この車両は現在の大糸線を開業させた信濃鉄道(現在の「しなの鉄道」とは別会社)に譲渡され、さらに現在のアルピコ交通上高地線(松本電鉄線)を開業させた筑摩鉄道に譲渡されました。筑摩鉄道時代に荷物室を設ける改造を受け、「ハニフ1」に形式を変更しています。筑摩鉄道→松本電鉄では、廃車後も長らく保存されていましたが、国電の始祖としての価値を認められ、晴れて鉄道博物館入りすることができました。この車両は復元が困難なことから、現在は筑摩鉄道時代のまま展示されています。
2021.01.16
先述の「第二久留里街道踏切」からすぐの場所にある小さな踏切で、住宅と住宅の間にある小道が交差しています。この踏切はかつて第4種踏切でしたが、事故が発生したために第1種に格上げされています。踏切名は2つ前の「大通踏切」と同様、所在地の地名「大鳥居」の誤記載と思われます。第四大通踏切 7K890M 幅員2.1M所在地:千葉県袖ヶ浦市大鳥居
2021.01.15
久留里線と並行している国道409・410号の旧道と交差している踏切です。国道はバイパスが存在していますが、旧来の道路の利用者も多く、踏切の幅は広く取られています。踏切の前後がカーブになっているため注意が必要です。第二久留里街道踏切 7K755M 幅員8.0M所在地:千葉県袖ヶ浦市大鳥居
2021.01.12
2020年1月に、大宮の「鉄道博物館」に行った際に撮影した保存車両の写真を掲載していきます。私としては10数年ぶりの鉄道博物館で様々な見どころがありすべてを回り切れていないため、注目する車両を中心に掲載していくことにします。まず掲載するのは、日本初の鉄道開業時に使用された記念すべき車両となる「1号機関車」です。1872年(明治5年)の新橋(のちの汐留駅で、現在の新橋駅とは別)~横浜(現在の桜木町駅で、現在の横浜駅は1915年開業)間の開業に際してイギリスから輸入された蒸気機関車で、1871年にバルカン・ファウンドリー社で製造されました。鉄道開業後は客車や貨車を牽引して人々の注目を集め、後に関西地区などでも入換用などとして活躍していました。1909年には「150形」という形式名が付され、その後の1911年には長崎県の島原鉄道に譲渡され、同線の開業時から活躍しました。日本の鉄道開業時に導入された貴重な車両であることから保存の機運が高まり、1930年には島原鉄道から国鉄に譲渡、1936年からは神田に存在した「交通博物館」の展示物となりました。戦災もくぐり抜け、2007年からは大宮の鉄道博物館で展示されています。こちらは「7101号機関車(弁慶)」です。北海道最初の鉄道(官営幌内鉄道…現在の函館本線など)開業時にアメリカから輸入された機関車で、アメリカ製の古典機関車らしい外観を持っています。1880年ポーター社製で、開業時に最初に導入された機関車のうちの1両となっています。北海道で活躍し、1940年に交通博物館の展示物となり、2007年から鉄道博物館で展示されています。「弁慶」の後ろに連結されている「開拓使号客車」です。こちらも1880年に官営幌内鉄道がアメリカから輸入した車両のひとつで、主に開拓使などの要人輸送や明治天皇のお召し列車として使用された実績があります。車内は転換式のクロスシートを備え、トイレやストーブが設置されるなど、当時最先端の客車でした。1923年には保存のために東京・大井工場(現・東京総合車両センター)に移され、1948年から交通博物館で展示されていました。
2021.01.09
袖ヶ浦市最初の踏切です。国道409・410号の旧道から、集落への細い脇道が交差している踏切です。付近の住民以外の利用はないため交通量は少ないです。踏切名の「大通」は、所在地の地名の「大鳥居」が由来なのではないかと思います。おそらく、「おおどりい」を「おおどおり」と聞き間違えたのがそのまま定着したのではないかと思います。大通踏切 7K465M 幅員3.0M所在地:千葉県袖ヶ浦市大鳥居
2021.01.08
あけましておめでとうございます。2021年も、「わさびくま日記」をよろしくお願いいたします。久留里線と並行する国道409・410号の旧道と、バイパスをつなぐ狭い道路と交差しています。抜け道的な利用があり、交通量は比較的多いです。踏切名は、所在地の地名(大字)が由来となっています。この次の踏切からは袖ヶ浦市に入ります。笹子踏切 6K470M 幅員3.6M所在地:千葉県木更津市笹子・椿
2021.01.05
全12件 (12件中 1-12件目)
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