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1
五 健二が石川の住む街に降り立ったとき、もう辺りはすっかり暗くなっていた。 電車から降り、プラットフォームに立って改札口へ向かってゆっくりと歩いていく健二を、勤め帰りのサラリーマン達が急ぎ足に追い抜いていく。制服を着た学校帰りの学生達が急ぎ足に追い抜いていく。そのような人の波の真っ只中で、自分は前に進んでいるはずなのにどんどん後へ下がっていくかのような錯覚を覚えた。前に歩いているはずなのに、なかなか前には進めない。そんな錯覚に少し背筋が寒くなるような気持がした。 駅前の商店街では、青果店の初老の男性と馴染みの客らしき中年の女性が立ち話をしている。何がそんなに楽しいのか大きな声で笑っている。 全てが、いつもこの街で見てきた光景と変わらなかった。健二の周りでは、ただ変わらない日常の時間が進んでいた。 健二は立ち止まって、二人の会話の様子を眺めていた。と言っても、その話の内容は全く訊いてはおらず、ただ、思い出していた。そして考えていた。 これから会いに行く石川も、いつも見てきた石川と変わらないのだろうか。いつものように笑顔で健二に話しかけるのだろうか。それとも…。 最後に石川を見たときの情景を思い出す。 姉の比奈子と健二と石川の三人とでお酒を飲んだあの日、ひどく酔った石川を家まで送ると、酔っぱらった石川は健二の前で土下座をし、そして頭を床にすりつけるように、「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」 と健二ではない何かに向かってひたすら謝り続けた。 そんな石川の姿が、最後に見た姿だったのだ。 ふと、商店街で買い物をしていた中年の女性が健二のことを胡散臭げに見ていることに気付き、健二は慌てて視線を逸らしてまたゆっくりと歩き出した。 でも、いつも見てきた石川って、どんな姿だったのだろうか。小学生の頃の石川。大人になってからの石川。この二人の石川は全く別人のように見える。そして一番最後に見た、ひどく怯えた表情でひたすら何かに謝り続ける石川もいる。この三人の石川は、健二の中でなかなか一つには纏まらない。むしろどんどん乖離していく。健二は何だか、自分が真っ暗い暗闇に相対しているような、そんな不安な気持ちになった。石川のことを考えていてそんな気持ちになったのは初めてだった。 自分は、石川のことを、本当は何一つ知らないのかも知れない…。 健二は、ただ目の前の真っ黒いアスファルトをじっと見つめながら、街灯が点々と灯る薄暗い道を歩いた。 石川の部屋の、そのドアの前に立つと中から物音が聞こえた。どうやら石川は部屋にいるらしい。健二は手を伸ばし、インターフォンの前に持って行く。後はボタンを押すだけ。それなのになかなか押せない。なぜか健二の中に逡巡が生まれていた。 もしこのボタンを押して、そして出てきた石川が全く知らない人に見えたら、そうなってしまったらどうしよう…。 そんな気持が健二の指を押さえつけたのだろうか。健二にも自分の心の中が分からなかった。 健二は自分に向かって、「何のためにここに来たんだ! 石川に会うためだろ…。会って、今の自分の思いを話すためだろ…」 言い聞かせる。そして少し震える指でインターホンを押した。 ピーンポーンと、チャイムの音が部屋の中で反響するのが聞こえた。暫くして、誰かがドアの前に歩いてくる物音とともに、「どちらさま、ですか?」 何度も聞いた、聞き慣れた石川の声だった。「あ、あの、高橋です」「え、高橋君? ちょっと待って」 石川がそう言った後、ドアの鍵を外すガチャリという音がした。そろりとドアは開いた。そのドアの隙間から、少し驚いた表情の石川の顔が覗く。「あれ、高橋君、どうしたの?」「うん…。ちょっと話したいことがあって」「話したいこと?」「話したいこと…」 石川は、「何だろう?」 そう言って、いたずらっぽく笑ってた。健二が、大人になった石川と再会して、そして何度も見てきた明るい笑顔だった。 なぜだったのだろう。その笑顔を見ていると健二の心の中が何かで一杯になって、そしてみるみるその目には涙が一杯になった。ほんと、なぜだったのだろう。 健二の心の中では、その笑顔を見て、ほっと安堵するような気持ちは確かにあったのだけど、それを多い込む、じわじわと胸を染めていくような静かな悲しみが溢れたのだ。そしてその悲しみが涙となって健二の眼から溢れたのだ。 どうして、こんなにも悲しかったのだろう。自分でも何が悲しいのかはよく分からなかった。ただ、目の前の明るく笑っている石川の後に、あの日のひどく怯えた石川の顔を重ねていたんだ…。
2007.01.06