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私はそのまま椅子に座って、机の前でぼんやりと考えていた。「どこに希望があったのだろう…。どこに未来があったのだろう…」 小さな声で呟いてみる。それによって何かが変わることを期待したのだけど、当然、何一つ変わらなかった。私はそれまでのように薄暗い自分の部屋で、一人佇んでいる。さっきまでと、この世界は何一つ変わらなかった。「生まれてきてから、二十九年も生きてきた。その二十九年のどこかで、私は選択肢を誤ってしまったのだろうか。だから今、暗闇の中でどこへ向かえばいいのかも分からずに、呆然と立ち尽くしているのだろうか…」 きっと、そうなのだと思った。 ただ、私の人生において一つや二つ、大きな選択肢があったというわけではない。そうではなくて、その二十九年間の一日一日の中に小さな選択があった。その一日一日の小さな選択が積み重なって、私は今の私にたどり着いていた。それは誰のせいという訳でもなくて、一つの事実なのだ。そして私が今、何よりもしなければならないことは、その事実を受け入れることなのだと思った。その事実を受け入れた上で、これから先どのように生きていくのかを考えることなのだと思った。 残念だけど、過去は変えることはできない。だけど、「今」だったら変えることができるんだ。そしてこれから先の私の人生は、「今」の積み重ねであって、それ以外の人生なんてこの世の中に存在しないんだ。 私はゆっくりと立ち上がった。そして部屋を出て、階段を降りていった。完
2009.01.25
夜の電車は、仕事帰りの人々や学校帰りの人たちで一杯だった。皆、本を読んだり漫画を読んだり携帯をいじったり、思い思いに過ごしている。私は扉にもたれかかるようにして立ってイヤホンで音楽を聴きながら、ぼんやりその人たちを眺めていた。「この人たちにも、今の私のような思いはあったりするのだろうか」 そんなことを一人考えていた。 眼の前の座席に、一人の中年サラリーマンが座っている。そしていい年をしてむさぼるように週刊漫画雑誌を読んでいる。その何かを吹っ切ったような姿を見て、「この人は、私のように悩むこともなく毎日を楽しく生きているんだろうか」 などと心の中で呟いたりしていた。ただし、うらやましいとは思わなかった。このような生き方も私が望んでいるものとは違うような気がしたし、このような人間にはなりたくないと思った。「じゃあ、私はどのような人間になりたいの?」 私は自分に尋ねてみる。 だけど私の中の誰かは、この質問には答えてくれなかった。「ただいま」 小さな声で呟くように言って私は玄関のドアを開けた。 玄関を見ると父の革靴と母の小さな靴がすでにそこにはあった。どうやらすでに帰ってきているらしい。私はそれを見て、玄関のドアのカギとチェーンを閉めた。 靴を脱いでそのまま階段を上がっていく。二階に私の部屋があった。通勤に使っているリュックサックを下ろし、ジャンパーを脱ぐ。そしてズボンのポケットから財布と定期と携帯を取り出して、机の上に放り出した。
2009.01.18
私は、職業というものについてもっと必死に考えるべきなのかもしれない、と思った。 仕事というものは二十歳の前半から六十歳くらいまで、人生においてもっとも気力も体力も充実した時期においてそのほとんどの時間を費やして取り組むもの。そんな存在であるのだから、ある意味ではその人の人生そのものとすら言える存在なのではないだろうか。少なくとも、とても大きな位置を占めることは間違いない。だけど私は職業について、どれだけ真剣に選択してきたのだろうか。してきてはいない気がする。深くも考えずに、ただ道があったからという理由だけで前に進み続けていたような気がする。そして気がついたら私が望みもしない場所にたどり着き、一人その場所に立ち尽くしていた。 ある本で読んだのだが、心臓麻痺で倒れた男性の多くはその後に転職するという。