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駆け足で伊勢(三重県)方面の写真をご紹介しましょう。多気郡にある丹生神社です。丹生神社というと、すぐに浮かぶのが水銀とか鉱脈ですね。というのも、丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところが丹生だからです。朱砂を精錬すると、水銀となります。金鉱石は丹生によって精錬されてはじめて純金となるということです。水銀だけでなく、鉱物の産地がどこにあるのかは、古来非常に大事な情報でした。正統竹内文書によると、ヤマトタケルノミコトによる「東国平定」など全国行脚も、他部族の平定のほかに、こうした鉱脈を確保したり、鉱脈地図を作製したりするのが目的だったとか。その鉱脈地図は、白鳥ラインとも関係してくるのですが、「謎の白鳥ライン」についての私の原稿は12月号あたりに月刊誌に掲載されるかもしれません。掲載が決まりましたらご連絡いたします。丹生神社境内に鎮座している山の神。何の説明も書かれていません。先日ご紹介したフナトノカミを祀ったものであるとの伝承があるそうです。神武以前に存在した古代日本の神様でしょうか。
2011.09.25
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今日は富士山の初冠雪でした。いつもの場所からは富士山は見えませんでしたが、綺麗な夕焼け空が楽しめました。本当だったら中央やや右寄りに富士山が見えます。昨日は秋分の日でしたから、太陽が富士山の左裾野に落ちる頃がちょうど秋分や春分の日となります。古代の人たちは、定点から見た夕陽の沈む場所で時を刻んでいったことが推測されますね。
2011.09.24
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伊勢神宮の内宮です。平日でしたが、この日もたくさんの方が参拝に来られていました。敷地が広いのでかなり歩きますが、自然がそばにあるのでいいですね。五十鈴川。河原でカラスが戯れていました。伊勢神宮と言えば、三本足の八咫烏が浮かんできてしまいます(笑)。昨日のブログでは3がキーの数字であると書きましたが、八咫烏、八咫の鏡、などユダヤと伊勢には8という数字も重要な要素となっているように感じます。アヂスキタカヒコネと瓜そっくりなアメノワカヒコの葬儀がなぜ八日八晩執り行われたかを考えると、ある集団にとって「8」は非常に意味のある数字であったことがわかります。私には、八咫は八幡、ヤハウェというように読めてしまうんですが、これはまた別の機会にお話しすることにいたしましょう。
2011.09.23
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伊勢の写真もアップしておきましょう。私にとっては、初めての伊勢。外宮です。三つ石があります。何かいわれがありそうです。奈良の三輪山、大和三山もそうですが、3が決め手みたいですね。ダビデの紋章も三角形を二つ重ねたシンボルでした。正統竹内文書では、キリストが二度目に来日したときは伊勢津彦として伊勢の港を管理していたそうです。一度目の来日の時は、コトシロヌシの養子となり大和で古神道を学び、五十鈴彦と呼ばれていたとか。そして猿田彦は正統竹内文書の口伝では、一時期五十鈴彦だったとされています。そのため、猿田彦はキリストだったのではないかと推測されるわけです。ただし五十鈴彦も祭祀の官職名であった可能性もあるため、必ずしも同一人物とは言い切れないみたいです。猿田彦の別名はフナトノカミ(岐神)。高天原と葦原中国の両方を照らす、二岐に立つ道案内の神様として記紀神話に描かれていますね。高天原が日向国、葦原中国が出雲国を指すとしたら、まさにキャスティングボートを握っていたのが、猿田彦であったのではないかと私は読むわけです。あまり知られていない話ですが、日本書紀の一書(第二)には、大国主と猿田彦が知り合いだったことが示唆されています。しかし、どういう理由かはわかりませんが、キリストこと五十鈴彦は青森を経て北海道へと渡り、その後アメリカ大陸へと渡ったのではないかとも口伝では伝わっているそうです。
2011.09.22
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台風のほぼ直撃を受けて、家が音を立てて揺れていますが、大丈夫です。そのうちこのような空が広がることでしょう。今日は静かに校閲作業をする日となりました。
2011.09.21
