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=======================================================□■MLノベル「義経黄金伝説」■□ 第7号 作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所――――――――――――――――――――――――――第1章6 一一八六年(文治2年) 鎌倉■■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日 静かの母、白拍子の創始者磯の禅師(いそのぜんじ)が頼朝の御台所、北条政子(ほうじょうまさこ)に呼ばれている。「よろしいか、禅師殿。このたびの静(しずか)殿の舞にて、頼朝殿の心決まりましょうぞ」「舞とは…」 禅師は、娘の静とは、しばらくの間会っていなかった。いや会えるはずがなかった。静は義経の行方を調べるために、獄につなぎおかれたのだ。「その舞に頼朝殿への恭順の意を表されれば、頼朝殿もお考え改めましょう。それに私が内々のうちに、静殿の和子生かす手立て考えましょう」「ありがとうございます。このご恩、決して忘れませぬ」 禅師はまた床ににはいつくばった。その頭上から政子の冷たい声が聞こえた。「よろしいか、宮中への事、大姫のこと、くれぐれも…」「わかりました」禅師は深々と頭をさげた。■■一一八六年(文治2年) 四月八日鎌倉。静の舞当日 その思いにふける禅師の前で、ようやく静の舞は終わり、舞台の袖にいる禅師の方へ戻って来るのが見えた。 磯禅師が静を問い詰める。「静、なぜお前は、この母の言うことを聞けぬか」 激しい口調である。「母上、私はあの義経様に愛された女でございます。私にも誇りがございます」「義経殿の和子を危険な目にあわせても、私の言葉きけぬのか」「それは……」静は言葉に詰まり、涙ぐんでいた。「もう、いかぬ。残る手だてはあの方か……」 禅師は、期待するような眼差しで、観客席の方を見やる。頼朝と政子は退席しようとしていた。頼朝の怒りが、禅師には手に取るようにわかった。諸公の前で、笑い者にされたのである。頼朝はプライドの高い男なのだ。それがあのような形で…。■■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日 政子を訪れた同日、磯禅師は大江広元(おおえひろもと)屋敷を訪れている。「よろしい、広元の一存じゃが、禅師殿、静殿の生まれた和子、私に手渡してくれ」「和子をどうなさるおつもりですか」「よいか、義経殿、すでにもう平泉に入っているやもしれん。秀衡殿と示し合わせ義経殿が、この鎌倉へ軍を進めたときの人質に、その静殿の和子がなろう」「和子を人質になさる……」 禅師の顔色が変わっていた。そのような、人質だと。「どうした、我が処置に不満か」 広元は強気で禅師を追い込む。広元としては、万全の方策をとっておきたかったのである。今や、鎌倉幕府の中枢は広元が握っている。「いえ、そのようなこと」 禅師は、ここは広元の話に乗って置く方が善策と考えた。「よろしいですか、和子を助けるだけありがたいと思い下され」と、広元は押し付けがましく言う。が、その時、禅師は、別の人物にしゃべる言葉を考えていた。■■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日同日、磯禅師は、源頼朝と関係深い勧進僧(かんじんそう)文覚(もんがく)にの前にいる。「文覚殿、お願い申し上げます。どうぞ義経殿の和子生き残れますよう、お力をお貸しください」「禅師殿、わかり申した。この文覚、いささか頼朝殿とは浅からぬ縁がござる。この伊豆に源氏の旗をあげさせ、決起するもとを作ったのは拙僧でござる。まかされよ、頼朝殿の心反してみましょうぞ」「よい話でありがとうございます」 禅師と文覚がふと目が会う。お互いが別のことを考えていることが、わかっている。■■一一八六年(文治2年)四月八日。鎌倉。静の舞当日「大姫(おおひめ)様、あなた様のお気持ち、この静はわかります」静は舞いの後、大姫の前に呼ばれている。「まて、姫のおん前であるぞ。直接お話を申し上げるとは何事だ」 警備の武士が静を引き離そうとする。「よい、静の好きにさせるがよい。それが大姫がためじゃ」 政子が許しを出した。「大姫様、志水冠者(しろうかじゃ)様のこと、それほどお思いでございましたか」 志水冠者は木曽義仲(きそよしなか)の息子であり、頼朝の命で殺されていた。 志水冠者の名が静の口から上ると、大姫の嘆きは一層激しくなるのだった。「わかります。大姫様、お泣きなされ。それしか、方法はございますまい。この私とて、義経様には恐らく二度と会うことなどできますまい。いっそ死んでしまいたいくらいです。が、私には義経様の命が宿っております」■■「禅師殿、お願いじゃ」「これは政子様。何かこの静が」 政子は舞の日の夕刻、密かに禅師のもとを尋ねて来たのである。「静殿の舞いを、今一度見せてはくださらぬか」「政子様、それはお許しください。そんなことを繰り返せば、頼朝様の怒りが増すばかり」「いや、そうではない。この政子の娘、大姫一人のために踊ってほしいのです」「大姫様のため、一体何のためでございます」「あのこの気鬱を晴らしてやりたいのじゃ。のう禅師殿。お前様も母親ならば、おわかりであろう。娘を思う親の気持ちが」 結局、大姫一人のために、静は政子の別棟で舞うことになった。「しずやしず、しずのおだまき繰り返し…」 その静の踊りを見て、「よよ…」と、大姫は泣き崩れたのである。静はすぐさま大姫の前に跪いていた。「静、それ以上しゃべるでない」禅師が止めた。「いえ、言わせてください、お母様。私は頼朝の手にありましても、常に義経様と一緒なのでございます。二度と会うことはできなくても、私はこれからの一生、義経様を愛し続けます」「お前は何ということを」禅師が絶句する。「静殿、、、」かぼそい声で、大姫が初めて口を開いた。まだ13歳のあどけなさが残る。が、すでに婚約者を殺されている。心の傷は大きい。「この世で、、初めて、、、友を得たような気がします」「ありがたい、、お言葉を、大姫様、、、、」 二人の女性は、お互いに手を取り合って、泣き崩れる。 