その理由は、心臓麻痺になって自分の死を眼の前に突きつけられたときに自分がこの一回きりの人生で本当は何をやりたいのかを考えずにはいられないからだと言う。それまでの職業を振り返り、「今のこの仕事は、本当に、私がこの一回きりの人生においてやりたいことなのだろうか?」 そう問いかけずにはいられないからだと言う。 きっとそうなのだと思う。 今の私は、「心臓麻痺で倒れた人」と同じなのだ。肉体的ではないけど精神的に挫折していた。毎日は真っ暗闇の中を歩いているようで、眼の前に光は見えなかった。毎日が無意味に過ぎていくだけで、私はそんな毎日にうんざりしていた。だけど前に踏み出す勇気が無かった。新しい世界に一人進んでいくためには私という人間を変えていく必要があると思ってはいたのだけど、私は自分を変える方法がよく分からなかった。
2009.01.15
今の無意味に過ぎていく毎日を変えたかったし、何よりもそんな毎日を生きてしまっている自分自身を変えたかった。「人生は、今日という一日の積み重ね。今日という一日を充実して生きることができなければ、充実した人生なんて生きられるわけがない」 私はよく、そのように自分に言い聞かせた。そして、「私は、今日という一日を充実して生きることができたのだろうか?」 と問いかけた。私は「できた」なんて一度だって答えることができなかった。そんな毎日を生きていた。そしてそんな毎日こそ変えていきたかった。 だけど、私はそれをどのように変えればいいのかが分からなかった。 いや、本当は分かっていたのかもしれない。分かっていたのだけどそれを行動に移すことができなかっただけなのかもしれない。私の中に、新しい一歩を踏み出すだけの勇気が無かっただけのような気もする…。 仕事を終え、会社の外に出るとすでに真っ黒い闇に包まれていた。 私の居室が入っている建物から正門までは五十メートルくらいの距離があり、そこは街灯がぽつり、ぽつりと立っていて通路をほの白く照らしている。私はその道を一人歩いていった。そして正門にたどり着きそこで社員証をゲートに通すと、ゲートはピーンと音を立ててその扉を開く。私の周りには三、四人の社員が同じく家路につこうと歩いている。私はその人たちの中に埋もれるようにして歩き出した。そして歩きながら、自分の将来のことについて考えていた。
2009.01.14
二十九歳の今になって小学校のことを思い出してみようとしても、私の中にはかろうじていくつかの記憶は残っているだけで、そのほとんどは私の中にある闇の中に消え去ってしまっていた。きっとあの当時の私は、嫌な記憶をその闇の中に捨て去りながら何とか一日一日を生きていたのだと思う。そんな毎日を歯を食いしばるようにして、だけど表情は無表情を作り上げながら今日という一日を生き続けていたのだ思う。これまで語ってきた物語も、私の中にかろうじて残っている記憶を何とか引っ張り出してきたものだけだった。もう他には何一つ残っていなかった。ただ、多くの記憶が消えていった闇が私の心の中にあるだけだった。 私にとって小学生としての六年間はどのような意味を持っていたのだろうか。 そんなことをときどき考えた。 楽しかったという感慨はもちろんない。といっても、その六年間に絶望していたというわけでもない。ただ私の中には、私の存在というものに対する違和感があった。その違和感は、この世界に私が存在しているということに対する根源的な違和感だった。あの頃の私はそのような違和感に苦しめられていた。この世界には、私が私として存在できる場所なんて無いんだ、そう思っては毎日を虚無に生きていた。ただ、外見的には必死に「普通の小学生」の演技をしていた。そしてその違和感は、「私は、この世界に生きることに向いていない人間なのではないか」 という諦めに似た考えにたどり着いた。私は、ただ今日という日が訪れるから、それだけの理由で毎日を生きていたのだと思う。それは、今になっても根本的には変わらなかった。今の私も、歩いている道の先にどんな未来も見えていなかった。ただ、ルームランナーが回転するベルトの上で必死に走るように、私の下で回転していく毎日を必死に走っているだけだった。走っても走っても前には進んではいないような気がして、そのことにまた絶望した。 私は何かを変えたかった。
