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2024/04/05/金曜日/晴明の小雨ふる本書を手にとってから、かれこれ4週間が過ぎたので、もはや貸出延長もオーバー。遅々として進まぬ、我が言語消化の幼さよ。というか。編み物に日々のエネルギーを吸い取られ、あちこちへの小旅行に時間をとられている節が多大。合間に仕事もこなす、という。いつ、寝るんだ!ということで寝落ちの前の、重力負けな本書との日々は、一ヶ月に及び今現在、その二部構成の外篇を読み終え、内篇に入ったところである。〈DATA〉出版社 作品社著者 熊野純彦2018年9月5日 第1刷印刷2018年9月15日 第1刷発行元々は小林秀雄の『本居宣長』を読むつもりで立ち寄った図書館の1類書架に本書を認め手にしたのは、著者の名前に惹かれたところが大きい。といって彼の経歴を既知だった訳ではない。その姓名の文字面、響き、顕れた仕事、それらの合致というかハーモニーと称するか、そこが自分には重要、というだけのこと。熊野純彦 やまとしひびきなからんやそんな訳でこんな、漬物石並みに重い大部を借入、夜話に読み、電車内では小林秀雄版を読む。こちらは間も無く読み終えるが、下巻が未完のままに遺されている。リニアな電車では小林版モノラルが。眠りの前の読書には、熊野なる研究者版に夥しく登場する本居研究並びに本居に影響を与えた国学者や儒教仏教のとつくに思潮が、山彦の如く往還の多声唱和が小波大波のように寄せてくるよ〜難儀なことである。外篇が終わるに辺り、要約、引用、防備を記す。竹岡勝也が、倫に悖る「もののあはれ」の裂け目、すなわち「不倫の恋はやはり泥水」であるところの物語世界と世の常の道理との矛盾について宣長がどのように捉えたか、言及竹岡は「物のあはれの心」を「神々」につうずる「永遠の道」として発見した宣長を高く評価した。それは「道を焦点とする国学の完成を語るものであって、彼に至って国学は初めて儒仏と対立し得る内容を組織立てることが出来た」と。世の常の道理についてならば、それは儒仏が支配するところであるかもしれない。それでも「もののあはれ」を感じとる感受性は神々から与えられた「心の本然」にもとづくものであり、こころを「儒教的道徳の拘束」から解き放ち、神々への通路をあらたに切りひらくものであったのだ。続けて熊野は、竹岡が近松の浄瑠璃へと筆を運ぶ、長めの引用で、近松の本質本年が宣長と結びつき、源氏の恋を受け入れた藤壺へと戻りくる、なかなか読むものの心に響く一文を案内する。竹岡勝也は昭和初年に活躍した文化史家。宣長歌論の蓮田善明のみやび理解、契沖の尊ぶ「歌のはかなさ」と真淵の「ますらをぶり」「たわやめぶり」を対比し、宣長は「たわやめぶり」を雅の本質とみなすことへの言及を受けて熊野は『あしわけ小舟』の冒頭を引用する。そこから『石上私淑言』へと文は歌の道を伸びる。外篇十のお終いには戦死する詩人蒲田の、若い時の仕事である倭建命の望郷の歌の現代語訳が、元歌と共に付記されている。訳のみ記す。大和は夢に包まれて重なりつづく山脈(やまなみ)の青き垣なすその中に隠(こも)る大和のうるわしさ生きて帰らん供人は平群の山の白檮の葉を永久(とわ)に生きんしるしとて髪にかざして暮らせかし遠い戦地で妻と幼い子を気遣う愛情こもる手紙を届け、間も無く上官を殺害し自らピストルで自決した彼の境涯を述べる熊野の筆は詠うが如く。十一からは小林秀雄、丸山眞男、吉本隆明、村岡信嗣、大久保正、西郷信綱、書き留めきれないほどで、丸山眞男の徂徠学が見渡されるなど、敗戦後からの国学のパースペクティブ『日本政治思想史研究』も目を通せとかや。そんな遠回りはできないので、熊野氏の咀嚼を好機とみてそれを食べ散らかすのみ、である。小林秀雄とほぼ同じ頃、足立巻一『やちまた』これは読みたい。大学紛争の最中、梁山泊のような、ひたぶるに国学研究や源氏を読む濃密な教師と学生、研究者がいた話などには相良享、清水正之、百川敬仁、東より子、藤井貞和、藤原克己、山下久夫、子安宣邦らが続々と。神野志隆光『古事記の達成』『古事記の世界観』どちらかは読むべし。