そばにいる二人の母親も、その光景を目にして、しばし言葉がでないのだった。やがて政子が口を開いた。顔色が変わっている。「禅師殿、私は心を決めました」「はい、、」「この政子がお約束いたしましょう。必ずや、静の子供を助けると」「政子様、そのお言葉、、、ありがとうござります。力強ございます」禅師は京都ばかりでなく、鎌倉も手に入れていた。■■第1章7 一一八六年(文治2年) 鎌倉1186年(文治2年)、草深き坂東鎌倉のに三人の男が対峙している。東国で武家の天下を草創しようとする男。頼朝。その傍らににて、京都王権にては受け入れられず坂東にて「この国の形」を変えようとする土師氏(はじし)の末裔。広元。対するに、京都王権の交渉家、貴族政治手法である「しきしまみち」敷島道=歌道の頂点に立つ。西行。ここにひとつの伝説が作られようとしていた。頼朝にとって、西行は打ち倒すべき京都の象徴であった。京都から忌み嫌われる地域で忌み嫌われる職業武家。いたぶるべき京都。京都貴族王権の象徴物・大仏の勧進のい」ために来た男・武士「武芸道」からはじきでた、貴族の象徴武器である歌道「しきしまみち」に乗り換えた男。おそらくは結縁衆(けちえんしゅう)なる職業の狭間にいる人間とつながりのある男。さらには、奥州藤原氏とえにしがある。坂東王国を繰り上げようとした平将門を倒した俵のトウタの末裔。この坂東にも、そして、義経を育て平泉に送りこんだた男。対手である。その男がなぜ、わざわざ敵地に載りこんだか。その疑問が心に暗雲を懸ける西行にとってこの頼朝との邂逅は、今までの人生の総決算にあたるかも知れぬ。その長き人生において最後の最終作品になるものかも知れなかった。心に揺らぎが起こっていた。が、その瞬間、かって重源(ちょうげん)と歩んだ高野山の荒行の光景が蘇ってきた。山間の厳しい谷間、千尋の谷、一瞬だが、谷を行き渡る道が浮かぶ。その道をたどる以外にあるまい。「西行どのこちらへ。」屋敷の裏手に案内される。矢懸場が設けられている。武家の棟梁頼朝は毎日犬追物をたしなんでいる。的と砂道が矢来をさえぎられ続いている。「こちらへ」促されるまま、西行は物見小屋へいざなわれる。遠くに見える人馬が、的を次々と射ぬきながら、こちらへ走ってきた、頼朝である。「いさ、西行殿の弓矢の極意を聞き、腕前の程をお見せしたかったのです。」「大殿は、毎日武芸にたしなみを、、」「西行殿は、我が坂東の武芸の祭りをご存知でしょうな」坂東のしきたりが、京都の弓矢道と結びついているのが、西行には理解できた。京都人でありながら、武芸は坂東と、頼朝は言っているのだ。馬を返し、再び準備された的をすべて、射抜いている。「坂東足利(あしかが)の庄にある御矢山(みさやま)で行われる八幡神を祭る坂東最大の祭事である。いわば武家のオリンピっクである「西行殿、奥州平泉からお帰りにこの祭りに参加いただくことを。望む」馬上から、息をつきつつ頼朝が叫んでいる。返事は無用という訳だ。答えようとする西行の前から姿を消し、再び馬首を元の方へ。西行は義経を助けなければ。が、藤原氏の黄金が役に立つのか。秋風の吹く鎌倉で、西行は冷や汗がでてきている。三度、的をすべて打ち矢って、頼朝は馬上から「さらに、西行殿、義経のおもいもの静かの生まれし子供の事聞きたいか。和子は男子がゆえに不敏だが、稲村ヶ崎に投げ捨てた」と言い捨てている。後ろ姿に笑いが感じられる。西行の手をすこじづつ封じている。西行は動揺を表情に出さず。が、考えている。かたわらにいる大江広元を見た。広元殿、政子殿がいるなかば、わづかばかりの希望あろう。また、そうか、あるいは、静の母磯の禅師糸を引いているかも知れぬ。希望の光はある。極楽浄土曼陀羅、あの平泉におあわす方が。早く合いたい、さすれば、この身、まだ滅ぼすわけにはいかず。頼朝は四度撃ち終え、今度はゆっくりと馬を歩ませてきた。「西行殿、紀州にその領地ありと聞く。弟君佐藤仲清殿。高野山と争い絶えずときく。誠か」馬上の頼朝は、しばし、西行の回答を待っていた。「その領地、この頼朝に預けられぬか。さそれば寺との争いは解決しよう」。佐藤家は高野山荒川庄の領地におしいっている。西行のなりあいの費用はこの家からでている。いわば佐藤家の家作からから活動資金がでている。紀伊の国那賀郡、田仲庄は紀ノ川北岸にあり、摂関家徳大寺の知行である。佐藤家はこの徳大寺の家人である。今では平家の威光を背景にしてきた。その根っこを、頼朝は押さえよとしている。「どうであるか、西行殿、この申し出」。絡め手か。やはり、頼朝は、西行と義経の関係を気づいているか。京都でもそのとこしるは、わずか。大江が秀才顔でしらぢらと西行をにらんでいる。大江は、水を得た魚。京都から呼びだされ、この鎌倉に根付いた時、歴史は変わった。日本最優秀頭脳集団・大江家。元は韓国(からくに)から来た血筋。この関東坂東で同じ韓国(からくに)の史筋武家の協平家と結びついた。「すべてのご返事は、平泉からの帰途に」西行は頼朝の前から去っていく。「まて、西行殿」大江が呼びとめようとするが「勝負は、後じゃ」「はっつ」頼朝の打ち据えた的の裏側には、平泉を意味する曼荼羅が描かれている。そして、西行の最大ライバル文覚とはまだ、対峙していないのだ。http://w3.poporo.ne.jp/~manga/
2003.05.20