2009.01.12
その教室で最後のホームルームをやって、私たちは外に出た。だけど私たちはすぐに帰るということはせずに、その校門の前でしばらく卒業生同士で写真を撮ったりしていた。私自身が写真を撮ってもらうことはなかったのだけど、他のクラスメートに「一緒に撮ろう」と言われ、私はその子とカメラの前に立った。そしてこの学校で最後となるだろう作り笑いを浮かべた。 このようにして私の小学校における六年間は終わりを告げた。 あの当時は、その六年間が永遠に続くのかと思えるくらい長く感じた。それも当然だったのかもしれない。だって六歳で小学校に入学して、そしてそれまでに生きてきた期間と同じだけ小学校に所属したのだから。十二歳で卒業した時点で、人生の半分はその小学校における期間が占めていたのだから。 小学校を卒業してからの私は、もう小学校から縁を切ったかのように生きてきた。卒業後に二、三回、小学校の同窓会があったけど私は全て欠席した。今さらあの当時にクラスメートに会いたいという気持ちは私の中にはこれっぽっちもなかった。今さらあの当時の虚無感にまみれた毎日を思い出して、元クラスメートと語り合いたいとは思わなかった。私は小学校の毎日を一日一日切り捨てるように生きてきていて、私の中にはその毎日に対するより所なんてもう何一つ残ってはいなかった。
2009.01.11
校長の挨拶やら、在校生の送辞やら、卒業生の答辞やらつまらない儀式が進んでいき、最後に卒業生一人ひとり呼ばれて壇上に上がって校長から卒業証書を受け取って行く。中ほどで私の名前が呼ばれた。「はい」 そう返事をして、壇上に上がる。そして中央で校長先生に向き直り卒業証書を受け取った。私の背中のほうからぱらぱらと拍手が聞こえた。私はその拍手を聞きながら、それでいて私の心の中には何の感慨も浮かんでこなかった。 卒業式が終わり、私たちは体育館を出て教室に向かった。廊下を歩きながら私の周りでは、クラスの子たちが先ほどの卒業式についての話をしている。その中の一人が眼を真っ赤に腫らして泣いているのを見て、私は素直に驚いた。なぜ泣いているんだ、と思った。きっとその子は、中学に進学したらクラスの友達と分かれなければならないからそれが寂しいとでも言うつもりだったのだろう。私は異星人を見るような気持ちでその子を見る。そのような気持ちが私の中にはこれっぽっちも無かったし、そのような気持ちを理解することもできなかった。私にとって小学校とは、早く抜け出すべき蟻地獄のようなものだったから。 私たちは教室に入っていく。その列についっていって私も教室に入ったのだけど、入って黒板を見ると何か文字がびっしりと書かれていた。自分の席についてその文字を読む。「負けないこと、逃げないこと、あきらめないこと、それが一番大事」 後になって知ったのだけど、その当時にはやっていた歌の歌詞だった。 しばらくしてから担任が教室にやってきた。そして、「これは、卒業する皆さんに送りたい言葉です」 そう言って、その歌詞をゆっくりと朗読した。読みながらその担任の眼も赤く滲んでいく。私は不思議な思いを抱きながらその光景を見ていた。これは何なんだ、と思った。まるでテレビの中のくだらないドラマのように茶番に見えた。
2009.01.09