2024.04.05
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2024/03/08/金曜日/雪残る朝2月末の連休は中の土曜日が晴れて、娘夫婦と鎌倉に出かけた。温かい日で散歩にはもって来いなものだから、当然観光客でいっぱい。中国韓国の人が多い。彼らの地声が大きいので倍くらいいるように感じられるけれど、実際は関東近来の人が多いのだろう。大好きな駅、北鎌倉で降りて鎌倉駅まで歩き、江ノ電のって長谷寺で降りるコース。円覚寺境内だけでもゆっくり眺めれば半日過ぎてしまうかも。昔は一度はこの辺りに住みたいと考えたものだった。凄いなあ、こんな文字が書けたら生まれてきてよかった!と実感しそうた。金澤翔子さん。悉皆仏性か悉有仏性か。仏心この清潔な空間よ。緑色の細い枝が斜めに伸びる。方丈のピャクシン。これはエントである。観音さま盛りを過ぎても花を残す枝も。風が渡って、眺める間に花びらを吹きこぼす。おおお、これは面妖な。龍神さまがお一人能登に向かわれ、被災した人びとを救わんとされておるのか。いずれにしても当地にお寺が建立されて幾星霜、こんなことはあったことがない。元寇の時も足利幕府に席捲された時も黒船の時も明治クーデターの時、即ち廃仏毀釈の時にも。何か大きなことが起きようとしているのか。竹林は春夏秋冬、好天雨雪どれも好い。敷地内には小さな墓地が付随していて、そこに小津安二郎の、家の墓がある。鶏頭の花は無いがお酒は沢山。信州で買ってきたのだろうか、ダイヤ菊もお供えしてある。ゆるゆる円覚寺を出て縁切寺、東慶寺へ階段を登る。ここは寺領内の撮影はできない。庭園に力を入れている様子。小林秀雄はじめ鎌倉文学に携わった多くの文人の墓があるらしいが、若い人たちに突き合わせるのも申し訳なく遠慮した。とても良い感じの聖観音さまがおられる。帰り、縁道の梅の花にメジロが2羽、人を恐れることもなく目の前でしばらく無心に花の蜜を啄んでいた。なーんて可愛らしいのだろう。
2024.03.08
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2023/06/13/火曜日/晴れました、梅雨の日さて先日の、夕方からの芝居待ち。午後の3時間ばかりぽっかりと空いた。そこで『古本食堂』も読んだことだし、神保町遊行に出かける。かつてに比べれば古書店が減ったとはいえ、ここみたいな場所は世界中どこにもありゃしない。開発に晒されないためにも世界遺産とか、世界古書店街メンバーとか、そんな共に携えていける工夫、何とかならないか。古書店を冷やかしたあとはやっぱ三省堂に先ず。あらなんと!お店がない∑(゚Д゚どうやら建て替えの様子。ちゃんと書店として戻ってくださいね。新刊本を扱うお店で他のところ知らなかったけど、今回立ち寄った東京堂。なかなか居心地よろしい。おや、すずらん通りの、ここだけ若い人で賑わう本屋さん、なーに?その名は PASSAGE by ALL REVIEWSフランス文学者の鹿島茂氏の発案でできたらしい。書架分だけ店主のいる共同書店。うーん、この書棚に参加したいなあ。どうしようかなあ。迷ってるうちに埋まっちゃう?でも基本めんどくさがりだから向かないかも。それに扱ってる本はきれいで、何だか古本、って感じはない。棚を見ているだけで楽しいな。アンティークとか本以外も扱ってるみたい。↑3階にも少しの書架とカフェが。ここで ヨコヤマタツヤ氏の書架発見!これは捨て置きならず。購入。店内カフェの100円引きレシートを頂く仕組み。もう一冊欲しい本があったけれど、お出かけ前につき、それは次回のお楽しみにしよう。瞬く間に時間は過ぎる。早めの夕飯としたいのだけど、お蕎麦屋さんが開くのは5時半か6時。5時前でもちゃんと食事のできる揚子江菜館へ『古本食堂』にも登場。池波正太郎も愛したとかいう五目焼きそばを注文それにピータン、生ビール。ハア幸せお腹苦しい。一人中華は勿体無い!分け合って品々食べたい。前回こちらには女三人で来て、やはりたらふく食べたのだった。
2023.06.13