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西行の頭の中に奈良での会話が思い起こされた。一一八〇年の平家による南都焼き打ちにより、東大寺及び大仏は焼け落ちていた。 都の人々は、何と平家の横暴なことを考えた。また、貴族の人間にとっては、聖武帝以来の、いわばふれざる東大寺を焼き打ちする平家の所業が人間以外のものに思え、また自分のために属する階級に危機が及んでいると考えざるを得なかったのである。 東大寺大仏は硝煙の中、すぐに再建に着工され、すでに大仏は開眼供養が一一八五年、後白河法皇の手で、行われていた。大仏を囲う仮家屋や、回りの興福寺を中心とする堂宇の修復が急がれていた。今、南都は建築ラッシュを迎え、活気に満ちていた。 西行は東大寺焼け跡にある仮建築物にいる重源(東大寺勧進僧)を訪ねている。重源は齢六十五才であったが、精力的に各地を遊説し、東大寺勧進を行っていた。また全国に散らばらせている勧進聖から、諸国の様子が手にとるように分かった。 勧進聖は、当時の企業家でもある。技術集団を引き連れ、資材を集め、資金も集める。勧進の場合、費用のために半分、残りの半分は聖の手元に入る。 西行は、佐藤義清という武士であった頃は、鳥羽院の北面の武士であった。 西行の草庵は、鞍馬、嵯峨などで、草庵生活を送っていた。草庵といっても仙人のように山奥に一人孤独に住む訳ではない。この当時の聖の住む位置はほぼ決まっていた。そして藤原家を縁とする寺塔が立て並んでいる。 別に難行苦行の生活をするのではない。政事の流れから外れて、静かに物事を考えるのである。日々の方便については、佐藤家は藤原家の分家であり、大豪族であった。その日々の心配はないのだ。「重源殿、お久しぶりでございます。このたびの大勧進抜でき、誠に祝着至極」「おお、これは西行殿。わざわざ伊勢から奈良まで御足労おかけいたします。実はお願いがござる。西行殿の高名にすがりたいのです」 数日前、伊勢の庵に重源が訪ねてきて、ぜひ東大寺再建の様子を見に来てほしいというのだ。重源が呼ぶからには、これは大事と思っている西行だった。若き頃、高野山の聖時代に知り合った二人だったが、すでに重源は二度宋に渡って、建築土木のテクノクラートとして帰国していた。 国の政府と結び付いていた宗教は、南都北嶺であり、中世は禅宗となる。栄西は臨済宗の禅宗である。「はて、それは……」「奥州に行ってきていただきたい。奥州は遠く聖武帝の時代より、黄金の産地。できますれば、金をこの東大寺のために調達いただけまいか。平泉は黄金の仏教地と聞き及びます。もし、藤原氏との交渉なれば、黄金が手に入りましょう」 重源は、西行と奥州藤原氏とのかかわりあいを知っていた。この言葉は重源から出ていたが、無論,話の出所は朝廷に違いなかった。 それに時期が時期だ。この時期に奥州へ、それは朝廷から藤原氏へのある種の意向を伝えるために違いない。思ったより大きい仕事。が、これも私を信じておられるゆえんか。私の最後の一働きになるかもしれん。重源は思った。「それと、これは平泉におられる方々への手土産じゃ」「何でござりますかな。重源殿のことでございますから」「これは…」 絵図面である。「ありがたく頂戴いたします」 西行の顔色は変わっている。「あの方の役に立てばよろしいですが」「役に立ちますとも。では、重源様、私に町をよく見て参れと」「そうです。その鎌倉が様子を、詳しく書状に認めてきだされ。さすれば、重源、いろいろな技術と語らい、新たな計画書をお作りしましょうぞ」「ありがとうございます」「よろしいか、重源がかようにするは、京都のためにでございますぞ」が、西行は重源はさりげなく秀衡たちに、自分の腕前を披露しようとしていることに気がついている。 重源が西行が去ったあと、重源に雑色(ぞうしき)が話しかける。「この御時世でございます。西行様がため、東大寺闇法師を護衛に付けた方がよろしいのでは」「おう、よい考えじゃ。誰か心当たりの者はおるのか」重源は、はたと気付く。「十蔵が、いま高野山から降りてきております」「わかった。ちょうどよい。十蔵を呼べ」 僧衣の男、十蔵が重源の前に呼ばれる。十蔵は東大寺のために荒事を行う闇法師である。闇法師は僧兵の中から選ばれた、いわばエリート戦士である。十蔵は陰のように重源の前に、出現していた。その突然の現れ方は、重源を驚かせる。「十蔵、わざわざ、かたじけない。今度の奥州藤原氏への西行殿の勧進、大仕事だぞ。西行殿にしたがって奥州に行ってくれるか」「あの西行さまの……わかりもうした」「さて、十蔵、今述べたのは表が理由」「重源様、まだ別の目的があるとおっしゃいますか」「さようじゃ。西行殿、俺が思いどおりには動いてくださらぬ可能性がある。ましてや、この時世。頼朝殿、奥州藤原氏と一戦構えるかもしれぬ。いいか十蔵、西行殿が我々を裏切らぬとも限らぬ」「西行様がお師匠様を裏切ると。しかし、西行様は、もう齢七十でございましょう」「いや、そうじゃこそ、人生最後の賭けにでられるかもそれぬ。西行殿は義経殿と浅からぬ縁がある。この縁はばかにはできぬ。こころしてかかれよ」 重源は気迫のこもった眼差しで、十蔵に命じた。 重源にとっても、この大仏再建の仕事は大,仕事。失敗する訳にはいかなかった。重源は自らを歴史上の人物と考えていた。 重源の使命。いや生きがいは今や東大寺の再建であった。先に重源は平家の清盛から依頼され、神戸福原の港を開削していた。この日の本に、重源以上の建築プロデューサーは、存在しないのである。 重源は世の中に形として残るものを、生きている間に残しておきたかったのである。重源の背後には宋から来た陣和慶という建築家がいた。また朝鮮半島から渡ってきた鋳物師もいる。 そして、有り難いことに運慶、快慶が同時代人であった。この日本のミケランジェロたちは、運慶工房とも思える工房システムを作り上げ、筋肉の動きを正確に表す、誠に力強い存在感のある彫刻像を続々と作り上げていった。日本の始まって以来、二度目の建築改革の波が押し寄せて来たかのようであった。「重源様のご依頼ならば。断るわけにもいきますまい」 十蔵はにやりと笑う。そしてつけくわえた。「承知いたしました。が……」 闇法師は自らの意志などもたぬ。その闇法師の十蔵が、何らかの意向を重源に告げようとしていた。不思議な出来事であった。「何か、まだ疑問あるのか」 切り返す十蔵の問いにはすごみがあった。「死に場所がありましょうか」 重源はその答えに冷汗をかき答えた。死に場所だと、闇法師は東大寺がために死ぬことが定め。が、その十蔵とかいう男は、別の死に方を求めている。それも自らが闇法師中の闇法師という自信を持って言っているのだようやく重源は答えた。「時と事しだいぞ」 それにたいして平然と言う十蔵。「わかりもうした」 十蔵はすばやく姿を消した。「十蔵め、この仕事で死ぬつもりか」 重源は、十蔵が消えた方向を見遣り、つぶやく。「まあまあ、重源殿。そう悩まずともいいではないか。重蔵殿にまかしておかれよ。茶を一服どうじゃ」 話を聞いていたのか、後から一人の若い僧が手に何かを持って現れている。巨大な頭のハチに汗がてかっている。 栄西であった。 