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今回の大和と伊勢を巡る旅であとから分かったのですが、私たちが訪れた場所は、直線で結ばれた場所がほとんどだったということです。二上山と三輪山と竹神社(三重県多気郡)が東西一直線です。畝傍山と丹生神社(三重県多気郡)、伊勢の外宮も同じ緯度で、葛城山、(斉明天皇陵)、伊勢内宮も東西線上にあります。三重の夫婦岩から真西に線を引くと耳成山と天香久山の間を通って行きます。昨日ご紹介した益田の岩船は三輪山と天香久山を結んだ線上にあるんですね。このことから、大和と伊勢は遠く離れておりますが、古代の測量集団は、両方の土地を意識しながら意図的に神社や巨石を配置した可能性が高いように思われてきます。とにかく、大和における二上山の存在感はなかなかのものでした。この二上山と三輪山がほぼ同じ緯度にあることがわかるだけでも、大和の地形がよくわかってきますね。三輪山から畝傍山を見れば、その先に葛城山があることもわかるわけです。葛城山の真東には伊勢の内宮があり、逆に伊勢の外宮の真西には畝傍山があります。おそらく古代の技術集団は、正確に緯度を測れたのでしょう。そして、特定の観測点から見てどの位置に夕日が沈むかで一年のいつ頃なのかを知ることもできたのでしょうね。最後は葛城山の方角に沈む夕日の写真です。
2011.09.20
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大和地方で撮影した山や岩の写真です。畝傍山と、遠くに見えるのが二上山です。同じ畝傍山と二上山ですが、夕焼けの空を背景にして撮影しました。益田の岩船です。三輪山と天香久山と益田岩船はほぼ一直線となります。そして益田岩船を東にまっすぐ進めば、伊勢の猿田彦神社になります。猿田彦は正統竹内文書によると、キリストの可能性があるのだそうです。キリストの弟は石切彦ですから、益田の岩船と関係があるのかな、などと思っています。
2011.09.19
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夕陽が茜色に雲と空を染めることがあります。この日もそうでした。赤く輝く雲の軍団が行進しているようにも見えます。見事な聖者の行進を見せてもらいました。
2011.09.18
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奈良盆地にある大和三山(天香久山、耳成山、畝傍山)を一枚の写真の中に入れるのは、結構大変です。おそらく二上山や葛城山など大きな山に登らなければ写真撮影できないのではないかと思われますが、今回は比較的小さな山から、大和三山を一枚の写真に入れることができました。これが大和三山です。写真中央が畝傍山、その右にあるのが耳成山、そしてちょっとわかりづらいかもしれませんが、左の竹林の右側にある平たい山が天香久山です。上の写真でもう一つ大事な点は、耳成山と畝傍山の間にある遠くの山が葛城山であるということでしょうか。なぜ大事かと言うと、大和三山は実は人工の山の可能性が強いからです。まさかと思われるかもしれませんが、英エイヴベリーの巨大ストーンサークルのそばにあるシルベリーヒルが先史時代における欧州最大の人工マウンドなら、大和三山も十分に人工の山でありえるんですよね。その決定的な根拠は、大和三山の配置がどう考えても夏至の日の日の出を考慮して造られたとしか思われない点です。簡単に説明しましょう。畝傍山は葛城山と三輪山を結んだライン上にあります。これが夏至の日の出のライン。このラインの左右両側のほぼ等距離に耳成山と天香久山が配置されているんですね。つまり三輪山から畝傍山を結んだラインはこの両翼の二山と結ぶことによって葛城山を指す綺麗な矢印の形になるんですね。その矢印は、夏至の日の日の出を葛城山から見た場合、三輪山の上方から昇る日の出の光のラインと一致するわけです。かなり高度な測量技術と土木技術があったとみられます。この技術集団は、ほかにもいくつか仕掛けをしているようです。三輪山と耳成山を結んだライン上に大神神社と狭井神社を配置しているんですね。ということは、耳成山も天香久山も何かの目印として配置された可能性が高くなります。暦として使ったのか、何か祭り事として使ったのかはわかりませんが、製造者の意図を感じますね。耳成山と天香久山を結んだ線上にも何かあるのかもしれません。一応、地図上で調べてみましたが、丹後半島と熊野がラインの両端にあるようでした。そのほか、二上山と三輪山を結んだ東西線、二上山と葛城山を結んだ南北線は、当然のことながら直角三角形を作ります。ではいったい誰が人工の三山を造ったか、という問題ですが、言えることは神武が東征したときにはすでに天香久山も畝傍山も耳成山も存在したということです。神武以前に存在した技術集団が造ったのはまず間違いないと思われますが、その記録は残念ながら残っていません。唯一それが推測できる記録は記紀ぐらいですが、『古事記』の出雲神話には、スセリビメと結婚したアシハラノシコオ(大国主)や、スクナビコナといった、薬草や治水、農業技術に秀でた人たちが登場します。彼らは特殊な技術をもった集団の一員だったのではないかと私はにらんでいます。正統竹内文書的には、イシキリヒコやイスズヒコ(サルタビコ)といったユダヤ系技術集団も登場します。上の写真を撮った場所は、三輪山麓にある久延彦神社です。クエビコは、ご存じない方が多いと思いますが、出雲神話に出てくる知識豊富な案山子(かかし)さんです。どうやら足が不自由だったのでこう呼ばれたようですが、言葉の通じないスクナビコナの出自を言い当てた知恵の神でもあります。今では受験の神様として慕われているようです。彼もまた、技術集団の一員として、この場所から測量に携わったのでしょうか。下の写真は、欧州最大の人工マウンドとされるシルベリーヒルです。