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2023/06/03/土曜日/雨上がる「本と一緒に歩くのだ」一時期よく読んだ作家が、中学生新聞か何かに本の案内寄稿していた時のタイトルで、私はこれが頗る好きなのだ。本を読んで関心が湧くとその縁を求めて歩く。今日も今日(正確には一昨日)とて、職場から近い上野公園に足を運ぶ。『天海』を読んでやって来た上野は美術館、博物館、催し、動物園などの目的なしに来園したのは初めてかもしれない。↑これは以前寛永寺訪問時に頂いた立派な縁起冊子に記された現在の東叡山の姿冊子によれば往時はこの面積の10倍以上が寺領であったという。↓往時を偲ばせる、唯一焼け残った清水観音堂開祖天海の四神ランドスケープに従うなら、西に大きな街道が必要で、それを探すと中山道くらいまでは西に広がっていただろう。そうすると谷中霊園や東大本郷キャンパスの一部なども東叡山であったかも。↑上野の山の古墳らしき丘そこに学んだ芥川龍之介が、旧帝国図書館(今の国際子ども図書館)で知遇を得た怪しいロシア人との交流を何かで読んだことなども思い出す。↑(『夢見る帝国図書館』中島京子、かな?)海軍幼年学校で教鞭をとっていた頃の彼のエピソードに、君たちは勝つことばかりを教わり負けることを習わない。だから自分は負けることを教える、みたいな授業があったのもさすがだ。↑(『また遭う日まで』池澤夏樹)さて、彰義隊の激烈な討死で、上野の山には死体が累々と重なり、明治政府はそれを野晒しに放置させた。同じように帝を奉りながら幕府側か薩長側かで、壊滅に追いやる残虐さと武士に対する道を外れた振る舞いは、江戸町民を震撼させた。↑(『彰義隊』吉村昭)芥川の「ぼんやりとした不安」ではないが、大勢の若い人の無惨な死と、大空襲で家族と家を失った被災者の群れとが上野の今の風景に重なって、私はどうも独特な荒みを上野に来るたび、ぼんやりと感じてしまう。さて。本日の目的はこれここで手を合わせたいと思ったのだった。彰義隊遺詠塔の近くには、天海僧正の毛髪を収めた塔がある。お坊さんに毛髪?あーきっと短いものなのだろう。今度は江戸ばかりでなく、世界が平和な浄土となるよう、三千世界からお力が届きますように、と祈らずにいられない。彰義隊といえば会津。天海僧正も会津の生まれであるそうだ。
2023.06.03
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2023/05/30/火曜日/樹木の香り濃くなる瓢箪から駒本から散歩犬も歩けば棒にあたる↑私好みの言い回し^ - ^先だっての18日、職場早退して銀座線で浅草へなぜか。それは、毎月18日が長昌寺御本尊の開帳日なので、ひょっとして拝観できるかも!と期待したためである。間も無く四時なので、もう終了かな、と早足で隅田川を右に見ながら浅草駅から北上17分余り人力車に乗った観光客のベスト撮影スポットを過ぎると、左手には聖天さんああ。この先左に曲がれば、ステキな和菓子屋さんがあるのだが、がまん。更に今戸焼もこらえ、今戸神社を過ぎゆく。やがて細い道の左手に、立派なお寺が現れる。これが長昌寺江戸幕府内最古の日蓮宗のお寺とか。由緒あり。開祖は日寂上人。このお上人、元は金龍山浅草寺の第三世座主にあった高僧である。時は鎌倉時代、元寇流行病旱魃などの苦難の時代背景に新仏教が勃興して、辻々に説法の僧侶が立っていた。はずだ。たまたま当地を訪れた日蓮宗の僧と宗論を交わした日寂はことごとく論破され、身延山に居たらしい日蓮の元に駆けつけ修行に努めた。浅草寺に戻り、山ごと宗旨替えを訴えたが受容されず、長昌寺前身の妙昌寺を石浜に創建したのは、1279年6月2日のことという。そういえば全山こぞって宗旨替えした古刹に麻布の善福寺がある。この寺はそれこそ浅草寺に継ぐ江戸村の古刹で、824年空海開祖の真言宗寺と言われる。当時の高名な上人了海が親鸞と目見え開化されて、全山こぞって浄土真宗に改めたのが1260年頃というから、両山鳴動の事態である。昨今の時間が止まったようなお寺に比して、宗教哲学に対する求道の志は雲泥の差である。