重源と栄西は、留学先の中国で知り合い、友人となっていた。 そして、栄西は、仏典とともに、日本の文化に大きな影響をもたらす「茶の苗」を持ち帰っていた。栄西が手にしているのは、茶である。まだ、一般庶民は、手に入れることができぬものである。「ほほう、どうやら、茶は根付いたと見える。よい匂い、味じゃ。妙薬、妙薬」 重源は、栄西が差し出す茶碗をうまそうに啜った。「さすがじゃのう、栄西。よい味じゃ」 その重源の様子を見て、栄西が尋ねる。「重源様、どう思われます。この茶を関東武士たちに、広めるというのは」「何と、栄西。あの荒々しい武者ばらに、この薬をか…」 重源は茶に噎せた。 重源は少し考え込む。やがて意を決したように、若者のように眼を輝かせながら言った。「いい考えかも知れぬ。思いもかけぬ組み合わせだが。貴族よりも、むしろあの武人たちをおとなしくさせる薬効があるかもしれぬ」 なるほど、栄西はおもしろいことを考える。 重源や栄西には、自負があったのだ。日の本を実質動かしているのは、貴族でも武士でもない。我々学僧なのだ。僧が大和成立より、エリート階級として、日の本のすべてを構築してきたのだ。それを誰もが気付いておらぬ。が、大仏再建がすでに終わり、この東大寺再建が済めば、我々の力を認めざるを得まい。重源の作るものは形のあるもの。そして、栄西は、茶というもので、日の本をいわば支配しようとしている。おもしろいと重源は思った。 ◎「これは、これは有り難きご教示、有り難うございました。もう夜も白んで参りました。 鎌倉の酉が鬨の声を告げていた。二人は一晩中語り合ったのであった。 西行はわれにかえっている。まだ鎌倉にいて、頼朝の前なのだ。「西行殿、この鎌倉にお止まりいただけぬか」唐突な頼朝の提案であった。「いや、無論、平泉から帰られた後でよいのです」 と頼朝は付け加えた。「それはありがたい提案ですが」 西行は考える。黄金をこの地鎌倉に留め置くつもりか。加えて西行をこの鎌倉に留めおき、平泉の動き、京都の動きを探ろうとする訳か。「いやはや、これは無理なお願いごとでございましたな。それではどうぞ、これをお受取ください。これは旅の邪魔になるやもしれませんが…」 頼朝が手にしたのは、黄金の猫である。「ほほう、これを私めに、それとも奥州藤原家に…」「いや、西行殿でございます」「私はまた猫のようにおとなしくなれという意味かと思いました」「いや、旅の安全を願ってのこと。他意はござらぬ」続く(C)飛鳥京香・山田企画事務所http://w3.poporo.ne.jp/~manga/
2003.05.11
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作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所――――――――――――――――――――――――――― 太郎左たちは、関東に入りつつ、盗みを立ち働いていた。まず、第一の目的はよい馬を得ることである。 関東平野の何処か・屋敷武者の家が焼けている。中には多くの死人。そこから阪東の馬に乗り飛び出してくる三人の姿がある。「さすが阪東の馬よのう。乗り心地、走りごこちが違う」 次郎佐は叫ぶ。「それはよいが、次郎左、屋敷に火を放ったか」 太郎佐が、その言葉を受ける。「おお、それは心得ておる。この牧の屋敷は、もうすぐ丸焼けじゃ」「行き掛けの駄賃とはよう言うわ。地下に埋めたあった金品もすべてこちらがものよ」 鳥海が言う。鎌倉の方に向かう三人だった。第1章5 一一八六年 鎌倉・頼朝屋敷 驟雨が鎌倉を覆っている。頼朝の屋敷の門前に僧衣の男が一人たっている。老人である。その老人を尋問する騎馬が二騎現れていた。二人は、この僧を物乞いかと考え、追い払おうとしている。「どけどけ、乞食僧。ここをどこと心得る。鎌倉公、頼朝公の御屋敷なるぞ。貴様がごとき乞食僧の訪れる場所ではない、早々に立ち去れい」語気荒々しく、馬で跳ねとばさんばかりの勢いである。「拙僧、頼朝公に用あって参上つかまつった」「何を申す。己らごときに会われる、主上ではないわ。どかぬと切って捨てるぞ」ちょうど、頼朝の屋敷を訪れようとしていた大江広元が、騒ぎを聞き付けて様子を見に来る。「いかがした。この騒ぎは何事ぞ」 広元が西行に気付く。「これは、はて、お珍しい。西行法師殿ではござらぬか」「おお、これは広元殿、お久しゅうござる。みども乞食僧と呼ばれおるか。何卒頼朝公にお引き合わせいただきたいのです」「何と。天下の歌詠み西行殿とあれば、歌道に詳しい頼朝様、喜んでお会いくだされましょう」 広元が武者に向かい言う。「この方をどなたと心得る。京に、天下に有名な歌人、西行殿じゃ。さっさと開門いたせ」 広元は西行の方を向かい、「重々、先程の失礼お詫び申す。なにしろ草深き鎌倉ゆえ、西行殿のお名前など知らぬやつばら」「私は、頼朝殿に東大寺大仏殿再建の勧進のことお頼み申したき次第でございます」「何を南都の…東大寺の…」広元の心の中に疑念が生じた。その波は広元の心の中で大きくなっていく。「さよう、拙僧、東大寺勧進重源上人より依頼され、この鎌倉に馳せ参じました。何卒お許しいただきたく」 頼朝と西行が体面している。横には広元が控えていた。「西行殿、どうでござろう。この鎌倉の地で庵を営まれましては」「いやいや、私は広元殿程の才もありませんでな」「それは西行殿、私に対するざれ言でござりますかな」「いえいえ、そうではございません」「西行殿、わざわざこの頼朝が屋敷を訪れられたのは、歌舞音曲の事を話してくださるためではありますまい」 西行の文学的素養は、絢爛たるものがあった。母方はあの世界史上稀に見る王朝文学の花を開かせた一条帝の女房である。 西暦一千年の頃、一条天皇には「定子」「彰子」という女房がいたが、定子には「枕草子」を書いた清少納言が、また彰子には「源氏物語」を書いた紫式部などが仕えていて、お互いの文学的素養を誇っていた。「さすがは頼朝殿、よくおわかりじゃ。法皇様からの書状もっております」 西行ははっとしたが、頼朝に書状をゆっくり渡す。 頼朝、それを読む。「さて、この手紙にある義経が処置いかがいたしたものか。