2011.09.17
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京都にはユダヤゆかりの神社があるとされています。それが秦氏や賀茂氏関連の神社ですね。蚕の社(かいこのやしろ)と呼ばれる木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)には、有名な三柱鳥居(みはしらとりい)があります。この神社は秦氏が建立したとされています。非常に面白いですね。三本足のカラスである八咫烏と、この三柱鳥居との間には関係があるように思われます。正統竹内文書によると、八咫烏はアジスキタカヒコネ(迦毛大御神)ですから、大国主の息子。大国主は元祖古代ユダヤであった可能性が強いと私は思っています。つまり秦氏の人たちは、彼らよりも前に、自分たちの祖先が日本に渡来していたことを知っていたのではないでしょうか。だからこそ、大国主の血脈を継ぐとみられる賀茂氏と深い縁で結ばれることができたのでしょうね。『日本・ユダヤ封印の古代史2仏教・景教編』(徳間書店刊)を書いたケン・ジョセフ氏によると、秦氏は元々、景教徒の拠点であった中央アジアの弓月国で、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰していたそうです。背が高く、容貌に特徴があったともいいます。養蚕や絹織物技術に優れており、中東の共通語であったアラム語を話していたらしいです。中国での万里の長城建設の労役から逃れるため流浪の民となり、四世紀ごろから数回にわたって日本に渡来したともされています。この秦氏の記録が『日本書紀』に記されているんですね。応神天皇一四年とありますから、正統竹内文書で読み解くと、四世紀後半、西暦三七〇年代のことでしょうか。弓月君(ゆづきのきみ)が百済から来朝して天皇に窮状を訴えます。弓月君は百二十県の民とともに日本に帰化したいと思っていましたが、新羅の妨害により加羅国に留まっている状況になっているというのです。そこで応神天皇は葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)を加羅国に派遣して状況の打開を図ったのですが、三年経っても襲津彦(そつひこ)は帰って来ませんでした。そこで応神天皇は、新羅を討つために平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)が率いる精鋭部隊を加羅に派遣、新羅の国境に展開させました。これを恐れた新羅の王は、弓月君の民の移動を妨害することをやめたため、襲津彦(そつひこ)とともに弓月君の民が渡来したということです。以上が『日本書紀』の記述です。さらに『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、弓月君は秦の始皇帝三世の孫である孝武王の後裔で、孝武王の子の功満王は仲哀天皇八年(正統竹内文書では三六〇年ごろ)に来朝。さらにその子の融通王(弓月君)も応神天皇一四年に来朝したとあります。弓月君とその民は渡来後、養蚕や絹織に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいということから「波多」の姓を賜ることになったと『新撰姓氏録』に記されています。つまり弓月君の民が秦氏の先祖になるわけです。一説によると、弓月君の子孫はその後、日本酒製造技術を発展させたことから氏姓に秦(はたの)酒(さけの)公(きみ)を賜り、雄略天皇の時代には、その秦酒公が首長となって一族を結束させて養蚕と絹織に一層励みました。そして庸調(ようちょう)として献納した絹布がうず高く積まれたことから、禹(う)都(つ)萬(ま)佐(さ)、「太秦(うずまさ)」の称号を賜ったのだといいます。ここからは私の推測ですが、それまでに渡来した古代イスラエル人の血を引くユダヤ人たち(たとえば石切彦、大国主、八十神)と同様、弓月君の民(秦氏)も卓越した技術集団であったのだと思います。彼らは絹織技術、酒造技術などに秀で、加えて西方の知識を持っていたため、時の政権の保護を受けたのでしょう。絹織事業で財をなして豪族となり、大和朝廷の深くまで入っていったのだと思います。最後にご紹介する写真は、秦氏の祖神(氏神)たちを祀る神社である大酒神社です。