しみじみ↑地名の鐘ヶ淵の由来そういえば、この頃鎌倉と生地を何度も往復した日蓮が常宿とした谷中の天王寺は元、感応寺。確か幸田露伴の『五重塔』にその名が出てきた筈。こちらは1274年の築で、幕命で廃された後、天台宗の寺になった。天台宗は徳川と縁が深い。さて、浅草寺の去り際、座主は一寸八分の金の聖観音像を帯出したそうで、どうやらこれが浅草寺のいわゆる秘仏ではないか、と想像するのも面白い。↓長昌寺HPよりそんなこんなであたふた訪ねてみれば、もうご開帳は終了していた。というか、そもそもお像は美術品ではなく信仰の対象である、のだ。心掛けが間違っていた(;ω;)毎月18日、午後1時から始まるお勤めに参加し、遠くから厨子の扉が開かれた様を眺めるような具合と伺う。寺は祈祷寺であり、また仏門に入る方の修行は厳しくその矜持を保っているのが日蓮宗のようだ。名残惜しそうにしていると多忙な中、少しお話し頂いた。要約すると、明治天皇が浅草寺を御幸された折、秘仏拝観を所望したが浅草寺は拒否したらしい。その後公の調査官が遣わされ確認されたが、それは木造の尺五寸ほどの観音像だったらしく伝説とは異なっていた。絶対秘仏なので浅草寺側が事前にすり替えたとも噂されるが、やはり長昌寺の聖観音がそれだろう、とのご説明だった。寺務所側に弁財天が祀ってあった。500円玉を洗い、今戸神社に向かう。↑おや、石清水八幡宮とのつながりがここは人力車でやって来た女性が多くいた。縁結びの宣伝が功を奏したような賑わい。まあ、御祭神がイザナギイザナミだから結びついたのだろけど。半分は武久長運の八幡大菩薩とも思われるけれど。創建は長昌寺よりも200年は古い。もし、ご縁がありましたら長昌寺のご祈祷に外部から加わりたいもの。
2023.05.30
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2021/09/28/火曜日/日差しは強い兄に勧められ何年か前に森鴎外『渋江抽斎』を読み、森鴎外への印象が幾分変わり、更にその後年「森鴎外記念館」を千駄木に訪ね、もっと変化した。しかし端緒は渋江抽斎だ。谷中の 光照山感應寺にそのお墓があると知り、立ち寄った。お寺は山門過ぎると、広くない寺領の左半分がいきなり、しかもぎっちりと墓石の林立する墓地となっている。今どきのお寺の経営の厳しさが何と無し伝わる。先般墓探しで苦慮したので、寺務所で尋ねたら親切に案内くださった。お墓そのものはシンプルに「渋江家之墓」とあるのみ、そんな所も好感大。何しろあの、五百さんあっての抽斎さんなんだから。左には彼の生前の功績を記す墓碑銘があったが、悲しいかな無教養な私はこのような碑文を前にしてはほぼ文盲だ。何とか読めるのは大文字の「抽斎渋江君墓碑銘」くらい。文字デザインがイカす。碑文の中身を是非知りたい。〈岩波ではなく、兄から送られたこの版で読んだ。私は武鑑なるものに無知であったが鴎外は歴史小説資料、考証としてこれらを漁す内に蔵書印に偶々同じ名を認める。その印に弘前医官とあり、故をもって江戸期に同業同好の志を見出し、氏への敬慕高じて彼方此方訪ね文する鴎外の、医官定年間際の瑞々しさ。渋江抽斎を主軸とした幕末から明治へ移行する一族の年代記へと形成される。当時ですら探索せねば判然とせぬ人物を通し、読者は明治の文豪鴎外と共に平成に生きる我らが何を失したか鮮やかとなる。最後の伴侶五百の姿勢は、これ鑑と為したく候。〉〈私的読書メーターより〉
2021.09.29
