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全体の事を考えて生きる教えて頂いたこと54自己が全体とイコールになった場合「一体全体の理」を頂いた姿といえます。自己の生存の目的と意味が全体の役にたち、全体の為に生きる事が「一体全体の理」です。例えば、次の様な例題を考えてみますと、台風の大雨によって川の水位が増し堤防が崩れ始めました。自分の家が堤防のそばに建っていました。もし自分の家を犠牲にして壊し、堤防を補強すれば町全体が洪水から救われます。「一体全体の理」を頂いている場合は、全体の為に自己の家を犠牲にする事が出来ます。全体の為に生きる自己は全体と一体となっている自己です。即ち、自己の存在は、全体の存在です。この場合、最も大切な悟りは「自己が全体の為に犠牲になるというのでは無く、自己が全体として生きる姿である」という事であす。これが一体全体として生きる「生命一体全体化の理」です。全体の為に生きる事が出来る自己と成った場合、親の理を頂いた姿といえます。神生力とは誰にでも直接に働いている力と働きであります。心臓の動きも、新陳代謝も、直接に働いております。人間の造った人造神仏に頼って、神通力を頂くというような事ではありません。人間の造った人造神仏には、力と働きはありません。何故なら、どの仏像も、単なる物質であり、生命はありません。積もったホコリも取り払うこともできないからです。犠牲という事は、あり得ません。全ての為に、一体全体として生きる本来の生き方があるだけです。全体の為の犠牲という事は、自己が全体の一部であることを基準にした場合の考えであり、悟りではありません。全体の為に生きるという考え方が生命の「一体全体の理」に適った悟りです。
2025.10.25
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強い志をもって継続すること 教えて頂いたこと53 この世の全ての存在・現象は、その存在・現象をあらしめる為に絶対時間的な継続が必要です。即ち「存在する」という事は、絶対時間の上で何らかの継続があるからです。絶対時間とは、相対的この世の時間を超越したものです。時間の本質的理を意味するものです。存在・現象をあらしめる理の力と働きが無くては、絶対時間に於ける瞬時の存在・現象の継続も有りえません。凡ての存在・現象は、それを時間の継続としてあらしめる理の力と働きが、あってこそ有りえるのです。継続させる強度は意志の強さによります。意志の堅さは強度継続の強さに通じます。例えば、鉄は堅いものであるから、何十階建のビルでも建てることができます。しかし、豆腐ではたてられません。意志をどこまで貫くかによって、どれだけ困難なことを克服できるかがきまるのです。「強度継続の理法」は時間的な長さでありますから、より永遠に継続するためには、意志の力と働きを強くしなければなりません。どこまで努力し続けることが、この理法では最も大切です。意志の強さというものは、自己の生命エネルギーの開発発展によってなされるものです。自己の生命力の開発発展によってなされるものです。どんな困難な問題であっても、強い意志の力と働きを使って継続的努力をすることです。諺でいいますと「千里の道も一歩から」であり「ローマは一日にして成らず」です。つまり、「強度継続の理法」に沿って、困難な問題を克服する努力をすることにより、人の気持ちの判る、他を思いやることのできる、やさしい親の意識へと成長発展することになります。
2025.10.17
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よりよく生きて行く為に 教えて頂いたこと52より良く生きること、これは全ての生物が望んでいる生命的な欲求です。より良く生きる為に「生命あるものが互いに助け合うこと」は、生命への愛です。その本質は「生きることの大切さと素晴らしさ」です。即ち「生命の尊厳性そのもの」です。大自然の大生命力によってのみ、全ての生物は、この地球に生命を与えられ活かされ生きているのです。この地球における四十億年にわたる生物進化と生存の歴史は、実に大自然の偉大なる大生命の力と働きによってのみ行われてきたのであります。だから、大自然の大生命こそ全ての「生命の親」なのです。親であります大生命こそ大自然の本質であり、神仏の本質なのです。つまり、生きていくのに絶対になくてはならない存在が神仏の本質です。即ち、生きるもの総てにとって、いつでも何処でも絶対に必要不可欠なる存在が神仏の本質なのです。現代人が誰でもすべき第一のことは、先ず、生命の尊厳性に目覚めて「生きること」を大切にする事です。「生きること」の大切さは人も自分も変わらないのです。「生きること」を大切にする、生命の尊厳性とは「他が生きることを助けること」なのです。「より良く生きる」ために「互いに助け合うこと」が「生きること」を大切にすることになるのです。「循環の理法」とは、己の蒔いた種が必ず種どおりに生えて循環してくる事です。この世の全ては「循環の理法」によって成り立っています。全てが循環しているのです。だから、「他の生きること」に役に立ってこそ、「自分の生きること」もより良くなるのです。「他の生きること」には役に立たないで、自分だけがより良く生きようとして如何に神仏に願ったとしても、己だけの我欲を満たしてくれる神仏などはいません。他の生命を救ってこそ、自分の生命も救われます。他がより良く生きることに役立ってこそ、自分もより良く生きられるのです。これが「循環の理法」なのです。この絶対なる大自然の掟・法則に背いて、より良き自分の生存はあり得ません。 実質的に他の生命を救う事が、実質的に自分の生存の価値を高める結果になります。実際に地球で苦しんでいる人達に、米一粒でも、パン一切れでも、水一杯でも、毛布一枚でも援助すること、このことが互いの生存をより良くすることであります。だから、実際に「徳積おつなぎ」をしなければならない必要性はここにあるのです。 他にプラスの種を蒔くものが、自らもプラスの収穫を得る、これが「循環の理法」なのです。「他がより良く生きる為の種を蒔かずして自分の生きることだけがより良くなる」という事は絶対に無いのです。十分に蒔いて他の生命を救い、他の生命と共に自分もより良く生きて行く事は、誰にとっても大切なことであり、是非ともしなければならない事なのです。
2025.08.12
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平均調和安定教えて頂いたこと51 「平均調和安定の理法」というバランスの法則で、世の中治まっています。例えば、地球が太陽の周りを回っていることも「平均調和安定の理法」です。遠心力と求心力がつりあって、そしてまわっています。この地球上の民衆の暴動も、安定するのにもバランスが取られるのです。呼吸だって、吸う息と吐く息とがバランスを取っています。しかし、バランスの理法がくずれると死ぬ前になると、吐く息が長くなり、吸う息が短くなっていきます。内臓でも五臓六腑がバランスをとって調和しています。バランスが壊れますと下痢と便秘となってきます。「平均調和安定の理法」がないと、胃腸の働きも肝臓の働きもバランスが崩れます。全部が調和で成り立っています。夫婦間でもケンカして相手に言い過ぎてしまうと、ご機嫌をとろうとします。今はバランスのくずれた世界になってしまっています。自分の気持ちだけで通ったり、自分の考えだけで通って行きますとバランスが崩れることになります。自分の気持ちだけで結婚すると後はいやとなります。恋愛結婚で、結婚しますと、そこに神理の意味がわからずにいますと、我慢しなければならなくなっていきます。今の地球人みたいに、物、金、地位、名誉などに執着した生き方をしていますとバランスを崩してきます。つわりも母親と子供のバランスを取ろうとして、つわりがあるのです。つわりのひどい時が、バランスの壊れていることをとくに現しています。現在の地球人は、心のバランスが崩れてきています。人間関係、友人、知人、親子、兄弟、姉妹、会社の同僚、上司など、いろんなところに現れています。自己中心の生き方は、調和が崩れていきます。家の中、様々なところで、気持ちのバランスがくずれてきています。物事の全て、子心であるとうまくいきません。してもらいたい人はその様になりません。神理を学んだものが、相手の気持ちを抱えて通っていくようにしないとバランスが取れません。これは神理を理用して実際にプラスの現象を実生活に現して生きていくのが、神理を実践した姿です。こういう意味で「平均調和安定の理法」を用いるということです。この世界は全て「平均調和安定の理法」であるバランスの法則が働いています。プラスをした分プラスの現象が起きます。逆にマイナスをした分マイナスの現象が起きます。当然の如くバランスが働くからです。他の為に役にたつ「平均調和安定の理法」に沿った生き方をして、素晴らしい生存の一生を送らなければなりません。
2025.04.13
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朴曰く集より 2 生薬(気味)藥能処方38黄蘗(おうばく)(苦寒)血熱を去り、下痢を止どめ、腹痛を治す。又黄疸を治す。何れも熱を除くが本薬の主る所なり。梔子檗皮湯39当帰(甘温) 中を緩め外の寒を退(しり)ぞけ気血の行りをよくすることを主る、故に手足を温め、腹痛を治し、内を調へ血を和し胎を安んず、之当帰の好んで婦人血の道の諸病、諸の冷え込み等に用ひらるる所以(ゆえん)なるべし。当帰四逆湯・当帰建中湯・当帰芍薬散・当帰散40通艸(つうそう)(木通)(辛平)気を通じ血を循らし、よく手足を煖たむ。故に当帰四逆湯に配伍せられ、手足の厥寒を治するに用ひらる当帰四逆湯41防已(辛平)気を増し外部に在る水を利す、故に風水、皮水を治し身重きを主る。防已を用ふる所身重に重きを置くべし。防已黄耆湯・防已茯苓湯・防已地黄湯・木防已湯・木防已去石膏加茯苓芒硝湯42黄耆(甘微温)外を補ひ堅きを緩め、寒を除く事を主る、故に自汗盗汗を治し肌表(きひょう)の滞を消す。桂枝加黄耆湯・黄耆建中湯・黄耆芍薬桂枝苦酒湯・黄耆桂枝五物湯43防風(甘温)風を去り疼痛を治す。其の効当帰に似て少しく異る所あるものに似たり。防風通聖散・消風散・大防風湯・釣藤散・当帰飲子44芎窮(川芎) (辛温) 気のめぐりを良くしのぼせを下げ頭を軽くし腹痛を治し月經不順を調へ又は下血を止どめ或は胎児を安んず、芎窮は当帰と合用せられ諸種の婦人病、昔時の所謂血の道に応用せらる此れ等は皆気の滞りを散じ血行を順にさせる為と思はれる。四物湯・芎帰膠艾湯・十全大補湯・温清飲・当帰芍薬散・川芎茶調散・葛根湯加川芎辛夷・白朮散45橘皮(辛温)胃中を温め、よくしゃっくりを鎮む。又よく胸満を治す。又よく魚毒を解す。橘皮湯・香蘇散・平胃散・二陳湯・茯苓飲・橘枳姜湯・抑肝散加陳皮半夏46紫蘇葉(辛温 所謂気剤として用ひらる。鬱気発散するの効あり。半夏厚朴湯に入る。其の他蟹の毒を解く特性あり。半夏厚朴湯 他 生薬(気味)藥能処方 山茱萸(酸平)小便の自利を止め不利を出し少腹を引しめ視力を益す等の効ありとなす。八味地黄丸・六味地黄丸・牛車腎気丸 犀角(苦寒)強力なる解毒作用あるものとみえたり。清営湯・犀角地黄湯 酸棗仁(酸平)熱を収め気を平らにするの効あり、故に不眠に用ひらる、又眠られざるに非ずとも気持ちイライラとして落付かざる者にも応用の機ある可し。酸棗仁湯
2025.04.13
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朴曰く集より 生薬(気味)藥能処方1桂枝(辛温)汗を発し表を調う、又衡逆を主る。衡逆とは下から上へつきあげる勢いを言う。動悸・頭痛・息切れ・肩のはり等此衡逆より生ずる者あり、表の陽気虚する時はよく此れ衡逆を発す。桂枝よく表を救う。又山椒の毒を解すに用いられる。桂枝湯・桂枝甘草湯・桂枝去芍薬湯・桂枝加桂枝湯・桂枝二越婢一湯・桂枝二麻黄一湯・桂麻各半湯2芍薬(苦平)結実(けつじつ)とは凝りの事なり、拘攣(こうれん)とは引かれ引きつられるをいうなり、芍薬はよくたるみを引きしめ、痛みを除くの効あり、結実も拘攣(こうれん)も弛みより来るものと見るべし。芍薬甘草湯・桂枝加芍薬湯・当帰芍薬散・複方靈黄參丸3甘草(甘平)緩和を主として逆をめぐらす効あり、逆とは正に反する事なり、めぐるとは元に戻る事なり、故によく厥(けつ)を復し熱を消し痛を和らげ煩を治す。甘草湯・甘草乾姜湯・炙甘草湯・甘草麻黄湯・甘草瀉心湯・甘草附子湯・四逆散・通脈四逆湯・複方靈黄參丸4生姜(辛温)気を扶(たす)け外を実す、之れ生姜の発汗薬に多く用ひらる所以(ゆえん)なり。生姜瀉心湯・生姜甘草湯・生姜半夏湯5乾姜(辛温)深きを温むる効あり、故に厥(けつ)を回し下痢を止め嘔を治す。乾薑黄連黄芩湯・乾薑人參半夏丸・甘草乾姜茯苓白朮湯・乾薑附子湯6大棗(甘平)攣引とはひきつり引かるる事なり、強(こう)急(きゅう)とはこわばりつまるなり、則ち大棗に緩和の効あるものと見ゆ、又大棗には血の循(めぐり)りをよくするのハタラキあり。苓桂甘棗湯・補中益気湯・甘麦大棗湯・平胃散・小柴胡湯・桂枝加竜骨牡蛎湯・黄芩湯・半夏瀉心湯7葛根(甘平)組織のこわばりを緩める効ありて、其の作用する場所は主として首筋から背中へかけて働くものの如し。葛根湯・葛根黄連黄芩湯・桂枝加葛根湯8麻黄(苦温)よく表裏の水を逐(お)う。故(ゆえ)に汗を発し熱を解(げ)し喘(ぜい)を除き咳(せき)を鎮め、痛みを去り悪風寒を止(と)どめ水気を消す。麻黄湯・大靑龍湯・小靑龍湯・越婢湯・越婢加朮湯・麻黄附子甘草湯・麻黄醇(じゅん)酒(しゅ)湯・続命湯9厚朴(苦温)腹を温め腹満を除く。又胸(きょう)満(まん)、咳(せき)、喘(ぜい)、上気等を治し、或は咽喉(いんこう)の塞(つか)へを治す。併(ただ)しその根元は腹満にあり。厚朴生姜半夏湯・厚朴麻黄湯・厚朴七物湯・厚朴三物湯・厚朴大黄湯10杏仁(甘温)よく腫(しゅ)を消し喘(ぜい)を定(さだ)む。其の本油分の緩和作用と芳香の発散作用とにあるは疑ひなかるべし。桂枝加厚朴杏仁湯・苓甘姜味辛夏仁湯・麻黄杏仁甘草石膏湯・還魂湯11附子(辛温)表を実し陽を益し津液を保つ、故に悪寒を治し厥(けつ)冷(れい)を復(ふく)す。附子湯・桂枝加附子湯・桂枝附子湯・芍藥甘草附子湯・枝去芍薬湯附子湯・附子粳米湯・頭風摩散12石膏(辛微寒)熱気の泛(はん)乱(らん)を収め、気の発散を助け、熱による刺戟(しげき)症状を緩解する能あるものの如し。白虎湯・白虎加人参湯・白虎加桂枝湯・小靑龍湯加石膏13知母(苦寒)熱を収め、痛みを去り、腫(しゅ)を消す。本品の熱を去るは内の熱にして外の熱に非ず故に内熱ある者に用ひて外熱の者には用ふる事なし。(内熱と外熱との見分け方)内熱の者は口乾き、身重く、汗出で、さむけはする事なし。外熱の者は大抵口中乾かず、汗は出る者もあり無き者もあり、必ず悪寒あるものなり。熱あり、疼痛ありても身体は割合に重くはなし。桂枝芍薬知母湯・百合知母湯 生薬(気味)藥能処方14人参(甘微寒)乾きを潤し、しぶりを緩む。故に心下痞、痞堅、身痛、下痢喜嘔(きおう)、心痛、其の他を治す。人参湯・桂枝人參湯・桂枝加芍薬湯・各両人参三両新加湯・四逆加人参湯15白朮(苦温) 水をさばきその滞りを除きよく小便を調う。故に小便不利、小便自利を治す。不利は出工合悪きを謂ふ。又小便少なきをも言ふ。自利はよく出る者を言ふ。則ち出過ぎる者の事。小便の出が悪い筈なのに反って出の好い者の事も自利と謂ふ。小便が少なくて下痢する者、小便の出が好くて便秘する者、筋や骨の痛む者、めまいのする者、頭の重い者、胃がふくれて食進まず或は吐く者、朮のゆくべき場合には必ず小便の出工合を確むべし。〈応用〉水気(むくみ)の病、小便不調の病、胃腸の病、筋や骨の痛む病(手足やその節々や背骨などの)其の他に応用広きもの也。白朮附子湯・桂枝去桂枝加茯苓白朮湯・麻黄加朮湯16茯苓(甘平)水を収め乾きを潤しその不和を調う。故に動悸を鎮め衝逆を緩下し、水を利して眩悸(げんき)等を治す。真武湯・茯苓桂枝白朮湯・茯苓甘草湯・茯苓四逆湯・茯苓沢瀉湯・茯苓桂枝五味甘草湯・小半夏茯苓湯17大黄(苦寒)裏に熱ありて大便出でず、便秘し又は下痢するを治す。又腹痛、腹満を治す。或は内に熱あり、胃につかえありて吐する者を治す。或は頭痛する者を治す。大黄の行く所は内に熱あるが主なれば、小便の色濃く口中燥き又は眼の中赤き者等多し。大承氣湯・小承気湯・大黄甘草湯・桂枝加大黄湯・梔子大黄湯18半夏(辛平)気を補い水を去る。故によく嘔吐、腹中雷鳴、咳(がい)逆(ぎゃく)等を治す。又咽痛を治す。小半夏湯・半夏散・半夏瀉心湯・越婢加朮湯・半夏麻黄丸・葛根加半夏湯・大半夏湯・半夏乾薑散19黄連(苦寒)血の虚熱を去り虚熱より来る諸証を治す。皮膚の痒み又はタダレ心下の痞(ひ)、下痢、出血、心煩(しんぱん)、腹痛など皆それより生ずる証候となす。〈応用〉胸や腹の病、又はそれより来る発熱、心煩、下痢、腹痛、又は皮膚の熱あるただれを治すに用いられる。大黄黄連瀉心湯・瀉心湯・黄連湯・小陥胸湯・黄連粉20黄芩(苦平)熱を和し熱より生ずる心下痞、下痢、腹痛、身熱等を治すこと黄連の如し 而かもこの場合心煩の証は著しからず。これ黄連と異なる所なり。又黄連は上部にゆくこと多く、黄芩は下部にゆく事多きものなり、またよく黄連に伍(くみ)して用ひられお互にその効を強むる事を為(な)す。〈応用〉諸種の内に熱の有るによりて起る病ひ、特に下痢に多く用いられる。黄芩湯・黄芩加半夏生姜湯・六物黄芩湯・三物黄芩湯21細辛(辛温)中を温め、寒を去り、痛みを除き、痰(たん)を消し、咳嗽(がいそう)を治す。〈応用〉鎮咳薬として、又其の他胃腸の病、からだの痛み、中風等に広く用ひらる麻黄附子細辛湯・大黄附子湯・桂枝加芍薬加麻黄附子細辛湯22五味子(酸温)咳を治し小便を調のへ冒を治す、冒は則ち鬱冒のことにて、頭をすっぽりと被ぶせ包まれたるが如き感じを云、延(し)いて頭の重きにも宜し、頭のただぼーっとしたるにも宜し、耳のガンガンするにも宜し。茯苓甘草五味乾薑細辛湯23沢瀉甘寒熱を去り燥きを潤すことをなす、故に刺戟を緩和することを主どる、その主目証は、渴ありて水を欲するもの、冒眩あるもの、小便不利あるもの等なり。当帰芍薬散・沢瀉湯24猪苓甘平渴を止どめ小便を利するの効あり。大概内(おおむねうち)に熱あるものを治す、小便利せずして嘔吐するものにも宜し。猪苓湯・猪苓散・五苓散 生薬(気味)藥能処方25梔子(しし)(苦寒) 熱を去り胸中のもだえ苦しみを除き、或は心中の痛みを鎮め、又はのどの窒(ふさが)がりを開き、又よく不眠を治す。梔子は熱を去るが主能なれば平常冷え性にて腹下り易き者などには宜しからず。但し内に熱ありて下痢し又は下剤を用ひて強いて下し、其の余毒が去らずして下り居る者には用ふる事あり。梔子鼓湯・梔子厚朴湯・梔子乾姜湯・梔子生姜鼓湯・梔子甘草鼓湯26柴胡(苦平)半表半裏の熱を去る、故に胸脇苦満、胸中痛、心煩、往来寒熱、頸項強(けいこうきゅう)、脇下痞鞕(きょうかひこう)、心下(しんか)満(まん)等を治す。〈応用〉胸の病、むねわきの病、腹の病、耳の病、風邪のこぢらかし、瘧その他広く諸病に用ひらる。小柴胡湯・四逆散・大柴胡湯・柴胡桂枝湯27括蔞根(苦寒)渴を主どること疑いなかるべし、又熱を消し小便を利し急を和する効ありとなす。而してその急を和する趣やや葛根に比すべし。本品は渴を治するも石膏と同じからず。小便を利するも茯苓と異なる。深重なる観察と周到なる注意とにより始めて之を悟り得べきものならん。因みに葛根は味甘平なり、石膏は味辛微寒なり、茯苓は味甘平なり括蔞桂枝湯・柴胡桂枝乾姜湯・柴胡去半夏括蔞根湯・括蔞牡蠣散28牡蠣(鹹平)乾きを潤ほし血気の行(めぐり)を調(ととの)へ和す、故に胸(きょう)脇下(きょうか)の痞(つかえ)へを柔らげ或は寒(かん)瘧(ぎゃく)を治し或は水気を除き又は驚きを鎮むる等の能をなす。牡蠣湯29龍骨(甘平)内を補い縮まりを緩(ゆる)め血気を調(ととのえ)へ和す、故にボクは本品に頭をやすめ気を落付かせ疲労を治する能ありと言ふ柴胡加龍骨牡蠣湯・桂枝加龍骨牡蠣湯。30膠飴(甘温)急を緩め力を与う。故によく裏急を治し腹痛を和す。小建中湯31枳実(苦寒)熱をさまし、しこりを消すの効あり。又痛みをゆるめ腫(しゅ)を去る。故に諸の熱実病又は癰腫(ようしゅ)等を治するに用ひらる。枳実芍薬散・枳実湯・枳実梔子鼓湯・桂枝生姜枳實湯32桃仁(苦平)血の燥きを潤し滞りを通じ結(けつ)を解く、故に血証薬として広く用ひらる。桃核承氣湯・桂枝茯苓丸33桔梗(辛微温)咳を止め痰を去り、膿を消し痛みを鎮(しず)む。又よく咽痛を治す。此(これ)みな気を増し気の鬱帯を除くに基づくものなり排膿湯・排膿散・桔梗湯・桔梗白散34地黄(甘寒)血の熱を涼し出血を止どめよく肌肉を潤し養ふ、故に腎気丸、三物黄芩湯、黄土湯、膠艾湯、炙甘草湯等に用ひらる。此れ等は皆つまる所は血を治する所にあるが故と見るべし。八味地黄丸35阿膠(甘平)肌肉の傷れを治し急を緩るむることを主る。故に出血を止どめ煩(はん)を去る。黄連阿膠湯36麦門冬(甘平)咳を鎮め咽喉(いんこう)の通りを好くし、熱を去る。特に虚弱の者の咳込み、微熱等を除く効あり麦門冬湯37呉茱萸(辛温)胃中を温め其の働きを鼓舞(こぶ)す。故に停水を去り吐き気を治し下痢を止どめ手足を温めまた頭痛を治す呉茱萸湯・温経湯・当帰四逆加呉茱萸生姜湯湯
2025.04.13
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傷寒雑病論集序論(ろん)じて曰(いわ)く、余(よ)毎(つね)に越(えつ)人(じん)、虢(かく)に入(い)るの診(しん)、斉(せい)侯(こう)の色を望むを覧(み)て、未(いま)だ嘗(かえ)て慨然(がいぜん)として其(そ)の才(さい)の秀(ひい)でたるを嘆(たん)ぜずんばあらざる也(なり)。怪(あや)しむは當(とう)今居(こんきょ)世(せい)の士(し)、曾(かっ)て神(こころ)を醫(い)薬(やく)に畱(とど)め、方術を精究(せいきゅう)し、上(かみ)は以て君親の疾(しつ)を療(りょう)し、下(しも)は以て貧賎(ひんせん)の厄(やく)を救い、中(ちゅう)は以(も)て保(ほ)身長(しんちょう)全(ぜん)して以て其の生(せい)を養(やしな)はんとはせ、但(ただ)、競いて榮勢(えいぜい)を逐(お)い権(けん)豪(ごう)に企(き)踵(しゅ)し、孜孜(しし)汲汲(きゅうきゅう)として惟(ただ)だ名利(めいり)是(これ)れ務め、其の末を崇飾(すうしょく)して、其の本(もと)を忽棄(こき)し、其の外を華かにして其の内を悴(つか)らす。皮の存せずんば毛は將(はた)た安(いず)くにか附かん。 卒然として邪風の氣に遭い、非常の疾(しつ)に嬰(ふ)れ患(うれ)い禍(わざわい)に及ぶに至りて、方めて震(しん)慄(りつ)し志(こころざし)を降(くだ)し節(せつ)を屈(くつ)し、巫(ふ)祝(しゅく)を欽(きん)望(ぼう)し、窮(きゅう)を告げて天に帰し、手を束ねて敗を受く。百年の寿命を齎(そな)え、至(し)貴(き)の重器(じゅうき)を持てるを凡醫(ぼんい)に委付(いふ)して、其の措(お)く所を恣(ほしい)ままにす、咄嵯鳴呼(とっさああ)。厥(そ)の身(み)已(すで)に斃(たお)れ、神(しん)明消滅(めいしょうめつ)し、変じて異物と為(な)り、重泉(じゅうせん)に幽(ゆう)潜(せん)されて、徒(いたずら)に啼泣(ていきゅう)を為(な)さしむ。痛ましいかな夫(そ)れ挙(きょ)世(せい)昏迷(こんめい)、能(よ)く覚悟することなく、其(そ)の命(いのち)を惜(お)しまず、是(かく)の若(ごと)く生(せい)を軽(かろ)んず、彼(か)の何ぞ榮(えい)勢(ぜい)と之(これ)云(い)わんや。而(しこう)して進んでは人を愛し人を知る能(あた)わず、退(しりぞ)いては身を愛し己を知る能わず。災(さい)に遇(あ)い禍(わざわい)に値(あ)い、身は厄地(やくち)に居(お)り、蒙蒙昧昧憃(もうもうまいまいしょう)として遊(ゆう)魂(こん)の若(ごと)し。哀(かなしい)いかな趨(すう)世(せい)の士(し)、浮華(ふか)を馳(ち)競(きょう)し、根本を固めず、軀(からだ)を忘れ物に狥(したがう)ふ、危きこと氷(ひょう)谷(こく)の是(ほとり)りに至(いた)るが若(ごと)く也。 余が宗族(そうぞく)は素(もと)より多く、向(さき)に二百に餘(あまり)りぬ。建安(けんあん)紀(き)年(ねん)以来(いらい)、猶(な)ほ未(いま)だ十(じゅう)稔(ねん)ならざるに、其の死亡せる者、三分にして二あり傷寒は十稔ならざるに、其の死亡せる者、三分にして二あり傷寒は十のうち其(そ)の七(しち)に居(きょ)せり。往昔(おうせき)の淪(りん)喪(そう)に感じ、横夭(おうよう)の救(すく)ひ莫(な)きを傷み、乃(すなは)ち勤(つと)めて古訓(こくん)に求(もと)め、博(ひろ)く衆方(しゅうほう)を釆(と)り、素問九巻、八十一難、陰陽大論、胎臚薬録、併せて平脈證弁を選用し、傷寒雑病論合せて十六巻を為す。未(いま)だ盡(ことごと)く諸病を愈す能(あた)わずと雖(いえども)も、以(もっ)て病を見れば源を知るべきに庶(ちか)く。若(も)し能(よ)く余(よ)が集る所を尋ねなば思い半(なかば)を過ぎん。夫(そ)れ天は五行を布(しき)きて以(もっ)て万類を運らし、人は五常を稟(うけ)けて以て五臟を有つ、經路府兪(けいらくふゆ)、陰陽會通(いんようかいつう)玄冥幽微(げんめいゆうび)にして変化極め難(がた)し。才高識玅(さいこうしみょう)に非(あら)ざるより豈(あ)に能(よ)く其の理致(りち)を探(さぐ)らんや。上古(じょうこ)に神農、黄帝、岐(き)伯(はく)、伯(はく)高(こう)、雷(らい)公(こう)、少兪(しょうゆ)、少師(しょうし)、仲(ぶん)文(ちゅう)あり。中世に長桑(ちょうそう)、扁鵲(へんじゃく)あり。漢(かん)には公乗(こうじょう)、陽慶(ようけい)及び倉(そう)公(こう)あり此(こ)れより下りて以往(いおう)は未だ之を聞かざる也。今の醫を観るに、經(けい)旨(し)を思い求め、以(もっ)て其(そ)の知る所を演(の)べんことを念(おも)わず、各々(おのおの)家(か)技(ぎ)を承け、終始舊(ふるき)に順い、疾(しつ)を省(かえり)み病を問ふ、務(つと)め口給(うきゅう)に在り。相対(あいたい)すること斯須(しゅしゅ)にして、便(すなわ)ち湯薬を処(しょ)し、寸を按(あん)じて尺に及ばず、手を握りて足に及ばず、人(じん)迎(げい)、趺(ふ)陽(よう)三部(さんぶ)を参(まじ)えず、動数發(どうすうほっ)息(そく)五十に満(み)たず、短期(たんき)も未だ決することをを知らず、診(しん)を九候(きゅうこう)にも曽(すなわ)ち髣髴(ほうふつ)なく。明(めい)堂(どう)闕(けつ)庭(てい)盡(ことごと)くを見察(けんさつ)せず、所謂管(ゆわゆるかん)を窺(うかがう)うのみ。夫(そ)れ死せるを視て、生(い)くると別(わか)たんと欲するに實(じつ)に難(かた)しとなす。 孔子云う、生れながらにして之を知る者は上学(じょうまなび)びたるは則ち之に亜(つ)ぐ、多聞(たぶん)博識(はくしき)も知の次なりと。余は宿(もと)より方術を尚とぶ、請(こ)う斯(こ)の語(ご)を事とせん。漢(かん)の長沙(ちょうさ)の守、南陽(なんよう)の張機著(ちょうきあらわす)。
2025.04.13