法皇様は手荒ことなきようにおっしゃっておられるが」「義経殿のこと、頼朝様とのご兄弟の争いとなれば、朝廷・公家にかかわりなきことなれど、日々戦に明け暮れること、これは常ではございますまい」「それはそれ。このことは私にまかされたい。義経は我が弟なればこそ、命令に逆らいし者、許しがたいのです。……」 頼朝は暗い表情をした。しばらくして、表情が変わった。「西行殿、これから行かれようとしている平泉のことだが……」 西行は、平泉のことを意を決してしゃべる。「ようぞ聞いてくだされた。秀衡殿は、平泉に将兵を集めて住まわせることなどはしておりませぬ。よろしゅうございますか。藤原氏の居館は、城ではございません。平泉の町には、軍事施設はないのでございます」「では兵はどうするのじゃ」「いざ戦いがあれば、平泉に駆けつけると聞き及びます。秀衡殿、頼朝殿に刃向かうつもりなどないのでございます」 頼朝は、この西行と藤原氏の関係をむろん疑っている。聞ける情報はすべて聞き出そうと考えていた。広元も先刻、西行と会う前に、耳元で同じ旨を告げていた。この西行、果たして何を企む。頼朝は、頭をひねりながら、西行の話を聞く。平泉は城ではないというのか。まるで平泉全体が大きな寺ではないか、と頼朝は思った。「初代清衡殿は中尊寺、二代基衡殿は毛越寺、三代秀衡殿は無量光院をお造りになったと聞いております」「それでは、すべて寺院ばかりではないか」「さようでございます。平泉は仏都でございます。中尊寺建立の供養には、こう書かれているのでございます。これは初代清衡公のお言葉。長い東北の戦乱で、多くの犠牲者がた。とくに俘囚の中で死んだものが多い。失われた多くの命の霊を弔って、浄土へ導きたい。また、この伽藍は、この辺境の蕃地にあって、この地と住民を仏教文化によって浄化することである。こう書かれているのでございます」 頼朝はふふうという冷気を浴びせるようなな視線を、西行に浴びせている。「西行殿は平泉がお気に入っておられるか」頼朝のその質問に、西行の頭の中に、あるイメージが浮かんでいた。平泉・束稲山の桜である。「私は花と月を愛しますがゆえに」 頼朝屋敷は夕刻を迎えている。「が、なぜ、西行殿、秀衡殿を庇いなされる。ただ東大寺がために勧進とはおもわれぬ。聞くところによれば、西行殿と、秀衡どのとは浅からぬ縁あると聞くが……」 頼朝は矛先を、藤原氏と西行とのかかわりに向けてきた。この質問に、西行はいささか足元をすくわれる感じがした。この頼朝という男、さすがである。「いや、それは単なる風聞でございましょう。私は唯の歌詠み。東大寺のために、沙金をいただきに秀衡様のところへ参るだけでございます」「それならば、そういうことにしておきましょう。で、西行殿」頼朝はかすかに冷笑した。その笑いの底に潜む恐ろしいものを感じ、わずかに言葉がかすれている。「何か」「西行殿は、昔は北面の武士。あの平清盛と同僚だったとも聞き及びます。なにとぞ、この頼朝に弓の奥義などお聞かせいただきたい」「よろしゅうございます」 話の矛先が急に変わったことに、西行は安堵した。頼朝は、これ以上、西行を追い込むことを避けたのだ。あまりに西行を追及すれば、この場所で西行を殺さねばなるまい。殺さずとも、閉じ込めねばなるまい。今、それは政治的にはマイナスであろう。無論、広元もその案には賛成すまい。 ここは少しばかり話を流しておくことだと頼朝は思う。一方、西行は虎穴に入らずにはと考えたが、頼朝という男は虎以上に恐ろしかった。このことすぐさま、法皇様に書状をもって報告せねばなるまい。この男の扱い方は、義経殿のようにはまいらぬ、そう考えていた。頼朝は、西行がある程度、義経の行方を知っていると考えている。第2章1 1186年 鎌倉 西行は、奥州藤原氏のことをしゃべり終わると、急に無口になった。頼朝は、話題を変えた。歌曲音舞、そして弓道のことなどである。頼朝はこの伊豆に住みながら、いつも京都のあのきらびやかな文化を、生活を恋い焦がれていた。 武士という立場にありながら、京の文化を慈しみ愛していた。それゆえ、その京の文化に取り込まれることを恐れていた。 義経は、京の文化、雰囲気という、得も知れぬものに取り込まれ、兄頼朝に逆らったのだった。同じように義経より先に都に入った義仲も、京都という毒に当てられて死んだ口だった。 京都は桓武帝以来、霊的都市であった。藤原道長のときの安倍晴明を始祖とする土御門家が陰陽師として勢力を張っていた。 京のことを懐かしむ頼朝に、西行は佐藤家に伝わる弓馬の術などを詳しく述べていた。これを語る西行は、本当に楽しげであった。 鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』には西行と頼朝、夜をあかして話し合ったとある』http://w3.poporo.ne.jp/~manga/
2003.05.10
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=======================================================□■MMノベル「義経黄金伝説」■□ 第4号 (C)飛鳥京香・山田企画事務所 =======================================================■義経黄金伝説(よしつねおうごんでんせつ)■第4回 作 飛鳥京香―――――――――――――――――――――――――――第1章4 一一八六年 京都・後白河法皇(ごしらかわほうおう)の宮殿後白河は望みもせず、運命のいたずらでこうなってしまった天皇であり、上皇であった。 若い頃より今様に打ち込み、政治のことなどはまったく知らぬ政治を治める天皇の器には程遠い、ほうけもの、不良少年、不適格者であると見なされていた。 このあやまって天皇になってしまった男が、日本最大級の政治家になろうとは、京に住む公家の誰もが思わなかったに相違ない。「あの、ほうけものが…」というのが、貴族の一般的な反応であった。 遠くに見える比叡山を背景に人々のざわめきや歌声が響いていた。 後白河の宮殿である。この時期、法皇はよく宮殿を移動している。部下の貴族の邸宅をそれにした。法皇はもの想いにふけっている。法皇にとっては、頼朝は、単なる地方の反乱軍のひとつにすぎす。