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2021/09/28/火曜日/曇り時に晴ただ今 幸田露伴『五重塔』を読書中その雰囲気を味わおうとひぐらしの里の天王寺を訪ねた。『五重塔』には感応寺の寺名で出て来る日蓮宗のお寺。しかし碑文にあるように、1698年、幕府の命で天台宗に変更された。しかしこの時はまだ感応寺の名のままだった。後、日蓮宗への帰宗を願い出たが許されず、その代案に雑司ヶ谷感応寺が新たに1836年に開山された。そのときに今に至る天王寺と改名された。ところで、話はそれるが谷中にはもう一つ別の感應寺(應は応の古い字)があり、ややこしい。山門に神田山とあるが寺名は、光照山 感應寺とは?元々は神田にあったお寺のようでそのご縁か、かの渋江抽斎の墓碑と渋江家のお墓がある。さて、1644年。感応寺の日長上人が境内に建立した五重塔は1771年の目黒行人坂の大火で焼失するも、わずか20年後にはに再建され、上野戦争、関東大震災、東京大空襲も生き延びたのに、不倫の焼身自殺で跡形無く燃え尽きたとは無念なり。幸田露伴既に亡き後だった事がせめてもの慰めだが、幸田文の事件に寄せる衝撃を何かで読んだ記憶がある。五重塔が能く見えていたろう露伴の2年間暮らした屋敷跡には当時からあったという珊瑚樹が健在。谷中霊園は何度か訪ねているが、お寺、五重塔を中心に眺めてみたのは今回が初めて。今は真っ直ぐな寺前の道路がかつて参道であったと寺の人から聞く。霊園外に日蓮宗のお寺の沢山あることからもよほど大きな寺領であった往時が偲ばれる。日蓮宗は権力から嫌われた一点で胸がすくなぁ。ところで上野戦争では会津藩士の戦死体は新政権が埋葬を禁じ野ざらしの累々たる状態だったことを何かで読んだ。吉村昭だったか。恐らく当時この近辺は人の住める状況では無かったろう。五重塔そのものも土地も、公称では「東京市に寄進」とあるものの、寺側からすれば没収であり敷地の大半が上野戦争後、公営墓地にさせられてしまった事になる。日蓮上人は極楽の池から覗いて何をか思われん。初めの画像の銅製釈迦如来坐像は感応寺が天台宗に変わる直前に建立された。その時の日蓮宗十五世日遼が最後の住持と銘板にある。隣接の谷中霊園寛永寺領の徳川家霊廟の最後の将軍も十五代。そのすぐ側に控えるように渋沢栄一の墓
2021.09.28
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2021/08/18/水曜日/晴れ暫し強い雨念願叶い 吉村昭記念文学館へ彼の『彰義隊』を読んで会津まで墓参に出かけたのは昨年のこと。それを踏襲して元上野寛永寺の表門が納められ、会津藩士が祀られている円通寺に先ず足を向ける。目白駅から学習院前を過ぎ、千登世橋を折れて都電荒川線の鬼子母神前田美波里停車場から円通寺の最寄りである終点三ノ輪駅までゆく。さくらトラム?やっぱり都電荒川線です。/目白小学校150年記念の像/千登世橋の竣工は昭和7年。土木技術の上からも価値ある一つらしく親柱のデザインは最近手を入れた模様。線路向こうのフランクライドライトの明日館の影響を覚える。/三ノ輪の路地裏立派な黒門には夥しい数の銃弾痕があり、戦闘の激しさを伝える。/この一角に荼毘に伏された隊士の碑が祀られている。/新政府が行った暴虐は、隊士らの亡骸を引き取ることを許さず野ざらしという、武士には耐え難いものであったあった。/そこに手を差し伸べたのが寛永寺出入りの神田の商人と円通寺23世和尚だった。/その縁があっての黒門と彰義隊なのだ。円通寺縁起によれば坂上田村麻呂が開山の伝説故か、何とも血生臭い伝承の最たるものは、小塚原の地名の元ともなった源義家が奥州平定で持ち帰った四十八の首を収めた塚とその供養塔だ。ここから10分も歩いた所には荒川の縄文からの遺跡が見られる歴史館がある。さて三ノ輪の駅まで突然の雨に打たれながら3.4駅先の吉村昭記念文学館へ。館の文芸員の方の丁寧な説明もいただき、吉村昭がより身近に感じられた。彼のご両親は意外にも東京ではなく静岡出身の方だった。また敗戦の前後に両親を失くし家も戦火で消失。何より敗戦を挟んで世界がガラリと変わり、かつそれに瞬く間に順応していく人びとの姿を目の当たりにした多感な少青年期に肋膜炎で我が身も明日もしれない、これらの背景が彼の作品の芯にあると理解された。かねてより、そして新たにいくつか読みたい作品も浮かび上がる。帰途、庚申塚のお煎餅屋さんに寄り道したら閉店。コロナ蔓延以降、こういうケースが多い。
2021.08.18
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