三月が来て、私は六年間通った小学校を卒業した。 卒業式の朝、前に買ってもらっていたブレザーを着て私は学校に向かった。六年間毎日のように通った通学路を歩いている私の心の中では、特に深い感慨は生まれてこなかった。卒業をするということに対して嬉しいとも思わないし悲しいとも思わなかった。ただ心のどこかではホッとしていた。だって、少なくとももうこの場所で、私が私ではない他の誰かの振りをして過ごさずにすむのだから。 子供たちはまず教室に集まった。教室では皆、お互いに色々と笑いながら話しているのだけど、私はその群れからは少し離れて、自分の席に座って黙って前を見ていた。もうすでにこの場所とは縁が切れたのだと思ったのだろうか、私からその群れに入っていこうという気はまったくといって起こらなかった。またいつものように楽しい人の振りをするつもりは無かった。やっとこの場所から抜け出せる。前の黒板をじっと見つめながらそのことだけを考えていた。十分ほどして担任が教室にやってきた。その女性教師は若草色の着物に紺色の袴をはいていて、子供たちよりも力が入ったその格好に少し驚いたし、逆に少しこっけいでもあった。簡単な朝礼をやった後、私たちは教室から廊下に出てバラバラで体育館に向かった。体育館の前で立ち止まって、そこで整列する。他のクラスの子供たちも後からやってきて、同じように整列していった。そして時間が来ると私たちは一列に順々に体育館の中に入っていった。 体育館は子供が座るための椅子が前側にびっしりと並んでおり、その後ろに保護者用の椅子が同じようにびっしりと並んでいた。保護者用の椅子はすでに多くの親で埋まっている。私たちは、それ以前に行っていた予行練習と同じように順々にその椅子に座っていった。
2009.01.08
教室の前には「○○~○○」と受験番号が張り出されていて、私は自分の受験番号が該当している教室に入った。前の黒板を見ると大きく席の列の絵が書かれていて、それぞれに受験番号が書かれている。どうやら、自分の受験番号が書かれた席に座れということらしい。黒板を見ながら自分の受験番号を確認したところ私は一番前のほぼ中央の席だった。私はその席に視線をやる。そのとき、私の席の隣りに座っているのが同じ塾に通っている子だと気付いた。と言っても塾で会話をしたこともない。私はただ簡単に会釈をしただけだった。 テストは、その前の私立中学と比べようも無いくらい難しかった。それぞれの科目のテストにおいて前半部分は何とか解くことができたけど、後半部分ははっきり言ってほとんど歯が立たなかった。テストの途中昼食を挟むことになったのだけど、私は家から持ってきた弁当をつつきながら、「やっぱり駄目か…」 と自分の心の中で呟いたりしていた。そのとき突然、私の席の横に座っていた子に、「前の試験なんて気にせずに行こう。なるようになるよ」 と声をかけられた。私は驚きながら視線を右隣に向ける。その子はテストを前にして特に神経質になるわけでもなく穏やかに笑っていた。その子は塾のテストなどで私とほとんど同じような点数を取る子だった。つまり、学力においては私とそれほど差があるとも思えない。それなのにこんなにも余裕のある表情をしていることに驚いた。 その子のこの言葉に対して何と返したのかは憶えていない。きっと、あいまいにうなずいて済ませたりしていたのだろう。 そのような感じでテストは終わっていった。前の私立中学校と同じように、一週間後に合格発表があった。今回も平日にあたっていて、私は母親に合格発表を見てくるように頼んだ。ただ、今回は前回とは違って、私は合格することはできなかった。学校から帰ると母親に、「落ちてた」 と言われ、その後に、「嫌だった」というような意味のことを言われた。私が不合格であったことに少なからずショックを受けたのだと私はその言葉を受け取った。 その話には後日談がある。 その一ヵ月後くらいに、何かの手続きが残っていたのだと思うけど塾にもう一度行くことがあった。そしてその時に、私の隣に座ってテストを受けていた子がその中学に合格したことを知ったのだ。私は彼の日頃の成績ではその難関中学に合格するのは難しいと勝手に思っていたので、はっきり言って驚いた。でも、だからといって「悔しい」と思うことは無かった。ただ、「ああ、そうなんだ…」と事実を受けとっただけだった。
2009.01.07