平家六波羅政権を打ち倒す方策にすぎなかった・それが坂東平家・北条にとりこまれ、このような大勢力になるとは、思いもよらなかったのではる。法王が仕掛けた手紙による爆弾は次々に効果を産み、日本全土を混乱のちまた。京都王朝始まっていらいの動乱へと導いていた。朕が悪いか?いやいや、そうではあるまい。崇徳(すとく)じゃ。あの兄の怨霊が、戦乱・地震・飢餓を次々と呼び起こしているのだ。保元元年(1156年)兄崇徳を讃岐に流し、8年後亡くなっている。世に言う保元の乱である。京都鴨川の河岸には鳥べ野で処理できない死体の山がはみだし、川が氾濫する度に腐乱した人間であったもの腐乱した肉片が陸地におしもどされて腐臭を放ち、犬や烏が群れをなしてがそれをついばんでいる。混乱の京都から何人かの貴族流れものが行った。得にに大江家がこれほどはまるとは、、法皇はため息をつく。それに比べて朕の傍には、、、よほど才能というものが、この京あたりには枯渇しておるらしい。いつも考えているのは坂東・奥州のポジションニングの問題なのである。征服王朝である京都王権にとっては、この両地方のバランスが大切なのである。源頼朝はこの両地方を手にいれようとしている。それは許しがたい。何らかの方策が、、ひとつは西行。もう一つは義経。どう転ぶか。予断を許さない。ましてや、西行の計画は法王自身の精神問題にもつながっている。怨霊である。近頃崇徳ののろいが、、苦しめている。憂さ晴らしとして、今様を歌ざるを得ない。騒がざるを得ない。しかし、時代は代わってしまったものよ。法皇は京都政権を守らねばならなかった。武士はとは、殺人をないわいとする職業集団。いみ嫌うその集団を、北面の武士といういわば、親衛隊をつくり自分を守らねばならない。その矛盾はある。26年前、頼朝の事は覚えている。父を、この平安京始まって以来。殺人刑に処した。あの折の頼朝の表情は覚えている・たぶん、朕をうらんでいるであろう。文覚もあの折には、、、 今、後白河は、白拍子たちを集め、宴を開らこうとしているのである。白拍子は流行歌手であり、一種のアイドルである。今様は流行歌であった。「殿下、もっと見目形のよい白拍子を呼ばれた方が…」 関白九条兼実が、その甲高い声で言った。「乙前のことか。兼実は不思議に思うであろうな。あの八十才にも手が届く白拍子を俺が呼ぶのを。が、兼実よ、人の値打ちは見目形や身分や年ではない」「で、何でお決めになると」「才じゃよ」「はっ」「才能じゃ。あの乙前は、今様を数多く謡えることにかけては、当代並ぶものもあるまい。この才においては、兼実、お前ですら、及ばないであろう。それに…」 後白河は、思わず言い捨ててしまいそうになる。氏が何になろう。人間の世は才能よ。それも天賦の才に加えて、才を磨くことに長けたものが生き残ることができる。現に朕がそうだ。 その才能という武器に、お前は気付かぬのか。兼実、所詮、お前は藤原の貴族よのう。「それに、何でございましょう」 やや、惚けた顔で、兼実が尋ねた。「よいか、今様は、民の心の現れだ。民の心知らずして、何ゆえにこの俺は頼朝や秀衡と比べても、民の心がわかっておるだろうて。ましてや、この民の心の歌を書物に纏めて後の世に残して置こうと思うのだ」「ご立派なお心でございます」 民のことを考えるだと、恐ろしいことを言う方だ。この法皇は、今までの院の方々とは少しばかり違う。考え方が桁外れだ。私も考え方を変えねばのう。いままでの院や天皇のように扱うことはできぬ。「よいか兼実、殿上人は申しているであろう。法皇は下々のこともとてもお好きじゃとな。が、この世の中は殿上人や武家だけのものではあるまい。世の中は民で成り立っておるのじゃ。後の世に名が残るのは果たして朕か、頼朝か秀衡か」「それは法皇様でございましょう」 兼実は追従を打った。が、後白河はにやりと笑い、その大きな目を向け、大きな声で言った。「いや、むしろ兼実、お前かもしれんのう」 法皇は笑みを兼実に返した。が兼実は心の奥底にこの冷たいものを感じた。が、法皇はもう兼実を見てはいなかった。西行は、奥州に旅立つ前に、法皇を訪れて何かを相談していたのだ。 その西行が出て行った後、京都公家政治の代表的人物である後白河法皇とその寵臣の関白、藤原兼実は、西行に頼んだ企みを毎日のように話し合っている。「どう思う兼実、あのはかりごとの可能性は」「あくまで平泉の秀衡殿の心次第でございましょう。秀衡殿の黄金と東北十七万騎、加えて義経殿のあの武勇、三つ揃いましたなら、鎌倉の頼朝殿も危うございましょう」「そちは義経びいきじゃからのう。が、安心はできまい」「と申しされますと」「鎌倉の頼朝には、大江広元という知恵袋がついているからのう。まあ、よい、いずれに転んでも、朕に腰を屈せねば、この日の本の政権は維持できまい」「誠にその通りでございます、法皇様」「ふふう。さよう、頼朝ごときは俺を大天狗とか呼んでおるようじゃが、俺は天狗どころではないぞ」「が、法王様、天狗といえば、あの弁慶はどうしておりましょう」「さよう、弁慶もくせ者じゃ。何しろ、あやつの背後には、全国の山伏の群れがついておる」「あの弁慶はたしか、法皇さまの闇法師だったのでは……」「そうじゃ。昔はのう」「あの弁慶は、どちらの味方をするか、決めかねておるのでございますね」「さよう、あやつら山伏も、古くは持統帝の頃より情報網を、この日本中張り巡らしておるから恐ろしい奴らじゃ」「彼らの唐より伝わる武術書・『六闘』からあみだした武闘術恐れねばなりますまい」「そうじゃ。ともかくは西行の報告をまとう」 法皇は院御所に植わっている桜の木を見て言う。「ところで、兼実、桜がなかなかきれいじゃのう。一節歌うてみるか」「はっ、これ、誰か白拍子をこれへ。ほんに法皇様は今様がお好きじゃ」 白拍子の一団が、庭に入ってきた。「兼実、これも我が書物、梁塵秘抄のためじゃ、書物のためじゃ。皆歌え」 梁塵秘抄は法皇がまとめている今様の歌集である。 白拍子も、法皇も歌い始める。「おお、これは乙前、朕が師匠殿、一節たのむぞ」 白拍子の乙前が目の前にいたのである。「乙前、今日はどんな歌じゃ。はよう謡ってくれ」 乙前はろうろうと歌い上げた。年を感じさせない。「おお、それはどんな者が謡っておのるだ。詳しく聞かせてくれぬか」 法皇は今までの兼実に見せていた顔と、違う面を見せている。それが、兼実には恐ろしくもあった。