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食物各論体は食べ物から出来ています。いつも食べている食材ごとの働きを知り、治療・予防に役立てて頂ける表です。毒あり・多食を禁じる等の食材は、特に食養生ご指導の中で参考にされてください。 名気味働き胡麻甘平大腸、小腸の働きを良くし、新陳代謝を盛んにする。炒って食すれば風邪にかかり難い。油を取るには白い胡麻が勝り、服用には黒が良いと言われている。胡麻油甘微寒生で絞ったものが良品とされる。蒸したもの、炒ったものは食用にし、薬用としては用いない。頭とか顔の皮膚病に用い、腸内の熱を去る。通じが気持ちよく出る頃合いを服用の限度とする。又色々悪瘡などに効あり。小麦甘微寒病邪の熱を除き、のどの渇きを止め、小便の出を良くして肝臓の働きを良くする。出血性の病を治し、婦人を妊娠しやすくする。又、心臓の働きを高める。大麦鹹温少し冷やす。疲れやすい虚弱な人の顔色を益し、五蔵を丈夫にする。のどの乾きを消し、熱を除き、氣を益して中を調う。米甘平脾、胃の氣を益し、渇きを止め・中を温め・胃気を和す。糯米苦温中を温め血液循環を良くする。胃熱が強くなり、大便が堅くなる。酒を飲んで餅を食べると酔いがさめにくくなる。コムギノコナ甘温胃気を養い、不足を補い五臓を助け気力を強くする。蕎麦甘寒胃腸の働きを良くし、気力を益し、気の滞りを消し、熱腫、風痛を消す。もし脾胃虚寒の人が、これを多く食すれば元気がなくなり、毛が抜けやすくなる。薏苡仁甘微寒筋肉や骨が痙攣して屈伸出来ない人を治す。又、風とか湿が原因での痺れを除く。脾、胃を強め氣を益し、肺を補い・熱をさまし、風、湿の邪を除く。黄大豆甘温中を緩め氣を下ろし、大便を通利し、水毒の腫脹を消す。多食すると気がこもり、痰を生じ咳嗽を生じ体が重くなる。黒大豆甘平煮汁をのめば百病の毒及び虫毒を解し、痛みを治し、消渇を止む。久しく服用すれば体が重くなる。赤小豆甘平こわばりを緩め、大小便を利し、水腫を下し癰腫(ようしゅ)、膿血を排す。 名気味働き酒苦辛甘大熱五味を有しているという。酒の辛味は良く氣を巡らし、苦は氣を下ろし、甘は中の滞りを良くし、酸は瀉下す。少量ずつ服用すれば皮膚が潤い、体に良い。薬の効果を高め百邪の悪毒の氣を除き、血行を良くし、胃腸を丈夫にして体中の湿邪を散じ、憂いを消し、怒を発し、よくしゃべり、意がリラックスする。飲みすぎると心臓を悪くし、寿命を縮め筋肉や骨を軟弱にして氣利を生ずる。焼酎辛甘大熱長い間の冷えを治し、体内の水を消し、氣のこもりを散じ、冷痛を治す。過飲すれば胃を悪くし、胆を傷う。酒糟辛甘平中を温め、消化を良くし、冷氣を除き、草菜の毒を去り臓を調う。米酢酸平筋肉のたるみを引き締め、血行を促して爛(ただ)れを治す。癰腫(ようしゅ)を消し、水気を散じ、一切の魚、肉、菜の毒を除く。多飲すれば筋骨を損じ、又、胃を悪くし顔色を損ずる。豆腐甘鹹寒中を緩め、脾・胃を和し、腹の張満を治し濁気を下す。大根辛甘温葉は辛、苦、温、気を下し、穀物の消化を助け、中を和し関節の屈伸を楽にして五蔵の悪氣を追い、風氣をめぐらせて邪熱の氣を去る。胸より横隔膜に至るところを温め大小便を利す。生にて食すれば渇を止め、中をゆるめる。煮て食すれば飲食のめぐりを良くして散ずる働きあり。芥(からし) 辛温種は辛熱。茎葉の効果と種子の効果は少し異なる。茎葉は中を温め胃を開き寒を散じ、目、耳、口、前陰、後陰の9つの穴の流通を良くする。耳鼻を明らかにし、頭や顔の風の邪を去り、欬逆の氣を下し冷気を除き、腎の働きを良くする。種子は一切の寒の悪寒、のどの痺れ、腹の痛みを去り、胃や肺を温め、寒を去り、咳を治し、飲食を増す。化膿したおでき、痔疾、血便がある人は食してはいけない。多食すると目を疲れさせ、心臓を弱くし、氣を漏らし精を傷う。韭辛微温根、葉を煮て食すれば中を温め、氣を下して虚を補い、陽気を益し、腎臓の働きを良くし、腰とか膝を温め、腹中の冷えによる痛みによろしい。この葉は臭く、煮て食すれどもその臭、便に出ず故に氣強し、春食すれば香ばしいが、夏食すれば臭し。多食すれば陽気を散じすぎ、目が疲れ心臓を弱くさせる。飲酒後は多食を禁ず。熱病後10日位少し食すれば残熱を発す。6月多食すれば気力を乏しくさせる。 葱辛温弘景(こうけい)(神農本草経集注)は葱に熱と寒とあり、白は冷えで葉は温としている。私(藤本肇先生)は、白は肺を温め、葉は肝を温めると思う。ともに温であるが、その程度が違うので温と冷えに分けたのではない。(藤本先生は冷えの方に葱の根を良く使われていました)葱白を湯にて服用すれると、身を温め、風邪の熱、浮腫みを治し、良く汗を出し、上下の内熱を全身にめぐらし肺の病に良い。葱は発散することを司る。多飲すると心臓を弱らせる。冬などに生葱を多飲すると顔に皮膚病を起こすようになる。蒜(にんにく)辛温脾、胃、腎の働きを良くし吐いたり、下ったりして腹中が落ち着かないものに効あり。又、消化力を益し、胃を整え中を温め邪痺の毒気を除く。牛蒡苦寒歯痛、体が疲れてマラリアのような症状(発熱、寒気、頭痛、嘔吐、関節痛、筋肉痛)がある病を労瘧いうが、これを治し五蔵の悪気を去り、顔目がむくみ、手足が弱く気の流れを良くし、冷氣積血を治す。芋甘平人を肥えさせ、胃を開き腸の閉じたるを通じ、妊婦が食すれば血を破り、汁を飲めば血の渇きを止める。宿血を破り、死肌(カサカサして油気がない)を去る。魚と和して食すれば氣を下して中を整え虚を補う。多食すれば宿冷を動じ、消化し難く気滞りて胃を疲れさせる。生姜辛温胃を暖め、水を逐い汁を出す。内臓の働きを助け、風邪による悪寒、発熱を除き、頭痛とか鼻塞、のぼせ、吐き気などに良い。久服すると心臓を弱め、肝を傷める。秋に多食すると春になって目を患うことがある。蕃椒(とうがらし)辛温消化を助け、結ぼれた氣を散ずる。胃の働きを良くして冷えの為に、へその周りが痛む疝氣を除く。脾、胃の虚弱な人はあまり食べてはいけない。多食すると目を疲れさせ、血の力が弱くなる。妊婦は流産しやすくなる。西瓜を食べすぎの毒を解するという。紫蘇辛温氣を下ろして、体内の冷えを温め寒熱を除き、一切の冷気を治す。肌を解し、汗を出し、風や寒さを散ずる、又、魚やカニの毒を解する。(蘇葉が入っている処方がカニにあたった時に使われるのは、その為です)鯉と一緒に食すると悪瘡を生ずる。艾(よもぎ)苦微温生のもの苦寒。吐血、下血、婦人の漏下を止め湿気を除く。蒟蒻(こんにゃく)辛寒のどの渇きを除く。冷やす。冷え性の人は少なく食す。生は喉を刺激し出血させる場合がある。 南瓜(かぼちゃ)甘温体内の活気を補い気力を益す。多食すれば脚気、黄疸を発する。蓮根甘平熱による喉の渇きを治し、留血を散じ、肺の動きを良くし肌を潤す。又、怒りを鎮め、消化を良くし、酒の毒及び病後の乾渇を解する。蒸して食すれば五蔵を補い、下黒を強くする。昆布鹹寒諸々の浮腫み、しこり、瘤、熱のこもり、首に来るぐりぐり、※瘰癧(るいれき)に効あり。※頸部けいぶリンパ節結核の古称梅 酸平毒なし。生梅、白梅、黒梅、功は似ている。熱気を下し熱を除き、心臓の働きを安定させる・体の痛み、半身の感覚麻痺、肌の荒れを止め、青黒いホクロ、爛れた皮膚病等を止める。多食すれば歯を損じ、筋肉を傷め、脾、胃を弱らせ肺に熱を持つ。桃辛酸甘温微かに毒あり。乾して食すれば顔色を益し、五臓を温める。生桃を多食すれば腹が腫れ、おでき、※根太を作る。毛嚢や皮脂腺に黄色ブドウ球菌などの細菌が感染して起こる皮膚の病気栗鹹温毒なし。腎気を補強し、胃、腸の働きを益し、氣を益し、飢に耐える。栗を日でさらして乾かしたものを食すれば、熱気を下して体力を益す。多食すれば生栗は消化し難く、熱すれば氣を滞らす。梨甘酸微寒毒なし。傷寒の発熱を治し、丹石(代謝石、黄土の相称)を解かし、大小便の通じを良くして、肺を潤し、心を涼し、おできの毒、酒の毒を解して、心煩を止む。多食すれば中を冷やし縮こませる。刃物の傷ある人、乳を飲ませている婦人、貧血の人は食すべからず。林檎酸甘温毒なし。体内にこもっている熱気を下し、水の飲みすぎの水を取り、霍乱や胃痛を治す。消渇するものによろしい。多飲すれば色々の脈が弱くなり、水を飲むと体中に停滞して冷え、吹き出物、根太を生じやすくなる。又、氣の渋りを生じ良く唾が出るようになり、胸苦しくなる時もある。胡椒辛温毒なし。気を下し中を温め、臓腑中の風冷の氣を除く。多食すれば肺を損じ、吐血するようになる。熱氣走り、おできを発する。西瓜甘寒毒なし。煩を消し、渇を止む。暑熱を解す。中をゆるめ氣を下し小便を利す。酒の毒を解す。汁を含めば口内炎を治す。多食すれば吐いたり下ったりする。胃弱の者は食すべからず。苺甘平毒なし。虚を補い、体中を強くし、活気を強め、肌の艶を良くして五蔵を安定する。砂糖と和して飲めば益あり。茶苦甘微寒毒なし。小便を利し熱を去り、渇を止め腫りを少なしむ。頭や目をすっきりさせ、中風で苦しがったり、睡多く醒めないものを治す。若い人で胃の丈夫な人、心肺、脾胃の盛んな人は荼を服むはよろしい。酒後の食毒を消す。久しく服すれば太った人の脂を去り、腫らせない。砂糖甘寒毒なし。心肺を潤し、酒毒を解し、口渇を止める。多食すれば心痛い。多食すれば心痛し。肌肉を消し、歯を損じ、ひきつけを起こす。食塩鹹寒毒なし。胃腸の熱が結ぼれて喘逆胸中の病いを起こしたものを吐かせる。多食すれば顔色が悪くなり皮膚が黒くなり筋肉を損ずる。鮭甘平毒なし。腹内の悪い血、腹内の小虫を去り、気力を益し、脾、胃を補い、体力が低下して疲れる人を強くする。鮎甘温毒なし。煮て食すれば憂いをとどめ、肺を正常にして胃を温め、冷えからくる下痢によし。鱒(ます)甘温毒なし。胃を温め体内を調和する。鰻甘平毒なし。皮膚に膿を持つ皮膚病を治し、腰、膝を温め精力を益す。久病の衰弱を補う。タコ甘鹹寒毒なし。血を養い、活気を益す。常に食すべからず。脾胃の虚弱の人、下痢をしている人は食すべからず。下血を治す。イカ酸平毒なし。活気を益し、志を強くする人に益あり。月経を良くする。スルメは消化し難く、多食は人に益なし。病人は食するなかれ。カニ鹹辛少し毒あり。諸々の熱を散じ、胃の働きを正常にし、経脈を良くして食物を消化する。海老甘温少し毒あり。スッポンの多食によって出来た皮膚病を治し、乳汁を出し身体を温める。多く食すべからず。伊勢海老甘平少し毒あり。気絶した時、回虫、虫歯、頭瘡、疥癬(かいせん)などによし。ブリ甘鹹酸温微かに毒あり。傷のある人、産後の婦人、肺が虚弱で熱を発しやすい人等は多食すると益なし。蒲鉾性温和病人によろしく食すべし。牡蛎甘温毒なし。煮て食すれば体が虚して弱っている者を治し、中を整え丹毒を解す。婦人の血氣、酒後の煩熱、渇を止める。焼いて食すれば皮膚を細やかにして顔色美しくする。 鶏甘温毒なし。虚弱な体を補強し、体を温め血を止め病を止める。鶏卵甘平毒なし。心を静め、五臓の働きを安定して驚きを止め、胎を安んじ、妊娠の熱病とか、狂い走る事を止める。男子の陰嚢が湿って痒みするものを治す。又、声が出なくなったものを治す。多食すれば腹中が鳴って風氣を動ぜしむる。豚酸寒毒なし。狂病久しく癒えざるを治す。胃の働きが虚し衰えているものを補助する。久食すると血のめぐりを悪くし、筋肉や骨を弱め、人の肌を弱らせる。久食するべからず。豚膏酸寒毒なし。胃腸を利して小便を通ず。五つの悪性の膿を持つ腫れものや、浮腫みを除き、髪を生ずる。牛甘温毒なし。体の中を安定させ活気を益し、脾胃を養う。腰、足を補強し、消渇を止め、唾や涎を止める。羊甘温毒なし。体中を補強し活気を益す。心を安定させ、驚きをしずめ、五労、七情、小兒の驚いて倒れる病を治す。胃を丈夫にして力を益す。ただし熱病、瘧病、妊婦は食するなかれ。(当帰生姜羊肉湯) 「腹満寒疝宿食病脈証并治第十」には「寒疝腹中痛、及脇痛裏急者、当帰生姜羊肉湯主之」。寒疝(かんせん)とは、寒邪の侵襲による血管収縮、筋緊張、平滑筋痙攣などによる腹痛です。要するに冷えによる腹痛です。また「婦人産後病脈証治第二十一」では「産後腹中痛、当帰生姜羊肉湯主之。並治腹中寒疝、虚労不足」とあります。産後腹中痛には当帰生姜羊肉湯がこれを主るのです。そして、腹中寒疝と虚労不足にも用いられます。
2025.04.13
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生き方教えて頂いたこと50 より良く生きる為の欲求の段階誰でもより良く生きていこうとしております。より良く生きていこうとするのは生命あるものの本質的欲求です。ではより良く生きるという事は、どの様に生きて行く事でしょうか? より良いとは何にとって良いのでしょうか? 物質的・経済的にだけ恵まれていれば生きる価値があるのでしょうか? 自己の本質自分自身の本質は肉体ではありません。肉体は時々刻々と変化していくものであります。赤ちゃんとしてこの世、物質現象界に肉体的誕生をして以来、今日まで変化し続けているのが肉体です。やがて肉体は母なる大地へと還元されるのです。肉体は母なる大地の土より出でしものです。ですから、必ず土へ帰るのであす。 肉体や物質は死んであの世へもっていけません。自己の本質である自己の生命・魂なのです。生命や魂こそ自己の本質なのです。ですから最終的に自己の本質とは、生命そのものです。自己の本質とは生命そのものです。生きる事の意味生きると言う事は、どういう事でしょうか? 生きるとは自己の生命が活動している姿です。生命が活動しなくなったら一般には肉体的に死んだと言います。ですから「生存とは生命活動の姿なり」と言えるのです。生きる為の価値より良く生きるためには、欲求の段階を認識し、自分とはなにかという、自己の本質を悟る必要があります。しかし、更にもう一つ「価値の段階」を悟る必要があります。 何がどのような価値なのかを悟ってこそ、より良く生きる目的が達成されるのです。より良く生きるという事は、自己の生命・魂の成長発展に役に立つ人生を送る事であります。どの様な人生を送ろうとも、自己の生命・魂の成長発展に価値のない一生は無意味なのです。今日一日の生命活動が本質的に自分の生命・魂に価値ある生き方であるならば、今生を生きた意味があるのです。生きる事を大切にする一生でなければ価値がありません。その為には、生きる事を大切にして、誰でも生きる事に対して更に真剣に努力する必要があります。
2025.02.09
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原因と結果教えて頂いたこと49 運命に働く大自然の「原因・結果の理法」を理解せずに暮らしているのでは、本質的に犬猫などの動物と変わらないのです。人生に働く運命的力と働きは全ての生物にとって実に重大なものです。それによって人生が大きく変わるからです。交通事故にあうか会わないか、ガンになるかならないか、自分の人生を変えてしまうような人や出来事に巡り会うかあわないかなどの運命的事柄は実に大切な要因であり、人間にはどうする事もできないのです。親がどういう子供を欲しいといっても、大自然から与えて頂くしか授かりません。親が子供をつくるのではなく、大自然から子供を授けていただくのです。大自然を通して与えられる運命・環境は、全生物にとって実に重大なものです。全生物にそれぞれの行いを種として必要な運命・環境を与えて下さるのです。全ての生物の生存行為とは、必要な事をすることであります。医者は患者に必要な処置を施します。政治家は国にとって必要な政策を行い、企業は人々に必要な品物を提供するようにしています。先生は生徒に必要な事を教え、生徒に必要な指導をします。親は子の成長発展に必要な行いをします。食べ物を与える事も、着物を着せることも、学校へ入れることも、小遣いを与える事も、結婚させる事も全てが子にとって必要だから行うのです。人間の肉体をこの世に生存させるにも、眼が見え、耳が聞こえ、口がきけて、手足を動かせるような人間としての肉体的体をつくり、この体を維持する為に心臓を鼓動させ血液を循環させ、一秒間に五千万もの細胞を新陳代謝させ、更にその他にも肉体的生存に必要なあらゆる事を行ってくれているのです。大自然より活かされ生きている人間の親だけが、人間の子に精神的・肉体的に必要な事を与えて、運命的・霊的に必要なことを与えないということはあり得ません。必要性を充たしていく大自然の掟を「必要性の原則」といいます。各霊魂(たましい・精神)にとってどの様な運命・環境を経験させることが必要かは、それぞれの霊魂が肉体的に生存行為として実際に行った「行いの種」によって決まります。つまり、人生の行いという事が原因となって運命的結果が与えられるのです。生命ある全ての生物は、自由意志の使える範囲は大小違いますが、能動的に自由選択ができるのであります。だから、自分の自由選択の意志で行った人生の行為は全て運命・環境にはえてくる為の「行いの種」なのです。自分の運命・環境にその様な結果が現れてきた以上は、誰が何と言っても、どう信じようがどう思おうが、自分の蒔いた運命的原因の結果なのです。従って、誰の責任に転嫁する事も出来ません。自分で蒔いた「行いの種」は自分の責任として実際の行いによって刈り取らなければなりません。誰を恨んでも怒っても何の解決にもなりません。他の人や運命のせいにして恨んだり怒ったりすれば、よけいマイナスの種が増えるだけであり、損をするのは結局自分自身なのです。「原因・結果の理法」とは、運命的な事柄に当てはめれば、実に厳しいともいえますが、しかし、こんなに有難い事もありません。自分自身が努力して神理に適ったプラスの行いの種を蒔けば、如何なる運命・環境も絶対にプラスにすることが出来るからです。 原因・結果とは、正に厳しくて有難い絶対なる理法です。プラスにもマイナスにも原因どうりに結果が現れなければ、絶対的な大自然の真理法則とはいえません。原因・結果は永遠普遍なる絶対的な、大自然の真理法則なのであります。運命・環境に働く原因・結果の力と働きを信じられるとか、信じられないとか言っているのは、未だ「原因・結果の理法」が悟れていないからです。 「原因・結果の理法」を悟り、より良き人生の行いの種を自分自身の為にも、子孫の為にも蒔いていくことが大切です。人類の進歩発展とは、親達が次の時代の子孫たちにプラスとなる遺産を残していくことなのです。その中で最も大切なものは、親達が子孫へ残す運命的財産であります。子供たちがこの地球という肉体的生存の材料を最大により良く活用して、より素晴らしい人生と生存の喜びを味わうことが出来るような運命的財産と、徳と力を残してあげる事が最大の宝物です。大きな建物を残すよりも、子供たち自身がそれ以上に立派な建物をたてることができる運命的財産と徳と力を残すことの方が、ずっと大きな価値なのです。何故なら、地球は今までも存在してきたし、人類が破壊しない限り次の時代も存在し続けるからです。大自然の力と働きに対してもっともっと素直になるべきです。生命も肉体的生存も人間が根源的に創造し営んでいるのではありません。
2025.01.18
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自分が幸せになるなら相手の方も幸せにしてあげる気持ちを持つ事が、無我をつかむ近道なのです。心を広く持って隣人にも幸せをもたらすように、心を持っていけたならば五月病とかノイローゼ等が起こる事は少ないのです。古書に養生法として人間は五常によって五臓の働きを順調に保っているという。それは次のようなものです。仁……おもいやり、いつくしみ礼……人のふみおこなうべき道信……うそは言わない、まこと義……条理、正しい道、道理にかなったこと知……心に感じ取る、物事の道理が分かる漢方医學での理解法は次のようになります。冬至を境にして夜と昼との長さが逆転して昼が段々長くなって陽分に変わって来るのです、陽分とは冬至から夏至にいたる間を指し、陽気が少しずつ多くなる時期をいいます。立春から立夏、夏至となり陽気が中心に働き一年で、一番強くなるのが夏至であり陽分は終わります。5月では5月5日が立夏で太陽が夏の位置に廻って来た事を意味します。立夏から気候は漸次暖かくなり春の72日を過ぎ土用の18日を経過し90日目に立夏となり、気温は更に高くなって行きます。日本のような温帯地域であれば春、夏、秋、冬の気温変化は規則正しく循環するようになっています。春は人体では気温が上昇するに従って血液は体表に流れる事が多くなって、体表に熱が集まりやすく汗を出して発散して、外界の気温と体温が調和して健康を保っているのです。しかし、人間の気持ちの持ち方や皮膚の冷やし過ぎによって、不調和が生じた場合には必要に応じて発汗させないと体内に熱がこもり発疹を生じる事があります。こんな時には「桂麻各半湯」を用いるのです。その上に氣の働きが感情によって、発散が悪く精神不安や苛々によって、ノイローゼ症状を呈した場合には「桂枝加竜骨牡蠣湯」用います。これは気温の変化によって体内の熱が内にこもり発散出来なくなり、時期的には春から夏にかけてノイローゼやその他の症状を起こすのです。体表にトラブルを生じ発散が悪く内に熱がこもり苛々する。不安感があり、氣がこもり、動悸がして、髪が抜けやすく、夢精を見やすく、不眠傾向があるものに用います。 秋から冬にかけて精神障害を起こしたり苛々したりする場合には「柴胡加竜骨牡蠣湯」を用いるのです。何故かというと秋から冬にかけては氣血が体内に入る時であり、本方は内に裏熱を生じて氣血の流れが悪くなった者に用いるのです。熱が内にこもり其の為に苛々して細かい事が氣になり、動悸がして、咽に何かつかえた感じがあり不眠傾向、食欲不振、便秘しやすい時に、内熱を除いて氣血を全身に巡らせる薬方であります。「柴胡桂枝乾姜湯」は寒症が強く、首筋に汗が出て、胃が冷えて食欲がなく、動悸し胸脇苦満や、渇があって小便不利する者に良いのです。このように発散する事は自然界の中で、とくに太陽の影響を一年といわず毎日でもその影響を受けているのです。夕方に往来寒熱を起こしやすいのは、太陽の影響によって氣血が内裏に入るからで柴胡を用いるのは、この変化に良く対応しているのです。その発散の良否によって起こるトラブルの理由も単純ではありません。まず基本から言えば、我々人間が体内に余分な熱を持ったという事は、血に熱を持って症状が酷くなるのであって、瘀血にもなるし氣血が死滅してしまう事さえあるのです。五行色体表に心の液は汗であるとあり、発汗する事は血の熱即ち氣熱を除いて、血液を正常にする働きを指しているのです。熱氣と水と血即ち、氣血水の虚実によって体内に生じた熱をどのように発散して病気を治して行くかが大切なのです。発散を疎外しているのは皮膚であるか? 血液であるか? 寒であるか? 水であるか? を弁別して処方を選んでいかなければならないのです。五行色体表を理解すると役に立つ事がしばしばあります。例えば、五労には久行・久視・久座・久臥・久立があります。①久行 久しい間行動する事が多すぎると(運動が過ぎ、筋肉が疲れると氣・血の流れが悪くなって)肝臓を疲れさせてしまう。学生時代に運動選手だった人が会社務めになって運動不足に陥ると、よく肝臓をいためるから体力に応じた運動が大切です。『靈黄參』②久視 久視は血脈を傷り心を労しす(視ることは目より氣が発散し緊張したり集中してたりして、集中して聞くと目が光り輝いて来ますが、疲れると瞼が重くなり眠くなるのは心が虚して来ているのです) ③久坐 久坐は肌肉を傷り脾を労します。脾は四肢を主どります。運動が不足すると氣血が足に流れにくくなり、脾にもこもりを生じ働きが抵下して脾が労します。年中坐ってばかりいて運動が不充分でありながら、よく食べると脾胃に無理が来て、これらの臓器を疲れさせてしまう。食後には適当な運動をして血液の循環をよくすれば良いのです。なお脾の強い人は手足が太いのです。④久臥 久臥は度毛を傷り肺を労します。通常、呼吸は立ったり座ったりして行いますが、臥していては充分に呼吸は出来ません。寝てばかりいると、皮膚や肺が疲れるのです。⑤久立 久立すれば骨を傷り腎を労します。永く立っていると体重が足腰に掛かり、うっ血を生じます。骨髄にも熱を持ち腎にも熟を待ちやすくなります。この生活が長く続くと腎を疲れさせることになります。五志に悪の大過は肝を傷るとあります。怒りの氣は上焦が劇しく爆発を起こす氣です。肝は春に旺しますが、肝の氣が春の氣のようになれば安泰なのです。春の氣は芽生えの氣です。肝は血を蔵し少しずつ心に送りその気は春気に似ており肝脈は徴弦濡弱で長の脈です。荒々しい気は肝気を傷るのです。喜びの大過は心を傷りますが喜びは気の発散だからです。夏は天の陽気が盛んで人の体も陽気が盛んになります。特に心は陽中の陽で陽気が一番強いため夏には心が旺して陽気を守るのです。喜びの大過は心虚になりますので用心して下さい。思いの大過大遇は脾を傷ります。考え過ぎは気が中心にこもります。脾は臓の中心で万物土に帰るといい体の心下は中心で土用の脈は緩脈です。氣が心下にこもると血が脾胃にこもり、熱を持ち痛みとか潰瘍を起こします。憂いの大過は肺を傷ります。肺は秋に旺します。秋に気温が下がると気が中に入りその時、肺に氣がつまると眠れなくなり気が活発で奥に入れば眠れるのです。憂うる事が大過となれば肺に気がこもり発散ができないと肺を傷めます。肺は辛の葉を用いて発散をします。呼吸も肺の働きで吐く事が先です。気を発する事が不充分ですと肺気を傷めます。驚恐悲の大過は腎を傷ります。気が沈んで腎気が動かなくなると不全を起こします。気の発散をさせればよいのです。驚恐悲を起こさないように気の転換をすれば良いのです。冬には腎が旺します。でも人は生活している限りは冬といえども発散はしているのです。人間は太陽の運行によって生じる春夏秋冬土用と昼夜を重ね春分・夏至・秋分・冬至を繰返し、自然界の陰陽の気の変化に対応・調和しながら、衣食住を与えられながら人生を送っているのです。気と同調する事ができる人は、天から与えられる自然治癒力を最大限に活用して生命を全うできる人であると思います。こんな事を利用すると視力が不整脈に通じ炙甘草湯につながる事が理解できます。五志で言えば不安感が強くなると腎氣の働きが傷られ奔豚氣病を起こします。不安感を持ちやすいタイプとしては、顔色白く皮膚は水っぽくて、腹痛があって精神不安が強く、下腹から氣のしこりが咽の方にまで突き上げて咽がつまって死ぬ程の不安を生ずるものに良いのです。不安感でも脾胃が中心のものには「甘麥大棗湯」が効果的です。生あくび出やすい人や夜泣きの子供にもよく効きます。 また「香蘇散」は常に胃腸の調子が悪く、食欲が少なく気分が落ち込みがちで風邪を引きやすい人に良いのです。水とか血がどのように働いて発散の邪魔をするのかを考えて頂くと処方に広がりが出て来ます。昨今社会的に安定剤の副作用が大きな社会問題になって来ました。痴呆症の原因の上位にも安定劑の投与が考えられます。 氣の発散を完全に阻害してしまう安定劑を使わずに生藥で根本的な原因を治して不眠の改善にあたる事が本当の治療法であると思います。 また胸中に氣・血・水の変化によって熱がこもりますと不眠を生じる事は述べましたが、脾胃の働きが良くないと肺の働きは強くなり難いのです。脾胃の働きはよく氣・血・水を巡らせる働きをします。胃の作用が正常であると、よく発汗しますし小便もよく出るのです。そして余分な水とか熱を体外に排泄する働きをします。ですからどこかに支えを生じたら、その原因を考えて取り除き、最後には胃の働きを強めると、大体氣血の巡りは全身的に良くなるのです。 不眠を生じる原因は胸中の氣・血の乱れによって熱がこもり、更にその事で不眠を助長する事もありますので、熱を取り除き、暖め、水分の停滞を除去する事で氣・血の巡りを良好にして安らかな睡眠を促すのが漢方の不眠症を治す方法といえるでしょう。病氣とは人の身体に何か異常を生じて発散が出来なくなり、それに更に外界の影響を受けて困難になるのですが、全ての根底には自己の心の持ち方にあると思います。さて最後に我々の治療法の最後は、己に克つ事を一緒になって考えてさし上げる事なのだと思うのです。
2025.01.14
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悟りと苦しみ教えて頂いたこと48物事の良い面を観てプラスに考えるのと、悪い面を観てマイナスに考えるのとでは、全く正反対の結果が、自分の気持ちや行動に現れてくるものです。たとえ同じ相手の人であっても、その人の良い面を観るか悪い面を観るかでは、人間関係が全く違ったものになってきます。嫁姑の仲が悪い場合、それは当人同士の仲が悪いのであって夫婦仲が悪いのだという事ではありません。むしろ夫婦仲は良いのかも知れません。嫁の立場になれば、自分の実の親や兄弟、友人知人達とは良い人間関係を保っており、姑以外の他の人達からは好感を持って見られているのかも知れません。この事は姑の場合にも当てはまります。姑は自分の実の娘や息子達にとっては良き母親であり、孫達にとってはやさしいおばあちゃんであり、お茶のみ友達である親友達や知人からは良い人として見られているのかも知れません。お互いに嫁・姑としての仲だけが悪いのであって、他の人達との仲が悪いのではないのです。同じ人間に対しても、その人と見る立場が異なると違ってくるのです。この事は親子、夫婦などあらゆる人間関係にあてはまります。物事をプラスに考えるのか、マイナスに考えるかという事は自分自身の気持ちに大きく影響してきます。自分の気持(感情)は自分自身に大きく影響してきます。と言うよりはむしろ、自分の気持こそ自分自身であり、他人がどう考え感じていようと、それはあくまで他人の気持であって、自分自身では無いのです。自分自身とは、自分の気持(観念)そのものであるという事を良く理解しておく事が大切です。同じ事柄であってもプラスの気持を持つか、マイナスの気持を持つかは、自分自身にとって最も重大なことです。一般の人達ならば、きれいな夕焼けをながめて美しいと感じるのが普通のことです。しかし、近代表現派を確立したノルウェーの画家エドワルド・ムンクは、夕焼けの赤色を見て恐怖の「叫び」という題の有名な絵をかきました。 ムンクが5歳の時に、結核にかかっていた母親が血を吐いて死に、彼にとって日没の光景は母親の喀血を感じさせるものでした。その時の夕日に染まった雲の印象をムンクは"凝固した血液"のようであったと 言いました。彼にとって赤色は、母親の命を奪った吐血の色であり、ムンクの潜在的観念の中には強くその印象が残っていました。 ムンクは「叫び」と題するこの絵の中で、彼の持つ恐怖のイメージを無意識のうちに表現したのでした。従って彼は、赤を恐怖・苦しみ・不安を表す色として使いました。恐怖と苦痛に満ちた過去のイメージにとらわれていたムンクは、自分の恐怖の気持(観念)を絵に表す事によって、自分自身の中にある不安や恐怖や苦悩と戦い続けてきたのですが、ついに45歳を過ぎてからは精神病が強まり、分裂病の状態が続き、晩年には現実の世界と、自分の観念(気持)の 世界である絵の世界とが入れ替わってしまい、自分の作品の中に埋もれて生涯を終わりました。ムンクは「肉体と精神の病は、ゆりかごを守る黒い天使であった。」と語っておりました。 「自己の観念の世界」夕焼けという大自然の同一の事実を、ある人は美しいと実感し、他の人は恐怖を実感し、又ある人は人生のたそがれとわびしさを実感いたします。私達の心はどの様にでも同一の事実を感じる事が出来るのであります。つまり、心というものは同一の事実をどの様にでも実感できる自由選択を持っているのです。同一の事実を私達はどの様にでも感じる事が自由選択性によってできるのですが、しかし、自分がひとたび実感してしまうとそれが自分自身の気持という事になります。心というものは、自分が実感している世界にのみ住んでいます。自分が感じている世界が自分の気持であり、自分の心が住んでいる自分の気持の世界を「自己の観念の世界」と言います。「自己の観念の世界」とは、自分が認識し、判断し、実感している世界の事です。夕焼けを美しいと感じたり、恐怖に感じたり、親子・夫婦・兄弟・嫁姑でお互いに素晴らしいと感じたり、逆に憎らしいと感じたりしている自分の気持ちの世界が「自己の観念の世界」なのです。相手の人を憎らしいと感じた場合、その憎しみは相手の人にあるのではなく、その様に認識・判断・実感している自分自身の心の世界にあるのです。相手の気持がどうであれ、自分が憎しみを感じなければ、自分にとって憎しみの実感は無いのです。悟りの世界とは、自分自身の観念の世界が喜びや味わいや感謝であふれた世界なのであります。自分自身の観念の世界に不足不満・苦しみ・憎しみなどのマイナスの感情が無い世界です。悟りとは、苦しみを喜びと感謝に変える力であり、悟りが無ければ自己の観念の世界は、何時までたっても素晴らしくならないのです。凡そ人の行動というものは、全て自分の欲求を満たす為であり、欲求を満たす事によって喜びと味わいのプラスの実感を持つ為です。旅行に行って良かった。美味しいものを食べてよかった。一緒に暮らして良かった。今日一日生きて良かった。この世に生まれて良かったという生存の喜びと味わいの実感を持つ為に、生存の全ての行為はあるのです。良かったというプラスの実感を得んが為に全ての努力も行動もあるのです。もし、旅行に行ってつまらなかったら、高いお金を出して食べたものがまずかったなら、一緒に暮らしている相手がいやだったなら、今日一日生きる事が苦しみだったなら、それはこの世に生まれて生きる「生きがい」が無いのです。更に生きる事で、眼が見える事、耳が聞こえる事、口がきける事は、大変な喜びと感謝であるはずであります。もしも、失明したり、聴力を失ったり、声が全く出なくなったりしたなら、誰でも死ぬほど苦しみ、悩む事になるのです。だから、見えて聞こえて話せる事は、最大の喜びと感謝です。無くなれば最大に苦しむのですから、有る事に最大の喜びと感謝を持つ事が悟りのコツです。凡そ悟りというのは、一般の人々が見落としたり、或いは当たり前であると思っている現実の事柄の中に、生きる最大の喜びと感謝を見い出し、自己の観念の世界をプラスの実感で満たす事なのです。見ざる聞かざる言わざる(話さざる)の三猿のたとえは、否定的に解釈されていますが、本来の意味は、見え聞こえ話せる事に対する積極的な喜びと感謝の悟りを教えているはずのものなのです。見え聞こえ話せるからこそ、私達は生きている事の色々な喜びや味わいを体験できるのであって、見え聞こえ話しあう事ができなければ、たとえ、人生の如何なる事柄や問題があっても、生きる味わいとしての体験や経験は出来ないのです。映画や芝居やテレビ・ドラマを見聞きする場合、それが喜劇であれ、悲劇であれ、悲惨な戦争ものであれ、活劇・スリラー、お化け映画などの奇怪ものであれ、それぞれを生存の味わいとして楽しんで見ています。自分が直接体験できない人生の色々な味わいや感情を、映画やテレビによって経験し、生きているからこそ味わえる色々な感情を楽しんでいるのです。悟りがあれば、この地球という人生劇場に生まれてきて、自らが人生劇場の主演男優・主演女優として自分自身の人生劇を演じ、現実の人生体験を通して色々な感情の味わいを楽しむ事が出来るのです。それは丁度、私達が映画やテレビ・ドラマを見て色々な感情を楽しむ様に、実生活における自らの生存の体験から得る種々な実感を生存の味わいあるものとして喜びと感謝をもって楽しむ事ができるのです。悟りとは、生きる事の味わいと価値を高める能力であり、悟りが無ければ、如何に物質や人間関係に恵まれていても、自らの観念の中に幸せの実感を持てずに一生涯を通ってしまうことになるのです。物質的に豊かになっている現代人達に最も必要なものは、自らを不安やストレスから開放する悟りの力と働きということになります。