2011.09.16
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京都、奈良、伊勢を回ってきました。途中、にわか雨の降る天気もありましたが、ほとんどが晴れて、まるで真夏に戻ったかのようでした。その中で写真を一枚だけ紹介します。見事な光のカーテンですね。遠くに見える二こぶの山が、二上山です。この二上山の南麓にある竹内峠を越えて、大阪・堺市と奈良県葛城市の長尾神社を結ぶのが竹内街道です。しかし、この竹内街道のラインは東にまだまだ延びて行くように私には思われるんですね。というのも、奈良盆地を挟んで二上山のほぼ真東に位置するのが、あの三輪山だからです。竹内街道の東端付近とされる長尾神社は東面しており、三輪山(三輪明神)を祭る大神神社は逆に西面して向き合うようになっているのも、偶然ではないですね。伝説では、三輪山でとぐろを巻いている大物主の化身である大蛇の尾が長尾まで来ていることから長尾と呼ばれているそうです。それを考えると、竹内街道のラインは少なくとも三輪山まで続いていると考えた方が理にかなっています。そしてこの東西のラインは、伊勢・二見輿玉神社の夫婦岩まで続いていると私は考えます。さらに夫婦岩から伊勢湾入り口にある神島を経て、最終的には伊豆・下田ピラミッドラインでご紹介した利島に至ります。 もっともこのラインは、大和朝廷が誕生するはるか前にできたライン。のちに日本列島に住むようになった人々がこのライン上に竹内街道を作ったのではないかと私は想像していますが、いつかこのブログでも詳しく取り上げてみたいと思っています。
2011.09.15
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バレン高原では、他の古代巨石遺構と鍾乳洞も見学しました。石の砦の中にあった古代の住居跡。こちらはもう一つのドルメンを探しているときに見つけた巨石構造物。周りには何の案内板も説明板もありませんでしたが、巨石の配置は人工的に見えました。バレン高原だけでなく、アイルランドにはこうした巨石遺構がごろごろしているのですが、あまり詳しくは調査されていないようでした。そしてこちらは、バレン高原にある鍾乳洞。洞内に小さな滝が流れていたので、撮影しました。(続く)
2011.09.14
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ヨーロッパ最大の石灰岩カルスト地形とされるバレン高原には、「巨人のテーブル」があることでも有名なんですね。これが、その巨人のテーブルです。つまり巨大なドルメンでした。大きさはこのような感じです。それほど大きくはありませんね。身長4メートルぐらいの巨人さん用のテーブルでしょうか(笑)。北アイルランドのジャイアンツ。コーズウェイでは巨人の靴もご紹介しましたので、再掲しておきましょう。スコットランドの巨人が慌てて帰ったので、忘れていったものでしたね。このバレン高原にも、巨人の忘れ物が・・・ゲンコツのようにも見えますが、なんでしょうか。まあ、テーブルがあるのですから、ここでは「巨人の腰掛」ということにしておきましょう。(続く)
2011.09.10
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翌19日は、バレン高原へと向かいます。この日は、なんと私の137億53歳目の誕生日でした(笑)。途中、美しい風景が次々と目に飛び込んできます。これからアイルランド西部を南下して行くんですね。放牧されている牛さんの群れにも遭遇します。そして、目指すバレン高原に到着。遠くに目標物が見えてきました。(続く)
2011.09.09
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ブラックフォートの見学した後、帰る途中で見つけたドルメンとメンヒルです。誰かが遊びで、近くに落ちている石を使ってミニチュアのドルメンとメンヒルを建造したんですね。よくできています(笑)。同じく帰り道に撮影したイニシュモア島の風景です。こうして1泊2日のイニシュモア島の滞在日程も終わりに近づき、港で荷物をピックアップしてフェリーに乗るだけとなりました。そして無事に夕方、アイルランド本島に到着したのですが、そのときイニシュモア島のゲストハウスかどこかに滞在予定先リストを忘れたことに気づいたわけです(これは以前のブログでもご紹介しましたね)。このリストがないと、この日どこに泊まるのかもわからなくなってしまうんですね。焦って、フェリーの事務所に駆け込み、イニシュモア島のゲストハウスに電話してもらいます。すると予想通り、チェックアウトの際にフロントのデスクの上に置き忘れていたことが判明。そのリストに書かれた宿泊先名を電話で読んでもらい、ようやくこの日以降の宿泊先がわかった次第です。何ともはや、お間抜けなお話でした(笑)。この日(18日)の宿泊先はゴルウェイから車で30分ほど離れたゴート州にあるレイディー・グレゴリー・ホテル。朝食付きで二人で81ユーロ(約9700円でした。(続く)