この法皇は底知れぬ。「ほほ、ほんに法皇様は歌がお好きですこと」「乙前、この世の中で、今様が一番好きなのはこの朕だ」「ほほう、殿下はおもしろいことをいわれますなあ」 乙前は、ほとんど歯の残っていない口をみせた。 突然、乙前は歌を急にやめる。「法皇さま、西行さまは、、、」怪訝な顔つきである。「そういえば、乙前と西行とは知り合いじゃったのう」「さようでございます。西行殿の外祖父様、源清経殿は我が母を囲っておりました」「そうじゃった。が源清経もわしの今様の師匠じゃ。悪ういうではない」 源清経は目井とその養女乙前を囲っていたのだ。5.一一八六年 黒田荘・東大寺荘園奈良にある黒田荘(ショウ)(現三重県)は東大寺に属している。先月の東大寺があげての伊勢神宮参詣もこの地で、重源を始め多数の僧が宿をとっている。いわば東大寺の情報中継基地である。 あばら家の中、どぶろくを飲んで横たわっている二人がいる。太郎佐。そこに弟の次郎佐が訪れる。「兄者、兄者はおられぬか」「おお、ここじゃ、次郎左」「何じゃ、なぜそんな不景気な顔をいたしておるのじゃ」「これがよい顔をしておられるか。お主、何用じゃ俺に金の無心なら、無用じゃ」「兄者、よい話じゃ。詳しい話は、ここにおる鳥海から聞け」 蓬髮で不精髭を生やした僧衣の男が汚らしい格好で入ってくる。着物など頓着していない様子なのだ。顔は赤銅色に焼けてはいるが、目が死んでいる。鳥海は興福寺の僧兵として、かなりの腕を振るったものである。園城寺、比叡山との僧兵たちとの争いでも、引けを取らなかった。が、東大寺炎上の折りから、腑抜けのようになっていた。一人生き延び、この太郎左、次郎左のところに転がり込んでいいのである。 鳥海は、話を始めた。「太郎佐殿は、先年、東大寺が焼き払われたこと、ご存じでござろう」「おお、無論、聞いておる」「東大寺の重源、奥州藤原氏への勧進を依頼した。さて、使者は西行法師」「たしか先月、重源と、、そうか、あのおいぼれ。確か数え七十ではないか」「供づれはおらぬ。いかに西行とて、この黒田悪党のことは知るまい」「ましてや、みちのく。旅先、七十の坊主が死んだとて、不思議はあるまい」「お前、東大寺勧進の沙金を…」太郎佐は言う。「そうよ、奪えというのじゃ。この話し、京都のやんごとなき方から聞いた。ほれこのとおり支度金も届いておる」「さらば、早速」「まて、まわりがおかしい」太郎左が皆を圧し止めた。動物のような感がこの男には働くのである。「ようすを見てみろ」次郎左が命令を聞き、破れ戸の隙間からまわりをみやる。鳥海も他の方向を覗き見ている。「くそっ、お主ら、付けられたのか。馬鹿者め」 まわりは、検非違使(けびいし)の侍や、刑部付きの放免(当時の目明かし)らが、十重二十重に取り囲んでいる。検非違使の頭らしい若侍が、あばら家に向かって叫んでいた。「よいか、我々は検非違使じゃ。風盗共、そこにいるのはわかっておる。おとなしく、縛につけ。さもなくば討ち入る」「くくっ、何を抜かしおる」太郎左、次郎左は、お互いをみやって笑った。戦いの興奮の血が体を回り始めているのだ。「来るなら来て見ろ。腰抜け侍め」大声で怒鳴った。「何、よし皆、かかれ」若侍が刀を抜き言った。「ふふっ、きよるわ。きよるわ」「よいか、次郎左。ここは奥州の旅の置き土産。一つ派手にやろうぞ」「わかったわ」 太郎左と次郎左は、後手に隠してあった馬に乗り、並んで頭の方へ駆けていく。侍は、急な突進にのぞける。「ぐわっ」 太郎左の右手、次郎左の左手に、握られていた太刀が交差した。 瞬間、検非違使の頭が血飛沫を上げ、青空に飛びあがっている。後は蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。「ふふっ、少しばかり、馬をいただいておこうか」 三人は逃げ去る侍の方へ目がけて駆けていく。 近畿地方の馬と、阪東や泉王国の馬とは、種類が違っていた。脚力、体長とも、平泉の馬が勝っている。近畿の馬が、軽四輪ならば、平泉や関東の馬は、四輪駆動である。 太郎左たちは、関東に入りつつ、盗みを立ち働いていた。…
2003.05.08
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第1章 一一八六年 鎌倉八幡宮2 文治二年(1186)四月八日(承前)大江広元(おおえひろもと)は、これから奥州平泉を攻めようとする頼朝にとっては勝利を確約する、いわば勝利の女神であった。なぜなら、大江広元の曾祖父は、奥州攻略を成功させた八幡太郎の知恵袋だったのである。いわゆるプランニングマスターである。占いの専門職。占いはこの時期の総合科学である。広元は恐怖を感じて青ざめている。このままでは、会場の武士を味方にしてしまう。大殿はいかに、頼朝をかいま見る。政治顧問である,荒法師の異名をとる文覚(もんがく)でさえ、静の舞に内心は心動かされていた。文覚は若い頃、北面の武士の折、色恋沙汰で殺傷事件を起こしている。感情の高ぶりをおさられないのである。この感情の濃さがいい具合に発露すると、それが、勧進となった。また、頼朝に対する挙兵のアジテーションとなった。いわば、頼朝のメンターである。頼朝とは幼き頃、朝廷で顔を見知り置いている。その後、文覚は数々の荒行をこなし今は、江ノ島で、藤原秀郷の呪殺を、頼朝から依頼され、とり込んでいる。先年、後白河法皇から許可を受け、京都から、頼朝の父、義朝の骨を発見し、クビからぶら下げ、東海道を下るという鎌倉幕府成立のパーフオマンスを行い帰ってきたばかりである。この寺は、勝長寿院・大御堂という。骨の髄から、頼朝は、平泉を恐れている。16万の軍旗が、義経という天才に率いられて鎌倉を背後から、また海から襲ってくる事。おそらく、この日本で、義経は最高の軍事指揮官であろう。それは頼朝もいらなぶ、坂東武者もわかっている。傍らに控える大江広元も、文覚も理解しているだろう。この勝利はまさに義経のおかげである。そのため、そのおもいものである静かが、ここで、頼朝に対して恭順のいを著わすべきであった。が政子が、、意図と違う事を、わずかながら、意思の疎通がうまくいかぬ。また、最大のネゴシエイター西行が、この鎌倉を目指していると文覚から、聞いている。京都王朝で、始めて伊勢神宮と、東大寺の手を握らせた男。