2025.01.05
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生きる価値 教えて頂いたこと47自分の人生や実生活の役に立ってこそ、新しい教えや考え方は価値があるのです。1)より良く生きる為の欲求の段階より良く生きていこうとするのは生命あるもの本質的欲求です。ではより良く生きるという事は、どの様に生きて行く事でしょうか? より良いとは何にとって良いのでしょうか? 物質的・経済的にだけ恵まれていれば生きる価値があるのでしょうか? どの段階を満たせばより良く生きる事になるのでしょうか? 自己の本質自分自身の本質は肉体ではありません。肉体は時々刻々と変化していくものであります。赤ちゃんとしてこの世、物質現象界に肉体的誕生をして以来、今日まで変化し続けているのが肉体です。やがて肉体は母なる大地へと還元されるのです。肉体は母なる大地の土より出でしものです。ですから、必ず土へ帰るのです。(塵なれば塵に帰る)の諺どおりです。 生命や霊魂こそ自己の本質なのです。自分の生命力が自分自身の霊的観念を作っていきます。生命の力と働きが、霊的観念波動を作り、その霊的観念波動が綜合して自己の霊魂を形成しているのです。ですから最終的に自己の本質とは、生命そのものであります。生きる事の意味(生存の本質と次元)生命活動と霊的生存・肉体的生存生きると言う事は、どういう事でしょうか? 生きるとは自己の生命が活動している姿であります。生命が活動しなくなったら一般には肉体的に死んだと言います。ですから「生存とは生命活動の姿なり」と言えるのです。※ 肉体的生存自己の生命が肉体をもって生命活動を行っている場合を肉体的生存と言います。つまり肉体的に生きている事を意味します。生命活動とは、生命の力と働きをもって自己形成を行うことです。麦は麦の生命力をもって麦としての植物の体を作ります。魚は魚の生命力をもって魚の体を作ります。牛は牛の生命力をもって牛の肉体を作ります。この様に生命活動とは自己形成なのです。換言すれば、肉体的生存とは肉体を作っていく為の生命活動なのであります。これが物質現象界で肉体的に生きるという意味です。※ 霊的生存霊的生存とは、生命が自己の霊的観念を作っていく事です。自分の性質や観念・感情などを形成して行く事です。肉体的生存の体験・経験を通して全ての生命は自己の霊的観念=霊魂を作っていくのです。霊的生存とは肉体的に生きる事を意味しておりません。生命が霊的観念を作る事ですから、生命は肉体的生存を行なっていると同時に霊的生存をもしているのです。 肉体を土に返して肉体の生命活動を止める事を肉体的死と言います。しかし生命は霊的生命活動を続けます。肉体的死によって霊界に帰るという事は、旅行から家に帰ったと同じことであります。家に帰れば旅行の思い出話をしたり、旅行で撮ってきた写真を整理したり、旅行の思い出を味わいます。霊界も同じことです。肉体的誕生とは、自己の霊魂が霊界から物質現象界に旅行に出発して来たことなのです。肉体的死とは自己の霊魂が霊界に帰ることであります。 霊界に帰ってから霊魂は肉体的生存によって色々収穫した霊的観念を味わい、又次の肉体的旅行に備えて思い出を整理したり致します。生命は霊的生存をすることによって自己の霊的観念を広げ、霊魂の成長発展を行うのです。 ですから、肉体的生死にかかわらず生命は霊的生存を常に行っているのです。※ 生命的生存生命が生命活動を行っている事を生命的生存と言います。しかし、生命は本質的に能動的意志の力と働きですから、生命は常に生命活動を行っております。生命活動自体が生命的生存です。生命的生存とは、霊的生存・肉体的生存の生命活動を行うことを意味します。生命は本来、常に能動変化する力と働きであり、永遠普遍なる存在です。ですから、自己の本質であります生命は永遠普遍なのです。つまり、自己は本質的に永遠普遍なる存在である、ということです。生きる為の価値より良く生きるためには、欲求の段階を認識し、自分とはなにかという、自己の本質を悟る必要があります。しかし、更にもう一つ「価値の段階」を悟る必要があります。 何がどのような価値なのかを悟ってこそ、より良く生きる目的が達成されるのであります。より良く生きるという事は、自己の生命・霊魂の成長発展に役に立つ人生を送る事です。どの様な人生を送ろうとも、自己の生命・霊魂の成長発展に価値のない一生は無意味なのです。今日一日の生命活動が本質的に自分の生命・霊魂に価値ある生き方であるならば、今生を生きた意味があるのです。生きる事を大切にする一生でなければ価値がありません。その為には、生きる事を大切にして、誰でも生きる事に対して更に真剣に努力する必要があるのです。
2024.09.08
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創設設定の原理 教えて頂いたこと46如何なる存在も現象も、何らかの意志の力と働きによってのみ創設設定されたものであり、その背後あるいは前提には、その如くにさせしめる意思・意図の力と働きがあります。この事を今まで人間は、大自然の真理法則・大自然の摂理・天然自然の理法・道理など色々な言葉をもって表現していました。物事を始める時には、決してマイナスの創設設定をしてはなりません。例えば、老後に問題が起きた時に間に合うようにと預金をしたとしますと、その目的で行ったことは必ずその理の通りになります。つまり、老後に問題が起きた時に使うための預金として準備しますと、老後にその預金を使わなくてはならない事が必ず起きてまいります。何故ならその様にしたから、その様になったわけです。だから、最初の創設設定が大事になるのです。「その様な理で行うとその様な理が働きます」と言う原理・原則があります。有難い理法プラスの、喜びの、生きる味わいとしての創設設定を致しますと、必ずプラスの、喜びの、生きる味わいの素晴らしい結果となります。
2024.01.14
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終止限界について 教えて頂いたこと45 人間の世界にだけ法律・秩序があって、大自然界の営みの中に絶対的な掟がないことはありえません。むしろ、大自然界の中に掟があるからこそ、全ての営みがなされています。掟・秩序は、一つの決まりがあるからこそ存在しています。体の中にも秩序があります。一つのきちんとした働きがあります。私達も口から食べています。口以外から食べてはいません。つまり、秩序がなければ、この世界は混沌としている世界です。ルールを壊したら存在できないという事です。大自然の存在があり、地球も太陽を中心に回っています。銀河系も1回転するのに2億4000万年かかって回っています。大自然の掟を否定したら成り立たなくなります。「終止限界の理法」は自然現象を現わすのに必要な理法です。私達がこの物質現象界へ生まれてきて終わりがあるという事は素晴らしい事です。地球にも、私達の体も区切りがあります。従って、春夏秋冬の四季にしても、一日の区切りにしても、一時間、一年という区切りにしても、全て「終止限界の理法」で成り立っています。「終止限界の理法」がなければ自然界の全ては成り立ちません。普通の細胞には区切りがあります。しかし、がん細胞には区切りがありません。細胞増殖が続いていき、区切りがありません。ですから区切りがあるから有り難いのです。区切りがないと大自然界は成り立たないのであります。区切りがあるからこそ有り難いのです。物質現象界の区切りがあるという事で、いろんな物質現象が行われる事の素晴らしさがあります。区切りがあるという事が判りますと、区切りの無いことがわかります。区切りがないというのは何かといいますと、形のない生命の方で、目に見えない生命の本質です。生命の本質は、永遠性であり、永遠なる生命の生きる感動をわざわざ区切りのある物質現象界で味わせてもらっているのです。出会いがあれば別れがあります。出会いが素晴らしければ別れも素晴らしいのであります。始めがあれば、終わりがあります。そのことがわかれば1死に対する恐怖がなくなります。2あらゆるマイナスのことを切ることが出来ます。3自分のマイナスの観念をプラスに切り換える事が出来ます。しかし、頑固に自分の観念を主張して切り換えようとしない人は別です。態度、言葉もよりプラスに積極的に行わなければなりません。こういうことから、人生の終わりの時、喜びと神感謝で迎える方がよいか、それとも恐怖と不安といらだたしさと苦しみで迎えた方がよいかという事になります。つまり、終わりがあるという事、終わりが無いと生まれても死なない事になります。映画が始まっても終わらない事になりますし、御飯を食べだしたら終わらない事になります。終わらないと苦しみになります。だから、終わる事は有り難いのです。私達が生きているのは、この物質現象界であります地球に旅行に来ているのであります。だから、人生劇場といっているのです。つまり、一人一人が役をもらって劇をしているのです。「終止限界の理法」は時々刻々と働いております。赤ちゃんも時々刻々と過去の姿に、お別れして現在の体に変化しております。結婚も「終止限界の理法」で独身時代の過去に終わりを告げます。自分の過去と「終止限界の理法」で別れ、けじめをつけるのです。小学生から中学生になったら区切りをつけます。しかし、困った事に最近、区切りがなくなってきているのが問題であります。「終止限界の理法」に逆らった生き方をしています。男性でも、自分が夫や父親である区切りをつけないものがあります。夫婦喧嘩でも、関係の無い、過去のことを持ち出して喧嘩しております。その時には「終止限界の理法」を使って終わりにしなければなりません。過去の事を持ち出しますと際限がありません。自分のマイナスの性格には、さよならして思い切ってプラスの方へ向かわなければなりません。面白い事に、夫婦のほめあいが続いているという事は聞いたことがありません。いい事には、思い切ってやらないのに、悪い事は、一生懸命やっています。「終止限界の理法」で切れ目が良い人は発展性があります。4,5歳の子供の愚痴をあまり聞いたことがありません。今泣いたカラスが、もう笑ったといいます。しかし、年を取ってきますと、愚痴が始まると長いです。なかなか、スパッと切り換えられません。「問題にしている人に、問題にしている分だけの、問題があります」ということで、切り換えが難しいです。切り換える時は、思い切ってやらなければなりません。「清水の舞台から飛び降りる」という諺どおりの気持ちで行わなければなりません。なかなか、決断の付かない人は「終止限界の理法」の弱い人であります。ぐずぐず悩んだ時に「終止限界の理法」を活用しなければなりません。理を活用するのは、実際の生活に当てはめて見ますと一つの発展があります。要するに、其の人の運命的な「徳」の力しか働きません。生きる生命の感動なしに生きても価値はありません。生きる生命の感動の為にあらゆる生存行為は行われております。あえて困難な事に挑戦して「終止限界の理法」を活用し、運命財産であります「徳」を高めて、地球が良くなる為の生き方を絶対なる神念をもって行わなければなりません。
2023.10.02
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気味表『傷寒雑病論の主要生薬』+一部 動物藥酸温五味子 平烏頭山査子酸棗仁苦(く)酒(しゅ)微温紫蔵 寒礬石 苦温麻黄厚朴白朮白頭(はくとう)扇(おう)平艾(がい)葉(よう)柏葉 柴胡黄芩茵陳蒿王不留行芍薬桃仁独活連翹微寒虻虫 牛黄(涼) 寒黄連黄柏山査子大黄枳実芒硝大青葉板藍根甘温杏仁膠飴紫(し)石英(せきえい)羊肉當歸山薬防風鹿茸/蟾酥微温黄耆白石英 平阿膠/蜜葛根菊花龍骨甘草大棗麦門冬粳米茯苓猪苓麻子仁亀板微寒人參薏苡仁小麦鶏子(けいし)白(はく)寒地黄沢瀉滑石桑白皮辛温生姜乾姜橘皮薤白川芎桂枝呉茱萸細辛附子/紅花紫蘇葉麝香/蟾酥款(かん)冬(とう)花(か)微温桔梗鼈中黄土 平半夏木通防已貝母微寒石膏 寒牡丹皮淫(いん)羊(よう)蕾(かく)磁石 鹹温大麦旋覆(せんぷく)花(か)鹿茸 微温蠐螬(せいそう) 平別甲牡蠣水蛭白僵(びゃっきょう)蚕(さん)寒庶虫地黄羚羊角
2023.10.01
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虚の場合例えば 酸味が肝に入るのを補と言います。酸味が肝を生じる母(腎)に入り、腎を助ける事を助と言います。酸味が肝を剋する又は肝の母(腎)を生じる肺に入る事を益と言います。例えば辛味の補は肺に入り、助は脾に入り、益は心に入ります。例えば苦味の補は心に入り、助は肝に入り、益は腎に入ります。例えば甘味の補は脾に入り、助は心に入り、益は肝に入ります。例えば鹹味の補は腎に入り、助は肺に入り、益は脾に入ります。 實の場合自らを剋する臓に入る味を用いて實を減らします。肝實(瘀血)は辛味を用いて、その實を減らします。 牡丹皮(辛 寒)心實(心熱)は鹹味を用いて、その實を減らします。 牡蠣 (鹹 平)脾実(胃熱)は酸味を用いて、その實を減らします。 烏梅 (酸 平)肺實(肺熱)は苦味を用いて、その實を減らします。 山梔子 (苦 寒)腎實(腎熱)は甘味を用いて、その實を減らします。 地黄 (甘 寒)
2023.10.01
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各味の意味酸味収斂作用がある。陰気を旺盛にする。結果として熱を取る。厥陰肝経の作用と同じ(肝に血を集める)陰気(収斂の氣)補い熱を鎮める。心熱を冷まして動悸を鎮める(肝虚心熱の旺盛の熱を収斂して肝に収める)胃腸の虚熱に作用して働きを鎮め下痢を治す(腸に対しての収斂作用)肺臓に作用し収斂して咳を止める。腎経に作用して引き締めて津液を固める(腎虚による津液の漏出を治す) 苦味陰気を補い堅める。引き締めて熱を取る。少陰腎経。心経に作用して陰気を補う。肝経の陰気を補い、熱を取る。心経の陰気を補い心包の熱を鎮める。脾経の陰気を補い引き締めて腸熱を取る。胃の陰気を補い胃熱を取る肺経の陰気を補い血脈を引き締める。血流を盛んにする。腎経の陰気を補い引き締める。腎の津液を固める。甘味気血津液を生成する。潤し和らげ陽気を旺盛にする。脾臓・胃腑の體を補う。脾に入り血を多くして、肝血を補う。脾に入り血脈の流れを盛んにして、心を助ける。脾に入り補い胃の働きを盛んにして、気血津液を生成する。脾に入り津液を多くして、肺臓を潤す。脾に入り津液を多くして、腎の津液を補う。辛味氣を補い循環させて、陽気を補う。肺経に入り氣を巡らせる。肝気の血を補い、血流を盛んにする。心の陽気を補う。脾経と胃の陽気を補う。肺経の発散を補い、衛気を盛んにして、湊理を働かせる。腎経の陽気または命門の陽気を補う。鹹味固まっているものを潤し和らげる。結果として小便を出す。腎経の陽気を補う。肝血および瘀血の固まりを潤し和らげる。心の余分な水を取る。胃腸の余分な水を取って小便を出す。肺や表の余分な水を取って和らげ、腎の津液を増やす。腎臓の津液を増やす。 五味の説五味働き詳細陰陽酸味収気血津液の散らばったものを収める陰 湧泄苦味固陰虚の虚熱で緩んだものを、引き締めて固める陰 湧泄甘味緩血津液不足のための痛みを緩める陽 発散辛味散気滞・血滞を散ずる陽 発散鹹味濡堅さや乾燥を潤す 味の三用 (味は3ヶ所の臓に作用する)補不足を充たすその味に入る臓を補う助扶ける補に入る臓を生じる臓(母)を助ける益助けを更に扶ける剋する臓を益すこと 補助益酸味肝腎肺苦味心肝腎甘味脾胃心肝臓辛味肺脾胃心鹹味腎肺脾胃 EX桂枝(辛 温)肺 衛気を補う桂枝湯脾 陽気を補う安中散心陽を補う桂枝加甘草湯 各氣の意味 温・微温・平・微寒・寒 『神農本草経』熱・温・平・涼・寒 『後世の書物』
2023.09.25
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症状の段階1. 太陽病の主な症状 悪寒・発熱・有汗或いは無汗・頭痛・身体痛(筋肉痛、関節痛)項背強張り 2. 陽明病の主な症状 経絡は胃経と大腸経です。陽明の熱には黄連解毒湯身熱・汗出(自汗)不悪寒・反悪寒・口渇或いは便閉・腹満而痛 3. 少陽病の主な症状 表と裏の間に熱がこもった状態です。口苦・咽乾・目眩・往来寒熱・胸脇苦満・心煩・喜嘔4. 太陰病の主な症状 主に太陰脾経腹満時痛・吐・痢・食不下(胃もたれ、心下部滿) 5. 少陰病の主な症状悪寒・但欲寝(いつも眠たい) 身踡(身体を屈める) 四肢厥逆 6. 厥陰病の主な症状消渇・気上撞心・心中疼熱・飢不欲食・吐回虫・下痢或いは厥熱往復
2023.09.23
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桂枝湯・桂枝芍薬湯・小建中湯の藥理桂枝湯 桂枝(辛温) 芍薬(苦平)甘草(甘平)大棗(甘平)生姜(辛温)。桂枝湯証は太陽経の虚熱の為に、発熱鼻乾します。肺虚体質で皮毛の湊理の開閉が悪い時に、太陽経(膀胱経、小腸経)が風邪に当てられています。湊理から侵入した風邪は、小腸経から心に内向しようとして反発されて心包熱になり発熱します。膀胱経から肺に侵入した風邪は、反発されて鼻に上がって鼻乾または鼻汁になります。風邪によって生じた肺の陰虚熱は、皮毛の湊理に入り汗で発散します。湊理が開いた状態の時に風に当てられると悪寒が起こります。 桂枝(辛温)は肺に入り、肺経から太陽経(膀胱経、小腸経)をめぐり、陽気を発散しています。この時、皮毛 湊理の陽気(衛気)を補います。芍薬(苦平)は心に入り陰気を補い、心包熱を冷まし、太陰経(肺経、脾経)に入り陰気を補い、血脈を引き締めます。また太陽経では桂枝・芍薬が協調して皮毛も経脈と湊理を陽気と陰気で固めて止汗して皮毛を防御します。 肝實(瘀血)に使用される桂枝茯苓丸の病理と藥理桂枝(辛温)牡丹皮(辛寒)伏苓(甘平)桃仁(苦平)芍薬(苦平) 瘀血の病理瘀血は打撲・内外傷性出血・気滞等が原因となり、肝又は血脈に血虚(陰虚、津液虚)が生じます。そこに虚熱が入り込み血虚熱が発生し、血熱と血滞熱となり血流障害を起こします。このように瘀血は、血虚・陰虚・津液虚・気滞・血滞・血熱が病理として含まれています。 桂枝茯苓丸の藥理桃仁芍薬の苦味が陰気を補い、茯苓の甘味が津液を補い、陰虚津液虚を治します。桂枝牡丹皮の辛味が肺気を巡らせて気滞血滞を治します。茯苓は血脈外の水(津液)を血脈内に引き込み血流を盛んにします。血脈中の陰気は桃仁芍薬が作用し、血脈中の陽気は桂枝牡丹皮が作用します。結果として血滞血熱が治ります。肝實熱の時は辛味が實を散じます。桂枝の辛温は表裏を温め、表寒を散じます。牡丹皮の辛寒は裏(深部)の熱(炎症)を散らして冷やします。 補益する場合(自ら剋する處の味を用いて補益する)肝虚(血虚)すれば、甘味で補します。當歸(甘温)心虚(心血虚寒)すれば、辛味で補します。薤白(辛温) 脾虚(津液不足)すれば鹹味で補します。牡蠣(鹹平)肺虚(気虚、氣脱)すれば酸味で補します。五味子(酸温)腎虚(腎陰気虚)すれば苦味で補します。黄柏(苦寒) 難経の原則により《虚すれば、その母を補い(補法) 實すれば、その子を瀉せ(瀉法)》桂枝湯証は肺虚証の為、五行相生理論より、その母は脾胃になります。甘草大棗(甘平)で脾の津液を補い、生姜(辛温)で胃の陽気を補い、脾胃での気血津液の生成を盛んにして、肺、肺経、太陽経の気血津液を補充します。汗は津脱(津液虚)、持続的な汗は血脱(血虚)につながります。何らかの原因で、外邪による熱が胃腸に内向すると、脾経の陰虚熱になり、腹痛下痢を起こします。芍薬(苦平)を倍加して桂枝加芍薬湯にして、脾経の陰虚を補い、腹痛と下痢を治します。内向した虚熱と下痢(津液虚)が腸の津液不足を起こして重症になると、脾や腎の津液不足につながる事があります。この時は桂枝加芍薬湯に膠飴(甘温)を加えて小建中湯にします。膠飴は脾と腎の津液を補い、疲労感・倦怠感を治します。
2023.09.19
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原因と結果 教えて頂いたこと44 運命に働く大自然の「原因・結果の理法」を理解せずに暮らしていると苦しみが多くなります。人生に働く運命的力と働きは全ての生物にとって実に重大なものです。それによって人生が大きく変わるからです。交通事故にあうか会わないか、ガンになるかならないか、自分の人生を変えてしまうような人や出来事に巡り会うかあわないかなどの運命的事柄は実に大切な要因であり、人間にはどうする事もできないのであります。親が子供をつくるのではなく、大自然から、子供を授けていただくのです。全ての生物の成長に最も必要でプラスとなる運命・環境をお与え下さるのです。全生物にそれぞれの行いを種として必要な運命・環境を与えて下さるのです。全ての生物の生存行為とは、必要な事をすることです。医者は患者に必要な処置を施します。政治家は国にとって必要な政策を行い、企業は人々に必要な品物を提供するようにしています。先生は生徒に必要な事を教え、生徒に必要な指導をします。親は子の成長発展に必要な行いをします。食べ物を与える事も、着物を着せることも、学校へ入れることも、小遣いを与える事も、結婚させる事も全てが子にとって必要だから行うのです。成長発展にとって必要な事を大自然を通して与えて下さっているのです。人間の肉体をこの世に生存させるにも、眼が見え耳が聞こえ口がきけて、手足を動かせるような人間としての肉体的体をつくり、この体を維持する為に心臓を鼓動させ血液を循環させ、一秒間に五千万もの細胞を新陳代謝させ、更にその他にも肉体的生存に必要なあらゆる事を行ってくれているのです。必要性を充たしていく大自然の掟を「必要性の原則」といいます。どの様な運命・環境を経験させることが必要かは、それぞれの霊魂が肉体的に生存行為として実際に行った「行いの種」によって決まります。つまり、人生の行いという事が原因となって運命的結果が与えられるのです。生命ある全ての生物は、自由意志の使える範囲は大小違いますが、能動的に自由選択ができるのです。だから、自分の自由選択の意志で行った人生の行為は全て運命・環境にはえてくる為の「行いの種」なのです。自分の運命・環境にその様な結果が現れてきた以上は、誰が何と言っても、どう信じようがどう思おうが、自分の蒔いた運命的原因の結果なのであります。従って、誰の責任に転嫁する事も出来ません。自分で蒔いた「行いの種」は自分の責任として実際の行いによって刈り取らなければなりません。誰を恨んでも怒っても何の解決にもなりません。他の人や運命のせいにして恨んだり怒ったりすれば、よけいマイナスの種が増えるだけであり、損をするのは結局自分自身なのです。「原因・結果の理法」とは、運命的な事柄に当てはめれば、実に厳しいともいえますが、しかし、こんなに有難い事もありません。自分自身が努力して神理に適ったプラスの行いの種を蒔けば、如何なる運命・環境も絶対にプラスにすることが出来るからです。 原因・結果は永遠普遍なる絶対的な、大自然の真理法則なのです運命・環境に働く原因・結果の力と働きを信じられるとか、信じられないとか言っているのは、未だ「原因・結果の理法」が悟れていないからです。 「原因・結果の理法」を悟り、より良き人生の行いの種を自分自身の為にも、子孫の為にも蒔いていくことが大切です。人類の進歩発展とは、親達が次の時代の子孫たちにプラスとなる遺産を残していくことなのです。その中で最も大切なものは、親達が子孫へ残す運命的財産であります。子供たちがこの地球という肉体的生存の材料を最大により良く活用して、より素晴らしい人生と生存の喜びを味わうことが出来るような運命的財産と徳と力を残してあげる事が最大の宝物です。大きな建物を残すよりも、子供たち自身がそれ以上に立派な建物をたてることができる運命的財産と徳と力を残すことの方がずっと大きな価値なのです。何故なら、地球は今までも存在してきたし、人類が破壊しない限り次の時代も存在し続けるからです。
2023.08.02
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現在の自分から出発し、発展をしましょう教えて頂いたこと43「出発発展の理法」は、この世のあらゆる存在・現象は時々刻々と常に新しい形状に向かって出発発展しているということです。つまり、この世は全てが常に変化しており、前の古い形や状態から新たなる形や状態になっていきますというのがこの理法です。昨日の自分と、今日の自分とでは一日分違います。「出発発展の理法」によって何事も常に昨日までの古い形や状態を脱皮して、今日は新しい形や状態に変化して行っているのです。肉体的・物理的には常に変化発展しているにもかかわらず、自分の精神面だけが、何時までたっても自己のマイナスの観念から変化せずに停滞していたのでは、日々の生存の価値はありません。その為にはプラスに向かって思い切った出発発展が必要です。自己の古いマイナスの観念を切り換えて、思い切った転換を「出発発展の理法」に沿って行わなければなりません。
2022.10.20
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藤本肇先生の講義より 心のからくり私は催眠をやってきました。その中で心のからくりを知る事が出来ました。自信に満ちて行けば、薬剤の効果を発揮するのです。 現代は多くの方の心が滅びるのを、助ける事は医師だけでは間に合わない時代になりました。健康を考えた時には、私たちは恩恵というものを、よく考えなければなりません。受け身の心で生きていけば、脳波がα波になります。そうなれれば人生が凄く豊かになります。更に自然治癒力が上がります。実際の例では東京の洪泳会 東京洪誠病院のドクターは患者さんに座禅を組んでもらい、薬を出来るだけ減らす取り組みをやられています。松坂の長女が私に送ってくれた本があります。そこには心に届く言葉が書かれていました。私に直接言えない言葉を本にたくしてくれたと感じています。自分自身から感謝する気持ちにする事が出来れば、色々な事が変化して行く事を体験して頂けます。人生は豊かになります。私も患者さんにお伝えしてきましたが、言葉が届いている実感を得ています。ある男性はこれを聞いて涙をホロホロと流されました。本日は先生方にご紹介させて頂きます。患者さんに伝わり・先生方が心の灯になって頂けるようになられる事を願います。まず先生方ご自身が感謝の気持ちをお持ちになられて、それが患者さんに伝わっていく事を心から願っております。 感謝します。詩のご紹介 貴方のお陰で 心が潤いました。貴方のお陰で 独り立ちできました。貴方のお陰で 楽しく生きられるようになりました。貴方のお陰で 毎日がバランスよくなりました。 貴方のお陰で 素直になれました。貴方のお陰で 成長しました。貴方のお陰で 勇気が出ました。貴方のお陰で 優しくなれました。 貴方のお陰で 元気になれました。貴方のお陰で 自分が誰なのか分かりました。貴方のお陰で 自分が誰じゃないのか分かりました。貴方のお陰で 綺麗になれました。 貴方のお陰で 今の私があります。貴方のお陰で 何もかも貴方に感謝します。 この感情が凄く大切だと70歳にして初めて体験しています。医師は専門部門には詳しいのですが、全般的には無知な方が多いようです。抗精神藥をやたらに出される方がいらっしゃいます。心の作用の中に、4つの作用があります。情報化社会への対処貴方に自身にとって、マイナスの情報によって心が迷い、枉げられて感情的になり、心が阻害されるようになり、憎しみ・妬み・そねみ・怒り・迷い・疑い・心配・イライラ等がうまれます。そうするとストレスになって心を傷つけ、その為にノイローゼを起こす場合もあります。漢方的に考えると、氣が発散できず体内にこもり、血に熱を持ってしまうことになります。色々な情報も各人の受け止め方によって葛藤、ストレスの大きさも大いに違います。その受け止め方によって何でもなく過ごしてしまうこともあれば、マイナス感情が生れて来る人もおります。これが心に生ずる恐ろしい変化で、このような悪感情を生じたら、すぐにでも発想の転換をして消してしまわなければ、血に熱を持って血液のめぐりが悪くなり、身体の健康が保ち難くなってしまいます。そのような場合には、如何にしたらよいか?を考える必要があります。この事は本当に大切です。 想像力を引き出す自己暗示 皆さんにもよくあることでしょうが、自問自答するでしょう。一体誰と問答をしているのでしょうか ? それは、もう一人の自分と話しているのです。松原泰道師の著書にいわれている、自分自身のなかにもう一人の自分がいる、言い換えれば、建前の自分と本音の自分なのです。心のからくりには色々と法則があって簡単に行うべきではないけれども、心の二面性を理解すれば、自己暗示によって、心の切り替えが出来る筈です。 貴方自身の考え方を切り替える訓練をどのように行ったらよいか常に考えてみることが必要なのではないでしょうか。自分も納得してみる事が大切であると私は思います。 例えば、病氣に侵された場合、どのようにすれば感謝の氣持ちに変えることが出来るのか自分自身考えてみる事であるし、まず自分が体験して、病気にかかったらどのような考えかたをしたら心が静まるのか、感謝できるのかを自分自身に問うて考えてみてください。自然と心が洗われて、人間性が高まってくるはずです。自己暗示とは如何なるものか考えたことがありますか? それは、自分自身に暗示をかけることですが、それは、自分のもっている想像力をかきたてることでもあるのです。 我々は自分で言っている言葉は、半分は自分自身も聞いています。自分自身に言い聞かせていることなのです。自分で自分を納得させていることなのです。自分がもっている想像力を強くして、自信をもたせることなのです。エミール・クエは自己暗示による人間の強い想像力に訴える藥の治療法を考えだし、ナンシという町にその治療所を開設し「クエ式自己暗示法」なるものを創案して、先生独自の心療法で多くの患者を助けて人々を喜ばせました。 その理論とは、「患者に藥を与えた場合、出来るだけ少量の藥で、より多くの効き目がでるように研究した結果、人間の心のなかにある想像力を引き出した方が、効果的にも健康的にも良いということがわかりました。それは、意識層をゆるめて心のトラブルをなくすことであり、ストレスを除外して自我を捨て、感謝の気持ちを持つ事で、より高い想像力を生ぜしめるものである」とわかったのです。ここに催眠術による想像性開発というものが大切であるといえるのです。 大脳皮質について次に大脳皮質生理学なるものを簡単に理解していきましょう。大脳皮質には約140億の脳細胞があり、その細胞には足があって足と足の絡みつきをシナプスと呼んでいます。情報が入るに従って回路が多くなり、20才ぐらいには8千億出来ると言われています。