考えて見れば、この言わば「自由というものに対する息苦しさ」にはそれ以降の人生においてもずっと苦しめられてきたような気がする。受験すべき大学を決めるときも、進むべき学部を決めるときも、就職すべき企業を決めるときもいつだって私は困った。なぜなら、いくら自分に「私は何をやりたいの? 私はどこに行きたいの?」 と自問してみても、私の心は何一つ答えを返してはくれなかったから。私は自分がどこに進みたいのかも分からないし、何をやればいいのかも全く分からなかった。そしていつの間にか私は、「私がこれをしたいから」という観点ではなく、「この方向に進んだほうが私のためになりそうだから」という観点でのみ人生の進路を考えるようになっていた。このことは、私の人生にとっての致命的な欠陥だったのかもしれない。今の私の絶望の多分にこの点から派生してきているのだと思う。 変な話、「あなたの好きなことを自由にやってください」と言われるよりも、逆に「これをしなさい」と強制されたほうが取り組みやすかった。だって、するべきことを外から与えてくれたのだから。私はただ言われたことをすればいいだけだったのだから。 朝の八時頃にその国立大学付属中学に到着した。テストは九時からだから一時間の余裕がある。門の前に腕章をかけた中学教諭らしき男性が立っていて、その前には受験生らしき子供たちが列になって並んでいた。私はその列の最後尾につく。そして私の順番が来ると受験票を彼に見せて敷地の中に入った。 その中学校は、その前に受けた私立中学校よりも建物が古臭かった。建物の外見はひびが入り、ツタが所々這い回っている。その敷地全体が何だか古臭い雰囲気を持っていた。前に受験した私立中学は建物が近代的な雰囲気を漂わせていたので、そのギャップを強く感じた。と言ってもその古臭い雰囲気に嫌悪感を感じたわけでもない。私にしてみれば、人工的な雰囲気よりもその古臭い雰囲気のほうが居心地は良く、好ましくさえ感じられた。私は周りをきょろきょろと見渡し、そんなことを一人考えながら受験生の波の中を歩いていた。その波は一つの建物の中に吸い込まれている。その建物の入り口のそばには、「受験会場」と大きく書かれた看板が立てかけてあった。私は他の建物と同じように古ぼけた、その受験会場の中に入っていった。
2009.01.04
親としてはそれはあまり気の進まないことだったのだろうか。合格していれば問題ないけど、もし不合格ならその不合格であること自体に苦痛を受けることになるし、その後に子供に伝えることにまた別の苦痛を受けることになる。ただその時は幸い合格だったので、そのようなことは起こらなかった。学校から帰ると居間で母親に、「合格してたよ」 と言われた。私はとくに喜びはしなかった。ただ、ほっとした。私は、「そう」 とだけ言って、二階の自分の部屋に向かった。 私が行こうと思っていた私立中学の受験はこのようにとくに問題なく終わった。偏差値がそれほど高い学校でも無かったし、ただ家の近くにあったからという理由だけで志望した学校だったのでそれほど感慨もこみ上げてこなかったし、まるで事務手続きを経ていくかのように受験スケジュールは過ぎて行ったような感覚だった。 その二週間後、国立大学付属中学の受験があった。その難関中学は私にとって「受かれば自慢になる」というくらいの位置づけだった。その中学受験に向けた特別な勉強はしなかったし、努力もしなかった。変に努力してしまったら、落ちてしまったときに自分に対して言い訳ができなくなるというような屈折した思いもどこかにはあったのかもしれない。あるいは、努力してそして不合格になってしまったら、それによって私は自分の能力の限界を指し示されてしまうような気がして、そのことに微かな恐怖も感じていたのかもしれない。 その中学は家から一時間半くらい電車に乗ったところにあった。はっきり行ってかなり遠い。中学生の身としては往復三時間の通学時間はかなり負担になるに違いない。そのことも私を努力から遠ざけていた要因だったのだと思う。そしてその中学は「自由であること」が一つの売りである学校であり、制服は一切無く全て私服だったのだ。ある者にとってはその自由さが魅力なのかもしれないけど、私はその自由さが逆に息苦しかった。「あなたの好きなことを自由にやってください」 そういわれたら、何をすればいいのか分からなくてよく途方に暮れてしまった。