2011.09.08
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ブラック・フォートもまた、ドゥン・エンガスと同様に、海に突き出た断崖絶壁の端のほうにあります。周囲の景色はこのようなところです。そして、これがブラック・フォートです。崖の上にある石組の構造物が目指すブラック・フォートです。近くで見ると、このようになっています。誰がいつ、何の目的で、このような海に突き出た断崖に砦を造ったのでしょうね。謎はそのままにして、フェリーの時間に間に合うように港へと戻りました。(続く)
2011.09.07
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ブラックフォート(黒い砦)で向かう途中に、こんな光景にも出くわしました。小さすぎてわかりづらいかもしれませんが、中央やや右寄りのところで鳥さんがお休みしているんですね。こちらです。たぶんサギではないかと思うのですが、顔が隠れているのでわかりません。そして、最初の写真の左橋のほうにはもう一つ別の巣があり、巣の上に何かあります。卵なのか、ヒヨドリなのか、ちょっと確認できませんでした。このように自然界のありさまを楽しみながら、ブラックフォートへと向かったのでした。(続く)
2011.09.06
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キルマーヴィー・ハウスをチェックアウトするときにタクシーを呼んでもらい、港に向かいます。途中、この島ではあちこちに見受けられる妖精の家を見つけ、写真撮影します。これがその妖精の家。中央やや左寄りにある小さな家が、妖精の家です。妖精の家が庭にあるんですね。ただし島民皆がそうしているわけではなく、妖精のことを信じている島民の方が、庭に妖精の家を建ててあげているのだそうです。タクシーで港に到着後、インフォメーションセンターで荷物を預けて、ブラックフォートへ徒歩で向かいます。歩いて1時間ほどの場所にあります。途中、遠くの丘の上に別の砦(Dun Eochla)も見えます。ちょうどドゥン・エンガスとブラックフォート(Dun Duchathair)の中間にある砦、もしくは神殿で、おそらく光通信で砦(神殿)間で連絡を取り合っていたのではないかと思われます。(続く)
2011.09.05
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快晴になったので、チェックアウトする前に再びドゥン・エンガスに行き、写真撮影します。これだけでは全体がどういう形になっているかわかりませんので、航空写真で見たドゥン・エンガスもご紹介しましょう。海に向かった半円形の砦になっていることがわかりますね。ドゥン・エンガスの後、アランセーターのお店に立ち寄ります。このお店は私たちが泊まったゲストハウスのすぐそばにあります。ここでいくつかアランセーターを購入して、イニスフリー島の次の目的地であるブラックフォートへと向かいました。(続く)
2011.09.03
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イニシュモア島では、ドゥン・エンガスに近いキルマーヴィー・ハウスというゲストハウスに宿泊しました。二人で朝食付き95ユーロですが、この日は夕食もゲストハウスでいただきます。夕食の料金は一人10ユーロでした。スープや野菜などを使った田舎料理を楽しみました。これがキルマーヴィー・ハウスです。左の丘の上に見えているのが、ドゥン・エンガスです。翌18日は快晴となりました。(続く)
2011.09.02
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ドゥン・エンガスの砦の向こう側は断崖絶壁なのですが、そこには四角い、せり上がった石舞台のような構造物があります。こちらがその写真。皆さん、舞台俳優よろしく、それぞれの演技に没頭していますね(笑)。この場所を訪れたことがある国際気能法研究所の秋山眞人さんによると、ここでは昔UFOを呼んでいたのではないかといいます。では私もUFOを呼んでみましょう。舞台に上がって、海と空に向かってUFOを呼びます。すると、ほどなくUFOが現れ・・・・・・と思ったら、太陽でした(笑)。(続く)
2011.09.01
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