大脳皮質には新皮質と「意識層とも顕在意識層ともいいます」と旧皮質「無意識層とも潜在意識層ともいいます」とがあって、常に情報の流れを受け取っていますが、大脳皮質には検閲層と呼ばれる層が存在し、情報の制限が行われています。いわゆる心の門番です。主に新皮質に多く、顕在意識が緊張すると検閲層も同じように緊張して情報の選択を行うのですが、我々は毎秒1400億ビットの情報を受けています。このように、情報はどんどん入ってきて新皮質から侵入し、旧皮質に沈殿してしまう記憶の宝庫であります。一度受けた情報は忘れることは出来ないのですが、新皮質と検閲機関である検閲層の緊張がとれて眠くなると、緩んで旧皮質に侵入した情報を取り除くことが出来るのです。 睡眠と脳細胞我々が眠ること、リラックスすることは、新皮質を弛緩させるということです。睡眠についていうと、大脳皮質細胞を全部休ませて無意識以外の意識、即ち新皮質を完全に眠らせる状態ですが、世の中の多く人はこの睡眠と催眠を混合して考えている事が多いようです。しかし、この2つは異なった状態であり、催眠は意識細胞の一部だけを常に起こしておき、必要以外の意識を眠らせる半睡眠の状態を指します。人間は1日に3回から8回程度、夜間寝ている時から朝までに、類催眠状態を経験していますが、それを意識的に感じています。・脳細胞は再生不能でありますが、その脳細胞が生き生きとした活力を保つためには、睡眠を充分にとり、脳を休ませる以外に方法はないのです。その為に動物は眠るのです。脳の細胞の働きをよくするためには、色々な条件がからみあって、逆説睡眠時に改善されることは、判明しています。この状態は、新皮質が一部起きているときであり、催眠術による反応と非常に類似しています。この時には、その人が昼間あった葛藤を出してしまう時なのです。また、催眠暗示を与える事によって、無意識層にたやすく必要なプラスの情報を送り込むことも出来れば、マイナス情報を引き出すことも出来るという心理療法が研究されているのです。 催眠の原理大脳皮質、特に新皮質は、音とか光などの刺激といった一定の波長によるリズミカルな活動には非常に弱く、簡単にヨロメキ出して情報のチェック作用を怠る性質を持っています。医藥品としては軽い安定劑、その他少量の酒、趣味など、心の休まる事等があります。この時、自分の身辺に何事かが起きると、好むと好まざるを問わず、しかも無批判に検閲層を通り抜けて、古い皮質に刻み込まれてしまうのです。 もし、そのリズム事柄が繰り返されるときには、無意識の中に同じ考え方を植え込むと、多くの人が同じような行動を起こすようになります。これが群集心理の起こりで、大衆催眠術の原理です。かのヒットラーは、この原理を上手に利用した大衆催眠術の第一人者だといわれています。しかし、自己催眠は自己暗示によって自己の責任で行うのですから、その点は安心です。うたた寝はこれほど気持ちのよいものはないのですが、これが逆説睡眠の状態とほぼ同じ状態であり、学校や職場、仕事中や乗り物の中、講演中、勉強会中、研究会中のウトウトするうたた寝は、新しい皮質の一部が眠り、古い皮質は全然眠っていないのです。ですから、外部からの音や声は聞こえているのです。下車駅の近くになるとパット目を覚まして降りる姿を見るのもそのためなのです。 意志逆転の法則大脳皮質生理学では、意識層と無意識層との関係を表わすものに「意志逆転の法則」があります。この法則は、心のカラクリを知る面においても大切なことです。まず、この法則を説明して理解を深めたいと思います。 1・意識層=意志「新しい皮質または顕在意識ともいいます」と 無意識層「観念または古い皮質とか潜在意識ともいいます」とは緊密な関係を持っていますが、考え方が対立している時には通常では勝利者は観念であります。人間の行動は、本能的に動くのです。2・意志と観念との考え方が対立している時には、観念の力は意志の力の二乗に匹敵します。3・意志と観念が同一方向に協調している時には、そこに生じる力量は和ではなく積となります。「なにをしても楽しく、希望に燃えて来るのです。」4・観念は、自己または他人によって誘導する事が出来るものです。…自己暗示を繰り返すことによって方向を変える事が大切です。一度や二度では簡単には変わりませんが、これが一種の催眠暗示につながるのです。心には四つの作用があるといわれています。① 私はそう想像する。②私はそう思う。③私はそう信ずる。④私はそうなってしまう。この4つの心の流れがもっとも大切です。ですから私は、感化力は信頼と共感が生れたら、偉大な力を発揮すると思います。自律神経は、この分野に相当影響しているのです。そのためには、この神経を安定させなければなりません。 自律神経を安定させる呼吸法それでは、その方法について述べてみます。これを私は「自律神経安定のための呼吸法」といっています。自律神経失調症の方の心が安定することは、意志層並びに検閲層の緊張がとれて弛緩し、無意識層に働いて行きやすくする為に行うことなのです。ではその方法は何かというと「まぶたを閉じる、まぶたを閉じられるという事は心の安らぎを得る事であり、脳波が落ち着く」ことなのです。それから、鼻から静かに息を吸って口からゆっくり静かに吐く。そして、呼吸に心を集中することです。毎日五分から十分くらい寝る前に続けて戴くと、心が安定して脳波も安定し、低くなってシータ波とかデルタ波になっていきます。シータ波は、波長が4ヘルツから8ヘルツ位であり、10ヘルツ以下になると雑念が除かれ、自然治癒力が強力にはたらいて体力が活性化され、血液もアルカリ性となり、病は快方に進むと言われています。シータ波にまでなると、超能力が発揮できるといわれています。瞑想にも、色々な段階があると思いますが、一般に行われている瞑想を練習してもなかなかデルタ波にもなりにくく、ましてや、シータ波に高めることは更に難しいといわれています。脳波と創造性の開発脳波の種類と心の状態について まず、ヘルツとは一秒間の脳波の振動数を表わした指数です。① ガンマ波は、振動数が30Hz以上で 交感神経が緊張し興奮している状態です。② ベータ波は、振動数が14Hzから29Hzで、活動中とか仕事をしているときに発します。③ アルファ波は、8Hzから13Hzの範囲でリラックスしている状態です。④ シータ波は、4Hzから7Hzであり、深いリラックス時に現われます。 ⑤ デルタ波は、0,4Hzから3Hzの範囲で、熟眠時に現われる状態です。⑥ 0.3Hz以下は無の状態ではないかと考えられています。 以上の六段階に分けられています。 エゴ的(自我)発想を起こしますと、脳波はガンマ波、ベータ波になるといわれていますが、発想の転換をして現在の行動とか考え方を肯定して、心が落ち着いてきますと、すぐにでも10Hz以下になり、感謝の気持ちを続けると6Hz前後になるとかんがえられています。「藤本藥局では、感謝という言葉を口癖のように使うことで、習慣づけの試みをされているという事です」およそ、人間の体は常に酸化還元の働きによって体を養い、成長から老衰までの過程をたどっていると考えられています。酸化が過ぎると過酸化の傾向に走り老化は早まってきます。還元(アルカリ性化)に傾くと、抗酸化されて若返る傾向になります。従って、老化防止には毎晩5分から10分位「自律訓練の呼吸法」を実施していったらよいのではないかと思います。エゴをなるべく少なくして自然と良心に合うような考え方、生き方をすることによって人間愛に満ちた、感謝の気持ちをもった自我没却の心を生じさせたいものですし、お客様に対しても指導できるようになれば素晴らしいと思います。脳波をアルファ波、シータ波、デルタ波にしましょう。 自己暗示による誘導法「自律訓練の呼吸法」をしていきますと、意識層及び検閲層の緊張が緩んで、直接、無意識層の深層心理の分野に情報が入ってきます。最初に記したように、自己暗示とは、半分は自分の耳からその情報が入ります。無意識層に固定させるのです。私は患者さんに限らず、自分に心を安定させて良い言葉を何回もいうことを教えています。 たとえば、「僕は良い子になる、良い子になる」と二、三回繰り返して寝るのです。体が弱ければ健康になるとか、胃が暖まってくるとか、頭がスッキリするとか、繰り返し自分に問い掛けるのです。 これを私は「呪文をかける」といっています。「呪文を教えて上げましょう」といって、寝る前に毎日、毎日三回唱えて寝て下さい、と教えるのです。 人は意識の世界ではなくて無意識の世界におきた事で心が高鳴り踊ることがよくあります。そのような事は数え切れない程我々の生活の中で多発する事ですが、何も楽しい事、嬉しい事だけを思い出しているのではありません。 記憶というものは一度感じたら忘れることはないのだそうです。ですから、無意識層は記憶の宝庫だといわれていますが、実は悪い記憶も中にあるのです。ある回路を刺激すれば様々と甦ってきて不快な思いをするだけならまだ良いのですが、それが原因になり脳波を乱し病になる事も有り得ますし、心を苦しめノイローゼ等のトラブルを起こしてしまうこともあります。従って、無意識層に入り込み染み着いて離れないものを洗いながさなければならないのですが、その事を催眠暗示によって永久に忘れさせる事が出来るのです。自己暗示で例えば「私は今まで苦しかった事、辛かった事は、再び思い出す事が出来ない」と自己暗示を呪文で唱えるのです。 脳波が高ぶっているガンマ波とかベータ波位の段階では、理性の層である検閲層が見張っておりますので忘却できません。普段、考える事は全て意識層に関連してきます。ワンポイントとして軽い飲酒とかリズムは意識層の緊張を解きほぐす材料になるようです。 楽しく健康にいきるために世の中にあるものをうまく活用すれば、人間は楽しく生きる事が出来て、尚且つ健康になれるのです。日常生活の中でどのように考え、人とお付き合いをしていったらそのような心を持つ事ができるのでしょうか。この事は皆さんが店頭でお客様にお話になる材料を御自分で造る練習と考えられて、日常に実行してみる事が大切であろうと思います。それには、1.相手の長所を伸ばすことです。自分も他人も、全て人の短所は目をつぶって、長所を褒める事です。このことが短所を抑えることになるのです。その時脳波は大体十ヘルツ以下のアルファ波になります。 しかし、欠点を指摘されますと、20Hz以上の脳波がでますので、欠点を指摘して改善させようというのは、多くの場合間違いで、長所を伸ばすのが一般には正しい方法であるといえます。自分中心ではなくて、常に相手の気持ちを考えて差し上げる広い気持ちを持つ事が自分を楽しくする秘訣です。2.感謝の心を持つことです。 この気持ちを持てるようになると、脳波はシータ波の六ヘルツ前後になり、深いリラックス時のような気持ちになります。3.信頼です。 これはなかなか難しいことですが、この事は相手の為に誠心、誠意何かをしてあげる事です。感謝の念を持たない人は心が判らない人ですから、相手にせず商売上でも、また個人の上でも近づかない事です。 人の喜びに喜びを無心になる事です。怒ったらあなたの損ですから、私は人に喜ばれる事に喜びを感じるように心がけています。宇宙学では、御法度の心というものがあり、これを脳波計で測ってみたら、全部20Hz以上出ているのです。 その感情は、怒り、不平不満、心配、イライラ、セカセカ、憎しみ等、心穏やかでない気持ちなのです。これが一番寿命を縮めて、病気になる原因なのです。私達の日常の心構えはどうしたら良いのでしょうか。それには三つのポイントがあります。① どんな事でも肯定して感謝し、前向きに発想するクセをつける事。② 常に謙虚に学ぶ習慣をつける事。③ 常に人間性を高める努力をする事。 実行する努力をしましょう。 人間性を高める三つの条件人間性を高める為には、人間が本来持っている特性を高めれば良いのです。① 人間は地球上のあらゆる動植物のDNAを持っていますので、地球上の全てに対して責任があるという事です。ですから、地球上の全てに対して責任を持ち、全てを大切にする事が人間性を高める事になるのです。② 人間は使えば使うだけ良くなる理性的な頭脳を持っているという事を理解しましょう。ですから、本能や感情だけではなくて、理性的に考えて生きれば良いのです。好き嫌いは情動的ですが、変える事の出来る分野ですから、全て好きになろうという理性が働くよう努力していくべきだと思います。そこに「自律訓練の呼吸法」が必要となるのです。③ 人間は、その思いを実現できる地球上で唯一の生命体であるという事を考えてみる必要があります。このような考え方を常に思い、良いプラス発想をすべきです。 この3つを実行していくと、必ず人間性は高まります。人間愛と感謝する心を持ち、自我をなくす、即ち、超自我の心境になるように努力していけば、確実に脳波を低くすることができます。低くなればなるほど創造性が強くなり、直感力が働いて色々な事がわかりやすくなり、思う事が実現出来るようになるのです。 我々の本質は創造主の分身なのです。全ての事知っているのです。今まで記した事を踏まえて、質素に、単純に、暖かく生きた方が幸せを勝ち取ることができるのです。潜在意識と顕在意識が同一方向に行けば、世の中から「あなただけは大切な人だ」と言われるようになります。偏らない心、こだわらない心、あるがままに、なるがまま、自由に生きる暖かい心を持ち、常に人の事を考え毎日を暮らしていくことです。自然に楽しい、美しい、豊かな人生にしましょう。
2022.08.06
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能動的に変化することが大切教えて頂いたこと42私達が住んでいるこの大自然界における全ての存在や現象は、自分の方から他に働きかけるという能動的意志によって時時刻々と進化発展しています。この大自然界において、常に進化発展していないものは、存在しえないということになります。大自然界におけるあらゆる変化・現象の根源は、全て能動的な意志の働きによってなされています。何かしようと思う意志があって、そこに変化発展していくことになっています。「能動変化の理法」とは、自己の本質であります生命そのものの理法です。生命の本質とは生命エネルギーそのものです。生命とは常に何かをしようとする能動的意志の力と働きでありますから、生命ある全ての生命の御子が、自己の運命・環境を積極的に、より価値ある生き方に向かって努力し続けることが、生命の本質に叶った生き方です。この事を現している諺に「天は自ら助ける者を助ける」「意志ある所に道あり」「求めよ、さらば与えられん」「一心巌も通す」「精神一到火もまた涼し」などがあります。「能動変化の理法」とは、能動的意志による積極的生命力の使用によって、そのような変化、発展が行われるという理法です。生命の本質に叶った価値ある人生を送らなければなりません。
2022.07.09
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麻杏薏甘湯は日晡所があれば、喘息にも使うのです。神経痛や痛みより喘息に使うほうが多いくらいです。傷寒や金匱は抽象的な表現が多く日晡所でも陰陽の移り変わりなんていうのもそうですが、そのような理由では多くのドクターや調剤の藥剤師は中々信じられないようです。一つ一つ実際にやってみて、その正しさを感じ信じてもらうことが人助けにつながるのですが残念なことです。体力があって汗が出て喘鳴をともなった咳をする場合があります。肺に熱がこもって咳をして発汗せずして身体や関節に疼痛があるような場合は「麻黄湯」ですが、発汗して咳をして体表に熱が少なく苦しむような場合は「麻杏甘石湯」を選ぶという事になります。 麻杏薏甘湯は『傷寒論』ではなく『金匱要略』痙湿暍病(けいしゅうえつびょう)篇に述べられています。☯病者一身盡(ことごと)く疼(いた)みて發熱、日晡所(にっぽしょ)、劇き者は風濕(ふうしゅう)と名づく。此病(このやまい)汗出ずるに風に當り傷られ、或は久しく冷を取り傷(やぶ)られて致す所なり。麻黄杏仁薏苡甘草湯を與(あた)ふべし。読み☯病者一身ことごとく疼みて發熱し、※日晡所、劇しき者は風湿と名づく。この病は汗出でて風にあたり傷られて、或いは久しく冷えを取りて傷られ致す所なり。麻黄杏仁薏苡仁甘艸湯を与うべし。解説病人の身體が痛んで熱が出て、午後三時から五時頃の間になると、特に症状が激しいものは、風湿となづけます。この病が起こす原因というのは、汗をかいて表が開いている状態に、風にあたって表を冷やした為におかされ、{汗が出るのは体表が熱を持って汗腺が開けば水気は汗として出ますが、風にあたれば皮膚が冷えて汗腺が閉じて水気を散ずることが出来ないで湿となります}或いは、永い間冷えるような思いをしたためにおかされて、この病をおこしたのである。麻黄杏仁薏苡仁甘艸湯を与えてやりなさい。麻黄杏仁薏苡甘草湯の処方麻黄(苦温)0.5g節を去って湯泡とは、ふり出してアクをぬく。甘草(甘平)一g炙る、薏苡仁(甘微寒)0.5g、杏仁(甘温)0.5g炒って皮尖を去る。右の諸薬を麻の実の大きさにきざんで、一回の服用毎に四gをとり、さかづき一杯半、すなわち60 mlの水をもって煮て、さかづき一杯40 mlの八分とし、すなわち32 mlとする。滓を去り温服する。すこし汗が出て治するのであるが、その場合風に当らないように注意しなさい。 新古方藥嚢永く冷える處に居たり、冷える仕事をしたり、又は薄着して汗をうんとかく程の仕事を永くしたりした為、身體中が疼痛し特に午後の3時から4時頃になると疼痛も一段強きを加え、熱も出てくると言ふが麻杏薏甘湯の行く處の根本たり。※ 日晡所夕方午後3時より5時に至る間、夕方近くになると發熱が劇しくなるのは風濕の病。陽いづるは寅に於いて陰に入るは申に於いてす 日晡所は即ち陰陽交わる時なり、陰陽の接触順ならずして則發熱する也何故日晡所に限って起こるのか夕方になると太陽が西に沈んで地上の陽気が少なくなり、気温も下がります。すると体表の陽気も体内に入り、陰気の潤す氣が体表を覆い、陽気が完全に裏に入れば人は眠りにつくのです。日晡所とは陰陽の交換が行われる時であり、それが順調に行われないと気血のつまりが生じて、痛み・發熱その他の症状を発するのです。[方術説話]汗出づる風に当たれば水氣散ずるを得ず内に滞りて濕をなす、遇ま風にやぶらるる事あらば即ち發して風濕となる。久しく冷を取れば陽氣の行濇る亦水氣散ずるを得ずして濕となる、汗出づるに風に当たりて生ずる者は多く頭背にあるべし。久しく冷をとりて傷らるる者は大概手足にあるなり。※ 風氣と湿氣とが相争うと痛みを生じます。普段は自然と汗が出て治るはずなのに、天候が悪く雨が止まず湿気が上がり、発散が出来ない時は治り難くなります。発汗をすれば良いのですが、発汗の仕方があります。汗の発し方が強すぎると、風湿の湿気だけが取れて、さらに深い部分の湿気が残って治らなくなります。ですからジクジクと汗ばむ程にすれば風と湿が共に除かれて治ります。風氣は皮毛にあり、湿は肌肉の部位にあって普段は小便によって除かれます。また、汗として出すためには、風の陽気を借りて湿を僅かに表より出すことは出来ますが、体内に湿があるために気血のめぐりが自由にならず、しびれを生じます。これを【湿痺】の病と言います。 この特徴的な症状は、小便は不利しても大便は気持ちよく出る。小便不利によって肌肉の湿気が滞り熱を発し、痛みを生じるのです。※ 麻杏薏甘湯は午後になれば悪化するというものであれば、関節リュウマチはもちろんのこと、単なる筋肉痛にも使えます。つまり、内に異常がなく表の肌肉に熱があるという時に用います。麻杏薏甘湯は午後に悪化する筋肉炎やリウマチに使いますが、中には朝が動かしにくく、午後になると楽になるという関節炎やリウマチがあります。これは濕ではなく、労働などによる血虚が原因です。この場合には黄耆建中湯や炙甘草湯が使われます。 リウマチ・私は明け方に喘息が出る人・湿気が原因のときには必ず使います。 症例喘息明け方に発作が起こり入院したが改善できない。夜中以外は起こさない。原因は日曜日に沢に出かける。汗をかいた時に風にあたれば上焦が侵されやすくなり、肺気がつまると喘息になると考えた。「麻杏薏甘湯」一日分で効果があり、水分の事を注意してもらったら三ヶ月で治った。癲癇二十歳の男性。明け方に癲癇を起こす。高校時代にサッカー部でシャワーの習慣がついてから起こすと言う。時間帯で判断して「麻杏薏甘湯」を服用して頂く二ヶ月で治った。疼痛老婦。露天商の方。或る日、左肩に激痛を発してやまない。午後は疼痛が酷い。商売柄、酷い冷えから来たと考え「麻杏薏甘湯」を服用いただく。たちまち痛みが治った。両手、両足、両肩、両膝が痛む。朝のこわばり60代女性、元教師で現在は主婦。体格中程度で身長155cm、51kg、色は白い方で中間証タイプ。1年半前から痛み始めた。大学病院で慢性関節リウマチと診断された。内服薬の投与を受けていたが、特に症状の改善はみられなかった。初診の時は、両手指関節の一部が紡錘状に腫れ、変形していた。両手関節、両膝関節、両肩関節がいずれも軽度熱感があり腫脹し痛みがあった。特に朝のこわばりは午前中維持して、日中は両手指、両手関節及階段の昇り降りの時に体重移動で両膝が痛み、夜になると両関節が痛むという状態であった。麻杏薏甘湯を服用六ヵ月で熱感が完全に取れ、八ヶ月くらいより疼痛の軽減、一年で膝と肩の痛みが取れた。筋肉リウマチ・神経痛・手掌角皮症・水虫・腎炎・肺膿瘍・頭のふけ・手足の荒れ症・凍傷・湿疹・喘息等に応用されます。 新薬の併用について リウマチ性疾患の疼痛に対する第一選択藥として使用されている非ステロイド性抗炎症藥イブブロフェン、ロキソプロフェンとの併用により、これらの新薬の鎮痛作用発現量を単独使用時の三分の一程度に低下させます。さらに作用を増強することが認められています。 アスピリンの投与により引き起こされる消化性潰瘍を抑制する事も認められています。このように痛効散は、非ステロイド性抗炎症藥と併用する場合も、鎮痛作用だけではなく、副作用の消化性潰瘍を防止します。
2022.01.12
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何故、 問題が起こるのか?教えて頂いたこと41 誰も意味なく生まれてきた人はおりません。私達はどこの家に、第何番目に、性は男性か女性か、自分で決めて生まれてきたわけではありません。全て御神意によって生まれさせて頂いております。何の為に?というと、親の意識になるためです。肉体は黙っていても成長していきます。しかし、精神である意識は、そのままでは成長しません。意識は、その人それぞれによって皆、違います。その意識を高める為に、若い時に問題を与えられる人、中年期に問題を与えられる人、晩年に問題を与えられる人、いずれにしても、その人の一番より良い時期に、魂の成長する問題が与えられます。それは悩みではなく、其の人が努力すれば必ず解決できる問題です。問題が誰にでも与えられます。自分の意識を高めるための問題であり、決して他のせいではありません。そのような悪い世界を造るわけはありません。親は苦しめるために、この世界を創造致しません。問題を解決するに当たり、この大自然界を構成している原理、原則があります。その一つの原理が『循環の理法』です。この『循環の理法』は誰にでも当てはまる原理・原則です。私達の生きているこの地球は、春夏秋冬と自転、公転をしています。血液も心臓から出て、心臓に帰ってきます。種を蒔くと芽が出て、葉が現れ、花を咲かせ、実を付け、やがて枯れてまた種になっていきます。人間も息を吸ってまた息を吐き、寝ては起き寝ては起きます。言葉も「させて→頂きます」「行って→いらっしゃいませ」と循環しています。輪廻転生という言葉も、生まれ変わるという意味です。この様に循環しています。大自然界の全ては、目に見えるものも、目に見えないものも、全部循環しています。いわゆる形があろうと形がなかろうとも全て循環しております。しかし、人類は、形あるものには循環していることが判っても、形ないものにも循環していることが判っていません。だから悪い種を蒔いて自己中心の生き方をすれば、まわりまわって、その種が我が身に帰ってくることが判っていません。何故なら自分たちの行いが、目には見えないから循環してくるということが判らないでいます。『循環の理法』によりプラスの種を蒔くと、その結果プラスの結果が現れてきます。しかし、マイナスの種を蒔くと、循環してきてマイナスの結果になります。 今が辛くとも、次に良いことが起こるように、良い種を蒔きましょう。絶対に悪い種を蒔き続けて、最終的に幸せになる人はいません。
2022.01.06
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五苓散証 条文に沢瀉(甘寒)・猪苓(甘平)・伏苓(甘平)・白朮(苦温)・桂枝(辛温)を末となし、白飲にて服すと書いてあります。この白飲というのが重要です。 発熱、汗出、口渇、小便不利、嘔吐、下痢、頭痛等の症状があります。熱がなくても使えます。ただし口渇と小便不利は必ずあります。小便が出ないために下痢もします。多くは水様性で腹痛はありません。嘔吐は氣の逆上の為ですから、あまりゲエゲエ言わず、すんなりと嘔吐します。 吐き気・のどの渇き・下痢・小便不利のうち2つあれば五苓散です。現代人に非常に多いのが、水をのんで汗かく必要があるのに冷房で閉じ込めると水泡ができます。病院でも冷房で汗をとめて熱を中に閉じ込めてしまいます。水泡は麻杏薏甘湯か五苓散で殆ど治ります。ヘルペスや水イボとか小兒ストロフルスなどに著効があります。水の停滞があって、血のめぐりを抑えているような場合は、まず『五苓散』で水をさばきます。解熱劑などでライ症候群になった時も五苓散です。腎不全や透析寸前の方も五苓散です虚ならば真武湯です。二日酔いは小便不利・のどの渇き・吐き気がありますので五苓散でよいのです。 原典からの紹介(ダイジェスト)①太陽病中篇 41条 「太陽病、汗を発して後、大いに汗いてで胃中乾き煩躁して眠るを得ず、水を飲むを得んと欲するものは、少々与え之を飲ませ、胃気を和さしむれば則地位癒ゆ。若し脈浮、小便不利、微熱、消渇するものは五苓散之をつかさどる」② 同 42条 「汗を発し終わり、脈浮数にして煩渇するものは、五苓散之をつかさどる」③ 同 43条 「傷寒汗出て渇するものは五苓散、渇せざるものは茯苓甘草湯之をつかさどる」④ 同 44条 「中風発熱後六七、解せずして煩し、表裏の証あり、渇して水を飲まんと欲し、水入れば吐するもの、名づけて水逆という、五苓散之をつかさどる」⑤太陽病下篇 14条 「病、陽にありまさに汗をもってこれを解するに応ずるに、反って冷水をもって之にふき、若しくは之れに灌げば、その熱しりぞけられて去るを得ず、いよいよ更にますます煩し、肉上粟起す、おもうに水を飲まんと欲して反って渇せざるものは文蛤散を服す、若しいえざるものは五苓散を与う、寒實結胸し、熱なき者は、三物小陥胸湯を与う、白散もまた服すべし」⑥太陽病下篇 29条 「もとこれをもっての故に、心下痞し、瀉心湯を与う。痞、げせずその人渇して、口燥煩し、小便不利するものは五苓散をつかさどる」⑦陽明病篇 65条 ⑧霍亂病篇 6条 ⑨痰飲咳嗽病 32条 に掲載されています。 詳細掲載 こまかく見て行きます☯太陽病中篇41太陽病發汗後、大いに汗出で胃中乾き、煩燥眠(はんそうねむ)るを得ず。水を飮むを得(え)んと欲する者には少少與(しょうしょうあた)へ之(これ)を飮ませ、胃氣をして和せしむれば則ち愈ゆ。若(も)し脈浮、小便不利、微熱消渴するものは五苓散を與へて之を主どる。解訳 太陽の経を病んでいるので、汗を発してやったところが、汗が大変に出て、そのために胃の中が乾いてしまい、渇のためにあつ苦しくて眠ることができなくなってしまっているもので、水を飲みたがっているものには、少しく水を与えてやって、胃をうるおして、胃気を調和してやれば、それで癒ゆるのである。もしその場合に、水を与えてやっても治らずに、脈が浮いて小便の出が悪く、微しく熱があって、やたらに咽の渴く者には、五苓散を与えれば主治する。ここで大切な東洋医学的な理論は、発汗すると、胃の中が渇くということで、発汗と胃の関係大切なことである。 五苓散の処方猪苓(甘平)1.8g、沢瀉(甘寒)3.5g、茯苓(甘平)1.8g、桂枝(辛温)1.2g、白朮(苦温)1.8g右の五味を末となし、1回に2gをおも湯を以ってよくかきまぜて、1日3回服用する。服用後多量の暖かい湯を飲んで、汗が出ればそれで癒ゆるのである。薬嚢に曰く、熱があって、汗が出で咽が渴いて水を欲しがり、小便の出ない者。小便少なく、咽が渴いて水を飲み、水を飲めば忽(たちま)ちもどす者.非常に水を欲しがりてうるさく、小便の利せざる者。頭やからだに痛みがあり熱があって悪寒し、汗出でて咽渴き、激しく水を飲みたがり、飲めばまた吐く者。本方の一番の目標は、渇と小便の不利とに有り、と書かれている。 ☯太陽病中篇42汗を發し已(おわり)て、脈浮数、煩渴(はんかつ)する者は五苓散之を主どる。解訳 汗を発しおわっても、脈が浮いて早く打っていて、咽がやたらに渴いて苦しいものには、五苓散が主治します。発汗しても脈が浮数であるということは、表の熱がとれずに、熱盛んの意を現わしていることを考えるべし。 ☯太陽病中篇43傷寒汗出でて渴(かつ)する者は、五苓散之を主どる。渴せざる者は、茯苓甘草湯之を主どる。解訳 寒に侵されて発熱し、汗が出て咽が渴く者は、五苓散が主治します。発熱して汗が出て、咽の渇かないものは、茯苓甘草湯が主治します。茯苓甘草湯の処方茯苓(甘平)2g、桂枝(辛温)2g、生姜(辛温)3g、甘草(甘平)1g右の四味を、水一60mlを以って80mlに煮つめ滓を去り三回に分けて温服する。薬嚢に曰く、発熱あり汗出でて咽が乾かず、あるいは頭痛あり、あるいは頭痛せず、また手足冷えやすく、他に異状なくして、唯心下にずきんずきんと動悸ある者。あるいは肩こり、あるいは胸焼けする者等によし、とある。 ☯太陽病中篇44中風發熱六七日解せずして煩し、表裏の證有り、渴して水を飮まんと欲し、水入れば則ち吐する者は名づけて水(すい)逆(ぎゃく)と曰う。五苓散之を主どる。解訳 風にあてられて熱が出、六、七日目になっても治らずに苦しがり、表の証も裏の証もあって、咽が渴いて水を飲みたがり、水を飲みこむとすぐに吐いてしまうものを水逆と名づけるのである。水逆には五苓散が主治する。 ☯太陽病下篇 14条病、 陽に在り應(まさ)に汗を以(もっ)て之を解するに應ずるを、反って冷水を以(もっ)て之に潠(ふ)き、若しくは之に灌(そそ)げば 其の熱却(しりぞ)けられて去さるを得ず。 彌(いよいよ)更(さら)に益す煩し、肉上(にくじょう)粟(ぞく)起(き)す 。意(おも)るに水を飮まんと欲して、反(かえ)っ て渴せざる者は文(ぶん)蛤散(こうさん)を服す。 若し差えざる者は五苓散を與(あた)ふ 。寒實結胸し、熱證無き者は三 物小陷胸湯を與ふ。 解訳 病邪が表にある時には、 発汗によって病を解すべきであるのに、 あついからといって冷水を 病人の体にふきかけたり、またはそそぎかけると、その熱が不安定になって、表にこもった熱がとれると が できなくなって、一層ひどくなって熱のために苦しがるようになる。そのために皮膚に粟の粒のようなものが 全身またはあっちこっちに出来てしまう 。