2009.01.03
言ってしまえば試験問題自体はそんなに難しいものではなった。私は難なく、問題用紙に書かれている問題を解いていく。そして最後まで行きつくと私は腕時計で時間を確認した。まだ二十分近く余っている。私は余った時間をやりすごすために、もう一度その解答用紙の答えを確認していった。「テスト、終わりです」 時間が来て、教卓の前に座っていた男性が立ち上がった。受験生が鉛筆やシャーペンを机の上に置くカタカタという音が一斉にした。そして男性は左端の列から一枚ずつ解答用紙を回収していった。 そのようなテストが二日間。一日目が算数と国語、そして二日目が理科と社会。一日目のテストが雪で開始が遅れたこと以外は特に問題なく終わった。私個人としても特に問題なく、そしてどこか何気なくその二日間は通り過ぎていった。 合格発表はその一週間後にあった。 おそらく落ちることは無いだろうとは思っているのだけど、やはりその一週間は落ち着かない気持ちで過ごした。頭の中に、掲示板に私の受験番号が載っていないシーンが時々忍び込んできて、それを慌ててかき消すこともあった。ただ、その一週間は周りから見たら、私はいつもと全く変わらない様子に見えたと思う。その受験のことについて私から周りに話をすることも無かったし、小学校で誰かに聞かれることもなかった。 そして合格発表の日。その日は平日だった。受験生によっては学校を休んでまで合格発表を見に来る子供もいるのだけど、私はそこまでしようとは思わなかった。テストを受けなければならないのであれば子ども自身が行かなければならないのは当たり前だったけど、ただの合格発表であれば、子供が行っても親が行っても結果が変わるわけではない。親には、「合格発表を見てきて」 と頼んで、私はいつもと同じように小学校に行った。
2009.01.02
その中学校の教師らしき中年の男性が大判の分厚い封筒を持って教室に現れた。そして黒板に時間割を書くと、その男性は教卓の前の椅子に座った。テストが開始されるまでまだ二十分ほどある。どうやらその男性はそのまま時間が来るのを待つ様子だった。私たち受験生の子供たちはこの少しの時間も有効と使おうと考えたのか、ある者はノートを必死に見ていて、ある者は参考書を必死に捲っていた。私はと言えば、土壇場で今さらそんな努力をしても結果は変わらないと思っていたので、ただぼうとして目の前の男性を見ていた。時間が来ると、その男性は立ち上がった。「これから問題と解答用紙を配ります」 教室には不思議な緊張感があふれ出してきた。 男性が一枚一枚、受験生の前に問題と解答用紙を置いていく。私の前にもその紙束は置かれた。その紙束を見ていると、先ほどまでは緊張なんて全くしていなかったのに、まるで教室の中の緊張感が伝染したかのように私も緊張に襲われた。ただ、その緊張感と同時に変な充実感も感じていた。「私は、これから目の前の問題に全力で取り組んでやる」 そのような意気込みがどこかから沸き起こってきて、それが緊張感と一緒になって私の胸はどきどきと脈を早めた。私はその早まる脈を感じながら、自分が今、確かにここに生きていることを具体的に、そして鮮明に感じることができていたのかもしれない。そのような感覚は、普通に小学校に通っている中では感じたことが無いものだった。「テストを始めてください」 男性の声が教室に響き渡った。そしてそれを合図にして受験生は一斉に問題を捲る。私は眼を閉じて一回深呼吸をした後、彼らから少し遅れて、眼の前に伏せてあった問題用紙を裏返した。
2009.01.01
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