後白河法王の意図で動く男。そして義経とも、平泉とも、近しい。この坂東でも、佐藤家の威光は輝いている。加えて、当代一の詩人・この文学的功名は、京都貴族の中において光り輝いている。いわば京王朝のエースカード。ジョウカー。また、平泉にとっても最強の交渉カード。まして、民衆の指示を受けつつある重源(ちょうげん)の友人。後ろには結縁衆。恐らくは東大寺を始めとする京宗教集団の力も。意図は何か。西行は1万の武装集団よりも怖い。頼朝はそう思った。源氏は鉱山経営と関連が深い。祖先・源満仲は、攝津多田の庄(現・兵庫県川西市)の鉱山経営の利益を得ている。能勢・川辺・豊島三郡における鉱脈を支配し、最盛期2000を越える抗を穿っていた。鉱山の警備隊として武士団を養い、鉱山経営のうまみを知った源氏は、その後、京都大江山鉱山の利権も手にした。いわゆる大江山鬼退治の伝説であ。源氏は一族の血の記憶として,鉱山経営のうまみをしっている。目指すは奥州金山である。源氏の護り神、八幡神は、産銅・産鉄神である。最終目標は奥州。また、そのためにもこの独立運動はまもらねばならぬ。東国王朝は、源氏の悲願である。奥州平泉王朝を打ち倒す事もまた。それぞれの思いの中やっと頼朝は、言葉を発した。 3 観客席の中央にいる源頼朝が、急に怒鳴っている。「あの白拍子めが。この期に及んで、ましてや鎌倉が舞台で、この頼朝が面前で義経への恋歌を歌うとは、どういう心根じゃ。この頼朝を嘲笑しているとしか思われぬ」 頼朝は毒づいた。それは一つには、政子に対するある種の照れを含んでいる。「よいではございませぬか。あの静の腹のありようお気付きにありませぬか」 政子はとりなそうとした。薄笑いが浮かんでいることに、頼朝は気付かぬ。「なに、まさか義経が子を…」「さようでございます。あの舞いは恋歌ではなく、大殿さまに、我が子を守ってほしいというなぞかけでございます」「政子、おまえはなぜそれを……」 疑惑が、頼朝の心の中にじっくりと広がって行く。今、このおりに頼朝に、自分の腹の内を探らせめる訳にはいかぬ。あのたくらみが、私の命綱なのだから。政子は俯きながら黙っている。「……」「まあよい。広元をここへ」 頼朝の部下、門注所別当・大江広元が頼朝のもとにやってくる。「よいか、広元。静をお前の観察下に置け。和子が生まれ、もし男の子なら殺すのじゃ」[では、殿。もし、女の子ならば、生かして置いてよろしゅうございますな」「……それは、お前に任せる」 広元はちらりと政子の方を見ていた。 頼朝は広元と政子の、静をかばう態度に不審なものを感じている 政子は静を一眼見たときから、気に入っていた。その美貌からではなく、義経という愛人のために頑として情報を、源氏に渡さなかった。その見事さは、一層、政子を静のファンとした。また、京の政争の中に送り込まれるべく、その許婚を殺されたばかりの、政子と頼朝の子供大姫をも味方に取り込んでいた。義経の行方を探索する人間は、何とか手掛かりを取ろうと静の尋問を続けた。が、それは徒労に終わった。尋問した者共も、顔には出さなかったが、この若い白拍子静の勇気を心の中では褒めたたえていた。 観客席の中で、静の動静を悩む者が、もう一人。静の母親磯禅師(いそのぜんし)が、固唾を呑んでその舞いを見ていた。裏切られた。そういう思いが心に広がっている。愛娘と思っていたが、「あの静は、この母が苦労を無にするつもりか……」やはり、血の繋がりが深いものは…。この動乱の時期に女として生き残って来た者の思いが、頭の内を目まぐるしく動かしている。その思いは、しばらくの前のことに繋がる。禅師は、政子の方を見やった。 4「どうか、政子様。我が子静の腹を痛めし子供。生かしてくださいませ」 この舞いの数日前、鎌倉・頼朝屋敷で、許しを得て、床に吸い付くほどに、禅師は頭を下げている。「それはなりませぬ。禅師殿。私が頼朝の妻たることを頼んでこられたと思いますが、私も頼朝殿と同じ考えにございます。思い起こせば平清盛殿の甘さ、頼朝殿や義経殿を生かしておいたが故の平家の滅亡。この源氏も同じ轍を踏みたくはありません」 冷たく、政子は言い放った。 禅師は、もはやあの計画しかあるまいと思い詰めた。頭を上げる。その目には、政子のふくふくしい顔がある。が、その目は冷徹な政治家の目であった。 さてはて、どのような反応をするものか、禅師は心の中でほくそ笑んだ。「が、政子殿。政子殿も頼朝殿も、現在祈願せしことございましょう」「われらが祈願せしこと………」 思った通り、政子の顔色が変わる。それを見て禅師は続けた。ずるがしいこい表情をちらりと見せる。「大姫様を天皇の後宮にお遣わしになること、本当でございましょうか」 小さく呟く。禅師の言葉に、政子は驚ろいている。「どうして、それをあなたが」 大姫のことになると、政子も甘いのである。政治家ではなく、母親の顔になっている。「そのこと、都では噂でございます。清盛殿も同じように娘を皇家に捧げられた。平家の繁栄の礎はその婚姻から始まっていること、京都の童でも知っております。遠くは藤原氏が天皇の外戚となり、権力を握ったこと、知らぬものはござりますまい。それゆえに頼朝殿も大姫様を宮中にあげしことを願うは、これは親の常」 禅師は政子の表情が、少しばかり落ち着いて来るのに気付く。政子は、ここは一つ、この女の話を聞いてみてもよい。悪い話ならば断り、最悪の場合この女を亡き者にすればそれで済む。「して禅師殿、大姫の話と、義経殿の和子を助けるのと、いかような拘わりがあると申すのか」「私、少しばかり、京、宮中には詳しゅうございます。いかにすれば、大姫様のこと、速やかにはこぶか。その者共紹介できぬ訳ではございません。すこしばかりお耳を……お貸し下さいませ」この勝負勝ったと禅師は思う。 話を聞くうちに、政子の冷たい表情が少しばかり打ち解けて来たことが、禅師にもよくわかった。「おお、そのような方をご存じか。さすがは禅師殿じゃ」 京の暗黒界で、清盛の頃から活躍してきた禅師である。田舎育ちの政子とは、キャリアが違うのである。(続く)(C)飛鳥京香・山田企画事務所http://w3.poporo.ne.jp/~manga/
2003.05.04
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