そして気持では水を飲みたいような感じであるが、かえって水は 飲みこめないような者には、文蛤散を服用させなさい。文蛤散を服用しても治らない者には、五苓散を 与えてやりなさい。その場合に寒が實して、熱が胸の中に追い込まれて結するようになり、熱発の証が ないものには、三物小陷胸湯を与えてやりなさい。この場合に白散の証があれば、また服用してもよい。 文蛤散の処方 文蛤 (苦平)5g。右の一味を杵(つい)いて散となし、沸湯20mlを用いて散2gに和して服用する。 文蛤散の証をあげれば、身体に熱があって、汗は出でず、寒気もあり、無性に水を飲みたがるもの、 ただしこれは風邪の初期などに自然に発する証候ではない。無理に熱を体内に追い込んだりした時 に多く発する証状である。また平常胃が悪く、食欲はあるけれども多く食することが出来ず、むやみに 水を飲みたがり、 いくら飲んでも飲みたりないもの。 ここで疑問が出ることであろうと思う。文蛤散の証は渴があるけれども、この条文では渴せずとあるがおかしいと思われるかも知れないが、条文では発汗すべきをさせないために、いろいろの病証が出るのですから、体内には水分があるために渴は生じないだ けであるから、文蛤散でよいのある。 桔梗白散の処方 桔梗(辛微温)、貝母(ばいも)(辛平)各三g、巴(は)豆(ず)(辛温)一g。右の三味を粉末となし、巴豆を臼の中に入れてよくつき合せて散 となし、強壮な人は一回に0.5gを服用する。弱ってつかれた者は適宜その量を減じなさい。病邪が横隔膜の上にあるものは必ず吐する。病邪が横隔膜の下にあるものは必ず下痢をする。下痢をしないものには、あたたかいお粥、茶碗一杯を服用させなさい。下痢をしすぎて止まらないものは、冷めたいお粥を一杯くらい服用させれば下痢は止まるのである。 身体があつくて、とりはだが出て治らずに寒がっているようである。そんな者に、もし水をふりかけてみたり、洗ったりすると、 ますます熱がおびやかされて、おちつきを失い、出ないようになってしまう。当然身体が熱くなって汗が出るはずであるのに、汗が出ないから苦しがるのである。たとえば汗が出おわって、腹中が痛むようなものには、芍薬3gを加え、上法のようにしなさい。発汗後は表が虚であるから、仕上げの薬方として用う時あり、 桂枝湯に芍薬3gを加えるのではなかろうか。薬嚢に巴豆を粉末にする方法が記されている。参考にあげれば、「堅いその外皮及び薄い内皮をとり去り、中味を2つに割り内に 在る薄い胚葉を除き、あぶりて少しあぶらぎったところで、乳鉢 または薬研を用いてネトネトにすりつぶす。 これを桔梗と貝母との末に混じ、よく密に和して製する。 桔梗白散の証は、咳多く息苦しく胸中脹り熱少ない割に寒気劇しく、咳するごとに痰があって、久しく差えない時、臭味のある痰 を吐く者がある。胸中脹りつかえて息苦しいのが本方の特徴なり」と記されている。 桔梗白散は、金匱要略方の肺痿肺癰咳漱上気病篇にもある。 ☯太陽病下篇 29条本(もと)、之を下すを以(もっ)ての故(ゆえ)に心下痞し、瀉心湯を與へて痞(ひ) 解(げ)せず、其の人渴して口(くち)燥煩(そうはん)小便不利する者は五苓散之を主どる。解訳 本来下したために心下痞が生じたものは、瀉心湯を与えてやるべきである。それでも心下痞が治らずに病人が咽がかわいて水をのみたがり、口がかわいて苦しがり、小便の出の悪いものには 五苓散が主治するのである。 ☯陽明病篇 65条太陽病、寸緩(すんかん)、関(かん)浮(ふ)、尺弱、其の人發熱し汗(あせ)出(いで)で復(ま)た悪寒し、嘔(おう)せず但(た)だ心(しん)下痞(かひ)する者は此れ醫之(いこれ)を下したるを以て也。もし其の下さざる者、病人悪寒せずして渴(かつ)する者は此れ轉(てん)じて陽明に属(ぞく)する也(なり)。小便数(さく)なる者は大便必ず鞕く、更衣(こうい)せざること十日なるも苦(くる)しむ所無き也渴(かつ)して水を飮まんと欲すれば少少之(しょうしょうこれ)を與(あた)え、但(た)だ法(ほう)を以て之を救う。渴する者は五苓散に宜し。解訳 太陽病で寸口の脈が緩やかで関上の脈が浮いて、尺脈が弱い状態の人が熱を発して汗が出て、その上に悪寒がして嘔き気はなく、ただみずおちのあたりにつかえのある者は、これは医者が下しをかけたためにこのような症状を現わしたのである。もしも病人を下していないもので悪寒せずにのどの渴く者は、これは自然に病邪が内に入ってしまったのであって、陽明病になったのである。小便の回数が多い者は大便が必ずかたくなって便通がないことが十日もつづいても別に苦しい症状はない。のどが渴いて水を飲みたがるものには、少しずっ水を与えてやりなさい。そして正しい治方で病をなおしてやりなさい。のどの渴くものには五苓散がよろしい。 霍亂病篇 6条 ☯霍乱(かくらん)頭痛(ずつう)、發熱、身(しん)疼痛(とうつう)、熱多く、水を飮まんと欲する者は五苓散之を主どる。寒(かん)多(おお)く、水を用(もち)いざる者は、理中丸之を主どる。解訳 霍乱で頭痛して熱を発し、身体がうずき痛み熱の症状が多くて水を飲みたがる者には、五苓散が主治します。寒の症状が多くて水を呑みたがらぬのは、理中丸が主治する。理中丸の処方人参(甘微寒)、甘草(甘平)、白朮(苦温)、乾姜(辛温)各3g。右の4味をついてふるい粉末として、蜜とよく混和して鶏卵の黄味ぐらいの大きさにして、沸湯数芍の中に一丸を入れてとく、砕いて温かい中に服用する。昼間に3回、夜間に2回服用する。服用して腹中が温まらないものは三、四丸を余分に服用させる。しかし効果は湯薬には及ばない。湯薬の煎じる方法は四味を三gずつ取り、水三320mlを以て煮て120mlに煮つめ滓を去り、1日3回に分けて温服する。加減の法はもし臍の上が脈をうつものは腎気の異常による動悸である。朮を去って桂枝(辛温)四gを加えなさい。吐くことの多い者には朮を去って生姜(辛温)三gを加えなさい。下ることの多いものは、かえって朮を用いなさい。動悸のする者は、茯苓(甘平)2gを加えなさい。のどがかわいて、水を欲しがるものは、朮(苦温)を加えて全量を4.5gとしなさい。腹中が痛むものは、人参(甘微寒)を加えて4.5gとする。腹中の冷えるものは、乾姜(辛温)を加えて四・五gとする。腹満する者は、朮(苦温)を除いて炮附子(辛温)0.2gを加えなさい。湯を服用して後2、30分してからあたたかい粥を茶わんに一杯くらい服んで身体を温めなさい。衣服をはいではならない。 痰飲咳嗽病 32条☯假令(たとえ)ば瘦(そう)人(じん)臍下(さいか)に悸(き)有り涎(えん)沫(ばつ)を吐して癲眩(ていげん)するは此れ水(みず)也、五苓散之を主どる。解訳 もしも吐く人が、やせていて臍の下(下腹部)に動悸があり、よだれやあわのようなつばをはいて、ひっくりかえるような激しいめまいのするものは、水から来ているのである。五苓散が主治します。五苓散の処方沢瀉(甘寒)三・〇五g猪苓(甘平)一・八g茯苓(甘平)一・八g白朮(苦温)一・八g桂枝(辛温)一・二g五味を末となし、おもゆにて二gを服用させる。一日三回服用する。服用後多量のあたたかい湯を飲むと、汗が出て癒ゆるのである。
2021.08.16
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30.師の曰く、病人脈微びにして濇じゅうなる者は此れ醫の為に病まさる所也。大いに其の汗を發し、又数しばしば大おおいに之を下し其の人亡血す。病當に悪寒して、後のちに乃すなち發熱し休止する時無かるべし。夏か月げつ、熱盛んにして複ふく衣いを着けんと欲し、冬月、寒盛んにして、其の身を裸にせんと欲す。然しかる所以ゆえんの者は、陽微なれば則すなわち悪寒し、陰弱なれば則ち發熱す。此れ醫い其その汗を發して、陽氣をして微ならしめ、又大いに之を下して、陰氣を弱ならしむ。五月の時は陽氣表に在り、胃中虚冷す。陽氣内に微なるを以て、冷に勝さる能(あた)わず、故に複衣を着けんと欲す、十一月の時は、陽氣裏に在り胃中煩(はん)熱(ねつ)す。陰氣内弱なるを以て熱に勝る能はず。故に其の身を裸にせんと欲す。又陰脈遅濇(じゅう)、故に血亡ぼすを知る也。 解訳 師がいわれるには、病人の脈がかすかで渋っている者は、これは医者が治療を間違って病をつくったのである。これは発汗しなくてもよいのに多く汗を発したとか、また下さなくてもよいのにたびたび下したために、その人は血が少なくなってしまっている。大変下したり発汗したりすると亡血をするのである。発汗したために陽不足となり悪寒をし、下し過ぎたために陰不足となり発熱するようになって、休むひまがなくなってしまう。夏のあつい時にあわせを着たがったり、冬の寒いときに裸になりたがることがある。そのようになる理由は、身体の陽気が少ないと冷えるから悪寒をするし、陰気が弱いと身体があつくなるのである。これは治療するために発汗をし、そのために陽気(身体をあたためる気)がかすかになってしまったためであり、また大変に下してしまったために、身体を冷やす気の陰気が弱くなったためである。また季節的にも六月の頃は、天候もあつくなるために、陽気が体表の方に多くなってくるので、裏の胃中が虚して冷え易くなる。それは裏の陽気がかすかになってしまうために、冷(陰気)に勝ることが出来ないから着物を着たがるのである。十二月の真冬の時には身体の陽気(熱気)が身体内部にあるから、胃の中が熱を持っていて苦しい。それは陰気(寒気)が内部で弱くなっているから、熱(陽気)に勝ることが出来ない、従って寒いのに裸になりたがるのである。また尺中の脈がおそくて渋っているのは、貧血をしているのであるから、よく注意せよ、ということではないでしょうか31脈浮にして大、心下反(かえ)って鞕(かた)く熱有り臟に属する者は之を攻めて汗を發しめず。腑に属する者は溲(しゅう)を数ならしめず、溲数(しゅうさく)なれば則ち大便鞕く、汗多ければ則ち熱愈(まさ)り、汗少ければ則ち便難(かた)し。脈遅は尚(な)ほ未だ攻むべからず。解訳脈が浮いていて大きいのは、邪が表にあるのであるが、心下が反って硬いのは、裏の証であるから、表熱が裏におよんでいるのではないかと思われる。その場合に熱があって臓(陰)に及んでいるものは、治療するのに発汗させてはいけないのである。熱が腑(陽)に及んでいるものは、小便をつけさせてはいけないのである。小便がたびたび出すぎると、下焦の津液が不足をして大便が硬くなるし、発汗が多過ぎると、熱はひどく出てくる。発汗が少ないと裏の熱が内にこもってしまうので、便が思うように出にくくなってしまう。脈の遅の問はまだ積極的に治療してはいけないのである。それはまだ裏が實して来ないからである。 32.脈浮にして洪(こう)、身(しん)汗油(かんあぶら)の如く、喘(ぜん)して休まず、水漿(すいしょう)下(くだ)らず體形不仁、乍(たちまち)ち静まり乍ち乱るるは此れを命絶と為す也。解訳 脈が浮いて力のあるたっぷりとした状態を現わしている場合で、全身から汗が油のようにべっとりと出て、ひっきりなしにゼイゼイして酸味のものが、飲み易いのではないでしょうか、即ち飲み物も咽喉を通らず、身体の様子が不自由で安静にするかと思うと、急に苦しがったりするものは、生命が絶えようとしているのである。 33又未だ何れの藏(ぞう)先(まず)づ其の災(さい)を受くるかを知らざるも、若し汗出で髪潤い、喘休まざる者は、此れ肺先に絶すると為す也解訳 また何の臓が一番最初に病災を受けるかわからないが、もしその場合に、特に頭から汗が出る様子が、髪がうるおうほどひどく、ゼイゼイとひっきりなしにする者は、肺の気がまず絶えようとしているのである。 34.陽反って獨(ひと)り留まり、形體煙熏(けいたいえんくん)の如く、直視(じきし)揺頭(ようとう)するは此れ心絶(しんぜつ)也。解訳 陽気だけが残っているために、体の様子が煙でいぶしたように、赤黒くなって、目がすわって眼球が動かず、頭がゆれうごくものは心の気が絶えようとしているのである。 35.脣吻(しんふん)反(かえ)って青く、四肢漐習(ちつしゅう)する者は此れ肝絶と為す也。解訳 口のまわりが赤味がなくなって、青く見え、手足が縮まってふるえるようになるものは、肝の働きが絶えようとしているのでる。 36・環口黧(かんこうり)黒(こく)、柔(じゅう)汗(かん)發黄(はつおう)する者は此れを脾絶すると為す也。解訳 口のまわりがムラのある青黒い色をして、かすかに汗をかいて身体が黄色くなるものは、脾の働き、(気)が絶えようとしているのである。 37.溲便(しょうべん)遺失(いしつ)し、狂言目(きょうげんもく)反(はん)、直視(じきし)する者は此れを腎絶するとなす也。解訳 小便や大便をたれ流しになって、わけのわからないことを口ばしり、目がつり上がって、眼球がすわり動かないものは、腎の働きが絶えようとしているのである。 38.又未だ何れの藏(ぞう)の陰陽前に絶するやを知らざれども、若し陽氣前に絶し、陰氣後に竭(つ)きたる者は其の人死す、身色必ず青く。陰氣前に絶し、陽氣後より竭(つ)きたる者は其の人死す。身(しん)色(しょく)必ず赤く腋下溫(えきかおん)に、心(しん)下(か)熱する也。解訳 またまだ何の臓の陰陽の気がまず絶えるということがわからないが。もし陽気が先に絶して、陰気が後からつきてしまう人は、死ぬのであるが、身体の色は必ず青い。陰は寒さを主どり、身色の青は陰がまだ身をはなれていないのである。陰気が先に絶て、陽気が後からつきてしまう人は死ぬのであるが、身体の色は必ず赤くて、わきの下が温かく、心下のあたりが熱するのである。陽気は熱で赤いから、陽気がまた身体をはなれていないのである。39.寸口の脈浮大にして醫(い)反って之を下す、此れを大逆(たいぎゃく)と為す。浮を則ち血無く、大を則ち寒と為し。寒氣相搏(あいう)てば則ち腸鳴(ちょうめい)を為す。醫乃(すなわち)ち知らずして反って冷水を飮ませ、汗をして大いに出ださしむ。水を得れば寒氣冷必ず相搏ち、其の人即噎(そくい)す。解訳 寸口の脈が浮いて大きいのは、病が表に在るから、普通の場合発汗をすべきであるのに、医があべこべに下してしまった。この治療を大きな逆治とするのである。この場合の浮大の浮を下すと、亡血をするようになるし、大の脈は、寒邪が裏に生ずるのである。その寒と血がなくて気が多くなっている気とがおたがいにあつまってくると、腸鳴(寒邪が裏の虚によって入る)を起こすのである。医はそれでもなお理解出来ないで、下した後で冷めたい水を飲ませ(下したためにのどが喝いて)脈が浮であるから大変汗が出た。冷水のために更に寒を得て、この両者が相搏って、中焦の気がとどこおってむせるようになるのである。 40.趺(ふ)陽(よう)の脈浮、浮(ふ)は則ち虚と為す。浮虚相搏つ故に、氣をして噎(い)せしむ。胃氣虚竭(けつ)を言う也。脈滑(かつ)なれば則ち噦(えつ)を為す。此れを醫の咎(とが)と為す。虚を責めて實に取り空を守り血に迫り。脈浮、鼻(び)中燥(ちゅうかわ)く者は必ず衂(じく)する也。解釈 趺陽の脈が浮いている 。 この浮は胃の虚の現われである。 胃の虚が浮いてくる場合には、気がむせるようになるのである。これは胃の気が虚して少なくなっているからである。趺陽の脈が滑(くりくりとしたかたい脈)である場合には、シャックリを起こすのである。これは医者のあやまちであって、虚と實を間違えてしまったためである。脈が滑で浮、更に鼻の中がかわくものは、必ず鼻血が出るのである 。噎(い)も噦(えつ)も衂(じゆつ)血(けつ)も気の上衝によるものものであるから、これらの違いをいっているのではないだろう か。 41諸脈浮数なれば當に發熱して、灑淅(さいせき)悪寒すべし、若(も)し痛む處あって飮食常の如き者は畜積して膿(のう)有る也 。 解訳 色々の場合に脈が浮数であるものは、当然熱が出てそしてゾーッと悪寒するはずである。 も しその場合にズキンズキンと痛いところがあるにかかわらず食欲に変のないものは、 邪熱が経路の間にうっ積して膿を持っているのである。 42脈浮にして遅、面(めん)熱赤(ねつせき)して戦惕(せんてき)する者、六七日してに汗出いでて解すべし。反って發熱する者は差(い)ゆること遅し 。遅(ち)は陽無しとなす。汗を作(な)す能はず、其の必ず痒き也 。 解訳 脈が浮いておそいもので、顔が赤くほてってふるえるものは、六・七日たって(伝経をめぐりつくした時に)当然汗が出て治るである。ところが解するはずなのが反って発熱する者は、治ることがおそいのである。脈の遅は、陽気が少ないからである。そのために汗を出すことが出来ないから病人のか らだがかゆくなるのである。 43寸(すん)口(こう)の脈陰陽倶(みゃくいんようとも)に緊(きん)なる者は、法當(ほうまさ)に清(せい)邪(じゃ)上(じょう)焦(しょう)に中(あた)り、濁(だく)邪(じゃ)下焦に中(あた)るべし。 清(せい)邪(じゃ)上(かみ)に中るを名づけて潔(けつ)と曰う也。濁(だく)邪下(じゃしも)に中れば名づけて渾(こん)と曰う也。陰、邪に中れば必ず内慄(ないりつ)する也。表氣(ひょうき)微(び)虚(きょ)、裏(り)氣守らず、故に邪をして陰に中(あた)らしむる也 、陽、邪に中れば 必ず發熱頭痛、項強頚攣(こうごうけいれん)、腰痛(ようつう)脛(けい)酸(さん)す。陽、霧(む)露(ろ)の氣に中(あ)てられて為す所、故に清(せい)邪上(やかみ)に中(あた)ると曰う。濁(だく)邪下(じゃしも)に中(あた)れば陰氣(いんき)慄(りつ)を為し、足膝(そくしつ)逆冷(ぎゃくれい)便溺(べんにょう)妄(みだ)りに出(い)ず。 表氣(ひょうり)微虚(びきょ)し、裏氣(りき)微急(びきゅう)し三焦相溷(さんしょうあいこん)ずれば内外通ぜず、上焦怫鬱(ふつうつ)すれば藏氣相熏(くん)じ、 口(こう)燗(らん)食齗(しょくぎん)する也。中(ちゅう)焦(しょう)治(おさ)まらんずれば胃氣上衝(じょうしょう)し、脾氣轉(てん)ぜず、胃中濁(だく)を為し、榮衛通ぜず、血凝(ちごこ)りて流れず。若(も)し衛氣前(さき)に通ずる者は小便赤(せき)黄(おう) 、熱と相搏ち 、熱に因(よ)り經絡に遊び、藏腑に出入(しつにゅう)せしむることを作(な)す。熱氣の過(すぐ)ぐる所は則ち癰(よう)膿(のう)を為す、若し陰氣前(さき)に通ずる者は陽氣厥して微、陰、客氣(かっき)をして内(うち)に入(い)らしむる所無く、嚔(てい)して之を出(い)だし、 聲嗢(こえむせ)び咽(のど)塞(ふさ)がる。寒厥(かんけつ)相逐(あいお)いて、熱のためにて擁(よう)せらるる所、血(ち)凝(ご)って自から下ること状(かたち)豚(とん)肝(かん)の如し 。陰陽倶(とも)に厥(けつ)すれば脾氣弧弱(こじゃく)、五(ご)液注(えきちゅう)下(げ)す。下(げ)焦(しょう)闔(とざ)せざれば、清便(せいべん)下重(げじゅう)し、便をして数難(しばしなん)ならしめ、臍築湫(さいちくしゅう)として痛み 、命まさに全うし難し。解訳 寸口の脈(全体の脈をいっているのではないか)陰脈も陽脈も緊であるものは、法則として清邪(陽邪即ち霧露の気をいう)が上焦むろにあたり、濁邪(寒邪即ち湿の気をいう)が下焦を侵したことよって生ずる脈である。清邪が上焦を侵すことを名づけで潔というのけつである。濁邪が下焦を侵すことを名づけて渾というのである。陰が虚して邪にあてられた場合には、必ず身体内がゾーッとするのである。表気(衛きは外を守る気で陽気である。)が少しく虚して、裏の気だけでは身体を守りきれないために、邪が陰に侵されてしまうのである。陽の部が邪にあてられた場合には、必ず発熱したり頭痛したり、腰が痛んだり、すねがしびれたりするのである。これは陽部(大陽経)が霧露の気むろ即ち清邪に侵されてなったのであるから、清邪が上焦に中るというのである。濁邪が下焦を侵すようになると、身体の内部の方がゾーッとしてふるえるようになり、足や膝が冷えて来て、大小便がやたらに出るようになり、表気が少しく虚してくると、裏の気が少しくつまるようになり、三焦をうごかす気がこんがらがってわからなくなって、内と外との気の通りが悪くなってしまう。その場合に上焦の気がふさがりこもってしまうと、臓の気がおたがいに燻じ合って、口がただれ、歯ぐきが潰瘍を起してしまう。くんかいよう中焦の気が安定しないと、胃の気が上衝してしまう。それは脾の気が胃の気をうまく転ずることが出来ないためである。そのために胃の中に穀気に濁を生じてしまい営気も衛気もとおらなくなってしまう。そのために血がこごって、流れが悪くなってしまう。そういう場合に、もし衛気だけが先に通ずると、小便の色が赤黄くなり、衛気と邪熱と相傅て、熱のために營衛の気が順当な道を歩まなくなってしまうのである。そして熱が多すぎたところがあると、そこに膿をもった腫れ物が出来るようになってしまう。もしも陰気がさきに通ずるものは、陽気が少なく、かすかになってしまうために、陰気が動くことが出来ないで、外から入って来た邪気が、内部に入ってくると、クシャミが出て邪気を逐いだし、そのために声がよく出ずに、咽喉がふさがったようになってしまう。陰気による寒と陽気不足による厥とが、たがいに合併して邪熱のためにさえぎられている。にごっている血が、自然に下血して、その状態が豚の肝臓のような血を下すのである。そして陰陽の気がともに少なくなって、脾臓の働きだけが弧立してしまい。五臓が(相生じたり相剋しなくなってしまう)正常な働きをしなくなってしまう。そのために五臓から生産される臓液がしまりがなくなって、正常に使われなくなってしまう。下焦の働きがしまりがなくなってしまうと、下痢便をしたり、しぶり便をしたり、便が思うように出にくくなり、臍が圧迫されるように痛み、生命を維持するのが難しくなってしまうのであります。 44脈陰陽倶(みゃくいんようとも)に緊(きん)の者、口中(こうちゅう)より氣出で、唇(しん)口(こう)乾燥(かんそう)し、踡臥(けんが)足冷(そくれい)し、鼻中(びちゅう)より涕(てい)出(いで)で舌上の胎(たい)滑(なめ)かなるは妄(みだ)りに治(ぢ)する勿(なか)れ也。七日已來(いらい)に到(いた)りて、其の人微(び)に發熱し、手足溫(あたた)かなる者は此れ解せんと欲すると為す。或は八日已上に到りて、反って大いに發熱する者は此れ治し難(がた)しと為す。設(も)し悪寒せしむる者は必ず嘔せんと欲する也。腹内(ふくない)痛(いた)む者は必ず利せんと欲する也。 解訳 脈が寸口。尺中、とも緊である者でハアハアと息だけをはき出したり、口びるや歯ぐきがかわいてつらく、身体をまるくかがめて横になり、手足も冷めたく、鼻から水鼻を出しており、舌を見ると苔が出来ていて、べっとりとなめらかであるものは、やたらに手を出さないで様子を見なさい。このような症状が起きてから、七日までの間に病人がすこしく発熱して、手足が温かくなって来たものは、陽気が徐々にかえってくるから治ろうとしているのである。或は、八日もつづいてから反って、うんと発熱する者は、陰気が弱ってくるために、熱が出てくるのであるから、治りにくいのである。もし七日までの間に悪寒のする者は、必ず嘔気が出てくるのである、腹が痛むものは必ず下痢をする前兆である。脈陰陽倶に緊にして、吐利に至れば其の脈獨り解せざるも、緊去り安きに入る此れ解せんと欲すと為す。 45脈陰陽倶(みゃくいんようとも)に緊(きん)にして、吐(と)利(り)に至れば其の脈獨(みゃくひとり)り解(げ)せざるも、緊(きん)去(さ)り安(やす)きに入る此れ解せんと欲すと為す。若(も)し脈遅(みゃくち)、六七日に至りて食(しょく)を欲せざるは此れ晩發(ばんはつ)と為す。水停(とど)まるが故也。未(いま)だ解(げ)せずと為す。食(しょく)自(みずか)ら可(か)なる者は解せんと欲すると為す。解訳 脈が陰陽ともに緊であって、吐いたり下ったりしている状態がよくなったが、脈だけがなおらなくても緊(寒)が吐痢によってとれると、病人は安静になって落ちつくのであるが、こういう状態になったのは、治ろうとしているのである。もしも吐いたり下ったりして脈が遅で、六、七日にもなって、食べたがらないのは、これは後から発した病である。水が脾胃の虚によって停滞しているからである。こういうものは、まだなおろうとしていないのである。食事が自然と食べられるようになったものは、治ろうとしているのである。これは脾胃の働きが和して来たのである。 46病んで六七日、手足(てあし)三部(さんぶ)の脈(みゃく)皆至(みんないた)り、大いに煩(はん)して、口噤言う能わず、其の人躁擾(そうじょう)する者は必ず(かならず)解(げ)せんと欲する也。解訳 発病して六七日たって、手足の三部の脈が皆出て来て、(脈のはっきりしていなかったところも、はっきりして来たということであろう)大変に苦しがり、歯ぎしりをして言うことができず、もがくようなものは、必ずなおろうとしているのである。 47若(も)し脈和し、其の人大いに煩(はん)し、目重く険(けん)の内際(ないさい)黄(き)なる者は、此(こ)れも解せんと欲すると為す也。解訳 もし三部の脈が和して、病人が大変苦しがって目が開けられず、まぶたの内側のふちが黄色く見えるものは、これもなおろうとしているのである。胃の気が実して来た証拠である。前46条47条は陽気がいっぺんに復してくる時に現わす状態であると思われる。 48脈浮にして数、浮(ふ)は風(ふう)と為し、数は虚と為す。風は熱を為し、虚は寒を為す。風虚相搏(う)てば則ち灑淅(さいせき)悪寒する也。解訳 脈が浮いていて速い場合に、浮の脈は風が原因であり、数の脈は虚が原因である。表に風が当ると熱を発するのであり、虚するということは、寒を生ずるのである。したがって、この虚は表の陽虚であるといえる。熱を生ずる風と、表の虚が相あつまるとゾーッと悪寒するのである。
2021.08.16
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睡眠の問診睡眠の異常は不眠と嗜眠に大別される。 不眠不眠には寝つきが悪い・目が覚めやすい・熟眠できない等のタイプがある。弁別すると下記のようになる。陰虚火旺熱感があって全く眠れない脾虚陽虚寝つきが悪く、朝に目が覚めにくい上焦熱夜中によく目が覚める(中途覚醒)腎虚朝早く目が覚める。老人に多いタイプ心血虚・肝血虚眠りが浅く、夢をよくみて動悸を伴う心腎不交重症の不眠で腎虚の症状を伴う上記記載は藤本先生が古典では時間的な制限の中では、説明しにくいと考えられたために、中医的な表現をされたものだと思います。まず頭に血虚がない人はすぐに眠れます。 胸と頭の熱がある事が不眠になる基本的な要因です。肝・腎・脾の虚があって心・心包に熱になります。心・心包の熱が原因で脳の熱になるのです。不眠の裏側には鬱があります。 脾胃がつよければ汗で外に出します。胃が弱いと逆上せ(ノボセ)になります。七情は気滞につながります。虚のレベルだとなんとなく眠れます。勞まで行くと昼と夜が逆転し、安定剤がないと眠れなくなります。体質と症状が起こった歴史を考えて治療方法を考えて行きます。 恐れが原因の場合腎の安定劑 竜骨牡蠣を使います。勞が入れば亀鹿二仙廣を併用します。勞のレベルを改善し、虚のレベルまで持っていく過程を取ります。 イライラの場合肝に原因があります。脳の熱を肝に引っ張ってくるのが酸棗仁です。内因として陰虚火旺 頭痛にならないと不眠になって行きます。急性期―発散すると治ります。慢性期—石の薬を選びます。 心腎不交 重症=勞です。 嗜眠疲労倦怠感を伴って、日中でも知らぬまに寝入ってしまう傾向のものをいう。 脾氣下陥食後に眠くなり、疲労感、食欲減退、無気力陽虚常に眠く、目を閉じるとすぐに眠り、呼ぶとすぐに目が覚める熱盛脳障害を起こした時に現れる
2021.08.13
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臭いによる聞診 身体から発する臭いや排泄物・分泌物の臭いによって弁別する方法である。 臭いは体が現しているサインです。臭いが出ている仕組みから考えないと本当の理解は出来ません。病理學に蔵象を入れて考えます。心熱があって肺に回って発散が悪いと体臭になります。つまり体臭には必ず心熱があるという事です。心熱には裏側に腎がかかわります。牛黄は心熱を取ります。黒人は体質的に腎と心に熱がありますので、必然的に体臭がきつくなります。日本人に多い脾虚体質では黄芩と黄連が必要で、ファーストチョイスは半夏瀉心湯で、他には三物黄芩湯・黄連解毒湯の場合もあります。肝虚心熱だと黄連解毒湯を選ぶことになります。勿論、牛黄でもよいです。加齢臭の治療を考えるときには心熱を取り、原因が肝臓からなのか、腎臓なのを加味して処方を決めるという事になります。便秘の方では便秘治療が加齢臭予防につながります。慢性の便秘は体臭につながるのです。小便臭い老人が多いと思いますが、治療にはまず急性期をやります。十薬(ドクダミ)と八味丸をプラスし、腎虚に対応するという具合です。 五臓体臭になるポイント五香臭いが現す臟の異常肝必ず心包に熱を持っている事が原因です。臊(そう)あぶら臭い体臭がある人は肝虚証心焦体臭が焦げ臭い人は、心臓に熱がある脾香香ばしい体臭の人は脾虚である肺腥生臭い体臭の人は、肺に熱がある腎腐くされ臭い人は、腎虚証である (1)体臭後世方では体臭を五行の「五香」に配当して、臓腑経絡の異常を判定する指針としている。(2)排泄物・分泌物の臭い喀痰・膿痰・二便に強い悪臭があるのは「湿熱、熱盛」の場合が多い。少し生臭いく、強く臭わないのは「虚寒」の場合が多い。
2021.08.09
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臓腑経絡と疾病『金匱要略』の「臓腑経絡先後病」第2条に「人は天より仁義礼智信の五常を授かって、肝心脾肺腎の五臓の働きを維持し、温涼燥湿の変化によって生長するのであるが、この自然の気候というものは、よく万物を生長させると同時に、また一方悪い時には万物を害するものである。これは丁度、水かよく舟を浮かべ、またよく舟を転覆させるようなものである。五行の相生、相剋がつつがなく行われていれば、人は安和であるが、客気か邪気に中られれば、人は多く死するものである。あらゆる病み患いの災難もつなるところは、次の3条を超える事はないのである。第一は経絡に邪を受け臓腑に入る。これは内によるところから来るのである。第二は四肢九竅に邪を受け、血脈に伝え壅塞して通じなくなる。これは外皮膚に入るところから起こるのである。第三は房室や毒虫、野生の獣によって傷つけられるところから生じる。もし人よく用心して邪風に侵されないようにし、それでも経絡に中ったならば、また他に移り拡がらないうちに直ちに手当を加えて治してしまいなさい。 手足が少しでも重く怠いと思ったら即座に運動したり、深呼吸をしたり、針や灸をしたり、揉み和らげたり、よくさすったりして、目や耳や鼻や口や皮膚に、その障りが及ばないようにし、また大小便の出が悪くならないようにしさない。更に、その時に陰陽の氣を大切にして、無茶なことはせず、禽獣や災傷は充分に注意して、その害をこうむらないようにし、房室は欲にまかせて精を使い果たさないように慎み、衣服はその寒温に適して加減し、暑いからといって急いで脱いだり、寒いからと言ってにわかに厚着をすることなく、飲食は渇にまかせてやたらに飲み、空腹に乗じて大食することなく、好きに任せて苦辛酸甘鹹の味を偏取することなく、身体に無理を与えなければ、病邪がこれをうかがうとも、皮膚や臓腑に入る手掛かりはないであろう。 大体、病の寄って来る原因を知る事が出来れば、必ず病の在る處を知る事が出来る。在る處を知れば、治は施しやすいものである。更に病の生じる所をしれば、7つの情を得易し、その情を得れば、治を行うに便多しと言っている。
2021.08.09
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弁脈法第一1.問ふて曰く、脈に陰陽の者有りとは何の謂(い)いぞや。答えて曰く、凡(およ)そ脈の、大浮数動滑(だいうきさくどうかつ)は、此(こ)れを陽と名づくる也。脈の、沉濇弱弦微(ちんしょくじゃくげんび)は、此れを陰と名づくる也(なり)。凡そ陰病に陽脈を見わす者は生き、陽病に陰脈を見わす者は死す。 解訳 脈によって病理を理解し区別する第一章おたずね致しますが、脈に陰と陽との者がありますが、これは何のことですか。答えていわれるのには、一般に脈が大きい脈、浮いている脈、速い脈、動じている脈、クリクリしている脈(滑脈)これを陽脈と名づけるのである。脈の打って来ようが沈んでいる脈、しぶっている脈、弱い脈、弓のつるのように張っている脈、かすかな脈、これらの脈を陰脈と名づけるのである。一般に陰病(病邪が陰の部位にある場合をいう)であるものが、陽脈(大浮数動滑)を現わしたものは、助かるし、陽病(病邪が陽の部位にある場合)であるものが陰脈(沈濇・弱をいう)であるものが、陽脈(大浮数動滑)を現わしたものは、助かるし、陽病(病邪が陽の部位にある場合)であるものが陰脈(沈濇(ちんしょく)・弱(じゃく)・弦(げん)・微(び))を現わしたものは、死ぬのである(危険である)。※世の中全て陰陽の2大原則があります。気が血より多いと、早く大きい脈となります。(陽脈)血が気が多いと、陰脈になります。 2.問ふて曰く、脈に陽結陰結の者有りと。何を以て之を別たん。答えて曰く、其の脈浮にして数、能(よ)く食し大便せざる者は此れを實と為し名づけて陽結(ようけつ)と曰う也、十七日を期(き)として當に劇(はげ)しかるべし。解訳 おたずね致しますが、脈に陽結(ようけつ)(陽がむすぼれる)と陰結(いんけつ)(陰がむすぼれる)という者がありますが、どういうことで区別するのでしょうか。答えていわれるには、病人の脈が浮いていて(病は表にある)はやく(熱より来る)食欲があって、便秘の者を、実しているとする。これを名づけて陽結という。十七日目にあたって病状が激しくなるはずである。病人の脈が沈んで(病は裏にある)いて、おそくて(寒から来ている) 食欲がなく、体が重くだるいのに大便は反って出にくいものを名づけて陰結という。この場合は十四日目になると、病状が激しくなるはずである。この条文によって脈と証とを分けているのではないかと思う。 3.問ふて曰く、病に灑淅(さいせき)悪寒(おかん)して復(また)た發熱する者有り、何ぞや。答えて曰く、陰脈不足すれば陽往きて之に従い、陽脈不足すれば陰往(いんゆ)きて之に乗ず。曰く何をか陽不足と謂う。答えて曰く、たとえば寸口の脈微を、名づけて陽不足と曰う。陰氣上って陽中に入れば則ち灑淅悪寒する也。曰く何をか陰不足と謂う。答えて曰く、たとえば尺脈弱なれば、名づけて陰不足と曰う。陽氣下陷(ようきげかん)して陰中に入れば則ち發熱する也。 解訳 おたずね致しますが、病状に水をかぶされたようにゾクゾク悪寒がして、また発熱するものがありますが、何んでしょうか。答えていわれるのには、陰脈(尺中の脈)が不足すると、身体の内部の陰気が少なくなって、陽気(熱)が陰気(寒)の中に入り込んで行くのである。陽脈が(寸口の脈)不足すると、陰気(寒)が陽気(熱)の中に入り込んで行くのである。いわれるには、何を陽不足というのでしょうか。たとえば、寸口の脈が微(かす)かであるものを、陽気の不足と名づけるのである。陽気が不足をすると、陰気が上にのぼって来て、陽の中に入るから水をかぶったように、ゾクゾクと寒気がするのである。いわく何を陰不足というのでしょう。答えていわれるには、尺脈が弱いのは、陰気が不足と名づけるのである。陽気が下の方に落ちこんで、陰の中に入るから発熱するのである。 4.陽脈浮、陰脈弱なる者は則ち血虚す、血虚すれば則ち筋急(きんきゅう)也。解訳 寸口の脈が浮いて、尺中の脈が弱いものは、血が虚している(陰は血であり、弱は栄気が弱い)血虚すると経路をうるおすことが出来ない。筋肉は血の養いを受けているので、従って血が虚してしまうと、筋肉が攣急することになるのである。陽脈だけが浮いて陰脈が弱い者は血虚。結脈の原因は胃が多く、促脉の原因は肺が多い。 5.其の脈沉なる者は榮氣微也(えいきびなり)。解訳 病人の脈が沈んでいるものは、栄気がかすんである。栄気とは血を指す。内経に曰く脈沈の者は血の府なり。脈実すれば則ち血実し、脈虚すれば、則ち血虚するなり。 6其の脈浮にして汗出ずること流(りゅう)珠(しゅ)の如き者は衛氣衰(えきおとろ)うる也。解訳 病人の脈が浮いて、汗の出ようが水滴を流すような状態のもは、衛気が衰えているのである。衛気とは気を指す、外を守る気であるから、皮膚がゆるんで開いてしまうから、汗出ずること流珠のようになるのである。 7榮氣(えいき)微なる者に焼(しょう)針(しん)を加うれば則ち血流行かず、更に發熱して躁煩(そうはん)する也。解訳 栄即ち血がかすかなものに、(血のめぐりの悪いものに)焼針を加えて陽を補なうと、陰がいためつけられて、ますます血がめぐらなくなりそのために発熱してもだえ苦しむようになってしまう。 8脈(みゃく)藹藹(あいあい)として車(しゃ)蓋(がい)の如き者を名づけて陽結と曰う也。解訳 脈がこんもりとして、車のおおいのようなものを名づけて陽結(実脈)というのである。9脈(みゃく)累累(るいるい)として長竿(ちょうかん)を循(な)ずるが如き者を名づけて陰結と曰う也。解訳 脈が糸の節のようで長い、竿をなでるような感じのする脈を、陰結というのである。 10脈瞥瞥(みゃくべつべつ)として羹上(こうじょう)の肥えたるが如き者は陽氣微也。解訳 脈の打って来ようが、べたべたしたような感じで、にこごりの上を(寒天の上を)さわったようにブヨブヨとした感じのものは、陽気が微かなのである。11脈(みゃく)榮(えい)榮(えい)として蜘蛛(ちしゅ)糸(し)の如き者は陽氣(ようき)衰(おとろ)うる也解訳 脈が細い微かな感じで、丁度くもの糸をさわるように吸いつくようになるものは、陽気が衰えているのである。 12脈綿綿として瀉(しゃ)漆(しつ)の絶するが如き者は其の血を亡ぼす也。解訳 脈の打って来ようが長く、つづいているようで、うるしをたらした後で、スウーと切れるようになる脈は、貧血をしているのである。 13脈(みゃく)来(きた)ること緩(かん)、時に一止(いっし)し復(また)た来る者を名づけて結と日い、来ること数(さく)、時一止し復来たる者を名づけて促と曰う。脈陽盛んなれば則ち促、陰盛んなれば則ち結、此れ皆病脈(びょうみゃく)。解訳 脈の打って来ようが、ゆるやかで、時々一回止まって、また打って来るものを名づけて結の脈と言う。脈の打って来ようが速くけつて、時々一回止まって、また打って来るものを名づけて促の脈と言う。脈が病的に盛んであると促脈を現わしますし、陰が病的に盛んであると結脈を現わします。この二つの脈は、病的な脈であって、正常な脈ではありません。 14陰陽相搏つ名づけて動と曰う。陽動(ようどう)ずれば則ち汗出で、陰(いん)動(どう)ずれば則ち發熱す。形冷えて悪寒する者は、此れ三焦傷るる也。解訳 陰気と陽気とが相たがいにぶつかり、脈に変化を生じたものを、動の脈というのである。その場合に陽の方が動ずる(陽虚)と汗が出る。陰の方が動ずる(陰虚)と発熱するのである。その病人の様子が総毛立つような状態で、汗も発熱もなく、寒けのするものは、三焦の気がやぶられているのである。 15若し(もし)数脈(さくみゃく)関上(かんじょう)に見(あら)われて、上下に頭(とう)尾(び)無く、豆大(ずだい)の如くにして厥厥(けつけつ)と動搖する者は名づけて動と曰う也。解釈 もしもその時に、速い脈が、特に関上にいちじるしく現われていて、寸口尺中がはっきりせずに、丁度豆の大きさのようにくりくりと動くものを名づけて動の脈というのである(陰陽の気が相搏つのである)。 16陽脈浮(ふ)大(だい)にして濡(じゅ)、陰脈浮大にして濡、陰脈と陽脈と同等なる者を名づけて緩(かん)と曰う也。 解訳 寸口の脈が浮いていて大きく、そしてやわらかく、尺中の脈も浮いて大きく、そしてやわらかい、陰脈と陽脈と脈の打ちかたが同じものを名づけて、緩の脈というのである。 17脈(みゃく)浮(うき)にして緊(きん)なる者を名づけて弦(げん)と曰う也。弦(げん)なる者は状(かた)ち弓(きゅう)弦(げん)の如く之を按じて移(うつ)らざる也。脈緊(みゃくきん)なる者は轉索(てんさく)の如く常(つねに)無(な)き也。解訳 脈が浮いていて、緊であるものを名づけて弦の脈というのでる。弦の脈はその状態が弓のつるのようで、押して見ても左右に移動しないのである。緊の脈は太いつなをころがしたように一定せずどちらでもうごくのである。 18脈(みゃく)弦(げん)にして大、弦(げん)は則ち減と為し、大(だい)は則ち芤(こう)と為す、減は則ち寒と為し、芤は則ち虚と為す、寒虚相搏つを、此れを名づけて革と為す、婦人は則ち半産(はんざん)漏下(ろうげ)し男子は則ち亡血失(ぼうけつしっ)精(せい)す。解訳 脈の打ちかたが弦(弓の弦のよう)で大きく(ふといという意味がある)弦の脈は陽気が減っているとするのである。大の脈は芤(こう)といっこうて、ねぎの葉、青い所のように、押すとつぶれてしまう、すなわちうつろであるとするのである。陽気が減であると寒を生ずるし、芤は血虚である。この血虚と陽虚から生じた寒とが、おたがこういにぶつかり争そうと、革(かく)の脈を生ずるのである。この革の脈をかくかく現わした場合に、婦人であると流産とか、おりもの、下血を生ずるし、男子であれば、貧血して精を失ってしまう(遺失するのである) 19条治り方で汗をかいて震が来て治る 浮で緊→冷えている 虚している 浮で數→熱がある 虚していない19. 問ふて曰く、病に戦(せん)して汗出で因(よ)って解(げ)を得る者有り、何ぞや答えて曰く、脈浮にして緊、之(これ)を按(あん)ずれば反って芤、此れ本(もと)と虚すると為す。故にまさに戦して汗出づべき也、其の人本(もと)と虚す、是を以て戦を發す。脈浮なるを以て故に、當に汗出でて解すべき也。若し脈浮にして数、之を按じて芤ならざるば、此の人本虚せず。若し自ら解せんと欲すれば、ただ汗出ずるのみ、戦を發せざる也。 解訳 おたずねいたしますが、病状にふるえが来て、更に汗が出て、それによって解するものがありますが、どういうわけでしょうか。答えていわれるのには、病人の脈が浮いていて緊(しまっている)であり、脈を押して見ると、返って芤(虚の脈)脈であるのは、もとこの人は虚しているからで、当然ふるえが来て、汗が出るのである。その病人が元来虚して(身体が衰弱しているの意)いるから、ふるえを発し、脈が浮いているから、病が体表にあるので当然汗が出て解するのである。もしも脈が浮いていて速く、脈を押して見ると空洞になっていないから(虚していないからの意)もしも自然に治ろうとするならば、ただ汗が出るだけである。20問ふて曰く、病に、戦(せん)せずして汗出で解する者有り何ぞや、答えて曰く脈大にして浮数(ふさく)、故に戦せず汗出でて解するを知る也。解訳 おたずねいたしますが、病状がふるえを発せずに、汗が出て解する病人がありますが、どういうわけでしょうか。答えて言われるのには、病人の脈が大きくて浮いて速いので(実していて病邪の熱が表にあることを意味する)ふるえを起こさずに汗が出て、解するのである。 21問ふて曰く、病に戦せず汗出でずして解する者有り何ぞや、答えて曰く、其の脈自ら微、此れ曽(かつ)て、發汗、若しくは吐(と)、若しくは下、若しくは亡血を經(へ)るに以て、内に津液無きを以て、此れは陰陽自から和し、必ず自ら愈ゆ、故に戦(せん)せず汗出でずして解する也。解訳 おたずねいたしますが、病状がふるいを起こさず、汗も出ないで解する病人がありますが、どういうわけでしょうか。答えていわれるのには、病人の脈は自然におちついて、かすかになっている。これは、これより以前に発汗をさせたか、或は下して熱をとったか、或は下しをかけたかの治療を経過して、こうして貧血(亡血とあるが血の熱がとれたという意味に解訳してよいのではないかと思う)し、体内の津液、すなわち体液が少なくなったのであるが、これは身体の陰陽が調和すれば、自然になおるのである。だからふるえも起こさず、汗も出ないで解するのである。 22問ふて曰く、傷寒三日、脈浮数にして微、病人身涼和する者は何ぞや。答えて曰く、此れ解せんと欲すると為す也。解するに夜半を以てすべし。脈浮にして解する者は、濈(しゅう)然(ぜん)と汗出ずる也。脈数にして解する者は必ず能(よ)く食する也。脈微にして解する者は必ず大いに汗出ずる也。解訳 おたずねいたしますが、傷寒にかかって、すなわち発病してから三日目に、病人の脈が浮いて速く、そしてかすかになって、身体がさっぱりとして気分がよくなったものは、どういうわけでしょうか(脈浮数而微は、病邪自身がおとろえて来ていることを言っている)。答えていわれるのには、これは解(治)そうとしているのである。解するのに、夜中にその力がはたらくのである。脈の浮が最後まで残って、解する病人は、やんわりと汗をかいて治るのである。脈の数が最後まで残って治るのは、必ずよく食べるのである(これは胃に熱を持ってくるからである)脈の微があとまで残って解する病人は、必ずうんと汗をかいて治るのである(これは大量の体液が表に停滞をしていたために、脈が微になっていたと思われる)。23問ふて曰く、病を脈(みゃく)し愈(い)ゆると未だ愈えざるとを知らんと欲す者、何を以てか之を別たん。答えて曰く、寸口関上尺中の三處、の大小浮沉(うきちん)遅数同等なれば、寒熱解せざる者有りと雖(いえど)も、此れ脈の陰陽和平を為す、劇しと雖も當に愈ゆべし。 解訳 おたずねいたしますが、病状を診て治るものと、まだ治らないものとを知ろうとしたいならば、どうゆうことで区別したらよろしいでしょうか。答えていわれるのには、寸口の脈と、関上の脈と、尺中の脈の三つが、大きい脈でも、小さい脈でも、浮でも沉でも、遅でも、数でも同じような脈を現わしていたなら、悪寒とか発熱がたとえ治っていなくても、病人の陰陽は、調和しているのであるから、病状がはげしくても、程なく治るであろう。 24立夏に洪大の脈を得るは是れ其の本位其の人病み身体疼重を苦しむ者は、須(すべから)く其の汗を發すべし。若(も)し明日(みょうにち)身疼(みいた)まず重からざる者は汗を發するを須(もち)いず。若し汗濈濈(しゅうしゅう)と自ら出ずる者は明日便(すなわち)ち解せん。何を以て之を言う。立夏洪大の脈を得るは、是れ其の時の脈故に然(しかり)らしむ也。四時(しじ)此れに倣(なら)え。解訳 立夏は一年を二十四節に分けて、五月の上旬にあたる。いわゆる夏の季節に入るということである。その時期は脈は洪大(あふれる程の大きな脈の事)になるのは、これは本来の健康な脈状である。夏は陽気が外にあるからである。その夏に人が病気をして身体が痛み、重くだるいのに苦しんで洪大の脈を現わしているものは、当然病が表にあるから、発汗してやればよいのである。もし明日になってからだが疼は、うずくの意あり、痛まず重だるくなとういものは(表証がなくなったということである)発汗してはならないのである。そのような場合に汗がしっとりと、自然に出て来るものは、明日になれば当然なおるであろう。どういうわけでこういうことがいえるのであろうか。立夏即ち夏の間は、脈は洪大であるから、痛みがなおっても、脈はもとにならず、洪大の脈をうっているのである。春、土用、秋、冬、も皆これに準じて考えなさい。 25問ふて曰く、凡そ病、何時得て、何時、愈ゆるかを知らんと欲す。答えて曰く、たとえば夜半に病を得れば明日、日中に愈え。日中に病を得れば夜半に愈ゆ。何を以(もっ)て之(これ)を言う。日中に病を得て、夜半に愈ゆる者は、陽は、陰を得れば則ち解するを以て也。夜半病を得て、明日、日中に愈ゆる者は、陰は、陽を得れば則ち解するを以て也。解訳 おたずねしますが、一般に病というものは、一体発病するのはいつなのか、またなおるのはどういう時であるのか、おしえていただきたい。答えていわれるのには、例えば夜中に病邪に侵されると、明日の日中になおるのである。日中に病邪に侵されると、夜中になおるのである。どういう訳でこういうことがいえるのであろうか。日中に発病をして夜半になおるものは、日中は陽が強すぎたために(陽が調和していない)発病したのであるから、夜半の陰が満ちた時になおるのである。夜半に発病して明日の日中になおるものは、夜半は陰気が強過ぎるために(陰が調和していない)発病したのであるから、日中の陽の強いときに、陰陽のバランスがとれて、なおるのである。26寸口脈浮は表に在りと為し、沉は裏に在りと為す。数は腑に在りと為し、遅(ち)は臟(ぞう)に在りと為す。たとえば脈遅(みゃくち)は此れ臟に在りと為(な)す也(なり)。 解訳 寸口の脈が浮いているものは、病が表にあるとするのである。脈が沈んでいるものは、病が裏にあるとするのである。脈が早いものは、病が腑にあるとするのである。脈の遅いのは、病が臓にあるとするのである。例えば脈が遅いものは病邪が臓に入ったとするのである。 27趺陽の脈浮にして濇(じゅう)、少陰の脈經(けい)の如きは其の病脾に在り、法當(ほうまさに)に下利すべし、何を以て之を知る、若し脈浮大の者は氣實血虚する也。今趺陽の脈浮にして濇、故に脾氣不足胃氣虚するを知る也。少陰の脈弦にして浮、纔(わずかに)かに見(あらは)るるを以て、此れを調脈(ちょうみゃく)と為す故(ゆえ)に經(けい)の如しと称(しょう)する也。若(も)し反って滑(かつ)にして数なれば故に當に屎(し)膿(のう)すべきを知る也。解訳 趺陽の脈とは、足の陽明胃経の脈で、胃の気を見るところである。その趺陽の脈が浮いて幅が渋っていて、足の少陰腎経の脈が平常通りにととのっている(足の少陰腎経は大経穴にて、腎の気の状態を見るところである)場合には、病邪は脾臓にある(浮は胃虚、濇は脾の寒脾、胃が虚寒すると穀を消することが出来ない)そういう場合には、当然下痢するはずである。どういうわけでこれを知ることが出来るのであろうか、もし一般に趺陽の脈が浮大のものは、気が實して血が虚弱になっているのである。今趺陽の脈が浮いて濇っているから、脾の気が不足をして、胃の気が虚するということがわかるのである。少陰腎経の脈が弦で浮いている状態をわずかに見われているから、ととのった脈とするのである(腎は肺の子であり肺は浮脈であり、腎は肝の母であり、肝は弦脈であるから、肺、腎、肝は相生の関係にありて、互いに子母相生とする故に、調脈といっている)もし少陰の脈が滑で、数であるのは少陰の経に熱を持っているのであるから、病熱が下焦にあるから、膿のまじった大便をするのである。 28寸口の脈浮にして緊、浮は即ち風と為し、緊は則ち寒と為(な)す。風は則ち衛を傷り寒は則ち榮を傷る。榮衛倶(とも)に病めば、骨節煩疼す、當に其の汗を發す解訳 寸口の脈が浮いて緊張している場合に、浮脈は風に原因がある(風は陽を傷る)。緊脈は寒が原因である(寒は陰を傷る)風は外を守る気の衛気を傷り、寒は栄、血を傷るのである。血と気とが倶に病むと、骨のふしぶしがわずらわしく痛むのである。そういう時には、当然発汗をしてやるべきである。29趺陽の脈遅にして緩、胃氣經(いきけい)の如く也。趺(ふ)陽(よう)の脈浮にして数、浮は則ち胃を傷り数は則ち脾を動(どう)ず。此れ本の病に非ず、醫(い)特(とく)に之を下して為す所也。榮(えい)衛内(えうち)に陷(おちい)り其の数先(さくまず)づ微(び)に、脈反って但だ浮なれば其の人必ず大便鞕く氣噫して除く。何を以て之をいう。本(もと)、数脈脾を動ずるに、其の数先づ微なるを以(もっ)ての、故に脾氣治まらず、大便鞕く、氣噫して除くを知る。今脈(いまみゃく)反(かえ)って浮、其の数微に改り、邪氣獨り留まれば、心中則ち飢ゆ。邪熱穀を殺せず、潮熱發渴。数脈當に遅緩なるべく。脈前後に因り度数法の如ければ、病者則ち飢ゆ。数脈時ならざれば則ち悪瘡を生ずる也。 解訳 足の陽明、胃経の脈が遅くてゆるやかなのは、胃の気が平常の状態であることを示している。ところが趺陽の脈が浮いて速い脈を現わしている場合に、浮の脈は胃が傷られている現われである。数の脈は熱の現われであり、脾を動揺させております。これは普通の場合には、そうなる病気ではないが、医者があやまってみだりに下したために、胃をやぶり脾を動じさせてしまい、内が虚してしまったために、熱気が虚に乗じて、裏に落ちこんでしまいそのために脈の数が微に(かすかに)なって、浮だけになってしまったものは、必ず大便が硬くなって、ゲップが出て、気がのぞかれるのである。今脈の浮だけが残っているのは、胃が傷られている証拠であるし、熱気が裏に入ったために、脈が微になったのであるから胃が虚して、脾に熱を持つと津液が少なくなって、大便が硬くなるのではないでしょうか、また下がつまっているから胃気が上昇して、噫として出て、気がのぞかれるのでしょう。どういうわけでそういえるのでしようか。もともと趺陽の数脈は、脾の気を動ずるのであるから、下したために熱が裏に入ってしまったので、数が微になったのである。だから脾の気が正しい働きをしないから、大便が硬くなって、ゲップが出て気がのぞかれるのである。ところが今趺陽の脈の数が微になって、浮の脈が残っているということは、胃気が傷られて脾に熱を持っているので邪気が胸から胃のあたりにとどまっているために、気持だけがひもじいような感じがするのである。脾胃の正しい熱は食欲を増進させるが、病邪の熱で脾胃にこもると食べ物を消化しない。そして中にとどまった熱のために、潮熱を起こし、のどが乾くのである。数の脈が正常な脈になって、脈のなりゆきが早いかおそいかが法則に合っていれば、胃の働きが落ちついてくるから病人の食欲が出てくる。数脈がとれなければ、内に熱のある証拠であるから悪い出来物を生ずるのである。
2021.07.31
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奔豚氣病脈證治第八師の曰く、病に奔豚有り、吐(と)膿(のう)有り、驚怖有り、火邪有り、此四部の病は皆驚從(きょうよ)り發して之を得。解訳師が曰われるには、病には奔豚という病があり。吐膿によって生ずる病状があり、驚怖により生ずる病があり、火邪の原因にて起きる病がある(奔豚病によく似ているからここでいっている)この四つの病は、皆驚を発するという原因でそうなったのである。 師の曰く、奔豚病は少腹從り起り、上りて咽喉を衝き、發作すれば死せんと欲しすれども復た還り止む。皆驚恐從り之を得。解訳師が曰われるには、奔豚病の症状は気が下腹部から起きて、上焦の方に上がって来て、のどにつき上げてくる。それが発作のように起って死ぬのではないかと思うほどになり、復もとにかえってまた止む。皆おどろき、おそれることによって、病を得たのである。奔豚気病の奔という意味は、走るとか、つっぱしるの意がある。だからブタが無鉄砲に走る意があり驚、恐、悲は腎気をいためつけるから腎気が発動することである。極度の驚恐に、奔豚病を誘発するのである。賁豚氣上衝胸腹痛往來寒熱奔豚湯之を主どる。読み奔豚気上りて胸を衝き、腹痛して往来寒熱するは、奔豚湯之を主どる。解訳奔豚気が上焦につき上げて来て、胸や腹が痛み、悪寒をしたり発熱したり交互に来るものは、奔豚湯が主治します。奔豚気を古方薬嚢のいうところをしらべて見ますと、不意に下腹部からドキドキと気の動きがはじまり、それが上へ突き上げてきて、咽喉にまでおよぼし、発作した時には息がつまって、今にも死ぬかと思う程に苦しむが、またスーッと下へ降りて行って納まる者を謂うとある 汗を發して後、臍下悸する者は、奔豚をなさんと欲す。茯苓桂枝甘草大棗湯之を主どる。解訳発汗後に、臍の下の動悸が激しくなった者、奔豚気を作そうとしているのである。それには茯苓桂枝甘草大棗湯が主治します。古方薬嚢に曰く、臍の下の動悸激しく時々上へつき上げて来て、或は胸中つまるが如く、或は心下部腹部など激しく痛み、或は嘔吐を生じ、或は頭痛したりなどする者である。一番の目標は下腹の動悸である。茯苓桂枝甘草大棗湯の処方茯苓(甘平)八g甘草(甘平)三g 大棗(甘平)五g桂枝(辛温)四g右の四味を甘瀾水400mlをもって煮て80mlを減じ、諸薬を内れて煮120mlとなし、滓を去り温めて40mlを服用する。甘瀾水を造る法、水800mlを取って、それを浅い盆の中に入れて風のよく入るように杓子でよく攪き廻し、充分に空気を吸いか込ませ、小泡を五六千位、無数に生ぜしめたものを取りて用うのである。
2021.07.24
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価値の段階教えて頂いたこと40私たちは生命本来の欲求として、素晴らしく生きて行こうと思っています。しかし、生命の意識の段階が、まだ幼いものは物質的な欲求や肉体的な欲求を満たす生き方をしています。第一次的欲求の段階・・・物質的・肉体的欲求です。動物的・本能的欲求を満たすことが全てである段階です。この段階では、生存の価値として魂がこの世で欲求することは動物的欲求を満たすことが全てです。猫に一万円札とかつをぶしを与えると必ずかつをぶしを取ります。猫はお金という価値がわかりません。動物は人間より欲求と価値の認識の段階が低いからです。 第二次的欲求の段階・・・人間的・社会的欲求であります。人間であればイワシ一匹とお金のいずれかを取りなさいと言われると必ずお金を取るはずです。お金であればイワシ一匹でなくもっと沢山手に入れることができるという認識をもっています。人間の社会的欲求というのは地位・権力・財産など人間社会で通用するものの段階です。しかし、全世界のお金を儲けても明日に生命を失ったら何の価値があるでしょうかということになれば、第二次的欲求の段階にも限界があることが判ります。第二次的欲求の段階の欲求は、生きている間だけで、もっと言うと権力を持っている間だけということになります。例えば豊臣秀吉の辞世の句に「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」といった。権力をもち、金色に輝く茶室をつくり、晩年は秀頼、秀頼といい、いくら地位・権力・財産をもって人間社会の欲求を満たしても最後は空しい状態になるだけです。単なるはかない生き方になるだけです。 我々は一つの価値の限界に直面して行き詰まりますと、もっと大きな確実性のある価値を求めるようになります。この事が第三次欲求となるのです。 第三次的欲求の段階・・・人間的・社会的なことにとらわれることなく自分自身の内面的満足を得ようとする欲求です。ただし、金儲けや商売繁盛などの現世利益の目的だけでの信仰は、信仰が第二次的欲求を満たすためだけであるがゆえに第三次的欲求とはいえません。とにかく、第三次的欲求というのは、感覚的欲求といわれるものであり、自己自身の内面的な満足に価値を見いだすものです。このことから、芸術家が自己の芸術の世界の中で満足をえたり、禅や瞑想によってひとり禅定に到達して三昧の境地を味わうことや哲学者が自己の哲学思想にとらわれて自己満足に陥ったり、或いは、宗教でお題目や念仏、お経を唱えて恍惚となる心境なども同じ段階の欲求です。 第三次的欲求では、第一次や第二次欲求の段階を越えて自己の内なるものに目を向けて、精神的価値を認識し始めるのではあるが、やはり限界があります。 確かに、自己自身というものの本質的価値が自己の外界としての物質現象界にあるのではなく、自己自身という内なるものにあるという段階にまでは到達したのでありますが、自己の観念が小さく狭過ぎて自己満足に陥りやすい。第三次的段階では、魂の成長の過程が即物的観念からは脱し得たものの,狭小な自我という枠が余りに強すぎて、生命本来の永遠普遍性の価値を認識できない状態です。 現代の科学は人類にとって、人種、宗教、イデオロギーの相違を越えて、共通普遍なものであるにもかかわらず、自己の小さな観念にとらわれた魂の発展の段階のものが利用した場合には、かえって共通な科学を持つことがマイナスになります。 何故なら、科学の力を使い原水爆を作り、地球の資源を枯渇させ、人類は互いに他者否定の危険な状態を生み出す結果となるからです。 第四次的段階では、生命本来の姿を認識し、価値を見出す段階であります。この地上において植物や動物など生存の形態は種々に異なっていようとも、大自然が生きとし活けるものに与えている生命そのものは、本質的に全く同一のものであることを認識できる段階です。自己の本質であります生命の尊厳性の自覚が他の生命に対する絶対的尊重となり、自他一如の生命本来の認識できる段階です。他に与えて通る段階、徳を増やしていく段階です。助け合いの、生命の愛の段階です。 生命とは、もともと物質現象界の時間・空間の次元を超越し、霊的自我の観念的枠も超えている存在です。生命とは、永遠普遍にあってあるものであり、あらゆる能動力の根元でもあります。従って第四次的段階では、精神的満足が自己の内部へ向かうのでなく、生命本来のあるべき姿どおり広く他へ向かうのです。この事が自己の観念の拡大発展です。 第四次的欲求、すなわち生命的永遠普遍の欲求は、我々全ての生命あるものの根元的欲求であり、われわれの本質である生命が生命本来のあり方を望むのは当然のことです。 この世における生存の価値、すなわち生きがいをどの段階に求めるかは、各人の自由選択の能動的な意志によるものでありますが、各人が選択した欲求の段階が自己の認識の成長発展の段階をあらわすものです。つまり、この世に生きる生存の行為と生存の姿が、直ちに其の人自身の霊魂の成長段階を示していることになります。
2021.06.26
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自律訓練法 故 藤本肇 先生情報化社会への対処貴方に自身にとって、マイナスの情報によって心が迷い、枉げられて感情的になり、心が阻害されるようになり、憎しみ・妬み・そねみ・怒り・迷い・疑い・心配・イライラ等がうまれます。そうするとストレスになって心を傷つけ、その為にノイローゼを起こす場合もあります。漢方的に考えると、氣が発散できず体内にこもり、血に熱を持ってしまうことになります。「必ず頭の中に置いていて下さい」色々な情報も各人の受け止め方によって葛藤、ストレスの大きさも大いに違います。その受け止め方によって何でもなく過ごしてしまうこともあれば、マイナス感情が生れて来る人もおります。これが心に生ずる恐ろしい変化で、このような悪感情を生じたら、すぐにでも発想の転換をして消してしまわなければ、血に熱を持って血液のめぐりが悪くなり、身体の健康が保ち難くなってしまいます。そのような場合には、如何にしたらよいか考える必要があり大切な事なのです。また、そのようなお客様に対してのアドバイスの仕方そのものが「推売力のあるお店の技量」です。我々は常に考えて指導できるように心の勉強をしておかなければなりません。想像力を引き出す自己暗示 皆さんにもよくあることでしょうが、自問自答するでしょう。一体誰と問答をしているのでしょうか ? それは、もう一人の自分と話しているのです。松原泰道師の著書にいわれている、自分自身のなかにもう一人の自分がいる、言い換えれば、建前の自分と本音の自分なのです。心のからくりには色々と法則があって簡単に行うべきではないけれども、心の二面性を理解すれば、自己暗示によって、心の切り替えが出来る筈です。 貴方自身の考え方を切り替える訓練をどのように行ったらよいか常に考えてみることが必要なのではないでしょうか。自分も納得してみる事が大切であると私は思います。例えば、病氣に侵された場合、どのようにすれば感謝の氣持ちに変えることが出来るのか自分自身考えてみる事であるし、まず自分が体験して、病気にかかったらどのような考えかたをしたら心が静まるのか、感謝できるのかを自分自身に問うて考えてみてください。自然と心が洗われて、人間性が高まってくるはずです。自己暗示とは如何なるものか考えたことがありますか? それは、自分自身に暗示をかけることですが、それは、自分のもっている想像力をかきたてることでもあるのです。我々は自分で言っている言葉は、半分は自分自身も聞いています。自分自身に言い聞かせていることなのです。自分で自分を納得させていることなのです。自分がもっている想像力を強くして、自信をもたせることなのです。エミール・クエは自己暗示による人間の強い想像力に訴える藥の治療法を考えだし、ナンシという町にその治療所を開設し「クエ式自己暗示法」なるものを創案して、先生独自の心療法で多くの患者を助けて人々を喜ばせました。その理論とは、「患者に藥を与えた場合、出来るだけ少量の藥で、より多くの効き目がでるように研究した結果、人間の心のなかにある想像力を引き出した方が効果的にも健康的にも良いということがわかりました。それは、意識層をゆるめて心のトラブルをなくすことであり、ストレスを除外して自我を捨て、感謝の気持ちを持つ事により、より高い想像力を生ぜしめるものである」とわかったのです。ここに催眠術による想像性開発というものが大切であるといえるのです。 大脳皮質についてそこで、大脳皮質生理学なるものを簡単に理解していきましょう。大脳皮質には約140億の脳細胞があり、その細胞には足があって足と足の絡みつきをシナプスと呼んでいます。情報が入るに従って回路が多くなり、20才ぐらいには8千億出来ると言われています。脳細胞の一個がテレビのブラウン管一個に相当し、記憶素子と名づけられています。大脳皮質には新皮質と「意識層とも顕在意識層ともいいます」と旧皮質「無意識層とも潜在意識層ともいいます」とがあって、常に情報の流れを受け取っていますが、大脳皮質には検閲層と呼ばれる層が存在し、情報の制限が行われています。いわゆる心の門番です。主に新皮質に多く、顕在意識が緊張すると検閲層も同じように緊張して情報の選択を行うのですが、我々は毎秒1400億ビットの情報を受けています。このように、情報はどんどん入ってきて新皮質から侵入し、旧皮質に沈殿してしまう記憶の宝庫であります。一度受けた情報は忘れることは出来ないのですが、新皮質と検閲機関である検閲層の緊張がとれて眠くなると、緩んで旧皮質に侵入した情報を取り除くことが出来るのです。 睡眠と脳細胞我々が眠ること、リラックスすることは、新皮質を弛緩させるということです。睡眠についていうと、大脳皮質細胞を全部休ませて無意識以外の意識、即ち新皮質を完全に眠らせる状態ですが、世の中の多く人はこの睡眠と催眠を混合して考えている事が多いようです。しかし、この2つは異なった状態であり、催眠は意識細胞の一部だけを常に起こしておき、必要以外の意識を眠らせる半睡眠の状態を指します。人間は1日に3回から8回程度、夜間寝ている時から朝までに、類催眠状態を経験していますが、それを意識的に感じています。・脳細胞は再生不能でありますが、その脳細胞が生き生きとした活力を保つためには、睡眠を充分にとり、脳を休ませる以外に方法はないのです。その為に動物は眠るのです。脳の細胞の働きをよくするためには、色々な条件がからみあって、逆説睡眠時に改善されることは、判明しています。この状態は、新皮質が一部起きているときであり、催眠術による反応と非常に類似しています。この時には、その人が昼間あった葛藤を出してしまう時なのです。また、催眠暗示を与える事によって、無意識層にたやすく必要なプラスの情報を送り込むことも出来れば、マイナス情報を引き出すことも出来るという心理療法が研究されているのです。催眠の原理 大脳皮質、特に新皮質は、音とか光などの刺激といった一定の波長によるリズミカルな活動には非常に弱く、簡単にヨロメキ出して情報のチェック作用を怠る性質を持っています。医藥品としては軽い安定劑、その他少量の酒、趣味など、心の休まる事等があります。この時、自分の身辺に何事かが起きると、好むと好まざるを問わず、しかも無批判に検閲層を通り抜けて、古い皮質に刻み込まれてしまうのです。もし、そのリズム事柄が繰り返されるときには、無意識の中に同じ考え方を植え込むと、多くの人が同じような行動を起こすようになります。これが群集心理の起こりで、大衆催眠術の原理です。かのヒットラーは、この原理を上手に利用した大衆催眠術の第一人者だといわれています。 しかし、自己催眠は自己暗示によって自己の責任で行うのですから、その点は安心です。うたた寝はこれほど気持ちのよいものはないのですが、これが逆説睡眠の状態とほぼ同じ状態であり、学校や職場、仕事中や乗り物の中、講演中、勉強会中、研究会中のウトウトするうたた寝は、新しい皮質の一部が眠り、古い皮質は全然眠っていないのです。ですから、外部からの音や声は聞こえているのです。下車駅の近くになるとパット目を覚まして降りる姿を見るのもそのためなのです。余談ですが生前、藤本先生と鹿児島市の東急ホテルにて食事をさせていただいた時の話の一部を掲載させていただきます。【藤本先生】 東洋催眠というものがあってね、ある奥さんがどうしても大きな音に異常反応をしめされる、漢方をやってもどうしても、恐怖心がうまく取れない。そこで東洋催眠を実施して年齢をどんどん戻していった。そしたら、若い頃空襲で近くに爆弾が落ちた事がわかった。あなたは、今こうして暮らしているのだから心配いらない。そう理解させて、もっと年齢を戻していって、お腹の中まで入ったのだけど、その先はどうなると思う阪本君? そこで私はこう答えました「前世にもどるのですか?」藤本先生の答えは、「そう江戸時代の前にもどったんだよ、魂の仕組みは、こういう世界だよ。よく考えて人生をすごしなさい」と……意志逆転の法則 大脳皮質生理学では、意識層と無意識層との関係を表わすものに「意志逆転の法則」があります。この法則は、心のカラクリを知る面においても大切なことです。まず、この法則を説明して理解を深めたいと思います。一・意識層=意志「新しい皮質または顕在意識ともいいます」と 無意識層「観念または古い皮質とか潜在意識ともいいます」とは緊密な関係を持っていますが、考え方が対立している時には通常では勝利者は観念であります。人間の行動は、本能的に動くのです。二・意志と観念との考え方が対立している時には、観念の力は意志の力の二乗に匹敵します。三・意志と観念が同一方向に協調している時には、そこに生じる力量は和ではなく積となります。「なにをしても楽しく、希望に燃えて来るのです」四・観念は、自己または他人によって誘導する事が出来るものです。…自己暗示を繰り返すことによって方向を変える事が大切です。一度や二度では簡単には変わりませんが、これが一種の催眠暗示につながるのです。 心には四つの作用があるといわれています。① 私はそう想像する。②私はそう思う。③私はそう信ずる。④私はそうなってしまう。この4つの心の流れがもっとも大切です。ですから私は、感化力は信頼と共感が生れたら、偉大な力を発揮すると思います。自律神経は、この分野に相当影響しているのです。そのためには、この神経を安定させなければなりません。自律神経を安定させる呼吸法それでは、その方法について述べてみます。これを私は「自律神経安定のための呼吸法」といっています。自律神経失調症の方の心が安定することは、意志層並びに検閲層の緊張がとれて弛緩し、無意識層に働いて行きやすくする為に行うことなのです。ではその方法は何かというと「まぶたを閉じる、まぶたを閉じられるという事は心の安らぎを得る事であり、脳波が落ち着く」ことなのです。それから、鼻から静かに息を吸って口からゆっくり静かに吐く。そして、呼吸に心を集中することです。毎日五分から十分くらい寝る前に続けて戴くと、心が安定して脳波も安定し、低くなってシータ波とかデルタ波になっていきます。シータ波は、波長が4ヘルツから8ヘルツ位であり、10ヘルツ以下になると雑念が除かれ、自然治癒力が強力にはたらいて体力が活性化され、血液もアルカリ性となり、病は快方に進むと言われています。シータ波にまでなると、超能力が発揮できるといわれています。瞑想にも、色々な段階があると思いますが、一般に行われている瞑想を練習してもなかなかデルタ波にもなりにくく、ましてや、シータ波に高めることは更に難しいといわれています。 脳波と創造性の開発脳波の種類と心の状態について まず、ヘルツとは一秒間の脳波の振動数を表わした指数です。① ガンマ波は、振動数が30Hz以上で交感神経が緊張し興奮している状態です。② ベータ波は、振動数が14Hzから29Hzで、活動中とか仕事をしているときに発します。③ アルファ波は、8Hzから13Hzの範囲でリラックスしている状態です。④ シータ波は、4Hzから7Hzであり、深いリラックス時に現われます。 ⑤ デルタ波は、0,4Hzから3Hzの範囲で、熟眠時に現われる状態です。⑥ 0.3Hz以下は無の状態ではないかと考えられています。 以上の六段階に分けられています。エゴ的(自我)発想を起こしますと、脳波はガンマ波、ベータ波になるといわれていますが、発想の転換をして現在の行動とか考え方を肯定して、心が落ち着いてきますと、すぐにでも10Hz以下になり、感謝の気持ちを続けると6Hz前後になると考えられています。「藤本藥局では、感謝という言葉を口癖のように使うことで、習慣づけの試みをされているという事です」およそ、人間の体は常に酸化還元の働きによって体を養い、成長から老衰までの過程をたどっていると考えられています。酸化が過ぎると過酸化の傾向に走り老化は早まってきます。還元(アルカリ性化)に傾くと、抗酸化されて若返る傾向になります。従って、老化防止には毎晩5分から10分位「自律訓練の呼吸法」を実施していったらよいのではないかと思います。エゴをなるべく少なくして自然と良心に合うような考え方、生き方をすることによって人間愛に満ちた、感謝の気持ちをもった自我没却の心を生じさせたいものですし、お客様に対しても指導できるようになれば素晴らしいと思います。脳波をアルファ波、シータ波、デルタ波にしましょう。 自己暗示による誘導法「自律訓練の呼吸法」をしていきますと、意識層及び検閲層の緊張が緩んで、直接、無意識層の深層心理の分野に情報が入ってきます。最初に記したように、自己暗示とは、半分は自分の耳からその情報が入ります。無意識層に固定させるのです。私は患者さんに限らず、自分に心を安定させて良い言葉を何回もいうことを教えています。 たとえば、「僕は良い子になる、良い子になる」と二、三回繰り返して寝るのです。体が弱ければ健康になるとか、胃が暖まってくるとか、頭がスッキリするとか、繰り返し自分に問い掛けるのです。これを私は「呪文をかける」といっています。「呪文を教えて上げましょう」といって、寝る前に毎日、毎日三回唱えて寝て下さい、と教えるのです。 人は意識の世界ではなくて無意識の世界におきた事で心が高鳴り踊ることがよくあります。そのような事は数え切れない程我々の生活の中で多発する事ですが、何も楽しい事、嬉しい事だけを思い出しているのではありません。 記憶というものは一度感じたら忘れることはないのだそうです。ですから、無意識層は記憶の宝庫だといわれていますが、実は悪い記憶も中にあるのです。ある回路を刺激すれば様々と甦ってきて不快な思いをするだけならまだ良いのですが、それが原因になり脳波を乱し病になる事も有り得ますし、心を苦しめノイローゼ等のトラブルを起こしてしまうこともあります。従って、無意識層に入り込み染み着いて離れないものを洗いながさなければならないのですが、その事を催眠暗示によって永久に忘れさせる事が出来るのです。自己暗示で例えば「私は今まで苦しかった事、辛かった事は、再び思い出す事が出来ない」と自己暗示を呪文で唱えるのです。 脳波が高ぶっているガンマ波とかベータ波位の段階では、理性の層である検閲層が見張っておりますので忘却できません。普段、考える事は全て意識層に関連してきます。ワンポイントとして軽い飲酒とかリズムは、意識層の緊張を解きほぐす材料になるようです。 楽しく健康にいきるために世の中にあるものをうまく活用すれば、人間は楽しく生きる事が出来て、尚且つ健康になれるのです。日常生活の中でどのように考え、人とお付き合いをしていったらそのような心を持つ事ができるのでしょうか。この事は皆さんが店頭でお客様にお話になる材料を御自分で造る練習と考えられて、日常に実行してみる事が大切であろうと思います。それには、1. 相手の長所を伸ばすことです。 自分も他人も、全て人の短所は目をつぶって、長所を褒める事です。このことが短所を抑えることになるのです。その時脳波は大体十ヘルツ以下のアルファ波になります。 しかし、欠点を指摘されますと、20Hz以上の脳波がでますので、欠点を指摘して改善させようというのは、多くの場合間違いで、長所を伸ばすのが一般には正しい方法であるといえます。自分中心ではなくて、常に相手の気持ちを考えて差し上げる広い気持ちを持つ事が自分を楽しくする秘訣です。 2. 感謝の心を持つことです。 この気持ちを持てるようになると、脳波はシータ波の六ヘルツ前後になり、深いリラックス時のような気持ちになります。 3. 信頼です。 これはなかなか難しいことですが、この事は相手の為に誠心、誠意何かをしてあげる事です。感謝の念を持たない人は心が判らない人ですから、相手にせず商売上でも、また個人の上でも近づかない事です。人の喜びに喜びを無心になる事です。怒ったらあなたの損ですから、私は人に喜ばれる事に喜びを感じるように心がけています。宇宙学では、御法度の心というものがあり、これを脳波計で測ってみたら、全部20Hz以上出ているのです。 その感情は、怒り、不平不満、心配、イライラ、セカセカ、憎しみ等、心穏やかでない気持ちなのです。これが一番寿命を縮めて、病気になる原因なのです。私達の日常の心構えはどうしたら良いのでしょうか。それには三つのポイントがあります。① どんな事でも肯定して感謝し、前向きに発想するクセをつける事。② 常に謙虚に学ぶ習慣をつける事。③ 常に人間性を高める努力をする事。 実行する努力をしましょう。人間性を高める三つの条件人間性を高める為には、人間が本来持っている特性を高めれば良いのです。① 人間は地球上のあらゆる動植物のDNAを持っていますので、地球上の全てに対して責任があるという事です。ですから、地球上の全てに対して責任を持ち、全てを大切にする事が人間性を高める事になるのです。② 人間は使えば使うだけ良くなる理性的な頭脳を持っているという事を理解しましょう。 ですから、本能や感情だけではなくて、理性的に考えて生きれば良いのです。好き嫌いは情動的ですが、変える事の出来る分野ですから、全て好きになろうという理性が働くよう努力していくべきだと思います。そこに「自律訓練の呼吸法」が必要となるのです。 ③ 人間は、その思いを実現できる地球上で唯一の生命体であるという事を考えてみる必要があります。このような考え方を常に思い、良いプラス発想をすべきです。この3つを実行していくと、必ず人間性は高まります。人間愛と感謝する心を持ち、自我をなくす、即ち、超自我の心境になるように努力していけば、確実に脳波を低くすることができます。低くなればなるほど創造性が強くなり、直感力が働いて色々な事がわかりやすくなり、思う事が実現出来るようになるのです。 我々の本質は創造主の分身なのです。全ての事知っているのです。今まで記した事を踏まえて、質素に、単純に、暖かく生きた方が幸せを勝ち取ることができるのです。偏らない心、こだわらない心、あるがままに、なるがまま、自由に生きる暖かい心を持ち、常に人の事を考え毎日を暮らしていくことです。自然に楽しい、美しい、豊かな人生にしましょう。
2021.06.15
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何故他の為に生きていくかが必要なのか?教えて頂いた事39どのように生きれば良いか求めてきました。この世界は、人間が造った世界ではありません。この世界は、人間を越えた自然の創造主が造り出したのであります。到底、考えも及びません。全て生きとし生きるものをより良く活かそうとしています。私達生きとし生きるものに生命を与えて下さっています。それぞれの生命は、より良く生きるために徳という眼に見えない運命貯金を持っています。 問題は、この運命財産である徳を増やして生きているか、もしくは徳と言う運命貯金を減らして生きているかということです。とにかく、どちらかで生きております。一人一人に、その徳を持たせてあります。そのことに気が付いて、皆の為に生きるということが、徳を増やす生き方です。マイナスの種を蒔いてプラスの収穫にはなりません。マイナスの種を蒔いたらマイナスの結果しか出ません。誰がやろうとも、何時やろうとも、どこでやろうとも、必ずその様になることに決定しています。親が子供を思うように、一人一人が、他の為に役にたつ生き方をすれば、より良く生きていくことができるのに、自己中心で生きています。自己中心で生きると悩むことになってしまいます。何故なら、悩みの本質は、自分の事を考えているからです。他のことを思いやると悩みはありません。そこに自分が無いからです。 私達が皆の為にと行っているとその行いが、体を使ってやろうとも、お金を使ってやろうとも、言葉を使ってやろうとも、全て徳と言う運命貯金になることになります。 この徳を減らすことばかりしていて、それなのに幸せに暮らそうとしています。しかし、マイナスをしていてプラスになることはありません。誰かが他の為の生き方に気が付いて行って行かなければなりません。 運命財産である徳という運命貯金がありますと、この世界の通行手形の様なもので、より良く生きて活けるのであります。問題があったときに、徳積をして事にあたれば、必ずその様な現象が起きます。現象が起きると益々徳を積んでいきます。しかし徳の無いものは、事が起きると、益々徳を減らしていく生き方をしてしまいます。
2021.05.06
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何かの役に立つために存在しています。教えて頂いたこと38私達の住んでいるこの物質界では、それぞれの存在は、役に立つために存在しています。 私達のまわりに存在するものは、全て役に立つものを私達は作っています。まわりにある鉛筆、ノート、机など皆、他の役に立つ為に存在しています。鉛筆は、鉛筆の為に存在するのではなく、鉛筆が他の為に役に立つ存在として作られています。 「存在の原理」は1.存在するもの全ては、役割機能をもって生成されます。2.存在するもの全ては、他の為に役にたつ役割機能を持っています。3.存在するもの全ては、他の為に役に立たないと自然淘汰されます。この三つで説明できます。私達の生存が「存在の原理」に逆らった生き方をすると自然淘汰されることになってしまいます。私達も役に立たないものは捨ててしまいます。この事から政治にしても、経済にしても、全体の為にならないことをしていますと自然界において自然淘汰されることになります。自己中心の生き方は、自分の事だけしか考えていません。こういう生き方は、他の為に役に立ちません。 そうすると自己の存在を失ってしまいます。物も生命も同じす。これが自然界の法則、原理であるからです。どの人の運命も皆同じです。いつでも、どこでも地震が起きてもおかしくありません。更に、皆のためになる食物も、農薬を使用して農薬づけの野菜などを販売し、遺伝子組み換えをした大豆など経済ベースでやっています。どこにも他の為に、まごころをもってやっているとは思われません。非常に悲しいことです。「存在の原理」に沿った生き方をしていかなければなりません。
2020.08.30
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一体全体の理教えて頂いたこと36 自己が全体とイコールになった場合「一体全体の理」を頂いた姿といえます。自己の生存の目的と意味が全体の役にたち、全体の為に生きる事が「一体全体の理」です。例えば、次の様な例題を考えてみますと、台風の大雨によって川の水位が増し堤防が崩れ始めました。自分の家が堤防のそばに建っていました。もし自分の家を犠牲にして壊し、堤防を補強すれば町全体が洪水から救われます。「一体全体の理」を頂いている場合は、全体の為に自己の家を犠牲にする事が出来ます。全体の為に生きる自己は全体と一体となっている自己です。即ち、自己の存在は、全体の存在です。この場合、最も大切な悟りは「自己が全体の為に犠牲になるというのでは無く、自己が全体として生きる姿である」という事であす。これが一体全体として生きる「生命一体全体化の理」です。全体の為に生きる事が出来る自己と成った場合、親の理を頂いた姿といえます。神生力とは誰にでも直接に働いている力と働きであります。心臓の動きも、新陳代謝も、直接に働いております。人間の造った人造神仏に頼って、神通力を頂くというような事ではありません。人間の造った人造神仏には、力と働きはありません。何故なら、どの仏像も、単なる物質であり、生命はありません。積もったホコリも取り払うこともできないからです。犠牲という事は、あり得ません。全ての為に、一体全体として生きる本来の生き方があるだけです。全体の為の犠牲という事は、自己が全体の一部であることを基準にした場合の考えであり、悟りではありません。全体の為に生きるという考え方が生命の「一体全体の理」に適った悟りです。
2020.03.03
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新型コロナウイルス・肺炎の治し方 武漢での発症原因 この地区の気候は・低温・乾燥です。この地区で脾胃が弱っていた方が、肉を食べた事で新型のウイルスが出来た事が原因です。このような急性症状の治療法は『傷寒論』に記されています。対処法は温めて熱を追い出すことが有用です。体温が高い子供に発症が少ない事・症状が出ている方に中高年が多い事でも、悪化に冷えが影響している事がわかります。 対応される具体的な処方名は「大靑龍湯」です。原典では「太陽の中風,脈浮緊,発熱悪寒,身疼痛,汗出でずして煩燥する者は,大青竜湯之を主る。と書かれています(傷寒論太陽病中篇)」 煩燥の理解ですが肺の乾燥が原因で肺炎になったと解釈できます。煩躁で肺に熱が逃げたために、腹痛や下痢となるのです。肺・大腸・胃経にウイルスがついているので、追い出すこと対処が必要です。 ただ残念ながら大靑龍湯は市販されていません。そこで大靑龍湯の前に出てくる麻黄湯や麻杏甘石湯・五虎湯(肺の乾燥)の応用が考えられます。残念ながら新型ウイルスを閉じ込めることには失敗してしまいましたので、この後は発症しないようにコントロールする事・発症してしまった後の対応策を準備することが大切です。 発症しないようにする為には、温かくて加湿を心がけることです。葛根湯+生姜湯で予防し、発症初期には麻黄湯+麻杏甘石湯+生姜湯。内と外の熱が高まった時には黄連解毒湯で肺熱を取っておく。板藍根+葛根湯+生姜湯で対応することなどが考えられます。
2020.02.06
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継続させる強度は意志の強さによります教えて頂いたこと35 困難な問題は継続して努力する事が大切です。 継続させる強度は意志の強さによります。意志の堅さは強度継続の強さに通じます。例えば、鉄は堅いものであるから、何十階建のビルでも建てることができます。しかし、豆腐ではたてられません。意志をどこまで貫くかによって、どれだけ困難なことを克服できるかがきまるのです。「強度継続の理法」は時間的な長さでありますから、より永遠に継続するためには、意志の力と働きを強くしなければなりません。どこまで努力し続けることが最も大切です。求め続ける事によって「強度継続の理」の力が働くのです。意志の強さというものは、自己の生命エネルギーの開発発展によってなされるものです。どんな困難な問題であっても、強い意志の力と働きを使って継続的努力をすることです。諺でいいますと「千里の道も一歩から」であり「ローマは一日にして成らず」です。その結果として、自己の生命力の開発発展となります。つまり「強度継続の理法」に沿って、困難な問題を克服する努力をすることにより、人の気持ちの判る、他を思いやることのできる、やさしい親の意識へと成長発展することになります。
2020.01.20
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若返り法『いつまでも若々しく生きる』 いつまでも若々しく生きる心身統一の根本原則とは「心身の統一」こそが健康を保ち若返りの基本となる、と天風は説く。 〈心身統一の根本原則〉1 生命の生存を確保すること2 生命の生活を考えること 「1生命の生存を確保すること」というのは、心と体の両方を自然法則に背かせないということだ。では、心と体の自然法則とは何か。天風は、心の自然法則は「いかなる時でも、人生と生命に対して、絶対に積極的であること」という持論を述べ、一方の体の自然法則については、次の六つの条件をあげている。1.食べ物2.飲み物3.タバコと飲酒 4.運動と睡眠5.深呼吸6.皮膚の調整それぞれを簡単に見てみよう。1食べ物人間の体に必要な弱アルカリ性を保つためには、植物性の食べ物である野菜や果物を多く食べなければならない。動物性の食べ物では、血液が酸性化して、血管の硬化が早まったり、血圧が高くなったり、老化が促進したりするからだ。ただし、弱アルカリ性の食べ物を多くとったとしても、心の持ち方が消極的だと、血液が酸性化してしまう恐れがあるから注意が必要だ。2飲み物平常の飲み物にはお茶と水を天風は勧めているが、とくに緑茶はアルカリ分が豊富なためいくら飲んでも飲みすぎることはない、としている。また、寒いときには冷たいものを、暑いときには熱いものを飲むとよい、とも言っている。3タバコと飲酒どちらかといえば、タバコは吸わないほうがよく、アルコール類は飲みすぎないことだ。天風は、タバコもお酒も、あえて反対はしないが勧めることもしない、という立場をとっている。ただ、これも過度の摂取には反対している。4睡眠と運動睡眠も運動も、自然法則に従って、過不足のないようにすることである。睡眠は、人の活力の消耗度に応じてとるべきで、各人各様のもので一定すべきものではない。眠くなれば眠る。無理に眠ろうとするような不自然なことはしない。運動もしたいときにすべきもので、気分や体調が優れないときまで機械的に行うことは、自然の法則に反するとしている。5深呼吸新陳代謝の促進をはかるために、ときどき深呼吸することはいいことだ。その際、出す息を充分に出しておいてから、深く息を吸い込むことである。これが天風式クンバハ法の基本である。6皮膚の調整皮膚の病的な刺激に抵抗力をつけるために、冷水摩擦、冷水浴、冷風呂を実行し、皮膚の抵抗力を強くしたほうがいい。これは常に訓練するよう積極的に心がけることである。生命の生活を考えるとは?一方、もう一つの「2生命の生活を考えること」の条件として、天風は「心も肉体も、その可能率を促進することである」と説く。これはどういうことか。「心の可能率を促進する」というのは、心を使うときには必ず精神を統一することによって、心の積極的な働きを強くする、ということである。また、「肉体の可能率を促進する」とは、体の抵抗力や耐久力を高めるために訓練を積極化する、ということだ。訓練を積極化するというのは、「習うより、慣れよ」と言われるように人間の生命にある自然性を応用したもので、その習慣性を応用して強い肉体をつくることである。以上の「心身統一法」の根本条件を実行すると、心と体が結合統一される。その結果、次の六つの生命力が増大する、と天風は言っている。1.体力 2.胆力 3.判断力 4.決断力 5.精力 6.能力 ここで注目したいのは、天風は第一に「体力」をあげていることだ。体力があってこそ、思考力などの能力が発揮される--そんな思想が示されていて、いかにも天風らしい主張だといえる。心身を統一すると、この六つの力が増大してくる。そればかりか健康の運命も良好に向上してくる。その結果、「病」「煩悶」「貧乏」という古今東西で人生の三大不幸とされることから自然に縁が切れ、生きがいに満ちた幸福な人生が感じられてくる、と天風は説く。では、なぜそうなるのかというと、心身の統合統一によって「神経系統の生活機能」が完全になるからだ。私たちの肉体は次の三つの条件で、生命の火を燃やしている。1呼吸をすること 2栄養を吸収すること 3老廃物を排泄することこれらは、五臓六腑の働きだと思われているが、実はすべて神経系統によって動いている。ちなみに天風は、神経系統を次のように分類している。・動物性神経-中枢神経。この神経を支配しているのが脳髄で、この中で大脳と小脳の一部が動物性神経を操っている・植物性神経-小脳の一部と延髄が植物性神経を操っているこの二つの神経を完全に機能させることができれば、健康を維持し快適な人生を歩む原動力となるのである。心の持ち方次第で健康が維持できる心の持ち方次第で、健康や生活が変わってくることは、あらためて一言うまでもない。しかし、この重要性を熟知している天風は、繰り返しその大切さを説いている。「心の持ち方を積極的にすること」それが天風の持論であり哲学である。たとえば病気にかかったとき、心を後ろ向きにしてしまうと、病気に負けてしまうことになる。いつも心を強く持ち、決して弱々しい気持ちにならない--それが病気や悪い運命に遭遇したときでも、それをはね返す力になる。天風は、心の持ち方の具体例として、次のようなものを示している。1みだりに怒らない 2恐れない 3悲しまない 4悩まない 5わずらわないどんな難問や逆境にぶつかっても、それを莞(かん)爾(じ)として受け止め、心を前向きに転じれば、消極的な感情が起こるのを防ぐことができる。そればかりか、「難問や逆境を克服してみせるぞ」という精気さえ満ちてくるはずだ。天風は、明るく、生き生きとした心を持て、と繰り返し説いているが、その心の状態については、次の四つを失わないようにすることだとしている。1心の尊さ 2心の強さ 3心の正しさ 4心の清らかさこれらを失うと、神経系統の生活機能が不調になり、心身の歯車が狂ってしまう。神経系統は、生命の原動力だ。心の持ち方と密接な関係を持っているばかりか、生命の確保には最大の要件となるものである。こうした心身の仕組みを知らないために、私たちは心や体も自己統制できないものだと思っている。しかし、心も体も同時に統制できる。それを知ることで、健康はもとより、健康体での長生きを手に入れることができるのだ。このことは、とりもなおさず、明るく幸せな人生を堪能しながら生きるということにもつながってくる、と天風は断言する。天風は知識としての「心身統一」ではなく、それを「実践」してはじめて意味のあるものとなると言っている。 中村天風先生より
2019.12.14
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素敵な計画を立てましょう。教えて頂いたこと34 如何なる存在も現象も、何らかの意志の力と働きによってのみ創設設定されたものであり、その背後あるいは前提には、その如くにさせしめる意思・意図の力と働きがあります。物事を始める時には、決してマイナスの創設設定をしてはなりません。例えば、老後に問題が起きた時に間に合うようにと預金をしたとしますと、その目的で行ったことは必ずその理の通りになります。つまり、老後に問題が起きた時に使うための預金として準備しますと、老後にその預金を使わなくてはならない事が必ず起きてきます。何故ならその様にしたから、その様になったのです。ですから、最初の創設設定が大事になるのです。プラスの、喜びの、生きる味わいとしての創設設定を致しますと、必ずプラスの、喜びの、生きる味わいの素晴らしい結果となります。この「創設設定の理」に沿った素晴らしい生き方をすべきです。
2019.08.03
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苦悩の中に人生の幸福がある 人生の幸福というものを安易な世界に求めてはいけません。言い換えれば無事平穏を幸福の目的としないことです。だからしたがって、苦悩を嫌い、それから逃れたところに幸福があると思っては断然いけないのです。そういうところに本当の幸福は絶対にないからです。「健康なら幸福だろう」とか「運命がよきゃ幸福だろう」と、こういうふうに考えるのは、小成に安んじようとする凡人の気持ちというべきなのだ。本当の幸福というものは、健康や運命の中の苦悩というものを乗り越えて、それを突き抜けた處にあるのだ。 本当の幸福というものはね、凡人の多くが忌み嫌う苦悩というものの中にあるのです。すなわちその苦悩をわかりやすく言えば、むしろ楽しみに振り返るという處にあるのです。観念要素の更改法を使えば、さほど難しいものではありません。どんな場合でも自分の心の中に、素晴らしい幸福感を持てる人間になることを心がけないといけない。そうすれば苦悩の世界にいても、苦悩を感じない人間で生きられるという本当の幸福を味わえるからだ。そうなると苦悩を克服する困難な努力をしないでも、常に運命的にもまた健康的にも、断然なんとも言えない荘厳に雄大に、人生の生きられる所謂自己人生の勝利者となれるのです。 私が平素苦心している「晴れてよし 曇りてよし 富士の山」というのは、結局そういう気持ちを言うのですよ 人生の幸福は、あらゆる苦悩を苦悩とせざる心の中に存在する。而して、この信念こそ人をもってもっとも価値ある生きがいを感じせしめる、ただ一つの要訣である。 天風先生曰く、「夜」の世界こそは、わが生命が、宇宙霊の絶大なる「力」と結び合おうとする尊い時であると同時に、心なく生きる人を向下へと堕とす悪魔の跳梁する心許すまじき時なのです。「寝る前の最後の思考は、朝の最初の思考となる。寝ている間、夜通し、8時間、それは底流として流れ続けている。」夜の寝際に、「明日は朝の5時に起きるぞ」と思いながら寝ると、ちゃんと朝5時に目を覚ます体験をしたことがあるはずです。この作用を活用したのが、「観念要素の更改法」なのです。そして、朝起きたら、「私は○○が強くなった」と断定暗示をするのです。朝は、鏡はいりません。この断定暗示は、昼間も機会あるごにやると効果が倍増します。たまに、「強くもなっていないのに、”強くなった”などと嘘はつけない」という人がいます。でも、それは違うのです。1日実行すれば1日分強くなったのです。3日実行すれば3日分、1か月実行すれば1か月分強くなっているのです。 生きがいある人生 生き方一つが、その人の人生を幸福にもすりゃ不幸にもする。「世の中が悪いから幸福が来ない」とか、「世間が幸福になれない人で埋まっているから、自然に俺もそのトバッチリを食っているのだ」というような事を言っていたら、もうそれは甚だお気の毒だが、低級な人生思想をもっている人だと言わざるをなりません。 生きる心構え 遠慮ない言葉で申し上げると、あなた方は確かに現在人生に生きておられる。生きておられるけれど、はたして生きる心構えというものが正しく用意されて、日日の人生に生きておられや否や? 御自分でお考えになっても、あるいはわからないかもしれません。どんな人間でも身びいきと自惚れがあります。 病になった場合や運命が悪くなった場合、己が蒔いた種に花が咲いて実がなって、かくあるのだという事には気が付かずにいます。いかかです? 病になったり不運になったりしたとき、概ね多くのあなた方の考え方は「罪は自分にはない」と、このように考えてはいませんか? 風邪一つひくのだって自分が蒔いた種に花が咲いたのです。
2019.06.21
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人間の認識力は限りがある熊谷明彦先生 人間は自分の都合の良い物だけしか、認識しないように出来ています。例えば、光が入って来ると、角膜、水晶体、網膜、神経繊維、脳という順番でカットを繰り返して、整理された情報を認識しているのです。それは一斉に様々な情報が入って来ると、人間は狂ってしまうのです。このように制限する事で生命体は守られ生きて行く事が出来るのです。この事は当然、人は全てを認識出来るようになっていない事を意味しています。化学的に進歩した能力とは、人の多くの能力の、内の合理的思考能力が、他の能力の、犠牲の上で飛び出ているだけなのです。本来人の能力は、たんに合理的能力のみではなく、直感、思考、感情、感覚的能力のように多岐にわたります。 余談ですが不思議な事に、この四つは能力のバランスが難しく、思考能力が発達していれば、感情能力が劣っているという事が多いようです。その他にも能力は無意識領域まで及びます。この能力というものは、それぞれ個人差が大きいようです。人は本当の自分自身は意識出来ない所にあるのです。また我々は自分の気が付いている世界が全てではないという事を認識すべきなのです。 現代学問は自分の分かる範囲だけでの事だけなのです。例えば現代のエネルギー論も間違いだらけなのです。エネルギーは消費したらなくなったと思っていますが、実は消費したエネルギーは姿をかえて逆転するのです。この事をエントロピーの増大、マイナスのエネルギーの増大と置き換えるのが正しいカタチなのです。病気やけがの時にエネルギーを使いますが、使い過ぎるとエントロピーが増大して免疫力が無くなって行くのです。 生き方の中でも・他人に対して嫌なことをしたエネルギーは嫌な種として残ります。役立つことをしたエネルギーも役に立つ種として残っていきます。(阪本 記)大極とは何でしょうか? 自然というものは、まだまだ大きい範囲で人間には分からない事だらけなのです。私達が氣つくものはごく僅かです。氣がつかない物の中に大切な大極があります。大極から自然の力が飛び込んできているモノの統体の事です。陰陽論の大極を直接的に認識する事は出来ませんが、大極が陰と陽、精と氣を生じるのです。ですが陰や陽に傾いた時には既に大極とは言いません。大極にあるものを元なる氣=元氣と呼びます。それが一つの「氣・精・神」として表出し、「氣・精・神」が統合され「大極にある本来の統体の似姿」・「統合体」をなすとき、そこへ「命」が宿るのだと思います。 「元氣」は大極に準備されていて、ここから「氣」として送り込まれ、生命活動を推進する「氣」、この「氣」の精華である生殖、成長や発育、身体の充実、活性の基礎となる「精」。この「精」が充実すれば、そこに「神(心的作用)」が宿ると考えられてきました。つまり「氣・精・神」は「氣」として「大極」から送り込まれるものであり、決して人為により密造されうるものではないのです。 もし、身体に「大極」から来る「氣・精」が送り込まれないと、それは物にすぎない。この物に飲食・呼吸・環境を通して「氣」が供給され、氣の転化した「精」が充実した時、そこに「神」が宿るとされています。
2018.12.02
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生き方教えて頂いたこと33 悩みというのは自分のことだけを考えますと苦しくなってきます。自分が自分の考えで自分の心の中に入ってしまって、他のことがわからなくなってしまっています。いわゆる自己中心になっています。こうなって来るとノイローゼになってしまいます。その結果自分の存在を失います。諺にもありますように「天は自ら助くるものを助く」です。 要するに、天は自ら他を助けようとするものを助けるのであって、助けてもらいたいものは助からないことになります。こういうふうに考えていきますと、どうしても親の考え方をしなければ、助からないことになっています。子供の考え方の助けてもらいたいというのは、助からないのです。助かっていない境遇の人は、助けてもらいたいと言います。しかし、助けてもらいたいと1回言った人と、何回も助けてもらいたいと言った人では、何回も助けてもらいたいと言った人の方が、より助かっていないことになります。だから、問題があっても、助ける側に立って助けることをしなければ、助からないことになります。要するに、どんな時でも、助け合わなければならないのです。判りやすくいうと、借金をして、助けてくれと言って、お金を借りてどんどん借金をしていく生き方をして行くと、借金した分だけ、ますます助からなくなって行きます。此れに反して、借金があるのに、周りの人たちや、世の中の役に立つことを、少しずつでも行うことが、運命財産であります運命の貯金が増えて、結果的には、借金を返済できる運命・環境が与えられて、助かる運命になっていくことになっております。つまり、相手にプラスをして、助けた分だけ助かることになります。しかし、助けてもらいたいと思い、してもらった分だけ、借金が出来て助からないことになるわけです。実行実現についてこういうことが判ってきますと、次にどうしたらその様に生きていけるかということになります。普通、泳ぐことが出来ない、自動車の運転が出来ない時は、それが出来るように努力しようと致します。生きることも、全く同じことで、役に立つ生き方を努力して身に付けることが大事であります。事実、実行しないとプラスの結果は出ません。例えば、畑に種を蒔くことを知ってはいても、種を蒔かなければ、生えてきません。実際の行いがなければ、その様な結果は出ません。自分の欲求を満たす為の努力はしても、他の為に役に立つ気持ちの努力は致しません。つまり、生きる事に、その様な努力をしようとは致しません。こういうことが大変重要な問題であります。このことが判って実際に実行実現しなければなりません。夫婦の問題でも、結婚前は相手の為に映画に連れて行ってあげようとか、美味しいものを食べさせてあげようとか、似合う洋服を買ってあげようとか、相手にプラスをしようと考えていますが、結婚後は、相手にああしてくれ、こうしてくれと要求ばかりして、してくれないとお互いに不機嫌になり、こういう人だとは思わなかっただとか、要するに、してあげようという親心はなく、してもらいたいという子心になってしまっています。何も夫婦だけに限ったことではなく、親子、兄弟、友人、知人、会社の同僚、会社の上司との関係もみな同じであります。自分が良いと思って結婚した相手なのに、こういうことがわからずに、相手の為に生きるということも気が付かず、しかも親の考え方に成長して行く事が本質であるのに、うまくいかないことを、周りのせいにしたり、人のせいにしたりして自分のせいであるという主体性が見られません。与え合う関係であるはずなのに、奪い合う関係では、絶対にうまくいきません。此れは誰と結婚しても、どこで暮らそうとも、より良く生きてはいけないのであります。ましてや、わけのわからない神仏に願ったとしても、自己中心の我(が)の願いが、思うようになるはずはありません。どうしても西郷翁の謂われた、他の為の生き方をしなければならないのであります。だから「人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし」と謂われているのであります。どうしても、助け合う親の考え方をして、成長して行かなければならないのであります相手にプラスの種を蒔かずして、どうしてプラスの収穫をすることが出来るのでしょうか。与えたものがマイナスであったならば、マイナスしか収穫です。 こういう生き方がわからずに、自分中心の生き方をして、内臓を傷め、心を病んでしまっています。漢方薬は東洋医学ですから、背後の東洋思想に踏み込まざる負えません。五行相剋説から木火土金水の考えでも甲乙・丙丁・戊己・庚辛・壬癸の十干にしても、その関係の中で、易をやっている人たちは、例えば火のタイプと水のタイプは相性が悪いと表現しますが、それはネガティブな考え方で、対立にもっていこうとしております。火と水は確かに違うのですが、助け合ってお風呂が出来るのではないでしょうか。違っていることは、素晴らしいことなのに、性格の不一致とは、どういうことでしょうか?自分に合わないとは、合わそうとする親心はないのでしょうか。ここに、大きな問題があるように思われます。違いがあるからこそ素晴らしいのではないでしょうか。しかし、違うからいやだと思う考えをする人が多いです。其のことが、いかにも自分を正当化する考えのようですが、極端にいうと我が間々ではないでしょうか。違うことは、プラスの考え方でマイナスの考え方ではありません。違うから、その面白さがあるのだと思います。違うことに責任を転嫁してはいけないと思います。 とにかく、全てマイナスの思考をしています。「虫が好かん」とか「悲願達成」とか「因果応報」とか全ての表現がおかしいです。「虫が好き」とか「喜願達成」とか「善因善果」の様なプラスの表現がありません。生きる生き方の素晴らしさを感じないで生きているのではないでしょうか。生きていくのは、全て、どんなことにもやって良かったということを味わいたい為にやっているのではないでしょうか。 人生は、ときとして旅行に例えられます。本当に事実そのように思います。人生旅行は楽しく通らなければなりません。それに一日一日其の日の生きる目的は、皆もっています。しかるに、一生の目的は誰も教えてくれません。生きるその意味も、目的もわからずに生きて果たして何か価値があるでしょうか。物事の全ては、意味わかって生きるべきではないでしょうか。意味も目的もなく行動していることがあるでしょうか?もし差をつけたりして、この様な考え方に反する生き方をすれば、文字どおり自然の理に反することになります。生命の使い方には、対立はありません。助け合って通るべきです。
2018.11.27
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内在的な心の世界と外在的世界 続編教えて頂いたこと32小鳥にとって毛虫は好物の食物の食べ物ですが、人間特に女性にとってはぞっとするものであり、毛嫌いするものです。外在的世界の毛虫は毛虫であって、それを好物にするか、毛嫌いするかは、小鳥と人間の内在的世界の違いです。この事実から考えれば、元来憎らしい人もいなければ、好ましい人もいないのです。憎らしいとか好ましいという実感は、その様な観念を持っている自分自身の内在的心の世界にあるのであって、相手の人にあるのではありません。だから、本来憎らしい嫁姑も、相性の悪い夫婦も、いがみ合うべき兄弟というものは居ないのです。人間関係の良さ悪さは自分達が互いに持っている内在の心の世界のプラス・マイナスの実感によって決まります。本来、いやな仕事、いやな環境や運命というものはありません。いやな仕事だと感じるのは自分自身であり、いやだと感じれば感じる程、つらくなって苦しむのも自分自身です。マイナスの実感は自分にとっても、まわりにとっても損な事です。自分にとって自分の気持は一番大切なものなのです。私達は生命力として、プラスにもマイナスにも実感できる自由選択性を持っています。この能力を使って自分の気持の世界である内在的な心の世界をプラスの世界にすべきです。その為には、自分の考えかたや観念をよりプラスの方へ転換していかねばなりません。物事をプラスに見なければなりません。"自分は大自然の大いなる生命の祝福を受けてこの世に活かされ生きているのだ。そして今日一日は生きる喜びと味わいの為に与えられた日だ。"というプラスの考え方と、"自分には因縁や業があり、この世に罪の子として生まれてきたのだ。だから苦しみに耐えて今日も生きていかねばならない。"というマイナスの考え方とでは、まるで正反対です。物事のプラスの面を考えて、明るい気持で努力していく事をプラス思考と言います。マイナス思考とは逆に悪い方、暗い方ばかりを考えて積極的行動や努力をしない生き方です。マイナス思考ばかりを行っていますと、親子・夫婦・兄弟・嫁姑・友人知人などの人間関係は悪くなり、家庭も仕事も、環境や運命も悪くなり、自分自身も苦しんで生命力を低下させ、ノイローゼや肉体的病気にもなっていきます。プラス思考を行えば、生きる喜びと感謝の観念が自分自身の内より増々湧いてくるのです。人は誰でもより幸せを求め向上発展を望んでいます。今日一日をプラス思考で積極的に生きることにより、自分の生命力を高め運命・環境を改善する事ができるのです。プラス思考で生きる毎日の積み重ねが、結果として自分の人生となるのです。「天は自ら助くるものを助く」「汝の信仰汝を救えり」などの言葉にある如く、私達は誰でもプラス思考を積極的に行い、価値ある充実した人生を送るべきです。
2018.11.04
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内在的な心の世界と外在的世界 教えて頂いたこと31 夕焼けという大自然の事実は同じであっても、それを感じてどの様に自らの心の世界、観念の世界に映すかは、各人各様種々に異なります。ある人は夕暮れの光景の美しさを感じ、ある人は恐怖を感じ、ある人はわびしさを感じます。人は皆全ての物事を自分の心の世界に映して見ているのです。一般意味論ではこの事を「自分が思っている通りにしか見ていない」(what you see is what you believe !) 確かにその通りなのです。自分が相手をへんな人と思っていれば、へんな人としか見ていないのです。いやな仕事だ、いやな職場だと思って見れば、自分の心の世界にはいやな実感しか映ってこないのです。なまこを美味しいものと思っている人には、美味しそうに映ります。西洋人の様に、なまこをグロテスクで気味の悪いものと思っている人には不気味さしか自分の心の世界に映っていないのです。心は常に自分の心の世界、観念の世界にしか住んでいないのです。自分の心が住んでいる観念の世界を「内在的観念の世界」と言います。これに対して、自分の肉体が住んでいる物理的事実の世界を「外在的物質の世界」と言います。外在的世界は同一であっても、見る人の角度や遠近によって、内在の世界に映る赤い玉は、ゆがんで見えたり、小さく見えたり、大きく見えたりします。常に同一の大きさと形であっても、いったん心の内在の世界にゆがんだ玉が映ると、私達はゆがんだものだと思い込み、そう信じてしまいます。自分が偏見や先入観をもって物事を見、人と接した時には、ゆがんで見える如く、物事や相手の人間がゆがんで見えてしまうのであります。そして一度ゆがんで内在の世界に映ると、増々そう信じ込んでしまい、増々その様に見えていくのです。憎しみを持って人を見れば、相手の人は増々憎らしく見えてくるのです。育児ノイローゼの母親は、子供を育てる自信がないと思って子供を扱いますから、子供を育てる事の自信を増々失い、その反面、自分はダメだという実感と信念は反比例して強まっていきます。内在的な世界には育児に関して自信を失う事しか映らなくなってしまうのです。心の内在の世界は、育児に対しての不安と恐怖で一杯となってしまいます。ノイローゼとは、内在的心の世界に不安・苦しみ・悩み・恐怖などストレスが蓄積し、内在的心の世界がマイナスの観念で一杯になった状態です。ノイローゼにまではならなくとも、正常な人達ですら、悩み・憎しみ・怒りなどで気持が一杯の時は同様の状態なのです。競輪・競馬・ギャンブル・酒などに狂っている場合、恋愛やその他何か夢中になっている状態などの場合は全て、夢中になっている対象が内在の世界一杯に広がっている姿なのです。生きる喜びや感謝などのプラスの観念が内在の心の世界一杯に広がれば、悟りの世界となりますが、逆に不足・不満・恐れ・憎しみ・苦しみなどのマイナスの観念で内在の心の世界が一杯になりますと、この世は生き地獄となってしまうのです。地獄・極楽とは外在的世界にあるのではなく、自分の心の内在的世界にあるのであります。だからこそ悟りが必要なのです。外在的世界の同一の事柄を心の内在的世界では大きくも小さくもとらえる事ができるのであります。マイナスの事は気にしなければ段々と小さく映っていき、やがては消えてしまうのです。私達にとって一番大切な事は、先ず自分の内在的な心の世界を悟りによってプラスにする事です。
2018.09.27
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心の観念 (霊的観念)教えて頂いた事 29 私たちは人生を旅行をしているわけですが、旅行には出発と終わりがあります。では何の為の旅行でしょうか? 結論は人生旅行で素晴らしさを味わい収穫する為です。 生きる素晴らしさを収穫させる事と共に、親の意識へ成長することを望んでおられます。それを人間は、マイナスの苦しみの収穫しかしていません。問題があれば、苦の娑婆だとか、悪の世界だとか、因縁があるからだとか、おもしろくないだとか、つらいだとか、くるしみだとかいい、決して素晴らしいとは言いません。それに、言葉もマイナスの言葉を使っています。因果応報だとか、自業自得だとか、残念だとか、予期せぬ出来事とか、風上にも置けないとか、必ずマイナスを帯びています。更にストレスといいますが、その反対語はありません。素晴らしい気持ちが、たまってどうしょうもないという言葉はありません。全てマイナスの表現です。自業自得とは、プラスの言葉なのにマイナスに使っています。もし使うのなら自業自損と表現すれば良いと思いますがその様な使い方がありませんし、辞書にも載っていません。残念という言葉も、本来は、思いを残すという言葉であるはずなのに、悪い時にしか使いません。何かおいしいものを食べて家に帰ってきたとします。家に帰ってきてからあれはおいしかったな、残念だったなと使っても良いはずなのに、そのようには使いません。予期せぬ出来事といっても、必ずマイナスの出来事を予想します。予期せぬ出来事といったら、何か素晴らしいことかなという思いはありません。この様に何をとっても皆、マイナスの気持ちの固まりであります霊的観念になっています。このような意識で幸せに生きようと思っても無理です。意識、つまり霊的観念がマイナスになってしまっています。どうしてもプラスの意識でありますプラスの観念を持たなければ、幸せには通れません。問題があった時こそ、プラスの気持ちで通らなければなりません。しかし今日、色々な問題が起きた時に、どうしてもマイナスの気持ちであります霊的観念が出てきます。このようなマイナスの気持ちを収穫すると、それが自分自身の気持ちの固まりである精神、御霊、性格となっていきます。このことを霊的観念といいます。其の人だからその様な気持ちをもつということです。どうしても問題があった時にプラスの意識で通れる事が出来ますように、日頃からプラスの意識作りが大事です。そうして、プラスの意識の収穫をして、その様な気持ちの固まりである霊的観念を作り上げるべきです。そうするといつの間にか、そこを通れるようになっていきます。つまり、いい事をすれば、その様に通れます。これが悟りです。要するにプラスの意識で通るのか、それともマイナスの意識で通るのか、それが問題であり、その様に通れる徳と悟りが大変大事なことになります。
2018.07.21
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存在の意味教えて頂いたこと28 私達が生きていて存在するのにも意味があるはずであります。この世に、意味なく存在しているものはありません。台所の鍋、釜、箸などもすべて役に立つ為に存在しています。この物質の世界でも、生きていくのに必要なものは作られます。それは何の為かというと、役にたつ為です。役に立たなければ淘汰されます。これが自然淘汰ということになります。 人間の意志で、新陳代謝は行われておりません。全てして頂いております。私達の体内では、1秒間に5000万個の細胞が生まれ変わり出変わりしている事実を認識しなければなりません。 多くの人はどう生きればよいか、何の為に生きているのかということが、さっぱりわかっていません。五臓六腑もみんな助け合って一個の人間を支えあっているという自然界の法則があるのに、みんな助け合って生きていません。もうそろそろ、この自然界の事実に気が付いても良い時期ではないでしょうか、そして助け合う生き方が大事なことに速く気が付いて頂きたいと思います。
2018.04.18
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心の発達の段階 教えて頂いたこと27私達は生命本来の欲求として、素晴らしく生きて行こうと思っています。しかし、生命の意識の段階が、まだ幼いものは物質的な欲求や肉体的な欲求を満たす生き方をしています。 第一次的欲求の段階・・・物質的・肉体的欲求です。動物的・本能的欲求を満たすことが全てである段階です。この段階では生存の価値として魂が、この世で欲求することは動物的欲求を満たすことが全てです。猫に一万円札とかつをぶしを与えると必ずかつをぶしを取ります。猫はお金という価値がわかりません。動物は人間より欲求と価値の認識の段階が低いからです。 第二次的欲求の段階・・・人間的・社会的欲求であす。人間であればイワシ一匹とお金のいずれかを取りなさいと言われると必ずお金を取るはずです。お金であればイワシ一匹でなくもっと沢山手に入れることができるという認識をもっています。人間の社会的欲求というのは地位・権力・財産など人間社会で通用するものの段階です。しかし、全世界のお金を儲けても明日に生命を失ったら何の価値があるでしょうかということになれば、第二次的欲求の段階にも限界があることが判ります。第二次的欲求の段階の欲求は、生きている間だけで、もっと言うと権力を持っている間だけということになります。例えば豊臣秀吉の辞世の句に「露と落ち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」といった。権力をもち、金色に輝く茶室をつくり、晩年は秀頼、秀頼といい、いくら地位・権力・財産をもって人間社会の欲求を満たしても最後は空しい状態になるだけです。単なるはかない生き方になるだけです。 我々は一つの価値の限界に直面して行き詰まりますと、もっと大きな確実性のある価値を求めるようになります。この事が第三次欲求となるのです。 第三次的欲求の段階・・・人間的・社会的なことにとらわれることなく自分自身の内面的満足を得ようとする欲求です。 ただし、金儲けや商売繁盛などの現世利益の目的だけでの信仰は、信仰が第二次的欲求を満たすためだけであるがゆえに第三次的欲求とはいえません。とにかく第三次的欲求というのは、感覚的欲求といわれるものであり、自己自身の内面的な満足に価値を見いだすものです。このことから、芸術家が自己の芸術の世界の中で満足をえたり、禅や瞑想によってひとり禅定に到達して三昧の境地を味わうことや哲学者が自己の哲学思想にとらわれて自己満足に陥ったり、或いは、宗教でお題目や念仏、お経を唱えて恍惚となる心境なども同じ段階の欲求です。 第三次的欲求では、第一次や第二次欲求の段階を越えて自己の内なるものに目を向けて、精神的価値を認識し始めるのではあるが限界があります。 確かに、自己自身というものの本質的価値が自己の外界としての物質現象界にあるのではなく、自己自身という内なるものにあるという段階にまでは到達したのですが、自己の観念が小さく狭過ぎて自己満足に陥りやすいのです。第三次的段階では、魂の成長の過程が即物的観念からは脱し得たものの,狭小な自我という枠が余りに強すぎて、生命本来の永遠普遍性の価値を認識できない状態です。 現代の科学は人類にとって、人種、宗教、イデオロギーの相違を越えて、共通普遍なものであるにもかかわらず、自己の小さな観念にとらわれた魂の発展の段階のものが利用した場合には、かえって共通な科学を持つことがマイナスになります。 何故なら、科学の力を使い原水爆を作り、地球の資源を枯渇させ、人類は互いに他者否定の危険な状態を生み出す結果となるからです。 第四次的段階では、生命本来の姿を認識し、価値を見出す段階であります。この地上において植物や動物など生存の形態は種々に異なっていようとも、大自然が生きとし活けるものに与えている生命そのものは、本質的に全く同一のものであることを認識できる段階です。 自己の本質であります生命の尊厳性の自覚が他の生命に対する絶対的尊重となり、自他一如の生命本来の認識できる段階であります。他に与えて通る段階、徳を増やしていく段階です。助け合いの、生命の愛の段階です。 生命とは、もともと物質現象界の時間・空間の次元を超越し、霊的自我の観念的枠も超えている存在です。生命とは、永遠普遍にあってあるものであり、あらゆる能動力の根元です。従って第四次的段階では、精神的満足が自己の内部へ向かうのでなく、生命本来のあるべき姿どおり広く他へ向かうのであります。この事が自己の観念の拡大発展です。 第四次的欲求、すなわち生命的永遠普遍の欲求は、我々全ての生命あるものの根元的欲求であり、われわれの本質である生命が生命本来のあり方を望むのは当然のことです。 この世における生存の価値、すなわち生きがいをどの段階に求めるかは、各人の自由選択の能動的な意志によるものでありますが、各人が選択した欲求の段階が自己の認識の成長発展の段階をあらわすものです。 つまり、この世に生きる生存の行為と生存の姿が、直ちに其の人自身の心の成長段階を示していることになります。
2018.02.26
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